不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

特攻隊員の日記や遺書と”大東亜聖戦大碑 ”NO3

2020年03月29日 | 国際・政治

 2000年8月4日、石川県金沢市の中心地にある石川護国神社の参道に、高さ12メートルに及ぶ巨大な「大東亜聖戦大碑」が建てられたといいます。碑の裏面には「八紘為宇(=八紘一宇)」という文字も見られ、毎年8月には「大東亜聖戦祭」が開催されているということです。
 それは、日中戦争の最中に、第2次近衛内閣によって閣議決定された、下記の「基本国策要綱」を、しっかり受け継ぐものであり、前頁で触れた昭和天皇の「人間宣言」と呼ばれる「新日本建設に関する詔書」の”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”に基づくものだと思います。

世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし、皇国亦有史以来の大試錬に直面す、この秋に当り真に肇国の大精神に基く皇国の国是を完遂せんとせば右世界史的発展の必然的動向を把握して庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以て刻下喫緊の要務とす、依って基本国策の大綱を策定すること左(下)の如し

基本国策要綱

一、根本方針
皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事態に即応する不抜の国家態勢を確立し国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す
二、国防及外交
皇国内外の新情勢に鑑み国家総力発揮の国防国家体制を基底とし国是遂行に遺憾なき軍備を充実す皇国現下の外交は大東亜の新秩序建設を根幹とし先づ其の重心を支那事変の完遂に置き国際的大変局を達観し建設的にして且つ弾力性に富む施策を講じ以て皇国国運の進展を期す
・・・以下略(『ウィキペディア(Wikipedia)』:アジア歴史資料センター・デジタルアーカイブ)
 
 「大東亜聖戦大碑」建立委員会の委員長は、元関東軍参謀・草地貞吾陸軍大佐だったようですが、まだ日本には、明治維新以来の皇国神話の呪縛から逃れることが出来ず、”架空なる観念”にとらわれて、日本の戦争の実態を知ろうとしない人々が大勢いるということではないかと思いまいます。
 沖縄師範学校在学中、鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦に巻込まれた大田昌秀元沖縄県知事も、「大東亜聖戦大碑」建立の事実を知ってすぐに、”聖戦”という言葉が受け入れ難い言葉であることを公にされたといいます。当然だと思います。
 当時の日本が”聖戦”よって建設しようとした”皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序”がいかなるものであったかは、当時すでに植民地化されていた韓国や台湾、それに傀儡国家・満州国で、どんな差別や強制があったかを調べればわかることではないかと思います。
 また、戦時中の南京大虐殺や捕虜斬殺の問題、重慶無差別爆撃の問題、日本軍”慰安婦”の問題、731部隊の人体実験や細菌兵器開発・使用の問題、毒ガス兵器使用の問題、沖縄戦の問題等々を考慮すれば、日本の戦争が、その考え方や方針の面でも、戦い方の面でも”聖戦”とかけ離れたものであったことは否定できないと思います。

 だから、私は、”特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ”およそ310万の日本人と、2000万ともいわれるアジアの人々の命を犠牲にした日本の戦争を”聖戦”と呼ぶことは、とても野蛮であるばかりでなく、サンフランシスコ平和条約や日本国憲法に反することでもあると思います。

 下記は、前頁「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)の「第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし」NO2の続きですが、なぜこうした日記や遺書を書く心優しい穴沢少尉が、特攻兵として死ななければならなかったのかは、忘れられてはならないことだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<昭和20年3月25日
 13時半、防府飛行場発、都城へ向かふ。
 高度2500附近まで烟霧(エンム)のため視程二キロ程度なり。別府湾に至るの間しかり。14時半、都城東飛行場着。
 101Fすでに在り。迎へを受く。兵舎は半地下(三角兵舎)、山に囲まる環境よし。
”かかる所に住まば長生きすべし”と友言へり。

<昭和20年3月26日
 朝は少しく霜おけるを見、相当の冷えを感ずるも、陽の昇ると共に頓(トミ)に暖かし。
九州南部なり。
 午後、飛行場踏査せり。一式戦(隼)には可なり。将校室内に木蓮、椿、桃薫る。薫風微々として来り山林の梢を揺す。
 出撃近きを感ず。書簡を焼く。
 残し置きたる悉く智恵子よりのものにして、燃えたつ炎と共に感また心を揺(ユルガ)す。無量なり。
 書簡中にみる歌 左に抜萃し、余香を残さんとす。
   わかれてもまたもあふべくおもほえば心充たれてわが恋かなし
   こともなげに別るる君とおもひしに町角にしてかへりみにけり
   あたたかき心こもれる文もちて人おもひをれば鶯の鳴く

 明日、知覧飛行場に進発の命下る。或ひは直ちに出撃にあらざるや。夕刻、トラックにて都城市に赴く。偕行社旅館に一泊す。私物の整理をなす>

<昭和20年3月27日
 いよいよ出発。行李(父宛て)、書簡(三冊)智恵子宛発想を事務室に依頼す。四ヶ月の間、苦楽を共にせし整備隊と別れを告げ、十五時、機上の人となる。整備隊中、涙を流し下をうつむく者多く、出発の我等また断腸の思ひなり。
 離陸。煙吐く桜島を右に鹿児島湾を横断するや、微雨ありて雲低し。
 単縦陣となりて知覧飛行場に侵入す。
 本夕刻、ただちに徳之島に前進の予定なりしも悪天候のため延期す。飛行団長、一〇三FR長、六五FR長、列席会食せり。
 後に知覧町に出、旅館に一泊す。微雨依然として続く>

<昭和20年3月28日
 十六時、出撃の予定なりしも中止。
 夕刻にいたり、明未明三時、出撃と決定せり。隊員盃をまはし、ささやかなる食事を済まし、準備のため飛行場に行く。
 分廠整備員、準備殆んど整はず、遂に又も中止となる>

岩尾光代の語る──
「隊長夫人からの速達をうけた智恵子は、飛ぶようにして亀山に行ったものの、ぐずぐずしてはいられない思いにかられて「一夜でもいいから、妻として見送りたい」と都城へ向かいました。
 3月29日、都城、というだけで所在はわからなかったが、それでも、行きあたりばったり、東飛行場を訪ねると、「第二十振武隊は、徳之島へ進発いたしました」と告げられ、これで万事終わりかと、智恵子は急に力がぬけてしまいました。しかし、穴沢利夫少尉は、この時、徳之島ではなく知覧基地にいたのです。」

穴沢利夫の日記──
<昭和20年3月29日
 嗚呼、われ残されたり。隊長以下七名遂に出発せり。見送る我の姿あはれ>

<昭和20年3月30日
 十六時、吉田少尉、伊藤少尉、滝村少尉、小官(穴沢)四名。勇躍、徳之島に向け出発す。中ノ島附近より天候刻刻悪化し、四機単縦陣となり、雲を縫うて進む。高度五十米(メートル)となる。行手は墨を流したる如く暗し。飛行一時間十分。四機諸共雲中に突入せり。瞬間、右に強引なる旋回をなし雲中より脱出せるも、頼みとなる地図をとばし、已むを得ず単機基地に帰還せり。他の三機の運命や如何に>

<昭和20年3月31日
 嗚呼、天は我が隊を見捨てたるか。
 他の三機の行方知れず。
 暗然たり>

<昭和20年4月2日
 九時、徳之島より寺沢軍曹帰還せり。29日着陸時、弾痕に脚を入れ愛機を大破せるなり。徳之島の状況を聞く。
 昨一日、山本明彦少尉出撃、大型輸送船に命中、轟沈せりと。
 今二日払暁、隊長、小島伍長出撃、戦果は未だ知れず。
 尚30日、我と同行せる滝村少尉の消息に関しては依然として不明なり。燃料尽きて海中に没したるやもれず。嗚呼……
 十六時、三十振武隊と共に単機を以て同行するも、誘導機故障のため再び帰還せり。あくまで武運に恵まれざる我よ。
 三十振武隊と共に明日の出撃をはかる。
   散る花とさだめを共にせむ身ぞとねがひしことのかなふ嬉しさ  >
 
<昭和20年4月4日
 寺沢軍曹、代機を得る。
 整備完了を待ちたる上、三機にて出発せむとはかり参謀に具申す。参謀諾せり。我隊の整備員六名来る。何れも優秀なる者のみなり。整備の完璧を期せむ。
 昨日到着せる柴田軍曹を入れ、合せて七名なり>

 前田笙子(知覧高女三年、十五歳、特別攻撃隊担当)の手記──
<昭和20年4月6日
……整備の方の吹く尺八をきいてゐると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受け持ちだつたのだが、兵舎が離れてゐて飛行機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろひをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分のも」と言つて、つくろひ物で午後からは精一杯だつた>

穴沢利夫の日記──
<昭和20年4月8日、曇
 夕べ、大平、寺沢と月見亭に会す。憶良の「酒を讃へる歌」を思ひ出す。たまにはよきものなり。
 しつとりと雨に濡れる若葉の道を一人歩いてみれば、本然の性格が心の中で頭をもたげてくる。忘れてしまふには余りにも惜しい思ひ出の多くが俺の性格のかげから一つ一つ覗き出る。過去のない男、世の中にそんな男があれば春雨も降りはしまい。若葉も南国の春を伝へまい。
 過去、現在、未来と時は流れ、人間に歴史を与へてゆく。悠久なるものへの憧れを持ちながら渺(ベウ)たる時を楽しみ、現在を設定し過去と未来をもつ。矛盾したことと笑つてはいけぬ。果てしない時も、世間の人は己が人生五十年と同じ長さにきり測れないのだから。
 俺も世間の人、こんな短かかつた生涯の上に過去があり現在がある。人間の都合とか便利とかで永遠なるものを切り断つてはなるまいに。
 三十振武隊の整備の下士官が竹を切つて横笛を作つてゐる。
 火箸を焼いては一つ一つ穴をつけてゆく。間もなく出来上る時を頭に描いてか、時々嬉しさうに口元を綻ばせる。
 一つ穴を開けては火箸を火の中に突つ込み、赤く焼けるのを待つ間、吹鳴する時のやうに指をあて唇を当ててみたりする微笑ましい様子に、傍から覗きこみながら、かつて智恵子が「歌を詠みながら戦ひをする日本人はなんと幸福なことでせう」と書き送つてあつたことをふつと思い出した。
 陣中にある将兵が歌を詠み、あるひは楽の音を楽しむ、静かな半面をもつ人間は確かに人間として豊かな人であるに違いひない>

<昭和20年4月9日
 終日、雨降りしぶく。
 長与善郎著「自然とともに」読み始む。
 万葉集読みたし。
 詩を読みたし>

<昭和20年4月11日
 明12日、出撃と決定す。
 幸、天候も回復せり。
   ふるさとに今宵ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらむ(菊池武時)>

前田笙子の手記──
<昭和20年4月11日
 晩、二十振武隊、六十九振武隊、三十振武隊のお別れ会が食堂であつた。特別九時まで時間をもらつて給仕をする。
 みんな一緒に「空から轟沈」の歌をうたふ。ありつたけの声でうたつたつもりだつたが何故か声がつまつて涙があふれ出てきた。森要子さんと「出ませう」と兵舎の外に出て、思ふ存分、泣いた。私たちの涙は決して未練の涙ではなかつたのです。明日は敵艦もろともになくなられる身ながら、今夜はにつこりと笑つて、酔つて戯れていらちうしゃる姿を拝見して、ああ、これでこそ日本は強いのだと、あまりにも嬉しく有難い涙だつたのです。それなのに、私たちが帰るとき「お世話になつた、ありがたう」とお礼をいはれた。なんと立派な方々ばかりでせう。森さんと抱きあつて、また、泣いてしまつた>

<昭和20年4月12日
 今日は晴れの出撃、征(イ)きて再び帰らぬ神鷲(シンシウ)と私達を乗せた自動車は誘導路を一目散に走り、飛行機を待避させてある取違(トイタゲ)地区までゆく。途中「空から轟沈」の歌の絶え間はない。隊長(池田了)機の擬装をとつてあげる。腹に爆弾をかかへた隊長機のプロペラの回転はよかつた。隊長さんは私たちを始動車にのせて、戦闘指揮所まで送つてくださつた。出撃なさる直前の慌ただしい最中なのに、どこまでやさしい隊長さんでせう。
 始動車の上から振り返ると、特攻機の、桜の花にうづまった操縦席から手をふつていらつしやる。
 始動車から降りて、桜花の枝を握つて準備線に駆けつけたとき、六十九振武隊の隊長機はすでに滑走しようとしてゐる所だつた。遠いため走つてゆけぬのが残念だつた。隊長機のあと、ブンブンうなりをたてた岡安機、柳生、持木機の九七戦が翼を左右に振りながら飛び立つてゆく。
 つづいて離陸する二十振武隊の穴沢少尉さんの隼機が、目の前を地上滑走して出発線に向つてゆく。私たちが一生懸命にお別れの桜花の枝を振ると、につこり笑つた鉢巻姿の穴沢さんが、何回も敬礼された。
 特攻機が全部飛びたつたあと、私たちはぼんやりと、いつまでも南の空を見あげてゐた。涙が、いつかあふれ出てゐた。抱きあつて、しゃがみこみ、みんなで泣いた>

穴沢利夫の遺書──
<数刻後に出撃を控へ、今日までの御家内皆々様よりいただいた御芳情に、遥か九州南端の基地より御礼申上げます。
 万感胸をつき「皆様どうぞお健やかに」と願ふ以外に術(スベ)がありません。
 同封の書簡、智恵子様に御渡し下さい。
 御尊父様、御母堂様にもお礼のほど宜敷く御伝へ下さい。
    昭和20年4月12日
   孫田健一(智恵子の兄)様>

<智恵子へ
 二人で力を合わせて努めて来たが終(ツイ)に実を結ばずに終つた。
 去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処(トコロ)を変へつつ多忙の毎日を送つた。
 そして今、晴れの出撃の日を迎へたのである。便りを書きたい、書くことはうんとある。しかし、そのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。
 あなたの御両親様、兄様、姉様、弟様、みんないい人でした。いたらぬ自分にかけて下さつた御親切、まつたく月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言つておきます。
 今は徒(イタズラ)に過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。
 常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることを信ずる。
 しかし、それとは別個に、婚約をしてゐた男性として、散つてゆく男子として、女性であるあなたに少し言つて征きたい。
「あなたの幸を希(ネガ)ふ以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘(カカハ)る勿(ナカ)れ。あなたは過去に生きるのではない」
「勇気をもつて過去を忘れ、将来に新活面を見出(ミイダ)すこと」
「あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界にはもう存在しない」
 極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活(イ)かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。
 ──当地はすでに桜も散り果てた。大好きな嫩葉(ワカバ)の候が此処へは直(ジキ)に訪れることだらう。
 いまさら何を言ふかと自分でも考へるが、ちよつぴり欲を言つてみたい。
 一、読みたい本
  「万葉集」「芭蕉句集」高村幸太郎の「道程」、三好達治の「一点鐘」、大木実の「故郷」
 ニ、観たいもの
   ラファエルの「聖母子像」、加納芳崖の「悲母観音」
 三、聴きたいもの
   懐かしき人びとの声  シュトラウスのワルツ集
 四、智恵子
   会ひたい……話したい……無性に……>
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特攻隊員の手紙・日記とひめゆり学徒隊女生徒の手記NO2

2020年03月27日 | 国際・政治

 私は、「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)を読んで、随分前に読んだ「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)を読んだ時と同じことを感じました。

 それは、特攻兵もひめゆり学徒隊の女生徒も、天皇崇拝の徹底した社会環境のなかで育ち、日本の戦争の現実的な動機や実態についてはほとんど知らされることなく、言われるままに、ただひたすら”皇国日本の聖戦”を信じていたということです。

 その”聖戦”を、昭和天皇の「人間宣言」と呼ばれる「新日本建設に関する詔書」の言葉を借りて表現すれば、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”に基き、粉飾され美化された戦争であり、実際に戦われている戦争とは違ったものであったということです。

 沖縄戦で地獄の苦しみを味わったひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子学徒隊)女生徒の手記は、そうしたことを感じさせます。

例えば、米軍が間近にせまって来た時の上原当美子の手記には、

皇国の女性だ、死ぬのならいさぎよく死にたい。亡くなった学友に対して恥ずかしくないように…”

とあります。

 また、福地キヨ子の手記には

勝つまでがんばると思っても、いつ死ぬかわからない。どうせ御国にささげた命だ。先生や学友の敵(カタキ)をとってから死にたいと思うわ

 とあります。

 

 久田祥子の手記には 

この十三名は月に向かって「海ゆかば」を歌った。明日は喜屋武の海で水漬く屍となるか、あるいは上里の草むらで草むす屍となるかもしれない。全霊を込めて歌った。人生わずか二十年。祖国日本のため大君の御楯として立つことのできる誇りがあった。私たちの気持ちは大きかった。死にも光明をいただいていた。

とあります。”大君の 辺にこそ死しなめ”という「海ゆかば」を本気で歌っているのです。

 

 また、山城信子の手記にある下記の文章も見逃せません。

座波千代子は看護婦合格者であったので、看護婦と行動をともにしていた。宮崎久江婦長は三十余名の看護婦を集めてはかった。

「まことにみなさまにご苦労をかけました。いよいよ解散となりましたが、われわれはみんなそろってこの壕で玉砕すべきでしょうか、それとも解散したほうがいいでしょうか」

 あまりに重大な最期の決断に、誰もがちゅうちょして答えなかった。しばらく沈黙がつづいた。

「兵隊といっしょに、ここで玉砕したほうがいいと思います」

 一人が口をきった。

「そうです、私たちは解散するのはいやです。このまま壕にとどまりたいと思います」

 誰一人として反対する者はいなかった

 

 軍人ではなく、人の命を救うことが仕事の看護婦の集団が、逃げきれないと判断して、そろって玉砕することを選んでいるのです。降伏すれば、誰一人死ぬことはないのに、玉砕を選んだのは、”天皇ヲ以テ現御神”とした皇国日本の架空の観念によるのだと思います。

 歴史の事実を無視した皇室神話によって構築された皇国日本の人命軽視は、本当に恐ろしく、私は明治維新によって、日本という国が野蛮なカルト集団に乗っ取られた結果のような、そんな気がしています。

 

 さらに、垣花秀子の手記には

米軍は野獣だ。婦女子をはずかしめる。陸軍病院の壕の中で、兵隊からたえず聞かされていた

 とか、

「デテコイ! デテコイ!」

と米兵の異様な声音と口調。

「大和撫子が捕虜に? とんでもない。死のう」

 私たちはとっさに死を決心した。いつの間にか十二名が車座になり、三個の手榴弾が適当に配られた。ひと思いに死ぬ。これが最期の願いであった。”

 とか

 神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ

 とかあるのです。

 米軍の戦争行為の不当性に対する怒りや、米軍と戦わなければならない理由などはどこにも書かれていませんが、女生徒にとっては、日本の戦争は”聖戦”だったのだと思います。それは、皇室神話に基づく軍国教育が徹底していた結果ではないかと思います。

 

 しかしながら、実際に米兵と接触すると、

そのときであった。私の近くで、とうちゃん、とうちゃん、といって子どもの泣き声がした。見ると、やっとヨチヨチ歩きのできるぐらいの男の子である。両足を開いて銃口をかまえているもう一人の米兵の片方のズボンのはしにつかまって泣いていた。

 私はハッとした。邪険に米兵にけ飛ばされる男の子の無惨な姿を思って目をつむった。ところが意外に、米兵は銃口はそのままにして、温顔をほころばせながら、ドント クライ ベビー、ドント クライ ベビーと、男の子をふり返り、ふり返り、まるで鼻歌を歌っているように、リズミカルにやさしくささやくのである。

 ・・・

 これが鬼畜米兵か……。私の先入観は、頭の中でぐらついた。が、すぐまた否定した。偽善だ。勝者が敗者に対する優越感からくるみせびらかしであると──

 と、教え込まれた”鬼畜米英”を疑うことになるのです。

 

 比嘉園子の手記にも

そこからまたジャングルにはいり、草原を通ってあるについた。そこには、すでに捕らわれた人々がいっぱいあふれていた。その中を、米兵があちこちとかけまわって、せわをやいているようであった。子どもが泣けば菓子をやってなだめ、水といえばニ、三人の兵隊がいちどにコップを持って来る。このふしぎな光景に、全くとまどった

 とあります。多くの女生徒が、実際に米兵と接触して、教えられていた”鬼畜米英”に、疑問を感じるようになったのだと思います。

 

 また逆に、”聖戦”と信じて来た日本の戦争の現実に触れた思いも綴られており、金城素子の手記には、

 ”生きるか、死ぬかという瀬戸際にあっても、男性というものは野獣みたいに欲望をまる出しにしてくるので、とてもこわかった。しかし、わたしたちは、引率の先生がいちいち監視して下さり、また軍医がとても厳しい方だったので、その点では安心であった。戦場での女性の一人歩きは、その意味でもこわいものであった

 とあります。

 

 また、座波千代子の手記には

 南風原陸軍病院壕にいたときから、満州の戦いに疲れて転進し、人間性をすっかり失い、獣欲にうえた兵隊のみにくい姿をいやというほど見せつけられた。看護のつらさや、砲弾よりもくされきった兵隊のほうがもっとこわかった。

 あるとき、壕の中で近くにいる兵隊の軍刀をこっそりぬいて見た。鋭いきっさきに肝をひやすものとおそるおそるぬいた私は、驚きあきれた。刀はまっかにさびついているのである。刀も兵隊もくされきっている。これが皇軍か。これで戦争に勝てるものかとつくづく思った

 とあります。

 否応なく沖縄戦に巻込まれ、現実の戦争を知って、”聖戦”にも”鬼畜米英”にも、疑問を感じるようになっていったのだと思います。

 

 下記は、前頁の「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)「第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし」の続きです。

 どこを読んでも、穴沢少尉が誠実で優しく、優秀な若者であったことがわかります。  

 でも、そんな彼が命を捧げた日本の戦争は、皇室神話に基づき美化され粉飾された戦争であって、実際の戦争は、欲深い日本軍や政府の一部指導者が”天皇=現御神”を利用して画策した”野蛮で醜い侵略戦争”であったと思います。

 

 だから、「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者の、下記の記述はきわめて重要だと、私は思います。

いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。” 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<智恵子へ

 12月に入つてから思ひもかけず大阪の地から手紙を差しあげるといふ、ただそれだけに非常な喜びを感じつつ、二人の間にどこまで偶然がつきまとふだらうかとも考へながらしたためてゐます。

 さうした自分が思ひがけぬ時、しかも何時(イツ)までとも測り知られぬ時に恵まれて、ゆつくり筆を執ることが出来ました。

 所詮、いつとはわからぬまでも、おそらく近い中(ウチ)に還らざる任務に就く自分には、話したいことのみ多く、筋を立てて話すことは出来ないまでも、やはりあなたと直(ヂ)かに二人きりでお話する意外に手はないやうです。

 こちらからお訊ねすることの出来ないのを非常に残念に思ひます。

    昭和19127日    >

 

<智恵子へ

 柏原の駅に(あなたを)送つた翌日、轟々(グワウグワウ)たる爆音を生駒、二上、金剛の懐かしき峰々に沁み込ませつつ由緒深き河内を後にしました。途中、雲と悪気流に悩まされはしたものの士気旺盛にて到着。白雪におほはれたる鈴鹿の山々を渡り、谷に荒び吹き寄せる寒気激しき空つ風の中を連日猛訓練に精進中。御安心のほど。

 幸ひ、亀山の町に戦友と二人で下宿をもとめ、一日の疲労を家族的雰囲気の中に慰して畳の上での地方気分を楽しんでゐます。

 襟巻は現在持つてゐるものの中で、唯一のあなたの身につけたもの。感ひとしほで四六時中愛用致しをり、戦友の冗談も馬耳東風(マフラーになりたい等と言ふ勿れ)。元気で。

      昭和191216日    >

<智恵子へ

 取敢へずしたためます。

 あなたの書面に接し感謝の心でいつぱいでした。

 読みながら、読んだ後、唯々あなたと小生の誠心を、かたい絆を以てしても頑迷な(両親の)心を動かし得なかつたことを改めて知り、悲痛に近い無念さを感ずるばかりです・・・

 小生は一つ一つと世代を形成してゆく無限の時の流れを思ひます。小生は心の慰安所をひたすらに無限のもの、悠久なもの、広く大きなものに求めます。

 すべての些事を忘れ去り、没我の境にあつて縦横に愛機を駆り得る大空の広さを喜びます。

「大空は魂の故郷」といつかあなたは言ひました。

 愛機は操縦者の魂を宿します。飛行機は確かに生き物です。小生は愛機と共に「大空を飛び廻つてみろ」と世の人に叫びたい気持ちです。あらゆる私心と欲情をきれいさつぱりわすれさせたいものです。

 筆は中心を外れましたけれど、小生は自己の考へを両親の考へ──広くは大人たちの考への中にまるめ込まうとは思ひません。

 許されねば許されぬでもよい。自分の考へを押し通して、きれいに見事に散つてゆきたいばかりです。

 小生は今までの生活を胎児時代としか考へません。これからを永久に生きる魂の躍り出す時代と信ずるのです。

「別個のはつきりした方針は見出されない」と先に言ひましたけれど、小生は策は弄しません。

 あなたの来られるまで明瞭な解決を見付け出しておきます。

 それまでは考へを整理しておきませう。電報さえ打つて頂ければ喜んでお待ちします

    昭和202月(初旬)  >

 

<智恵子へ

 短時間ながら、あなたの家の雰囲気の中であなたと共にあつたといふことが、どんなに私の心を満たしてくれたことか。

 ほんとに良い人びとを持たれて羨ましく思ひます。

 昨日の晩、品川駅までの途(ミチ)すがら”ヨイショ、ヨイショ”と荷物の片方を持ちながら”ああ面白い”とも言ひながら雪を浴び、積つた雪を踏んでゐたあなたの姿が、遠い昔に読んだ童話の中にでも現れて来さうな気がしてなりません。

 まつたく素晴らしい楽しい一時でした。

 あなたと共にあることが、私にとつて最上の幸ひであることを改めてしみじみ感じてゐます。そして私自身の気持ちをみえないもので伝へてくれる神、それらを私は今しづかに信じてゐたいと思ひます。

 ありつたけの感情に、乏しい理と知を交へて、あなたを愛しつづけて来た私が、どうしてこのままで……

 わたしの気持にひきかへ、あたりは余りに静かすぎます。

 安着の報のみに留める筈だつたのに、例によつてまとまりのつかぬ儘(ママ)かきました。

 今朝お訪ねした大平少尉、小島伍長、共によろしくとのことでした。御元気で。

    昭和20226日   >

 

<智恵子へ

 書くこともなしに筆をとつたが、つまりは手紙を書くことによつて幾分でもたまらない気持を和げたいと希(ネガ)つたからに他ならぬ。

 昨夜来、いまだに降りつづける小雨も春の訪れを告げる。誰かが言つた「かうなると、あの素晴らしい青葉、若葉の頃までみて死にたくなつた。段々欲が深くなつて困る」と。

 大事の前には未練がましいと捨てさるものではあるが、誰しも心底に抱いてゐる真のそして悲しい願ひであると思ふ。

 いま丁度二十時。傍らの大平がよろしくとのこと。今晩は三人だけ。静かである。呉々(クレグレ)もお元気で。

   わが生命につらなるいのちありと念(オモ)へばいよよまさりてかなしさ極む 

   粉とくだく身にはあれどもわが魂(タマ)は天翔(アマガ)けりつつみ国まもらむ   >

 

岩尾光代の語る──

「二人の結婚話は、三月に入ってようやく両親の許可を得ました。

 その報告に利夫が、東京港区の智恵子の家を訪ねたのは39日。利夫はその足で目黒の親戚へまわりました。その晩、東京大空襲です。二時間四十分のあいだ十万人近くの生命を奪ったB29ニ三四機が、東京の空を蹂躙し、智恵子は利夫の身を案じてまんじりともしませんでした。

 夜明けとともに目黒へ歩いて向かった智恵子は、大鳥神社のあたりで、向こうから歩いてくる利夫にバッタリ出会い、二人はそのまま目黒から国電に乗りました。電車は、もうあふれるほどの混雑で、身体(カラダ)は斜めになったまま離れ離れ、あまりの息苦しさに、智恵子は大宮飛行場へ戻る利夫を車中にそのまま残し、池袋駅で降りてしまいました。これが二人の最後の別れになりました。この最後の訪問のときに智恵子は、ムシが知らせたのか利夫のタバコのすいさしを二つ、大切にとっておきました。

 ……だが、智恵子はそれを知るのは、まだ先のことです。

 結婚式は315日、亀山で、と決まりましたが、316日、隊長夫人から速達が来ました。隊が都城へ移転したこと、都城で一ヶ月は暮らせるはずだから連絡するまで智恵子と亀山で待つように、という隊長の言葉を伝え、急ぎ亀山に来るように、との内容でした」

 

穴沢利夫の日記──

<昭和20316

 北伊勢(亀山)を離る。

   ますらをの首途(カドデ)送るか梅の花

<昭和20316

 一昨16日より演習のため大分飛行場に出張せり。

 本払暁より警報。機動部隊来襲せるなり。

 午後、爆撃を受く。おほむね四十分にわたり反復附属施設爆撃され、一挙にして姿無し。

 来襲機数十余機にして取るに足らざるものなるも、われに遊撃機一機としてなく、彼のほしいままに任せざるを得ざる状況にして無念やるかたなし。

 せめて二機なりとあらば、不十分なるも妨害し得たるものを、返す返すも残念なり。投下爆弾は五十キロ、二百五十キロの両種と想像せらる。

 十六時頃、グラマン五、六機来り、掃射を加ふ。大型機数機、被爆炎上せり>

 

<昭和20319

 警報。B29、艦載機、中国、近畿地区を襲ふ。

 二機来る(山本《英》、滝村)。

    梅が香に小径たどれば海開く   >

 

<昭和20322

 朝来、春雨にけぶり、四囲の山々ことごとく薄雪におほはる。昼近く隊長殿以下三機来る。午後、演習準備せるも雨のため中止。夕刻にいたりバス利用、防府(ボウフ)市にいたり駅前、石田屋旅館に投ず。一行、隊長殿以下五名なり。(吉田《市》、山本、滝村、小官《穴沢》)。窓をひらけば小山真近に迫り、春雨に濡れる。

 街の屋並は恰も温泉町を思はせる風情ひとしほなり。茶を啜りつつ之を眺むる吾人は近く出撃の神機を捉へ華と散る身なりやと怪しむばかりなり>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特攻隊員・穴沢利夫少尉の手紙・日記・遺書と二つの戦争NO1

2020年03月21日 | 国際・政治

 安倍首相は「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)のなかで、「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)に掲載されている特攻隊・第20振武隊・穴沢利夫少尉の日記を引き、下記のようなことを書いていることに、前回ふれました。

たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。
 わたしたちは、いま自由で平和な国に暮らしている。しかしこの自由や民主主義をわたしたちの手で守らなければならない。そして、わたしたちの大切な価値や理想を守ることは、郷土を守ることであり、それはまた、愛しい家族を守ることでもあるのだ。

 私は、事実に基づけば、こうした理由で先の日本の戦争を正当化することは歴史の修正だと思いますし、再び戦争を想定して”日本を守る(?)ためには、命をなげうって戦うべきだ”というような安倍首相の考えに驚き、「今日われ生きてあり」神坂次郎(新潮文庫)を読んでみました。そしてそれは、著者の思いとは異なるものであると思いました。著者は、自らの死を従容として受け入れ、取り乱すことなく特攻機で飛び立っていった若者の思いに心を寄せつつも、だからといって、先の大戦を美化するようなことは言っていないからです。

 解説で高田宏氏も触れていますが、穴沢少尉と同じ東京陸軍航空学校で学び、生き残ったことに後ろめたさがあるという「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者・神坂次郎氏は、下記の様に書いています。

父に逢いたくば蒼天をみよ
 国華隊の隊員たちは、十八、九歳から二十三、四歳までの若者であった。かれらは師とも兄とも仰ぐ歴戦の名戦闘機乗り渋谷大尉の行動そのままに、出撃にあたっては殊更に遺書を残すこともなく、まるで飛行訓練にでも出かけるように、永訣の盃を酌みかわし、同期の桜を唄ってたがいに肩を叩きあい、悪天候の沖縄海域の米機動部隊にむかって突入していったのである。
「われは石に立つ矢……」
 いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。”

 著者は、安倍首相と違い、多くの若者を”石つぶての如く修羅に投げ”こんだ、先の戦争の”醜”の部分をしっかりと見ているのです。

 また、「素裸の攻撃隊」と題した文章の中では、
このB29の白昼の東京上空侵入の屈辱に歯ぎしりした第十航空師団は、みずからの面目をたてるために11月7日、隷下の各戦隊に特別攻撃を命じた。特別とは、「一死をもってこの任(B29撃墜)を達成せよ」という百中百死の攻撃命令であった。
 一、敵B29は昨今しばしば高々度をもって、帝都上空に来襲す。
 一、師団は特別攻撃隊を編制し、これを邀撃せんとす。
 一、各部隊は四機をもって特別攻撃隊を編成し、高々度で来襲する敵機に対して体当たりを敢行し  これを撃墜すべし。
 この特攻隊は、防衛総司令官東久邇宮稔彦王大将により「震天制空隊」と命名された。
だが、特攻は戦術ではない。指揮官の無能、堕落を示す”統率の外道”である。

 と書いています。先の戦争で、思いやりに満ちた誠実な若者が、”統率の外道”によって命を投げ出すことになったのだということだ思います。

 同書は大部分、特攻基地知覧を飛び立っていった特攻隊員の手紙や日記、遺書と彼等を見送った人たちの文章で埋められていますが、ところどころに著者がこうした思いを綴っています。下記もその一節です。

マラリアの発作の起こる直前の、昏(クラ)くなる意識のなかで、青野の躰が、ぐらっとよろめいた。
草の根を踏んだ足が滑って、重心を失った青野は、そのまま仰向けざまに泥の川に倒れた。
(サルミへ、早く行かねば……)
 ──だが、そのサルミ基地への転進を叫んで戦隊員たちに希望をを与えた垂井大尉は、すでにこの世にいない。半月まえ、P51の銃撃をうけて密林のなかに斃(タオ)れている。そしてそれよりも、六十八戦隊員たちが目指したサルミ基地に、航空部隊七千人の最高指揮者で第六飛行師団長稲田正純少将の姿はなかった。
 敵前逃亡であった。はるか以前の4月22日、アメリカ軍のホーランディア上陸に恐怖した稲田師団長は、ニューブリテン島からニューギニアへ展開して苦闘をつづけている航空部隊を置き去りにして、サルミからマニラへ遁走(トンソウ)してしまっていたのだ。
 将軍の敵前逃亡、戦場離脱はこの稲田だけではなかった。おびただしい数の若者の命を、石つぶてのごとく特攻に投じ、その壮行にあたっては、
「大丈夫ひとたび死を決すれば、ために国を動かす。諸子ひとりの死は皇国を動かし、世界を動かすものである。諸子の尊い生命と引きかえに、勝利の道を開けることを信じている。それでもなお敵が出てくるならば、第四空軍の全力をもって、諸子の後につづく。この富永も最後の一機で行く決心である」
 と刀を振りあげ、口舌にまかせて激励し、いったん戦況不利となるや将兵をすて、フィリピン、エチャーゲ飛行場から護衛機四機に守られ台湾に逃走し、北投温泉に逃げた四航軍司令官富永恭次中将もいる。
    陸軍刑法
 第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽すへき所を尽サスシテ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス

 ・・・
             ※
 ニューギニア戦線の銀蠅街道から生還する者、第十八軍の将兵十四万のうちわずか一万三千。航空部隊七千のうち五百。そのほとんどが餓死であった。

 安倍首相は、こうした記述には関心がないのでしょうが、著者が、なぜここで”死刑ニ処ス”という陸軍刑法を引いたかを、また、わざわざ※印で区切って、”餓死”の事実を明らかにしているのかを、深く受け止める必要があると、私は思います。

 下記の 手紙や日記や遺書の文章はどれも、誠実で思いやりに満ちた穴沢少尉の人間性が感じられます。
 だから、私は、穴沢少尉などが命を投げ出す決心をした戦争は、日本軍や政府の指導者が都合好く粉飾し美化したまやかしの戦争であって、現実の戦争とは異なるものだったと思います。日本の戦争の実態や不都合な事実は、報道統制や検閲その他によって、全く国民に知らされていなかったわけですし、軍命や日本の戦争の正当性を疑うようなことが許される世の中でもなかったと思います。同書に、著者が”統率の外道”と断じた特攻作戦の是非を疑ったり、問うたりする特攻兵の記述がないのは、そのためだと思います。
 当事、報道班員として数多くの特攻隊員を見送ったという作家の戸川幸夫が”彼らは神々しいまでに純粋だった”と述べたといいますが、そうした特攻兵は、指導者によって都合よく粉飾され美化されたまやかしの戦争を、”御国(日本)”のための戦争と信じ、”国護る身”であるので”大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ”の思いを抱いて、飛び立っていったのではないかと思います。
 そうしたことは、穴沢利夫にかかわる「第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし」だけでも察せられるのではないかと思います。下記は、その全文NO1です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   第一話 心充(ミ)たれてわが恋かなし
岩尾光代の語る──
 「タバコの吸いさしが二ツ。戦後38年経って、巻紙は変色し、銘柄ももう定かではありません。
 伊達智恵子にとって、この”吸いさし”が婚約者だった第二十振武隊の穴沢利夫少尉(特操一期)の遺品なのです。
 ふたりが交際を始めた昭和17年1月。その前年、当時、文部省図書館講習所の生徒だった智恵子は、夏季講習の東京高等歯科医学校図書館で、二つ年上の利夫と知り合いました。利夫は、図書館講習所を卒業して、中央大学の学生でした。
 交際といっても、ほとんどが手紙の往復。学生の男女がつきあうなどということは『はしたないこと』とされていた時代のことでした」

 穴沢利夫(少尉、第二十振武隊)の手紙──
<智恵子へ
 陸鷲志望について「我儘ばかり申して申訳なく……」とあなたに言わせた僕は全く果報者でした。僕は今自分の希望を達し、十月一日に陸鷲として入校することに決定しました。採用許可の喜びに心は踊りながら、電車の吊革に下りながら窓に映る自分の顔を睨み続けてゐるうちに、魂の底深く焼きつけられたあなたの顔が何度となく重なり合ってきました。
 万葉集にこんな歌がありました。
   ますらをと思へる吾や水茎の水城の上に涕(ナミダ)拭はむ
(ますらおだと思っていた僕も、あなたとの別離が悲しく、〔水茎の〕(枕詞)水城<みずき>のうえで、涙を拭わざるを得ないというような意味の、大伴旅人の歌)
 かつてなかった喜びに言い現すべくもない気持ちでありながら僕は今この歌と同じ気持ちを味はつてゐます。
 でも僕は安心して行くのです。
 僕が唯一最愛の女性として選んだ人があなたでなかったら、こんなにも安らかな気持ちでゆくことは出来ないでせう。亦とない果報な男であつたと再び言ひます どんなことがあっても、あなたならきつと立派に強く生きてゆけるに違ひないと信じます。
 山本元帥の尊い死、近くは竹の園生(ソノフ)の御生れでありながら一将士として散華された伏見伯、どうして僕等が生きてゐられませうか。若い熟しきつた今にも奔流せんとする血潮をどうして押へておくことが出来ませうか。
 僕等が現在、祖国の運命を左右せんとする航空決戦に赴かんとするのは全く自然の勢いです。已むに已まれぬものなのです。
 僕は今あなたとの交りを一つ一つの思い出で以て生き生きと甦らせようとしてゐます。
 あなたが、”ぐらぢをらす”を持って来て図書室の花瓶にいけてくれた日の夜、僕は誰もゐない部屋でそれを写しました。(同封します)
 今年に入って一月二十四日の日曜のことは……「大事なこと」と前置きして話してくれたこと。……僕はやつぱり、あなたとの生活を夢見続けてゐたのでした。馬鹿なことだつたとあなたは言い切れますか。
 でも、僕にとつては自分の将来の生活は、あなたとの家庭生活以外に想像し得なかつたのです。
 然し、いまの僕は未来の世界を信じませう。きつとそこで結ばれるに違ひない未来の世界を信じます。
 病気で九州へ去つた時、僕は生まれて初めて祈りの心を知りました。祈らずにはゐられない気持ちを。
 実に幸福感に満ちた一日一日を送り得た一年半の生活でした。すべてはあなたがあつた為に。
 わずかな時間を見付けて図書室へ度々寄つてくれたあなたに何と言つて感謝してよいものでせうか。
「もう帰ります」と言はれてがつかりはするものの、その後にこみ上げて来る嬉しさ。
 あなたの魂のみはしつかり胸に抱いて、他はすべて地上に還して、あの大空へと飛び立ちませう。
 一年後の今日、僕の姿を北か南か大陸か果たしてその何れに見出し得るでせうか。
  すでに時刻はかっきり十二時、今夜もまたあるかなしかの微風が部屋に涼しく流れこんで来てますし、蟋蟀(コオロギ)が暗闇の中で鳴いている晩です。
 あなたの面影のみ去来する頭を、そつと休ますべき時刻になつてゐます。
 ひたすら御自愛を祈りつつ。
  決意 
   数ならぬ命なれどもおほろかに思ひはすまじ国護(マモ)る身なり
   去り行きて行き極めなむ吾がゆくはみなますらをの道にしあらば
  あなたに献(ササゲ)げます。
   冬来なば春遠からじといふものを雄々しく生きよ我護(マモ)らむぞ。
       昭和18年9月6日夜>

岩尾光代の語る──
 昭和18年10月1日、中央大学を繰り上げ卒業した利夫は、陸軍特別操縦見習士官第一期生として、熊谷飛行学校相模教育隊へ入隊。
 やがて、昭和19年春、利夫は台湾高雄の台湾第四十部隊に配属されて赴任。半年後に内地へ戻って飛行第二四六戦隊に転属。ここから選抜されて特別攻撃隊である第二十振武隊員となりました。
 このころには二人の結婚話が現実化していましたが、福島県駒形村に住む利夫の両親は、この結婚に反対していました。陸軍将校は、教育総監の許可がなければ、正式な結婚は出来ない。申請には親の同意が必要でした。
 ……智恵子は、2月13日の夜汽車で三重県亀山に利夫を訪ねました。利夫を訪れた智恵子を見て第二十振武隊の長谷川実隊長は、なんとか二人を結びつけたいと旅館、朝日屋に別室をとってくれました。
 別室とはいつても、大広間。部屋に入るとポツンとふとんが一組だけ敷いてあり、突然のことで、二人はびっくりしましたが、智恵子は、連日の猛練習で疲れ切っている利夫を、一刻もゆっくりと休ませたいと、ふとんに利夫を寝かせ、傍らに座ったまま、夜通し子守歌を唱(ウタ)いつづけました。智恵子は、着たきりスズメのモンペ姿。母の心づくしで、モンペとしては最上等の絹の茶絣(チャガスリ)。物のないときのこと、なけなしの香水がなによりの身だしなみでした。
 翌朝6時、まだ暗いうちに、軍服を身につけた利夫は兵営に帰っていきました。凍てついた2月の空に輝く明けの明星が、智恵子の目にいまも焼きついています。帰京後、智恵子は利夫に宛てた手紙の末尾に歌を書きました。
  わかれてもまたもあふべくおもほへば心充たれてわが恋かなし   智恵子」

穴沢利夫の手紙
<智恵子へ
 8日の朝は最後の面接にしては余りに短かすぎた。その上、万感胸に迫り、語らんとして語り得なかった。
 しかし、自分の気持ちはきつとあなたの心に響いてくれたに違ひない。自分は心から「智恵子よ強く、そして明るく生きよ」と祈りつづける。いつまでもいつまでも、自分はあなたの生きてゆく正しき姿を見守ってゆく。
 いまさら言ふべきこともない。自分は過去に於て想像もし得なかった最大最高と誇り得る任務につき得た事を喜ぶのみ。
 あなたからのマスコットはあなたの分身に違ひない。常に懐中に秘めて力の限り愛機を駆らう。
 最後に、前途の多幸を希(ネガ)ひつつ、”さようなら”を告げる。
   昭和19年3月11日    >

<智恵子へ
 小雨の中に(あなたを)送つたあとに、しょんぼりした。たまらなく物足りない。しかもいらいらした感情の交錯に情けない程弱くなった自分を見出す。
 任官間もない天下の見習士官が、戦闘健児が、かつて南十字星を望み友と感傷を語り合つた時も、黝(クロ)い山腹に見る蛮舎の火を眺めて虫の声に耳をかたむけた時も、今日ほど弱い自分を見出したことはなかった。
 しかし自分は、明日からの生活に今日の感情の残りが見られる程の生ぬるい鍛え方をされて来なかったことを幸に思ふ。じつに台湾での生活は、飛行機が参るか人間が参るかといふ劇(ハゲ)しい毎日だったのである。自分は無駄にその毎日を経て来はしなかったのである。
 明日から又、今日の感傷を洗い去り、”マスコット”を抱いて勇敢に訓練するであらう自分を信ずることができる。
 わざわざ遠く一人で訪ねてくれた心に対し、なにも言い得ない程の感謝の念で一杯である。
 お互ひの感情が、自分がここにかうしてゐる以上は、かならず実を結ぶに違ひない。自分は形となつて現はれたる結実が、自分の私的面の最大の希(ネガ)ひであることを明らかに茲でつけ加へねばならぬ。
 満月の晩の月をみる件は、清らかな月を二人で同じ気持ちで眺めるといふ率直な解釈をして次の十五夜を待たう。
 久し振りで懐かしいペンを握つて実に嬉しいと思ふ。
   ひとりとぶもひとりにあらずふところにきみをいだきてそらゆくわれは
      昭和19年9月23日    >

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍晋三著「新しい国へ…」をもとに安倍政治を考える NO5

2020年03月15日 | 国際・政治

 安倍晋三著の「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)の「第三章 ナショナリズムとはなにか」の”「公」の言葉と「私」の感情”と題された文章には、安倍首相の考え方の根本的な問題点が読み取れると思い、その全文を、同書で中略とされた部分も赤字で加えて、考えたいと思いました。
 安倍首相はここで、『今日われ生きてあり』神坂次郎著(新潮文庫)から、鷲尾克己少尉(1945年5月11日 神風特別攻撃隊第55振武隊員として特攻攻撃のため出撃)の日記を引いています(下記)。
 そして、”国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは…”と書いているのですが、当時23歳の鷲尾克己少尉は、敗戦濃厚な1945年になって、佐賀県目達原基地で訓練中に集められ、上官から突然「今日から全員が特攻隊である。ただし、技術優秀な者から先発する」と、特攻隊員を命ぜられたといいます。
 戦争は自然災害ではないのです。避けることができたはずですし、特攻作戦も作戦の一つに過ぎず必然的なものではなかったと思います。でも、安倍首相は、開戦はもちろん、当時の日本軍がこうした死を前提とした特攻作戦になぜ突き進んだのか、敗戦が避けられない状況のなかで、なぜ降伏することなく、優秀な若者を次々に飛び立たせたのか、というような重要な問題を看過し、まったく論じていません。
 そして、”宿命づけられた”などと言って、当時の特攻兵の遺書や手紙や日記の内容ばかりに思いを寄せる姿勢は、当時の人命を軽視した日本軍の指導者の姿勢と変わらないのではないかと思います。

”60年前、天皇が特別な意味をもった時代があった。そして多くの若者たちの、哀しい悲劇が生まれることになった。
≪如何にして死を飾らむか
 如何にして最も気高く最も美しく死せむか
 我が一日々々は死出の旅路の一理塚
 今日一日の怠りはそれだけ我が名を低める
 靖国の神となりにし我が戦友の
 十の指にはや余りにけり
 我はただ何をかすべき海の戦友の
 烈しき死をば死せりとはいふ
 はかなくも死せりと人の言わば言へ
 我が真心の一筋の道
 今更に我が受けてきし数々の
 人の情けを思い思ふかな≫(神坂次郎著『今日われ生きてあり』新潮文庫)
 もはや敗戦の色が濃い、太平洋戦争の末期。鹿児島県知覧の飛行場から沖縄の海へ飛び立っていった陸軍特別攻撃隊・第五十五振武隊に所属する、鷲尾克己少尉の、23歳のときの日記の一部である。 国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。彼らの気持ちを次のように語る人は多い。
≪かれらは、この戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために──それは、父母であり、兄弟姉妹であり、友人であり、恋人であった。そしてその愛しきものたちが住まう、日本であり、郷土であった。かれらは、それらを守るために出撃していったのだ≫
 わたしもそう思う。だが他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。彼らは「公」の場で発する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを思いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。
 今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命のうえに成り立っている。だが、戦後生まれのわたしたちは、彼らにどうむきあってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。
 たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。
 わたしたちは、いま自由で平和な国に暮らしている。しかしこの自由や民主主義をわたしたちの手で守らなければならない。そして、わたしたちの大切な価値や理想を守ることは、郷土を守ることであり、それはまた、愛しい家族を守ることでもあるのだ。
 この鷲尾克己少尉の日記の最後の部分は、とりわけわたしの胸に迫って来る
≪はかなくも死せりと人の言わば言へ、我が真心の一筋の道≫──自分の死は、後世の人に必ずしもほめたたえられないかもしれない、しかし自分の気持ちはまっすぐである。” 

 事実を歪曲して、日本の戦争を”美化”するのもいい加減にしてほしいと、私は思います。
かれらは、この戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた”とありますが、誰がそう信じさせたのでしょうか。
 安倍首相は、鷲尾少尉の、”靖国の神となりにし我が戦友の 十の指にはや余りにけり 我はただ何をかすべき海の戦友の 烈しき死をば死せりとはいふ”という、さして長くもない文章をなぜか中略として略していますが、日本の優秀な若者に、”靖国の神”となることを教え、特攻を命じたのはいったい誰でしょうか。
 明治維新以来日本は、吉田松陰が「幽囚録」に書いた領土拡張の考え通りに、”皇国を四方に君臨させる”ため、朝鮮に手を伸ばし、そのために対立した清国とは戦争をして、割譲された台湾を植民地化し、朝鮮を併合し、満州に傀儡国家をつくり、日中戦争によって、中国をも従えようとして、西洋列強を敵にまわし、戦争を続けてきたのではないでしょうか。
 まさに日本の戦争は、天皇の人間宣言のなかにある、”天皇ヲ以テ現御神(アラツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(官報號外 昭和21年1月1日 詔書 [人間宣言]国会図書館)に基づくものであったのではないかと思います。

 安倍首相は”今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命のうえに成り立っている”といいますが、あの戦争がなければ、日本はもっと豊かだったのではないでしょうか。
 ”たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか”とも書いていますが、日本の戦争は、若い特攻兵の命をなげうった戦いによって、何を守ったというのでしょうか。
 鷲尾克己少尉の日記を引いて、”この自由や民主主義をわたしたちの手で守らなければならない。そして、わたしたちの大切な価値や理想を守ることは、郷土を守ることであり、それはまた、愛しい家族を守ることでもあるのだ”などという安倍首相は、狡賢く事実をすり替えていると思います。日本の戦争はそういうものではなかったと思います。
 ”彼らは「公」の場で発する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた”といいますが、なぜ区別しなければならないのでしょうか。
 また、鷲尾少尉は”如何にして死を飾らむか”と書いていますが、なぜ死を飾らなければならないのでしょうか。それは、自らの生を貫くことができず、皇国臣民として、命を捧げなければならない存在だからではないのでしょうか。
 少なくとも、日本の戦争が、自由や民主主義を守るための戦争でなかったことは明らかだと思います。だから、安倍首相は、軍国日本の指導者と変わらないのではないかと思うのです。

 薩摩半島最南端に、標高922メートルの美しい円錐形の開聞岳があり、陸軍最後の特攻基地知覧を出撃した特攻機は、この開聞岳を西南に向かって飛び去ったといいます。その出撃機数431機、特攻隊員462人。選りすぐりの優秀な若者462人は、人命を軽視する軍国日本の指導者に殺されたも同然ではないかとさえ思います。

第四章 日米同盟の構図」の”なぜ日米同盟が必要なのか”のなかには、
1960年の日米安保条約改定のときの交渉が、現在ようやく明らかになりつつあるが、そのいじましいばかりの努力は、まさに駐留米軍を、占領軍から同盟軍に変える、いいかえれば、日本が独立を勝ち取るための過程だったといってよい。しかし同時に日本は、同盟国としてアメリカを必要としていた。なぜなら、日本は独力で安全を確保することができなかったからである。
 その状況はいまも変わらない。自国の安全のための最大限の自助努力、「自分の国は自分で守る」という気概が必要なのはいうまでもないが、核抑止力や極東地域の安定を考えるなら、米国との同盟は不可欠であり、米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである。
 さらに確認しておかなければならないのは、今日、日本とアメリカは、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争──市場経済という、基本的な価値観を共有しているという点だ。それは、世界の自由主義国の共通認識でもある。
 では、わたしたちが守るべきものは何か。それは、いうまでもなく国家の独立、つまり国家の主権であり、わたしたちが享受している平和である。具体的には、わたしたちの生命と財産、そして自由と人権だ。もちろん、守るべきもののなかには、わたしたち日本人が紡いできた歴史や伝統や文化がはいる。それを誇りといいかえてもよいが、それは、ほかのどこの国も同じで、国と国との関係においては、違う歴史を歩んできた国同士、おたがいに認め合い、尊重しあって信頼を醸成させていくことが大切なのである。
 とあります。
 でも、どうして”米国との同盟は不可欠”なのでしょうか。なぜ、”日米同盟はベストの選択”なのでしょうか。もし、それが真実なら、戦時中の「鬼畜米英」は何であったのでしょうか。どうして180度変わったのでしょうか。本土決戦で鬼畜米英に立ち向かわせるべく、主婦を集めて、陸軍士官に、竹やり訓練をさせたのはいったい何だったのでしょうか。
 戦後の日本で、そうしたことが全く明らかにされないので、私は、当時の軍や政府の指導者が、敗戦後も自らの権力を維持するために、都合よく豹変し、隷属的な同盟関係を受け入れたのではないかと思うのです。
 だから、”米国の国際社会への影響力、経済力、そして最強の軍事力を考慮すれば、日米同盟はベストの選択なのである”ということは、言い換えれば、強者には従うということで、”力は正義である”という戦前同様の考え方だと思います。
 したがって、”さらに確認しておかなければならないのは、今日、日本とアメリカは、自由と民主主義、人権、法の支配、自由な競争──市場経済という、基本的な価値観を共有しているという点だ”というのは、表向きの言葉で、内容のないものだと思います。

増補 最終章 新しい国へ」の”「瑞穂の国」の資本主義”には
 ”日本という国は古来、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分ちあいながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈って来た、「瑞穂の国」であります。自立自助を基本とし、不孝にして誰かが病で倒れれば、村のひとたちみんなでこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。
 私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世間を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場経済の形があります。
 安倍家のルーツ長門市、かつての油谷町です。そこには、棚田があります。日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、遠くの漁火が映り、それは息をのむほど美しい。
 棚田は労働生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかもしれません。しかしこの美しい棚田あってこそ、私の故郷なのです。そして、田園風景があってこそ、麗しい日本ではないかと思います。市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のあり方を考えていきたいと思います ”
 とありますが、莫大な予算をつぎ込んで進められている主権放棄に等しい名護市辺野古の新基地建設工事は、美しい「瑞穂の国」の破壊ではないのでしょうか。自分の故郷ではないからいいということなのでしょうか。
 安倍首相の”美しい国”は、日本国憲法の精神に基づき、法や道義・道徳で外交を進める先進的な日本ではないことがわかったように思います。

 日本は、西洋列強の弱肉強食の戦いに割って入り、ひときわ野蛮な戦争を展開して敗れ、今度は強者アメリカに跪き、主権を放棄するに等しい基地の提供をはじめ、アメリカの要求は何でも受け入れる姿勢に転じて、再び弱肉強食の国際社会で、強者の側に立つ道を選んだのではないかと思います。
 そして、安倍首相は、権力の維持強化のために、日本国憲法を変え、一層露骨に”力は正義”の政治を進めようとしているように思えます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍独裁政治と歴史の修正、「新しい皇国日本」の予感(安倍晋三著よりNO4)

2020年03月09日 | 国際・政治

 安倍政権の突然の入国制限強化発表に、韓国外相は「十分な協議も事前通報もなく措置を強行したことに、強い憤りを禁じ得ない」と批判したことが報じられました。 今回の中国と韓国に対する入国制限の対応についても、専門家会議には諮っていないということです。そうした独裁的な安倍首相の判断は、安倍晋三著の「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)を読むと、不思議ではないように思います。安倍政治を律するのは、法や道義・道徳ではなく、「力は正義」・「勝てば官軍」の考え方なのだろうと思います。

 同書の「第三章 ナショナリズムとはなにか」の”「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国歌”には、

また、「日の丸」は、かつて軍国主義の象徴であり、「君が代」は、天皇の御世を指すといって、拒否する人たちもまだ教育現場にはいる。これには反論する気にもならないが、かれらは、スポーツの表彰をどんな気持ちでながめているのだろうか。

とか

「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。

 とあります。
 こうしたことを平然という安倍首相は、現在に甦ったかつての侵略国家=皇国日本の政治家ではないかと、私は思ってしまいます。”言挙げして”などと、現在ほとんど耳にしない言葉を使いながら、過去に何があったのかは全く考慮していないと思われるからです。
「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国歌”というのですが、歴史を振り返れば、とんでもないことだと思います。
 薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、時の将軍徳川慶喜が政権返上(大政奉還)をしたにもかかわらず、権力を奪い取るために孝明天皇の望まない武力討幕の方針を貫き、諸侯会議を無視して強引に王政復古の大号令を発しました。そして、武家政治を廃し、当時14歳(元服前)の明治天皇を抱き込んで(資料1)、天皇親政の「皇国日本」をつくったのです。

 明治新政府は、大日本帝国憲法第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とし、第三条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とし、さらに第4条で、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と定めました。だから、天皇は現人神(現御神・アキツミカミ)として、必要なときには議会の制約を受けずに条約を締結する権限をもち、独立命令による法規の制定も可能となりました。また、緊急勅令を発する権限などもあったといいます。
 
 そうした天皇絶対の「皇国日本」をつくり上げた明治新政府の文部大臣・井上毅は、明治二十六年八月十二日に「文部省告示第三号」(下記資料1)で”小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜別冊ノ通リ撰定ス”として”君が代 勅語奉答 一月一日、元始祭、紀元節、神嘗祭、天長節、新嘗祭”などの歌を楽譜つきで示したのです(下記資料2)。それらの歌の歌詞は、天皇を皇室神話に基づいて、「この世に人間の姿で現れた神」すなわち「現人神」現御神・アキツミカミ)とするものでした。
 そこから”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(下記資料3)が生まれ、まさに侵略国=皇国日本となったのだと思います。

 「君が代」の次に示された「勅語奉答」の歌は下記のようにあります。
あやに畏(カシコ)き 天皇(スメラギ)の あやに尊(トフト)き 天皇(スメラギ)の 
あやに尊(トフト)く 畏(カシコ)くも 下(クダ)し賜(タマ)へり 大勅語(オホミコト)
是(コレ)ぞめでたき 日(ヒ)の本(モト)の 国(クニ)の教(オシヘ)の 基(モトヰ)なる 
是(コレ)ぞめでたき 日(ヒ)の本(モト)の 人(ヒト)の教(ヲシ)への 鑑(カゞミ)なる
あやに畏(カシコ)き 天皇(スメラギ)の 勅語(ミコト)のまゝに 勤(イソシ)みて 
あやに尊(トフト)き 天皇(スメラギ)の 大御心(オオミココロ)に 答(コタ)へまつらむ

 したがって、「君が代」も同じ考え方で歌われるようになったことは明らかであり、こうした歴史的経緯を無視し、天皇はずっと象徴だった”などと言って、主権在民の戦後の日本で歌うことは、日本国憲法に反することだと思います。戦前・戦中、台湾や朝鮮で歌うことを強制したことも忘れてはならないと思います。
 戦中、小学校二年生用の修身国定教科書には、「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」と書かれていたといいますが、日本は明治維新以来、先の大戦における敗戦まで、天皇は「現人神」であり、「現御神(アキツミカミ)」であって、単なる「象徴」ではなかったのです。不敬罪で投獄された人が少なくなかったことも忘れてはならないと思います。
 だから、”日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた”などという安倍首相は、現在に甦った侵略国=皇国日本の政治家のように思えるのです。日本の戦争の実態や軍国日本の人権の状況を理解されているとは思えないのです。
資料1----------------------------------------
 長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡に、討幕派の本音をうかがい知ることが出来る、きわめて重大な記述がありました。

”至其期其期に先じ而甘く 玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…”
                  (「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)
 
ということなのです。
 天皇は「」と表現されていますが、玉を我方へ抱き込むことが何より大事で、敵とする幕府側に万が一にも天皇を奪われてはならないという意味です。自らの倒幕計画を「芝居」と表現しており、天皇を奪われたら、その芝居が大崩れとなって、滅亡の危険があるというわけです。天皇を政治的に利用しようという意図が明白です。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
文部省告示第三号
小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜別冊ノ通リ撰定ス
明治二十六年八月十二日
                              文部大臣 井上毅
文部省告示第三号別冊 祝日大祭日歌詞並楽譜 
目次 君が代 勅語奉答 一月一日 元始祭 紀元節 神嘗祭 天長節 新嘗祭

                       (国立国会図書館デジタルアーカイブ)
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
官報 号外 昭和二十一年一月一日

詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。

御名 御璽

昭和二十一年一月一日

内閣総理大臣兼
第一復員大臣第二復員大臣 男爵 幣原喜重郎
司法大臣  岩田宙造  ・・・以下略
                          (国立国会図書館デジタルアーカイブ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第三章 ナショナリズムとはなにか」の”天皇は歴史上ずうっと「象徴」だった”にも、同じように

日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られてきた長大なタペストリーだといった。日本の国柄をあらわす根幹の天皇制である。

とか

政府は、「日本は歴史はじまって以来、天皇によって統治されてきたので、いまさら共和国にするとか大統領を元首にするとかいう案は国民が許さない」として、天皇が統治権を総攬・行使するという明治憲法の基本を引き継ごうとした。しかし、GHQはそれを許さなかった。

 とあります。
 でも、明治維新以来、先の大戦における敗戦まで、天皇は単なる「象徴」でなかったことは、否定できない歴史的事実だと思います。
 教育勅語などでも示されているように天皇の始祖は「天照大神」とされており、「神の子孫」として絶対的権力を有する存在だったと思います。

 また、”日本は歴史はじまって以来、天皇によって統治されてきたので…”も事実ではないと思います。
 江戸の世を統治したのは、天皇ではなかったので、薩長を中心とする尊王攘夷急進派は王政復古の大号令を発して、天皇親政を実現したのだと思います。
 鎌倉幕府以降、室町幕府、織豊政権,江戸幕府までの時期は、武士階級がその軍事力を基礎に,独自の権力と組織をもって政治的支配を行った武家政治で、天皇によって統治されていたのではないと思います。
 このように、安倍晋三著の「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)には、至る所に歴史の修正があるように思います。
 吉田松陰を「先生」という、安倍首相は、きっと松下村塾に結集した伊藤博文や山縣有朋、また岩倉具視や木戸孝允等がつくりあげた明治の「皇国日本」を見習い、新しい「皇国日本」をつくろうとしているのではないかと想像します。
 言いかえれば、すべて人間は生まれながらにして自由・平等で、幸福を追求する権利をもつという「天賦人権説」に基づく西欧的な法治国家ではなく、八紘一宇(「兼六合以開都,掩八紘而為宇」(六合〈クニノウチ〉を兼ねてもって都を開き、八紘〈アメノシタ〉をおおいて宇〈イエ〉となす))の考え方で、天皇を中心とした新しい「皇国日本」を再建しようとしているのではないかと想像するのです。著書の「新しい国へ 美しい国へ 完成版」というタイトルは、そのことを意味しているのではないかと思います。

 だから、歴史の事実を大事にしたいと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「全国一斉休校」要請の独裁的決定とその由来(安倍晋三著をもとに)

2020年03月05日 | 国際・政治

  コロナウィルスの拡大を受けて、安倍首相は小中学校や高校などの「全国一斉休校」を要請しましたが、私はこの決断に安倍首相の独裁的な性格があらわれているように感じます。それは、2月16日に、官邸で第1回新型コロナウイルス感染症対策専門家会議を開いておきながら、「全国一斉休校」という対応については、何等専門家会議に諮らず、自ら決めているからです。大事なのは、コロナウィルス拡大防止にどんな手を打つべきかということであるはずです。それを、専門家会議に諮らず、何の準備も法的根拠もないのに強引に決定しました。日本の首相である自分には何でもできるという驕りを感じます。

 安倍首相は、学校現場や各家庭、さらには学校と関わる様々な組織や団体に、どんな問題が発生するか、また、その苦悩や大変さがどんなものかわかっていなかったのではないかと思います。
 また、あまりに唐突であった上に、一ヶ月以上という長期間の休校要請の根拠もわかりません。専門家からは「あまり意味がない」との苦言が相次いでいるという報道もありました。
 だから、世の注目を集める大事な決定は、自ら下すという独裁性があらわれているのではないかと思います。そしてそれは、安倍晋三著の「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)でも、読み取ることができるのです。

  「第七章 教育の再生」の”学力回復より時間のかかるモラルの回復”と題した文章に、下記のようにあります。
じつをいえば、日本の子どもたちの学力の低下については、わたしはそれほど心配していない。もともと高い学力があった国だし、事実いまでも、小学生が九九をそらんじていえるというのは、世界のトップレベルに近い。したがって、前述したような大胆な教育改革を導入すれば、学力の回復は、比較的短期間にはかれるのではないか。
 問題はモラルの低下のほうである。とりわけ気がかりなのは、若者たちが刹那的なことだ。前述した日本青少年研究所の意識調査(2004年)では、「若いときは将来のことを思い悩むより、そのときを大いに楽しむべきだ」と考えている高校生が、アメリカの39.7パーセントにたいし、50.7パーセントもいた。若者が未来を信じなくなれば、社会は活力を失い、秩序は自ずから崩壊していく。
 教育は学校だけで全うできるものではない。何より大切なのは、家庭である。だからモラルの回復には時間がかかる。ある世代に成果があらわれたとしても、その世代が親になり、つぎの世代が育つころにならなければ、社会のモラルは回復したことにはならないからである。
 かつては家庭と地域社会が子どもたちのモラルを醸成する役割を果たしていた。人と人との助け合いをとおして、道徳を学び、健全な地域社会が構成されてきたのである。
 そこで考えられるのが、若者たちにボランティアを通して、人と人とのつながりの大切さを学んでもらう方法だ。人間は一人では生きていけないのだ、ということを知るうえで、また、自分が他人の役に立てる存在だったということを発見するうえでも、ボランティアは貴重な体験になる。
 たとえば、大学入学の条件として、一定のボランティア活動を義務づける方法が考えられる。大学の入学時期を原則9月にあらため、高校を卒業後、大学の合格決定があったら、それから3ヶ月をその活動にあてるのである。
 ボランティアの義務づけというと、自発的にやるからボランティアなのであって、強制するのは意味がないとか、やる気のない若者がやってきても現場が迷惑する、というような批判がかならず出る。しかし、みんなが助け合いながら共生する社会をつくりあげるためには、たとえ最初は強制であっても、まず若者にそうした機会を与えることに大きな意味があるのではないか。

 ここには、日本でモラルがなぜ低下したのかという分析がありません。モラル低下の原因を学問的に考察すると、かならず政権の政策なども当然問われることになると思います。だから、あえて分析しないのかも知れません。
 そして唐突に、モラルの回復のためにボランティアの義務づけが提示され、”若者たちにボランティアを通して、人と人とのつながりの大切さを学んでもらう…”などというのです。きちんとした分析をせず、効果的な政策が考えられるとは思えません。
 安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)は、こうした独裁的な考え方で貫かれているように、私は思います。

 その出発点ともいえる考え方が、「第一章 わたしの原点」”千万人といえども吾ゆかん”に示されています。
わたしが政治家を志したのは、ほかでもない、わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道を選んだのだ。政治家は実現したいと思う政策と実行力がすべてである。確たる信念に裏打ちされているなら、批判はもとより覚悟のうえだ。
 「自ら反(カエリ)みて縮(ナオ)くんば千万人といえども吾ゆかん」──わたしの郷土である長州が生んだ俊才、吉田松陰先生が好んで使った孟子の言葉である。自分なりに熟慮した結果、自分が間違っていないという信念を抱いたら、断固として前進すべし、という意味である。
 これは、安倍首相が、「独裁者」を目指してきたともいえる文章だと思います。

 また関連して「第二章 自立する国家」の”はじめて「国家」に出会った幕末の日本”にも、見過ごすことのできないことがことが書かれています。下記です。
歴史を振り返ってみると、日本という国が大きな変化を遂げるのは、外国からの脅威があったときである。この百五十年ぐらいの間でいえば、1853年ペリーの来航にはじまる開国がそれだ。それまで各藩主がそれぞれの領地を治めていたが、この時代から、ひとつの国家としての国防を考えなければならなくなったのである。
 じつはこのときの独立は非常に危うかった。当時の知識人の危機感の背景にあったのは、、阿片戦争である。1842年の第一次、1860年の第二次阿片戦争の敗戦によって、中国が賠償金支払いを課されたうえに香港を割譲させられていたからである。
 日本もそうなるのではないか、と恐れた人々のなかでも開明的な人々──佐久間象山をはじめ、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らは、海防の大切さをいちはやく指摘した。
 じっさい、日本が中国のように領土を割譲させられなかったのは運がよかったというしかない。1858年、日本は日米修好通商条約を締結したあと、イギリス、ロシア、オランダ、フランスと同様の条約を結ぶことになるが、これらはひどい内容であった。来日する外国人はすべて治外法権に等しい特権をもつのにたいして、日本には関税自主権もなかった。また各国にたいして最恵国待遇を与えるいっぽうで、日本は最恵国待遇を与えられない、というじつに不平等な条約であった。
 明治の日本人は、この不不平等条約を改正するのに大変な苦労をした。ようやく改正が叶ったのは、1894年(明治27年)に日米通商航海条約を結んだときだったが、それでも、まだ対等とはいえなかった。日本が関税自主権を回復してアメリカと本当に対等になったのは、日露戦争に勝利したあとの1911年(明治44年)のことである。
 明治以後の日本は、西欧列強がアフリカやアジアの植民地分割をはじめているなかにあって、統治するほうに回るのか、統治される方になるのか、という二者択一を迫られていた。自由と民主主義を標榜するアメリカですら、フィリピン、ハワイへの進出をはじめようとしていた。明治の国民は、何んとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。

 この文章には、歴史の事実の勝手な解釈やごまかしがあると思います。
 150年以上も前に処刑された尊王攘夷急進派の吉田松陰を、平然と「先生」と呼ぶこともさることながら、佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬などの幕末の指導者の中に、吉田松陰を含め、”開明的な人々”と主張する歴史認識にも驚きました。
 安倍首相は、吉田松陰を含めることによって、あえて薩長を中心とする尊王攘夷派と幕府の深刻な対立を等閑視し、明治維新や新政府の政治の印象をよくしようとしているのではないかと思います。
 でも、吉田松陰は、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒し、老中間部詮勝殺害を画策したたため、自らの長州藩からも危険視されて野山獄に幽囚された人です。幽囚中にも「伏見要駕策」を練って、松下村塾の門下生に指示を出すほどの超過激派です。一貫して権力奪取のための武力討幕を主張し、公武合体論や開国論を潰すことに注力した人物だと思います。

 佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬は、吉田松陰の主張するような武力討幕者ではないと思います。特に佐久間象山は、時の将軍徳川慶喜に公武合体論や開国論を説いたことで知られています。そのため、吉田松陰と考えを同じくする尊王攘夷急進派で、幕末の四大人斬りの一人とされる河上彦斎(カワカミゲンサイ)に暗殺されているのです。
 また、勝海舟はもともと幕府の役人であり、基本的に幕府側の人だと思います。勝海舟と交流のあった坂本龍馬は「船中八策」で知られていますが、その中には、”天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)”と同時に”有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)”ともあります。討幕ではなく、大政奉還によって新しい日本をつくろうとしたのだと思います。
 だから、吉田松陰を”開明的な人”として、佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬などとならべることはできないと思います。それは歴史の修正だと思います。

 また、 
じつはこのときの独立は非常に危うかった。当時の知識人の危機感の背景にあったのは、、阿片戦争である。1842年の第一次、1860年の第二次阿片戦争の敗戦によって、中国が賠償金支払いを課されたうえに香港を割譲させられていたからである。
 日本もそうなるのではないか、と恐れた人々のなかでも開明的な人々──佐久間象山をはじめ、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らは、海防の大切さをいちはやく指摘した。
 というのは、吉田松陰や尊王攘夷急進派に関しては、あり得ないことだと思います。なぜなら、吉田松陰に限らず、当時の尊皇攘夷急進派に、もしそういう危機感があったのなら、海防の充実に専念すべきで、討幕に血道を上げ、戊辰戦争のような国内戦争をやっているときではないからです。日本の独立が、一層危ういものになることは明らかなのに、なぜ日本を二分するような戊辰戦争などやったのか、説明ができません。それも、攘夷を迫っての討幕の戦争です。外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうという排外的思想集団、尊王攘夷急進派の指導者、吉田松陰のどこが開明的なのでしょうか。

 さらに、
統治するほうに回るのか、統治される方になるのか、という二者択一を迫られていた。自由と民主主義を標榜するアメリカですら、フィリピン、ハワイへの進出をはじめようとしていた。明治の国民は、何んとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。
 というのも間違っていると思います。安倍首相のいう”何んとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感”に関して、尊王攘夷急進派の誰かの証言や文書資料があるのでしょうか。
 江戸時代、オランダは長くヨーロッパ唯一の貿易国でしたが、オランダ船が入港するたびに様々な海外情報を得ていた幕府の役人に、そういう危機感があったということは分かります。でも、武力討幕によって新政府を樹立した尊王攘夷急進派の人たちに、そういう危機感があったとは思えません。

 以前「吉田松陰の『幽囚録』と侵略戦争」で取り上げましたが、吉田松陰の『幽囚録』には、逆に明らかに他国に対する武力侵略を意図する下記のような記述があるのです。
日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、愼みて邊圉(ヘンギョ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。然らずして群夷争聚の中に坐し、能く足を挙げ手を揺(ウゴカ)すことなく、而も国の替へざるもの、其れ幾(イクバ)くなるか。…”
 吉田松陰の松下村塾に学んだ伊藤博文、山縣有朋その他の尊王攘夷急進派の人たちが、明治新政府の要職につくと間もなく、台湾出兵江華島事件があり、その後、日清戦争が始まりますが、それは” 何んとか独立を守らなければ…”というような考えに基づくものではなく、吉田松陰の考え方に沿った、日本の領土拡張の考え方であったと思います。明治維新以来、日本は吉田松陰の考え方に基づく領土拡張政策を進める国、言い換えれば侵略国になったのだと思います。

 その吉田松陰を「先生」として尊敬する安倍首相は、松下村塾の流れをくむ尊王攘夷急進派の政治家ではないかと思います。だから、尊王攘夷を掲げ、幕府の要人を暗殺したり、「異人は神州を汚す」といって、異人斬りをくり返しておきながら、幕府を倒し権力を手にするとすぐ開国に転じたり、孝明天皇がどうしても受け入れなかった討幕をやっておきながら、明治天皇を抱き込み、自分たちの思い通りにできる天皇制絶対主義の国の「皇国日本」をつくるという狡賢さを引き継いでいるように思います。
 もちろん、明治新政府の政治家の中には、理想的な皇国日本を思い描き、真面目に皇国臣民たろうとした人もいたのでしょうが、政権中枢の人たちにとっては、天皇は統治の手段として存在したように思います。
 天皇絶対主義は表向きで、実は天皇を政治利用して一般国民を抑圧し、自らの権力を維持・強化すること、そして日本を自らの思い通りにしようということであったように思います。
 そう考えざるを得ないのは、明治新政府のもとで、山県有朋の山城屋和助事件三谷三九郎事件公金流用問題があり、井上馨に尾去沢鉱山事件藤田組贋札事件相つぐ変死事件があり、総理大臣にもなった黒田清隆には、北海道開拓使庁事件妻殺害疑惑があり、元長州藩士で京都府庁の参事であった槇村正直の小野組転籍事件などが次々に起こっているからです。
 そして、明治新政府がつくり上げた「皇国日本」は、日本の敗戦まで変わることがなかったからです。私は、日本の第二次世界大戦における敗戦は、明治新政府によって準備されたと思っています。

 だから、吉田松陰を「先生」として尊敬し、何かと明治新政府の政治を美化して、日本国憲法が公布されたことを記念する祝日「文化の日」を「明治の日」に変えようとする安倍首相を律するのは、法や道義・道徳ではなく、力は正義であるという考え方だと思います。汚職や選挙違反にかかわる疑惑が指摘されても、平然と言い逃れ、法を無視して事実を隠蔽する姿勢や、摘発された閣僚や国会議員も、自らの仲間であればかばうという姿勢に、それがあらわれているのではないかと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする