真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「田中上奏文」と「昭和六年秋末ニ於ケル情勢判断 同対策」

2021年10月28日 | 国際・政治

 「田中上奏文」は、1927年(昭和2年)に、当時の内閣総理大臣田中義一が、昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされるもので、”支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先づ支那を征服せざるべからず”という「世界征服」を意図するような内容の文書だということです。
 その「田中上奏文」は、服部龍二教授によると、1929年秋に「田中メモリアル」として、アメリカに流入し、その後、上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク(China Critic)』が発表したものが、大量に複製されて、「田中メモリアル」として世界中に流布していったといいます。その際、「田中上奏文=田中メモリアル 」が、日本では「偽書」とされているため、「田中メモリアル」 の真偽について質問も寄せられたといいます。でも、チャイナ・クリティクは、日本人が”自らの行為によってこの文書に署名した”というような言い逃れをしたようです。つまり、過去数年に及ぶ日本の侵略行為が、「田中メモリアル」が本物であることを示しているというわけです。
 南京で発行されていた月刊誌『時事月報』は、「田中上奏文」を、中国文で『田中義一上日皇之奏章』として発表したということですが、その序文に、第一に台湾掠奪、第二に韓国併合第三に満蒙掠奪、そして、現在、政治的・経済的侵略、人口的移植が、「田中上奏文」に従って行われつつあると、警鐘をならす文章を掲載したと言います。
 したがって、「田中上奏文」がたとえ「偽書」であっても、私は、日本の戦争をふり返る時には、一度は目を通すべき重要文書だと思います。でも、残念ながら日本語の「田中上奏文」が見つからず、読むことができません。
 でも、「現代史資料 7 満州事変」(みすず書房)の、下記「十七 昭和六年秋末ニ於ケル 情勢判断同対策」も、前回の資料同様、私には、「田中上奏文」の、一節のような気がするのです。なぜなら、”若シ夫レ南京政府ト学良カ失脚ヲ欲セス自暴自棄的態度トナリ武力行使ニ出ツルカ如キハ帝国ノ最モ希望スル処ニシテ之カ対抗ノ準備アル今日何等憂フルニ足ラス”などという文章があるからです。
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        十七 昭和六年秋末ニ於ケル 情勢判断同対策

 今回満州事変ニ際会スルヤ当初ニ於ケル関東軍ノ適切且ツ果敢ナル行動ニ依リ一挙奉天、吉林両省ノ大半ヲ収メ次イテ馬占山軍ノ撃壌ニ因リ黒竜江省ヲシテ帝国ノ威令ニ服セシムニ至リシモ日支両国ハ依然交戦状態ニ在ラス且此間他方ニ於テハ国際政局ノ推移ニ深甚ナル考慮ヲ払フノ要アリシヲ以テ一挙ニ満蒙問題ノ根本的解決ニ向ヒテ邁進スルコトヲ許サス外面的ニハ満州ニ独立新政権ヲ樹立スルヲ以テ目途トシ表面事態ノ拡大ヲ避ケツツ対外諸般ノ政策ヲ実施スルノ已ムヲ得サルニ至リ以テ今日ニ及ヘリ
 今ヤ帝国陸軍ハ北満ノ一角ニ於テ蘇国ノ権益ト触接シ錦州方面ニ於テハ直接張学良系ノ軍隊ト相対峙シテ全世界ノ視聴ヲ此処ニ集ム
其他北支ノ形勢ハ学良死活ノ運命ヲ目前ニ控ヘテ益々険悪ナラントシ中支地方亦連盟理事会ノ態度ト相待テ内外ニ重要ナル局面変化ヲ展開セントス 茲ニ於テ広ク大局ヲ顧ミ既定情勢判断ヲ補フテ現状ヲ達観シ之ニ応スル対策ヲ案スルハ蓋シ刻下ノ重要務タルヲ認メスンハアラス以下先ツ列国ノ対時局態度ヲ吟味シ次テ我本然ノ使命ニ照シ将来満蒙経営等ニ関スル準備ヲ述フルコト左ノ如シ

支  那 
 支那ノ対日態度ハ国際聯盟ノ形勢如何ニ存ス聯盟ニ対スル判断別項ノ如ク今遽(ニワ)カニ逆睹(ギャクト)スヘカラサルモノアルモ特異ノ情勢突発セサル限リ聯盟ノ形勢ハ必シモ支那ノ満足スル解決ヲ見ルニ至ラサルヘク此ノ場合現南京政府(学良ヲ含ム)ハ自暴自棄的態度ニ出ツルカ或ハ瓦解ノ因ヲ為スヘク然ラスンハ現政府、或ハ之レニ代ルヘキ政権トノ間ニ日支直接交渉ニ入リ此間何等カノ妥協条件ヲ提示シ局面ノ打開ヲ図ルヘシト判断セラル
 若シ夫レ南京政府ト学良カ失脚ヲ欲セス自暴自棄的態度トナリ武力行使ニ出ツルカ如キハ帝国ノ最モ希望スル処ニシテ之カ対抗ノ準備アル今日何等憂フルニ足ラス 然レトモ支那ノ情勢ハ寧ロ南京政府ノ混乱ト共二軍閥政客ノ利己的闘争、共産党ノ跳梁、硬軟両派ノ争ヒ等ニ因リ或ハ拳匪、長髪賊類似ノ排外的動乱ヲ招来スルノ顧慮多キモノト観察セラル而シテ後者ノ如キ事態ニ至ランカ列強ノ間ニハ支那ノ協同管理及至分割論ノ台頭ヲ見ルニ至ルノ虞アルヲ以テ帝国ハ予メ之カ対策ヲ決定シ置クコト緊要ナリ
 直接交渉ニ入ル場合詭弁ヲ弄シ巧言令色ニ長セル支那政客要人ハ最後迄強硬ヲ装ヒ此間裏面的ニ種種ノ策動ヲ行フノ常ナルヲ以テ帝国ハ飽ク迄満蒙新政権ヲ中央政府ヨリ分離シ満蒙諸懸案ノ解決ハ之ヲ地方問題ニ移ス一方中央政府ニ対シテハ単ニ排他的諸運動ノ根絶ヲ誓約セシメ且確定的保障ヲ掌握セサル限リ一歩モ之ヲ譲ラサルノ態度ニ出ツルヲ要ス但徒ラニ優越感ニ走リ爾他附帯的諸条件ヲ附加スルカ如キハ此際厳ニ慎マサル可カラス 
 若シ国際聯盟ノ形勢支那ニ有利ニ転向スル場合ニ在リテハ彼ハ依然排日排貨ヲ続行シ日本ニ撤兵迫リ根本ヨリ対支日本権益ヲ駆逐スルヲ策スルニ至ルヘシ此場合ハ即チ日支両国ノ対立状態ヲ醸スモノニシテ帝国ハ対支貿易ノ杜絶ニ因リ不利ヲ招クコト固ヨリナルモ支那側亦関税収入ノ減少ヲ来スノミナラス物資ノ不足ヲ伴ヒ物価ノ騰貴スルヲ免レス而モ帝国ハ仮令列強ノ圧迫ヲ受クルト雖モ満蒙ノ経営ニ依リ国家経済ヲ発展セシメ得ルニ反シ支那政府ハ何等得ル所ナキヲ以テ其受クル苦痛ハ帝国ノ夫レニ比スヘクモ非ス故ニ帝国ハ夙ニ持久ノ策ヲ講シ国民ノ結束ニ一層ノ努力ヲ払フト共ニ進ンテ謀略ヲ用ヒ事態ヲ日支戦争ニ進展セシムルノ覚悟ト準備トヲ必要トスヘシ。
 支那ニ関スル対策細綱ニ関シテハ別ニ之ヲ述フ
米   国
 帝国カ満蒙経略ノ歩ヲ進ムル場合最モ考慮ヲ要スルハ前情勢判断ニ於テ既ニ述ヘアル如ク米国ノ態度ナリ
 今回事変ニ対スル米国ノ態度ヲ見ルニ予想以上冷静ナルモノアリテ表面飽ク迄責任ノ地位ニ立ツコトナク終始聯盟ヲ表面ニ活動セシメ自己ハ発言ノ機会ト行動ノ自由ヲ保有シツツ而モ不戦条約又ハ九カ国条約ノ適用ニ関シテハ深甚ノ注意ヲ怠ラサル態度ニ在ルハ大ニ注目ヲ要スル点ナリ 
 抑々米国ヲシテ斯ノ如キ態度ニ出テシメタル原因ニ就テハ近時極東ニ対スル彼ノ認識向上セラレタルニ因ルヘキモ特ニ明年ハ総選挙ヲ控ヘ米国ト利害関係比較的薄キ満州事変ニ干与シ往年蘇支紛争ニ干渉シ失敗シタルカ如キ醜態ヲ再ヒ繰返ササル深キ用意ニ出テアルカ故ナリ其他仮令満蒙ヨリ日本ノ勢力ヲ駆逐スルモ之カ代償トシテ赤蘇ノ勢力ヲ誘致スルハ米国トシテ得失相償ハサルヲ了知シアルコト並ニ世界的不景気ノ影響意外ニ甚大ニシテ産業貿易ノ維持振興上平和ノ継続ハ彼ノ希望シアル所ナルコト亦之カ原因タリ、従ツテ帝国ニシテ能ク支那ノ実状ト其不信不法行為ヲ正解セシムルト共ニ帝国カ其人口問題ノ根本的解決ノ為メニハ満蒙既得権益ノ確保ハ民族ノ死活問題ニシテ之カ正当ナル解決ハ将来国際平和ニ貢献スル所最モ大ナル所以ヲ素直ニ闡明理解セシムル努力スルニ於テハ米国ハ帝国カ現在目途トシアル満蒙経営ニ対シ武力干渉ヲ試ミルカ如キコト万無カルヘシト判断ス
 然レトモ米国ノ主唱ニ依リ成立シタル不戦条約ニ於テハ自衛権ノ発動ニ基ク兵力ノ行使ハ固ヨリ妨ケサルモ国家政策ノ手段トシテ戦争ヲ抛棄スルコトヲ厳粛ニ宣言シ締約国ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ル外之処理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約シアルヲ以テ帝国ノ行動ニシテ苟クモ自衛権発動ノ節域ヲ超ユルニ於テハ米国亦彼ノ面目上黙過セサルヘキヲ予期シ置カサルヘカラス 
 又タ九カ国条約ハ支那ノ主権、独立並其領土的及行政的保全ヲ尊重シ支那カ自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル為最完全ニシテ且ツ最障碍ナキ機会ヲ之ニ供与スルト共ニ門戸開放、機会均等の主義ヲ確立セルモノナリ従ツテ満蒙新政権ノ樹立ハ表面支那自体ノ分裂作用ノ結果ナリト認メ得ルコトモ帝国カ既得権益ヲ更ニ拡充シ或ハ独占的態度ニ出ツルカ如キハ明ニ本条約ノ趣旨ニ抵触スルモノナルヲ以テ帝国ノ満蒙経営ニシテ実質的ニ伸展スルニ至ルヤ米国ノ態度ニ急変ヲ見ルヤ測ルヘカラサルモノアリ
 然レトモ幸ニ米国ノ武力ハ勿論彼ノ最モ採ルヘキ公算アリ且最モ我カ苦痛トスル経済封鎖ニ対シテモ帝国カ深ク之レヲ惧ルルノ要ナキハ前情勢判断ニ於テ之ヲ述ヘアルカ如シ米国ニ対シ殊更挑戦的態度ヲ示シ彼ヲ敵トスルコトハ大局上無益ノ行為ナルヲ以テ帝国ハ暫ク名ヲ捨テ実ヲ採ルノ方針ヲ持シ支那本部ノミナラス満蒙ニ於テモ我経営上ノ根本方針ヲ傷ハサル限リ門戸開放機会均等等ノ趣旨ヲ以テ臨ミ独立新政権ノ樹立、統合等ニ方リテモ努メテ自然的推移ヲ辿ラシメ以テ彼ニ口実ヲ与ヘサル如クシ将来好機ヲ待テ満蒙独立国家ヲ創設スル等漸進的態度ニ出ツルヲ満蒙経営上適当ナリト認ム

英   国
 今回聯盟の背後ニ在リテ之ヲ操縦シタルモノヲ英国トナシ在支列国使臣中反日的策謀ニ活躍シタルモノ亦英国官憲トナス然レトモ英国ヲ目シテ直ニ彼ノ極東ニ対スル認識不足トナスハ当ラス、英国ハ過去一世紀以上ニ亘リ支那ト密接ナル交渉ヲ育シ現ニ尚ホ牢固タル地歩ヲ中南支方面ニ占メ支那ニ対スル認識並ニ之カ対策ノ徹底ニ関シテハ寧ロ帝国ニ比シテ一日ノ長ナリト謂ハサル可カラス
 惟フニ英国本来ノ意志ハ近年帝国ノ東亜ニ於ケル急激ノ発展ニ依リ彼カ既存勢力ノ侵害セラレアルヲ憂ヒ偶々今回事変ニ際会スルヤ恩ヲ支那ニ売リ漁夫ノ利ヲ収メ彼カ地歩ノ安固ヲ翼ハントスルニ在リシニ外ナラス
 然レトモ英国ハ日本ト密接ナル協調ヲ遂クルニ依リ始メテ彼ノ東亜方面一体ニ於ケル既存勢力ノ安固ヲ得ルモノニシテ英国民亦漸ク之ヲ了知セルカ如ク今ヤ一般ノ輿与論ハ逐次我ニ同情ヲ表スルニ至レリ
一方帝国亦国策経営ノ重心ヲ満蒙ニ傾注スル以上満蒙問題ニ関シテハ断乎タル決意ヲ示スヲ要スルト共ニ其他ノ方面ニ於テハ努メテ排他的態度ヲ避ケ寧ロ英国ト提携シテ事ヲ進ムル態度ヲ示スヲ以手大局上有利トスヘシ

国際聯盟
 国際聯盟ハ理事会席上並帝国屡次ノ声明ニ於ケル公明且強硬ナル主張ニ依リ著シク満蒙ノ実質ニ対シ其認識ヲ高ムルニ至レリ英仏両国内ノ与論亦帝国ノ逐次立場ヲ正解シ従来理事会ノ態度カ現実ノ情勢ニ即セス徒ラニ高圧的態度ニ出テタルハ却ッテ平和的解決ニ資スル所以ニ非サルコトヲ唱道スルニ至レリ是ヲ以テ将来帝国ノ行動ニシテ著シク聯盟諸国ヲ刺激セサルニ於テハ形勢ハ逐次帝国ニ有利ニ展開スヘキモ而モ我根本的主張ヲ悉ク是認セシムルニ至ル迄ニハ尚相当ニ紆余曲折ヲ経モノト見サル可ラス
 一面聯盟ノ態度ハ終始米国ノ鼻息ヲ窺フノ風アルヲ以テ米国ノ輿論ニシテ今日ノ如ク経済断交ノ如キ制裁的行為二出ツルヲ適当トセサルニ傾キツツアルニ於テハ聯盟モ亦断乎タル決意ニ出ツルコトナキモノト判断ス 然レトモ将来米国ニシテ或ハ不戦条約又ハ九ケ国条約ノ条項ヲ援用シ其対日態度ヲ硬化サスルニ至ランカ聯盟モ亦之ニ追随シテ其態度ニ変調ヲ来スヘキハ予メ予期シ置カサル可カラス、若シ夫レ帝国トシテ其最悪ナル場合ヲ予想シ万一聯盟規約第十六条ニ拠ル経済断交ヲ適用セラルルトスルモ聯盟主要国間ニ於ケル利害必スシモ一致シアラサル現況ニ於テ彼等カ殆ント関心ヲ有セサル極東問題ニ関聯シ果シテ渾然一致ノ行動ニ出テ得ヘキヤ将タ又タ英仏協ノ力ヲ以テスルモ実質的ニ幾何ノ効果ヲ収メ得ルヤ多大ノ疑問ナキ能ハス而モ帝国トシテ牢固不抜ノ決意ヲ有シ内国民奮起節制シ外支那資源ノ利用宜シキヲ制シ得ルニ於テハ万一米国ニシテ亦聯盟側ニ立ツ場合ニ在リテモ経済断交ノ如キ敢テ惧ルルノ要ナキコト既ニ当部調査ノ結果ニ依ルモ明ラカニシテ或ハ之ニ依リ却ツテ帝国産業上転禍為福ノ契機ヲ招来スルヤモ図リ難シ
  今回満州事変ノ善後措置トシテ帝国カ直接支那ト交渉セント欲スルモノハ支那ヲシテ国交又ハ国民ノ感情乃至利益ヲ害フカ如キ排他的言動ノ根絶、既存条約ノ尊重ヲ実行セシメ且帝国カ必然的運命トシテ処理スルヲ要スル人口問題ノ解決ヲ満蒙ノ地ニ求メントスルニ在リ、又撤兵ノ先決条件トシテ求ムル所ハ治安ノ維持ニ存シ其公明妥当ナル何等他ノ干渉ヲ俟タサル所ノモノナリ 然ルニ若シ夫レ目前ノ小康ニ捉ハレ一歩タリトモ我主張ヲ聯盟ノ前ニ屈スル所アランカ啻ニ支那ヲシテ聯盟ニ対スル依頼心ト帝国ニ対スル侮慢心トヲ増長セシメ却ツテ時局収拾ヲ困難ナラシムルノミナラス帝国ハ自ラ正義ヲ冒涜シ国民ノ矜持ヲ傷クルモノニシテ畢ニ道義上復タ立ツコト能ハサル汚辱ヲ蒙ルニ至ルヘク須ク内外ニ対シ確乎不抜ノ覚悟ナカル可ラサルモノナリ

蘇   国
 蘇国ハ嚮ニ馬占山軍ニ対シ私カニ各種援助ヲ与ヘタリシカ如キ報道アリシモ彼ハ目下国力カ充実途上ニ在リテ其産業五年計画ノ効果顕ハルルニ至ル迄ニハ尚ホ相当ノ時日ヲ俟タサルヘカラス而シテ彼カ極東ニ於ケル諸施設及事変発生後ニ於ケル極東軍ノ動静並今回我軍斉々哈爾ニ進入セル際ニ於ケル彼ノ態度ニ徴スルモ帝国ニシテ進ンテ挑戦的態度ニ出テサル限リ彼ヨリ進ンテ日支紛争ノ渦中ニ投スルノ意志ハ之ナキモノト判断セラル而シテ帝国トシテ国際政局ノ趨向ニ鑑ミレハ対外政策上蘇国利用ノ余地ヲ存シ置クヲ有利トスヘク将タ又タ国策経営ノ重点ヲ満蒙問題解決ニ傾注スルニ際シテ事態ヲ満蒙以外ノ地ニ拡大スルハ目下ノ情勢ニ於テ適当ト認メ難キヲ以テ帝国カ北満ヲ経営スルニ方リテハ暫ク彼ノ権益ヲ尊重スルノ態度ニ出ツルヲ有利トス

国   内 
 国内ノ輿論ハ我軍ノ努力ニ因リ本春以後逐次好転ヲ示シツツアリシカ事変勃発ト共ニ頓ニ高潮シ国民的意気近来稀ニ見ルノ緊張ヲ示スト共ニ軍部ニ対スル信頼絶大ナルモノアルニ至レリ此ヲ以テ軍部ハ内益?部内ノ結束ヲ固ウシテ政府及国民ヲ鞭撻指導スルト共ニ外今後幾多ノ難関ニ遭遇スルモ苟クモ一喜一憂其所信ヲ変スルコトナク断乎トシテ当初ノ目的貫徹ニ努力スルヲ要ス
 然レトモ国民輿論ノ底流ニハ今尚軟論存在スルモノアルノミナラス政府亦必シモ軍部ノ意志ト合流シアルモノニ非ス左傾分子ノ潜行的策謀亦大ニ警視ヲ要スルモノアリ今ヤ事変勃発以来既ニ二ヶ月半ヲ閲シ向後事態ノ帰趨遽ニ逆睹スヘカラス況ンヤ事件ノ落着ヲ見ルハ果シテ何レノ時期ナリヤ何人モ予測シ難キ情況ニ在リ
  此間中南支方面ニ於テハ依然通商交易ノ杜絶ヲ見ルヘキモ他方満蒙ニ於テハ其経営着々進展スルニ伴ヒ帝国ノ権益著シク伸展ヲ見ルヘク我産業経済上ニ大変調ヲ来スニ至ルヘシ然ルニ現ニ中支方面ニ居留若クハ之レト利害ヲ有スル国民ノ一部ニ於テハ早クモ此ノ苦悩ニ堪ヘス軍部ヲ呪詛シ或ハ政府ニ頼リテ帝国ノ態度ノ軟化ヲ策スルカ如キ者絶無ト称ス可カラス此等ニ対シテハ先ツ救済ニ関シ所要ノ手段ヲ講スルト共ニ一方之カ監視ヲ怠ラサルヲ要ス然カモ苟クモ国民ノ一部就中重要ノ地位ヲ占ムル分子ニシテ依然自覚ナキ行動ニ出ツルニ於テハ軍部ハ国家永遠ノ為ニ図リ所要ノ場合自ラ主動ノ位置ニ立チテ国家甦生ノ一途ニ邁進スルノ覚悟ト準備トヲ必要トスヘシ
  以上内外ノ情勢ヲ綜合判断スルニ帝国ト利害最モ緊密ナル蘇国ハ目下国力充実ノ途上ニアリテ未タ其威力ヲ国外ニ用ヒ難ク米国亦国内的事情ニ依リ事態ノ拡大ヲ喜ハス英国ニ至リテハ単ニ既存勢力ノ維持ニ汲々トシテ殆ント他ヲ顧ルコト能ハサルノ状態ニ在リ加之国内ノ輿論亦異常ノ緊張ヲ示シツツアルヲ以テ現時ハ実ニ帝国カ満蒙ノ経営ニ歩ヲ進ムヘキ絶好ノ機会ナリト云フヘシ
 而シテ満蒙経営ノ根本ニ関シテハ前情勢判断ニ於テ述ヘアル如ク窮極ニ於テ領土的解決ヲ必要トスルモ曩ニ九ケ国条約ヲ締結シ最近再ヒ支那領土保全ノ尊重ヲ声明セル帝国トシテ此際一躍独立国家ノ建設ヲ指導スルカ如キハ其手段如何ニ巧妙ナリトスルモ帝国ノ正義ヲ傷ケ国際的立場ヲ不必要ニ不利ナラシムウルノ嫌アリ、又其ノ如キ急激ナル措置ハ満蒙各新政権ノ乖離ヲ招キ結局目的達成ニ急ナラント欲シテ却ツテ効ヲ収ムルコト難キニ至ルヲ保シ難シ故ニ現時ハ前情勢判断対策第二段階ノ目的トスル独立国家建設ノ前提トシテ暫ク独立新政権樹立ヲ目標トシ漸ヲ以テ事ヲ進ムルノ巳ムヲ得サル状勢ニアリト認ム
 然ルニ満蒙ノ現況ハ未タ帝国ノ期待ニ達セス前途幾多ノ難関ヲ打破シ局面ノ転換ヲ図ラサル限リ如上ノ目的ヲモ達成シ得サルノ実情ニ在リ故ニ帝国ハ今ヤ軍事行動ノ大部分ヲ了セリト雖更ニ残存勢力ノ掃蕩ニ努メテ一簣ノ功を欠カサルト共ニ愈々建設的行程ニ入リ以テ確固不抜ノ根底ヲ築クヲ要ス他面平津就中長江南支方面ハ事変勃発以来之カ予波ヲ受ケ従来嘗ツテ見サル徹底的排日排貨ヲ蒙リ其影響深刻ニシテ且其根底相当深キモノアルヲ以テ仮令同方面テ於将来政権ノ移動更迭ヲ見ルモ相当長期間ニ亘ルモノト判断セラル固ヨリ帝国ハ之レカ対策ニ努メサルヘカラサルモ而モ国家百年ノ大計ニ鑑ミ該方面ノ苦痛ハ暫ク之ヲ忍ヒ国策経営ノ重点ヲ満蒙問題ノ解決ニ傾注スルコト絶対必要ナリトス

        支那ニ関スル対策細綱
 状勢判断ニ基ク対策ノ主要ナルモノハ速ニ満蒙新政権ヲ確立スルニ存スルコト勿論ナルモ之レト同時ニ支那本部ニ対シテハ張學良及現国民党政権ヲ覆滅シ且之ニ依テ支那ヲ一時混乱ニ導キ世界ノ視聴ヲ満蒙ヨリ遠サケ且為シ得レハ支那ニ数個ノ政権ヲ樹立セシメ南方ヨリ北方ニ至ルニ従ヒ日本色ヲ濃厚トナシ満蒙ニ至リテハ終ニ殆ント帝国色タラシムル如クスルヲ以テ我根本方策トナス
          一、満蒙新政権確立ニ関スル措置
 満蒙ハ之ヲ支那領土ノ一部ト見做スモ中央政府ノ統制ニ服セサル事実上ノ政府ノ勢力範囲タラシム之カ為左ノ対策ヲ採ルヲ要ス
一、各省政権ノ迅速ナル確立安定ヲ幇助ス之カ為ニ一段積極的ニ之カ援助ニ努ム
 成立セル各省政権ハ逐次聯省統合シテ其安固ヲ増進セシメ機ヲ見テ新統一政権ノ樹立ヲ宣言セシム二、満蒙ニ於テ帝国ノ保有スル権益ノ回収及拡充ハ新統一政権ヲ対象トシテ之ヲ行フヲ本旨トス然レ トモ該政権樹立前ニ於テモ各省政権ヲ対象トシテ着々実行ヲ収ムルヲ要ス
三、新政権諸般ノ経営ハ在満蒙諸民族ノ共存共栄ヲ図ルヲ主眼トス
四、満蒙各政権ノ兵備ヲ左ノ主旨ニ依リ建設セシム
 (イ) 各省政権ノ成立ニ伴ヒ当該省内ノ治安維持ハ各其省防軍及保甲団ヲ以テ担任セシム
    但シ商埠地其他必要ノ地点ニハ我憲兵又ハ之ニ準スル者ヲ配置シ居留邦人特ニ朝鮮人ノ保護     ニ任セシム 
  (ロ)  満蒙統一政権ノ保有スル軍隊ハ政権保持ニ必要ナル兵力ニ留メシメ其基幹トシテ帝国在郷軍    人ヲ採用セシム
 (ハ) 各政権ノ軍隊錬成ノ為顧問、教官ヲ招聘セシム
五、外敵ニ対シテハ新政権ト共同負責シ又満州ニ於ケル交通通信ハ関東軍ノ統制下ニ在リテ主トシテ 満鉄ヲシテ之ヲ管理セム
帝国ハ之カ為ニ約三師団ノ陸軍兵力ヲ常駐セシムルヲ要シ常時満鉄、吉長、吉敦、吉會、洮昻及四洮各鉄道ノ警備ニ任セシム
 但満鉄ヲ除ク右諸鉄道ハ要スレハ支那護路軍(帝国陸軍在郷軍人ヲ基幹トス)ヲ以テ警備ヲ補助セシム 
満州ニ現存スル支那軍隊及馬賊ニシテ優良ナルモノハ改編シテ之ヲ国(省)防軍、保甲団及護路トナスモ爾余ノモノハ之ヲ各省ノ産業方面ニ充用シ又ハ掃蕩乃至懐柔ヲ企図ス
七、 満蒙統一政権ニ最高顧問ヲ又各省政権ニハ該顧問ノ統制ニ依ル顧問ヲ置ク又各政権ノ役人ニハ  其要所ニ本邦人ヲ配ス
八、満蒙中央銀行ヲ設置セシムル為帝国ハ所要ノ援助ヲ与フ
九、現在満鉄沿線以外ノ地域ニ占拠セル帝国軍ノ撤退ハ各省政権確立シ前述四ノ(イ)項ノ実現ヲ見ル ニ非ザレバ之ヲ行ハス
十、帝国ハ満蒙ニ於ケル我殖民及企業ノ発達ヲ図ル為速ニ計画及援助ノ機関ヲ構成スルト共ニ関税ニ 関スル内満関係ヲ規整ス
附    言
 満蒙ニ於ケル帝国ノ行政施設上ノ組織ニ対シテハ相当ノ革新ヲ企図ス

二 北満ニ対スル対策
 元来南満ハ鉱物資源ニ富メルモ農業的発展ニ至リテハ大ナル期待ヲ之ニ繋クヲ許サス帝国カ其人口問題(就中鮮人問題)及食糧問題ヲ解決セント欲セハ勢ヒ北満ニ帝国ノ政治的勢力ヲ扶植殖シテ北満ノ開発ニ当ルト共ニ吉會鉄道並東支鉄道横過諸鉄道ヲ完成シテ之等資源ノ吸収ニ力メ仍テ以テ北満物資ノ東支線ニ依ル東流ヲ妨ケ蘇国極東政策ノ一端ヲ瓦解セシムルヲ必要トス
 之カ為速ニ學良系ノ残存勢力ヲ根絶スルト共ニ親日政権ノ地歩ヲ確実ニシ以テ帝国勢力扶殖ノ基礎ヲ築クト同時ニ撤兵ノ機会ヲ作為スルヲ必要トシ左ノ対策ヲ採ル
一、黒龍江新政権樹立ノ方式ハ前掲満蒙新政権確立ニ関スル措置ニ準シテ之ヲ行フ
ニ、黒龍江省ヲ扼シ學良系軍ノ再生ニ備ヘンカ為ニハ斉々哈爾ヨリハ絶対的ニ過早ナル撤兵ヲ行フヲ得ス
 但在郷軍人ヲ以テ治安維持隊ノ編成ニ着手シ其完成ヲ速ナラシム
三、蘇国ニ対シテハ厳ニ其行動ヲ監視シ彼レノ越境出兵ヲ見サル限リ暫ラク日蘇関係ノ激化ヲ避ク
四、哈爾浜ハ兵力ヲ以テ之ヲ占拠スルノ要ナシ
五、學良系敗残部隊ニ対シテハ主トシテ省防軍ヲ使用シ要スレハ帝国軍ノ一部兵力ヲ以テ之ヲ援助シテ之カ撃滅ヲ図ルモ窮極ニ於テハ之カ懐柔ヲ必要トス
六、東支鉄道ニ関スル権益ハ将来樹立セラルヘキ満蒙政権ヲシテ之ヲ継承セシムルト共ニ逐次蘇国権益ノ減退ヲ策ス
三 錦州政権ニ対スル政策
 満州事変ノ解決ハ張學良政権少クモ錦州附近ノ彼レノ勢力ヲ覆滅スルニアラサル限リ其目的達成ヲ迅速ニ期待スルヲ得ス
 之カ為メ左ノ対策ヲ講ス
一、錦州政権乃至張學良ト脈絡相通スル兵匪馬賊カ満蒙ノ鉄道沿線ニ治安攪乱ノ事実ヲ内外ニ公表宣伝ス
二、事端ヲ避クル為張學良ノ山海関以西撤退ヲ南京、學良及及錦州政権ニ要求シ肯カスンハ事態悪化ノ責ヲ支那側ニ負ハシム
三、錦州附近支那軍ノ買収其他ノ謀略ヲ行フト共ニ新民西南方遼河河盂ニ軍ヲ集中シ軍艦ヲ山海関方面ニ廻航シ朝鮮旅団ノ帰鮮ヲ見合ス等ノ処置ヲ為シ以テ支那ヲ威圧ス
四、右ノ如キ各種ノ手段其攻ヲ奏セス敵ノ脅威益々加ハルニ於テハ軍ハ大凌河附近ニ於テ張軍ト相対峙シ爾後好機ヲ捉ヘテ敵ヲ迎撃ス
 右ノ場合ニ於ケル満蒙及北支那ノ事態急変ニ応スル為時機ヲ失セス臨時編制(応急動員)ノ一師団ヲ満州ニ、混成一旅団を支那駐屯軍ニ増派ス但其時機ニ就テハ別ニ審議決定ス
四 支那本土ニ対スル対策
   其ニ、 対中支那方策
 南京政府ニ対シ再ヒ排日排日貨ノ根絶ヲ要求シ之カ実行ヲ見サルニ於テハ帝国ハ有効適切ナル手段ヲ執ル然レ共此間該方面ニ於ケル我居留民ハ著シク困難ニ陥ルヘキヲ以テ政府ハ之カ救済ノ途ヲ講スルヲ要ス

 

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「田中上奏文」と「満州問題解決方策の大綱」等資料

2021年10月27日 | 国際・政治

  リットン報告書をめぐる国際連盟理事会において、日本の首席代表、元外交官の松岡洋右衆議院議員と激論を戦わた中国代表、顧維鈞が取り上げたのが「田中上奏文」でした。

 その「田中上奏文」には、

 ”支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先づ支那を征服せざるべからず。……之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦我が日本帝国の存立上必要事たるなり

 というような一節があることから、日本の中国侵略を裏づけるものとして取り上げたのだと思います。

 「田中上奏文」を偽書と確信していた松岡は、「そのような文書が、天皇に上奏されたことはない。」と反論するのですが、顧維鈞は、「この問題についての最善の証明は、今日の満州における全局である。仮にこれが偽書であるとしても、日本人によって偽造されたものである。その点について松岡氏も、近著『動く満蒙』のなかで同意されている」などと言い返し、皆が納得できる決着はつかなかったようです。

 そうした議論を踏まえて「現代史資料 7 満州事変」(みすず書房)の、下記のような資料を読むと、私は、「田中上奏文」を読んでいるような気がするのです。”好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス”等というような記述や、同じような考え方の記述があるからです。

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      十四 昭和六年四月策定の参謀本部情勢判断(「満洲事変ニ於ケル軍ノ統帥」より抜萃)

 

(昭和六年九月)十九日深更軍幕僚ノ一部、板垣、石原両参謀、花谷少佐、片倉大尉ハ十八日午後九時頃奉天ニ到着シ事変勃発以来軍ノ行動ヲ静観シアリシ参謀本部第一部長少将・建川美次ト密ニ会シ激論数刻ニ及ビ意見ヲ交換セリ 建川少将ハ当初事件ノ渦中ニ投し且世ノ疑惑ヲ蒙ルヲ恐レ料亭菊水ノ一室ニ引籠リ一切外部トノ交渉ヲ絶チアリタリ

席上建川少将ハ此年四月策定セル参謀本部情勢判断満蒙問題解決第一段階(条約又ハ契約ニ基キ正当ニ取得シタル我カ権益カ支那側ノ背信不法行為ニ因リ阻害セラレアル現状ヲ打開シ我カ権益ノ実際的効果ヲ確保シ更ニ之ヲ拡充スルコトニ勉ム)実施ノ時期ナル旨(元ヨリ政権ハ學良政権ニ代ルニ親日新政権ヲ以テスルモ支那中央政府ノ主権下ニ置ク)ヲ提言セリ板垣、石原両参謀ハ交ゝ之ヲ駁シ今日満蒙問題ヲ解決セスシテ好機何時カ来ルヘキヲ述ヘ特ニ石原参謀ハ一挙第三段階ノ満蒙占領案ニ向ヒ断乎トシテ進ムヘキヲ提唱シ建川少将亦漸次之ヲ諒トスルニ至レリカ如ク少将自体トシテノ主張ヲ曲ケサルト共ニ一方軍ノ積極的行動ニ敢テ拘束ヲ加ヘサルコトヲ言明シ尚軍事行動ハ吉林、長春、洮昻沿線(成ルヘク洮南迄)ニ留ムルヲ有利トスヘキヲ附言セリ

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      十五 情勢判断ニ関スル意見(関東軍参謀部昭和六年七・八月ごろ)

      判   決

(1) 極東露領ノ価値如何

(2) 北支那亦可ナラスヤ

(3) 第三国カ我国策遂行ニ妨害セハ武力抗争ハ辞セザルノ断乎タル決心ヲ以テ臨ムヲ要ス之ノ決心ト成算ナクンハ対支政策ノ遂行ハ不可能

(4) 直ニ着手スルヲ要ス

       説   明

(1) 東部西比利亜ハ領土トシテノ価値少ナシ森林、水産、鉱山、毛皮等ノ利権ニテ足ラン

(2) 一挙解決何故ニ不利ナリヤ、満蒙ノ解決ハ第三国トノ開戦ヲ誘起スヘク戦勝テハ世界思潮ハ問題ニアラサルヘシ

(3) 好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要ス

       第二 満蒙ノ情勢ト之カ積極的解決ノ必要

(1) 従来ノ隠忍自重ハ帝国ノ武力不充分ナリシニ非ストシテ而モ米国ニ考慮ヲ払ヒシハ矛盾ニ非スヤ

       第三 米国ノ情勢

(1) 満蒙問題解決国策遂行ハ急速ヲ要ス急速解決ハ勢ヒ露骨ナラサルヲ得ス往時露骨ヲ避ケ漸次主義ヲ採用シ来リテ何等得ルトコロ無カリシニア   ラスヤ是クノ如クンハ只往時ノ状態ヲ繰返スヘキノミ米国ノ武力及経済的圧迫恐ルルノ必要ナシトセハ何故断然タル決心ヲトラサルヤ

      第四 蘇国ノ情勢

(1) 蘇ハ我国厄ニ乗シ只ニ満蒙赤化ノミナラス帝国内部ノ破壊ノ企図ニ出ツルコトアルヘキヲ保シ難シ

(2) 東部西比利亜問題ノ根本解決ニ関シテハ極東露領ノ価値ニ就キ充分ナル吟味ヲ要ス

      第六 国際諸条約ノ関係

(1) 九国条約ニ関スル門戸開放機会均等等主義ヲ尊重スルトシテモ満蒙ニ於ケル既得権益ノ実効ヲ収ムル手段ヲ理由トセハ兵力ノ使用何等問題ナ カルヘシ

(2) 九国条約ヲ尊重セサル場合世界各国ノ感情ヲ害スルコトアルモ之カ為帝国ニ対シテ積極的ニ刃向ヒ来ルモノ幾可

(3) 満蒙問題ノ解決ハ米蘇ト開戦ヲ覚悟セサレハ実行シ得ス米蘇ト開戦ヲ覚悟シツツ而モ何ソ之ニ気兼スルノ要アラン満蒙ヲ占領セハ直ニ之ヲ領土化スルヲ有利トス近来ノ列国ハ名ヨリ寧ロ実利ニ依リテ動ク実利ヲ得ントシテ名ヲ作ルナリ

       結   言

(1) 未曾有ノ経済艱難不良外来思想ノ浸潤ハ単ニ一般世界現象ナリト云フヲ得ス之ノ間米蘇ノ思想及経済的侵略ニ禍セラレルコト大ナリ従テ之カ防圧ノ手段トシテ両国ノ勢力ヲ打破スルノ必要アリ

 但シ経済的社会的必然ノ推移トシテ社会改造ノ必要アリ而シテ如何ニ帝国カ経済及社会組織ヲ改メテ帝国発展ノ基礎ヲ固ムヘキヤハ外方ニ対スル国策遂行ト同時ニ研究スヘキ重大ナ問題ナリ之ニ関シテ予メ充分ノ成案アルヲ要ス

(4) 速戦即決ハ作戦ノ範囲ノミ

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            十六 満州問題解決方策の大綱

 

一、満洲に於ける張學良政権の排日方針の緩和については、外務当局と緊密に連絡の上、その実現につとめ、関東軍の行動を慎重ならしめることについては、陸軍中央部として遺憾なきよう指導に努める。

一、右の努力にもかかわらず排日行動の発展を見ることになれば、遂に軍事行動の已むなきに到ることがあるだらう。

一、満洲問題の解決には、内外の理解を得ることが絶対に必要である。陸軍大臣は閣議を通じ、現地の情況を各大臣に知悉せしめることに努力する。

一、全国民特に操觚界(ソウコカイ:文筆に従事する人々の社会)に満洲の実情を承知せしめる主業務は、主として軍務局の任とし、情報部は之に協力する。

一、陸軍省軍務局と参謀本部情報部とは、緊密に外務省関係局課と連絡の上、関係列国に満洲で行はれてゐる排日行動の実際を承知させ、万一にもわが軍事行動を必要とする事態にはいつたときは列国をして日本の決意を諒とし、不当な反対圧迫の挙に出でしめないやう事前に周到な工作案を立て、予め上司の決裁を得てをき、その実行を順調ならしめる。

一、軍事行動の場合、如何なる兵力を必要とするかは、関東軍と協議の上作戦部に於て計画し上長の決裁を求める。

一、内外の理解を求むるための施策は、約一ヶ年即ち来年春迄を期間とし、之が実施の周到を期する。

一、関東軍首脳部に、中央の方針意図を熟知させて、来る一年間は隠忍自重の上、排日行動から生ずる紛争にまきこまれることを避け、万一に紛争が生じたときは、局部的に処置することに留め、範囲を拡大せしめないことに努めさせる。

1931.6.19、陸軍省、永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部、山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる五課長会議にて)

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ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」の記述と歴史の修正

2021年10月23日 | 国際・政治

『新しい歴史教科書「つくる会」の主張』(徳間書店)のまえがきで、電気通信大学名誉教授・西尾幹二氏は”歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。私たちの教科書はまえがきで「歴史を裁判の場にすることはやめよう」と書いた。
と、戦後日本の歴史教科書に対する不満を表明しています。私は、こうした考え方が、日本の歴史修正の背景にあり、「日本を取り戻す」ということなのだろうと思います。
 歴史を学ぶのは、ただ過去の事実を知るだけでなく、時とともに変化する人間社会について、その変化の因果関係や必然性を知ろうとすることではないかと思います。戦前の日本は、第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言に基き、連合国軍最高司令部によって大きく変えられました。でも、大部分の日本国民は、連合国軍最高司令部の指示・指導を受け入れ、現在も日本国憲法の下、その変化に適応して暮らしていると思います。
 だから、現在の大部分の日本人の考え方で、日本の歴史をふり返ることが、西尾教授のような人たちには「歴史を裁判の場」にして、裁いているように受け止められるのではないかと思います。そして、それは日本の戦争を正当化したい人たち共通のものではないかと私は思います。
 日本国憲法を「占領軍によって強制された押し付け憲法」だから、変えなければならないという人たちがいます。確かに、日本国憲法の制定過程には、問題があったかも知れません。しかしながら、天皇のいわゆる「聖断」がなければ、滅亡に向って戦争を続けたであろう日本が、敗戦後に自らの力で、国民主権基本的人権の尊重、また平和主義の考え方を獲得できたとは思えません。また、国民主権や基本的人権の尊重、平和主義の考え方が間違っているとも思えません。
 戦前と戦後の日本の変化が、たとえ連合国軍最高司令部のもたらした結果であっても、それによってはじめて、日本が国際社会と民主主義の価値観を共有することが可能になったことを見逃してはならないと思います。


 「敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本人」ジョン・ダワー(岩波書店)の下記抜粋文には、マッカーサー元帥が帰国するとき、”経団連は公式声明を発表して、元帥に感謝の意を表明した。衆参両院の議長も同様に、元帥の「公正と同情にあふれた理解と聡明なる指導」を称賛し、とりわけ国会を国権の最高機関としたことに感謝した。”などとあります。こうした記述は、決してでっち上げではないと思います。「第四章 敗北の文化」や「エピローグ」に記述されている下記のような文章は、戦時中、「鬼畜米英」を強いられていた敗戦後の日本国民の様子を、正確にとらえているのではないかと思います。日本国憲法が「押し付け憲法」だから、変えなければならないなどと主張し、「日本を取り戻す」などという人たちは、戦争指導層の考え方を受け継ぎ、「鬼畜米英」で戦った日本の戦争を正当化するとともに、「皇国日本」を取り戻そうとしているのではないかと思います。 
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                   第四章 敗北の文化

 大多数の日本人が、想像力あふれた、多様なやりかたで疲労と絶望を乗り越え、人生をたてなおしていった姿は、人間の不屈の力の証である。人生のたてなおしに何年もかかった者もいた。「虚脱」による意気消沈を数日でふり切った者もいたし、「虚脱」とはまったく無縁の者もいた。そうした人々は、天皇の雑音まじりの放送を聴いた瞬間から、解放感と将来への希望を感じとり、思いきって散財してご馳走を食べ、赤飯などのお祝いの食事を広げた。窓に張った灯火管制の黒紙をいそいそとはがして、生活に光をとりもどした。何百万という人々が、国家から指図をうけずに自分自身の人生をつくりだすとは、いったいどういうことなのだろうと考えはじめた。
 ある評論家は、何年か後にこの頃を振り返って、社会に新しい「空間」が突然あらわれたようだったと表現している。人々の行動が変わり、思考が変わり、かつて経験したことのない──そして、ひょっとすると二度と経験することのない──状況が出現した。それは流動的で、自由で、開放的で、新たな権威のありかた、新たな行動の規範がまだ形成の途上にある稀有の瞬間であった。人々は、自分の人生をもう一度つくりなおす必要を痛切に感じていた。
 投げやりな利己的行動がどこでも目についたが、新しい可能性があらゆるところに出現したことも事実であった。軍国主義者の下では不可能だったことを実行し、発言し、考えてみる機会がやってきたのである。もちろん、占領もまた、軍部による独裁政治である。しかし初期の占領軍は、かつての支配層の威圧的な支配手段を破壊した。それは、民衆がそれまで思いがけなかったような感情表現と独創性の花を咲かせるのに十分な自由をもたらした。こうして「日本」という言葉じたいが、民衆の間では個人の自主性をより広く認める意味へと変化していった。八月十五日以前には、およそ考えられる限りの空虚な言葉をもちだして、「日本」とは何かを国家が規定していた。いわく「国体の本義」とは何か、正しい「臣民の道」とは何か、階級と性別にもとづく上下関係の中で、みずからの「本分」を守ることがいかに重要であるか、「堕落」し「「腐敗」した外国の思想や芸術のうち、どれを発禁とすべきか、事実上あらゆる状況において、何を言ってもよく、何を言ってはいけないか──。
 こうして、日本が狂ったようにみずからの「一億一心」ぶりを宣伝していたとき、日本の敵国たちはこの宣伝をおおむね額面どおりに受け取った。戦争中、アメリカなどはこの人種差別的な日本のうぬぼれをそのまま利用して、日本人はロボットのようで、残忍になるよう洗脳された人間たちだという、人種差別的な固定観念を助長しようとした。ところが多くの人々を驚かせたことに、こうして何年もかかって教え込まれた超国家主義的な観念のことごとくが、敗戦とともに急速に脱ぎ捨てられてしまった。国を愛する気持ちは残ったが、理性を失った狂信や、感覚を麻痺させるような統制は、喜んで放棄されてしまった。言葉だけでなく行動によって、人々はどこでも権威主義国家の崩壊に安堵し、おそろしく多様になった娯楽や、いろいろな人々のふるまいを受け容れるか、少なくとも我慢して見守るようになった。
ーーーーーーー
                     エピローグ
・・・
1951年四月十一日、ある発表が、雷鳴のように日本中を驚かせた。トルーマン大統領が、不服従を理由にダグラス・マッカーサーを国連軍司令官から解任したのである。中華人民共和国に対する軍事戦略に関して、大統領よりも強硬な策を公然と唱えたため、マッカーサー元帥は占領下の日本を含むすべての指揮権を剥奪された。中華人民共和国は、その前年の十二月、アメリカの敵として朝鮮戦争に参加していた。トルーマン大統領は短いラジオ演説を行ない、自分は第三次世界大戦を回避するためにマッカーサーを解任したのだと述べた。たしかに、最高司令官が解任されたことは、文民が軍人を指揮するという原則の素晴らしい実例ではあったが、日本ではマッカーサーが受けた屈辱を、可哀相で意外な出来事としてとらえた者が多かった。トルーマン大統領の発表の翌日、リベラル派の『朝日新聞』は、「マッカーサー元帥を惜しむ」と題する社説を載せたが、これは多くの人々の心の琴線に触れた。
 
 われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。……日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。

 マッカーサーは四月十六日、日本を離れ合衆国に向ったが、その様子はあたかも英雄の旅立ちであった。吉田首相はマッカーサーを訪問して元帥の偉大な貢献に感謝し、解任は「言葉にならないほどの驚きと悲しみ」ですと、個人的な書面を元帥に送った。天皇も、マッカーサーが公式の地位を失った以上、マッカーサーのほうから挨拶にくるべきですと主張する宮内庁の高官の助言を振り切って、みずから元帥の住居を訪ね、最後の心のこもったあいさつをした。天皇とマッカーサーが会ったのは、これで十一回であったが、最後のとき初めて、マッカーサーは天皇をリムジンまで見送った。復活した大資本の声として、強力な組織となっていた経団連は公式声明を発表して、元帥に感謝の意を表明した。衆参両院の議長も同様に、元帥の「公正と同情にあふれた理解と聡明なる指導」を称賛し、とりわけ国会を国権の最高機関としたことに感謝した。東京都議会は「六百三十万都民」の名において感謝の意を表し、マッカーサー元帥を名誉都民とする条例が施行されるであろうと報道された。「マッカーサーの碑」が建立されるとか、東京湾あたりに銅像が建てられるだろうという話もでた。

 NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディーが流れる中、アナウンサーは悲痛な声で「さようなら、マッカーサー元帥」と繰り返した。学校は休みになり、マッカーサーによれば200万人が沿道で別れを惜しみ、なかには目に涙をためた人もいた。警視庁の見積もりによると、沿道で見送ったのは約二十万人であったが、マッカーサーはものごとをほぼ十倍に誇張する傾向があったから、なかなか数字の辻褄はあっているように思われる。とにかく、相当な人数であった。吉田首相と閣僚たちは羽田空港でマッカーサーを見送った。天皇の代理として侍従長が、衆参両院からも代表が、羽田で見送った。「白い雲を背景に」マッカーサーの専用機バターン号が飛び立つ背景に、『毎日新聞』は異常なほど興奮して次のように号泣した。「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八か月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」。

 合衆国に帰国すると、マッカーサーは、アメリカらしく共和党の政治家が音頭をとって、英雄として尊敬を集めたし、彼の帰国後の様子は日本人の強い関心を引いた。四月十九日、上下両院の議員を前に、マッカーサーは演説をした。このときマッカーサーは、自分がウエスト・ポイントの幹部候補生だったとき兵舎で流行した歌から、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という有名な一節を引用して、演説を締めくくったのであった。これには、日本でもアメリカでも感傷的な人々は同じように感動をおぼえた。しかし、もうひとつの五月五日の上院合同委員会でのマッカーサーの発言には、人々はそれほど感動しなかった。というより、日本とアメリカとでは違う感想をもったのであった。それは体力を消耗する三日間つづいた証言の、まさに最後のころであった。マッカーサーは、日本人の資質の素晴らしさや日本人が遂行した「偉大なる社会革命」についてだけでなく、第二次世界大戦での日本人兵士の最高の戦闘精神についても、高く称賛した。マッカーサーがこういう発言をした意図は、日本人はドイツ人よりも信用できると主張することにあった。日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護していくだろうか。日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーはこう答えた。

 そうですね、ドイツの問題は、完全かつ全面的に日本の問題とは違っています。ドイツ人は成熟した人種 a mature race でした。
 もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか宗教とか文化において、まあ四十五歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々ですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれは四十五歳で、成熟した年齢であるのに比べると、十二歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。
 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。おそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。
 ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人は近代的な道徳を放棄したり、国際間の規範を破ったりした時、それは彼らが意図的にやったことでした。ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、ふらふらと、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずから軍事力を考慮し、それを用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮のうえでの政策として、それを実行したのです。
 ところが日本人は全然違っていました。似たところはまったくありません。大きな間違いのひとつは、日本で非常にうまくいった政策をドイツにも「あてはめようとしたことでした。ドイツでは、同じ政策でもそうは成功しませんでした。同じ政策でも 違う水準で機能していたのです。

 三日間にわたるこのマッカーサー聴聞会の議事録は、全部で17万4千語にのぼり、合衆国では、右の部分はほとんどなんの注目も集めなかった。ところが日本では、ここにあるike a boy of twelve という、たった五つの単語が、執拗なほど注目をあびた。それは日本人の顔を平手打ちにした言葉のように受けとめられ、これを契機にマッカーサーを包んでいた神秘的なイメージが失われはじめた。マッカーサーの伝記作者である袖井林二郎教授は、マッカーサーのこのあからさまな言葉によって、いかに自分たち日本人が甘い考えでこの征服者にすり寄っていたかに気づいたと述べている。突然、多くの日本人がなんとも説明しがたい気分で自らを恥じた。ちょうど戦中の残虐行為が記憶から排除されていったのと同じように、この瞬間から、かつての最高司令官は人々の記憶から排除されはじめたのである。もはや、マッカーサーの銅像は建たないことになった。「名誉都民」の話は、その後けっして具体化しなかった。日本の大会社が数社、合同で広告を出し、「われわれは十二歳ではない!! 日本の製品は世界でも尊敬されている」と見出しをつけた例さえある。もちろん、これは事実というよりも日本人の願望に近かった。ただ、これらの企業家たちがマッカーサーの言葉からただちに感じとったのは、日本経済の未熟さを他国がかばったりけなしたりする言葉と、マッカーサーが日本の発達の後進性について語った言葉とは、完全に主旨が合致しているということなのであった。 

 

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フェザーストン事件と国家神道(神話的国体観・皇国史観)

2021年10月11日 | 国際・政治

 カウラ捕虜収容所の脱走事件に参加し、戦後、豪州カウラ会の会長を務めた森木勝氏が、脱走に至った心情について、”捕虜となった瞬間から、考えることは自殺の方法ばかりでした。私たちをあのように恐ろしい向こう見ずな行動に駆り立てたものは、救いようのない絶望感だったのです。”と語っていました(前回抜粋)が、ニュージーランドのフェザーストン捕虜収容所で起こった、日本人捕虜反乱事件も、背景には同じような、捕虜になってしまった「絶望感」があったのだと思います。

 その「絶望感」と関連して私が思い出すのは、「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」仲宗根政善(角川文庫)で取り上げられている、女子学徒隊の人たちの手記の記述です。

 「上原当美子の手記」には、次のような記述がありました。
先生が、女子学生は即時解散せよとの軍令を伝えられた。
「長いことみなさんご苦労であった。米軍は間近にせまっている。今ここで解散しなければいけない状態になった。しかし国頭方面ではまだ相当の将兵が交戦している。できるだけみんな無事で国頭まで突破してくれ。運がよければふたたびあう日もあろう」
 最後の別れをおっしゃった。兵隊は生徒を残してほとんど壕を去ってしまった。サイパンの玉砕、ふたたびまた郷土沖縄の敗戦。
「皇国の女性だ、死ぬならいさぎよく死にたい。亡くなった学友に対して恥かしくないように……」
 みんなは心の中で強く誓った。

 また、「垣花秀子の手記」には、
 ”米兵の異様な声音と口調。
「大和撫子が捕虜に? とんでもない。死のう”」
 私たちはとっさに死を決心した。いつの間にか十二名が車座になり、三個の手榴弾が適当に配られた。・・・
 数十メートルいったところであった。私たちと同年輩ぐらいの女の方が、崖から飛びこんだ。やはり死にきれず、大ケガをしただけで、おまけに米兵に救いあげられてしまった。
 神国日本に生まれ、捕虜になる! こんなことがあってたまるものか。死に倍する恥辱だ

 また、「比嘉園子の手記」には、 
刻一刻おし寄せてくる逼迫感に、私たちはふたたび自決について話しあった。
「師範の生徒は、絶対に捕虜になってはいけない。自決だ」
 私たちは結局どうにもならない最期のときには、いさぎよくりっぱに死ぬことを約束して時期を待つことにした。

 また、「喜舎場敏子の手記」には、
捕虜になどなるもか。それより死んだほうがよい。学校の不名誉だ。古見さんと二人は手を握りあって震えていた。

 また、「座波千代子の手記」には
婦長は、三十余名の看護婦を集めてはかった。
「皆そろってここで玉砕すべきか、それとも解散したほうがいいでしょうか」
 あまりにも重大な決断をせまられて、しばらく答える者もなく沈黙が続いた。


 戦時中の日本では、高等女学校や師範学校の女生徒でさえ、捕虜になることを”死に倍する恥辱”などと考えていたのです。だから、皇軍兵士にとっては、尚更、恵まれた待遇のフェザーストン捕虜収容所の生活も、日々針のむしろに座らされている心地であったのだろうと思います。
 捕虜になることをこの上ない恥辱と考え、その恥辱から逃れるために、死のうとするこうした日本人の心情は、神話をもとに創作された歴史と一体の国家神道(神話的国体観・皇国史観)が源であることは、下記のような文書で明らかだ、と私は思います。 

 明治天皇が軍隊に下賜した勅諭、すなわち「陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭」に、
一 軍”人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき 况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ
 とあります。“己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕し”と教えているのです。


 陸軍大臣・東條英機が発した「戦陣訓」の「」には、                                               
夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。”
 とあり、本文のなかには、
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
 とあるのです。こうした国家神道(神話的国体観・皇国史観)に基づく教育が、戦前の日本では徹底していたために、ひめゆり学徒隊の女生徒でさえ、自らが捕虜になることが、郷党家門学校の不名誉になると考えたのだと思います。

 それが、人命や人権を何より大事なものとして尊重する国際社会の考え方と相容れないものであったことは明らかであり、したがって、GHQが「神道指令」を発して、国家と神道を切り離し、政教分離を図ったのは当然の対応だったと思います。人命や人権は、国家権力によっても侵されてはならないのです。

 だから、“己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕し”として、”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”といういうのは、きわめて野蛮で国家主義的な考えであり、人命や人権こそが、”山嶽よりも重く”なければならないのだと思います。

 そうした意味で、カウラ事件フェザーストン事件も、その深層には、捕虜になったことの恥辱から逃れたいという、強い思いがあった悲劇であることを、忘れてはならない、と私は思います。  

 下記は、「生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走」ハリー・ゴードン 山田真美訳(清流出版)から「第一部 戦争捕虜」の「フェザーストン事件」を抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第一部 戦争捕虜              

 フェザーストン事件
 1943年の末、カウラ捕虜収容所当局に一通の報告書が寄せられた。それは、この年の早い時期にニュージーランドのフェザーストンで起こった、日本人捕虜反乱事件に関するものであった。
 フェザーストン捕虜収容所は二つの地区から成り、第一地区は朝鮮人など日本軍に労働を強いられてきた者を、第二地区は日本軍の士官および下士官と兵240人を含む戦争捕虜を収容し、双方の合計は700人を下らなかった。朝鮮人たちが一度も問題を起こさなかったのとは対照的に、捕虜となった日本人たちは常に反抗的で、当局を頭から馬鹿にし切っていた。カウラ同様、フェザーストンでも捕虜たちは寛大な待遇を受けていた。一週間の労働時間が33時間を超えることはなく、職場は主に建具屋や青果農場だった。作業着はもちろん、求めればサングラスも支給された。収容所の病院では、骨や皮膚の移植など整形手術や、スウェーデン式マッサージさえ受けることができた。さらに食べ切れないほどの食事と快適な住環境も用意されていたし、それぞれの地区には運動場やラジオが、士官には安楽椅子があてがわれた。
 捕虜という屈辱的な立場の自分には、日本にはもはや帰る場所がない。このような捕虜の精神的苦悩について、ニュージーランド当局は国際赤十字社を通じて早い時期から知らされており、これに対して講じ得る対策はすべて実行されていた。例えば、捕虜たちには辞書500冊、麻雀や卓球の道具、楽器などが支給されたほか、アイスクリームは常にふんだんに用意されていたし、映画鑑賞や二週間のクリスマス休暇さえあった。
 しかしどれも捕虜の心を癒すことはできなかった。ここでもカウラ同様に、行進を拒否するなどの小さな抵抗が繰り返されていたが、再三にわたる注意も無視して反抗的な態度をとり続ける捕虜たち。その態度に業を煮やした収容所長・ドナルドソン中佐は、
「三日間の猶予期間内に態度が改められない場合には、下士官と兵とを分離する」
 と宣言した。この<下士官と兵の分離>という発想が、二日後の1943年ニ月二十五日に起こる暴動の直接の引き金となるのだ。
 暴動の詳細は、ニュージーランドのフレザー首相から英・米・豪の当局者に宛てた、二十六日付の極秘電報に詳述されている。
「昨日午後八時四十分、当直の将校から会議中のドナルドソン長官のもとに、『第二地区の捕虜が労働を拒否している』との報告が入った。長官は『五人組の作業班を出すよう、日本人下士官に命令しろ。さもなくば下士官を拘禁する』と命令。しかし下士官はこの命令を拒絶し拘禁された。長官は『ただちに五人組の作業班を出せ』と繰り返したが、命令は再び無視された。収容所副官のマルコム中尉が現場に行ってみると、捕虜たちは所定のグラウンドではなく兵舎と兵舎の間の空き地に座り込んでいた。士官の足立と西村も同席していた。マルコム中尉の『全員グラウンドに整列。士官らは速やかに自室に戻れ』との命令は頭から拒否され、捕虜たちはその場に居座った。マルコム中尉は四十人の衛兵を従えていた。うち何人かは短機関銃やライフルで武装している。副官は足立と西村に『どうしても立ち去らない気なら力づくだ』と告げた。武器をはずして丸腰になった衛兵が、足立と西村に近づこうとしたところ、大勢の捕虜が彼らの行く手を阻み、両者は遂に殴り合いになった。先に手を出したは捕虜たちだった。足立と西村はこの間に兵舎に戻ってしまっていた。マルコム中尉は四人の丸腰の衛兵を下がらせ、代わりに武装した四人の衛兵に足立と西村を捕らえるよう命じた。四人のうちの一人が、邪魔だてする捕虜を銃剣で威嚇した途端、捕虜全員がその場で跳び上がり、大声で叫びながら威嚇の姿勢をとって見せた。この時西村が再び姿を現し、通訳を通じて、『この場から動くかどうかは我々自身の話し合いによって決める』と宣言した。四人の衛兵に引かれて西村が抵抗しながら連行されて行く間、捕虜たちは威嚇するような態度をとり続けた。続いて現れたの足立は、大きな石を二つ拾って捕虜たちの真中に立った。マルコム中尉は足立に対し、自主的にこの場を去るよう勧告した。通訳は、足立の馬鹿げた態度が彼の部下にとっても悪い結果をもたらしかねないと警告し、自分が宿舎まで同行しようと申し出た。足立はこの申し出に一瞬躊躇したかに見えたが、仲間に勇気づけられて断固拒絶した。マルコム中尉は衛兵に向かい『武力行使もあり得る。その場合、最初は空に向かって撃つこと、決して見境なく撃ってはならない』と告げ、続いて武装していない四人の衛兵に足立を連行するように命じた。衛兵が近づくと捕虜たちは一斉に殴りかかって来たが、衛兵は殴り返さなかった。殴られた四人は退却し、代わりに武装した四人の衛兵が足立逮捕に向った。しかし手に手に大きな石を持った捕虜に阻まれ、退却を余儀なくされる。石は収容所の道路に敷くための物で、大量に備蓄されていたのだ。それまで丸腰で衛兵と捕虜のあいだに立っていたマルコム中尉は、捕虜を威嚇するためピストルを借り受けた。これを見た足立は立ち上がり、両拳でおのれの胸を叩きながら挑発的に叫んだ。マルコム中尉は足立の頭上を撃った。途端に捕虜が石を投げ、一斉に襲いかかって来た。足立を目がけてマルコム中尉はが二発目を撃つや、捕虜たちが襲いかかり、同時に衛兵の銃が火を噴いた。顔面を石でやられたマルコム中尉は、屈んで衛兵の後方に下がりながら『撃ち方やめ!』と叫んだが、その声は騒音にかき消され、命令はすぐには実行されなかった。この暴動で四十六人の捕虜が死亡、六十六人ほどが負傷した。衛兵も一人が跳弾による重傷、四人が切り傷や打ち身など軽傷を負った」
 その後ニュージーランド政府は、イギリスからの助言をもとに事件の処理に当っている。イギリス政府は助言のなかで、
「この件に関してはできるだけ正規のやり方で処理すること。異常事態の発生を日本側に感づかれることは極力避けよ」
 と述べている。事件が日本側に漏れることはつまり、敵に捕らわれている同胞が残忍な報復を受ける危険性を意味したのだ。
 三月一日、フレーザー首相はこの事件の犠牲者数(この時点で、捕虜の死者四十八人、負傷者六十三人。衛兵の死者一人、負傷者六人)を、簡潔な声明文で国内向けに発表した。海外への発表は、日本が公式ルートを通じて事件を知らされるまで、さらに数日間にわたって保留された。その直後に開かれた査問会議の結論は、三月二十二日に英・米・豪・カナダ・南アフリカに極秘裏に通達された。その内容は次のようなものである。
・発射された弾は短機関銃からの七十発とライフルからの百五十発で、あの状況では避けることのできなかった数字である。
・この暴動で負傷した足立は「責任は私一人にある。私を殺してくれ」と言った。
・第二地区に放火し、消火活動に来た衛兵を襲って武器を奪うという計画が、前年の十二月にはすでに練られていた。
・捕虜となって敵のために働くなどは日本人にあるまじき行為であり、戦場で死んでいった仲間に対して申し訳ないと、おおかたの捕虜たちはか考えている。
 事件から半年後の九月、『ニュージーランドに於ける日本人捕虜殺害』と題された文書が、スイスを通じて日本からもたらされた。その中で日本側は
「イギリスおよびニュージーランド政府が丸腰の捕虜をあくまで武力によって制圧するのならば、我々はこれを慣例とみなし、将来的に同じ行動を起こすことになろう」
 と述べている。イギリス・ニュージーランド両政府は、文書の中で使われている<殺害>という表現に即座に異議を申し立て、前年二月十四日に日本軍が三人のイギリス人捕虜を処刑した例を引き合いに出した。三人はマニラの収容所から逃げ出し、冷酷にも処刑されたのだ。これに対し、フェザーストンで暴動を起こした足立と西村は処罰を免れている。
 フェザーストンの反乱は、近い将来カウラで起こるかも知れない事件を予見していた。その意味でこの暴動の持つ意味は大きい。まあた、事件の処理が関係各国の政府レベルで極秘裏に行われたにもかかわらず、その概略はなぜかカウラの日本人捕虜たちにも知れわたっている。これは看過できない重大な事実と言わねばならない。

 

 

 

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カウラ事件の悲劇と国家神道(神話的国体観・皇国史観)

2021年10月08日 | 国際・政治

 私は、日本の戦争は、国家神道(神話的国体観・皇国史観)と切り離して考えることはできないと思います。でも、日本では戦争の思想的背景はあまり語られず、現象面だけが論じられる傾向があると思います。だから、日本の戦争の問題の本質が正しく理解されず、簡単に歪曲や修正がされてしまうのだと思います。それは、閣僚の靖国神社参拝に象徴されるように、日本がいまだに戦争指導層の考え方を受け継ぐ人たちの影響下にあるからではないかと思います。

 私が、ホームページやブログで日本の戦争に関する事実について調べたことを公開するようになったきっかけは、沖縄戦で起きた住民の「集団自決(強制集団死)」について、文部科学省が、「日本軍に強制された」という教科書記述の修正を意図したことでした。
 その時、沖縄では「高等学校教科書検定撤回県民大会」が開かれ、沖縄県議会では全会一致で、衆参両院議長、総理大臣、文部科学大臣にあてた「意見書」を可決しました。「沖縄戦における『集団自決』が日本軍の関与なしに起こりえなかったことは紛れもない事実。今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするもの」として、記述の回復が速やかに行われるよう要請したのです。
 だから、”大宜味村渡野喜屋で、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし虐殺した事件”や”鹿山正・久米島守備隊長がアメリカ軍に拉致された住民3人を敵に寝返ったスパイとして処刑し、その家族までも内通者として処刑した鹿山事件”などの事実が、集団自決の強制を証明しているのではないかと考え、情報発信をすることにしたのです。
 その際、投降しようとした者はもちろん、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていただけで、スパイもしくは利敵行為であるとして処刑されたという事実や、沖縄戦だけではなく、いろいろな戦場で、敵に投降しようとする日本兵が射殺された事実の証言があることも取り上げました。
 また、南風原陸軍壕では、米軍が迫り撤退する際”独歩患者だけを連れて行け”との軍命で、多くの患者を壕に残さざるを得なかったようですが、残された患者には”青酸カリ入りのミルク”が配られたという証言や、住民に”手榴弾が配られた”という証言も、「自決」が軍命であったことを示していると思ったのです。したがって、そうした多くの証言や体験者の主張を無視するような教科書の修正は、許されないと思ったのです。
 また、沖縄戦では、日本軍が根こそぎ動員で多くの住民を軍の作業につかせました。そして、壕の状況や兵士の数、武器の状況まで日本軍の状態が少なからず住民に知られ、”住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れる”ことを恐れたため、日本軍は住民が投降することを許さず、集団自決をせまるという側面もあったのではないかと思います。

 日本の戦争は、「万歳突撃」や「特攻」、「玉砕戦」、「日本軍性奴隷」などの言葉に象徴されるように、諸外国には例を見ない特異な戦争であったと思いますが、捕虜となることを受け入れず自決した兵士の存在も、その一つだと思います。特に、敗戦後の皇居前や皇居外苑における集団自決などは、外国の人たちには理解できないのではないかと思いますが、そうした悲劇の数々は、「カウラ事件」も含めて、その背景に、国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教えがあることを見逃してはならないと思います。

 戦争は、どの国でも、交戦国の人たちの憎しみを深めさせて、人間を狂気の世界へ引きずり込み、敵国の人間であれば、戦闘員か非戦闘員かに関わりなく殺してもよいかのような精神状態に追い込むことが少なくないと思いますが、日本の場合は、敵国の人間だけではなく、捕虜になった日本人も、あたかも敵国の人間であるかのように見なしたように思います。
 それが、国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教えと切り離せないことは、「生きて虜囚の辱めを受けず カウラ第十二戦争捕虜収容所からの脱走」ハリー・ゴードン 山田真美訳(清流出版)の、下記の文章から分かるのではないかと思います(プロローグの一部を抜粋)。

 また、特攻兵が自らの死を冷静に受け止めて飛び立った事実や、生きてかえった特攻兵が、自決に至った悲劇も、国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教え抜きには考えられないことであり、日本の戦争の過ちが、いろいろな面で国家神道(神話的国体観・皇国史観)の教えと深く関わっていることを見逃してはならない、と私は思っています。

 ただ、著者・ハリー・ゴードンが、下記の文章のなかで、” 日本では当時、いかなる事情があろうとも敵の捕虜となることは著しく忌み嫌われていた。その精神を根底から支えているものが武士道である。武士道は日本の魂と呼ばれ、幾世紀にもわたってこの国に軍事的発展をもたらした‷ と書いていますが、特異な日本の戦争の諸現象が、天皇を現津神とする国家神道(神話的国体観・皇国史観)抜きに、武士道で語り尽くされるものでないことは明らかだと思います。でも、それをオーストラリア人の著者に求めることは難しいことなのかも知れないと思います。


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             プロローグ カウラ事件と豪州カウラ会

 オーストラリア側に身柄を拘束された日本人戦争捕虜は第一号は、1942年ニ月十九日にダーウィン
への最初の攻撃を加えたのち、母艦に戻る途上で不時着を余儀なくされた零戦パイロット、豊島一である。香川県出身の二十二歳。きわめて頭脳明晰な豊島は、捕虜生活中に英語を覚えて日本人捕虜のあいだで頭角を現し、のちにオーストラリア史にその名を残す<カウラ大脱走>の首謀者の一人となる。
 不時着から二年半後、豊島はカウラの排水溝のなかで死んだ。胸に数発の弾丸を受けた豊島は、まず煙草を一服し、次いで自分自身の手で(あるいは彼に命じられた戦友の手で)喉をかき切り絶命した。
 ある意味において、豊島は捕虜となったその日から、すでにこの世に存在していなかったとも言える。ダーウィンで開かれた最初の査問会議の席上、豊島は持ち前の堪を働かせ、出身地から航空兵の経歴までをすべてでっちあげ、大胆にも南忠雄という名の架空の人物になりすましてしまったのだ。
<日本人捕虜番号1>と題された調査報告書を今改めて読み返してみると、当時の査問官のうちの誰かが、ひどくだまされやすい人間であったか、もしくは別のことに気をとられていたのではないかという結論に至らざるを得ない。豊島は零戦パイロットとしての身分はひた隠し、爆撃機の機銃手であると自己申告している。しかし飛行機に関する質問で、爆撃機に不案内な彼が、しばしば返答に窮したにもかかわらず、驚くべきことに報告書は彼を単なる<小百姓>として結論づけているのである。
 南こと豊島が不時着する四日前、高原希國は飛行艇ごとアラフラ海沖に墜落していた。高原とやはり生き残ったほかの搭乗員四人が捕虜となるのは、豊島が捕らえられた時から、約一週間後のことだ。
 彼らは小さなゴムボートで荒海を漂流し、たどり着いたメルヴィル島を十一日間さまよい歩いたのち、捕らえられてダーウィンでの査問会議にかけられた。それは豊島がメルボルンに移された数日後のことだ。高原はグループのリーダー的な立場にあった。彼とその仲間は、豊島と同様に偽の身分を用意していた。つまり、
「自分たちは漁船員で、妙見丸という小さな漁船に乗って航行していたところ、米軍の潜水艦から発射されたらしい魚雷にやられた」
 という真っ赤な嘘を、彼らは捏造していたわけだ。査問会議にかけられた一同の口から出た言葉は、つじつまの合わない作り話ばかりで、ほとんど茶番と言ってもよい代物だった。個別に行われた査問の内容に至っては、聞くに耐えないほどの滅茶苦茶ぶりである。ある者は船のマストの本数が一本だったと答え、別のある者は二本と答えた。船の総重量を問われて300トンと応える者もいれば、3000トンと答える者もいた。船体の長さに至っては実に長短さまざまな返答が得られた。自称漁船員の一人は、自分が乗っていた船の名前すら忘れてしまい、長いこと椅子に座ったまま、机の上に文字をなぞってそれを思い出そうとする始末だった。一部の査問官は一連の供述に対して
「捕虜たちが嘘八百を述べているのは明らかだ」
 とコメントしたものの、会議全体の最終報告は、こうした疑念をすっかり忘れてしまったかのように、次のように結論づけている。
「非知性的集団。船の航行目的に関する重要情報を入手し得る役職には就いていない」
 こうして五人の日本人は、度重なる査問会議をうまく乗り切った。彼らが四発爆撃機に搭乗して戦闘していた事実も、アメリカのP40キティーホーク戦闘機を襲撃した事実も、遂に露見せずにすんだのである。
 ダーウィンの査問会議にかけられた、豊島、高原らの各々の家族は、その後数ヶ月の間に戦死通知を受け取っている。それぞれの郷里では葬儀が営まれ、先祖代々の墓地には彼らの墓碑銘が建てられた。そしてそれは、彼ら自身の望むところでもあった。敵の捕虜になるなどということは、本人はもとより家族にとっても、耐え難い屈辱以外の何ものでもなかったのだ。彼らがダーウィンで下手な嘘をついたのは、自らの供述によって連合国側に有利な情報がもたらされることを回避する目的であったが、その際に身分を偽った本当の理由は、自分が捕虜となったために家族が生涯味わうであろう、さまざまな耐え難い恥辱を考えてのことであった。
 カウラ事件発生の背景にはいくつもの理由があった。ニュー・サウス・ウェールズ州西部のカウラ戦争捕虜収容所で、1944年八月五日の冷え込んだ早朝に起こった脱走事件は、死者が日本人231人、オーストラリア人4人、負傷者が日本人107人、オーストラリア人4人、最高九日間に及ぶ脱走者が334人という結果に終わった。はっきりしていることは、捕虜となったことへの恥辱は日を追って耐え難いものとなり、それが1104人の日本人捕虜を集団狂気へと駆り立てたということだ。そこに復讐の意図はなく、決行するのだという決意のほかに特別な戦略があったわけでもない。
 日本では当時、いかなる事情があろうとも敵の捕虜となることは著しく忌み嫌われていた。その精神を根底から支えているものが武士道である。武士道は日本の魂と呼ばれ、幾世紀にもわたってこの国に軍事的発展をもたらした。敵の捕虜になるぐらいなら死を選ぶという自決の形態は雪辱と呼ばれ、十二世紀以降に見ることができる。太平洋戦争初期、東条英機は『戦陣訓』の中で、
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
 と断じている。こうした風潮には根強いものがあって、1993年に至ってなお、豪州カウラ会第五代表・紀州政俊が、その心情を次のように語っている。
「我々が受けた教育によれば、戦争捕虜は必ずや殺されるはずでした。しかし捕虜生活がどんなものであるかは、誰も教えてくれなかったのです。いったん捕虜となった者は、たとえ生きて終戦を迎えられたにせよ、その後は絶望的な人生を送らねばならない。たとえ日本に帰れたとしても、人のいない孤島のような場所に連行され、軍隊によって銃殺刑にされるのだ。我々はそう思っていました。歴史を通じて、敵の捕虜となった日本人などそれまで唯の一人もいなかったのです。万が一生き残ったにせよ、もとの社会に復帰できるなどとは、夢にも思っていませんでした」
 カウラ事件に関して私が個人的にとりわけ興味をそそられたのは、何よりもまず、この件に関する当局の極端な秘密主義である。さらに事件の全貌を知るにつけて、私は次第に事件に関与した一人一人の人間や、事件の背景にあった文化について関心を抱くようになった。またカウラのように小さな町が国際平和推進の代名詞的存在にまで発展したという事実も、痛く私の心をとらえた。
 1960年代に始まった私の事件調査は、70年代に入ると、その舞台を日本に移していた。取材に際しては、多くの人々から多大な協力を頂いた。例えば、南忠雄こと豊島一について、カウラからの生還者のなかでは誰よりもよく知っている高原希國。海軍の機関士出身で、豪州カウラ会結成発起人の常市次郎。カウラ捕虜収容所では班長を務め、暴動の開始直前に、年若い兵士たちに向って「鯉のように死ね」と熱っぽく呼びかけた小城清治。豪州カウラ会設立に際して堂を助け、堂亡き後は第二代会長に就任した森木勝。脱走後に自殺を図ったものの未遂に終わった、伊東義男。同じく収容所の周囲に張りめぐらされた有刺鉄線を突破したものの、その後で賢明にも生き残る決断をした石井喜一。生涯の大部分を日本に捧げた、奈良在住のトニー・グリン神父。このほか多くの人々が、私の取材をバックアップしてくれたのだ。
 日本での取材を始めた当初、どうしても連絡のつかない一人の人物がいた。金澤アキラ。当局によって、脱走事件に関する責任の大半を課せられた人物である。事件の全貌を把握しようとしていた私にとって、金澤の手がかりが得られないことは、最大の痛手だった。日豪両国の何十人という関係者と話し、地図や公文書と首っ引きで、事件の主人公たちの背景や行動の足取りを私は追ってきた。だが金澤こそは事件の首謀者であり、しかもまだこの世に生きており、事件の核心部分を握る人物でありながら、本件に関する公式な話し合いの席で意見を述べたこともなければ、事件を報じた何百という新聞、雑誌記事の中で、ただの一度も引き合いに出されたことすらなかったのだ。
 彼は極めて重要な鍵を握っていた。彼と会うことなしにカウラ事件の真実を知ろうとするなど、無意味とさえ私は感じた。1977年の日本訪問をひかえ、カウラ会を通じて私は金澤に打診した。
「もしも、茨城県にある金澤家の農場にあなたを訪ねたならば、お目にかかって頂けるでしょうか?」
 金澤からは、
「お会いしましょう」
 という答えが返ってきた。かくも長き沈黙を破り、彼がなぜ重い口を開く気になったのか、その点について私はその時もそれ以降も金澤に尋ねたことはない。しかしほかの退役軍人たちがほのめかしたところによれば、堂市次郎と小城清治がそうするように金澤に進言し、私ハリー・ゴードン
が信用するにたる人間だと助言してもくれたようである。
 金澤との初めての会見で、彼が非常に礼儀正しい人物であること、そしてこの取材に是非とも協力したいと望んでいることがわかった。大子温泉近くに位置する農家の一室で、畳の上に座った私たちの周りを、金澤の姉や親戚の者たち、子どもらが取り囲んだ。頭上に飾られた三枚の肖像は、金澤
の父と母、それに特攻隊員として散った弟・一二(カツジ)のものである。持参した地図や写真、見取り図、軍事裁判の陳述内容などに目を通すと、金澤は三十三年前にカウラ郊外の収容所で起こった出来事について語り始めた。この時の彼の口から語られた話しを、私は心から信用している。
 すべての記録のなかで、彼の名前がアキラと記されている原因は、初期の混乱のなかにあった。本当の名前は亮(リョウ)であると金澤は言った。1943年に捕らえられた時、重病のため口もきけない状態で、彼は担架に載せられてオーストラリア軍司令本部へと運び込まれた。正気を取り戻した金澤は
戦友である遠藤良雄曹長が、査問委員会に対して金澤の本当の苗字を教えてしまったことを知り慄然とした。
「本名は決して教えまい。私はそう心に誓っていました。捕虜になることは大変な屈辱でした。家名に傷をつけることにもなるでしょう。しかし気がついた時には、すでに自分の階級と苗字は敵に失れてしまっていました。とっさに私は彰(アキラ)という偽名を思いつき、アキラで通すことにしたのです。敵が金澤のという姓を知ったのは遺憾なことでしたが、自分にはどうすることもできませんでした。アメリカ人やオーストラリア人の捕虜たちが、生命の無事を家族に知らせる目的で、自らの名前を家族の元に知らせるように希望していたことを知った時はショックでした。家族にそんな苦しみを強いるなど、我々にはとてもできない相談でした。捕虜である我々には誰からも手紙など来なかったし、また受け取りたくもありませんでした。我々はすでにこの世には存在しない人間だったのです」
 仲間のうちで金澤は、ほとんど封建的とも言えるほどに、深く武士道をわきまえた一人であった。彼が受けた教育は、軍人たる者、降伏して捕虜となるよりは、むしろ残された最後の武器で自決するか、さもなくば死ぬ覚悟で敵に突撃すべきであるという、断固たる教えだったのだ。たとえひどい怪我あるいは重病のために、抵抗する力がなかったのだとしても、それは言い訳にはならなかった。金澤は、日本でまともに顔を上げて歩くことなど金輪際できないし、彼の家族は末代までも恥辱のなかで生きるほかはないのだった。1937年に二十歳で入隊して以来の、軍人としての金澤の経歴は、敵方にすでに知られてしまっている。
 カウラ事件直後、金澤は自分を極刑にしてほしいと強く要求し、それと同時に、仲間たちの身柄の安全をひたすら案じた。
 金澤の意に反して、彼は死刑にされることなく、収容所の中で敗戦の時を迎えた。彼が小生瀬村にほど近い金澤家の農場に戻って来た時、家族は二人の息子の死を悼んで悲しみに暮れていた。彼自身は1943年三月にプーナで戦死したものと思われていたし、五歳違いの弟・一二は、終戦一ヶ月前の七月十五日に、最後の特攻隊員の一人として出陣し、ルソン島の近くで戦死していたのだ。
 帰郷から何ヶ月ものあいだ、自分など本当に死んでしまえば良かったと思い、金澤はふさぎこんだまま過ごした。戦友会の類とは一切コンタクトを取らず、とりわけカウラから帰った元軍人とは決して交渉を持とうとしなかった。帰国後ほどなく、彼はオーストラリアで捕虜となっていた事実を、不安な思いで家族と親友たちに告白した。しかし驚いたことには、そのことを知ったからといって、誰も金澤をのけ者などにしなかった。だが人々のこうした寛大さも、この田舎町に限ったことだろうと彼は思い直し、なお数年間にわたって深刻な恥辱の念にさいなまれながら過ごしたのである。
 かつての戦友たちの消息を調べることに力を尽くし、豪州カウラ会第二代の会長も務めた森木勝によれば、800人近くにのぼるカウラ事件の生存者のうち半数以上が、かつて捕虜であったことを決して認めようとしなかったという。この点については金澤も同じ見方をしていた。また、捕虜であったことを認めた三百余人のうち、豪州カウラ会に加わった者はわずか80人程度に過ぎなかった。
 仲間を集団自決に導き、その後は自らの死刑さえ嘆願した金澤にとって、すべてを告白するのは容易なことではなく、彼をカウラ会に入れるためだけでも、友人の堂市次郎による熱心な説得が必要だった。何しろ会にはいることは、収容所での歳月を知る生き証人たちと再び顔を合わせることになるのだから。しかしながら長い歳月は徐々に彼を変えていった。
「あのような体験をできたことに、私は心から感謝しているのです。カウラの人々やオーストラリア
との素晴らしいつながりを感じながら、私は生きています」
 そう語る現在の金澤はもはや伝道師のようですらある。
 1993年に再び日本を訪れた私は、かつての捕虜たちと語り合うなかで、彼らのなかによみがえった<誇り>を感じ、一種逆説的なものを感じさせられていた。半世紀前、この男たちは重い恥辱に耐えていた。その恥辱ゆえに、彼らは偽名さえ使った。捕虜生活を分かち合うなかで、心にくすぶり続けた恥辱の念は、最終的には世界史上最大の脱走事件となった集団自殺を引き起こしたのである。彼らは、カウラ戦で死んでいった戦友たちを一度は羨んでみた。戦死した者は、死によって捕虜の罪から赦されたかもしれないからだ。また、暴動そのもので死んだのではないが、ユーカリの樹から首を括り、あるいは古い蒸気機関車の車輪の下に身を投げて死んでいった戦友たちのことも、一度は嫉ましく思ってみた。息子は戦場で帝国軍人らしい死を遂げたと信じている家族の前には、二度と再び姿を現すまいとも思っていた。しかし今、同じ思いに苦しんだ男たちが、自分自身への誇りや、カウラでの体験を通じて与えられた自尊心について語っているのである。
 オーウェン・スタンレー山で右足首を機関銃で撃たれた森木勝は、脱走から数えて四十九年目にあたる1993年、高知方面在住の三十二名を率いてカウラを訪ねている。日本人戦没者墓地と、かつて彼も収容されていた捕虜キャンプとを結ぶ道に、彼は二本の桜を植えた。以下は、彼自身が私に語ってくれた心情である。
「私はまるでカウラで新しく生まれ変わったようでした。あそこは私にとって第二の故郷なのです。ほかの皆もそうであったように、筆舌に尽くしがたい恥辱に、私は一度は苦しみました。私たちは世間から見捨てられた人間であり、売国奴でもありました。捕虜となった瞬間から、考えることは自殺の方法ばかりでした。私たちをあのように恐ろしい向こう見ずな行動に駆り立てたものは、救いようのない絶望感だったのです。事件後、オーストラリアは国を挙げて、亡くなった日本兵を手厚く弔ってくださいました。1946年四月八日に、私は故郷に帰ることができましたが、戦地から生きて帰れた村の者は私一人でした。家族は私が1942年十一月十一日戦死したものと信じて、先祖代々の墓に墓碑銘を立てていました。私はカクラでの出来事をありのままに家族に告げた後、村人たちも集めて、私の身に起こったすべてを正直に告白しました。すると村人のひとりがこう応じてくれたのです。『何も心配するな。お前は軍人らしく闘ったんだ。捕虜だったことなど気にしなくていい。今となっては、日本の国全体が捕虜収容所になってしまったようなものじゃないか。お前はこれから誇りを持って生きろ』。その言葉がどれほど私を勇気づけてくれたか知れません。恥が誇りへと変るのに時間はかかりませんでした。故郷の土を踏み、友人たちの歓迎を受けた、ほとんどその瞬間から、私の内から自己嫌悪の念はかき消されていたのです。今の私は、心の絆によってカウラと結ばれています。そしてカウラを訪ねるたび、今は亡き戦友たちに語りかけて来るのです」
 森本は豪州カウラ会会長に就任した際、元捕虜のうちで現住所の判明した者全員に宛てて通知を出している。しかしそれに対する返事は、彼を落胆させるようなものだった。
「返事をくれない者がほとんどでした。返事を寄こした者の大半も、もう二度と連絡をしないで欲しいとだけ書いて来たのです。無理もありません。家族に対してさえ最後まで捕虜体験を告白できなかった者もいたわけですから。自分たちは歴史上の貴重な一場面を生きた。我々のしたことは誤りではない。それどころか我々は誇りを持って行動した。こうして我々が生きていられるのもオーストラリア人のお蔭だ。そう思い至った者もいます。しかし、いまだに家族にも真実を伝えられずにいる者については、残念でなりません。元捕虜だったからという理由で我々を責める者など、今さらいるはずもないでしょう。あまりにも長いこと嘘のなかで生きているという、その現実の方が問題です」
 ・・・(以下略)
 

 

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特攻隊員と知覧高等女学校の生徒の交流を通して戦争をふり返る

2021年10月01日 | 国際・政治

 勤労動員学生として、特攻隊員の身の回りの世話をした、元知覧高等女学校の生徒たちが、当時の自分たちの日記や手記、また特攻隊員の遺稿やその家族との手紙のやり取りを、手を加えることなく、そのまま「群青 知覧特攻基地より」としてまとめたという本を読みました。同書の出版の経緯は、下記資料1の「まえがき」で知ることができますが、日本の戦争の全体像を知るためには、こうした著書は貴重なものであると思います。

 資料2は、第四十三振武隊の一人として二十一歳で出撃した、簑島武一少尉遺書です。礼儀正しく心優しい青年であったことがわかります。 

 資料3は、第六十九振武隊の一人として出撃した、池田亨少尉の父親、池田熊平氏に宛てた知覧高等女学校の前田笙子さんの手紙です。短い滞在にもかかわらず、飛び立つ前の特攻隊員と身の回りの世話をする女生徒が、お互いに思いやり、心を通わせたことがわかります。

 資料4は、知覧高等女学校の中野美枝子さんが、第百三振武隊の隊員として出撃した岩井定好伍長の妹岩井八重子さんに宛てた手紙に対する、父親、岩井伴一氏の返信です。岩井氏は立て続けに二人の息子を亡くし、必死の思いで、手紙を書いたのだと思いますが、毎日涙を流しつつ、”大君にさゝげし我子みなちるも いくさ勝つとはなんのおしまん”という歌を詠んでいます。当時の「大君」の存在の大きさと、軍国日本の過ちの深さを感じないわけにいきません。

 また、簑島少尉の遺書に、”皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景 暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日の我の姿とは想へぬ静かなる清き光景 ふるさとの清き流れに育くみて今ぞ羽搏く正義の翼”とありますが、日本の戦争を”正義”の戦争ととらえ、極めて冷静に自分の死を受け入れていることを見逃すことができません。
 でも、現実の日本の戦争は、”正義”とは、かけ離れたものであったと思います。それは、戦地における戦争の実態や軍の方針、また、国際連盟における、リットン調査団の報告書に対する同意確認の結果が示していると思います。どこの国も日本の戦争を”正義”の戦争などと受け止めてはいなかったのです。
 ところが、当時の教育の結果でしょうが、若い特攻隊委員や特攻隊員の身の回りの世話をした知覧高女の生徒に、日本の戦争の意味を問い、特攻作戦の意味を問うという姿勢がまったく感じられません。疑問を抱くことは許されなかったのだと思います。だから、リットン調査団の報告書に対する同意確認の結果など、気にもしてはいなかったのだと思います。

 そこに、私は、戦前の日本の”過ち”があったと思います。天照大御神を皇祖神とする万世一系の天皇が統治する日本は、神の国であり、したがって、日本の戦争は常に、”正義”の戦争であると受け止めていた結果なのだと思います。
 また、戦前の報道は、軍によって検閲され、日本に不都合な事実が報道されることがなかったことも大きかったと思います。
 徹底した神話的国体観の注入と、報道統制によって、当時の若者が、世界情勢を客観的に理解することは極めて難しかったのだと思います。

 以前にも書きましたが、戦争は自然災害ではありません。話し合いによって、避けることができた筈ですし、特攻作戦も、皇軍ゆえにとれた作戦の一つに過ぎず、必然的なものではなかったと思います。でも、当時の若者にとっては、必然のことであったのだろうと思います。


 「今日われ生きてあり」(新潮文庫)の著者・神坂次郎氏の、下記の文章を思い出します。
”……いま、四十年という歴史の歳月を濾(コ)して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯(キョウ)があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たち(冨永恭次・陸軍中将や稲田正純・陸軍中将)が、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と……。”

 神坂氏の言葉を借りれば、知覧における特攻隊員と知覧高女の生徒たちの交流のなかには、”美”や””が感じられますが、日本の戦争は”醜”や””があふれていたことを直視する必要があると思います。

 だから、天皇の「人間宣言」にある”天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”が、日本の戦争を支えていた事実を素直に認め、日本の戦争を正当化することなく、客観的に理解し、中韓との外交関係を改善してほしいと思うのです。
 
 下記は、いずれも「群青 知覧特攻基地より」知覧高女なでしこ会編(高城書房出版)から抜萃しました。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  まえがき
 昭和二十年三月二十七日、知覧高等女学校の三年生進級を前にして、突然、私たちは勤労動員学生として、各地から知覧基地へ集結された特攻隊員の身の回りのお世話することになりました。敗色濃い戦局だったために、軍だけでは隊員たちを受け入れるゆとりもなく、その態勢も整っていなかったのでしょうか。激しい空襲のさなかを自宅から基地まで、遠い人は二時間もかかって通い、三角兵舎の掃除、食事の用意、洗濯、そしてつくろいものなどの雑用係として、十四、五歳の少女だった私たちがあたることになったのです。最初十八名だった女学生も、手が足りなくなって次第に増員されるようになりました。
 多くの隊員は到着して四、五日間を基地の三角兵舎ですごして出撃されました。なかには、たった一夜だけの滞在で慌ただしく出撃された方もいらっしゃいました。
 それは、つかのまの出会いでありましたが、長い歳月を経た今でも、心の奥底に多くの隊員たちの思い出が生きつづけているのは、平和な時代には想像もつかないような異常な戦争体験だったからでしょうか。泣きながら桜の小枝をうち振って出撃を見送ったときの光景など、折りにふれ鮮烈な思い出としてよみがえってまいります。
 戦後五十年が過ぎた今日、悲しくつらかった戦争の体験も、敗戦後の物資不足に悩まされた生活の苦しさも、忘却の彼方に押しやられようとしています。そして、いま私たちが手にしている平和が、数多くの人生とかけがえのない青春の上に築かれていることを忘れ、自分の利害だけで、権利ばかりを主張して責任を果たさない風潮が一般的になったと、よく人々から聞かされるようになりました。
 こんなとき、平和を願い、すべての私情を断ちきって短い人生を終えていった特攻隊員を、その出撃の直前まで目のあたりにしてきた人々の中から、「歴史の証言として何かを残すべきではないか」という声がもちあがりました。それも、ある思想的な立場から何らかの作為のもとに粉飾されたリ、無意識のうちに変ってしまったものではなく、その時の、その状況の中で真剣に綴られた生のままを残したほうがよいのではないかということでした。
 特攻隊員のお父さん、お母さん方もほとんど逝くなられ、ご兄弟の方々もそれぞれ独立して生活されるようになったために貴重な資料が散逸しつつあるということをよくお聞きします。私たちも、特攻隊員の出撃の模様やふだんの生活などを日記風に記録していました。それらの記録や出撃直前に書かれた隊員の方々の遺書などを大事に保管していましたが、戦後の長い年月のあいだに、その大半を紛失したり焼却したりしてしまいました。
 隊員の方々のお世話をさせていただいたご縁から私たちは、戦後いろいろな形でご遺族の方々とのつながりをもちつづけてまいりました。また、もと隊員だった方々とも慰霊祭などでめぐりあう機会が多くなりました。そんなことから、当時よくわからなかったことが次第に明らかになってきました。こうしたおつきあいのなかで知りえた遺稿や、「なでしこ会」会員の手許にかけがえのない思い出として残されていたわずかな日記、書簡をもとに特別攻撃隊の事情をまとめたらどうか、ということになりました。
 しかし、私たちの手記を公開することにつきましては、ためらいがありました。文章も幼く、正しい判断ももちあわせていない十四、五歳の少女の雑記ですし、また異常な雰囲気の中での感傷を断片的に綴ったものですから……。でも、あの時のことは、いつかは何らかの形で知っていただかなければならないとは思っていました。
 知覧高女三年生時代の級友たちも、自分たちの子供や孫たちが、あの時の特攻隊員と同じ年齢になりました。私たちは心から平和を願う平凡な市民ですが、動乱の時代を生きた人間の責任として、それがよしんば私的なものでありましょうとも、子供たちに真実を伝えておくべきだと考え、「なでしこ会」の会員と語りあって、ご遺族のご協力のもとに出版を思い立ちました。
 本書に収録しました特攻隊員の遺稿も私たちの手記も、戦争一色にぬりつぶされた当時の心のうずきをそのまま書きとどめたものですから、今の時代とはずいぶんかけ離れていると思います。しかし、それもまた、いつわらぬ事実なのですから、明らかな誤記だけを訂正して掲載しました。
 皆様の遺書や書簡を読ませていただき、あらためて現実の出来事のように、ありし日のあの方、この方をしのび、多くの若者を失ったあの戦争とはいったい何だったのだろうかと、新たに感慨に胸がしめつけられる思いでございます。生と死のはざまのなかで苦悩しながら、永遠の平和を願い、国の護りに殉じていった若い人々のために心から涙を流した哀惜の日々は、私たちの頭から生涯消え去ることはないでしょう。
 本書は、還らざる方々の魂の証と、ささやかながら私たちの心の軌跡をまとめたものです。特攻隊に関する本は少なからず出版されていますが、数ある太平洋戦争史の大河の流れの一しずくとして、心ある方がもし拾いあげてくださるならば、これにこした喜びはございません。
                               永崎 笙子(旧姓 前田)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              岐阜県 岐阜師範 特操一期 第四三振武隊
              昭和二十年四月六日出撃戦死 少尉 二十一歳 簑島 武一
 遺書
 長らく有難うござゐました。
 最前基地にて最后の御便りと思ひ乍ら拙筆をとって居ります。
 なつかしの知覧町に再びやってきました。当地は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽し気なるつどひ、初夏を呈している南国の風景
 基地よ、征くものも送るものも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
 皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景
 暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日の我の姿とは想へぬ静かなる清き光景
 ふるさとの清き流れに育くみて今ぞ羽搏く正義の翼
 では父様母様、征きます。泣かないで戦果を確認してください。御両親様、弟妹よ、此の兄の心を知ってください。
 やがて暖い春が訪れるであらう故郷の空へ忘られぬ去り難い姿
 雄々しく征く日本武士
 皆様の御健康を祈り乍ら
  四月三日
 御両親様                                  武一

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 手紙
 初めてお便りします。さぞ不思議に思ひなさいますことでせう。私は〇〇高女生で池田隊長様におたのみされてお便り書く次第です。
 最後の基地〇〇に奉仕に参りまして池田隊長さん御出発の際まで六日間、一緒にゐました。出撃前日、私に、”故郷へ第二次総攻撃参加、元気に笑って出発したと書いてくれ”とおっしゃいました。温順でやさしい隊長さんでした。私達と一緒に慰問の舞踊を見に行ったかへり甘藍(カンラン=キャベツ)を見て、”この甘藍はもうすぐきれいにたまになるだらう”とおっしゃいましたが、その甘藍も今ではきれいに巻いてをります。そして一緒に無邪気に「空から轟沈」のうたを声高らかにうたはれました。部下の方々も大へんおしたいして一緒に行けなかった方は男泣きになかれました。初めていらっしゃった時など、此んな若い方が隊長さんだらうかとうたがふ位でした。一日々々とたつて行く中に隊長さんの立派さを知り、私達も隊長さん隊長さんとなついてをりました。
 部下の方々もみんな”年は若いがおとなしく無口で頭のいちばんいゝ立派な隊長だったんだよ”と隊長さんのなくなられたことを惜しんでをられました。部下にもやさしい隊長さん、そして私達にとっても親切で、出撃のときレンゲの花の首飾りを作って差上げると大へんよろこばれ、又私達の手で隊長機の擬装を取って上げると、”有難う”と何回もお礼を言はれ、そして”飛行場までこの始動車に乗っていきなさい”と最後に自動車までお世話してくださいました。それから私達が兵舎まで桜の花を取りに行ってかけつけたときにはもう遠い出発線に並んでをられました。桜の花を差上げることの出来なかったことが残念でなりません。大きな鉢巻にくっきりと塗られた日の丸、そしてレンゲの花に囲まれて征かれた隊長さんの顔が鮮やかに目の前に浮かびます。
 四月十二日 第二次総攻撃参加。
 静岡県榛原郡初倉村阪本1352-3 池田熊平様
鹿児島県川辺郡知覧町中郡378 前田笙子
 (注:池田亨様のお父様に宛てた手紙。昭和二十年四月二十二日付け)

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 手紙
 拝復 只今は、御親切なる御手紙を頂きまして、有りがたう御座ゐます。厚く御礼申上げます。私は八重子の父です。
 御両親様始め、御前様には益々御勇健にて決戦下増強また御勉学に御奮励の事と存じます。
 御手紙にて承れば、此度愚子、岩井定好事が一方ならぬ御世話様になりました事と存じます。厚く厚く御礼申上げます。
 御両親様へも宜敷く御伝へ下さい。
 実は出来るなら御宅迄御邪魔致し、何かと御尋ね致したい思ひで居ります。岩井定好本人よりは、最後の通信、元気で行きます、とのみあるばかりにて吃驚り(ビックリ)致し居る処へ、十六日には遺品が届いた様な次第にて、確かに十一日の第二次総攻撃にて、海に散った事と存じますが、一目なりと面会が出来たらと、残念に思ふて居ります。只今、私方では、御前様を定好の様に思ふて居ります。何か細い話しでも致しませんでしたでせうか。
 実は、長男千代司が一昨年三月五日に、南島コロンバンガラ島にて(陸軍高射砲兵曹長)戦死致し、又、今回次男の定好が沖縄にて散り、重ね重ねにて涙の日送りであります。昨年七月二十七日に兄の村葬がすんだばかりであります。
 定好がどんなに元気で、出撃に向かひましたかそんな事が今になり案じられて居ります。大勢一緒でありましたか。もう二度と会へないかと思ふと、又しても熱い涙が流れます。写真の御話がありましたが、一度整理致して後日御送り致しますから、御待ち下さいませ。
 御両親様へよろしく御願い申上げます。
 先は御礼旁御願ひ迄
  五月三日                              岩井 伴一
 中野美枝子様御許江

  美枝子さん、御手紙をなんどくりかへして読ましても、あきらめがつきません。然し貴方様の御優しい御こころづくしの桜花、山吹又お人形迄、御手紙を喜んで拝見致し夢の様思ふて居ります。私も諦めて見たり、泣いても見たり無茶苦茶の日送りです。
 昨年長男戦死に際して
  国の為め散りし我子にはげまされ   
     老ひて再び土にいそしむ
 又次男戦死に
  咲く花も時までまてぬ若さくら
     けふの嵐にあそぶぞかなしき 
  大君にさゝげし我子みなちるも  
     いくさ勝つとはなんのおしまん
 中野さん御笑い下さい。
 鹿児島県川辺郡知覧町瀬世向江三六三  中野美枝子様御許江
     岐阜県加茂郡上米田村比久見七九五ノ二   岩井 伴一
 (注:第103振武隊岩井定好伍長の妹八重子様に宛てた手紙に対するお父様の返信)    

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