真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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 シベリア抑留-棄兵・棄民と未払い賃金訴訟

2009年03月31日 | 国際・政治
 理不尽に連行され、酷寒と飢餓と重労働といういわゆる”シベリア三重苦”によってその一割がのたれ死んだといわれるシベリア抑留は、国体護持のため、64万の日本人を賠償としてソ連に差し出す”棄兵・棄民”であったといわれる。そして、その労働に対する賃金はいまだに支払われていない。シベリア抑留者未払い賃金訴訟の経過をたどると、日本という国は、今なお、シベリア抑留という棄兵・棄民をよしとしているのではないかとさえ思われる。
 最初、シベリア抑留者による国家補償の請求に対して、日本の関係筋は労働証明書が存在しないとの理由によって補償金の支払いを拒否した。そこで、全抑協会長斎藤六郎氏は、様々な人々に支えられながら東奔西走して、必要とされる文書を取得するに至る(これは本来国の仕事であると思う)。しかし、日本の関係筋は、今度は、ロシアの関係筋のしかるべき提示のないそれらの文書の公的性格に問題があると指摘した。民間団体へのそうした文書は、ロシア中央公文書委員会の発行であっても、私文書であり公文書とは認められないというわけである。
 斎藤会長の東奔西走はさらに続いた。そして、ロシア外務省の公式覚書の手交に至る。それでもなお、日本の関係筋は請求を認めない。「労働証明書というような文書の交付は、まず第一に抑留を行った国である貴国(ロシア)の問題である。日本は、当文書を認知する認知しないという立場を取ることはできない」さらに「国際法の観点から言って、その市民が抑留された国である日本は、当文書に基づき彼らに賃金を支払う責任を負う必要はない」との見解をつけ加えているという。
 シベリア抑留者は、あたかも自分の意志でシベリアに行き、ただ働きしてきたかのような扱いである。信じがたい”棄兵・棄民”追認の論理ではないかと思う。「シベリアに架ける橋 斎藤六郎全抑協会長とともに」エレーナ・L・カタソノワ(恒文社)からの抜粋である。
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                  第5章 労働証明書

 未払い労働賃金問題


 ・・・
 私の知っているところでは、軍事捕虜は元来、1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ条約に基づき、抑留国によって労働に使役されたとき、その対価である労働賃金の支給を受ける権利を認められている。労働賃金に関するこの捕虜の権利規定は、第1次、第2次両大戦の経験を踏まえて、捕虜の待遇に関する1929年ならびに1949年のジュネーブ条約に引き継がれ、労働賃金の未払い分は、抑留国が未払い相当額を計算した労働賃金計算カード(労働証明書)を発行、捕虜の帰国時に、所属国が決裁・補償せねばならないことが規定されている

 だが、ソ連はシベリアなどに抑留した日本人捕虜の処遇に当たって、このような国際慣行を無視して、本来、捕虜の所属国が負担すべき給養費を水増しして労働賃金から天引きしただけではない。労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国時に天引きされた未払い労働賃金を日本政府から支払ってもらえず、日本人捕虜は事実上ただ働きさせられてしまった。ソ連の国内法によれば、特定のある企業で働いた者は、自発的な退職であれ、解職であれ、自分の労働行為に関する必要な文書・書類を受け取ることができる。シベリアの厳しい自然の中で、日本人捕虜は何年間も強制労働を科せられたのに、ソ連政府からこの事実を証明する文書類も受け取っていないことを知って、「これは一体どういうことか」と、私は非常に驚かされたのであった。

 それから間もなくたって、私は事務局が保存している原本の資料を調べていて、次のような事実を知った。それは東南アジアなど南方地域で米国、英国、ニュージーランド軍などに抑留された日本人捕虜は全員、未払い労働賃金の計算カードをもらって、帰国時に日本政府からその支給を受けたことだ。シベリアと南方では抑留地域が異なるが、日本人捕虜であることの身分はまったく同じである。にもかかわらず、なぜこのような差別が生じたのか?捕虜の待遇に関して、公平を欠くことおびただしい。原因は、ソ連のみが日本人捕虜に対して未払い賃金に関する公式文書の発行の作業を怠り、日本人捕虜がそれを受け取る権利を否定し、その結果彼らをして守られるべき法の外へに置いたからであった。この事実を知った私の心は驚きと憤りで、一杯になった。

・・・

 戦後の日ソ国交回復の基礎となった1956年の「ソ日(日ソ)共同宣言」は、戦争で生じた一切の請求権を相互に放棄した。このため日本人捕虜の労働賃金は、事実上抑留国の給養費に充当されただけではない。未払い分についてもソ連は労働賃金計算カードを発行しなかったため、帰国後捕虜は日本政府に支給を求めることができなくなってしまった。しかし、兵士の給養は、どこの国でも官給、無償のものであって本来捕虜が自弁することはありえない。捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ条約や国際慣習法(国際慣習に基づく法で、大多数の国家間で法的拘束力を持つものとして暗黙のうちに認められている)によれば、給養費を差し引かれて残った未払い労働賃金は、捕虜の所属国(日本政府)に「自国民補償」の義務があるという主張である。

・・・

 (原告側<全抑協側>の請求棄却後)
 国際法に違反して、労働証明書を発行しなかったソ連や、国家動乱の最中にあった中国を引き合いに出して、自国民捕虜補償の否定の根拠にするのは、国際人道法に悖る間違った解釈で、会長や弁護団を承服させることはできなかった。彼らは南方で抑留された日本人捕虜には未払い労働賃金の国家補償を認めながら、シベリア抑留者の元日本人捕虜にはこれを否定する不公平極まりない一審判決に心底怒っていた。「こんな裁判は絶対に許せない」。そう思った会長は、「とことん争って、国の誤りを正してみせる」決意を固め、そのために必要な労働証明書の獲得に、全力をあげて取り組むことになったのである。


 ようやく交付された労働証明書だが……

 ・・・
 労働証明書交付式が行われたロシア中央公文書委員会のホールは、関係省庁をはじめ軍検察庁、国家保安委員会(KGB)などの幹部で、埋まった。内外のマスコミもこの歴史的なイベントを伝えようと、たくさんの取材記者を送り込んできた。ピホーヤは百通の労働証明書を斎藤会長に手渡すとき、次のような良い言葉を贈った。
「わが国は長い間人道主義の原則をなおざりにしてきたことをお詫びしたい。そしてこの措置がロ日両国民間の友好の発展に寄与することを信じたい」
 これに対して、会長はこう、返礼の言葉を述べた。
 「私の戦友たちがこの素晴らしい出来事を、どんなに首を長くして待ち望んでいたことか、私たちはこの大きな人道主義的好意に対し、ロシア政府に限りなく感謝しております」
 モスクワでの労働証明書交付式の模様は、日本のマスコミで大きく報道された。
……(以下略)


             第6章 体を張った政治工作

 この日のために頑張ってきた


 ・・・
 エリツィンは会長に近づくと、右手を差し出し、握手を求めた。エリツィンは再度会長に、諸国民友好勲章が授与されたことのお祝いの言葉を述べるとともに、日本の実業界の代表者たちとの公式昼食会の席で、「ロシアを代表して日本国民に、元日本人軍事捕虜たちへ、スターリン体制が行った反人道的処遇に対して謝罪した」ことを伝えた。この行為は、言うまでもなく、ロシア大統領の大いなる精神力と勇気を必要とするものだった。というのも、これは、過去の誤りの、最初の公式的な認知であったからだ。……


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シベリア抑留と停戦交渉八項目の「協定」

2009年03月28日 | 国際・政治
 「沈黙のファイル 『瀬島龍三』とは何だったのか」共同通信社社会部編(新潮文庫)で注目したいことが二つある。その一つは、関係者の証言で、日本人が中国人や朝鮮人を抑圧していたことがはっきり分かることである。武装解除されると中国人や朝鮮人の仕返しが恐いので、武装解除の延期を依頼し、武装解除後はソ連軍に守ってもらいたいと要請せざるを得なかったのである。また、もう一つは、瀬島の文書改竄の理由である。近衛がスターリンとの会談の際に持参する予定であった「和平交渉の要綱」の中には「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」とある。ソ連に講和の仲介役を引き受けてもらうために、秦総参謀長など関係者も「64万の日本人を差し出すことも止むを得ない」と考え、交渉に臨んだのではないかと疑われるのである。交渉に同席した瀬島が、そうした疑いをはらすために、ロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフの著書「シベリア抑留秘史」日本語訳の原稿を改竄したとすれば、いよいよ怪しいということになる。同書からの抜粋である。
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                スターリンの虜囚たち

 サムライの強気


・・・
 ソ連領ジャリコーワで午後3時半から始まった関東軍総参謀長、秦彦三郎と極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの「停戦交渉」。同席した方面軍司令官マリノフスキーはその模様を著書『関東軍壊滅す』に次のように書き残している。
「つい最近まで(大戦果)を夢見ていた彼らであったが、いま、彼らは困惑と憂慮の色を顔面に漂わせて、小屋に入り帽子を取ってソビエト軍代表に敬礼した。(中略)小屋内の会談は緊張していた。ワシレフスキー元帥は日本軍の降伏手続きを説明し、まだ抵抗を続ける日本軍部隊はただちに武器を捨てるべきだと警告した。会見後すぐ、特別な事情が分かった。日本軍の数部隊が武器を捨てない事情を、秦将軍は率直に次のように説明した。関東軍司令部は困っている。ソビエト軍進攻の二日目、関東軍司令部は各部隊の統制を失い、降伏命令を全部隊に徹底することができなかった。ソ連の戦車と歩兵の進撃は急だった。混乱が起こった。司令部は各部隊と連絡することができなかった……」


 ワシレフスキーは秦を机の上の地図のそばに呼び寄せ、関東軍各部隊がソ連軍に投降する日時や場所を指示した。秦はいらだたしげに肩ひもをまさぐり、眼鏡をふいた。「次のことはわすれないでください」とワシレフスキーが言った。
「日本軍は、将校とともに、秩序よく投降すること。また、最初の数日の兵士の食糧は日本軍将校が配慮すること。各部隊は食糧持参で投降すること……」
 秦は同意のしるしにうなずいた。

「細部の打ち合わせがはじまった。色々な問題が起こった。秦将軍は、ソビエト軍が到着するまで、満鮮各地区の日本軍の武装を許可するように申し入れた。『住民が不穏なので……』と彼はいった。日本人は彼らがかつてひどく抑圧した昨日までの召使いー中国人と朝鮮人ーを明らかに恐れている。南満に日本人が多数逃走し、避難民となっているから、このことをソビエト軍司令部は考慮されたいと、秦将軍はいう。ワシレフスキー元帥は、ソビエト軍司令部は、占領地域の完全な秩序維持を保証すると答えた」


・・・

 改竄された電文

 「ワシレフスキー元帥から武装解除の具体的指示を受けた後で、関東軍総参謀長の秦彦三郎はこう言った。『満州では住民が日本軍に恨みを持っているから関東軍将兵の武器携帯を認めてほしい』と」(ワシレフッスキーの副官イワン・コワレンコ元共産党国際部副部長の日記を元にした証言)
 コワレンコの証言が続く。

 当時満州では中国人やソ連軍兵士による略奪が頻発していた。
「秦はその後『居留民が南に避難しているのでソ連軍に保護してもらいたい』と要望した。元帥はソ連軍の連絡用自動車を確保しておくことなどを指示した。それがジャリコーワの会談のすべてだよ」

 コワレンコによると、秦が要求したのは関東軍の武器携帯と居留民保護の二点だけだった。関東軍将兵のシベリア抑留や日本帰還の話は全く出なかった。
「捕虜をどうするかは戦勝国の権限だ。肉体労働をさせるか、帰還させるか、あるいは食べてしまうのか。決めるのは戦勝国であって敗者がとやかく言えることじゃない」
 この証言は秦の著書『苦難に耐えて』の記述と一致する。
「私は関東軍の一般状況を説明した後、日本軍の名誉を尊重されたいこと、および居留民の保護に万全を期せられたいことの二件を強く要請した。これに対し、ワシレフスキー元帥はわが方の要求を快く承諾し、特に日本人には階級章および帯刀(剣)を許し、将官には専属副官および当番を許すと言明した」


・・・

 ジャリコーワの停戦交渉から二日後、瀬島は大本営に「交渉」結果を打電した。

 関東軍総参謀長秦中将及ビ極東「ソ」軍最高司令官ワシレフスキー元帥トノ協定左ノ如シ
 (一)武装解除ニ当リテハ都市等ノ権力モ一切ソ連軍ニ引渡ス
 (二)前線後方共ニ軍隊、軍需品ノ移動ヲ行ハズ。但シ局地的ノモノハ差支ヘナ     シ
 (三)ソ連ハ日本軍隊ノ名誉ヲ重ンズ。之ガタメ将兵ノ帯刀ヲ許シ、又武装解除後
    ノ取扱ヲ極力丁寧ニス。解除後ノ将校ノ生活ハ成可ク今迄同様トス(食事並
    ニ当番ノ如キ)
 (四)治安ノ間隙ナカラシム。之ガタメ満州内要地等ニ於テハ、ソ連軍隊ガ進駐シ
    警備其ノ他ナシ得ルニ至リ全力ヲ日本軍ニ於テ実質的ニ武装解除ス。従テ
    コノ間ノ警備ハ日本軍に於テ負担ス
 (五)関東軍司令部ノ解体ハ全力ノ武装解除後ニ於テコレヲ為ス。コノ間ノ通信機
    関、連絡用飛行機、自動車ノ使用差支へナク、日本軍ノ要求ニヨリソ連ニ於
    テモ飛行機ヲ差出ス
 (六)武装解除後ノ日本軍隊ノ給与ハ自隊ニ於テ之ヲ行ヒ、之ガ為食糧運搬ノ自
    動車ノ使用等ハ概ネ現在通リ実施ス。給与ノ定額ハ概ネ現在程度ナリ
 (七)鉄道ハ速ヤカニソ連ノ管理ニ移ス。食糧輸送ノタメ必要ナルトキハ日本軍ヨ
    リ要求ス
 (八)満鮮、居留民ノ保護ニ就テハソ連ニ於テ充分留意ス


 八項目の「協定」の中に関東軍将兵の帰還や抑留についての記載はない。ワシレフスキーがモスクワに打った電文(8月20日付)も同じだ。

 「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。秦中将は、日本人、満州人、朝鮮人の関係が悪化していると述べた。また日本軍将官、将校兵士に対する然るべき取り扱い給養、医療を要請した。私は必要な指示を与えた」

 この電文はロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフが発見。著書『シベリア抑留秘史』(92年)でその存在を明らかにした。
 だが全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された日本語訳の単行本には、原文にない
「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の16文字が「然るべき取り扱い給養、医療」の後に加筆されていた。
 あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。 ……(以下略)


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シベリア抑留と「和平交渉の要綱」

2009年03月23日 | 国際・政治
 草地文書や朝枝文書が作成される前に、近衛の側近である酒井鎬次中将によって下記の「和平交渉の要綱」が書かれ、関係者の了解が得られていたとすれば、草地文書や朝枝文書の棄兵・棄民を臭わせる表現は、当然のこととして理解できる。近衛がスターリンと会談するときに提出される予定であった「和平交渉の要綱」に「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」という内容があるからである。国体護持のための棄兵・棄民は、軍部中枢では合意されていたと考えて間違いないであろう。天皇の戦争終結の決断を受けて、関係者は、講和の仲介役を引き受けてもらうために、「ソ連に64万の日本人を差し出すことも止むを得ない」と考えたのではないか。下記の文面からは、そう考えても不思議はない状況であったことがうかがえる。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
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               第3章 国体護持の画策

   国体護持と和平工作

 ・・・
 天皇が遅まきながら戦争終結のイニシャティブを取ったのは、終戦が長びいてこれ以上犠牲が増えたら、日本民族が滅亡するという危機感にとらわれたことがあった。だが、それ以上に恐れたのは、米英から無条件降伏を押しつけられて、天皇制の国体の護持ができなくなるという絶望的な状況に立ち至ることであった。大日本帝国の根幹を成す万世一系の天皇制──。それはいざとなれれば、天皇としてわが身を犠牲にしてでも国体を護らなければならないものであった。天皇のそういう切羽詰まった気持ちが、戦争の終結を急がせる動機となったことは間違いないであろう。『昭和天皇独白録』の中には、天皇制を支える「日本神話」の妄想の恐ろしさを思い知らされるつぎのような一文があり、天皇の当時の心情が手に取るようにうかがえる。

  当時私の決心は第一に、このままでは日本民族はほろびてしまうふ、私は赤
  子(せきし)を保護する事が出来ない。
  第二は、国体護持のことで木戸も同意見であったが、敵が伊勢湾に上陸すれ
  ば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、
  その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私
  の一身は犠牲にしても講話をせねばならぬと思った。

 米英との講和の仲介役に選ばれたのは、当時、日本とは外交的に中立関係にあったソ連であった。小国に和平斡旋を頼むと発言権が弱いため、逆に米英から無条件降伏の取次をさせられかねない心配がある。そこへ行くとソ連は大国で、日本と中立条約を締結している義理もある。ソ連なら、きっとその政治的力を発揮してうまく立ち回り、日本に有利な条件で講和の斡旋をしれくれるに違いないという思惑が働いたのだ。


 早速、以前からあった広田弘毅元首相とマリク駐日ソ連大使のパイプを使って、和平工作が始まった。だが、マリクは広田から外務省が作った満州の中立化など日本提案を仕入れると、それをモスクワへ送ったきり、日ソ交渉の扉をぴたっと閉ざしてしまった。このため、広田・マリク会談は中断に追い込まれた。そこで、モスクワと直接交渉を行う話が決まり、天皇が7月12日に近衛文麿を宮中に呼び、特使として訪ソするように命じた。近衛は、この大命に基づき、スターリンと会談するときに提出する「和平交渉の要綱」を作成した。近衛の側近である酒井鎬次中将が原案を書き、元内閣書記官長の冨田健治も加わって推敲し、正文ができあがった。矢部貞治編著『近衛文麿(下)』によると、この和平要綱の「方針」に基づく「条件」の全文は、次の通り。

 (一)国体及び国土
   (イ)国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること。
   (ロ)国土に就いては、なるべく他日の再起に便なることに努むるも、止むを得
      ざれば固有本土を以って満足す。
 (二)行政司法
   (イ)我国古来の伝統たる天皇を戴く、民本政治には我より進んで復帰するを
      約す。これが実行のため若干法規の改正、教育の革新にも亦同意す。
   (ロ)行政は右の趣旨に基き、帝国政府自らこれに当たるに努むるも、止むを
      得ざれば、若干期間監督を受くることに同意す。
   (ハ)司法は帝国司法権の自主に努むるも、戦争に関係ある事項の処理につ
      き止むを得ざれば、戦争責任者たる臣下の処分はこれを認む。これが
      実行に関し止むを得ざれば、彼我協議の上一部の干渉を承諾す。
 (三)陸海空軍々備
   (イ)国内の治安確保に必要なる最小限の兵力は、これを保有することに努
      むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同
      意す。
   (ロ)海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むる
      も、止むを得ざれば当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。
   (ハ)略 (ニ)略
 (四)賠償及び其他
   (イ)賠償として、一部の労力を提供することには同意す。
   (ロ)条約実施保障のための軍事占領は、成るべくこれを行わざることに努む
      るも、止むを得ざれば、一時若干の軍隊の駐留を認む。
 (五)国民生活
   (イ)窮迫せる刻下の国民生活保持のため、食糧の輸入、軽工業の再建等に
      関し、必要なる援助を得るに努む。
   (ロ)国土に比し人口の過剰なるに鑑み、これが是正のための必要なる条件
      の獲得に努む。

・・・(以下略)

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シベリア抑留と草地文書・朝枝文書

2009年03月22日 | 国際・政治
 草地貞吾関東軍参謀(作戦班長)や朝枝繁春大本営参謀が、日本兵や満州居留民のシベリア抑留・強制労働を予想していたかどうかは分からない。しかしながら、草地文書にも朝枝文書にも「棄兵・棄民」と受け取れる表現がある。「希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい」とか「貴軍の経営に協力させ」とか「貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」「『ソ』聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』聯側ニ依頼スルヲ可トス」、「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」などがそれである。
 さらに言えば、草地は、関東軍の作戦主任参謀としての苦労や敗戦までの関東軍の情況、また、ソ連での抑留生活について、事細かに回想録に書いているにもかかわらず、棄兵・棄民に関わる大事な部分は、「その詳細については、現地に行った方々の発表によるのが至当であるから私は省略するが……」とかわしている。
 また、関東軍作戦主任参謀の草地が「……作戦中は、直接の居留民保護はしたくもできなかったが、停戦ともなれば一時的にもせよ、最大限に居留民保護には努力しなければならない」などというのは、「責任逃れ」であると思う。戦線を拡大するときは「居留民保護」をお題目とし、いざ実際に保護が必要になったときには「……居留民保護はしたくもできなかったが、……」というのは通らないと思うのである。本当は居留民など眼中にない作戦の展開が、多くの犠牲者を出す結果となったことは明らかである。「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
---------「関東軍参謀草地貞吾回想録」------------
                第1部 満洲終戦秘録
                 第2章 終戦始末


  停戦梗概

 ・・・
 ……作戦中は、直接の居留民保護はしたくもできなかったが、停戦ともなれば一時的にもせよ、最大限に居留民保護には努力しなければならない。
 ハルビンにいたソ連総領事一行は開戦とともにわが方に抑留し、15日新京に輸送してきたが、御放送の後、直ちに逆送して、日ソ両軍停戦交渉の仲介に利用した。
 ハルビン特務機関を通じてのソ側の申込みとかで、秦総参謀長は17日ハルビンに向かったが、この日はソ軍と連絡がとれず、要領を得ぬままで新京に帰ってきた。18日朝になると、またハルビン特務機関から連絡があり、秦総参謀長に出てきてもらいたいということだった。当然私が随行すべきところだったろうが、ちょうどこの日、隷下諸軍の参謀長会同を開くように示達準備中だったので、瀬島中佐(作戦)に、代わって行ってもらった。その他に、第2課の野原中佐(情報)、第4課の大前少佐(政務)等が随行し、ハルビン特務機関に落ちついたのち、同機関長の秋草少将と宮川ハルビン総領事(露語通訳)等を伴ってソ連当局と連絡しようとしたが、この日はうまく連絡がとれず、明けて8月19日、ソ軍飛行機で興凱湖西にあるジャリコーウォ戦闘司令所に行き、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と会見した。その詳細については、現地に行った方々の発表によるのが至当であるから私は省略するが、とにかく原則的には武装解除の要領、治安の維持、在留邦人の保護等について諒解が成立した。しかし、この交渉といっても、対等の交渉ではあり得ない。見ようによっては、マニラに赴いた河辺参謀次長の場合と同様に、単なる指令受領であった。
 このように、秦総参謀長一行がジャリコーウォでソ連首脳と会っている間に、それとは無縁のようにハルピン、新京、奉天、チチハル等には、戦闘機に掩護されて続々空中からソ連の軍使がやってきた。

-------ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡-------
               第12章 関東軍文書発見
    二つの関東軍文書


 ・・・
 その中で、斎藤の関心を最も強く引いた「関東軍文書」が二つあった。一つは関東軍総司令部の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」だ。もう一つは朝枝繁春大本営参謀の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」だった。
 
 前者は、満州に攻め込んだ極東ソ連軍の当時の最高司令官であるワシレフスキー元帥にあてた関東軍の陳情書だ。軍が作ったものなので、作成者の氏名や捺印はないが、元関東軍参謀(作戦班長)・大佐草地貞吾が数人の参謀と合議のうえまとめ、秦総参謀長、山田総司令官の決裁を受けて、ソ連側に提出した。93年7月5日から6日にかけて、この報告の内容が大々的に報道された直後、草地が自分が書いたものだと名乗り出た。文書の上欄には、「8月26日に受領」とロシア語で書き込みがある。そのあらましは、次の通り。


 一、3万人を超える入院患者は、冬季までに帰国させてほしい。長旅に耐えられ
    ない重病者は南満州にまとめてほしい。
 一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残
    留して、貴軍に協力させてほしい。ただし老人、婦女子は内地か、元の居留
    地へ移動させて戴きたい。
 一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、
    その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までに極力貴軍の経営に協
    力するよう使っていただきたい。
 一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働か
    せてもらい、冬季の最大難問である石炭の取得にあたりたい。
 一、各地との通信が杜絶しているので速やかに、貴軍将校とともに要員を派遣し
    て、今後の処理に関する資料収集について、ご配慮を得たい。
 一、本日は降伏者として厚かましい申し出をしたが、冬を控え速やかな措置が必
    要と考えたためで、他意はありません。日本人は貴国人と異なり、寒さに弱
    いので、特別の配慮をお願いしたい。


 一方、朝枝文書も草地文書と同様8月26日に、ソ連側に提出されており、「全般的ニ同意ナリ」とする秦総参謀長の「大本営参謀ノ報告ニ関スル所見」と一緒に発見された。かなり長文なので、必要事項だけ以下に抜粋する。

 1、一般方針
  内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ
  於テハ在留邦人及武装解除後の軍人ハ「ソ」聯ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ
  生活ヲ営ム如ク「ソ」聯側ニ依頼スルヲ可トス
 2、方法
  1、患者及内地帰還希望者ヲ除ク外ハ速ヤカニ「ソ」聯ノ指名ニヨリ各々各自技
   能ニ応ズル定職ニ就カシム
  2、満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス
  3、以上満鮮ニ於ケル土着不可能ナル場合ニ於イテハ今入冬季前ニ少クモ先
    ヅ軍隊ハ400,000傷病兵30,000在留邦人300,000計730,000ヲ内地向輸送セ
    サルヘカラス而シテ之カ輸送ハ船舶、鉄道ノ運用、輸送間ノ給養等厖大ナ
    ル仕事ニシテ一ツニ「ソ」側ヲシテ聯合側ニ依頼セザレバ不可能ナル問題
    ナリ

 
 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。

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スターリン感謝文と収容所の民主化運動

2009年03月19日 | 国際・政治
 「スターリン感謝文」とは、「長さ約20メートル、幅約1メートルの絹地の旗に、4年間にわたる民主運動の経過を絵にして描き、その中に約1万3千文字のスターリン宛て感謝文を金糸で刺繍した立派なもの」であるという。そして「感謝決議文に賛同する66434人の日本人捕虜の署名」が別個に添えられていたという。ポツダム宣言に反する拉致・連行や苛酷な強制労働の加害責任者といえるスターリンに感謝文を送ろうとしたのである。
 元関東軍参謀草地貞吾は、「スターリン感謝文」「世界的物笑いの種である」とバカにしている。11年半にわたる抑留生活から帰還してもなお、「今日、情けないことに、日本人の相当数は「承詔必謹」(天皇の詔をいただく際には、必ず謹んだ態度をとりなさいというような意味)の真の所在根源を忘れかけている。承詔必謹の本源は議会でもなければ、政府でもない。もとより強大な外国でもなければ、 有り難い教祖様でもない。それは天皇であり、日本の国体・皇位・皇統・皇道にほかならぬ」と、旧日本軍の思想を変わらず維持し、主張し続けた元参謀であれば、当然の評価である。また、確かに常識的には理解しがたい大変な矛盾を抱えている。しかしながら、その背景に、きわめて食糧事情が悪い中、作業を免除されている将校が食糧のピンハネを行い、ノルマの超過達成を暴力的に強制するという旧日本軍組織の差別的・暴力的体質があり、「反軍闘争」として燃え広がった民主化運動の流れの中で出てきた取り組みであるといわれれば、悲しいことではあるが理解できないことはない。「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。
-----「関東軍参謀草地貞吾回想録」草地貞吾(芙蓉書房出版)-----
           第2部 地獄遍路(シベリア抑留記 )

             第11章 スターリン感謝文

 世の中で、いろいろと感謝文なるものを見たことがあるが、人文歴史始まって以来、敵国の大元帥に俘虜の身でありながら感謝文を奉ったということを聞いたためしがない。ところが、この開闢以来の大傑作(?)を、入ソした日本人抑留者の多数(昭和24年極東にいた)がやったのであるから見ものである。
 この傑作は絶対強制力を持つソ側がやらしめたものか、或いはいわゆる日本側民主指導者の立案になれるものかは明らかでない。然しその何れにしても、或いはまたその合作であったとしても、
世界的物笑いの種であることには間違いない。なぜかと一言に言えば、それは完全な筋違いであるからである。やるべからざることをやったからである。やらすべからざることをやらせたからである。
 ・・・(以下略)
--「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)---
               第6章 民主運動 勝利と挫折

 天皇制軍隊の特質

 ・・・
 日本の軍隊は制度上、上級者が下級者に私的制裁を加えることを厳禁しているが、兵営の中ではそれが公然と破られ、暴力の反復行為によって条件反射的に服命する、兵士の粗製乱造が大手を振って、まかり通っていた。暴力こそ、軍隊とは無縁の一般社会で暮らしてきた地方人に「焼き」を入れて、筋金入りの天皇の兵隊に造り変える{魔法の杖」であった。
 日夕点呼(『軍隊内務書』に定められ、通常消灯時限前30分ないし1時間に行われる)が、終わった後の内務班は、古兵の天下となった。その日一日の落ち度を口実にして、初年兵は古兵からビンタをはじめとして私的制裁の雨を浴びせられるのであった。
 野間宏の『真空地帯』や大西巨人の『神聖喜劇』に登場する内務班の実態は、小説の形式をとっているが、日本の軍隊の実相をありのままに書いたまでで、誇張や虚飾はない。
 日本の大陸侵略の一環として、満州国に駐留した「外征軍」の関東軍は、同時に無敵を誇った「野戦軍」でもあった。このため、軍紀が厳しいことにかけては有名であった。斎藤六郎が満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の録事として勤務していたときのことだ。
上官の私的制裁を恐れて、満ソ国境を越え、ソ連へ逃亡する兵士が後を絶たなかった。日ソ間には中立条約があって、国際法上ソ連は日本の敵性国家ではなかったが、軍はソ連を仮想敵国視しており、ソ連から逃亡兵が送り返されてくると、軍法会議にかけて奔敵逃亡罪(陸軍刑法第77条)を適用して、死刑もしくは無期禁錮の厳罰に処した。兵隊が死刑を覚悟で兵営を逃げ出すのはよほどのことであって、軍紀維持のためにそれほどひどい私的制裁が関東軍にはのさばっていた、何よりの証拠であろう。
 斎藤は録事の職掌柄、軍法会議で死刑宣告を受けた逃亡兵の死刑執行命令書を何回も書き、その処刑現場にも立ち会った。……

 私が勤務していた満州・孫呉の第4軍司令部臨時軍法会議の死体安置室に、処刑後引き取り手がなくて長く放置されていたソ連へ逃亡した兵士の遺骨があった。遺族は対面を恥じて一向に引き取りにやってこなかった。その気持ちは痛いほどよく分かった。だが、いつまでも放っとくわけにもいかない。出身地の役場に連絡して、引き取ってもらったことがある。
・・・(以下略)

  存続する軍隊組織

 日本が戦争に敗れて、「天皇の軍隊」はとっくの昔に解体されたはずであった。だが、シベリアをはじめとするソ連各地の日本人捕虜収容所では、旧軍の軍隊組織や階級制がそっくりそのまま生き残っていた。関東軍総司令部は無条件降伏の過程で、64万人の捕虜の権利を主張せず、唯々諾々と「棄兵・棄民」に甘んじただけではない。
ソ連軍に迎合して下級兵士の労務提供と引き換えに、旧軍組織の維持と将校の特権の温存を図ったからである。関東軍が満州で武装解除したとき、ソ連軍の命令で、旧来の日本軍の師団中心の編成に代わって、千人を1単位とする作業大隊に再編成して、一斉に入ソした。作業大隊の編成自体は旧日本軍の軍隊制度を引き継いだもので、通常は階級が大尉の大隊長をトップに戴き、その下にいくつかの中隊と小隊を配し、大尉より下級の中尉、少尉が中隊長、小隊長となって底辺を構成して、それぞれの所属兵士を統率するピラミッド型の組織を形成した。

・・・

 だがソ連側は収容所生活の指揮・命令権の一切を将校団に委ねた。このため、階級的な身分差別と将校の特権を温存した作業大隊制度は、下級兵士にとって、「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵にあえぐ非情なメカニズムと化した。…… 将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城遙拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食糧のピンハネを行い、些細なことで私的制裁の雨を降らせた。あげくのはては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督となったのであった。斎藤六郎は「将校は兵隊から蛇蝎の如く嫌われたのも、当然だった」といっている。ソ連各地の収容所は、天皇制軍隊の兵営と何ら変わることがなかったのだ。
 ……入ソ1年目から2年目にかけては、とくに食糧事情が悪かったこともあって、苛酷な収容所生活にうまく適応できなかった下級兵士がばたばた死んでいった。91年4月、ソ連指導者として初めて来日したゴルバチョフ大統領が持参した、約3万8千人のシベリア抑留死亡者名簿は、斎藤によると、「その圧倒的多数が下級兵士によって占められていて、将校や下士官はごくわずか」であった。この一事を取ってみても、シベリア抑留の最大の犠牲者は下級兵士であったことが、客観的に裏付けられている。

 「このままでは殺されてしまうぞ」。抑留から半年たった1946年4月。将校の圧制に敢然と反抗して、収容所内の民主化を求める「反軍闘争」の火の手があがった。極東のホール第17地区の本村作業大隊将兵一同が、ソ連に抑留中の関東軍将兵に対して、隊内の軍国主義分子の追放と民主的軍紀の確立のため、共闘を呼び掛ける檄文とスローガンを署名入りで発表。これが『日本新聞』に大きく載ったのだ。本村大隊のこのアピールは嵐のような反響を呼んだ。こうして反軍闘争がシベリアだけでなく、ソ連各地の収容所に燃え広がる大きなきっかけとなったのであった。

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。 

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スターリン極秘指令とシベリア抑留

2009年03月16日 | 国際・政治
 日本が受諾した「ポツダム宣言」の第9項には「日本国軍隊ハ、完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ、平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」とあるという。にもかかわらずポツダム宣言署名国のソ連が、これを無視して、およそ64万人の日本人を捕虜としてシベリアなどへ連行し、苛酷な労働を強制した。異国の地での厳寒・飢餓・重労働に耐えられず命を落とした日本人犠牲者は6万人を超えるという。一説によると、シベリア抑留はトルーマンがソ連の北海道分割占領(釧路と留萌を結ぶ線の北側の占領)を認めなかったからであるというが、理由やきっかけはどうあれ、明らかに国際法に反し許し難いことである。下記は、その強制連行の「スターリン極秘指令」抜粋である。
 しかし、抑留されている日本人捕虜の間に「スターリンへの感謝決議文」を送ろうという運動があったことも見逃すことはできない。まさにその運動は、関東軍をはじめとする日本軍組織がかかえていた様々な問題のあらわれであるといえるからである。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)に資料として「スターリン極秘指令」全文が掲載されているが、その連行地内訳部分の一部を除いた抜粋である。
---------------------------------
                 スターリン極秘指令

  極秘     総司令官参謀部第8局に6日後に返却を要す
  複写禁ず
  1945年9月2日、22時30分 モスクワ発
  1945年9月3日、5時30分受信
  1945年9月3日、5時40分、赤軍参謀本部第8局受理
  ────────────────────────────────
                                特重要

      大将ビノグラードフ同志へ
 1945年8月23日付国家防衛委員会決定 No9898ss からの抜粋を報告する。
 1、ソ連邦内務人民委員会のベリヤ同志とクリベンコ同志に、約50万人の日本
   人軍事捕虜を受け入れ、軍事捕虜収容所に送ることを義務づけること。
 2、各方面軍軍事ソビエトのメレツコフ同志、シュテイコフ同志(第1極東方面軍)
   ブルカーエフ同志、レオーノフ同志(第2極東方面軍)、マリノフスキー同志 
   チェフチェンコフ同志(ザバイカル方面軍)に、ソ連邦内務人民委員部軍事捕
   虜・抑留者総局の代表者たち(第1極東方面軍─パブロフ同志、第2極東方
   面軍─ラトウシン同志、ザバイカル方面軍─クリペンコ同志、ウォローノフ同
   志)と協力して、以下の措置の実行を義務づけること。 

 ア、日本軍の軍事捕虜のなかから、極東およびシベリアでの労働に肉体的に適
   している日本人を、約50万人選抜すること。

 イ、ソ連邦へ送り出す前に、軍事捕虜を1000人ずつの建設大隊に組織すること。
   大隊と中隊の長として若い将校や下士官の軍事捕虜を指揮官に据えること。
   まず初めに、それらは工兵隊のなかから選ぶこと。各大隊には、軍事捕虜の
   なかから、2人の医療員を割り振ること。大隊には、仕事に必要な自動車、馬
   車を支給すること。大隊の全ての人員に、戦利品の中から冬用、夏用の軍装
   品、寝具、下着などを支給すること。(以下、欠落)

 ウ、ハバロフスク地方-56,000人。内訳:石炭産業人民委員部のライチホ、キブ
   ジンスク炭鉱に20,000人。非鉄金属人民委員部のヒンナンスク錫鉱山管理局
   に3,000人。国防人民委員部住宅開発局の兵舎建築現場に5,000人。石油産
   業人民委員部のサハリン石油と石油精製工場に5,000人。木材産業人民委員
   部の木材調達に3,000人。海洋輸送人民委員部と河川輸送人民委員部に
   3,000人。運輸人民委員部のアムール鉄道に2,000人。建設人民委員部のニ
   コラエフスク港建設、アムール鉄鋼の建設、コムソモリスク市の No199 工場
   の建設に、15,000人。 

 エ、チチンスク州-40,000人。内訳:石炭産業人民委員部のブクブチャンスク、チ
   ェルノフスク炭鉱の採掘に10,000人。非鉄金属人民委員部のモリブデン、タン
   グステン、錫企業に13,000人。木材産業人民委員部の木材調達に4,000人。
   国防人民委員部住宅開発局の兵舎建設現場に10,000人。運輸人民委員部
   のザバイカル鉄道に3,000人。

 オ、イルクーツク州-50,000人。内訳:石炭産業人民委員部のチェレムホフ炭坑
   に15,000人。国防人民委員部住宅開発局の兵舎建設現場に11,000人。木材
   産業人民委員部の木材調達7,000人。運輸人民委員部の東シベリア鉄道に
   5,000人。教育人民委員部のNo389工場2,000人。建設人民委員部と輸送機械
   製作人民委員部のクイブシェフ工場、No39工場、水素添加工場に10,000人。

 
以下のカ~コは内訳を略
 カ、ブリヤート・モンゴル自治共和国-16,000人。
 キ、クラスノヤルスク地方-20.000人。
 ク、アルタイ地方-14,000人
 ケ、カザフ共和国-50,000人。
 コ、ウズベク共和国-20,000人。

 6、国防人民委員部、ブルガーニン同志に、以下のことを義務づけること。
 ア、軍事捕虜収容所の組織化のために、1945年9月15日までに、前線勤務の
   将校4,500人、医療員1,000人、主計将校1,000人、赤軍兵士6,000人を選抜し、
   移送すること。
 イ、軍事捕虜収容所に毎月、追加的に1,000トンのガソリンを支給すること。

 7、国内商業人民委員部のミコヤン同志に、極東におけるソ連邦内務人民委員
   部に、軍事捕虜収容所用のトラックを支給するよう義務づける。(以下、欠落)

 8、赤軍軍事報道中央局ドミートリエフ同志、運輸人民委員部コワリョフ同志、海
   洋艦隊人民委員部シルショフ同志、河川艦隊人民委員部シャシコフ同志に、
   50万人の日本人軍事捕虜を、方面軍と内務人民委員部の要請に応じて鉄
   道、水路を使った輸送編隊によって、本年8月から10月の期間に移送するこ
   とを義務づけること。

 9、国防人民委員部フルリョフ同志に、以下のことを義務づけること。
 ア、ソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者総局に、バイカル・アムール鉄道
   建設現場に日本人軍事捕虜を、一時的に配置するための3,000幕の大型テン
   トと、15万人分の半外套、長靴を含めた冬季用軍装品を支給すること。
 イ、ソ連邦内務人民委員部の日本人軍事捕虜のために、戦利品の日本軍軍装
   品のうちの必要量と日用品を支給すること。

10、国防人民委員部のブジョヌイ同志に、ソ連邦内務人民委員部日本人軍事捕
   虜収容所に、極東軍の物資のなかから戦利品の馬4,000頭を支給することを
   義務づけること。

11、ソ連邦保健人民委員部のミーチェレフ同志と国防人民委員部軍事衛生総局
   のスミルノフ同志に、日本人軍事捕虜の治療のための必要最小限の病院用
   ベッド(治療場所)を組織、保障するよう義務づけること。

12、国防人民委員部のボロビヨフ同志に、ソ連邦内務人民委員部に、日本人軍
   事捕虜収容所用の有刺鉄線800トンを供給するよう義務づけること。

13、ベリヤ同志に、当決定の遂行の監督を委ねること。


 国家国防委員会議長  I・スターリン
                1945・9・1 
 上記のものを1945年8月31日付赤軍後方軍長指令の根拠として、報告する。
    No77122/sh                      ゴーリコフ


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ソ連の北海道分割占領計画とシベリア抑留

2009年03月14日 | 国際・政治
 満州における権益の確保・拡大のために、人の命や人生を物ともしないで、次々に戦線を拡大した関東軍もさることながら、満州に攻め入ったソ連も、質の悪いヤクザか暴力団の如く理不尽な振る舞いをしたように思われる。こんな愚かな戦争のために、数え切れない人達が命を落とし、人生を狂わせられなければならなかったのかと思うとやるせない。「ドキュメント シベリア抑留 斎藤六郎の軌跡」白井久也(岩波書店)からの抜粋である。(斎藤六郎-満州で軍法会議録事を務めていたが、敗戦後シベリアに抑留される。帰還後、シベリアに抑留された人々の組織化に取り組み、1977年に全国抑留者補償協議会会長に就任。ソ連に滞在し「関東軍文書」を発見・解読、棄兵・棄民政策の背景を暴露した人)
---------------------------------
                第4章 スターリンの犯罪

 北海道分割占領計画

 斎藤六郎と親交があり、シベリア抑留問題の研究者であるロシア最高軍事検察庁ウラジミール・A・ボブレニョフ法務大佐は、この史実に注目した。なぜなら日本人捕虜のシベリア抑留をめぐって、この前後に相異なる命令が発せられ、両者の食い違いを解く鍵が、
スターリンの北海道分割占領(釧路と留萌を結ぶ線の北半分)の断念にあると見たからだ。ではこのことを事実によって、確かめてみよう。
 ソ連の対日参戦から一週間後の45年8月16日、ワシレフスキーはモスクワから、内務人民委員会ベリア、国防人民委員会ブルガーニン、参謀総長アントノフの3人の連名による次のような暗号電報を受け取った。


 日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土に運ぶことはしない。軍事捕虜収容所は可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織されなければならない。収容所は、方面軍司令官の命令によって組織すること。また、収容所の警備と軍事捕虜の警護のために、必要数の軍を選出すること。軍事捕虜の食事は、満州に布陣している日本軍の現在の基準量に準じて現地の物資によりとり行うこと。収容所における軍事捕虜の維持に関係する諸問題の組織化と指導のために、ソ連邦内務人民委員部から内務人民委員部軍事捕虜担当総局長・中将クリベンコ同志が、将校グループとともに派遣される。

 ところが、この一週間後の8月23日に、日本軍捕虜の取り扱いについて、上記の方針を根本的に覆す「国家防衛委員会決定(No9898)」が発せられた。同委員会議長のスターリンが内相ベリヤやワシレフスキーなど極東戦線の各司令官に宛てたもので、俗に「スターリン極秘指令」と呼ばれており、日本軍捕虜50万人のソ連移送とその強制労働利用を命令していた。このスターリン極秘指令は8月24日にその大要が、9月2日にその詳細がそれぞれ関係各方面に暗号電報で伝えられた。ザバイカル地方のチタには極東ソ連軍の満州進攻作戦を後方で支援する兵站基地があり、兵站機関本部次長ビノグラードフ大将は、同3日にこのスターリン極秘指令(詳細)を受け取った。斎藤六郎が独自に入手したビノグラードフ宛てのスターリン極秘指令はかんり長文だ。だが、シベリア抑留問題を考えるうえで非常に重要な文書なので、本文の末尾にその全文を掲げる。(別に抜粋)

 スターリンが対日参戦を構想する過程で、日本軍捕虜のシベリア抑留とその強制労働利用をいつ思いついたか、それを裏付ける具体的な歴史的文書はまだ発見されていない。しかし、斎藤は、スターリン極秘指令の内容を仔細に検討した結果、それが綿密に作成された計画であると断定。「8月14日の日本のポツダム宣言受諾よりかなり早い段階で、日本将兵のシベリア抑留に関する決定が行われたのではないか」と推測している。ただし、日本人捕虜の取り扱いに関する決定がわずか一週間の短期間で180度転換した本当の理由は、「当時の国家国防委員会の議事録を検討して見ない限り、判然としない」が、現段階では斎藤も含めだれもまだ、議事録の入手に成功していない。

 ボブレニョフは問題の二つの歴史文書を比較検討し、なぜ日本軍捕虜に関する取り扱いがわずか一週間という短期間のうちに180度転換したか、その理由を考えた。このとき着目したのが、この間に北海道の分割占領をめぐってトルーマンとスターリンの秘密外交折衝が行われ、最後はトルーマンの強い反対によって、スターリンの野望が挫折に追い込まれた事実であった。ボブレニョフはこの経過を綿密に点検した結果、スターリンはトルーマンによって北海道の分割占領を阻止された腹癒せに、日本人捕虜のシベリア抑留を決定したに違いないとの確信を持つに至った。ボブレニョフは斎藤の斡旋によって、日本で出版した『シベリア抑留史』の中で、北海道分割占領をめぐるトルーマンとスターリンによる上記の秘密外交折衝の経過を紹介したうえで、こう結論している。

 このように見てくれば、日本人捕虜が東京ダモイ(帰還)から一転してシベリア抑留強制労働に狩り立てられることに至った経緯は明らかである。北海道占領の断念が転じて捕虜の強制抑留に連なったことは歴史の示すところである。結果的に日本人捕虜は北海道本土を自らの労働によって償ったものとみてよい。

  
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国家による棄兵・棄民 シベリア抑留

2009年03月08日 | 国際・政治
  日本が「満鮮に残留する邦人を国家賠償としてソ連に差し出した」かどうかは、「対ソ和平交渉の要綱(案)」第3項や第4項を読めばおよそ見当がつく(「シベリア抑留対ソ和平交渉の真実は?」で抜粋済み)。また、交渉で作成されたという「7ヵ条の協定」の第7条が「略」とされ伏せられていることは、逆にそれが真実であることを物語っていると考えられる。さらに、そうした労力提供というかたちの国家賠償が、参謀本部の方針であったことが、「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」や朝枝繁春の書き残した『回想』によって明らかである。「検証・昭和史の焦点」保阪正康(文春文庫)よりの抜粋である。
---------------------------------
        第17話 大本営参謀は在満邦人をソ連に売ったのか

・・・
 平成5年(1993)8月13日の全国紙、地方紙に〔モスクワ12日共同〕のクレジット入りである記事が掲載された。このことについては私も拙著で一部触れているのだが、要はロシアの軍関係の公文書館で大本営参謀、朝枝繁春名による公文書が発見されたという内容だった。この公文書は正確には「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」といわれ、同記事によれば、関東軍の総司令部にのこっていた報告書がソ連軍にわたったものと推測される、と記されている。

 ここまで読むとすぐにあることが思い浮かぶ。昭和20年8月9日未明に満州国に対して軍事行動を起こした極東ソ連軍は、すぐに新京(現・長春)の関東軍総司令部に入り、制圧した。その折、焼却する暇もなかったため残された関東軍の極秘文書などを多数、一説では貨車28両でモスクワに運んだといわれている。

 当時(1993=平成5年)この話はロシア側の日本研究者から日本のジャーナリストに伝えられていて、私も貨車28両と聞いて驚いたものだった。防衛庁防衛研修所戦史室(現防衛省防衛研究所戦史部)編で発行されている戦史叢書に書かれた、終戦時の関東軍の実相のくだりが、あれほどページ数が短かったことにも、妙に納得したほどだった。
 共同通信モスクワ支局が入手したこの公文書も押収された中の一つだろうということは、ソ連崩壊後、対日関係文書を追いかけている者には容易に想像できた。
 この
「関東軍方面停戦状況ニ関スル実視報告」は、その後私もコピーを入手したので、それに基づいて以下記述する。

 この文書は4部構成になっているが、「今後ノ処置」という項があり、その「一般方針」の中に次のように書いてある。きわめて重大な事実である。
 「内地ニ於ケル食糧事情及思想経済事情ヨリ考フルニ既定方針通大陸方面ニ於ケル在留邦人及武装解除後ノ軍人ハ『ソ』連ノ庇護下ニ満鮮ニ土着セシメテ生活ヲ営ム如ク『ソ』連側に依頼スルヲ可トス」
 そしてその「方法」の第2項には、
 「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」
 これは何を意味するのか。対ソ戦の停戦後は軍人、軍属、民間人は「ソ連の庇護下に」そのまま満州や朝鮮に土着してもいい、日本国家を離れてもいい、と大本営参謀の朝枝繁春の名で出されていたのである。のちに、この文書こそがシベリア抑留のソ連側の根拠になったと、投じの全国抑留者補償協議会(全抑協)の会長斎藤六郎は主張していた。

 しかし全国紙や地方紙にも掲載されたこの記事のなかで、朝枝は「この文書はわたしの筆跡でなく、偽造されたものだ」と主張し、ただし8月9日に大本営から関東軍にこれと似た内容の電報を打電したことは認めている。同時に「私の独断で起草、打電した」とも発言し、「大本営の意向ではない」と釈明している。
 この「朝枝文書」が国家意志なのか、それとも一参謀の案に過ぎないのか、斎藤と朝枝の間では、解釈が対立した。斎藤によれば、朝枝文書のほかにも、「大本営参謀ノ報告ニ関スル所見並ニ基礎資料」と題して、昭和20年8月29日に参謀総長の梅津美治郎の名で出された文書(これは公表されていない)があり、これによると朝枝の案は追認されて関東軍総司令部(すでにソ連の手中にあったが)に伝達されたという。斎藤は一兵士としてシベリアに抑留されたことが納得できず、こうした記録や文書にあたっていた。そのため、当時の大本営参謀が実際にどのような戦略をもって「満鮮への土着」を企図していたかについては、それほど深い関心は持っていなかったようだ。

・・・

 ……。そして朝枝は8月10日から関東軍への出張を申請し、参謀総長以下の了解をもらったとある。(朝枝の書き残した『回想』による)自ら起案した作戦案を示しての申請だったという。
 この作戦案は参謀総長の梅津美治郎が関東軍総司令官の山田乙三らに宛てた文書(軍事機密 大陸命第1374号で、8項目から成っている。その第8項には、「細部に関しては参謀総長をして指示せしむ」となっているのだが、この指示文書大陸指は防衛庁戦史室には保存されていない。朝枝は「自分がまとめた細部に関しての指示(文書は残っていない。つまりソ連に押収されたと思われる)を記憶で辿ると、以下のように」なっていると書き残している。この指示は「軍事機密」であったという。
 朝枝の『回想』からその部分を引用しておく。
「大陸命1374号に基づき、関東軍総司令官に対し、その作戦遂行上指示するところ左の如し。


(1)関東軍総司令官は、米ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、成るべくソ連をして、速やかに朝鮮海峡まで進出せしむる如く、作戦を指導すべし(朝枝註・当時ストックホルム駐在武官小野寺少将がヨーロッパにおいて入手しておった、米ソ間のヤルタ協定の情報は作戦課迄は伝わっておらなかった。従って、米ソ間で、朝鮮半島に於いては、38度線の縄張り取り決めが存在しておったことは、全く未知であった。もしかかる情報が作戦課迄到達しておったならば、このような大陸指は考えられなかったものと信ずるが)

(2)戦後従来の、帝国の復興再建を考慮して関東軍総司令官は、成るべく多くの日本人を、大陸の一角に残置することを図るべし。之が為、残置する軍・民間人の国籍は、如何様にも変更するも可なり」
 これが作戦課長、作戦部長、参謀次長、参謀総長の諒解を得て、関東軍総司令官に伝えられたのである。ソ連軍を朝鮮半島まで誘導してアメリカとの対立状況をつくれ、大陸(いうまでもないが中国大陸)に日本軍将兵を温存せよ、と大本営は伝えていたわけである。冒頭のモスクワで発見された公文書はまさに「事実」であり、国家意志であったのだ。


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シベリア抑留 対ソ和平交渉の真実は?

2009年03月06日 | 国際・政治
 敗戦前後の軍命による文書の焼却処分で、日本は戦後処理に多くの問題を残した。棄兵・棄民としてのシベリア抑留は、その代表的なものの一つである。シベリア抑留にかかわる「生き証人」といわれた瀬島龍三は、語らずに逝った。したがって、日本政府が関連資料を全て公開し事実を明らかにするか、ロシア側から決定的な証拠が出てこない限り、棄兵・棄民としてのシベリア抑留の真実は闇の中である。しかし、総合的に考えると、真実は限りなく黒に近いグレーである。戦争に関する様々な書物を残しながら、問われていることには答えなかった瀬島龍三の姿勢が真実を物語っているように思われる。「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康(文春文庫)からの抜粋である。
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               第1章 シベリア体験の虚と実

 瀬島には、まだ歴史上の証人として証言しなければならない重要な問題がのこされている。それは、これまで述べてきたシベリアの悲劇の原点ともいえる、シベリアに連行された軍人、民間人約57万人余の「法的決着」に関わった当事者としての証言である。「大本営の2000日」で、瀬島は、関東軍総参謀長の秦彦三郎とハルビン総領事の宮川舟夫の3人で、敗戦時に、ソ連軍との停戦交渉にあたった経緯を話している。ここでの瀬島の証言は比較的長いが、その主要部分をぬきだしてみる。

「それで17日(注・昭和20年8月)に秦総参謀長のお伴をして、ソ連総領事館のあるハルビンへ行きました。わが天皇陛下からこういう命令(注・停戦命令のこと)が出たので、関東軍としてはいち早くソ連極東軍司令官と連絡をとって停戦交渉をしたい、その斡旋をしてくれということを総領事に申し入れて、いったん新京へ戻りました」
「翌日、ソビエトの飛行機をハルビンに入れるから、権限をもった軍使がそれに乗ってくれという連絡があって18日の夕方、またハルビンへ行きました。今度は私をふくめて3人の参謀がお伴をしました」
「その晩、総領事の公邸で翌日の交渉のいろんな項目を、ぼくが陸軍罫紙に書く、宮川さんがそれをチェックする、ほとんど徹夜でした。たとえば、日本軍において軍刀は魂である。拳銃はとりあげても軍刀の佩用はは認めてくれとか、一般将兵、市民はなるべく早く帰国させろとか、いろんなことですな」


 そして19日の夜明けにソ連の輸送機でジャルコーポに行き、ソ連の5人の元帥と停戦交渉を行ったというのが骨子である。瀬島は、交渉場所への道筋や要した時間、交渉相手の5人のソ連軍元帥の名前や職掌などもくわしく紹介しているが、交渉の模様やどのような取り決めがなされたかについては、なにも語っていない。

・・・(以下略) 

 シベリアに抑留され、現在、全国戦後強制抑留補償要求推進協議会(全抑協)事務局長をつとめる高木健太郎は、次のように語る。
「わたしたち兵隊は、ソ連に抑留され、酷寒と粗食と重労働で筆舌に尽くしがたい苦労をなめてきました。現にこのわたしも、シベリアの厳寒で、夏期のコルホーズの炎熱の叢のなかで重労働を強制されました。わたしの作業大隊には千人の抑留者がいたのに、強制労働と飢えと栄養失調で半数以上がバタバタと死んでいきました。死んだ仲間を丸裸にして穴を掘って埋めましたよ……。一説では、われわれ兵隊がシベリアに連行されたのは、終戦のときに
『国家賠償』として連れていかれたというんです。うちの会のある理事は、瀬島さんたちがソ連との話し合いでそれを認めた疑いがある、といっています。瀬島さん、あなたはソ連側との交渉でどのような話し合いをしたのか、一言だけでいいからわれわれに話してください。それがわれわれ抑留者全員の願いなんです。でも瀬島さんはこの件に関してはいまだに一言も話していないんです」

 高木をはじめ、全抑協の幹部に話を聞いていくと、事態はきわめて深刻なことがわかってくる。理事の甲斐義也も、懇願するような口調で、
「われわれは、瀬島さんが歴史の生き証人として、停戦交渉の協定の内容を話してくれることを心の底からお願いしているんです。ここに書かれている条項を、ソ連側と話し合ったんじゃないですか」
 といって、一枚の紙切れを示した。それは、
「対ソ和平交渉の要綱(案)」のコピーだった。

・・・(以下略)

 外務省の『終戦史録』にも記されているこの要綱(案)は、4項目から成っている。
 第1項は、「聖慮を奉戴し、なし得る限り速やかに戦争を終結し、以てわが国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむることに全力を傾倒す」とあり、第2項には、「これがため内外の切迫せる情勢を広く達観し、交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず、悠々なる我国体を護持することを主眼とし、細部については、他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとする」とあるたしかに、これでは抽象的すぎる。ソ連との交渉に、このような態度でのぞんでも「具体性に欠ける」と一蹴されても仕方がないかもしれない。

 ただし、第3項の「陸海軍軍備」のロの項には、次のように書かれている。
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す」
 そして第4項の「賠償及其他」のイ項にも、次のような記述がみられる。

「賠償として一部の労力を提供することには同意す」
 日本政府は、ソ連側に海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時補償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。ソ連はこの条項の意味を見抜いていた、というのが甲斐をはじめ全抑協の理事たちの見解であった。
 その後、瀬島らがソ連軍と停戦交渉にはいったときに、ソ連軍はこの条項を日本側に示し、その履行を迫ったにちがいなく、秦総参謀長や瀬島はこれを受けていれているはずだ、というのが全抑協の主張である。


・・・(以下略)

 秦と瀬島、それにハルビン総領事の宮川の3人は、ワシレフスキー元帥と停戦協定を話し合った。ここで秦は、関東軍の一般状況を説明したあとで、とくに「日本軍の名誉を尊重されたい」と「居留民の保護に万全をつくされたい」の2点を訴えている。しかしその話し合いの細部は、いまもって正確な記録としてはのこされていない。防衛庁戦史室編の戦史叢書によれば、話し合いの結果7ヵ条の協定ができあがったとある。この7ヵ条の協定のうち、最後の第7条は、なぜか「略」となっている。なぜ第7条だけを明らかにしないのか不思議なのだが、とにかく戦史叢書に書かれている第6条までには、一般抑留者を国家賠償としてさしだすといった条項は見あたらない。
 全抑協の会員が秘密協定があるはずだというのは、この第7条の「略」とある部分が実はそれにあたるのではないかと疑い資料の公開も要求しているのである。


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重慶 日本軍による無差別爆撃

2009年03月01日 | 国際・政治
 昨年の末から今年のはじめにかけて、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザを連日空爆した。一連の空爆による死者は1300人以上、負傷者は6000人を超えると報道された。その多くが、女性や子どもを含む非戦闘員の一般市民であるという。空爆に怯える女性や子ども達の映像もたびたび流された。どんな理由があろうと許されない所業であると思う。国際連合などの組織が、ハーグ条約をはじめとする(誰が考えても当たり前の)国際法を、すべての国に守らせることができないのはなぜなのか。こうした空爆が二度と起きないようにすることこそ、国際社会の最優先課題だと思う。 
 ところで、そうした無差別爆撃を、日本軍が1930年代にエスカレートさせたことを忘れてはいけないと思う。
 1931年10月錦州に始まった日本軍の無差別爆撃は、政府による「対支膺懲」声明(1937年8月15日)が発表されると、急速にエスカレートしていったようである。国際社会の非難や国際連盟の非難決議を受け入れることなく、陸軍中央自ら毒ガスの使用さえ許容し、重慶では、軍事目標とはほど遠い重慶市街の中央公園を爆撃目標とする命令が下された。当然、多数の非戦闘員が、その犠牲となった。「戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡」前田哲男(朝日新聞社)よりの抜粋である。
----------------------------------                   南京渡洋爆撃

 国際連盟の対日非難決議とルーズベルトの対日非難演説

 日本はこの時期すでに国際連盟を脱退して久しかったが、その国際連盟でも中国への都市爆撃問題は取り上げられ、1937年9月28日、総会は23国諮問委員会の対日非難決議案を
全会一致で可決した。全文は以下の通りである。

「諮問委員会は、日本航空機に依る支那に於ける無防備都市の空中爆撃の問題を緊急考慮し、かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤の念を生ぜしめたるかかる行動に対しては何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す」

 それより一週間後、ルーズベルト米大統領はシカゴにおいて「隔離演説」として知られるようになった対日非難演説を行う。

「世界の国の9割は、一般的に認められる法と道義の標準にしたがい、平和な生活をしたいと力めているにもかかわらず、残りの1割の国は極めて好戦的で、他国の内政に干渉しあるいはたこくの領土に侵入することにより、世界の秩序及び国際法を破壊しつつある。現に宣戦の布告もせず、何等正当な理由もなくして婦女子を含む非戦闘員を空爆により無慈悲に殺害しつつある状態である。これは特定の条約違反などという問題ではなく、国際法及び人道の世界的問題で、いかなる国も無関係ではあることはできない」 
・・・(以下略)

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                漢口W基地の建設

   重慶爆撃計画が浮上

 同床異夢だとはいえ、国共合作もなった今、蒋介石が膝を屈することなどあり得ようはずもなかった。手詰まりを一気に打破する起死回生の手段として、「蒋介石の都」重慶爆撃計画が浮上してくるのは、このような情勢下においてであった。
 対重慶戦略爆撃の企図を明確に示した天皇の名による最高指示、「大陸命第241号」が参謀総長・閑院宮戴仁親王名をもって現地軍司令官(杉山元・北支那方面軍司令官、畑俊六。中支那派遣軍司令官、安藤利吉・第21軍司令官)に奉勅伝宣されたのは、1938年12月2日のことである。「戦政略爆撃」はここに石に刻まれた文字となる。


  1、大本営ノ企図ハ占拠地域ヲ確保シテ其安定ヲ促進シ堅実ナル長期攻囲ノ
    態勢ヲ以テ残存抗日勢力ノ制圧衰亡ニ勉ムルニ在リ
   こう基本目標を設定した上で、
  5、中支那派遣軍司令官ハ主トシテ中支那北支那ニ於ケル航空進攻作戦ニ任
    ジ特ニ敵ノ戦略及攻略中枢ヲ制圧攪乱スルト共ニ敵航空戦力ノ撃滅ニ勉ム
    ベシ 密ニ海軍ト協同スルヲ要ス

 と、航空進攻作戦においてはその目的が敵の戦略・政略中枢撃滅にあることを明らかにしていた。
 この大陸命を承けて、同日参謀総長戴仁親王名による作戦指示、大陸指第345号が現地軍3司令官に下されるが、そこでは航空進攻作戦に関する指示を冒頭においていた


 大陸命第241号ニ基キ左ノ如ク指示ス
 1、全支ニ亘ル航空作戦ノ実施ニ関スル陸海軍中央協定、別冊ノ如ク定ム
   敵ノ戦略及政略中枢ヲ攻撃スルニ方リテハ好機ニ投ジ戦力ヲ集中シテ特ニ
   敵ノ最高統帥及最高政治機関ノ捕捉撃滅ニ勉ムルヲ要ス

 ここに明記された通り、来るべき戦政略攻撃作戦は、日本軍の作戦として極めて異例のことに、当初から陸海軍中央協定に基づく協同作戦を建て前としていたのである。兵力の大量かつ集中使用こそ戦略爆撃の要諦であることを参謀本部はよくわきまえていた。
 もう一点、大陸指第345号には恐るべき指示が盛り込まれている。
その第6項──。

 6、
在支各軍ハ特殊煙(あか筒、あか弾、みどり筒)ヲ使用スルコトヲ得、但シ之
   ガ使用ニ方リテハ市街地特ニ第三国人居住地域ヲ避ケ勉メテ煙ニ混用シ、
   厳ニガス使用ノ事実ヲ秘シ其痕跡ヲ残サザルガ如ク注意スベシ


 「特殊煙」とは毒ガスを指し、あか筒、あか弾は砒素系のジェフェニールシアンシルシン、みどり筒は催涙ガスの符号である。日中戦争間、日本軍による毒ガス使用はすでに多くの資料で明白になっているが、それは、この参謀総長命令のもと実施されていたのであり、やがて重慶市民も日本軍の毒ガス攻撃や毒入りタバコ投下のうわさに神経を尖らせるようになる。エチオピア戦線におけるイタリアと同様、日本もまた毒ガスを禁止したジュネーブ議定書署名国でありながら、それに拘束されるつもりは全くないようであった。大陸指第345号は、日本が対中国戦争遂行にあたり、二つの国際法規──「毒ガス等の禁止に関する議定書」および「空戦に関する規則」(とくに第22条「非戦闘員等に対する爆撃の禁止」)──を無視する決意であることを、同一文書によって中国派遣の全陸軍部隊に指示・徹底させるものといえた。
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                   重慶初爆撃

   重慶とゲルニカの共通性

 1938年12月25日17時。漢口飛行基地(W基地)に戦闘司令所をおく陸軍第1飛行団長・寺倉正三少将から隷下部隊に一通の攻撃命令が発せられた。

「飛行団ハ主力ヲ以てテ重慶市街ヲ攻撃シ、蒋政権ノ上下ヲ震撼セントス 攻撃日時ヲ明26日13時ト予定ス」

 第1飛行団長・寺倉陸軍少将にとって、重慶爆撃の任務決行は、べつに驚くにあたらない既定の流れであった。大本営の企図する次の作戦が航空戦力をもってする奥地進攻──四川省要地攻撃となることはあらかじめ知らされていた。その場合、陸軍航空の先陣に立つのが漢口に司令部をおき重爆隊3個戦隊を擁する第1飛行団の任務になるのはわかりきったことだった。寺倉は、大陸命第241号によって戦政略攻撃中心に作戦転換のなされるすでに以前、直属上級司令部にあたる航空兵団司令官・江橋英次郎中将から、遠距離航空撃滅戦と要地攻撃の訓練に5週間でメドをつけ7週間で完成させるよう命じられていて、部下は爆撃、射撃、航法の訓練に寧日ない状態だったのである。

……(以下略)
----------------------------------
            爆撃目標は街の広場「中央公園」

 寺倉の命令は、爆撃目標、方法に関しさらに細かく言及していた。

  7、飛行第60戦隊及飛行第98戦隊ハ相協同シテ明26日13時ヲ期シ重慶市
    街ヲ攻撃スルノ準備ニ在ルベシ
 目標ハ両戦隊共重慶市街中央公園
    軍公署……公安局県政府ヲ連ヌル地区内トシ副目標ヲ重慶飛行場トス 爆
    弾ハ百瓲以上ノモノヲ使用スベシ



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