中国漁船衝突事件のビデオ映像が流出したため、尖閣問題はさらに複雑な要素を加えて日々ニュースの対象となっている。しかしながら、相変わらず日本の尖閣諸島領有に関する歴史的事実の多くが、ほとんど語られていない。「尖閣諸島は日本固有の領土」を前提として、中国を敵視するような危うい報道が続いているが見解の相違を明らかにし、平和的に歩み寄る姿勢がないと、却って失うものが大きいのではないかと心配である。
外務省は尖閣諸島について
「1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」としているが、古賀辰四郎が土地貸与を願い出たのはそのおよそ10年前の1885年である。そのころ内務省がこの島を領有しようとして、沖縄県に調査するよう「内命」を発している事実は、ほとんど無視されているようである。
沖縄県令西村捨三は、この「内命」に対し、「…
既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称モ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間…」と「国標取建テ」について清国との関係で懸念がある事実を内務卿山県有朋に上申している。この沖縄県令西村捨三の上申は「
1885年に古賀の尖閣諸島(釣魚諸島)貸与願いをうけた沖縄県が、政府に、この島を日本領とするよう上申した」とする外務省見解とは矛盾するものである。
沖縄県令西村捨三の上申にもかかわらず、すぐに領有しても差し支えないだろうと判断した山県有朋は、外務卿井上馨に宛て「たとえ久米赤島などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が針路<ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ>また<名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ>ているだけであり、かつ<沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ>実地踏査の上でただちに国標を建てたい」と持ちかけている。これに対し外務卿井上馨は、下記のように答えているが、この返書は、閣議決定における日本の領有の問題点を明らかにするものとして、極めて重要であると言わざるを得ない。(
「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)から再度抜粋)
「
10月21日発遣
親展第38号
外務卿伯爵 井上 馨
内務卿伯爵 山県有朋殿
沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第83号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周囲モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候
且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。
右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」
清国の疑惑を招くので、「
他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候」というのである。清国が黙っていないことは、台湾出兵から日清戦争に至る日清の関係をふり返れば当然のことといえる。清国は琉球や台湾、朝鮮と朝貢国を次々に奪い取ろうとする日本に対する反撥を強めていたのである。そして、およそ10年が経過し、朝鮮に対する宗主権をめぐって日清戦争に突入、日本の勝利がほぼ確定的となった1895年、日本が「久場島」「魚釣島」の領有を閣議決定したのである。まさに外務卿井上馨のいう「
他日ノ機会」がおとずれたということであろう。平和的に「無主地」の領有が決定されたのではないことは、この外務卿井上馨の内務卿山県有朋宛て文書が示しているのではないか。だから、領有することとなった島々の名称や位置(経度や緯度)、区域、所管庁、地籍表示、領有開始年月日などを記した公式文書(告示や通告、官報掲載文書)が存在しないのではないかと思うのである。
さらに、ここで
「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」原田禹雄(琉球国榕樹書林)の問題点を追求し、尖閣諸島領有に対する正しい歴史認識を持つために、領有の議論が持ち上がった1885年から、10年あまり遡って台湾出兵問題について、取り上げたい。
その理由は、井上清の著書
「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」(第三書館)を痛烈に批判する原田禹雄が
「尖閣諸島ー冊封琉球使録を読む」(琉球国榕樹書林)で、「小琉球」・「鶏籠」は現在の台湾であり、当時中国領土とはされていなかったと断定、台湾を中国領とらえている井上の主張は「
完全に虚構である」と主張、また、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(チュウカイズヘン)に、中国領ではない鶏籠山(台湾)が描かれているから、尖閣諸島がそこに描かれていても、井上がいうように中国領とはいえないと主張している。すなわち、原田禹雄の井上批判は、台湾と中国を完全に切り離してとらえるところにその根拠があるといえる。しかしながら、日本の台湾出兵が清国の琉球被害者への見舞金で決着したことや、当時の清国政府関係者に下記のような考え方が存在することを考えれば、原田の論じている時代とややずれる部分はあるが、清国と台湾の関係に関する原田のとらえ方には明らかに問題があると言わざるを得ない。下記は
「台湾出兵-大日本帝国の開幕劇」毛利敏彦著(中公新書)からの抜粋である。
なお台湾出兵の発端となった琉球民遭難事件(牡丹社事件)とそれに対応する閣議決定「台湾蕃地処分要略」の第1条に関する部分も合わせて抜粋した。
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第3章 台湾遠征
2 日清関係の緊張
清政府の反応
日本政府が台湾遠征を画策していることは、清政府にも伝わっていた。西郷従道が台湾蕃地事務都督に任命されたのは4月4日であったが、同月16日付け上海の新聞『申報』は、日本が台湾に出兵するとの噂がとびかっていると紹介し、「日本が出兵する意図は、ただ報復を加えるためだけであろうか。それともほかに何か下心があるのだろうか」と疑惑をしめしつつ、もし日本に台湾領有意図があるなら、「わが大清国が自ら開拓した領土を、どうして一朝にて他国に譲ることができようか」と、当局者の奮起を促した。…
日本の遠征軍主力が長崎を発航したのは5月2日であったが、9日後の5月11日、清朝総署大臣恭親王らは、台湾は「中国の版図」内であるから日本が出兵するとは信じ難いが、もし実行するのであればなぜ事前に清側に「議及」しないのかとの抗議的照会を発し、6月4日、総署雇用イギリス人ケーンが日本外務省に持参した。 また西郷都督が廈門領事に赴任する福島九成に託した出兵通告書を受け取った閩浙総督李鶴年も、同じ5月11日付けで、琉球も台湾も清国に属しているし台湾への出兵は領土相互不侵越を約束した日清修好条規違反であるから撤兵されたいとの回答を西郷に送った。
清政府の態度は、日本政府の予想以上に強硬であった。6月24日、清皇帝は、日本の出兵は修好条規違反だから即時撤兵を要求せよ。従わない場合は罪を明示して討伐せよ、と李鶴年らに勅命をくだした。 ・・・
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3 日清対決へ
日本は仮想敵国 ・・・
日本軍の「蕃地」占拠を自力では排除できないと分かったとき、総署大臣恭親王らは、皇帝に「彼[日本]の理が非なのを明知しつつ、しかもわが備えが虚しいのに苦しむ……、一小国の反逆にすら防御の策がないのに苦しむ」と上奏して苦衷を訴え、こうなれば「ただ内外上下、局中局外心を一にして……自強の実をあげ」るほかはないと論じて、国力増強政策に踏み切るようにと皇帝の決断を促した。
そして、日清会談の大詰めでウェード調停案を飲まざるをえないと覚悟した恭親王は、勅許を乞う上奏において、「本案は日本の背盟興師(ハイメイコウシ)に発したものだが、わが海彊の武備が恃むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼[日本]の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と悲痛な文字を連ねた。「背盟」とは盟約にそむくこと、「興師」つは軍事行動を起こすこと、詰まり日本の台湾出兵は日清修好条規に違反した不法行為だと糾弾しながら、にもかかわらず「わが備えの不足」のために阻止どころかみすみす償金を出さねばならないところにまで追いこまれた無念さを吐露したものである。……
・・・
清政界実力者の直隷(現在の河北省)総督李鴻章の場合は、一段と深刻であった。かれは、日清修好条規を推進した清側の中心人物であり、1871年に同条規が締結された際には全権代表として調印した。李は、政府内に根強かった反対論を説得して締約にもちこんだのだが、その論拠は日本と条約を結んで味方に引きつければ欧米列強と対抗するうえでの「外援」にできるというものであった。ところが、台湾出兵で日本は「外援」どころか敵対者として立ち現れた。李は飼い犬に手を噛まれたような心境だったであろう。かれは、日本政府の背信に怒っただけでなく、それみたことかという反対派の非難から自己の政治生命を守るためにも、日本に対して必要以上に強硬姿勢をとらないわけにはいかなかった。 出兵事件のさなかの1874年7月、赴任早々の駐清日本公使柳原前光が旧知の李鴻章を表敬訪問したところ、李は、日本は200余年もの長期にわたってわが国(清)と条約関係がなかったのにもかかわらず、一兵もわが領域を犯したことはなかったのに、いま初めて条約を結んだところ、たちまちわが国に軍事行動をしかけてきたが、これは許せない不信行為であるし、余は皇帝ならびに人民にたいしてまったく面目がたたないと、歯に衣きせずに心中の不満をぶちまけた。この話しを北京で柳原から聞かされた樺山資紀は、「(李は)強論大言を吐き、卓を叩いて激傲の挙動に及びしと」と、李の激昂ぶりが尋常でなかったことを日記に書きとめている。 李鴻章は、同治帝から台湾を犯している日本軍を討伐するにはどうしたらいいかと「諮問」されたとき(前述)、「もし先にあらかじめ備えておけば倭兵[日本軍]もまた敢えて来なかったであろうに」と上奏して、軍備充実が先決だと強調したが、「倭兵」という用語にまだ日本軽視意識が残っていた。しかし、事件妥結後、李の対日観は格段に厳しくなり、明治維新をきっかけに着々と近代化を進めている日本はいまや強国へと育ちつつあり、清国にとって恐るべき脅威になろうと予言するにいたった。すなわち「泰西[欧米列強]は強大だといってもなお7万里以上の遠くだが、日本は戸口のところにいて、われわれの虚実をうかがっている。まことに中国永遠の大患である」と。 ・・・
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第1章 台湾問題の形成
1 琉球民遭難事件
事件の発端 ・・・
1871年11月30日に琉球の那覇を出帆69人乗りくみの宮古島船が航海中に嵐で遭難し、12月17日台湾南端に漂着したところ、上陸のときに3人溺死、残り66人は「牡丹社」と呼ばれる台湾先住部族の襲撃略奪にあい、54人が殺害されるという痛ましい事件がおきた。かろうじて逃れた12人は、現地の清国人官民に保護され、翌1872年2月24日、清国福建省福州に置かれた琉球館に引き渡され、7月12日、出帆以来7ヶ月半ぶりに那覇に帰還した。 ・・・
そのころ、外務大丞兼少弁務使柳原前光は、日清修好条規改定交渉のために清国天津に滞在していた。…
かれは、たまたま1872年5月11日付け『京報』に現地福建省の責任者から北京の清朝廷にあてた遭難琉球民処置の伺書が掲載されているのを見た。そこで、5月19日付けで、外務卿副島種臣にあてた報告書の末尾に「琉球人が清国領地台湾において殺害された事件についての閩浙総督より清政府への伺書を京報紙上で一見した。おのずから鹿児島県の心得になるかも知れないから、訓点を付して送付する」と付記して、当該『京報』を同封した。…
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第3章 台湾遠征1 遠征敢行
軍事力優先路線
閣議決定した「台湾蕃地処分要略」の第1条は次の通り。
台湾土蕃のは清国政府政権およばざるの地にして、その証は従来清国刊行の書籍にも著しく、ことに昨年、前参議副島種臣使清の節、彼の朝官吏の答にも判然たれば、無主の地と見なすべきの道理備われり。ついては我が藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理もここに大基を得べし。然して処分にいたりては、着実に討蕃撫民の役を遂げるを主とし、その件につき清国より一二の議論生じ来るを客とすべし。
すなわち、「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(蕃地)にたいして、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針であった。 ・・・
また「要略」では、出兵にともなう清国との外交問題の処理は「客」つまり副次的事項だと位置づけられた。軍事が優先し外交はそれに従属するというわけである。 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。