真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウクライナ戦争の背景と人類の危機を乗り越えるシステムの確立

2022年03月31日 | 国際・政治

 バイデン大統領は、欧州訪問を締めくくる演説で、また、激しいプーチン大統領非難をくり返したようです。そして、「この男が権力の座にとどまり続けてはいけない」と言い放った言葉は、さすがにアメリカ側も、政権転覆の意図を表明したとされることを恐れて、ブリンケン国務長官が「吾々はロシアを体制転換させる戦略はもっていない」と釈明したようです。
 でも、「非難されるべきはウラジミール・プーチンだ」と言い、プーチン大統領を「虐殺者」、「真の悪党」「戦争犯罪人」「人殺しの独裁者」などいう言葉で、非難し続けてきたバイデン大統領の本心、また、アメリカ政府の本心は、政権転覆によって、ロシアを弱体化したり、アメリカに敵対しない政権にしようという意図があるのではないか、と私は疑います。
 なぜ、バイデン大統領が、各国の大統領や首相と個別に電話会談をしたり、また、G7の会合を開き協力を求めたり、制裁を呼びかけたり、欧州を訪問したりして、ウクライナ問題で活発に活動しているのか、ということを考えれば、それが、ヨーロッパにおけるロシアの影響力拡大が、アメリカの利益を損なうことにつながるので、それを阻止すること、そして、ヨーロッパにおけるアメリカの影響力維持を意図したものであることは明らかだと思います。ノルドストリーム2に対するアメリカの姿勢が、そのことを示していると思います。

 また、ウクライナの戦争を「民主主義と専制主義」の対決などというのも、ロシア側との権力争いや利益の争奪戦を隠すものであることは、武力で決着させようとする姿勢で明らかではないかと思います。私は、米ロの権力争いや利益争奪戦の犠牲になっているのが、ウクライナではないかと思っています。
 だから、アメリカが関与しなければ、現在のように、経済制裁によって世界を巻込む戦争にはならなかったのではないかと思います。また、直接的な関わりのない国や、政治と関わりのない人々に、甚大な被害を及ぼす経済制裁が、民主主義の名によってなされることも問題だ、と私は思います。

 ウクライナの戦争の問題を、少し離れたところから、考えたいと思います。
 現在世界中で、様々な格差が広がっていると言われます。アメリカ、中間層の衰退が指摘されています。
 その中間層の衰頽や没落は、大国の没落につながるものだと思います。その必然性を学問的に明らかにしたのが、「資本論」で有名なカール・マルクスです。
 マルクスは、資本蓄積の発展に伴って、生産は次第に集積し、自由競争は次第に独占へと転化すると指摘しました。そして、賃金労働者によって担われる生産の社会化が進む一方で、富の取得は経営者(資本家)に委ねられて恣意的に決定され、経営者(資本家・富者)と賃金労働(貧者)の間の矛盾は次第に大きくなるというのです。窮乏化論と言われています。それが、現在問題とされている格差の拡大だと思います。
 この格差の拡大(窮乏化)の矛盾が、資本主義の「弔いの鐘」となるとマルクスは指摘したのです。そして、万国の労働者が団結し、経営者(資本家・富者)を倒す世界同時革命によって、この矛盾が解決されると説いたのです。
 でも、現実は世界同時革命とはならず、一国社会主義の国が生まれたに過ぎませんでした。世界的な資本主義体制の変革には至らなかったのです。
 だから、現在問題とされている格差の拡大は、マルクスの窮乏化論が、現実認識として少しも間違っていないことを示していると思います。
 マルクスは、資本論の「第七篇 資本の蓄積過程」のなかで、「きわめて勤勉な労働者層の飢えと苦しみと、資本制的蓄積にもとづく富者の粗野または上品な贅沢的消費との内的関連は、経済的諸法則を認識することによってのみ暴露される」と書いているのですが、現在の日本において、非正規労働者として懸命に働きつつ、日々の生活に苦しむ多くの人々と、逆に、民間人として初めて国際宇宙ステーションに滞在したことを誇る実業家が存在する現実が、マルクスの窮乏化論の正しさを示していると思います。


 資本主義体制のもとでの生産は、労働者が生産過程で創出する剰余価値(利潤として現れる)を、資本家が搾取し、それによって社会的生産力を高めつつ労働者の生存を保証するので、剰余価値を増大させる労働時間の延長、労働強度の増大、過度の労働、労働生産性の発展が、経営者(資本家)のつとめとなり、それが、労働者の隷属状態を作り出しつつ、すべての労働者を窮乏化させるよう作用するということです。だからマルクスは”社会的生産力の増大が剰余価値の生産の形態をとる限り、資本主義は労働者にとって賃金奴隷制度になっているのである。”と書いています。
 現実社会の様々な格差の拡大は、経営者や労働者が資本の論理に支配されている限り、必然的なものであるということだと思います。

 人類は今、この格差の拡大を乗り越えることができるのかどうかが問われているのではないかと思います。それは、温暖化の問題や海洋汚染の問題にもつながっている問題であり、各国が自国の利益だけではなく、人類の利益を考えた政策を実現できるかどうかということでもあると思います。
 核兵器廃絶の問題にもつながっていると思います。大国が自ら核兵器を所有しながら、北朝鮮やイランにはその所有を認めないというのは、筋が通らないと思います。北朝鮮のICBM「火星17」の発射が、国際法違反だといわれていますが、そういう国際法自体が、私は搾取によって利益を集めている大国のエゴに基づくものだと思うのです。

 だから私は、今回のロシア軍ウクライナ侵攻の問題のような国家間の争いは、自国の利益を代表する政治家ではなく、国益を離れ、純粋に法的な観点で対処することのできる法律家を集めた国際機関が対処すべきだと思います。
 それができるかどうか、様々な面で岐路に立たされている人類の課題だと思います。格差拡大の問題も、温暖化の問題も、海洋汚染の問題も、核兵器廃絶の問題も、ウクライナの問題も、資本家階級と一体となった利益集団の一員である政治家による話し合いでは、根本的解決はできないと思います。

 先日、アメリカのIT機器大手、アップルの時価総額が、世界の上場企業で初めて3兆ドル(約345兆円)を超えたとの報道がありました。それは、日本企業のトップ、トヨタ自動車(約36兆円)の約10倍で、アップル一社で東証一部上場企業の時価総額合計(約730兆円)のほぼ半分に達するとのことでした。
 アメリカにはこの他、グーグル、アマゾン、フェイスブック(メタ)もあり、マイクロソフトなどもあります。世界中から利益や情報を集める、こうしたアメリカのIT機器大手を中心とする合法的な搾取のシステム、及び非人間的な競争原理が修正されない限り、世界が直面する様々な問題の解決は難しいと思います。
 様々な危機に直面している人類は、一日も早く利益追求の論理(資本の論理)から離れた法や道義・道徳に基づく決断を迫られていると思います。

 
 

 

 


 

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ウクライナの戦争は、本当は米ロの戦争?

2022年03月27日 | 国際・政治

 朝日新聞の「私の視点」に、ウクライナのキエフとドニプロで、国内避難民人道支援のために働いた元国連難民高等弁務官事務所職員、千田悦子氏の文章が出ていました。ロシア非難、プーチン非難一色のような欧米日に、警鐘を鳴らすものではないかと思いました。

 千田氏によると、ソ連崩壊以降、ロシアはNATO(北大西洋条約機構)拡大を防ぐために、モルドバやジョウジアに緩衝地帯を設けたといいます。ロシアのクリミア併合は、そうした流れに沿うものであるともいいます。
 2014年以降、ウクライナのルガンスク・ドネツク2州を併せたドンバス地域では、親露派によるロケット弾発射や発砲と、迎え撃つウクライナ軍の砲撃戦で、家や学校、病院、公共施設等が破壊されたということです。砲弾の音を聞きながら仕事をする日もあったという千田氏は、
 ”日本はウクライナ難民の受け入れを表明したが、ウクライナの人たちはできれば自国にとどまりたいこと、そして、何より、ロシアの人もウクライナの人もお互いに親戚も多く本当は戦いたいとは思っていないことをまず知っておいて頂きたい。ウクライナの人たちも多くのロシアの国民も仰天し、心を痛めているのである。
 と書いています。
 私は、やはり武器を供与したり、防弾チョッキやヘルメットを供与して、ウクライナ軍の戦いを支援することは、多くのウクライナの人たちの望んでいることではなく、ウクライナの人たちの望みは、戦争をやめることなのだと思いました。
 だから、戦争をやめるために、あらゆることをすべきなのに、ロシア軍のウクライナ侵攻前日(22日)、バイデン米政権は、フランスが提案した米ロの外相会談や首脳会談を、現時点では実施できないと主張しました。詳細は分かりませんが、なぜ、ウクライナの人たちの望みを叶えようと努力しなかったのでしょうか。また、なぜ近隣NATO諸国に軍隊を送ったりしたのでしょうか。

 第一、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大を阻止しようとするロシアの交渉相手は、本来ウクライナであるはずなのに、アメリカがウクライナを差置いて、前面に出ているのはなぜでしょうか。そこに私は、アメリカの利益を保持するために、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを弱体化しようとするアメリカの意図を感じざるを得ないのです。


 ウクライナを知る千田氏の文章は、ウクライナの人たちの多くが、ロシアと戦争をしてもNATO(北大西洋条約機構)に加盟したいなどとは思っていないことを示しているように思います。したがって、戦闘機の供与を求め、あくまでも武力でロシアに抵抗しようとする方針のゼレンスキー大統領は、ウクライナの人たちの思いではなく、アメリカ政府の意図を優先させているのではないかと疑います。


 千田氏の文章には、さらに、下記のようにあります。
人類は、第一次世界大戦後に国際連盟を設立したが、ヒトラーのナチスドイツの出現とユダヤ人大虐殺を含む第二次世界大戦の勃発を防げなかった。戦後、恒久平和を求めて国際連合を創設したが、今回の軍事侵略行為を止める有効手段がないのが実情だ。核使用も辞さないと言うプーチン大統領を追い詰めることは、人類にとっては得策ではないかもしれない。ロシアの歴代大統領が恐れてきたNATO拡大についてロシアの言い分を聞きつつ、今後の緊張を緩和する方向性をNATO全体で探る必要があるのではないだろうか。
 日本には多様な神を受け入れて全存在に感謝し、敗者を追い詰めない平和共生の思想が根底にある。世界が存続の危機に立つ今、唯一の被爆国であり、恒久平和を希求して戦争を放棄した国民として、日本人が新しい戦争放棄というパラダイムを世界に提案すべきではないか。武装強化は問題解決どころか対立を深める。中庸が肝心だと私は考えている。
 私は、こうした考えに基づいた対応が絶対に必要だと思います。”ロシアの言い分を聞く”ことで、ウクライナの被害拡大が防げるのではないかと思います。でも、アメリカ政府には、聞けない理由があるのではないかと思います。

 また、今月14日、アメリカ政府が中国に対し、ロシアのウクライナ侵攻を支援した場合、厳しい「結果」が待っていると警告したことが報道されました。ロシアと接する中国には、中国の立場があり、アメリカとは異なる考えがあると思います。にもかかわらず、アメリカのいう通りにしないと制裁を課すというようなアメリカの姿勢は、中国の自主的な外交権を侵害するものではないか、と私は思います。常々、民主主義や自由主義を標榜しているアメリカのすることではないと思います。


 もともと、ドイツとロシアを結ぶ新しいガスパイプライン、ノルドストリーム2によって、ロシアからエネルギー供給を受け、徐々にロシアとの関係を深めつつあったヨーロッパ諸国、特にドイツやフランスは、アメリカとは異なり、ロシアに敵対的ではなかったと思います。だからでしょうが、EU議長国となったフランスのマクロン大統領は、当初、ウクライナ問題に関し、米ロの間に立って、意欲的に調整に臨んでいたと思います。プーチン大統領もマクロン大統領の姿勢を称賛していました。でも、今やアメリカと一体となって、ロシアに敵対しているように思います。
 私は、その変節のかげに、中国に対するのと同じような、アメリカによる隠然たる「強制」、隠然たる「脅し」、隠然たる「制裁」とでもいうようなものが、何かあったのではないかと疑います。或は、逆に利益誘導があったのかも知れませんし、マクロン大統領自身が忖度したのかも知れません。とにかく、良からぬ力が働いたのではないかと思うのです。

 「脅し」といえば、日本では、北方領土問題に関わる「ダレスの脅し」が広く知られていると思います。
 1956年8月、重光葵外相が、ソ連の歯舞・色丹返還を受諾し、平和条約を締結しようとしたところ、当時米国務長官になっていたダレスが、「もしソ連に譲歩して国後・択捉を諦めるなら、沖縄を米国の領土とする」(『増補日ソ国交回復秘録』松本俊一著、佐藤優解説、朝日新聞出版)と圧力をかけ、沖縄に対する日本の潜在主権は保障できないと警告した「脅し」です。米国の介入には、主として2つの目的があったといいます。一つは米国の沖縄支配を確実にするため、もう一つは日ソの和解を阻止するためといいます。でも、こうした「脅し」はほとんど表面には出て来ません。ほとんど一般国民の知らないところでのやり取りです。
 アメリカは、しばしば、こういう表にでない圧力を、いろいろな国に加えることがあり、私は、それを隠然たる「強制」、隠然たる「脅し」、隠然たる「制裁」というような言葉で表現できるのではないかと思っています。沖縄の問題に関しても、そういうものがあるだろうと感じています。

 だから、アメリカは、中国に対してだけではなく、西側諸国に対しても、アメリカの方針に同調するよう、いろいろな圧力を加えているのではないかと想像します。世界の多くの国や様々な組織がロシアを敵視するになり、ウクライナの戦いを支援するようになったのは、アメリカのそうした隠然たる圧力が働いたからではないかと疑わざるを得ないのです。

 また、朝日新聞の「多事奏論」に、近藤康太郎氏の文章が出ていましたが、そこには
ウクライナ侵攻のあおりで、ロシア人芸術家が活動の場を狭められている。自国政権への態度を明確に示さないと、欧米などでは仕事を外される。大スターのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコも、今季、米メトロポリタン歌劇場の仕事がキャンセルされた。鮮明に「反プーチン」を表明しないからだ。民間人も殺す陰惨な侵略で、劇場のこの対応には、多くの人が納得しているのかもしれない。
 ネトレプコは声明を出している。
「第一わたしはこの戦争に反対です。わたしはロシア人で祖国を愛していますが、ウクライナにも友人がいます。彼らの悲しみと被害に自分の胸もつぶれている」
「それでも、わたしはもうひとつ、つけ加えなければならないのです。アーティストに政治的な意見を表明するよう強制するのは、正しいことではありません」
 平和は尊い。独裁は悪だ。
 あたりまえである。というか、だれも反対しようのない命題ではないか。
 しかし、なにかを言うこと、書くことを、強制されたくはない。たとえどんなに正しいことであっても、だ。それがアーティストの、表現者の底の底にある気骨ではないか。言うべきことは、言いたいときに、言いたい表現形式で、言う。…”

 ロシア軍のウクライナ侵攻に直接かかわりのない人たちにまで、このような形で圧力をかけたり、制裁の対象にしてしまうのは、やはり問題があるということではないか、と私は思います。
 それは、相互理解を妨げるだけではなく、恨みを増幅させ、戦いをより深刻なものにしてしまうと思います。国家的な争いの場合は、逆に、一層交流を広め、深めるべきではないかと思うのです。

 また、バイデン大統領が、プーチン大統領との話し合いをすることなく、プーチン大統領を「戦争犯罪人」と断定し、すべてがプーチン大統領の責任であるかのように主張したことも、私は気になります。国際世論を、アメリカに有利な方向に導く意図があるのではないかと思います。
 ロシア軍がウクライナに侵攻するに至る理由や経緯、また、侵攻後のロシア軍の行動実態がよくわかりませんが、すでに取り上げたように、プーチン大統領は、侵攻前の演説で、ベオグラードやイラク、リビア、シリアなどで、アメリカ軍がやったことを非難しています。似たような攻撃を受けることは、絶対に受け入れられないと語っています。だから、プーチン大統領は、ロシア軍の侵攻を「正当防衛」と考えているのではないかと思います。ロシアにとって脅威となるような、NATOによるウクライナ領土の軍事開発が受け入れがたいということで、侵攻したとすれば、一定程度の正統性はあるのかも知れません。キューバ危機を思い起こせば、アメリカは一方的に、ロシアを非難することはできないように思います。日本にも、先制攻撃と言われる敵基地攻撃能力の保持について議論があるわけなので、難しい問題ではないかと思います。


 さらに、バイデン米大統領はウクライナの隣国ポーランドを訪れた26日、ロシアによるウクライナ侵攻を厳しく非難し、プーチン大統領について「この男が権力の座にとどまってはいけない」と発言したことが報道されました。また、「この戦いは長い戦いになる」とも語ったようです。
 私は、バイデン大統領が、これを機会に徹底的にロシアを弱体化させようと意図し、プーチン政権をつぶしにかかっているから、こうした発言をするのであって、ウクライナの人たちのことが後回しになっているのではないかと思います。

 また、どういう根拠をもって、プーチン大統領を「戦争犯罪人」と断定したのかよくわかりませんが、もし、一般住宅や学校、病院などを爆撃し、民間人を殺害したことをもってプーチン大統領を「戦争犯罪人」と断定したのであれば、ベトナム戦争で、「絨毯(ジュウタン)爆撃」といわれた無差別爆撃をくり返し、第二次世界大戦で投下された爆弾を上回る量の爆弾をベトナムに投下した当時のケネディ、アメリカ大統領も間違いなく「戦争犯罪人」ということになると思います。直接アメリカを攻撃したわけでもない南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、ナパーム弾や枯葉剤を投下し、クラスター爆弾も使用したのですから、それは犯罪であったと思います。ウクライナ人を殺せば犯罪になるけれども、ベトナム人を殺しても犯罪にはならないというようなことはあり得ないので、ケネディ大統領は「戦争犯罪人」になると思います。同じように、湾岸戦争やイラク戦争を引き起こし、劣化ウラン弾を使用した当時の関係国の大統領や首相も、「戦争犯罪人」の可能性があると思います。

 特に、第二次世界大戦後も、いろいろな地域の紛争に関わり、戦争を継続してきたのはアメリカです。反米的な国に対しては、反政府側を支援したり、反政府軍に武器を供給したりして政権転覆を意図し、時には軍事介入にふみ切ったりしてきたように思います。良し悪しは別にして、マイダン革命とよばれた2014年のウクライナ騒乱にも、アメリカは何らかの働きかけをしたのではないでしょうか。だからアメリカは、本来ウクライナの人たちが決定すべきことに介入し、「この戦いは長い戦いになる」等と言うのではないかと考えてしまいます。

 大事なことは、千田氏の文章にあったに、ウクライナやロシアの多くの一般国民の思いを受けとめ、一日も早く戦争を終わらせることだと思います。

 

 

 

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ウクライナの被害拡大を防ぐために

2022年03月25日 | 国際・政治

 3月23日、国会議員が見守る中、ウクライナのゼレンスキー大統領が、およそ12分間、画面越しに演説をしました。そして、その内容が公表されています。
 ゼレンスキー大統領の「ありがとう。ウクライナに栄光あれ、日本に栄光あれ」の終わりの言葉と同時に、国会議員は皆、起立して拍手を送っているように見えました。
 でも、私は、その演説内容に不満です。
 ウクライナの悲惨な実態はわかります。だから、ロシアの理不尽なウクライナ侵攻を非難するのも当然だと思います。一日も早く平和を回復したいという思いで、いろいろな事実を取り上げていたことも理解できます。
 ただ、私は、いかにして平和を回復しようとするのかという道筋が示されなかったことに不満なのです。ゼレンスキー大統領は、”これからも戦争をしたいという侵略者に対して、非常に強い注意が必要です。「平和を壊してはいけない」という強いメッセージが必要です。責任のある国家が一緒になって、平和を守るために努力しなければならないです。”というのですが、なぜ、ロシアがウクライナに侵攻するに至ったのか、という経緯については、ほとんど語らなかったように思います。
 大事のは、そこを明らかにして、相互に歩み寄ることではないかと思います。ロシアのウクライナ侵攻を非難し、「侵略者」として攻めるだけでは、現実に平和を回復することはできず、ウクライナの被害はさらに拡大するのではないかと思います。

 プーチン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻した2月24日、国営テレビで、国民向けの演説しました。その演説から、欧米諸国のロシアに対する”冷笑的な欺まんと嘘、もしくは圧力や恐喝の試み”というものに対する不満、NATO主要国に対する猜疑心や恐怖心が、読み取れると思います。だから、平和を回復するためには、それらを解消し、相互理解を深め、歩み寄る姿勢が欠かせないと思います。100%ロシアが悪いという姿勢では、平和の回復は難しいと思います。

 日本でも、先制攻撃との指摘のある敵基地攻撃能力の保有が検討されているのですから、ロシア軍のウクライナ侵攻の理由や背景、「侵攻」を正当づける根拠を問い詰め、その違法性をきちんと示す必要があると思います。 

 でも、ゼレンスキー大統領は、”アジアで初めてロシアに対する圧力をかけ始めたのは日本です。引き続き、その継続をお願いします。また、制裁の発動の継続をお願いします。”と語りかけました。でも、相互理解を深めることなく、そういう力の行使をするだけでは、私は、平和の回復は難しいと思います。”ロシアとの貿易禁止の導入をお願いします。”ともいうのですが、それは決してウクライナにとってプラスにならないように思います。
 そういう力の行使は、ウクライナの被害拡大をもたらすことになると思います。ここは、ぐっとこらえて、歩み寄る姿勢を示し、ロシアの攻撃をやめさせることが大事ではないかと思います。

 前稿で取り上げたように、ウクライナの戦火を逃れてポーランドに避難したオルガ・ルミアンセバさんは、”実家の両親はロシアのメディアを通じて戦況を知り、「ロシアがウクライナを救うために介入している」と信じている。娘に「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と、携帯電話に頻繁にロシア発のニュースを転送してくる。”と言っているのです。多分、ルミアンセバさんの実家の両親は、一方的な報道でそう信じているのだと思います。でも、私は、アメリカを中心とする西側諸国のわれわれにも、似たような部分があるように思います。ゼレンスキー大統領の演説は聴いても、プーチン大統領の演説は聴いていません。そして、その詳細はほとんど取り上げられません。ルミアンセバさんの実家の両親を含め、ロシア側の人たちが、どんな情報によって、ロシア軍のウクライナ侵攻を正当化しているのかも、ほとんど知ることが出来ません。

 だから、ゼレンスキー大統領の演説を、ロシアの国民に聴いてもらう機会を設け、ウクライナの被害の実態の映像を見てもらったり、逆にプーチン大統領の演説を西側諸国の人たちに聴いてもらう機会も設け、ウクライナ政権やウクライナ軍に対するロシア側の理解、また、そこに含まれる誤解や思い込みがどのようなものであり、それを取り除くためにどうすればよいのか、世界中の人たちが考えれば、戦争をやめるきっかけがつかめるのではないかと思います。
 
 通信手段が飛躍的に進んだ今、そうしたギャップを解消し、事実を共有することはそれほど困難ではないと思います。なぜ、そうした努力がなされないのか。なぜ、ロシアの人たちをあらゆる組織から排除するのか。私は、理解できません。逆に、ウクライナ人が直接ロシア人に窮状を訴えたり、ロシア人がウクライナ人に、ロシア側の思いを伝える機会を増やし、正しい情報を共有すれば、被害の拡大は防げるのではないかと思います。
 敗戦後の日本では、大本営発表が「嘘の代名詞」といわれたことを忘れてはならないと思います。一方的な情報に基づいて戦争を続けてはならないと思います。

 また、生物兵器の使用についてのように、まっこうから対立する意見については、相手側が嘘をついているのだということで、そのまま放置せず、多くの国の法律家や専門家を集めて、リットン調査団のような調査団を編成し、調べるようにすれば、嘘が通用しなくなり、相互理解が進むのではないかと思います。
 アメリカを中心とする西側諸国は、厳しい経済制裁とともに、あらゆる組織からロシアの人たちを排除しました。でも、それは逆だと思うのです。してはいけないことだと思います。相互理解は事実上不可能になり、、何が真実かもわからなくなって、相互に不信感を高め、憎しみを増幅することになってしまうと思うからです。
 
 バイデン大統領は、NATO(北大西洋条約機構)首脳会議で訪問するベルギーのブリュッセルで、ロシアに対する新たな経済制裁を発表するといわれています。ロシアに対するさらなる経済制裁は、ロシア軍のウクライナ侵攻に関わりのない大勢の民間人を争いに巻込み、日本を含む西側諸国に対する憎しみを広げ、深めることにつながるのではないかと思います。バイデン大統領は中国に対しても、ロシアに対する経済制裁を要求しているようですが、それは行き過ぎだと思います。
 バイデン大統領は、ロシアのヨーロッパ諸国に対する影響力の拡大が、アメリカの利益を損なうことにつながるので、ウクライナの問題の対処を主導し、ロシアの影響力拡大を阻止するとともに、ロシアという国の弱体化を意図しているのではないかと疑わざるを得ません。
 ロシア軍がウクライナに侵攻する前は、ドイツやフランスを中心とするヨーロッパ諸国のロシアに対する姿勢は、それほど敵対的ではなく、アメリカとは少し違った部分があったと思います。だから、ノストストリーム2の計画も着々と進んでいたのではないかと思います。でも、アメリカは、当初から独露間のノルドストリーム2に強く反対していたと思います。当時のトランプ政権は制裁措置まで考えていると聞いていました。
 バイデン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻したら、ノルドストリーム2を破壊すると公言したことがありますが、そうした意図をもって、ロシア軍がウクライナに侵攻する前から、アメリカがウクライナで動いていた可能性はないでしょうか。
 とにかく、ロシア側とアメリアを中心とする西側諸国が、正しい情報を共有する努力がなされなければ、ウクライナの被害拡大を止めることは難しいと思います。経済や人的交流の遮断はしてはならないことであり、危険だと思います。

 また、ロシアのペスコフ大統報道官は、CNNのインタビューで、「国の存亡危機なら核兵器使用は可能だ」と語ったようですが、プーチン大統領も、核戦力を含む抑止力を、特別態勢に移すよう命じており、現実に使われる可能性は否定できないような気がします。
 アメリカを中心とする西側諸国が、ウクライナに対する経済制裁や武器の援助を強化することによって、ロシアを屈服させることができるとは思えません。政権を顛覆させることもできないと思います。そうした方法でロシアを追い込み、プーチン政権が危うくなれば、逆に、アメリカも日本に原爆を投下したのだから、ロシアにも核兵器使用が許されるというような方向に進む危険性があるのではないかと思います。
 こうした軍事的対立が深刻になると、強硬派が勢力を拡大し、通常考えられないような戦闘行動が展開されることは、過去の日本の歴史が語っているように思います。
 日本は、先の大戦で毒ガスを使い、細菌兵器も使っているのです。また、アメリカは、日本で降伏の話し合いが進んでいたにもかかわらず、広島と長崎に原子爆弾を投下したのです。
 武力や経済制裁によって、平和を回復しようとするのは間違いだと思います。それは、ウクライナに、さらなる被害をもたらすと思うのです。
  

 現在は、ロシアに行かなくても、ロシアの人たちと言葉を交わすことが可能です。だから、真実の情報を共有することができるような体制づくりをするべきだと思います。
 インターネット等を活用して、ウクライナの人が、直接ウクライナの惨状を、ロシアの人たちに語ったり、一般のロシア人が、欧米諸国に対して抱いている不満や恐怖心を世界中の人たちに語ったりすれば、ウクライナの悲劇の拡大は抑えることができるのではないかと、私は思うのです。
 ゼレンスキー大統領の演説を聞いただけで終わりにしないで、正しい情報をロシア側と共有する努力をしてほしいと思います。

 「ロシアがウクライナを救うために介入している」「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と信じ、ロシアのニュースを伝えてくるというルミアンセバさんの両親と、真実を共有できるようにすることが、ウクライナのさらなる被害拡大を防ぐつながるのではないでしょうか。

 

 

 

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100%ロシアが悪で、アメリカ・ウクライナが善か

2022年03月22日 | 国際・政治

 先日のニュースのなかに、破壊された住居の前で、”戦争を止めて下さい”と泣き叫んでいる老女の映像がありました。私は、それが多くのウクライナ国民の気持だろうと思います。だから、それを最優先させて、話し合ってほしいと思います。ロシアと戦争をしても、NATOに加盟すべきだと考えている人は多くないのではないかと思います。

 でも、アメリカはウクライナに武器を供与し、あらゆる支援を約束して、ウクライナに非武装・中立の道ではなく、ロシアとの戦争を選択させたのではないかと思います。 

 バイデン大統領は、プーチンを戦争犯罪人呼ばわりし、100%悪で、ゼレンスキー大統領が善であるかのような主張を続けているようですが、私にはとてもそうは思えません。話し合う余地があると思います。

 ロシアのウクライナ侵攻以来、毎日、あらゆるメディアが、ウクライナの悲惨な実態をくり返し報道しています。そしてそれが、ロシアとの話し合いではなく、アメリカの方針に同調して、ロシアを屈服させるという方向に向わせているように、私には思えます。

 ウクライナに対する武器の供与や、ロシア人個人の資産凍結を含む厳しい経済制裁、あらゆる組織からのロシア人の排除も、話し合いではなく、ロシアを屈服させるためのものではないかと思います。

 でも、それはヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止しようとするアメリカの戦略ではないか、と私は疑わざるをえないのです。

 

 二月はじめには、マクロン大統領がウクライナ問題の「仲裁」に乗り出し、「ロシア」や「ウクライナ」を訪問しました。その際、プーチン大統領は、マクロン大統領がウクライナの「危機解消」のため努力を重ねていることを称賛したといいます。マクロン大統領は「戦争を回避」のため、「相互に信頼と安定と透明性の要素」を築き上げていきたいと話したということです。

 話し合いは可能だということだったと思います。

 また、プーチン大統領との会談に先立ち、マクロン大統領が仏日曜紙ジュルナル・デュ・ディマンシュに述べたという、ロシアの目的は「ウクライナではなく、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)相手のルールの明確化だ」という言葉も忘れられてはならないと思います。

 ロシアがウクライナの占領を目的としてはいないという認識だったということです。マクロン大統領は、ロシアの懸念を理解し、欧州諸国の主権と平和を守ることができる「新しい均衡」の提案が必要だと考えていたようです。したがって、「新しい均衡」の話し合いが進めば、戦争を避けられたし、ウクライナの国家主権も侵害されることはなかったと思います。 

 ところが、ヨーロッパに対するロシアの影響力拡大を阻止したいアメリカは、そうした対応を受け入れなかったということではないかと、私は思います。

 それは、プーチン大統領の、アメリカを中心とする北大西洋条約機構(NATO)諸国に対する非難の言葉で確認できると思います。

北大西洋条約機構(NATO)諸国は、東方不拡大の確約に関するロシアの提案に「ほんのわずかな歩み寄りも見せなかった。ウクライナへの攻撃はほかに方法がなかった」

 

 さらに、バイデン大統領とショルツ首相の会談における、バイデン大統領の言葉も見逃すことができません。バイデン大統領は、”ロシアがウクライナに侵攻した場合は、ロシアとドイツを結ぶ天然ガスのパイプライン「ノルド・ストリーム2」の計画は「終わらせる」”と述べたといいます。ここに、私は、ヨーロッパに対するロシアの影響力拡大阻止のアメリカの意図が読み取れるように思います。

 

 また、歴史を溯れば、東西ドイツの統一の際、「NATOゾーンの拡大は受け入れられない」と主張したソビエトのゴルバチョフ大統領に、アメリカのベーカー国務長官は「われわれも同じ立場だ」と応じたと言います。公開されたアメリカ国務省の会議録によれば、ベーカー国務長官はソビエトに対して「NATOの管轄地域、あるいは戦力が東方へと拡大することはない」と明確な保証を与えたというのです。残念ながらその約束は文書化されなかったようですが、会議録は存在するようです。

 

 また、私が気になるのが、ロシア側の意図や情報がほとんど報道されない現状です。

 ネット上に、”実家の両親は「ロシア支持」 クリミア出身女性の苦悩”と題する、3/21() 9:00配信の毎日新聞の記事がありました。

 ウクライナの戦火を逃れてポーランドに避難してきたオルガ・ルミアンセバさん(27)は、

実家の両親はロシアのメディアを通じて戦況を知り、「ロシアがウクライナを救うために介入している」と信じている。娘に「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と、携帯電話に頻繁にロシア発のニュースを転送してくる。「あまりに不快で最後まで読めません」。反論はせずに放置している。「家族の関係にはさまざまな要素があります。政治的な見解の違いだけで関係を破綻させたくはありません」

 というものです。戦争も悲劇ですが、この認識の隔たりも悲劇であり、無視できないと思います。私は、ロシアだけではなく、欧米や日本でも、戦争を終わらせるために必要な情報が、きちんと伝えられていないのではないかと感じています。

 ロシアに関する情報は、反政府のデモや、ロシアの方針に反対する人たちに関するものが大部分で、プーチン大統領の考え方の全体や、それを支持する人たちの考え方は、ほとんど知ることができない状況になっているような気がします。

 プーチン非難、ロシア非難で、国民が皆、同じ方向を向くということは、そうしたことの現われで、話し合いの方向には、向いていないように思います。

 あらゆる組織からロシアの人たちを排除する方針も、相互理解を妨げる誤った方針ではないかと思います。逆に、あたゆる分野で、ロシアの人たちとの交流を深め、理解を深め合って、戦争を止める方向に向かわせる必要があるように思います。上記のオルガ・ルミアンセバさん親子の認識の隔たりを解消するためにも、あらゆる組織からのロシアの人たちの排除は、間違っていると思います。相互理解を不可能にすると思います。

 ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻直前(2022224日)、国営テレビを通じて、ロシア国民向けの演説をしたといいます。その演説の内容に関する報道も、ほとんどないように思います。でも、話し合うために考えるべきことが、いろいろあるように思います。

 プーチン大統領は、日本ではヒトラーと同一視されるような恐ろしい独裁者と思われているように感じますが、耳を傾けるべきことを言っているように思うのです。 

 

 例えば、

その間、NATOは、私たちのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、絶えず拡大している。軍事機構は動いている。繰り返すが、それはロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。

 この指摘は事実ではないでしょうか。北大西洋条約機構は軍事同盟です。それが、かつてソ連の一部であったウクライナを引き入れようとしているのですから、ロシアにとっては脅威になるだろうと思います。キューバ危機を思い起こせば、この主張は当然のように思います。

 また、アメリカを中心とすNATO関係国を非難して、

まず、国連安保理の承認なしに、ベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。この事実を思い起こさなければならない。 というのも、西側には、あの出来事を思い出したがらない者たちがいるからだ。私たちがこのことに言及すると、彼らは国際法の規範について指摘するのではなく、そのような必要性があると思われる状況だったのだと指摘したがる。

 その後、イラク、リビア、シリアの番が回ってきた。

 リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれ、国は人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっていった。リビアだけでなく、この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こした。

 シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国で西側の連合が行った軍事活動は、侵略、介入にほかならない。ただ、中でも特別なのは、もちろん、これもまた何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。その口実とされたのは、イラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。

 それを公の場で証明するために、アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。後になって、それはすべて、デマであり、はったりであることが判明した。イラクに化学兵器など存在しなかったのだ。

 

 こうしたことが、NATOの東方拡大をおそれ、ウクライナ侵攻を正当化することにつながっているとすれば、話し合いによる解決は、可能ではないかと思います。

 

 プーチン大統領は

繰り返すが、そのほかに道はなかった。目的はウクライナの“占領”ではなく、ロシアを守るため 

 現在起きていることは、ウクライナ国家やウクライナ人の利益を侵害したいという思いによるものではない。それは、ウクライナを人質にとり、我が国と我が国民に対し利用しようとしている者たちから、ロシア自身を守るためなのだ。

 とも語っているのです。

 先日、Sam, Shayna, Yint, and the Win Without War teamからのメールに下記のようにありました。

Win Without War

Syunrei: 19 years ago today, the United States invaded Iraq, sending 2,000-pound bombs and nearly 40 Tomahawk cruise missiles loaded with thousands of pounds of explosives into Baghdad.

Upwards of 200,000 Iraqi people were ultimately killed as a direct result of the war that followed.”

 イラクの人たちが200万人以上殺されたというような事実に対する恐怖心が、ロシアのウクライナ侵攻の背景にあるのでは無いでしょうか。だからといって、ロシア軍のウクライナ侵攻が正当化できるとは思いませんが、共感的理解を示し、軍事行動を止めて話し合いによる解決を求めることは可能だと思います。

 ウクライナの人たちの避難先にも招集令状が届き、ウクライナは総動員体制で、家族離散が続いているようですが、私は、進む方向が違うと思いうのです。

 また、民兵が、首都キエフなどの住宅街の中にトラックに積んだ地対空砲を持ち込み、住民を「人間の盾」として使いつつ、上空の露軍機を攻撃したりしているので、ロシア機が反撃すると「露軍機がキエフの住宅街を空爆した」というというような情報が広がることになるという人もいます。私には、事実はわかりませんが、あり得ることのように思います。

 私は、ウクライナの人たちを戦わせるのではなく、話し合いのためにできることをすべてやってほしいと思います。

 武器の供与やも、防弾チョッキやヘルメットの供与も、きびしい経済制裁も、あらゆる組織からのロシアの人たちの排除も、私は誤りだと思います。

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明治維新、徳川慶喜の回想と会津、+ウクライナの戦争

2022年03月13日 | 歴史

 薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、会津藩が恭順の意志を示し、
”…宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る
 というような会津嘆願書を差し出したにもかかわらず、それを受けつけず攻撃を続け、戦争終結後も、徹底的に差別し、いじめ抜きました。
 本来、徳川慶喜 が江戸城を新政府に明け渡し、寛永寺で閉居を開始した時点で、幕府と討幕派の戦いは終わっているのだと思います。でも、そういう流れにならなかったので、奥州や羽州の諸藩は、京都を守った会津藩と江戸を守った庄内藩に同情し、会津や庄内を助けるために奥羽越列藩同盟を結成したということです。ところが、薩長を中心とする藩閥政権が、あくまで会津や庄内を討伐する姿勢を貫いたため、奥羽越列藩同盟が軍事同盟になってしまったという歴史の事実は見逃されてはならないと思います。

 また、薩長藩閥政権側の攻撃は、あまりに残酷非道なものだったと思います。抵抗する会津兵のみならず、武士はもちろん、無抵抗の町人や百姓、逃げ惑う老若男女まで見境なく斬り、撃ち殺したというのです。おまけにその死体の埋葬を許さず、放置させたといいます。そして、最終的には、ニ十八万石の会津藩を滅藩とし、北の果ての下北の地に追いやったのです。それが斗南藩三万石(実質七千石)といいます。だから私は、薩長藩閥政権が、逆らうものは徹底的に潰し、再び逆らうことができないようにしたのだと思います。私は、その野蛮性がその後、朝鮮や中国に向い、日本の敗戦まで続いたように思っています。

 問題は、その薩長藩閥政権の流れを受け継ぐ政治家が、現在、再び政権中枢で勢力を拡大し、”日本を取り戻す”などとうキャッチコピーを掲げて、戦後民主化された日本を、着々とつくりかえつつあるということです。

 だから私は、明治維新にこだわっているのですが、今回は、「徳川慶喜のすべて」小西四郎(新人物往来社)から、徳川慶喜自身の回想の言葉をいつくか抜萃しました。 

 前稿で、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)から
鳥羽・伏見の戦いで傷つき、すべてを失った会津の兵士たちは口々に、「豚一(ブタイチ)が弱いために敗北した」と悔しがった。豚一とは慶喜のことである。よく豚を食べた。
 という文章を引きました。会津藩士のこうした思いは、当然のことだと思います。
 徳川慶喜が自ら、二条城を出て大坂城に移った時、下記に抜萃した文章にあるように、大坂城にイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、プロシアの六国公使を招き、”王政復古は、幼い天皇の意見に託して、実は私心を行なったもので、それは万民を悩ませる兇暴の所業であると決めつけ、依然として自分が、日本の主権者であり、幕府が日本の政府なのだ”と主張ています。
 そして、強気の姿勢を見せ、幕兵には「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」と命じたといいます、でもその夜、慶喜は、ひそかに大坂城を脱出し、江戸に帰ってしまったというのですから、それは、裏切り行為に等しいものであったように思います。だから、徳川慶喜の、そうした一貫しない姿勢が、”豚一が弱いために敗北した”というような思いを抱かせることになってしまったのではないかと思います。

 下記の回想を読むと、幕府側が決して一枚岩ではなかったことがよくわかります。特に徳川慶喜が、浮いた存在であったような気がします。でもそれは、薩長を中心とする尊王攘夷急進派の欺瞞に満ちた戦い方を知悉している徳川慶喜に、大きな不安があったからではないかと想像します。
 徳川慶喜は、身近にいた幕臣の多くを殺され、失っています。そしてよくその寂しさを側近に語っていたようです。巧みに朝廷の権威を利用する尊王攘夷急進派は、テロを繰り返す残酷な集団でした。だから、抵抗を続けて敗けると、幕府側の人間が皆殺しにされるような悲惨な事態に至るのではないかという不安に苛まれていたのではないかと思います。そうした事態を避けるためには、自分が何といわれようと、戦いを止め、恭順の意志を示す必要があるという考え方をしたのではないか、と想像します。そうでなければ、聰明で知られる徳川慶喜の矛盾に満ちた態度は、理解できないように思います。

 ウクライナ戦争に関しては、アメリカの影響下にある日本では、ウクライナに侵攻したロシア非難一色のような気がします。でも、ロシアを非難することが、ウクライナの戦争を支援することになってはいけないと思います。戦争を止めることが、最重要課題であると思います。だから、ロシア軍がなぜウクライナに侵攻したのかということをつきとめ、その経緯を明らかにして、話し合いに持ち込む努力が続けられなければならないと思います。
 アメリカが、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止しようとする意図をもって、ノストストリーム2の運用を妨害するような動きを続けていたという情報が気になります。また、その合法性も気になります。
 さらに、プーチン大統領がくり返している、東西ドイツ統一の際のNATO東方不拡大の約束の詳細も気になります。そうした事実が、きちんと国際組織の法律家によって聴取され、明らかにされて、客観的に検証される必要があると思います。そして、武力的ではなく、法的に解決される道を模索してほしいと思います。
 アメリカやNATO関係国に追随し、ロシア軍のウクライナ侵攻を根拠に、ロシアを屈服させようとする力の政策は、戦争の被害を拡大することになるように思います。武器の供与はもちろん、厳しい経済制裁も、個人資産の凍結も、防弾チョッキやヘルメットの供与も、あらゆる組織からのロシア人の排除も、戦争の被害拡大につながるものではないかと思います。
 こうした国際的な争いは、武力衝突に至る前に、第三者的立場に立てる法律家が対処するシステムを、一日も早く確立してほしいと思います。軍人や政治家に任せると、どうしても武力衝突になる傾向があるように思います。
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                  最後の将軍徳川慶喜と戊辰戦争
                                               佐々木克
 慶喜回想
『昔夢会筆記』は、徳川慶喜晩年の回想談速記録(部分的には談話をもとにした筆記)である。
 三十歳にして、慶喜は自らの責任で、幕府終焉の幕を引いたが、以後延々と、かつての政敵の演ずる、見たくもない芝居を見続け、四十年という巨大な空間を経たあとで、彼は自分の幕末史を振り返ってみせたのである。

 大政奉還
 明治四十四年(1911)に行なわれた談話聴取の席で(『昔夢会筆記』第十三)井野辺茂雄が徳川慶喜に、大政奉還について質問した次のような問答がある。(公は徳川慶喜)
 
井野辺 次を伺います。大政を御奉還になりました時に、その後の御処分はいかが遊ばさるべきお考えでございましたろうか。将来における徳川家のお立場についてのその時の御決心を伺いとうございます。
公 それは真の考えは、大政を返上して、それで自分が俗に言う肩の力を抜くとか安を偸むとかいうことになって(「は」脱か=引用者註)すまない。大政を返上した上は、実はあくまでも国家のために尽くそうという精神であった。しかし返上した上からは、朝廷の御差図を受けて国家のために尽すというのだね、精神は。それで旗本などの始末をどうするとかこうするとかいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からはこれまでどおりにいっそう皇国のために尽くさぬではならぬ、肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神であった。後で家来をどうようとかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった。
井野辺 あの頃山内容堂などの計画では、議政府というものを設けまして諸大名・旗本・諸藩士、そういう者から俊才を抜擢して、会議制度で政治をやって行こうという案でございます。容堂の腹の底では議政府の議長みたようなものを御前に願って、やはり徳川家が政治の中心であるかの如き形でやってゆきたいというような計画をいたしておりまして、何かそんな風の事柄につきまして……。
公 何かあったか知らぬが、しかしそれは容堂の方にあるのだ。こちらにはない。すべて返上した以上は、朝廷の命を奉じて何でもやろう、こういうだけの精神だ。それまでのことだ。他にはいろいろ何もあっただろうけれども、それは他の方の話で、関係ないことだ。

 ・・・
 …この談話から五か月後、慶喜は「王政復古の基礎を立てられるべきについてはいかなる御成案あらせられしか伺いたく候」と質問され、以下のように答えている。

 予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとていかにして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき。如何とされば、公卿・堂上の力にては事ゆかず、諸大名とても同様なり。さりとて諸藩士にてはまだ治まるべくとも思われず……(『昔夢会筆記』第十四)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    慶喜の戊辰戦争
 ・・・
『昔夢会筆記』(第十五)で、中根雪江から王政復古のクーデターの計画を聞いた時の事を、慶喜は次のように述べている。

 中根が二条城に来りて、近日王政復古の大号令を発し、関白、将軍、守護職、所司代みな廃せらるるに至るべしと、眼を円くして語れるは事実なり。この時は人払いにて聴たるやに覚ゆ。されど予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職をも辞したれば、王政復古の御沙汰あるべきは当然にて、王政復古にこれらの職の廃せられんこともまた当然なり。
中根退きて後、予は板倉伊賀守を呼びてその旨を告げ、「この上何事も朝廷のままに従う事、なお従来諸大名が幕府の命に従いしがことくすべし」といいしに、板倉も至極同意にて「謹んで朝命をさえ御遵奉遊ばされなば、それにてよろしかるべし」といえり。されど会桑はとうてい承服すべきにあらざれば、これを聞かせては面倒なりと思いて、いまだこれを洩らさず……

 この談話にも表われているが、慶喜には討幕派と一戦を交えようとする意志はなかったように思える。強硬派の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬には内密にしておいた事がそれを物語っていると言えよう。この両藩こそ、在京幕府兵力の中核であった。十二日に二条城を出て大坂城に移った時も、この両者には「遅速緩急あるも、必ず彼が罪を問う可し、予に深謀あり、然れども事密ならざれば敗る、今明言す可らず」(『七年史』下巻)といい、有無をいわさず、大坂に連れて行ったのであった。「あれを残しておけば(戦争が=引用者)始まる」(『昔夢会筆記』)第五)というのが慶喜の理由である。
 討幕派の罪を問うとか、深謀があるとか、慶喜は含みのある言葉で強硬派をなだめて、下坂した。会津・桑名両藩主をはじめ、幕府の主戦派は、慶喜が大坂城に拠って陣容を補強して反撃に移るだろうと期待し、大久保利通ら討幕派の首脳部でさえ、そう見ていた。
 確かに、大坂城に移ってからの慶喜は、強気の姿勢を見せている。十六日、彼は大坂城でイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、プロシアの六国公使を引見したが、そこで、王政復古は、幼い天皇の意見に託して、実は私心を行なったもので、それは万民を悩ませる兇暴の所業であると決めつけ、依然として自分が、日本の主権者であり、幕府が日本の政府なのだと主張していた。
 一方討幕派の方であるが、王政復古を宣言したものの、政府の組織も整わず、財政的裏付けもなく、政府部内の意志統一も今一つであった。それに、慶喜の辞官・納地のやり方をめぐって、議論が分かれ、次第に公議政体派の方が力を盛り返して、岩倉具視さえも、慶喜の処分をめぐって軟化しだした。慶喜が自ら上京して、辞官と納地を上奏するならば、慶喜を、王政復古政府の一員たる議定に就任させてもよいとまでいい出した。限定つきではあるが、公議政体派の運動によって、慶喜復権の兆しが見え出して来ていた。
 しかしそれでは、討幕派は承知しない。彼らの目的は、あくまでも幕府を排除した薩長討幕派政権の樹立でなくてはならないのだ。そうでなければ、何のための討幕挙兵であり、クーデターであったのか無意味になる。王政復古政府内における討幕派は、下手をすると少数派に追い詰められそうな気配が見え出し、また大坂城を根拠とする幕府軍への恐怖感もあって、次第に焦燥感を強くしていった。討幕派は何かしら局面打開の突破口を見いださねばならなくなっていた。
 そうした時に起ったのが、西郷隆盛が指揮する薩摩藩関係者による、江戸市中擾乱工作と、それに対する幕府側の攻撃、すなわち、ニ十五日、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き打ち事件であった。慶喜の目の届かぬ江戸で起こったとはいえ、幕府側は、まんまと薩摩・討幕派の挑発に引っかかってしまったのである。こうなったら戦争しかない。
 薩邸焼き打ちの報が大坂城にとどいたのが、暮のニ十八日、城内は蜂の巣をつついたようになった。もはや慶喜も、激昂する会・桑その他幕府側兵士を抑えきることができなかった。おりから慶喜は、辞官・納地を上奏するため上洛の準備中であり、軽装で(つまり小人数を従えて)上洛するともりであったが、勢いづいた幕兵は「残らず行け」という勢いになってしまった。ついに戦争である。年が明けた正月二日、幕兵は伏見まで進んだ。先鋒となった幕府大目付滝川具挙は「討薩の表」を持っていた。翌三日、鳥羽と伏見において、戦争が始まる。幕府崩壊を決定づけた戦争であった。
 当時の状況について、慶喜は次のように回想している。
「それ(討薩の表=引用者)は確かに見たようだったが、もうあの時分勢い仕方がない…。とうてい仕方がないので、実は打棄らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中が持って行ったということだ」
「書面などは後の話で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方も早くはじめりゃあよい。始めリゃ向こうを討ってしまうというのだ。向こうも討ってしまいたいけれども機会がない。此の方も機会がないといったようなわけで、両方真っ赤になって逆上せ返っているんだ。どんなことを言ってもとても仕方がない。
「私は不快で、その前から風邪を引いて臥せっていた。もういかぬというので、寝衣のまま始終いた。するなら勝手にしろというような少し考えもあった」(以上『昔夢会筆記』第五)

 この談話を読む限り、当時の幕兵の勢いを、もはや慶喜個人では抑えきれなかった様子がよくわかる。戦争が始まる時の情況とは、大方こんなものなのだろう。
 ・・・
 正月三日の鳥羽・伏見戦争で幕軍は敗れ退却する。六日夕、慶喜は諸有司・隊長らを大坂城の大広間に集めて対策を尋ねた。答えは依然として再挙を熱望する声ばかりで、その上幕軍を鼓舞するために慶喜の出馬を迫る声が圧倒的であった。慶喜はこの時、すでに江戸に帰る意志を強くしていたという。しかし将兵には「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」(『昔夢会筆記』)第十四)と命じた。
 だがそうしておいて、慶喜自身はその夜、ひそかに大坂城を脱出し、江戸に帰ってしまった。慶喜に同行したのは、松平容保、松平定敬、老中酒井忠惇、板倉勝静ら、わずか数名であった。しかも彼らは、慶喜がなぜ江戸に脱走するのか、その真意は伝えられていない。一般の将兵が慶喜の逃亡を知ったのは、夜が明けてからであった。取り残された者たちも、主のいなくなった大坂城を捨てて、われ先にと脱走して行ったのであった。
 この時慶喜は「江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず」(『昔夢会筆記』)第十四)という心境であったという。大坂城脱出に際して将兵をだましたのは、東帰恭順を主戦派将兵たちに妨げられるのを恐れたためであった、という意味の事柄も述べている。しかしながら一方では、会津藩兵には、たとえ千騎が一騎となっても退くなといい、桑名藩兵にも大坂城の死守を命じている。これらも、東帰を妨げられないための、カモフラージュ作戦なのであろうか。ともかく、幕府の最高責任者として慶喜を見た時、その行動には不透明な部分が多過ぎはしないか。
 ところで、幕軍の敗色が決定的となった六日になってから、急に東帰を決意し、大坂城を急遽脱出したのは、一刻も早く江戸城に帰って、再起の態勢を整えるためであった、と慶喜の意志を解釈する説もある。確かに十二日に江戸城に帰ってからの慶喜は、再び強気の姿勢を見せたり、とても恭順謹慎を決心している人間とは思えない動きをする。十七日には、松平慶永、山内容堂に手紙を送って朝廷に周旋を依頼し、その中で慶喜は、鳥羽・伏見戦争は「先兵の者が争闘」したまでの事で、追討令が出されたのは心外の至りであると述べてさえいた。
 結局、慶喜最後の期待に反して、討幕派政権は、慶喜球解の嘆願を無視し、慶喜はニ月十二日に江戸城を出て、上野東叡山寛永寺大慈院に移り謹慎し、恭順謝罪書を政府に提出せざるを得なかった。
ここに彼の政治的生命は、完全に終わりを告げるのであるが…。
  

 

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明治維新、会津は「朝敵」ではなく「長敵」

2022年03月05日 | 歴史

 とうとうウクライナで戦争が始まってしまいました。ロシアのウクライナ侵攻は非難されて当然だと思います。声をあげるべきだと思います。
 でも、私は、ロシアのウクライナ侵攻に反対することは、ウクライナに武器を供与したり、ロシアをあらゆる国際組織から排除したり、厳しい経済制裁を課したりすることとはイコールではないように思います。そこが曖昧なまま事態が深刻化していくようで心配しています。
 毎日のようにプーチン大統領の険しい顔、怖い目つき、怒りに満ちたしゃべり方を映像で見せられていますが、プーチン大統領を怒らせているのは何なのかをしっかり受けとめ、事態の悪化を、何とか防いでほしいと思います。
 プーチン大統領は、NATOの東方拡大を自国の命運がかかった重大問題だと訴えているようです。そして、1990年のドイツ統一交渉の過程で、欧米はNATOを東方に一ミリも拡大しないと約束したのに、その後、一方的にその約束を反故にしたと怒っているようです。でも、アメリカのバイデン大統領はそんな約束はなかったと突っぱねているようです。
 だから私は、アメリカではなく、国連や国際司法裁判所などの国際組織が間に入って、その事実について検証し、問題の解決に向けた取り組みを提案するシステムを確立して欲しいと思います。多くの法律家を集め、対立する両方の意見や考え方を公的な場で聴取し、それらを記録に残し、国際社会で共有した後、法律的判断を下してほしいと思います。政治家や軍人は、自国の利益を守ることが仕事で、決して譲ろうとしない側面があり、武力に頼る傾向が強いのではないかと思うのです。
 今回の問題も、それほど簡単な問題ではないように思います。なぜなら、「ノストストリーム2」などが有効に機能し、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力がますます大きくなると、アメリカの利益が損なわれるという懸念や焦りが、この問題の背景にあるような気がするからです。
 バイデン、アメリカ大統領は、ロシアのウクライナ侵攻前、毎日のように各国首脳と電話会談をくり返し、G7等の会合でも、この問題を取り上げ、ウクライナ問題の対処を主導する姿勢を見せていました。先日、バイデン大統領は、ウクライナ情勢をめぐるロシアへの金融制裁をはじめとする日本政府の対応について、岸田首相に対し謝意を伝えたとの報道がありましたが、それは、この問題について、アメリカが主導していることを示していると思います。私は、そこが気になるのです。
 あらゆる問題は、武力ではなく、法に基づいて、平和的に解決されるべきだと思います。今、アメリカにこの問題の対処を委ねれば、それが難しくなるように思います。 
 
 明治維新をとらえ直すことは、日本の法や道義道徳の問題と関わることであり、ウクライナのような国際問題とも無関係ではないように思います。

 私は、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)には、明治維新を正しく理解するために欠かせない重要な事実がいろいろ書かれていると思います。だから記憶しておきたいと思ういくつかの文章を抜萃しました。

 まず、鼎談(テイダン=三人で会談をすること)で、一力氏が、会津藩は、”「朝敵」ではなく「長敵」(長州の敵)というわけですね。”と発言している部分を見逃すことができません。短い言葉で、ズバリと歴史の真実を表現していると思います。
 また、戊辰戦争が、”長州、薩摩が私怨を晴らすため”の戦争であったという指摘も重要だと思います。戊辰戦争で函館まで攻め込んだ戦いは、幕府や会津藩が、恭順の意思表示をした後の戦いであり、それ以外の理由は考えられないからです。したがって、正当性のない戦争であったということです。

 さらに、「五日市憲法」のルーツが、戊辰戦争の敗者である奥羽越列藩同盟の一つ、仙台藩であるという事実も見逃せないと思います。大日本帝国憲よりも進んだ内容を多く含んでいるからです。
 このところ、朝日新聞が、日本初の人権宣言とも言われている「水平社宣言」から100年、ということで、今なお部落差別に苦しむ人々やその解決に向けた取り組みとりあげていますが、新しい時代を切り開く進んだ考え方は、やはり、苦しみを強いられた人たちや、そういう人たちに寄り添う人たちから生まれるということではないかと思います。
 だから、五日市憲法を生んだ仙台藩が母胎となるような政権であれば、朝鮮王宮占領事件や閔妃虐殺事件、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、アジア太平洋戦争と突き進んだ日本の野蛮な戦争のくり返しは避けられたのではないかと思うのです。

 「容保の沈黙」のなかで取り上げられている「会津嘆願書」は、戊辰戦争が、”長州、薩摩が私怨を晴らすため”のものであったことを示す何よりの証拠ではないかと思います。そして、逆らう者は二度と立ち上がれないように叩きのめすというような薩長を中心とする尊王攘夷急進派の戦略が、その後の日本の戦争のなかに受け継がれていったように思うのです。

 だから、学校教育では、薩長を中心とする尊王攘夷急進派によって創作された歴史ではなく、客観的な事実に基づく歴史を教えるようにしてほしいと思っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第七章 奥羽越列藩同盟の心

                                                
 一山百文
 ・・・
 この連載の最後に、当時の福島県知事松平勇雄氏、歴史家で東北大学名誉教授の高橋富雄氏、河北新報社長一力一夫氏の「戊辰の役と現代」と題する鼎談(テイダン)があった。
 松平氏は会津藩主松平容保の孫に当たる。これは興味深い鼎談だった。

【一力】 まず初めに、戊辰の役がどうして起こらざるを得なかったのでしょうか。それがなくとも明治維新は達成できたように思えるのですが。

【松平】 会津藩は決して戦争を望んでいたわけではありません。会津藩の本懐(ホンカイ)は宗家である徳川家への忠誠、祖父(容保)としては家訓を守り、徳川家のために一生懸命働いたまでで、その徳川家が白旗を揚げたのだから戦争をする必要はなかったわけなんですよ。

【高橋】 明治維新は、本当の意味の近代化をなしとげたのだったら、あの戦争はやむを得なかった。しかし、歴史的に見ると明治維新は、太平洋戦争後に改めて近代化する必要があったほど、不徹底な変革でした。封建的なところがかなり残り、ある意味では「薩長幕府」になっていった。本当の近代化を求めた変革ではなかったのだから、回避できたし回避すべきだった。
【一力】 すると、明治維新のためには戊辰戦争はなくてもよかた、むしろその方がよりよい近代化ができたかもしれないわけですね。
【高橋】 そうです。薩長藩閥政治程度の近代化なら、大政奉還の平和的な改革のなかでも達成できた。戊辰の役は確かにある種の新しさをもたらしてはいるが、そのために大きな犠牲をはらった。たとえば、日本の40パーセントを占める東北、北海道が後々まで「賊軍」の風土となり、日本のなかで敵味方になってしまった。しかもそれは人々の意識の上にだけではなく、実際にさまざまな形の上に表われたのです。
【一力】 おかしいと思うのは、幕府の本丸である江戸城の開城で戦争が終わるのが歴史的常識なのに、その後から東北での戦いが本格的に始まっていることです。
【高橋】 総責任者の徳川慶喜でさえも許されているのに、なぜ会津と庄内だけが、朝敵とされるのか。公平に見て禁門(蛤御門)の変や、江戸藩邸焼き打ちで煮え湯を飲まされた長州、薩摩が私怨を晴らすため、無理な理屈をつけてきたとしかいえません。奥羽諸藩はこれに納得できず、一致団結したわけで、もし正義が基準となる戦争なら、奥羽の側に十分理があります。
【松平】 こちらは恭順の意を表わしたいるんですが、どうしても会津を徹底的にやっつけなきゃならんと攻めて来るんだから、抵抗せざるを得なかったのです。
【一力】 「朝敵」ではなく「長敵」(長州の敵)というわけですね。
【松平】 そうです(笑い)。祖父は孝明天皇の信任が厚く、感謝する旨の宸翰(手紙)まで頂いて、それが天皇がお亡くなりになった途端、立場が逆転して「賊軍」にされたのですから、驚き、嘆いたことと思います。

 なるほどと思わせる言葉がいくつもあった。
 容保の末裔が、忌憚のない感想を述べた点にも迫力がある。
 三人の思いは、まったくその通りであり、異議を挟むところはなかった。
 これが東北人の率直な感想といってよかった。
 私にとっても胸のつかえが下りる鼎談だった。

 五日市憲法 
 平成十四年(2002)、仙台開府四百年に当たり河北新報社では、またも戊辰戦争を取り上げ、「奥羽越列藩同盟」について考察した。学芸部副部長の佐藤昌明記者が私のところに見え、私はいくつかの質問を受けた。
 佐藤記者は、東北と越後の理念を詳しく話すように求めた。私は奥羽越列藩同盟は、東日本政権の樹立を目指した一大政治・軍事結社だったと強調した。その政権構想のバックボーンにあったのは、人民平等の共和政治だったと持説を述べた。
「それで共和政治の具体的内容ですが」
 と佐藤記者が質問した。
 これが問題だった。この立案に当たった玉虫左太夫(タマムシサダユウ)が自刃したため、彼の構想が後世に伝わらなかった。史料も焼却処分されたとみられ、残っていない。
「新しい史料がみつからないかなあ」
 私はいささか神頼みの話を佐藤記者とあれこれ喋った。
 それからしばらくして、三月の中旬ころだった。私は河北新報を広げてびっくりした。
「敗者が生んだ民衆憲法」と題して、憲法草案をまとめた仙台藩士千葉卓三郎のことが紹介されていた。
 これは玉虫に関連がありそうだ」
 私は直観的にそう思い、食い入るように新聞を読んだ。
 やはりすだった。卓三郎は玉虫が副学頭をしていた仙台藩校「養賢堂(ヨウケンドウ)」に学んでいたからである。「五日市憲法草案」なるものが、東京都あきる野市の北西部の山間にある深沢家の土蔵から見つかったのは昭和四十三年(1968)のことである。
 東京経済大学の教授だった色川大吉氏の日本近代史グループが見つけたのだった。
 草案は、明治十四年(1881)、国会開設を前に卓三郎が起草したもので、全文ニ百四条、実に多岐に及んでおり、新聞はそのなかから五カ条を抜き出して紹介していた。
「ううん、すごいなあ」
 私は一つ一つの条文に感動した。
 45条 日本国民は各自の権利自由を達すべし、他より妨害すべからず、かつ国法これを保護すべし。(自由の保障、基本的人権の保障)
 47条 およそ日本国民は族籍位階の別を問わず、法律上の前にたいしては、平等の権利たつべし。(法の前の平等)
 49条 およそ日本国に居住する人民は内外人を論ぜず、その身体生命財産名誉を保護す。(外国人を差別しない)
 76条 子弟の教育において、その学科および教授は自由なるものとす。しかれども子弟の小学の教育は父兄たる者も免ずべからざる責任とす。(教育の自由と受けさせる義務)
 77条 府県令は特別の国法をもってその綱領を制定せらるべし。府県の自治は各地の風俗習慣に因るものなるが故に必ずこれに干渉妨害すべからず。その権益は国会といえどもこれを侵すべからざるものとす(地方自治の完全保障)

 この史料は、自由民権の研究者の間では知られていたが、私は勉強不足で知らずにいたのである。私は早速、佐藤記者に電話を入れた。
「あれはいい記事ですよ、知らなかったなあ」
「そうでしたか。私は自由民権に首を突っ込んだ時期があり、今回、取り上げてみました。あきる野市にも取材に行って来ましたが、玉虫の影響があるように思いましてね、どうですか」
 佐藤記者がいった。
「まったくそのとおりだと思いますよ、卓三郎があ大槻磐渓(オオツキバンケイ)の弟子でしょう。磐渓の一番弟子が玉虫ですからね。いい話を教えてもらいました。
 私は礼をいった。
 玉虫研究に間違いなく一つの道が見えてきたように感じた。

 仙台藩の戦争
 千葉卓三郎は仙台領志波姫(シワヒメ=現・栗原市志波姫地区)に生まれた。宮城県北の玄関口である。栗原市とあきる野市とは姉妹都市の関係にある。
 卓三郎は下級武士の出だが、向学心に燃えて仙台藩校「養賢堂」に入学した。学頭が大槻磐渓、副学頭が玉虫左太夫だった。
 養賢堂が奥羽鎮撫総督府の宿舎に占領されたとき、生徒たちが憤慨して、斬り込みをかけんと騒ぎ、薩長軍に敵意を燃やした。生徒たちを焚き付けたのが玉虫だった。藩の上層部がこれを聞きつけて玉虫に自粛を求める一幕もあった。
 十六歳の卓三郎も、そうした玉虫にの激しさに、大いに感化されたに違いない。
 卓三郎は戊辰戦争時、激戦を繰り広げた白河口の戦いに加わった。ひどい惨敗だった。会津、仙台藩合わせて三千以上の軍勢が数百人たらずの薩長軍に敗れた。まさかの敗退だった。以来、何度も白河城の奪還を試みたが、奪いか返すことはできなかった。
 ・・・

 容保の沈黙
 ・・・
 会津の人はどちらかといえば寡黙である。運命に逆らうこともなく、堪えに堪えて生きてきた。
 その具体的な例を一つあげよう。
 会津が朝廷に恭順の意を表わしたときの嘆願書である。
 どこまでも自分を責め、すべての責任を自分で取ろうとする生真面目(キマジメ)な文体であった。なぜ幕府の命令だと開き直らないのか、なぜここまでへりくだる必要があるのか、そう思わせる文体である。以下はその大要である。

 【会津嘆願書】
 弊藩(ヘイバン)は山谷(サンコク)の間に僻居(ヘキキョ)し、風気陋劣(ロウレツ)、人心頑愚(ガング)にして古習になずみ、世変に暗く、制御難渋の土俗(ドゾク)である。老君が京都守護職を申しつけられて以来、及ばずながら天朝を尊崇し、宸襟(シンキン)を安んじ奉りたい一心で、粉骨砕身して参った。万端行き届かない面はあったと存じるが、朝廷からはご垂憐(スイレン)を賜り、多年の間、なんとか奉公致すことができた。臣子の冥加(ミョウガ)この上なく、鴻恩(コウオン)の万分の一も報い奉りたく奮励いたし、朝廷に対しては闇(クラ)き心など毛頭なく、伏見の一件は突然に起こったやむを得ないことで、異心など毛頭もあるはずもないが、天聴を驚かせたことについては恐れ入り奉る次第につき帰国の上、退隠恭順した。ところがこのたび鎮撫使がご東下され、尊藩に征討の命令を下され、愕然の至りである。
 宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る。
                            松平若狭守(ワカサノカミ)家来
                            西郷頼母(タノモ)
                            梶原平馬(ヘイマ)
                                                                      一瀬要人(カナメ)

 この嘆願書が拒否され、一気に奥羽越列藩同盟の結成となるが、そうであれば、これほどへりくだった嘆願書は必要なかった。孝明天皇から厚いご信任を戴き、職務を遂行したと書くべきであった。
 あまりにも謙遜したので、「風気陋劣、人心頑愚」だけが残映として残ってしまった。
 晩年の容保はいつも二十センチばかりの竹筒を背中に背負っていた。
 竹筒の両端に紐をつけ、首から胸にたらし、その上から衣服をつけ、入浴の時以外は就寝時でさえはずさなかったといわれる。
 私が見た何枚かの写真には、竹筒はなかったので、少し誇張しているだろう。
 それはともかく竹筒の中身は、いわずと知れた孝明天皇の御宸翰である。
 鳥羽・伏見の戦いで傷つき、すべてを失った会津の兵士たちは口々に、
「豚一(ブタイチ)が弱いために敗北した」
 と悔しがった。豚一とは慶喜のことである。よく豚を食べた。
 慶喜が敵前逃亡さえしなければ、情勢はどう転んだか分からなかった。
 会津の人々はもっと慶喜をなじってもよかった。
 だが容保も重臣たちも、声を荒げてまで慶喜を非難することはなかった。
 一様に寡黙であり続けた。それが保守的に映ることもあった。
 幕末の会津藩は、全力を尽くして使命をまっとうした。
 その結果が予想だにしない転落の歴史であったが、それは会津藩に問題があったのではなく、戦う勇気を失った将軍慶喜のせいであり、正義が陰謀に敗れたに過ぎなかった。
 朝敵という論拠は、どこにもないのである。

 世代交代
 会津と薩長との怨念はいつまで続くのか。この問題もここで触れねばなるまい。
 私は『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)で、長州とは手を握らないと強く主張する会津の歴史研究家宮崎十三八(トミハチ)氏を紹介した。
 宮崎氏は司馬遼太郎、綱淵謙錠(ツナブチケンジョウ)氏ら中央から訪れる作家たちのよき案内者であった。ご自分も会津に関して何冊もの本を書いた。
 そのなかの最高傑作が『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社)だ。宮崎氏は会津人の怒りを詳細に述べ、手は結ばないと明快にいい切った。
 偽勅の問題、会津を踏みにじり、略奪の限りを尽くし、なおかつ戦死者の埋葬を認めなかったことへの怒り、戦後、米もとれない最果(サイハテ)ての地、下北半島に会津人を流し、塗炭の苦しみに追いやったこと、さらには戊辰戦争に参戦して戦死した官軍兵を祀った靖国神社の存在をあげ、痛烈に明治維新を批判した。
「会津人の怨念はそう簡単には消えません」
 と、よく語っていた宮崎氏は、全国的にも評価の高い人だった。その宮崎氏が他界されてもう十年がたつ。私は宮崎氏の意見には基本的に賛成である。宮崎氏は、全国的にも評価の高い人だった。
 第一、朝敵は謀略によってつくり出され差別用語であった。
 このことを事実として国民が認識するまでは、手を結ぶべきではないことは明らかだった。薩摩や長州の人が憎いのではなく、歴史の欺瞞を解くことが必要だった。
 ・・・

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