真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「阿片王」里見甫(里見機関)と関東軍軍事機密費

2011年05月21日 | 国際・政治
 里見甫は、満州事変勃発直後、関東軍第4課の嘱託辞令を受け密命を帯びて、半官的な「聯合」と民間経営の「電通」を合併させるために動いた人物である。そして「一国一通信社」というメディア統合に力を発揮し、満蒙通信社(後の満州国通信社・略称国通)を設立させた。それは満州にとどまらず、その後日本国内の通信統制に発展していったという。そうした里見甫の新聞記者、国通時代の活動が「続 現代史資料ー12ー阿片問題」岡田芳政・多田井喜生・高橋正衛編(みすず書房)付録「里見甫のこと」と題して、伊達宗嗣名で、詳しく紹介されている。
 しかしここでは、敢えてその部分をカットして、彼のもう一つの活動、すなわち阿片工作に関わる部分のみを抜粋する。戦中「大陸新報」の社長をつとめ、里見甫と親しく、戦後自民党代議士となった福家俊一の証言によると、「里見は上海の阿片の総元締めだった。その莫大な阿片のあがりが関東軍の軍事機密費として使われた。関東軍が一株、満州国政府が一株、甘粕が一株という形でもっていた」という。
(「阿片王ー満州の夜と霧」(新潮文庫)の著者佐野眞一は、関係者をしらみつぶしに当たり、里見甫はもちろん、「里見甫のこと」の著者「伊達宗嗣」についても、里見の晩年の秘書的存在だった人物でるが、伊達順之介の息子(伊達一族の末裔)ではなく、本名は「伊達弘視(ダテヒロミ)」であると、その素性を明らかにしている。)
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                 里見甫のこと
                                         伊達宗嗣
     はじめに

 わが国の阿片問題について語るとき、避けて通ることのできないのが、「里見機関」(宏済善堂)の存在である。主宰者の里見甫(リーチェンプ)(東亜同文書院13期=大正5年6月25日卒業 昭和40年3月21日歿、享年68歳)は、戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として、巣鴨拘置所に収容されたが、何故か無罪放免になった。その理由について里見は、「供述調書を読んだ米国の情報関係者が、利用価値があるとみて釈放してくれたのではないか」と、多くを語るのを避けていたが、ロッキード事件で公然化した米国流の「司法取引」が行われたのかも知れない。
 法廷に提出されたのは、供述調書の一部で、阿片取引の収益金の具体的な用途、とくに軍の情報謀略工作関係については、大部分が隠蔽されたと、里見は語っている。


 後年、ベトナム戦争当時、米国がベトナム半島の山岳民族(阿片栽培が唯一の現金収入)に対し情報工作を展開するに当たって、里見機関の阿片工作のやり方が流用され、グリーンベレーの送り込みには成功したものの、反面、米軍内部に大量の阿片吸引患者の発生を余儀なくされ、本国送還による戦力低下とともに、米国内における阿片吸引患者の激増をみたことは、関係者の知るところであり、阿片の持つ危険な両面性を遺憾なく物語っている。

 里見が阿片謀略工作に手を染めたのは、参謀本部支那課長であった影佐貞昭大佐が初代の参謀本部第8課長(謀略担当)になったとき(昭和12年11月)影佐に懇望されたことによるもので、昭和12年から終戦までの8年間にすぎない。それも軍が阿片取引に深入りするのを心配された天皇が、しばしば侍従武官に「どうなっているのか?」と御下問になるので、里見に旨を含め、軍の隠れミノとするため発足させたもので、侍従武官を務めた塩沢清宣中将(陸士26期)が、里見の没後筆者に詳細に説明してくれた。

 里見と軍の関係については後述するが、この間の消息を伝える意味慎重な撰文が、里見の墓誌銘に刻まれている。

  「凡俗に堕ちて、凡俗を超え
  名利を追って 名利を絶つ
  流れに従って 波を揚げ
  其の逝く処を知らず」

 撰文は里見の後輩で、新聞記者時代から陰に陽に里見を見守ってきた大矢信彦(東亜同文書院16期=大正8年6月29日卒業)。書は1期先輩の清水董三(東亜同文書院12期=大正4年6月27日卒業)の筆になる。墓誌は元満州国熱河禁烟総局長から経済部次長、国務院総務庁次長になった古海忠之(戦後、中国戦犯として撫順収容所で18年間服役し、帰国後、岸信介元総理の世話で東京卸売りセンター所長)が


  「……昭和7年満州で新聞聯合社専務理事岩永裕吉、総支配人古野伊之助の協力を得て国通を設立した。時に37歳。支那事変の拡大とともに大本営参謀影佐貞昭の懇望により上海に移り大陸経営に参画、国策の遂行に当たった。……」

と記している。
 阿片工作については直接触れていないが、「大陸経営」とは汪兆銘政権、国策とは宏済善堂の経営つまり阿片工作の遂行であったことは、指摘しておかねばなるまい。ちなみに「里見家之墓」の五文字は、岸元総理の書いたものである。墓地は千葉県市川市の里見公園を見下ろす安国山総寧寺の境内にある。


     新聞記者・国通時代 ・・・(略)

     里見機関

 当時阿片市場として最大なのが上海であった。阿片の最大供給国はは英国で、インド阿片を持ち込んでいた。わが国の三井、三菱両財閥もペルシャ阿片の確保に鎬を削り、上海租界の運搬は専ら青幇(清幇)の手に委ねられ、その販路を牛耳っていた。
 大使館付武官補佐官で上海陸軍特務部の楠本実隆大佐(陸士24期)が、販路の確保を里見に持ちかけたが、その背景には影佐の特命があった。当時塩沢大佐は経済課長で上海後方建設の主任で、中支那新興会社の創立に当たり、満鉄から人間と事務所を調達、日本国内からは鉄道省、日銀など各機関から若手キャリア組を出向させた。佐藤栄作元総理はこの時、鉄道省から派遣されている。中支那新興会社は海軍と提携し、子会社として鉱山会社を現物出資の資本金100万円で発足した、維新政府設立第1号の鉄鉱会社が2000万円で発足した。当時上海だけは陸海軍武官府を構成、他の各地とは異なり陸海の協力は密で、海軍は津田静枝中将がその任に当たっていた。

 これら上海後方建設の合弁会社が続々と設立されるにつれ、既存の維新政府財源では予算がなくなり、次第に阿片の収益金に目をつけるようになり、その責任者として里見に白羽の矢を向けたのである。

 軍の信頼が厚く「滅死奉公(滅私奉公?)」の念に燃えていた(塩沢の評価)里見に、謀略の元締めである影佐第8課長が特命を下したわけで、ナショナルエージェンシーの確立、ハルビン工作に手腕を発揮した里見に阿片工作でも、軍の期待が賭けられていた。
 阿片工作の対象として期待した青幇のボス杜月笙は巧みに上海から重慶に逃れた。里見との出会いはなかったのである。国民政府の参議少将の肩書きを持つ杜月笙としては、莫大な阿片の独占権を目の前にしながら、里見の手を振り切った。替って上海租界に入った大物が盛宣懐である。武漢大冶の漢冶萍公司の総経理である盛は維新政府の鉄鉱会社に大冶の鉄鉱石を供給、維新政府は利ザヤを稼いで八幡製鉄(現新日鉄)に売るという形である。盛は阿片癮者で、里見の手から阿片を供給され、ここに奇妙な実業家と虚業の結び付が生まれている。

 また軍は昭和12年秋の大場鎮の戦闘で、日本軍の損害が大きく、攻めあぐんだすえ、里見に対策を求めた。里見は伝手(ツテ)を求めてフランス租界で敵将と極秘裏に会見、折衝の結果、支那軍総退却の合意を取りつけたが、約束が実行されるかどうかに一抹の不安を持った軍当局は、その代償金の金額前渡しを、ニセ札で行なおうと主張したが、里見は烈火の如く怒り、「日本の武士道いずくにありや」と責め、真札を贈って信義を守った。敵将も里見との約束を守って、打合せ通りの日時に合図の号砲を発射し、これに応じて開始された日本軍の総攻撃と同時に、敵は全線にわたる総退却にうつり、前日まで寸土も許さなかった大場鎮の堅塁は、大した犠牲もなく陥落した。(新聞通信調査会報1965年5月号「里見甫さんのあれこれ」佐々木健児=元同盟通信記者)
 これなど里見機関の真骨頂を示すもので、日本内地で大場鎮陥落の提灯行列が行われた戦闘の裏面史である。


 阿片の収益は主として軍の特務機関工作に使われたが、日本が設立した傀儡政府=蒙疆政府、華北政府、維新政府などいずれも阿片の収益で赤字を補填する形になっており、大東亜聖戦を呼号した軍の在り方が疑われる所以でもあるが、戦争末期、中国民衆が上海でわが国の阿片工作機関である宏済善堂に対する攻撃を始め出してから、阿片の収益は次第に低下、里見機関のカネは軍関係者によってむしり取られてゆく。軍関係者だけでなく、政治家もコネを頼って里見機関のカネを狙い、昭和17年4月の翼賛選挙では岸も元総理(当時商工大臣)が500万円(当時)の資金調達を依頼したことは有名な話になった。新聞ゴロも里見が新聞記者をやっていた関係上セビリにゆく者が多く、里見機関はこれら悪性日本人の資金供給源となっていたことは否めない。したがって里見は中国民衆の抗議を潮時とみて地下に潜伏、上海の表面から消えた。終戦引揚までその消息は杳としてわからなかった。

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海南島でアヘン生産-日本の密かな国策

2011年05月12日 | 国際・政治
 15年戦争の時期、日本は国策として中国を中心に大量のアヘンを販売し、それによって得られた莫大な資金を、謀略工作や軍の財源にしたといわれている。しかし、アヘンは当時すでに国際条約によって禁止されていた。そのため、アヘン政策に関わる日本の関係機関の内部文書や資料はほとんどないという。ところが、「証言 日中アヘン戦争」の編者(江口圭一)は、蒙疆(モウキョウ)政権の経済部次長をしていた人物の旧蔵書中に日本のアヘン政策に関わる内部文書を発見し、それらをもとに『日中アヘン戦争』を著した。そして、それがきっかけとなり、当時、実際にアヘン政策に関わった人物の証言を得ることができたのである。下記は「証言 日中アヘン戦争」江口圭一(編)及川勝三/丹羽郁也(岩波ブックレットNO.215)の中の会話の一部である。
 証言者(及川勝三)に、当時の内閣総理大臣を上回る月給1000円を約 束した里見甫(里見機関)のアヘン資金は、ノンフィクション作家「佐野眞一」氏によると、甘粕正彦を通じて東条に流れていたとのことである。
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               海南島でアヘンを生産する

江口 ふたたび及川さんのお話を聞かせてもらいます。
 今、丹羽さんのお話にありましたようなイランから密輸されてきたアヘンを上海で
 受け取って、その処分にあたっていたのは里見甫という人物です。里見は東亜
 同文書院の出身で、中国で新聞記者生活を送り、満州事変が起こると、関東軍
 の宣伝工作を担当し、その後天津で新聞を創刊しました。
  なお、及川さんといっしょに蒙彊で清査制度の立案にあたった森春雄も東亜同
 文院出ですが、東亜同文書院というのは、近衛文麿の父親の篤麿が1901
 (明治34)年に上海に開設した学校で、日中の「同文同種」と「支那保全」をスロ
 ーガンに、中国大陸で活躍する人材を育てるのを目的としていました。実は、私
 の勤めている愛知大学は、敗戦で引き揚げてきた東亜同文書院の教授・学生ら
 が中心となっ て創立した大学なんですよ。


及川 ほおー、これは驚きました。愛知大学は東亜同文書院の後身なんですか。

江口 はあ、そうなんです。それで現在も中国との学術交流を熱心にやり、語学研
  修に学生を派遣したりしています。
 ところで里見は、日中戦争が起こりますと、1938(昭和13)年初めから中支那
 派遣軍特務部の指示を受けて、上海でイラン産アヘンの輸入と販売にあたるよう
 になります。また里見は、日本が華中の傀儡政権として南京に作った中華民国
 維新政府のアヘン分配機関──39年6月に組織された
宏済善堂の副董事長
 (フクトウジチョウ)に任命されます。董事長は欠員でしたから、里見が事実上の理事
 長でした。及川さん、この里見機関から声がかかったんですか。

及川 先ほど申しましたように、蒙疆政権のアヘン政策が私の考えにあわなくなっ
 たんで、1940年6月張家口を離れて、北京に来ておったんです。そしたら41年
 3月に、以前満州国時代の旧知で里見機関に移ってきていた幸田武夫から、ぜ
 ひ上海にきてほしいという電報が来た。
  どんな用件かわからんまま上海に行って、里見機関を訪ねたんです。ガーデ
 ンブリッジのブロードウェイマンションの12階だったか、13階だったか、2部屋使
 ってましたな。里見甫ともはじめて会いまして、それで話というのは、日本は39
 年2月に海南島を「浮沈空母」として占領したんだが、治安が悪く、治安維持のた
 めに金(カネ)がいる、しかしにほんから金が来ないので、ひとつアヘンを生産して
 金を作ろうと考えた、現地で陸海外の三省会議が開かれ、その指令で福田万作
 を代表とする福田組が海南島に乗り込み、ケシ栽培にかかったが、完全に失敗
 してしまい、引き揚げてしまった、福田組には、アヘンの専門家は1人もいなかっ
 た、やはりこれはアヘン生産の経験者を呼んでこなくっちゃいかんというわけで、
 あんたに白羽の矢をたてた、ぜひ行ってくれんか、というんです。
  私は蒙疆にはもう嫌気がさしてたんで、条件次第ならと、ちょっと色気をみせた
 ら、
里見が、蒙疆政権では月給はいくらもらってたと聞くんで、480円だといった
 ら、里見はじゃ1000円でどうだ
、ただし全部渡すと酒飲んだりして使ってしまう
 から、半分は奥さんのほうへ渡すというんです。


江口 たまげましたねえ、これは。1940年の内閣総理大臣の月俸が800円、国
 務大臣が567円、東京都知事が445円なんですから。蒙疆の月給がすでに都
 知事以上なんで、1000円というのはすごいですねえ。


及川 それで話が決まって、蒙疆から里見機関へ移ったんです。福田組が撤退し
 たあと、41年2月に海南島の陸海外三省会議の指令で、あらたに厚生公司
 (コンス)というのがつくられていまして、海南島の海口(カイコウ)の新華路(シンカロ)に
 あった。それの東京事務所は芝区新桜田町におかれてました。そして、陸軍をケ
 ンカして中佐でやめた高畠義彦という人が厚生公司の責任者でした。
  私はまず広東(広州)へ行って、広東のアヘンの大ボスの陳旺欉(チンオウソウ)と
 いう中国人に会いまして、海南島のアヘン事情についていろいろ聞いて、海南島
 でのケシ栽培について率直な意見を求めました。国民政府の時代に海南島でケ
 シ栽培を試みたものがいろいろいたが、ことごとく失敗したとのことで、これは並
 大抵ではいかんということがわかり、今後の援助を頼んで、4月21日に海南島に
 渡ったんです。そしたら、すぐに東京へ出てこいという電報が来たんで、4月29
 日に海軍の軍用機に便乗させてもらって上京したんです。
  歌舞伎座の裏の東京事務所で高畠さんに会ったんですが、アヘンをどうしても
 作ってくれ、一切まかせる。
資金は25万円出す、それ以上は出せん、という直截
 簡明な話でした。それから海軍省へ連れいかれまして、これが今度の農場責任
 者だといって紹介されたりしました。それで8月に海南島へふたたび渉りました。

 ・・・(以下略)

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朝鮮における巧妙な阿片・モルヒネ政策

2011年05月07日 | 国際・政治
  「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)によると、東京帝国大学法学部を卒業し、戦後韓国の有力な政治家となった金俊淵(シュンエン)という人物が「朝鮮モルヒネ問題」(1921年6月)で、阿片の利用は厳重に取り締まっておきながら、それより禁断症状がすさまじいモルヒネの注射を事実上野放しにしている日本の政策の矛盾を告発していた。偶然、金俊淵の「朝鮮モルヒネ問題」という史料を発見したという著者は、その告発を糸口にして、朝鮮における日本の巧妙な植民地支配のからくりを解明している。そして、戦前・戦中の日本の阿片政策について、日本国民の歴史認識は空白になっていると、訴えている。その結論部分を抜粋する。
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                第6章 朝鮮モルヒネ問題

法律上、モルヒネの摂取は野放し

 前章で、朝鮮人に伝統的な阿片吸煙の習慣がないことから、日本側が、朝鮮半島で大規模にケシを栽培し、朝鮮を原料阿片の生産地にしたことを述べた。ところが、日本側は、これだけでは満足しなかった。朝鮮の人々を利用し、彼らからもっともっと多額の利益を吸い出そうとする。それが、朝鮮人の間にモルヒネを広範にばらまき、彼らの多くをモルヒネ中毒者にしたてあげることであった。
 偶然、金俊淵(シュンエン)の「朝鮮モルヒネ問題」という史料を発見したことから、私はようやく、このことに気づかされたのである。この史料は古い文章なので、やや読みにくいかもしれない。しかし、それは極めて重要なことを指摘しているので、煩を厭わず、敢えて少し長く引用する。



金俊淵「朝鮮モルヒネ問題」

 朝鮮には今、モルヒネ中毒者が非常に多い。或る医者の確信する所に依れば、京畿道以南丈でも其の数1万を超ゆべしとの事である。モルヒネは阿片から精製したものであって之を注射するのである。其の作用は阿片烟吸食と少しも違いはない。要するに、今、朝鮮にモルヒネ中毒者が1万人以上もいると云ふことは阿片烟常習吸食者が1万人以上もゐると云うことである。


 支那は阿片烟の為めに最も苦しんでゐる国であることは誰しも知る所である。支那は其の為に阿片戦争をやった。乍併(シカシナガラ)、今に至るまで此の阿片烟の病苦より支那を救ふことができない。阿片烟は支那民族の向上発展に対する一大障碍をなすものである。其の病毒が今や黒い手を延べて朝鮮を攫(ツカ)んでいる。
(中略)
 故に差し当たり問題になるのは法律上よりの矯正である。
 朝鮮刑事令に依って朝鮮にも日本の刑法が行われることになってゐる。然るに刑法中の阿片烟に関する罪を見ると、実に峻厳を極めてゐる。即ち、阿片烟を輸入、製造、又は販売し、若しくは販売の目的を以て之を所持したる者は6月以上7年以下の懲役に処し、阿片烟を吸食したる者は3年以下の懲役に処すとし、其他、詳細なる規定を置き、此等の未遂罪をも罰することになっている。
 そして、又、大正3年9月21日の朝鮮総督府訓令第51号は、云々の者ある時は刑法の正条に照し、毫も仮借することなく、これを検挙して其の罪を断ずべきを明言している。
 乍併(シカシナガラ)、モルヒネ注射に関しては全く阿片烟吸食と同等の弊害を認めてゐるにも拘はらず、何等(ナンラ)特別の立法手段を執らなかったのである。即ち、大正3年10月、朝鮮総督府警務総監部訓令第49号には

 『……客月21日朝鮮総督府訓令第51号ニ依リ阿片吸食ハ自今、絶対的禁遏(キンアツ)ノ措置ヲ執ルベキコトト相成候ニ付テハ、一層、周密ノ注意ヲ払ヒ、以テ阿片烟吸食ノ弊風ヲ絶滅セザルベカラズ。
 然ルニ、「モルヒネ」、「コカイン」ノ注射ハ阿片烟吸食ニ代ハルベキ方法ニシテ、其ノ害毒ヲ人身ニ及ボスコト、阿片烟吸食ト敢テ軒輊(ケンチ)アルナシ。而シテ、従来、密ニ其ノ注射ヲ行フ者、少カラザルヲ以テ、阿片烟吸食、禁遏(キンアツ)ノ結果ハ自然、該注射ニ転ズルノ虞(オソレ)ナシトセズ云々』

 と云って、モルヒネ注射の弊害及其の軈(ヤガ)て朝鮮の社会を来り襲ふべきを明瞭に看取してゐるのである。
 そして、其の取締法としては、僅かに薬品及薬品営業取締令第7条の励行を示してゐる丈である。それに依ると、猥りにモルヒネを販売授与したる者には3月以下の禁錮、又は5百円以下の罰金の制裁がある丈である。
 そして、モルヒネを注射した者はどうかと云ふに、朝鮮の法令には之を罰する規定を存してゐないのである。
 強いて求めば、警察犯処罰規則第1条32号の運用にでも待つべきか? 即ち、警察官署に於て、特に指示、若くは命令したる事項に違反したる者は拘留、又は科料に処すべきことになってゐるのである。
 以上の事実に依って、同一の社会悪に対しての法律上の制裁に餘りの懸隔あることを認め得ることと思ふ。即ち、阿片烟を猥りに販売授与したる者は6月以上7年以下の懲役、モルヒネを猥りに販売授与したる者は3月以下の禁錮、又は5百円以下の罰金、阿片烟を吸食したる者は3年以下の懲役、モルヒネを注射したる者は無罰と云ふ事実を見るのである。

 
 そして、モルヒネ中毒者は現に1万人以上もゐるのである。そして、モルヒネ注射は阿片烟吸食に比して非常に簡便なのである。
  『ローマ法に依ってローマ法の上に』、『現代に依て現代の上に』と云ふ言葉を以て、朝鮮の当局者に逼るのは、或いは無理であろう。併(シカ)し乍(ナガ)ら、少くとも今、現に切迫してゐる此のモルヒネ問題に対して、積極的立法手段に出ることを要求するは、何人も不当とは考へまい。朝鮮の当局者は、マサカ、其の取締を寛大にして仁政を誇らんとするのではあるまい。」(法学士、金俊淵「朝鮮モルヒネ問題」、『中央法律新報』1巻9号、1921年[大正10年]6月、7~8頁)



巧妙な仕組み

 要するに日本側は、朝鮮における阿片・モルヒネ政策において、2回にわたって、朝鮮人を利用する。すなわち、第1回はケシ栽培=原料阿片の生産者として、第2回はモルヒネの消費者としてである。
 この仕組みは極めて巧妙である。1回目は阿片、2回目はモルヒネと分けてあることが、ミソである。これが2回とも、同じ阿片を使っていたのでは、これほど、うまくゆかなかったであろう。というのは、朝鮮の人々に阿片を生産させ、かつ、彼らを阿片の消費者にしたてあげたのでは、前述の「猫と鰹節」のたとえで説明したように、生産者が生産した阿片を消費者に非合法に売るのを阻止するのに、多大な経費と人員が必要となり、採算が合わなくなる恐れがあったからである。その点、生産=阿片と、消費=モルヒネと分けたことで、そういった恐れはなくなる。阿片の密売を厳禁することで、モルヒネ中毒者が非合法に阿片を入手することを巧妙に防いでいるからである


 日本の植民地当局は朝鮮の農民には強制的にケシを栽培させる。彼らが生産した原料阿片がモルヒネに加工されることで、同じ朝鮮民族の同胞の生命と財産を奪うのに使われる。こうしたシステムを作りあげることで、日本側は、日本国内の資源を何も使うことなく、朝鮮から莫大な利益を得ることができた。なんと、巧妙な政策ではないか!
 以上の考察で、金俊淵が告発していた、法律上、朝鮮でモルヒネが野放しにされていた理由が解明できたのではなかろうか。



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日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況

2011年05月01日 | 国際・政治
 日本は、15年戦争の時期に国策として中国で大量の阿片を販売した。その目的は2つである。一つは、もちろん戦争に必要な財源の確保であり、植民地政策の財源確保であった。日本の阿片政策は、阿片の専売制を伴っていたので、阿片の販売によって、容易に財源確保ができたのである。さらに、軍部は阿片の専売事業を請け負った民間業者から莫大な裏金を受け取っていたといわれている。清朝末期よりかなり効果をあげていた中国の禁煙政策の前にたちはだかり、大量に阿片を売りまくることによって資金を得た日本は、麻薬政策の面でも、中国の敵であったといえる。
 中国における阿片販売のもう一つの目的については、「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)では、直接的には論じられていないが、中国で麻薬中毒者を増やして、中国の抗戦力を麻痺させるという目的があったという。下記は、そうした阿片政策の実態が読み取れる部分を、同書から抜粋したものである。
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               第4章 モルヒネ問題

恥知らずな禁制薬取扱業者

 次の史料は、中国で禁製品、即ち、麻薬の密売に従事していた日本人のことを述べている。彼らは、他国の者もやっているというのを口実に、中国人の被る甚大な害毒に目をつむり、禁制品の麻薬を密売し、不正な利益をあげていた。自分だけが儲かりさえすれば、あとはどうなってもよいという、情けない日本人の姿がそこにある。彼らこそ、エコノミック・アニマルと呼ばれる現代の日本人の源流である。このように、恥知らずな日本人のモルヒネ密売人が、当時、中国に多く集まっていた。


 「青島(チンタオ)から済南(サイナン)に行く列車中の出来事である。禁制薬取扱いによって巨富をなしたという評判のある某が昂然として語るを聞けば、
 『一体全体、領事館あたりでは日本人の人口増加をどう見て居るのであろう。海外に出て働いて居る吾々は一粒の米と雖も母国の厄介になって居ないのである。いわば海外発展の魁(サキガケ)である。それに領事館の禁制品取扱者に対する取締の徹底ぶりはどうであらう。
 支那の役人の取締もこんなに苛酷ではない。見あたり次第、容赦なく退去処分で内地に送還して終う。生計を奪われた彼等が内地に帰って、やがて凡ゆる方面に流す害毒を考へて見るがよい。彼等が取扱わなくても、欧米人は口に人道を唱えながら、大規模に取扱って居るではないか。支那の国民を毒するのは結局、同じことである』
 亜片モルヒネ取扱に関する某の話は縷々として尽きないが、此の短い言葉の内に『自分さへよければ、人はどうでもよい。人もするのだ。自分もしなければ損だ』といふ現代世相の現れを、痛感せずには居られなかった。」(菊地酉治「支那に対する阿片の害毒防止運動」論文に対する「編輯子」による前書き、『同仁』、2巻5号、1928年5月、7頁)



一連のトラブル

 醜い日本人が大挙して中国に渡り、恥知らずにも、人道に背いたモルヒネの密売に従事したのであるから、当然、中国側の怒りを買い、其の結果、トラブルが頻発した。一連のトラブル(おそらく、それは氷山の一角に過ぎないであろうが!)を、前述の菊地酉治は次のように紹介している。

 「十数年前には北清方面に於て、有名な日本人モヒ密売店乱入事件を起し、又、 満州及び天津、済南等は巨額の毒物を輸入してゐる事実、昨年の済南事件に  於て虐殺せられたる者は殆どモヒ丸(モヒガン)密造者であった。
  又、山西省石家荘事件、保定府密売日本人銃殺事件、一昨冬、大連に於る液 体モヒ事件、或は熱河、ハルピン、大連等のモヒ製造工場事件、某製薬会社の  山東省阿片専売事件等は、悉く国際的に知られて居る顕著なる事実である。其 他、薬業者のみにても、数知れぬ密輸事件を惹起して常に暗い影を投げている」 (菊地酉治「支那阿片問題の一考察」『支那』20巻12号、1929年12月、61頁)


 ・・・
  ここで、菊地酉治は、およそ10件にのぼる事件の、ほとんどその名前をあげて いるだけであって、残念ながら、これらの事件の詳しい内容にまで立ち入って紹 介してはいない。…。
  なお、菊池酉治のあげている事件の中で、興味があるのは、済南事件(1928 年)に関する一節である。軍人として、たまたま、同事件に際会した佐々木到一も 次 のように同趣旨のことを述べているからである。すなわち


 「それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となってあらわれたのである。(中略)
 我が軍の激昂はその極に達した。これでは、もはや、容赦はいらないのである。もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば、引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くが、モヒ、ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたもの、と思われる節が多かったのである。」佐々木到一『ある軍人の自伝』、1963年、普通社、181頁)


 2つの史料は、済南事件で「虐殺せられたる者は殆どモヒ丸密造者」であったことを一致して指摘している。おそらく、当時においては、このことは、世間にかなり広く知られていたのではなかろうか。


モルヒネの蔓延の状況

 以上のような経緯から、モルヒネが中国社会に急速に蔓延してゆく。その状況の一端を、満州の場合を例として、少し見てゆく。すなわち、すでに1909年の段階で、モルヒネは相当、広範に広がっていた。例えば、営口(エイコウ)の近郊の牛家屯(ギュウカトン)一帯で、モルヒネ中毒者を20余名、捕まえている(『盛京時報』1909年9月22日)。
 また、西豊(セイホウ)県はとりわけモルヒネの害が多かった所のようであるが、城内だけで、モルヒネを扱う店が20軒あった。一軒で、毎日、3元から7、8元のモルヒネを売ったから、全体ではおよそ120元にもなった(『盛京時報』1915年3月29日)。
 モルヒネ中毒者は、モルヒネを入手するために、例外なく、財産を使い果たし、乞食同然の哀れな境遇に陥る。そして、中毒がひどくなれば、まず、必ず死んだ。彼らには、住む家もなく、路傍で暮らしていたから、多くの場合、気の毒なことに、行き倒れの形で息たえた。さらに満州のように、冬期の寒気が厳しい所では、往々にして、彼らは凍死した。例えば、1915年の満州でいえば、営口では5日間に200余名が凍死する。みなモルヒネ中毒者であって、あまりに死者が多っかったので、慈善堂が用意しておいた棺が不足してしまう。
 また、奉天(ホウテン)ではモルヒネ中毒者が多く行き倒れる。彼らを埋葬する棺が毎日、7、8から十数個にのぼった(『盛京時報』1915年1月23日、及び同年4月24日)。
 ある史料は、彼らが寒気のために凍死したのではなく、実はモルヒネで死んだと述べているが(『盛京時報』1915年2月3日)その通りであった。阿片では、まず死なないのに、モルヒネでは必ず死ぬ。───これが、後者の恐ろしい所であった。


 モルヒネ中毒者の数

 恨みを呑んで死んでいったモルヒネ中毒者は、中国全体では、おびただしい数にのぼるであろう。しかし、残念ながら、モルヒネ中毒による死者の全国的な統計は存在しない。菊地酉治は、次のように、モルヒネ中毒者の数を阿片中毒者の約半数と見ている。

 「例えば阿片癮者千万人ありとすれば、半数500万人がモルヒネ中毒者であります。」(前掲、菊地酉治等『阿片問題の研究』、22頁)


 ただ、両者の割合は地域によって相当の差があったようで、満州国の場合、1938年現在で、阿片中毒者645,007人に対し、モルヒネ中毒者は28,164人という数字を発表している。しかし、モルヒネ中毒者は比較的短期日で死んでゆくので、ある一時点をとって両者の数を比較しても、あまり意味がないかもしれない。両者の割合を知るための、一応の目やすとして、この数字を紹介しておく。
 以上のように、モルヒネが蔓延していった結果、20世紀の中国の阿片問題は、同時にモルヒネ問題でもあったということを、ここで強調しておきたい。



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