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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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琉球処分と宮古サンシイ事件(尖閣諸島領有以前)

2010年11月17日 | 国際・政治
 琉球は長く中国の皇帝から冊封を受け朝貢する独立の王国であった。ところが、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いに出陣して莫大な軍費を支出した薩摩藩が、その財政危機を乗り切るため、また、異国支配の権威を誇示するため1609年2月26日その琉球に3000を超える兵を送り、攻略して植民地的支配を開始した。琉球侵略の主目的が、財政危機を乗り切ることであったため、薩摩藩は徹底した植民地的支配を行いながら、琉球を明の冊封国として独立させておき、対明貿易の利益を独占したのである。そして、琉球は形式的には中国に、実質的には薩摩藩<大和人(ヤマトンチュウ)>に支配される両属の独立王国となった。
 そうした琉球王国の両属のありかたは、薩摩藩によってもたらされたものであったが、明治政府は、抵抗する琉球に対し軍事力による制圧態度をしめして「琉球処分」を行った。琉球は、日清両属の不可、すなわち「携弐の罪」を責められたのである。
 下記は、そうした琉球処分に対する抵抗を象徴する事件であり、「誓約書」の内容は、その抵抗がまさに命懸けであったことを示している。そして、その10年あまり後に尖閣諸島領有の動きが始まる。そうした歴史的事実を学ぶと「尖閣諸島の領有は、”無主地先占”で国際法上一点の問題もなく、平和的に…」などといえるのか、ますます疑問が深まるのである。「琉球の歴史」宮城栄昌著ー日本歴史叢書・日本歴史学会編集(吉川弘文館)からの抜粋である。
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                 第5 県政時代の沖縄

1 琉球処分とその評価

 琉球処分の評価


 ・・・
※ 宮古のサンシイ事件 廃藩置県の時、首里・那覇の士族の間では、県の命を奉じて官禄を受ける者は首を刎(ハ)ねること、日本に反抗して生命を失うものがあったら共有金でその妻子を救助することを誓約して連署捺印していたが、それが間切(琉球の行政区画)・島の役人間にもひろがった。置県のあった1879年(明治12年)7月、宮古下里村の下地利社(シモチリシャ)が他人のすすめで平良(ヒララ)に新設された警視派出所の通訳兼小使に雇われた。まわりの者は血判誓約を破った不信の徒となし、同月下地をつかまえて惨殺するという事件が起きた。これを宮古のサンシイ事件というが、サンシイは賛成のことで、新しい県政に賛成するという意味である。宮古で押収した誓約書はつぎのような内容であった。

一、大和人御下島、大和へ致進貢候様被申候はば、当島は往古より、琉球へ進
   貢仕候巳来、段々蒙御高恩申事にて、何共御受難段致返答、何分相威し候
   共、曾而相断可申事
一、右通相断、若御採用無之、刃物等抜出、可切果涯成立候共、此義島中存亡
   之境節にて、聊身命を不惜可相断事。
一、大和人より押々役職被申付候共、則(タダチ)に相断可申事。
一、大和人と内通の義共一切仕間敷候事。


 右之条々相背者共は、所中にて本人は身命打禿(オトシ)し、父母妻子は流刑可致候。乃而誓約如件

 卯閏3月(明治12年)  何某血判    何某血判

 (幣原担「維新の影響としての沖縄の変遷」<『史学雑誌』9-5>。同『南島沿革史論』参照)  ※返り点など省略

 ・・・(以下略)

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「尖閣諸島」原田禹雄の論と台湾出兵(尖閣諸島問題その9)

2010年11月12日 | 国際・政治
 中国漁船衝突事件のビデオ映像が流出したため、尖閣問題はさらに複雑な要素を加えて日々ニュースの対象となっている。しかしながら、相変わらず日本の尖閣諸島領有に関する歴史的事実の多くが、ほとんど語られていない。「尖閣諸島は日本固有の領土」を前提として、中国を敵視するような危うい報道が続いているが見解の相違を明らかにし、平和的に歩み寄る姿勢がないと、却って失うものが大きいのではないかと心配である。
 外務省は尖閣諸島について「1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」としているが、古賀辰四郎が土地貸与を願い出たのはそのおよそ10年前の1885年である。そのころ内務省がこの島を領有しようとして、沖縄県に調査するよう「内命」を発している事実は、ほとんど無視されているようである。
 沖縄県令西村捨三は、この「内命」に対し、「…既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称モ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間…」と「国標取建テ」について清国との関係で懸念がある事実を内務卿山県有朋に上申している。この沖縄県令西村捨三の上申は「1885年に古賀の尖閣諸島(釣魚諸島)貸与願いをうけた沖縄県が、政府に、この島を日本領とするよう上申した」とする外務省見解とは矛盾するものである。

 沖縄県令西村捨三の上申にもかかわらず、すぐに領有しても差し支えないだろうと判断した山県有朋は、外務卿井上馨に宛て「たとえ久米赤島などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が針路<ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ>また<名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ>ているだけであり、かつ<沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ>実地踏査の上でただちに国標を建てたい」と持ちかけている。これに対し外務卿井上馨は、下記のように答えているが、この返書は、閣議決定における日本の領有の問題点を明らかにするものとして、極めて重要であると言わざるを得ない。(「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)から再度抜粋)

10月21日発遣
  親展第38号
                                                   外務卿伯爵  井上 馨
     内務卿伯爵  山県有朋殿
 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第83号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周囲モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候
 且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。

 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。


 清国の疑惑を招くので、「他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候」というのである。清国が黙っていないことは、台湾出兵から日清戦争に至る日清の関係をふり返れば当然のことといえる。清国は琉球や台湾、朝鮮と朝貢国を次々に奪い取ろうとする日本に対する反撥を強めていたのである。そして、およそ10年が経過し、朝鮮に対する宗主権をめぐって日清戦争に突入、日本の勝利がほぼ確定的となった1895年、日本が「久場島」「魚釣島」の領有を閣議決定したのである。まさに外務卿井上馨のいう「他日ノ機会」がおとずれたということであろう。平和的に「無主地」の領有が決定されたのではないことは、この外務卿井上馨の内務卿山県有朋宛て文書が示しているのではないか。だから、領有することとなった島々の名称や位置(経度や緯度)、区域、所管庁、地籍表示、領有開始年月日などを記した公式文書(告示や通告、官報掲載文書)が存在しないのではないかと思うのである。

 さらに、ここで「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄(琉球国榕樹書林)の問題点を追求し、尖閣諸島領有に対する正しい歴史認識を持つために、領有の議論が持ち上がった1885年から、10年あまり遡って台湾出兵問題について、取り上げたい。

 その理由は、井上清の著書「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」(第三書館)を痛烈に批判する原田禹雄が「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」(琉球国榕樹書林)で、「小琉球」・「鶏籠」は現在の台湾であり、当時中国領土とはされていなかったと断定、台湾を中国領とらえている井上の主張は「完全に虚構である」と主張、また、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(チュウカイズヘン)に、中国領ではない鶏籠山(台湾)が描かれているから、尖閣諸島がそこに描かれていても、井上がいうように中国領とはいえないと主張している。すなわち、原田禹雄の井上批判は、台湾と中国を完全に切り離してとらえるところにその根拠があるといえる。しかしながら、日本の台湾出兵が清国の琉球被害者への見舞金で決着したことや、当時の清国政府関係者に下記のような考え方が存在することを考えれば、原田の論じている時代とややずれる部分はあるが、清国と台湾の関係に関する原田のとらえ方には明らかに問題があると言わざるを得ない。下記は「台湾出兵-大日本帝国の開幕劇」毛利敏彦著(中公新書)からの抜粋である。

 なお台湾出兵の発端となった琉球民遭難事件(牡丹社事件)とそれに対応する閣議決定「台湾蕃地処分要略」の第1条に関する部分も合わせて抜粋した。
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                  第3章 台湾遠征

2 日清関係の緊張

 清政府の反応

 日本政府が台湾遠征を画策していることは、清政府にも伝わっていた。西郷従道が台湾蕃地事務都督に任命されたのは4月4日であったが、同月16日付け上海の新聞『申報』は、日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑をしめしつつ、もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促した
。…
 日本の遠征軍主力が長崎を発航したのは5月2日であったが、9日後の5月11日、清朝総署大臣恭親王らは、台湾は「中国の版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発し、6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参した。
 また西郷都督が廈門領事に赴任する福島九成に託した出兵通告書を受け取った閩浙総督李鶴年も、同じ5月11日付けで、琉球も台湾も清国に属しているし台湾への出兵は領土相互不侵越を約束した日清修好条規違反であるから撤兵されたいとの回答を西郷に送った。
 清政府の態度は、日本政府の予想以上に強硬であった。6月24日、清皇帝は、日本の出兵は修好条規違反だから即時撤兵を要求せよ。従わない場合は罪を明示して討伐せよ、と李鶴年らに勅命をくだした。

 ・・・
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3 日清対決へ

 日本は仮想敵国


 ・・・
 日本軍の「蕃地」占拠を自力では排除できないと分かったとき、総署大臣恭親王らは、皇帝に「彼[日本]の理が非なのを明知しつつ、しかもわが備えが虚しいのに苦しむ……、一小国の反逆にすら防御の策がないのに苦しむ」と上奏して苦衷を訴え、こうなれば「ただ内外上下、局中局外心を一にして……自強の実をあげ」るほかはないと論じて、国力増強政策に踏み切るようにと皇帝の決断を促した。
 そして、日清会談の大詰めでウェード調停案を飲まざるをえないと覚悟した恭親王は、勅許を乞う上奏において、
「本案は日本の背盟興師(ハイメイコウシ)に発したものだが、わが海彊の武備が恃むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼[日本]の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と悲痛な文字を連ねた。「背盟」とは盟約にそむくこと、「興師」つは軍事行動を起こすこと、詰まり日本の台湾出兵は日清修好条規に違反した不法行為だと糾弾しながら、にもかかわらず「わが備えの不足」のために阻止どころかみすみす償金を出さねばならないところにまで追いこまれた無念さを吐露したものである。……

 ・・・

 清政界実力者の直隷(現在の河北省)総督李鴻章の場合は、一段と深刻であった。かれは、日清修好条規を推進した清側の中心人物であり、1871年に同条規が締結された際には全権代表として調印した。李は、政府内に根強かった反対論を説得して締約にもちこんだのだが、その論拠は日本と条約を結んで味方に引きつければ欧米列強と対抗するうえでの「外援」にできるというものであった。ところが、台湾出兵で日本は「外援」どころか敵対者として立ち現れた。李は飼い犬に手を噛まれたような心境だったであろう。かれは、日本政府の背信に怒っただけでなく、それみたことかという反対派の非難から自己の政治生命を守るためにも、日本に対して必要以上に強硬姿勢をとらないわけにはいかなかった。

 出兵事件のさなかの1874年7月、赴任早々の駐清日本公使柳原前光が旧知の李鴻章を表敬訪問したところ、李は、日本は200余年もの長期にわたってわが国(清)と条約関係がなかったのにもかかわらず、一兵もわが領域を犯したことはなかったのに、いま初めて条約を結んだところ、たちまちわが国に軍事行動をしかけてきたが、これは許せない不信行為であるし、余は皇帝ならびに人民にたいしてまったく面目がたたないと、歯に衣きせずに心中の不満をぶちまけた。この話しを北京で柳原から聞かされた樺山資紀は、「(李は)強論大言を吐き、卓を叩いて激傲の挙動に及びしと」と、李の激昂ぶりが尋常でなかったことを日記に書きとめている。

 李鴻章は、同治帝から台湾を犯している日本軍を討伐するにはどうしたらいいかと「諮問」されたとき(前述)、「もし先にあらかじめ備えておけば倭兵[日本軍]もまた敢えて来なかったであろうに」と上奏して、軍備充実が先決だと強調したが、「倭兵」という用語にまだ日本軽視意識が残っていた。しかし、事件妥結後、李の対日観は格段に厳しくなり、明治維新をきっかけに着々と近代化を進めている日本はいまや強国へと育ちつつあり、清国にとって恐るべき脅威になろうと予言するにいたった。すなわち「泰西[欧米列強]は強大だといってもなお7万里以上の遠くだが、日本は戸口のところにいて、われわれの虚実をうかがっている。まことに中国永遠の大患である」と。
 ・・・
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                第1章 台湾問題の形成

1 琉球民遭難事件

 事件の発端


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 1871年11月30日に琉球の那覇を出帆69人乗りくみの宮古島船が航海中に嵐で遭難し、12月17日台湾南端に漂着したところ、上陸のときに3人溺死、残り66人は「牡丹社」と呼ばれる台湾先住部族の襲撃略奪にあい、54人が殺害されるという痛ましい事件がおきた。かろうじて逃れた12人は、現地の清国人官民に保護され、翌1872年2月24日、清国福建省福州に置かれた琉球館に引き渡され、7月12日、出帆以来7ヶ月半ぶりに那覇に帰還した。

 ・・・

 そのころ、外務大丞兼少弁務使柳原前光は、日清修好条規改定交渉のために清国天津に滞在していた。
 かれは、たまたま1872年5月11日付け『京報』に現地福建省の責任者から北京の清朝廷にあてた遭難琉球民処置の伺書が掲載されているのを見た。そこで、5月19日付けで、外務卿副島種臣にあてた報告書の末尾に「琉球人が清国領地台湾において殺害された事件についての閩浙総督より清政府への伺書を京報紙上で一見した。おのずから鹿児島県の心得になるかも知れないから、訓点を付して送付する」と付記して、当該『京報』を同封した。
  ・・・
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                  第3章 台湾遠征

1 遠征敢行

 軍事力優先路線

 閣議決定した「台湾蕃地処分要略」の第1条は次の通り。
  台湾土蕃のは清国政府政権およばざるの地にして、その証は従来清国刊行の書籍にも著しく、ことに昨年、前参議副島種臣使清の節、彼の朝官吏の答にも判然たれば、無主の地と見なすべきの道理備われり。ついては我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理もここに大基を得べし。然して処分にいたりては、着実に討蕃撫民の役を遂げるを主とし、その件につき清国より一二の議論生じ来るを客とすべし。

 すなわち、「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(蕃地)にたいして、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針であった。


 ・・・

 また「要略」では、出兵にともなう清国との外交問題の処理は「客」つまり副次的事項だと位置づけられた。軍事が優先し外交はそれに従属するというわけである。


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琉球処分と台湾出兵(尖閣以前の領土拡張の動き)

2010年11月11日 | 国際・政治
 1872年、明治天皇は琉球国王「尚泰」(ショウタイ)の名代として参内した伊江王子朝直(尚健)に「今、琉球近く南服[南の領域]に在り、気類相同く言文殊なる無く、世々薩摩の附庸たり、而して爾尚泰能く勤誠を致す、宜しく顕爵を予(アタ)うべし、陞(ショウ)して琉球藩王となし、叙して華族となす」と詔し、尚泰を旧公卿や大名なみの華族に列した。琉球に対する天皇の「冊封」ともいわれる所以である。しかし、琉球国王への華族宣下には、当時左院の反対があったという。理由は「琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スベカラズ」ということである。すなわち琉球人を日本人と同一に扱ってはならないということであり、琉球人は日本国民ではないという認識があったのある。

 ところが、当時精力的に近代国家体制をつくり上げようとしていた政府関係者井上馨(大蔵大輔)などは、「言語・風俗・官制・地名の相類似スル総て我光被中ニ不洩一証ニ有之」と強硬に主張したという。そして、清国にもそれを認めさせることによって琉球と中国の関係を切ろうと意図したのである。また、それが台湾出兵の名分つくりのためであったという議論があるようだが、琉球民遭難事件(牡丹社事件)に関して清国を難詰し、「生蕃ハ我朝実ニ之ヲ奈何スルナシ、化外ノ野蕃ナレバ甚ダ之ヲ理メザル也」といわせることによって、日本国民である琉球人のために中国化外の生蕃を討つ、との論拠で台湾に出兵したのである。したがって、「日本国民である琉球人」の考え方は、琉球処分や台湾出兵という帝国主義的な領土拡張政策のためには必要不可欠の論であったといえる。
 下記「琉球処分」には、当然のことながら様々な抵抗があった。したがって、政府は軍事力による制圧態度を示して「処分」を行ったのである。「琉球の歴史」宮城栄昌著(吉川弘文館)日本歴史叢書(日本歴史学会編集)からの抜粋である。
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                第5 県政時代の沖縄

1 琉球処分とその評価

 沖縄県の設置

 征台(牡丹社事件をきっかけとする台湾出兵、征台の役ともいわれる)のあった1874年、琉球藩を外務省下から内務省下に移管し、那覇の外務省出張所を内務省出張所に改称した。琉球問題はもはや対外問題ではなく、内治問題と考えたからであった。そして内務卿大久保利通の処分案に基づいて処分することにした。
 大久保は12月15日太政大臣三条実美にあてて「琉球処分着手ノ儀ニ付伺」を出し、その中で

「琉球藩ノ儀従来本朝・清国ヘ両隣、人民ハ本邦ヨリ保護シ、正朔ハ重ニ清国ヨリ奉ジ来、一昨五年使臣来朝ノ節初テ冊封ヲ賜リ、尚泰儀藩王ニ被為列候ヘ共、清国ノ所管ヲ脱セシムルニ至ラズ、曖昧模糊トシテ何レノ所管ト申儀一定不致、甚不体裁ノ訳トハ存候ヘ共、……今般清国談判ノ末蕃地御征討ハ同国ヨリ義挙ト見認メ、受害難民ノ為メ撫恤銀ヲ差出候都合ニ到リ、幾分我版図タル実跡ヲ表シ候ヘ共、未ダ判然タル成局ニ難至、各国ヨリ異論無之ト申場合ニ到兼、万国交際ノ今日ニ臨ミ此儘差置候テハ他日ノ故障ヲ啓クトモ難計事ニ候」


と述べている。(松田道之「琉球処分」第一冊、琉球処分着手ノ儀ニ付内務卿伺太政大臣指令)。この伺は同年12月同治帝が死去し、翌年光緒帝が即位するにあたり、沖縄では先例にならい慶賀使を派遣するという風評があったのに対し、日本側では強圧を加えて清国との関係を速やかに切断させる目的で出したものであった。そして伺は、清国との関係遮断を主軸に、施設ノ順序」「改革の個条」を説諭するために、琉官の上京を命ずるよう要請している。
 それに基づき、政府は翌1875年(明治8年)1月使節の上京を命じた。沖縄からは三司官池城親方(イケグスクオエカタ)・与那原(ヨナバル)親方らが上京した。


 1月18日使いが内務省に出頭すると、大丞松田道之はこれに応待し、政府の意思を伝達した。池城らは大いに驚いて陳弁これつとめ、「本藩ノ儀皇国・支那ヘ奉属、御両国ノ御陰ヲ以一国ノ備相立、上下万民致安堵居候」と述べ、沖縄側に立って「両属」を認めている。しかしそれは中国の属領であることを強調しておかねばならない情勢下での発言であった。はたしてつづいて、「皇国御奉公、支那ヘノ進貢ハ本藩重大ノ規模、万世万代不相替忠誠ヲ励シ度本願御坐候、……(支那ハ)数百年来親切ニ被取扱恩義厚キ国柄、自然都合取損候テハ信義不相立段ハ勿論、何様ノ難題成立可申哉旁以至極胸痛仕居申候」と述べている(松田道之「琉球処分」第一冊、琉球藩清国関係其他処分条件ヲ定ム付説論顛末)。折衝の結果、伝達した事項のなかに藩王の意向をきかねば返答できないものもあると固執したので、政府もこれを認めて帰藩させた。

 しかし政府は既定方針を貫くこととし、同年6月松田を処分官に任じて琉球に派遣し(途中使節と同船し)、7月14日直接藩王(尚泰病気のため王弟今帰仁王子代理)につぎの命令を伝達させた(松田道之「琉球処分」第二冊、松田内務大丞第1回奉使琉球始末。<『沖縄県史』12>。

一其藩ノ儀従来隔年朝貢ト唱ヘ清国ヘ使節ヲ派遣シ、或ハ清帝即位ノ節慶賀使
  差遣シ候例規有之趣ニ候得ドモ、自今被差止候事
一藩王代替ノ節従前清国ヨリ冊封受ケ来リ候趣ニ候得共、自今被差止候事
一藩内一般明治ノ年号ヲ奉ジ、年中ノ儀礼等総テ御布告ノ通遵行可致事
一刑法定律ノ通施行可致、因テ右取調ノ為担当ノ者両3名上京可致事
一藩制改革別紙ノ通施行可致事
一学事修業時情通知ノ為、人撰ノ上少壮ノ者10名程上京可致事
     (以上明治8年5月29日並に6月3日付太政大臣三条実美より琉球藩宛)
一在福州ノ琉球館廃止可被致事
一謝恩トシテ貴下(藩王尚泰)上京可被致事
一鎮台文営ヲ被置事
      (以上明治8年7月14日付松田処分官による付加)

 この命令に対し沖縄側は全面的に不服であった。特に進貢・冊封は日清両国を父母の国として仕え来ったものとして、その停止は「親子之道相絶候モ同然」と強硬に反対した。


・・・

 松田の再度の派遣にもかかわらず、沖縄側の態度は依然不変であった。松田は2月帰京の途につき、2月14日、前記の琉球処分方法に基づき、速やかに厳重な処分をすべきことを求めた復命書を政府に提出している(松田道之「琉球処分」第3冊、松田内務大書記官奉使琉球復命書)。
 政府は松田の復命に基づき2月18日処分法案を作製し、3月11日松田に三度琉球出張を命じた。
園田安賢警視補以下警部・巡査約160余名が同行し、また鹿児島からは熊本鎮台の波多野少佐が分遣大隊長として、参謀本部特派の参謀益満大尉以下歩兵約400名が加わった。
 前述の如く松田の処分案によれば、軍隊の同時同行は処分が討伐に誤解されるおそれがあったが、政府は敢えてそれを行い軍事力による制圧態度を示した。一行は25日那覇に着き、27日首里城に乗りこんで、「去ル明治8年5月29日?ニ9年5月17日ヲ以テ御達ノ条件有之処、使命ヲ不恭実ニ難置次第ニ立至リ、依テ廃藩置県被仰出候条、此旨相達候事、明治12年3月11日太政大臣三条実美」の達書を朗読して今帰仁王子に手交し、土地・人民及び一切の書類を引き渡し、藩王尚泰は東京に居住すべきことを命令した。耳を蔽ういとまもない一瞬の出来事によって、幾百年にわたって尚家が握っていた専制的支配権が明治政府の手に移ることになった。4月4日「琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置候条此旨布告候事、但県庁ハ首里ニ被置候事」の布告が全国に発せられ(松田道之「琉球処分」第3冊、松田内務大書記官奉使琉球始末。<『沖縄県史』12>)翌5日鍋島直彬が沖縄県令に任命された。 
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 琉球処分の評価

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 一方松田の言にもみられるように、明治政府が琉球を統合する合法的根拠には1609年(慶長14)以来琉球が薩摩(日本)の属領であったという歴史的事実があった。そのことは琉球側との交渉の至るところで指摘している。確かに薩摩は琉球を植民地支配化する中で日中に両属させ、貿易の利をあますところなく収奪した。そうしておきながら琉球処分にあたっては「両属」の不可を広言し、「携弐の罪」を責めた。その両属の不可に対し、沖縄側は500年にわたる進貢の事実をあげ、信義を護り通す立場を強調して抵抗したが、つねに「両属ノ体タラシムルハ国権ノ立ザル最モ大ナルモノ」あるいは「清国ヘ対スル臣礼之儀ハ我ガ国体ト国権トニ関スル最モ大ナルモノニ付断然謝絶セシメザルヲ得ザル」もの(松田道之「琉球処分」第2冊、松田内務大丞第1回奉使琉球始末。明治9年6月5日付太政大臣より琉球藩王尚泰への達案。<『沖縄県史』12>として抹殺された。


 ・・・(以下略)

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