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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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関東大震災 朝鮮人虐殺に関わる流言蜚語の真相

2012年01月30日 | 国際・政治
 関東大震災直後、政府は内務省警保局長名で、下記船橋送信所関係文書(資料2)にあるような電文を各地方長官宛てに打電した。そして、それを受けるように、埼玉県は各市町村に自警団の組織化を促す通達(資料3)を発した。それらが、朝鮮人に関わる流言蜚語を日本全国に伝搬させ、自警団員による朝鮮人虐殺を随所で発生させる導火線となったことは疑いない。

 しかしながら一方で、9月1日内務省警保局は「人心に不安をあたえるごとき報道」は自粛するよう懇談書をだし、9月3日に「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝に亘る事極めて多く非常の災害に依り人心昂奮の際如斯虚説の伝搬は徒に社会不安を増大するものなるを以て朝鮮人に関する記事は特に慎重に御考慮の上、一切掲載せざる様御配慮相煩度尚今後如上の記事あるに於ては発売頒布を禁止せらるゝ趣に候条御注意相成度」という警告書を出して言論統制に踏み切った。以後、新聞各社は官製資料をもらって記事にしたという。「正確なる事実を民衆に知らしめんが為毎日2回(午前10時・午後1時)検閲係に於て新聞記事材料を発表する事と為し即日之を各社に告示する」という方針に基づいたのである。その記事差し止めが解除されるのは、同年10月20日である。その間、船橋送信所から発せられた電文のような流言蜚語や、下記に見られるような新聞報道(資料4)の流言蜚語は、否定されることなく放置に近い状態だったようである。そこに民衆蜂起を恐れた官憲側関係者の作為が読み取れるという。

 考えてみれば、震災後の人心不安の中で、なぜ自然災害ではなく、「不逞鮮人の来襲」などというような流言蜚語が全国的に発生したのか不可解である。さらには、何故朝鮮人と社会主義者を結びつけるような流言蜚語が発生したのか。やはり、それらが一般民衆のなかから発生することは考えにくい。また、下記「流言状況」の中にも、作為を感じさせるものある。さらに、「流言者の検挙取締」の文書は発せられたが、それが現実に進められた気配がないことも気になるところである。「…流言はいづくまでも流言にして、事実の補足すべきものなかりし…」というのである。

 「信濃川水力発電所虐殺事件」以降、朝鮮人の労働運動と日本人の労働運動や社会主義者の運動等が、その結びつきを深めつつあった時期であることを踏まえれば、米騒動や三・一運動、五・四運動等を経験し、民衆蜂起を恐れていた官憲側の意図が透けて見えるのではないか、というわけである。下記は全て「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(みすず書房)からの抜粋である。

資料1-------------------------------
          3 警視庁及び各警察署管内における流言状況
1 警視庁
 一、概 記 (略)
  
 二、流言の発生
 流言蜚語の、初めて管内に流布せられしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、最も甚だしく、その種類も亦多様なり。
 今本庁及び各署にて偵察聞知せる、流言蜚語の大要を、日時を逐ふて列挙すれば左の如し。
  (A)9月1日午後1時頃
 「富士山に大爆発ありて今尚噴火中なり」
 「東京湾沿岸に猛烈なる大海嘯来襲して人畜の死傷多かるべし」
 「更に大地震の来襲あるべし」
     同日午後3時頃 
 「社会主義者及び鮮人の放火多し」
  (B)2日午前10時頃
 「不逞鮮人の来襲あるべし」
 「昨日の火災は、多く不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものなり」
 「鮮人中の暴徒某神社に潜伏せり」
 「従来官憲の圧迫に不満を抱ける大本教は、其教書中に於て今回の大火災を予
 言せしが、今や其実現せられしを機として、密謀を企て、教徒数千名上京の途に
 あり。」
     同日午後2時頃 
 「市ヶ谷刑務所の解放囚人は、山の手及び郡部に潜在し、夜に入るを待ちて放
 火するの企てあり。」
 「鮮人約200名、神奈川県寺尾山方面のに於て、殺傷、掠奪、放火等を恣
 にし、漸次東京方面に来襲しつつあり」
 「鮮人約3000名、既に多摩川を渉りて洗足村及び中延附近に来襲し、今や住
 民と闘争中なり」

     同日2時5分頃
 「横浜の大火は、概ね鮮人の放火に原因せり、彼等は団結して到る所に掠奪を
 行ひ、婦女子を辱しめ、残存建物を焼毀せんとするなど、暴虐甚しきを以て、全
 市の青年団、在郷軍人団等は、県警察部と協力して、之が防止に努力せり」(横
 浜方面よりの避難者の流言)
 「横浜方面に於ける鮮人の集団は、数十名乃至数百名にして、漸次上京の途に
 就けるを以て、神奈川、川崎、鶴見、各町村に於ては、全力を挙げて警戒を厳に
 せり」(横浜方面よりの避難者の流言)
 「横浜方面より来襲せる鮮人の数は、約2000名にして、鉄砲、刀剣等を携帯し、
 既に六郷の鉄橋を渡れり」
 「軍隊は六郷河畔に機関銃を備へて、鮮人の入京を遮断せんとし、在郷軍人、
 青年団員等亦出動して軍隊に応援せり」
 「横浜方面より東京に向へる鮮人は、六郷河畔に於て軍隊の阻止する所となりし
 より、転じて矢口方面に向へり」
     同日午後3時40分頃
 「高田町、雑司ヶ谷なる○○○○は、向原○○○○方へ放火せしむとし現場に
 於て民衆の逮捕する所となれり」

     同日午後4時頃
 「大塚火薬庫襲撃の目的を有する鮮人は、今や将に其附近に密集せんとす」
 「鮮人、原町田に来襲して、青年団と闘争中なり」
 「原町田を襲へる鮮人200名は、更に相原、片倉の両村を侵し、農家を掠め、婦
 女を殺害せり」
     同日午後4時30分頃
 「鮮人200~300名横浜方面より神奈川県の溝ノ口に入りて放火せる後、多摩
 川、二子の渡を越え、多摩河原に進撃中なり」
 「鮮人、目黒火薬庫を襲へり」
 「鮮人、鶴見方面に於て婦女を殺害せり」
     同日午後5時頃
 「鮮人百十余名、寺島署管内四ツ木橋附近に集り、海嘯来ると連呼しつゝ戎兇器
 を揮ひて暴行を為し、或は放火を敢てするものあり」
     同日午後5時30分頃
 「戸塚方面より多数民衆に追跡せられたる鮮人某は、大塚電車終点附近の井水
 に毒薬を投入せり」
     同日午後6時頃
 「鮮人等は予てより、或機会に乗じて、暴動を起すの計画ありしが、震火災の突
 発に鑑み、予定の行動を変じ、夙に其用意せる爆弾及び毒薬を流用して、帝都
 の全滅を期せんとす、井水を飲み、菓子を食するは危険なり」
 「上野精養軒前の、井水の変色せるは毒薬の為なり、上野公園下の井水にも異
 状あり、上野博物館の池水も亦変色して金魚悉く死せり」
 「上野広小路松坂屋前へ爆弾2個を投じたる鮮人2名を逮捕せしが、其所持せる
 2枚の紙幣は、社会主義者より得たるものなり」

 「上野駅の焼失は、鮮人2名が麦酒瓶に容れたる石油を注ぎて放火せる結果な
 り」
 「鮮人約200名、品川署管内仙台坂に襲来し、白刃を翳して掠奪を行ひ、自警団と闘争中なり」
 「鮮人約200名中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中なり」
 「代々木上原方面に於て鮮人約60名、暴動を為しつゝあり」
     同日午後7時
 「鮮人数百名、亀戸署管内に闖入し暴行を為しつゝあり」
 「鮮人40名、八王子署管内七生村より大和田橋に来襲し、青年団と闘争中にて
 銃声頻りに聞ゆ」
   (C) 3日午前1時
 「鮮人約200名、本所向島方面より、大日本紡績株式会社及び隅田駅を襲撃せ
 り」
       同日午前4時頃
 「鮮人数百名、本郷湯島方面より上野公園に来襲の状あるを以て、速に谷中方
 面に避難せよ、荷物等は持ち去るの要なし、後日富豪より分配する様取計ふべ
 し」

       同日午前10時 
 「兵士約30名、鮮人暴動鎮圧の為、月島に赴きたり」
   (D) 4日午後30分頃
 「鮮人、警察署より解放せられたれば、速に之を捕へて殺戮すべし」
       同日午後6時30分頃
 「鮮人市内の井戸に毒薬を投入せり」
       同日午後9時頃
 「青年団員が取押へて、警察署に同行せる鮮人は、即時釈放せられたり」
 「上野公園及び焼残地域内には、警察官に変装せる鮮人あれば注意すべし」

資料2-------------------------------
               2 船橋送信所関係文書

○呉鎮副官宛打電  9月3日午前8時15分了解
  各 地 方 長 官 宛                   内務省警保局長 出
 東京附近の震災を利用し、朝鮮人は、各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火をせんとするものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳格なる取締を加へられたし。

○呉鎮副官宛   9月3日午後10時10分了解
  山 口 県 知 事 宛                   内務省警保局長 出
 東京附近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢てせんとし、現に東京市内に於ては放火をなし、爆弾を投擲せんとし、頻に活動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、貴府に於ては内地渡来鮮人に付ては厳密なる視察を加へ、苟も容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては充分御警戒を加へられ、適宜の措置を採られ度。


○9月2日午後8時20分      船橋 発電
騎20名、7時半警戒の任につきつつあり、附近鮮人不穏の噂。

○9月2日午後8時28分
  海 軍 大 臣 宛 横 鎮 長 官 発
 本日午前11時横浜着警備艇の状況報告左の如し。
一、1日午前11時58分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に
   起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し、死傷数知れず。
二、(下略)

○9月3日午後4時30分
  船橋発電
 船橋送信所襲撃の虞あり至急応援頼む、騎兵1ヶ小隊応援に来る筈なるも未だ
来らず。

○9月4日午前8時10分  同10時電
 本所爆撃の目的を以て襲来せる不逞団接近騎兵2(20ならん)青年団、消防隊にて警戒中の右の兵員にては到底防禦不可能に付約150歩兵急派方取計ひ度当方面の陸軍には右以上出兵の余力なし。


資料3-------------------------------
              10 流言の流布と自警団

  埼玉県通達文
 東京における震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和
し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微弱であるから町村当局者は在郷軍人
分会、消防手、青年団員と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速かに適当の方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来
牒により此段移牒に及び候也。
                           (福岡日々新聞 大正12・10・19)

資料4-------------------------------
             11 全国主要地方紙流言記事

           4
  約三千人の不逞鮮人
     大森方面より東京へ
 (別紙)3日午後5時迄大森方面に約3千人の不逞鮮人横浜より東京に入り込み隊伍を組んで東京方面に向ひたりとの情報伝はりたるより歩兵一個小隊を出したるが同小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始されたるも一個小隊の総勢小勢なりしを以つて敵し難く全滅の恐れあるを以つて急を大崎方面警戒中の麻布三連隊に告げたるより同隊は歩兵一個中隊を自動車にて派遣したるがその後の報道詳ならず一説には鮮人の数は400人と称せらる(新潟経由東京電話)

  放火、強盗、強姦、掠奪
     驚くべき不逞鮮人暴行
 (3日午後1時土浦発)2日より上野附近にて不逞鮮人多数強盗強姦掠奪凄じく附近の井戸に毒を放ち各所に放火しつつあり日暮里に向ひ入京者を襲ふ為め人々は見つけ次第討殺しつつあり入京危険なり東京附近は今飢餓状態のため徴発令発せられん。

  爆弾と毒薬を有持する
     不逞鮮人の大集団
        2日夜暗にまぎれて市内に侵入
           警備隊を組織して掃蕩中
 不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じて石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば住民は直に警備隊を組織して久堅町、大塚仲町養育院前等において約十数名の鮮人を引捕へ一々厳重なる身体検査をなして官憲の手にこれを引渡し或は昂憤したる警備隊自ら適当の膺懲を加へ専ら放火の厄を免れんと努力しつゝあるを発見したり因に警備隊は日本刀棍棒等の各武器を携へ相言葉を使用不逞鮮人を発見するや呼子の笛を以て警備隊員を召集しこれを逮捕する等その行動極めて敏活を極めつゝあり右方面には騎兵砲兵等乗馬にて出動し警戒怠りなく前日来の奮闘に困憊し居るを以つて宇都宮66聯隊高崎15の両聯隊の応援を求めている(宇都宮経由東京電話)
                               (河北新報 大正12・9・4)

            9
  不逞鮮人凶暴を極め
     飲食物に毒薬や石油を注ぐ
        彼等は罐詰に似た爆弾を所持しつつあり
           警備隊は日本刀棍棒鉄棒等の武器を携帯
                (4日午前7時宇都宮経由)

  不逞鮮人の背後に主義者
          暴動言語に絶し風上に
            石油を注いで火を放つ

  鮮人十数名をを銃殺
     執れも爆弾の携帯者
         (3日午後10時40分函館運輸事務所着電)

 2日夜東京駅附近にて朝鮮人数十名警備隊の為せらる鮮人は爆弾携帯者ならん。   
                           (北海道タイムス 大正12・9・5) 
    
            10
  不逞鮮人の陰謀に
     御盛典を期す
        携帯短銃は露国式
                 (5日午前11時宇都宮経由)
 鮮人の陰謀は今秋行はるる御盛典当時行ふ事に着々進めたるもものらしく然るに今回の変災に乗じ遽かに之を行ひたるものらしく彼等の携帯せるピストルは露国方面より手に入れたらしく爆弾は未だ不明而して彼等の系統は重に上海朝鮮より入り込みたるものならんと此の大体の目星附きたる為当局が之が捜査をなしつつありて各駅にて取り押さえたるもの多し

  鮮人の暗号が判明したと全市に
     伝えられ警戒の度は益々厳重になつたが
 丸にAの印は爆弾を投げる箇所
 ヤの字は暗殺強盗
 カの字は井戸に毒薬を投入
 菱形は放火だと云はれ夫々チョークで鮮人連が目標をするもので芝公園では避難民に対し貴重な水を呉れる者があつたが夫には硫酸が混
入され其為死亡したものがあつた……

 殊に不逞鮮人の跋扈は言語道断で火災の半数以上は不逞鮮人の爆弾に遣られたのは事実である松阪屋前では手に爆弾を所持して居る鮮人が縛されて居たのを見受け帝大附近は火災に遣られたのより寧ろ爆弾に遣られたのが多い夫丈鮮人に対する市民の反感は頗る猛烈を極め鮮人と見ると一人も容赦せぬ気勢をみせ衝突は随所に行はれ浅草では鮮人一味が避難民の荷物を掠奪して行はれた者が多い2日夜は50人程の一隊が襲撃したが約20人程捕はれ鈴ヶ森には1500人の不逞鮮人が陣取つて居る附近の住民は在郷軍人警官等協力して警戒は物凄いと云はれて居るが真偽は判明せぬ。

  鮮人の陰謀は全国に亘る
     罹災の群衆は激昂して切捨御免の有様
 不逞鮮人の暴動はなかなか組織的根拠があるらしい本月2日朝鮮独立運動に関する大会を開催し御盛典の日に事を起す予定で既に横浜東京に参集して居つたが1日の変に遭会して幸ひとして活動を開始したのである。
 2日新宿に於て鮮人が巡査を殺して其被服帯劔を奪つて着用し自動車を操縦し群衆の間を馳駆して居たのもありました運転手を拳銃で脅迫し活動して居たものがあつたが皆群衆に捉へられ撲殺されて了つた。


 彼等はまた千住の陸軍製絨所深川の被服廠の一部に爆弾を匿蔵して置き之を運ばんとする処を発見した市内各所に爆音が聞え火の手の意外に早く広がつたのは彼等の所為と分つた小石川砲兵工廠の爆発も彼等の行為であつたされば民衆は激昂し今は鮮人と見れば切捨御免の状態である。

 彼等は巧みに変装して邦人間に混じ各方面に向はんとして居るが4日川口でも4人の鮮人が捕つた一人は殺され他は半殺しにされたが其一人の所持せる宣伝ビラでD上述の陰謀が判つた訳で尚ほ山形県赤湯に爆弾数百個及兇器が匿蔵して居ると自白したので直に憲兵は同道実地調査に向つた彼等の陰謀は各全国に亘り朝鮮人参其他行商人等間には脈絡相通じて居る筈で油断がならない。

  不逞鮮人を利根川にて銃殺
     死体今尚岸辺に横はる
 6日宇都宮特派員
 鮮人の警戒一層厳重となりたる為彼等は市中を逃出し遁走せんとした各所の警戒厳重の為殆んど捕へられ若しくは銃殺された然も4日の事8名の鮮人が在郷軍人青年団消防組の追撃を受け身体谷まり利根川にザンブとばかり飛込み泳いで逃げんとせし折丁度架橋中の工兵隊が之を見て直に銃殺した聞けば此地で約百名銃殺されたとのこと5日午後2時死体は未だ岸辺にあつた。
                          (北海道タイムス 大正12年・9・6)


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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関東大震災 流言蜚語と警察・軍隊

2012年01月23日 | 国際・政治
 関東大震災の混乱の中で虐殺された朝鮮人は、独立新聞社特派員調査報告によると6661人であるという。また、「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」仁木ふみ子(青木書店)には、虐殺された中国人の死者は、656名、行方不明(王希天を含む)11名とある(徹底した調査の結果である)。また、亀戸では社会主義者10人も殺されている。亀戸事件である。流言蜚語の結果である、と言い切るには無理があるのではないかと思われる。

 「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)には、下記のように石井光二郎(当時朝日新聞経営部長)の使いの者に、正力松太郎(当時警視庁官房主事)が「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と、流言蜚語の伝搬に協力を依頼した事実が記されている。また、正力松太郎は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」と、自ら「虚報」の扱いに失敗したことを、下記のように講演会で話している(「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」日本図書センター)。しかし、不思議なことに被害者や遺族に対するお詫び、謝罪、さらには救済や賠償について全く触れていない。そのことに、流言蜚語の内容(虚報)や伝搬の仕方、政府による虐殺事件の報道禁止措置とその解除のタイミング等を考え合わせると、流言蜚語(虚報)は公権力によって、意図的に流された疑いをぬぐい去ることができないのである。

 「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」の資料は、国会で「吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである」と、朝鮮人虐殺に対する謝罪や救済措置を時の政府に迫った田淵豊吉の演説の抜粋である。それを受けて永井柳太郎がさらに踏み込んで、「鮮人事件の全責任は、唯々自警団にのみ存するが如き観があることは、本員の頗る怪訝に堪えない所であります」とその責任問題を取り上げ追及した。しかし、隠蔽方針は覆らなかった。その結果、2003年8月25日、日弁連が、関係者の人権救済申し立てを受け、内閣総理大臣に対し、①虐殺事件の被害者、遺族に対し、国の責任を認めて謝罪すること、②虐殺事件の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすることを勧告する、という事態が発生しているのである。

「回想八十八年」石井光二郎(カルチャー出版社)-------------
                Ⅴ 朝日新聞社時代

 関東大震災に遭遇


 ・・・
 さっそく、大阪に通信を出さなくてはいけない。しかし、交通機関がどうなっているか、不明である。警視庁や内務省などに聞いてみても、どこまでどう行けるのか、全然わからない。とにかく、あらゆる機関を臨機応変につかまえて、大阪本社へ連絡員を出そうということになった。ところが、金がない。
 いつも、銀行にお昼ごろ取りに行っていたので、当日も、会計の者が出かけたのだが、その矢先に、地震にあったわけである。

 だれか金を持ってないかと聞くと、米田実外報部長が、いくらか持っていた。一人が、ポケットから出したぐらいでは、とても足りない。どうしようもないので、下村さん(下村海南、台湾総督府民生長官辞任後、朝日新聞専務)が、旧藩主の紀州の殿様の家に行って、借りてきてくれた。そこで、東海道、中山道、東北の三道を、それぞれ二人ずつ組んで、大阪本社へ向かわせるようにし、それまでの震災の様子を書いた原稿と、金を持たせて、出発させた


 まっさきに成功したのは、東海道を行った組であった。その組が、横浜まで行って、ふと気が付いたのは、陸上の通信は皆壊れてしまっているが船の無線は使えるだろうということだ。港には、大きな船があるだろうということで、そこへ行き、船から通信を出した。これが、大阪へのくわしい第一報になった。他の組も、時間は遅れたが、なんとかして、大阪本社へ連絡することができた。

 次の仕事は、朝日の臨時本部を作ることだ。夜中の十二時ごろ、私は社屋がどうなったか、伴(トモ)をつれて見に出かけた。並木通りなどは、みんな焼けている。どういうわけか、水道の水は出ていた。落ちていた布団を拾い、水をいっぱいかけて、伴の者と二人で、それを頭から被った。並木通りは、両側からの火気で、そうしないと通れなかった。息がつまりそうになると、しばらくかがみこみ、息ができるようになると、また進むというふうにして、とうとう、社屋の所までたどりついた。

 窓からのぞくと、火がチラチラしていて、熱くてたまらない。さっと引き下がり、またしばらくしてのぞきこむ。なかでは、新聞の巻取紙がブスブス燃えており、機械は燃えて、たれ下がっていた。これはとてもいかん、巻取紙は、ほかから持ってくるとしても、機械の手配から始めなければならぬ、大変なことになったと思った。

 帝国ホテルが焼けなかったので、一室を、早く借りたいと思った。夜中に、アサヒグラフの編集長、鈴木文四郎君を、使いにやって交渉させたところ、一番先に頼みに行った組だから、幸いに、大きい部屋を二つ借りることができた。そこに、編集、営業、庶務をいれることにきめ、その晩は、宮城前で夜を明かすことにした。

 記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎君が官房主事だった。
「正力君のところに行って、情勢を聞いてこい。それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけ、もらって来い。帝国ホテルからも、食い物と飲み物を、できるだけもらって来い」といいつけた。

 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。ところが、帰ってきた者の報告では、正力君から「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。
 そこにちょうど、下村さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正力さんがいったのです」「それはおかしい」

 下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。「地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」こういって、下村さんはみんなを制止した。

 私たちは、警視庁がそういうなら、なにかあるのかなと思っていたけれども、下村さんは、断固としてそういわれた。これは下村さんの大きな見識であった。ふだんから、朝鮮問題や台湾問題を勉強し、経験をつんできているから、そんなことはありうるはずがないという信念があったのだと思う。だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞は、それをしなかった。

 しかし、食い物だけはいろいろもらってきたので、私がそれを箱に入れておいた。「どこどこを視察して記事を書け」と命じ、それをちゃんとやって来た者には、ごほうびにサイダーとパンをやって、激励するというようなことをしながら、一晩テントの中で過ごした。
 その晩、政友会の森恪氏が自動車でやって来て、「震災見舞いです」といって、スイカを二つ持ってきた。余裕綽々(シャクシャク)だなと思って、私は感心した。しかも和服だった。まるで別世界から来たような感じで、強く印象に残っている。


 ・・・

 私は、内藤君から、ここまでの報告を聞いてから、社の者が二重橋前を引き上げ、帝国ホテルに移ったのを見とどけて、九月二日の夕方家へ帰った。
 家に着くと、「朝鮮人が、六郷川のほうに集結していて、今晩中に押しよせて来るから、みんな小学校に集まれ」ということだった。私は、ちょっと様子を見て、また社に引っ返すつもりであったのに、大変なことになったと思った。家族を見殺しにするわけにもいかないから、社には秘書を使いにやって、「こういうわけだから、今晩は帰社できない」といっておいた。
 下村さんのはなしを聞いていたから、そんなことはありえないとは思っていたが、とにかくみんなを連れて、小学校に行った。小学校は、いっぱいの人であった。日が暮れてから、演説を始めた者がいた。「自分は陸軍中佐であります。戦いは、守るより攻めるほうが勝ちです。敵は六郷川にあつまっているというから、われわれは義勇隊を組織して、突撃する体制をとりましょう」と叫んでいる。
 バカなことをいうやつだと思ったが、そこに集まった人びとも、特に動く気配もなかったから、私も黙っていた。

 そのうち「、「井戸に毒を投げ込む朝鮮人がいる。そういう井戸には印がしてある」などという流言が入ってきた。あとで考えると、ウソッパチばかりだった。私は、趣旨としては下村さんのいうとおりだと思うけれど、警視庁もそういっているし、騎虎(キコ)の勢いで、どうなるかわからないと懸念していた。夜明けまで小学校にいたが何事もなく、いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった。

 ・・・(以下略)

「人間の記録86 正力松太郎 悪戦苦闘」(日本図書センター)--------
                正力松太郎  悪戦苦闘

米騒動や大震災の思い出

 このたび総監閣下から何か皆さんに話してくれというご依頼がありましたので私は甚だ僭越ながらここに参った次第であります。
 只今お話しがありました如く私は役人生活の大部分を警視庁で奉職しておりましたからここへ来て皆さんにお目にかかることは自分の郷里に帰って昔の友達か後進の者に話をするような感じがするのであります。従って、固苦しい話よりも、昔の思い出話をした方が宜しいかと存じます。
 私は大正2年6月から大正13年1月まで11年間引続き警視庁におりました。この間、警視庁として種々なる大問題に直面しました。即ち同盟罷業が頻々起こり大衆の力を頼んで政府を倒そうとするいわゆる倒閣運動も度々行われ、また共産党の検挙もこの時始まり、なおまた有名なる全国米騒動や関東大震災も起こったのであります。当時私共の経験した事をお話しするのは幾分か皆さんのご参考にもなり、有意義かとも思います。

 ・・・

 警視庁庁舎焼失の非難

 ・・・
 次に朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして、一日夜ごろから朝鮮人が不穏計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し二,三時間後には何れも確証なしと報告しましたが、二日午後ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(後に警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるにいたりました。私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き寺内大佐(戦時中南方方面陸軍最高司令官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちようやく夜の10時ごろにに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み、大空襲に際してはこの点特に注意せられんことを切望するものであります。

「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」-----------------
                20 国会による事件調査

 1 
  大正12年12月14日(金)
   国務大臣による演説に対する質疑
 田淵豊吉君
 -前略- 第6には私は内閣諸侯が最も人道上悲しむべき所の大事件を一言半句も此神聖なる議会に報告しないで、又神聖なるべき筈の諸君が一言半句も此点に付て述べられないのは非常なる憤慨と悲しみを有するものであります。それは何であるかと言へば朝鮮人殺傷問題であります。諸君は何が為に朝鮮を合併を致したか、合併を致して国防上、外交上、或は文明の上、産業の上に於て、互に相通じて 殆ど同じ民族が相共に提携して往くと云ふことが、此合併の根本的のものでないかと私は固く信ずる一人である、然るにも拘らず噂に依りますと殆ど千とか千以上に上る所の朝鮮人が殺されたと云ふことに向つて、一言半句も吾々の眼は新聞紙などを通じて視ることができないで、唯々噂に依つて之を聴くと云ふことは、非常に怪訝の念を挟まざるを得ない状態であります。諸君、吾々は皇民に非ざるなき所の朝鮮人、辺土に在って代議士を出して居ない所の無告の民の為に何が為に諸君の肺肝を貫く言葉を以て弾劾しないのであるか、或は小事末節に捉はれて、千人以上の人が殺された大事件を不問に附して宜しいのであるか、朝鮮人であるから宜いと云ふ考を持つて居るのであるか、吾々は悪いことをした場合には謝罪すると云ふことは、人間の礼儀でなければならぬと思ふ、日本人は正義の上に立って居って、侵略主義でない、吾々は正義の上に立って、比較的文明ならざる国民を文明の域に進めんが為に、人類の福祉を増進するが為に、吾々は日本帝国を形造つて居るのではないか、然るに、諸君は更に一言半句も此事に付て述べられないのは如何、又新聞紙上にも之を掲載することを禁じ、演説にも、之を禁じ、之を言ふ者を罰すると云ふのはどう云ふ訳であるか、之を私は内閣諸公に聴きたいのであります、人或は言ふのであります、朝鮮人の中にも悪い者があるから、流言蜚語が多く起つたので、そうしたのである、又其時は群集心理が働いて、10日間は竹槍を持って家に蟄伏して居つたような状態であつて実に無政府のやうな状態を呈出して居つたのである、そこは今日の者と違って居る、故に如何なる人がさう云ふ事をやつたか知らぬが、今日或は冷静なる眼を以て斯く斯くであるからいけないと云ふことを速断することは出来ない、其間に十分考慮の余地がある。吾々日本国民も東京市民も、其時は恐怖の念に打たれた為に、流言蜚語に惑わされ、或行動を執り、或は自家防衛を行つたかも知らぬというのである。併しながら其防衛の範囲を超えて居つたならば、吾々は朝鮮人に対して、殊に被害者の朝鮮人に対して、大なる謝罪をしなければならぬ、それを単に速断に依つて、東京に住んで居る人、横浜に住んで居る人と云ふのではない、吾々の国民性が生んだ所の一の結果であると私は信ずる、吾々決して悪意はない筈である、併しながら恐怖の結果、斯の如き事をしたのであるから、日本国民として吾々は之に向つて相当朝鮮人に対する陳謝をするとか或は物質的救助をなすとかしなければ、吾々は気が済まぬやうに私は考へるのである(拍手)諸君足を踏んでも失礼でありましたと云へば怒る気がしない、知らぬ顔をして居れば、千人殺したときは十万人の者が殺された虐殺された、火焙りにされたと云ふことを誤つて伝へられぬとも限りませぬ。


 故に吾々は既往の吾々の過を決して言ひ抜け扱ふことをしないで、赤裸々に告白して悪いことは悪い、併し斯く斯くの状態であるから(ママ)此点は諒承を願ひたいと云ふことを朝鮮人に向つて告げ被害者の遺族の救済と云ふことも講じなければならぬ、各国に向つて謝電を送り、外国に向つて先日吾々議院が謝意を表明する前に、先づ朝鮮人に謝するのが順序ではなかろうか、之を隠して置くと云ふことは、秘密主義であって、今日は取らない、又実際上通らない所の議論であると思ふ、それから第二には王正延と云ふ人が是はどう云ふ使命を持つて来つたか公には知りませぬけれども、矢張支那人が数百人殺されたと云ふ事に付て研究に来つたと云ふことでございます、吾々は此隣邦の国民永き歴史に於て修好のある所の国民が、我が日本の領土に住んで居つたが為に斯の如き災害を被つたと云ふことに向つては此非常なる罪を謝さなければならぬと私自身は思ふ、尤も彼等と雖も矢張り日本に在つたので、当時の状態は能く知つて居るのであるから、十分に之を調査して日本に誤りある所は謝するが宜い。過のなきものなら謝せんで宜い、過のあるものならば相当の謝意を表すると云ふことが隣邦に対する所の誼ではなかろうかと思ふ、故に是は秘密主義を執つて居らないで、赤裸々に我が状態を告白したならば、必ずや彼れの心も解けるであろう。

 日本国民に悪意があるのでない、自警団に悪意があるのではない唯々其時の状態が然らしめて斯く斯くであると云ふことを明に陳述する必要があると信ずる、内閣諸公は之に対して如何なる考を持つて居るかと云ふことを聞きたい、更に進んで彼の主義者を惨殺したと云ふこと、是は私が多くを語らないでも諸君は知つて居るでせう、…以下略 
 
 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

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