イスラエルは、公然と国際社会に挑戦するかのように、パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の国内での活動をる禁じ法案を可決しました。
それを受けて、パレスチナのマンスール国連大使は「イスラエルの政策は人道に対する残虐な犯罪だ」と非難したといいます。国連のパレスチナに対する人道支援を否定したのですから、当然だと思います。
GAZAの実態を鑑みれば、懸念の表明などではなく、即刻イスラエルに対する制裁が科されるべきことだと思います。
もしこれがイスラエルではなく、反米や非米の国であれば、アメリカは、即座には武力を行使したり、厳しい制裁を科したり、国際社会のあらゆる組織からイスラエルを追放したりしたと思います。
でも、制裁の話が一切出ないところに、欧米主導の国際社会の醜い姿があらわれている、と私は思います。
だから、くり返しになりますが、大事なことなの、でもう一度確認しておきたいと思います。
イスラエル独立後に、現在ネタニヤフ首相率いる政党「リクード」を設立したメナヘム・ベギンは、ユダヤ人の武装組織イルグンのリーダーとして、エルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破を実行しました。また、「デイル・ヤシーン村事件」といわれるパレスチナ人村民虐殺を実行しました。「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言し、村民皆殺しを実行するようなテロリストが、イスラエルの政党「リクード」を設立し、現在、ネタニヤフ首相が、そのリクードを率いていることを見逃してはならないと思います。
同じユダヤ人である世界的科学者、アイシュタインは、この村民虐殺に怒り、「その組織、手法、政治哲学、社会的訴えにおいてナチスやファシスト党と酷似している」と批判したのみならず、「過去の行動から、将来何をするか予想できる」と述べたこと(朝日新聞・佐藤武嗣)は、忘れてはいけない指摘だと思います。
パレスチナ人を容赦なく殺し、パレスチナの地からパレスチナ人を追い出そうとしているイスラエルのユダヤ人(シオニスト)の思想は、「ナチズムの裏返し」であるという指摘や、ナチズムの民族浄化を思わせると指摘する人も少なくありません。
イギリスやアメリカを中心とする西側諸国が、自らの利益のために、そうしたイスラエルの国連決議違反や明らかな国際法違反を黙認して来たことが、現在のイスラエルの蛮行につながっていることを踏まえた対応が求められていると思います。
パレスチナ難民救済事業機関は、国連総会の決議に基づき設置された機関です。だから、今回のイスラエルの法案可決は、国家として、国連の決議を否定するものであり、かつて、満州事変を契機に国際連盟から脱退したファシズム国家、日本の対応と似通っていると思います。
西側諸国が「懸念」を表明しても、制裁を科したり、法的に対応しないことを見透かした「リクード」を中心とするイスラエルの政治家や軍人、閣僚が、公然と「ガザ人の移出を促進しようではないか。彼らに対して、どこかほかの国に行く機会を与え、土地は我々のものだと伝えることが、最も道徳的で、正しく、そして強制力のない解決策だ」と言ったり、、「ガザ地区はイスラエルのものだ」と言ったり、「パレスチナは存在しない」などと言っているのです。
さらに、ヤフーニュースは、
”【AFP=時事】国連(UN)のフランチェスカ・アルバネーゼ(Francesca Albanese)特別報告者(パレスチナ自治区の人権担当)がイスラエルについて、「ジェノサイド(集団殺害)」によってパレスチナ人を「根絶」しようとしていると非難したのを受けて、イスラエルのダニー・ダノン(Danny Danon)国連大使は、アルバネーゼ氏に即時辞任するよう求めた。”
と、伝えているのですが、
”アルバネーゼ氏は国連総会の委員会で、ここ数か月の展開によって、「イスラエルがパレスチナ人に対してジェノサイド作戦を行っているという私の評価は、これまで以上に確固たるものになった」と述べ
29日に公開した報告書で、「パレスチナ人に対するジェノサイドは、パレスチナ人のアイデンティティーに不可欠な土地からパレスチナ人を完全に排除、または根絶するという目的を達成する手段であるように思われる。イスラエルはこの土地を違法かつ公然と狙ってきた」と指摘、
「イスラエルは建国以来、被占領地の住民(パレスチナ人)を憎むべき障害であり根絶すべき脅威と見なし、何世代にもわたって何百万人ものパレスチナ人を、日常的な侮辱、大量殺害、大量投獄、強制移住、人種差別やアパルトヘイト(人種隔離政策)にさらしてきた」”
と続けたといいます。私は、パレスチナを客観的に見てきた人の実感なのだろうと思います。
問題は、このやりとりに対するアメリカのグリーンフィールド国連大使の反応です。グリーンフィールド国連大使は、Xへの投稿で、アルバネーゼ氏は国連特別報告者として「不適格」だと反発し、「国連は、人権を促進するために雇われた国連特別報告者の反ユダヤ主義を容認してはならない」と続けたというのです。でも、このやりとりは、反ユダヤ主義という思想の問題ではなく、現実の問題なのです。
下記は、「見えざるユダヤ人 イスラエルの東洋」臼杵陽(平凡社)から「第七章。マイノリティーと国家 ── 民族国家vs民主国家」の「一 イスラエル国家の建国理念」を抜萃しましたが、建国当初から、大きな矛盾を抱えていたことが分かります。
文中に、”パレスチナに住んでいた「先住民族」であるパレスチナのムスリムとキリスト教徒は、「ユダヤ人国家」からは排除されて難民となった”とあります。
国際社会は、”二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争”を経験し、その”惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件(国連憲章)”を確立したはずなのに、現在、イスラエルによって、植民地時代と変わらない弱肉強食の蛮行がくり返されているのです。武力を利用した領土の拡大が進んでいるのです。
それは、アメリカを中心とする西側諸国が、法に基づくことなしに、自らの利益のために、国際社会を主導してきた結果だと思います。乗り越える方途を考える必要があると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第七章。マイノリティーと国家 ── 民族国家vs民主国家
一 イスラエル国家の建国理念
1949年5月14日。ベン・グリオン初代イスラエル首相によって読み上げられた独立宣言には、新生イスラエル国家の屋台骨となる基本的な理念が掲げられていた。「イスラエル国家は、ユダヤ人移民および離散家族の集合のために開放され、また、宗教および人種の違いにかかわらず、すべての住民のために国を発展させることを責務とする」と。つまり、独立宣言のこの短い一節において、「ユダヤ人国家」であることと「民主国家」であることを同時に規定したのである。しかし、非ユダヤ人であるムスリムおよびキリスト教徒が居残っていた当時のイスラエルの現実の政治の場で、この二つの理念を両立させるには根本的な矛盾が潜んでいた。というのも、一方でこれからやってくるであろうユダヤ人移民を前是とする「ユダヤ人国家」という「民族国家」としての特殊な理念を宣言し、他方で、宗教および人種を問わず、全ての住民の諸権利を保障した「民主国家」としての普遍的な理念を宣言したからである。前者の理念したがって、世界に離散(ディアスポラ)の状態にある「ユダヤ人」であれば自動的にイスラエル国籍が与えられる「イスラエル帰還法」が制定され、後者の理念にしたって1948年のいくさのあともパレスチナから離れずに残ったアラブ(つまりパレスチナ人)にもうイスラエル国籍および市民権が付与されたのである。しかし、アラブ市民は「アラブ」あるいは「パレス人」としての民族的な諸権利は当然ながら棚上げされた。
この二つの理念は多かれ少なかれ、フランス革命以来の欧米型の「国民国家」が孕んでいた共通した矛盾であるといってもよく、イスラエルに特徴的にみられる問題とは必ずしもいえない。というのも、国家権力が国民に基本的人権を保証しつつ、民族国家におけるマイノリティを国民として統合していく同化過程で必ずや起こる問題といっていいからである。しかし多数派国民へのマイノリティのづ同化を前提とした国民統合の過程は、国家権力が同化を拒絶する少数の異質分子を排除する過程でもあった。ヨーロッパの歴史を繙けば、異質分子を物理的に抹殺しようとした国家的暴力の事例には事欠かない。そのもっとも悲劇的な帰結を生み出したのが、19世紀末から続いた旧ロシア帝国におけるポグロムと20世紀のナチス・ドイツによるホロコーストであったことは周知の事実である。
この。陰惨なポグロムという事件が契機となって発生したパレスチナへのユダヤ人移民の波が、それに反発するアラブとの紛争を引き起こし、パレスチナ問題として発展していった。さらにナチスによるホロコーストの結果としてイスラエルが建国されることになった。ヨーロッパ出身の植民者は侵略を目的とした植民の過程で先住民族を絶滅あるいは征服したり、先住民族を「辺境」へと追いやったりした、近世初期のアメリカやオーストラリアといった新大陸の事例が想起されるかもしれない。しかし、パレスチナの場合にはニ十世紀も後半に差し掛かろうかという時期、それもホロコーストで灰燼に帰したユダヤ人への国際的な同情が主要な動因となってイスラエル国家が建設されたのである。その結果、パレスチナに住んでいた「先住民族」であるパレスチナのムスリムとキリスト教徒は、「ユダヤ人国家」からは排除されて難民となった。難民となった人々はその後、アラブという民族的アイデンティティよりもパレスチナ人という民族的存在を自己主張するようになった。もちろん、先に述べたようにイスラエル建国後もパレスチナの地に留まった15万人余りのパレスチナ・アラブの人びともいた。
土地の喪失という契機から発生したパレスチナ問題は解決の方向として「領土の回復」という回路を通過することにより絶えず「国民国家」の神話に呪縛されるようになる。つまり、イスラエル/パレスチナ双方の闘争の歴史の方向性を相互排他的なナショナルな対立として規定するようになったのである。しかしパレスチナ解放運動は現代の国際政治のリアル・ポリティックスのただ中にあって「国民国家」の枠組みに由来する呪縛を克服するという歴史的使命を帯びていたはずであった。パレスチナ解放運動は「非宗派的民主国家」の設立という理念を掲げていたからである。しかし、残念ながら、その理念の実現という観点から見れば、このような重い歴史的使命を帯びたパレスチナ解放運動の掲げた「パレスチナ民族主義」はその役割の終焉を告げた。1993年9月13日、ワシントンにおいてPLOとイスラエルとの間で調印された原則合意ゆえである。この歴史的な合意は暫定自治政府樹立では成功したが、結果的には占領地以外に住むパレスチナ人難民を切り捨てることになった。アラファトPLO議長の生き残りのための政治戦略といえばそれまでであるが、離散パレスチナ人の苦難は新たな段階に入ったと言えるのである。