真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アパルトヘイト犯罪条約採択に反対した米・英

2023年05月27日 | 国際・政治

  下記は、「APART-HEID 南ア・アパルトヘイト共和国」(大月書店)の著者、吉田ルイ子氏が南アフリカを訪れた時の、衝撃的な体験を記したプロローグです。
 アパルトヘイトという人種隔離政策のただなかにあった南アフリカという国の、恐るべき日常と吉田氏の驚きや苛立ちが、ひしひしと伝わってきます。

 当時の南アフリカでは、16%を占める白人が、84%の非白人を支配し、黒人は14%の国土に分離されていたといいます。そして、公共施設も白人用と非白人用に区別され、人種の違う男女の結婚が禁止されるなど、日常生活のあらゆる部分に、徹底した差別が存在したのです。
 今では信じがたい、そうした差別政策は、1990年代はじめまで続いていました。
 当然のことながら、南アフリカでは、少数の白人による支配やアパルトヘイトに基づく差別に対して、ずっと抵抗運動が続いていました。
 後に南アフリカ共和国の大統領となるネルソン・マンデラは、反アパルトヘイト運動でよく知られていますが、彼はアフリカ民族会議(ANC)の指導者の一人でした。1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受けたマンデラは、1990年、デクラーク大統領の政策によって釈放されるまで、27年間も獄中生活を送ったといいます。
 そうした少数白人支配のアパルトヘイトに対して、国連総会は、1952年以降、毎年非難決議を採択し続け、1966年には、アパルトヘイトは国連憲章および世界人権宣言と相容れない「人道に対する罪」であるとして、強く非難しました。 そして、1973年11月30日には、国連は、総会で人種差別を犯罪とし、その禁止、処罰を定めたアパルトヘイト犯罪条約を採択しました。その条約は、76年7月18日に発効したということですが、日本や西欧諸国は加入していないのです。
 同条約は、アパルトヘイトが、人種隔離・差別政策を含めて、ある人種集団による他の人種集団に対する支配、組織的抑圧の目的でなされてきた基本的人権と自由の侵害であるとしています。
 だから、締約国は、アパルトヘイトが人道に対する犯罪であり、国際法の諸原則、特に国連憲章に反し、国際の平和と安全に対する重大な脅威であること、そしてそれを犯す団体と個人も犯罪者であり、処罰のために立法、司法、行政の措置をとることなどを約束しなければならなかったのです。

 でも、日本や欧米諸国は加入しなかったのみならず、当時のイギリスのサッチャー首相や、アメリカのレーガン大統領は、アパルトヘイト犯罪条約の採択経済制裁に反対したということです。重大な問題だと思います。

 小田 英郎教授によると、アメリカが南部アフリカ地域に積極的に関わるようになった背景には、モザンビークで左翼政権が生まれたり、アンゴラの内戦で、アンゴラ解放人民運動(MPLA)が勝利するなどといった左傾化の動きがあったからだといいます。
 それは、アメリカを中心とする西側諸国が、共産勢力の拡大を阻止するために、アパルトヘイトを続ける南アフリカの政権を支える必要があったということだろうと思います。

 だから、南アフリカでも、アメリカを中心とする西側諸国は、日本を含めて、人命や人権よりも覇権や利益を優先したといってもよいと思います。こうしたアメリカの対外政策や外交政策を、私は、見過してはならないと思います。 
 

 イギリスフランスを中心とするヨーロッパ諸国は、アフリカ諸国を植民地とすることによって国力を高めた面があると思いますが、植民地であったアフリカ諸国、特にアンゴラの独立を支援したのはキューバであり、ソ連であり、東ドイツなどであったということも見逃してはならないと思います。

 少数白人政権と戦うマンデラの所属するアフリカ民族会議(ANC)に資金を提供し、国際連合で、アパルトヘイトを続ける南アフリカに対する経済制裁を提唱したのは、ソ連でした。
 したがって、ウクライナ戦争に関わって、南アフリカ共和国が、欧米から批判を受けてもなお中立主義をかかげて、ロシアに対する制裁に加わらず、また、中国との関係を維持・強化することも、何ら非難されることではなく、当然の流れだ思います。

 だから、歴史を踏まえれば、現在、問題なのは中国やロシアではなく、植民地支配によって国力を高めた西側諸国であり、特に、覇権が急激に失われつつあるアメリカではないかという視点で、ウクライナ戦争を見る必要があると思うのです。

 原爆投下に対するマンデラの演説 (https://twitter.com/i/status/1660386441778827266)は、アメリカの戦略や戦術をよく知る人の貴重な演説だと思います。

 下記は、「APART-HEID 南ア・アパルトヘイト共和国」吉田ルイ子(大月書店)の、プロローグ全文です。
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                      プロローグ

 ヨハネスブルグの昼間は、人種、国籍混合の国際近代都市だ。しかし、この高層建築が林立する「ガラスの動物園」も、午後5時を過ぎると、人っ子ひとりいなくなる。86年からつづく非常事態宣言のせいである。5時を過ぎると道路を歩いている黒人は尋問され、拘留されるという。外国人だって例外ではない。
 私は毎日標準レンズひとつをつけたカメラを肩に、ヨハネスブルグの街を歩いた。南アフリカの風にじかに触れ、土をじかに足の裏に感じたかった。そして人びとと接したかった。が、まだ明るいのに午後5時までにホテルにもどらなければならない。
 その日も、バス停、駅、公園、ショッピング街などを歩きまわって、5時前にホテルにもどってきた。その晩、ヨハネスブルグに住む南アフリカ人(イギリス系)の夫婦と夕食をともにする約束があった。彼らが5時前にホテルに迎えに来ることになっていた。部屋にもどり、顔を洗い服を着替えてもう一度ロビーにおりたが、彼らはまだきていなかった。車が来るのを外で待つことにしてホテルを出ると、そこに一人の黒人の少年がうずくまっているのをみつけた。入ってくるときにもその少年がいるのに気づいたが、そのとき彼は立っていたので、このホテルに家族が泊っている他のアフリカの国からきた子かと思っていたが、うずくまっている様子がどうも普通でない。
 私は近寄って声をかけた。
「どうしたの?」
 びっくりして顔をあげた彼の表情には明らかに何か心配なことがあるのがわかった。しばらくだまっていたが、やがて小さな声でいった。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんがここに来るのを待っているんだけど」
 彼のとしは9歳、Tシャツ・Gパンの私より、彼のほうが身なりもきちんとして黒い革靴をはいている。17歳のおねえちゃんと13歳のお兄ちゃんといっしょに、クリスマスのショッピングにソウェトからヨハネスブルグに出て来た帰り、姉が突然、車で追いかけてきた数人の白人の子に路上でひったくられるように連れていかれた。それを兄さんが追っかけていったそうだ。
「それで、警察には知らせたの?」
「けいさつ?」
 彼は瞬間、けけんな表情をした。私は、彼の手をひっぱって、ホテルのマネージャーのところへ連れていった。この子があなたに何かしましたか? という表情で立っていたマネージャーは、私の説明を聞いているうちにナンダという表情に変わっていった。
「すぐ、警察へ電話してください。」と私がいうのを聞いて、
「警察ネー、でもこの子はカフィール(黒ん坊)ですからね」
 それを聞いて、私は思わずカッとなった。
「黒だろうと、白だろうと、黄色だろうと、ひとりの女の子の命にかかわる問題でしょう。さー、警察をよびなさい」
 私の見幕におどろいたマネージャーは、「まあ一応そういわれるなら、電話をしてみますが、来るかどうか、とにかく、この件は私たちにおまかせ下さい。旅行者のあなたはかかわらないで下さい」そういって彼は少年を奥のほうへ連れていった。
 そのとき、迎えの車がきて、車の中から友人が手招きしているのがみえた。
「私は一時間くらいでもどってくるから」。後ろ髪をひかれる思いで私は友人の車に向かった。
 夕食の招待もそこそこにホテルにもどった私はマネージャーをさがした。が、彼はもう帰っていなかった。少年もいなかった。キョロキョロうろうろしているのをみかねたのか、金モールのユニホームを着た黒人のドアマンが私にこういった。
「わたしもあの子のことをみていましたが、あんなことは日常茶飯事。そして、警察は、黒人のことなんか、殺すか、逮捕するかはしても助けてなんかくれませんよ」
 彼は大きなためいきをついて首を横に振るのだった。
結局警察は来なかった。少年はどこへいったのだろう。非常事態宣言下のヨハネスブルグの街中で、どうしているのだろう。ああ、やっぱりあのとき夕食にいくのをことわるべきだった。少年といっしょにいるべきだった。かといって私に何ができただろうか。
 私の狼狽ぶりをいかぶった友人が車の中で事情をたずねた。私の説明を聞いていた友人夫婦は、
「nothing we can do(どうしようもない)それがこの国の現実よ」といった。彼らは、アパルトヘイトに反対しているいわゆるリベラル派の人びとである。その彼らも、マネージャーと同じく、かかわるなというのだった。
 日本の警察も最近おかしくなってきたが、私たちは、少なくとも警察は一応法にもとづいて、殺人、窃盗、交通事故、火事などに必ずかかわるのが任務だと信じている。ところが、南アフリカでは、警察というものはソウェトの蜂起のテレビでみたように、黒人を殺したり、犬にかませたり、逮捕したりするために存在していても、決して黒人の側に立って協力してくれる存在ではないのだ。どうして私はあのときそのことに気づかなかったのか。なんという軽率な行為だったのだろう、と自分を責めても責めきれなかった。
 それにしても、あのとき、私は何をすべきだったのか、かかわらない、という以外に方法はなかったのか。南アに滞在中、そしていまも私の脳裏に少年のうずくまっていた姿が焼きついている。

 ただ黙って泣いている子の怒りは
 強い男の叫びより はげしく もっと苦しい   
           (エリザベス・バーレット・ブラウニング「子どもの叫び」より)

 nothing we can do ではなく、something we can do──何かできることがあるのでは?
これが、私がいまこうして私の小さな体験を本にすることによって、読んで下さる皆さんといっしょに考えたいことなのです。

 カフィール 
 南アフリカの公用語で、キリスト教信者以外の無神論者を指し、転じて黒人に対する蔑称「黒ん坊」を意味する。

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GHQが日本でやったこと

2023年05月22日 | 国際・政治

 アメリカやウクライナからもたらされる情報を、何の検証もなく流し続ける日本のメディアの報道によって、現在の日本は、戦前の報道規制・言論統制があったときに近い状況に陥っているように思います。「大本営発表」が「アメリカ国防省・国務省発表」に変っただけのような・・・。

 それは、ウクライナ戦争に関わる松山千春氏の
殺し合いをやめらせるのが政治ではないか。武器を送ったら犠牲者が出るだけだ。その武器、おまけに戦闘機までくれというゼレンスキーは間違っている。喧嘩が始まったら誰かが仲裁に入り、早く終わらせるしかない。G7というならそこにプーチン大統領、ゼレンスキー大統領両方呼んで、我々が立会人、保証人になるから両方の言い分も聞くから先ずは銃をおけと呼びかけるべきではないか。ゼレンスキーだけ呼んでどうする」
とのツイートに対し、下記のような主張をする人が多いことでもわかると思います。

先に手を出して侵略しているのはロシアですよ 占領地域から撤退しないことには話が始まりません”
”既に当事者の一方が、大義もなく侵略を重ねている現状を鑑みるに、話し合いによる解決を図るには、一旦現状復旧が必要です。そのためには、損害を被っている側が一定反撃を行うほかはありません。現状で武器を置けというのは、先制攻撃を是認することになり、現時点の状況ではむしろ不適切です”
”核をちらつかせて一方的に領土を奪い取るロシアは侵略であって戦争では無い。争いを終わらせるには占領地を返して賠償金を払って核を放棄しなければならない。ゼレンスキーが武器を欲しがるのは侵略された領土の奪還とロシアをウクライナから追い出す手段なだけ。

 こうした主張をする人たちは、ウクライナ戦争の経緯や背景をきちんと理解するための情報がないために、アメリカのシナリオを疑うことができないのだと思います。
 現在の日本は、自分で情報を探したり、いろいろな事実を調べたりしないと、ウクライナ戦争に関する客観的な事実、特に、アメリカを中心とする西側諸国にとって不都合な事実を知ることは、ほとんどできない深刻な状況にあると感じます。

 それに加えて、ウクライナ戦争を主導するアメリカという国の戦略や、病的とも言える反共主義に基く対外政策や外交政策が、現実的にどのようなものであるかを知ることも難しい状況にあると思います。調べれば、いろいろあるのですが・・・。

 だから今回も、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)から、「追放とレッド・パージ」の「」と「」を抜萃しました。それは、
追放されるべき軍人組がGHQの傭員になったばかりでなく、さきに第一番に追放を受けた特高関係の人間が、いつの間にか、彼らの側に採用されて息を吹き返していたのである。
というような文章でも、わかるのではないかと思います。


 共産主義者や社会主義者、また、天皇制に反対するような人を厳しく取り締まった特高警察、そして、鬼畜米英を煽り、国民に塗炭の苦しみを強いた戦争指導者等が、GHQによる民主化政策の公職追放を免れたばかりでなく、特権を与えられたり、厚遇さえされたりしたという事実は、ウクライナ戦争に関わるアメリカの表向きの主張の裏に、何かあるだろうと疑うきっかけを与えてくれるものではないかと思います。
 GHQは、”日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”という目的をもって日本を占領したにもかかわらず、現実には、ひそかに追放されるべき日本の戦争犯罪人と手を結んで、アメリカの覇権や利益の維持・拡大を進めたのです。”歴史課の仕事が対ソ作戦の情報資料を調整することにあったことは、ワイルズの指摘するところである”というような記述も、見逃せないと思います。

 アメリカの関わる戦争には、必ずと言っていいほど、こうした覇権や利益の維持・拡大を狙った目的があり、また、病的とも言える反共主義に基く戦略があるということです。
 
 だから、ウクライナ戦争に関しても、日常の報道を鵜呑みにすることなく、客観的事実を知ろうとする努力が必要であると思います。ロシアが一方的に侵略したなどというアメリカによるシナリオを疑う必要があると思うのです。

 日本は、アメリカの中露敵視の戦略に踊らされて、戦争の惨禍に目を向けることなく、ウクライナ軍を支援するような愚策を続けてはならないと思います。人命や人権を考慮すれば、松山氏の主張するように、先ず停戦であり、話合いだと思います。
 それを拒否しているのは、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止し、ロシアを孤立化させ、弱体化させたいアメリカだと思います。
 下記を読んで、危険なのは、中露ではなく、むしろ戦争や植民地支配で、搾取や収奪をくり返してきた欧米ではないか、と疑う視点を得てほしいと思います。

 下記は、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)から、「追放とレッド・パージ」の「」と「」を抜萃しました。
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                       追放とレッド・パージ

   3
 追放名簿の作成は、はじめは全く政府の手で一方的に行われたのだが、21年6月から官制によって公職資格適否審査委員会が設けられ、政府とは独立したこの機関が審査に当った。委員長は美濃部達吉で、委員会は馬場恒吾、飯村一省、入間野武雄、谷村唯一郎、寺崎太郎、山形清によって構成された。追放が地方にも拡大されると、各地方にも審査委員会が設置された。また異論の申立てに対しては、別に公職資格訴願審査委員会を儲けて、沢田竹次郎ら7人の委員が任命された。
 この公職追放という形式による旧秩序の崩壊は、即ち新秩序の誕生というほどには円滑にいかなかった。それは謀略も懇請もあり、また幾つかの例外があった。が、しかし、「粛清」は、大体、GHQの思う通りに進んだようだった。 
 日本人の手によって以上二つの審査会が設けられたが、これは殆ど有名無実に等しかった。何となれば、指摘されそうな人物は、これらの日本人の委員に頼み込むよりも、直接、GHQに訴願したほうが手っ取り早いし、有効だったからである。そこで、自分たちは例外になろうとする必死の工作が随所で展開された。また、とうてい逃れることが出来ないと観念した数多くのグループの中でも、追放自体が間違っているという理論を打ち出すことによって、形式はともかくとして、実質的な追放を避けようとする凄じい巻き返しが行われた。当然、このためには、アメリカの利益となりうる存在を彼らに誇示すれば追放を免れ得る可能性はあったし、また裏取引としては、財宝の献納や、女性を近づけて親しくさせ、彼女らの口からとりなしを頼むという裏口工作もあった。
 追放を受けた連中は、一時は虚脱に陥ったが、間もなくアメリカの対日政策の本質を見抜いた。それには一つの覗き穴があったのである。  
「JCS(統合参謀本部)の命令を文字通りに守れば、当然追放される筈のそういった軍人の中に、二人の陸軍中将がいた。ヒトラー政権当時、ドイツの駐在武官をし、のち、マニラへ降伏使節団の団長としてやってきた河辺虎四郎と、陸軍情報部長だった有末精三である。二人とも英語はしゃべれなかったので、ドイツ語でウイロビーと話し合った。ウイロビーはドイツ生まれで、その名前は元フォン・ツェッペ・ウント・ワイデンバッハだった。
 マッカーサーに保護された三番目の軍人は服部卓四郎大佐で、元東条の秘書官で、参謀本部の作戦課長をしていた人物である。日本海軍軍人で保護された筆頭は、海軍を代表してマッカーサーの到着を出迎えた中村亀三郎中将と、海軍随一の戦略家と称されていた大前敏一大佐だった。このグループにアメリカ側の編集者として配置されていたクラーク・H・河上は、河辺、有末と一緒に働いている旧日本軍人およびその他の者も、この両名との毎日の接触に当って、元の彼らの軍の肩書をそのまま付けて呼ぶことを命令されていたと報告している。彼らほどには恵まれない他の日本人は、皇族も含めて普通人の地位に引きずり降ろされてしまった。当然、追放されるべき将校連が特権を与えられたばかりでなく、元ドイツに交換教授として派遣されていた荒木光太郎教授と、芸術家のその夫人は、二人とも戦争当時ドイツの外交官仲間と特に親しくしていたというので、一般日本人よりも特に厚遇を受けていた」(ワイルズ)
 この荒木光太郎は、画家荒木十畝(ジツボ)の子で、その夫人が、のち、郵船ビルで個室を与えられ、歴史の編纂に従事していたという荒木光子でる。光子がウイロビーの厚遇を受けて「郵船ビルの淀君」と噂されたのは、ケージスと親しかった子爵夫人鳥尾鶴代やその学習院グループの存在とは別のケースである。荒木夫人はその手腕をウイロビーに高く買われたが、鳥尾夫人の場合は愛情でケージスと結ばれた。楢橋渡は、鳥尾夫人を通じてケージスに働きかけ、追放を早く解除になった、と一般に信じられている。
 岩淵辰雄は語っている。
「『追放者を30万出せというなら出すが、それはほんとうに責任があって追放になるんじゃなくて、反省の機会を与えるんだ。だから、こういうものは一ぺん追放して、恰好がついたら、すぐ助ける方法を講じなくちゃいかぬ。それをアメリカがOKするなら、おれがやってやる』といった。吉田はすぐにマッカーサーのところへ行って相談した。すると、マッカーサーは、『それはおれのほうで初めから考えていたことだ、それを君のほうから言ってこないから黙っていたのだ』ということで、吉田は助ける機関として訴願委員会を作る、それと同時に有名無実になってしまった委員会の構成をかえて、公職資格適否審査委員会というものにしたんです。
 そこで、僕や加藤さんや、いま日本化薬社長の原安三郎さん、これらあと一緒に実際にやってみると、どうも変だ。つまり、吉田がマッカーサーに直接会って了解を得たということが、GSのケージスなんかにはおもしろくないんだね。それで、訴願委員会のほうがいくら人間の申請をしても、一向にアプルーヴ(許可)してこない。
 いよいよ22年の総選挙が始まって、僕らで楢橋を追放したら、そのとき初めて向こうから、『訴願委員会は何をしているんだ』といってきた。『楢橋は一週間以内に再審査して、選挙に間に合うようにしろ』というわけなんだが、それまで、訴願委員をアブルーヴしないんだ。僕らが委員会を作るまでにはそういういきさつがある」(『日本週報』31・4)
 無論、鳥尾夫人のような立場に縋(スガ)ったのは、楢橋だけではない。その効果はともかくとして、政財界の大物が必死の助命工作をおこなったのである。
 これらの軍人たちはどのような理由でGHQに仕事を与えられていたのか。司令部には「歴史課」というセクションがあって、戦史の編纂という名目になっていた。この仕事に当っていた服部卓四郎は云う。
「従来、いわゆるマッカーサー戦史の編纂をとかく政治的に取り扱っているが、決してそんな政治的なものではなく、ただ、こつこつと戦史資料を集めたにすぎなかったものである。人選にしても、戦争時代に永く陸海軍統帥部に職を持っていたような、戦史関係の事務を執るのに適当な人を選んだにすぎなかったと思う。ただ、戦史資料の蒐集についてわれわれが気持ちよく協力できたのは、ウイロビー将軍の友情、国は違っても軍人同士という相通ずる友情によるものだったと思う。これは今日でも私の感銘しているところである」
 またウイロビーは、そんな歴史が書かれていたことを後で否定した。しかし、これらの職員の本当の仕事の目的は、ソ連の活動についての諜報調整の仕事をしていたものと推測される。そのためには、戦前から対ソ作戦のベテランだったこれらの職業軍人が適任者であったことは云うまでもない。日本参謀本部は、シベリアから沿海州に至るまでの精密な地図や作戦計画を持っていた筈である。
 のちの「服部機関」の噂を考えればこれがうなずけよう。
 また、一部に信じられている噂によると、荒木夫人は、歴史課に勤めている時、他のグループと共に、例のゾルゲ事件の資料をウイロビーのために整えていたという。この資料がのちにウイロビーによってGSのニューディーラーたちをやっつける武器になったのを思い合わせると、(「革命を売る男・伊藤律」参照)これらの職員たちが「ウイロビー将軍の友情」を受けていた理由が分かるのである。この問題も、あとに関連して触れる。
 荒木夫人は魅力に富んだ、極めて頭のいい社交夫人で、政治的な野心を持ち、ドイツ人やイタリア人の外交官仲間に顔が売れていた。(註 荒木光太郎教授は、大戦前、交換教授としてドイツに行き、大島大使と親交があった)しかし、ウイロビーは彼女の誠実さに深い信頼をおいて、その助言を高く買っていた。自由に自分の事務所に出入りさせたばかりでなく、歴史編纂についての面倒な技術的、財政的責任まで彼女に任せていた。大急ぎで狩り集めたアメリカ人の一団を助けるために、ウイロビーはおよそ200名に達する日本人を雇い入れてそれを荒木教授の名目的監督下に置いた。これらの連中の15名は陸海軍の上級将校で、そのうち或る者は実際の作戦計画に参与していた人物であり、この多くは極めて枢要な地位にあった連中だった。これら郵船会社班は、その誰一人として歴史家ではなく、文筆家でもないのに、日本側の記録を搔き集めて公式の日本側の戦史を編もうというわけだった。彼らの仕事は秘密ということになっていて、世間に洩れることをひどく警戒していたのは、ウイロビーがニューヨーク・タイムズのフランク・クラックホーンに対して、そんな戦史は編纂されていない、と真っ向から否認したことでも分かった。(ワイルズ)
 否認したのは、当時、戦史編纂がマッカーサー個人の功績を顕彰すすためだという非難があったからである。
 服部卓四郎は、ともかく日本敗戦の原因を追及した『大東亜戦争史』全四巻を完成した。しかし、荒木班は、膨大な人員と予算と日月を要しながら、それが不出来だったという理由で一般の眼には触れずに終わった。歴史課の仕事が対ソ作戦の情報資料を調整することにあったことは、ワイルズの指摘するところである。

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 追放されるべき軍人組がGHQの傭員になったばかりでなく、さきに第一番に追放を受けた特高関係の人間が、いつの間にか、彼らの側に採用されて息を吹き返していたのである。
 マーク・ゲインは『ニッポン日記』では、彼が山形県酒田に行った時のことを書いている。
 ゲインが土地の署長と交わした会話は次の通りである。
「署長『私は単なる警察官で、特高警察のことは知りません。この警察にも特高係はありましたが、係長は県庁から来た人でした』ゲイン『その男はどうしましたか』『追放されました。9月23日のことでしたが、特高の連中は、みんな解職されました。』『その男は今どこに居ますか』『ほら、あの門のところに腰掛けている男がいるでしょう。アメリカの歩哨のそばに。あれが元特高係長ですよ。『で、あの男は何をしているんです、米軍の宿舎で?』『日本人と米軍との連絡係です。9月24日に、彼は任命されました』『他の特高の連中は?』『ここの警察には6人いましたが、3人は連絡事務所で米軍の仕事をしています』」
 同様なことは、ロバート・B・テクスターの『日本における失敗』の中にも出ている。
「1946年、私が働いていた県に接続する県のCIAの隊長は私に、彼が最も重要な任務を委任していいる彼の最も『貴重』な部下は、職業的テロリストの団体として世界的に有名な日本の秘密警察の元高級警察官だった、と云った。このCIA分隊の一隊員は、この元秘密警察官は県下に起る一切のことを知っている、と云って驚嘆していた。分隊長はこの有能な『日本人部下』の助力を得て、穏健なニューディール派占領軍職員の日本人との接触をさえ細心に見守っていた」
 GSが「追放」という武器を持っているのに対して、G2はCICという「諜報」武器を持って対抗した。従って、CICが下部傭員に情報活動に有能な元特高警察官を雇い入れたことは不思議ではない。ここにおいて、占領後最初に追放された特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織されたのであった。

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法の支配に基づく、自由で開かれた国際秩序?

2023年05月19日 | 日記

 岸田総理は、今回の広島サミットに関し、

G7として核兵器のない世界への決意を改めて確認するとともに、法の支配に基づく、自由で開かれた国際秩序を守り抜く、こうしたG7の意志を強く世界に示したいと思っています
 と言ったのですが、私は、人を欺くことは、やめてほしいと思います。

 人殺し(ウクライネ戦争)を止めようとせず、ウクライネ軍を支援しながら、核兵器のない世界が、どうしてつくれるのですか? と問わなければなりません。

 また、法や道義・道徳を無視して、戦争を繰り返し、アフリカや中南米、中東やアジアの国々を相手に、巧みに搾取や収奪をくり返してきたのは、G7をはじめとする西側諸国でしょう、と言わなければなりません。 

 だから、その証拠ともいえる、日韓の歴史をふり返りたいと思います。

 アジア・太平洋戦争は日本の無条件降伏によって終わりました。そして日本は、”日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ”というカイロ宣言で定められていた国土に「局限」され、GHQの占領下に置かれることになりました。
 そのGHQの占領に関しては、1945年7月のポツダム宣言によって、下記のように、占領の意図や期間が定められていました。

六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ”
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ”

 だから、基本的には、1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約
”(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。
に基づいて、米軍は完全に撤退すべきであったと思います。

 でも、米軍は撤退しませんでした。そこに、アメリカの対外施策や外交政策における欺瞞があると思います。
 ふり返れば、日本降伏直前のソ連軍の急速な南下にあわてたアメリカは、陸軍省、海軍省、国務省の三省調整委員会で、38度線による朝鮮の分断を決め、関係国に通告しました。
 そして、その分断を、「一般命令第一号」に巧みに盛り込みました。おまけにそれは、アメリカ軍が起草したにもかかわらず、大日本帝国の大本営が、日本軍に対して発令するスタイルをとって現実のものとされたのです。だから、朝鮮分断という重大問題が、いつの間にか進行することになりました。分断が、何時、どこで、誰によって決められたのか、よくわからない状態で、現実的に進んでしまうことになったのです。
 そして、その分断を固定化するために、アメリカは南朝鮮を軍政下に置き李承晩を担ぎ出して、南朝鮮単独政府を樹立させました。大陸に対する足がかりとしての永続的な米軍韓国駐留は、そうやって実現していったのです。
 それは、南北朝鮮の統一と独立を求める多くの朝鮮の人たちの声を無視したものであったため、多くの犠牲者を出すことになり、朝鮮戦争に発展する原因ともなったと思います。

 日本に対するアメリカの政策も、同じように、ポツダム宣言サンフランシスコ講和条約に反するものであったと思います。
 GHQの日本占領目的は、基本的には、日本の非軍事化であり、民主化であったと思いますが、アメリカは、軍を日本に駐留させるために、司法介入によって伊達判決を覆しました。さらに、自衛隊に発展する警察予備隊も編制させました。また、レッドパージ公職追放解除は、ポツダム宣言に反するとともに、日本の民主化に逆行するものであったことは明らかだろうと思います。
 だから、GHQの占領目的である日本の非軍事化民主化は、結局、きちんと実現されず、韓国と同じように、アメリカの強い影響下に置かれ、属国のような国になってしまったと思います。
 アメリカの対外政策や外交政策は、いつも表向きの理念や課題とは裏腹に、アメリカの反共主義や利己的な利害によって進められているといってもよい、と私は思います。 
 今回は、「日本の黒い霧」松本清張(文春文庫)から、「追放とレッド・パージ」の一部を抜萃しました。アメリカという国の対外政策外交政策がどういうものであるか、その一端を知ることができると思います。
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                     追放とレッド・パージ

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 日本の政治、経済界の「追放」は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった。1945年8月29日に、アメリカ政府はマッカーサーに対して「降伏後における合衆国の初期対日政策」という文書を伝達し、さらに同年11月3日付で「日本の占領並びに管理のための連合国最高司令官に対する降伏後初期の基本的指令」と題する文書を発した。GHQは、この二つの文書に基づいて占領政策を実行に移すことになった。
 この11月3日の米政府の指令は、追放についてGHQに広い権限を与えている。
「日本の侵略計画を作成し実行する上で、行政、財政、経済その他の重要な問題に積極的な役割を果たしたすべての人々、及び大政翼賛会、日本政治会とその機関、並びにこれを引き継いだ団体の重要人物はすべて拘置し、今後の措置を待つべきこと。また高い責任地位から誰を追放するかを決定する最終責任を与えられる。さらに1937年(昭和12年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も軍国主義的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」
 この指令はトップ・シークレット(極秘)であって、総司令部に接触していた当時の日本側首脳も容易に窺知(キチ)することができなかったのだった。
 この方針に基いて、未曽有の追放が政界、官界、思想界に荒れ狂ったのである。
 もっとも、この追放を実際上実行に移すに当っては、GHQ全体が一つの意見に必ずしも纏まったのではない。G2の意見とGSの意見とに喰違いが早くも見られたのである。
 このことについてマーク・ゲインは書いている。
「総司令部の内部には劇的な分裂が発展し、全政策立案者を二つの対立陣営に分けてしまった、とこの批評家達は言う。一つの陣営(GS)は、日本の根本的改造の必要を確信する者で、他の陣営(G2)は、保守的な日本こそ来るべきロシアとの闘争における最上の味方という理由で基本的な改革に反対する。日本に必要なのは、ちょっとその顔を上向きにさせてやるだけだ、と言うのである。この案に反対の人たちは、次のような論点の数々を挙げた。
 ①徹底的な追放は、日本を混乱に陥し入れ、革命さえ招く惧れがある。 ②もし、追放を必要とするにしても、逐次に行うべきで、その間、息をつく暇を国民に与えなければならない。 ③追放は最高指導者に限られるべきである。命令への服従は規律の定めるところであって、部下は服従以外には途がなかったからである。
 軍諜報部の代表を先鋒に、軍関係の四局は悉く結束して追放に反対した。国務省関係の或る者はこれに味方した。追放を支持したのは主として民政局で、総司令部の他の部局もばらばらながらこれを支持した(『ニッポン日記』)
 マーク・ゲインがこれを書いたのは1945年(昭和20年)12月20日で、もとより、ソ連はまだアメリカの「戦友」だった時である。が、早くもこの見方はのちのGHQの占領政策転換を予見して興味深い。
 追放は、マッカーサーにアメリカ統合参謀本部が与えた指令のように、「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の虚に出るという過誤を犯さしめた者の権力と勢力を永久に除去」することを目的としたもので、対象はこの限りに置かれていたのである。
 ところが、米国防省(ペンタゴン)がマッカーサーに与えた巨大な武器は、後年になって、最初の目的とは裏腹な民主陣営にも振るわれたのである。これは世界情勢の変化、つまりはソ連との対立が激化して、アメリカ自身の安全のために、GHQの政策が大きな変化を遂げたからにすぎない。別な言い方をすれば、「弾圧を荒っぽい外科手術と信じている」ウィロビーが「棍棒の使用よりも小規模の改革のほうがより多くの味方を獲得しうると考えている」ホイットニーに勝ったのである。
 占領は、昔のように強い力をもって対手国を制圧するのではなく、徐々に自国にどうかさせるという方策がアメリカの考え方であった。このため、「同化」に邪魔になりそうな旧勢力の駆逐が追放の一つの狙いであった。
 追放の意義は、それが、「懲罰」か、或は「予防措置」か、考え方の分かれるところである。当初の追放は、確かにこの二つの意味が含まれていた。旧勢力の除去は、つまり軍部の擡頭と権力的な国家思想の復活を予防するために行われたが、また、「日本民衆を誤らせた」というよりも、アメリカに対して敵対行為に出た指導層を追放によって懲罰する意味も含まれていたのである。戦犯に絞首刑は懲罰の最極限の現れである。
 しかし、追放の意義は、あとで触れるように、後になって大きく転換した。ここでは懲罰ではなく、ただ「予防措置」の意義だけが大きくなった。
 つまり、今度は軍部の擡頭や国家思想の復活を対象としたのではなく、その逆の方面、ロシアや中共に「同調する分子」の勢力拡大を予防したのである。云いかえると、対ソ作戦に支障を来すような因子の除去に目的の重点を置き換えたのであった。

 

 

 

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なぜ、殺し合い(ウクライナ戦争)を 止めない?

2023年05月16日 | 国際・政治

 なぜ、殺し合い(ウクライナ戦争)を 止めない? 犠牲者が出ることが分かっているのに、なぜ、武器を供与する? なぜ、ウクライナ軍を支援する?  

 ウクライナ「軍」を支援する人たちや、それに賛同する人たちに、その答えを聞きたい。今、停戦をすればロシアを利する? 冗談ではない。人の命より大事なものなどない。

 だからいろいろ考えます。
 まず、このところアメリカは、ロシアの制裁に加わらない国、特に南アフリカ共和国に強い圧力をかけているように思います。報道によると、ブリゲティ駐南アフリカ大使は、南アフリカがロシアに武器や弾薬を提供していると指摘し、非難したといいます。また、常々、南アフリカ共和国のラマポーザ政権が、中立を装いながら、ロシアに寄り添っているとして批判してきたといいます。

 私は、ジョージ・ブッシュ元大統領の主張を思い出します。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、当時のブッシュ大統領が、
世界各地の全ての国々は、今、決断しなければならない。アメリカ側につくのか、テロ側につくかのいずれかだ
 と語り、各国に選択を迫ったときの主張を思い出すのです。中立を認めず、選択を迫り、アメリカの側につかない国には、制裁を匂わすような強硬な主張だったと思います。

 ウクライネ戦争に関してもアメリカは、ウクライナ・欧米側は「善」、ロシア側は」悪」として、中立を認めない考え方をしているように思います。
 でも、世界は「善」と「悪」にきれいに二分されるようなものではないと思います。にもかかわらず、アメリカはいつも、普遍的な理念を掲げて、自らの利害に基づく戦略を覆い隠し、「善」と「悪」に二分して、他国を自らの側につけるようにしながら戦ってきたと思います。だからそこには、少なからずアメリカの外交における主権侵害があると思います。

 ロシアとの戦いでは、民主主義と専制主義の戦い一方的な侵略者との戦いを語り、中国との関係では、民主主義と専制主義の戦いに加えて、開かれたインド太平洋とか法の支配とか、もっともらしい理念を掲げています。でも、実態はそんなものではなく、その言葉の裏に、危うくなりつつあるアメリカの覇権と利益の維持という目的があり、アメリカが、攻撃的になっていることは明らかだと思います。 

 そういう時だからこそ、今、アメリカの南アフリカ共和国に対する圧力が気になるのです。南アフリカ共和国が否定しているにもかかわらず、アメリカは南アフリカ共和国が、ロシアに武器や弾薬を提供しているとして、報復の制裁を検討しているといいます。
 アメリカは、現在もなお、世界最大の軍事大国であり、世界最大の経済大国でもあります。アメリカによる制裁は、弱小国にとっては、死活問題となりうる恐ろしいものだと思います。したがって、不本意ながら、アメリカの主張に同意してきた国は少なくないだろうと思います。
 そういう意味では、武力行使だけではなく、経済制裁も力による支配であり、アメリカは力によって、他国の外交における主権を侵害し、民主主義に反するふるまいをしてきたと思います。

 ふり返れば、南アフリカは、かつて、法によって人種隔離と差別を制度化しているアパルトヘイトで知られ、少数の白人が不当に支配する国でした。南アフリカの黒人の多くが、少数の白人による一方的な支配とアパルトヘイトに粘り強く抵抗して、苦しい闘いを継続していたことや、後に大統領になるネルソン・マンデラが、反アパルトヘイト闘争で長く投獄されていたことは、よく知られていることだと思います。
 そして、その反アパルトヘイト闘争を支援していたのは、キューバや当時のソ連であり、アメリカを中心とする西側諸国は、アパルトヘイトを黙認していた事実を見逃してはならないと思います。
 また当時国連は、アパルトヘイトを、国連憲章および世界人権宣言と相容れない「人道に対する罪」として非難し、1973年11月に国際連合総会で、下記のような条文をもつアパルトヘイト条約を採択しますが、アメリカのレーガン大統領は、これに反対したことも忘れてはならないと思います。
ーーー 
    アパルトヘイト犯罪の抑圧及び処罰に関する国際条約(アパルトヘイト条約)
第一条 国際犯罪
1 この条約の締約国は、アパルトヘイトが人道に対する犯罪であること、及び、この条約の第二条に規定するアパルトヘイトの政策及び慣行から生ずる非人道的行為並びに人種隔離及び差別の類似の政策及び慣行が国際法の諸原則、特に国際連合憲章の目的及び原則を侵害しかつ国際の平和及び安全に対する重大な脅威を構成する犯罪であることを宣言する。
2 この条約の締約国は、アパルトヘイト犯罪を犯す団体、機関及び個人を犯罪人であると宣言する。
以下略
ーーー
 自由や民主主義を掲げるアメリカが、なぜ、アパルトヘイト条約に賛成しなかったのかは、見過ごすことのできない重大な問題だと思います。
 やはり、ここでもアメリカは、人命や人権よりも、自らの利害、資源の獲得反共主義を優先させていたのです。
 だから、南アフリカ共和国が、かつて支援を受けたロシアの制裁に加わらなかったり、ロシアの非難決議を棄権したりすることは、南アフリカ共和国の権利の行使であり、南アフリカ共和国の自由であると思います。アメリカが報復制裁を匂わせて、非難することの方が、明らかに不当だと思います。
  

 だから、ウクライネ戦争を主導するアメリカの意図や利害を考慮しないで、ウクライネ戦争を語ったり、過去のアメリカの所業をなかったことにして、国際政治を論ずる人たちは間違っている、と私は思います。特に、ウクライナ戦争や中国問題の解説に登場するような、国際政治が専門の学者たちは、そういう意味で罪深いと思います。

 
 私に言わせれば、”何故、殺し合いを 止めない? 犠牲者が出ることが分かっているのに、なぜ、武器を供与する? なぜ、ウクライナ軍を支援する?” の答えは簡単です。アメリカが、自国の覇権と利益を維持するために、戦争によって、ロシアのヨーロッパ諸国に対する影響力拡大を阻止し、ロシアを孤立化させ、弱体化させる必要があるからです。アメリカのマイダン革命に対する関与は、その準備であったと思います。
 また、アメリカが台湾にくり返し武器を売ったり、供与したりしていることも、同じように、中国を孤立化させ、弱体化させる必要があるからだと思います。

 ロシアや中国を孤立化させ、弱体化させて、世界中の国々のアメリカ離れを止めなければ、現在のアメリカ社会を維持することができないため、アメリカは必死なのだろうと思います。
 
 

 

 

 

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アメリカの戦争とマーク・トウェイン

2023年05月11日 | 国際・政治

 マーク・トウェインの下記の指摘は、100年以上も前のものですが、現在も変わらない、興味深い指摘だと思います。

暗やみに座る人は、ほぼ間違いなくこう言うであろう。「ここには何か奇妙なことがある──奇妙で説明できないものが。二つのアメリカがあるに違いない。一つは囚われ人を自由にするアメリカ、もう一つはかつて囚われ人だった者から、彼が新たに得た自由を奪い、何の根拠もなく彼にけんかを売り、そして彼の土地を奪うために彼を殺すアメリカだ” (「暗やみに座る人」は、アジアやアフリカの文明化されていない人のこと)

 マーク・トウェインのこの指摘は、前回取り上げたフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドの、”私は怪物の腹に中に住んだことがあり、その怪物がどのようなものかを知っている”という指摘と重なります。
 フィリピンをスペインの帝国主義支配から解放し、「自由の領域」を拡大するという旗印を掲げて戦った米西戦争の結果は、アギナルドにとっては、フィリピンが新たにアメリカの植民地になるということであったからです。

 

 ウクライナの政権転覆によって、ヤヌコビッチ社会主義政権の権力から、ウクライナの人たちを解放し自由にするという、アメリカのオレンジ革命支援は、実は、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を排除するための、アメリカの戦争の準備であったといえる、と私は思います。 

 そして現在、台湾を中国の圧力から解放し、自由な独立国として発展できるようにするという期待を抱かせて、アメリカの台湾支援が続いているようですが、それは実は、アメリカの覇権と利益を維持するための対中戦争の準備である可能性が高いということを私は見逃すことができません。

 ウウライナも台湾も、アメリカの道具に過ぎないことを、アギナルドやマーク・トウェインの指摘は示唆していると思います。


 現在、日本のメディアは、しきりにロシアや中国の政権の圧政問題や社会状況の問題を取り上げています。確かにロシアや中国の政権にも、いろいろな問題があるだろうとは思います。また、西側諸国に比して、意見の表明や政権批判が難しい側面はあると思います。でもそこには、アメリカをはじめとする西側諸国の政権転覆工作を阻止しようとする意図があることも見逃してはならないと思います。


 先だって、中国でゼロコロナ抗議デモがありました。その際、いつの間にか、そのデモが習体制を顚覆しようとするデモに発展していきそうになりました。私は、西側諸国の工作によるものではないかと疑いました。そうしたら、案の定、米国家安全保障会議のカービー戦略広報担当調整官が、その中国のゼロコロナ政策抗議デモに関し、”米国は、平和的抗議の権利を支持する”と述べました。政府高官が、他国のデモを支持するとか、支持しないとかという考えを表明すること自体が、アメリカの体質をよくあらわしているように思いました。
 だから、やはりアメリカは、中国の影響力拡大を阻止しするために、中国を孤立化させ、弱体化させなければ、自らの覇権や利益が維持できないところに追い込まれているのだと思います。

 先日も、朝日新聞に、”ウイグル族スマホ 中国警察が監視、人権団体「コーラン保存で尋問の可能性」”などと題した記事がありました。その取り上げ方が、朝日新聞も完全にアメリカの影響下に入ってしまったことを示しているように感じました。
 私は、そうした記事の背後に、ウイグル族と漢族の民族的な対立を利用し、習近平体制を揺さぶろうとするアメリカの意図を感じるのです。
 

 下記は、「アメリカ外交とは何か」西崎文子(岩波新書)から抜萃しました。
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                   第2章 西半球の警察官

                 2 「帝国主義」をめぐる攻防

 マーク・トウェインの戦い
 1901年2月、マッキンレー大統領の2度目の就任式直前に、『ハックルベリー・フィンの冒険』や『トム・ソーヤの冒険』で知られる人気作家マーク・トウェインは『暗やみに座る人』と題された一つのエッセイを発表した。「暗やみに座る人」とは、アジア、アフリカの「文明化」されていない人々をトウェインが「慣用」にのっとって表現したものである。西欧列強の帝国主義や、アメリカのフィリピン支配を痛烈に批判したこの文章によって、トウェインは最も影響力のある反帝国主義者として名乗りをあげることになる。彼は同じ年、「アメリカ反帝国主義者同盟」の副会長に就任し、1910年に死去するまで、アメリカの帝国主義政策を批判し続けた。
 トウェインがエッセイの中で、まっ先に糾弾したのは宣教師たちであった。清朝末期の中国に渡ったアメリカの宣教師たちが、一方ではキリスト教の慈愛や恩寵を説きながら、他方では1900年の義和団の乱に際し、実際に受けた被害の13倍もの賠償額を吹きかけながら平然としている矛盾を彼は皮肉をこめて描き出す。しかも、宣教師たちが、その金の一部を布教活動にあてると公言して憚らないのは、トウェインにとって、神に対する冒涜以外の何ものでもなかった。それは、「文明の恩寵」をもたらすという理由のもとに「暗やみに座る人」を支配し、土地を奪うことと同様に偽善に満ちた行動だったのである。
 続いてトウェインは、アメリカのフィリピンでの行動は、ヨーロッパ流の帝国主義ゲームに他ならなかったと批判する。というのも、スペイン艦隊を破ったアメリカは、フィリピン人に主権を渡して自ら望む政府を樹立するよう促すことができたにもかかわらず、それを拒否して居座ったからである。
 
 暗やみに座る人は、ほぼ間違いなくこう言うであろう。「ここには何か奇妙なことがある──奇妙で説明できないものが。二つのアメリカがあるに違いない。一つは囚われ人を自由にするアメリカ、もう一つはかつて囚われ人だった者から、彼が新たに得た自由を奪い、何の根拠もなく彼にけんかを売り、そして彼の土地を奪うために彼を殺すアメリカだ」


  アメリカがいかに独立を目指すフィリピン人を蹂躙し、裏切ったかを描写した後、トウェインは「暗やみに座る人」にこう語りかける。

 確かにわれわれは、……われわれを信頼してくれた弱く、友人のいない人々に背を向けた。われわれは、正義と知性を持ち、秩序ある共和国を踏み消した。……われわれは信頼を寄せてきた友人の土地と自由を奪った。われわれは、自国の無辜で若い青年たちに、恥辱にまみれたマスコット銃を背負わせ、強盗の仕事をやらせた──しかも、あの旗〔星条旗、引用注〕のもとで、強盗たちが従うどころか、恐れを抱いてきた旗の下で、そのような仕事をやらせたのだ。われわれはアメリカの名誉を貶め、世界の前でアメリカの顔を黒く塗りつぶした。

 「しかし、この一つ一つすべては最善の結果をもたらすためであった」と、トウェインは今度は皮肉たっぷりに続ける。

 キリスト教世界のすべての国家……の元首と、キリスト教世界のすべての議会……の90%は、教会の一員であるのみならず、[「文明の恩寵」信託]の一員なのである。訓練された道徳、高邁な原則と正義が……貯蓄されているこの信託が、間違いや不正、不寛容で汚れたことをするわけはない。……決して不安がることはない。すべては大丈夫だ。

 ここで、トウェインが何よりも伝えたかったのは、「文明の恩寵」という言葉が、西欧列強がアフリカやアジアの植民地で繰り広げている戦争や虐殺、略奪行為を隠すための「隠れ蓑」として使われている状況だったと言える。言い換えるならば「暗やみに座る人」は、まず物質的に搾取され、さらに、それを正当化する崇高な理想をむりやり飲み込まされることによって、精神の上でも搾取されていたのであった。
 しかもトウェインは、単にレトリックと現実との齟齬を批判するに止まらなかった。彼はさらに踏み込んで、「文明の恩寵」の授与者を自任する西欧列強が、自らを頂点とした階層的、かつ予定調和的な世界にどっぷりつかっており、そのために、レトリックと現実との齟齬を齟齬として意識すらできずにいることも鋭く指摘していた。帝国主義の泥沼は、被支配者のみならず、支配者自身をも呪縛するために、そこから抜け出すのがいかに困難かを彼の文章は余すところなく語っていた。

  
 

 

 

 

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メイン号事件とアギナルドの指摘とアメリカの戦争

2023年05月08日 | 国際・政治

 下記は、「アメリカ外交とは何か」西崎文子(岩波新書)から、の抜萃ですが、アメリカという国が、昔から謀略がらみの戦争によって、覇権と利益を維持・拡大して来た国であることがよくわかると思います。

 スペイン領だったキューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号「爆沈」が、外からの攻撃によるものだという証拠はなかったのに、新聞や議会が、それをスペインの「謀略」であると決めつけ、世論を煽ったため、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ」の大合唱となり、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)に突入していく流れは、その後のアメリカの戦争で、くり返された構図のように思います。

 アメリカは自由をもたらす国であり、戦う相手国は、悪魔のごとき国であるとするプロパガンダに基づく戦争が、米西戦争の時から、続いていると思うのです。
 だから、アメリカにとって、メイン号爆沈の真の原因は、どうでもよかったのであり、スペインの「謀略」でなければならなかった、といってもよいと思います。

 朝鮮戦争では、北朝鮮軍が事実上「国境線」と化していた38度線を越えて、一方的に韓国に侵略戦争を仕掛けたとされ、ベトナム戦争では、北ベトナムの魚雷艇がアメリカ駆逐艦に対する魚雷攻撃を行ったとされ、湾岸戦争では、クウェートにおいて、イラク軍が許されざる残虐行為を行ったとされ、イラク戦争では、危険な国イラクに大量破壊兵器が存在するとされて、アメリカ軍の武力行使が正当化されたと思います。
 アメリカの戦争には、いつもこうした「謀略」がらみのプロパガンダがあったと思います。

 そういう意味で、15年間のアメリカ滞在経験を持つという、フィリピン独立運動指導者エミリオ・アギナルドの「私は怪物の腹に中に住んだことがあり、その怪物がどのようなものかを知っている」という指摘は、フィリピンを帝国主義支配から解放し「自由の領域」を拡大することを旗印に掲げながら、戦争によって、スペインを駆逐したアメリカという国の、グロテスクな真の姿を巧みに表現しているのではないかと思います。

 だから、現在世界中でアメリカ離れが進んでいるのは、中国やロシアの策謀によるというより、むしろ、アメリカが、搾取や収奪を続けてきた結果であるように思います。
 そんなアメリカ離れが進む現在もなお、アメリカと同盟関係を続けている国の政権は、極論すれば、アメリカとともに搾取や収奪をする国であり、また、アメリカに対しては、自国の富を惜しげもなく差し出す売国的政権であることを示している、と私は思います。
 それは、日本の戦後史をふり返ってみれば、実感できるのではないかと思います。
 アメリカの司法介入による米軍駐留合憲判決、戦後三大事件、公職追放解除、レッドパージ、数々の密約、日米地位協定、米軍基地問題などで、日本の政権が、常にアメリカの意向に従っている事実が、そのことを示していると思います。
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                      第2章 西半球の警察官

                 2 「帝国主義」をめぐる攻防

 20世紀の幕開け
 激しい社会変動に見舞われていたにもかかわらず、多くの国民の目から見て、アメリカの20世紀に向けてのスタートは幸先の良いものであった。世紀末の1898年、アメリカはスペインとの戦争で勝利をおさめ、海外に植民地を持つ帝国へと脱皮したからである。新しい世紀が幕を開けた1901年3月、再選を果たした共和党の大統領ウィリアム・マッキンレーは、就任の演説で次のように語り、『自由の領域』のさらなる拡大がアメリカの使命であることを強調した。
 ……自国での自由を確立したアメリカ国民は、いかなる土地へ行こうとも自由への愛情を持ち続けるのであり、自由を永続させる基盤を他の人々のためにも確保しようとすることによって、われわれ自らの自由が失われてしまうという考えは、恥ずべきものと拒絶すべきである。われわれの制度は拡張する事によって腐敗することはないし、われわれの正義に対する感覚が、遠い海原の熱帯の太陽のもとで衰弱することもない。今後もわが国は、……神への畏敬の念のもとに「与えられた機会を手にとり自由の領域をさらに拡大する」のだ……。

 米西戦争の背景
 アメリカ「帝国」誕生のきっかけとなった米西戦争は、マイアミから約150キロのところに位置するキューバに端を発するものであった。スペイン支配下のキューバでは、1860年代から70年代にかけて、キューバ人による独立戦争が展開されたが、失敗に終っていた。しかし90年代半ばには、アメリカ帰りのジャーナリスト、ホセ・マルティの率いるゲリラ闘争が再び独立を目指して活動を繰り広げるようになる。スペインはこれに弾圧的な政策で対抗しようとした。なかでも悲惨な結果をもたらしたのは、キューバ人を強制的に収容施設に移住させゲリラを炙り出すという方針であった。衛生状態の劣悪さのために、20万人にも上る人々が、収容所で死亡したと言われている。
 このような状況に対し、アメリカの政府と世論とは次第に関心を強めていた。専制的な抑圧者スペインと戦う果敢なキューバというイメージが、アメリカ世論の「正義感」を煽っていく。ちょうどその頃、新聞が普及しはじめ、購読者の争奪戦が繰り広げられていたことも、この問題への人々の興味を高めることになった。煽情的な記事は、販売部数の増加にもつながりやすかったからである。このような世論を追い風としつつ、カリブ海地域に対するアメリカの威信や影響力を誇示したいという膨張主義者たちは、介入への準備を着々と進めていった。1898年2月、キューバのハバナ沖に停泊していたアメリカの軍艦メイン号が爆沈し、250人の乗組員が死亡した。これこそが、膨張主義者たちが待ち望んでいたものであった。この爆発が外からの攻撃によるものだという証拠はどこにもなかったが、新聞や議会、そして世論はこれをスペインの謀略であると決めつけ、「メイン号を忘れるな、スペインをやっつけろ」の大合唱が沸き起こる。世論の高まりの中で、外交交渉の成功は望むべくもなかった。キューバ政策の根本的見直しを要求するアメリカとスペインとの折り合いはつかず、4月、ついに議会は宣戦を布告した。

 フィリピン政策と「遠大な政策」
 開戦から数日後、米西戦争の最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起った。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、愕きもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったからである。
 しかし、この戦略は、マッキンレー政権の元で、時間をかけて練り上げられていたものであった。当時の共和党政権の中枢は、大統領や海軍次官セオドア・ローズヴェルトなどをはじめ積極的な海外膨張主義者、とりわけ市場の拡大を目指す人々で占められいた。なかでも彼らが強い関心を払っていたのは中国である。他方、当時の中国は、日本やロシア、そしてヨーロッパの列強によって半植民地化されようとしていた。何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいと考えていたマッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。
 「素晴らしい小さな戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか3ヶ月で終了した。アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。義勇兵を率いて戦闘に参加したローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。また、戦争の果実も申し分なかった。1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。

 帝国主義のアメリカ
 しかし、米西戦争での勝利は、同時にアメリカを後戻りの困難な道へ誘うものでもあった。というのも、キューバとフィリピンを帝国主義支配から解放し「自由の領域」を拡大することを旗印に掲げていたアメリカが、実際にはこの二つの国の支配者として立ち現れることになったからである。
 
 すでに述べたように、キューバでは、米西戦争の勃発よりずっと以前から独立への闘いが続けられていた。それは、フィリピンでも同様である。独立運動の指導者エミリオ・アギナルドは、戦争勃発当時、国外追放の身であったが、アメリカ軍の保護下にフィリピンに戻り、スペインに対する戦争に加わった。そしてアメリカは、表向きには、自由の擁護者、そして、このような独立運動の指導者たちを支援する立場を表明したのである。
 しかし、戦争が進むにつれて、独立派は強い失望を味わうことになる。アメリカの参戦によって、戦争の性格が、植民地の独立戦争から、スペインとアメリカという大国間の戦争へと変容していったからである。それは、キューバやフィリピンのゲリラたちが従属的な立場へと追いやられることを意味していた。1899年8月中旬、首都マニラが陥落した際に、デューイがそれまで数週間マニラを包囲していたアギナルドの入市を拒み、勝利をアメリカのものとして誇示したのは、その典型的な例であった。「私は怪物の腹に中に住んだことがあり、その怪物がどのようなものかを知っている」。15年間のアメリカ滞在経験を持つマルティの警告は、まさに正鵠を得たものだった。
独立運動の指導者たちにとって、米西戦争の終結は、アメリカとの新たな戦いの幕開けに他ならなかった。そして、フィリピン人を「教育し、高め、文明化するために」植民地として領有し、キューバに「完全な静謐」と「安定した政府」とが確立されるまで軍事占領を続けるというアメリカの政策が、その意図とは逆の結果をもたらしたのは当然だったであろう。1899年2月に勃発したアメリカとフィリピンとの戦争は、多大な犠牲者を出しながら、1902年にはアメリカの勝利に終わる。しかし、アメリカへの依存を深めるエリート層と、アメリカに反発する勢力とに分裂したフィリピン社会に、安定は訪れなかったそれは、キューバでも同じである。次節で詳しくみるが、アメリカに対する根源的な不信と反発とを持ちながら、軍事、政治、経済など、あらゆる面でアメリカへの依存を断ちきれなかったキューバに、安定した政権が樹立される可能性は無きに等しかった。

 

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アメリカの関わる済州島四・三事件と麗水・順天の軍隊叛乱事件

2023年05月04日 | 国際・政治

 アメリカは、南朝鮮に反共主義の傀儡政権を誕生させ、支配下に置くために、警察や警察隊(軍予備組織)、右翼青年団などに、左翼狩りを行なわせながら、国連でアメリカ決議案を通し、南朝鮮単独選挙を強行させました。
 その過程で、下記に抜萃したような「済州島事件(四・三事件)」や「麗水・順天の軍隊叛乱事件」など、さまざまな悲劇が起りました。
 南朝鮮単独選挙に基く、大韓民国の樹立は、明らかに南北朝鮮一般市民の思いに反するものであったと思います。だから、左派や共商派のみならず、一般市民を巻き込む激しい抵抗がくり広げられることになったのであり、朝鮮の人たちにとっては、当然の抵抗だったように思います。
 でも、李承晩を中心とする右翼勢力は、軍政庁の支援を得つつ、建国準備委員会の呼びかけに応じて活動をしていた人民委員会の関係者や同調する市民を逮捕したり、拷問したり、虐殺したりして弾圧を繰り返したといいます。だから、左派勢力も、警察を襲撃したり、山岳地帯でゲリラ戦を展開して抵抗したということです。

 抵抗するゲリラたちが、自分たちが立ち上がった理由をアピールしたという文章が、「済州島 四・三蜂起」文京洙(新幹社)に取り上げられていました。


敬愛する父母・兄弟のみなさん! 今日、4月3日、あなたがたの息子と娘、兄弟たちは、武器をもって立ち上がりました。私たちは、売国的単独選挙に死を賭して反対し、民族の解放、祖国の統一、独立の達成のために蜂起したのです。
 私たちは、アメリカとその手下たちの蛮行を撃退し、彼らを滅ぼし、人民に対する彼らの殺人行為を阻止するために武器をとって決起しました。私たちはあなたがたの恨みをはらすために立ち上がったのです! あなたがたも、最後の勝利のために闘っている私たちを援護しなければなりません!

 アメリカの軍政が、どんなものであったかをよく示していると思います。

 そして今なお、ウクライナ戦争は続いていますが、停戦・和解の話はほとんどありません。
 先日の朝日新聞に、米国国家安全保障会議のカービー戦略広報担当調整官の話として、「ロシア軍2万人以上死亡」と題する記事が出ていました。ウクライナ軍の死者や補充の報道はほとんどありませんが、ロシア軍以上の死者が出ているのではないかと想像します。でも、ロシア軍の兵士だけで、「2万人以上死亡」と推測しながら、停戦・和解の話がまったくないのはどういうことなのかと思います。その記事は、”大半は十分な訓練も受けずに投入された元受刑者だとみている”というような推測も含んでいました。だから、ロシアを許してはいけないという思いを抱かせ、停戦・和解を拒否するような意識を持たせる意図があるのではないかと想像してしまいました。甚だしい人命軽視を感じるのです。
 こういう記事を毎日、毎日目にしています。
 だから、やはりアメリカやアメリカの影響下にある日本は、ウクライネ戦争によって、ロシアを孤立化、弱体化させようとしているように思います。
  
 そういう意味で、過去のアメリカの対外政策や外交政策がどんなものであったのかをふり返ることは、ウクライナ戦争を客観的に理解するために、必要だろうと思っています。
 下記は「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から抜萃しました。
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                  第4章 南北政権の樹立と一般情勢

 (三) 
 済州島騒乱
 1948年8月15日に樹立された新大韓民国政府の内部も行政府と議会の対立が表面化しだし、その当初から波乱含みであったが、南朝鮮社会、新しく韓国社会となった朝鮮半島南部地域においても、社会情勢は激しく動揺し、左右両派の対立関係は一層拡大していた。
 もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左翼狩りを大々的に行ないながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
 この単独政府の樹立は、いかなる形であれ左翼や革命分子とくにソ連の影響を恐れる保守派の指導者あるいは富裕層、日帝時代の旧悪の追求を恐れる階層の利益にはかなったが、しかし、市民の大半は、即時統一を強く欲していた。だが、南北朝鮮一般市民の拘らないところで決定された、南北分断する敵対政府の現実化、朝鮮の恒久的分断への不穏な状況を前にして、南北協商派のみならず、一般市民も巻き込む広範な、そして激しい抵抗が繰り広げられた。
 それまでも南朝鮮(新韓国)の農村地帯の民衆は、解放後の数カ月は、それぞれが人民委員会を中心とする行政機構を組織し、それが米軍政庁の警察、軍予備組織、右翼青年団の弾圧のために、だが、潰されては組織するという事が続けられていた。この種の地方の自治組織に対して、アメリカ占領軍は、共産主義的・親ソ的だとして敵対的だった。右派勢力も、勿論、それを潰滅させようとした。
 アメリカ軍の南朝鮮占領当初から一年間にわたる地方での弾圧の末に、ついに1946年秋には、南朝鮮地帯の相当広範な地域で、大規模な蜂起が起こっていた。その目的は、米軍政庁のホッジ中将が認めている通り、蜂起市民の主たる要求は人民委員会の復活であった。この米の収穫期の大決起が鎮圧されると、ソウルだけでなく、郡などの地方レベルでの国家権力の支配が強固になり、それまでの人民委員会の自治は、その後ほとんど不可能になった。だが、厳しい弾圧により、多数の死者、逮捕者収監が出たにも拘らず、以後も、この人民委員会支持勢力は強い勢力を秘かに保ち、また1947年には南朝鮮の左翼の大半は南朝鮮労働党の党員となっていた。この党は、南朝鮮独自の党だったが、慶尚道、全羅道出身者が多かった。その47年夏、そして秋と、激しい抵抗と、それへの逮捕、拷問、収監あるいは警察・軍予備隊による組織的弾圧、虐殺事件が続き、左派も山岳地帯でのゲリラ戦を行ない、その鎮圧掃討に軍・警察・右翼青年団が動員され、双方が銃火を交え、互いにテロと破壊を行う、左派と右派の衝突が果てしなく繰り返された。
 そして、1948年の初めになって、南での単独選挙の実施が決まると、左派が根強い南西部(全羅道)および済州島において、単独選挙に反対する抵抗が、一気に激化した。
 とくに激しい抵抗と弾圧の結果、その政治的対立による被害をこうむったのが、済州島であった。1948年初めまでこの島を自治支配していたのは、45年8月に結成された人民委員会だった。南朝鮮各道では既に政治的弾圧によって人民委員会組織は表だっては消滅し、そのメンバーも逮捕拘束されるか地下に潜行していたが、済州島は半島の南岸の沖に浮かぶ火山島であるため、まだソウルの米軍政庁、軍政警察、軍予備隊の圧力は緩かった。そのため、済州島の人民委員会への民衆の支持も固く、その影響力は強かった。ホッジ中将も済州島を「コミンテルンの影響を受けない人民委員会が秩序正しく支配する真の意味の自治体」と呼んだこともあったが、単独選挙反対の気運による政治的緊張が強い48年4月、島に派遣されていた警察と西北青年団(北朝鮮追放あるいは脱出者の反共右翼青年団)の島民虐殺事件を契機として、民衆蜂起が勃発した。
 それは武装闘争の形になり、やがてゲリラ戦争に発展した。ゲリラは「人民軍」と呼ばれ、兵力は3000~4000だったが、統一的な中央司令部は無く、それぞれの地域のゲリラ部隊同士のつながりも無い発生的なものだった。彼等は山にこもり、沿岸道路や村々を襲撃し、48年6月初めには、島の内陸部の村のほとんどがゲリラに支配されるようになった。
 これに対し、ソウルの政府組織は、その大半が日帝下の朝鮮人警察官や補助警察官だった警察部隊と、北から亡命してきた人間で組織されたテロリスト的な反共青年団を大量に送り込んだ。このアメリカ軍事顧問と共に派遣された警察、警察隊(軍予備隊)、武装右翼青年団は、島に恐怖政治を展開した。そのゲリラ掃討、徹底的な地域封鎖、壊滅作戦も厳しく、1949年4月までに島の家屋2万戸が破壊され、焼き払われ、全島民の三分の一にあたる10万人が、政府軍の守る海沿いの村々に収容された。この4月末のアメリカ大使館の報告では「全面的なゲリラ掃討作戦は、……4月に事実上完了した。島の秩序は回復した。ゲリラと同調者の殆どは殺されるか、捕虜になるか、転向した」と延べる。このアメリカ筋の資料では、死者は15000ないし2万だが、一般に33000とされている。その正確な数字は今日でも不明であり、あるいは島民の30万人の三分の一が失われたともされている。

 (四) 麗水・順天の軍隊叛乱事件
 そして、新韓国政府が誕生して10週間もたたない1948年10月1日夜、大きな社会的騒乱が発生した。すなわち、済州島の民衆暴動の討伐のために全羅南道の半島南端の麗水港に集結していた韓国軍第十四連隊が反乱を起した。その勢力は2500名とされ、同地方所在の反政府分子と合流して警察を襲い麗水から北上して10月20日、順天を占領し、さらに光州方面に向かうという韓国正規軍の組織的叛乱となった。麗水市民の多数が赤旗をふり、スローガンを叫んで市中を行進。10月20日の大衆集会で人民委員会の復活が宣言された。また、この叛乱は警察に対する民衆の反感にあおられて拡大し、叛乱部隊は麗水、順天において刑務所を開いて政治犯を釈放し、北朝鮮の旗をかかげ、人民裁判を
行って警察官、旧親日民族反乱分子、右翼政党団体の指導者など数百人を処刑した。また、これの鎮圧に向かった韓国軍第四連隊が、この叛乱部隊に同調して合流し、一層、事態は悪化する経過ともなった。
 
 この叛乱部隊が討伐に向かう予定であった済州島の騒擾は、すでに同年48年4月初旬、南朝鮮の単独選挙に対する反対運動として大衆が蜂起して以来のものだった。同島ではかねて警察の権力乱用、西北青年団などの右翼青年団の越軌行為が極めて甚だしかったため、一般島民のこれに対する反感が強く、反政府感情を広く醸成させていた。そのため蜂起組織は、相当に島民の同情と支持を得ていたといわれた。韓国軍、警察はその鎮圧に努力した結果、済州島の治安は一時回復していた。だが、同48年秋の10月に至って再び騒擾が激化したため、政府軍の増援部隊が送られることになった。だが、その増援部隊内の左派分子は、麗水港で乗船を前にして、討伐の無意義を宣伝し、叛乱を起すよう扇動したのだった。
 政府は直ちに戒厳令をしいた。さらに、軍、警察隊を派遣して反乱軍の北進を防ぎ、鎮圧に努めた。その結果、38度線に向かった叛乱部隊の主力は慶尚南道の智異山方面に逃げ込み、順天、宝城 筏橋、光陽、麗水などの叛乱部隊占領地区はやがて回復され、鎮静した。しかし麗水などにおいては、一般市民、婦人、子どもまでが武器をとり、政府の討伐軍に抵抗したといわれる。また、それを鎮圧する警察・韓国軍の一般民衆に対する行動には、相当に常軌を逸した行為が多発し、相当数の市民が死亡。警察・政府軍兵士は叛乱に協力した疑いが少しでもある者は、捕虜、民間人を問わずすべて射殺した。そのため、軍隊と一般民衆の間に、かなりの不安と恐怖のタネがまかれたとされた。
 この叛乱事件は一週間後の10月27日までに鎮圧されたが、この武装蜂起事件が契機となって、済州島の暴動が再燃したのをはじめ、共産ゲリラの主根拠地である智異山を中心として、各地において民衆の暴動が発生するようになった。また、江原道の五台山地区においては、またゲリラ部隊が活動をはじめた。済州島の蜂起民衆は、依然討伐隊と対峙状態をつづけたが、その他の地区の暴動はもっぱら警察を襲撃し、部落の挑発を行う程度のものであった。
 これら民衆、部隊叛乱は、北側の策動によるものというより、過去3年間の抑圧への反抗、社会正義の実現、旧親日分子の追放、単独政府反対等を求める自然発生的な暴動だった。

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