真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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駐韓米軍の犯罪とウクライナ戦争

2022年12月31日 | 国際・政治

 今朝、ウクライナ戦争に関わるNHKの番組の一部を偶然見ました。

 でも、私にはそれが、どう考えてもNHKの独自取材に基づく内容ではなく、アメリカからもたらされたものだろうと思われました。そして、アメリカは、こういう番組を多くの国に提供し、反露感情を幅広く、深く定着させて、ロシアの弱体化、孤立化を狙っているのだろうと想像しました。
 停戦和解の話しが一向に盛り上がらないのは、こうした報道が影響しているのだと思います。
 
 また、先日の朝日新聞社説に、「ウクライナ支援 侵略許さぬ結束息長く」と題する文章が掲載されていました。そのなかに、
ウクライナのゼレンスキー大統領は、米議会の演説で「この戦いは、私たちの子孫がどんな世界に住むのかを決めるだろう」と訴えた。侵略者が得をする前例を残さないよう努めるのは人類共通の責務である──。この認識にたって各国は支援を続けて欲しい。避難民受け入れやインフラ復旧など日本にできる支援も少なくない。
 とありました。
 この主張は、先ず人の殺し合いを止め、停戦和解の話し合いを進めようとするものではないと思います。日々、犠牲者が出続けているのに、和解ではなく、殺し合いの一方の側を支援しようという呼びかけだと思います。
 そしてそれは、ヨーロッパにおける覇権や利益を失うまいとするアメリカの望みに沿うものだと思いました。

 ウクライナ戦争を語るとき、ロシアを侵略者(悪)と印象づけるかのように、いつも「ロシアによるウクライナ侵攻以来・・・」とか、「ロシアによるウクライナ侵攻によって・・・」とか、「ロシアのウクライナ侵攻は・・・」という言葉から始められているように思います。
 でも、この言葉のかわりに、「アメリカの介入によるウクライナの政権転覆以来・・・」とか、「アメリカの介入によるウクライナの政権転覆によって・・・」とか、「アメリカの介入によるウクライナの政権転覆は・・・」という言葉が使われていたら、ウクライナ戦争の受け止め方はガラッとかわると思います。
 そして現実に、ウクライナの政権転覆以来、ドネツク市民軍とルガンスク市民軍は、ウクライナ軍と戦闘を続けていたのであり、「ドンバス戦争」と呼ばれていたのです。一万人を超える死者が出ていたといわれています。

 アメリカは、ウクライナに対し、莫大な軍事支援をくり返していますが、私は、アメリカのビクトリア・ヌーランド(オバマ大統領時の上級補佐官)が講演で、”我々は、ウクライナの繁栄、安全、民主主義を保障するため(現実は政権転覆)に50億ドル以上を投資してきた”と語り、元下院議員のロン・ポール氏から、”そういうことが許されるのか”と非難されたという報道に目をつぶることはできません。
 すでに、いくつかの国を取り上げてきましたが、アメリカには過去に、そうした他国の政権転覆を支援したり、直接武力介入したりしてきた歴史があるのです。

 アメリカが、60カ国を超える国に軍隊を配置し、他国の主権を侵害している事実も、見逃すことができません。下記は、「在韓米軍 犯罪白書 駐韓米軍犯罪根絶のための運動本部」徐勝+広瀬貴子(青木書店)から抜萃したものですが、コメの輸入開放圧力の問題や基地村女性の人権問題などをみても、ウクライナ戦争が、単純な「善」と「悪」の戦いなどでないことは明らかだと思います。
 アメリカの、巧みなメディアコントロールには注意が必要だと思います。
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                 トピック 駐韓米軍と基地村(キジジョン)の女性

 基地村、権力の試験場
 米国政府はまた別の方法で特殊な基地村の状況を利用した。91年春、韓国は、輸入開放問題で騒々しかった。とくにコメの開放をめぐって 米国政府の高級官僚たちがかわるがわる韓国に出入りしながら、韓国政府と交渉しているときであった。そのとき、全国の米軍部隊で米国人とその韓国人妻たち、そして基地村女性によりとんでもない量のコメが基地村のヤミ市場を通じて流れ出た。駐韓米軍当局はそのあいだ米軍PX物品の市中流出を防ぐため、米軍一人または一定期間単位で購買量を制限する規定(RCP)を決めて、規定違反者をコンピューターで追跡するなど継続的な取り締まりをしてきた。そんな米軍側が91年5月1日、米国防費削減により駐韓米軍の費用節減が不可避であるとして、この規定を一方的に廃止してしまった。
 韓国の関税庁では、米軍PX物品のヤミ取り引きが深刻だったという点から、RCP廃止に反対意思を表明したという。ところが米軍側では「米軍は韓国の国防を助けるためにここに来ているだけである。米軍が韓国経済を助けるために年間70万ドルの費用がかかるRCP制度を継続することはできない」という理由を掲げ韓国側の意見を無視したのである。そのためこれまで購買制限に縛られていた米製品、とくに大量のコメがヤミ市場に流れ出た。
 これに対し米国政府は「ヤミ市場防止のためには、韓国政府が輸入自由化と関税引き下げをすべきだ」と要求してきた。つまり米軍部隊の一連の措置は、PX物品の不正流出を輸入開放の圧力手段として利用して、輸入開放以後の需要拡大をねらった米国政府の政策から出たものであった。米国産米を流出させて、韓国の米穀市場に対する市場調査をし、さらにコメ輸入開放圧力のひとつの方便として利用するという米国側の意図が潜んでいた。不平等な韓米行政協定と軍事機密という米軍側の強弁に押さえつけられ、主食であるコメのヤミ取り引きでさえ、まともに取り締まれない韓国政府の無能力さ、米国政府と韓国政府の隷属的関係もこのような米国政府の政策を助長するものである。
 70年代以後、韓国経済の産業化過程において、韓国社会にレジャー産業浸透し発展するにつれて基地村はある程度、縮小されはじめた。しかし基地村の場合、このような産業化過程の余波が現われはじめたのは80年代後半になってからだ。その理由は、政府が米軍基地を保護するためにこれまで基地周辺を強力に開発規制措置で縛ってきており、基地村は政府が直接統制する公娼地域という性格が強かったためである。保健所は官庁のような既存の行政組織だけでは基地村を統制するのが困難であるため、うわべは基地村売春女性の自治機構のふりをした「タンポポ会」などを基地村ごとにつくって徹底的に統制した。解放後、基地村を中心に広がっていた米国文化が、韓国において優越性を獲得するようになると、基地村の資本価値が認識されるようになった。クラブの経営者たちは、韓国政府により基地村に提供された特恵のうちの一つであるヤミ酒を取り引きしり、政府の取り締まりを避けて、韓国男性を客として引き込んだりしている。開発規制が解かれてからは、驚いたことに、観光特区として基地村をレジャー都市に発展させようとする動きもあった。
 このような基地村のレジャー産業化の背後には独占財閥と韓国政府の存在がある。それを示す一例が95年9月と10月の各基地村のクラブ経営者たちによる連帯ストである。事件の発端は、米軍犯罪に対して韓国民が強力な抗議をしたことに危機感を感じた米軍部隊が、米兵の部隊外への出入りを無期限に禁止したことであった。多分に報復措置の性格が強かった。するとクラブ経営者たちは連帯してクラブを閉め、続けて部隊に抗議訪問した。このような固い連帯の背後には、これまでクラブにビールを売ってきた問屋商と独占財閥のD企業があった。ストに参加せず店を開いたクラブにはビールを供給しないと脅迫したのである。この事件は米軍部隊において米兵と部隊外への出入りを許すことで一段落した。

 現代版挺身隊
 日本軍「慰安婦」というとき、まず第一に浮かぶのは日本軍隊に性病拡散を防ぐための、「軍隊による政策的な性病診療」、毎日数十名の日本兵を相手にするように強制されたこと、そして数十年にわたり朝鮮女性に対する誘拐と日本軍「慰安婦」に対する殺人および殴打がなんの妨げもなくおこなわれた点などである。あきれたことに、このような非人権的な状況は解放後の基地村女性にそのままくり返されている。
 1970年代以前は米軍により基地村女性に対して性病診療がおこなわれており、性病にかかったことがわかると本人の意思とは関係なく、「モンキーハウス」と呼ばれる収容所に送られた。70年代からは米軍当局の要請ではじめから韓国政府が基地村ごとに性病診療所をつくり、毎週性病診療をした。基地村女性が非人権的な「モンキーハウス」から逃げ出そうとして二階から落ち、足が折れたりひどくケガをすることもあった。
 それだけでなく、80年代まで毎年実施された韓米合同大規模軍事訓練である「チームスピリット」があるときは、売春宿の主人により連れていかれた基地村の女性が日本軍「慰安婦」女性と同じように米軍の相手をしたりした。ある女性の話を聞いてみよう。
「ある日、主人が金もうけがあるから一緒に行こうと言ったのです。金を設けようという考えもあり、借金もあるため主人の機嫌もとらなければならなかったので、私を含めた大部分のクラブの女たちがついていきました。わたしたちが行ったところは浦項(ポハン)の近くでした。米軍人がたくさんいて、チームスピリット訓練をしていました。訓練場の近くの坂に仮設の建物があって、私たち以外にもたくさんの基地村の女たちが来ていました。その建物のなかにあらかじめ布で仕切りがしてあって、そのなかに一人ずつ入って米兵を迎えろと私たちに言いました。私たちは一日に20~30人を超える米軍人を相手にしました。恐ろしかったけれど金を儲けてやるのだという一念で、歯を食いしばり耐えました。そのうち訓練場所が移ると私たちも荷物をまとめてついて歩きました。毛布一枚を持って歩く私たちは、自分たちを毛布部隊と呼びました」
 90年代に入りチームスピリットはなくなったが、規模が小さくなった韓米合同軍事訓練は依然として毎年数回ずつ、釜山、浦項、鎮海などで実施され、そのような訓練があるたびに数多くの基地村女性たちが訓練場付近に集められた。
 日本軍「慰安婦」に対しておこなわれた虐待と殺人行為を聞くたびに、我々はその残忍さに怒った。しかし、現在この国の多くの基地村女性たちが、依然として米軍人の虐待と殺人にさらされながら生きていることを知る人はそれほど多くない。世に知らされた事件は尹クミ氏殺害事件程度である。しかし基地村には第二、第三の尹クミがあまりにもたくさんいる。米兵と結婚して米国、日本、グアム、ヨーロッパなどに移住した後、そこで離婚され、生きる手段を失ってまた再び慣れない土地で売春をすることになる場合も多い。この女性たちの生活はとうてい言い表すことはできない。米軍人の夫によりずたずたに殺害された金ブニク氏と二人の子どもの事件、簡単な裁判で「息子を殺した」という罪を着せられ、5年間も監獄に入っていなければならなかった宋ジョンスン氏の事件、国際結婚して米国に行った後失踪した劉ケヘ氏など。基地村女性たちの人権状況は非常に劣悪である。米兵たちのなかには最初から韓国行きの命令が出たとき、米国にいる国際人身売買団と契約を結んで前払い金を受け取って韓国女性と結婚し、米国に戻ってから残りの金を受け取り、女性をブローカーに売ってしまう者もあらわれている。
 年を取った基地村女性たちのなかには、日本軍「慰安婦」として連れていかれ、九死に一生を得て韓国に帰ってきたものの、純潔を失ったという考えから故郷に帰ることができず、基地村で売春するようになったという、悲惨な過去を告白する人びともいる。このような人びとは家族と何十年間も連絡をとらず、彼女らが戦争で死んだのか生きたのかも、家族には知られず、基地村で寂しく病魔と闘っている。あるハルモニ(おばあさん)「は、60歳を越えても生計のためにしかたなく売春をしたという。
 このように、日本軍「慰安婦」の歴史は解放と同時になくなったわけではない。いまでも基地村の女性たちにそのまま続いているのである。

 二重、三重の被害
 多くの人びとは「まだ基地村があるのか?」とたずねる。この問いのなかには駐韓米軍の存在もかなり変わってきており、米軍人たちがおこす問題も前と同じではないという意味が込められている。事実、基地村の昨日と今日ではかなり違う。駐屯米軍と基地村の女性たちの数も前と違って減少した。そして基地村でくり広げられている問題もいまやそれほど深刻にはみえないかもしれない。いまは米軍から受ける被害に対して声を高めて語り要求することもできる。しかし、いまだに駐韓米軍は韓国に存在する。それによる被害もやはり同じであり、基地村の女性は、米兵だけでなく韓国社会に存在する偏見により二重、三重の被害を受けている。それは昨日も今日も同じである。
 1977年、東豆川で米軍を相手に生計をたてている李ジョンスク氏が、米兵に暴力をふるわれて、三日間、眼球出血がとまらなかった。この事件が起ると、多くの人びとは暴行の事実を考えることにより、李ジョンスク氏のふだんの行動を問題にしたりした。93年、京畿道松炭でおきた米軍出身の父によるニ子殺人事件でも、人びとはむしろ妻である韓国女性を非難した。妻が浮気をしていると誤解した夫は、自分の二人の子どもの首を締めて殺害した。この事件がおこると、ある米兵は、「おれもヤンキーだ、女が浮気して夜遅く帰ってきたらおれも殺してやる」と話した。米兵だけでなく、周辺の韓国人たちも「子どものが殺されるくらい女が悪いことをしていたんだ」と話しながら眉をひそめた。
 基地村の女性たちのなかには、米兵から被害を受けても訴えたり明らかにしない場合が多い。米兵を訴えたという事実一つで米軍と基地村で商売する人びとからいじめられるからである。このように基地村女性たちは米軍だけでなく韓国社会からの目に見えない被害に苦しめられているのである。
 韓国女性が、駐屯している軍人に被害を受けているということは明白な人権侵害である。現代社会が進むにつれて人権に対する関心と声は高まっている。しかしさらに疎外された人びとの事件、すなわち基地村の女性たちの事件に対する権利は、いまだすべて問題にされないまま、我々は先進社会を云々しているのではないだろうか。人権、それは犯罪のような被害事例に積極的に対応するだけでなく、このような女性たちが、そして基地村地域がもっと肯定的な生きかたができるようにする社会全体の努力も含まれる。
    ※厳(オム)サンミ『基地村女性と子どもの健やかな生をつくる場』より

 
 

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 駐韓米軍と基地村の女性

2022年12月28日 | 国際・政治

 今月の21日、外交史料館において、湾岸危機(掃海艇派遣、避難民輸送)、海部総理訪米、ゴルバチョフ・ソ連大統領訪日、ソ連崩壊、海部総理訪中といった、1991年の外交案件に関する外交記録(ファイル等19冊分)が一般公開され、原本の形での閲覧が可能になったということです。

 その中の湾岸危機に関わる「極秘文書」について、先日、朝日新聞が「掃海艇派遣 迫り続けた米国」と題して取り上げていました。
 それによると、米政府は日本政府に対し、「目に見える貢献」を求め、①自衛隊の掃海艇派遣②米海軍の追加的作戦費用の半分の分担(年間1億ドル)③米軍艦の修理費用分担④在日米軍経費負担の大幅増額という選択肢を示したということです。
 その記事に関して見逃してはならないと思うことは、当時、アメリカの大統領が、自衛隊の掃海艇派遣を働き掛けた事実は報道されず、公表されてもいなかったことです。
 また、アメリカが日本の憲法を知らないわけはないことを踏まえると、この働き掛けが、アメリカという国の対外政策や外交政策の本質をよくあらわしているように思います。
 憲法に違反する自衛隊の掃海艇派遣を受け入れると、政権維持が難しくなるため、当時の海部政権がその代替策として実施したのが、130億ドルという莫大な財政支援でした。それも、アメリカの要求通りで、日本自らの積算根拠がなかった実態も判明したといいます。あきれます。

 そうした歴史を頭に置いて、今回の岸田政権の防衛費増額をとらえると、アメリカの働き掛けに基づくものであろうことは容易に察しが付くことだと思います。中ロの台頭によって、アメリカの覇権や利益が危うくなっているといわれている現在、日本は、アメリカと一体となって、中ロに敵対しなければならない立場に、無理矢理、立たされているのだと思います。

 アメリカの働き掛けが察せられるのは、「ニカラグアに対するアメリカの影響力行使と日米合同委員会」で取り上げたように、岸田首相が2023年~27年度の5年間の防衛費について、総額43兆円とするように浜田防衛相と鈴木財務相に指示したという報道があったからです。アメリカの働き掛けが、通常あり得ない防衛予算決定の手続きにあらわれたと思うのです。  
 防衛予算は、防衛省の関係者がさまざま状況を踏まえ計算して作成するものだと思います。部分的には、首相が指示することもあるかもしれませんが、 5年間とういう長期の防衛費を首相が指示するということは、手続き的にあり得ないことだと思います。現場を無視した決定であり、独裁的決定だと思います。

 それを暗に非難しているのが、朝日新聞(12月23日付)の「防衛費増額への警鐘」と題する、元海上自衛隊自衛艦隊司令官香田洋二氏に対するインタビュー記事です。香田氏は、「今回の計画からは、自衛隊の現場のにおいがしません。本当に日本を守るために、現場が最も必要で有効なものを積み上げたものなのだろうか」と疑問を呈しているのです。

 だから日本は、アメリカの桎梏から逃れ、自主自立の道を進むようにしなければ、日本の富を収奪されるばかりでなく、第二のウクライナとして、利用される心配もあるように思います。
 
 下記には、「清潔な女性を供給しようという韓国政府の努力」と題された文章があります。民主主義や自由主義を掲げるアメリカが、韓国の独裁者と手を結び、独裁政権を動かして、基地村買売春を、直接的、集中的に管理し取り締まる体制をつくらせているのです。
 「在韓米軍 犯罪白書 駐韓米軍犯罪根絶のための運動本部」徐勝+広瀬貴子(青木書店)には、すでに取り上げた2件の事件のほかに、強盗、強姦、殺人、暴行など16件の事件が取り上げられています。今回は、それらを省略し、「基地村」についてまとめられている文章の一部を抜萃しました。
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                 トピック 駐韓米軍と基地村(キジジョン)の女性

 韓国の歴史を見ると、米軍や日本軍が、外国勢力または占領軍として売春をはじめとするさまざまな反社会的機能を韓国社会に根深く残したことがわかる。しかし長いあいだ、韓国人は日本軍が犯した蛮行について話すのとは異なり、米軍の存在と問題に対しては相当に寛大であった。いままで米国が韓国現代史のなかでどのような役割を果たしたのか、その過程で韓国社会に及ぼした政治的、文化的機能に対して韓国社会は問題としてこなかった。日本帝国を朝鮮半島から追い出した米軍の政治的、軍事的恩恵に対して、韓国国民はその代価を黙って支払わなければならない立場に置かれていたからである。とくに解放後、米軍政期間と朝鮮戦争を経ながら、韓国社会は米国を「兄の国」と考えることで、駐韓米軍の駐屯の必要性を事実以上に極大化させた。このような「反日、親米、反共」の雰囲気のなかで米軍犯罪や米兵らによる買売春問題は無視されてきた。そんななか、米軍は解放軍でなく、第二の占領軍としてこの地に駐屯しながら、韓国社会に多くの問題を生じさせた。買売春問題において果たした役割は非常に大きく、買売春文化を韓国に定着させ、米国と見まがう姿へとつくりあげた。米軍は解放後からいまにいたるまで、韓国社会で矛盾発生源として機能している。

 要衝地ごとに基地村
 韓国売春文化史をみると、米軍は解放直後、軍政実施の7なかで日本式の公娼文化を断絶させる中心的役割を果たしながら、同時に朝鮮戦争を経て新しい買売春文化を移植し定着させた存在であった、という事実がよくわかる。米軍は韓国の軍事的、社会的要衝地ごとに自分たちだけの買売春空間である基地村を形成して、新しい形の買売春文化を導入しながら、その基地村買売春文化を全国に拡散させた。米国式の基地村文化の定着は日本帝国植民地支配による朝鮮半島公娼化の過程より速い速度で進行した。その過程で過去の公娼構造が積極的に利用された。多くの米軍基地が、以前日本軍基地があった所にあり、過去に、日本軍を相手にした売春女性と商業地区も基地村女生と基地村へと変貌した。この過程で、国内で日本軍を相手にした売春女性だけでなく、中国や日本から九死に一生を得て戻ってきた日本軍「慰安婦」女性たちが、故郷に帰ることができず、今度は米軍基地村で売春をすることになるというひどいこともおこった。
 朝鮮戦争以後、朝鮮半島全域には米軍が主要都市別に主力部隊を進駐させ、つづいて全国各地に米軍基地村が形成された。釜山の基地村は西面(ソミョン)一帯、別名「ハヤリヤ部隊」周辺と海雲台(ヘウンデ)の弾薬部隊、第三埠頭付近の輸送部隊、補給倉庫周辺の凡一洞(ボムイルドン)一帯と草梁(チョリャン)周辺が代表的なものである。富平(プビョン)と釜山は代表的な軍事後方都市として基地村化された。全基地村のなかで最も有名であったのは京畿道披州郡州内(チュネ)面延豊(ヨンブン)一里、別名ヨンジュコル一帯であった。そのほかにもヨンジュコルと隣接した延豊ニ里テチュボルとムンサン邑仙遊四里、披州里、そして抱川、東豆川、永北(ヨンブク)面ウンチョン里、議政府、ソウル市龍山の米第八軍本部をとりまく厚岩洞と梨泰陰一帯、平澤郡松炭邑新場里、烏山(オサン)、大田(テジュン)、大邱、倭館(ウェグァン)、春川、群山、木浦、鎮海にいたるまで首都圏と軍事的要衝地の米軍が駐屯する場所ごとに基地村ができた。
 基地村文化は米軍と基地村女性を中心に形成され、彼らを顧客とするサービス業中心の生活圏が形成された。外国人専用酒場であるクラブや米兵、基地村女性、米軍基地PX(売店)から流出する外国製品販売の責任者、闇ドル商、売春宿の主人、美容院、クリーニング店、洋服店、写真館、土産物店、肖像画店、ビリヤード場、国際結婚仲介業などの商人たちを中心として特殊な形態と機能をもつ基地村が形成され、新しい基地村文化が定着して拡散した。このように解放後の米軍政から始まった米軍の駐屯により全国のいたるところが米軍基地になり、貧困のためなんらか生存手段を探す多くの韓国女性を基地周辺に引き込み、さらにその周りに彼女たちに寄生して生計を立てようとする多くの韓国人が集まった。
 これまで、どれほど多くの基地村女性がいたのか調べるのは不可能である。売春のかたちがクラブ売春から契約同居まで多様であり、潜在的な売春女性まで含めて考えるとその数を把握するのは困難といえる。概算すると約40年間の基地村売春女性 の総人口は25万から30万人と数えられる。基地村が最も活況を呈した1960年代中盤には、3万人の基地村女性がおり、80年代初めにいたって2万人に減少した後、90年代はじめには再び急増している。

 米軍から直接受けた被害
 基地村が繁盛するにつれ、韓国人が米兵から受ける被害も多くなった。しかし韓国社会のいずこにおいても、このような問題について知らせたり、問題を発生させる主体を明らかにしようという努力はそれほど多くなかった。そのような努力があったとしても、それはすぐに「反米」や「容共」と罵倒された事実はだれでも知っているだろう。
 基地村女性は米軍に最も近いので、米兵がひきおこす犯罪の被害者になるよりほかなかった。以前に比べて犯罪は発生件数はいくらか減っているかも知れないが、依然として女性たちは米軍から被害を受けつづけている。このことは、東豆川で92年の尹クミ氏と、96年の李基順氏が米軍人により残酷に殺害された事件をみるだけでも証明される。また「友好国」の軍人として「おまえたちの国を守ってやっているという、多くの米兵の意識は、基地村女性への態度としてそのまま現れている。

 清潔な女性を供給しようという韓国政府の努力
 1971年夏、米軍のあいだに人種差別が原因で白人・黒人間のケンカが基地村ごとにくり広げられた。米軍当局がこのケンカを仲裁する過程で、米兵たちの要求事項のなかに「基地村の女性たちは汚い。我々は韓国を助けるために来たVIPなのに待遇があまりにも粗末である」という不満が多くあった。それで米軍当局は韓国政府に基地村の浄化を要求した。ちょうど韓国政府は米国の在韓米軍縮小政策と関連して顔色をうかがっていたときだ。
 60年代末から米軍撤収説が広まると「ニクソン・ドクトリン」が発表されて、60年代末には約6万2000人であった米軍から71年には約2万人が撤収し約4万5000人水準になった。駐韓米軍は歴代の韓国独裁政権を維持させるのに決定的な役割をしてきたため、米軍が撤収するということはそのまま朴正煕政権が危うくなることを意味した。朴政権は米軍当局の要求を即刻受け、その前までは保社部(保健社会部)で個人病院に依頼したり米軍により不定期におこなってきた性病診療を、毎週実施するようにして全国の基地村に性病診療所を建てた。韓国政府が基地村買売春に深く介入し、直接的、かつ集中的に管理と取り締まりを実施するようになったため、基地村買売春は公娼の性格を帯びてきた。

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協力関係を深め、ともに米軍の犯罪に対すべきでは・・・

2022年12月24日 | 国際・政治

 「在韓米軍 犯罪白書 駐韓米軍犯罪根絶のための運動本部」徐勝+広瀬貴子(青木書店)を読むと、韓国でも沖縄をはじめとする基地周辺での米軍犯罪や騒音問題その他、同じような問題が発生していることがわかります。
 そして、戦後の米軍犯罪の起源が朝鮮の分断にあるという認識がなされていることもわかります。
 1945年8月15日、朝鮮は、日本の過酷な植民地支配から解放されたということで、その日のうちに、朝鮮人の自由意思による民族国家を樹立すべく、朝鮮建国準備委員会を組織し、活動をはじめています。
 でも、朝鮮建国準備委員会が進めた南北朝鮮による「朝鮮人民共和国」の建国は、朝鮮半島南部に駐屯した米軍による軍政によって、潰されてしまいます。
 だから朝鮮では、日本の敗戦当初、米軍は「解放軍」と受け止められたようですが、実態は、新たな「占領軍」であったという認識が生まれるのだと思います。
 そして、日本と同じように、戦後、朝鮮も米軍犯罪や騒音問題その他に悩まされてきたのです。
 だから私は、協力関係を深め、ともに問題解決を目指すべきではないかと思うのです。
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                     第一章 米軍犯罪

                     Ⅰ 主要米軍犯罪
1 ケネス二等兵の尹クミ(ユンクミ)氏殺害事件
          事件発生日時 1992年10月28日未明
          事件発生場所 京畿道東豆川市保山洞 金ソンチョル氏宅の一室
          被害者 尹クミ(女 当時26歳、米軍専用クラブ従業員)
          加害者 マークル・リー・ケネス三世
             (当時20歳、米第二師団ニ五歩兵連隊五大隊二等兵)
 事件概要
 1992年1月28日、京畿道東豆川市保山洞にある米軍専用クラブ従業員だった尹クミ氏が殺害された。同日午後4時30分頃、家の主人である金ソンチョル氏が遺体を発見したとき、被害者は裸体で子宮にはビール瓶2本、さらにペプシコーラのビンが局部に突きささるように押し込まれていた。
 米第二師団に勤務するマークル・リー・ケネス二等兵は尹クミ氏の頭をコーラの瓶で乱打し、血を流して死んでいく女性の子宮にコーラの瓶を押し込み、肛門にカサの柄を突っ込んだのである。体はあざと打撲傷だらけで、正視できない無惨な姿であった。全身に白い合成洗剤の粉がまかれ、口には折ったマッチの軸が噛ませてあった。
 事件発生時間は10月28日午前1時頃と推定され、死亡原因はコーラの瓶で殴られたことによる顔面陥没および出血多量と判明した。

 結果
 事件が発生するや議政府(ウィジョンプ)警察署強力係(強盗・殺人のような重罪を担当する。日本では強行犯捜査係)刑事一部では刑事40名を動員して捜査に当たり、米軍側でも軍捜査隊を出動させて韓・米合同で捜査が始まった。
 尹氏の子宮のなかで(死体解剖によって)発見されたビールビンの諮問から、ケネス二等兵は10月30日に米第二師団ゲート前で捕まった。
 94年4月14日、ソウル刑事地方法院 417号法廷で開かれた一審裁判において無期懲役が宣告され、94年12月16日、控訴審宣告公判で懲役15年に減刑された。尹氏の遺族が米政府から7100万ウォンの賠償金を受領して、民事手続きが終ったという理由からだ。ケネス二等兵は再び上告したが、94年4月29日、大法院一号法廷で開かれた裁判において棄却され懲役15年に確定した。
 米国の公式謝罪と犯罪者である米兵の拘束捜査を要求するデモが続いて行われたが、犯人は(未決の段階では)最後まで拘束されなかった。懲役15年と確定してから94年5月17日になってようやく身柄が韓国側に引き渡され、天安(チョンアン)少年刑務所に収監された。事件発生から1年6ヶ月がたったときのことである。しかし韓米行政協定22条には、大韓民国法院が宣告した拘禁刑に服役している場合にも、米国の要請があれば韓国政府は好意的配慮をするようになっており、ケネス二等兵が米国に送還される可能性がまったくないとはいえない状態だった。

 マークル・リー・ケネスのその後
 東豆川で尹クミ氏を残忍に殺害した米兵ケネスが刑務所内で騒動を起こした事件が後になって明らかになった。
 ケネスとリチャード・ダフ(ダフは殺人未遂犯である。93年12月16日、京畿道坡州(ハジュ)郡に所在するエドワード基地前で、タクシー運転手・韓昌烈(ハンチャンヨル)氏の首を後ろからナイフで刺して、懲役5年の宣告を受けている)は天安刑務所に服役中の囚人である。彼らは共同で謀議し、95年5月5日、10時30分頃に外国人収用舎棟である第5舎で犯行をおこした。その日は子どもの日で休日であった。
 米兵たちは、受刑者への食事および手紙の配達が翌日に延ばされた、と刑務官をののしった。ケネスはコーヒーのガラスビンを廊下のアクリル窓に投げつけ、窓を割った。ダフは廊下にあった粉末消火器を刑務官の朴ソムスンと宋チャンホに噴射した。続いてケネスも廊下にあった粉末消火器をつかんで刑務官に向かって噴射した。彼らは公共機関で使用されている器物を破損し、韓国公務員に物を投げつけるなど騒動をおこしたのである。
 ケネスとダフは公務執行妨害、公共器物破損の罪名で追加起訴され、96年1月15日に懲役8か月を宣告された。
ーーー
2 サロイス兵長の金菊恵(キムググケ)氏への性暴行事件
      事件発生日時  1993年5月29日0時
      事件発生場所  ソウル市瑞草洞レーベン・ホーフ
      被害者     金菊恵(女、当時53歳、レーベン・ホーフ経営者)
      加害者     ジョン・ロジャー・サロイス(当時27歳、米第ニ師団所属 兵長)

 事件概要
 1993年5月29日、ソウル市瑞草(ソチョ)洞で、「レーベン・ホーフ」を経営する金菊恵氏は7,米第二師団所属ジョン・ロジャー・サロイス兵長から殴打と性暴行を受け、脳挫傷などの重傷を負った。事件当時サロイス兵長は殺虫剤の缶とこぶしで被害者が気を失うまで殴るけるの暴行をつづけ、犯行後に逃走した。
 事件発生12時間後に発見された金菊恵氏は永東(ヨンドン)セブランス病院に移され脳手術を受けたが、脳へのダメージは大きく、その後遺症の障害を背負って生きていくことになった。
この事件では最初、加害者の性暴行の有無について異論が出された。しかし、事件現場で被害者がパンティとパンティストッキングを脱がされた状態で発見された点、サイロス兵長が真夜中すぎの営業が終わる時間に一人でいる被害者を訪ねて来た点、金氏が強姦されたと証言した点などは性暴行をさらに具体的に立証するものであった。
 サイロス兵長は性暴行を一貫して否認していた。事件を担当した韓国の瑞草(ソチョ)警察署刑事課では、「強姦致傷」でサイロスを検察に送致した。しかし担当検事(尹ジョンソク)は証拠がないとして単純暴行容疑で起訴し、裁判で公判検事(趙ヨンソン)は「暴行行為など処罰に関する法律違反」で懲役7年を求刑した。
 ところが宣告公判を前にして、被害者の意識が一定程度、回復した。担当検事が永登浦(ヨンドゥンホ)聖母病院に入院していた被害者に会って調査書の作成をしたところ、被害者は自分が性暴行を受けたと陳述した。調査書は裁判部に提出され、性暴行の有無について争論が法廷で本格的に提起された。しかし趙ヨンソン検事は被害者の陳述を黙殺したまま、いかなる補充捜査もせず、被害者を証人として申請しないまま裁判を進めようとした。そこで担当裁判部(ソウル刑事地方院六単独、河ガンホ判事)は職権で被害者を証人として採択した。
 法廷で被害者は自分が性暴行を受けたと(気は失ったがその点ははっきりしていると)陳述した。しかし、趙ヨンソン検事は形式的な質問をいくつかしただけで、結審では初めの求刑のまま暴行罪で7年を求刑した。これを見ていた裁判部が「この事件は法により懲役15年まで求刑できる」として、検事の求刑を制止した。あわてた趙ヨンソン検事は、それでは懲役10年に処してください」と求刑量を変えたのである。
 宣告公判で、裁判部は「被害者が性暴行を受けたことは認められる。暴行罪を考慮し、懲役10年に処する」と判決した。裁判が終った後、「駐韓米軍犯罪根絶のための運動本部」(以下「運動本部」とする)代表団は、趙ヨンソン検事を訪ねて検察の態度に抗議し、即刻、(検事側から)控訴して強姦罪を追加起訴することを要求した。しかし趙ヨンソン検事は「被害者のいうことをどうして信じるのか」と拒否した。
「運動本部」代表団が裁判部の判決をとりあげながら重ねて抗議すると、「担当する事件が多くて、記録を検討する時間がない」と弁解しながら、結局量刑に満足しており、追加起訴はしない意思を明らかにした。
 一方、サイロス兵長は、一審判決を不服として、控訴した。控訴審でも初めは性暴行の有無に関する調査がないまま裁判が進行した。「運動本部」で性暴行の有無を明らかにするようにという趣旨の書簡を裁判部に送った後、公判が再開された。裁判部(控訴五部)は当時の捜査チームの一人である蔡(チェ)ハクシク刑事を証人として採択した。
 9月16日、蔡ハクシク刑事に対する証人尋問において重大な事実が明らかになった。担当捜査チーム(蔡ハクシク、朴チャンシク、崔ビョンイル刑事)は事件初期に認知報告書を通して「諸状況から性暴行の嫌疑が濃厚であり、被害者の膣分泌物を採取して国立科学捜査研究所に鑑定依頼した」と報告した。ところがこれは明白なうそであった。捜査記録のどこにもその結果に関する報告はなく、蔡ハクシク刑事も国立科学捜査研究所に依頼しなかったと陳述した。この点を追求する裁判部と検事の質問に対して、蔡ハクシク刑事は、「首を痛めて二か月間休んでいたのでよく思い出せない。わからない」と弁明した。蔡刑事は、国立科学捜査研究所ではなく永東セブランス病院に鑑定依頼したのだが、結果はなんの反応もあらわれなかったと聞いたような気がすると陳述した。しかし医師がだれだったのかはわからないと答えた。反応があらわれなかったという結果が、なぜ報告されなかったのかという裁判部の質問にはついに答えることができなかった。すべてが虚偽であるからだ。

 結果
 「運動本部」では蔡ハクシクなど担当警察官3名を職務遺棄、公文書偽造などの嫌疑で告発したが、警察は蔡ハクシク刑事にたいしてのみ「公文書偽造」などの嫌疑を認めた。そのうえで、「これまでの警察官としての功労が認められる」として不起訴処分にした。
 一方で裁判部は検事の要請で被害者、金菊恵氏を94年10月14日の公判において証人として採択、尋問した。尋問で金氏は性暴行を受けたと陳述したが、検察は追加起訴や控訴状変更もなく控訴棄却を要請した。10月26日に開かれた宣告公判において担当裁判部は、一審判決の強姦罪に対しては証拠不十分を理由に破棄して暴行罪のみにし、原審の懲役10年を破棄して懲役2年6ヶ月を宣告した。
 結果的に、韓国警察の故意あるいは過失で決定的な証拠が隠滅され、犯行米兵は非常に軽い処罰ですむことになった。
 これは民事関係にも作用し、3900万ウォンの賠償を受けるにとどまった。(被害者の治療費はすでに2000万ウォンを超えたが、治療の継続が必要な状態であり、いまも苦痛を訴えている)。
 一方で犯人サイロス兵長は、95年1月、天安刑務所に収監されたがあ、8月15日に金泳三(キムヨンサム)政権の8・15(光復節、日本の植民地支配から解放された記念日)特赦で釈放された。

 


            

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アメリカと中ロの対立は、民主主義と権威主義の対立?

2022年12月16日 | 国際政治

 下記の「日米安保条約関連米政府解禁秘密文書」は、「米政府安保外交秘密文書」新原昭治編訳(新日本出版)から抜粋したものですが、日本は、何とかしてアメリカの桎梏から逃れる方法を考えないと、再び「敗戦」に似たような酷い目にあうのではないかと心配です。

 今日も、NHKを中心とする主要メディアは、国民に反中や反露の感情を抱かせるような報道をしていましたが、その報道内容は、多分独自の取材に基づくものではなく、アメリカからもたらされたものであろうと思いました。報道機関には、最近相当強いプレッシャーがかかっているのではないかと想像しています。
 アメリカは、ロシアや中国にさまざまな制裁を課していますが、共存しようとする姿勢がほとんどないと思います。その中ロに対する制裁の強化や、周辺国に対するプレッシャーの強化は 、中ロの台頭によって、ヨーロッパやアジア地域におけるアメリカの覇権や利益が危うくなっていることを示しているのだろうと思います。
 したがって、制裁の強化やプレッシャーの強化のもっともらしい理由付けは、ほとんど根拠のないもので、本質的にはアメリカ・ファーストの利己的なものであることを見逃してはならないと思います。日本が、アメリカの軍事戦略に従って、「敵基地攻撃能力」などを保有すれば、アメリカがチャンスと判断したときに、先制攻撃をしかけることになる可能性が大きいと思います。

 中国は、アメリカの半導体輸出管理措置に関して米国をWTOに提訴しましたが、そうした対立関係は、アメリカと中ロの争いが、決して民主主義と権威主義の対立などでないことを示しているのであって、日本は何とかして、アメリカのプレッシャーを乗り越え、従属的立場から脱却することが大事だと思います。
 
 下記の抜粋文にあるのですが、かつてアメリカは、極秘に、”在日米軍人の刑事裁判権に関する条項は、最大の難所だったといえよう。結局、北大西洋条約の同種の条項が、NATOで米軍人に関し発効した時点でこれを日本に適用する、それまでの間、在日米軍は米軍人へのほとんど全面的な裁判権を保持するとの妥協が成立して、解決をみた。しかし、実際には秘密了解ができ、日本側は大筋として裁判権の放棄に同意しているのである。”などと、日本に対する不当な対応を前提にして、情報のやり取りをしていたのですから。 
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                 Ⅰ 日米安保条約関連米政府解禁秘密文書        
《1》 国務省情報報告書『日本側の日米安全保障取り決め改定の要望』(国務省極東調査部作成【1957年1月22日付 国務省情報調査局「情報報告」第7421号】

  ◇報告書はしがき◇略
 一 はじめに
 日米両国の軍事関係は、安全保障条約および同条約と一体の行政協定(後の地位協定)を基礎としてできている。この日米関係に、日本は不満を抱いている。それは、そういうことになった状況の結果としてであり、またその特徴が不平等なもので、日本を対米従属の地位においたとみなされているせいである。在日米軍の駐留、米国の目的といった問題については、大衆はちょっとのことで興奮しやすい。そこで、保守の指導者たちでさえ、「調整」や「改定」が必要だとのべる始末である。もっとも、そうはいっても、条約や協定のどういう修正が必要かという具体的提案をしているわけではない。今後、日本は日米安保条約、行政協定で取り決められた関係を大幅に変えようと、まちがいなく強く迫ってくるだろう。
 この関係で予想されることだが、日本政府は、このほど締結されたソ連軍駐留に関するソ連・ポーランド協定を、入念に読もうとするのではなかろうか。同協定は第二条で、ポーランドに駐留するソ連軍の兵力規模を両国合同で決定すること、基地区域外でソ連軍が行動するさいその都度ポーランド側の同意が必要なことを規定している。日米間の条約・協定には同種の規定がないので、日本側は将来、交渉の場で持ち出すかもしれない。
 日本政府スポークスマンが具体的な改定を提案していない段階で、現につづいている安保問題での日本の不満の背景を知るには、どんな状況下で日米安保条約と行政協定が締結されたかをふりかえるのがいい。
 安保条約の起草は、のちに1951年、対日平和条約の締結でおわりをつげた多国間交渉と、時間的に並行してすすめられた。安保条約の条文は、1951年9月8日のサンフランシスコでの調印までは、ごくわずかの日米両政府関係者以外、だれにも知らされていなかった。もちろん、一般の国民はその内容を知る由もなかった。吉田首相だけが日本代表として調印したのも、、残りの日本側全権大使は条約の内容を知っていなかったからだった。日本政府関係者も国民も、日米安保条約はある意味で、強制が生みだした産物だと考える傾向がある。そう考えるのは、日米安保条約交渉を特徴づけてきた秘密のせいであり、安保条約が占領時代に締結されたという事実のせいでもある。
 行政協定の締結交渉は、1952年2月、国務省のディーン・ラスクと陸軍省のアール・ジョンソンを責任者とする特別使節団が、東京でおこなった。米政府筋は非公式に、もし満足できる行政協定が仕上がらないなら、ワシントンとして平和条約と安保条約の発効を認めるわけにはいくまいと、報道機関に語ったこともあった。当然、日本側関係者は、時間の圧力を思い知らされ、明白な強制の低意を重ねて感じさせられたのだった。行政協定交渉は約四週間行われ、最後に一致点に達した。在日米軍人の刑事裁判権に関する条項は、最大の難所だったといえよう。結局、北大西洋条約の同種の条項が、NATOで米軍人に関し発効した時点でこれを日本に適用する、それまでの間、在日米軍は米軍人へのほとんど全面的な裁判権を保持するとの妥協が成立して、解決をみた。しかし、実際には秘密了解ができ、日本側は大筋として裁判権の放棄に同意しているのである。行政協定交渉では、有事のさいの手続きも、むずかしい論議になったが、リオ条約を参考にした。より一般的規定にすることで一致をみて終った。
 二 日本の不満
 今日、日本人が日米安保条約と行政協定の内容に対して抱いている不満のおもなものは、以下の通りである。
[A] 相互性の欠如
 日米安保条約第1条は、日本国内とその付近に米軍が駐留する権利を、日本が許し、米国が引き受けるむね規定しているが、これは韓国や中華民国〔台湾政権=訳者〕との条約と類似のものである。少なからぬ日本の政治家が、米国は日本を基地として使用する権利をもっているのに、日本にはなんらの見返りも与えられていない、といっている。ダレスは上院に日米安保条約承認を求めるにあたり、米国はこの条約で日本に何の約束もしていないと強調したが、それを問題にしているのだ。日本がもし攻撃を受けたら、米国が日本を守ることは現実問題として確かなことだと、何人もの米国の指導者がのべてきた。だが、日本側は、米国にもっときっちりとした約束をしてもらいたいと考えている。日本国憲法が軍事力保持を禁止しているので、米国としては相互主義にもとづく約束はできないし、この相互主義が認められない場合、議会での承認は絶対不可能というわけではないが、非常にむずかしい。そのことは、折にふれて、日本側に伝えてある。

 [B]存続期間
米国が締結している他の安全保障条約では、一方的通告の1年後に脱退することができる。これにたいし、日米安保条約では第四条で、日本区域における国際の平和と安全の維持が国際連合の措置もしくはこれに代わる安全保障措置によって満足できる程度に守られていることに、双方が同しない限り、条約の効力はつづくむね規定している。日米安保条約の存続期間が無限で、脱退の自由もなく、相互主義も保障されていないことにくわえて、極東での米国の目標にたいし無知であることも手伝って、日本の指導者は恐れを抱いている。いまはアメリカだけに不当に有利で、将来いっそう厄介なものになりそうなしがらみに、限りなく長期間まといつかれるのではないかという恐れである。

[C]核兵器ならびに、報復攻撃を招くことへの日本人の恐れ
 日米安保条約のもとで日本と協議しないで、核兵器を持ち込む権利を与えられていると、米側ははっきりのべてきた。これにたいし、日本の政府も報道機関も大衆も、幾度となく深い憂慮を表明してきた。日本側のもう一つの憂慮は、米国が協議抜きで在日基地から核兵器を使用できるという立場をとっているのではないか、という点にある。この問題で、安保条約の規定はあいまいである。米国は、日本側の恐れをできるだけ少なくするよう努めている。同時に、核兵器の導入(イントロダクション)や核兵器使用に先だって協議をおこなうという約束も、いっさいしないようにしている。この問題は、日本における米軍飛行場滑走路延長への反対行動の背景に横たわっている問題であり、極東で危機的状況が発生したら、まちがいなくきわめて深刻な問題に発展しよう。日本人がだれでも嫌い恐れているのは、国土がふたたび攻撃の目的にされることである。極東で敵対行為起きた場合、もし米軍が在日基地を利用したら、たとえ敵対行為の直接の当事者でないときでも日本には報復攻撃が加えられるのではないかと、日本人の多くが不安を感じている。

 [D]基地
 平和条約調印直後、日本国内では米軍があまりにも多く軍事基地を持ち過ぎているという厳しい憤りが、しばらくのあいだひろがった。米軍がが接収した土地面積は、日本の主な四つの島の中で最小の四国全体に匹敵すると非難され、そうひろく信じられた。やがて、この非難は大幅に鎮静化した。米軍がだんだん土地を手ばなし、大都市の高級不動産物件から出ていったためである。

 [E]行政協定
 行政協定は、合衆国軍隊の構成員、軍属、家族の出入国手続き、輸入、PX、税関、通貨の特権に関し、NATO地位協定や米国・フィリピン基地協定よりも大幅な免除措置を規定している。日本の政府当局者はこの問題に関心を払ってきたが、大衆的な反対運動を誘発しているようには思えない。とはいえ、普通の日本人が税負担や生活水準の格差に注意を向けている。米軍の特権が問題にされるとき、これが憤激をまきおこす種になっていることも時々ある。米軍人が以前、もうけのために米国製自動車を勝手に輸入し販売した事件が、敵意を含んだ多くの批評のネタにされたこともあった。
 行政協定第十二条の内容は、NTO地位協定の第九条と同種のものである。在日米軍に代わって日本政府が雇用している日本人の労働条件の細目は、「基地労務契約」によって律せられている。同契約は、1952年に失効したが、それ以降は新契約の交渉が行われている間、1ヶ月毎の単位で更新されている。契約案の内容は、在日米軍と全日本駐留軍労働組合との係争の争点になっている。

 《付表》
 略
 

 

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アメリカの中南米支配と日本の支配

2022年12月13日 | 国際・政治

 かつて、客観的な工業力をはじめとする国力の差を無視して鬼畜米英を煽り、絶大な犠牲を国民に強いたアジア太平洋戦争の指導者の多くは、敗戦後、いつの間にか日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(アメリカ)と手を結び、再び国民にさまざまな苦難を強いる政策を進めているように思います。

 下記のようなラテンアメリカの歴史をふり返ると、私は、昭和天皇が、米軍の沖縄駐留について”25年ないし50年あるいはそれ以上の長期”を求めたといういわゆる「天皇の沖縄メッセージ」も、ほんとうは、アメリカの意向を受け入れたに過ぎないものだったのではないかと想像します。
 天皇は、連合国軍占領下の日本において、総司令部司令官のダグラス・マッカーサーと11回にわたり会見を行っています。でも、天皇は1976年、その会見の内容について、”秘密で話したことだから、私の口からは言えません”と語り、また、1977年には、”マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした”、”男子の一言のごときことは、守らねばならない”などと述べて、会見の内容及びマッカーサー個人に対する感想などについては、明らかにしなかったといいます。だから、その時、米軍の沖縄駐留に関する「天皇の沖縄メッセージ」の件その他の重要事項が話し合われたのではないかと想像するのです。

 現在もなお、米軍が日本の法規に縛られない状態にあり、占領終結後も多くの特権を持ち続けているのは、かつての戦争指導層が、アメリカの意向を受け入れ、手を結ぶことにしたからだろう、と私は思います。
 アメリカが、中南米諸国やアジア諸国で、独裁政権を支援してきた政策は、日本では戦争指導層と手を結ぶということだったのだろうと思うのです。独裁政権と手を結び利益を共有してきたアメリカは、日本では戦争指導層と手を結び、お互いに利益を共有することにしたのではないかということです。

 現在日本は、周辺国による脅威の高まりを理由に、敵基地攻撃能力の保有防衛費の大幅な増額の方向に話しが進んでいるようですが、それは、日本防衛のためというより、中国を睨んだアメリカのアジア政策に基づくものではないかと思います。中国や北朝鮮(やロシア)が、日本に上陸侵攻し、軍事占領を目論むというようなことはほとんど考えられないことだと思います。中国も北朝鮮も、アメリカを恐れているのであって、日本の軍事占領など考えてはいないように思います。でも、アメリカの意向に沿って、危機が迫っているかのように騒ぎたて、敵基地攻撃能力の保有や防衛費の増額は避けられないことのような雰囲気をつくっていると思います。そして今、その増額分をどこから捻出するかという議論に集中しているようですが、私は、日本を東アジアのウクライナにしないために、アメリカの意図を見抜いて対応する必要性があると思います。その負担は、あまりに大きく、また、緊張を高め、危険を伴うことだと思うからです。

 下記は、「エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章」田中高氏編著(明石書店)から、アメリカのエルサルバドルやホンジュラスに対する関わり方を知ることのできる部分を抜萃しました。
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                     Ⅰ エルサルバドル

         第7章 長期化した軍事政権の背景──軍部派閥型政治が生んだ激しい政権交代

 1970年代後半、ラテンアメリカでは多くの国で軍事政権を経験した。この時期、民主制を維持できたのは、コスタリカ、コロンビア、ベネズエラなど数えるほどしかない。エルサルバドルの場合は、1931年にマルティネス将軍が大統領に就任してから、82年に制憲議会選挙により、銀行家のマガーニャ(Alvro Magana)が暫定の大統領職に就くまでのじつに半世紀にわたり、軍部(あるいは軍部出身者)が政権を握った。
 ラテンアメリカで特徴的な軍事政権による統治スタイルは、権威主義と呼ばれている。権威主義は通常三つのタイプに分類される。それは軍部官僚型、軍部派閥型、個人独裁型である。エルサルバドルの場合はこのうち、軍部派閥型に入ると理解されている。軍部派閥型の特徴は、経済発展が遅れていた国では、中間層出身の将校が、社会的・経済的地位の向上を政治的な手段によって実現する傾向が強くなる。将校たちはパトロン・クライアント関係(擬制的な親族関係を媒介とする温情的な主従関係)に基づく派閥を形成し、軍部内での権力伸長に努める。パトロン・クライアント関係で結ばれた仲間や部下に収入や地位を提供するために、派閥同士の政権争いが激化する、と説明されている。
 要するに、貧しい国の中間層出身者にとっては、軍人は社会的・経済的に上昇の見込める貴重な職業である。軍部内には、パトロン・クライアントで派閥が形成され、派閥間の抗争が繰り広げられる、ということである。たしかに軍部派閥型という類型で、エルサルバドルの軍事政権を分析すると、なるほど、とうなずける。大きな政治の流れを理解するには、権威主義の枠組みは明快である。ただエルサルバドルに固有の事情もたくさんある。
 この国の政治の舞台に、軍人が登場するのは、なんといっても1932年の大虐殺事件以後のことであろう。詳細は4章をご覧いただきたいが、マルティネス将軍は左翼勢力による反政府運動を徹底的な弾圧で乗り切った。ある意味でこれは危機管理の政権であった。さらに第二次世界大戦の勃発は、戦争遂行上の目的からアメリカをして、政治的な安定性を重視し、非民主的でも独裁政権を支持する
という方針に傾かせた。かくしてマルティネス政権は44年まで続く。問題はこのあとである。
 マルティネス政権以後の、政治の混乱ぶりはつぎのようである。政権を握ったのは、44年5月、イグナシオ将軍、同年10月、サリーナス大佐、45~48年、カストロ将軍、48~50年、国家評議会政権、50~56年、オソリオ少佐、56~60年、レムス中佐、60~61年、国家評議会政府、61~62年、軍民評議会政府、62~67年、リベラ大佐、67~72年、エルナンデス将軍、72~77年、モリーナ大佐、77~79年、ロメロ将軍。
 エルサルバドルの大統領の任期は5年である。そうすると任期を全うした大統領は数えるほどである。いったい何ゆえに、かくも激しく軍事政権が交代したのか。パトロン・クライアント関係に起因する権力争いという側面だけで説明しきれるものではないであろう。これ以外にもさまざまな要因があるはずである。
 もともとエルサルバドルの将校グループには、卒業年度によっては、タンドーナなどの士官学校同期生の横の強い結びつきがあるとされている。さらに将校の出身地の同郷グループが存在し、地方出身者と都会出身者ではっ人権の認識について微妙なギャップがある。政治的傾向としては、保守派、中間派、進歩派に分かれる三つのグループがある。もちろんこうしたグループに、パトロン・クライアント関係が存在するわけで、先に紹介した権威主義の説明はそのまま当てはまる。
 強調しておきたいのは、政権交代の循環性である。それはほぼ次のようなパターンである。(1)新政権による権力の集中、(2)国民の不満の増大とこれに対する弾圧、(3)軍内部進歩派グループの台頭、(4)クーデターの発生、(5)新政権による諸改革案の発表、(6)軍部内保守派の台頭、(7)保守派によるクーデターというパターンが繰り返されたのである。70年代にはこのような形の政権交代がもっとも典型的に起きたが、そのプロトタイプはすでに50年代、60年代から始まっていた。
 このような政権交代の循環性は、単なる権力争いというよりも、政策をめぐる対立、国民の不満の現出の仕方とその強さ、それに対する富裕層の対応などに左右されたといえよう。国民の不満の表れは、たとえば1960年に創設されたキリスト教民主党(PDC)が72年の大統領選で、同党のドゥアルテ(Jose Napoleon Duarte)候補が事実上勝利したにもかかわらず、軍の介入で亡命を余儀なくされた事件に象徴される。富裕層の最大の関心事は、国民全体の福祉ではなくて、自分たちの既得権をいかにして守るかであった。そのために軍部を支持した。
 民主化を求める動きを軍は徹底的に弾圧したが、国民の不満を緩和するための政策には、必ずしも消極的であったわけではない。79年にスタートした軍民評議会政権には、軍の改革派と左派勢力(そのなかには、FMLNのゲリラメンバーも含まれていた)が肩を並べて参加したのである。軍人のなかには、「上からの改革」に積極的に取り組もうとした人びともいた。さらにアメリカは、キューバ危機以来の反共政策の枠組のなかで、中米における左翼政権の出現を恐れていたから、軍事政権を容認した。日本を含む先進各国は、中米共同市場の進展のなかで投資先の安定を優先し、軍人たちに危機管理の役割を求めたのである。
 かくして軍事政権は長期に続くこととなった。軍人は軍内部=身内のクーデターについては、寛容であった。しかし軍から権力を剥奪させる動きには強く抵抗した。民主化を求める政治勢力には徹底して弾圧を加えた。軍は自分たちが支配下におく政党、国民融和党(PCN)をフルに使って選挙戦をうまく乗り切り、軍事政権を支えたのである。
 民主化を求める国民の声が実現するには、12年という年月と、数多くの尊い人的犠牲を払わなければならなかった。取り返しのつかない人命の損失。大黒柱を失い残された家族は経済的苦境に立たされた。満足に教育を受けることができなかった児童も多い。国立大学も閉鎖された。同じ国民が敵味方にわかれたので、それだけ憎しみも増した。橋や道路、送電線網などのインフラも破壊された。歴史上に「イフ」は禁物だろうが、遅くても60年代に民政移管に成功していたならば、エルサルバドルは現在よりもずっと発展していたことは間違いない、と思う。   (田中 高)
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                     Ⅱ ホンジュラス         
                   第19章 最初のバナナ共和国 
               ★巨大なアグリビジネスによる経済支配のはじまり★

 読者はバナナ・リパブリック(共和国)という言葉を耳にしたことがあるだろうか。英語の意味は「小国」とか「政情不安定の」、あるいはその国の政治家が腐敗していることをさす時に使われる。蔑称と言っても差支えないであろう。もともとバナナという言葉自身が、フルーツそのものを指す以外にも、性的なスラングだったり、東洋人への差別的な用語だったりする。さらにエスがついてバナナスとなると、頭がおかしい、熱狂するという具合にも使われる、
 じつはこのあまり有り難くない呼称を最初に冠されてしまったのは、他でもないホンジュラスであった。ホンジュラスの歴史はバナナのプランテーション栽培とそのために大挙してやってきたアメリカ人たち(とその資本)によって大きく「歪んで」しまった。さらにつけ加えると、アグリビジネス(ここでは農産品生産と加工、流通の多国籍企業という意味で使う)は、このバナナ・プランテーションと密接に結びついている。世界で最初にアグリビジネスがバナナ生産を大規模に開始したのは、ホンジュラスのカリブ海沿岸地方だった。ホンジュラスは20世紀初頭から第二次世界大戦が終るまで、世界最大のバナナ輸出国として君臨した。そういう意味ではホンジュラスという国は、アメリカ資本主義による多国籍企業が生まれ育った、重要な土地のひとつであるといっても過言ではないだろう。
 最初にホンジュラスで大規模なバナナ・プランテーションを操業したのは、ユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFC)という会社であった。UFCについてもう少し補足説明しておく。同社の設立は1899年である。コスタリカで大西洋岸のリモン港と首都サンホセを結ぶ鉄道建設に携わっていた、アメリカ人のマイナー・C・キース(Minor C.Keith)がUFC設立の主人公である。鉄道建設の資金難から、キースは鉄路周辺にバナナを植えることを思いつき、予想外の成功を収めた。彼はカリブ海を舞台にバナナビジネスで富を築いていた。アメリカ人の「ベーカー船長」の経営するボストン・フルーツ社と合併する道を選び、これがUFCとなる。当時は零細なバナナ業者が多数存在していた。そこでUFCは、これらの会社を吸収し、やがて巨大なバナナ帝国を築くことになる。
 ホンジュラスとUFCとの関係を見る上で欠かせないひとりの人物は、ゼムレー(Samuel Zemuray)である。ゼムレーの名前は「バナナ王」として歴史に刻まれている。15歳の時にニューオーリンズ港でバナナのたたき売りを見てすっかりこのフルーツのとりことなった彼は、やがてホンジュラスに渡る。彼はそこで成功を収める。当時のバナナ会社と時の政権は、いろいろな意味で利害関係にあった。中米各国は一様に社会資本の整備が遅れていた。とくにホンジュラスはその兆候が顕著であった。20世紀初頭、バナナの積み出し港であるラ・セイバからニューオーリンズまで船で3日間で行くことが可能であった。しかしこの港から内陸に位置する首都テグシガルパまで、ラマの背中に乗って一週間以上かかったのである。鉄道建設とそれに付随する電話線の架設が、中央政府の大事な課題であった。
 政府が自ら建設するだけの財政上の余裕はないので、政府は鉄道建設と引き換えに、さまざまな権利を委託した企業に譲許した。こうして鉄道建設の利権をめぐって、UFCとライバル関係にあったクヤメル・フルーツ社(後のスタンダード・フルーツ社)などが、政財界を巻き込んで競い合うという様相を呈するに至るのである。
 さて先に登場したゼムレーは、1923年にはバナナ運搬船などの会社を巧みに吸収しながら、スタンダード・フルーツ会社(SFC)を設立する。SFCはホンジュラスだけでなくニカラグアやパナマでも、バナナの生産やそれに関連する諸々の産業(鉄道建設とバナナボートの運行が重要だった)を展開する。歴史の皮肉としかいいようがないのは、UFCと激しいライバル競争を繰り広げていたゼムレーがその後、UFCの最大株主となり、1929年の大恐慌を経て、事実上の経営権を握ってしまったことである。そして同業他社への呵責容赦ない攻撃的な経営で、瞬く間にバナナビジネスを支配した。
 ホンジュラスのカリブ海側の中心都市であるラ・セイバに隣接したテラという港の周りには、アメリカから派遣されたUFC関係者のためのホテルや住宅、それに覆い囲むように造られた美しい公園やゴルフ場、プールなどがあり、さながら一大リゾート地帯の様相を呈している。以前は関係者以外立ち入り禁止で、大多数の住民の羨望と憎しみの的であったが、現在は一般の人間でも利用できるようになった。とはいえ料金は高く、庶民にはとてもアクセスできるものではない。利用者の多くは一部の富裕層か、外国人の観光客である。
 UFCはバナナ生産だけではなく、それに関連するさまざまな事業を瞬く間に手中に収めていった。生産地と港を結ぶ道路や鉄道、港湾施設、さらにホンジュラスからアメリカの消費地まで輸送するための高速船であるバナナボート網、加えて銀行などの金融機関の事実上の支配であった。こうしてバナナ帝国が築かれたのである。バナナは腐りやすいフルーツで、収穫から消費地に到達するのに、二週間以内でないと、商品価値がなくなってしまう。このあたりが、保存期間の長いコーヒーや藍、砂糖などのトロピカルプロダクツとの大きな違いである。バナナ生産とその流通組織の発達が、企業の近代マネージメントのスタートになったといわれる理由のひとつも、ここにあるといえよう。
 UFCなどのバナナのアグリビジネスが大規模生産を行ったのは、大西洋岸にバナナ生産適地を持つグアテマラ、コスタリカ、ニカラグアであった。幸か不幸かエルサルバドルは太平洋岸しか持たないので、中米では例外的にバナナ生産は行われなかった。そしてこのようなアグリビジネスがあまりにも巨大化して、最大の土地所有者になっただけでなく、各国の政治家も巻き込んだスキャンダルを生んだ。グアテマラでは1954年、社会改革路線を掲げたアルベンス(Jacobo Arbenz Guzmn)政権は、巨大化し事実上の経済支配者となっていたUFCの所有する土地の国有化を宣言した。これはグアテマラ革命と呼ばれている。これに反応したアメリカのアイゼンハワー政権は、CIAを使ってクーデターを起こし、親米派のカスティジョ・アルマス(Carlos Castillo Armas)政権を据えることに成功した。これ以後グアテマラの民主化は、大幅に遅れることになる。
 ホンジュラスの場合は、隣国グアテマラで起きたような、劇的な「革命」は起きなかった。むしろ穏健な社会改良型の政策を志向した。1950年代から80年代にかけて、軍事政権が続いたが、土地改革には比較的熱心に取り組み、ある程度の成果をあげた。この間、アグリビジネスは歴代政権の事実上のパトロンとして影響力を行使し、バナナビジネスの権益を守った。
 かくしてアメリカの巨大資本と現地政府が利害を共有し、国民の福祉向上などにはあまり配慮しない「バナナ共和国」が誕生した。ホンジュラスは今でも、この外国資本依存型の経済構造から抜け出せないでいる。くわしくは24章をご覧いただきたいが、この国の経済はまだまだ脆弱である。しかし、政府の確たる経済政策が打ち出されたことはなかった。かりに政策目標があったとしても、それを強力に推進するだけの行政府の力(ガバナンスともよばれる)は、残念ながらすこぶる弱体であった。現在ホンジュラスに求められているのは、このガバナンスの強化に他ならない。    (田中高)
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             20 モラサン将軍の夢と挫折
            ★中米連邦主義を唱えた国民的英雄★

 ・・・
 モラサンが活躍したのは、この地域が独立と連邦の形成という大変動を経験する時期でもあった。独立後の中米には、大きく分けて二つの政治勢力が存在した。ひとつは保守派である。彼らは植民地時代の体制維持を理想として、政府の役割をあまり重要視しなかった。したがって経済発展をめざすための各種公共事業や輸出振興には消極的であった。さらに政治的にも経済的に相当の影響力を持っていた教会権力に口を挟むことはしなかった。他方自由派と呼ばれたグループは、政府の役割を重視し、農業や輸出の振興、道路建設や港湾施設などのインフラストラクチャーの整備、通信、教育の分野への積極的な参加をめざした。教会の権力に対しては、抑制する立場であった。モラサンは自由派の代表として活躍する。
 1827年から29年にかけて、モラサン将軍はホンジュラス、エルサルバドル、そしてグアテマラの各地に兵を進めて、保守派の勢力を一掃する。1830年には大統領に選出され、ごく短期間の空白の後に、1835年に二期目の大統領となり39年に任期を全うする。彼のあとを継ぐ実力者がいなかったこともあり、副大統領であった義理の弟が大統領となった。
 ・・・
 モラサンがめざしたのは、中米諸国が一体となり、アメリカやヨーロッパ列強の手中に落ちるのを防ぐ、という単純な発想であった。これは今でも時として知識人が話題にする、中米連邦主義とよばれる思想の源流である。そこには深遠な哲学や思想があるわけではない。しかし彼らがその理想を追求してやまない姿は、歴史家の関心を引いてきた。欧米の勢力に対抗しようとしたにもかかわらず、現実にはイギリスの権益を拡大させてしまったという批判もある。とはいえ今でもモラサン将軍はホンジュラス人の英雄である。彼の銅像が、テグシガルパの中央公園に大きくそびえ立っている。

 

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ニカラグアに対するアメリカの影響力行使と日米合同委員会・・・

2022年12月09日 | 国際・政治

 先日、岸田首相が2023年~27年度の5年間の防衛費について、総額43兆円とするように浜田防衛相と鈴木財務相に指示したという報道がありました。
 ふり返れば、2021年8月、防衛省は中国の軍事力拡大に対応するため、前年度に引き続き高水準の防衛費が必要と判断し、2022年度予算の概算要求額を、前年度の要求額の5兆4898億円と同水準の5兆4000億円台とする方針を発表していました。それが今回、5年間総額43兆円(年間8兆円を超える)防衛費にするようにという岸田首相の指示ですから、驚くべき増額だと思います。
 そして、防衛費の大幅な増額や敵基地攻撃能力の保有にも増して驚くのが、防衛費の増額を、首相が防衛相や財務相に指示したという逆転現象です。通常、防衛予算は、防衛省がさまざま状況を踏まえ、要求するものだと思います。部分的には、首相が指示することもあるかもしれませんが、 5年間とういう長期の防衛費を首相が指示するということはかつてなかったことではないかと思います。
 だから私は、「天の声」があったのだと思います。「天の声」は、日米合同委員会や、日米のCIA職員、また、そうした人たちと考え方を共有する人たちからもたらされるアメリカの意向です。したがって、岸田首相を問い詰めても、何も答えは返ってこないだろうと思います。
 また、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設計画を巡り、最高裁は先日、県側の上告を棄却する判決を言い渡しました。この最高裁の判決も、「天の声」があって、どうすることもできないのだろうと思います。
  
 今回は、「エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章」田中高氏編著(明石書店)から、ニカラグアに対し、アメリカがどのように関わってきたのかについて記述された部分を中心に抜萃しました。
 下記の抜粋文には
” ここで一点指摘しておく。ひとつはソモサ王朝の形成に果たしたアメリカの役割である。いうまでもなく国家警備隊の創設からソモサ政権の発足に至るまで、アメリカの意向が強く反映している。
 とか
ロナルド・レーガン元大統領は、コントラ(反政府武装ゲリラ)に格別の愛着を持っていた。なんとなれば彼はかつて「自分もコントラである」と公言してはばからなかったからである。レーガン政権は発足直後から旧ソモサ体制時代の国家警備隊のメンバーを中心とするコントラに秘密援助を開始した。1984年までに支出した金額は1億ドルを超えると報じられた。85年7月には、議会で侃々諤々の議論の末、2700万ドルの人道援助がコントラに支出されることが正式に承認された。
 というような記述があります。アメリカは、ニカラグアの独裁政権発足を支援したり、革命後のサンディニスタ政権転覆のために、コントラ(反政府武装ゲリラ)を援助したのです。
 アメリカが、他国に対し、このような法を無視した影響力を行使する国であることを踏まえて、ウクライナ戦争をとらえ、日本の問題を考える必要がある、と私は思います。
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                  34 サンディーノ将軍の抵抗運動

 革命政権時代(1979~90年)、アウグスト・セサール・サンディーノ(Augusto Cesar Sandino)は文字通りニカラグアの英雄であった。マングアだけでなく国中の町の至るところに、彼の肖像画が掲げられ、彼の思想を伝えるおびただしい数のパンフレットや書籍が、町中に置かれてあった。政権政党であったサンディニスタ民族解放戦線党(FSLN)の名称はもちろん彼の名前に由来しているし、サンディーノの思想を研究し実践する目的で設立された国立のサンディーノ研究所なる組織もあった。サンディーノとはいったいどのような人物で、どのようなことを成し遂げたのか、まずは時系列で彼の人生を紹介することにしたい。
 ・・・
メキシコから帰国したサンディーノは「アメリカ帝国主義打倒」を掲げて、民族解放解放運動に身を投じていくが、その思想はマルクス・レーニン主義を教条的に受け入れたものではなくて、すぐれてニカラグアの精神風土、土着習慣、この国のを取り巻く国際環境に根ざしたものであった。ニカラグアという小国(=善)に侵攻したアメリカという大国(=悪)が、「善対悪」という素朴な二元論で説明された。サンディーノはまたこの二元論によって、封建的な大土地所有制がもたらす富の偏在(=悪)にも着目して、土地解放(=善)を唱えた。彼は当時の知識人や活動家が好んで用いたコミンテルンの難解な用語を使うことを避けて、宗教的な用語や、わかり易い平易な言葉で農民、労働者、学生たちに語りかけたのである。
 サンディーノが活躍するのは1912年~25年、26年~33年の二度にわたりニカラグアに侵攻してきたアメリカ海兵隊との戦闘である。当時自由派(=党)と保守派(=党)の対立が続き、国内は混乱していた。1923年から32年までの10年間に、6人の大統領が乱立している。そのなかでサンディーノとの関係が深かったのは、自由党のホセ・マリア・モンカーダ(Jose Maria Moncada 1929~1932年大統領)である。
 1926年12月に海兵隊が大西洋岸のブルーフィールズ、プエルト・カベサス、リオ・グランデなどを占領し、「中立地帯」を宣言したことなどで、サンディーノ、モンカーダ、ファン・パウディスタ・サカサ(Juan Bautista Sacasa 1933~36年大統領)などの主だった自由党のメンバーはこれに対抗すべく武装蜂起する。1927年5月、アメリカの特使ヘンリー・スチムソン(Henry・L・Stimson 1929~33年国務長官)の仲介で、モンカーダと保守派のアドルフォ・ディアス(Adolfo Diaz 1911~16年大統領)との間で休戦協定が結ばれる。モンカーダはこれを受けて、北部の山岳地帯でゲリラ戦を続けていたサンディーノに、休戦すべく電報を送る。これへのサンディーノの返事が、その後たびたび引用されることになる、次のようなものであった。
「こうとなったからには、私のもとにきて、私を武装解除なさい。私はここであなたを待ちます。私は如何なる条件にも譲歩しません。私は自分を売ることもしないし、降伏もしない。(no me rindo)。私は自分の義務を果たし、私の抵抗は将来、血をもって記録されるでしょう」。この言葉のなかでスペイン語で紹介した部分が、革命政権時代に、アメリカとの内戦を鼓舞するスローガンによく利用されたのである。
 サンディーノ率いるゲリラ部隊(正式名称ニカラグア民族独立防衛隊、サンディーノは将軍の肩書を好んだ)は3000~6000人の兵士を率いて海兵隊との戦闘に善戦した。またメキシコやエルサルバドル、アルゼンチン、ドミニカ共和国、コスタリカ、コロンビア、ベネズエラなどからの参加者もいて、ラテンアメリカの反米抵抗運動のはしりという性格も持ち合わせた。参加者にはエルサルバドル、の著名な革命家である、ファランド・マルティ(Farabundo Marti)の名前もある。
 このようなサンディーノのゲリラ戦に手を焼いたアメリカ政府は、、ルーズベルト大統領(在1933~45年)の善隣友好政策という新たな外交要素も加わり、1933年、海兵隊の撤退を決める。同時に国家警察隊を創設し、この司令官に親米的なアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(Aastasio Somosa Garcia)を置いた。他方1932年の選挙で大統領に選出されたサカサは翌33年1月、海兵隊の撤退を条件としたサンディーノとの和平合意に成功し、3週間後にはゲリラ部隊の武装解除が行われた。
 ところが、34年2月、サンディーノは彼の弟ソクラテスと部下の将軍2名とともいにソモサ支配下の国家警備隊の手によって暗殺されてしまう。彼の遺体の行方は現在もあきらかにされていない。かくしてニカラグアの悲劇的な英雄の足跡の歴史が、半世紀後にはアメリカのレーガン政権とサンディニスタ革命政府との間で繰り返されることとなったのである。
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                 35 ソモサ独裁の誕生と崩壊

 ニカラグアにはかつて、三人のソモサ大統領がいた。それはアナスタシオ・ソモサ・ガルシア( Aastasio Somosa Garcia ニックネームはタチョTacho。1896年生1956年没。1937~47年、1951~56年の二度にわたり大統領)、ルイス・ソモサ・デバイレ(Luis Somoza Debayle 1922生、67年没。1956年~63年大統領。タチョの長男)、アナスタシオ・ソモサ・デバイレ( Aastasio Somoza Debayle ニックネームはタチート Tachito 1925年生、80年没。1967年~72年、1974~79年の二度にわたり大統領。タチョの次男)の三人である。
 ラテンアメリカの政治史には、長期にわたる独裁政権の例はいくつもある。ドミニカ共和国で31年間君臨した、トルヒヨ、(Rafael Leonidas Trujillo Molina)大統領の例はあまりにも有名である。しかしそれでも、親子三代で42年間に及ぶソモサ王朝の独裁の記録にはかなわない。そもそもこのような王朝はどのようなメカニズムでスタートし維持されたのだろうか。
 王朝の土台を築いたのはタチョである。彼はマナグアとグラナダの中間にある町サンマルコスで生まれた。父親は保守党の国会議員で、中規模のコーヒー園主だった。彼の人生を大きく変えたのは、アメリカでの生活だった。フィラデルフィアにある実業学校を卒業したことで、当時のニカラグア人には珍しいバイリンガルとなった。さらに彼は熱烈なアメリカ文化の信奉者で、ニカラグアの内政介入に強い関心を持っていたアメリカの歴代政権と利害を共有することになった。加えてニカラグアの名門で自由派のデバイレ家の娘(サルバドーラ・デバイレ)と結婚したことで、タチョの社会的なステータスは上昇した。
 1926年に保守党のディアス政権を武力で倒した功績で、タチョは将軍の肩書を授与される。モンカーダ政権時代(1929~32年)には外務次官の要職につく。この時代に彼の卓越した英語能力が遺憾なく発揮された。とくに後日国務長官に就任するスティムソンはタチョをかなり評価していたようで、強力にバックアップした。アメリカは海兵隊の駐留に反対するサンディーノの反米ゲリラ闘争のエスカレートに頭を悩ませていた。そこで海兵隊の撤退と引き換えに、国家警備隊の創設を画策した。直接統治から間接統治への転換を選択したわけである。そしてその間接統治の要になる役割を、タチョが担うことになる。
  国家警備隊という暴力装置をコントロール下においた彼は自由党(PLN)から立候補し、形ばかりの選挙を経て、1937年大統領に就任する。反対政党をたくみに操りあるいは弾圧して、事実上の一党独裁体制を築いていく。さらに貪欲に利権を手中にしながら、第二次世界大戦中のアメリカからの各種援助やドイツ人、イタリア人の財産を没収して私腹を肥やした。タチョは1956年、レオンでニカラグア人青年の凶弾で殺害された。この時彼の遺産は、1億ドルから1億5000万ドルにのぼると推定された。ソモサファミリーはニカラグアで最大の地主となり、食肉加工、サトウキビ生産、セメント会社、ミルク加工、繊維、政府系金融機関、公共交通機関などの事実上のオーナーとなって行った。こうした国家の私物化(小型家産国家の成立)が後に国民の憎しみの対象となり、1979年の社会主義革命へと結実していく。
 ここで一点指摘しておく。ひとつはソモサ王朝の形成に果たしたアメリカの役割である。いうまでもなく国家警備隊の創設からソモサ政権の発足に至るまで、アメリカの意向が強く反映している。しかし第二次世界大戦前後にかけてアメリカが独裁政権を支援し擁護したのはニカラグアだけではなかった。エルサルバドルでは、伝説なマクシミリアーノ・エルナンデス・マリティネス政権が1931年から44年まで続いている。グアテマラではホルヘ・ウビコ・カスタニェダ政権が1931年から44年まで続く。ホンジュラスでも11933年から49年までティブルシオ・カリアス・アンディノ政権が続いた。いずれも軍人出身で将軍の肩書を持つ独裁者たちである。
 1929年の大恐慌の出現から第二次世界大戦までの間、中米諸国はアメリカの経済圏に組み込まれながら、従属的な発展のパターンを進んでいく。そのプロセスで、アメリカにとっては中米諸国の「政治的安定」が何よりも大事だった。たとえ民主的な手続きを経なくても、継続して政権を維持し、アメリカの権益と外交政策に従順な態度を示せば、独裁政権でもこれを支持したのである。このあたりのことは、かつてフランクリン・ルーズベルトがタチョを「あの男はろくでもない輩だ。でも「われわれの側のろくでもない輩だ」と評したことに端的に表れている。
 問題はニカラグアの場合この独裁政権が、異例の長さにわたって続いたことであろう。1960年代から1970年代にかけては、都市の中間層の経済力がかなり伸びてきて、ソモサ王朝への反対も強力なものになっていく。王朝は盤石とはいえなかった。それでも何とか79年まで持ちこたえた。その原因はどこにあるのか。このことについてもう少し考えてみる前に、タチョの後継者となった二人の息子の末路をたどることにしたい。
 長男ルイスはソモサファミリーのなかでももっとも穏健な思想をもっていたようである。アメリカで教育を受けた後帰国すると、弟のタチートとは対照的に軍務には関心を示さずに、政治家の道を歩んだ。PLNの国会議員の後に国会議長となり、父が暗殺された後に大統領に就任した。ソモサ王朝批判への懐柔策ではあったが住宅建設、社会保障制度、土地改革などにも一定の成果をあげている。さらに言論の自由や反政府的活動家の釈放も実施した。ルイスの目指した体制は、メキシコ型の一党独裁体制だった。形式的にはソモサ一族ではなくて、PLNによる統治をめざした。そうすることによって、世論の批判をかわそうとした。この点で国家警備隊の実権を握り、力による支配に強い関心を寄せていたタチートと鋭く対立した。1963年、ルイスは45歳の若さで心臓発作により急逝した。
 ソモサ王朝の最後を締めくくるのは次男のタチートである。彼はアメリカの名門士官学校ウエスト・ポイントを卒業後、ニカラグアに帰国すると同時に国家警備隊に入隊。大統領だった父の意向を受けて、短い間にトップにのぼり詰めていく。タチートは父と同じく、ソモサ王朝の権力の源泉が武力=国家警備隊にあることをよく認識していたようである。ニカラグアには、先進国にあるような上意下達の近代的な組織は(教会を除いて)ほとんど存在しない。国家警備隊はある意味でじつによく整備された組織であった。軍隊ばかりでなく、諜報・治安機関であった。厚遇を条件に兵士の相互監視を厳しくし、密告を奨励した。ソモサに「批判的な隊員はすぐに逮捕され厳罰をくわえられた。その結果ソモサ体制への忠誠度は高かったのである。
 タチートは1967年、兄の死を受けて大統領に就任する。ルイスとタチートの両方の時代を知るニカラグア人の多くは、弟(タチート)の時代になってから独裁体制がひどくなったという感想を述べる。反政府勢力への容赦のない弾圧が行われ、人権侵害について国際的にも糾弾された。タチート自身は対立する政党の保守党に国会の議席の40%を配分したり、アメリカとの友好関係を維持しようと腐心する。こうしたなかで1972年のマナグア大地震が、この国の形そものもを大きく変えてしまった。首都は消滅してしまった。この時のタチートの行動が、国民の根強い不信感、憎悪を生むことになる。国際社会から送られてきた善意の救援物資を、タチート(=国家警備隊)が横領したという噂がマナグアだけではなく世界中にひろがった。加えてマナグア郊外の自分の所有地に、官庁を新たに建設したりした。はなはだしい国家の私物化が大地震を境に進んでしまった。
 かくして1979年7月のサンディニスタ革命を迎えることとなる。タチートは一時期家族とともにマイアミに避難するが、その後パラグアイに亡命し、80年9月に暗殺された。ソモサ王朝がなぜかくも長期間にわたって続いたかについては、さまざまな要因があると思われる。政治的には最大の反政府勢力であった保守党が、ソモサに抱きこまれてしまったこと。あるいはアメリカも結局、ソモサ一族に決定的な引導を渡すまでの役割は果たそうとしなかったこと、なども要因のひとつではあろう。
 ただ直接的な有力な要因は、なんといっても国家警備隊という諜報・治安組織を家族で支配していたことではなかろうか。権力のよりどころをどこに求めるのか、ということは民主的な制度のもとであれば、民意、すなわち自由かつ公正な選挙で選出された代表議員による多数決による議決である。それを支えるのは、三権分立の大原則であろう。しかしニカラグアではそうしたプロセスは発達しなかった。私兵化した軍隊が国家装置の中心に置かれ、反政府勢力への弾圧を行った。暴力がソモサ王朝を継続させた、大きな要因のひとつであろう。そしてソモサ一族はこのことを(他の中米のどの独裁者よりも)よく認識していたのである。
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                 38 レーガン大統領とコントラ

 ロナルド・レーガン元大統領(Ronald Wilson Reagan 1981~1989年在任)は、コントラ(反政府武装ゲリラ)に格別の愛着を持っていた。なんとなれば彼はかつて「自分もコントラである」と公言してはばからなかったからである。レーガン政権は発足直後から旧ソモサ体制時代の国家警備隊のメンバーを中心とするコントラに秘密援助を開始した。1984年までに支出した金額は1億ドルを超えると報じられた。85年7月には、議会で侃々諤々の議論の末、2700万ドルの人道援助がコントラに支出されることが正式に承認された。
 よくよく考えてみると人道援助とはいえ、アメリカという超大国が政府として公式に武装ゲリラに資金提供するのだから、かなりきわどい話である。しかも対コントラ援助はさらにエスカレートして、86年6月には援助額は1億ドルに跳ね上がった。このうち7000万ドルが軍事援助で残りの3000万ドルは食料・衣料・医薬品などの人道援助とされた。この時も議会でアメリカの民主主義の根本にまでさかのぼるような、原理原則論が闘わされたが、結局承認された。そしてなぜか当時、一般世論や議員たちは高尚な(?)議論に明け暮れていたためか、この費用を誰がどのようにして捻出するのか、という基本的な問いを発することはなかった。これが後述するように、イラン・コントラスキャンダルを生み、レーガン政権は窮地に立たされることになる。コントラについてもう少しくわしく説明すると、これは統一した組織というよりも、おおよそ三つのグループの寄せ集めであった。最大の規模を誇っていたのは、ホンジュラス領内に秘密基地を有していたFDN(ニカラグア民主軍)である。総兵力は1万4000人くらいで、旧ソモサ時代の国家警備隊のメンバーが主力であった。創設にはアルゼンチンの軍事顧問やCIA(アメリカ中央情報局)の軍事援助があった。組織の主導権を握っていたのは、政治面では実業家出身のアドルフォ・カレロ(Adolfo Calero)、軍事面ではエンリケ・ベルムデス(Enrique Berumudes 国家警備隊元大佐)という二人の人物であった。
 さらにARDE(民主革命同盟)というゲリラ組織が82年9月に結成された。ARDEの主たる活動拠点はコスタリカとニカラグアの国境地帯であった。兵力はFDNよりもずっと少なくて、1000人から2000人程度であった。ARDEが有名になったのは、組織の中心人物がエデン・パストーラ(Eden Pastora)だったからである。パストーラはサンディニスタ革命の英雄であり、78年8月に国家宮殿を占拠して、ソモサ体制下の閣僚や議員など多数の人質をとり、ソモサ政権に痛手を負わせた作戦の指揮官であった。革命後は国防大臣のポストのついていた。しかし路線上の対立から政権を離れ、こともあろうに反革命武装闘争に身を投じた。非常に個性が強く、剛直でもあったが、理想家肌でカリスマ性も備えていて、国民に人気があった。パストーラの強い個性の影響もあり、ARDEとFDNとの連携はあまりよくなかった。
コントラを構成していた三番目のグループは、大西洋岸に居住していたミスキートと総称される先住民族であった。もともと大西洋岸のセラヤ地区とよばれる一帯は、1678年から1894年までイギリスの保護下に置かれていて、人種的にも文化的にも、多数派であるスペイン系の国民とは異なる性格を持っている。言語も土着化したクレオール語などで、中央集権的な国家建設を目指していたサンディニスタ政権の路線とは鋭く対立した。彼らはKISAN、MISURASATAなどの独自の反革命ゲリラ組織を結成した。それぞれ1000人くらいの戦闘員を抱えていた。前者はホンジュラスに、後者はコスタリカとニカラグアとの国境地帯に本拠地を置いていた。
 コントラはだいたいこの三つのグループで構成されていたが、上述のようにその目的あるいは目標はそれぞれかなり異なっていた。FDNはいってみれば旧ソモサ派の残党の集まりだし、ARDEはパストーラの個人的な手勢とという趣である。ミスキートは問題の根が深くて、現在でも大西洋岸の自治の動きと中央政府とは微妙な関係が続いている。(大西洋岸は独自の議会を持っていて、自治権もある程度は認められている。
 コントラの最大公約数が、反革命政権ということだけで、アメリカとの利害は一致した。アメリカにとっては、革命政府を打倒することが、最優先事項となった。コントラ法案可決へのなみなみならぬ意気込みが、このことを物語っていた。しかしここに罠が潜んでいた。イラン・コントラ事件である。アメリカと敵対関係にあるイランに対して、武器商人を通して秘密裏のうちに武器を売却し、その利益をコントラやイスラエルへの秘密援助に充てるというスキャンダルを、政府が正式に認めたのは86年11月のことである。その後1年余りにわたり上院・下院の合同調査委員会が設置され、政界を揺るがせる事件となった。4ヶ月間で32人の証人が証言台に立ち、テレビ中継された。この渦の中で、国家安全保障担当の大統領補佐官であったロバート・マッカーファレン(RobertC・McFarlane)
が自殺するという痛ましい出来事も起きた。
 調査のプロセスで明らかになったのは、ジョージ・シュルツ(George P.Shulz)国務長官や国防長官であったカスパー・ワインバーカー(Casuper Weinberger)など政権の中枢にいた人々が反対したにもかかわらず、国家安全保障会議の若手スタッフの独断専行で、秘密取り引きが実行に移されたということである。その中心人物は海兵隊のオリバー・ノース(Oliber North)中佐であった。彼は証言台に立ち、武器取り引きにかかわったことを率直に認めた。のみならず、そのことがアメリカの国益になるという信念を持っていたと証言した。アメリカ人がレバノンで人質となる事件が起きていて、武器売却はその見返りであるという主張もされたし、武器を売却した相手が、イラン内の対米穏健派で、彼らの発言力を増すために実行した、という説明もなされた。しかしながら秘密取り引き自体が、アメリカの民主主義の伝統の根幹を揺さぶるものであるという事実は否定しようもなく、レーガン大統領は厳しく非難された。
 ちなみにノース中佐は、アメリカの一部保守派から英雄視された。1994年にヴァージニア州の上院議員選挙に共和党から立候補したが落選した。ラジオのパーソナリティやコラムニストとしても活動している。一方コントラの活動はこの事件以後、かなりの組織上の改編を余儀なくされた。三つのグループは国民抵抗軍(RN)という統一組織に組み替えられた。また指導部も交代した。
 ニカラグア内戦はもはや、実際に従軍したり家族が犠牲となった人びとを除いては、歴史上の出来事になってしまったようだ。大多数の日本人には、いまや縁もゆかりもない史実なのではないかと思う。もともとそのようなことがまるで存在しなかったかのように。とはいえたとえば映画の世界では、まだまだテーマになっている。イギリス人の映画監督で社会派の作品で有名なケン・ローチ(Ken Loach)は1996年制作の『カルラの歌(Carla’song)』のなかで、内戦中のニカラグアの様子を見事に再現している。マナグアのバスターミナルのセットの出来具合などは、本当に当時の様子そのままである。グラスゴーでバスの運転手をしているジョージが偶然ニカラグア人女性のカルラに出会い、二人はニカラグアを訪問する。そしてカルラの元恋人アントニオの変わり果てた姿に出会う、というストーリーである。内戦時代のニカラグアの雰囲気をつかむには大変よい内容だと思う。ビデオにもなっている。一見の価値がありである。

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フィリピンの不正選挙と中国のゼロコロナ抗議デモに対するアメリカの対応

2022年12月01日 | 国際・政治

 このところ、毎日のように、中国の「ゼロコロナ抗議デモ」の報道が続いています。確かに余りに強引なゼロコロナ政策には問題があると思います。
 でも、私は、この抗議デモの先行きに不安を感じます。
 新疆ウィグル自治区出身の学生が、多くの学生が見守るなか、ウルムチの火災で亡くなった被害者を追悼し、”私は、勇気をもって立ち上がります” 中国政府に対する抗議の声を張り上げたというのですが、ゼロコロナ政策に対する抗議の中心に、新疆ウイグル自治区の人たちを登場させ、ゼロコロナ政策に対する抗議を、習体制に対する抗議へと発展させようというアメリカのシナリオがあるのではないかと疑わざるを得ないのです。

 アメリカのカービー国家安全保障会議広報担当調整官が、会見で”ホワイトハウスは、平和的に抗議する権利を支持する”とか、”人々が集まって平和的に抗議する権利は認められるべきだ”との考えを示し、バイデン大統領も中国の状況について報告を受け、抗議活動に注意を払っていると説明したことが報道されました。

 でも、ソロモン諸島が中国と安全保障協定を結んだことに対するアメリカの反応を見ても、注意を払っているだけでないだろうことは明らかだと思います。新疆ウィグル自治区に対してアメリカは、合法、非合法を問わず、ありとあらゆる働きかけをしてきた筈であり、ゼロコロナ抗議デモは、アメリカにとって、習体制をゆさぶる恰好の出来事だったのではないか、と想像します。

 ノルドストリーム2を利用した天然ガスの大量供給によるロシアのヨーロッパ諸国に対する影響力の拡大や、「一帯一路」の構想に基づく中国を中心とした世界経済圏の確立の動きは、アメリカの覇権崩壊に直結する問題であり、アメリカが何とかしてそれを阻止しようと必死になっている現状を見逃してはならないと思います。

 ウクライナ対する莫大な軍事支援や、台湾に対する高度な武器の売却をはじめとする強力な働きかけは、そうしたアメリカの立場をあらわしていると思います。
 だから、そういうことを踏まえて、中国のゼロコロナ抗議デモを見れば、アメリカにとって中国の習体制をゆさぶる恰好の出来事であり、そのデモをさらに拡大させ、暴力化することによって、中国を孤立化させ、弱体化させるチャンスにしようとしているのではないか、と私は思うのです。
 世界中の紛争に関わるアメリカのNSAやCIAという組織が、何もせず傍観している筈はないのであり、ゼロコロナ抗議デモにも、さまざまな関与を画策しているだろう、と私は疑うのです。

 そして、そう疑わざるを得ないような事実が、アメリカにはいくらでもあるのです。例えば、下記の抜粋文に
レーガンの真意はあまりにも明白で、違う意味には取りようもなかった。つまり、米軍基地はフィリピンの民主主義よりも重要であるということだった。フィリピン国民は深く傷ついた。
 とあります。
 同じようなことは、日本の米軍基地についても言えるのではないかと思います。アメリカにとって、日本の米軍基地は日本の民主主義よりも重要である、との考えから出てくるようなアメリカの対応は、日本の裁判に対する干渉や米軍機墜落事故、米兵による事件の処理、辺野古基地移設問題その他、いろいろな場面で、日本人が実感させられてきたのではないかと思います。

 アメリカ国内は、民主主義に基づく統治がなされており、アメリカ国民には自由が保障されていると思います。だから、ゼロコロナ抗議デモに対するカービー国家安全保障会議広報担当調整官の指摘は、民主国家アメリカによる当然の指摘として、広く受け止められているのではないかと思います、しかしながら、その言葉の裏側に、あくまでもアメリカの覇権と利益の維持拡大を目的とする対外政策があることを見逃してはならないと思います。
 
 下記は、「アキノ大統領誕生 フィリピン革命は成功した」ルイス・サイモンズ・鈴木康雄訳(筑摩書房)から、アメリカがフィリピンの不正選挙を黙認し、マルコスを支援した事実について記した、”14 「これが民主主義の選挙か」”の一部を抜萃したものです。
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                 14 「これが民主主義の選挙か」  

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 週が明けた月曜日になると、どういうわけか両集計組織( NAMFRELとCOMELEC)とも、自分たちの支持する候補が60万票内外というほぼ同じ差でリードしていると発表した。集計結果が二つ出るため、全国いたるところで混乱が生じた。国営テレビ・チャンネル4の解説者は、視聴者に対して、どちらの集計結果も公式のものではなく、当選者は国会で決定されると説明した。実際、いずれの集計も確定票という発表はなかった。
 このころになると、マルコスは、自分を正式な当選者として認定するための手続きを急いだ。2月11日、国会は本議会を開き、最終投票数を確定する手順を決めた。ワシントンのレーガン政権は、議会がマルコス勝利を法的に確認しようとしていることを予期して、アメリカはマルコスと従来通りの関係を維持する用意があるという合図を送った。国務省のフィリピン問題専門家とホワイトハウスの保守系イデオローグの間で、長期わたって舞台裏で繰り広げられてきた闘いが一気に表面化した。まずレーガン大統領は、全米の新聞編集者との昼食会で、「フィリピン政府がきちんと機能するよう、マルコスとアキノが手を結ぶことは可能だ」という期待を表明した。レーガン大統領が、きわめてきびしい事態を迎えたフィリピン大統領選挙をごく表面的にしか理解していなかった、ということをはっきり示したこの驚くべき無神経な発言に、アキノとその支持者思わず背筋の寒くなる思いにかれた。ジミー・オンピンは、「アメリカには失望のきわみだ。アメリカがこのようにいい加減な態度をとるなら、今後アメリカを信頼することはとてもできない」と語った。
 ワシントンに戻ったルガー上院議員は2月21日、アキノは全投票の”少なくとも”60%を獲得したことをレーガンに報告した。そして米監視団は「ありとあらゆる不正工作にもかかわらず、アキノは依然としてリードしていると考えてよい」という結論に達したと述べた。彼は、あからさまな投票のごまかしを、いくつか具体例をあげて説明した。マルコス支持が強い地域では、実際の有権者数より投票数の方が50%も多かった事例、いくつかの地方集計会場では NAMFREL 関係者が締め出され、蓋を開けてみると、アキノ票はゼロとなっていた事例、レーガンは話を聞いてはいたが、真剣に耳を傾けていたようには見えなかった。マニラではボズワース大使がコリー・アキノの弟ペピン・コファンコに、一枚の声明の写しを見せていた。そのホワイトハウスの声明は、間もなくワシントンで発表される手筈になっていた。声明の内容は、アキノは勝利したにもかかわらず、不正工作で妨害されたというアキノの主張を支持していた。しかし、結局この声明は発表されずに終った。しかもレーガンは、ルガーからフィリピン情勢に関する報告を受けた2~3時間後に、ホワイトハウスの記者会見で、不正は両陣営とも行ったと語ったのだ。その上、大統領は「以前から述べてきた通り、アメリカは、フィリピン国民の意志に従って成立したのであればどのような政府であれ、有効関係を求め、継続していくつもりである」と述べた。
 しかしながら、フィリピン国民を最も傷つけたのは、たとえ米軍基地の将来が危機にさらされようともフィリピンの民主主義を支持するかどうか、という質問に対する彼の答だった。「こうした米軍基地の重要性を過小評価すべきでない。在比米軍基地が、アメリカや西側世界にとってだけではなく、フィリピン自身にとっても非常に重要であることは明らかである」。
 レーガンの真意はあまりにも明白で、違う意味には取りようもなかった。つまり、米軍基地はフィリピンの民主主義よりも重要であるということだった。フィリピン国民は深く傷ついた。アメリカ側でも大統領のコメントに、国務省の専門家は身震いした。専門家たちは、アメリカに対するフィリピン国民の善意が得られなければ、米軍基地は無価値に等しいことを知っていたからだ。レーガンが自分のスタッフと協議しないで、これほど無神経な発言をすることは珍しかった。とはいえ、この場合、レーガンは自分の本心を語ったにすぎなかった。スタッフは唖然とするばかりだった。一方、マニラの政府系マスコミ関係者は、頬が緩み放しだった。レーガン発言はどうみても、マルコスが勝利することを期待しているとしか解釈できなかったからだ。
 アキノは烈火のごとく怒った。レーガン失言の重大さを痛切に感じたボズワース大使は、アキノと彼女の弟ペピンに二度会い、「くれぐれも慎重に行動してほしい」と懇請した。ボズワースは、レーガンのコメントは、国務省の考え方や、大統領が最も信を置いているホワイトハウスの補佐官たちの多くの考え方さえも反映するものではない、とアキノに訴えた。しかし、アキノは、アメリカがフィリピン大統領選の結果にどう対応するかは、結局のところ大統領が決定するのだと理解し、レーガンに対して辛辣きわまりない攻撃をあびせた。
「民主主義国の友人は、自国の解放をめざすフィリピン国民を欺くマルコス氏と手を結ぶ選択を行ったが、いったいその動機は何だったのか。一国の国民を再び不自由の身に押しやるような行動に対しては、フィリピン国民だけでなく、大多数のアメリカ国民や米議会も、非難を加えると思う。私は友人に対して、今後は、自国の大使館、オブザーバー、マスコミに、情報を再確認した上でこの選挙についてコメントされるよう提案する。野党指導者が、過去および現在も再三にわたって殺害されている状況下で、西欧に見られるような二党体制で各々の党が健全に役割を果たすことができると思うのは誤解である」
 マルコスの大統領当選確定手続きを巡る慌ただしい動き、コンピューター・オペレーターの職場放棄や、レーガン大統領がとったフィリピン国民の心情を全く理解しないような態度、大統領選開票をめぐるいらだち──こうしたものが積み重なり、ついにフィリピンで最も強大な勢力であるカトリック教会が立ち上がることになった。ヴァレンタイン・デーはフィリピンでも盛大に祝われるが、この年のヴァレンタイン・デーは違っていた。主教たちは長年の間決して超えることがなかった垣根をのりこえ、歯に衣着せぬ表現でマルコスを正面から非難したのである。百十人の主教で構成されるフィリピン・カトリック教主教会議は、二日にわたって会議を開いた。討議を行い、祷りを捧げたあと、主教団は記者会見を開き、激しい調子の声明を発表した。
「国民はその意思を表明した。少なくともそう努めた。妨害にもかかわらず、国民は自由な意思を表明した。国民が我々に伝えようとした内容は明白であると、我々主教会議は信じる。我々は検討を重ねた末、大統領選挙の不正規模は前例を見ないものと判断する」
 主教団は、マルコスが力によって権力を握ろうとしていると非難し、彼がかつては備えていた国家運営の倫理的基盤はもはや失われたと断罪した。主教団は、信者に対して、アキノが繰り広げようとしている市民不服従運動を支持するように呼びかけた。アキノは、主教会議の席に姿を現し、今後、各種工場のストライキや操業短縮、政府企業やクローニーたちの企業に対するボイコットなどを行い、マルコスを政権からひきずりおろすつもりだ、と公言した。これは、インドのマハトマ・ガンジーが行った独立運動に範をとった長期闘争体制を行おうということに他ならなかった。
 主教たちは、大統領の政治活動を非難するだけでに留まらなかった。マルコスのとってきた非人道的な行動の結果、大統領は聖餐式を主宰する権利を失うと発表した。これはマルコスにとって、教会からの破門を意味することだった。中世以降、カトリック教会の公式の破門は例がなかった。破門という言葉だけでさえ、背筋をぞっとさせる神秘的な響きを与えるものだった。「マルコス破門」に、多くのフィリピン国民はショックを受けた。主教会議声明にはさらに、主教たちの立場を測り知れないほど強くする一節がつけ加えられていた。インドを訪問中のローマ法王ヨハネ・パウロ二世から送られた簡潔なメッセージに「私はあなたがたと一緒だ」とあったのである。
 マルコス夫妻は、この声明が発表されないよう、ありとあらゆる手を打とうとした。イメルダ・マルコスは、主教会議の議長をつとめたセブ市のリカルド・ヴィルダ枢機卿に接触しようとして何度も努力したが、彼は応じなかった。午前一時半になって、ようやく枢機卿はイメルダに電話をかけてきた。声明発表の数時間前のことである。そのとき、彼女はマニラ・ホテルのイタリア料理店で、友人30人と深夜の食事の最中だった。電話を受けると、彼女は直ちにイントラムロスにある主教会議の本部へ急行した。ヴィダルに懇請するためだった。だが、枢機卿が約束してくれたのは、教会は武力闘争は支持しないということだけだった。これに先立って大統領夫人は、シン枢機卿にも同様の要請を行っていた。シン枢機卿が要請に応じられない、と答えると、イメルダは泣き崩れた。シンとしては、彼女に、尼僧とともに祈りを捧げるよう勧めるのが精一杯だった。
 主教たちが満員の記者会見の席で発表したあと、質疑に応じた彼らの発言は、声明よりずっときびしいものだった。ヘスス・ヴェレラ主教は「我々がめざすべき明確なゴールは、政府を転覆させることではない。しかし、結果としてはそうした事態が起きることもありうるだろう。手段が平和的であり、武力を行使しないものであるかぎり、我々は反対しない」と述べた。
 レーガン大統領はフィリップ・ハビブを特使としてマニラに送り、フィリピンの指導者と話し合わせた。マルコスは、既成事実を固めようと決意した。ハビブが到着する2月25日以前に、国会が、マルコスを大統領当選者と確定するよう命令した。与党KBLの議員たちは、フィリピン各地147ケ所の集計センターから送られてきた数字の不正工作に関する野党の異議申し立てを握りつぶし、突進する作戦に出た。野党側は一つ一つの集計について点検を申し入れた。しかし、ニカルノ・イニゲス議長の意地悪な視線のもとで、異議はひとつひとつ却下された。野党議員が全員、抗議して議場を退席したのは主教たちが声明を発表する数時間前のことだった。2月25日の午前零時数分前、国会は残った議員だけでマルコスの得票数を1080万票、アキノの得票数を930万票と決定して、マルコスの当選を確定した。16日、アキノは、ルネタ公園に押しかけて気勢をあげる大群衆に向って演説を行い、選挙で勝ったのは自分であると宣言して、マルコスが辞任するまでフィリピン全土で市民不服従運動を行おうと呼びかけた。これとは全く対照的に、マルコスはマカラニアン宮殿で記者会見を開いたが、会見場には空席が目立った。マルコスが、公園の人出は「日曜の午後としてはふだんとかわらない」と語り、マニラ市内の大群衆の集会を否定したのは、彼一流の、自分に都合のよい解釈に他ならない。
 しかし大統領は、自分の再選を合法的に認めさせるためには、アメリカを納得させるだけのジェスチュアを示さなければいけないことはわかっていた。そこで、3月1日付でヴェール大将を退役させ、後任には再度、ラモス中将を起用すると発表した。しかし、今回もまた、ラモスは参謀総長代行でしかなかった。ほとんどのフィリピン国民、とりわけ軍部にとって、ヴェール退役だけではあまりに意味のない、同時にあまりに遅すぎた措置だった。公式には、ラモスは何の発言も行わなかったが、彼はアキノには、自分は辞任するつもりだ、とひそかに打ち明けていた。
 ワシントンは、マルコスがまいた”餌”に飛びつかなかった。国務省の専門家たちは、事態収拾のため策を練らなければならないと主張して、マルコス支持に逸(ハヤ)るホワイトハウスの”しろうと”補佐官たちを説き伏せた。一つにはこの国務省の圧力が功を奏したからであり、もうひとつには主教会議声明に対応する形で、ホワイトハウスが、両陣営とも選挙の不正に関与しているというレーガン大統領の前言を撤回し、選挙で行われた不正のほとんどはマルコス政権に責任があると認めたからだった。このあと、ジョージ・シュルツ国務長官は上院予算委員会で次のように語った。「我々が関心を持っているのは自由であり、民主主義である。これこそ米軍基地よりずっと大事な問題である」。アキノはほっとした。だが、安心はできなかった。

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