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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『回想 本島等』

2016年05月27日 | 国際・政治

 NO1

 「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)は、「戦争が近づいていないか」と問い、「子どもたちに残す唯一の遺産は平和」という考えから、「いまだから、本島等(元長崎市長)を回想する」として、出版されました。

 昨年、圧倒的多数の憲法学者が違憲と主張しているにもかかわらず、集団的自衛権行使容認の閣議決定がなされました。あってはならないことだったと思います。さらに、安倍自民党政権には、常軌を逸するようなメディアに対する圧力や先の大戦における史実を修正するかたちの教育介入があることも見逃せません。また、沖縄県民の声を無視した普天間基地辺野古移設計画なども、静観することが許されない問題ではないかと思います。それだけに、ひとりでも多くの人に読んでほしいと思う一冊でした。

 平和活動支援センター所長の著者は、『「回想 本島等」刊行にあたって』のなかで、 
 ・・・
 本島さんは、長崎市長時代に長崎市議会で柴田朴市議会議員の質問に答える形で「天皇の戦争責任はあると思う」と発言した。1988年12月7日のことである。昭和天皇の病状が重篤な状況での発言は全国的に大きな反響があった。そして、1990年1月18日、長崎市長銃撃事件が起きた。この事件に対して「民主主義の危機」「言論の自由を守ろう」と全国の多くの人々は、本島さんの言動に共感し、多くの手紙を寄せたり、署名に協力して、本島さんを励ました。あれから25年が経過した。
 本島さんは2014年11月31日午後5時27分その生涯に幕を閉じた。本島等が亡くなった今、改めて、本島等の考えてきた「戦争」「平和」「原爆」そして「民主主義」や「言論の自由」を考えてみたいと考えた。 
 ・・・
と書いています。そして、毎年一月一日に長崎平和祈念像の前で、平和な世界の実現を願う『正月座り込み』を欠かすことなく続け、『戦争と原爆』を問い続けた本島等の思想は、「今の世の中に投影されなければならない」とも書いています。それは、武力行使の可能性を排除せず国際政治に関わろうとする安倍政権下で、最も大事なことではないか、と私は思います。
 また、「追悼文」を寄せた人たちや追悼シンポジウムに関わった人たちひとりひとりの文章の中にも、しっかり理解し、受け止めなければならないことや忘れてはならないと思うことがいろいろ書かれていました。それらの中から、一部を下記に抜粋しました。
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              世論におびえず揺らがず 本島等さんを悼む
                                             佐竹 信(評論家)
 ・・・
 本島は戦時中に熊本の旧陸軍西部軍管区教育隊に入り、山砲部隊の小隊長をしている。その後、後輩の教育をする担当になったが、「天皇陛下のために死ね」と、いつも教えていた。
 「だから、ぼくにも戦争責任があるんです」。こうした思いが、1988年12月7日の長崎市議会での「天皇の戦争責任はある」という発言につながった。
 この発言に自民党長崎県連などが騒然となって取り消しを求めると、本島は「撤回は私の(政治家生命)死を意味する」と答えて拒否する。
 「勇気ある発言」と言われると、「バカ言うな、おれに勇気なんかあるか」と否定しているが、その気負いのなさが取り消しを拒ませたのだろう。本島によれば、「ボソボソ言っただけ」のこの発言はしかし、全国的な反響を呼び、翌年春「長崎市長への7300通の手紙」(径書房)という本が出される。右翼の抗議が生命の危険を感じさせるほどになり、本島の意向によって、一度は刊行が中断されたが、出版されたのである。
 ・・・
 しかし、90年1月18日、ついに本島は撃たれる。「週刊金曜日」の2008年5月30日号で対談したとき、「神はいないなんて気持ちにならないんですか」と尋ねると、本島は「それによって信仰が揺らぐことはありません」と答え、逆に私を「先生は若いんだから世論におびえず頑張ってください」と励ましてくれた。合掌。
(長崎新聞 2014年11月25日付寄稿・共同通信配信)
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土井たか子・坂本義和、そして本島等を悼む
                                  西田 勝(平和研究室主宰、法政大学定年教員)
 ・・・
 本島さんと最初に交渉を持ったのは、1987年秋、『月刊・非核自治体通信』に「私の平和政策 緑の地球を残そう」(33号、同年11月)を寄稿していただいた時で、それより先、同年の長崎市の平和宣言が「平和こそ人類が子孫に伝え残すべき最高の遺産」であるとして「日本人は、世界の飢餓、難民、疾病、失業などを自らのものとして解決しなければなりません」と、これまでの同市の平和宣言とは違い、本当の意味での「積極的平和」((安倍政権の言葉だけの「積極的平和主義」とは全く異なる)の実現を視野に入れていることに注目しての執筆依頼だった。
 ・・・
 本島さんがマラソン講座に寄せたメッセージは、はっきりと戦前日本のアジアへの侵略に触れたもので、最後は次のような読者の想像力に強く訴える印象的な言葉で結ばれていた。
「私のところにきた(中略)大多数の投書は、あのすさまじい大戦争、何百万人の軍隊、国内の産業も、生活も、教育も、すべて天皇唯一人を中心として、それがすべてで戦ったではないか。
天皇を唯一の中心として戦っていたことは、天皇自身新聞やラジオで十分知っていたではないか。数知れぬ兵隊の屍が、南の島々に、太平洋の海底に、今も眠っているではないか。/それらの青春を奪われた英霊が甦って、天皇の前に立った時、天皇は、君たちは誰だ、俺は知らんよ、と言えるだろうか。そのようなことであります」
 ・・・
 一昨年の夏、本紙159号(2012年8月25日)への寄稿(「67年目の夏を迎えてまず過去の侵略への謝罪を!」)を本島さんにお願いした時、電話口でながら、お話ししたのが、お声を聞く最後となってしまった。そのトツトツとした独特の語り口は今も耳朶の中にある。
 その寄稿された文の終わりは次のように結ばれている。
「謝罪というのは、延々と続けなければなりません。心からの謝罪を100年は言い続けなければならないと思います。それが私の唯一の考え方です」 
 本島さんが私たちに残した最後の遺言といっていいだろう。(2014年11月25日)
 (非核自治体全国草の根ネットワーク世話人会刊「非核ネットワーク通信」180号・2015年2月)
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貧しい被爆者への誠意 ─── 本島等元長崎市長を悼む
                                      郭 貴勲(韓国原爆被害者協会名誉会長)
 ・・・
 私が本島さんに初めて会ったのは、確か1992年だったと思います。私が韓国原爆被害者協会の会長職にあったので、当時、長崎市長が韓国の原爆被害者たちに謝罪に来るというので、会長である私が何の予備知識もないまま、案内役を務めたのでありました。
 ソウル、釜山など被爆者たちを訪ね歩く道々での本島さんの言動は、まったく私の常識外れの日々でした。韓国の被爆者は極貧層であるため、町はずれの貧民たちの村に住んでいるにもかかわらず、本島さんは凍りついた坂道を苦にもかけず上りつめ、貧困のどん底にある被爆者にひざまづいて謝罪、慰労し、見舞金を差し上げるのでした。
 そんな姿を連日見ながら、私はこの人は普通の日本人市長ではなく聖人だと思いました。
 ・・・
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長年にわたって市長を務められた本島等氏の死を悼んで
田上富久長崎市長、
ご家族のみなさま
長崎市民のみなさまへ
                    オイゲン・アイヒホルン(独日平和フォーラムベルリン代表・元ベルリン工業専門大学教授) 

 ・・・
 私たちの共通のテーマは先の大戦であり、無数の戦争犯罪の罪と責任でした。それは小田実がくりかえし強調しているように「誇ることのできない」行為でした。ドイツと日本にとって同じようにあてはまるテーマでした。平和のために大きな重要性をもつのは、次に続く世代であり、今日の青年、若い大人たちです。彼らは実際に起こったことを知らなければなりません。また、どこから見ても美化することのできない歴史を次に渡していかなければなりません。
 私たちはこの未解決の傷について語った彼の率直さに感銘を受けました。長崎がアメリカの原爆によって、ひどい苦しみと、地球上のあらゆる生命に対する脅威のシンボルになっただけに、なおさら感銘を覚えたのでした。
 そうした都市で、他の人に加えられた苦しみを思い起こすことはそんなに簡単ではありません。それには智恵、正しい感情と大きな勇気が必要です。私たちの名前において明らかに起こったことの責任を引き受ける用意があるときにだけ、そして私たちの犠牲者にとって受け入れることができる方法で許しを請う用意があるときにだけ、私たちの最重要の課題である平和を結ぶことが可能です。
 亡くなった平和の友、そして憲法九条の擁護者は、たびたび大きな政治と葛藤をしながら、自分に可能なことを果たしました。
 本島氏は平和市長会議の発展にも努めました。
 ・・・                                               訳・園田尚弘
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日本人が口を閉ざしたことを発言=要約=
                                       マッシモ・ベルサーニ(リベルタ記者)
 元長崎市長本島等、多くの国民が口にできなかった事を強い信念をもって発言した男。
 ・・・
 リベルタ新聞が日本の被爆地に学び、イタリアの子どもたちに教えている「平和の折り鶴」活動に関し、彼の意見を聞いてみた。
「ずっと続けなさい!あなたたちの活動、記事における長崎や折り鶴の紹介は、小さな滴に過ぎないかもしれない。だがこれこそが、記憶を語り継ぐために大事な手段だ。記憶は失われてはならない。おぼえておかなくては!平和の文化、そして希望の文化をつくろう。地球の反対側であなた方が行っていることは、記憶の手段であり、この小さな一歩一歩が、私たちの希望の平和文化を作り出す」
                                (イタリア・リベルタ新聞 2014年12月11日付)
                                                  訳・豊島文
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本島さんの足跡をしのぶ
                                       宿輪 啓祐(元長崎市市民生活部長)
 ・・・
 本島さんは一般に原爆平和の市長だという印象が強いようだが、私から見るとそれはほんの一部に過ぎない。
 ・・・
 就任後の6月、故久保元長崎県知事の肝いりで日中交流が始まり、出島に中国の客船明華号が入港した。本島さんは随行車の中で次のように言った。「こうして中国から来てくれるようになったことは何よりもうれしい。中国は15年もの長い間、自分たちの座敷を土足で踏みにじられ、大きな犠牲を出した。あの悲惨な沖縄の地上戦が三ヶ月だったことを思うと、中国の人たちにとってあの戦争がどんなものであったか想像しても余りあるものがある」。このとき既にあの戦争への反省、中国への加害意識、謝罪の心があったのだった。
 ・・・
 市長退任後、同僚だった人の法事でご一緒したことがあった。久しぶりにじっくり話をすることができた。本島さんは過去を振り返りながらしみじみ語った。「政治とは、対立する利害を調整し、市を一つの方向にまとめる仕事だ。その政治の舞台に登場するのは全部生身の人間である。人にはそれぞれ立場、利害がある。政治が一つの決定をすれば、必ず誰かに痛みが出る。その痛みにそっと手を当てること、それが政治なんだ」と。これが本島さんの政治哲学である。
 人の話をよく聞く。その人の立場を理解する。人の痛いところにそっと手を当てる。その痛みに共感する。どんな人にも分け隔てなく丁寧に対応する。このような本島さんの心情、人間性はどこから来たのだろうか。
 本島さんは、かくれキリシタンの末裔としてその精神を受け継ぎ、耐える力、信じる力、許す力、与える力を学び、それを苦学の体験の中で熟成させていったのだろう。
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けた外れに過剰な多面性 本島元長崎市長死去に思う
                                           西出 勇志(共同通信長崎支局長)
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 平和運動の闘士のイメージが強い本島さんだが、四半世紀前、戦争責任発言から91年の四選までを長崎支局で取材した筆者は、したたかで多面的、全体像を捉えるのが困難な政治家との印象を持つ。
 冗談好きで誰とでも気軽に会い、人の気持ちをつかむのがうまかった。庶民性にあふれ、町中で中高年の女性に囲まれて楽しそうに談笑する場面を何度となく見た。市場や料理店の従業員らに抜群の人気を誇った。
 長崎県議時代の本島さんから励ましの手紙をもらった人の話を聞いたことがある。厳しい境遇に置かれていた時期、真情のこもった気遣いある文面に涙したという。幼少期から苦労を重ねた本島さんの「弱い人の立場に立ちたい」との信条は本物だっただろうと思う。
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鋭利な思想と庶民性 本島さん評伝
                                               森永 玲(長崎新聞記者)
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 本人の思想は明確で、「日本の侵略・加害は悪」という立場を一歩も譲ろうとしなかった。市長退任後の論文「広島よ、おごるなかれ」(97年)で原爆ドームの世界遺産登録を「加害の自覚がない」と批判。元長崎市長による被爆地広島への攻撃が世間を仰天させた。ついには、未曾有の惨禍をもたらした原爆投下について「日本が悪いことをした以上、仕方なかった」と極論を公言するようになり、被爆者の憤激を買った。
 刺激的な言動によって、自身はピンチに陥ったが、波紋の広がりと比例するように、その主張は社会に鮮やかに伝わった。戦争責任発言も「おごるなかれ」も「原爆仕方ない」も人を驚かせたが、考え込ませた。そうなることを理屈ではなく肌で知っていた点で、言論を操る天才だった。
 ・・・
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元長崎市長・本島等 追悼シンポジウム


2015年1月18日(日)13:30 教育文化会館・大会議室 
寄稿『記念シンポジウム・パネリスト』
 『本島さんが問いかけたこと』
                                          長崎新聞特別論説委員 高橋 信雄
 ・・・
 一つ、誇るべきことがある。それは長崎市民は、本島さん同様、決してテロの脅しに屈しなかったということだ。事件後、直ちに「言論の自由を求める長崎市民の会」が行動を起こし、市長を守り、自由を守る全国的運動の中心となった。勇気ある市民が続々と立ち上がった。そして、それから25年、市民はそれぞれの場で、多様な運動を堂々と展開し、発展させてきた。テロがあっても、言論を萎縮させることはなかった。本島さんもまた、「天皇に戦争責任はある」という発言を撤回しなかった。テロの目的が「暴力の威嚇で、言論を萎縮させる」ことにあったとするなら、あのテロは全く効果がなかったということになる。「市民はテロの脅しに屈しない」「あのような卑劣なテロは市民に対して無効である」ということを、長崎市民は、25年間、証明し続けてきた。1月18日の事件25周年シンポジウム開催は、その結実であった。あの場で参加の市民たちが示した、さらなる決意の表明が、本島さんを襲ったテロリストへの答えである。長崎市民は、テロという言論封殺のもくろみを打ち破る、最高の答えを示すことができたと言えるだろう。
 だが、日本全体を見渡せば憂慮すべき事態が拡がっている。本島事件の教訓は生かされていない。それどころか、言論状況はあますます悪化している。天皇タブーは一層、強固になっている。巨大メディアの一部は政権と一体化して、権力者や既得権益層に都合の良い情報を一方的に垂れ流す傾向を強めている。それがこの国を急速に危険な方向に導いている。
・・・
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銃撃事件25周年 平和と民主主義は守られたか
                                                    矢嶋 良一
一 本島市長の天皇発言は熱海で知る
 本島市長の天皇発言は、1988年12月8日、熱海のホテル・暖海荘で新聞報道にて知りました。
 私は出張先で朝食前に散歩するのが趣味になっておりまして、この日も軽快な足取りで熱海の海岸を散歩した後、ホテルのロビーで新聞に目を通すと、一面トップに本島市長発言が載っていました。何人かの県労評代表から「本島市長ってすごいね」「本島さんはどんな人」と尋ねられ、長崎市民の一人として誇りに思ったところです。
 新春の長崎新聞で、歴史家で作家の色川大吉さんが「天皇陛下万歳と叫び亡くなった兵士や遺族、国民への謝罪を最後まで口にしなかった天皇はつまらん男」と発言されていました。私も新聞を読みながら納得しました。
 あの当時を静かに思い起こしてみると、天皇Xデーを始め天皇に関する事柄が集中しておりまして、いやがうえにも本島発言をはじめ天皇、天皇制について真剣に考えたものです。
 ・・・
二 1990年前後は天皇の季節
 ・・・
 1989年1月7日、天皇が死去されると、あの夜はアーケード街やパチンコ店などのネオンが完全に消され、まさに戦争前夜の異様な光景を醸し出していました。一夜明けた8日、誰がどこで決めたか分からないまま、この日から突然「昭和」から「平成」へと変わりました。不思議に思ったのは、ほとんどの国民が異議を唱えなかったことです。
 実はこの年の7月8日、平和会館において「小異を捨てて大同につこう」というスローガンのもとに、「第一回ながさき平和大集会」が県労評、県婦連、平和団体を中心に開催されました。この「ながさき平和大集会」の成功によって、長崎県における広範な市民運動と平和運動の原型が出来上がったと思っています。原水禁運動の分裂を乗り越え、4年振りに大同団結しただけに忘れることができません。実は、広島県には存在しない「ながさき平和大集会」の成功が広範な市民戦線を総結集させ、本島市長の天皇発言を支持する運動に引き継がれました。その後は、長崎における市民運動に参加する皆さん方の地道な努力の中で、継承・発展の道を歩んできたと思っています。
 ・・・

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マギー牧師 

2016年05月17日 | 国際・政治

マギー牧師 

 「南京大虐殺」はなかったと主張する人たちが口をそろえて言うことがあります。「仕組まれた”南京大虐殺 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ」大井満(展転社)の第九章、「虐殺話のそもそもの源」の二「東京裁判」の中にもありました。次のような文章です。
ーーー
・・・
 それはともかく、東京裁判ではそれら不法行為を立証するための証人が、次々と登場する。南京アメリカ教会のジョン・マギー牧師は、こう証言していく。
「いたるところで、組織的な殺戮が行われ、しばらくすると南京市内のいたるところに死骸がごろごろ横たわっていました。強姦も、いたるところで行われ、もし拒絶や反抗などしたら、すぐ突き殺されました」
 ティンパーリイやスノーの記事にあるような虐殺証言を微に入り細をうがち、これでもか、これでもかというように、延々二日間にわたってマギー牧師は証言したのである。
 これにたいし、ブルック弁護人は最後にこう質問した。
「それではお聞きしますが、これらのことはあなたがその眼ではっきりと見たのですか?」
「いえ、私が実際に見たのは、誰何されて逃げたところを射たれた、その一人だけでした」
 何のことはない、証言といいながら、そのすべてがどこかで仕入れてきた、また聞きにすぎなかったのである。
ーーー 
 東京裁判で、ブルックス弁護人に「…不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あたなご自身いくらぐらいご覧になりましたか」と尋ねられて、「たったわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」と答えたからといって、「南京大虐殺」がなかったと結論づけることができるのかどうか、彼の日記を読めば、問題はそう簡単ではないことがわかると思います。
 たとえば、こうした主張をくり返す人たちが、マギー牧師の証言を裏づける日記やフィルムで明らかとなった李秀英さんの存在や、彼女の日本における名誉毀損裁判での勝訴の判決をどのように説明するのでしょうか。李秀英さんについては、マギー牧師の日記に下記のようにあります。
ーーー
 鼓楼病院で、今日(12月19日)もひどい患者を診ました。7歳の少年は腹部を四、五カ所突き刺され、誰も助けられなくて死んでしまったのです。
 さらに、まだ19歳という女性ですが、妊娠五、六ヶ月ぐらいだと思います。日本兵の暴行に抵抗したため顔面に七カ所、足に八カ所、腹部に2センチの深い傷を負っていました。このお腹の傷のために胎児は死んでしまいましたが、母親のほうはなんとか命は助かりました。
ーーー
 また、「どこかで仕入れてきた、また聞き」などと言う表現もいかがなものかと思います。日記を読めば、マギー牧師が南京において南京で進行中の残虐行為の被害者から毎日のように直接話を聞いていたことがわかります。遙か遠隔の地の話を人伝に聞いたのではないのです。何世代にもわたって伝えられ、様々な解釈や感情が入り込んだ古い昔の話を聞いたのでもないのです。「伝聞」にもいろいろあると思います。マギー牧師の聞いた話には、多少の誇張があるかも知れませんが「伝聞」として完全否定したり無視したりできるものではないと思うのです。感情を伴った事件直後の被害者の訴えが、まったくの作り話でないことは、マギー牧師にはわかるのではないでしょうか。

 東京裁判において、被告人全員の無罪を主張したパール判事は、マギー牧師の「伝聞」に基づく証言の一つを取りあげ、それが真実であるとは受け止められないと、その意見書(いわゆる『パール判決書』)に書いています。でも、政治的判断を排し、きちんとした証拠に基づいて、あくまでも法的裁きしようとしたパール判事も、日記やフィルムの存在を知っていたら、たとえ「伝聞」でも、マギー牧師の証言に対する受け止め方は、多少ちがったものになったのではないかと想像します。

 下記は「目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記」滝谷二郎(三交社)から、著者のプロローグと第一章のごく一部およびマギー牧師の日記の部分だけを抜粋したものです。著者がより深く日記の内容を理解するために、様々な解説をはさんでいるのですが、それは省略して、マギー日記の文章(その前半部分)のみ、抜粋しました。
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                        プロローグ
・・・
 思い返せば、従軍慰安婦の問題は日中戦争の南京で旧日本軍が起こした夥しいレイプ事件に懲りた日本軍が、戦地で慰安所を設置することを指示したことに始まる。現在、日本政府が問われている戦後補償の原点は、実は日中戦争中の南京事件といわれる旧日本軍が犯した戦争犯罪事件にあり、この事件の真相究明の姿勢におおきなかかわりをもっている。

 この事件の重さは、宮沢首相が総理に就任した直後の1991年11月26日、衆議院国際平和特別委員会で、社会党の沢藤礼次郎代議士から一番に南京大虐殺事件について質問を受けていることでもわかる。南京大虐殺事件を一国の総理がどのように判断するかは、対中国のみならず日本の外交問題に極めて重要であるという認識のもとに、一人の社会党代議士が国民に代わって質問したのだと言ってよい。
 南京事件について、宮沢首相はこう答えている。
「正確な記録、内容は別として、そういうふうに伝えられた事実があり、それは極めて遺憾なことだと私は思っている」
 政権を預かる自民党内に、南京事件はなかったという根強い意見(石原慎太郎衆院議員が米誌『プレイボーイ』1990年10月号のインタビューで南京事件は中国人が作り上げたうそと発言)があることを指摘し、首相の南京事件に対する認識をただす野党議員の質問を受け流した宮沢首相は、その後従軍慰安婦問題の責任追及など、戦後補償の問題がこれほど急速に緊迫化するとは、予想すらしていなかったことだろう。
 しかも1992年は日中国交正常化20周年の節目の年にあたる。20年前の1972年、時の中国総理・周恩来は田中角栄首相(当時)に、「中国は中日の友好を考え、戦争賠償要求を放棄する」とこたえる一方で、日本の侵略戦争に反省と真相の究明を求めた。日中国交正常化から20年、日本は戦争責任において中国側に対して何をしてきたのか、それが問われる20年でもある。

 一方、中国では、日本の侵略で民間人に被害があったとして、各地で補償を求める市民の署名運動が拡がりつつある。1991年、海部首相(当時)がモンゴルの帰りに北京を公式訪問(8月10日)した際に、請願書を渡そうという計画もあったが、結局はその翌年、1992年の全人代(日本の国会にあたる)に意見書として提出され、議案として検討されることになった。
 さらに、日中国交正常化20周年にあたり中国政府の指導者から、「天皇訪中を歓迎する」というサインが送られ、天皇訪中とともに過去の戦争に言及する場面すら予測されるようになっていった。とくに、日中戦争についての中国側の研究者のなかには、昭和天皇の責任説を強く唱える者も多く、補償問題を辞さないという強硬論にまで発展することもあるだろう。また日本国内においては、南京事件の虐殺を肯定する派と組織的な虐殺を否定する派の議論に、いまだ決着をみていない、という状況である。

 こうした状況下にあった1991年7月、南京事件の現場を撮影し貴重なフィルムが米国ロサンゼルスで発見され、事件の真相究明に大きな期待を抱かせた。フィルムは16ミリのモノクロで、日本軍の南京占領(1937年12月13日)直後の惨劇などが収録されたものだった。撮影者は当時、南京市で避難民救援活動をしていた米人牧師のジョン・マギー(The Reverend Magee)である。彼が南京市内で日本軍に隠れるようにして撮影したフィルムを、当時同じく南京にいた米人仲間のジョージ・フィッチ(George Fitch / YMCA書記官)が上海へ持ち出した。フィルムは4本複製されており、その存在は知られていたが、その後行方がわからなくなり幻のフィルムとまで言われていた。

 それが、在米中国人グループ「紀念南京大受難同胞聯合会」(姜国鎮ら)の手によって、マギー牧師の次男デヴィッド・マギーの自宅から数十年ぶりに発見されたのである。約37分4巻のフィルムはやや縮まっているものの、保存状態がよく南京事件の様子が鮮明に残されていた。

 このフィルムの確認の決め手は、1991年ドイツのベルリンで発見された南京事件に関するドイツ外交文書「ロ-ゼン報告」である。南京事件当時、南京駐在のローゼン書記官が、マギー牧師の撮影したフィルムのコピー(その後行方不明)とマギー牧師自身による説明文を添えて本国に送っていた報告が、今回発掘されたフィルムの内容と一致したからである。さらに遺族は、マギー牧師自身が書き添えたとされる説明文の筆跡を本人のものと確認した。

 マギー牧師のオリジナル・フィルムの発見は、これまで南京事件の残虐性の有無について議論されてきた、いくつかの謎の解明に貴重な資料になることは間違いない。フィルムを発見した「紀念南京大受難同胞聯合会」は、旧日本軍の南京侵攻の残虐性を証明できる貴重な資料であると、すぐさま世界に向けてその内容を公開した(1991年8月2日)。
 当時私は、ニューヨークで「紀念南京大受難同胞聯合会」によるマギー・フィルムの探索に立ち会っており、同時に、フィルムとともに幻の日記とも言われて行方の知れなかったマギー日記の探索に携わっていた。
 私は、マギー牧師の南京時代の同僚であるジョージ・フィッチ氏(当時YMCA書記官・フィルムを上海に持ち出した当人)の遺族エディス・フィッチ女史と連絡を取り、彼女の記憶をたどりながらマギー日記の行方を追った。そしてようやく、40数年前の父の思い出をたどった彼女は、ジョージ・フィッチ氏がマギー・フィルムを上海へ持ち出す時、同時にマギー日記を持ち出して家族宛に送っていたという重要な記憶を思い出したのである。私たちはすぐさまニューヨーク郊外に住むマギー牧師の次男デヴィッド・マギー氏に連絡をとった。その結果、自宅倉庫から50数年ぶりにマギー牧師の日記を発掘することができたのだった。
 「紀念南京大受難同胞聯合会」の姜国鎮氏は、南京事件の真相究明に大きな前進をもたらすとして、マギー日記の一字一句を確かめ、筆跡とともにその内容をデヴィッドに確認した結果、それがマギー牧師自筆の日記であることが明らかになった。
 マギー牧師の日記はこれまで発表されたことはない。師は数少ない南京事件の目撃者であり、後に東京裁判で南京事件の証人として証言台に立っている。マギー牧師の残した日記は、日本軍が南京を占領する1937年12月13日の前日12月12日から、南京の治安が安定する翌年の1938年2月初旬まで書き綴られている。
          第一章 「日記は見ていた」五十五年ぶりの真実
中立区となった国際安全区
 ・・・
 マギー牧師は、安全区におかれた鼓楼病院(金陵大学付属病院)で外国人の負傷者の救援にあたり、負傷看護を通して日本軍によって残虐行為を目の当たりにし、日本軍に隠れるように十六ミリフィルムを撮影していたものと思われる。そして、安全区内での日々のでき事を日記に書き残し家族宛に送っていた。いつ死に遭遇するかわからないという緊迫した状況での撮影と手記は、マギー牧師の家族と世界に宛てた遺言ともいうべき決死の告発であったに違いない。マギー牧師は、外国人ジャーナリスト不在の南京で数少ないフィルムの撮影者であり(ほかにパラマウント映画A・メリケンの”南京陥落”と日本の東宝映画文化映画部のドキュメンタリー)、さらにのちに東京裁判で南京事件の目撃者として証言台に立つことになる。
 ・・・

日本軍は南京で何をしたのか
 ・・・
 マギー牧師の日記は、日本軍が南京を占領する前日、12月12日、”愛する人へ”で書き始められている。
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                      愛する人へ
No25 Lochia Rd. Nanking
Dec. 12,1937
 この町の人にとってこの数日はこれまで経験したことのない残酷な日々だったことでしょう。日本軍は今日の午後城内に乱入し、中国軍は中山路や他の路から逃走中です。この日記を書いているときも市中では砲撃の炸裂音が響き、小銃や機関銃の射撃音が聞こえてきます。敗走せず隠れ忍んでいる部隊も確かにあるらしいのですが、本隊は揚子江を超え彼岸に渡ろうと下関方面に向かっているようです。市内のいたるところで、中国軍か日本軍かわかりませんが銃撃が続いています。下関の聖パウロ教会から逃げてきたクリスチャンや市民が集まっているこの避難区の隣の家の向かいにまで爆弾が落下し、住民は恐怖に震えています。
 2、3日前のことからどんなことが起こっているか、書きましょう。毎日少しずつ日記を書けばよかったと思います。というのはあまりにも多くのことが起こったので思い出すのが容易ではありません。この間の水曜日〔12月8日と思われる〕、あなたに手紙を投函しました。それが郵便局が私の手紙を受け付けてくれた最後の日でした。
 うちのピアノとルイスさんのピアノはうまく運び出せたのですが、アーチ・ツェンさんのピアノは時間がなくて運び出せませんでした。日本軍司令部の許可をもらってやっとうちの荷物だけ持ち込んだのです。私が下関からここ〔安全区〕に入り込む時も歩哨兵が邪魔をして入れてくれなかったのですが、入口に立っていた士官に話していれてもらったのです。

 安全区の鼓楼病院
 次の日、12月9日木曜日
 駅に負傷した市民がいるというので、車で駆けつけました。書き忘れていましたが、前日両手を爆弾で負傷したという気の毒な老女がやってきたので、私は老女とその娘を鼓楼病院に連れていきましたが、老女は片手を切断して助かりました。
 私は中国人のチェンと駅に行き、入口で警備している士官に断って駅に入りました。負傷兵はいなかったので駅で待っていた鼓楼病院の救急車に薬品や寝具などを積み込み、私たちは、フォードに乗り数週間前に負傷した少女を連れにいきました。
 木曜日、私が下関にいたのですが、日本兵たちは郊外の家を燃やしていました。その時、ブリッジ・ホテルが焼かれたかどうかは私は知りません。ツエンの家の裏にあるビルは焔に包まれていました。兵士たちはさらにツエンの家の回りを走り回っていましたが、私たちが立ち去る前に焔は消えていました。ジョージ・フィッチはあとからきて、燃えているのを見たと言っています。翌日行くと、ただ壁だけが残されていました。以前そこの前の土地を私に売ることを拒んだコウと名乗る人が村の入口でたたずみその燃えた家を指差し、あの村に戻りたいが恐くて戻れないと涙を流していました。私は守備兵に断ってみると言ったのですが、やはりコウさんは村に入れてもらえなかったのです。
 何人かの負傷兵を揚子江の川岸まで連れていきました。彼らは、対岸の浦口から列車で転送されて行きました。その波止場には対岸に渡してもらうのに何日も待っている民間の負傷兵も何百人といました。彼らは何日もの間食事もしていません。ジョージ・フィッチが二日前にも警察署長と交渉したのですが、警察署長の話では負傷兵たちは船で渡ったということで喜んでいましたが、私が見たところではまだ1500人程の人が船を待っていました。

 12月11日 土曜日
 私は、鼓楼病院の負傷兵運搬車に傷兵を乗せ、首都劇場の治療所に向かっていました。治療所の前まで来ると突然大きな爆弾が落ち、通行人11名が即死しました。福昌ホテルの前方の首都劇場の前に止めてあった2台の車は火だるまになり、日本の爆撃機が真上を飛び、対空機関砲が激しく火を吹いていたので、負傷兵を下ろすと私はすぐさま鼓楼病院にとって返したのです。
 裏道を通っての帰り道、大学附属中学にいたる道すがら、いたるところで、いくつもの死体を見ました。一軒の家に弾が命中して20名近くの生命が失われ、その中の7、8名は路上に投げ出されていました。かわいそうに、ある老夫婦は33歳になる息子が目の前の大きな穴の中で死に絶え、その横で気が狂ったように泣き叫んでいました。大勢の人が回りに集まっていましたが、私はすぐ隠れるように言いました。中国人の大衆は無知で、いつ爆撃がくるのかわかっていないのです。
 この日、私が説教していると電話が鳴り、説教中でしたが電話をとりました。こんなことは初めてです。電話は、安全区委員会(旧張群将軍邸に本部を置く)本部に直ぐ来てほしいという命令に近いほど緊迫したものでした。安全区の計画相談があるというので急いで本部に向かいました。本部に着く前に日本軍が城内を破壊しているという知らせを受けました。中国軍は防御しようと、鼓楼病院に隣り合わせた公園の中に大砲を設置しようとしました。ここは避難区の中立地帯ですから、これはやってはいけないのです。しかし、その一角に薬を保管する倉庫があるので、私はすぐさま薬を運び出し、保管したのです。その日の夕刻は、シェルツェ・パンティン氏(ドイツ人・興明貿易公司)の家で夕食をとりました。この辺りにはまだ電気がありますので、日記を書くことができるのです。これを書いている間に爆撃は少なくなりました。中国軍の陣地が占領され、砲撃用武器などが捕獲されたのだと思います。明日はどんなことが起こるかしれません。小銃の響きは時々聞こえてきます。

             第二章 安全区ナンキン・アトローシティ
 避難民区に逃げ込んだ敗残兵
 12月15日 午前8時50分。
 一昨日(12月13日)の晩、日記を書き終えた時は戦闘はもう止んだと思いましたが、すぐ近くの砲兵隊陣地から聞こえる機関銃や小銃の破裂音は今までにないほど激しいものでした。
 昨日(12月14日)は本当に嫌な一日でした。日曜日(12月12日)の午後、中国軍が退却を始めた時、私は外交部(外務省にあたる)へ行ったのですが、そこには大勢の負傷兵ばかりで、医師や看護婦はひとりもいませんでした。しばらくしてアーネスト(Rev Ernest H.Foster/アメリカ人・アメリカ聖公会布教団)と私は三牌楼の陸軍省にも行ってみました。ここではもっと多くの負傷兵と20人ほどの医師と看護婦がいたのですが、彼らは治療をしようとせず逃げることばかり考えているのです。私は彼らに負傷兵の治療にあたらないのなら、国際赤十字委員会(マギー牧師が委員長)が面倒をみますと告げ、前日その治療班を組み分けしたように、負傷者を分けていきました。班長を私が引き受け、アーネストが書記を担当してくれました。
 安全区委員会のあるものは、日本軍の将校と、もし安全区の病院(鼓楼病院)に中国人の負傷兵を匿ったりしなければ、日本軍は病院を保護するし、兵隊も抵抗しなければ危害を加えないと約束したということでした。そこで、私たちは南京の町中を駆け巡り中国兵に武器を棄てるように呼びかけました。陸軍省の前は兵士で混乱していましたが、兵士が棄てた大小の火砲、弾薬、手投げ弾などが散乱し、ロバは兵士を失い勝手に走り出す始末で、それを止めるのに手間がかかりました。通りに散乱した弾薬や手投げ弾に火を近づけると危険なので注意するのですが、足元で爆発したこともありました。陸軍省では、昨日いた医師や看護婦は逃げて居なくなっており、負傷兵だけが残されていました。
 
 翌朝(12月14日)、外交部に負傷兵を連れて行く途中で日本軍に出会いました。彼らは負傷兵の痛がっている手や足を曲げては、縛って傷めつけ、野獣のように見えました。運よく日本軍の軍医がきましたので、ここは(外交部)負傷兵の病院だと、下手なドイツ語で話すと、軍医は兵隊に命じて傷ついた中国兵を釈放してくれました。
 暫くすると、英語をかなり話す日本の新聞記者がやって来て、「なかにはたちの悪い日本兵もいるよ」と慰めてくれました。その後、英語のわかる紳士である大佐に出会いましたので、彼に本部に行き負傷兵看護の許可をもらってきて欲しいと申し入れました。
 私と若いロシア人は赤十字の車で道徳会の事務所の西にある中央ホテルへ行きました。コーラ(Cole Podhivoloff)白系ロシア系・サンドグレン電気店)が入口に立っている四角頭の警備兵に私たちの用件を通訳し、陸軍省の負傷兵を外交部に運びたいと申し入れました。彼は中に入り、最高司令官に伝えたのですが、返事は2、3日待てと帰されました。
 私が安全区委員会の本部に帰ると、多くの負傷兵が待っていました。私は負傷兵を二列に並ばせて、外交部のある兵站病院へ連れて行こうとしました。病院へ行く車の中で高級将校が、私が負傷兵を何処へ連れていくのかといかぶり、口論となりました。私は負傷兵を決して連れ去る気持ちはないと弁解しました。日本軍の士官は私たちを口汚く罵り、通訳のコーラに、もう二度とアメリカ人を連れてくるな、アメリカ人は皆腹黒い奴だと怒鳴っていました。

 敗残兵を集団で虐殺  
   12月19日 日曜日
 先週の恐ろしさは、いままでに経験したことがないようなものでした。日本軍がこんなに野蛮だとは思いもしませんでした。殺人と凶暴の一週間でした。昔、トルコ人に殺されたアルメニア人の惨事よりもさらに酷いものです。囚人は見つけられ次第すぐに殺され、そればかりか一般市民も年齢におかまいなしに被害に遭っています。町の南から北の揚子江沿岸にいたるまで死体がゴロゴロ転がっています。一昨日(12月17日)も私たちの家のそばで中国人が殺されました。
 中国人は臆病で脅かされるとすぐに走り出してしまいます。その男も日本軍を見るや走り出し、竹の垣根の向こう側の見えない所で殺されたのです。コーラがあとで現場を見に行ったのですが、頭を殴られ、二人の日本兵はまるで鼠でも殺したように笑いながら煙草を吹かしていたそうです。
 知り合いのチェンという中国人の16歳になる長男が、2日前(12月17日)500人位の中国人と家の前から日本軍に連れて行かれたのですが、もう生きていることはないだろうとチェンは泣き暮れています。その中に草鞋峡付近のクリスチャンが11名含まれていますが、その後音信がありません。昨日着いたばかりの、田中副領事(田中末男)に彼らの名前を書いたものを渡しておいたのですが…。

 数日前(12月15日)、私の学校のコックが商店主の息子と池で米を洗っていると100名位の中国人がロープで後ろ手に縛られて連行されるのを見たのです。二人もまた日本兵に見つかり最後尾に繋がれ、草鞋峡(揚子江岸)の方へ連れて行かれたというのです。草鞋峡着くまでに一人づつ銃殺されていきましたが、幸いなことに二人は最後尾だったので日本兵に見つからないように歯でロープの結び目を解き排水溝に身を隠し、そこで二晩過ごしてやっと逃げ延びたところで、町へ帰る途中酒樽を略奪してきた日本兵とばったり出くわしました。日本兵は何も知らず二人に酒樽を担がせ町に運ぶように言いつけたのです。二人は喜んで酒樽を担いで無事に市内に戻ることができたのです。

 私の運転手の二人の弟が、チェンの息子を連れ去った同じ日本軍のグループに連れて行かれました。私は運転手の奥さんと出て行き、(運転手は出て行かなかったが無理もない、出て行けば彼も連れていかれただろう)、奥さんは二人の義理の弟が縛られているのを見て、軍曹とおぼしき兵士に指を二本立て、”二人は兵士じゃない!”お叫びました。日本兵は、奥さんに”どけっ!”とだけ言い残して二人を連れて行きました。その時、チェンの息子がその中にいることを知っていたら、私はすぐさま指揮官に抗議に行っていたと思います。二日前の15日にも三牌楼のクリスチャンが路上で殺され、火曜日(12月14日)の晩にも4人一組に縛られて連れて行かれるのを見ました。夕暮れでよくわかりませんが5000人から6000人はいたと思います。もう何人殺されたか誰も数えませんが、2万人はいるでしょう。

 遅すぎた憲兵の配置               
 この一週間、日本兵は南京市内のあらゆるものを略奪しています。ドイツ大使館の車を盗み、アメリカ大使館にも何度も侵入して追っ払われたところです。兵士だけではありません。将校も同じです。昨日(12月18日)のことですが、私の家の車庫に兵士に混じって非軍人の浪人が二人、車を盗みに侵入したのです。私が、総領事が張り付けた紙を見せると、浪人のひとりが流暢な英語でパスポートを見せろというので差し出すと、”ありがとう”と英語で礼を言って頭を下げ帰っていきました。日本兵の略奪は続き、南京市民の乏しい食糧まで奪い取って行きました。
ーーー
マギー牧師の東京裁判証言
「最初は殆ど見掛けませんでした。併し多分多少は居ったことと思いますが、日本の大使館に行きまして、日本の大使館が段々多数の人を連れて来るようになったのであります。それは努力して居ったのであります。そしてそれを安全地帯の付近に番兵として立たそうと云う努力を続けたのであります。之に依り最初は非常に元気付けられました。所が段々それが一つの笑い話になっていったと云うのでありますが、その事実は、其う云う番人が、先に申しましたような兵隊不法行為をやるようになったからであります」 
ーーー
 最も恐ろしいことは婦女暴行でした
 でも、いちばん恐ろしいことは婦女暴行です。これは想像もつかない方法で行われています。町は女を追いかけ回す日本兵でいっぱいで中国の一般市民が住んでいると所はいうまでもなく、我々がいる避難民地区にいたるまで、日本兵は何度も家に入り込み、僅かな物まで盗んでいきます。この強盗団に市民は毎日おびやかされ、女たちは戦々恐々として震えて暮らしています。数日前、通りの向こうの寺の僧侶が来て日本兵が二人の尼を連れ去ったため、私の所で女性たちを匿って欲しいと逃げ込んで来ました。家の中は女性でいっぱいになりしばらく風呂場にも女性を匿ったりしました。昨晩も日本兵が覗き込んで女を連れ去ろうとしましたが、大勢の女たちが金切り声上げたため、日本兵はしぶしぶ帰っていきました。

 金陵大学には4000人もの女学生がいます。すでに12名の学生が連れ去られたということです。数日前も私がEと一緒に歩いていると、一人の女性がば泣きながら私たちの後を追ってきて、いま日本兵に呼び止められたと助けを求めてきました。私たちは彼女を女たちと同じ所に匿いました。翌朝彼女から話を聞くと四人の男がやって来て28歳の主人と3ヶ月の息子を置き去りにし、彼女を車に押し込めて2、3マイル走ったところで、車のなかで彼女をレイプしたのです。彼らは盗んできた食料を彼女に与え、車ももとの所へ返すと彼女を解放したそうです。そこで私たちと出会ったのだそうです。
 翌朝、病院に連れて行き、ウィルソン先生(Dr. Robert O. Wilson/鼓楼病院)に診てもらいました。

 昨日(12月18日)の午後、私はドイツ人のスパーリング(Eduard Sperling/上海保険公司)氏と何軒かの家を見て回りましたが、どの家も女が犯されていない家はなく、ある一軒では一人の婦人が床に臥して泣いていました。話をきくと、たったいま男に犯されたところだといういうのです。私たちは男を捜し出そうと三階の部屋の前まで来ると、なかで人の気配がするので私は英語とドイツ語で”ドアを開けてください”と叫びました。なかにいた日本兵はドアを開けると階段を駈け降りて逃げて行きました。私はその男の背中に、”野獣!”と叫んでやったのです。私はこのことを日本総領事に話しました。領事は、”仕方のないことです”とたった一言だけ言いました。また、朝日新聞社の人にも話しましたが、彼もまた、”仕方のないことです”とだけしか言いませんでした。これがいま日本人が日本兵を見る共通した感想なのです。

 ・・・(以下略)

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801)

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パール判事

2016年05月14日 | 国際・政治

 1997年、京都東山の護国神社に「パール博士顕彰碑」が建立されたといいます。京都を訪れた際、嵯峨野の景色を眺めながら、「出来たら余生をこういうところで送りたい」と漏らしたことが発端であったようです。パール博士顕彰碑建立委員会の委員長は、戦後も政治経済界で活躍し「昭和の参謀」と呼ばれた元関東軍参謀、瀬島龍三でした。その後、靖国神社の境内にも「パール顕彰碑」が建立されたことから、戦後の日本で、パールの「東京裁判の被告は全員無罪」という意見書(いわゆる「パール判決書」)を高く評価する考え方が、脈々と受け継がれていることがわかります。

 しかしながら、「パール判事」中島岳志(白水社)の序章には、下記のように、その評価の仕方の問題を象徴するような記述があります。改めて、大事なことは、パールの「真意」を受け継ぐことであると思います。そう言う意味で、パールの全体像にせまる「パール判事」中島岳志(白水社)は貴重な一冊だと思い、特に見逃してはならないと思う部分の一部を、抜粋しました。日本には、パールの長男、プロサント・パールを憤らせるような、ご都合主義的なパールの政治的利用があることを悲しく思います。

 「パール判事の日本無罪論」(小学館文庫)の著者、田中正明氏は、その「終わりに」のなかで、

世上、私の『日本無罪論』という題名が博士の真意をあやまり伝えるものであるかのごとき言説をなす者もいたが、さようならパーティにおける博士の日本国民に与えた最後の講演を聞き、私は本著に対してますます自信を得た。同時に、この博士の”真理の声”を一人でも多くの日本人が味読、心読くだされんことを重ねてお願いしたい。

と書いています。
 しかしながら、『パール判決書』のどこにも「日本が無罪である」というような記述はありません。 逆に、下記にも一つだけ(張作霖爆殺事件)抜粋しましたが、様々な事件で、日本軍の犯罪・国際法違反を認めているのです。一例をあげれば、『パール判決書』の「第六部 厳密なる意味における戦争犯罪」の「俘虜にたいする訴因」で「日本側は戦争犯罪を犯した」とはっきり書いています。(パル判決書 NO5)


 パールは、「日本」が「無罪」なのではなくて、東京裁判における被告人に対する検察側訴因の根幹ともいえる、「共同謀議」の事実や「命令」の証拠がなく、法的には被告人を有罪にできないということをくり返しているだけなのです。したがって、「パール判事の日本無罪論」という書名には問題があると思います。パールの講演を聞いて「自信を得た」という田中正明氏は、パールの講演内容を都合良く解釈したのではないかと、疑わざるを得ません。

 田中正明氏はなぜ、書名をパール自身の表現を利用して「パール判事の被告全員無罪論」などとしなかったのでしょうか。なぜ、読者が誤解するおそれのある「日本無罪論」にしたのでしょうか。

 パールはガンディーの「非暴力・不服従」による世界平和の構築を主張していたといいます。でも日本では、パールの意見書(いわゆる「パール判決書」)は、パールの意に反し、「大東亜戦争肯定論」につながるような主張に結びつけて語られがちなのではないでしょうか。田中正明氏はもちろんですが、パールの「被告人全員無罪」の主張をよく知る人たちは、なぜそのことに言及しないのでしょうか。同書に推薦のことばを寄せている小林よしのり氏は「本書は、第二次世界大戦終結後に行われた東京裁判(極東国際軍事裁判)の本質と、この裁判においてただ一人「被告人全員無罪」を主張した、インドのラダ・ビノード・パール判事の理念を最も簡潔、的確に伝えた一冊である」と書いていますが、私は頷くことができません。 そして、『共同研究 パル判決書』東京裁判研究会(講談社学術文庫)などを手にして、直接パールの主張に触れれば、とても頷くことができないのではないかと思うのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    序章 
箱根
 ・・・
 パール下中記念館。
 1975年、ラーダービノード・パールと下中彌三郎を記念して建てられた記念館で、二人の遺品や解説パネルが展示されている。管理・運営は、平凡社創業者の下中を記念して設立された下中財団が行っている。
 周りの様子を伺いながら、私はおそるおそる建物に近づいていった。静けさが一帯を包みこんでおり、人気が全くない。
 事前に連絡しておいたからか、入り口には鍵がかかっていない。
 不審に思いながらも、そっとドアを開け、中に入った。
 「すみません。」
 館内に私の声が響き渡る。
 しかし、誰も出てこない。どうやら常駐の受付係や管理人はいないようだ。
 少し戸惑いながら館内を見渡すと、信じ難い光景が広がっていた。
 掃除やメンテナンスがなされた形跡は全くなく、ショーケースや手すりは、すっかり埃をかぶっている。照明は壊れ、床には落ち葉がたまっている。全体的にかび臭く、隙間風が冷たい。
 見学する人などほとんどいないのであろう。展示品は手入れされず、ひどく痛んでいる。写真にはカビが生え、展示プレートは剥がれ落ちている。
 「右派論壇で頻繁に取り上げられる人物の記念館がこんな状態なのは、いったいどういうことだろう?」
 私はしばしの間、呆然とそこに立ち尽くした。
───  ラーダービノード・パール(1886-1967)。
 東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官として知られる。
 彼は法廷に提出した意見書(いわゆる「パール判決書」)で、東京裁判が依拠した「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、連合国による一方的な「勝者の裁き」を「報復のための興行に過ぎない」と批判した。
 この議論は「日本無罪論」と見なされ、しばしば「東京裁判史観」を批判する論客によって引用される。中には「大東亜戦争肯定論」の論拠として持ち出す論考もあり、近年の歴史観論争に頻繁に登場する重要な存在となっている。
 ・・・
 「このような『パール判決書』のご都合主義的な利用が、パール下中記念館の荒廃につながっているのではないか。」
 私は、館内で棒立ちになりながら、強く思った。
 目の前に置かれたパールの遺品は、無残な姿に変わり果てている。写真の一部は、何が写っているのか判別できないほど、朽ち果てている。史料はかなりの部分が抜き盗られ、散逸してしまっている。 「これではパールは浮かばれない」
 私は強い憤りを感じながら、館内を見て廻った。そして、「今こそパールの思想や主張の全体像を提示しなければならない」と思った。
 本書の執筆は、このときから始まった。
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                第三章 パール判決書 
張作霖爆殺事件
 さて、まず最初に問題となるのが、1928年6月4日に起こった「張作霖爆殺事件」である。この事件は、奉天派軍閥の首領・張作霖が、関東軍高級参謀・河本大作の陰謀によって暗殺された事件である。河本は、張作霖爆殺の混乱に乗じて関東軍による満州制圧を企てたが、この計画は関東軍参謀に周知されておらず、また奉天軍側も挑発に乗らなかったため、失敗に終わった。
 検察は、この事件から日本の指導者たちによる「全面的共同謀議」が始まり、「大東亜」戦争にいたるまで、一貫して侵略戦争の計画、準備が行われたと主張した。満州事変や日中戦争、「大東亜」戦争は、彼らによる、綿密な「共同謀議」によって引き起こされた「犯罪」であると、検察側は見なしたのである。
 パールは、このような見方に真っ向から批判を加えた。
 彼は、張作霖爆殺事件を「たんに張作霖の殺害が関東軍将校の一団によって計画され実行されたとという一事だけである」とし、「この計画もしくは陰謀を、訴追されている共同謀議と連繋づけるものは絶対になにもない」と断定したのである。
 パールは次のように言う。

 殺害を計画し、そしてそれを実行することは、それ自身がたしかに問責できることである。しかし現在われわれは、被告のいずれをも、殺人という卑怯な行為のために裁判しているのではない。われわれの前に提起された本件に関係ある問題と、この物語との間に、どのような関係があるかを、調べなければならないのである。[東京裁判研究会1984a:700ー701]

 パールは、ここで明確に張作霖爆殺事件を「殺人という卑怯な行為」と断罪している。そして、河本をはじめとする事件の実行者は、殺人犯として「問責できる」と説いている。しかし、彼は陸軍の将校が卑劣な殺人事件を犯したことと、それが指導者の「共同謀議」であるかは別問題として、その関連性を証明する必要性を訴えている。
 そして、パールの見るところ、この殺人は「共同謀議」によって企画されたものではない。事件はあくまでも限られた人間によって企画・実行されたものであり、その背景に指導者たちによる「共同謀議」があったと見なすことはできない。確かに、関東軍の多くの軍人が「満州占領を目標として」いたことは事実である。しかし、この事件が「共同謀議」によって企画され、実行されたという証拠は提出されていない。
 ・・・
 パ-ル曰く、張作霖爆殺事件は、間違いなく「無謀でまた卑劣である」この点において、河本一派の行為は非難されるべきであり、殺人事件として問責されるべきである。しかし、この事件と「共同謀議」を関連させて論じることは、難しい。関連性のない事件を「長い物語」の一部として無理につなぎ合わせ、「平和に対する罪」に問うことはできない。
 ここで確認しておきたいことは、パールはこの事件を「共同謀議」の一部ではないと主張しているだけで、その行為を肯定してなどいないということである。このことを読み間違えて「パールは、日本軍に問題はなかったと主張している」と解釈してはならない。
 これは、この後のパールの記述を読む上でも、極めて重要なポイントである。
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                第六章 晩年
最後のメッセージ
 ・・・
 パールはインドに帰国するにあたり、来日中に広島・長崎を訪問することが出来なかったことを悔やんでいた。そして、滞日中に受けた原稿料や見舞金を、原爆ドーム保存強化費として寄付したい旨を申し出た。さらに、彼はインドに帰国後、「広島・長崎の友へ」という文章を書き、日本へ送った。この文章は10月26日の『中国新聞』に掲載され、広島市民に衝撃を与えた。
 彼は原爆投下の悲劇を目撃した後の世界が何も進化していないことを直視し、その問題点を鋭く指摘する。
 彼は言う。

”悲しいことに、あれだけ広島と長崎が苦しんだあとといえども、人類はそれ以前と同様に分裂の様相を示しています。今もあれ以前同様、世界はばらばらの破片にくだかれたままの姿であり、なにか新しい全体性を求めるなどということは、以前にもまして希薄のようです。(中略)世界は人類の統一について合理的な思想にはまだ少しも目ざめているようには見えません。あらゆる国家主義の利害の争いは高まるとも減ってはいません。(中略)至る所で国の指導者や強国の最高方針決定者たちは、国家民族の運命を、あいも変わらず残酷にもてあそんでいるのです。”
                                         [パール博士歓迎事務局1966:109]

 パールは、広島・長崎の市民に対してもたじろがない。むしろ、厳しい現実をしっかり見据えることこそが重要であると説いた。
 彼は、さらに厳しい言葉を投げかける。

 ”見通しはまことに暗い限りです。どんなおそろしい目も、またみなさんが原爆のもとで苦しまれたほど大きな苦しみも、歴史の力をその行く道からそらせることはできないようにみえます。世界は永久的な平和の方向には大して進んでいないようです。広島と長崎の原爆投下は、ただ不吉な破壊の日を迎え入れたに過ぎないかに見えます。        
                                         [パール博士歓迎事務局1966:109]

 世界は広島・長崎の惨事に直面しながらも、平和構築の方向へは進まず、むしろ対立を深め軍事力を拡大させている。広島・長崎の被害は、ただ「不吉な破壊」がおこったという悲劇としてしか捉えられていない。パールが示す見通しは、全くもって暗い。
 彼は、最後に広島・長崎の市民に訴える。

 ”友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっているということを忘れないでいただきたいのです。”

 被爆者は単なる被害者ではなく、これからの新しい世界を構築する積極的な主体でなければならない。広島・長崎の市民こそが、世界の統一と恒久平和のための責任を担わなければならない。
 彼のメッセージは、最後まで厳格で鋭いものだった。
 そしてこの文章が、彼が公的に残した最後の論考となった。
 ・・・
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                   終章 
息子の怒り
 1988年6月6日。
 インドを代表する新聞『インディアン・エクスプレス』紙に「父の名のもとに裏切られた息子」という記事が掲載された。
 この「息子」の名前は、プロサント・パール。1966年の来日時に同行したパールの長男である。
 記事は、次のように始まる。

”今、一本の映画が東京で上映されている。戦中の日本の総理大臣・東条英機の生涯とその時代を描いたものだ。そして、この映画が、65歳のあるカルカッタ人の心を傷つけ、憤らせている。”

 東京で上映されている映画とは「プライド・運命の瞬間」のことである。
 プロサント・パールは、当初、映画関係者などから「パール判事とその判決がメインの映画を作りたい」という企画を提示されたという。晩年の父に付き添い、その熱い思いを聞いてきた彼は、「パール判事」の業績や考えを後世に伝えることを、自分の義務(ダルマ)と考えていた。そのため、日本から押し寄せてくる映画関係者を温かく迎え、父の想いをじっくりと伝えた。
 しかし、出来上がった映画は、東条英機の生涯が中心で、父とその判決は二次的な扱いだった。父の判決が、東条の人生を肯定するための都合のいい「脇役」として利用されていることに、彼は納得がいかなかった。
 彼は当初の企画が変更されたことなど聞いておらず、すぐさま抗議の手紙を書いた。
 日本側窓口の田中正明から返ってきた手紙は「大衆へのアピールを映画会社が優先した」というものだった。プロサント・パールにとって、それは「屈辱的な裏切り行為」以外の何ものでもなかった。
[Iindian Express 1998.6.6]。
 彼は、父が中心の映画と、東条が中心の映画では、その性質が全く異なることを見抜いていた。父は日本の戦争を擁護しようとしたのではなく、一法学者として「法の正義」を守ろうとしたのだということを、息子である彼は強く訴えたかったのだろう。耳障りのいいことばかりを口にし、それをあっさりと反故にする日本人を、彼はこの時ばかりは許すことができなかった。父が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用しようとする者への怒りは、きわめて激しかった。
 インドの新聞では、日本に対する好意的な記事が目立って多い。そのような中で、プロサント・パールの悲痛な訴えは、多くのインド人に衝撃を与えた。

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