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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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知事の定例会見と「慰安婦」の証言

2019年08月28日 | 国際・政治

 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止に追い込まれた企画展「表現の不自由展・その後」に関し、また、新たな報道がありました。神奈川県の黒岩祐治知事が、27日の定例会見で「(展示内容が)表現の自由から逸脱している。もし同じことが神奈川県であったとしたら、私は開催を認めない」と述べた、というのです。
 その定例会見で、黒岩知事は「私もメディア出身。表現の自由は非常に大事だが、何でも許されるわけではない」と指摘し、「あれは表現の自由ではなく、極めて明確な政治的メッセージ。県の税金を使って後押しすることになり、県民の理解は得られない。絶対に(開催を)認めない」と強調したとのことです。
 神奈川新聞によると、元従軍慰安婦の女性を象徴した「平和の少女像」については「事実を歪曲(わいきょく)したような政治的メッセージ」と指摘。「慰安婦を強制連行したというのは韓国側の一方的な主張だ」との持論を述べつつも、記者がさらに質問を続けようとすると遮り、「そういう問題について深く踏み込む話じゃない」といら立った様子を見せた、といいます。
 地方行政のトップが、こんなことでよいのか、と暗澹たる思いがします。
 憲法第二十一条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。”とあります。その表現の自由が、”政治的メッセージ”が込められているという理由で制限できるのでしょうか。自分が感じる”政治的メッセージ”を、日本人みんなが感じる”政治的メッセージ”と決めつけ、表現の自由を逸脱しているとして制限できるというのでしょうか。
 また、そうした表現の自由に関わる問題以前に、「慰安婦を強制連行したというのは韓国側の一方的な主張だ」という主張は、正しいでしょうか。” 記者がさらに質問を続けようとすると遮り、「そういう問題について深く踏み込む話じゃない」といら立った様子を見せた”とあるのですが、なぜ、深く踏み込んではいけないのでしょうか。

 いわゆる「従軍慰安婦」問題に関し、韓国に批判的な主張をする人は、判で押したように、強制連行の証拠がないことを問題にします。でも、韓国に限らず、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダなどの元慰安婦の証言があるのです。また、大事なことは、この問題は強制連行の問題だけではないということです。本人の意志を無視して「慰安婦」とし、自由を束縛して、くり返し性行為を強要したことを含め、慰安婦制度全体が問題なのです。そして、それは国際社会で「性奴隷」制度として受け止められているのであって、”韓国側の一方的な主張”などではないのです。下記に抜粋した証言には”管理していた日本人から和服を着るようにいわれ、仕事時間は朝八時から夜九時まで、仕事は日本軍人の夜の相手をすること、月経のとき以外は休みはないこと、毎週一回身体検査を受けること、外出は禁止であることなどを聞かされた”とか毎日十数名の相手をさせられ、軍人はサックを付けていた。抵抗すると経営者から暴力を振るわれた”とあります。

 2015年に日本政府に届けられたという、米の日本研究者ら187人による”日本の歴史家を支持する声明”には、
”下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第2次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。

 また、この声明は戦後70年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに70年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。

 しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。

 元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりすることも、また受け入れることはできません。20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。

 「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなりの部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘されていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。

 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。

 歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。

 日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。・・・(以下略)

とあります。日本の将来を心配する187人もの日本の研究者によるこの声明は、無視されてはならないのではないでしょうか。

 

 国際社会の信頼を得て、近隣諸国との友好的な関係を深めていくために、客観的事実を冷静に受け止めることが求められていると思います。不都合な事実をなかったことにして、誇りを取り戻そうというような姿勢では、国際社会で受け入れられず、私たちの将来世代も批判を受け続けることになるのではないかと思います。”私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない”ということであれば、きちんと当事者に向きあい、できれば、

日本に勧告を発した、国連人権委員会や国際法律家委員会、ILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会などの国際機関の代表者も交えた席で、謝罪をし、賠償の約束をすることによって、根本的解決をすべきではないかと思います。慰安婦問題日韓合意が、公式な文書を交わさず、両国外相が共同記者会見を開いて合意内容を発表するというようなかたちでおこなわれたということですが、なぜなのかと思います。日本政府は、”日韓外相会談で日韓間の慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した”というのですが、日韓の政治家同士が合意しても、それは”最終的かつ不可逆的な解決”などにはならないと思います。

 下記は、「台湾総督府と慰安婦」朱徳蘭(明石書店)から抜粋した台湾人元「慰安婦」へのインタビューに基づく記述ですが、いわゆる「従軍慰安婦」の実態の一端を示していると思います。「平和の少女像」が「事実を歪曲」しているかどうかの判断には、こうした証言が重要だと思います。
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                      第七章 台湾慰安婦の傷跡

                    第二節 台湾慰安婦のインタビュー

ニ、台湾慰安婦口述歴史の具体例

2、広東、ビルマへ渡ったタカコの場合
 1937年、日中戦争勃発後、占領地の拡大を調整しようとしていた日本軍はゲリラ戦の泥沼にはまっていた。南方への拡張政策をとることで現状を打破しようと試みた日本軍は、まず中国の物資供給ラインを断絶した。南方への拡張政策として1938年に広東を占領した日本軍は、1939年海南島、1941年には香港を占領し、同年さらにはタイへ侵略を開始した。首都バンコクの占領に続き、タイ北部とビルマの国境へと前進していった。翌年3月8日にはラングーン、6月10日にはビルマ全土を占領しアメリカおよびイギリスによる中国への物資供給ラインおよび連合軍と極東をつなぐ交通ラインを封鎖し、戦略上優位に立った。
 1943年8月末、中米英印連合軍による東南アジア統帥部が設立され、中国とビルマの交通ラインを復旧させるため、ビルマへの攻撃態勢を整えていた。1944年初め、中国軍はラシオへの攻撃を始め、アメリカ軍もミチナへの攻撃を開始した。日本軍は連合軍をけん制するためにインドのインパール、コヒマへの攻撃を開始した。こうした日本の攻撃に対し、イギリス軍も空軍の支援を得て反撃にでた。軍需物資の補給の不足から困難な状況へと陥った日本軍はビルマ西部、東部へと撤退せざるをえなかった。1944年8月、中米軍によるビルマでのゲリラ隊はミチナを占領し、続けてビルマ中部へと進撃した。日本軍はこうした連合軍の攻勢から占領地を守りきれずビルマ北部、中部へと撤退した。1945年3月、ビルマ進撃にあたっていたインド軍はマンダレーを占領した。5月には連合軍が南部、北部から首都ラングーンへの攻撃を開始した。こうした攻撃を日本軍は撃退しきれずビルマとタイの国境へまで撤退を余儀なくされた。8月末、連合運はビルマ全土の日本軍を撃退し、さらにはビルマとタイの国境へと進撃した。
 こうした状況の下、1941年から1945年にわたる五年間、広東、ラシオ、ラングーンの日本軍占領地で慰安婦をしていた台湾人女性五人のうち、ここではタカコについて述べてみたい。
 1923年新竹県湖口の農村に生まれたタカコは幼少のときに父親と死別し、母親は再婚していた。公学校(初等教育)には通っていたが卒業はしておらず、十八歳のときに継父から強制的に子持ちの漁師へ嫁がされた。相手が気に入らなかったタカコは逃げ出したが相手の母親と三人の男性に捕まり、台北太平町へ連れていかれ、日本人が開いた料理屋に一円で売り飛ばされた。店では女中兼売春婦として働かされた。タカコのほかにも同じような年の女が三人働いていたが経営者はいつも見張っており、日本人や台湾人の酒の相手や売春を強制された。タカコたちが抵抗すると経営者から暴力を振るわれた。
 約半年ほどその店ではたらいていたタカコは、経営者によって台湾女性へと売り渡され、広東へ連れていかれた。広東で何をするかは事前に知らされていなかった。タカコを買い取った台湾女性はタカコのほかにも五、六人の少女を同行し基隆から軍艦で出発した。タカコと一緒に基隆を離れた少女たちは屏東、台北、嘉義から連れてこられていた。広州に到着した後「愛群ホテル」に宿泊し、その後仏山市にある料理屋のようなところへ連れていかれた。タカコたちが住んでいた部屋は木造建築で、料理屋の店主は四、五十代の台湾女性でタカコたちはママさんと呼んでいた。管理していたのは日本人で店内には九州、朝鮮、台湾から来た女性がすでに働いていた。管理していた日本人から和服を着るようにいわれ、仕事時間は朝八時から夜九時まで、仕事は日本軍人の夜の相手をすること、月経のとき以外は休みはないこと、毎週一回身体検査を受けること、外出は禁止であることなどを聞かされた。経営者から食事と衣服は提供してもらっていたが、給料はもらっていなかった。たまに相手をした軍人からチップをもらっていた。タカコの番号は二番で、タカコという源氏名はそこで付けられた。
 毎日十数名の相手をさせられ、軍人はサックを付けていた。抵抗すると経営者から暴力を振るわれた。タカコは広東に半年間住んでいた。1942年タカコたち十数名の女性は日本人に連れられて赤十字のマークのついた医療船に乗せられてビルマへ向かった。タカコと一緒にビルマに渡った女性は台湾人、日本人、朝鮮人だった。タカコたちが医療船に乗ってビルマへ行く際には、十三隻の軍艦も同行していた。航海の途中、二隻がアメリカ軍の潜水艦の攻撃によって沈没した。ラシオに着くと山が近くにあるタツ部隊の慰安所へ連れていかれた。慰安所を管理していたのはタニモトという日本人女性だった。仕事時間は朝八時から夜九時まで、休みはなく、食事と衣服は提供されたが給料はなかった。ナカオという日本人軍官はタカコにとてもよくしてくれて、タカコのことを好きで、将来は結婚してくれるといっていた。ナカオはいつもサックを付けなかったが、タカコはナカオのために子供を生んでもかまわないと思っていた。当時は本当に愛しあっていると思っていたので、妊娠して女児を生んで約一ヶ月の休暇をもらった後、子どもに母乳を与え面倒を見ながら、軍人の相手をし続けていた。
 1945年7月末、ビルマにいた二十万あまりの日本兵は苦戦に追い込まれ、各部隊ごとに戦闘範囲を狭めながら南方へ撤退していった。タツ部隊も戦場を離れラシオからタイへと撤退していった。タツ部隊がタイへと逃走する49日間、タカコたちも一緒に山を越えジャングルを抜け農村を通りタツ部隊に同行していた。しかし携帯していたのはわずかな米や塩ですぐに食料が不足し、栄養失調や病死者、餓死者、そして流れ弾に当たった負傷死者が跡を絶たなかった。タカコはのどが渇けばサトウキビを盗んで食べていたが、ときには牛の糞の混ざった水を飲むこともあった。タカコの子供は生存していたが、途中通り過ぎたビルマの農村で代わりに育ててくれるよう人に渡した。
 タカコと日本軍はタイのアユタヤまでは一緒だったが、その後、日本軍がどこへ向かったのかは知らないという。当時のタカコはこじきのような姿で、髪にはしらみがわき、あちこちで物乞いをしていた。台湾屏東から来たというツォン・スンミンは日本第三三軍十八師団ビルマ派遣菊八九〇部隊の通訳をしており、一人でこじきをしているタカコに同情し、ツォンの友人であるシェと一緒にご飯を食べさせ、衣服を買い与えてくれた。その後タカコをアメリカの設置した収容所へ送り届けてくれた。こうしてタカコは数十名の台湾人と一緒の船で台湾へと戻ってきた。1946年に台湾へ戻ったのち、タカコは新竹で両親を探したがみつからず、孤独に打ちひしがれた思いで屏東のツォンへ会いにいった。ツォンの家族も多いためタカコを引き取ることはできず、ツォンと同郷のシェの父親がタカコを引き取ってくれた。半年後に屏東で結婚したタカコは、四人の女児と男児一人を生み、最低限の生活を送れるようになった。
 広東にいたとき、何日間か飲まず食わずの生活を送り餓死しかけたこと、ビルマでワニのいる河に跳び込み自殺しようと思ったこと、そんなときには自分の死後、魂を異国の荒野にさまよわせないよう、台湾で生まれ育ったのだから死ぬときは必ず台湾でと、つらい生活にも耐え、死にたいという思いを振り切っていた。タカコは今まで誰にも過去について話したことがないという。こうしたつらい思い出ばかりの過去の話をすることは、今でも恥ずかしさでいっぱいだと話していた。

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「従軍慰安婦」 デマ? プロパガンダ?

2019年08月24日 | 国際・政治

 下記の資料1は、インドネシアの元「慰安婦」の証言ですが、こうした証言があるからこそ、インドネシアでも副大統領が、安倍首相に戦争被害者への謝罪を呼びかけたのだと思います。2015年08月の報道ですが、インドネシアのユスフ・カラ副大統領は、日本の安倍晋三首相に対して、第2次大戦の被害者に謝罪するよう呼びかけたといいます。また、それに先立って「日本が大戦の被害者に謝罪するのか、それとも遺憾を表明するだけなのか、それを決めるのは安倍首相だ」とも発言したと伝えられています。「安倍首相が被害者に謝罪することができれば、戦時中に日本から被害を受けた人々の感情はずいぶんと改善される」との考えに基づくのだというのです。
 また2015年には、マレーシアでも、マレーシア人元「慰安婦」に対する日本政府の謝罪を求める声があがったといいます。日本の戦争責任や戦後補償の内容が、今なお、問われ続けているのだと思います。

 資料2の台湾の女性の証言は、通常の慰安所における「慰安婦」の証言とは、少し様子が違いますが、くり返し性行為を強要されており、「慰安婦」とかわりはないと思います。体制が整っていなかったために、十四歳で流産さえ経験することになってしまったのだと思います。
 戦時中、台湾は日本軍の兵站基地として重要な役割を担ったようですが、台湾軍が日本軍に供給していたのは軍需品ばかりではなく、特殊な人材「慰安婦」も軍需品同様であったといいます。「台湾総督府と慰安婦」朱徳蘭(明石書店)によると、南方軍の慰安婦募集に台湾軍が協力していた事実は、1942年3月12日に当時の台湾司令官・安藤利吉が陸軍大臣東条英機に宛てた秘密電報「南方派遣渡航者ニ関スル件」で明らかだといいます。

陸密電第六三号(寺内寿一)南方総軍の要求である慰安土人五十名をボルネオへ派遣する件について、陸密電六ニ三号により、すでに憲兵の調査を経て以下の(慰安所)経営者三名を選出した、これらの渡航許可を申請する。
 下記
 愛媛県越智波方村一二三六番地 台北州基隆市日新町二丁目六番地
村瀬近市、年齢四十二歳
 朝鮮全羅南道済州島斡林面挟方里十番地 台北州基隆市義重町四丁目十五番地
豊川晃吉 年齢三十五歳
 高知県長岡郡介良村三七〇番地 高雄州潮州街二六七番地
浜田ウノ、年齢五十一歳

 そして、この慰安婦ボルネオ派遣申請に対して、阿南惟幾陸軍省次官が陸軍大臣命令に基づく許可の返答をしているということですが、その後、さらに樋口敬七郎台湾軍参謀長から阿南次官の後任の木村兵太郎陸軍次官へ次のような電報があったのです。

本年三月台電第六〇二号申請陸亜密電第一八八号認可ニ依ル「ボルネオ」ニ派遣セル特種慰安婦五十名ニ関スル現地着後ノ実況人員不足シ稼業ニ堪ヘザル者等ヲ生ズル為尚二十名増加ノ要アリトシ左記引率岡部隊発給ノ呼寄認可証ヲ携行帰台セリ事実止ムヲ得ザルモノト認メラルルニ付慰安婦二十名増派諒承相成度 
 尚将来此ノ種少数ノ補充交代増員等必要ヲ生スル場合ニハ右ノ如ク適宜処理シ度予メ諒承アリ度
  左記
基隆市日新町ニノ六  村瀬近一(原文ママ)

 軍人の需要に応えるため、さらに二十名の慰安婦の増派と、そうしたことを見越して、渡航手続きの簡素化を求める内容です。
 また、見逃せないのが、慰安所経営者は軍が選定しており、 村瀬近一なる人物の職業欄には「憲兵伍長」とあり、のちに「代書人」へ変更されているということです。かつて「憲兵伍長」であったからこそ、軍慰安所の経営者に選定されたということだと思います。

 こうした資料は、戦時中「慰安所」の設置や「慰安婦」の募集が、軍主導で行われたことを物語っているのであり、「『従軍』慰安婦はいない、商行為として行われた」とか「民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いていた」とかいうような主張は、通用しないと思います。慰安婦の証言やこうした文書を、いつまでも無視してはならないと思います。 

 下記資料1は 『私は「慰安婦」ではない』戦争犠牲者を心に刻む会編(東方出版)からの抜粋で、資料2は「台湾総督府と慰安婦」朱徳蘭(明石書店)からの抜粋です。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<証言──インドネシア>
                    十三歳の少女に課せられた「仕事」
                                                        マルディエム
 皆さん、こんにちは。私はジョグジャカルタから来ましたマルディエムといいます。ここで私の体験を手短にお話ししたいと思います。それは1942年のことでした。そのとき私は十三歳でした。
 私が生まれたのは、1929年2月7日です。わたしはジョグジャカルタで育ったのですが、十三歳の時に、そこからカリマンタン(旧ボルネオ)のバンジャルマシンという場所に連れて行かれました。何故そこへ行ったかというと、日本人が労働力を集めるためジョグジャカルタに募集にやってきたとの説明が、日本人市長からあったからです。そして私には、演劇の仕事があるから来ないか、という話がされました。ジョグジャカルタからスラバヤ、そしてバンジャルマシンまでは船で移動しました。船の名前は「みき丸」だったと思います。
 私は、バンジャルマシンに着くまで、演劇といっても、いったいどういう仕事をするのか、全く教えられませんでした。そしてテラワンという地域に連れて行かれました。私といっしょに連れて行かれた少女たちは、全部で二十四人でした。
 到着すると、私は部屋番号が十一番と記された部屋に案内され、ここが、これからあなたの宿舎なのだと言われました。そして私には、不思議なことに「ももえ」という名前が与えられました。私と同じ十三、四歳の少女は四人いて、「あきこ」「みねこ」などの名前がつけられました。
 その後、私は健康診断を受けるように言われ、医師によって健康診断がなされました。そしてその結果健康であることが証明され、軍の病院から帰ると部屋の前にはもうすでに大勢の兵士が待っていて、私はその病院で助手をしていたあごひげの男に最初に強姦されたのをはじめとして、いきなり六人の「客」の相手をさせられました。
 想像できますでしょうか。私はたった十三歳です。まだ私には初潮もありませんでした。それなのに私は、六人の兵隊の性の相手をさせられたのです。私の下腹部からは、ひどい出血がありました。あまりにも出血が激しかったので、私には三日間の休養が与えられました。けれども三日後、とりあえず身体が回復すると、早速、私には最初の日と同じような苦しい「仕事」が待っていました。
 一日「仕事」をするということは、こういうことでした。
 平均して一日十五人の男たちが、私の部屋に入ってきました。朝十一時三十分から昼間の午後三時頃までは、兵士たちの相手をしなければなりませんでした。それには、二円五十銭という値段がつけられていました。そしてその後夕方五時から夜中の十二時までは、軍属の相手をしなければなりませんでした。それは、三円五十銭という値段がつけられていました。もし、夜中の十二時から明け方まで、私のベッドに寝る「客」がある時は、十二円五十銭という値段でした。中には一人で四、五時間分のチケットを購入してくれて私を休ませてくれる兵隊もいましたが、もっとも多い時には一日で二十人もの相手をさせられたのです。私にとってそれは余りに過酷な「労働」で、肉体的にも精神的にもとてもつらいものでした。
 そのような値段が表示してありましたが、私がその金額を受け取ったことは一度もありません。「客」から私に与えられたのは、コンドーム二つと券のようなものだけでした。「支払われたお金は貯金してあるから、戻る時に渡す」との説明を受けていました。その後、東ジャワとジャカルタから三十五人の女性が送られてきました。私といっしょに来た二十四人の内、五人は体をこわしてジョグジャカルタに帰されていたので、「仕事」がとてもきつくなっていたのです。

 1943年、十四歳になっていた私は妊娠しました。その妊娠がわかると、私は呼び出され、麻酔もなしに強制的に堕胎させられました。それは過酷なもので想像を絶する痛みでした。お腹をものすごい力で押さえ付けられて流産させられたのです。無理矢理押し出されてきた子どもは、そのときまだ生きていました。ほんとうに小さな子でしたけれども、私は、私の名前からとった「マルディ」に日本人の子なので「ヤマ」をつけて、その子にマルディヤマという名前をつけました。
 1944年には、バリクパパンからさらに八人の女性が連れてこられました。
 そのようなつらい過酷な経験をしたために、その後の生活において私は、セックスに対して正しい対応をするのが難しくなりました。
 私の今日までの様々な後遺症を含めて、日本政府は責任があると思います。私は、日本政府に正式な謝罪と賠償を要求したいと思います。なぜなら、(日本の一部の人たちが言うように)私たちが「売春婦」であったり、そのようにしたことはないからです。私たちは強制されて連れて来らた者たちなのです。プロの売春婦は一人もいません。イスラムの色の強い地域では考えられないことです。日本の国会議員の発言は決して許せません。彼らは、たった十三歳の少女がプロを志したというのでしょうか。
 あまりにもつらすぎる体験のために、私の肉体も精神も、健康状態を失ってしまったのです。
 私には夫がいました。夫はインドネシア国軍兵士でした。夫はすでに他界し、私は今は夫の年金で生活しています。男性を愛することはできなかったけれど、ただ私を守ってくれる人がほしかったのです。
 同僚だったサルミーさんは「慰安婦」だったことを名乗って、その六か月後に、補償金が出るのなら家族に届くようにしてほしいと遺言を残して亡くなりました。私は当時、一番若かったので、記憶が確かなのです。教育は受けなかったけれど、どこに慰安所があったかもはっきり覚えています。忘れてしまいたいけれど、亡くなった友人たちとのことを考えると話さずにはいられません。時間がないので、私の証言はこれで終わりたいと思いますが、もし、皆さんの中に、私の話によって心を傷つけられた人がいるとしたら、お許しを乞いたいと思います。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      第六章 台湾軍の慰安所事業への参与
                      第四節 台湾慰安婦の台湾兵站での状況  
三、 ノブコの場合
 ノブコは1931年に台中州能高郡タウツア社(南投県仁愛郷)で生まれたタロコ族で、春陽蕃所学校(小学校六年間)を卒業した。母親は生まれながらの小児麻痺で歩けなかった。1930年10月、母親がノブコを妊娠していたとき霧社事件が起き、参加していた父親は日本人に殺された。イブコが五歳になった1936年、母親が二番目の父と結婚した。継父もタロコ族の人だった。母親は継父との間に三人の子供を生んだ。継父は口が利けなかった。山でサトイモやサツマイモ、粟などを植えて生活を支えていた。いつも食料不足で、とても貧しかった。1943年末、継父が病気で他界した。母親は立てないため家事ができず、ノブコが家事をしなくてはならなかった。継父が死んだ後は弟や妹の面倒もみなくてはいけなくなった。1944年に二番目の妹が生まれたが夭逝した。その後母は心配のあまり体を壊し、他界してしまった。当時の警察は家に来たことがあり、両親がおらず、とても貧しいことを知っているはずだったが、何も補助がなかった。
 1945年初頭、ノブコは叔母の家に移り住んだ。叔母は農業をしている人と結婚していて、とても貧しかった。叔母が男の人を紹介してくれて、ノブコはその人と結婚を約束した。ノブコの婚約者は高砂義勇隊として徴兵され、高雄から船で南洋のほうに出発した。婚約者が徴兵されるとき、ノブコはすでに婚約者の家に移り住んでいた。ある朝、サクラ派出所のツバキという日本人の警官が友人と一緒に家に来て、ノブコに話しがあるというので警察に会いに行った。このときツバキは四人原住民の女性を呼び出していた。呼び出されたほかの人はノブコより年上で、中には結婚して子供がいる人もいた。一番年下で十四歳未満はノブコだけだった。そこで警察からオオヤマ部隊へ行って仕事をするようにいわれた。仕事の内容は掃除やお湯を沸かしたり、お茶を入れたり、洗濯をするなどの雑用だといわれた。月給は十五円で、仕事時間は朝八時から午後五時まで、昼食は部隊が出してくれるといわれた。ノブコの婚約者は家族が多く、生活は貧しかったので、お金のために仕事を引き受けることにした。
 三ヶ月ほど過ぎたある朝、ノブコたちの管理員をしていたニシムラという軍人が「今日は十時まで仕事をするように」といった。昼食も夕食も部隊が出してくれたが、残業代はくれなかった。夕食を食べ終わるとニシムラに連れられて休憩所のようなところへ行った。大体七時くらいになったとき、ニシムラに呼ばれて洞窟に連れて行かれた。洞窟の入り口には見張りの兵隊がいて洞窟の奥のほうからかすかな光がみえた。ニシムラにいわれるままに中に入って初めて洞窟の中にみたことのない兵隊がいるのに気付いた。明かりは薄暗くて、その人がどんな顔をしているのかはよくみえなかった。ニシムラはもう洞窟にいなくて、ノブコと兵隊の二人だけだった。急に兵隊がノブコに抱きついてきたのでとても恐ろしかったが、体の小さいノブコは逃げられなかった。叫びながら泣いていたが、その人に服を脱がされ強姦された。
 その後、ニシムラに連れられて休憩所に戻った後、ほかの四人の原住民も洞窟へ連れていかれ、次々に強姦された。四人は毎晩七時くらいから順番に山の洞窟に連れていかれ日本兵に強姦された。毎晩ニ、三人の兵隊の相手をさせられた。毎日暗くなるととても怖くて緊張した。毎日夜十時くらいにならないと家に帰してもらえなかった。家に帰っても誰にもいえなかった。ただ、隠れてずっと泣いていた。よく泣きすぎで目がはれていた。毎日毎日、過ごすのがとてもつらかった。
 オオヤマ部隊にはだいたい500人くらいの人がいた。軍医による身体検査は受けたことがなかった。1945年の六、七月ごろ妊娠してすぐ流産した。その年の八月中旬、いつものように仕事に出かけてみると日本人兵がすべていなくなっていた。後になって日本軍が戦争に負けて花蓮から撤退して帰国したことを知った。1947年に婚約者が海外から花蓮へ帰ってきた。夫は徴兵されたが、台湾に帰ってきた後、日本政府から何の保証金ももらっていない。その年の12月に結婚した。誰にも言えない苦しみを償うために、結婚後、夫と一緒にキリスト教会へ通うようになった。神様に過去の罪を拭い去ってくださいとお祈りした。信仰を持ってから心が落ち着いて、精神的なストレスが少し減り楽になった。ノブコ夫婦は二人とも敬虔なキリスト教徒だった。1992年に夫が病気でもう長くないと知ったとき、夫に心の秘密を打ち明けて、夫に許してくれるように頼んだ。夫は話を聞いた後、「間違いを犯したことのない人はいない。あのときは戦争でめちゃくちゃだった。私は徴兵されてそばにいてあげられなかった。君一人の責任ではない」といってくれた。

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私は「慰安婦」ではない ─ 万愛花の証言

2019年08月22日 | 日記

 徴用工の問題や輸出規制の問題、あいちトリエンナーレ2019の問題などに絡んで、また、いわゆる「従軍慰安婦」の問題が注目されています。でも、残念ながら、事実にも基づいた議論が深まる様子はありません。逆に、「慰安婦問題はデマ」とか「反日プロパガンダ」というような発言によって、感情的対立が煽られているように思います。

 
 広辞苑によると、いわゆる”従軍慰安婦”は”日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性”です。将兵を慰安する気持ちがない多くの女性(少女)を、日本軍は”慰安婦”と呼んだのです。もちろん、”将兵の性の対象となる事を強いられた女性”は、ほとんど従軍する意志もなかったと思います。したがって、「従軍慰安婦」という呼称は、”将兵の性の対象となる事を強いられた女性”の意志や気持ちを無視した一方的なものだと思います。

 だから、国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会の戦時性奴隷制特別報告者、ゲイ・マクドゥーガルが、報告書の付属文書のなかで、日本の「従軍慰安婦問題」に関して、

1932年から第2次大戦終結までに、日本政府と日本帝国軍隊は、20万人を越える女性たちを強制的に、アジア全域にわたる強かん所(レイプ・センター)で性奴隷にした。これらの強かん所はふつう、「慰安所」と呼ばれた。許し難い婉曲表現である

と指摘したのは当然だと思います。「慰安所」とか「慰安婦」という表現は、女性の立場に立てば、まさに許し難い表現だということです。呼称自体が、女性の人権を無視したものであり、女性の立場に立てば、それらは、「強かん所」(レイプセンター)、「性奴隷」という表現になるのだと思います。

 そういう意味で、下記に抜粋した”私は「慰安婦」ではない”という証言は、重要な意味を持っていると思います。
 私自身も、どのように表現すべきか、いろいろ悩まされてきました。「従軍慰安婦」と括弧書きにしたり、日本軍「慰安婦」としたり…。
 一般的にはあまり使われていませんが、日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)を、括弧なしで表現すると、”日本軍性奴隷”になるのではないかと思います。
 下記は、『私は「慰安婦」ではない』戦争犠牲者を心に刻む会編(東方出版)から抜粋しました。
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 <証言──中国>
 私は「慰安婦」ではない
                                                    万愛花(ワンアイファ)
 日本が何をしたかを伝えたい
 私は万愛花です。私は日本の戦後補償に関する国際公聴会で証言するため、1992年に東京に来たことがあります。私は今回、日本人がやった悪いことを皆さんに伝えるために、再び日本に参りました。今日ここに集まった皆さんの中には、若い方がたくさんいらっしゃいますね。私、万愛花はここに来席した皆さま方にとても感謝しています。どんなに遠くても、私は話を聞きに来るべきだと思います。ご来場の皆さま方に心から感謝申し上げます。私を支持してくださいまして、ありがとうございます。
 私、万愛花が日本に参りましたのは、すでに亡くなりました中国のおじいちゃん、おばあちゃんたち、それから小さい幼い子どもたち…、あの戦争中に故なく殺されたたくさんの中国の人たちのためです。あの時中国で、日本軍が何をやったかを訴えるために、私は中国の被害者の代表として日本に参りました。
 そんな殺人者たちにも、それぞれ自分の父母がおり、おじいさん、おばあさんあるいは子どもたちもいるはずです。それなのになぜ中国を侵略してきて、言い尽くせない酷いことをしたのですか。「三光政策」というのは、「殺しつくす、焼きつくす、奪いつくす」というとても残虐な行為です。そんなことをして、何のいいことがありますか。
 私は優秀な共産党員です。日本の鬼は、私の青春、私の人生、私のすべてを踏みにじりました。しかも今に至るまで、知らん顔をしているのです。
 私はかつて1メートル60センチの背の高い女でした。それなのに、今はこんなに低くなりました。身体がすっかり変形してしまったんです。ここまで全部足です。
 ずっとこういうふうにしか歩けなかったんです。日本軍は私に共産党員の名簿を出せと迫り、私に激しい暴行を加えました。拷問しました。けれども、私にはそんなことはできません。私は決して教えませんでした。そのために、いっそう激しく暴行を受けました。
 今でも私は、毎日マッサージをしてもらっているんです。十年間以上もずっと毎日マッサージしてもらって、その時だけは、今も続く身体の辛さがわずかに癒されるようです。
 (万愛花さんの体や来日後の様子に関する通訳の説明部分 略)

 三回捕えられ、くり返された暴行
 私は十一歳で共産党に入党しました。私は、生家の貧しさのため、四歳の時に内モンゴルから山西省孟県羊泉村に養女として売られてきましたので、私のそばには身内は一人もいませんでした。それで、私は八路軍(抗日軍の呼称)のために、毛沢東主席のために、少しでも手伝いをしようと思い、積極的に抗日活動に参加したのです。
 私の住んでいるところは八路軍の本拠地でした。私は日本軍が知らないうちに、内緒で八路軍に、靴とか食料品とかいろいろ必要な物資を調達して運び、私は共産党のためにたくさんの貢献をしました。
 けれども私は三回、日本軍に捕らえられて、彼らの本拠地に連行されました。連行され、合わせると三ヶ月もの間監禁されて、夜となく昼となくひどい暴行を受けました。そのうえ、数多くの日本軍人に輪姦されました。その体験はあまりにも残忍で、とても言葉で表現できるものではありません。
 ある日、二人の日本の鬼が一人ずつ、押し倒した私の両手を引っ張りあげ、もう一人の日本軍人は私の頭を押しつけ、もう一人が私のわき毛、そして陰毛を一本一本全部引き抜きました。私はとても残虐な蹂躙をうけました。しかし、彼らがどれほど私を残酷にいじめても、私は共産党員の名前を一人も口に出しませんでした。死んでもいいと思いました。
 1943年、とても寒い真冬の12月に、私を残虐に輪姦して、身体のあちこちが骨折するまで暴行を加えたあげく、日本の軍人は冷たい川に私を裸のまま投げ捨てました。私の命は神様が救ってくれたものです。
 命は助かったけれども、その後の三年間、私はほとんど身動きできずに伏せっていました。そのうえ、歩けるようになってからも村の人々から「汚い女」と蔑みの目で見られ、村で生活できなくなり一人で逃げ出しました。今は、山西省に住んでいます。

 真の友好関係とは
 私は日本に来て、こういう事実を日本人に知らせない限り、死ぬに死ねません。
 日本軍がやったこのような悪質な行為を、私が日本に来て日本人に直接話さなければ、日本人は誰も知らないでしょう。
 私は1992年にも来日しましたけれども、今回来てみたら、この集会に参加している方々には若い人がかなり多いです。私が日本に来たのは、日本政府が一日も早く、自分の国がやった悪いこと、悪質な侵略行為について、犯罪行為だということを認めて、それから中国政府に対して心からのお詫び、謝罪をして欲しいからです。私たち被害者本人に対しても謝罪して欲しいです。
 いま日本は、聞いたところでは、なんとか中国と「友好」だそうですね。けれども、実際的な行動が見えなければ、それは成り立たないのです。本当に自分が悪いことをしたと認め、謝罪するのが一番良い方法です。そうしたら、中国と本当の「いい友達」になれるんです。謝罪しないということは、中国と友好ではないことのみでなく、またもう一度中国に侵略してくる、再び戦争をやるということではないでしょうか。
 日本にはいい指導者がいないのです。日本政府が悪いんです。日本のリーダー、政府の指導者がとっても悪いです。日本人であるから全部悪いとはいえません。日本人の中にも良い人もいます。それを見分けなければならないと私は思っています。日本軍であっても悪いことをしないで日本に戻ってきた人はいい人です。それから、日本の国民はいい人です。その人たちのお友だちも悪いことをしなければいい人だと思います。

 「慰安婦」と呼ばれるために新たな被害が
 私が92年に日本に来て国際公聴会に出た時、新聞に「慰安婦」という言葉が出てきました。それは中国にまでも伝わりまして、私はとても深刻な被害をこうむっています。
 私は「慰安婦」ではありません。私は身も心もきれいです。私は「汚い女」ではありません。それなのに、祖国で子どもたち(世話をしてくれる義理の若い者たち)、まわりの村の人たちが、すごく冷たい目で私を見るようになりました。
 私は知識もないんです。私は身内もないんです。しかし、私は「慰安婦」ではない。私は「汚い女」ではないことを証明しなければならないと思いました。あちこち走り回りまして、自分が共産党員であること、「汚い女」「慰安婦」ではないことを証明してきました。共産党員であることが証明されたために、私は党籍を回復し、いま優秀な共産党員であります。「慰安婦」では絶対ありません。
 私だけではないです。韓国をはじめ、世界各国のこういう悲惨な体験をしている女性たちは、みんな「慰安婦」ではありません。すべて、日本の鬼が悪いことをやって、強制し、苦しめたことなんですよ。私が少し違うのは、私が共産党員であるために、いっそうひどい暴力を受けたことなんです。
 かわいそうな姉妹たち。かわいそうな亡くなったおじいさん、おばあさんたち。その人たちのために、私は日本に来ました。
 皆さん方、記者の方たち、恩人の方たち。私はあなたたちに対して、私たち被害を受けた女性たちのために一生懸命頑張ってくれていることについてとても感謝しております。私は中国に限らず、日本軍に殺され、苦しめられ、亡くなった方たちのために、その方たちを代表してお礼申し上げます。
 皆さんにお願いがあります。私が話したことを大勢の人々に伝えてください。悪いことをした日本の軍人を追及してください。彼らを捜し出した時、もし既に死んでいても、その親戚がいるでしょう。死んだらお墓があるはずです。そうしたら、私、万愛花はお墓参りをいたします。
 日本に橋本という人間がいるらしいですね。あの人は政府の要人として、日本軍のお墓参りをしたそうですね。祀られている死んだ人たちは、何処でどのようなことをしたのか、そして何処でどうやって死んだのか、橋本という人は考えましたか? 先程証言したあの人(杉田さんのこと)も日本人でしょう? なぜあの人は戻ったのに、お墓参りをされている人たちは死んだのですか。彼らが何処で何をしたのか、あなたたち考えてください。
 私の話を聞いてくださって、ありがとうございました。

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日本の政府が…黄秋月の証言

2019年08月20日 | 国際・政治

 現在、日韓関係の悪化を受け、日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)の問題について、”日本軍が朝鮮の若い女性を従軍慰安婦という名の性奴隷として集め、虐げていたという話は事実ではない”というような断定的な主張が、インターネット上では増えているように感じます。そして、”あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」”に関する吉村大阪府知事や松井大阪市長、河村名古屋市長などの発言も、そのような考え方を一層広げることにつながっているのではないかと思います。

 下記に抜粋したのは、台湾の元慰安婦の方の証言ですが、こうした証言をいろいろ読んでいると、日本軍慰安所がどのようなものであったのか、ということが、次第にはっきりしてきます。証言は人によって、また、時期や国によって様々ですが、日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)の問題における、軍や政府の責任は否定しようがないと思います。明らかに国際法違反であり、戦争犯罪です。
 似たような証言が、韓国、中国、フィリピン、インドネシアなどに、多数あるにもかかわらず、それらを、みな嘘であるというような主張をすることが、国際社会で通用するとは思えません。関係国では、多くの人々が元慰安婦の方々の苦しみを理解し、共有していることを忘れてはならないと思います。

 2008年11月、台湾立法院は「慰安婦問題の迅速な解決を日本政府に要求する」決議を可決しています。中国では、日本軍慰安所がどのようなものであったのか、また、「慰安婦」がどんな状態に置かれたのかを理解し、継承するために、2015年12月、南京大虐殺紀念館(侵華日軍南京大遭難同胞紀念館)の近くに、「南京利済巷慰安所旧址陳列館」が開館し、慰安婦像も設置されています。そして、大勢の元「慰安婦」の方々の写真とともに、住所氏名や証言内容が明らかにされています。ビデオによる証言もあります。それらがすべて嘘であるというようなことは、あり得ないことだと思います。

 日本弁護士連合会と大韓弁護士協会は、2010年12月に、合同で『日本軍「慰安婦」問題の最終的解決に関する提言』を発表していますが、それによると、アメリカ下院、オランダ下院、カナダ下院、EU議会が相次いで、日本政府に、”慰安婦制度が日本帝国による性奴隷制度であった事を認め、慰安婦への真摯な謝罪と補償をするよう求める決議”を可決し、それが日本政府に伝達されているといいます。教科書にそうした事実を記載するよう求めてもいるのに、日本の政府の対応は、削除です。

 また、何度も取り上げている国連人権委員会や国際法律家委員会の他にも、女性差別撤廃委員会、国際人権(社会権)規約委員会、拷問等禁止委員会などが、それぞれ日本政府に対し勧告を行ったといいます。また、ILO(国際労働機関)も条約勧告適用専門家委員会の見解として,毎年のようにこの問題が、強制労働禁止条約に違反するとの前提で、早急な被害者の救済を求める意見を公表しているといいます。

 にもかかわらず、日本では”慰安婦はデマだ”とか”反日プロパガンダだ”というような主張がくり返されています。素直な気持ちで証言に耳を傾けたり、証言集を読んだり、また、冷静に『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』等を精査したりすれば、この問題に関する国際社会の結論が間違っていないことは、誰にでも分かることだと思います。
 現在の日本は、「森友学園」問題や「加計学園」問題に象徴されるように、政府自身が事実を蔑ろにする傾向が強いように思います。だからこそ、しっかり事実を確かめ対応すべきで、事実を蔑ろにしはならないと思います。
 
 かつてリットン調査団報告書が国際連盟総会で審議された際、日本代表の松岡洋右が満州国を自主的に独立した国家であると主張したことはよく知られています。でも、審議の結果、報告書に反対は日本のみ、棄権する国はあったものの、賛成が42カ国で可決され、どこからも支持を得られなかった日本政府は国際連盟脱退を通告しています。日本軍「慰安婦」(従軍慰安婦)の問題においては、似たような状況にあるのではないかと思ったりします。

 下記の証言は、『私は「慰安婦」ではない』戦争犠牲者を心に刻む会編(東方出版)から抜粋しました。

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 <証言──台湾>
 勇気をもって忍耐してきた
                                                       黄秋月(ファンチーユェ)
 料理人の仕事だと聞かされていたのに
 日本人に連れていかれた時、私は十九歳でした。女性と男性の二人が私を連れて行ったのです。女性の名前は忘れましたが、日本人男性の名前は「タキさん」といいました。二人に呼び出された私たち台湾の少女は全部で十六人でした。学校に行けたので文字が読める少女たちもいましたけれど、そうでない少女たちは読めなかったのです。「あなたたちは看護婦の仕事をするのです」とおばさんに説明されました。「私たちは文字が読めないのに、どのようにして看護婦になることができるでしょうか」おばさんは私たちにこう答えました。「文字が分からなくても構いません。炊事はできるでしょう」。それを聞いて、私たちは「それでは、いっしょに行きます」と答えました。
 私たち十六人は台湾の高雄から出発したのです。1943年のその月日は忘れましたが、船の名前は覚えています。「浅間丸」といいました。浅間丸に半月ほど乗っていました。そして南洋のマカッサル(現インドネシア・スラウェシ島南部)という所に上陸しました。
 連れて行かれたところは軍人招待所でした。招待所に一週間いる間に空襲に遭ったのです。その空襲で私たちのうち三人が殺されて、十三人が生き残りました。そして、また別の船にニ、三日間乗せられました。その船の名前は覚えていません。今度は、バリクパパン(現インドネシア・カリマンタン島東南海岸)という所に着きました。
 バリクパパンに着いた時には、もう二人の日本人の態度は変わっていました。連れて行かれた家は椰子の葉で囲ってあり、部屋はどれも一畳くらいの広さしかありません。そして、みんな一緒の部屋に住むと思っていた私たちに、おばさんとタキさんは「一人ずつ別の部屋に入りなさい」と命令しました。タキさんは看板を掲げました。看板にはなんと書いてあったでしょうか?「マツノヤ」という名前でした。「兵隊慰安所」とも書いてあったのです。文字を知っている少女たちは、その看板を見て泣き出しました。あのとき、私たちは天に向かっても地に向かっても泣き叫びましたが、何も応えはありませんでした。

 「一日に三十五人」の命令  
 おばさんは私たち一人ひとりに「何名」と命令しました。皆さんは、「何名」という意味が分からないと思います。今日、「何名ずつ」という意味をお知らせしようと思います。あのときの日本政府はとても心が固い人たちでした。とても酷いやり方でした。一日に一人が五十人の日本軍兵士を相手にしなくてはならないと決めていたのです。私たちは「そんなことはとても出来ません」と訴えました。おしまいにタキさんは「では三十五人にしよう」と命令しました。私たち台湾の少女たちは皆処女で、とても若かったのです。十九歳の私がいちばん年長でした。そのとき、答えることも答えないことも、どちらも出来ませんでした。
 今日、私がこの証言をしなかったら、たぶん皆さんは、戦争がどれほど怖いものであるかが、分からないままになるでしょう。皆さんは聞いたことも見たこともないでしょう。あの大東亜戦争はとても恐ろしい戦争でした。こういうやり方で、年端もいかない私たちに強要したのです。私の身体は私の父母が産んだものです。そして、慈しみ育ててくださったのに、どうして日本政府の人たちによって、こんなに侮辱されなければならなかったのでしょうか。皆さんもお考えになってください。もし、あなた方の姉妹たち、あるいは娘たちが、他の国の人たちにこのように侮辱されたら、どう思われるでしょうか。
 最後にあばさんは、私たちに「忍耐しなさい。これは、国のことです」と言いました。私たちはどうすることも出来ず、そして忍耐して受けるしかなかったのです。一日三十何人も。そして、私たちはバリクパパンで国家に服務していたのです。そのうち、私はマラリアに罹りました。朝は寒気がし、昼になると反対に熱が高くなってとても苦しく熱かったのです。こういう状態の時でも、兵隊たちを受け入れなければなりませんでした。
 二年ほど経って二十一歳になっていたある日、「ヤマモトさん」という航空隊の隊長に出会いました。彼は私の番号の切符を買って部屋に入って来ると、私に「どうして泣いているのか」と聞きました。日本人の中にも良い方がおられます。このヤマモトさんのことを、私はいつまでも忘れられません。彼は心のとても良い正しい人でした。彼は私に聞きました。「一日何枚切符を出しているのですか」。私は、「おばさんが決めているのです。三十五枚です」と答えました。これを聞いてこの方は私のために心配しました。あまりにかわいそうだと。そして、私に手をさし延べて手助けしてくださったのです。「他のことは出来ないが、切符を一週間二十枚、私が買います」と。彼は二十七、八歳の人でした。彼は一週間に二十枚の切符を買いましたけれども、それはこの人の肉体の喜びのためではありませんでした。私を妹のように思って、私を手助けするため、切符を余計に買ってくださったのです。私はいつも、そこで泣いていました。そして、自殺しようと考えていました。ヤマモトさんは、私に「死んではいけません。勇気をもって生きていなさい」と励ましてくださいました。「勇気をもっていきていなさい。そして、無事に台湾に帰って父母に会いなさい」と言いました。
 そして、まもなく終戦になったのです。ヤマモトさんは、インドネシア政府に捕らえられました。私はヤマモトさんに面会を求めましたけれども、とうとう会えませんでした。その後、私たちは全員その土地を離れました。 

 日本に騙され、父母を偽り続けた苦しみ
 私はこのたび日本に参りましたが、これはほんとうに簡単なことではありません。こういうことに出遭って、いま私が思っていること、希望していることはどんなことか、お話ししたいと思います。
 皆さんもお聞きになって知っておられるかと思いますが、かつての日本政府はこんな状態でした。戦争当時、日本政府は中国政府を見下していました。いま台湾は台湾の政府が治めていますけれども、五十年前には日本に治められていました。日本が台湾を植民地にしていたのです。日本政府は私たち台湾人を、同じ人間としてではなく犬かあるいは猫のように見ていたのでしょう。
 終戦後、台湾で二・ニ八事件が起ったその時、私たちは台湾に帰り着いたのです。家に帰ってまもなく、父母は私に結婚するようにと勧めました。私は父母に対して、私の身に起こったことを話すことが出来ませんでした。私の横腹に、爆弾でやられた傷跡があります。爆弾を受けた時、私は失神してしまいました。目が覚めて、軍医が私に言いました。「あなたの卵巣を切り取ってしまわなければならない。爆弾の破片にやられて、そこはもう腐っているからだ」と。私は軍医に答えました。「どうぞ、良いようにしてください」と。私は台湾に帰った時、結婚を勧める父母に、慰安所に入れられていたことも傷を負ったことも打ち明けることができませんでした。
 私は日本の国に騙されました。そして台湾に帰ってから、今度は私が父母を騙しました。こういうことは、するべきことではありません。いま私は七十三歳になっています。十九歳の時から五十年間以上、私は忍耐してきました。五十年間私はこの苦しみを心の中にとどめていて、言い出すことが出来ませんでした。いま、私の父母はもうこの世にいません。父母は私のこの身体を産んでくださったのに、私は最後まで父母に対して黙っていた、騙していたのです。どうして私は父母を騙さなければならないのか、私は苦しみの中でよく考えました。夜になると、いつも頭の中がいっぱいです。これは、日本の政府が私を騙したその結果によるものだと思います。こういう苦しみは、皆さん、だれが忍耐できるでしょうか。いままで私はこういうことを誰にも話しませんでした。五十年間、このことを黙って心の中に置いていました。勇気をもって忍耐していたのです。
 三十歳を過ぎたとき、私は病気になったのです。そうしたら、父母が私に「あなたは何としても結婚しなければいけない。でなかったら、年を取ったとき誰に頼ることができましょうか」と言いました。そのとき私はじっくり考えました。ほんとうにそうです。病に罹ったとき、誰も私を見舞ってくれる人がいません。だからその時、初めて結婚することにしたのです。そして、中国大陸から来た人と結婚しました。でも夫に対しても、私は一言もこういう苦しみを話せませんでした。いつも苦しみを心の中に置いて生きてきました。十人分の命があっても足りないと思えるほど、忍耐力が必要でした。あのヤマモトさんが私に話してくださったこと、「蟻でさえ生命を尊ぶのに、私たちはどうだろうか。あなたは勇気をもって生きていなさい」と教えてくださった、この言葉を思い出します。そしてこの言葉を支えに、中国大陸の人と結婚したのです。

 日本の国家としてこの問題の解決を
 私が希望していることをお話ししたいと思います。第一に、日本政府がこの問題を解決してくれることを希望します。これは皆さん民衆のことではなくて、日本の国家のことです。私は日本の国家が、国家としてこの間違いを事実として承認すること、そして謝罪し、私のこの肉体と心の損失を補償してくれたらと思います。人民ではなく、国家が間違っていたのです。国家が間違ったときは、国家が出てきて解決しなければなりません。外国のいろいろな国家、アメリカも韓国も、あるいは中国も、どの国もこういうことはしていません。国としてこういう問題を解決しないのは、ほんとうに恥ずかしいことです。
 今日話しましたことは、一言の虚言、嘘はありません。私はほんとうに十九歳のとき、他の十五人の少女たちとともに騙されて連れて行かれ、そして酷い目に遭わされたのです。最後にもう一度言います。私の希望しているのは、日本の政府が表に出てきてこの問題を解決することです。そう願っています。国が、政府がこの問題を解決しない限り、日の丸は掲げることができないでしょう。掲げても、恥ずかしいことでしかありません。皆さん、このことをお考えになってください。今日はどうもありがとうございました。

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軍隊慰安所 元日本兵の証言 NO2

2019年08月15日 | 国際・政治

 終戦記念日の今日、与野党が談話を発表したことが伝えられました。
 与党自民党は
二度とわが国は戦争への道を歩まないと強く決意する。令和の時代も国民と共に、世界の平和と繁栄にたゆまぬ努力を続け、戦争のない、希望に満ちあふれた「平和国家日本」を次の時代に引き継ぐ
 であり、公明党は
”粘り強い対話によって多国間協調の実績を積み上げていくことが、憲法の恒久平和主義と国際協調主義の精神だ。平和のためにあらゆる分野で行動し、貢献していく
 とのことです。でも、大事なことは、”戦争への道を歩まないと強く決意”して、どう動くのかということではないかと思います。決意はしたけれど、軍事力を増強させたり、対立を深めるような政策をとっていては、その決意は何なのか、ということになります。
 また、公明党も”粘り強い対話によって多国間協調の実績を積み上げ…”というのですが、例えば、日韓の徴用工問題や輸出規制の問題関し”粘り強い対話”があったでしょうか。様々な国内問題でも、”粘り強い対話”が圧倒的に不足しているのではないでしょうか。

 下記の元日本兵の証言は、「性と侵略 [軍隊慰安所]84か所 元日本兵らの証言」「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告会集編集委員会(社会評論社)から抜粋したのですが、「慰安婦」情報電話の取り組みは、「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」京都集会実行委員会が呼びかけ、十一団体が参加して実現したといいます。貴重な取り組みだと思います。電話は132件あり、その内83件の「慰安婦」「慰安所」に関する情報が、「性と侵略 [軍隊慰安所]84か所 元日本兵らの証言」としてまとめられたということです。
 その結果、下記のような”問い”が課題として残ったといいます。
”① 証言を寄せた元日本兵の多くが、自分が侵略戦争に直接手をくだした加害者であるとの認識がないのはなぜなのか?
② 彼らが自らの「青春」の一ページとして侵略戦争を語るその感性の「貧しさ」はなになのか?
③ 1991年8月、金学順さんが日本軍に強制連行され「慰安婦」にさせられたとの証言をされて以来、日本のマスコミも連日この問題を取り上げ、彼ら(元日本兵)もその報道を知っているにもかかわらず、「慰安婦」「慰安所」を「思い出」として語るのはなぜなのか?
(④、⑤、略”)
 こうした”問い”は、”元日本兵”にかぎらず、戦後日本が問われている問題でもあると思います。
 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、わたしはずっとひっかかっています。”過ち”とは何なのか? 先の戦争で”過ち”として、日本人に共有されていることはあるのか、と。
 ドイツとちがって、戦後の日本は、東京裁判で連合国の裁きを受けただけで、自らは先の戦争に対する総括(反省)をしていないと思います。だから、国会においては、日本の戦争を正当化する発言がくり返されてきました。そして、今や憲法を守るべき政府が、公然と憲法改正の動きを主導しています。”過ち”が共有されていないばかりでなく、今や様々な”過ち”がなかったことにされようとしているのではないかと思います。政府の意向を受けて、教科書から「従軍慰安婦」や「強制連行」という言葉が削除されるということは、そうした流れを象徴しているのではないかと思います。
 
 ドイツは、ナチス時代の負の遺産を頑なに守り、過去の残虐な行為の記憶を風化させないように、様々な努力をしているといいます。先の戦争は、ヒトラー率いるナチス党が意図した戦争であったのに、それに国民全体がうまく乗せられ、協力したことを「恥」として反省をしているというのです。
 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」に関し、愛知県は14日、「県有施設等にガソリンを散布して着火する」などと書かれた脅迫メールが9日までに770通届いたと発表したことが報道されていますが、それは、戦争に対する、日本とドイツの姿勢のちがいを鮮明にしたのではないかと思います。特に日本には、政権中枢に、先の戦争に於ける加害責任を過小評価したり、なかったことにしたりしようとする姿勢が根強く存在するために、脅迫メールが送りつけられるような騒動に発展してしまうのだと思います。

 そういう意味では、戦後補償の考え方が、ドイツと日本で全く異なることも当然なのだろうと思います。

 下記のような、日本軍「慰安婦」の問題についての元日本兵の証言には、疑問に思うことも少なからずありますが、それでも、「慰安婦」が奴隷的状態に置かれていたことは、
(慰安婦の方は慰安所に住んでいたんですか?)そうそう、そう。ひとつ部屋をもらっているわけや。そっから外へ一歩も出られないわけやね。(監禁されて?)そうそう。
や、また
(一日にどれくらいの人間が、利用したかっていうのは?)わからんけど、昼間は兵隊でね。夜は下士官や将校が相手なんですわ。そやから寝不足やね。彼女らもね。だからその、一回その、うつらうつら寝てしまった子がおったわね。日本人で。そやから起こすのがかわいそうやなあと思って、寝かしといたんやけどね。そのままね。
 (そういう形で慰安所がやられていたんでしたら、一日中客が来ていたと?)それはそうやね。もう一日中やね。
という部分から察せられます。似たような証言は、数多くあるのです。だから、日本軍「慰安婦」の問題が国際法違反の戦争犯罪であったことは否定できないと思います。
 にもかかわらず、日本軍「慰安婦」の問題を、デマに基づく政治的プロパガンダであるとして、中止を要求するような脅迫メールが、愛知県には770通もあったというのです。
 それが、政権与党が”戦争への道を歩まないと強く決意”した国の現実であることを、見逃すことができません。
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証言47
 場所…No49・中国/漢口
    No50・同右/武昌
    No48・同右/九江
 年代…1941
 証言者…77歳/男/京都府
     電信ニ連隊から船舶通信隊通信兵

● ─── 漢口・武昌にも朝鮮人の慰安所が
 慰安婦の問題で、ちょっと今日新聞で見たもんですから。よろしいか。
 (当時所属していた部隊は?)船舶通信隊。広島の電信ニ連隊から教育受けて、船舶通信隊へ派遣された。当時、東京の中野に電信一連帯があって、広島には電信ニ連隊と、ふたつだけが電信隊だった。
 あのねえ。ぼくはあの、1941年にね、昭和16年、ハンカオ(漢口)におったんです。その漢口のコウカンロという道にね。揚子江の江に漢口の漢に路ですね。江漢路のセッケイリ(積慶里)ちゅう所があったんですわ。セッケイリちゅうのは、どういう字を書くのか、ぼくはちょっと覚えてないんですけどね。
 そこにその、日本と、その朝鮮の遊郭みたいなのがあったんですよ。もうひとつ、離れて、中国人専門のところがあったんですよ。それがセッケイリ(積慶里)ちゅうのか、もうひとつがセッケイリちゅうのか、そういうふうになってたんですわ。
 それで、中国人の所は一本の道の右っかわに、四、五軒あって、日本人と朝鮮人の所は十何軒あったか覚えてないんだけども、そのくらいあったんですわ。そういうことがあるんです。
 それから、漢口の揚子江の向かい側ににね、武昌という町があるんです。武昌っちゅう町もね、コウカクロウ(黄鶴楼)っちゅう、有名なね。黄の鶴の楼と書くね、有名な建物があるんですわ。そこの近くにね、やっぱり朝鮮の慰安所があったんです。
 (遊郭ではなくて、こちらは慰安所ですか?)慰安所です。こうずっと離れて、あったんですけどね。ちょっとくわしい話しましょうか。
 ぼくは、船舶通信兵でな。船の通信兵ですわ。御用船なんかの通信をやるわけでね。各停泊所があって、そこの通信をやってたわけですわ。それで、その、昭和16年の1941年の五月に漢口へ行ってね。それから、しばらく漢口におったんですけどね。それから独ソ戦が始まりますわね。
 それからしばらくしてね。こんどは、ある日、専門の通信兵じゃない。軍属の通信兵がね、岳州へ。
岳州で、古い昔から岳陽楼ちゅう所がありましてね。行くっていうんでね。赴任するっていうんで、その軍属を送っていったんですよ。あの、それは、武昌から岳州まで鉄道がついてるんです。その武昌へぼくとある 軍属がね。その〇〇さんちゅう人を送っていったんです。その武昌の停留所から岳州まで。で、その帰りにね。その軍属がぼくをかわがってくれててね。中年のおじさんですけどね。機帆船の機関士やってたんですわ。その人がその、黄鶴楼のそこへ、おごってくれたんですわ。連れて行ってくれたわけですよ。

● ─── 朝鮮の女の子の年が十六、七
 ところがね、そこにおった朝鮮の女の子っちゅうのが、とっても若くてね。年が十六、七ぐらいかね。みんなじゃないんだけどね。ぼくの所へ来た子がね。そんなんで、全然そういう気がおこらんわけですわ。
 もうそれでね、もう、何もしないで帰ろうと思ったらね、そういうことは女の子のほうで困るらしいんだね。ぼくは自分は金出してないんで。軍属の人におごってもらってるんで、金返してくれとか、そんなことは言うつもりはないんだけどね。そういうこと、女の人にとっては困るらしいんだねえ。
 あとで怒られるか、なんか。うん。そういうことがあるらしいんですよ。どういう事情で、その、くわしいことは知らんけどね。ぼくらにはわからんけどね。

● ─── 九江にも三軒ほどあったんです。
 あちこちにね、そういう朝鮮人の慰安所があったことは事実なんでね。そして、それを否定するなんていうことは、けしからんことやしね。それから、あの、ぼくはまたあっちこっち、この作戦で、じっと漢口にばかりおれなかってね。翌年にね、九江いうところへ行ってね。蘆山のみえる九江ね。揚子江の沿岸にあるわけですよ。漢口から、こっちから、手前になるわけですね。
 九江にもね。そういうその、遊郭みたいなひとかたまりじゃないけどね。ぽつんぽつんとね、三軒ほどあったんです。それは中国人の分は全然ありませんでね、朝鮮人だけのがひとつと。日本人ばかりのが、ふたつほど、点々とあったように思う。
 (慰安所っていうのは、どのようにして呼ばれていたんですか?)それはね「慰安所」と。「朝鮮ピー」。あの慰安所に働いている人をね、「朝鮮ピー」と。「ピー」っちゅうのはどういう意味かしらんけどねえ。朝鮮の「慰安婦」という意味のことを、いうんやね。そういうふうに。
 深い事情はわからないけど、(慰安所が)あったということはね、これはもう、はっきりとね。戦争に行ったもんで知らんもんはない。知らんちゅうのは、全くのうそでね。そんなばかなことはない。

● ─── 戦争負けるの待っていた
 ぼく自身はね、反戦運動やってね。戦前に、長い間。日本の人民戦線運動でね。牢獄へ入った人間ですからね。ほんで牢獄へ入ったとたんに召集令状が来たんですわ。牢獄へ入っとるんで、召集令状を免れたわけ。ところが、二回目は、ぼくを釈放してすぐに召集令状をかけてきたわけですわ。
 (意図的にですか?)ええ。ノモンハン事件の時にね。ぼくが1939年に、昭和14年の七月に釈放されて牢獄から出て二週間目に、召集令状かけてきてね。そして、三週間目に広島の電信ニ連帯へいったわけです。むこうは計画的にぼくを釈放して召集令状をかけたいうところやね。?
 (牢獄へ入れられたというのはいつごろの話ですか?)それはね、昭和12年の事変が始まるね、日華事変、盧溝橋事件が始まる直前の五月の十九日にやられて。80日間入っとってね。それで未決拘留所に八か月入っててね。今でもある、裁判するまでの拘置所。それで二年の懲役で。180日間の未決拘留所が引かれるわけですわ。しやから、一年半入っとったわけです。堺のほうで。実刑判決で、執行猶予なしで。そして、こんど軍隊に入ったからね。だから憲兵の要注意者なんですよ。どこへ行っても憲兵があとからついてくるんだ。
 (反戦運動というのは組織的に?)そら組織的に。共産党やらね、みなと連絡とって、やっとったんです。だから、それまでに警察に何回も何回もひっぱられてる。
 ぼくはずっと戦争負けるのを待っとったんやからね。あの、だから、なんとか、負けるのを待って生き延びたいとは思っとったから。
 だから、九江から。つまり、ガダルカナルで負けとるでしょ。ガダルカナル要員として、日本帰ってくるわけです。宇品にぼくらの部隊の本部があってね。ぼくはガダルカナルへ行かずにね、宇品に残ったんです。宇品で召集解除になって、家へ帰るんだけどね。また敗戦の年、三月二十五日に、召集をくらうわけですよ。三回目の招集やね。それで広島で原爆にあう。

● ─── 一軒に六、七人から十人
 (慰安所に女の人はどれくらいいましたか?)さあねえ、一軒に六、七人から十人くらいはおったんちがうかな。それくらいじゃないかと思うけど。
 (建物は?)ふつうの建物でね。漢口なんかはね、そういう普通の家でね。それで小さい部屋があって、たたみが敷いてあってね。
 (たたみというと日本式の家だったんですか?)日本式のね、つくってある、ふとんもあるわね。
 (朝鮮人の「慰安婦」はどのような服装をしていたんですか?)服装はよく覚えんのやけど、ふつうの洋服みたいなのを着ておったんじゃないかと思うけどね。よくわからん。着物着とった者もおったかもわからんしね。
 (食事は?)わからん。ええ。
 (検診は?)ああ、それはね、ちゃんとやってましたよ。軍が。軍がやるんですよ。病気をね、検査するわけだ。性病の検査を。そしたら、中国人の「慰安婦」がね、検査から帰ってくるわけやね。そして「よし」って言われたら喜ぶわけやね。病気がなかったから。軍医が「よし」っちゅうて帰らしてくれると、ものすごい喜ぶわけ。病気がなかったからっていうことで。だから、軍医がみな調べとった。だから、ほんな 軍医はみな知っとりますよ。
 (「よし」と言われなかった人は?)それは、病院に。(軍の病院に?)そうだろうねえ。

● ─── 「性病の兵隊は日本へ帰れない」と
 それから、その、広島へ帰ってくるときにね、似島っちゅう島があるんですわ。広島のその港のそばに。港外にね。原爆の被爆者がそこでたくさん死んだっちゅうね。収容されて。
 そこは、陸軍の検疫所なんですよ。で、そこへ帰って、必ず中国から帰った日本の兵隊は、そこの病院で検査を受けるわけですよ。で、悪性の性病にかかっていたら、まだもどされるっちゅうてね。(中国にですか?)もう日本に入れないと。つまり、今のエイズみたいなもんや。そういうその、ことを非常に神経質に考えてて、水際で。
 だから、「悪性の、その性病にかかったもんは日本へ帰ってもまた似島から送り返される」っちゅううわさが出てたくらいでね。そやからその、非常に兵隊もそういう点では神経質になっとった。性病についてはね。そやけど、そんな制度っちゅうのはなかったけども。ひどい性病なんかにかかると、日本へ帰れないっちゅうような状態やったね。それを検疫するのが似島の検疫所で。
 (日本が敗戦して、そのあとでどうなったかというのは、わかりますか?)いや、ぼくはわからん。昭和17年のね、11月に、日本へ帰ってきたからね。

● ─── もう、一日中やね
 (慰安婦の方は慰安所に住んでいたんですか?)そうそう、そう。ひとつ部屋をもらっているわけや。そっから外へ一歩も出られないわけやね。(監禁されて?)そうそう。
 (慰安所を経営管理していたのは、どういう所なんでしょう?)それがね、ボスがやっとったんかね、軍がやっとったんかね。そういうことはぼくらにはわからんわけやね。
 (利用していた人は、一日どれくらいいたでしょうか。よく並んで待っている写真とか……)それはなかったね。(並んでいたわけじゃなくて……?)うん。
 漢口でもね、九江でもね、武昌でもね、まあぼくらは見なかったね。それは全然ぼくは見たことない。そういうことをよく聞くけどね。実際にそれを目撃したことはないね。よほどの、戦争のいちばん……。
 後方やからね、漢口やとかはね。一応おさまってるところやからね。そういうところではなかったね。
 (一日にどれくらいの人間が、利用したかっていうのは?)わからんけど、昼間は兵隊でね。夜は
や下士官や将校が相手なんですわ。そやから寝不足やね。彼女らもね。だからその、一回その、うつらうつら寝てしまった子がおったわね。日本人で。そやから起こすのがかわいそうやなあと思って、寝かしといたんやけどね。そのままね。
 (そういう形で慰安所がやられていたんでしたら、一日中客が来ていたと?)それはそうやね。もう一日中やね。
 (そのなかでも昼は兵隊が行って、夜に将校が行って……?)そうそう、そう。兵隊の外出時間というのはもうあの、夕食の三十分前と決まっとるからね。それよりもちょっとでもおくれたら営倉へ入らんならんからね。大騒ぎ。もう脱走兵扱いになるからね。だからもう、こわくて、遅れて帰るっちゅうような気にならんわけや。
 外出時間はものすごくきびしいからね。まあ、朝十一時ごろから出て、十時か十一時ごろ出てね。おそくとも四時半ぐらいにはもう、帰らなきゃならんからね。もう時間の制限があるもんだからね。
 (慰安所を利用する場合は、お金を払って利用していたんですか?)うん。そうやね。(遊郭じゃなくて慰安所の場合も?)うん。みな同じ。
 (直接「慰安婦」の方にお金を払って?)そうやね。
 (だいたいどれくらいのお金を?)二円くらい。(二円を直接はらって?)そうそう。兵隊の給料ちゅうもんがね、もうほんとに安いもんやからね。
 どれくらいやったか覚えてないけど、五、六円やったんやないかなあ(月にですか?)ええ。
 だからそんなに南海も行けるわけがないわね。兵隊は。ほんでまた、外出も月に二回ぐらいしかないからね。毎週毎週というわけにはいかんから。交代やから。

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軍隊慰安所 元日本兵の証言 NO1

2019年08月13日 | 国際・政治

 日本はかつて、世界の平和を脅かす「軍国主義」の国として受け止められていたと思います。そして、今また日本はそうした非難を受ける国になろうとしているのではないかと心配です。

 先日、北方領土のロシア人住民と日本人の元島民らが相互に往来する「ビザなし交流」の日本側訪問団に同行した丸山議員が、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」などと質問し、「戦争はすべきではない」と答えた団長に対し「戦争しないとどうしようもなくないですか」等と発言したことが報道されて驚いたのですが、それ以上に驚いたのが、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の展示に対し、大阪府の知事が、「愛知県知事は、自らの公権力を行使し、一方的に反日政治活動を後押し、慰安婦像の設置、天皇の写真をバーナーで焼き、踏みつける映像を展示。公共として責任問題にならない方がおかしいと思う」と発言し、少女像などの展示は「反日プロパガンダ」だと指摘したことです。この指摘からは、考え方や感じ方の違いを、事実に基づいて、話し合いによって乗り越えるという民主主義の精神が全く感じられません。

 また、河村名古屋市長の「日本人の心を踏みにじる」とか、松井大阪市長の「表現の自由とはいえ、たんなる誹謗中傷的な作品展示はふさわしくない。慰安婦はデマ」という発言も、丸山議員の戦争発言とそれほど変わらないものではないかと思います。「日本人の心を踏みにじる」とはどういうことでしょうか。「慰安婦はデマ」という言葉で、何を訴えようというのでしょうか。地方行政のトップが、こうした感情的な言葉で、国家の対立を煽るような発言をすることは、日本が、新たな戦争国家への道を進み始めていることを示しているのではないかと思います。

 国連人権委員会から二度にわたって勧告を受け、国際法律家委員会(ICJ)からも勧告を受けている日本軍「慰安婦」の問題を、一方的に完全否定するようなこうした言動は、丸山議員の戦争発言と変わらないのではないかと、私は思います。
 勧告を受け入れられないのであれば、堂々と国際社会に向かって、話し合いを要求し、その根拠を示して勧告の取り下げを訴えるのが筋ではないでしょうか。
 相手を理解しようとせず、また、相手に理解してもらおうとしないで、勢いや力で自分の思うことを実現しようとすることが、戦争への道につながるのだろうと、私は思っています。

 また、日本政府による韓国に対する輸出規制の問題も、相互理解を無視し、韓国の急所を突く力ずくの政策であると思います。そういう意味では、武力をともなわない戦争がすでに始まっているような気がします。 

 下記は、「性と侵略 [軍隊慰安所]84か所 元日本兵らの証言」「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告会集編集委員会(社会評論社)から抜粋したのですが、慰安所を利用した元日本兵の証言は、元慰安婦の証言が「嘘」ではないことを示していると思います。
 方言混じりの会話を、そのまま文章にしたようなので、少々分かりにくい部分もありますが、証言(1)のいやおうなしですわねえ」などという言葉が、望まない性行為を強要されていたことを明らかにしていると思います。また、「すべてが監視つきいうことで、相当窮屈なことは窮屈でしたやろなあ。それとまあ、第一、体がもちませんわ。もう、休みの日、ほとんど二十人近く相手にするんですからあね、ひとりが」という言葉や証言(39)のほんで、その着るもん、いらへんもん。慰安所っていうのは着るもんいらへんわけや。そうでしょ。あんまり、外歩くんとちがうから。みな、内らにおるのやから。みな、監視されてるんやからね。外へ出られへんもん。そうでしょ」という言葉が、慰安婦が奴隷的状態に置かれていたことを示していると思います。そして、それは国際法違反の戦争犯罪なのです。
 大阪府知事や大阪市長、名古屋市長には、戦時中の事実を直視し、冷静で建設的な対応をしてほしいと思います。

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 証言(1)
 場所…No5・偽満州国/勃利
 年代…1944~1945
 証言者…68歳/男/大阪府
 満州国第五軍隷下六〇六部隊
 兵技兵(代用衛生兵)/一等兵

● ─── 14、5名の韓国の慰安婦の人がひきあげて
 私あの、今の黒竜江省やと思いますけど、前の東安省の勃利(ボツリ)にね、軍隊で行きました。昭和19年の、だいたい暮でしたね。10月以降でしたねえ。それから、私が勃利におったのが、20年の3月ごろまでですからね。その間です。
 (部隊は?)満州の第五軍隷下。シンガポールの山下本部が、終わって満州へ引き揚げて来て。その隷下ですわ。部隊は六〇六部隊です。(階級は?)私は一等兵ですわ。歩兵ちゃいまっせ。技術兵やから。兵技兵。兵隊の兵に技術の技。(年齢は?)68歳、満で。
 あのね、黒竜江省のね、勃利というところですわ。駐屯地がそこでね。私の知っている範囲で、だいたい十四、五名の韓国の慰安婦の人がおられました。(全部韓国の方ですか?)はい。
(慰安婦の方の年齢は?)だいたい、はたち前後ですねえ。名前はおぼえてませんけどねえ。名前はもう、ほとんど日本名にかえておられましたからねえ。
 それと、日本人の慰安婦の方が五名ぐらいいてたですよね。韓国人と日本人のなにはもう、別のところなんですけどね(日本人の慰安所は?)勃利の町のなかにあって、建物が別で。慰安所はね。
 ほいでまあ、確かにあの、たいへんな、あの、状態であったことは事実ですね。ええ。
 私らはまああの、初年兵やったんでね。そういうなに、まああの、一期の検閲が終わった時にはあの、一、二回行きましたけどね。ちょうどあの、慰安所はね、映画館みたいにね、入口が木戸口になってますねん。そこであの、とにかくあの、お金、あの当時確か五円やったと思いますけどね。五円、あの、木戸口、映画館のなにみたいな所へ、出してね、切符をもらうわけですわ。切符をもらって奥へ入っていきますと、部屋がね、各部屋が十五、六ほどあったでしょうな。

● ─── 相当な疲労だったと思いますわ
 もうその十五、六も、正直言ってね、(慰安所が)そこだけですので、勃利には部隊がようけありましたんで、ひとつの部屋の前に、だいたい五、六人から七、八人並んでますねん。
 そいでもう、そんな状態で私も入ったんですけど。ほんとに、朝の九時になってから外出するわけですけど、昼前にはね、「もうすでに何人かなにした」言うてね。慰安婦の方もほんまに、ただもう。
 慰安婦の方に切符をわたすわけですわ。その切符をね、「今日はこんだけや」言うて、よう勘定しておられたんですけどね。
 そういうような状態で。ほんであの、ま、ほとんど、休むのが日曜日が主なんですけどね。そういうことで、ほんとにあの、あれだけの部隊の人間のなにをやっていくんですからね。相当な疲労だったと思いますわな。
 一日に何人くらい受け持たれるかということですか。まあ、そうですな。部隊の帰営まででしたら、だいたい二十人ぐらいするんじゃないですか。
 部隊は全部山のほうにあるんですから。であの、外出の時、約四キロ離れた町のほうへ行くわけですわ。そこで、中央に一か所、そういうなにがあってね。

● ─── 軍医が毎週検査に行くわけです
 (慰安所の経営は)軍隊になってます。なぜ私がそれを言うかいうたら、私は衛生知識もないのにね、「衛生兵が足らん」いうて、衛生兵にさせられましてん。「代用衛生兵になれ」いうてね。
 ほいであの、毎週、各部隊の軍医が衛生准尉将校一名とそれから衛生兵がついて、あのなに、慰安所へ検査に行くわけですわ。そういうなんで、ちょっと知ってましたんで。軍隊の経営なんです。
 それであの、日本人のなには、下士官の人とか将校連中でないと入れませんのでね。
 検査いうてもね、ほとんど軍医がさせるわけで、私らはもう、ただ軍医のかばん持って行ってるだけです。軍隊のなんで、検査してね。ほいでまあ、仮にあの、病気のある時はもう、それはできませんからな。そういう検査で。検査する時は私は部屋の中へ入られしませんねん。私はもう、表で軍医のかばん持ってね、待ってるだけで。
(慰安所の名前は?)ちょっとわかりませんなあ。
(五円は)現金です。それはもう、あの、満州の金ですわ。満州の貨幣で。日本の給料でもらうんですけど。向こうに換算して。向こうの給料一か月なんぼ、というあれで。   
 それとね、中国人のなにもあったんですけど、それはもう、ほとんど立ち入り禁止になってましたから。
 (韓国人慰安婦の服装は?)服はね、韓国人の服着てる人は少なかったです。ほとんどあの、日本の着物着たりね。はいからあの、日本で着るような服ね。韓国の服は、ほとんど着てはるのは見たことないですけどね。
 そやけど、韓国人やいうのは、知ってました。あの、なに、本人がやっぱり、言いますもん。それで、あそこはやっぱり、先輩から「あそこは全部朝鮮人のなにや」いうて、先輩から聞いてますからね。「日本人のやつはあるけど、おまえら兵隊さんには行かれへんで」いうことになってましたからね。

● ─── 「食事する間がない」と
 (慰安婦の人たちが話していたことは?)あのもう、話いうたってね。もう、ほとんどあきらめムードいうような形ですねえ。そんなような状態で。「兵隊さんも朝からもうこんだけよ」言うて、切符をね、勘定して見せてくれたりね。
 ほいで、衛生的にはほんとに、だめですよね。あの、きちっと洗浄する所もなし。ほとんど自分の部屋に、もうずうっと自分でなにして、洗浄するというような状態でね。もうほとんどもう、あの、「食事をする間がない」いうて、言うてましたわ。
 食事は、まあまあの、日本のまあ、白米いうとこまではいきませんけどね。なに、おかゆさんのようなものを食べてたり、ほとんどまあ、副食では、じゃがいもがほとんどですね。
 (検診の様子は?)このときはもう、軍医がかってに見られてね。ほいでまあ、あの、「これはいい」と。それで、名札が下がってますねんね、部屋の前に。女の子の名前がかかっていてて、ほいで、軍医が出てきて病気やったら名札を裏返しにしますねん。ほいだら赤になってますからね。そういうようななにで。ほいで、私らには、その状態はわかりません。軍医だけがね、チェックして、なにするだけです。
 もう、慰安婦の人はもう、とにかくあの、いやおうなしですわねえ、券を渡されたら。券を渡されたらいやおうなしで。うるさいのは外に待っている兵隊ですねん。「こら、いつまでなにしとんねん」とかね。ええ、だからもう慰安婦の人は、ほんまに券をわたされたらいやおうなしですね。もうしんどいからとかなんとかなしに。はい。
 そこはあの、民間の人らは入られしませんねん。軍隊の服着てるもんしか、入口でお金出して券もらうことは、民間の人は、ふつう一般の人は絶対行かせない。

● ─── 終戦後は難儀してるんじゃないですか
 (慰安婦の人の)終戦後はちょっとわかりませんねん。終戦後は、わたしら、シベリアへ連れていかれたんでね。だからもう、戦後どういうふうになったかいうのはね。ただあの、なに、慰安婦やなしに、満州開拓のね、戦災孤児ね、あれは私ら、よう知ってますけどね。それには遭遇したこと、何回もありますけどね。慰安婦の人はどういうふうになったか、戦後。私らは勃利を三月に移動して、終戦になったのは奉天ですのでね。
 おそらく、たいてい、あの、慰安婦の人、相当殺されたんじゃないかなあと、ただそれだけですわ。私らもう、三月以降わかりませんでねえ。在満の人が殺された以上に、やっぱり慰安婦の人は難儀してるんじゃないですか。ただあの、日本の人より、その時は、終戦の時は、韓国人やいうので、日本人よりはある程度被害も少なかったかもしれませんけどね。そういうのは、日本人とちがう、朝鮮人やいうのでいけばね。それはもう、わかりません。想像で。はっきりしたことはわかりません。

● ─── すべてが監視つき
 あとなに、日曜日以外ね、自分の買い物したり、町へ出る言うてましたけど。町へ出ても、それをなに、ある程度、監視つきですよってね。
 すべてが監視つきいうことで、相当窮屈なことは窮屈でしたやろなあ。それとまあ、第一、体がもちませんわ。もう、休みの日、ほとんど二十人近く相手にするんですからあね、ひとりが。
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証言(39)
 場所…No45・中国/南京付近の第一線
 年代…1940~1945
 証言者…72歳/男/三重県
     京都十五師団歩兵連隊
     階級不明
● ─── 第一線のどこへ行っても
 あのね、私は三重県に住む72歳の男です。昔ね、15年の12月に中支にわたって、いろいろと。(師団は)京都師団よ。三重県やから。十五師団。十六師団の予備のね。戦争があると、予備の師団ができるわけ。みな京都部隊団、本部は京都。そのね、連隊でもいろいろあるわけ。歩兵部隊やからね。我々は、第一線の戦闘部隊やからね。その生き残りだからね。そういう人間が、ようけおらんのやからね。んでねえ、亡き戦友の慰霊祭、また供養を、年に何回か、夏やってるわけ。
 慰安婦の問題やね? 我々は南京近くにおったけれども、第一線のどこへ行っても、慰安婦というのはあるわけやねえ。
 でまあ、50~60人がいっぺんに、三、四人くらいの慰安婦がおるところに行って、順番待ちして、交替して、ずうーっと慰安婦を買うわけやねえ。
 我々はだいたい第一線に行くと、日本人、韓国人、ねえ、中国人、そうでしょ。だいたい慰安婦いうたら、みなこれですわ。現地では。
 (料金は?)しれてるよ。しれてるわ。ねえ。我々、その時分、みなね。ま、中国におれば、中国では、その、軍票やね。日本の金で軍票というやつやなあ。これでいくわけ。
 これ、いっぺん行って、まあいうたら、その時分二十五円もらってる。二十五円もらっとって、だいたいまあ、二円五十銭か三円ぐらいやね。それくらいで、行けるわけ。そのかわり、たいへんよ。こっちも。たばこが六銭、七銭、その時分のことやからねえ。   
 二十五円。これがまあ、あの、中国における時分の軍票いうてね。向こうでは使える紙やね。(じゃ、日本へ帰ってきてからは、使えないお金だったんですか?)うん。
 そんなもんね。何十人も並んでね、順番待ち。ね。「早くすましてくれ」と。こういうことで、我々は、ま、慰安婦というものを相手に、いろいろやってきましたわな。
 (お金は直接本人に?)いやあ、本人に払うわけやない。親方がおるもん。 
 (親方というのは?)どういう人かっていうのは。もう、内地にでも、そういうね、慰安所というものがあったわけ。赤線区域ってね。そこの親方といっしょや。
 それで、この娘、その娘っていうわけや。だれそれさん、だれそれさんって言うて、その女性が出てくるわけ。んな、我々でも行ってると、顔なじみになってしまうわけ。

● ─── 第一線にどんどん送りこんでくる
 (場所は?)南京の近くやねえ。(地名はわかりますか?)なんぼでもあんのやから。
 それは、我々は、あっちこっち移動するからね。第一線でね、その南京を守ってんのやから。南京の周辺の、小さい、まあいうたら、町、やね。そういうとこへ駐屯するわけ。そういうところへ、みな、慰安婦をね、どんどん、どんどん、送りこんでくるわけ。他方からね。
 それで、その番小屋みたいなね、むしろ囲いをしたようなところで、そういうことをするわけ。そんなん、大きな家とつがうよ。もう、むしろで、むしろ、わかる? むしろで囲いして、そこで遊ぶようにしてあるわけ。まともに、トイレもあらへんよ。「そういうところで、第一線やからね。
 まあ、我々はそういうところで、慰安婦を買うてるわけ。
 そら、町、南京とかそういうとこ行けば、ふつうのちゃんとした慰安所っていうようになるわけやね。これはもう、憲兵がとりしまったりいろいろして。

● ─── 監視されてるんやからね
 (女性たちのことは、なんと呼んでいらっしゃいました?)ああ、それはね、慰安婦のことはね、我々は「朝鮮ピー」とかね。ま、あの、そうやね。だいたいまあ、私はもう、昔のことやから「朝鮮」「朝鮮」と言うわけやね。それで、「朝鮮ピー」と、こう言うわけ。中国では「ピー」って言われるね。
 日本人でも、第一線までみな来てんのは、これはもう慰安婦やからね。
 ま、だいたい韓国が多いわけ。とにかく、朝鮮が多いわけや。服装っていうのはね。今の民族衣装ってものはないわね。中国人は中国服ね。
 ほんで、その着るもん、いらへんもん。慰安所っていうのは着るもんいらへんわけや。そうでしょ。あんまり、外歩くんとちがうから。みな、内らにおるのやから。みな、監視されてるんやからね。外へ出られへんもん。そうでしょ。

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日本軍「慰安婦」に関する元日本軍兵士の証言

2019年08月08日 | 国際・政治

 以前、日韓外相会談で慰安婦問題の解決に合意した時、安倍晋三首相は、官邸で記者団に下記のようなことを語ったといいます。

先ほど朴槿恵大統領と電話で会談を行い、合意を確認致しました。今年は戦後70年の年にあたります。8月の首相談話で申し上げてきた通り、われわれは歴代の内閣が表明してきた通り、反省とお詫びの気持ちを表明してきた。その思いに今後も揺るぎありません。
 その上で、私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない。今回、その決意を実行に移すための合意でした。この問題を次の世代に決して引き継がせてはならない。最終的、不可逆的な解決を70年目の節目にすることができた。今を生きる世代の責任を果たすことができたと考えています。

 私は、元日本軍「慰安婦」の方々に直接向き合うことなく、”最終的、不可逆的な解決”などという言葉を使ったこの日韓合意そのものに多くの疑問を感じているのですが、今回、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となったことにかかわって、大阪府の吉村知事が、定例記者会見で、この国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会会長を務める愛知県の大村知事について「辞職相当だと思う」などと述べた、ということにほんとうに驚きました。
 吉村知事は会見で、少女像などの展示について「反日プロパガンダ」だと指摘し、「愛知県がこの表現行為をしているととられても仕方ない」と述べ、公共イベントでの展示は問題だとの認識を示したというのです。私は、「辞職相当」は吉村知事のほうではないかと思います。
 また、日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長も、展示された少女像を「表現の自由とはいえ、事実とあまりに懸け離れている単なる誹謗(ひぼう)中傷的な作品」と批判し、「強制連行された慰安婦はいません。あの像は強制連行され、拉致監禁されて性奴隷として扱われた慰安婦を象徴するもので、それは全くのデマだと思っている」と、持論を展開したことが伝えられています。韓国のみならず、中国(台湾)、フィリピン、インドネシアなどに多くの「性奴隷」と判断される証言があるにもかかわらず、”全くのデマ”という根拠は何でしょうか。
 さらに、名古屋市の河村市長も、少女像の展示について「どう考えても日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」と要請したことが伝えられています。そればかりでなく、河村市長は、企画展に対するインターネットを利用した批判や、主催者側への抗議の電話が相次いだことについて「それこそ表現の自由じゃないですか。自分の思ったことを堂々と言えばいい」と企画展そのものに対する圧力を、表現の自由の問題として論じていることに、驚きました。
 こうした知事や市長の日本軍「慰安婦」に対する認識が、国際社会で受け入れらるものでないことは、あらためて言うまでもないことだと思います。


 歴史の事実を直視し、日本軍「慰安婦」の問題が、国際法違反の戦争犯罪であったことを認めて、公式謝罪と法的賠償をしないかぎり、日本の”恥”は、いつまでも、過去のものにならず、”私たちの子や孫、その先の世代の子供たち”が、恥ずかしい争いを続けることになるのだと思います。厖大な軍の資料を焼却処分したり、非公開扱いにしたりしながら、元日本軍「慰安婦」の証言を無視し、力ずくで日本軍「慰安婦」の問題をなかったことにするような姿勢は、国際社会では決して受け入れられないことを知るべきだと思います。

 日本軍「慰安婦」の問題の歴史的事実を客観的に理解する一助になると思い、「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」西野留美子(明石書店)から、「ある告白」の一部と、「十七年間の果てに」の全文を抜粋しておくことにしました。

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                    1 証言からたどる従軍慰安婦

                         ある告白

 ・・・
 

── 私の、いわば恥部に当たるこの話は、本当はしたくありませんし、したこともありません。けれども、慰安婦であった朝鮮人女性が、ありのままの事実を言えば個人の恥となり、民族の恥とばかりに故郷から締めだされる現実の重さに比べれば、私の告白などちっぽけなものです。──

 田中博さんは、そうつぶやいた。

── 1943年3月、私は応召され、五月初め頃から南京城門警備に当たりました。鵄第三〇六五部隊です。
 南京城門警備に平穏な日々が続いて、休日に外出が許可されるようになりました。外出は必ず二名以上が一組になり、単独行動は一切許されません。大部分の兵隊が、二人一組で市内にある慰安所に行きました。私が行った慰安所は、中国風の石積みの建物でした。そこには、中国人の慰安婦がいました。
 部隊では、相当数の兵隊が、南京周辺の「掃討作戦」にでかけていきましたが、そのとき手にした貴重品や法幣(紙幣)を「徴発」して持ち帰り、これを慰安婦に与えて、モテようとしたこともありました。
 1937年から1943年のあいだに、私は満鉄ハルピン鉄道局に勤めた時期があります。私はハルピンの”朝鮮ピー”の女とも、”エミグラント(白系ロシア人)”の女とも金を支払って関係しました。また、旅行先の奉天で”朝鮮ピー”を買ったこともあります。
 当時、独身者であった私には、それは、セックスを処理するためのごく普通のことでした。それは、公認、黙認の制度でした。ですから、それが女性にとって苦界であり、屈辱であり、金銭による暴力であることや体制の覇権主義によって仕かけられた罠であったことなど、当時は理解することはできませんでした。
 奉天の慰安所に行ったときのことです。「つとめ」を果たした”朝鮮ピー”が、終わってすぐに腹痛を訴え、苦しみだしたことがありました。私は驚いて女の腹をさすり、胸をさすり、なんとか治るように、身振り手ぶりで話しかけました。女は、たどたどしい日本語で喜びました。”朝鮮ピー”になって間もなかったのではないかと思います。私の心配が伝わったのか、帰るとき玄関まで送ってくれました。
 いくたびかの経験のなかで、このことが、今も心に残っております。──

「なぜ今さら、慰安婦のことばかりとりたてて問題にするのですか。私たち日本軍の兵士だって一銭五厘の強制連行ですよ。行きたくて行ったわけじゃない。殺したくて人殺しをしたわけじゃない。我々の仲間は大勢死んでいる。人権もへったくれもない軍隊生活のなかで、お国のためにと奪われたのが、人間であることだったのですよ。慰安所は、そうした荒んだ兵士に残された唯一の人間であることを回復する場だった。私は、彼女たちに感謝しています」
 ある老境に入った元兵士は、顔を強ばらせて言った。「感謝している」ことで、従軍慰安婦を正当化しようとする彼は、あくまでも兵士の立場から「慰安婦」を見ていた。彼の話から、かれが接した女性たちの、人間として女性としての誇りを、そして彼女たちの祖国の尊厳を、少なくとも自分も奪った一員であったという意識は見えなかった。
 もちろん、こうした声だけが聞こえてくるわけではない。戦争犯罪の一つとして従軍慰安婦問題をとらえる元兵士もいる。

 ・・・

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                         十七年間の果てに

「日本軍兵士で、従軍慰安婦を知らぬ者はいませんよ」
 いくたびこのことばを耳にしたであろうか。戦後半世紀近くもたとうとしているのに、従軍慰安婦については、すっぽり抜け落ちたまま長い歳月が流れた。
 結果的に隠ぺいを助けたといえる”語ることを阻んだもの”は何か。
「いやあ、とても妻や娘には話せませんでしたよ」 
 それが性をはらむ問題であったことも、元兵士たちの口を固くした。慰安所に通う自分の姿を思い出すことは、戦争の記憶のなかのさまざまな非人間的行為を呼び覚ますことでもあった。戦争におけるかずかずの非人間的行為は、敗戦から今日にいたるまでのあいだ、内なる部分で「個」を苛んできた。
「戦争だもの、しかたないさね」
 そう口にしつつも自分を苛むものは何か……。自問自答が繰り返された。「女たちだって、金がほしかったんだから」と、元従軍慰安婦に対する補償に難色を示す元兵士もいる。その一方、「日本軍の一員であった自分自身の戦争犯罪である」と自責の念にかられる元兵士もいる。
「従軍慰安婦」の実態は、元兵士の内なる部分におし隠してきた記憶のなかにこそ鮮明に残されているのではないか。
「従軍慰安婦をみるには、戦場の兵士の追い詰められていた姿をみないとわからないんじゃないでしょうかねえ……」
 軍隊に入隊してから日本に帰るまでに、十七年間という歳月を費やした小島隆男さんはつぶやいた。

── 私が軍隊に入隊したのは、1939年(昭和十四年)の暮のことです。六年近くを中国の山東省で過ごしましたが、敗戦になってもなお私に「終戦」はきませんでした。五年間という歳月をソ連軍の捕虜として極寒の地シベリアで過ごし、「ダモイ(帰国)」と言われ、喜んだのも束の間、着いたところは、中国の撫順戦犯管理所でした。そこでさらに六年間を過ごすことになったわけです。
 十七年ぶりに帰国した私は、まさに浦島太郎でした。二十二歳で入隊し、日本に帰ったときには四十歳を目の前にしていたのですから。
 中国の戦犯管理所の生活の最後の年、1956年のことです。千人を超える我々は三つのグループに分かれ、一ヶ月をかけて中国国内をまわったことがありました。工場や病院、農村などを見てまわったなかに、女性の更生施設がありました。「婦人生産教養所」というのでしょうか、戦時下、慰安婦をしていた女性たちを社会復帰させるための施設でした。
 一人、まっ青な顔をした女性がベッドにいましてね。そのそばに子どもがいるんです。事情を聞きましたら、彼女は梅毒で、五年間も治療しているのにまだ治らないということでした。そこにいるのは、帰りたくても帰る家がない、帰る故郷すら分からない、家族も身寄りもない……そんな女性ばかりでした。
 その指導所で、病気を治したり、社会に出ていかれるように手に職をつけたりするわけですが、女性たちの姿を見た私は、胸が潰れそうになりました。戦争中、彼女たちを含むどれほど多くの女性たちが、日本軍兵士の性のはけ口になってきたことか。日本軍が作った慰安所は、戦中はその性を蹂躙し、戦後になっては女性たちの生を蝕んでいたのですから。
 そのとき私は、戦犯管理所で目にした一枚の写真を思い出していました。一人の中国人女性が、腕を振りあげて訴えているのです。町を歩いていたときに日本軍に拉致され、逃げないように腕に焼き印を押され、慰安所に投げこまれたと……。
 私は、中国の戦犯管理所の六年間で、自分が戦争中に犯したすべての罪を告白しました。帰国してからも話す努力を重ねてきましたが、とても言いつくせないかずかずの罪行のなかで、二つだけ、私には二度と口に出せなかったことがあります。その一つが、慰安婦のことでした。
 あれは、強姦に変わりない……。
 兵隊たちが列を作って待っているんですよ。ズボンを脱いで、自分の番を待っているんですよ……。
 田舎のほうの駐屯部隊近くの慰安所には、三、四人しか慰安婦がいない。休みの日には、兵隊は列を作り、ずらりと並んでいる。部屋のなかには三人の兵隊がいて、一人はズボンを履こうとしている。一人は女と寝ている。一人は、ズボンを下げて自分の番を待っている……そんなだったのですよ。
 あの頃、女性たちはすっかり「慰安婦」になりきってしまったように見えました。
「金儲けのためにやっているのさ」という兵隊もいました。
 しかし、その大本には、日本軍の侵略があったわけです。家は焼かれ、家畜や食料は盗られ、働き手は日本の炭鉱やダム工事に強制連行され、あるいは殺され、住む家も家族も失い ── そして食べるために慰安婦になった女性がいたとして、どうしておまえの意思だったろうと言えましょうか。
 私がいた近くの慰安所は中国人慰安婦がほとんどでしたから、中国に対してすまなく思ってきましたが、その思いは、朝鮮人に対しても、南方の現地で慰安婦にされたかたに対しても同じです。
 日本に帰ってから遅い結婚をし、自分の子どもを育てるなかで、自分たちが犯した罪の大きさを知ることがたびたびありました。
 こんなことがありました。
 昭和17年(1942)四月、「冀南作戦」では、私も機関銃小隊長として参加しました。
「敵は日本軍が行動を起こしたと知るや、二時間後には農民服に着替えるが故に、敵か農民かの判別はでき難い。それ故、部隊は作戦地に入るや、男子はことごとく殺害せよ」
 司令官の命令でした。兵隊たちは、農民を見ると突き殺し、やがて戦闘が始まり、日本軍にも多くの死傷者が出ました。兵隊たちはその腹いせに、近くのを掃蕩し、女子どももかまわず皆殺しにしました。黄河の堤防上の一軒家には五人の家族がいましたが、私に命じられた兵隊は彼らを並べて
射殺しました。
 翌朝その小屋を覗くと、死体のなかに六歳ぐらいの男の子が大きな目を見開いて私を睨みつけていました。
 ……あのときの子どもの目が、安らかに眠るわが子に重なり、苦しい思いをしたこともありました。 慰安婦の問題は、血をみるわけじゃないから浮上にしくかった……性にかかわる問題だから、語り難かった……しかし、それですますことはできない。女性たちから婦人の資格を奪いとってっしまった罪は今も続いているのですから、本当に非人道的なことをしたものです。
 平和な家庭を築いたればこそ、私は私の罪行を話すことを通して戦争の本質を伝えなくてはと思っています。もう二度と繰り返したくない。
 もう私も余命いくばくもなくこの世からいなくなる……。
 一人でも多くのかたに話しておきたいと思います。私の贖罪の気持ちからです。──

 小島さんと会った日、前日に振った雪のせいか、刺すような冷たい風が吹いていた。
 コーヒー一杯で、時間のたつのも忘れ、話し続けた年末のロビーは、人の出入りが慌ただしい。話終わらぬまま別れてからも、まだ、小島さんの目の色が瞼に残っていた。まだ夕方だというのにすっかり暗くなった駅のホームにたたずむと、せわしげにいきかう人びとのなかで、妙に年配のかたに目がとまる。、
「二度と口にできないことが二つありましてね…… 」
 小島さんはそうつぶやいた。ニつというのは、慰安婦のことと、もう一つ、彼が命令した衛河の堤防決壊事件のことである。山東省西北端の臨清に機関銃中隊長として駐屯していたときのことであった。約60メートルほどの河幅の衛河には、雨季のため、五メートルの高さの堤防すれすれに濁流が流れていた。解放区覆滅作戦のためその堤防を決壊させたのである。管理所時代に、初めてその土地の人びとがどれだけ苦しい目にあったかを知った。
「中国の人びとに与えた苦しみは、すっかり私の苦しみになってしまいましてね……」
 一昨年、NHKの終戦特集の企画のなかで、小島さんらは、「再生の地」と呼んでいる撫順と章邱、臨清へ旅した。長年胸につかえてきた堤防決壊の罪の意識は、旅立つ前の数日、彼を眠らせなかった。

「日本軍は、私たちの村にきては、小麦を奪い、綿花を奪い、鶏を奪い、家の板まで奪い……村人を拷問し、殺し、それはひどいことをしました。けれども、もう過ぎ去ったことです。これからは、仲よくやりましょう」
 七十歳の村長は、そう言って頭を垂れる小島さんの手を握りしめた。
「私は、すべてお話ししますよ。それが、真の日本とアジア諸国の友好を築く道に通じるものだと思いますからね」
 小島さんの動かない目は、遠くを見つめていた。過去から未来、十七年のはての固い不戦と平和への決意のように、私の目に彼の姿は印象深くうつった。
 ここに紹介する座談会は、そんなおりに開かれた。
  

 

 

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慰安婦狩り

2019年08月05日 | 国際・政治

「海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記」(太平出版社)の著者禾晴道(ノギハルミチ)氏は、まえがきに、
”・・・
 この本に書いた事件には、時間が経過した今日、わたしの勘違いから多少の前後があるかも知れません。しかし、すべて本当にあったことです。わたしはこの本で当時の責任者を暴露しようとか、その人たちを責めようとしているのではありません。ある意味ではその時の個人の名前や、部隊名などはどうでもよいことです。ただ、一度戦争が始められたら、個人の良心も、理性も、みそも、くそも、戦争という一大メカニズムの中に組みこまれて、ベルトコンベヤーのように引きづりこまれ、自分の意志ではどうにもならなくなることがわかってもらえればいいのです。  
 人間は、一生懸命、生命がけでやった者ほど、自分の過去の行為を馬鹿げた行為であるといわれることを好まないし、本人自身、知っていながらそう思いたくない弱さをもっているものです。
 そして、現在がみじめであればあるだけ、それに何かの正義らしい意味づけをやろうとするものです。
 だがそれは、だれでもが認める正しい客観理性ではありません。戦友愛は美しいかも知れませんが、あの戦場の行為まですべて正当化することは決して許せないと思います。
 時の経過とともに、汚い戦争を美化し、正当化しようとする意識的な動きすらでてきています。現在あの侵略戦争の表面的な部分を取り出したはなばなしいヒロイズムだけを拾いだして、戦争体験のない若い人たちに、美しく、力強いものとして宣伝が強化されつつあります。そして、戦争につきものの悲壮感は、すでに一部の青年に共感さえあたえつつあります。
 だがその戦争のうらに表面よりも、もっと広く、もっと深く、どす黒くうずまいていた、決して忘れてはならないどろぬまは忘却されようとしております。
 わたしは自分の二十一歳から三十六歳までの青春時代のほんの一部のどろぬまを報告しておきたいと思いました。
 ・・・”
 と、本名を名乗り書いています。したがって、慰安所開設の経緯や慰安婦集めに関する議論に大きな間違いはないと思います。知っている関係者が多数いるので、本名を名乗って、でたらめを書くことはできないと思うのです。
 慰安婦集めが業者ではなく、軍主導で進められたことは、”慰安婦を集める作業はどこがやるか、各隊がそれぞれどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。それは一つの謀議でもあった。”や”恐れられている特警隊の力をもってすれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。”で明らかだと思います。
 また、下記のような記述も見逃せません。

”…特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者に向けられるでしょう。それが人情ではないでしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります。

ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています。

 真実が表面にでないように画策されていたということだと思います。そして、そうした日本軍の様々な画策が功を奏して、現在の一部政治家や若者が「平和の少女像」を憎しみの対象とするようになり、先日も「あいちトリエンナーレ2019」における「平和の少女像」展示が中止となったばかりでなくり、「表現の不自由展・その後」全体の中止が発表されるに至っています。再び表現の自由が認められないような社会にもどることは、あってはならないことであり、恥ずかしいことだと思います。

 日本軍「慰安婦」問題の真実を明らかにするという意味で、下記のような文章は大事だと思い、「海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記」禾晴道(太平出版社)からⅨ 慰安婦狩り」の全文を抜粋しました。(一部数字表記を変えたり、空行を挿入したりしています)

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                        Ⅸ 慰安婦狩り

 北上するアメリカ軍機動部隊のフィリピン上陸作戦はますます激しさを加えて、1944(昭和19)年も暮にせまっていた。
 ニュースは、神風特攻隊の攻撃を報じ、二階級特進者の名前の数が増加していた。11月24日の東京空襲のニュースは、敵機動部隊が、日本本土へも近づいていることを強く感じさせた。
 12月15日、アメリカ軍はついに、フィリピンのミンドロ島に上陸した。ビルマ方面の西部戦線もしだいに苦戦が伝えられ、現実には崩壊しつつあった。東部ニューギニア戦線の連合軍は、反撃の激しい地域はさけながら、基地のみを占領して、フィリピン、本土への進攻に主力をそそいでいた。南方地域はアメリカ軍のフィリピンへの上陸によって本土との関係を切離されたようになってきた。
 毎日のように空襲はあったが、敵が取残していったかっこうになった島々には、大局的には敗北しつつあるにもかかわらず、あきらめきった一種の落着きがでてきていた。

 アンボン島のような小さなケシ粒のような島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の生理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。
 日本国内にもあった「赤線地区」であり、昔は「女郎屋」と呼ばれていた売春宿であり、軍隊がつくっていた公認のものであった。
 そこには日本人女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要でもあった。
 わたしがアンボン島に着任した1944年3月ごろはまだ慰安所があったが、日本人女性はすでに後方に送られ、ほとんど現地人女性だった。
 それは44年8月の大空襲までは続けられたが、この大空襲を境に日本人料理屋も後方に送られ、現地人慰安所もいっさい解散させられてしまった。
 彼女たちの多くは、自分の村々や、近くの島に帰って行った。帰るところがあっても食えない女性たちは、それぞれ日本軍部隊の近くの民家だとか、破壊された民家の中で、ローソクをともして売春
を続けていた。
 軍の方針としては、病気の心配があるという理由で、いっさい女性に手をだしてはならないという命令がだされていた。
 この命令は、じつにきびしい命令であった。
「当アンボン島において、他人の食糧を盗んだり、現地人女性に不法に手をだしたる者は、日本軍人であれ、現地人であれ、だれが見つけても、ただちに殺してよい」。
という軍律だった。
 わたしはこの軍律はたいへんだと思った。
 アンボン地域の憲兵将校が、海軍司令部に抗議したという話もはいってきていた。
 まちがって射殺しても、畑のイモを盗もうとしていたといったら、それで通用するわけだった。現実にアンボン捕虜収容所で、食糧を盗んだ捕虜が何人かこの軍律で殺された。
 この軍律が出されて、少したったある日、アンボン地区の陸軍憲兵隊から特警隊に電話がかかってきた。
「じつはいま、現地人の畑でイモを盗んでいる陸戦隊の海軍下士官を一人捕えている。海軍司令部のだしている命令によれば裁判にもかけず射殺してよいことになりますが、当憲兵隊で処理しましょうか」
 軍命令からいえば、そのまま憲兵隊で射殺されても、一言の文句もいえないことになっていた。いくら命令がだされていても、一人の海軍軍人の生命がイモ一個で失われることは承知できなかった。それは、命令に対する憲兵隊の皮肉な抗議とも受けとれた。それだからこそ殺さずに電話してくれていた。
「今から特警隊員に引取りにやります。当隊に処分はまかせてもらいたい」。
 そして隊員の小隊長に電話して来てもらった。わたしはその小隊長の顔を見るのが気の毒だった。
「じつはあなたの部下のこの下士官が……というわけで、殺されても文句がいえないことはあの命令で知っているでしょう。しかし小隊長に引渡しますから、今後このようなことがないように注意してください」。
 その隊員が小隊でどう処分されたか、わからなかったが、多分なぐられて終わったと思われた。
 どこかの民家の売春婦にうっかり手をだして射殺されても、しかたがない現実がきていた。
 この命令は、現地人対策としてだされたとしか思えなかった。現地人に、日本軍の軍規のきびしさを示し、住民に安心感をあたえ、反日感情をおさえようとする効果をねらっていた。
 現地司令部では日本の敗北は手にとるようにわかっていたと思われたが、公式発表以外は全然不明だった。
 各部隊には陣地づくりと食糧の自給体制をますます強化するよう指導が続けられていた。
 そして、再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍司令部からだされていた。
 それまでも毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とはちがって、島の民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするとか、民政関係からみて警備隊はこの点とくに注意してもらいたいとか、本質的に対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとする会議だった。
 出席者は各警備隊の司令・副長、民生部は当時政務隊となって成良司政官が政務隊長として出席し、民政警察の木村司政官も顔をだしていた。セラム新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木元記者、宗教関係からはキリスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令部からは、参謀長・先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。
 情報の交換とアンボン島の民政に関する諸問題が討議されていた。
 その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかもしれない民衆の反感について討議されることになった。
 四南遺艦隊司令部の先任参謀が中心になって開かれ運営されていたが、実際は副官の大島主計大尉が一人でガアガアしゃべって会議は進行していた。
 軍隊としてはそうとう自由な発言が行われて、討議は白熱化していた。いつもなら民政関係から、各部隊は現地人に対してこういう点を注意してもらいたいとか、現地の宗教習慣はこうなっているので日本人に気にいらないからといって、やたらになぐらないようにしてもらいたいとか、最近食糧どろぼうが多いが、その処理はあまり刑務所に入れても食糧と場所が亡くなっているので、各部隊で適当に処理するようにしてもらいたい、というようなことが多かった。
 このアンボン島と周辺の小島から、多くの慰安婦を集めようとすれば、慰安婦志望者でけでは少ないだろうし、多少強制でもすれば住民の反日感情を高めて、治安上おもしろくないことが起きはしないだろうかという心配の点が中心になるだろうと思われた。
 そして、慰安婦を集める作業はどこがやるか、各隊がそれぞれどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。それは一つの謀議でもあった。
「特警隊では治安上この問題について、どう考えるか」
 わたしに最初の質問がきた。わたしは突然会議に出席させられたので、十分頭の中が整理されていなかった。もちろん方針について考えてもいなかった。
「まだ具体的な考えがまとまっていませんが、わたし個人としては、若いので、あったほうがいいと思っています。特警隊として、アンボン島の治安から考えれば、多少でも強制するようなことがあれば、現地人の間に反感が強くなることを心配します。あまり賛成できません」。
 わたしは、そういった。この意見は、多少でも住民対策に関係ある民政関係者の多数意見であるようにみえた。
 会議の方向は、「原則的には反対だが、現実にはやむをえないのではないか」、という方向に動いていった。
 司令部では、だいたいやる方向で会議を運営していっていることが明らかだった。
「現地人の治安も充分考えてやる必要があるが、戦闘部隊である日本軍の治安も大切だから、どうしてもこの際やる必要がある」。
 大島副官の意見であった。反対意見がでようと、でまいと、すでに慰安所を設けることは決定されているようだった。出席者には、あまり強く反対意見を主張したとしても、設けられることが決定している以上、うるさい副官の感情を悪くしてうらまれてもしかたがないという態度がみえた。
 この副官は東大出身の主計大尉で、口から先にうまれたようによくしゃべった。この司令部に着任する前は船に乗っていたが、主計士官にしてはあまり元気過ぎてだれも使いきれないので、アンボン島の海軍司令部なら使いこなせるだろうということで副官として着任したのだといううわさを聞いていたが、かれの日常行動は、それを裏づけるようなところがあった。わたしはそのうわさの真相についてはしらなかった。かれが慰安所を設ける中心人物になっていた。
  最初に、集める女の対象が検討された。第一に、慰安婦の体験者を対象とすること、それと売春の常習者。第二に、あの女は売春行為をやっているかどうかたしかではないが、やっているといううわさがある者。第三に、やってみたいという志願者。
 対象が決定したので、つぎは方法であった。早急に対象となる女性のリストを作って、本人に交渉する。ある程度の強制はやむをえないだろうということだった。
 つぎは、いったいだれがそれをやるかということになった。
 出席者がわたしの顔を見た。恐れられている特警隊の力をもってすれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。
「特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくからどうか」。
 副官がそう発言したので、わたしは立ちあがった。
「もちろん、副官のいわれるようにわたしの隊で集めれば、早くやれるでしょう。それは慰安所の設置ということが、もっとも大切なことだということでしたらうなずけますが、特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者に向けられるでしょう。それが人情ではないでしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります」。
 わたしは、もっともらしくそういった。めんどうなことから、なるべく逃げようという下心があった。そうするには、やはり大義名分が必要だった。
 副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、「司令部の方針としては、多少の強制はあっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まって来る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。
 そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。
 こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。
 だが侵略者というものは、その占領地の住民に非常に親切で、最大限の善政をやってやっている、といううぬぼれたおおきな錯覚に自分勝手にひたっている場合が多いものだ。それすらも気づいていなかった。   
「集めた女は全員必ず喜んで承知させてみせるぞ。おれの腕のいいところを見ていてくれ」。
 副官にはそういう自信がありありと見えた。結局女集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになった。
 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。
「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れれられないが、娘たちの住んでいたの住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ! 娘を返せ! と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
 わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容疑者を捕えて、収容所に送って協力していた。それは犯罪容疑者として捕まえていた。
 集めることが決定して半月もたったころだった。わたしのところに司令部の副官から電話がかかってきた。勝ちほこったような元気のよい声だった。
「夕方でもよいから女収容所の神学校にいってみろよ。きみが心配していたようなことは、まったくないぞ。うれしそうにはしゃいでいる。食事がいいので、顔のつやもよくなって、ポチャポチャとした、きみの好きそうなやつも大勢いるぞ。一度見といてくれ」。
 まるで動物でも集めて楽しんでいるような話だったが、当時の女性、とくに現地人の女性に対してはだれもがそんな感じしかもっていなかった。そして、それをべつにふしぎにも思っていなかった。
 わたしは、面白半分と、女に対する強い好奇心から、夕方に神学校まで行った。副官も来ていた。校庭の中の神学校が、慰安婦の収容所になっている皮肉さにも、なんの矛盾も感じなかった。
「どうかね。禾中尉! この女たちのいったいどこに、強制されて日本軍に反感をもっているような暗いものを感じるかね。うれしがっているではないか。ま中に入ってよく見て、話してみてくれ」。
 副官には、「どうだ、おれの見通しは、まちがっていなかっただろう。どんなもんだ」という自慢と、成功したことに対するうれしさがあった。
「それにしてもこんなに多く、いつの間にかよく集めたものだ。こんな美しい娘がいままでどこにかくれていたのだろう」。
 わたしはちょっと驚いた。たしかに副官が自慢するように、悲しそうな暗さはなかった。幼稚園の子どものようにはしゃいでいた。
「タベトウワン!」(「こんにちわ」)。
といって多くの娘の中から一人の娘がわたしに近づいてきて、ペコリと頭を下げた。そして笑いかけた。特警隊で捕えて、ここに送りこんだ可愛い娘だった。
 わたしはドキッとしたが、うれしそうな娘の顔を見て、なにかすくわれたような気になった。
 この校舎の周囲には、べつにバリケードがあるわけではない。べつに彼女たちの逃亡を警戒する警戒兵や、現地人の警察官が見張りをしているわけでもなかった。ほっと安心した反面、裏切られたようおな気がしてならなかった。女性に対して知らず知らずにもっていた一つの期待が裏切られたような感じだった 
 彼女たちの心の底に、どうしようもない怒りが深く隠されていたことなど 、わたしたちは、少しも気づいていなかった。
 それからまもなく、各地区に女は配分され、慰安所が再び開設された。
 女の数が少なく日本軍の数が多いために、自由に遊びにいくことはできなかった。当然交通整理の必要があった。戦時の食糧や衣類の配給に切符制がとられたと同じように切符割当制が行われた。ところがこの割当切符は、金次第ではなかった。士官は月何回、下士官・兵・軍属は月何回と決められ、切符とお金をもって遊びにいくようになっていた。切符のない者は、金があっても資格がなかった。昼は下士官・兵、夜は士官と、遊ぶ時間帯が明確に分けてあった。もちろん慰安所などに絶対に遊びにいかなかった者も、相当数いたことも事実だった。病気を恐れていかない者や、それ自体を不潔だと考えていかない者も多かった。
 わたしは慰安所の開設には、治安上の理由から反対意見を述べ、開設のための女集めには協力した。各部隊では、特警隊が中心で女を集めたように思われていた。
 開店後、二日めだったか、慰安所にいくことにした。自分でも多少身勝手だと思っていた。夕方、慰安所にいってみると、元二十警備隊の本部があったビクトリア兵舎の近くで、海岸が近かった。慰安所は、元オランダ士官の宿舎で、大空襲に破壊されずに残っていた三軒が使用されていた。空襲でもあれば、いちばん危険なところだった。幸いそのへんは大木が繁っていたが、ラハからの船が着く水上警備隊がすぐ近くに残っていた。その中のもっとも大きな家に、女が集まって、客を待っていた。そこには、十人ほどの女がいた。
 そこに飛びこむように入っていったわたしは、最初に目についた目の大きいオランダ人と、インドネシア人の混血児(ハーフカス)の女を指名した。
 そんなところで下士官同士でも、顔がぶつかることは、なんでもないことだったが、なにか面はゆいものを感じていた。さっさと女の室に行くことが多かった。にっこり笑って、「こちらです」という家の方に行くと、道路をへだてた道の向こうの家だった。玄関を入ったところが部屋になっていて、それに面して三つの扉があった。
 その一つの扉を開けて中に入り、ピタリと閉めた。あの二人きりになったときの感じ──、なんともいえない安心感と一人を完全に独占したという感情は、内地で女郎屋に遊びにいったときの感じとまったく同じだった。
 その洋間は八畳くらいの広さで、洋ダンスが一つと角に大きな洋風の鏡台が置いてあって、部屋の片側に大きなダブルベッドがあり、女性のスカートのような白いレースのカヤが、天上からすっぽりとそのべっどにかぶさっていた。長く忘れていた香水と、むせかえるような女の体臭が、わたしの感覚を刺激した。
 いつ空襲警報が発せられるかわからないので、部屋の中央にぶらさがっている電灯には、黒い布がかぶせてあって、床の中央を円形に照らしていた。
「おれの住んでいる山の中の、ニッパ椰子の葉で作られた狭い家よりも、ずっとりっぱだなあ」。 
 わたしは、そう思った。それにしても、こんなベッドや洋ダンスや鏡台などいったいどこにあったのだろうとふしぎに思われた。
 ぐずぐずしていて空襲警報でも鳴ったらたいへんだと、防暑服を脱ぎ捨てて、はだかのまま白い布カバーのかけてある毛布をかぶって、ふんわりとしてスプリングのよくきいた広いベッドに転げこんだ。
 彼女は、大きな花もようのワンピースをくるりと頭までまくりあげて、薄いシュミーズの上に、薄いガウンのようなものを着た。ベッドのカヤを着物のスソを開くように手で開けようとしたときだった。
「トントントン」
 だれかがドアをノックした。いつもよくやるいたずらかな、いったいだれだろう。来てみるともう女が一人もいないとき、はらいせにドアをノックしていく、あのいたずらだろうか、わたしもやったことがあるので、てっきりそうだと思っていた。それにしても力が弱い。「マァーマァー」と子どもの声がした。
 彼女は、サッとドアを開けた。そして子どもを中に引き入れるとサッとドアを閉めた。三歳くらいのかわいい男の子だった。
 片手に椰子の実の中にあるコプラで作った、油であげた菓子をもっていた。母親を追いかけてきたのだった。彼女は子どもをすっと抱き上げてやさしくほおずりして、
「おとなしくしてあちらの部屋で待っててね。すぐ行くから」という意味のことをいって頭をなでていた。こどもは床におろされると、ベッドの中のわたしをにらみつけるようにして、扉の外におとなしく出ていった。
 わたしはその子どもの目にギョとした。
「きみの子どもかい、父親はどうしたんだ?」。そうたずねずにいられなかった。
「戦争が始まって、日本軍が上陸してくるかも知れないというので、軍隊にだされたの。日本軍が上陸して捕まったはずだわ。どこで、どうしているか。殺されたのか。どこかの捕虜収容所にいるかまったくわからないわけよ」。
 わたしにはよくわかった。
「ではなぜここに入ってきたんだ」。
 その目的のみできている自分が、いまから女の身の上話など聞いてどうなるものではない、と思ってはみたものの、聞きたかった。
 あの慰安婦集めの実体が知りたかった。
「わたしたちは戦争が始まるずっと前から、セラム島のニューギニアに近い東の端のに住んでいた。そして平和で幸福だった。ところが戦争で夫はどこに行ったかわからなくなり、しだいに生活がくるしくなってきたわけ。ところがアンボンから海軍中佐のM参謀がセラムに来たとき、アンボンに来れば、よい生活をさせてやる。なんの心配もない生活だというわけで来ると、ここで働くことになったわけ。わたしはだまされたんだわ」。
 しかし、この女の話をそのまま信じてよいかどかは疑念があった。あのセラム島のでこのようなことをやっていたのかも知れないと思った。それほどなれていた。
 シュミーズ一枚でベッドにもぐりこんできたときは、さきほど子どもをあやしていた母の顔はもうどこにも見られなかった。そこには女の顔しかみられなかった。

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