真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

司馬遼太郎 「明るい明治」? 二つの事件

2017年11月27日 | 国際・政治

 先日、大連である歴史家の日中関係に関わる話を聞く機会があったのですが、その歴史家は、日清戦争における旅順攻略戦の後、旅順に入った日本兵が市内及び近郊で、無抵抗の市民を多数虐殺した旅順虐殺事件について、日本がきちんと事件に向き合っていれば南京虐殺事件は起きなかったはずだというようなことを話しました。でも、その旅順虐殺事件に関わる著書は極めて少なく、また、事件を知る日本人も決して多くありません。日本ではほとんど知られていないと言っても過言ではないと思います。それは、日本が明治以来そうした加害の事実を伏せることに腐心し、適切に対処することなく葬り去って来たからではないかと思います。

 そして、そうした姿勢が、いろいろな組織の勧告や国際世論を無視して、「従軍慰安婦」に関する記述を教科書から削除するというような方針に象徴されるように、現在の安倍政権にまで続いているように思います。

 すでに「日清戦争と旅順虐殺事件 蹇蹇録より」で一部抜粋したように、旅順虐殺事件当時外務大臣であった陸奥宗光の「蹇蹇録」には、事件に関する海外の報道を懸命に抑えようとした陸奥宗光と海外公使のやりとりが記録されています。工作資金に関するようなやりとりもありました。ところが、犯罪行為である虐殺事件対する法的な処置や対応策、関わった人間に対する裁きのようなものは何も確認できませんでした。二度と同じような事件を起こさないようにするための取り組みは、ほとんどなかったのではないかと思います。
 旅順虐殺事件は、虐殺や略奪などの態様のみならず、報道に対する圧力や工作などの面でも、事件に対する法的処置や対応策の面でも、南京虐殺事件と極めて似通っていると、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)を読んで感じました。

 事件については、外国人記者の記事による海外での報道とともに、当時検閲の対象ではなかった日本軍兵士の「従軍日記」や「手記」に記録されており、

毎家多キハ十数名少キモ二三名ノ敵屍アリ白髯(ハクゼン)ノ老爺(ロウヤ)ハ嬰児ト共ニ斃(タフ)レ白髪ノ老婆ハ嫁娘ト共ニ手ヲ連ネテ横ハル其惨状実ニ名状スヘカラス(中略)海岸ニ出ツレハ我軍艦水雷艇数隻煙ヲ上ケテ碇泊波打際ニハ死屍(シシ)ノ漂着セルヲ散見セリ(中略)帰途ハ他路ヲ取ル何ソ計ラン途上死屍累々トシテ冬日モ尚ホ腥(ナマグサ)キヲ覚ユ           砲兵第四中隊縦列兵士小野六蔵

などというような文章が残されていることから、老人や女性、嬰児までもが殺されたことがわかります。
 また、とにかく事実が公になることをできるだけ抑え、公になってしまった事実については、「便衣兵が…」と巧みに言い逃れをする姿勢が、南京虐殺事件につながっていったということだろうと思うのです。

 したがって、司馬遼太郎の「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである」というような考え方の下記資料1のような文章は、私には理解できません。彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、すでに明治時代から始まっており、明治維新以後に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)や確立された組織体制の継続・拡大・強化・徹底などの結果、さらに問題が深刻化して司馬のいう「暗い昭和」に至ったということではないかと思います。

 下記に抜粋した「朝鮮王宮占領事件」に関する資料も、「明るい明治」ではなく、「暗い昭和」を連想させる事件であると思います。

 日清戦争における「旅順虐殺事件」や、下記資料2の「朝鮮王宮占領事件」に目を向ければ、「明るい明治」の言葉は出てこないのではないでしょうか。
 資料1は 「この国のかたち 一」司馬遼太郎(文芸春秋 1986~1987)から抜粋しました。
 資料2は『歴史の偽造をただす-戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)から抜粋しました。日本軍の「朝鮮王宮占領」の事実も、決して無視されてはならない事件だと思います。
資料1-------------ーーー-------------ーーーーーーーーーー---------------

                       この国のかたち 一

 4 ”統帥権”の無限性

 以上、何回か堅くるしいことを書いてきた。ありようは、ただ一つのことを言おうとしている。昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである。
 たとえば戦後”社会科学”的な用語として使われる「天皇制」などというえぐいことばも、多分にこの非連続な時代がイメージの核になっている。

 ーーーあんな時代は日本ではない。
 と、理不尽なことを、灰皿でも叩(タタ)きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。
 さきに”異胎の時代”ということばをつかった。
 その二十年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇(ソウギ)の生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続性がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる。つなぐとは単純接着という意味でもあり、また電流が通じうるという意味でもある。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
                     第一章 百年目の発見

  2 《公刊戦史》と「佐藤文庫」の『日清戦史』草案

『日本外交文書』や《公刊戦史》はどう書いているのか

1894(明治27)年7月23日早朝の日本軍による朝鮮王宮占領、景福宮(キョンボックン)の占領について、朝鮮駐在日本公使大鳥圭介から陸奥宗光外務大臣にあてた公電の第一報は、当日午前8時10分に打電された。それには、次のように述べられていた。

 朝鮮政府は本使の --- 電信に述べたる第二の要求に対し、甚だ不満足なる回答をなせしをもって、やむを得ず王宮を囲むの処置をとるに至り、本使は7月23日早朝にこの手段を施し、朝鮮兵は日本兵に向かって発砲し、双方互いに砲撃せり。(『日本外交文書』第二十七巻第一冊 四百十九号文書、「朝鮮国政府ノ回答不満足ナル故王宮ヲ囲ム処置ニ出デタル旨報告ノ件」)

 これはごく簡単な報告だけで、その状況を具体的に初めて伝えたのは、当日午後五時発信の大鳥圭介公使から陸奥外相にあてた公電、「王宮ヲ囲ミシ際ノ情況報告ノ件」(同右、四百二十一号文書)である。
 この公電の全文は次の通りである。

 発砲はおよそ十五分間も引続き今はすべて静謐に帰したり。督辧(トクベン)交渉通商事務は王命を奉じ来たりて本使に参内(サンダイイ)せんことを請えり。本使王宮に至るや大院君みずから本使を迎え、国王は国政及び改革の事を挙げて君に専任せられたる旨を述べ、すべて本使と協議すべしと告げたり。本使は外国使臣に回章を送り、日韓間談判の成り行きに因(ヨ)り龍山に在る我兵の一部を京城へ進入せしむること必要となり、しこうして龍山の兵は午前四時頃入京し、王宮の後に当たる丘に駐陣するため南門より王宮に沿いて進みたるに、王宮護衛兵及び街頭に配置しあるところの多数の兵士は我兵に向って発砲せり。よって我兵をして余儀なくこれに応じて発砲し、王宮に入りこれを守衛せしむに至りたることを告げ、且つ日本政府においては決して侵略の意なき旨を保証せり。

 つまり大鳥公使は朝鮮に駐在していた外国の外交官に対して情況説明の文書を送り、その中で、朝鮮政府との交渉の成り行きにより、日本軍が王宮の後にある丘に陣取るため王宮に沿って進んでいたところ、王宮やその周辺に配備されていた朝鮮兵の多数が日本軍に発砲した、そこで日本軍は余儀なく応戦し、王宮に入って王宮を守ることにしたのである。日本政府には侵略の意図は無い旨を保証したと言うのである。
 参謀本部が公刊した『明治廿七八年日清戦史』第一巻でも、この朝鮮王宮占領については、右の大鳥公使の公電の趣旨と同様で、次のように書かれている。

 ……大鳥公使は韓廷に対する秕政(ヒセイ)改革談判のたやすく進捗せざるのみならず、ちかごろ韓廷とみに強硬に傾き我が要求を拒否せんとし、人民は清兵増発もしくは入京の風聞に依頼してようやく不遜となり、事態すこぶる容易ならざるをもって、更に旅団の一部を入京せしめんことを請求するに至れり〔第一章参照〕。因って旅団長は歩兵第二十一連隊第二大隊(釜山守備隊たる第八中隊欠)及び工兵一小隊を王宮北方山地〔此高地中玉瀑壇と称する地点あり、当時号砲の如きもの有りて我が公使館に対す、よってこれらの監視を兼ねこの地方を選定したるなり〕に移し幕営せしめんとし、人民の騒擾を避けんがため特に23日払暁において右諸隊を京城に入れ、その進んで王宮の東側を通過するや、王宮守備兵及びその附近に屯在せる韓兵突然たって我を射撃し、我兵も亦匆卒(ソウソツ)応射防御し、なおこの不規律なる韓兵を駆逐し京城以外に退かしむるにあらざればいつ如何の事変を再起すべきも測られざるに因り、ついに王宮に入り韓兵の射撃を冒してこれを漸次北方城外に駆逐し、一時代わりて王宮四周を守備せり。すでにして山口大隊長は国王雍和門内に在るの報を得、部下の発火を制止し国王の行在(アンザイ)に赴けり。しかるに門内多数の韓兵麕集(グンシュウ)騒擾するの状あるをもって、韓吏に交渉しその武器を解いて我に交付せしめ、ついで国王に謁を請い両国軍兵不測の衝突に因り宸襟(シンキン)を悩ませしを謝し、且つ誓って玉体を保護し決して危害なからしむべきを奏せり。
 龍山屯在諸隊はこの報を得一時入京せしも、すでに平定の後なるに因りその一部をもって京城諸門を守備して非常を警(イマシ)め、他はその幕営に帰らしめたり。しこうして午前十一時大院君参内し、ついで大鳥公使、韓廷諸大臣及び各国公使相前後して王宮に入る。この日午後大鳥公使は韓廷の請求により王宮の守備を山口少佐の率いる大隊に委嘱す。午後五時旅団長その幕僚を従え騎兵中隊に護衛せられ、入りて国王に謁し宸襟を慰安する所あり。(『明治廿七八年日清戦争史』第一巻、東京印刷株式会社、1904年3月発行、119~120ページ)

 わずかに八〇〇字たらずの叙述である。また、 『明治廿七八年日清戦争史』第八巻の「付録第百二十二
」として「日清戦暦」があり、日清戦争中の諸戦闘に参加した兵力を日付順に記載しているが、この朝鮮王宮占領については、戦闘名は「京城における日韓両国兵の衝突」、参与した兵力は「歩兵三中隊、工兵一小隊」ときわめて小規模な戦闘であったかのように記録されている。
 日本政府は、日清戦争が始まった後、この朝鮮王宮占領から約一ヶ月の八月二十日、朝鮮政府と「日韓暫定合同条款」を結んだが、そのなかで、「本年七月二十三日王宮近傍において起こりたる両国兵員遇爾衝突事件は彼此(カシ)共にこれを追究せざるべし」との一項を朝鮮政府に認めさせた。朝鮮政府が事件の真相を口外するのを防ぎ、王宮占領の事実に蓋(フタ)をしてしまったのである。

 要するに、日本政府の公式見解として、大鳥公使の公電の趣旨が貫かれ、王宮占領は、最初に発砲した朝鮮の兵士と偶発的な衝突から始まり、日本軍はやむを得ず応戦し、王宮に入り、国王を保護した、小規模な衝突事件に過ぎないということに終始したのである。この見解は現在に至るまで日本政府から公式には修正されていない。
 日清戦争当時の新聞報道や巷間に流布した戦記類はもちろん、第二次世界大戦後に刊行された戦記の類でもこの見解は踏襲され、また最近の日清戦争研究でも、なおこれによっているものもある。

 従来の研究では

 しかしこうした日本政府や日本軍の公式見解に疑問を持ち、真相究明にメスをふるった歴史家がごく少ないながらいた。もちろん第二次世界大戦後のことであるが、朝鮮人としての鋭い歴史感覚から、この王宮占領の歴史的な意味を初めて系統的に論じたのは、在日朝鮮人の歴史家、朴宗根(パクジョングン)熊本学園大学教授であった。朴教授によれば、日本軍の朝鮮王宮占領の目的は、「第一に、国王が王宮から脱出することを防止して、これを『擒(トリコ)』(=虜)にすること、第二に、朝鮮政府から清軍の『駆逐依頼』を要望させるためであり、第三には、閔(ミン)氏政権を倒して親日的な開化政権を樹立すること」の三つであった(『日清戦争と朝鮮』、青木書店、1982年、63ページ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第二章 朝鮮王宮占領の実相

2 王宮占領計画
 ※「王宮威嚇」の目的
 大鳥公使が最後通牒を朝鮮政府につきつけ、「王宮威嚇」のことが現実の問題になった。大鳥公使の意を受けて、七月二十日午後一時、本野一郎参事官が第五師団混成旅団長大島義昌少将を訪ねて、朝鮮政府を威嚇するため王宮を囲むことを提案するのである。
 『日清戦争』の草案は、本野参事官の申し入れを次のように書いている。(以下、『日清戦争史』草案からの引用は、福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵の『明治廿七八年日清戦史第二冊決定草案
自第十一章至第二十四章』による)

 ちかごろ朝鮮政府はとみに強硬に傾き、我が撤兵を要求し来り。因(ヨ)って我が一切の要求を拒否したるものとみなし断然の処置に出(イ)でんがため、本日該政府に向って清兵を撤回せしむべしとの要求を提出し、その回答を二十二日と限れり。もし期限に至り確乎(カッコ)たる回答を得ざれば、まず歩兵一個大隊を京城に入れて、これを威嚇し、なお我が意を満足せしむるに足らざれば、旅団を進めて王宮を囲まれたし。然る上は大院君(テウオングン)〔李昰応(イハウン)〕を推して入闕(ニュウケツ)せしめ彼を政府の首領となし、よってもって牙山(アサン)清兵の撃攘(ゲキジョウ)を我に嘱託せしむるを得べし。因って旅団の出発はしばらく猶予ありたし。

 つまり、この王宮占領は、朝鮮の国王高宗(コジョン)を事実上とりこにし、王妃の一族と対立していた国王の実父である大院君を担ぎだして政権の座につけ、朝鮮政府を従属させて、清朝中国の軍隊を朝鮮外に駆逐することを日本軍に委嘱させる。つまり「開戦の名義」を手に入れる、さらにソウルにいる朝鮮兵の武装を解除することによって、日本軍が南方で清朝中国の軍隊と戦っている間、ソウルの安全を確保し、同時に軍需品の輸送や徴発などすべて朝鮮政府の命令で行う便宜を得る。こういう目的で遂行しようというのである。

 作戦計画の立案
 大島旅団長は、翌二十一日、大鳥公使を訪ね「一個大隊」で威嚇するという公使の提案を改め、「手続きを省略して直ちに旅団を進めてこれに従事せしむること」にした。そして歩兵二十一連隊長武田秀山中佐に作戦計画の立案をひそかに命じた。
 作成された「朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画」は、草案によると次のようなこのであった。日本軍の行動が『日本外交文書』や《公刊戦史》の言うところと、どんなに違っているかを知る上で、詳しくなるが全容を紹介する。

   朝鮮王宮に対する威嚇的運動の計画・・・略

計画の精神
 以上の計画の精神を案ずるに、歩兵第二十一連隊長の直接率うる同連隊の第二大隊(第八中隊欠)及び工兵一小隊より成る一団を動作の核心とし、これをして不意に起こりて王宮に侵入し、韓兵を駆逐し国王を擁し(第三草案の原文では、「国王を擒(トリコ)にし」となっていた--(中塚)これを守護せしむるに在り。〔国王を擁するは当時日本公使の希望する所なりしも、これが逃走を拒まんがためその身体を傷害するがごときこと在りては容易ならざる大事を引き起こすの恐れあるに因り、公使はたといこれを逸するもその身体に加害なきことを旅団長に要求したり。これ公使の意はもし国王にして逃走したる場合に遭遇せば、李昰応(イハウン)を摂政となし仮政府を組織するの考案なりしによる。すなわち王宮威迫の際、彰義門を開放し在らしめしゆえんなり。--- この割注は、第三草案修正の過程で新たに書き加えられたものである--中塚)。しこうしてその他の諸隊は外部の動作に任じたるものにして、すなわちその一部は主として京城諸営の韓兵を監視し武器を奪取して王宮に赴援(フエン)するあたわざらしめ、もって核心をして目的を達するに容易ならしめ、且つ日本及び欧米の官民ならびに李昰応一派の者に危害を及ぼさざらしむるに任じ、他の一部は万一の場合をおもんばかり京城に対して旅団幕営地を守護するに任じたるものなり。

 「核心部隊」である「歩兵第二十一連隊長の直接に率うる同連隊第二大隊」に「工兵一小隊」が同行したのは、王宮を囲んでいる塀あるいは門を破壊するには、爆薬の取り扱いに慣れている工兵部隊が必要だったからである。
 七月二十三日の王宮占領事件が「日韓両国兵士の偶然の衝突」といったものでは決してなく、日本公使館・日本陸軍の混成旅団が一体となって、事前に周到に準備した作戦計画に基づくものであったこと、そしてその作戦は王宮とその周辺のソウル中枢地域の全面占領であったことは、右の参謀本部自身が書いた記録によって今や明らかであろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅順虐殺事件 「萬忠墓」の歴史 清国商船入港拒否

2017年11月14日 | 国際・政治

 日清戦争当時の海外報道記事や日本兵の「従軍日記」・「手記」、また、当時の外務大臣陸奥宗光の『蹇蹇録』などが「旅順虐殺事件」の事実を明らかにしていると思いますが、「萬忠墓」の石碑の歴史と大山巌の「清国商船入港拒否」の事実も、「旅順虐殺事件」が否定しようのない事実であることを示していると思います。

 日清戦争で勝利した日本は、1895年4月17日の下関条約によって、清国より遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲されますが、いわゆる国干渉によって遼東半島は清に返還することになり、日本軍は撤退します。日本軍撤退後、清国は日清戦争を振り返り、検証しつつ、それを形にしていったといいます。その一つが、顧元勲(コゲンクン)という提調官(官名)が、旅順で殉難した人々を弔うために、建てた石碑です。行政庁が死体を火葬した後に、遺灰を埋葬した場所に建てたと思われる「清国将士陣亡之墓」という木碑を取り去り、自ら筆を揮って「萬忠墓」の三文字を刻んだ石碑を建てたというのです。日本軍撤退後、清国人は、虐殺されたのは兵士ばかりではないので、木碑に墨書されている「清国将士陣亡之墓」というのは、世人を欺くものであるとして、そこを「萬人坑」と呼んでいたようですが、その思いを反映させたということだと思います。

 ところが、旅順は日露戦争後再び日本の統治下に入ります。すると「萬忠墓」の石碑が姿を消すのです。そして、墓碑のない墓となり、清明節には多くの人が集まっていた「萬忠墓」は次第に荒廃していったといいます。しかしながら、1922年旅順華商公議会の会長と清国時代の軍人が「萬忠墓」改修の募金活動をして、再び第二の石碑を建てるのです。旅順警察署は文字の一部をセメントで塗り潰させたといいますが、墓参に訪れる人は増え、春と秋には大祭も催されたとのことです。その後、軍の圧力や日中戦争の混乱によって再び荒廃し、大戦後に、第三の石碑が建てられ、盛大な式典が行われたということです。繰り返し、「萬忠墓」と刻んだ石碑を建て、旅順虐殺事件の死者を弔おとする中国の人たちの思いが、「虐殺」の事実を物語っているのではないかと思えます。

 また、下記の資料1の文章にあるように、大山巌が、国旗と赤十字旗、それに白旗を掲げた清国商船の旅順港入港を拒否したということも、「旅順虐殺事件」の事実を物語るものであると思います。

 陸奥宗光の『蹇蹇録』は、サーの称号を持つ英国オックスフォード大学国際法教授トーマス・E・ホランド(1835~1926)の論文「日清戦争ニ於ケル国際公法」を引用しています。ホランドは、「初ヨリ日本ノ行動ニ対シ毎事賛賞(サンショウ)ヲ惜マサリシ人」であると陸奥も認める人物であったにもかかわらず、旅順の事件については、資料2のように日本の将校並びに兵卒の残虐性を指摘したのです。
旅順虐殺事件を世界に知らしめたのも、不平等条約の改正に応じていたイギリスやまさに応じつつあったアメリカという日本に対して好意的な国の記者たちでした。だから、陸奥は外務大臣として国際的に苦境に立たされたことを、ホランドの文章を引いて「此事件カ当時如何ニ欧米各国ノ社会ヲ聳動(ショウドウ)セシヤヲ見ルヘキナリ」と訴えたかったのだと思います。

 旅順虐殺事件についても南京大虐殺同様、”日清戦争中、日本軍が旅順で虐殺事件を起こしたというデマ報道があった”という人たちがいます。”虐殺とは文字通り「残虐な殺害」または「理由なき大量殺戮」の意味だ。日本軍は旅順で捕虜となる資格のない中国軍お得意の便衣兵を処刑したにすぎず、旅順で戦死者は出たが、軍による組織的な虐殺など存在しなかったというのが「史実」だ”などというのですが、歴史の修正にほかならないのではないかと思います。なかには、米紙が”帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺。逃げられたのは36人のみ”と、とんでもない捏造記事を報じたとして、情報源のはっきりしない記事を取り上げ、問題にしている人もいるようですが、「萬忠墓」には”官兵商民男女の難を被った者一萬八百余名”と記されているということです。

 下記は、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              死骸を火葬せん事頗る苦心せし處  11月26日~4月中旬

 ・・・
 何事も手続きが必要である。有賀長雄(法律顧問として従軍した法学者)は軍副官部が立案していた「屍體掃除手續」の諮問を受けた。有賀は仏、伊国をはじめその他の国の「戦場埋葬規則」を心得てはいたが、今回の場合、それらに則って行うには不可能なことが二点あると、まもなく気付いた。ひとつは清国人の身元の確定、所持品の収集、目録作成であり、他は、埋葬の穴を深くすることであった。前者については、清国軍兵士の多くは日給で雇われているに過ぎず、また同軍側に兵籍もなく、労力を費やして確認するだけの価値がないと判断し、後者については、衛生上の観点から埋葬の穴は深さ二メートル、一穴に死体十体までとの戦場埋葬規則を承知してはいたが、土地の気候ゆえに大地がそれを許さないほど凍結していたからで、いずれも不可能という結論になった。ともかくも、死体を埋めた格好、つまり先のとおり土砂をかけただけの埋葬になった。これは都合のいいことに、この地方の清国人は死体を火葬しない習慣にも沿っていた。それにはまた、別の理由もあった。「大連湾より當口(=旅順口)迄十餘里(ジュウヨリ)の間山丘重々(チョウチョウ)たれども総て是れ兀々(コツコツ)たる禿山(トクザン)のみにて一望数里に渉り樹木とては稀に河岸に柳の木抔(ナド)の疎々(ソソ)生長するを認むるのみに御座候(ゴザソウロウ)」(「中央新聞」12月27日付転載)と一士官の手紙にあるように、火葬しようにも燃料となる薪も不足していたのである。

 死体の始末に従事する者は、「掃除隊(ソウジョタイ)」と名付けられた。先の鮠紹武の証言によれば、清国人はそれを「擡屍隊(タイシタイ)」(=死体担ぎ隊)と呼んでいた。軍は生き残りの清国人を動員し、あるいは死体を片付けさせ、あるいは家々や道路に散乱するものを清掃させ、11月末頃には「街衢(ガイク)の光景頗る整頓したり」(「二六新報」12月27日付)といえるまでになっていたが、もちろんこれはその前と比較しての話だろう。見た目の市街は、僅かずつながらももとに戻っていった。だが、市街から外れた山野、路傍では事件の起こったままであった。それらの死体は硬直し、寒さのために腐敗せず、露はその外側全体を凍らせ、枯れ木のような姿のまま放置されていた。

 11月28日に清国商船が国旗と赤十字旗、それに白旗を掲げて旅順港に入港しようとした”出来事”があった。乗船していたのは天津の私立赤十字の人々で、公的な数々の証明書を携えており、なかには英国陸軍軍医らも混じっていた。入港の目的は、負傷した清国兵を引き取り、天津で治療したいというものであった。大山巌は、これを拒否した。このことは、一時的に陸奥をも巻き込むことになり、またのちに入港拒否の事実は欧米の新聞にも書き立てられることにもなった。大山は拒否せざるを得なかった。負傷した清国兵は存在しないのだし、市街にはまだ死者が残され片付けきれていない状態では、とても上陸を許可するわけにはいかなかった。このことは、第三者に見せられない死者があったことを傍証しているかもしれない。

 占領地の行政は、12月13日に「旅順口行政署行政管理規則」が公にされ、同16日から実施され本格的に始動した。旅順の行政庁は、李鴻章の設立になるという王成官(ギョクセイカン)と称する銀行とその隣にある大型の売薬店を庁舎にあてた。年末はここに任を命ぜられた文官、武官二百五十名が佐世保港から萬国丸で旅順に向かった。大本営はこれに先立ち、憲兵と軍夫を増員して旅順に送り込んだが、市街の跡片付けと無縁ではあるまい。
 管理体制はできても、管理する住民がいなくては話にならない。そこで行政管理規則とともに、「旅順口施米細則」が公にされ、これも12月16日から実施された。逃げ出した住民を、米の配給で呼び戻そうというわけである。市内の適当な場所に施米所を設け、30日の間、窮民に与え、その間に各自に自活を図らせるという計画であった。施米は一人一日四合であった。施米より先に給米はすでに実施されており、その助けを借りていたのはごく少数の生き残りの住民であった。行政庁は廓姓(カクショウ)、唐序五(トウジョゴ)という二人の清国人を使い、逃げ出した住民の帰来を促す仕事をさせた。
・・・(以下略)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 当時ニ於ケル日本人ノ將校竝ニ兵卒ノ行為ハ常度ノ外ニ逸出セリ假令(タトヒ)彼等ハ都門ノ入口ニ於テ割斷(カツダン)セラレタル同胞人ノ死屍(シシ)ヲ発見シタリト云フト雖モ斯ノ如キ残忍ノ行為スラモ尚ホ彼等カ為シタル暴行ノ辯解ト為スニ足ラス彼等ハ初日ヲ除キ其翌日ヨリ四日間ハ残酷ニモ非戦者、婦女、幼童(エウドウ)ヲ殺戮セリ現ニ従軍ノ歐羅巴(ヨーロッパ)軍人竝ニ特別通信員ハ此残虐ノ状況ヲ目撃シタリト雖モ之ヲ制止スルニ由(ヨシ)ナク空シク傍観シテ嘔吐ニ堪ヘサリシ由ナルカ此際(コノサイ)ニ殺戮ヲ免レタル者ハ全市内ヲ通シテ僅(ワズカ)ニ三十六人ニ過キサリシト云フ而シテ此三十六人ハ全ク同胞人ノ死屍ヲ埋葬スルノ使役ニ供スルカタメ救助セラレタル者ニシテ彼等ヲ保護スルカタメニハ其帽子ニ「此者殺スヘカラス」ト云ヘル標札ヲ附著(フチャク)シタリトノ事ナリ(1895年3月北米評論ニ據ル)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅順虐殺事件 海外の記事・日本の記事 軍の対応

2017年11月09日 | 国際・政治

 旅順虐殺事件について考えさせられることの一つに、記事が国外で問題視されていることを知った日本の報道機関が、その事実をきちんと確かめることなく、クリールマンやヴィリアースなどの欧米従軍記者の放逐や取り締まりを要求する下記のような記事を掲載したことがあります。

”…斯かる煩累(ハンルイ)を我に及ぼすべき従軍者は吾軍断じて吾軍の之を放逐し又は拒絶するの至当なるを思う。居留地の外字新聞記者が域内に於て吾軍を讒(ザン)するが如く従軍の外国記者は域外に向ひて吾軍を誣(シ)ゆる皆同一の亡状なり”(「日本」12月22日付

我輩は欧米諸国人の決してクリールマン氏の如き杜撰なる通信に信を置くものにあらざるべきを疑わざると同時に、切に我政府の外国従軍記者に対し、厳重なる取締方を設けられむことを希望するに堪へざる也”(「二六新報」12月22日

 まさに旅順虐殺事件を隠蔽するのに手を貸したというべき内容だと思います。下記に抜粋したようなクリールマンやヴィリアースなどの欧米従軍記者の記事が事実に基づくものであったことは、検閲の対象ではなかった「従軍日記」や「手記」には書かれているのです。

此日旅順ノ市街及附近ヲ見ルニ、敵兵ノ死体極メテ多ク、毎戸必ズ三四(サンシ)以上アリ。道路海岸到ル所屍ヲ以テ埋ム。其状鈍筆ノ能ク及フ所ニアラス”  砲兵第一連隊第二中隊兵士片柳鯉之助

毎家多キハ十数名少キモ二三名ノ敵屍アリ白髯(ハクゼン)ノ老爺(ロウヤ)ハ嬰児ト共ニ斃(タフ)レ白髪ノ老婆ハ嫁娘ト共ニ手ヲ連ネテ横ハル其惨状実ニ名状スヘカラス(中略)海岸ニ出ツレハ我軍艦水雷艇数隻煙ヲ上ケテ碇泊波打際ニハ死屍(シシ)ノ漂着セルヲ散見セリ(中略)帰途ハ他路ヲ取ル何ソ計ラン途上死屍累々トシテ冬日モ尚ホ腥(ナマグサ)キヲ覚ユ”            砲兵第四中隊縦列兵士小野六蔵

 下記の文章は、「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              此の者殺す可からず、何々隊  11月24日

  1
 明け方、クリールマンは、銃声で目が覚ました。外へ出てみると、上官に率いられた兵士の一群が、三人の清国人を追っているのが見えた。そのうちの一人は、裸の赤ん坊を抱いていた。逃げる最中に、この男は、赤ん坊を落としてしまった。クリールマンは、ヴィリアースを起こしに戻り、再び現場へ行った。二人の男は射殺されており、赤ん坊の父親は背中と首を銃剣で刺され、死んでいた。その温かい血は、凍てつく寒さの中で、まだ湯気をたてていた。赤ん坊のところへ行くと、赤ん坊はまだ生後二ヶ月くらいで、これも死んでいた。別の場所では、老人が後ろ手に縛られて立っており、そのそばでは三人の男が撃たれ、もがき苦しんでいた。クリールマンが近寄っていくと、兵士が老人を打った。兵士は、横たわった老人の胸についた銃創を確かめるために衣服を引き剥がし、そしてもう一度撃った。「私たちは、その場から立ち去った。これが戦闘後三日目であったことを記憶されたい」(「ワールド」12月20日付)

 ヴィリアースはこの日の午後、他と比較して、死体の少ない通りを歩いていた。そこで、酒に酔って手がつけられない状態の兵士三名と出くわした。兵士たちは、商店のなかですくんでいた清国人を射殺したばかりであった。この男は、21日以来、びくびくしながら隠れていたところを発見され、殺されたのであった。兵士は銃に弾丸を装填し、隣の店の戸を壊し始めた。ヴィリアースには、戸の隙間から、隅の方で母親が二人の子どもを庇っているのが見えた。兵士の足元では、老人が叩頭(コウトウ)していた。彼は観念しているようであった。ヴィリアースはこれを見てとり、兵士の背中を叩き、笑いながら一言二言、日本語を投げかけ、身振り手振りで兵士の注意を自分に向けさせた。兵士たちは、一瞬のうちにヴィリアースに関心を移し、老人のことを忘れた。ヴィリアースは、兵士たちをその場から引き離すのに成功し、話ながら別の場所へと誘導した。「とにかく、清国人とその家族は、別の射撃部隊がやってくるまで、死刑執行が延期されたのであった」(「ノースアメリカン・レビュー」同前)。
 市街地でのこのような情況は、旅順郊外でも同様であった。銃声は山野に谺(コダマ)していたのである。
 「東京朝日新聞」の特派員横川勇次(ヨコカワユウジ)(省三・1865~1904)は、この日老鐵山東麓から市街へ戻る途中、銃声を聞いた。兵士五、六人が、何者かを追っている様子なので、尋ねてみると、「敵兵一時逃散したるも多くハ皆服装を変じ近傍の村落に潜み土人に混じ居る故怪しき者と見れば之を銃殺するなり」(同紙12月2日付)と、兵士は答えた。
 今村落へ探知に行く所なりとて五六人宛(ゴロクニンヅツ)見当たり次第発砲銃殺しつつ行く様恰も兎狩りか犬狩りの如く一村挙げて蜘蛛の子を散らすが如く、山上に逃げて行く是ぞ実に天下の奇観なりし

  2
 11月21日の夕刻以降、旅順では10月に大山の発した訓令はあってないに等しかった旅順攻略の祝宴を張ったからには、第二軍は元の状態に戻る必要があった。文明側の国家と自らを位置付けた以上、旅順周辺の清国人の根絶だけは、急いで避けなければならなかった。事実、前日23日に旅順に入ったある士官の手紙によれば、「市内は日本兵士を以て充満し支那人は死骸の外更に見当たらず此地方支那人の種子(タネ)は殆ど断絶せしか」(「中央新聞」12月27日付に転載)、また、もう一日前の22日には、「余の巡視せし時の如きハ市中僅かに六七十名余名の貧民を見しのみなり」(「万朝報」12月20日付・特派員杉山豊吉「旅順通信」)というほどまでになっていた。

 そこで、第二軍司令部は、生き残っている清国人を取り調べた上、刃向かう心配のない者には、安全を保障するものを与えることになった。それは、この24日以降のことと思われる。安全を保障するものとは、文字を墨で書き入れ検印を押した、一枚の白い布、7あるいは一片の紙であった。文面は統一されておらず、そこにこれが軍の緊急措置であったことを窺わせている。
  「順民を證す第二軍司令部」(「中央新聞」12月9日付)
  「商人なり害すべからず軍司令部」(「東京朝日新聞」12月7日付)
  「順民なり殺す勿(ナカ)れ」(「日本」12月9日付)
  「何大隊本部役夫(エキフ)」(同前)
  「此者殺すべからず」(「郵便報知新聞」12月7日付)
  「良民」(「郵便報知新聞」12月30日付)
  「此者不可殺(コノモノコロスベカラズ)」(「讀賣新聞」12月2日付)
  「此の者殺す可からず、何々隊」(「萬朝報」12月20日付)
  「順人なり殺す可からず、何々隊」(同前)
 生き残った清国人は、これらを胸に貼り、首に掛け、腕に巻き、日本人に出合ったら指し示し、殺害から免れるようにした。
 また、家々には兵士が押し入らぬよう、門柱に貼り紙がなされた。
  「この家人殺すべからず」(「東京朝日新聞」12月7日付)
  「此家男子六人あるも殺すべからず」(「日本」12月9日付) 
 住人が逃げ出して空になった家から、兵士や軍夫が分捕をしないよう、注意を促す貼り紙も憲兵の手によってなされた。
  「家人の外入るべからず」(「東京朝日新聞」12月9日付)
 日本軍によるだけではなく、生き残った清国人自身も貼り紙をし、さらなる難を逃れる努力を払った。そのなかには、赤い紙に墨書し正月に門口に貼る聯のようなものもあった。因みに、第二軍のその後の遠征先となった復州では、住民が戸に「大日本順民」と書き、難を逃れる措置をとっていたという(「二六新報」
 旅順ではその後清国人の胸の札はその職業を示すようになり、例えば造船所の職工は「造船部雇入(ヤトイイレ)」という札をつけていた。(「時事新報」1月27日付)有賀長雄の『日清戦争国際法論』には、有賀自身が旅順で目撃した「二三の事実」のなかに、これらのことが触れられている。それによれば、清国人が首に掛けているのは第二軍士官の名刺で、これに「此者ハ何々隊ニ於テ使役スル者ナリ殺スヘカラス」と書かれていたという。また、「此ノ家ニ居ル者殺ス可カラス」との札が門に掛けられているのは、戦闘後に市街に戻り食料酒類などを売る清国人の家であったことを記している。こうしたことについては、ヴィリアースも、「ノース・アメリカン・レヴュー」(同前)で触れている。というより、清国人の生命の象徴的なしるしとして、原稿の締めくくりに使っている。
これらの生き残った清国人は死んだ同胞の埋葬や軍隊の水運びとして使われた。彼らの生命は、  帽子につけた白い一片の紙きれによって守られていた。紙きれには、日本文字で次のような文が  記されていた。「此ノ者殺ス可カラズ」。
 このような措置の一方で、銃声が市街や周辺地域に響いていたのだから、犠牲者は増えこそすれ、減ることはなかった。新聞にみられる旅順の様子は、22日朝の状態と変わっていないのである。変わりようがない上に、さらに悪くなっていた。この日の旅順の様子を、「めさまし新聞」の特派員光永規一は、「新領地の光景」(12月8日付)のなかに記している。「満街の人民已(スデ)に離散し去(サッ)て街上唯到處(イタルトコロ)に屍を横へ、臭気は廓中鼻を劈(ツンザ)く計(バカ)り」であり、「碧血(ヘキケツ)處々(ショショ)に土沙(ドシャ)を染め出して殺気満街の天地に充々(ミチミチ)たり」。また、「石垣の崩頽(ホウタイ)せしもの亦た其處此處(ソコココ)に飛び散り、毀(コボ)ち放たれたる戸柵(トハイ)は無作業に散乱し、焼失せる数戸の家は家具
已(スデ)に焼き尽くして壁柱の猶ほ微かに火煙を帯びて屹立したる為体(テイタラク)中々惨状を極む」とあって、占領後の暴行は、小火(ボヤ)まで出していたようだ。

 旅順港では、水雷の撤去作業が続いていたが、同時に「沈滞物引揚げの如き後掃除」(「郵便報知新聞」12月6日付)も行われていた。「沈滞物」とは、21日以降に海で死んだ兵士や住民の死体、および船の残骸、破片などを指していると思われる。水雷は、前日夕方からこの日にかけて右岸側を掃海し水雷を十個ほど爆発させ、午後遅くなって港の出入りに支障がいない程度になった。死体もある程度は引き揚げられたと思われる。
市街の死体も、放置しておくわけにはいかなかった。これらは、誰が片付けたらいいのか。兵士か、軍夫か。もちろん彼らも、そうしたことであろう。軍司令部が出した結論は、清国人捕虜であった。先の鮑紹武や王宏照らは、これにあたったのである。
 ちょうどこの日、龜井茲明に同行していた龜井家家扶の宮崎幸麿らは、旅順北方の郊外に散乱する死体を埋葬する光景に出くわし、これを写真に収めた。この写真は、『明治二十七八年戦役冩眞帖』の一頁として入っているが、これをよく見ると、日本軍兵士に混って清国人がいる。いずれもその左腕には白い布が巻かれており、これが件の布きれではないかと思われる。
 夜には、水雷艇を水先として郵船長門丸が港内に入ってきた。そしてこの日、旅順占領の電報が転送を重ね、広島の大本営に達したのである。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅順虐殺事件 捕虜殺戮・掠奪

2017年11月02日 | 国際・政治

 日清戦争では日本が戦勝国であり、下関条約の調印によって、日本は清から遼東半島・台湾・澎湖列島などの領土を割譲され、多額の賠償金受領や通商・関税・航海などにおける最恵国待遇の権利を得ました。また、日清戦争当時は、捕虜に関する国際法も整っておらず、したがって、当然のことながら旅順虐殺事件が問題とされることはなく、裁かれることもありませんでした。

 しかしながら日清戦争でも、後の南京事件に関する裁判で、”日本軍が南京市各地区で大規模な虐殺、放火・強姦・略奪をおこなった”として関係者が裁かれた戦争犯罪と共通の犯罪行為が多々あった事実を忘れてはならないと思います。

 そうした事実は、日清戦争に法律顧問として従軍した有賀長雄が、本国へ虐殺事件の記事を送った外国人新聞記者のクリールマンやコーウェン、ヴィリアース等と交わした会話の中にも読み取ることが出来ます。
 そのときのやりとりは、クリールマンが、「ワールド」にヴィリアースが「ノース・アメリカン・レヴュー」に書いたようですが、事件を目撃した記者に、有賀長雄が”旅順の人々の殺害が「虐殺(マサカ)」と思うか”と直接聞いているのです。即答は躊躇ったようですが、記者は「虐殺」であると答えたといいます。そして、見逃すことが出来ないのは記者が 
有賀氏は、私たちが至急報のなかで、虐殺という単語を使わないようにさせようとしていた。
と書いていることです。法律顧問として従軍した有賀長雄でさえ、事実の報道を抑え込もうとしたということではないかと思います。
 また、記者は
 ”あなた方(日本軍)は捕虜を殺しているのではなく、つまりは、無力な住民たちを捕虜にしようとせずに、無差別に殺しているわけです。”
と指摘したのに対し、有賀長雄は
 ”私どもは(日本軍)は、平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり、監視したりするのは、とても高くつき、わずらわしいとわかったのです。実際、ここでは、捕虜にしていません。”と応じています。
 南京戦で、師団を率いた中島師団長の日記に「捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシ……」という記述があったのを思い出します。

 そこで、今回は「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から、南京戦と似かよった捕虜の扱いや掠奪の問題に関する部分を抜粋しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 諸半島占領ノ任務ヲ達シタリ  十一月二十三日

    
 ・・・
 有賀長雄が『日清戦役國際法論』のなかで言う旅順占領時における海外からの日本への批判三点のうち、第二点目は占領後の捕虜の扱いに対する問題であった。
 (ロ)日本軍ハ二十一日ノ一戦ヲ了(オハ)リ其ノ後ニ於テ此ニ戦闘力ヲ有セサル敵ノ兵士ヲ殺戮シタルコト。
 これに対する大山巌の回答、つまり日本軍の見解は次のようなものであった。
  (ロ)に対スル答弁
 二十二日以後ニ於テ捕虜中間ゝ(ホリョチュウママ)殺戮セラレタル者是アリタルモ此等ハ皆頑愚不覚(グアングフカク),或ハ抵抗シ或ハ逃亡等計リタル徒ヲ懲戒スル為万止ムヲ得サルニ出テタルノミ

 有賀自身も、二十二日~二十四日の三日間は、「稀(マ)レニ日本兵士カ縄ヲ以テ支那人ヲ三々五々連縛(レンバク)シテ」市内を引いてゆくのを目にしている。これが、「日本軍ニ向(ムカイ)テ数多(アマタ)犯ス所アリシニ因リ殺戮スル為」であったことも承知していた。そして、大山は第二点目についても、「其ノ事実タルコトヲ承認」したのであった。大山の言うところが事実であろうとなかろうと、抵抗の有無に関係なく、少なくとも第二軍は、捕虜を歓迎しなかったはずである。
 軍上層部がどう言葉を並べようと、兵士は正直である。先の伊東連之助はこのころ、雙臺溝に清国兵士五、六十名を追いつめ、十名の仲間とともに、「其過半(ソノカハン)」を斃した。そのときの様子は、友人宛ての手紙に詳細に書かれた。

 予(ヨ)は生来(ショウライ)初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽(シュウスイイッカシュシンタチマ)ち所を異にし、首三尺餘
(クビサンジャクヨ)の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに逬騰(ホウトウ)し(中略)予は茲(ココ)に始めて実際的撃剣を試みしが、経験上人を斬るの法他なし只胆力如何に由(ヨリ)て存するのみ、故に斬るに従って益々巧妙となり胆力の動かざるに至るべし。

 これを読む限り伊東は、捕虜の首を刎ねる”据えもの斬り”をしたとしか思えない。みごとに首が飛ぶと、伊東に周囲から拍手喝采が湧いた。

 何の罪もない人々が、戦争中に殺されるということは、避け難いことである。私は、そのことだけで日本軍を責めはしない。清国兵は、農夫の身形をし、武器を持ち、変装を隠れ蓑として、可能なときに攻撃した。それゆえに、軍服を着ていようといまいと、全ての清国人を敵と見なすことは、ある程度許されることになる。その点では、日本軍はあきらかに正当化されている。しかし、清国人を敵と見なしたとしても、彼らを殺すことは、人道にかなったことではない。彼らは、生かして捕らえられるべきである。数百名の人が捕らえられ縛られたあと、殺されるのを私は見た。それはおそらく、野蛮な行為ではないのだろう。どうあろうと、それは真実なのだ。
 これまでの住民の殺戮に続く、捕虜の殺戮という新しい事態を目の当たりにし、コーウェンは、「タイムス」(1月8日付)にこう記した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

  4
 今や、清国人のほとんどいない市街と化した旅順 ─── そうなれば、そこで発生するのは、ほかならぬ「分捕(ブンドリ)」であった。「分捕る」とは、「戦場で敵の財物や物を奪い取る」ことである。ある地で敵に勝つとは、その地の敵のものが全て自国のものになることであった。個人の所有物であっても大きな軍事力を背景にしていれば、それが可能になった。まして旅順は、住民も敵兵もいない、といっていい状態である。「私は、兵士たちがひきつった死体を踏みつけながら、死者の家を掠奪するのを見た。凄まじい犯罪を隠そうともしていなかった。恥というものが、消え失せてしまっていた」と、クリールマンはこの日のことを「ワールド」(12月20日付)に記している。旅順では、人の命までもが分捕り品になっていた。また、「一方では、市街の全ての建物が完全に掠奪された。全ての戸が開け放たれ、全ての箱や箪笥、隅という隅をくまなく漁りまっくった。得る価値のあるものは掠奪され、残ったものは壊されるか、溝へ投げ捨てられた」と、コーウェンも「タイムス」(1月8日付)に報告している。
 分捕りは、国家の財産を増やすことである。平壌の戦いのあとには、例えば、「平壌分捕の金銀十六函(ジュウロクハコ)を大本営に廻致(クワイチ)し来りしことハ我特派員の電報に依りて已に記したたるが今目録に依り其種類を区分すれバ左の如し」(「東京朝日新聞」10月13日付)という記事が、「分捕金銀の種類」の題のもとに、第一面に掲載されもしたのである。記事はこれに続き箱ごとの詳細を記し、「金の総量 廿五貫三百五十目」「銀の総量 百十三貫九百十匁(モンメ)」「混合物四貫六百目「但通貨を除く」と結ばれている。金や銀ばかりでなく、米などの穀類はもちろん、分捕りの対象であった。平壌の戦いでは、「正米二千六百石」「小麦三百二十石」「玄米三百石」「黍百石」「粟八百二十石」「大豆千二百石」「鹽(シオ)五百俵」などを分捕った。
 国家が大規模に分捕りをするのなら、兵士は何を分捕ったらいいのか。美術品や小さな貴金属などから日用品に至るまで、上は金目のものから下は使えそうなものまで、さまざまであったと思われる。異国の記念品として持ち帰ったことであろう。洋画家黒田清輝(1866~1924)の場合、その日記(『黒田清輝日記』中央公論美術出版・1967年)によれば、従軍して12月4日 に大連湾に着き、翌日、「七憲兵の案内ニテ分取品をもらひニ行く」。おそらくは、美術品を選んだことであろう。

 生きているものも、分捕の対象となった。前日の二十二日、兵士橋爪武は清国兵営を捜索中に二頭の駱駝を発見し分捕り、これを山地元治に贈った。山地はこれに丹頂鶴を添えて、天皇に献上するため、橋爪にこれらを携えて帰国することを命じ、十一月二十九日に献上品は宇品港に陸揚げされた。番(ツガイ)の駱駝は、翌1895(明治28)年二月になって、皇太子からの下賜という形で、東京・上野動物園に寄贈され、飼育された。
 「国民新聞」(10月24日付)は、東京・九段の靖国神社境内にある遊就館に展示されている分捕品の見物に訪れる人の人数が、浅草や上野への行楽客よりも多いことを伝えている。そうした国内の盛り上がりから、ついには商品にも分捕と冠したものが現れるようになった。「擦り潰す支那人の生首」と題し、「時事新報」(10月23日付)は「分捕石鹸」が発売されたことを報じている。この石鹸は、「支那人の生首の形に造れる」もので、新聞広告には、あたかも旅順の惨劇のような絵柄が載った。これに限らず、同じような報告の絵柄は日清戦争の期間、よくみられた。

 住民の殺戮、捕虜の殺戮に続き、有賀のいう海外からの批判の第三番目は、分捕のことであった。
 (ハ)市街ノ民屋(ミンオク)ニ於テ財貨ヲ掠奪シタルコト。
 これに対する大山巌の回答は、前の二つと違い、真っ向から否定していた。
  (ハ)ニ対スル答弁
 人民ノ財貨ヲ掠奪シタル事実ハ全ク無根ナリ、但シ當夜同市ニ投宿シタル軍隊ノ其宿営用具、即チ机、腰掛、火鉢、茶碗、薪炭等ノ類ヲ徴用シタル事実ハ之レアルヘキモ財貨ノ掠奪ノイ至リテハ斷ジテ之レ無シ、已(スデ)ニ一二心得違ノ者ハ夫々(ソレゾレ)處分ヲ終ヘタリ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 
 


 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする