真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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検証「従軍慰安婦」と「 日本人捕虜尋問報告 第49号」

2012年04月24日 | 国際・政治
 下記「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」『従軍慰安婦資料集』吉見義明編(大月書店)に入っている。この尋問報告は「慰安婦は公娼だった」「慰安婦は商行為を行っていたのである」「従軍慰安婦など存在しない」などと主張し、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、繰り返し利用しているものである。その内容は多くの「従軍慰安婦 」の証言とかけ離れたものであり、その資料的価値には、いろいろな面で疑問がある。その主なものについて考えたい。

 まず第1に、尋問の方法が不明であり、その記述方法が極めて曖昧なことがある。下記付録Aにあるように、<尋問を受けたのは20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人>であるが、朝鮮人「慰安婦」の証言か、日本の民間人(業者)の証言かが明らかでない記述には、大きな問題があると言わざるを得ない。なぜなら、朝鮮人「慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくいからである。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、朝鮮人「慰安婦」の立場からみれば、民間人(業者)も加害者側といえる。性交渉を強要された朝鮮人「慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)がそれを物語る。

 「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』に収められている「東南アジア翻訳センター 心理戦 尋問報告 第2号」では、「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。センターの尋問官、アメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトは、だれが話したかを明らかにしているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの
情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである
」とも記している。それに比して、この第49号の報告は、そうした配慮や慎重さがないのである。

 次に、「性向」の項目では、朝鮮人「慰安婦」が、無教育、幼稚、気まぐれ、わがままで、美人ではなく、自己中心的であると書かれている。また、<見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが「女の手練手管を心得ている」>ともある。20人の朝鮮人「慰安婦」について、20日余りの尋問期間で、こんなことが尋問官に分かるとは思えない。また、見知らぬ尋問官の前で、朝鮮人「慰安婦」がそうした性格を丸出しにすることは考えにくい。当然のことながら、そういう判断の根拠は全く示されていない。さらには、「慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている」とあるが、会ったこともないと思われる中国兵やインド兵について、なぜそのような証言をしたのか不思議である。どのような問いかけに対しての誰の証言であるか、また、どのような体験があったのか、などを明らかにしないと、報告としては価値がないだろうと思う。

 「生活および労働の状況」の項目には、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、しばしば引用する文章が書かれている。朝鮮人「慰安婦」たちが、いかに厚遇されていたかということばかりが書かれているのである。他の多くの朝鮮人「慰安婦」が証言しているような、怒りを感じたことや悔しかったこと、辛かったこと、困ったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、腹立たしかったことなどは全く書かれていない。したがって、誰にどんな問いかけをして得た証言なのか、を明らかにしないと、朝鮮人「慰安婦」の「生活および労働の状況」の報告としては、ほとんど価値がないと言わざるを得ない。逆に日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のために証言したと考えれば、いろいろな点で納得できる記述である。

 「利用割り当て表」の項目には、唐突に「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」と出てくる。朝鮮人「慰安婦」が進んでこのようなことを言い出すとは考えにくい。また、彼女たちを「売春婦」と捉えている尋問官が、そのことを問ただしたとも思えない。性交渉を拒否したために暴行を受け、傷つけられたという多くの証言あることを考えると、やはりこれも日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のためにした証言ではないかと疑われる。

 兵士たちの反応の項目には慰問袋の話がでてくるが、<彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした>というのである。戦地の兵士に「小さな人形、下駄」も不思議であるが、「口紅」などあり得ない話ではないかと思う。にもかかわらず、それをそのまま報告しているのである。

 「軍事情勢に対する反応」項目では、「ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである」とある。しかしながら、「兵士たちの反応」の項目には「彼女たちが
口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか…
」とある。したがって、これも朝鮮人「慰安婦」の証言ではなく、日本の民間人(業者)の証言だろうと思われる。

 「宣伝」の項目の記述<ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べた>というのも、報告書全体からを考えると朝鮮人「慰安婦」の証言ではないであろう。

 「徴集」の項目の一部記述と、最後の「要望」の項目にある、<「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん、他の慰安婦の生命が、危険になるからである>という記述は、朝鮮人「慰安婦」の証言かどうかは不明であるが、朝鮮人「慰安婦」の立場を語るものとして受け取ることができるものである。

 多くの人たちが、「従軍慰安婦」の訴えを退けるために、この資料を利用しているが、以上のことから、この「日本人捕虜尋問報告 第49号」を、当時の「従軍慰安婦」の実態を示す資料として、都合のよい所だけを引用して利用することは許されないと考えるのである。
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          第13部  連合軍による調査報告・指令
1 ビルマ  99 アメリカ戦時情報局心理作戦班 
        日本人捕虜尋問報告 第49号  1944年10月1日
                 アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
                 アメリカ戦時情報局心理作戦班 
                 APO689
秘           日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日 ~ 9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日

はじめに

 この報告は、1994年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
 「慰安婦」とは、将兵のために、日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。


徴  集
 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地??シンガポール??における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの4つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は、「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。


性  向
 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。


生活および労働の状況
 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を配給されていなかったので、ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は、多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1 兵    午前10~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円    30分~40分
3 将校  午後9時~午前0時 5円    30分~40分


 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表
 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員2名が、隊員の確認のために、慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。


日曜日??第18師団司令部。
月曜日??騎兵隊
火曜日??工兵隊
水曜日??休業日、定例健康診断
木曜日??衛生隊
金曜日??山砲兵隊
土曜日??輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は、接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。


報酬および生活状態
 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちはあらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦は、すべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。


日本の軍人に対する反応
 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に、丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応
 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。


軍事情勢に対する反応
 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」
 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。


退却および捕獲
 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。


宣  伝
 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。1人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちがたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。


要  望
 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されている投下に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所
 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
 13 「C」 21歳 慶尚南(ナム)道慶山郡〔以下略〕
 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 「Y」 31歳 平安南道平壌
 16 「O」 20歳 平安南道平壌
 17 「K」 20歳 京畿道京城
 18 「H」 21歳 京畿道京城
 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
 20 「K」 21歳 全羅南道光州

日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城


 一部、漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、青字が書名や抜粋部分です。 

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「従軍慰安婦」問題 慰安所使用規定

2012年04月17日 | 国際・政治
 資料1と資料2は「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)から抜粋した。フィリピンのマステバ島とイロイロ島の慰安所使用規定である。
 資料3は『日本軍「慰安婦」関係資料集成』鈴木裕子、山下英愛、外村大編(明石書店)より抜粋したもので、中国常州の慰安所使用規定である。いずれも、軍によって細部まで定められ、完全に軍の監督下にあったことをうかがわせる。資料2をみると「慰安婦」は外出はおろか散歩さえ時間と範囲を限定されていたことが分かる。
 軍医麻生徹男の「戦線女人考」には、脱走した慰安婦を引き取りに行ったことが明かされていたが、「慰安婦」は、まさに自由を奪われた性奴隷であったといえる。「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」兵站病院の産婦人科医 麻生徹男(石風社)に取り上げられていた、上海の楊家宅にあった慰安所の使用規定は317で抜粋済みである。
資料1-------------------------------
マステバ島警備隊
                軍人倶楽部規定            1942年8月

一、軍人倶楽部ハ軍人(軍属含)ノ慰安ヲ求ムル所トス
二、使用配当日割左ノ如シ
   日曜日   大隊本部、行李
   月曜日   第11中隊
   火曜日   機関銃中隊、歩兵砲隊
   水曜日   衛生隊
   木曜日   工兵隊、輜重隊 無線
   金曜日   体育隊、通信、弾薬班
   土曜日   午前検査
三、使用時間ヲ左ノ通リ定ム
    兵    1000ー1630
   下士官  1700ー1930
四、慰安料左ノ如シ
   下士官 兵  1比50仙
   将    校  2比50仙
  但シ実施ハ一回トシ其時間ハ40分以内トス
  40分増ス毎ニ1比宛増額トス
五、倶楽部ニ於テ守ルベキ件左ノ如シ
 1、慰安ヲ求メントスルモノハ必ズ受付ニ於テ番号札ヲ受ケ其順序ヲ守リ料金ハ
   慰安婦ニ渡スコト
 2、規定ヲ厳守シ公徳ヲ重ンジ他人ニ迷惑ヲ及ボサザルコト
 3、「サック」及予防薬(一揃5銭)ハ之ヲ慰安婦ヨリ受領シ予防法ハ必ズ実行シ
   花柳病ニ罹ラザルコト
 4、不用意ノ言動ヲ慎ミ防諜ニ注意スルコト
 5、慰安所ニ於テハ飲酒ヲ禁ズ
 6、酩酊ノ上暴行等ノ行為アルベカラザルコト
 7、毎週土曜日昼間ハ健康診断休業トス
六、其ノ他
 1、倶楽部ニ到ル下士官兵ハ中隊長(独立小隊長「工兵隊ハ輜重小隊長」)ノ発
   行スル外出証ヲ携行スルモノトシ2人以上同行シ旦途中市内ヲ漫歩セザルコ
   ト
 2、服装ハ略装ニシテ帯剣シ脚絆ヲ穿ツ


資料2------------------------------
            比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所

 慰安所(亜細亜会館 第1慰安所)規定

一、本規定ハ比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所管理地区内ニ於ケル慰安
   所実施ニ関スル事項ヲ規定ス
二、慰安所ノ監督指導ハ軍政監部之ヲ管掌ス
三、警備隊医官ハ衛生ニ関スル監督指導ヲ担任スルモノトス接客婦ノ検黴ハ毎週
   火曜日拾五時ヨリ行フ
四、本慰安所ヲ利用シ得ベキモノハ制服ヲ着用ノ軍人軍属ニ限ル
五、慰安所経管(営?)者ハ左記事項ヲ厳守スベシ
 1、家屋寝具ノ清潔並日光消毒
 2、洗浄消毒施設ノ完備
 3、「サック」使用セサル者ノ遊興巨止
 4、患婦接客禁止
 5、慰安婦外出ヲ厳重取締
 6、毎日入浴ノ実施
 7、規定外ノ遊興拒止
 8、営業者ハ毎日営業状態ヲ軍政監部ニ報告ノ事
六、慰安所ヲ利用セントスル者ハ左記事項ヲ厳守スヘシ
 1、防諜ノ絶対厳守
 2、慰安婦及楼主ニ対シ暴行脅迫行為ナキ事
 3、料金ハ軍票トシテ前払トス
 4、「サック」ヲ使用シ且洗浄ヲ確実ニ実行シ性病予防ニ万全ヲ期スコト
 5、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ナクシテ慰安婦ノ連出シハ
   堅ク禁ズ
七、慰安婦散歩ハ毎日午前八時ヨリ午前10時マデトシ其ノ他ニアリテハ比島軍
   政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ヲ受クベシ尚散歩区内ハ別表1ニ
   依ル
八、慰安所使用ハ外出許可証(亦ハ之ニ代ベキ証明書)携帯者ニ限ル
九、営業時間及料金ハ別紙2ニ依ル

 別表1 公園ヲ中心トスル赤区界ノ範囲内トス (地図略)
 別表2
   区分      営業時間    遊興時間  料金 第1慰安所  亜細亜会館
   兵     自 9:00 至16:00  30分    1,00       1,50
下士官・軍属  自16:00 至19:00  30分    1,50       2,50
 見習士官   自19:00 至24:00  1時間    3,00       6,00


資料3ーーー
              常州駐屯間内務規定
                              独立攻城重砲兵第2大隊
 常州駐屯間内務規定ヲ本書ノ通リ定ム
  昭和13年3月16日
                                  大隊長 万波少佐
 〔第1章~第8章・略〕
第9章 慰安所使用規定

第59 方針
    緩和慰安ノ道ヲ講シテ軍紀粛正ノ一助トナサントスルニ在リ
第60 設備
    慰安所ハ日華会館南側囲壁内ニ設ケ、日華会館付属建物及下士官、兵棟ニ区分ス
    下士官、兵ノ出入口南側表門トス
    衛生上ニ関シ楼主ハ消毒設備ヲナシ置クモノトス
    各隊ノ使用日ヲ左ノ如ク定ム
      星 部隊  日 曜日
      栗岩部隊  月火曜日
      松村部隊  水木曜日
      成田部隊  土 曜日
      阿知波部隊 金 曜日
      村田部隊  日 曜日
    其他臨時駐屯部隊ノ使用ニ関シテハ別ニ示ス
第61 実施単価及時間
     1 下士官、兵営業時間ヲ午前9時ヨリ午後6時迄トス
     2 単価
      使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス
      支那人   1円00銭
      半島人   1円50銭
      内地人   2円00銭
     以上ハ下士官、兵トシ将校(准尉含ム)ハ倍額トス
     (防毒面ヲ付ス)
第62 検査
    毎週、月曜日及金曜日トシ金曜日ヲ定例検黴(ケンバイ)日トス
    検査時間ハ午前8時ヨリ午前10時迄トス
    検査主任官ハ第4野戦病院医官トシ兵站予備病院並各隊医官ハ之ヲ補助
    スルモノトス
    検査主任官ハ其ノ結果ヲ第3項部隊ニ通報スルモノトス
第63 慰安所使用ノ注意事項左ノ如シ
     1、慰安所内ニ於テ飲酒スルヲ禁ス
     2、金額支払及時間ヲ厳守ス
     3、女ハ総テ有毒者ト思惟シ防毒ニ関シ万全ヲ期スヘシ
     4、営業者ニ対シ粗暴ノ行為アルヘラカス
     5、酒気ヲ帯ヒタル者ノ出入ヲ禁ス
第64 雑件
     1、営業者ハ支那人ヲ客トシテ採ルコトヲ許サス
     2、営業者ハ酒肴茶菓ノ饗応ヲ禁ス
     3、営業者ハ特ニ許シタル場所以外ニ外出スルヲ禁ス
     4、営業者ハ総テ検黴ノ結果合格証ヲ所持スルモノニ限ル
第65 監督担任
     監督担任部隊ハ憲兵分遣隊トス
第65 付加事項
     1、部隊慰安日ハ木曜日トシ当日ハ各隊ヨリ使用時限ニ幹部ヲシテ巡察
       セシムルモノトス
     2、慰安所ニ至ルトキハ各隊毎ニ引率セシムヘシ
       但シ巻脚絆ヲ除クコトヲ得
     3、毎日15日ハ慰安所ノ公休日トス

 〔後略〕  
  
  一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。  赤字は特に記憶したい部分です。一部旧字体は新字体に変えています。

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「従軍慰安婦」問題 マクドゥーガル報告

2012年04月10日 | 国際・政治
 日本の「従軍慰安婦」問題に対する世界の眼は、「女性の人権」意識の高揚と、それに反する日本政府の責任回避の姿勢を反映して、ますます厳しいものになってきているようである。それは、マクドゥーガル報告がクマラスワミ報告よりもさらに踏み込んで、日本軍や日本政府の加害責任を追及し、損害賠償や補償だけではなく、関係者の処罰やその報告さえ厳しく求めていることなどにあらわれているのではないかと思う。VAWW-NETJapan の松井やより代表によると、国連人権委員会の評価も、クマラスワミ報告の「留意」するが、マクドゥーガル報告では「歓迎」するに進んだという。その辺の事情を記述した部分を「戦時性暴力をどう裁くか」国連マクドゥーガル報告全訳(凱風社)「序にかえて」から抜粋した。

 また、マクドゥーガル報告からは、日本軍「従軍慰安婦」問題に関わるユス・コーゲンス(強行規範)の考え方に関する部分、および日本政府の「国際刑法の最近の研究成果は、過去の行為に遡及適用できない」とする主張や「”慰安婦”個々人には損害賠償請求権がなく」、「戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みである」とする主張に対する批判部分を中心に抜粋した。

 なぜなら「従軍慰安婦」問題にかかわらず、東京裁判でもニュルンベルク裁判でも「人道に対する罪」の適用が問題となったようであるが、「人道に対する罪」の適用については「”人道に対する罪”という新しい用語を使っているが、実際には新しい法を創り出し、適用したわけではない」したがって、新しい法を「過去の行為に遡及適用したものではない」という考え方や、「ユス・コーゲンス(強行規範)」の指摘が重要であると思うからである。

 さらに、この問題は「戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みである」と繰り返す日本政府の主張に対し、「条約が作成された時点では、強かん収容所(レイプ・キャンプ)の設置への日本の直接関与は隠されていた。これは、日本が責任を免れるためにこれらの条約を援用しようとしても、正義衡平法の原則から許されない」という指摘は厳しいが、そのとおりではないかと思う。
 だから、真摯な姿勢でこれらの報告を受け止め、一日も早く完全解決の道筋をつけるべきではないかと思うのである。

 なお、マクドゥーガルの4項目の勧告には厳しいものがあるが、④以外は項目のみを抜粋した。 
---------------------------------
国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会
第50回期暫定議題6 奴隷制の現代的諸形態

  武力紛争下の組織的強かん、
  性奴隷制および奴隷制類似慣行に関する最終報告書
  (E/CN.4/Sub.2/1998/13 1998年6月22日受理)

 第3章 性奴隷制および性暴力(強かんを含む)を国際法の下で訴追するための      法的枠組み

◆36
 性奴隷制と性暴力が、武力紛争中に行われた場合、一定の条件下では、ユス・コーゲンス規範の慣習法的違反と性格づけられうる。条約法に関するウイーン条約は、第53条でユス・コーゲンスを「
いかなる逸脱も許されない規範で、かつまた同一内容の一般国際法の規範の変更でしか修正できない規範であって、国際社会が全体として受け入れ、かつ認めた」規範と定義している。これに加えて、ユス・コーゲンス規範(違反?)は、国際社会全体の普遍的利益に対する不法行為と認められている。このため、たとえ加害者又は被害者にその国の国籍がなくても、また、犯罪の実行がその国の領土でなされたものでなくても、普遍的裁判管轄権に基づけば、すべての国家がユス・コーゲンス違反を適正に訴追できる。

◆37
 こうしたユス・コーゲンス規範の違反に相当する国際犯罪には、奴隷制、人道に対する罪、ジェノサイド、一定の戦争犯罪、拷問が含まれる。これらの犯罪は、国際慣習法に基づいて、
普遍的裁判管轄権の対象とされ、大半の場合訴追に対する時効はない。前政府を引き継いだ政府を含めて各国家は、これらの違反行為を犯した者を不処罰にせず、その国家内で訴追するか、別の国家で訴追するために引き渡して裁判にかける責務がある。戦争犯罪はその定義上、武力紛争と関連性があることが必要だが、奴隷制、人道に対する罪、ジェノサイド、拷問の各禁止は、すべての武力紛争、内紛、平時などあらゆる状況に適用される。
---------------------------------
 序にかえて
 マクドゥーガル報告は戦時・性暴力と闘う世界の女性たちの強力な拠り所に
         
  「慰安婦」問題で日本政府の責任を問い責任者の処罰と国家賠償を勧告
                        VAWW-NET Japan代表 松井やより
 「慰安婦」が問い始めた女性への戦争犯罪
 
  ・・・ 
 「クマラスワミ報告」、の日本政府の賠償責任を強調

 翌96年、ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力」特別報告者がジュネーブでの国連人権委員会に提出した「戦時下軍隊・性奴隷制に関する報告」は、日本政府に法的責任をとることを求め、とくに被害者個人への賠償責任が日本政府にあることを強調した点で、画期的な国連文書であった。ただ、責任者の刑事責任については、日本政府に訴追する義務があるとしているものの、「時間の経過と情報の不足のため、訴追は困難だろうが、できる限り試みる義務がある」という表現にとどまっており、6項目の勧告の中でも最後の第6項に「犯行者をできるだけ特定し、処罰すべきだ」とあるだけで、その具体的実施方法などについては書かれていない。


 98年にクマラスワミ特別報告者が国連人権委員会に提出した「武力紛争下の女性への暴力に関する報告」では、「慰安婦」問題について二つのパラグラフが含まれているが、「日本政府が”慰安婦”問題で積極的な努力をしていることを歓迎する」と「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)設置を評価しているため、韓国、フィリピンなど被害国の女性たちは、日本政府から圧力があったため後退したのではないかと、失望したのだった。この報告書でもさすがに「日本政府は法的責任をとっていない」と指摘しているが、「日本政府は6つの”慰安婦”裁判の判決を待っているのだろう」と傍観者的に述べているだけで、加害者の刑事責任追及にはまったくふれていない。

 マクドゥーガル報告、日本政府は受け入れを拒否

 その数ヶ月後にマクドゥーガル報告が提出されたわけで、その内容は、被害者・支援団体から見て大きく前進したものだった。それだからこそ、日本政府はジュネーブで必死に採択阻止を試み、読売新聞はそれに歩調を合わせるかのように、わざわざマクドゥーガル報告非難の社説まで掲載した。右翼的な学者なども彼女をしきりにやり玉にあげている。しかし、小委員会はこの報告書を採択し、国際社会が支持する正式国連文書となった。96年のクマラスワミ報告が国連人権委員会で
「留意」する形での採択だったのに対して、このマクドゥーガル報告は小委員会で、「歓迎」するかたちで採択された。戦時・性暴力に対する国際社会の認識がそれだけ進んだことを示している。

 以下略
---------------------------------
           マクドゥーガル報告書 附属文書
             
 第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析 

はじめに
◆1
 1932年から第2次大戦終結までに、日本政府と日本帝国軍隊は、20万人を越える女性たちを強制的に、アジア全域にわたる
強かん所(レイプ・センター)で性奴隷にした。これらの強かん所はふつう、「慰安所」と呼ばれた。許し難い婉曲表現である。これらの「慰安婦」たちの多くは朝鮮半島出身者であったが、中国、インドネシア、フィリピンなど、日本占領下の他のアジア諸国から連行された者も多かった。この10年間に、徐々に、これら残虐行為の被害女性たちが名乗り出て、救済を求めるようになってきた。この付属文書は、第2次大戦中の強かん所の設置・監督・運営に対する日本軍当局の関与について、日本政府が行った調査で確定した事実のみに基づいている。日本政府が確認したこれらの事実に基づいてこの付属文書は、第2次大戦中に「慰安所」で行われた女性たちの奴隷化と強かんについて、日本政府が現在どのような法的責任を負っているか、を判定しようとするものである。責任を問う根拠はいろいろありうるが、この報告書は特に、奴隷制、人道に対する罪、戦争犯罪という最も重大な国際犯罪に対する責任に焦点をあてる。この付属文書はまた、国際刑法の法的枠組みを明らかにし、被害者がどのような賠償請求を提起できるか検証する。

 第1章 日本政府の立場

◆2
 日本政府は、第2次大戦中強かん所の設置・監督に日本軍が直接どの程度関与したかについて長年にわたって否定してきたが、1993年8月4日に内閣官房外政審議室が発表した「戦時『慰安婦』問題について」と題する公式調査と、同日の内閣官房長官談話で、「慰安所」設置に政府の関与があったことをやっと認めた。この調査は、戦時中の記録資料の調査と、軍関係者と元「慰安婦」双方に対する聞き取り調査が含まれていた。本論で以下に論じるとおり、1993年の政府調査では、「慰安婦」に人格と性の自己決定権が認められていなかったことや、女性たちがまるで所有物のように健康を管理されていたことが浮き彫りになっている。


◆4
 こうした謝罪や事実の確認にもかかわらず日本政府は、慰安所の「設置と運営」にかかわる日本軍の行為に対する法的責任を否定し続けている。特に、人権委員会のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力」特別報告者による報告書に対し、日本政府はいくつもの実体的根拠をあげて法的責任を強く否定した。これらの根拠のうち最も重要なものは以下である。
(a) 国際刑法の最近の研究成果は、過去の行為に遡及適用できない。
(b)奴隷制犯罪規定は、「慰安所」によってできた仕組みにそのまま適用できるも   のではないし、また奴隷制の禁止は、第2次大戦の時点で適用可能な国際法
  の下(モト)での慣習規範としてはいずれにしても確立していなかった。
(c) 武力紛争下の強かん行為は、1907年のハーグ第4条約付属書〔以下ハーグ
  陸戦規則〕によっても、あるいは第2次大戦時に有効であった国際法の適用可
  能な慣習的規範によっても、禁止されていなかった。
(d) いずれにせよ、戦争法規は敵国民に対して日本軍が行った行為にのみ適用さ
  れるものであり、したがって、日本国民や第2次大戦当時日本に併合されてい
  た朝鮮半島の住民には適用されない。

 
◆6
 法的な損害賠償請求にかんして日本政府は、「慰安婦」個々人には損害賠償の法的権利がないと主張する。あったとしても日本政府は、これらの女性の損害賠償請求権はすべて、日本とアジア各国との間で戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みであると主張する。最後に日本政府は、第2次大戦中の強かん所に関する訴訟は民事であれ刑事であれ、すべて時効が適用されるため、現在では提訴期限が過ぎていて審理不可能であるとする。


 第3章 実体的国際慣習法における優越的規範

◆12
 「慰安所」が創設されるはるか以前から、奴隷制と奴隷売買が禁止されていたことに疑いの余地はない。第2次大戦後のニュルンベルク裁判は、「国際法に明記されていなくとも、たとえば……民間人を絶滅させたり、奴隷化したり、国外追放することは国際法違反であるという暗黙の了解がそれ以前からあったこと……を明文化してはっきり示した」にすぎない。実際、特に奴隷制の禁止は明らかにユス・コーゲン(強行規範)だと位置づけられている。したがって、第2次大戦中の日本軍のアジア全域にわたる女性の奴隷化は、当時でさえも、奴隷制を禁止する国際慣習法の明確な違反だったのである。


◆13
 19世紀初頭には、多くの国々が、既に奴隷の輸入を禁止していた。これに伴い、多くの国が奴隷制と奴隷売買を終結しようといくつもの国際協定を締結した。1855年の国際的裁定の事例ですでに、奴隷売買は「すべての文明国により禁じられており、国際法に背(ソム)くものである」としている。1900年までには、基本的な形の奴隷制は、大半の国々でほとんど根絶されていた。とりわけ日本は、1872年の段階で既に、ペルー人貿易業者たちを奴隷制犯罪を理由に敗訴としており、日本が歴史のなかで奴隷売買を禁じていると明言しているのは注目に値する。


◆14
 1932年以前に、奴隷売買・奴隷制、あるいは奴隷制関連の慣行を禁止する国際協定が少なくとも20締結されていた。さらに、1944年当時の国際社会を代表する国々を見ると、日本を含むほとんどすべての国家が自国の国内法で奴隷制を禁止していた。第2次大戦前には奴隷制に対する国際的非難が高まり、国際連盟で討議された1926年の奴隷条約は、奴隷制を「ある人に対して、所有権に伴う権能の一部または全部が行使される場合の、その人の地位、または状況」と定義した。したがってこの条約は明らかに、遅くとも第2次大戦前には国際慣習法になっていた。


◆15
 奴隷制禁止が慣習法であることは、戦争法規の中での民間人の取り扱いを定めた一連の法体系でも、等しく明白である。今世紀に採択された戦争法規のうちでも最も基本的な国際文書の一つである1907年のハーグ陸戦条約では、民間人と交戦者を奴隷化と強制労働から守るという重要な保護規定を組み入れた。そのうえ、第2次大戦後のニュルンベルク裁判でナチス戦犯に対して下された判決で、ハーグ陸戦条約は明らかに第2次大戦までに国際慣習法として確立していたと確認された。


◆17 
 奴隷制と同様、強かんと強制売春は戦争法規で禁止されていた。戦争法規に関する初期の権威ある法典で複数のものが戦時中の強かんや女性に対する虐待を禁じているが、そのなかでも最も傑出しているのは1863年のリーバー法である。さらに第2次大戦後、多くの者が強制売春や強かんの罪を含む犯罪で訴追され、このような行為の不法性がさらに明確になった。ハーグ陸戦規則はさらに、、「家族の名誉と権利は……尊重されなくてはならない」とした。既存の国際慣習法を成文化し、ハーグ陸戦条約にあった「家族の名誉」という用語をとり入れたとされるジュネーブ第4条約第27条は、まさに、「女性は、女性の名誉に対する侵害、特に強かん、強制売春その他のあらゆる形態のわいせつ攻撃から、特別に保護されるべきである」と明記している。強かんの性格づけが暴力犯罪としてではなく、女性の名誉に対する犯罪とされている点は残念であり、不正確だが、少なくとも「慰安所」が初めて設置された時期には、強かんと強制売春が国際慣習法で禁止されていたことは、十分に立証されている。


 第4章 実体法の適用

◆22
 「慰安婦」の処遇は、通常の意味での「奴隷制」と「奴隷売買」に相当し、「ある人に対して、所有権に伴う権能の一部または全部が行使される場合の、その人の地位または状況」とする1926年の奴隷条約の定義にあてはまる。前述のように、日本政府が自ら認めたところでも、これらの女性は「自由を奪われ」「意志に反して徴集された」。しかも、女性によっては金で買われており、したがって古典的な型の奴隷制に容易にあてはまる。しかし金銭のやりとりは、奴隷制の唯一の指標でもないし、最も重要な指標でもない。「慰安婦」はみな、自己決定権をほとんど奪われた体験があり、したがって、日本軍は彼女たちを所有物のように取り扱ったわけで、これらの犯罪行為に対しては実行者とその上官の双方に奴隷化の刑事責任があることは明らかである。繰り返すと、「慰安婦」の場合、日本政府の調査でも明らかになったように、女性たちは人格的自由を奪われ、軍隊や軍需物資とともに戦地との間を移動させられ、性的自己決定権を否定され、将兵を性感染症から守るために性と生殖に関わる健康を所有物のように取り扱う、おぞましい規則に従わされたのであった。


◆23
 日本政府は法解釈として奴隷制の定義が適用できないと主張する可能性のある少数の事例でさえも、「慰安婦」たちは明らかに、強かんされ、少なくとも「許される形態の強制労働」の定義にあてはまらない状態で戦地に拘束されていた。強制売春と強かんについて日本政府は、自国の行為は多くの女性たちの名誉と尊厳を深く傷つけたと認めている。女性たちに与えた損害は、明文では認めていないが、定期的な強かんなど性的行為の強制を含むことは明白である。したがってこうした行為は、戦争法規に違反する強かんと強制売春だと容易に位置づけられる。


◆24
 これらの犯罪が大規模に犯されたこと、これら強かん所の設置・監督・運営に日本軍が明らかに関与していたことから、「慰安所」に関与したり責任ある立場にあった日本軍将校に対しては、同様に、人道に対する罪の責任を問うことができる。その結果日本政府自身もまた、日本軍の行動によって苦しんだ女性や少女たちの受けた損害に対し、損害賠償を行う義務を負い続けている。


 第5章 日本政府の抗弁

 第1節 法の遡及適用

◆25
 ニュルンベルク裁判当時、被告側と一部研究者は、人道に対する罪はこの裁判の憲章で新たに定義された罪であり、したがって、被告人たちの行為は、行為の時点での国際法には違反していないため、人道に対する罪での訴追は合法性の原則(「法律がなければ犯罪なし」)に反すると異議を申し立てた。日本はアジア全域にわたって「慰安所」の奴隷化と強かんで国際慣習法に違反する行為を行ったとする元「慰安婦」たちの申し立てについて、日本政府も同様の主張をしてきた。


◆27
 奴隷制の国際慣習法による禁止は第2次大戦時までに明確に成立しており、第2次大戦後、刑事裁判の準備のために国際慣習法を明文化した東京・ニュルンベルク両裁判憲章に盛り込まれた。国際慣習法としての奴隷制の禁止は、戦争法規の下でも単独でも、武力紛争の性質のいかんにかかわらず、また武力紛争でない場合も、実体的違反行為を禁止する。


 第6章 救済措置

 第1節 個人の刑事責任

◆33 
 このような訴追の先例は古くからある。1946年インドネシアのバタビアでオランダ政府が開いた臨時軍事法廷では、9人の日本兵が、少女や女性たちを強制売春と強かんの目的で誘かいしたことで有罪となった。同様にフィリピン法廷も、日本軍将校1名を強かんで有罪とし、終身刑の判決を下した。ニュルンベルク・東京両裁判も国際慣習法を適用して、個々の将校や命令を下した上官、およびドイツと日本の政府に対し、戦争犯罪と人道に対する罪を犯した責任があるとした。国連総会は1946年12月11日の決議95(Ⅰ)号で、ニュルンベルク裁判憲章と東京裁判憲章に明示された国際法の原則は、国連加盟国があまねく認めた国際慣習法であると再確認した。


◆34
 そのうえサンフランシスコ講和条約第11条は、東京裁判と日本国内外の連合国戦犯法廷の判決を、日本は受け入れなければならないと規定している。これに加えてニュルンベルク裁判憲章では、「人道に対する罪」という新しい用語を使っているが、実際には新しい法を創り出したわけではないし、それ以前に国際慣習法で認められていた行為を新たに違法としたわけでもない。オッペンハイムによれば以下のとおりである。
 「戦争法規はすべて、その規定が国家を拘束するだけでなく、軍の構成員であるか否かを問わず国民を拘束することを前提にしている。この点で、1945年8月8日の合意書に付属する憲章に新しい要素は何もない。というのは、ヨーロッパ枢軸国の主要な戦犯は、戦争犯罪そのものと、いわゆる憲章が人道に対する罪と呼んだ行為について、個人に責任があるという判決に従って処罰され……」
 こうした前例がある以上、将校個々人は明らかに、自己の犯罪について処罰されうるし、また処罰されるべきである。

 
 第2節 国家責任と賠償責任

 (3)請求の処理に関する協定

◆53
 日本政府は損害賠償の支払い義務を否定する一方、損害賠償請求権はいずれにしても、戦争終結直後に日本政府が諸外国と締結した平和条約の結果、解決または放棄されているとも反論している。大韓民国の国民については、1965年の日韓協定第2条を根拠とする。この条文で両国は「協定締結当事国およびその国民(法人を含む)の所有財産、権利、権益に関わる諸問題、ならびに当事国およびその国民の間の請求権は、完全かつ最終的に解決された」と合意している。

 

◆55
 日本政府はこれらの条約を利用して責任を免れようとするが、それは以下の2点で成立しない。
 (a) 条約が作成された時点では、強かん収容所(レイプ・キャンプ)の設置への日本 
   の直接関与は隠されていた。これは、、日本が責任を免れるためにこれらの
   条約を援用しようとしても、正義衡平法の原則から許されないという、決定的    な事実である。
 (b)条約を素直に解釈すれば、人権法や人道法に反する日本軍の行為で被害を
   こうむった個人に、その損害賠償請求の道を閉ざすものではないことがわか
   る。


◆57
 日本政府はこうした犯罪への関与を長期にわたって隠してきており、そのうえ法的責任を否定し続けてきた。したがって、戦後処理協定その他の諸条約は「慰安婦」に関連したあらゆる請求権を解決するものであったと日本政府が主張することは、不当である。条約調印国は、当時日本軍と直接関連すると見られていなかった行為に対する請求権まで含まれていると予見できたはずはない。


 第3節 勧告

①刑事訴追を保証するための仕組みの必要性

②損害賠償を実現するための法的枠組みの必要性

③損害賠償額の妥当性

④報告義務
◆67
 最後に、日本政府は、「慰安婦」を特定し、補償し、加害者を訴追する状況がどのくらい進んでいるかについての詳細な報告を、国連事務総長宛てに少なくとも年2回、提出するよう義務づけられるべきである。この報告書は、日本語とハングルで準備され、日本国内外で、とりわけ「慰安婦」自身に対し、また彼女たちが現在居住する国で、広く配布されるべきである。



 一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略、または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が 書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。    

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「従軍慰安婦」とクマラスワミ報告書

2012年04月02日 | 国際・政治
 ラディカ・クマラスワミ氏は、国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者である。このクマラスワミの報告書は、政府、条約機関、女性団体を含むNGO(非政府組織)などから、女性に対する暴力に関する情報を収受し、女性に対する暴力、及びその原因を撤廃し、暴力の結果を救済するための国内的、地域的、国際的手段・方法を勧告することを求められ、それに応えるためにまとめられたものである。
 このクマラスワミ報告書には、日本軍の「従軍慰安婦」問題(報告書では「軍事的性奴隷問題」とされている)についての問題解決のための勧告が含まれている。

 この問題の調査研究については、下記「特別報告者の作業方法と活動」の45にその研究方法や内容の概略が示されているが、調査団は事前に「豊富な情報と資料を受け取り」、「注意深く検討」した後、ピョンヤンで4人の元「軍事的性奴隷」の証言を得、ソウルでは13人の元「慰安婦」と会い、東京で在日の元「慰安婦」や日本帝国陸軍の元兵士の証言を得て報告書を作成したという。それが、1996年2月に国連人権委員会に提出され、公表されたのである。
 同委員会は、「軍事的性奴隷問題」を含むクマラスワミ報告書について、この活動を歓迎し、この報告に留意するとの決議案を無投票全会一致で採択したという。
 ただし、その後下記29の吉田清治の証言部分については、彼が奴隷狩りをしたとされる地元の『済州新聞』が、取材結果をもとにその事実を否定し、日本の歴史家も証言の基本的な部分が確認できないため歴史証言としては採用できないとしたため、その部分の修正が求めらるが、多くの証言や資料に基づいたこの報告書を全否定できるものではないことは明らかであり、勧告は受け入れるべきであると思う。「問われる女性の人権」日本弁護士連合会・編(こうち書房)よりの抜粋である。
---------------------------------
            戦時における軍事的性奴隷問題に関する
        朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への
               訪問調査に基づく報告書
Ⅱ 歴史的背景
 B 徴集
23. 第2次世界大戦直前および戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも感じる側面は、実際に徴集が行われたプロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。「慰安婦」の徴集に関する証拠のほとんどすべてが、被害者自身の口頭証言から得られている。このことは、多くの人が被害者の証言を秘話の類とし、あるいは本来私的で、したがって民間が運営する売春制度である事柄に政府をまきこむための創作とまでいってのけることを容易にしてきた。それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。


29. いっそう多くの女性が必要になった場合には、日本軍は暴力やむきだしの武力、人狩りに訴えた。そのうちには娘の誘拐を阻止しようとした家族の殺害が含まれていた。国家総動員法が強化されたことで、これらの手段をとることは容易になった。この法律は1938年公布されたが、1942年からは朝鮮人の強制徴用に適用された。多くの軍「慰安婦」たちの証言は、徴集に際して広範に暴力と強制が
用いられたことを証明している。さらに、戦時中行われた人狩りの実行者であった
吉田清治は、著書のなかで、国家総動員法の一部として労務報国会のもとで自ら奴隷狩りに加わり、その他の朝鮮人とともに1000人もの女性たちを「慰安婦」任務のために獲得したと告白している。

Ⅲ 特別報告者の作業方法と活動

45. 第2次世界大戦中のアジア地域における軍事的性奴隷の問題に関して、特別報告者は、政府および非政府組織の情報源から豊富な情報と資料を受け取った。そこには被害女性たちの証言記録がふくまれていたが、それらは調査団の出発前に注意深く検討された。本問題についての調査団の主要な目的は、特別報告者がすでに得ている情報を確かめ、すべての関係者と会い、さらにそのような完全な情報に基づいて国内的、地域的、国際的レベルにおける女性に対する暴力の現状、その理由と結果の改善に関して結論と勧告とを提出することであった。その勧告は、訪問先の国において直面する状況を特定したものになるかもしれず、あるいはグローバルなレベルで女性に対する暴力の克服を目指すもっと一般的な性格のものになるかもせれない。


46. 調査団の活動中、特別報告者がとくに心がけたのは、元「慰安婦」の要求を明確にすることと、現在の日本政府が本件の解決のためにどんな救済策を提案しつつあるのかを理解することであった。
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Ⅸ 勧告

136. 本特別報告者は、当政府との協力の精神に基づいて任務を果たし、かつ女性に対する暴力と、その原因および結果のより広範な枠組みのなかで、戦時の軍事的性奴隷の現象を理解するよう試みる目的のために以下のとおり勧告したい。特別報告者は、特別報告者との討議において率直であり、かつ日本帝国軍によって行われた軍事的性奴隷制の少数の生存女性被害者に対して正義にかなった行動をとる意欲をすでに示した日本政府に対し、協力を強く期待する。


                  A 国家レベルで

137. 日本政府は、以下を行うべきである。
 (a)第2次大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の下で
   その義務に違反したことを承認し、かつその違反の法的責任を受諾すること
 (b)日本軍性奴隷制の被害者個々人に対し、人権および基本的自由の重大侵
   害被害者の原状回復、賠償および更正への権利に関する差別防止少数者
   保護小委員会の特別報告者によって示された原則に従って、賠償を支払うこ
   と。多くの被害者がきわめて高齢なので、この目的のために特別の行政的審
   査会を短期間内に設置すること。
 (c)第2次大戦中の日本帝国軍の慰安所および他の関連する活動に関し、日本
   政府が所持するすべての文書および資料の完全な開示を確実なものにする
   こと。
 (d)名乗り出た女性で、日本軍性奴隷制の女性被害者であることが立証される
   女性個々人に対し、書面による公的謝罪ををなすこと。
 (e)歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題
   についての意識を高めること。
 (f)第2次大戦中に、慰安所への募集および収容に関与した犯行者をできる限り
   特定し、かつ処罰すること。


                  B 国際的レベルで

138. 国際的レベルで活動している非政府組織・NGOは、これらの問題を国連機構内に提起し続けるべきである。国際司法裁判所または常設仲裁裁判所の勧告的意見を求める試みもなされるべきである。

139. 朝鮮民主主義人民共和国および大韓民国は、「慰安婦」に対する賠償の責任および支払いに関する法的問題の解決をうながすよう国際司法裁判所に請求することができる。 

140. 特別報告者は、生存女性が高齢であること、および1995年が第2次大戦終了後50周年であるという事実に留意し、日本政府に対し、ことに上記勧告を考慮に入れて、できる限り速やかに行動を取ることを強く求める。特別報告者は、戦後50年が過ぎ行くのを座視することがなく、多大の被害を被ったこれらの女性の尊厳を回復すべきときであると考える。



 一部読点を省略または追加したり、改行を変更したりしています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。

コメント (3)
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