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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京大虐殺 河辺虎四郎 松井石根戒告文書

2014年10月27日 | 国際・政治

OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。(HAYASHI SYUNREI)

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 南京大虐殺に関する数々の証言が、中国ばかりではなく日本国内にも多々あり、当時欧米で広く報道されていたにもかかわらず、「南京大虐殺」は「まぼろし」だとか、「虚構」だとか、「捏造」だとかいう主張が、今なお様々な場面で繰り返されているようである。だから、南京大虐殺の事実の証言や記述の中には、その事実を認めたくない立場の人物のものが含まれていることを見逃してはならないと思う。 

 当時の日本では、当然のことながら、一般国民には何も知らされなかったようであるが、外務省はもちろん、軍の中央部にも掠奪、放火、強姦、虐殺等の事実は知っていた。そして、それを放置できなかったので、当時の参謀本部作戦課員だった河辺虎四郎は、参謀長 閑院宮載仁親王(カンインノミヤコトヒトシンノウ)の名で、松井石根方面軍司令官に対し、異例の「戒告」の文書を発したのであろう。彼は、その文書は自分が起案したと、回顧録『市ヶ谷台から市ヶ谷代へ─最後の参謀次長の回想録─』河辺虎四郎(時事通信社)に、下記(資料1)のように書いている。河辺は、それが「後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実」であったと認めているのである。彼が、そうした事実を認めたくないということは、「軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸(ヨウヤ)ク繁ヲ見 之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚(ナオ)疑ハザルベカラザルモノアリ」(資料2)との表現で、明確である。 

 抑制した表現ではあるが、まさに「軍紀風紀に於て忌しき事態の発生」を戒めたのである。「兵員新陳代謝」が御前会議で取り上げられたことは、その重大性を意味しているのではないかと思う。また、松井方面軍司令官は1938年2月に解任されているが、これは事件の責任を負うたものとされているようである。

 当時陸軍省の兵務課長(軍紀風紀の担当)に就任していた田中隆吉は、事件のことを「世界史上最もひどい残虐行為」だとし、憲兵や兵務課で、軍司令官や師団長ら責任者を軍法会議にかけることを検討したが、参謀本部が反対したので、実現しなかったと述べているという。軍当局は、特に海外での事件の反響の大きさに苦慮して、現地軍司令官に異例の戒告文書を発したのである。そして、それを否定することが出来なかったので、参謀長の要望を受けて、中支那方面軍はただちにその趣旨を隷下部隊に通牒したのである。その通牒と戒告の文書を、『南京戦史資料集1』(財団法人 偕行社)から抜粋したのが、資料2である。 

資料1---------------------------------------------------------
                           第3章 第二次大戦前の十年

第七節 華北事変勃発と事変初期

 作戦休憩案

 事変の様相は茲に重大な一転機に来た。当時における私の立場から、何事か即急な作戦上のきめ手を案ずるよりも、むしろ形而上下戦場の粛清をなすべしと信じた。
 私らはむろん当時の中国戦場における一戦闘一会戦には勝利の確信を持ってはいたが、戦面および占拠地域のひろまるに伴い、単に要地要衝を抑えておくだけにも、それがための総合兵力は、わが国全体のそれに比して、はなはだ多量を必要とする。

 私らは事変勃発後ほどなく事態拡大の徴を見たとき、全軍の半数15師団をもって、約半年間戦争を持続することを目安として、軍需動員に着手すべきだとの意見を立てて、大体その趣旨が採用されたのであった。しかるにいままさに半年が経過したが、戦場兵力は既に15師団を上回り、しかも戦局の前途にはなんらの予想がつかず、「亡羊の嘆」なきを得なかった。
 しかも広い「占拠地域」の内部は、おおむね点と線との「占拠」であって、日とともに共産反日のゲリラは繁殖して来る。

 こうした一般の情勢のほかに、軍中央部の一員である私どもにとり、はなはだ気になってきたことは、戦場軍隊の士気であった。
 前年の夏動員された在郷の将兵は、”お正月までには帰ってくるヨ”と妻子を慰撫して家を出た者も少なくなかった。一気呵成にここまで来たものの、前途果たして如何になるか、”相手にしない”といってみたとて、相手がこちらを相手として来る「戦争」というものの本質をどうしよう。華北にせよ華中にせよ、戦場兵員の非軍紀事件の報が頻りに中央部に伝わってくる。南京への進入に際して、松井大将が隷下に与えた訓示はある部分、ある層以下には浸透しなかったらしい。外国系の報道の中には、かなりの誇張や中傷の事実を認められたし、殊にああした戦場の常として、また特に当時の中国軍隊の特質などから、避け得なかった事情もあったようであるが、いずれにせよ、後日、戦犯裁判に大きく取り扱われ、松井大将自身の絞首刑の重大理由をなしたような事実が現れた。

 南京攻略の直後、私が命を受けて起案した松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は、”まことにすまぬ”と泣かれたと聞いたが、もう事はなされた後であった。
 そこで私らは、今後如何なる態勢に移るにしても、まずもってこの際戦場に新鮮な補充兵を送り、軍隊士気の一新是正をすることが肝要だと痛感した。そしてそれがためには、夏季を含む数ヶ月間、中国戦場にある各兵団に対し、その戦面を現在線より拡大することを禁じ、占拠地を確保して防支の姿勢を固め、兵員新陳代謝と、正しい意味の戦場墳熱訓練をさせるべきだと信じた。この趣旨は上司からの同意を受け、海軍側も遂に了承してくれたので、御前会議においての決定を仰ぎ得た。

 私はこの決定をもって、昭和13年2月末東京を発し、北京(寺内大将)、張家口(蓮沼中将─後の大将)、新京(植田大将)、および京城(小磯大将)の各軍司令部を歴訪し、各長官に直接伝達した。
 華中方面(畑大将)には、その軍参謀長(私の実兄、正三少将)が新任に際し、ちょうど東京に来たので、これに伝えられた。
 京城に私が行ったとき、小磯大将は、大本営の決定をとやかくいうのではなく、この趣旨を遵奉するのであるが……、と前置きして、個人の所見を君(私)の参考までとて、大将の腑に落ちぬ諸点を一席述べられたが、私が、戦略上の御所見まことにごもっともと存じますが、軍隊の実情私らの見るところかくかく……、と述べたところ、大将の独特な明快さをもって、”そうか、よくわかった、ご苦労さま”との結語を吐かれた。
 右のように一応全軍的に、「作戦休憩案」が伝わったのであった。しかしそれは忽ちに崩れたらしく、私はこの直後に転任して後ほどなく、徐州会戦が起こった。
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○軍紀風紀に関する参謀総長要望

 中方参第19号

                        軍紀風紀ニ関スル件通牒 
                          昭和13年1月9日
                                                      中支那方面軍参謀長 塚田 攻
 両軍参謀長 
 直轄部隊長宛
 中支監
一、首題ノ件ニ関シテハ各級団隊長ノ適切ナル統率指導ノ下ニ之カ振粛ニ邁進セラレアルヲ信スルモ今回参謀総長宮殿下ヨリ別紙写シノ如キ要望ヲ賜 リタルニ就テハ此際軍紀風紀ノ維持振作ニ関シ最大ノ努力ヲ払ハレ度尚軍紀風紀並ニ国際問題ニ関シテハ今後陸軍報告規定ニ準ジ其緩急ニ従ヒ電話・電信又ハ文書ヲ以テ迅速ニ其概要ヲ報告シ更ニ詳細ナル報告ヲ呈出セラレ度
 右依命通牒ス

(別紙)

 顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半蔵ニ邇シ其行ク所常ニ必ズ赫々タル戦果ヲ収メ我将兵ノ忠誠勇武ハ中外斉シク之ヲ絶讃シテ止マズ 皇軍ノ真価愈々加ルヲ知ル然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ヘハ未タ瑕瑾ノ尠カラザルモノアルヲ認ム
 就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見之ヲ信セサラント欲スルモ尚疑ハサルヘカラサルモノアリ
 惟フニ1人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ一隊ノ過誤モ遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルモノニ至ラン

 須ク各級指揮官ハ統率ノ本義ニ透徹シ率先垂範信賞必罰以テ軍紀ヲ厳正ニシ戦友相戒メテ克ク越軌粗暴ヲ防キ各人自ラ矯テ全隊放縦ヲ戒ムヘシ特ニ向後戦局ノ推移ト共ニ敵火ヲ遠サカリテ警備駐留等ノ任ニ著クノ団隊漸増スルノ情勢ニ処シテハ愈々心境ノ緊張ト自省克己トヲ欠キ易キ人情ヲ抑制シ以テ上下一貫左右密実聊モ皇軍ノ真価ヲ害セサランコトヲ期スヘシ

 斯ノ如キハ啻ニ皇軍ノ名誉ト品位トヲ保続スルニ止マラスシテ実ニ敵軍及第三国ヲ威服スルト共ニ敵地民衆ノ信望敬仰ヲ繋持シテ以テ出師ノ真目的ヲ貫徹シ聖明ニ対ヘ奉ル所以ナリ

 遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ考ヘ及ブ時ハ森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難ナラシメル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル 

 然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ努力ヲ望マザルヲ得ズ 或ハ沍寒ニ苦シミ或ハ櫛風沐雨ノ天苦ヲ嘗メテ日夜健闘シアル外征将士ノ心労ヲ深ク偲ビツツモ断シテ事変ノ完美ナル成果ヲ期センカ為茲ニ改メテ軍紀風紀ノ振作ニ関シ切ニ要望ス
 本職ノ真意ヲ諒セヨ
  昭和13年1月4日
                                                     大本営陸軍部幕僚長    載仁親王

 中支那方面軍司令官宛

ーーー
参考(読み仮名)
  顧(カエリ)ミレバ・邇(チカ)シ・赫々(カウカク)タル・斉(ヒト)・愈々(イヨイヨ)然(サ)レ共(ドモ)・瑕瑾(カキン)ノ尠(スクナ)カラザルモノ・漸(ヨウヤ)ク・尚(ナオ)・惟(オモ)フニ
  遡(サカノボリ)・直(タダチ)・克(ヨ)ク・之(コレ)












  

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南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件

2014年10月22日 | 国際・政治

 OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました。”http://hide20.web.fc2.com” にそれぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。--------------------------------------------------------------

 1937年12月13日の南京陥落前日、日本海軍機が揚子江上において、米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させた。日本軍の砲弾を避けるため南京上流に移動中のパナイ号(バネー号)には、艦長のジェームズ・J・ヒューズ少佐以下将校・乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメリカ人ジャーナリスト5名、アメリカ商社員2名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗船していたという。

 アメリカでは、事件後主要紙がパナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官ジョージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解としたアメリカ海軍当局査問委員会の報告書等を、次々に全文掲載したという。また、あわせて様々な情報に基づく南京大虐殺の報道も加わったため、アメリカ全土で、日本商品ボイコット運動が広がっていったという。 

 また、同日、橋本欣五郎大佐の指揮する第10軍野戦重砲兵第13連帯が、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加え、レディーバード号旗艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長から抗議を受けている。そのとき、橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令されていることを認めた、とビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電しているという。その命令に関して、『日中前面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』笠原十九司(青木書店)に次のようにある。
ーーー
 橋本が長江上のすべての船を砲撃せよとの命令を受けていたというのは、前日12月11日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第10軍が発した丁集団命令(丁集団司令官・柳川平助中将)であった。それは、
1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続き退却するものと判断せらる
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし
というものであった。
 
 これは、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出を図っているという情報が日本側に流布されていたことによる。

 漢口のアメリカ大使館には、12日の朝のレディーバード号事件に続いて、午後に発生した海軍機による英国砲艦クリケット号とスカラブ号に対する爆撃事件の経緯も伝えられた。

 ・・・

 両艦は3度の空襲をうけたが、反撃が素早く行われたため、爆弾は至近に落とされたものの直撃弾をうけなかったので、船体には目に見える被害はなかった。そのため、日本軍機の空襲は無線通信によりすぐに漢口の英国大使館にも報告されたのである。

 なお、英国汽船黄浦号には、南京から最後の脱出をしたローゼン書記官ら数人のドイツ大使館員が乗船していて、日本軍機に爆撃されるという運命に遭遇した。このため、ドイツ外務省は、駐日ドイツ陸軍武官に訓令して日本政府に抗議させている。
ーーー
 同じ12月12日 米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」の安否をめぐって、南京─漢口─ワシントン─東京の間を電波があわただしく行き交った。再び同書より抜粋する。
ーーー
 まず、揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍総司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。

 ”パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上流への移動を余儀なくされた。ジャップはパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じられる。午前9時に、イギリス艦レディバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負傷した。イギリス砲艦ビー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。”

 漢口のジョンソン・アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措置をとるよう要請してきた。これを受けて駐日アメリカ大使のジョセフ・C・グルーは、広田引毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず砲撃するようにと命令されているというが、もしも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止しるよう手段を講じなければ、アメリカ市民も被害に巻き込む深刻で悲しむべき事件が起こるであろう」と警告した。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難するように警告されているはずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう」と述べただけだった。

 長江上のイギリス砲艦が砲撃を受けたという情報に接して、不安にかられていたジョンソン大使は、この日午前11時、パナイ号のアチソンから「日本軍にパナイ号の位置を報せたし」と同号の投錨地を知らせる電報を受信し、ひとまず安堵の胸をなでおろした。しかし、その電報を最後に、午後1時をすぎてもアチソンからの報告が入らなくなり、漢口のアメリカ大使館に焦慮の雰囲気がただよった。そして、ついに揚子江警備隊司令官よりパナイ号からの通信が途絶えたという連絡が入ったのである。ジョンソン大使はただちに、ワシントンの国務長官宛に次のように打電した。

 ”揚子江警備隊司令官は、本日、13時35分以後、パナイ号との交信が不能となっています。日本陸軍が江上の船舶すべてに対する砲撃命令を発したとの情報があります。本日、南京付近および蕪湖にてイギリス艦に砲撃があったことに鑑み、直ちに東京に連絡し、日本外務省に緊急申し入れを行うこと、また、アメリカ人避難民を乗せているパナイ号、およびスタンダード石油の船舶の所在についても通告するよう願います。呉松上流221マイル地点に投錨、がパナイ号からの最新の報告でした。”

 パナイ号との通信が途絶え、焦慮感ただよう漢口のアメリカ大使館に、不吉な思いをつのらせる以下の電報が、揚子江警備隊司令官から届いた。

 ”護衛船をともなった英国砲艦クルケット号とスカラブ号は、南京上流12マイル(約19.2キロ)の地点で午後3回にわたって空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。”

 こうした情報に接した漢口のジョンソンアメリカ大使は、パナイ号やアメリカの商船にも同様な攻撃が行われ、恐るべき惨事が発生する可能性を察知し、国務省から日本政府に対して、緊急に予防措置をとるよう要請してほしい旨の電報を打たせた。

 ”本日午後、英国砲艦スカラブ号とクリケット号は、外国人避難者を乗せたジャーディン倉庫船と商船黄浦号と一緒のところを故意に爆撃された。死傷者はなかった、と報告されているが、倉庫船には南京を避難したアメリカ人が乗っているので、国務省は緊急に東京に訓令して、日本政府が今後このようなことが起こるのを阻止するための命令を出すよう、圧力を加えられたし。
 本日、蕪湖の日本軍は、イギリス人に対して、日本軍守備隊は長江のすべての船に発砲するよう命令を受けていると言っている。もしも日本軍が、これらの船は友好国のものであり、アメリカ人と他の外国人の避難のために用意されたものにすぎないことを理解しなければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。”
ーーー
 ジョンソン・アメリカ大使が、通信の途絶えたパナイ号が災難に遭遇する予感に襲われ、懸命に防止措置をとろうと外交努力をしていたとき、すでに惨事は進行していたという。 

 東京の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーが、広田弘毅外相に対し、中支那方面軍当局にアメリカ人の生命・財産を攻撃しないように厳重措置をとるよう要請したのみならず、上海のガウス米国総領事も同地の岡本季正総領事にパナイ号の位置を知らせ、関係方面への通報を要請したという。にもかかわらずパナイ号は撃沈された。

 そのパナイ号は、煙突は純黄色、船体は白塗りで、アメリカ艦であることを明確にするために、上甲板の前と後の屋上に水平に大きな星条旗を新しく描き、上空のどの角度からも識別できるようになっていたとのことである。また、後尾のポールには、緊急事態に備えて最大の軍艦旗が常時掲げられいたという。そして、当日は晴天であった。

 また、長江を遡っていたパナイ号のヒューズ艦長は、第10軍国崎支隊キ下の永山部隊主隊に発見され、手旗信号で停船を命じらて、乗り込んできた大隊副官の村上繁中尉とやり取りをしている。村上中尉らは、パナイ号が「日支交戦区域より避難せるものにして他意なし」ということが確認できたとして握手をしたのち、またボートに乗って艦を離れたというが、その後、砲撃を受けたために沈没しつつあったパナイ号から脱出して北岸に向かった2隻の救命ボートに機関銃掃射を加えたのは、午前中にパナイ号に乗り込んだ村上繁中尉の指揮する大発(大型発動艇)であったという。さらに、沈みつつあったパナイ号に接近し、機関銃掃射を加えた日本軍の哨戒艇が、同じ第10軍国崎支隊所属の永山部隊の支隊であったというのである。

 そうした事実を踏まえると、その時パナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館二等書記官アチソンの、

 我々が隠れている湿地から脱出する道を探しているときでした。爆撃機3機からなる日本の飛行隊が、長江上流の空からやってきて我々の上を飛びました。そのうちの一機が我々が負傷者を隠し、我々も隠れている湿地の葦原の上を旋回しました。
 この飛行機の行為とさきの日本軍哨戒艇の行為をパナイ号爆撃という信じがたい事実と結びつければ、日本軍が爆撃の証言者を抹殺するために、我々を探していたということは疑問の余地がありません。

 という主張が理解できる。繰り返しての抗議や要請、また当日は晴天で、視界は良好であったという事実、さらには爆撃や砲撃の状況を考慮すると、日本側の「誤爆の弁明と陳謝」は不可解である。パナイ号事件もレディーバード号事件も、他国の事情や国際法を考慮しない日本軍の強引な軍事行動で、南京無差別爆撃ともいえる南京空襲や南京大虐殺と同質のものではないかと疑わざるを得ない。日本軍は多くの市民が住む南京の市街地を空襲し、逃げ延びようとする中国兵のみならず、「殲滅掃討作戦」で戦意を喪失し武器を放棄した投降兵や敗残兵、さらには避難民をも殺害した事実があるからである。












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南京大虐殺と外交官 石射猪太郎

2014年10月19日 | 国際・政治

 10月16日の朝日新聞夕刊に「慰安婦巡るクマラスワミ報告 政府が一部修正を要請 本人は拒否」という記事が掲載された。日本政府の報告書修正の要請は、クマラスワミ報告が吉田清治氏(故人)の著作を一部引用しているからであり、朝日新聞が先だって吉田氏の証言を虚偽と判断し、証言を報じた過去の記事を取り消したことに対応したものであろう。

 クマラスワミ氏は「証拠の一つに過ぎない」として修正を拒んだというが、その詳細はわからない。私は、クマラスワミ氏が「日本政府が国家的に行うべきである」とした「勧告」の下記6項目に誠実に取り組むことなく、報告書の修正を要請することに違和感を感じると同時に、元「慰安婦」の証言を最も重視したというクマラスワミ氏が、中国や韓国の政府と同様、日本政府の姿勢に歴史修正の動きを感じ、報告書修正の要請に応じなかったのではないか、と想像する。

クマラスワミ6項目の勧告ーーー
A 国家レベルで
137. 日本政府は、以下を行うべきである。
 (a)第2次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下で その義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること
 (b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権および基本的自由の重大侵害被害者の原状回復、賠償および更正への権利に関する差別防止少数者保護小委員会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこと。多くの被害者がきわめて高齢なので、この目的のために特別の行政的審査会を短期間内に設置すること。
 (c)第2次大戦中の日本帝国軍の慰安所および他の関連する活動に関し、日本政府が所持するすべての文書および資料の完全な開示を確実なものにすること。
 (d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される女性個々人に対し、書面による公的謝罪ををなすこと。
 (e)歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること。
 (f)第2次大戦中に、慰安所への募集および収容に関与した犯行者をできる限り特定し、かつ処罰すること。
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 また、私たちはクマラスワミ報告書の一部をたとえ修正したとしても、元慰安婦の「問題」はかわらずにあることを忘れてはならないと思う。元慰安婦の証言だけではなく、1993年(平成5年)8月4日、日本政府が「慰安婦関係調査結果」として発表した『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』に多くの日本の関係資料が入っている(河野談話はその発表にあたって語られたものである)。「慰安婦」の問題は、吉田証言や朝日新聞の報道によって作り出されたものではないということである。

 「慰安婦」の問題と同じように、もうひとつ気になる問題がある。「南京大虐殺」の問題である。日本の一部学者や研究者とその支持者が、国際社会ではとても受け入れられないであろうと思う主張を繰り返しているのである。

 たとえば、「南京大虐殺は中国の作り話」とか、「南京大虐殺は連合国の創作」とか、「南京の軍事法廷もデタラメの復讐劇」というような主張があり、また、「東京裁判でアメリカが原爆の被害を小さく見せるために、それを上まわる虐殺数30万人説を突然持ち出した」というような主張である。そして、「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」などという、当時の軍が作成し提供したのではないかと思われるような新聞の記事や写真も活用され、「南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員に戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした」などというのである。「中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた」という文章も目にした。私は、それらは歴史の修正ではないかと思う。ここでは「外交官の一生」石射猪太郎(中公文庫)から、そうした主張に疑問を感じさせる「南京大虐殺」に関わる記述を抜粋した。当時東亜局長という立場にあった外交官の文章である。

 また、「バネー号、レディー・バード号事件」と題された部分の文章も抜粋したが、「海軍機の過失によって、撃沈された」というのは、どうも疑わしいようなのである。
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                           東亜局長時代──中日事変

 南京アトロシティーズ

 南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危ないとさえ報ぜられた。1938年(昭和13年)1月3日の日記にいう。

 上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
 南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

 私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりにも大量な暴行なので、手のつけようがなかったのだろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間の出来事として、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが功を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。

 日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千子の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであった。


 バネー号、レディー・バード号事件

 わが軍の南京攻略に際して、揚子江停泊中のアメリカ艦バネー号と、イギリス艦レディー・バード号がそば杖を食った。バネー号はわが海軍機の過失によって、撃沈されたのである。アメリカからの厳重な抗議に対して、日本政府は平あやまりにあやまり、海軍はすぐ責任者を処分した。この時の海軍の処置ぶりはあざやかであった。一時沸騰したアメリカの世論がそれで納まった。

 日本の子供までが事件を心配して、在京のアメリカ大使館に同情の手紙を寄せたり、救恤のたしにとお金を送ったりしたことが新聞に見えた。本当に童心から出た誠意なのであろうか。私はちょっと不純さを感じた。その頃、日本国民の頭には米主英従とでもいうか、イギリスはどうでもよいが、アメリカのご機嫌は損じないようにとの空気がしみこんでいた。それが童心にも反映したのかもしれなかった。

 レディー・バード号は、蕪湖沖で橋本欣五郎大佐の砲兵隊から撃たれたのである。イギリスからやはり厳重な抗議が来たが、陸軍は素直に非を認めようとしない。イギリス艦の方で煙幕を張って、敗残中国兵を収容したのが悪いのだ、などと虚構の説を言いふらして頑張ろうとしたが、結局陸軍も、イギリスに対する謝罪には反対しきれなくなった。ただ明らかにこの事件の責任者である橋本大佐を、どうにもし得ないのだ。12月末、私がイギリス謝罪文の案を確定するために陸軍省に行った時、橋本大佐を処分しきれない手ぬるさをなじると、町尻軍務局長は、軍の内部状勢上、彼を処分し得ない事情を諒察されたい、と逃げるのであった。
 一予備大佐ながら、軍も憚らねばならぬ橋本大佐の威力は、英雄的であるというべきであった。

ーーー

”http://hide20.web.fc2.com” および ”http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"(こちらは近々削除される予定です)に、投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。ところどころ空行を挿入したり、漢数字を半角算用数字に変えたりしています。青字が書名や抜粋部分です
 

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日本軍政下 ベトナム”200万人”餓死 6-1

2014年10月16日 | 国際政治

 先日、安倍自民党政権は臨時閣議を開き、従来の政府解釈を180度変えて、日本国憲法9条の下で集団的自衛権の行使を認 める決定した。また、2014年8 月1日の朝日新聞は、憲法改正の早期実現を求める意見書や請願が今年に入り19県議会で可決、採択されていたことを報じている。そうした動きの根底には、 安倍首相の「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような考え方や、さらには、先の大戦おける日本の戦争責任を回避したり過小評価したりする考え方、また、日本の戦争犯罪をなかったことにしようとする考え方などがあるのだろうと思う。

 しかしながら、日本の侵略や戦争責任、戦争犯罪は、日本人がどのように考えるか、という「日本人」の考え方の問題ではない。「被害」と「加害」の問題も存在するのであり、歴史の事実は、世界で共有されなければならないものであろう。

 日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題でも、日本軍の責任をしっかりと認識する必要があると思う。
  日中戦争の行き詰まりを打開するために、中国の海岸を封鎖し、南シナ海の東沙島や海南島を占領した日本は、「仏印」経由の「援蒋ルート」を遮断するため、 北部仏印に進駐した。この進駐は戦闘を伴うものではなく、フランスに圧力をかけて、強引に同意させたものであった。このとき、インドシナの住民や組織は交 渉相手ではなかった。そして、日本軍の進駐直後から、「反仏・反日帝国主義」をスローガンした武装蜂起の動きがあったことを忘れてはならないと思う。
 また、北部仏印進駐が、単に「援蒋ルート」の遮断にとどまらず、「南進」の拠点として、さらには広大な戦線を賄う補給基地として重視されていた事実も忘れてはならないと思う。

 日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題では「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです」というような責任回避ともいえるような主張を 再三見聞きする。しかしながら、そうした主張は、5年間にわたる日本軍の駐留とその間の軍事政策、また「仏印処理」以降の日本の軍政をほとんど考慮していないと思われる。

  天候不順や南部からの米の移送遮断も、もちろん無視はできない。しかしながら、多数の餓死者を出したのは、日本軍の米、その他の物資調達、黄麻の強制栽培 (稲作面積などの減少)などに主な原因があったことは否定できないと思うのである。軍用米の調達も、仏印「駐留部隊用」だけではないのである。他の戦線へ の「補給用」、さらには決戦に備えての「備蓄用」、日本への輸出用などがあったというのである。

 下記は、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)の抜粋であるが、表4や表6、表7は、日本の北部仏印進駐のもう一つの理由(食糧確保)を示し、表5は、日本軍の動静を示すものといえるであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第6章 誰に責任が?

飢餓四つの原因


 ・・・

  未曾有の飢餓に至った1944年~1945年の背景を大ざっぱに整理してみたが、理由④には、いうまでもなくそれまでの時間的な経過も含まれよう。(注  ④ 日本とフランスによるモミの強制買い付けが、最後に挙げられるが、これはどうか。)フランス軍がベトナム侵略をはじめたのは1858年までさかのぼる から、実に80年余にわたる長期の植民地支配と搾取とに、目を向けなければならない。これで、ベトナム人民の生活は逆さに振っても血も出ないほど極度に疲 弊しきっていた。ところが汗も血もみな吸いとっていった「太った鬼」のほかに、突然大東亜共栄圏のスローガンを掲げて「背丈の低い盗賊」(日本ファシスト の意=ベトミン紙による)が登場した。

 「1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略する と、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置 かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した……。」

 ベトナム人民共和国独立宣言はその文章のあとに、問題の 「200万人以上の同胞が餓死した」とつづくのだが、インドシナを貧窮のドン底に追いやった日本が、それまでは一体どのような役割をはたしたのか。軍事管 理期間の5年間にどれだけの戦略資源を調達あるいは収奪して、日本国内へ運んでいたかを、次にみていくことにする。

 まず基本的な資料として、正木千冬氏訳の『日本戦争経済の崩壊──戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』を取り上げたい。これは、アメリカ戦略爆撃調査団報告書総合報告ともいえる部分の邦訳である。
  同書はトルーマン大統領の指示によって、戦後すぐに来日した850人のアメリカ軍人のもとに300人の日本人が動員され、戦略爆撃がもたらしたであろう被 害実態と、その爆撃効果を知るために作成された膨大量のレポートである。正木千冬氏訳の総合報告は全ページの半分近くを、日本側の統計で埋めつくしている ところに特徴がある。戦時下の日本経済の実態を、アメリカが入手した資料で確かめねばならないのは不本意だが、その統計は貴重な第一次資料とみることがで きる。以下の表4から7までは、同書から引用した。


 表4は、日本国内の食糧在庫量で、1931年からはじまって、45年までの農林省の統計である。
  問題のコメを見ていくと、39年度がそれまでの半分以下に落ちこんで、わずか67万6900トンになっている。これは朝鮮米、台湾米の凶作にもよるものだ が、翌40年も在庫はわずかに増えたくらいで、大きな変化はない。戦争指導者たちは、この数に頭を痛めかなりの危機感を覚えたであろう。ところが、41年 はにわかに100万トン台を確保した。日本軍の「仏印進駐」は40年9月のことだが、そのねらいが今にして手に取るようによくわかる。

  表4  食糧在庫調べ 1931~45年 (単位 トン) 注:コンマ略

  コメ その他の雑穀 缶詰 砂糖
1931 1523374 25612 177437
32 1484571 31236 299250
33 1501266 38224 180750
34 2738481 46955 49200
35 1656023 52033 73620
36 1344416 61155 57270
37 1251955 78953 69603
38 1451550 91147 63631
39 676900 102642 55381
40 726124 2642431 64721 66693
41 1178377 2264042 73721 89744
42 392000 1855614 47224 167159
43 435333 1543092 61014 105956
44 384167 50128 11273
45 133000   4583

(注)コメの在庫は毎年10月30日現在 その他の雑穀は大麦、小麦、裸麦の合計で6月30日現在、缶詰、砂糖は12月31日現在
(出所)農林省

表5は、日本軍用食糧の推移だが、先の表で39年度からコメの在庫が減る一方なのに対し、42年からの軍隊用食糧のうちとくにコメはうなぎ上りに増えて、4年間のあいだに3倍にも跳ね上がっている。
  これは、戦力が急速に増強されたからにほかならないが、かわりに農村は留守家族だけとなり、食糧生産が減少するのは避けようもない。表4の42年度からの コメの在庫分減少は、このこととも決して無関係ではなかったのだ。コメ絶対量の不足は、そのまま一般庶民にしわ寄せされていく。戦争で犠牲になるのはつね に一般庶民であり、わけても女性、子ども、年寄りたち弱いものである。日本は軍事面のみならず、食糧面からいっても、戦争をすれば自滅せざるをえなかった のだ。

         表5 軍隊用食糧  1942~45年 (単位 トン)

  1942 1943 1944 1945
コメ 230600 374300 502500 666600
大麦 41800 23000 25+900 63800
裸麦 139000 75100 90100 130200
小麦 3100 3700 6900 68100
小麦粉 不詳 不詳 100000 122900
味噌 28300 38750 67650 66370
醤油 23050 30750 56500 55650
465850 545600 849550 123020

(注)42年、43年の合計には小麦粉を含まない。
(出所)農林省

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日本軍政下 ベトナム"200万人"餓死 6-2

2014年10月14日 | 国際・政治

 

 前頁6-1の続き(トラブル対処の分割投稿のため)

 表 6は、雑穀の輸入高である。インドシナからの場合それはほとんどトウモロコシで、40年度から全輸入量の50%以上を占め、42年に減るものの、43年は 80%以上、44年も70%とある。船舶もほとのど沈められ海上輸送路が危険だらけとなった時点で、いささか信じがたいすうじだが、農林省の統計とあれば まちがいあるまい。台湾、朝鮮、中国と比べれば、大変な物量である。
 なお蘭領東印度とあるのは、こんにちのインドネシアをさす。


         表6 雑穀および雑粉輸入  1940~45年 (単位 トン、下段は%)

  1940 1941 1942 1943 1944 1945
1 仏領インドシナ 148600
55.2
135200
50.5
124900
15.2
634100
84.5
355000
70.0
2 蘭領インド 76900
28.5
79200
29.5
22300
2.7
5000
0.7
3 台湾 500
0.2
1000
0.4
1000
0.1
300
0.1
100
0.1

4 朝鮮 3300
1.2
1000
0.4
600000
72.9
25200
3.3
25200
4.1
15000
6.5
5 中国 1000
0.4
2300
0.3
5000
0.7
4500
0.9
3000
1.3
6 満州 40000
14.9
50000
18.8
72800
8.8
80500
10.7
122000
24.0
213400
93.2
総計 269300 267400 823300 750100 506800 231400

(出所)農林省 船舶運営会

 表7は、いよいよインドシナからのコメとモミの輸入量だが、ビルマの下にシャムと出ているのは、タイのことである。
 インドシナからのコメ(モミ)は40年度に約44万トンで、全輸入量の26%近かったものが、41年~42年とトン数が増え続ける一方で、43年にはなんと66万2000トンにもなり、全輸入量の58%以上となった。
  表6のトウモロコシもまた43年度が80%以上を占めたのを見れば、昭和18年度の「外米」ならびにトウモロコシの大半が、ベトナムからきたものだった、 といってよいだろう。コメはモミで運ばれてきた分もあるから、その分は保存されて、昭和19年までは一般の主食配給分に混入されてくる。「配給の米に今度 も小さな豆が入っている。白い米、黄色い米、青い豆、紅い粒、褐色の虫、五色の米である」と、徳川無声が日記にしるしたのは、同年夏のことだったのを思い 出す。

 私(たち)は、まちがいなく、ベトナム人民の血の出るようなとぼしい米や、汗の結晶ともいうべきトウモロコシを多量に食べて、な んとか飢えをしのぎ、戦時下のきびしい食糧難時代を生きのびたのだ。このことは、何びとも否定できない事実である。かわりにベトナム北中部で、どのような 大惨事が起きたかなどは、夢にも知らされずに。……。


 インドシナから日本へのコメについて、次にフランス側が残した統計を、『資料・ベトナム解放史』からみていきたい。
  インドシナにいけるコメとトウモロコシは、日本政府の特命で三井物産と三菱商事が輸送権を独占していたが、コメは主として三井物産に委託されていた。しか し「日本ファシストの需要はきわめて高く、輸出額は日本とフランス両国間の貿易協定に定められた要求額にはとても及ばなかった」と、同書にある。1941 年2月のフランス総督令によって、これまでコメの輸出機構を独占していた華僑にかわりフランス人企業11社が、精米業社からなかば強制的にコメを入手し、 日本企業経由で日本本土へ輸出するというシステムとなった。それでも華僑の比重は大きかったが、フランス企業の”黒幕”が、三井物産だった。

  表7  コメおよび籾輸入高  1940~45年   (単位 トン、下段は%)

  1940 1941 1942 1943 1944 1945
1 仏領インドシナ 439300
25.9
562600
25.2
973100
37.0
662100
58.3
38400
4.9
 
2 台湾 385000
22.5
271800
12.2
261500
9.9
207200
18.3
149800
19.1
9000
6.0
3 朝鮮 60000
3.6
520000
23.3
840000
32.0
72000
6.3
559500
71.5
142000
93.9
4 ビルマ 420000
24.8
437500
19.6
46600
1.8
18000
1.6
 
5 シャム(タイ) 284000
16.8
435400
19.5
508000
19.3
176500
15.5
35500
4.5
200
0.1
1694000 232700 2629200 1135800 783200 151200

(出所)農林省 船舶運営会

  表8上段右の対日輸出総量は、インドシナより三井物産に売られたコメの年度ごとの統計だが、そのすべてが日本国内に運ばれたわけではない。丸山静雄氏の、 『ベトナム解放』によれば、日本とフランス政庁との協定で、インドシナから日本へ供給するコメの量は、1941年が70万トン、42年が105万トン、 43年不明で、44年が90万トンだったとしるされている。この協定トン数を、表8の対日輸出総量ならびに表7の日本国内へ輸出量とを参照しながらわかり やすくまとめてみると、次のようになる。

 1941年度は、日本が70万トンのコメを要求したのに対して58万5000トンが三井物産の 手に渡り、そのうちの56万2600トンが、日本本土へ輸送された。42年度は105万トンの要求に対して、97万3908トンが確保できて、97万 3100トンが日本国土へきた。44年度は90万トンの要求に対して49万8525トンが確保できて、3万8400トンが日本国土へきたことになる。
  とくに注目しなければならないのは1944(昭和19)年度だが、この年に三井物産が確保したコメは、もうほとんど日本国内への搬入はできず、その大半と もいうべき45万トンあまりが、現地に残されていたのだ。北中部のベトナム人民は空前絶後の飢餓に苦しんでいても、決してコメがなかったわけではないので ある。しかも、駐屯日本軍の軍用米は、先の協定分による引き渡し分には含まれなかったというから、日本軍ならびにその企業特別倉庫には、どれだけ多量のコ メおよびモミが山積みさあれていたか、はかり知れないものがある。


   表8  コメの対日輸出量

年度 要求総額 実績
1940 不明 468000
41 700000 585000
42 1074000 973908
43 1125904 1023471
44 900000 498525
45 不明 44817

J.Gauthier,L'Indochine au travail dans la paix Francaise,Paris,1947 p.283

 その同じ戦時下に、日本国民に主食として配給されてきたコメは、第1章にしるしたように、最初のうち基本は大人一人あたり1日2合3勺(330グラム)だった。1か月分でなら約10キロ、1年分だと約120キロの消費量となる。
  それで決して十分ではないが、もし、規定量のコメが主食として「代用食」を含まず、しかも遅配欠配なしに配給さあれたならば、最低限の生活は維持できたの だと、少年期をふりかえって私は思う。なぜなら、それでも餓死者は出なかったからである。現在の日本人はコメだけに関していえば、1年に70キロの消費量 でしかなく、アメリカは6キロにしか過ぎない。


 戦時下の例にならって、人 間の最低限のコメ消費量をもし仮に1ヶ月10キロとした場合、餓死したというベトナム北部の人たち「200万人」は、単純計算で2万トンのコメがあればあ 1ヶ月を生きのびることができたはずである。1944年の秋作米収穫のあと11月から、45年の春作米収穫時までの7ヶ月間は、14万トンのコメがありさ えすれば、生き抜くことが可能だった。
 いや、不作の秋作米も多少は残されていたはずだから、厳密には5ヶ月間あまりが、大飢饉のピークではなかったか。最低ぎりぎりの計算だが、10万トンのコメがあって、それが平等に分けられていれば、どうにかこうにか餓死せずにすんだということになる。


  もしも、44年の秋作米から、フランスが強制的に買い付けたとされる北部のモミ12万5000トンのうち、10万トンが一般に等分に放出されていたら、ま た、ジュートの転作強要がなかったとして、4万ヘクタールから9万トンのさつま芋かトウモロコシが収穫されていたら……などと、私はまたしても考えてしま う。もしもという仮定は、歴史には成り立たないのを、あえて知りながらも。
 45年の3月9日夜に、フランス軍を一掃したあとの日本軍は、インド シナの植民地支配管理者となり、第38軍土橋勇逸司令官が「仏印総督職務執行」となって、総督府を引き継いだ。塚本毅公使は総督府総務長官に、蓑田不二夫 総領事はコ-チシナ(南部)総督に、西村熊雄総領事はトンキン(北部)州理事長官にそれぞれ昇格し、フランス時代の継続統治の主力となった。

  その日本軍にしてみれば、インドシナの「敵性勢力」は放逐したものの、1000キロにまで迫った連合軍との決戦近しで、軍用米を少しでも多く貯めこまなけ ればならなかっただろうし、食用の牛や乗用の馬の餌としても、また機関車や発電所の石炭がわりにも必要だったろう。3月9日の「仏印処理」に際しての日本 政府は、「印度支那の住民に対しては有らゆる援助を辞せざるべく」と声明したが、それはまったくの口先ばかりで、巷に溢れる飢えた人びとを同じ人間として 遇する方針はなく、見ても見ぬふり知らぬふりの傍観者だったといわれても、返す言葉はない。救援活動はもちろんのこと、 餓死者がどこでどのくらい出たか という調査もせず、最小限の資料さえ把握しようとしなかった


 これは、南 京大虐殺のように、日本軍が血まみれの日本刀を振りかざしての虐殺行為とは異なる。しかし南京大虐殺の数倍にも及ぶ間接的な恐怖地獄であり、そもそもの元 をたどれば、タアイルオン村で家族9人を餓死させたファン・スンさんが憤怒の声でまくしたてたように、「こっちが来てくれといったわけじゃないのに、向こ うから勝手に押しかけてきた」侵略に非があるのは、誰の目にもあきらかである。
 ベトナムの声放送は、現在にいたるも毎日、朝夕と当時流民となって離散してしまった家族たちの消息を求める”尋ね人”の時間がつづいている。
 日本人にとっては、忘れてはならない歴史の暗い1ページであり、いつまでも心に刻まなければならないはずの重い負債である。

 

http://hide20.web.fc2.com および http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"(近々ocnブログ人停止により削除されます)に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。青字が書名や抜粋部分です
              

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殺戮を拒んだ日本兵”渡部良三”の歌集から

2014年10月09日 | 国際・政治

 いかがなる理にことよせて演習に罪明らかならぬ捕虜殺すとや
 捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ

 
 この歌は、中国人捕虜を銃剣で突くという「刺突訓練」(捕虜殺戮)を拒否した渡部良三(学徒出陣によって中国河北省の駐屯部隊に陸軍二等兵とて配属された)の歌集「小さな抵抗」の中の2首である。

 「刺突訓練」については、すでに別のところでも抜粋しているが、第59師団師団長・陸軍中将「藤田茂」の自筆供述調書に
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」
などと、俘虜殺害の教育指示をしたという記述があった。

 また、日本軍による儘滅作戦(ジンメツサクセン)(一般的には「三光作戦」として知られている)で、多くの中国一般住民が殺されたことも、下記のような歌から想像される。

 古兵らは深傷(フカデ)の老婆やたら撃ちなお足らぬげに井戸に投げ入る

 「刺突訓練」のための捕虜殺害を拒否し、リンチを受けながらも人間的な視点を失わなかった渡部良三というひとりの日本人を通して、日本の戦争が何であったのかをあらためて考えさせられる。

 渡部良三は復員時に約700首におよぶ戦地での歌を持ち帰ったという。それを復員後39年以上が経過してから整理し、「歌集 小さな抵抗」として出した。下記は、その中から目次の内容にそって、私が個人的に記憶に残したい「歌」を選び出したものである(ただし、漢字につけられた読み仮名は、都合上漢字の後ろのカッコ内にカタカナ表記で示した)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

捕虜虐殺
 ・朝飯(アサイイ)を食(ハ)みつつ助教(ジョキョウ)は諭したり「捕虜突殺し肝玉をもて」
 ・刺し殺す捕虜の数など案ずるな言葉みじかし「ましくらに突け」
 ・人殺し胸張る将は天皇(スメロギ)の稜威(イツ)を説きたるわれの教官
 ・殺人演習(サツジン)の先手(サキテ)になえる戦友(センユウ)も人なればかも
  気合かするる
 ・いのち乞わず八路(ハチロ)の捕虜は塚穴のふちに立ちたりすくと無言に
 ・虐殺(コロ)されし八路(ハチロ)と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや 
 ・驚きも侮りもありて戦友(トモ)らの目われに集まる殺し拒めば
 ・「捕虜ひとり殺せぬ奴(ヤツ)に何ができる」むなぐら掴むののしり激し
 ・縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる
 ・「次」「次」のうながし続き新兵の手をうつりゆく刺突銃はも

拷問をみる
 ・水責めに腫れたる腹を足に蹴る古兵の面のこともなげなり 
 ・ひとり冷め拷問する兵の面を見る人形(ヒトガタ)なせる獣とも見ゆ
 ・拷問とう禍事(マガゴト)に果つる密偵になすすべもてぬ著(シル)きわが罪
 ・きわやかに国のゆく末ことほぎて女スパイの首ついに垂る

戦友逃亡
 ・戦友の「岡部」をみざり黄塵の朝の点呼に逃亡と決まる
 ・「戦友(センユウ)よ、しっかりと逃げよ」さがすべく隊列組みつつ祈る兵あり
 ・天皇(スメラギ)の兵を捨てしは逃亡ならず自由への船出と言いてやりたし
 ・逃亡兵岡部も農の子なりしか麦畝(ムギウネ)踏まぬ心残せり
 
殺人演習と拷問見学終わる  
 ・むごたらしき殺しを強いし教官に衛兵捧ぐる礼(イヤ)のむなしさ
 ・しろしめす御旨を恃(タノ)み殺さざり驕(オゴ)れる者に抵抗(アラガイ)てわれ
 ・ましくしの寝床(ネド)に息吐き怯えいる捕虜殺さざる安さあるとも

 ・捕虜なみのさばき覚悟し酷(ムゴ)き殺しこばめる後の落ち着かぬなり

リンチ
 ・血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜(タマ)るを耐えて直立不動
 ・かほどまで激しき痛みを知らざりき巻きゲートルに打たれつづけて
 ・私刑うけゆがむわが面(モ)にしらじらし今朝の教官理由(ワケ)を問いたり
 ・後の日のそしりを恐れ戦友らみな虐殺拒みしわれに素気なし
 ・眼(マナコ)とじ一突きすれば済むものを汝の愚直さよとう衛生兵なり
 ・「不忠者の二等兵」われに課せらるる任務(ツトメ)は常に戦友よりきびし
 ・分りいて戦友(トモ)らに詫るすべもなし自が責なる対向ビンタに

 東魏家橋鎮(トウギカキョウチン)の村人
 ・むごき殺し拒める新兵(ヘイ)の知れたるや「渡部(トウベエ)」を呼ぶ声のふえつつ
 ・小さな村の辻をし行けばもの言わず梨さしだす老にめぐりぬ
 ・柔らかにもえ立つ春の陽だまりの村人の微笑(エミ)に救い覚えつ

逃亡兵逮捕さる
 ・幾夜々を野に伏し怯え寝ねたるや運命(サダメ)の女神戦友にたたざり
 ・穏(オダ)しくて言葉少なき戦友(トモ)なりき「営倉」なれば逢うもならざり
 ・逃げのびよにげおおせよのわが祈り戦友にみのらず逮捕(トラワレ)はてぬ

教練と生活
 ・肉刺(マメ)破れまめの中の肉刺も形なし六粁(キロ)行軍三日つづきて
 ・夜間行軍にむさぼり眠る小休止新兵互(カタミ)にからだつなぎて
  <註>新兵の夜間行軍の際は、「脱落、落伍、逃亡防止のため、ロープで新兵の体を互いにつながせた。
 ・戦友ひとり半身(ハンミ)のむくろになり果てぬまわりは血肉に染る驚き
    ─ 擲弾筒爆発事故死─
 ・事実(コト)を曲げ戦死謳(ウタ)うも諾(ウベナ)わぬ兵らは黙す理(ワリ)もただせず
 ・隊長に教官はかるでつぞうの戦死いくたり勲記も添えて
   <註>「でつぞう」は捏造のこと
 ・擲弾筒炸裂事故死の補充要員虐殺(コロシ)こばみしわれの名指さる
 ・かすめうばい女(オミナ)を犯し焼き払うおごる古兵も「赤子」とうかや
 ・「尽忠奉公慰安婦来たる」の貼紙を見つつ戦友等にならわぬひとり
 ・兵等みな階級順に列をなす浅ましきかな慰安婦を求(ト)め
 ・弾丸(タマ)の雨あぶるよりなお心冷ゆ慰安婦来たりうごつく群れに
 ・「特高犯スパイの親族(ウカラ)」に米麦の差別さるるを母書ききたる

湖水戦
 ・儘滅(ジンメツ)は夜半におよべり見返れば地平火の海これも戦(イクサ)か
 ・儘滅作戦(ジンメツ)に潰えたる村に抵抗(アラガイ)なし月のみさびし冴えとおりつつ
 ・村は燃ゆ火の海(ミ)のさまに際涯(ハタテ)なしいずくに眠る支那の農らは
 ・家焼かれ住処(スミカ)のありや広き国支那とはいえど貧しき農等
 ・三光の余(マ)りに凄(サム)しきしわざなり叫び呻きの耳朶(ミミ)より消えず
  <註>「三光」。中国で「殺す(殺光)、掠奪(槍光)、焼く(焼光)」をいう。
 ・楽し気に強姦(オカシ)を語る古兵いま八路(パロ)の狙撃に両脚(アシ)うち貫かる
 ・にらみ合う三日二夜は長かりき物原(モノハラ)のさまに屍(カバネ)ふえつつ
 ・火ふきいし銃眼に砲は命中(アタリ)たり一瞬八路(ハチロ)の姿(カゲ)空(クウ)に浮く

 ・弾丸(タマ)の音ひたと絶えたるたまゆらの静寂(シジマ)に戦友の呻き重かり
 ・小さき村ひとつを攻略(トリ)て戦闘(タタカイ)は漸く終えぬ戦死二百五十名
 ・弾丸(タマ)はきれ米すでになし傍らの戦友がくれたる乾パンの屑
 ・「死」に怯え思想も信仰(シン)もあとかたなしひと日のいのち延びし安らぎ
 ・戦場(イクサバ)に生命惜しむは蔑(ナミ)さるる在り処(ド)と知れど生きて還りたし

 ・大塚の思想を説きし古兵(ヘイ)も死す朝毎おもう今日はわれかと
  <註>「大塚の思想」。大塚久雄東京帝国大学(現東京大学)助教授の、経済史に関する学説。この古兵も反戦だった。 
 ・貫通も盲貫もあり相つぎて戦友死にゆくに覆い足らざり
 ・細りゆく脈みるわれに衛生兵よしなき理(ワリ)を言う面暗し
 ・瞼垂り脈弱まり来おもむろに冷ゆる生命にかす手だてなし
 ・これほどの数多若きを死なしむる権力(チカラ)とはなに国家とはなに
 ・戦友の死を日日(ニチニチ)みつつわがこころ誰を呪うべき天皇か大臣か部隊長か

 ・傷つきて喘ぎつつなお吐く息に抗日叫ぶ若き八路(ハチロ)よ 
 ・無造作に屍(カバネ)積みつつ兵の声戦友(トモ)の死にしを日常(ツネ)の如言う
 ・生きのびよ獣にならず生きて帰れこの酷きこと言い伝うべく
 ・人をして獣にするは軍(イクサ)という智慧なきやからうごめける世ぞ
 ・若きらを数多死なしめ戦闘(タタカイ)に勝利をのぶる言(コト)の空しさ
 ・背のうはすでに軽かり討伐に補給されずて六日すぐれば
 ・死にし戦友(トモ)「天皇陛下万歳」は叫ばざり今野も小原も水を欲(ホ)りしのみ
 ・酒保に来しわれの目裏(マウラ)に亡き戦友のたてばためらい
  飲食(オンジキ)を止む
 ・飢え死か凍て死か知らね天津のやちまたゆけば軀(ムクロ)ころがる

 動員はじまる
 ・いつわりて暴虐(あらび)を強いて傲り果て「聖戦」という新語つくれり
 ・大臣の東條英機は自(オノ)が子ろを軍に置けども征旅(タビ)はとらせず
 ・ますらおの賞め言いらぬねがわくば人を籬(マガキ)の戦争(イクサ)を止めよ

 学徒動員
 ・雨しまく神宮広場を学徒兵声ひとつなく歩を揃えゆく
  ・天皇(スメロギ)の命令(メイ)と強いらる筆折りて出征(イユ)くにがさを
  誰につぐべき
  ・いつの日か戦争(イクサ)の終えて気ままにももの言うことの叶う世も来む
  ・学友らいま校門を出行くもの言わず目にて互(カタミ)に頷き交し
  ・かけがえの無きものいまし捨てんとす滅亡(ホロビ)の道と知りつつもなお
  ・征くのみに帰還(カエル)ものなき戦争時代(イクサドキ)われはもついに
   兵ならましか
  ・荒声に「長髪を切れ!」軍刀にわれをしこづく配属将校
  ・「神在(マ)さば征旅(タビ)にも守りありぬべし」宣(ノタモ)う母は目見(マミ)伏しまま
  ・他の兵に変わることなき姿して冷めしものもつわが口重し
  ・死してなお帰り来るなの強い受けし兵等激しき船酔いになく

 馬頭鎮下車
  ・新しき軍靴は土に塗(マブ)されて新兵(ヘイ)等の小さきかなしみを増す
  ・駅舎(ウマヤ)なく見涯(ミハテ)の限り家も見ず踏む大地(ツチ)固し思いのほかに

 東魏家橋鎮駐屯部隊に配属さる
  ・一挺の銃すら持たぬ新兵(ヘイ)の群れ河北に立ちぬ幼顔して
  ・新兵(シンペイ)の鈍き足音地に吸われ薄日の中に民衆(ヒト)の姿(カゲ)なし

 徐州市にて
  ・転属は度重なるも恨むべき戦友(トモ)ひとりなく黄河こえたり
  ・夏近く徐州の町は涯も見ぬ麦の黄金(クガネ)の中に浮べり
  ・父に受く祖母(ババ)がかたみの小さき時計ネジまくつどに面影のたつ
  ・足早やに去る工作員の背を見つつ日本の敗(ヤブ)れしのちを気にやむ 
  ・目のひかり厳しかりけり粗末なる衣袴まとえども工作員は
  ・山積みの弾薬列車火を吹くもかかわりなげなる徐州の人ら
  ・なに故に見分け叶うや日本兵の吾(ア)を狙いうつP51
  ・弾(タマ)をあび野犬(イヌ)に食(ハ)まれて果てし馬(マ)のくにはいずくぞ
   われもかなしよ
  ・徐州市の東より帰る爆撃機麦穂なびかせゆきし数にて
   <註>重慶、成都等の米軍基地から、日本本土空襲を行い、帰還時には、
     日本軍を揶揄するかのように、超低空ともいうべき高度で飛び、麦やその他の作物がいっせいになびく程であった。
  ・寝転べる日本兵にめぐり逢い支那の母子(オヤコ)は息呑みて立つ
  ・飲食(オンジキ)も遊興(アソビ)のことも「特攻」は身分あかさば足ると知りたり
  ・戦争(タタカイ)は日日傾くか頬紅き十六歳も河南にきたる

 敗戦す
  ・「聖戦」の旗印(シルシ)かかげて罪もなき人死なしめし報いきたりぬ
  ・国破れ生命の保証(アカシ)あるならねされど僅(ハヅ)かに安らぎおぼゆ
  ・戦友(トモ)らより疾(ト)く敗戦知りし通信兵(ヘイ)安さかこもつ口に出ださず
  ・電文は敗戦のうつつ否むがに「終戦」という新語につづる
  ・復員の見込みを問いし士官いま戦犯指名にひかれゆきたり
  ・戦犯指名を恐るるならむ強姦(オカ)せしを誇りいし古兵(ヘイ)は口を閉ざしつ
  ・敗残の日匪(ニッピ)おとなう郷長の心ひろきに額(ヌカ)深く垂る
  
       復員列車とは名ばかりの、貨物列車に乗る日がきた。徐州駅に向かう
       途次、かつて耳漏(ミミダレ)をなおしてやった子等が通りに端に立ち、「再
       見(ツァイチェン)」「渡部(トウベエ)」を連呼し、しばらく添い走った。
  ・徐州市ゆ復員列車に乗る日来ぬ子等の走り出で「再見(ツァイチェン)!」
   「渡部(トウベエ)!」
  ・再見(ツァイチェン)の続けさまなる声きけばわけの分らぬ涙あふれ来
  ・わが乗れる復員列車襲われぬ土匪(ドヒ)ぞ物みな奪い去りたり
  ・南方(ミンナミ)の鉄道敷設に使役とうデマ飛びかいて兵等ふためく
  ・駅ごとにとまる列車にあびさるるののしりさげすむ言のきびしき

 揚子江(長江、江)左岸にテントを張る
  ・河南より江の左岸に立つひとり敗残なるもこころ誇りて
  ・チフスいずる噂流れぬ北風に肌曝(サラ)しつつ虱とりする
  ・口ぶりはいささ変わるも士官等の面に傲りはなお著(シル)く見ゆ
  ・江岸にののしりあぶる生霊(イキリョウ)の恨みの声を天皇(スメラギ)よ聞け
  ・医薬(クスリ)なく糧(カテ)さえ足らぬ幾万の兵の朝夕(アサヨ)を
   大臣(オトド)来て見よ
  ・北支派遣の総大将はとうのはて逃げ帰りしか噂広まる
  ・軍衣袴にメモを縫込めリバティーに乗ればほとするわが青春の記
  ・復員(カエリ)なば積み置きたりし書(フミ)の山手当たり次第読まむたかぶり

復員し故山へ
  ・権力(チカラ)もて時代(トキ)の青春剥ぎとりしこの祖国みよ焼野原なり
  ・復員に疑うべくもなきうつつ民族(タミ)を見下ろす占領軍あり
  ・戦野(イクサノ)に傷みし心犒(ネ)ぎ給う師のやさし多摩の川辺に
  ・垂る涙のごわず母は息子(コ)に語る物資配給に受けし八分を
  ・復員しいま古里に斑雪(ハダレ)みる平和とうもののなんと尊し
  ・「検事等はかわたれすでに家(ヤ)を囲み父を逮捕す」母の言(コトト)鋭し
  ・釈放(トキハナツ)時期(トキ)を質して検事等に母迫りしを妹等(コラ)は告げたり
  ・「スパイの子」われ復員すむら人等息をしつめてかいまみるがに
  ・楽し気に童子(ワラシ)の頃の吾(ア)を語る女(メ)を癒したし叶わざれども
  ・「案ずるな」偽りめくを抑えつつ臨終(イマワ)の近き子守女(コモリメ)に言う
        
極東軍事裁判始まる
  ・戦陣訓垂れたる将の肥え太りその腹切れず囚われにけり
  ・囚われの将等は責任(セメ)を否みつつ戦陣訓に背き縊らる
  ・戦犯の絞首をつぐる新聞もラジオニュースももの足らぬなり
  ・戦争(タタカイ)の敗れ幾年すぐるとも民族(タミ)が負うべき責任(セメ)は変らず
  ・戦争の責任ぼかされて歪みゆく時代(トキ)の流れを正すすべなし
  ・天皇(スメロギ)の戦争責任なしとうはアジアの民族(タミ)の容れぬことわり
  ・強いられし傷み残れど侵略をなしたる民族(タミ)のひとりぞわれは
  ・国内(クナウチ)を廻りて止まぬ天皇(スメロギ)に開戦責任国民(タミ)は問わざり



 http://hide20.web.fc2.com および http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"(近々削除予定です)に、投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。青字が書名や抜粋部分です。

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日本人戦犯自筆供述書 満州国憲兵訓練処処長少将 斎藤美夫

2014年10月03日 | 国際・政治
 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、満州国の治安維持工作や中国人弾圧に直接関わった中心的人物、斎藤美夫の自筆供述書の一部を抜粋したものである。斎藤美夫は、憲兵畑を歩み、新京憲兵隊長や関東憲兵隊司令部警務部長、憲兵訓練所長などを歴任した人物で、関東憲兵隊が行った治安維持工作や中国人弾圧関する記述は具体的かつ詳細である。「討伐検挙」をくり返し、多くの中国人を「厳重処分」とした事実は、「五族協和」「王道楽土」の満州国が、実は、憲兵と警察による統治国家であったということを物語っている。

 斎藤美夫の供述書に頻繁に出てくる「厳重処分」という言葉が、法的手続きに基づかない「処刑」を意味しているということにも驚かされる。そして、『共産党関係者は仮借なく「厳 重処分」を以って臨むこと』としていたのである。さらには、官吏公職員等の身分を有する者や学生知識分子等は「軍事行動による厳重処分」が憚られるため、一応裁判所の審理にかけ合法化を装う、としていたのである。

 また、彼は国際法規に違反し、「細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したこと」を認めている。
 さらには、ノモンハン事件の俘虜交換交渉の成立により戻ってきた日本側の俘虜の処遇に関する記述も見逃せない。「俘虜の大部分は戦傷により人事不省に陥り、俘虜となったものが大 部分になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました」ということで、処刑したり、自決を強要したりしたという事実も明らかにしているのである。

 注:文中の”ママ”とある漢字の「吉米」は「粁」に、「横打」は「殴打」に、「見致」は「見地」に、「通諜」は「通牒」に、「所刑」は「処刑」、「すこと」は「すること」に、「労動者」は「労働者」に、「人事不正」は「人事不省」に改めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第3章 憲兵に支配された国

 筆供自述                               
                         満州国憲兵訓練処処長少将 斎藤美夫
自己罪行

新京憲兵隊長当時

  [抗日聯軍・朝鮮遊撃隊への工作]
(二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、又偽首都警察庁の「厳重処分」附すべき中国人約30名を隊附き西田憲兵少佐に指揮せしめ、偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官約40名を以て護衛し、偽新京東北方約20粁の刑場に押送途中、被護送遊撃隊員1名が手錠を装したるまゝ警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、其場に斃し離脱を計りました西田少佐は後部車輌にありましたが、急遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄より自警団を集めて遂にこの勇敢なる遊撃隊員其他全員約30名を射殺し、引揚の上其顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対し賞詞を与えました。本件被押送者が受刑の直前、必死の最終的反抗闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指導官西田少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射撃(ママ)致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、このを実行せしめたのであります。しかも当時西田に対し賞詞を与えて居ります。私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪致します。


[石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
(四)1938年1月26日、関憲警第58号をもって石井細菌化学部隊と関係ある憲兵司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は右命令に基き処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、こゝに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、1938年新京憲兵隊附きとして在職した憲兵少佐橘武夫が、1948年ハバロフスク国際裁判所法廷に証人として証言したることにより、之れを確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基いて、私は新京憲兵隊長として之に対する措置を実行したのに相違なく、従って私は石井細菌化学部隊の試験工作に封帛助協力して国際法規に違反し、非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であります。


(五)1938年2月中旬春季「討伐検挙工作」につき、吉林分隊に於て憲・警機関の会議を施行し、私は会議に臨んで対策指示を致しました。其要旨は左の如くであります。
 「前冬季工作により相当の成果を揚げ、第一路軍楊司令直轄部隊に其五分の一の損耗を与えたるも該部隊を金川方面に逸したり。就ては来る春季工作に入る前に同軍と連絡ある人民の一斉検挙を実行し、一面吉林、及各農村に潜入せる隊員を索出検挙すること。

 春季工作に於て吉林地区は依然第一路軍に対する工作を実行す。之れがため通化独立憲兵分隊との連繋協定を遂げ、彼此相呼応して工作を実行すること。(之れがため吉林分隊長及吉林省警備課長を通化に派遣し協議せしめました。)
 第一路軍に対する情報蒐集を適確にし、同軍の移動方向を予め把握して、捕捉殲滅を期すること。」

 春季工作は1938年3月中旬より開始しました。之れに先行して聯軍に連絡ある人民を「一斉検挙」し、又都市農村潜入の遊撃隊員を「逮捕」し、「討伐検挙工作」により聯軍隊員に又人民に多大の犠牲を出しました。この春季工作を通じて憲・警の総「検挙」数は約700名に達しました。私は隊長として各工作を画策し、指揮し、且つ「被検挙者」の処理につき之れを指揮して、多数の「厳重処分者、法院送致者」を出しました。

(一五)1938年7月下旬、新京駅貨物倉庫に謀略放火と認むる火災事件が発生しました。私は隊下を指揮して厳重なる捜査を実行せしめました。火災現場検証により放火材料(マッチを加工したもの)を指定されたる位置に装置したる中国人労働者1名を「逮捕」し、続いて倉庫に働く労働者多数を新京北憲兵分隊、偽警察機関にて取調を行はしめ、工作中心人物を発見せんとしましたが目的を達成しませんでした。私の捜査命令により多数の人民に対し凡百ゆる拷問を行い、迫害を加えました。

(一六)私の新京憲兵隊長在任期間を通じて各憲兵分隊は所管地区内軍倉庫、官舎等より警察法令違反事件被害届を多数受理しました。憲兵は之等事件の中、重大事件を除く外は、微罪不検挙の方針の下に刑事訴追手続を省略し、被逮捕者に対し将来を戒むる理由によって殴打暴行等凡ゆる帝国主義的野蛮手段を加え、然る後釈放する処理法を採りました。私は部下が人民に与えた不法行為に対し、深く其責を負う次第であります。


関東憲兵隊司令部警務部長当時

[治安粛正工作]
3、人民鎮圧に関する具体的事項。
(二)1939年初頭頃より海拉爾(ハイラル)日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良の為め、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、防諜の見地より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集し来たりしものであります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或は伝染病が多発したのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動服務し、労働者に酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令指示を致しました。其関係に於てこの事件に対する重大なる責任を負う次第であります。

[細菌部隊への引渡業務]
(六)1939年7月中旬、大連埠頭に於て日本軍戦闘機焼却事件が発生しました。之れは謀略放火と認めましたので、警務部長通牒を以て大連憲兵に対し捜査指示を致しました。其工作援助のため八六部隊より一部を大連憲兵隊に配属致しました。


 大連に於ては鋭意捜査に当りましたが、未だ検挙に至りません。其後も被害は頻々として続出し、遂に1940年2月、大連郊外関東軍防寒被服倉庫一棟を放火によりて焼却せられました。私は関東軍司令部第2課長磯村大佐と共に急遽大連に出張し、直接大連憲兵隊及大連警務機関の捜査工作を指揮しました。遂に大連警察署に於て謀略関係地下工作員約20名(天津方面より派遣せらる)を検挙しました。

 本捜査のため事件発生の都度埠頭其他の現場から中国人労働者を憲兵隊偽警察に拉致し、厳密なる取調を行い、自供を強いる等人民に対し甚しき脅迫迫害を加えました。

(七)1939年8月8日、関憲作命第224号を以て河北より石井細菌化学部隊に引渡すべき中国人90名を哈爾浜、及孫呉に押送すべき関東憲兵隊司令官命令を下達しました。この命令は関東軍作戦命令によるものでありまして、私は警務部長として第3課に命じて命令案を起案せしめ、司令官命令として下達したものであります。命令内容の要旨は左の如くであります。

「憲兵教習隊平野中佐は、附属人員憲兵約30名、及看護下士官1を指揮し、河北より押送し来る中国人90名を山海関に於て河北押送者より受領し、之れを孫呉に押送し中、哈爾浜にて30名を残余を孫呉に於て夫々石井部隊受領員に引渡すべし。」


 私は、当時被押送中国人は石井細菌化学部隊に於て実験用に供すべき事を承知の上、押送引渡業務を事実上指揮して、石井細菌部隊の化学実験の下に中国人民を虐殺する工作に協力致
しました。

 又、1940年4、5月の候、日本陸軍技術本部並習志野瓦斯(ガス)学校合同試験班が毒瓦斯砲弾効力試験を北黒線地区に於て実施しました。此際関東軍作戦命令に基き、私は警務部長として右試験場特別警戒の為、憲兵将校以下60名を差出し、又憲兵隊留置中の厳重処分に該当する中国人約30名を該試験団に引渡すべき工作を司令官命令を以て示達しました。 

 右2件は何れも生人を化学実験に供したものでありまして、私は警務部長として其目的を承知しつゝ、人員引渡を為さしめたのであります。誠に非人道非人間性の惨虐を絶する行為であり、且つ又細菌毒瓦斯兵器は国際法に於て厳に禁止する事項でありまして、右行為は国際法違反行為たることを確認致します。今当時之等悪虐非道の日本軍事ファシストの毒牙に斃れた人びとの身の上に想到致しますると、自責の念に堪へぬ次第であります。私は言語に尽ぬ滔天の罪行を犯しました。唯々謹んで認罪致します。


[ノモンハン事件俘虜の処刑]
(二)1939年9月上旬、ノモンハン事件につき哈爾浜市に於て其善後処置につき、日・偽満・蘇間の談判会議が開かれました。軍司令部の意図により哈爾浜憲兵隊をして会議の警戒及ソ側談判員の身辺警護を名として談判員の言動を内査せしめました。

 又同時頃、綏芬河──哈爾浜──満州里間列車に於けるソ聯伝書使に対し、軍の指示に基き伝書盗取の目的を以て催眠性瓦斯を列車寝室に放射し、睡眠に陥れんとする工作を憲兵をして実施せしめました。結果は獲る所がありませんでしたが、この2件は軍事ファシストの手先として陋劣陰険極まる性質の罪行でありまして、私は警務部長として之れを憲兵に命じ、強制的に敢行せしめた指揮官として責を負い認罪いたします。

(三)1939年10月下旬、ノモンハン事件日・ソ俘虜交換問題の交渉成立し、日本側俘虜受領委員により日本側俘虜は受領せられました。其人員は約300名であったと記憶します。この人員は軍に於て俘虜管理委員を組織し、管理することゝなりました。私は其委員に任命せられました。俘虜は吉林の軍病院に収容せられました。憲兵を看護兵に偽装せしめ、監視と看護とを兼ねて勤務せしめました。軍特設軍法会議により俘虜を取調べ処刑しました。死刑処分に附せられた者は約30名と記憶致します。尚中隊長として戦場に於て俘虜となった大尉1名は、癩病に罹り居り、且つ戦場にあって尽くすべきを尽くさずして俘虜となった故を以て、本人に対し死刑を判決されましたが、管理委員に於て、本人に自決を勧告し、秘かに憲兵(看護兼務)をして拳銃を渡さしめ、遂に自殺せしめた由、後に委員、憲兵隊司令部西田中佐より之れを聞知しました。又俘虜の大部分は戦傷により人事不省に陥り、俘虜となったものが大部分になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました。因って判決処理が過当であったことは勿論、非人道的なる方法(例えば自決を強要するが如き)が秘密に行はれたることも想像に難くありません。(前記中隊長の事例もその一例であります。)私は管理委員として俘虜に対する非法取扱の責任を負う次第であります。


http://hide20.web.fc2.com/http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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