真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


朝鮮王宮占領(開戦の口実づくり)と対清国宣戦布告

2009年10月31日 | 国際・政治
 朝鮮を日本の支配下におくため、清国軍を朝鮮から追い出したかった日本は、清国ではなく朝鮮に無理難題を押しつけることによって清国との「開戦の口実」を作った。
 その一つは、「清宗属関係」(保護属邦)の問題である。清宗属関係を認めれば、江華島条約違反であると責めたて、「自主独立」の国であるといえば、朝鮮に出兵している清国軍は朝鮮の独立権を犯しているので、「清国軍を朝鮮から追い出せ」と責めたてようというのである。そして、もし朝鮮にそれができないのであれば、日本軍が追い出すというから恐れ入る。
 そして、武力で朝鮮を威嚇し、王宮(景福宮)を占領、大院君を入城させ、清宗属関係廃止の通告と、清国兵国外追放依頼書を書かせた。開戦のために朝鮮を利用したのである。また、朝鮮国内政改革の問題もあった。内政改革の意志がないときは、強硬手段をとって、実行を促すと言うのである。以下「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)より抜粋する。
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 第2章 日清戦争と朝鮮

 4 内政改革断行ニ付き上申ノ件

 公使の大鳥は、恥知らずにも次のように、無頼漢まがいの方法で朝鮮政府を威嚇して、修好条規の第1款が罠であったことを自ら暴露するのである。

 日清両国兵各々24余里を隔テタル遠地ニ駐屯シ、而シテ其ノ目的モ同一ナラザレバ、幾日ヲ経過スルトモ両兵衝突スベキ機会之ナク、然ルニ我ガ兵追々増加シテ、彼ノ2,3倍ニ達シタレバ、我ガ利ハ速戦ニアルコトハ勿論ナルノミナラズ、内政改革ノ目的ヲ達スルニ於イテモ亦速戦ヲ利益トス可キニ付キ、左ノ順序ニ従ツテ之ヲ決行致ス可キト存ジ候。
 朝鮮政府若シ、我ガ国ハ自主独立ニシテ清国ノ属邦ニアラズト返答シタル時、我ハ朝鮮政府ニ向カツテ然ラバ今清国兵ハ属邦保護ノ為メト称シテ貴境ニ入リシハ、之貴国ノ独立権ヲ侵害セリ。之ヲ退去セシメテ日朝条約(修好条規第1款)ノ明文ヲ全ウスルハ貴国政府ノ義務ナレバ速ヤカニ之ヲ逐イ出スベシ。若シ貴国ノ力ニテ之ヲ為シ能ザル時ハ、我ガ兵ヲ以ツテ貴国ヲ助ケ、之ヲ逐イ払ウ可シト迫ル。
 又若シ朝鮮政府ガ、清国ノ属邦ニ相違ナキ旨返答シタル時ハ、公然朝鮮政府ニ向カツテ彼ガ修好条規第1款ニ背キ且ツ締約以来17年間我ヲ欺キタル罪ヲ責メ、兵力ヲ以ツテ之ニ迫リ、彼ヲシテ謝罪ノ実ヲ挙ゲシメ我ニ満足ナル補償ヲ取ルベシ。
 又若シ朝鮮政府ガ、古来清国ノ属邦ト称セラレルモ内治外交ハ自主ニ任ズル約束ナレバ自主ノ邦国タルニ相違ナシト返答シタル時ハ、朝鮮政府ニ向カツテ、内乱ヲ鎮定スルハ内治ニ属セリ。然ルニ清国ハ属邦保護ノ名義ヲ籍リテ兵ヲ派遣シタルハ、是内治ニ干渉スルコトナリト第1項ノ手続キニ従ツテ韓廷及ビ清国ノ使臣ニ迫ルベシ。 (『日本外交文書第27巻』)


 ・・・(以下略)

 公使が牢破り 

 日本軍がソウルに入れば、清国兵は必ず攻撃してくるものと信じていた。ところが清国は好戦の国ではなかった。日本の期待に反して清国兵は攻撃してこない。開戦の口実をつくらねばならなかった。そこで、戦争を仕掛けるため日本の外交官が牢破りをするのである。
 高宗王に清国軍追放依頼書を書かせるには、王の実父国太公(当時引退した大院君を国太公と呼んでいた)の威光が必要であった。ところが国太公は動こうとしなかった。国太公を説得できるのは、捕管庁に入牢中の鄭雲鵬しかいなかった。そこで、日本国の公使は牢破りをして、国事犯を牢抜きしたのである。


 ・・・(以下略)

 いよいよ開戦

 何が何でも戦争をすることが決まっていたことと、日本軍が不意に先制攻撃した事実を、日本の外務次官が認めている。

 牙山(アサン)の清国兵動かざりしには予期に違いほとほと困却せり。外務大臣の計策はほとんど進行を阻止せられんとす。然るに既に輸送船を徴発して7,8千の兵を動員す。騎虎の勢中止すべからず。依って加藤増雄、本野一郎を派遣し、陸軍の参謀官と牒合して終に牙山に於て清国兵を討つに至れり。(前掲『後は昔の記他林薫回想録』)


 1894年(明治27年)7月25日、陸軍は牙山の清国兵を、海軍は黄海の清国の軍艦を攻撃し、致命的損害を与えてから、8月1日ようやく宣戦布告した。以来日露戦争、満州事変と日中戦争、太平洋戦争と、宣戦布告前の不意打ち攻撃は「忠勇無双の皇軍」の伝統的戦術となった。

5 天皇の詔書

 対清国宣戦布告


 天佑ヲ保有シ、万世一系ノ皇祚ヲ践ム(天皇の位を継ぐ)大日本帝国皇帝ハ忠実武勇ナル汝有衆示ス。朕茲ニ清国ニ対シ戦ヲ宣ス。朕ガ百僚有司ハ宜ク朕ガ意ヲ体シ、陸上ニ海面ニ、清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従イ以ツテ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スベシ。
 朕惟ウニ朝鮮ハ帝国ガ其ノ始メニ啓誘(さそってひらく)シテ、列国ノ伍伴(なかま)ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。而シテ清国ハ事毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ、陰ニ陽ニ其内政ニ干渉シ、其内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ国難ニ籍リ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ。朕ハ明治15年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ、更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ、以ツテ東洋全局ノ平和ヲ維持セシメムト
欲シ、先ズ清国ニ告グルニ協同事ヲ以ツテ従ハムコトヲ以ツテシタルニ、清国ハ翻ツテ種々辞柄ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ。之ニ因リ清国ニ対シ戦ヲ宣セザルヲ得ザリシナリ。汝有衆ノ忠実武勇ニ依リ速ヤカニ平和ヲ永遠ニ克服シ以ツテ帝国ノ光栄ヲ全ウセヨ。(『日本外交文書第27巻』)


 「帝国ガ其ノ始メニ啓誘」したという江華島条約は、大陸侵攻を国是とする日本が清国に戦争をしかけるために武力攻撃で朝鮮を嵌めた罠であった。
 「東洋全局ノ平和ヲ維持セシメムト欲シ、先ズ清国ニ告グルニ」といっているが、清国軍が朝鮮に到着する以前に対清国との戦争を決めた6月3日の閣議決定を天皇は裁可し、大本営まで設置した。清国と戦争するための出兵に、済物補条約(1882年。『日本外交文書第13巻』)の適用は道理に合わない。また、農民が国政の改革を要求して蜂起したのは禍乱ではないし、日本には無関係である


 ・・・(以下略)

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コメント

日清戦争「開戦」と「朝鮮王宮占領」の真実

2009年10月29日 | 国際・政治
 歴史的には日清戦争に至るそれなりの必然性があったのかも知れないが、今、その経過をふり返ると随分酷い話である。「朝鮮の独立」を口にしながら、実質的には朝鮮を属国扱いし、日清戦争開戦の道具に使ったのである。もし、朝鮮と日本の立場が逆であったら、これを許す日本人は一人もいないのではないかと思う。
 『歴史の偽造をただす ── 戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)からの抜粋である。
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       1 日清戦争がなぜ朝鮮王宮占領から始まるのか

 最初の武力行使=朝鮮王宮占領

 日清戦争は「朝鮮の独立」のために戦われた戦争であったと、学校で教わった人は多いだろう。日清戦争の宣戦の詔勅にも、「朝鮮は帝国がその始に啓誘(けいゆう)して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国」である、それなのに清国は「朝鮮をもって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉し……帝国が率先してこれを諸独立国の列に伍せしめたる朝鮮の地位」と「これを表示するの条約」をないがしろにしている、この清国中国の非望ののために日本はやむなく戦争をせざるを得ないのだと述べていた。
 朝鮮を「独立国」とする日本と「属国」とする清朝中国とが戦った戦争、朝鮮を「属国」とする清朝中国は「野蛮国」であり、日本は「文明国」である、日清戦争は「野蛮」に対する「文明」の戦争であったと喧伝された戦争であった。

 宣戦の詔勅は、日本国としての戦争目的を内外に明らかにしたものである。また、開戦後、朝鮮政府と結んだ「大日本大朝鮮両国盟約」(1894年8月26日調印)には、「この盟約は清兵を朝鮮国の境外に撤退せしめ朝鮮国の独立自主を鞏固にし日朝両国の利益を増進するをもって目的とす」(第1条)とうたわれていた。さらに日清講和条約(下関条約)では、第1条に「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す……」と明記されたことはよく知られている。


 日本は、日清戦争は「朝鮮の独立」のための戦争であったと内外にくりかえし宣明し国際的な約束事としたのである。
 その戦争における日本軍の最初の武力行使が朝鮮の王宮占領であったというのは、どういうことなのか、けげんに思われる読者も少なくないのではないか。また、日清戦争の最初の戦闘は1894年7月25日、朝鮮西海岸、仁川沖合での戦闘、豊島沖の海戦であると思っている人も多いだろう。

 しかし、日清戦争における日本軍の最初の武力行使は、ほかならぬその「独立」のために戦うといった朝鮮に、それもよりによって国王のいる王宮に向けてのものであったのである。豊島沖の海戦に先立つ2日前、7月23日の未明から早朝にかけて、日本軍は朝鮮の王宮を占領し、日清戦争の口火をきったのである。「朝鮮独立のための戦争」が、なぜその王宮、景福宮(キョンボックン)の占領から始まったのか。

 「名分」に困った日本政府  略
 
 清韓宗属問題問題を口実に  略

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                 2 王宮占領計画

 「王宮威嚇」の目的

 大鳥公使が最後通牒を朝鮮政府につきつけ、「王宮威嚇」のことが現実問題になった。大鳥公使の意を受けて、7月20日午後1時、本野一郎参事官が第5師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて、朝鮮政府を威嚇するために王宮を囲むことを提案するのである。
 『日清戦史』の草案は、本野参事官の申し入れを次のように書いている。(以下、『日清戦史』草案からの引用は、福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『明治27、8年日清戦史第2冊決定草案、自第11章至第24章』による)

 ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来たれり。因って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出でんがため、本日該政府に向かって清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を22日と限れり。もし期限に至り確乎たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君〔李是応(イハウン)〕を推して入闕せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘を我に嘱託せしむるを得べし。因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。


 この申し入れに対し、南方に陣取っていた清朝中国の軍隊を攻撃するため準備していた大島旅団長であったが、すでに清国軍増派の知らせもあるこの時、南下を延期するのは戦略上、不利なのは言うまでもないが、「開戦の名義の作為もまた軽んずべからず、ことに朝鮮政府に対し日本公使の掌中に在らば、旅団の南下の間、京城の安全を保つに容易にして、またその行進に関しては軍需の運搬、徴発、皆便利を得べし」と、この公使の提案に同意した。

 つまりこの王宮占領は、朝鮮の国王高宗(コジョン)を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎだして政権の座につけ、朝鮮政府を日本に従属させ、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる、つまり「開戦の名義」を手に入れる、さらにソウルにいる朝鮮兵の武装を解除することによって、日本軍が南方で清朝中国の軍隊と戦っている間、ソウルの安全を確保し、同時に軍需品の輸送や徴発などをすべて朝鮮政府の命令で行う便宜を得る。こういう目的で遂行しようというのである。


 作戦計画の立案

 大島旅団長は、翌21日、大鳥公使を訪ね「1個大隊」で威嚇するという公使の提案を改め、「手続きを省略し直ちに旅団を進めてこれに従事せしむること」にした。そして歩兵21連隊長武田秀山中佐に作戦計画の立案をひそかに命じた。
 作成された「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」は、草案によると次のようなものであった。日本軍の行動が『日本外交文書』や《公刊戦史》の言うところと、どんなに違っているかを知る上で、詳しくなるが全容を紹介する。

  朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画
(長文のため省略)

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コメント (3)

江華島事件(明治政府対朝鮮威圧外交の開始)

2009年10月21日 | 国際・政治
 「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)は、木戸孝允(桂小五郎)が、1868年(明治元年)12月14日、岩倉具視に宛て、朝鮮を攻め日本国内の反政府気勢を海外へ向けるとともに、朝鮮領土に勢力を広げ利益をあげようという内容の建議をしたことを、文書を示して明らかにしている。また、翌年には、大村益次郎に宛て、「天皇の陸海軍だけで、朝鮮の釜山付近を開港させる以外に天皇の国を万代も長く栄えさせる道はない」と朝鮮攻略を仔細に指示したことも明らかにしている。

 日本の朝鮮に対する侵略的姿勢や韓国併合まで続く武力を利用した威圧外交は、明治政府がそのスタート時点から日本の外交路線としたようである。下記は、明治政府威圧外交の端緒ともいえる江華島事件に関する部分の抜粋であるが、事件の顛末や木戸建議などを考え合わせると、日本側の「自作自演」に違いないことがわかる。
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江華島事件勃発

 同年(1975年)9月19日、漢城(現在のソウル)入口江華湾を航行中の「聖なる日章旗」が砲撃されるという大事件が起きた。明治政府は天地がひっくり返ったように騒ぎたて、内心ほくそ笑んだ。この江華島事件は、閔(ミン)王妃殺害事件(1895年。後述)とともに、朝鮮民族の進歩を半世紀にわたって遅らせたうえ、今日なお国家分断に苦しむことになった根源の事件である。また、皇国日本を東洋平和を口実にして戦争に明け暮れさせ、アジア諸国の人々と日本国民にはかり知れない災難をおよぼした根源である。

 ・・・

 事件の顛末は次のようなものである。
 江華湾は首都防衛の要塞地帯であった。1875年9月20日軍艦雲揚は朝鮮側から攻撃、撃沈されることを期待して、飲料水を求める口実で無断で湾内に入り、ボートを降ろした。ところが期待に反してボートが第1、第2砲台を通りすぎても砲撃がなかった。ボートは奥深く第3砲台まで遡って、砲台の内部を事細かに偵察していた時、朝鮮側から空砲による警告を受けた。
 しびれを切らしていた雲揚はこの警告をきっかけに一斉に砲門を開いたのだ。後に引用する雲揚の井上艦長報告でわかるように、永宗島を占領して砲台を打ち壊し、戦利品として38門の砲を分捕り、民家を焼きはらい、裸で川を泳いで逃げる朝鮮兵を片っ端から撃ち殺した。朝鮮側の砲台がたとえ多少でも応戦していたら、第3砲台付近は狭いうえ、ちょうど上げ潮時で潮の勢いが強くて引くに引けなかったといっているから、ボートは沈められたはずである。
 飲料水を求めるボートを降ろしたというが、それなら建物と城兵の数までわかるほど接近し、偵察をして通り過ぎた第1砲台で何故水を求めなかったのか。艦長報告によればボートは漢江まで遡っている。これが朝鮮と日本の近代史のなかで特筆すべき江華島(湾)事件勃発の真相である。

 木戸孝允は、自分を事件処理に弁理大臣に任命してくれという上申書のなかで、故なくして日本帝国の旗章に向かって暴撃をしたとして朝鮮の「罪」を責め、しかるべき「処分」を求めて日本の名誉を守ると主張した。百歩譲って朝鮮側から先に発砲があったとしても、江華湾は日本でいえば東京湾の品川沖である。東京湾に比べると奥行きが遙かにない。他国の軍艦が日本沿海を測量し、東京湾に侵入して要塞施設を偵察し、たとえば隅田川の永代橋まで遡って来ても、日本は黙視しただろうか。朝鮮側からの発砲はなかった。かりにあったとしても、無断で他国の湾内深く侵入し、測量や偵察をした主権侵害とスパイ行為は正当化できるものではない。
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 各国公使に釈明

 江華島事件発生と同時に各国公使から明治政府に真相の説明を求める抗議があった。説明は雲揚の井上艦長がしている。

   朝鮮国トノ通交ニ関スル件
   10月9日 寺島外務卿ト英国公使トノ対話書
   江華島事件経過ニ関スル件 第138号
   明治8年10月9日於本省寺島外務卿英国公使ハークス応接記
  「雲揚艦船将井上氏御着ノ趣朝鮮戦争ノ詳説承ケタマワリ度ク候」(ハークス)
  我ガ雲揚牛荘辺ヘ通航ノ砌リ9月20日朝鮮江華島ノ近傍ニ碇泊シ、飲料ノ水 
 ヲ得ルタメ端船ヲ卸シテ海峡ニ入ル。第1砲台・周囲凡我2里(8キロ)周囲ニ城
 壁ヲ築キ4門開ケリ。城兵凡5百余名。城中ノ家屋ハ皆兵営ノ様子ナリノ前ヲ過
 ギ第2砲台ノ前ニ至ル。
  第1砲台ト第2砲台トハ遙ニ遠ク離レ、第2砲台ト第3砲台トハ、第1ト第2砲台
 ノ中間ホド離レタリ。第2砲台ハ空虚ノ様子ニシテ人影ヲ見ズ。
  第3砲台ハ巨大デ、牆壁ヲ築キ壁ニ砲門ヲ開キタリ。備ウル所ノ大砲ハ凡12
 ~13斤位ニシテ真鍮砲ナリ。小銃ハ我ガ2~3匁位ニシテ火縄打チナリ。城兵ノ
 柵門ヲ出入スルヲ見ルモ、本艦ハ見エズ。船近ヅクノ時小銃ノ声ヲ聞キタルモ他
 事ノ砲声ト想イ敢テ気ニセザリシニ、復一声ヲ聞ク(弾丸ハ来ラザル由)ト斉シク
 大小砲ヲ列発シテ我ガ端船ヲ襲撃ス。端船応戦スル能ハズ退カントスルニ折ア
 シク満潮(上げ潮のことだろう)狭隘故、潮勢甚シクテ退クヲ得ズ、止ムヲ得ズ小
 銃ヲ発シテ本艦ヘ合図セリ。本艦コノ号砲ヲ聞キテ直ニ進ミ来レリ。(中略)且ツ
 砲台ヲ毀シ民家5,6軒アルヲ以ツテコレニ火ヲ放チテ焼ク。コレニヨツテ城中動
 揺シテ走ル。然ルニ其遁路万世橋ニハ我兵ヲ率イテコレヲ守ル。逃ルニ道ナク、
 衣ヲ脱シテ水ニ投ズル者幾許ナルヤヲ知ラズ。我兵追ツテコレヲ狙撃セリ。我レ
 全勝ヲ得テ後、彼ノ囚人(捕虜)ヲ使役シテ旌旗ト金及ビ大小砲37門ホド分捕リ
 テ本艦ニ帰ル(後略)(日本外交文書第8巻)


 江華湾の第3砲台付近の干満の差は9メートルもあって、満ちる時、引く時は小汽船では下ることも上ることもできない。井上艦長の説明によれば、朝鮮の砲の射程距離は6,7丁(7、8百メートル)ほどだといっている。「本艦ハ見エズ」といっているから、朝鮮砲台の砲ではとても対抗できなかったので、朝鮮兵は「走ル(逃げた)」。
 井上艦長の説明によれば、砲台内の様子がわかるほどボートは接近していた。川幅が狭くて上げ潮の勢いが強いので、引くに引けなかったといっているから、砲撃されたのが本当なら、いくらちゃちな朝鮮の鉄砲でも近くに来たボートくらいは沈めることができたはずである。ボートが無事であったということは、朝鮮側の発砲がなかったからである。
 江華島事件は、朝鮮を開国させるための日本側の一方的攻撃で起こったもので昭和期に入っての満州と支那事変と同じデッチ上げの手法であった。イギリスのほかアメリカ、ロシア、フランス、イタリアなどいくつかの国の公使にも説明しているが、いずれも植民地支配者としての同じ穴のムジナだから、これらの国からこれといった強い抗議はなかった。

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 「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)は、飲料水を求めて江華湾の奥深くに入った雲揚艦が「9月20日に江華島沖をはなれて、同月28日には長崎まで途中飲料水を補給せず帰っている」ことから、飲料水不足は口実であろうことを指摘している。

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平頂山事件と「国家無答責」の判決

2009年10月07日 | 国際・政治
 事件発生から64年も経過した1996年、平頂山事件訴訟が中国人戦後補償問題の一つとして東京地方裁判所に提訴された。「平頂山事件とはなんだったのか──裁判が紡いだ日本と中国の市民のきずな」平頂山事件訴訟弁護団(高文研)には、弁護団の結成から提訴に至までの経緯やその後の裁判の取り組みが詳しく綴られている。
 平頂山事件訴訟に対する東京地裁や東京高裁の「国家無答責」の判決および最高裁の上告棄却の決定は、日本のあらゆる戦後補償問題に対する姿勢を象徴するものではないかと思う。
 敗戦後の日本は、表面上の民主化とは裏腹に、アメリカとの取り引きによって、様々なかたちで戦前の体制を温存させた。アメリカも事実上「国体護持」を認め、天皇の戦争責任を免責することによって、戦争責任の追求を曖昧にしただけではなく、米ソ対立の激化に合わせて、日本の再軍備を急ぎ旧軍関係者を甦らせた。ポツダム宣言で永久に公職追放されたはずの旧軍将校が、再軍備が進むと追放を解除され、自衛隊に入隊したり、国会議員となったりして活動を再開したのである。
 旧日本軍細菌戦部隊(731部隊)関係者などは、その極秘情報のアメリカ軍への提供によって免責され、全く訴追されることなく、戦後も要職に復帰し、アメリカ占領軍に従属しながら、旧支配体制温存の一翼を担った。すなわち、敗戦後の日本は、天皇や皇族、旧軍関係者、旧中央官僚などが、アメリカ占領軍に従属するかたちで、その支配力を相当程度維持したと考えてよい。
 日本が、戦争責任の追及を有耶無耶にし、戦後補償の問題にきちんと取り組まないのは、そうした旧支配層が今も変わらず力を持ち続けているからではないかと思うのである。残念ながら、平頂山事件の一審・二審の判決や最高裁の決定は、裁判所も決して旧支配層と無縁ではないことを示したものといえるのではないかと思いつつ、同書から抜粋した。
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         第3章 手探りで始まった裁判──「国家無答責」の壁に挑む

 一審判決「国家無答責」で敗訴──2002年6月28日

 判決の勝利を信じて、原告を代表し楊宝山さんが来日した。2006年6月28日に出された東京地方裁判所民事第10部(裁判長菊地洋一)判決は、弁護団が提出した証拠に基づき、「この(撫順炭鉱)攻撃事件の直後、日本側守備隊は、中国側自衛軍の進軍経路上にあった平頂山村の住民が自衛軍と通じていたとして、同村の住民を掃討することを決定し、同日朝、独立守備隊第2大隊第2中隊等の部隊が平頂山村に侵入した。旧日本兵らは、同村住民のほぼ全員を同村南西側の崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃して殺傷した後、生存者を銃剣で刺突するなどして、その大半を殺害し、同時に村の住家に放火して焼き払った」などとして、1932年9月16日の平頂山事件の日本軍による住民虐殺の事実をほぼ、原告の主張どおりの内容で認めた。


 しかし、原告らの求めていた損害賠償請求については、国家賠償法が制定施行される以前におけるわが国の法制度は、「権力作用に基づく損害について国又は公共団体は賠償責任を負わないとする国家無答責の法理が採用されていた」として「本件加害行為(住民虐殺行為)は、旧日本軍の中国における戦争行為・作戦活動に付随する行為であり、これらの行為はわが国の公権力の行使にあたる事実上の行為」であるから、「いわゆる国家無答責の法理により損害賠償責任を負わない」として、原告らの請求を棄却した。

 判決は、国家無答責の法理とは、「(国の)損害賠償の根拠となる法律が存在しなかったから、損害賠償責任を負わない」とする法理であると判示した。しかし、戦前においても民法の不法行為の規定は存在しており、国の権力行為について、なぜ民法が適用されないのかについては、判決は直接的に理由を述べなかった。
・・・(以下略)
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           第4章 信頼と和解──裁判が結びつけた人びとの絆

 二審判決「国家無答責」で敗訴──2005年5月13日

 事件から73年、最後の望みを裁判に託した原告たちの痛切な願いと、これを支援した日中の人びとの期待は、2005年5月13日、東京高等裁判所第10民事部の下した判決により、木っ端微塵に打ち砕かれた。またしても敗訴。またしても国家無答責の法理であった。

 判決は、「当該行為(本件の日本軍による平頂山住民虐殺行為)は、旧日本軍の戦争行為、作戦活動として行われたものであることは否定しがたい」「軍事力の行使は、国家の権力作用の最たるものであり」、それゆえ「責任の有無の判断は、国家主権の正当性の存否にもかかわる」から、「市民社会に共通して適用される私法の規律にかからしめることができないことは明らか」と断じた。


 これは「軍隊の行為についてはその当否を問えない」とする戦前の明治憲法体制下の司法判断となんら変わらない考え方であった。個人の人権を最高価値とする現行憲法は、人権の最後の守り手としての裁判所の任務を定めている。東京高等裁判所の判決は、憲法の規定する司法の任務を放棄することを高々と宣言したに等しく、まさに司法の自殺行為といえる判決であった。
 ・・・(以下略)
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           第4章 信頼と和解──裁判が結びつけた人びとの絆


 最高裁上告棄却──2006年5月16日

 2006年5月16日、最高裁判所第三小法廷(上田豊三裁判長)は、平頂山事件で日本軍に肉親を虐殺された楊さん、方さん、故莫さんら原告の、日本政府に対する損害賠償請求につき、原告らの上告を棄却し、上告審として受理しないとの決定を行った。

 平頂山事件弁護団は、全体弁護団と協力し、「国家無答責の法理」の適用を否定した戦後補償裁判の判決の到達点と、行政法、民法などの学者による最新の研究成果に基づき、詳細かつ最先端の理論を展開して不当な高裁判決を覆すべく争った。しかし、最高裁は、上告理由書等の提出からわずか4ヶ月足らずで、まともな審理も行わず、何らの根拠を示すことなく、上告を棄却し、上告を受理しないとの三行半の決定を下した。

 ・・・(以下略)

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平頂山事件は井上中尉の独断専行か?

2009年10月03日 | 国際・政治
 「追跡 平頂山事件ー満州撫順虐殺事件」田辺敏雄(図書出版社)を読んで、平頂山事件の概要は、本書によってほぼ明らかにされているのではないかと思ったが、「平頂山事件 消えた中国の村」石上正夫(青木書店)は、その村民皆殺しの命令や指示に関する結論部分に疑問を投げかけている。日本軍の体質的問題としてとらえる必要性があるかも知れないと考え、ここに抜粋することにした。
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                 第3章 平頂山事件

 兵士たちの証言

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 小隊長の井上清一中尉が襲撃現場にあって、人より異常な積極性をもって虐殺命令をくだした事実は、井上小隊の複数の隊員の証言の一致するところである。井上中尉の現場責任は、田辺氏(「追跡 平頂山事件ー満州撫順虐殺事件」の著者)が指摘するように最も重い。この事実は動かしがたいものがある。が、現場にいなかった満鉄職員も、戦後調査した者も、一致して井上中尉の「独断専行」を強調するところに、一つひっかかるものが私にはある。井上中尉には自刃した烈婦夫人を背負った特異な人として噂され、噂に根拠をもつ「人物評価」の根深さが、いつもつきまとっている。
 
 関東大震災のさなか大杉栄ら3人を殺害した甘粕正彦憲兵大尉は、「独断専行」の罪をかぶったがために、逆に出獄後には軍から優遇され、満州において「闇の帝王」の地位についた。
 張作霖大元帥を爆殺した関東軍高級参謀・河本大作大佐も、同じく「独断専行」の罪をかぶりながら、恫喝によって軍事裁判を逃れ満鉄理事の地位を獲得した。
 井上清一中尉についても、「独断専行」の名のもとに同中尉一人を断罪することで、累が軍上層部に及ばぬよう画策されたのではないか、という疑念がつきまとうのである。

 国際連盟において中国代表が平頂山事件を指弾したさい、武藤信義満州国大使・関東軍司令官(兼務)は、内田康哉外務大臣にあてて次のように返電し、事情説明をしている。事件後76日たった11月28日の外務省電においてである。

  「……9月15日夜約約2千ノ兵匪及不良民ハ撫順市外ヲ襲撃シ、且各自ニ放
 火セルノミナラス、我独立守備隊ヲ襲エリ。之等兵匪及不良民ノ徒ハ、千金堡及
 栗家溝ヲ根拠トセルヲ以テ、井上中尉ノ率ユル1小隊ハ、16日午後1時、千金
 堡ニ至リ部落ノ捜索ニ着手セル処、却テ匪賊ノ発砲ヲ受ケ、我軍ハ自衛上迫撃
 砲ヲ以テ之ニ応戦セリ。交戦30分後村落ノ掃討ヲ終ヘタルカ、村落ハ交戦中発
 火シ大半焼失シ、又匪賊及不良民350名仆レタリ。右ハ支那側ガ大袈裟ニ宣伝
 スルカ如キ、多数無辜ノ民ニ対スル残虐行為ニ非ス。我軍ノ自衛処置ニ過キヌ
 ……」

 2千名のゲリラが撫順を襲撃したというところだけ正しく、その他はすべて虚偽の作文である。中国側の調査や生存者の証言、作戦に参加した兵士の証言に照らしても、その作為は歴然としている。その作為歴然の報告書に「井上中尉ノ率ユル1小隊ハ」が出てくる。武藤関東軍司令官は、とくにここを強調しても不自然ではなかろう。
 川上中隊長の在・不在にかかわらず、1小隊の「独断専行」で行えるような小さな作戦ではなかった。川上中隊長は直属上官としての責任はまぬかれないが、第二大隊長と関東軍司令官こそ現地駐留軍の最高責任者ではないか。中隊長の責任を問えば、さらに上層部への責任追及の危険を残す。井上中尉の「独断専行」でけりをつければ、問題はそこで終わる。国際問題に発展したさいを考慮しての深慮と思われるが、どうか。

 関東庁は天皇の命令、勅令によって設置され、満州国をつくりあげてからは、関東庁長官は関東軍司令官と満州国駐剳特命全権大使を兼ねていた。前掲の作為にみちた報告書は関東軍司令官の名で作成されたものである。司令官は天皇の直属であるから、満州侵略の一環のなかで発生した兵頂山事件は、国際問題になれば日本の国体自体が責任を問われかねない性格のものであった。武藤司令官の報告にはそうしたことへの配慮があったと思われる。
 絶対服従の軍隊のなかにあって、上層部に責任がおよばぬように、常時さまざまな作為が行われていた。日本軍の構造的特質である。



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