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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本国憲法押し付け論と自由主義史観

2018年01月23日 | 国際・政治

 私は、自由主義史観の提唱者藤岡信勝氏の「日本国憲法」に対する考え方にとても疑問を感じます。大事なことは、戦後、「国民は圧倒的に新憲法を支持」したという事実だと思います。なぜその制定過程にこだわるのか、不可解です。本当は、「押しつけ」を理由に、圧倒的支持を得た日本国憲法を都合よく変えようとする意図があるのではないか、とさえ思います。

 下記に抜粋した「日本国憲法の成立」の文章の中にあるように、藤岡氏は
日本国憲法は、形式上、日本の国会の審議による明治憲法の改正という手続きをとってはいるものの、アメリカ占領軍が六日六晩で起草し、これを日本側に押し付けたものである。占領下におけるこのような憲法の改正はハーグ陸戦条約に規定された国際法の違反である
と書いていますが、私は、この”国際法の違反”の主張は間違っていると思います。日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことを考慮していないのではないかと思うのです。ポツダム宣言には

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
とあり、また、
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

とあります。こうした内容の「ポツダム宣言」を、現実のものとするための「日本国憲法」が、ハーグ陸戦条約に規定された”国際法違反”であり、”押しつけ”だというのは、どういうことでしょうか。日本国憲法の内容に、何か戦勝国(連合国)を利するような不平等な条文や、他国の憲法に比して不当な条文があるでしょうか。特に問題とされるような条文はなく、圧倒的に支持されたのであれば、国際法違反は当たらないと思います。
 さらに、”国際法違反”という主張は、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したことに加えて、当時の日本の状況も無視していると思います。戦後の日本には、ポツダム宣言受諾に反対して反米や抗米を主張し、ポツダム宣言を受諾した関係機関や占領軍に武力的抵抗を繰り返すような組織や団体はなかったのではないかと思います。したがって、「占領下におけるこのような憲法の改正」は、国際法違反であるという主張は、当たらないと思うのです。こうした主張は、当時の日本の戦争指導層の主張であって、一般国民の主張ではないと思います。

 さらに言えば、藤岡氏は

GHQは自ら憲法を起草した事実をひたかくしにし、そのために占領下で発行されるすべての印刷・出版物の厳密な事前検閲を行った。”とか、”こうした事前検閲が行われていること自体を絶対の秘密とした。言論の自由を保障することをうたった憲法が言論の自由のまったくないない状況下で作成されたことはまことに皮肉である

と書いていますが、こうした受け止め方も、事実に反するのではないかと思います。
 GHQの占領政策は、ポツダム宣言にあるように、日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”に基づくもので、憲法の起草をひたかくしにしたり、出版物の事前検閲を絶対の秘密にしたりしなければならないようなものではなかったと思います。GHQの内部組織である民政局(Government Section、通称:GS)が、軍閥や財閥の解体、軍国主義集団の摘発・解散、軍国主義思想の無効化遂行の任務をになったことは、よく知られており、公然の事実だったのではないでしょうか。

 一例をあげれば、戦時中、皇国史観を代表する歴史家で、皇国史観の教祖とか、皇国史観の総本山とさえいわれ、学者でありながら、国粋主義的活動を扇動し、海軍大学校や陸軍士官学校で講義・講演を繰り返し、皇族にも「日本と支那及西洋諸国との国体及び道義の根本的差異に関する講話」などを進講したといわれる平泉澄は、戦後、公職を追放されますが、追放を解除されると、また、戦時中の考え方で講演活動などを再開しています。なかには、公職追放を逃れた軍や政権中枢の関係者もいます。そういう状況を踏まえれば、”言論の自由を保障することをうたった憲法が言論の自由のまったくないない状況下…”というのは的外れではないかと思います。日本国憲法は、戦時中の軍や政府の指導層の影響を排除しなければならなかったのであり、それができなければ、日本の民主化ができないことになるわけで、日本国憲法を”国際法違反”であり、押しつけだというのは、公職追放などで排除された戦争指導層の主張ではないかと思うのです。戦後の日本を、”論の自由のまったくないない状況”などと受け止めたのは、軍国主義的な戦争指導層で、一般国民ではないと思います。

 藤岡氏のいうような意味で問題にすべきは、日本国憲法の制定過程ではなく、GHQが当初の日本の民主化・非軍事化の政策を転換し、社会主義運動を取締まるような方向に進んだ「逆コース」と言わる占領政策、およびその後のアメリカの対日政策だと思います。日本の再軍備や公職追放解除、日米安全保障条約締結の問題、また、日米安全保障条約に関わる日米地位協定や沖縄返還協定に関わる密約の問題などなど、様々なものがあると思います。それら、国民には真実が知らされず進められた多くの政策を問題にすることなく、日本国憲法の制定過程ばかりを問題にされるのは、やはり、何か意図があるのではないかと疑わざるを得ません。

 藤岡氏は日本国憲法にかかわる教科書の記述をあれこれ問題にされていますが、教科書会社や教科書の記述を担当した歴史家などに、藤岡氏のいうような特別な意図はない、と私は思います。また、”一体「国民」が批判の声を出したというが、それは何パーセントの国民の声なのか。”などという文章もありますが、いかがなものかと思います。政府側が用意し憲法草案「乙案」に対して、直接批判の声をあげた人がたとえ少数であったとしても、それが国民の声を代表していることが明白であれば、教科書のような記述に何ら問題はないと思います。大事なのは直接声をあげた人の数ではなくて、国民の「思い」であり、「声」であると思います。圧倒的多数の国民が新憲法を支持した事実をしっかり受け止めて、教科書の記述を受け止めてほしいと思います。

下記は、「汚辱の近現代史 いま克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)から抜粋しました。

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                     Ⅱ 戦後史記述の何が問題か
「日本国憲法の成立」
 占領期の文書の公開により、1980年代以降憲法制定過程の実証的研究は著しく進展した。日本国憲法は、形式上、日本の国会の審議による明治憲法の改正という手続きをとってはいるものの、アメリカ占領軍が六日六晩で起草し、これを日本側に押し付けたものである。占領下におけるこのような憲法の改正はハーグ陸戦条約に規定された国際法の違反である。

 アメリカ占領軍はそのことをよく知っていた。だからこそ、GHQは自ら憲法を起草した事実をひたかくしにし、そのために占領下で発行されるすべての印刷・出版物の厳密な事前検閲を行った。そのやり方は、戦前の日本で左翼文献などに対してなされた伏字のような拙劣なものではなく、新聞であろうと雑誌であろうと検閲の痕跡をまったく残らないように、削除したページ分の記事を作り差し替えるという、巧妙・徹底したものであった。もちろん、こうした事前検閲が行われていること自体を絶対の秘密とした。言論の自由を保障することをうたった憲法が言論の自由のまったくないない状況下で作成されたことはまことに皮肉である(江藤淳『一九四六年憲法-その拘束』文藝春秋、1988年)。
 ただし、このような憲法制定の経過から、直ちに憲法の内容の是非が決まるというものではない。制定過程と内容の評価はまったく関係ないとは言えないが、一応区別されるべき問題である。だから、教科書としては、新しい研究成果を反映させて、現行憲法の評価とは別に、その制定過程とそれが含む問題点をハッキリさせなければならない。
 ところが、教科書の記述は、相変わらずその点を曖昧にし、日本の国会が自主的に制定したかのようなフィクションに頼っている。その点で最も著しいのは、次の記述である。

 国会は、新しい日本国憲法草案について六ヶ月にわたり慎重に審議し、いくつかの修正後可決した。憲法草案は総司令部が作成したものであるが、憲法研究会案などを参考にしていた。

 第一文は、日本の「国会」を主語にして、憲法がその国会の自発的作為として作成されたかのように言う。そのため、1946年4月の衆院議員総選挙の記述のすぐあとにこの憲法制定の記述をもってくるという「工夫」をしている。ただし、その憲法草案はGHQが作成し日本政府に与えたものであることを言わないとあまりにも事実に反することになる。そこで、そのことを述べる代わりに、今度は、GHQ案そのものは日本の民間側の案を参考にして作成されたものであることを強調する。そうすることで、憲法のアイデアが基本的には日本人に由来するものであるという印象を作り出そうとしているのである。
 このことをさらに強調するために、上記<日書>の教科書は「歴史を考える-三つの憲法草案」という一ページ分の特別記事を設けている。その中には、次の記述もある。

 すでに二月一日、乙案が一新聞社にもれてけいさいされた、これに対して国民から帝国憲法と同じで非民主的だという批判の声が出ていた。(日書)

 ここで「乙案」とは、政府側が用意していた二つの案のうちの一つを指す。一体「国民」が批判の声を出したというが、それは何パーセントの国民の声なのか。残念ながら、食うや食わずの当時の国民大衆には憲法草案についてハッキリした見解を持つ余裕などなかったとおいうのが正直な実態ではなかろうか。「批判」した人はもちろんいたに違いないが、それをもってこのような記述が許されるとすれば、どんなに一部の意見でも「国民」の名のもとに紹介されてよいことになる。これは、憲法制定過程の問題に限らない。教科書記述の一般的な原則の問題でもある。
 私は、この教科書を使う教師には、それが憲法制定過程に関する「一つの」見解であることを生徒に伝え、それと対立する見解とディベートさせるような扱いを求めたいと思う。
 <帝国>には、憲法原本の写真に付して、次の解説がある。

 日本国憲法 一部には「総司令部のおしつけ」と受け取られましたが、国民は圧倒的に新憲法を支持し…(帝国)

 この教科書も問題を混同している。国民が圧倒的に新憲法を支持したことと、それが「総司令部のおしつけ」であったかどうかは別のことである。新憲法発表当時は国民はそれがどのような経過でつくられたのかまったく知らなかったから、上記のような書き方はそもそも不適切なのだが、そのことは不問に付すとしても、国民が新憲法を支持したことによって制定過程の法的問題点が解消するわけではないのである。
 憲法制定過程で最大のポイントは、さきに述べたように、それが「検閲」下でおこなわれたとおいうことである。ところが、この検閲の事実にふれた教科書は次の一種類しかない。

 占領政策のさまたげにならないかぎり、言論・出版・結社の自由が認められた。(東書)

 これは、逆に言えば、占領政策の「さまたげになる」言論・出版・結社は禁止されたことを意味する。この記述は、右の教科書の中では憲法制定過程の記述とはかけ離れた位置におかれている。だから、この記述が憲法と関係があるとは読めないようになっている。
 占領下の検閲について正面から書いてある教科書がないか調べた。やっと見つかった。あの悪名高い(?)高校日本史教科書『新編・日本史』(原書房)に「占領軍の検閲」と題する囲み記事があった。予断と偏見で教科書を評価することはきわめて危険であることをこの例は示している。
 なお、最近、憲法制定の過程と憲法解釈の変遷を戦後の憲法教育史と関連させて究明した研究が書が出た。(小山常美『戦後教育と「日本国憲法」』1993年、日本図書センター)。著者は、「民定憲法として『日本国憲法』は有効なのだという戦後の定説は、完全に崩壊する」とし、このような結論になることは、著者にとって研究着手の時点では思いよらなかったことであった、と述べている。一読を勧める。

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「従軍慰安婦」問題と自由主義史観

2018年01月15日 | 国際・政治

 自由主義史観の提唱者、藤岡信勝氏はその著書「汚辱の近現代史 いま克服のとき」(徳間書店)で、自らの歴史観(自由主義史観)が、司馬遼太郎の作品との出合いからはじまったと書いています。

 ところが、不思議なこと「汚辱の近現代史」の内容は大部分、司馬遼太郎が”あんな時代は日本ではない。”と激しく非難した「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年」も含めて正当化しようとされているように、私は思います。
 そして、その第一にあげられるのが、「従軍慰安婦」の問題です。

 藤岡氏は、同書を「汚辱の近現代史 ー 近代日本を貶める歴史教科書の深刻な実態」というタイトルで書き始めています。その中に、”「従軍慰安婦」全社に登場”と題された文章があるのですが、第一から第五まで、五つの問題点を指摘されています(次の”教科書に「従軍慰安婦」は要らない ー 「慰安婦」の嘘を中学生に教えるな”でもほぼ同じような内容で、繰り返して五つの問題点を指摘されています)。でも、私はいずれの指摘も全く受け入れることができません。

 藤岡氏は、書いています。
第一に、七社中三社の教科書が「従軍慰安婦」という言葉を使っている。しかし、「従軍慰安婦」なる言葉は当時存在しなかった。「従軍」には、弾の飛び交う戦場にまで軍隊につき従うというニュアンスがある。従軍看護婦はいた。戦場の負傷した兵士を手当てする役目だからである。軍人・軍属という時のカテゴリーに入るのが従軍看護婦である。これと同じ意味で慰安婦が「従軍」するはずもない。かつて存在しない言葉を使い、しかも指示対象の性格について明らかに誤解を生むような通俗的な用語を用いるのは、そもそも最初から不適当である。(以下、従軍慰安婦をすべて「 」つきにするのは、用語の不当性への批判を込めてのことである)。

 また、”教科書に「従軍慰安婦」は要らない”のなかでは、
そもそも、「従軍慰安婦」なる言葉は、戦前には存在しなかったのだ。従軍看護婦、従軍記者、従軍僧侶などは存在した。「従軍」という言葉は、軍属という正式な身分をしめす言葉であり、軍から給与を支給されていた。慰安婦はそういう存在ではなく、民間の業者が連れ歩き、兵士を顧客とした民間人である。だから、お客様としての兵士は、慰安所を訪れるごとに料金を払っていたのである。
 と書いています。でもこの記述は正確ではないと思います。「従軍」というのは、”軍属という正式な身分をしめす言葉であり、軍から給与を支給されていた。”とは言えないのではないでしょうか。ただ単に、軍命に従い、軍について歩いて、仕事をする人たちも含まれるのではないかと思います。戦地に、様々な新聞社・雑誌社・放送局・映画会社などの記者が同行したことは、よく知られていますが、それらの人たちは「従軍記者」と呼ばれました。でも、それらの「従軍記者」は、自らの会社から派遣されていたのであり、軍属として給与を軍から得ていたのではないのではないでしょうか。軍命に従うことを文書をもって約束し、軍の許しを得た外国人従軍記者などもいたと思います。それらの記者に、軍が給与を支払っていたとは思えません。
 また、軍の行くところについていった、「従軍慰安婦」という存在が、それまでのいわゆる「売春婦」という存在とは異質な側面があったことを無視して、当時「従軍慰安婦」という言葉がなかったから、そういう言葉を使ってはいけないと主張することは誤りであると、私は思います。「従軍慰安婦」と呼ばれる人たちの証言にしっかり耳を傾け、どういう状況のもとにあったのかを把握すれば、「売春婦」という表現が適当ではないことがわかると思います。

 次に、
 ”第二に、「従軍慰安婦」問題の焦点は、軍に慰安施設があったかどうかではなく、強制連行があったかどうかである。というのは、戦前の日本では売春は合法的な商売と認められていたからである。だから、内地で売春が商売として行われたのと同じく、戦地でも軍の保護と承認のもとに売春業者が男性の集団である軍隊を相手に営業したのである。日本で売春が法的に禁止されたのは、戦争が終わって十年あまりも経ってからのことである。”

 と書いています。また、関連して”教科書に「従軍慰安婦」は要らない”では、さらに、教科書の「…慰安婦として従軍させ…」というような文章を引用し、
これらはいずれも、慰安婦が日本軍によって「強制連行」されたかのように事態を描き出している。つまり、本人の自由意思に反して連行され、奴隷的に拘束され、性的サービスを強要された「セックス・スレイブ」(性奴隷)として慰安婦の女性たちを描き出している。
 これははなはだしく事実を歪めるものである。実際は、慰安婦たちは業者に伴われて戦地に働きに来たのであり、彼女らは「プロスティチュート」(売春婦)とよばれるべき存在だったのである。つまり、彼女らは「人類最古の職業」に従事していたのだ。

とも書いています。でも、根拠とした文書資料や証言はひとつも示されていません。逆に、歴史家が収集した資料や慰安婦の証言は、藤岡氏のこの文章こそが、事実に反することを明らかにしています。

 戦地の慰安所に行き、日本兵を相手に毎日「性交渉」をしなければならない立場を告げられ、合意して戦地に向かった朝鮮や台湾からの「従軍慰安婦」は皆無ではないでしょうか。また、軍は戦地における日本兵による強姦を防ぎ、また、兵士の性病を防止するために戦地に慰安所を必要として要請したのであり、業者が金儲けのために、自ら戦地に慰安所を設置したかのような主張は、多くの場合事実に反すると思います。軍直営というべき慰安所があったことも明らかにされています。

 元「従軍慰安婦」の証言では、様々な理由で、自由に外出することさえ許されませんでした。さらに、朝鮮や台湾から連れられていった「従軍慰安婦」の多くは、売春の経験のない処女でした。未成年の少女も少なからず含まれていました。これも、軍の要請に基づくものですが、その理由を、戦地で性病の検査等に当たった兵站病院の軍医が、その著書「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」兵站病院の産婦人科医麻生徹男(石風社)に詳しく書いています。
 結論としては、「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」というのです。「既往花柳病ノ烙印ヲオサレシ、アバズレ女ノ類ハ敢ヘテ一考ヲ与ヘタシ。此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何(イカガ)ハシキ物」とも書いています。しかしながら、そのころすでに国内外で、戦地へ慰安婦を送ることに批判が高まっており、下記に抜粋した「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」の最初にあるように、
1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト”
と通知せざるを得なかったのです。したがって、この通知によって、未成年の女性や処女の女性を戦地へ送ることはできなくなっていたということです。それで、「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」という戦地の要求との板挟み状態を打開するために、日本の軍や政府は、差別的に植民地下にあった朝鮮や台湾から若い女性(未成年の処女を含む)を送ることにしたのだと思います。
 藤岡氏がこうした文書や元「従軍慰安婦」の証言を無視して、”彼女らは金儲けのために戦地に行った売春婦だった”というのであれば、下記の文書に規定されている、身分証明書の発給記録や、戦地で売春することに同意した本人の「同意書」、さらに、それを認めた親族の承認の文書などを示す責任があると思います。
 それらが提示できないのであれば、「従軍慰安婦」の証言を否定することは出来ないように思います。証拠書類を保存していない日本側に責任があることになるのではないかと思うのです。
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 内務省発警第5号
 秘  昭和13年2月23日 
                                    内務省警保局長   各庁府県長官宛(除東京府知事)

              支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件

 最近支那各地ニ於ケル秩序ノ恢復ニ伴ヒ、渡航者著シク増加シツツアルモ、是等の中ニハ同地ニ於ケル料理店、飲食店ニ類似ノ営業者ト聯繋ヲ有シ、是等営業ニ従事スルコトヲ目的トスル婦女寡ナカラザルモノアリ、更ニ亦内地ニ於テ是等婦女ノ募集周旋ヲ為ス者ニシテ、恰モ軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄スル者モ最近各地ニ頻出シツツアル状況ニ在リ、婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ、実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルルモ、是等婦女ノ募集周旋等ノ取締リニシテ、適正ヲ欠カンカ帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フノミニ止マラズ、銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フルト共ニ、婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キヲ保シ難キヲ以テ、旁々現地ノ実情其ノ他各般ノ事情ヲ考慮シ爾今之ガ取扱ニ関シテハ左記各号ニ準拠スルコトト致度依命此段及通牒候

1、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト

2、前項ノ身分証明書ヲ発給スルトキハ稼業ノ仮契約ノ期間満了シ又ハ其ノ必要ナキニ至リタル際ハ速ニ帰国スル様予メ諭旨スルコト

3、醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女ハ、必ズ本人自ラ警察署ニ出頭シ、身分証明ノ発給ヲ申請スルコト

4、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ニ際シ身分証明書ノ発給ヲ申請スルトキハ必ズ同一戸籍内ニ在ル最近尊属親、尊属親ナキトキハ戸主ノ承認ヲ得セシムルコトトシ若シ承認ヲ与フベキ者ナキトキハ其ノ事実ヲ明ナラシムルコト

5、醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ニ際シ身分証明書ヲ発給スルトキハ稼業契約其ノ他各般ノ事項ヲ調査シ婦女売買又ハ略取誘拐等ノ事実ナキ様特ニ留意スルコト

6、醜業ヲ目的トシテ渡航スル婦女其ノ他一般風俗 関スル営業ニ従事スルコトヲ目的トシテ渡航スル婦女ノ募集周旋等ニ際シテ軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト

7、前号ノ目的ヲ以テ渡航スル婦女ノ募集周旋等ニ際シテ、広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重(ニ)之ヲ取締ルコト、又之ガ募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ、正規ノ許可又ハ在外公館等ノ発行スル証明書等ヲ有セズ、身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト
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 未成年の「従軍慰安婦」は、どこともわからない戦地へ連れてこられ、自由な外出も許されず、毎日ほとんど言葉の通じない多数の日本兵を相手に、性交渉を強制されたことをしっかり受けとめる必要があると思います。多くの元「従軍慰安婦」の証言から、断る自由がなかったことが分かります。したがって、「強制連行」ではなくても、慰安所における性交渉が合意に基づくものでなければ、「強制売春」や「強姦」にあたり、法的に合法だったというような主張は通らないのです。
 さらに言えば、当時すでに、下記のような国際法が定められていたのです。
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          2、醜業婦ノ取締ニ関スル1910年5月4日国際条約
 前文略
第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 

第2条 何人ニ拘ラス、他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ詐偽、暴行、強迫、権勢其他強制的手段ヲ以テ成年ノ婦娘ヲ雇入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス

第3条 現ニ各締盟国ノ法規カ前2条ニ規定セラレタル犯罪ヲ処罰スルニ足ラサルトキハ締盟国ハ各自国ニ於テ其犯罪ノ軽重ニ従ヒ処罰スル為メ必要ナル処分ヲ定メ若クハ之ヲ立法府ニ建議センコトヲ約束ス
 以下略
       3、婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約(1921年条約)
 前文略
 第1条 
締約国ニシテ未タ前記1904年5月18日ノ協定及1910年5月4日ノ条約ノ当事国タラサルニ於テハ右締約国ハ成ルヘク速ニ前記条約及協定中ニ定メラレタル方法ニ従ヒ之カ批准書又ハ加入書ヲ送付スルコトヲ約ス

 第2条
締約国ハ児童ノ売買ニ従事シ1910年5月4日ノ条約第1条ニ該当スル罪ヲ犯スモノヲ発見シ且之ヲ処罰スル為メ一切ノ措置ヲ執ルコトヲ約ス
 以下略
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 藤岡氏は”戦前の日本には遊郭があり、売春は政府も公認する職業の一つだった”と言うのですが、戦地に送られた慰安婦について、「女衒の甘言にに騙されたり、親に言い含められたり、親に売られたりというケースも多かったにちがいない」とも書いています。金銭をやりとりして女性を海外に送るのは、「人身売買」にあたるうえに、上記の国際法は、

第1条 何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 

と定めて、そうしたことをを禁じていたのです。

 また、藤岡氏は

戦地での慰安所の料金は平均して内地の三倍程度に設定されていた。いわば独占的な事業であるから、慰安婦の収入は高かった。月給に直して当時の大学新卒者の十倍、一般兵士の十倍の収入を得ていた慰安婦も多かった。お金が使いきれず、故郷に送金し、さらに二、三年も働けば、家族のために立派な家を建てることができたという。
 と書いているのですが、ほんとうでしょうか。こうした重要な内容のことを書く場合は検証ができるように、その根拠となる資料や文書や証言の出どころをきちんと示す必要があるのではないかと思います。

 比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の「慰安所(亜細亜会館 第1慰安所)規定」には、”料金ハ軍票トシテ前払トス”とあります。常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊の”慰安所使用規定”には”第61 実施単価及時間”に下記のようにあります。
     1 下士官、兵営業時間ヲ午前9時ヨリ午後6時迄トス
     2 単価
      使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス
      支那人   1円00銭
      半島人   1円50銭
      内地人   2円00銭
     以上ハ下士官、兵トシ将校(准尉含ム)ハ倍額トス
     (防毒面ヲ付ス)
時間や料金も軍が定めているのですが、朝鮮や台湾から戦地に送られ、軍票を受けとっていた「従軍慰安婦」が、二、三年働いて家を建てたというような事実はどこにあるのでしょうか。料金に差別があることも確認しておきたいと思います。

次に”史実の捏造をもとにした教育”と題して
 ”では、強制連行を主張している人々は何を根拠にそう言い立てているのだろうか。
 その最も有力な証拠は、自分が強制連行したと称する日本人の証言である。他ならぬ実行犯の告白であり、しかも一見したところ自分に不利な事実の暴露なので信用できると思われるのがネライである。吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 1983年)がその「証言」である。
 しかし、この本はすでにその虚構性が完全に暴露されており、このような資料にもとづいて強制連行があったかのように教えることは、いわば史実の捏造をもとにした教育を行うことを意味するのである。これが、教科書の慰安婦記述に反対する第三の理由である。”
と書いています。でも、吉田証言が虚構であったとしても、それで、慰安婦が戦地の慰安所に行くことに合意して行ったということにはならないと思います。吉田証言は様々な証言や資料のなかの一つに過ぎず、吉田証言だけで、慰安婦の連行に強制性がなかったと結論づけるわけにはいかないのです。
 一例をあげれば、陸軍省兵務局兵務課起案の1938年3月4日の文書に下記のようなものがあります。
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  軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
                副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案
 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 慰安所設置当初は、日本国内においてさえ、「募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等…」というようなことがあったことが分かります。まして、多数の慰安婦が必要となり、朝鮮や台湾から多くの慰安婦が戦地に送られたのに、それらは合法的であったという根拠はどこにあるのでしょうか。こうした資料や元「従軍慰安婦」の証言を無視してはならないと思います。

 次にダブルスタンダードの教育と題して、下記のように書いています。
教科書の慰安婦記述に反対する第四の理由は、それが日本人だけを貶める驚くべきダブルスタンダード(二重基準)の教育を意味するからである。
 軍隊であると日本国内であるとを問わず、売春そのものが許しがたい悪徳であるという観点から慰安婦問題を教科書にとり上げるべきであるという主張があるかもしれない。だが、それなら、戦後の日本でも1958年まで売春は普通に営業されていたことを教えなければならない。
 そればかりではない。軍隊と性の問題は、人類の歴史に一貫してつきまとっている問題である。軍が慰安婦をかかえていたのは日本だけではない。日本の軍の慰安施設をどうしても書くというなら、同じ基準を他国の軍隊にもあてがうべきだ。そうすると、第二次大戦末期の歴史叙述は次の様になる。 ・・・
 こんな瑣末な事実を書く込むのはバランスを失していると批判する人が多いだろう。私もそう思う。だとすれば、日本軍についても慰安婦のことを記述するのはバランスを失しているのだ。
 また、どうしても日本軍の慰安婦を書くのであれば、同じ基準をあてがって、アメリカの日本占領についても次のように書くべきである。

 マッカーサーを最高司令官とする連合国総司令部(GHQ)は、日本政府に命令して占領政策を実行した。初めに、占領軍のための慰安所を置くことを日本政府に命令した。
              (教育出版、270ページに傍線部分を加筆):注加筆は藤岡氏

 随分乱暴な主張だと思います。「売春そのものが許しがたい悪徳であるという観点から慰安婦問題を教科書にとり上げるべきである」などと主張している歴史家や歴史教科書執筆者等の関係者がいるのでしょうか。私は聞いたことがありません。
 また、藤岡氏はダブルスタンダード(二重基準)を指摘されていますが、日本政府や軍が、植民地下の多くの未成年者を含む女性を慰安婦として国境を越えて送り込み、戦後、裁判で訴えられているような国がほかにあるのでしょうか。また、国連の関連機関や法律関係の団体から「従軍慰安婦」問題で勧告されている国がほかにあるのでしょうか。
 
 2007年7月31日、アメリカ合衆国下院121号決議には、日本の「従軍慰安婦」の問題について、「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない20世紀最大規模の人身売買のひとつである」と断定し、「日本軍が強制的に若い女性を”慰安婦”と呼ばれる性の奴隷にした事実を、明確な態度で公式に認めて謝罪し、歴史的な責任を負わなければならない」とあります。また「現世代と未来世代を対象に、こうした残酷な犯罪について、教育をしなければならない」とも要求しています。

 その後、アメリカにとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などが続き、フィリピン下院外交委、韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をし、さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したといいます。サンフランシスコ講和条約締結国が、次々にこうした日本のみを対象とする決議を出すに至ったことをどのように受け止めるのでしょうか。

 さらに言えば、”連合国総司令部(GHQ)は、初めに、占領軍のための慰安所を置くことを日本政府に命令した”と書いておられますが、それは事実でしょうか。それが事実であることを示す証拠があるのでしょうか。逆に、下記の敗戦直後の資料は、それが事実に反することを物語っているのではないかと思います。連合国軍最高司令官・ダグラス・マッカーサーが神奈川県の厚木海軍飛行場に到着したのは8月30日です。下記文書には(1945年8月18日)とありますので、交渉が始まる前の文書です。日本政府は、自ら占領軍のための慰安所を設置したということだと私は思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒

外国軍駐屯地における慰安施設に於ては別記要領に依り之が慰安施設等設備の要あるも本件取扱に付ては極めて慎重を要するに付特に左記事項留意の上遺憾なきを期せられ度。
                    記
1 外国軍の駐屯地区及時季は目下全く予想し得ざるところなれば必ず貴県に駐屯するが如き感を懐き一般に動揺を来さしむ如きことなかるべきこと。
2 駐屯せる場合は急速に開設を要するものなるに付内部的には予め手筈を定め置くこととし外部には絶対に之を漏洩せざること
3 本件実施に当りて日本人の保護を趣旨とするものなることを理解せしめ地方民をして誤解を生ぜしめざること。
(別記)
             外国駐屯軍慰安施設等整備要領
1 外国駐屯軍に対する営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準にかかわらず之を許可するものとす。
2 前項の区域は警察署長に於て之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす。
3 警察署長は左の営業に付ては積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする。
     性的慰安施設
     飲食施設
     娯楽場
4 営業に必要なる婦女は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす
                               (1945年8月18日)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ”教科書の慰安婦記述に反対する第四の理由は、それが日本人だけを貶める驚くべきダブルスタンダード(二重基準)の教育を意味するからである。”
 という考え方は、根本的に間違っていると、私は思います。多くの戦争体験者が「戦争は人を変える」というようなことを書いています。また、「戦争は人間から人間性を奪う」と書いている人もいたように思います。「従軍慰安婦」の記述が求められるのは”日本人だけを貶める”というようなことではなく、繰り返してはならない戦争の過ちのひとつとして、忘れてはならないことだからだと思います。下記の「村山談話」の一節をかみしめたいと思います。
 
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました
 きちんと歴史の事実に向き合えば、近隣諸国の信頼を得ることは難しいことではないのではないかと思います。”日本人だけを貶める”などとして、責任回避をしようとせず、戦争による過ちは素直に反省するべきだと思うのです。

 最後に、”子どもの人格を崩壊させる教育”と題して下記の文章があります。
慰安婦記述に反対する第五の、しかも最大の理由は、それが、子どもの人格を崩壊させる教育になるということである。
 そもそも、学校教育で慰安婦をとり上げることは教育的に意味のないことである。人間の暗部を早熟的に暴いて見せても特に得るところはないからだ。暗部に目をふさぐべきではないという議論もあるが、そういう類の知識は大人になる過程で子どもは自然に身につけていくものなのだ。学校教育という限られた時間の中で、教室で、教科書にまで載せて、教師が教えなければならない事柄では断じてない。”
 この考え方も、私は全く受け入れることはできません。日本軍や日本政府が主導し設置した慰安所の問題は、戦争がもたらした過ちの一つであって、平和な世の中ではあり得ないことです。”人間の暗部”などと捉えるべきではないと思います。
 戦争がどれほど愚かで恐ろしいものであるかを、子どもたちに学んでほしいからこそ、「従軍慰安婦」の問題を記述するのであって、そのことによって、元「従軍慰安婦」であった人たちも、救われる面があるのではないかと思います。
 「従軍慰安婦」の問題を記述することが”日本人が他国民に比べ世界でもまれな好色・淫乱・愚劣な国民であることを教える”ことになるなどということはないのです。戦争がもたらした過ちとして、きちんと向き合うことが大事であり、従軍慰安婦の問題をなかったことにするような教育をすれば、近隣諸国の理解を得て友好関係を築くことが困難になります。それこそ、将来世代に大きな負担を背負わせることになるのではないでしょうか。きちんと向き合って根本的解決を目指してほしいと思います。 

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 
 

 

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司馬遼太郎の歴史の修正 兵站軽視や村落焼夷作戦

2018年01月09日 | 国際・政治

 司馬遼太郎は「この国のかたち 一」司馬遼太郎(文芸春秋 1986~1987)に”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いています。こうした司馬遼太郎のいわゆる「暗い昭和」に、「明るい明治」を対立させる歴史認識を利用するかのような動きが、今じわじわと日本社会に広がりつつあるように思います。

 それは昨年、菅義偉官房長官が「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」というような発言していること、関連して11月3日を「明治の日」にしようとする動きや「明治150年」に向けた関連施策の推進が進められていること、また、子どもたちの使う教科書が、明治維新による王政復古によって形づくられた明治時代を、近代化の時代として美化しつつ、要所に神話が取り入れられたものに変えられつつあること、さらには、幕末から明治はじめの人物を高く評価して取り扱った出版物や番組などの増加となって表れているような気がします。

 しかしながら、明治維新以降の日本の歴史は、多くの歴史家が明らかにしているように、”非連続”ではなく連続したものだと思います。司馬遼太郎は前掲書で、昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年を”─あんな時代は日本ではない─と、理不尽なことを、灰皿でも叩(タタ)きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである”とも書いていますが、あの悪名高い関東軍戦車部隊の一兵士としての酷い体験が、「智の巨人」と言われる国民的大作家、司馬遼太郎が、冷静な目で歴史を客観的に見ることを許さないのではないかと、私は想像します。

 下記資料1は、「歴史の偽造をただす」中塚明(高文研)から抜粋したものですが、日清戦争当時の参謀総長、熾仁親王(タルヒトシンノウ)が、大島義昌混成旅団長に宛てた訓令です。極めて重要な文書だと思います。この兵站を軽視した補給なしの現地調達主義が、その後、日本の敗戦に至るまで続き、どれほどの悪影響をもたらしたか、見逃してはならないと思います。「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)によれば、ガダルカナル、ポートモレスビー、ニューギニア、インパール(ビルマ戦線)、太平洋の孤島、フィリピン、中国戦線などにおける日本軍兵士の餓死者はおよそ140万名で、軍人軍属の戦没者230万名の6割以上であるといいます。それだけではありません、補給なしの現地調達主義によって、日本軍が戦地のいたるところで「徴発」を繰り返したことが、直接戦争と関わりのなかった戦地住民の抵抗を生み、抗日組織・反日組織との戦いともなって、被害を拡大させたと思います。

 また、資料2は「兵士と軍夫の日清戦争 戦場からの手紙を読む」大谷正(有志社)から抜粋したものですが、下関講和条約の結果日本の領土となった、台湾・澎湖島でも、現地住民の激しい抵抗があり、日中戦争における「三光作戦」にも似た無差別の「村落焼夷作戦」や「沿道の住民ノ良否判明せざるに付惨酷ながら一網打尽」というような戦いが、日清戦争当時からあったことがわかります。”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年”も決して非連続ではないということだと思います。旅順虐殺事件と南京大虐殺、日台戦争と日中戦争、間違いなくつながっていると思うのです。だから、いわゆる「暗い昭和」の端緒が明治にあることに、目を閉ざしてはならないと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第六章 朝鮮人は忘れない

2 朝鮮に広まる抗日の動き

 「因糧於敵」(糧を敵に因る)という日本軍
 私が福島県立図書館に『日清戦争史』の草案を調査に行った理由の一つに、日清両軍の初めての会戦であった成歓(ソンファン)の戦いを前にして、前衛部隊の大隊長が補給の困難に直面して自殺した、その詳細を調べたいということがあったと、本書のはじめに書いた。力を尽くして集めた朝鮮人および馬匹(バヒツ)がみな逃亡し、まだ本格的な戦争がはじまる前に、すでに食糧に窮したため、歩兵第二十一連隊第三大隊長古志正綱少佐が引責自殺したのである。
 満州事変以後、とくに中国との全面戦争、そして西南太平洋の島々にまで戦線を拡大し、補給らしい補給もなしに、日本軍が現地徴発に走らざるをえず、それが中国はじめ日本軍によって占領された諸地域の住民にいちじるしい犠牲を強い、反日運動を引き起こす重要な要因一つになった。
 しかし、十分な補給なしに現地調達する方針は、なにも戦線が拡大した中国との全面戦争以後からのことではない。その「伝統」は日清戦争の時からのものであった。
 次の資料は、朝鮮に出兵して間もない混成旅団から補給の困難を訴えてきたことに対する参謀総長名による大本営の訓令である。

  訓令                          ニ十七年六月廿九日
 軍を行(ヤ)るに要するのこと一にして足らざるも、煩累物随伴を減ずるをもって最も緊切の要務とす。煩累物とは何ぞや。すなわち敵を殪(タオ)すの力を有せざる非戦闘員の謂(イイ)にして、いやしくもこれを減ぜざれば軍隊の運動自在なることあたわず。ただ自在に運動することあたわざるのみならず、更にこれを保護せざるべからざればなり。輜重(シチョウ)運搬の人夫のごときはすなわち非戦員の首(シュ)なるものなるをもって、つとめて地方の人民を雇役しもって常備の輸卒を減ぜざるべからず。
 古昔、兵家の格言に因糧於敵の一句あり。爾来内外の用兵にこれを奉じて原則となすゆえんのものはこの理由の外ならず。人民の生命に関する糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、いわんやこれを運搬する人夫においてをや。
 進軍もしくは屯駐地方の人民を徴発、もしくは雇役し我が使役に供せしむるすでに可なり。いわんや賃銀を直ちに支給してこれを使用するにおいておや。何のはばかることかこれ有らん。そもそも適地、もしくは外国の賃銀はもとより内国より貴(タカ)かるべし、しかれどもこれを煩累物減省の点より考うればその利益たる勝(ア)げて言うべからず。いわんやその人夫に給する食糧旅費及び輸送の金額を積算するときは幾倍の賃銀もかえって内国の者より低廉なるを得べきにおいておや。
 けだし軍の要は一に煩累物減省し、もって進退の自由に最も顧慮し、且つ運搬はつとめてその地方によるの方法に慣熟するに在り。

 今般、朝鮮国へ派遣の混成旅団には臨時輜重隊を付し、これを幹部となし糧食などの運搬はすべて徴発の材料を用うべきことを命令せられたり。しかるに六月二十八日、仁川発兵站(ヘイタン)監の報告に、軍隊は輸卒を備えざるため給養を行われず飢渇におちいらんとすうんぬんの言あり。これ甚だ解せざる所なり。
 それ目下混成旅団の給養額は僅かに八千余名に過ぎず。又仁川と京城は僅かに八里の距離にして、先頭すなわち在京城の軍隊はまさに停止して行動せず。かくのごときの場合においてなお数多(アマタ)
の人夫を内国より送発せざれば給養行われ難しと言うときは、もし一朝兵站線路延長するか、あるいは全師団もしくは数多の師団渡韓して運動戦をなすの日に至らば、いかにしてこれを給養せんとするか。果して給養の道なくして全軍餓死を免れざるべきか。これ決してしからざるなり。
 けだし目下いまだ戦時ならざるをもって運搬材料を求むるにやや著大なる費用を要するならん。しかれどもこれ万やむを得ざるの事情なれば、決して入費をおしむべきの時にあらず。よろしく百方努力して徴発材料を得るの方法を講究し、且つ我が帝国外交官の幇助(ホウジョ)を求め、もって各自の任務を完(マツタ)くすべし。
 試みに思え、若し糧食運搬のため重ねて人夫を内国より送るときは、この人夫に要する糧食もまた追輸せざるを得ず。果してしかるときはこの運搬人夫の糧食のため更に又運搬人夫を要するに至り、層々増発あに底止する所あらんや。
 これ大いに因糧於敵の原則に背き煩累物減省の道に戻(モト)る故に、成るべくその地に現在する運搬材料に因(ヨ)るものと決心し、内国よりの追送を請求することを慎むべし。
  明治二十七年六月二十九日                   参謀総長 熾仁親王
 混成旅団長 大島義昌 殿
(防衛研究所図書館所蔵『自明治廿七年六月至同廿八年六月 命令訓令 大本営副官部』、請求番号:日清戦役・15、所収 四九号文書「非戦闘員減少スヘへキ訓令」)

 「内国よりの追送を請求することを慎むべし」とのきつい訓令を受けた混成旅団では、この訓令にもとづいて行動するほかなかった。牙山(アサン)への進撃にのぞんで人馬の供給は、必須の課題であった。
 杉村濬(フカシ)は当時を回顧して、次のように書いている。

 ……しかるに出兵に臨みて人馬の供給充分ならず。しばしば朝鮮政府に照会し、議政府より公文を出し、日本兵の通行には地方官よりその求めに応じ人馬その他を供給し、充分の便利を与うべし、もっともその代価は日本兵隊より相応これを償うべしとの意を諭示したるも、地方の官民皆疑懼(ギク)をいだきあえて官命に従わず。皆言う、これ倭(ワ)党等の所為にして本政府の意にあらずと。けだし一朝敵と味方との地位を変じたることなれば地方官民の疑懼するうべなりと言うべし。

 当時、余は中間に立って一面は旅団の要求に迫られ、一面は無能力なる韓廷を相手として苦慮の余り非常手段をとることに決せり。すなわち軍隊より機敏なる兵卒二十余名を選抜せしめ、これに混ずるに二十名の巡査を以てして、これを京城近郊の要路〔龍山(ヨンサン)、鷺梁(ノヤン)、銅雀津(トンジャクジン)、漢江(ハンガン)、東門(トンムン)外等の処〕に分派し、およそ通行の牛馬は荷物を載せたると否とにかかわらず、ことごとくこれを押拿(オウダ)しすることとせり。これがため人民に多少の迷惑を与えたるも一時軍用に供するを得たりき(杉村濬『在韓苦心録』、59~60ページ)。

 王宮占領といい、否応なしの人馬の押拿・徴発といい、公使館・混成旅団一体となったこうした日本側の行為が、朝鮮官民の反日運動を各地に広めたのは当然のことであった。 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第七章  台湾の戦争

1 台湾民衆の抵抗

 近衛師団の上陸と戦争の開始
 下関講和条約の結果、台湾・澎湖島と遼東半島は日本の領土となった。その後、三国干渉の結果、日本は遼東半島を放棄したので、講和条約の結果獲得した領土は台湾・澎湖島のみとなった。日本政府は海軍大将樺山資紀(カバヤマスケノリ)を台湾総督に任じ、近衛師団〔師団長北白川宮能久キタシラカワノミヤヨシヒサ)中将〕とともに台湾に向かい新領土を接収するよう命じた。樺山は薩摩出身で、1874年(明治7)の台湾出兵の前に現地を調査した経験があり、台湾への思い入れが深かった。同じ頃、台湾では日本領土となるのを拒否する邱逢甲(キュウホウコウ)ら地元士紳は台湾省巡撫唐景崧(トウケイショウ)に独立を迫り、唐は五月二十五日台湾民主国総統に就任した。虎旗を国旗とする、アジアで最初の共和制国家が誕生し、諸外国に援助と承認を求めるとともに、日本軍への武力抵抗を試みた。
 台湾民主国の樹立の報に接したが、台湾接収にに向かった樺山総督は近衛師団のみで接収する計画を変えなかった。日清戦争当時、近衛師団は歩兵連隊と砲兵連隊がそれぞれ二個大隊で編制されたので、連隊が三個大隊で編制される通常師団より兵力が少なく、戦闘能力が低かったにもかかわらず、事態は楽観視されていたのである。
 五月二十九日、近衛第一旅団を中核とする部隊は基隆東方の澳底(オウテイ)に上陸を開始し、基隆と台北は簡単に占領された。台北城占領の前日、唐総統は淡水港から大陸に逃亡してしまった。六月十七日には早くも台北で総督府始政式がおこなわれた。しかし六月十九日に始まった新竹(シンチク)への侵攻作戦は、六月二十二日に近衛歩兵第二連隊が新竹城を占領したものの、直後から抗日義勇軍の逆襲を受け、台北の司令部との連絡が途絶え混乱した。ここで作戦が変更され、台湾南部に上陸する予定であった近衛歩兵第二旅団を台北に呼び、近衛師団の全力を集中して台北周辺の治安を確立した後、南進を計ることになった。

 黄昭堂『台湾民主国の研究』は、五月末から十月の台湾陥落までの台湾攻防戦を三期に分け、各段階の抵抗勢力と抵抗の原因についてつぎのように説明する。
 第一期は日本軍上陸から六月七日の台北陥落まで、第二期は日本軍が台北から南進を開始した六月十九日から九月七日台湾中部彰化(ショウカ)で南進を一時停止した時まで、第三期は日本軍が南進を再開した十月始めから台南を占領した十月二十二日までである。そして、台湾側の武力抵抗の主体勢力について、第一期は台湾民主国の統制下にあった軍隊で、多くは大陸で募集した兵士であり、戦意は低く、日本軍の攻撃に直面すると大陸に逃れたものが多かった。これに対して第二期と第三期の抗日勢力は、それぞれの村落街鎖の士紳を指導者とする地元民が中心となり、第三期には台南を守備していた台湾民主国大将軍劉永福(リュウエイフク)が加わった。彼は元々清朝に武力抵抗を試みた黒旗軍の指導者で、清朝に帰順後、清仏戦争の際にベトナムでフランス軍を打ち破ったという輝かしい経歴を持つ軍人であった。実際の抗戦意欲はともかく、抗日義勇軍を組織する住民の精神的支柱になった、と評価されている。
 台湾住民の多くは、対岸の福建・広東からの移住者で、台湾原住民や隣接する移住者集団と対立抗争(分類機闘)しながら開拓を進めてきたので、土地に対する強い愛着心と郷土愛を持つとともに、戦闘にも慣れ、煉瓦塀・銃口・櫓を備えた民家や村落は要塞のような防禦機能を有した。日本軍が台湾を占領するために基隆東方に上陸すると、台湾民主国を支持する人々の抵抗のみならず、さまざまな流言蜚語や誤解に基づく住民の自然発生的抵抗が起こった。台湾占領を担当した近衛師団は、想定外の住民のゲリラ的抵抗に直面して、抵抗運動者とそうでないものの区別ができず、予防的殺戮や村落放火、時には略奪を行い、さらにそれが住民の恐怖と報復のための抵抗を惹起させる、という悪循環を発生させた。
 台湾義勇軍の組織した抗日義勇軍は武器が劣悪、かつ銃を持つものは十分の二程度であったので、正面からの戦闘ではなく、主として分散した日本軍を地の利を生かして攻撃するゲリラ戦法を採用して日本軍を悩ました。村落単位の抵抗で、女性子供も参加した。しかし時には、1000人以上の集団で攻撃したり、大砲を利用し、堡塁を築いて抵抗することもあった。第二期はちょうど雨期で、河川が氾濫して日本軍の行動を阻害した。寒冷な冬を体験した後で満州から転進してきた日本軍、つまり近衛師団や第二師団は台湾で炎暑に悩まされ、マラリアやコレラなど疫病の流行で戦闘力を殺がれて、抗日義勇軍に活躍する余地を与えた。

 台湾北部鎮圧作戦--ゲリラ戦と村落焼夷--
 孤立した新竹の日本軍を救援するため、七月十二日から、台湾 -- 新竹間の補給線を確保するための作戦がはじまった。その時、山沿いの台北を流れ淡水河上流地域の掃蕩作戦を担当した、公家出身の伯爵坊城俊章少佐指揮の近衛歩兵第三連隊第二大隊を中心とする部隊は抗日軍に攻撃された。川を船で遡っていた糧食輸送隊(35名)は最初に全滅、坊城隊本隊も包囲攻撃され、多くの犠牲者を出しながら、かろうじて脱出するありさまであった。
 思いがけない敗北に近衛歩兵第二旅団長山根信成(ヤマネノブナリ)少将を長とする部隊が編制され、坊城隊が苦戦した淡水川上流の掃蕩を命じられた。七月二十二日から二十五日にいたる間に、「賊ヲ屠(ホフ)ルコト数百、家ヲ焼夷スルコト数千ニ及ヒ、十三日以来兇焔ヲ逞フセル賊徒ハ一時全ク屏息スルニ至レリ」(『日清戦史』第七巻)アルイハ「三角湧付近ハ土匪(ドヒ)ノ巣窟。再ビ敵ヲシテ之ニ拠ラシムベカラザレバ、我支隊ハ火ヲ放チテ、悉ク其村落市街ヲ焚燬セリ」(川崎三郎『日清戦史』)という軍事行動をおこなった。
 この台湾北部掃討作戦は、残存した清国軍との戦闘ではなく、台湾住民の組織した抗日義勇軍とのはじめての戦闘であった。抗日軍のゲリラ戦に対して日本軍は、無差別の村落焼夷作戦を実施し、以後、これが台湾での戦闘の基本形の一つとなった。この頃軍隊に同行した樺山資英(スケヒデ)は、「沿道の住民ノ良否判明せざるに付惨酷ながら一網打尽」(『現代史資料・台湾』第1巻)と両親に書き送っている。

 宮城県出身の近衛師団所属兵士も戦闘に参加した。志田郡松山町出身の今野良治近衛騎兵一等軍曹の父親宛て手紙は、坊城隊が連絡を絶った後、偵察部隊である近衛騎兵第二中隊第三小隊が三角湧を偵察中、ゲリラの攻撃をうけて三名を残して全滅した事件を報告する。
小隊長山本特務曹長以下ニ十二名三角湧付近偵察の任を帯び、七月十五日台北を発して三角湧に向ふて前進せり。然るに沿道の土民皆国旗を掲げて大日本善良民の紙票を戸前に貼し、茶を汲み粥をすすめ大いに我偵察隊を犒(ネギラ)ふを以て、我亦大に意を安んじ益々前進し、将に三角湧に出んとするの頃ひ、全面の高地に監視兵の如き者処々に徘徊せるを以て三名の斥候を派捜索せしめたるに、、唯茶摘(タダチャツミ)のみなる故後方部隊の前進を促すに依り、更に進む5、60米(メートル)にして俄然砲声の耳に轟く者あり。其方向を視定むる遑(イトマ)もなく四面より乱射する小銃雨の如し。故に後方の村落に拠り防御せんと隊を収容して背進せしに、前に我が軍を犒ひし土民は皆敵軍となり、男子は銃を携え女子も亦小銃を放ち、小児は竹槍を以て我が退路を遮きる故、素より勇武を以て聞えたる同小隊なれども、右は峨々たる山岳にして左は洋々たる河流なり。嗚呼此の地我が隊をして進退攻守共に自由を失はしめたり。背進三里殆ど中途に仆(タオ)れ、其命を全ふして帰りしは僅かに下士上等兵一等卒の三名なり。(奥羽・九十五年九月四日、「台湾戦況」)
 この地域の抗日軍は、日本軍騎馬偵察隊を歓迎すると見せかけ、日本軍弱しと見るや一斉に攻撃を開始したのであった。男女、小児まで含んだ、村ぐるみのゲリラ戦である。今野は前記の手紙の最後に、後日出動した近衛騎兵大隊長渋谷在明中佐が率いる部隊は三角湧住民に対して、「彼等の家屋を焼き彼等をせる者挙けて数ふべからず」という報復をおこなったと述べている。台北城の郊外でさえ、住民、婦女子を巻き込んだゲリラ戦となっており、対する日本軍も無差別殺人をおこなっていたことが手紙から明らかである。
 そしてゲリラの勇敢さに対する驚きは多くの手紙に共通していて、ある近衛師団関係者も「土人は清国盛京省等の比に非ずして、敏速且つ胆力あり、死に就くは各自期する者の如し、従て戦争の熱心なる邦人の驚く処なる由、故に我歩兵の吶喊杯(トッカンナド)も敢て恐れさる」状態であり、対抗上近衛師団は「形跡の疑ふべき土人は殺戮遺類なからしむ故に、或は苛酷に失することあるも事情已むを得ざる次第」と述べている。 (奥羽・九十五年九月三日、「台湾近信」)。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


 

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司馬遼太郎 統帥権 天皇大権 歴史の修正

2018年01月03日 | 国際・政治

『「明治」という国家』(日本放送出版協会)にも、理解しがたい歴史認識があります。下記に抜粋した中に、「明治憲法はプロシア憲法にくらべて、大きく特徴的なことがあります。双方、君主が統治の”大権”をもっているということになっていながら、明治憲法はあくまでも”大権”であって”実行権”ではないということです。」という部分がその一つです。  

 大権はもっているけれど実行権はないということはどういうことでしょうか。”実行権のない大権”というのがよくわかりません。また、「明治憲法における日本の天皇は、皇帝(カイゼル)ではなかったのです。日本の伝統のとおり、立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした」という部分や、「天皇の場所は、哲学的な空になっていまして、生身の人間として指図をしたり、法令をつくったり、人を罰したりすることは、いっさいないのです」という部分も引っかかります。

 大日本帝国憲法の第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とありますが、これは、他のいわゆる君主国の憲法の条文と違い、神勅に関わるもので、単なる法的権限を超えた意味をもっていたのではないでしょうか。したがって、天皇大権はプロシア憲法などの君主の大権と同格に論ずることはできないように思います。
 確かに明治の日本は、運用上は三権分立国家かも知れませんが、大日本帝国憲法第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、さらに、第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められているように、現人神として、必要なときには議会の制約を受けずに条約を締結(13条)する権限をもっていたし、独立命令による法規の制定(9条)も可能であり、また、緊急勅令を発する権限などもあったことを忘れてはならないと思います。

 現実に明治天皇は、「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」檜山幸夫(講談社)から抜粋した文章にもあるように、上奏書を持参した衆議院議長に拝謁を許さなかったり、「日清戦争は朕の戦争に非ず」と言って、要請されたことに応じなかったり、求められた案件の裁可に応じなかったりして、様々なかたちで、統治行為に関わっています。
 明治天皇のみならず、昭和天皇も、「田中義一叱責事件」として知られているように、張作霖の爆殺事件に端を発する関係者処分の田中義一首相の奏上が、それまでの説明とは相違することに語気を強めてその齟齬を詰問され、辞表提出の意を以て責任を明らかにすることを求められたといいます。そして、田中首相が弁明に及ぼうとした際には、その必要はないとして、これを斥けられています。
 また、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月「敗戦必至」という近衛の奏上に対し、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」として、終戦の要求を蹴ったこともよく知られていると思います。
 そういう意味で、天皇が「立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした」というのは事実に反するのではないかと思います。また、同じように「天皇の場所は哲学的な空になっていまして、生身の人間として指図をしたり、法令をつくったり、人を罰したりすることは、いっさいないのです」というのも、事実に反すると思います。

 さらに、司馬遼太郎が取り上げた張作霖の爆殺事件や満州事変は、「統帥権」の問題というより、むしろ、軍中央を無視した出先関東軍の独断専行を防げなかった軍の組織や統制の問題であり、また、国際法違反や犯罪的行為さえも、日本にとって有利な結果が得られたときは、黙認し追認してきた軍部や政権の差別的・侵略的姿勢にあったと思います。

 したがって、「この点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(1926年以後45年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の”不備”によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう。」というのも、おかしな捉え方だと思います。戦争による亡国の悲惨は、伊藤博文を含む明治以来の政権中枢や日本軍にあった差別的・侵略的姿勢によってもたらされたのではないかと思うのです。
 
 資料1は、『「明治」という国家』司馬遼太郎(日本放送出版協会)から抜粋しました。
 資料2は 「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」檜山幸夫(講談社)から抜粋しました。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第十一章 「自由と憲法」をめぐる話 ネーションからテートへ

 ・・・
 私は明治憲法を非難しようとも讃美しようとも思っていません。机上に客体としてそれを置いて見つめているだけです。
 まず、明治憲法があきらかに近代憲法であることは、近代憲法にとって不可欠なものである三権(立法、行政、司法) の分立があることです。これは、みごとというべきものでした。ただ国民にとってのゆたかすぎるほどの自由はそこにあるとはいえません。しかし、法律の範囲内という制約下ながら、”言論の自由””著作の自由””出版の自由””集会の自由””結社の自由”はありました。言っておかねばなりませんが、これらの自由のなかで、明治の言論・文学・学問・芸術はうまれたのです。
 さて、明治憲法はプロシア憲法にくらべて、大きく特徴的なことがあります。双方、君主が統治の”大権”をもっているということになっていながら、明治憲法はあくまでも”大権”であって”実行権”ではないということです。
 この点、プロシアを参考にしながら、その真似をしなかったのです。ドイツのカイゼル──皇帝です──は、政治においてきわめて能動的な権力をもっていましたが、明治憲法における日本の天皇は、皇帝(カイゼル)ではなかったのです。日本の伝統のとおり、立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした。
 明治憲法の最大の特徴は、
「輔弼(たすけること)」
 という、法律用語とその中身をつくったことです。内閣の首相その他各国務大臣および、立法府、司法機関の長は、それぞれかれらにおいて一切の責任が終了します。かれらが責任をとります。天皇の場所は、哲学的な空になっていまして、生身の人間として指図をしたり、法令をつくったり、人を罰したりすることは、いっさいないのです。責任は、総理大臣なら総理大臣どまりです。天皇は、行為をしないかわり、責任はない。ひたすらに、首相など各機関の長の案に承認を与えるのみでした。
 問題は、統帥権(軍隊を動かす権)です。これだけは、三権から独立して、天皇に直属します。英国では行政府の長である首相が軍隊を動かす最高の指揮をとりますが、明治憲法では、軍隊を動かす権については、首相も手を触れることができず、衆議院議長もクチバシを入れることができません。三権分立国家が国家であるとすれば、国家の中で別の国家があるのと同然です。
 ちょっとこまかく申しますと、同じ軍でも、内閣に所属しているのは、陸軍大臣と海軍大臣で、これは行政権のみで、統帥緒権をもちません。統帥権の府は、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部でした。このそれぞれが、首相と無関係に、じかに天皇を輔弼〔この場合は、輔翼(ホヨク)といいました。意味は同じです〕したのです。ただし、天皇という神聖空間は、哲学的な空ですから、ここに大きな”抜け穴”がありました。もし参謀本部という統帥府が、理性をうしない、内閣に相談せずに他国を侵略したとしても 、首相はなすすべがないということになります。
 この統帥権の独立は、まったくプロシア憲法・ドイツ憲法どおりでした。
 ただし、ドイツ憲法の場合は、カイゼルに能動性があります。ですから、カイゼルがこっそり他国を攻めようと思えば、首相もそのことにあずかり知らず、国境で砲声がおこってから気づくということになります。ただ、ドイツの場合、ウィルヘルム一世とビスマルクが健在だったころは、これでも大過(タイカ)がありませんでした。つぎのウィルヘルム二世という若旦那めいたカイゼルが、ビスマルクを追い、モルトケという参謀総長と相謀らっていろんなことをしはじめてから、帝政ドイツはつぶれてしまうのです。カイゼルは第一次大戦をおこしてしまったのです。帝政ドイツもまた、統帥権の独立が、国をほろぼしました。

 まことに、この点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。それでも、明治時代いっぱいは、すこしも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(1926年以後45年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の”不備”によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう。〔ついでながら1928年の張作霖の爆殺も統帥者の輔弼(輔翼)によっておこなわれましたが、天皇は相談をうけませんでした。1931年、陸軍は満州事変をおこしましたが、これまた天皇の知らざるところでした。昭和になって、統帥の府は、亡国への伏魔殿のようになったのです〕

 以上、お話ししてきて、この話にどんな結論を申しのべるべきか苦しんでいます。太古以来、日本は、孤島にとじこもり、1868年の明治維新まで、世界の諸文明と異なる(となりの中国や韓国とさえもちがった)独自の文明をもちつづけてきて、明治期、にわかに世界の仲間に入ったのです。五里霧中でした。まったく手さぐりで近代化をとげたのです。そのくるしみの姿を、二つの世界思潮──自由民権と立憲国家──の中でとらえてみたかったのです。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                第一章 朝鮮出兵事件と日朝・日清開戦

1 出兵政策の決定

 条約改正と国内政局
 ・・・
 第二次伊藤内閣は、議会に提出された議案に対する列国、とくに英国の抗議に屈して強権を発動した従属的外交政策と、議会解散についての法的手続き上に違憲の嫌疑があったことから、先例に反して解散理由を表明しなかったため、衆議院はもとより貴族院からも内閣不信任の声が巻き起こる。
 翌明治二十七年三月一日、議会解散にともなう第三回衆議院総選挙が行われ、五月十二日第六回議会が招集された。そこで待っていたものは、第五議会解散に対する伊藤内閣の責任追及であった。開院して間もない五月十七日、衆議院に大井憲太郎などから内閣弾劾上奏案が提出され、「議場は、議論沸騰、鼎が沸くが如く、一大混乱の光景を演出」(『大日本憲政史』」したという。
 議会は、この建議案をきっかけに紛糾し、五月三十一日、決議案起草特別委員会に付託された新たな上奏案が衆議院本会議で可決され、ここに内閣弾劾上奏案が成立した。帝国憲法では、議会に内閣不信任権はないが、不信任をうけた内閣が予算を含む議案を通過させることは困難で、事実上解散か総辞職しか選択肢は残されていない。伊藤は、翌六月一日、天皇と二度にわたって時局への対応について相談し、天皇の信任を獲得する。
 この日、上奏書をさしだすため楠木正隆衆議院議長が参内するが、天皇は拝謁を許さず、上奏書は土方久元宮内大臣に預けられている。明治天皇は、衆議院の弾劾決議に不同意だったのである。天皇の説得もあり、伊藤は内閣存続と議会解散を決意し、翌二日、臨時閣議を召集することになった。

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               第二章 「軍人天皇」と「国民」の形成

1 広島大本営と軍人天皇

 「この戦争は朕の戦争に非ず大臣の戦争なり」
『明治天皇紀』の八月十一日の条に、つぎのような記述がある。
 天皇が宣戦詔勅を公布したことから宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)への宣戦奉告祭と伊勢神宮・孝明天皇後日輪東山陵(先帝陵)への宣戦奉告勅使派遣の議が起こり、土方久元宮内大臣は勅使の人選案を具して天皇に上奏した。しかし、なんの沙汰もないので勅使派遣の人選を強く催促したところ、天皇は「其の儀に及ばず、今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り、之れを許したるのみ、之を神宮及び先帝陵に奉告するは朕甚だ苦しむ」と答えた。
 そこで、土方は天皇の主張は「過まりたまふことなきかと極諫」したところ「忽ち逆鱗に触れ」、「朕復た汝を見るを欲せず」と激怒し、土方は「恐懼して退出」したという。
 「日清戦争は朕の戦争に非ず」という、日清戦争でもっとも衝撃的な出来事となった明治天皇の逆鱗事件は、じつは伊藤首相・陸奥外相の開戦外交指導と開戦過程の不透明さを象徴するものであった。
 明治天皇の逆鱗は容易に解けず、宣戦奉告勅使派遣問題は天皇の妥協によって、八月九日に九条道孝掌典長を伊勢神宮へ、岩倉具綱掌典を孝明天皇陵に派遣して決着する。しかし、日清戦争は「不本意」であるとする天皇は、自らが主祭する八月十一日の宣戦奉告祭へは出御せず、やむなく鍋島直大式部長が代拝せざるを得なかった。これが、戦争に反対した場合の、天皇のとるべき行為としての先例になったことはいうまでもない。
 『明治天皇紀』には、この出来事がいつあったのかについての記載がないため推測するしかないが、土方が勅使の人選を催促した時であること、勅使が派遣されたのが九日であることから、おおむね八月五日から七日ころではなかったかと思われる。
 では、この出来事の原因はなんであったのだろうか。佐々木高行は『保古飛呂比』の中で「畢竟内閣大臣の不注意より起りしならん」として伊藤にその責があると記している。たしかに、天皇の逆鱗に触れたのは土方の、不本意ならばなぜ宣戦詔勅を裁可したのかとの極諫にあったわけだが、天皇がそれに激怒した背景には、宣戦詔勅を裁可しなければならなかった状況に天皇を追い込んだ、伊藤と陸奥の開戦外交指導とその過程にあったといえよう。
 明治天皇は、出兵そのものには反対ではなかったが、出兵政策が対清関係悪化の方向に向かいはじめると、政策遂行に懐疑的になっていく。六月十五日と七月一日の閣議決定を、天皇は容易に裁可せず、伊藤と陸奥が委細を報告しなけらばならなかった。
 四三歳になった睦仁天皇は、青年天皇から壮年天皇となり、自らの意志を持ち、天皇としての地位を自覚し、「大帝」への道を一歩踏み出そうとしていた。それまでのように、伊藤や維新の元勲に利用されるだけの存在ではなくなっていた。こうしたなかで、伊藤と陸奥はしだいに天皇を疎んじるようになり、詳細を天皇に報告しなくなる。
 七月十九日、日本は期限付最後通牒を清国に交付しているが、これは天皇の裁可を得ていなかった。朝鮮出兵と日朝清開戦外交にとって重要な外交政策にかかわる外交文書の原文書には、欄外に天皇への上奏と各大臣や枢密院議長、参謀本部や軍令部への通知の経過が墨筆・朱筆・鉛筆等によって記録されている。ここから、天皇への上奏と関係者への通知の経過をみることができるが、それによると、日清戦争にとってもっとも重要な外交文書である七月十九日の最後通牒文は、交付してから三日後の
二十二日の夜に、天皇に上奏し各大臣と枢密院議長へ通知されていた。では、なぜ二十二日の夜に文書を上奏し通知しなければならなかったのだろうか。
 陸奥は七月二十二日にパジェットへ対英反駁書を交付しているが、これは対清最後通牒について英国が二十一日に交付してきた対日抗議書への反駁書で、この文書は二十一日に上奏通知されている。しかし、実際的には、陸奥は、この対英反駁書を交付した二十二日の夜に天皇に上奏する予定であった。対韓最後通牒にかかわった一連の文書も、二十二日に上奏・通知されており、対英反駁書のみが二十一日に上奏されたことになる。
 この間の天皇と伊藤・陸奥の関係をみると、天皇は七月二十日に徳大寺を伊藤のところへ差し向け、翌二十一日に対英反駁書が上奏され、ついで二十二日に再び徳大寺を伊藤と陸奥のところに差し向けていた。
 このもっとも重要な時期に、首相と外相は天皇との接触を避けていたため、天皇はどのような状況になっているのかを知るために、徳大寺を差し向けざるを得なかった。
 対英交渉に限るならば、二十日徳大寺を経て下問された伊藤は、陸奥と相談し、翌日二十二日に交付する対英反駁書を上奏する。二十二日、再度、徳大寺の訪問を受けた伊藤と陸奥は、その日の夜にやむなく対清最後通牒文を上奏する。天皇は、ここではじめて事態が重大な局面に達していたことを知るのであった。

 ・・・

 これは、首都京城と国王の居城である王宮を軍事占領するという、戦争行為に当たる方策実施であることから、天皇大権の外交大権および戦争大権を干犯した憲法違反的行為でもある。もちろん、陸奥より権限の大幅な委任を得て、二十三日早朝に趙督弁に交付した大鳥の対韓宣戦布告に類する通告書は、事前に本国政府の承認を受けたものではなかった。天皇の下問は、陸奥の独断専行への憤懣の現れといえる。
 伊藤と陸奥は、重要な外交情報を隠し、天皇を無視し、閣内にも詳細を知らせずに、まったく独断で開戦外交を展開していく。そこに、宣戦詔勅である。天皇睦仁の名で渙発する宣戦詔勅文案をめぐって、閣内がまとまらず、あらかじめ天皇の理解を得るための了解すら得ていなかったのである。
 そこへ、清国政府が宣戦上諭を発したため、これへの対抗として急遽、宣戦詔勅を渙発しなければならないからとして、突然、詔勅案を示され、熟考の余地なく裁可させられた睦仁天皇が天皇を蔑ろにして盲判を押させようとした伊藤と陸奥に、激怒するのは当然であった。

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