下記「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」が『従軍慰安婦資料集』吉見義明編(大月書店)に入っている。この尋問報告は「慰安婦は公娼だった」「慰安婦は商行為を行っていたのである」「従軍慰安婦など存在しない」などと主張し、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、繰り返し利用しているものである。その内容は多くの「従軍慰安婦 」の証言とかけ離れたものであり、その資料的価値には、いろいろな面で疑問がある。その主なものについて考えたい。
まず第1に、尋問の方法が不明であり、その記述方法が極めて曖昧なことがある。下記付録Aにあるように、<尋問を受けたのは20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人>であるが、朝鮮人「慰安婦」の証言か、日本の民間人(業者)の証言かが明らかでない記述には、大きな問題があると言わざるを得ない。なぜなら、朝鮮人「慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくいからである。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、朝鮮人「慰安婦」の立場からみれば、民間人(業者)も加害者側といえる。性交渉を強要された朝鮮人「慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)がそれを物語る。
「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』に収められている「東南アジア翻訳センター 心理戦 尋問報告 第2号」では、「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。センターの尋問官、アメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトは、だれが話したかを明らかにしているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの
情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである」とも記している。それに比して、この第49号の報告は、そうした配慮や慎重さがないのである。
次に、「性向」の項目では、朝鮮人「慰安婦」が、無教育、幼稚、気まぐれ、わがままで、美人ではなく、自己中心的であると書かれている。また、<見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが「女の手練手管を心得ている」>ともある。20人の朝鮮人「慰安婦」について、20日余りの尋問期間で、こんなことが尋問官に分かるとは思えない。また、見知らぬ尋問官の前で、朝鮮人「慰安婦」がそうした性格を丸出しにすることは考えにくい。当然のことながら、そういう判断の根拠は全く示されていない。さらには、「慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている」とあるが、会ったこともないと思われる中国兵やインド兵について、なぜそのような証言をしたのか不思議である。どのような問いかけに対しての誰の証言であるか、また、どのような体験があったのか、などを明らかにしないと、報告としては価値がないだろうと思う。
「生活および労働の状況」の項目には、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、しばしば引用する文章が書かれている。朝鮮人「慰安婦」たちが、いかに厚遇されていたかということばかりが書かれているのである。他の多くの朝鮮人「慰安婦」が証言しているような、怒りを感じたことや悔しかったこと、辛かったこと、困ったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、腹立たしかったことなどは全く書かれていない。したがって、誰にどんな問いかけをして得た証言なのか、を明らかにしないと、朝鮮人「慰安婦」の「生活および労働の状況」の報告としては、ほとんど価値がないと言わざるを得ない。逆に日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のために証言したと考えれば、いろいろな点で納得できる記述である。
「利用割り当て表」の項目には、唐突に「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」と出てくる。朝鮮人「慰安婦」が進んでこのようなことを言い出すとは考えにくい。また、彼女たちを「売春婦」と捉えている尋問官が、そのことを問ただしたとも思えない。性交渉を拒否したために暴行を受け、傷つけられたという多くの証言あることを考えると、やはりこれも日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のためにした証言ではないかと疑われる。
兵士たちの反応の項目には慰問袋の話がでてくるが、<彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした>というのである。戦地の兵士に「小さな人形、下駄」も不思議であるが、「口紅」などあり得ない話ではないかと思う。にもかかわらず、それをそのまま報告しているのである。
「軍事情勢に対する反応」項目では、「ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである」とある。しかしながら、「兵士たちの反応」の項目には「彼女たちが
口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか…」とある。したがって、これも朝鮮人「慰安婦」の証言ではなく、日本の民間人(業者)の証言だろうと思われる。
「宣伝」の項目の記述<ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べた>というのも、報告書全体からを考えると朝鮮人「慰安婦」の証言ではないであろう。
「徴集」の項目の一部記述と、最後の「要望」の項目にある、<「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん、他の慰安婦の生命が、危険になるからである>という記述は、朝鮮人「慰安婦」の証言かどうかは不明であるが、朝鮮人「慰安婦」の立場を語るものとして受け取ることができるものである。
多くの人たちが、「従軍慰安婦」の訴えを退けるために、この資料を利用しているが、以上のことから、この「日本人捕虜尋問報告 第49号」を、当時の「従軍慰安婦」の実態を示す資料として、都合のよい所だけを引用して利用することは許されないと考えるのである。
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第13部 連合軍による調査報告・指令
1 ビルマ 99 アメリカ戦時情報局心理作戦班
日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
アメリカ戦時情報局心理作戦班
APO689
秘 日本人捕虜尋問報告 第49号
尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日 ~ 9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ
捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日
はじめに
この報告は、1994年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
「慰安婦」とは、将兵のために、日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。
徴 集
1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地??シンガポール??における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの4つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は、「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。
性 向
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。
生活および労働の状況
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を配給されていなかったので、ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は、多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
料金制度
慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。
1 兵 午前10~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円 30分~40分
3 将校 午後9時~午前0時 5円 30分~40分
以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。
利用日割り当て表
兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員2名が、隊員の確認のために、慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
日曜日??第18師団司令部。
月曜日??騎兵隊
火曜日??工兵隊
水曜日??休業日、定例健康診断
木曜日??衛生隊
金曜日??山砲兵隊
土曜日??輜重隊
将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は、接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。
報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちはあらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦は、すべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。
日本の軍人に対する反応
慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に、丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。
兵士たちの反応
慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。
軍事情勢に対する反応
慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。
「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」
ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。
退却および捕獲
「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。
宣 伝
慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。1人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちがたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。
要 望
慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されている投下に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。
付録A
以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。
名 年齢 住 所
1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
13 「C」 21歳 慶尚南(ナム)道慶山郡〔以下略〕
14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
15 「Y」 31歳 平安南道平壌
16 「O」 20歳 平安南道平壌
17 「K」 20歳 京畿道京城
18 「H」 21歳 京畿道京城
19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
20 「K」 21歳 全羅南道光州
日本人民間人
1 キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
2 キタムラエイブン 41歳 京畿道京城
一部、漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、青字が書名や抜粋部分です。
まず第1に、尋問の方法が不明であり、その記述方法が極めて曖昧なことがある。下記付録Aにあるように、<尋問を受けたのは20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人>であるが、朝鮮人「慰安婦」の証言か、日本の民間人(業者)の証言かが明らかでない記述には、大きな問題があると言わざるを得ない。なぜなら、朝鮮人「慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくいからである。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、朝鮮人「慰安婦」の立場からみれば、民間人(業者)も加害者側といえる。性交渉を強要された朝鮮人「慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)がそれを物語る。
「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』に収められている「東南アジア翻訳センター 心理戦 尋問報告 第2号」では、「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。センターの尋問官、アメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトは、だれが話したかを明らかにしているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの
情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである」とも記している。それに比して、この第49号の報告は、そうした配慮や慎重さがないのである。
次に、「性向」の項目では、朝鮮人「慰安婦」が、無教育、幼稚、気まぐれ、わがままで、美人ではなく、自己中心的であると書かれている。また、<見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが「女の手練手管を心得ている」>ともある。20人の朝鮮人「慰安婦」について、20日余りの尋問期間で、こんなことが尋問官に分かるとは思えない。また、見知らぬ尋問官の前で、朝鮮人「慰安婦」がそうした性格を丸出しにすることは考えにくい。当然のことながら、そういう判断の根拠は全く示されていない。さらには、「慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている」とあるが、会ったこともないと思われる中国兵やインド兵について、なぜそのような証言をしたのか不思議である。どのような問いかけに対しての誰の証言であるか、また、どのような体験があったのか、などを明らかにしないと、報告としては価値がないだろうと思う。
「生活および労働の状況」の項目には、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、しばしば引用する文章が書かれている。朝鮮人「慰安婦」たちが、いかに厚遇されていたかということばかりが書かれているのである。他の多くの朝鮮人「慰安婦」が証言しているような、怒りを感じたことや悔しかったこと、辛かったこと、困ったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、腹立たしかったことなどは全く書かれていない。したがって、誰にどんな問いかけをして得た証言なのか、を明らかにしないと、朝鮮人「慰安婦」の「生活および労働の状況」の報告としては、ほとんど価値がないと言わざるを得ない。逆に日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のために証言したと考えれば、いろいろな点で納得できる記述である。
「利用割り当て表」の項目には、唐突に「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」と出てくる。朝鮮人「慰安婦」が進んでこのようなことを言い出すとは考えにくい。また、彼女たちを「売春婦」と捉えている尋問官が、そのことを問ただしたとも思えない。性交渉を拒否したために暴行を受け、傷つけられたという多くの証言あることを考えると、やはりこれも日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のためにした証言ではないかと疑われる。
兵士たちの反応の項目には慰問袋の話がでてくるが、<彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした>というのである。戦地の兵士に「小さな人形、下駄」も不思議であるが、「口紅」などあり得ない話ではないかと思う。にもかかわらず、それをそのまま報告しているのである。
「軍事情勢に対する反応」項目では、「ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである」とある。しかしながら、「兵士たちの反応」の項目には「彼女たちが
口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか…」とある。したがって、これも朝鮮人「慰安婦」の証言ではなく、日本の民間人(業者)の証言だろうと思われる。
「宣伝」の項目の記述<ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べた>というのも、報告書全体からを考えると朝鮮人「慰安婦」の証言ではないであろう。
「徴集」の項目の一部記述と、最後の「要望」の項目にある、<「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん、他の慰安婦の生命が、危険になるからである>という記述は、朝鮮人「慰安婦」の証言かどうかは不明であるが、朝鮮人「慰安婦」の立場を語るものとして受け取ることができるものである。
多くの人たちが、「従軍慰安婦」の訴えを退けるために、この資料を利用しているが、以上のことから、この「日本人捕虜尋問報告 第49号」を、当時の「従軍慰安婦」の実態を示す資料として、都合のよい所だけを引用して利用することは許されないと考えるのである。
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第13部 連合軍による調査報告・指令
1 ビルマ 99 アメリカ戦時情報局心理作戦班
日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
アメリカ戦時情報局心理作戦班
APO689
秘 日本人捕虜尋問報告 第49号
尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日 ~ 9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ
捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日
はじめに
この報告は、1994年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
「慰安婦」とは、将兵のために、日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。
徴 集
1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地??シンガポール??における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの4つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は、「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。
性 向
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。
生活および労働の状況
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を配給されていなかったので、ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は、多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
料金制度
慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。
1 兵 午前10~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円 30分~40分
3 将校 午後9時~午前0時 5円 30分~40分
以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。
利用日割り当て表
兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員2名が、隊員の確認のために、慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
日曜日??第18師団司令部。
月曜日??騎兵隊
火曜日??工兵隊
水曜日??休業日、定例健康診断
木曜日??衛生隊
金曜日??山砲兵隊
土曜日??輜重隊
将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は、接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。
報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちはあらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦は、すべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。
日本の軍人に対する反応
慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に、丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。
兵士たちの反応
慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。
軍事情勢に対する反応
慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。
「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」
ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。
退却および捕獲
「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。
宣 伝
慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。1人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちがたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。
要 望
慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されている投下に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。
付録A
以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。
名 年齢 住 所
1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
13 「C」 21歳 慶尚南(ナム)道慶山郡〔以下略〕
14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
15 「Y」 31歳 平安南道平壌
16 「O」 20歳 平安南道平壌
17 「K」 20歳 京畿道京城
18 「H」 21歳 京畿道京城
19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
20 「K」 21歳 全羅南道光州
日本人民間人
1 キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
2 キタムラエイブン 41歳 京畿道京城
一部、漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、青字が書名や抜粋部分です。