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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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731部隊ー細菌攻撃開始はノモンハン

2008年04月30日 | 国際・政治
 中国に於ける被害実態の調査研究の進展や日本軍関係者の業務日誌の発見、また、アメリカの調査記録や秘密裏に取得した資料、さらにはロシアのハバロフスク裁判の起訴準備書類や公判記録その他の発見・研究によって、日本軍細菌戦部隊の実態は少しずつ解明されつつある。しかし、まだ不明なことがいろいろあるという。そして、その不明な部分が日本政府による隠蔽と大きく関わっているというのである。そうだとすれば日本の将来は暗いと言わざるを得ない。アメリカから返還されたという資料の所在が分からないなどということは、常識では考えられないことだと思う。
 また、「731」青木冨貴子(新潮社)には、信じられないような事実が報告されている。アメリカの人権団体から招かれ、アメリカ人とカナダ人の前で講演する予定であった篠塚良雄氏氏(少年隊として15歳で満州に渡り平房の731部隊に所属、細菌培養の仕事を手伝わされ、ノモンハンの前線基地に細菌を運んだことがあるという)が「人道に反する残虐行為に加担した疑い」で入国を拒否され強制送還されたというのである。それが1998年6月25日のことであるというから驚く。そして、戦犯として裁かれるべき当時の幹部は、過去に蓋をしたまま生き延び、要職に就き、追及もされず、アメリカへの入国も自由であるというから開いた口がふさがらない。日本政府の隠蔽体質や戦後処理の問題であると思う。補償の問題も含め、政府自らが一日も早い根本的解決に踏み出してほしいと願うものである。
 「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO389)から、ノモンハン事件での細菌攻撃の部分を抜粋したい。

ノモンハン事件(細菌攻撃開始)--------------------
 平房で細菌などを使ったさまざまな攻撃方法が模索されているさなかの'39年3月26日、参謀本部作戦課と関東軍防疫部との間で会議がもたれた。出席者は、作戦課側が課長の稲田正純大佐と課員の井本熊男少佐・荒尾興功少佐、防疫部側が部長の石井四郎軍医大佐、北条円了軍医少佐、パイロットであり石井の娘婿でもある増田美保薬剤大尉、石井の右腕とも称される増田知貞軍医中佐などという顔ぶれであった。
 この会議で参謀本部側は「○○〔細菌〕作戦研究の結果」を石井部隊側から聴取したが、会議後井本は日誌に「さらに研究を重ね自身を得たる後実地試験に取りかかることが肝要なり」と記した(「井本日記」)。参謀本部内で細菌戦の試験的な実施が考慮され始めたのである。そしてまもなく開始されたノモンハン事件において関東軍防疫部による細菌攻撃が実施されたのである。
 '39年5月中旬「満州国」と「外蒙」(モンゴル)も国境線付近のノモンハンで日本軍とソ連・モンゴル人民共和国軍の衝突が起きた。この第一次ノモンハン事件は、日本側の敗北でまもなく終結したが、関東軍はソ連軍への報復を企図し、6月末に第二次ノモンハン事件を開始した。しかし8月20日に開始されたソ連軍の総攻撃の前に、関東軍諸部隊は総崩れとなった。日本側の敗北が決定的となったこの8月末に細菌攻撃が実施された。
 この攻撃に参加した石井部隊の元少年隊員は1989年に次のように証言している。攻撃部隊を率いたのは、関東軍参謀の山本吉郎中佐で、攻撃の目的は「日本軍の陣地に近いホルステン川(ハルハ川の支流)の上流から病原菌を流し、下流のソ連軍に感染させる。」ことにあった。8月末に二度の出撃がなされたが、菌液投入に成功したのは9月に入った三度目の出撃であった。この時15名ほどの攻撃隊は、22~23個の腸チフス菌入りの石油缶をを携行し、腸チフス菌を培養したゼリー状の液を川にぶちまけたのである。(『朝日新聞』1989年8月24日)
 この山本中佐の攻撃以外に、碇常重軍医少佐率いる決死隊による同様の決戦が行われたとの供述が戦後のハバロフスク裁判においてなされているが、詳細はいまだ不明である。
 ノモンハン事件での細菌攻撃は、効果がなかったようである。石井部隊長はチフス菌を川に撒いても効果がないことを知っていながら、作戦を実施したとさえいわれている。効果があるかどうかという問題よりも、細菌を兵器として使用してみせるというデモンストレーションが石井にとって必要だったのかもしれない。しかしとにかくこのノモンハン事件での使用は、現在のところ日本側での証言のある最初の細菌攻撃であることに間違いない。なおノモンハン事件自体は、日本の惨敗のまま終結へ向かった。

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日本軍関係者の細菌戦実施事実関係記録文書(業務日誌)は、下記の四つである。
●参謀本部作戦課員 井本熊男大佐 業務日誌
●陸軍省医務局医事課長 金原節三軍医大佐 陸軍省業務日誌摘録
●陸軍省医務局医事課長 大塚文郎軍医大佐 備忘録
●参謀本部作戦課長 参謀本部第一部長 真田穣一郎少将 業務日誌

 これらの日誌では、細菌戦攻撃作戦は「ホ号」「ほ号」「保号」「○ほ」などと暗号で呼ばれていた。

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大量餓死者を出した戦場:ガダルカナルほか

2008年04月28日 | 国際・政治
 日本人が目を背けてはいけない歴史的事実として、第二次世界大戦における日本軍の無謀な作戦によって多くの人が尊い命を落としたこと、特にほとんど全ての戦場で大量の「餓死者」を出したことがあると思う。そこで、「餓死した英霊たち」藤原彰(青木書店)から一人の青年将校のガダルカナルにおける状況を記した文を抜粋するとともに、餓死者の概数を拾い出しておきたい。
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 12月27日(1942年)
 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。
どうやら俺たちは人間の肉体の限界まできたらしい。
 生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぽやぽやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変わったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充填物が外れてしまったのをみると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った。
 この頃アウステン山に不思議な生命判断が流行り出した。限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった。
 
 
立つことの出来る人間は………寿命30日間
 身体を起こして坐れる人間は………3週間
 寝たきり起きられない人間は………1週間
 寝たまま小便をするものは………3日間
 もの言わなくなったものは………2日間
 またたきしなくなったものは………明日


 このようにガ島での第一線部隊の食糧欠乏がもたらした凄惨な状況が描かれている。
 こうした状況に陥っている第17軍にたいしても、大本営は11月16日、ガ島において持久戦をせよと命令した。この命令に接したときのことを、第17軍参謀長小沼治夫少将は次のように書いている。

 輸送、補給が続く状況に於いては持久戦が成立するが、輸送補給が杜絶し第一線将兵が飢え杖をついて辛うじて歩行して居る「ガダルカナル」の第17軍が持久任務を受けて何時迄持久し得るやの回答は単に「敵の大攻勢を受ける迄持久し得」というに止まる。………

-------------------------------
 ●ガダルカナル
 上陸人員 31,400名  途中離島 740名  撤収作戦で収容 9,800名  
 戦没者 20,860名 戦死 5,000~6,000名  広義の餓死者15,000名 
 ブーゲンビル島、ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなど中部ソロモン諸島を含めるとソロモン群島の死没者の4分の3に当たるおよそ66,000名が餓死と考えられる。
 また、ラバウルなどビスマルク諸島の餓死者はおよそ27,500名である。
 したがって、この方面の餓死者は 93,500名を下らない数になるという。
(広義の餓死とは栄養失調がもとで病死した者も餓死に含めるということである。)

●ポートモレスビー
 作戦参加(南海支隊)人員 5,586名  補充人員 1,797名 
 損耗人員 5,432名 残人員 1,951名
 歩兵第41聯隊  戦死約2,000名余(3割が弾丸 7割が病死) 
 負傷病気で後送約300名  生存者約200名 
 堀井混成旅団(南海支隊) 15,000名 救出3,000名 
 
●ニューギニア
 第18軍及び海軍第9艦隊計148,000名  生還者13,000名
 第18軍司令官安達中将(自決)の遺書には
 「又作戦三載の間十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪い而して其の大部は栄養失調に起因する戦病死なることに想到する時御上に対 し奉り何と御詫びの言葉も無之候……」
 
 厚生省によると、東ニューギニア(上記ポートモレスビーとニューギニア)の戦没者は127,600名で、関係者の回想や報告を基づい て計算すると約114,840名が餓死と考えられる。

●インパール(ビルマ戦線)
 兵力 303,501名  戦没者 185,149名  帰還者 118,352名 
 烈兵団の村田中隊の割合で概算すると全体では、
 戦病死(広義の餓死)約145,000名となる。

●孤島
 太平洋の孤島に置き去りにされて餓死した兵も多い。人数が示されているウェー ク島では死没者陸軍 921名 栄養失調による病死者 834名 戦死者87名で 餓死が90%を上回る。
 死没者海軍 810名 栄養失調506名 戦死 204名
 厚生省調査では、中部太平洋の戦没者247,200名で およそ123,500名が病死、餓死である。

●フィリピン 
 動員兵力 613,600名  戦没者 498,600名 
 第30師団の場合は、総員15,500名  戦死2,518名 病死2,137名 
 生死不明 5,593名 
 生存者 3,024名(生死不明者はほとんど戦病死であるという)
 全体では、戦没者498,600名のうち、約400,000名を餓死とみることができるという。
   
●中国戦線
 戦没者総数 455,700名  帰還者数 1,528,883人
(陸軍軍人軍属 1,050,000人)
 大陸打通作戦(湘桂作戦)の場合 戦死11,742名  戦傷22,764名  
 戦病66,543名
 第20軍の芷江作戦の場合 戦死695名  戦傷死 322名  
 戦病死 2184名  合計3201名
 中国戦線全体では、227,800名が栄養失調を原因とする病死であると考えられている。

 その他の地域を含め、全体としてみると、軍人軍属の戦没者230万名のうち、
140万名を餓死とみることができるというのである。(戦没者は一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると310万である)

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731部隊(細菌戦ー関係者の業務日誌)

2008年04月26日 | 国際・政治
 「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)に、日中戦争中最大規模の細菌戦が行われた浙贛作戦<セッカンサクセン>(1942年)を前に、関東軍軍医を集めて行われた講演(関東軍牧軍医「細菌戦ニ就イテ」満州帝国軍医団雑誌46号1942年)の一節が出ている。
----------------------------------
 ”細菌戦は、敵に決して気付かれないようにやらなければならない。できれば、自然流行のようい、もともとそこに、菌があったかのような状態で、撒かれるのがいちばんよい。そのために事前に入念に「兵要衛生地誌」を調べておく必要がある。
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 こうした作戦が、戦後の細菌戦の実態調査を困難にさせた原因のひとつになったようである。
 また、「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」には、加害者側の細菌戦実施の証拠として、下記のようなことも取り上げられている。
----------------------------------
・・・
 1993年8月14日日本の朝日新聞は、一つの記事を掲載しました。日本防衛庁防衛研究所図書館が保存している日本陸軍軍官の業務日誌に次のようなことが書かれていました。1941年11月4日、一機の爆撃機は、中国湖南省の常徳で、ペスト菌を持つノミを、36キロ散布した。二週間後、ペストの大流行という「戦果報告」云々と。

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 この日本陸軍軍官の業務日誌について「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」には詳しいことは書かれていないが、「日本軍の細菌戦・毒ガス戦731部隊国際シンポジウム実行委員会編(明石書店)によると、それは参謀本部作戦課員であった井本熊男大佐の業務日誌のようで、その内容は下記の通りである。

(二)1941年の細菌戦------------------------
 1941年11月の常徳に対するペスト菌攻撃も、大陸指に基づいて行われた。「井元日記」には「ホの大陸指発令」と記されているのである。(9月16日)。飛行機からの細菌撒布の模様は次のように記されている。

 4/11[11月4日]朝目的方向の天候良好の報に接し97軽一キ出発〔4字分抹消〕。0530出発、0650到着。霧深し。H〔高度〕を落として捜索、H800附近に層雲ありし為、1000m以下にて実施す(増田〔美保〕少佐操縦、片方の開函不十分。洞庭湖上に函を落す)。
 アワ36kg、其後島村参謀捜索しあり。
 6/11常徳附近に中毒流行〔中略〕
 20/11頃猛烈なる「ペスト」流行、各戦区より衛生材料を集収しあり。
  判決
 「命中すれば発病は確実」(「井元日記」11月25日


 ペストノミ(「アワ」)が常徳に投下されたことは、日本側の資料によっても確証されたことになる。
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 なお天皇の命令は「大陸命」で、「大陸指」は参謀総長の発令であるという。そして、「大陸指」の案文は天皇に提出することが慣例であったという。したがって、細菌戦は天皇を中心とする日本軍(陸軍中央)の作戦であるということなのである。ソ連の侵攻時、その証拠隠滅が最重要課題であったわけがそこにあるといえる。

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731部隊(細菌戦部隊)

2008年04月24日 | 国際・政治

 関東軍第731部隊石井四郎は「1945年ー8ー15終戦当時メモ」に、東京から新京に駆けつけた軍司令官が<徹底的爆破焼却>を命じたと記録しているとのことであるが、その軍司令官である当時の参謀本部作戦課朝枝繁春主任本人も、1997年テレビ朝日ザ・スクープの取材に対し、「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と石井に告げたと答えたそうである。
 また、その朝枝は新京でソ連軍の捕虜となっているが、シベリアに連行される際軟禁されているハルピンの副市長官舎で、ひそかに関東軍首脳を集め、口裏を合わせる会合を開いている。その時の合意内容は
「かねてソ連より睨まれている防疫給水部 ── 石井部隊のことは必ず調査を受けることになるでしょうし、内実が発覚すれば、国際問題になります。ひいては陛下に………でありますから、あの部隊は統帥系統のものでなく、軍政系のもので、陸軍省医務局の管轄下にあり、参謀本部や出先の関東軍司令部の知ったことではないということに………。ただ、全く知らないといえば、却って疑われる。間接的に聞いたことにして、誰かと訊問されたら、太平洋で死んだ者の名を出すことに……」
ということである。この会合に顔を揃えたのは、「731」青木冨貴子(新潮社)によると、終戦時の関東軍総司令官山田乙三大将、秦彦三郎総参謀長、瀬島龍三参謀ら20名ほどであったという。
 したがって、信じ難いことではあるが、下記のような被害者の証言は事実と認めないわけにはいかない。下記の証言は「中国侵略の空白(三光作戦と細菌戦)」アジアの声12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)よりの一部抜粋である。同じような悲惨な体験の証言が多数あることを忘れてはならないと思う。
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              私が目撃したペスト菌投下【寧波】
                            細菌戦被害者 何祺綏(ハーチスイ)
・・・
叔父をはじめ次々に14人が死ぬ
 1940年10月27日の午後、一機の日本軍機が寧波に飛んで来て、上空をぐるぐる旋回し、何か物を投下しました。その時の様子は、黄色のけむりが撒かれたような感じでしたが、はっきり見えました。投下した物はいったい何なのか、その時は全然分かりませんでした。地上に落ちた物をじっと見てやっと分かりました。それは小麦、小麦の粉、トウモロコシなどの穀物と、ノミがいっぱいでした。それがペスト菌に汚染されたノミだったのです。
 当時私の父は開明街に店を開いていました。元泰酒店という酒屋で、この辺りはお店ばかりでした。住居と店はちょっと離れていました。27日にノミが投下されて、29日に隣の豆乳の店の主人夫婦が発病しました。昔は車が無かったから、人力車に乗せて病院に運ばれました。29日にペストを発病して、まもなく亡くなったんです。その後の数日間、死者の数はだんだん増えていきました。

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            日本軍は家族を奪い、我が家を没落させた
                        細菌戦被害者 何英珍(ハーインチェン)

 ・・・
 日本軍国主義者は中国の東北、華北、華中を占領しました。華中の湖南省は日本軍による被害が最も大きかった被災地区の一つです。日本軍は、至る所で、強姦、略奪、殺人、放火といったあらゆる悪事をしました。
 常徳ではさらに非人間的な細菌戦を行いました。私の家は細菌戦の被害をこうむった多くの家庭の中のひとつです。平穏無事であった家庭で、20日も経たない内にペストのために6人の命を奪われてしまったのです。飼っていた犬までも難を逃れることはできませんでした。なんと悲惨だったことか。
 私の家で最初に日本軍の細菌戦によって殺害された人は兄の妻、つまり私の義理の姉の熊喜仔でした。幼い時から我が家で暮らしてきた彼女は、当時満30歳になろうとしており、三児の母親でした。彼女は毎日あれこれと忙しく働き、子どのの世話をしながら家族全員の生活を営む、良妻賢母の主婦でした。ある朝、朝食が済み後片付けを終えて便所に行こうとした彼女は突然倒れてしまいました。みんなで彼女を助け起こし寝台に寝かせましたが、もはや言葉が話せず、高熱で昏睡状態に陥りました。呼吸が困難になり、首のリンパ腺が腫れ上がったので、みんなはジフテリア(白喉病)に罹ったかと思い、漢方の薬を調合して喉に当てました。しかし、まもなく彼女の顔は紫色に変わり、体にも紫の斑点が現れ、気息奄々の状態になりました。そして、昼近い頃、息を引き取りました。みんなは非常に悲しみました。とくに頼り合って生きてきた兄は泣き潰れました。大人たちの話によると、義姉は二日前から寒気がし、熱があると言って体の不調を訴えていました。でも、体を休めるように勧められても立ち働いていたので、日本軍機が撒布したペスト菌に感染していたのだとは、最初は誰も思いませんでした。
 人が死ぬと、中国では普通遺体を棺に入れて土の中に埋葬します。今日のように火葬したら、遺体を焼却し跡を残さないといって、不幸者、大逆罪と思われます。けれど、当時の政府はペスト患者は一律に隔離し、遺体は全て野外に運んで火葬させました。ですから、私たちは火葬されるのを恐れて、義姉が亡くなるとすぐ門を閉ざしました。泣くことさえ大きな声ではできず、深夜になって、小さな舟を借りて家の後ろにある河から、こっそり遺体を運び出し、河の向こうの徳山に埋葬しました。
 家で二番目に日本軍の細菌戦によって殺された人は義理の兄、二番目の姉の夫で、名前は朱根保と言い28歳でした。元々彼は私の家で仕事の手伝いをしていて二番目の姉と結婚し、男の子が生まれて我が家の一員となりました。義姉が亡くなってから、彼はその葬式を営んだりしており、体の丈夫な彼が義姉の後を追っていくとは思いもよりませんでした。義姉が亡くなって三日目、朝食が終わって、彼は袋詰めの唐辛子を粉にして販売するため、ベランダ(支柱で支え、水面に張り出して作られた部屋)に担ぎ上がって日干しをしようとしました。しかし、階段口まで行って、突然倒れました。症状は義姉の時とほぼ同じでした。私たちは、気が気でなく、父が中心となって、どうすべきか相談しました。こんな病気だから治療に出してもその甲斐がない無いばかりか、出ていったら最後もう戻ってこれないでしょう。家で十分療養したら、体も丈夫だから、もしかしたら危険な状態から脱し、九死に一生を得ることができるかもしれない。私たちは万にひとつの希望にすがり、側で見守っていました。しかし、みんなの期待とは裏腹に義兄の病状は悪化し、その日の夜亡くなりました。翌日の夜、またこっそりと彼の遺体を運び出し、徳山に埋葬しました。

・・・

 家ではまた子ども二人がペストに感染しました。一人は私の可愛い弟・何毛で当時わずか二歳でした。もう一人は亡くなった義姉の次女・何仙桃で、同じくわずか二歳でした。二人は相次いでなくなり、厳家崗に住む母方の祖母の家の近くに埋葬されました。

・・・

 父と兄は少しある家財道具を捨てきれず、常徳に残りました。また、江西の郷里に親戚を訪ねていった父の兄と弟に手紙を出し、家で起きた不幸を知らせたので、二人のおじさんは日に夜をついで家に向かいました。ある深夜、二人はこっそり常徳市内に潜り込み、不気味な家に戻りました。
 当時の二人の悲しい心境と疲れ切った様子は想像できることでしょう。伯父の何洪発は50歳近くで、叔父の何洪源は40歳過ぎでした。二人は家に戻ると避難することを拒みました。そして、何日も経たない内に、二人はペストに罹り、相次いで亡くなりました。二人の遺体もこっそり運び出され、徳山に埋められました。

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 細菌戦被害地の調査は、日中国交正常化まではいろいろな意味で限界があった。1990年代に入ってやっと日中相互の情報を突き合わせた本格的な調査が実施され始めたようである。

●寧波では、1997年9月「侵華日軍細菌戦寧波調査委員会」が設立され、すでに判明しているペスト死亡者106名以外の調査活動が始めらた。コレラによると思われる死亡者が多数発生していることが判明している。

●常徳では、1998年3月侵華日軍731部隊細菌戦受害調査委員会がつくられ、過去の調査を基に各村に入って調査がされ、ペスト感染死亡者は11か村、2425人の名前が報告された。その後の調査では、5000人近くが死亡しているという。

●義烏では、1998年2月「義烏市侵華日軍細菌戦調査委員会」が発足し、9月には義烏市周辺46か村1070人がペストで死んだと名簿を添えて発表した。調査は続行中であるという。

●衢州では、1998年10月「侵華日軍細菌戦受害舎調査班」をつくり、12月までに161人のペスト死者名簿を作成した。この後もさらに大々的な調査を行う予定であるという。

●江山では、1998年3月「江山細菌戦受害調査小組」が組織され、200人以上のコレラによる死者と90人のチフス死亡者が確認されている。

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三光作戦・三光政策(燼滅掃蕩作戦)ー冀中作戦

2008年04月22日 | 国際・政治
 北支那方面軍司令官岡村寧次の五一大掃蕩の一環として、聯隊を指揮し冀中作戦を展開した陸軍少将の証言と、その被害者の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋する
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           中国の戦犯管理所で書いた供述書
                 陸軍第59師団歩兵第53旅団長 陸軍少将 上坂 勝

(一)「冀中侵略作戦」
  1942年5月下旬河北省安平県安平北方滹沱川及潴龍川中間地区おいて北支方面軍により計画され、大百十師団長中将飯沼守の指揮命令に依り実施せられたものであります。
  師団命令の要旨「師団は安平北方滹沱川及潴龍川中間一帯の地区を掃蕩し、八路軍根拠地を覆滅せんとす。歩兵第163聯隊は一部を以て定県より主力を以て保定ー徐水間の地区より前記の地区に向ひ進出すべし。進出日時はX+1日正午とす。本作戦間各部隊は努めて機会を求め地下壕の戦闘に赤筒及緑筒を使用し、その用法を実験し作戦終了後所見を提出すべし。各聯隊に赤筒及緑筒○○個を交付す」


 以上の命令により私は聯隊長として本部、通信班、第一大隊、第二大隊、第三大隊、歩兵砲中隊約1500名を抽出し、この侵略作戦に参加しました。

・・・

(1)第一大隊方面(北たん村事件 ── 編者)
 第一大隊は5月27日早朝定県を出発し、侵略前進中、同地東南方約22粁の地点に於いて八路軍と遭遇しました。大隊は直ちに主力を展開して之を包囲攻撃し、八路軍戦士に対し殲滅的打撃を与えたのみならず、多数の平和住民をも殺害いたしました。
 大隊は此の戦闘に於いて赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し、機関銃の掃射と相俟って八路軍のみならず、逃げ迷う住民をも射殺しました。又内を「掃蕩」し多数の住民が遁入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ、或いは苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました。私は此の戦闘に於いて第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約800人に上り、又多数の兵器や物資を掠奪させました。以上は第一大隊長大江少佐の報告によるものです


(2)聯隊主力 
 聯隊は北たん村滹沱川北岸地区に進出し左の師団命令を受けました。
───「上坂部隊は某村より某村に亘る地区を粛正掃蕩し該地区に框舎を構築すべし」。之に基き私は聯隊長として以下の命令を下しました。──「各大隊は其の担任地区を粛正掃蕩し該地区内に框舎を構築すべし、各大隊担任地区の境界次の如し(略)」(但第一大隊は警備態勢に復帰しました)。此の掃蕩戦では地下壕内に赤筒、緑筒を使用しました。即ち地下壕内に遁入した住民や八路軍戦士に対し此の毒瓦斯を壕内に投げ込み両方の入り口を閉塞して中国人民に多大の災害を与えました。其の殺人は約300名で住民中には多くの八路軍が混入しありと推測して居ます。以上は各大隊及東軍医大尉の報告に依り推定いたしました。


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              井戸の周りで沢山の人が死んでいた
                                   李振忠(リチェンチョン)
・・・
 虐殺事件の歴史的背景 
 1942年5月27日に日本軍が三光作戦の中で行った惨殺事件は、住民側に大きな被害を与えました。殺された人の名前と死体の確認ができた者だけで800人を超えています。北たん村というのは決しておおきな村ではありません。事件当時220世帯が住んでいましたが、事件後まだ地下道には掘り出されていない死体が多数ありました。虐殺によって38世帯の家族が一家全滅させられたのです。中国のごく普通の村になぜこれほどの被害が日本軍によって加えられたのか、その歴史的背景を述べさせていただきます。
 1937年7月7日に廬溝橋事件が勃発しますと、北たん村のすぐ近くある定県が日本軍に占領されましたが、国民党軍は抵抗しないで南へ撤退してしまいました。その後村の人々は共産党軍に加わり、ありったけの力で日本軍に抵抗しました。北たん村は見渡す限りの平野にあって、住民たちは日本軍から逃げようとしても隠れる所がありません。そこで村民は日本軍に対抗する手段としていろいろ工夫を凝らして地下道を掘る方法を編み出しました。その後地下道は改築され、当時の地下道は高さが2メートル、幅は二人の人が通れるくらいでした。村民はその地下道を利用して戦いました。
 日本の兵隊が多ければ地下道に入って身を隠し、反撃しませんでした。敵が少ない時は村民は銃とか地雷とか粗末な武器で抵抗し、大敗させました。また、隣の村の若者たちもゲリラを組織して抵抗したので、日本軍も新しい方法をとるようになりました。
 1942年5月、日本軍は抗日根拠地を殲滅するため新しい戦略を打ち出し、華北で食糧や資源の大規模な掠奪を始めました

上坂部隊が村を襲う
 そして5月27日、北たん村は陸軍第百十師団第百六十三聯隊の上坂勝に率いられた部隊に襲われました。近くに迫っていた2~3000人の兵力が北たん村に動員されてやってきたのです。日本軍が攻撃してくるとの情報が届いた時、村に残っていた八路軍の兵士は少数しかいませんでした。村民は地下道に逃げました。27日朝、村は日本軍に包囲され、戦闘が始まりました。粗末な銃や地雷で必死に戦いましたが、兵力でも武器でも日本軍の方が圧倒的に勝り、八路軍は弾丸が尽きて地下道へ入ってきました。日本軍は八路軍の兵士が見えなくなったので、懸命に探し、午後から地下道の入り口が次々に発見され、結局地下道の出入り口のほとんどが発見されました。
 日本軍は携帯していた毒ガス弾を次々に地下道に投げ込み、毒ガスを外に出さないように出入り口の上を濡れた布団などで塞ぎました。地下道の中は大混乱状態になりました。子どもたちの泣き叫ぶ声があちこちであがりました。地下道の中にいた人々は唐辛子のような匂いと火薬の匂いが目にしみて、涙が出るし鼻水が出るし、非常に苦しみ始めましたが、地下道の出入り口がほとんど全部日本軍によって塞がれていたので外へ出られず、バタバタと沢山の人が死んでいきました。体の丈夫な者や若い人は必死に外へ出ようとしていました。地下道には八路軍の兵士もいましたが大部分は村民で、幸い脱出できても外に待ち構えていた日本兵に銃殺され、若い者は日本軍に捕まっても抵抗したため木に縛り付けられて銃剣で突き殺されました。日本兵は死んだ後も銃剣で何度も突き刺していました。

  
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三光作戦・三光政策'(燼滅・掃蕩作戦)

2008年04月19日 | 国際政治
 「三光作戦」とは、日本軍が中国を侵略した際に行った軍事的・計画的残虐行為に対し中国人が命名したものであるという。中国では「光」という字には「すっかり無くす」とか「徹底して行う」という意味があり、殺光=殺しつくす、焼光=焼きつくす、搶光=奪いつくすの三つを合わせ「三光」として、日本軍の軍事的・計画的な残虐行為を非難する意味を込めて三光作戦・三光政策と呼んだというのである。

 華北一帯に抗日根拠地をもつ中国共産党八路軍のゲリラ活動に手を焼いた日本軍は、この広い地域を無人地帯(無住禁作地帯・無人区)にし、この地域の住民は「集家併村」と称して一定の場所(集団)に囲い込むか、燼滅・掃蕩し、地域住民と密着してゲリラ活動を展開する八路軍を地域住民から切り離すとともに、八路軍とその抗日根拠地の存続を不可能ならしめようと意図したのである。

 集家併村(集団の設置)は、万里の長城線以北の関東軍側が主として先行し実行したようであるが、中国の人々はその集団を家畜同様に扱うところという意味で「人圏」と呼んだとのことである。実際この集団で多くの人が餓死・凍死・病死したという。

 三光作戦は、1940年8月華北の八路軍が「百団大戦」と名づけた攻勢に出て、日本軍の小拠点を占領し、鉄道や炭鉱、通信線などに大きな被害を与えたため、北支那方面軍の第一軍参謀長田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命じて反撃に出たのが端緒であると考えられている。「燼滅目標及方法」として
1.敵及土民ヲ仮装スル敵 2.適性アリト認ムル住民中16才以上60才迄ノ男子(殺戮)
3.敵ノ秘匿シアル武器弾薬器具爆弾等 4.敵ノ集積セリト認ムル糧秣 5.敵ノ使用セル文書(押収携行止ムヲ得ザル時ハ焼却)
6.適性(焼却)

と命令しているのである。

 したがって、岡村寧次大将が北支那方面軍総司令官に就いた、1941年7月には、すでに三光作戦は始まっていたといえるが、就任後ただちに「晋察冀辺区粛正作戦」を発動し、八路軍を危機的状況に追い込んだため、中国側は日本軍・北支那方面軍兵団長会議において、北支那方面軍総司令官岡村寧次が三光作戦を画策したものであるとして、最高責任者は岡村寧次大将としているとのことである。

 国際法で禁じられている毒ガスの使用ももちろん大問題であるが、いわゆる「三光作戦」の最大の問題は、むしろ地域住民に密着してゲリラ活動を展開する八路軍に手を焼いた日本軍が、地域住民(一般民衆)そのものを敵視し、燼滅・掃蕩・剔抉の対象にしたということであろう。

 その犠牲者について、姫田光義氏は「華北根拠地での被害を総計すると少なく見積もっても247万人以上という数字が出てくる。この中には強制連行された人びとのその後の運命はカウントされていない」という。(「三光作戦」とは何だったのかー中国人の見た日本の戦争ー姫田光義 岩波ブックレット

 下記は、元日本軍の小林実氏の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋したものである。
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・・・
 私の部隊は長城線におりまして、中国共産党の八路軍を敵として徹底的に戦った部隊でございます。長城線は万里の長城にありました。長城線の両側に住民の家があったり人が住んでいると、抗日の民兵が「満州」から入ってきたり向こうに出たりして日本軍の作戦の邪魔になります。あるいは八路軍が入って来てそこに拠点を作る。それでは日本軍が統治するのに具合が悪いということで、無住地帯つまり「無人区」を日本軍が設けたのです。
 その地域にある中国人のは、15軒から20軒という小さなまでも全部焼き払っちまったんです。証言にもありましたように、全部家を焼いてしまった上で、日本軍の都合のよい所に、ある程度大きな集団を作りました。その無住地帯・無人区の状況から申し上げます。
 無住地帯は一つや二つ、三つじゃないんです。日本軍が無人区をつくるためにとった作戦は、徹底的にの人たちの家を焼いたり、あるいは壊したりすることです。ある地域のここからここまでと決めた区域は全部家を壊して焼いてしまうという作戦だったものですから、軍隊がみんな行ってただ家を壊すだけでなく、火をつけて焼いてしまいました。その結果住民たちが、自分の着物やら家財道具を持って別のところへ引っ越さざるを得ないんですが、日本軍は、そんなことにはお構いなく、無住地帯にするため人が住んではいけない、家があってはいけないということにして、全部火をつけて焼いちゃったんです。
 黙っていればみんな無住地帯にされ、殺されたりするといことを察知した農民たちは、家や家財道具をそのままにして、どんどんと余所へ逃げ出しました。
 それを知った日本軍は、統治できないところに逃げられては困るからと、軍隊を出して銃で農民たちを押さえ、全員を数珠つなぎに縛って部隊へ連れてきた。そして、その人たちをみんな殺したんです。そういう状況ですから、あちらでもこちらでも日本軍に抵抗した農民やご婦人がいましたが、捕まえてきて全員射殺しました。あるいは、中国には地下に掘った野菜貯蔵庫というのがあるんですが、その中へ捕らえて来た住民を全員手を縛って押し込めて、上から火を付けて、生きたまま焼き殺してしまったんです。
 それでもまだ農民たちは抵抗しました。そして抵抗しながら逃げまわるのを日本軍が捕まえてくると、穴を掘りまして、抵抗した若い農民をその前に座れせて、そして日本軍の初年兵に「人を突く練習だ」、あるいは「人を殺さなかったら戦争にならないんだ」と命令して銃剣で突かせ、その穴に農民を放り込んで、上から土をかけて埋めました。

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 さらに続けて、残虐この上ないことも証言している。
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 特に中国で犯した残虐行為として、中国の城壁がありますが、捕まえてきた中国の人たち、八路軍あるいは抵抗した農民の首を斬り落として、その生首を全部、城壁の上に20も30も並べておいたことがあります。
 その晒された首を見て、殺された人の両親や兄弟には、遠くからでも自分の息子や親戚の人たちの首がどれかわかるので、それを夜ひそかに取りに来るんです。そのことがわかっているから日本軍は銃を持って待ち伏せて、取り戻しに来た人達をみんなその場で射殺しました。
・・・

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中国戦線従軍記より

2008年04月17日 | 国際・政治

 「中国戦線従軍記」藤原彰(大月書店)より、何カ所か抜粋したい。まず、歴史上前例のない割合の餓死者を含む、日本軍兵士の死没者数についてである。
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・・・
 昨2001年5月に、私は『飢え死にした英霊たち』という題の本を出した。この本では、第2次世界大戦における日本軍人の戦没者230万人の過半数が戦死ではなく戦病死であること、それもその大部分が補給途絶による戦争栄養失調症が原因の、ひろい意味での餓死であることを、各戦線にわたって検証した。そして、大量餓死をもたらしたものは、補給を軽視し作戦を優先するという日本軍の特性と、食糧はなくとも気力で戦えという精神主義にあったことを論じたのが、この本の趣旨であった。

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 餓死が6割とか7割、あるいはまた8割以上という説などもあるが、いずれにしてもあらゆる戦場で補給なき戦いを強いられ、歴史的に例のないような大量の餓死者を出したことは間違いのない事実である。日本軍兵士の戦場の記録には、必ずといっていいほど食べるものに窮した事実が出てくる。住民を敵に回わさざるを得ない供出の強制や掠奪・強奪は当たり前で、そうしたことさえできない状況に追い込まれた事実も数多く報告されている。「死の島」と呼ばれたニューギニアやミンダナオ島をはじめとするフィリピンの島々、小笠原の父島などで発生した日本軍兵士の人肉食事件は、長期間にわたるそうした異常事態の中で発生したことを忘れてはならないと思う。それは、公然と「敵弾適食で戦え」という大本営や参謀本部の問題なのだとも思う。
 下記は第二十七師団支那駐屯歩兵第三聯隊や中隊の具体的な数である。
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 1944年4月から敗戦後帰国するまでの「大陸縦断作戦」間における聯隊の死没者1647名のうち、戦死509名、31%、戦傷死84名、5%、戦病死1038名、63%、その他(不慮死、不詳など)16名、1%である。すなわち戦死者の2倍以上の戦病死者を出しているのである。なお私の第三中隊は中隊長として戦病死者をなるべく出さぬよう努力したつもりだが、それでも戦死36名、47%、戦傷死六名、8%、戦病死35名、45%となっている。ガダルカナルやニューギニアと違って、人口稠密で物資の豊富な中国戦線では、餓死者など生じなかったと思われがちである。だが、大陸打通作戦の実態は、補給の途絶から給養が悪化して多数の戦争栄養失調症を発生させ、戦病死者すなわち広義の餓死者を出していたのである

---------------------------------- また、「長台関の悲劇」の中で、凍死者を出した事実も報告されている。その一部を抜粋する。
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・・・
 5月15日の早朝から一晩の休養をとった中隊は、本道に戻って行軍に移った。進むにしたがって、道路は昨夜の雨による泥と、人馬にかき乱されたぬかるみで、歩きにくくなっていた。そしてさらに異臭が鼻をつきはじめた。馬や騾馬の死体が、泥のなかに横たわっているのである。そのなかに放棄された車も見えだした。とても本道を歩けないほどの凄惨な光景があらわれだしたのである。これが長台関の悲劇の、翌日の現場だった。
 炎天下の行軍を避けて夜行軍をおこなっていた師団は、淮河の唯一の渡河点である長台関を前にして、それまでの三縦隊が一本にまとまったため、ひどい行進縦隊をおこした。しかも、昼間の炎熱とはまるで逆の烈しい氷雨に打たれたのである。雨はしだいに豪雨となり、一寸先もみえない真暗闇となってしまった。泥が膝を没する道路の周囲は、これも歩行を許さない水田である。このため行軍は行きづまり、雨に打たれて凍死する者も出てきた。各部隊はバラバラになり、沿道のに難を避けるものがつづいた。悲惨なのは山砲や歩兵砲などの馬部隊で、馬や大砲を見捨てることができず、泥の道路で立ち止まって、一夜を明かす以外になく、多数の犠牲者を出したのであった。
 日中は炎熱で日射病が出るほどなのに夜の豪雨とぬかるみで凍死者を出すという、五月の中国大陸で、考えられないような事故がおこったのである。後の調査では、師団の凍死者は166名、聯隊は47名の犠牲者を出した。

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 次に、戦争と軍隊を専門とする歴史研究者として名高い藤原彰氏は、陸軍士官学校を卒業して第二十七師団支那駐屯歩兵第三連隊に所属し、小隊長や中隊長としてあちこちの戦闘に参加したとのことであるが、中学五年を四年一学期で修了し、本来の予科二カ年を一カ年で修了、隊付け教育半年を四ヶ月で、さらには伍長や軍曹は各一ヶ月、士官学校本科二カ年を一年三ヶ月で修了して卒業したため、実際に戦場に臨んだ際には役に立たなかったことが少なくなかったという。満十九歳と三ヶ月で少尉である。特に問題だと思うことは、国際戦時法などが省略されたため、適切な捕虜の扱いに関する問題意識などもほとんど持ち合わせないで従軍していることである。こうした無茶な将校の短期育成も大本営や参謀本部の問題であると思う。そうしたことが、下記のような現地住民に対する配慮を欠いた差別的処遇や人権侵害さらには虐殺となって現れることとなった面もあるのではないかと思う。 
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・・・
 景和鎮での第三中隊の日常は、分散配置の小駐屯隊としては規則正しいといえた。起床、点呼、食事、消灯などは規則正しくおこなわれ、内地の兵営のように喇叭で合図をしていた。日課としては銃剣術が熱心におこなわれていて、実弾射撃も頻繁におこなわれていた。戦地の特権で、内地の部隊よりは実弾が自由になるからだったろう。ただし内地のように設備の整った射撃場があるわけではなく、街の外の畑に標的を立てて実弾を発射していた。農民にとっては、非常に危険な行動で、日本軍の傍若無人ぶりのあらわれだったといえよう。私は射撃をするというので、はじめて立ち会ったとき、兵舎を出てすぐの街外れの畑でいきなり実弾を発射したのにびっくりした。一般人家へ危険が及ぶことへの配慮がまったくないのに驚いたのである。このような民衆への差別感はこれからもくりかえされ、しだいに麻痺していくようになった。

・・・

 八路軍側は(日本軍の)自転車隊への対策として周辺に壕を掘り、の間は坑道でつなぎ、連絡壕に段差を設けて自転車の通行を妨害するなど、さまざまな対抗策を講じていた。日本軍支配下の治安地区と八路軍が支配している解放区の境界あたりの民は、八路軍がくると壕を掘らされ、日本軍がくるとそれを埋めさせられた。
 あるとき山崎中隊長は、新しく壕が掘られていたで、住民を集めて壕の中に代表者の男性をすわらせ、壕を掘った罪で射殺すると通訳に言わせた。それが本気だとわかると、集められた老幼婦女子がいっせいに号泣して生命乞いをした。壕を掘るのも埋めるのも強制されてのことで、民にとってさぞ災難だったろう。

・・・

 中国に赴任して八路軍と戦うまで、私は中国共産党についても、農民の状態についても、何の知識もなかった。そもそもこの戦争は、皇威になびかぬ暴戻支那を鷹懲するためのものだと、教えられたことを、そのまま信じていた。そして、中国の民衆を天皇の仁慈に浴させるものだと思い込んでいたのである。しかし、戦場に到着して早々に体験した現実は、を焼いたり、農民を殺したり、およそ民衆の愛護とか天皇の仁慈とかいう美辞麗句とは縁遠いものばかりで、何かおかしいと、しだいに感じはじめていた。その疑問は、勇猛な指揮官だと讃えられている上官にじかに接することで、いっそうふくらんだ。
 分屯地に赴任してしまうと、聯隊長や大隊長に出会うのは、討伐の途中だけである。その際の幹部の印象は、それぞれに強烈だった。聯隊長山本募大佐は、のちにビルマ戦線の歩兵団長として勇名を馳せた人で、剛毅果断という評判が高かった。あるで、民が八路軍に通謀している疑いがあるという理由で、聯隊長自身が大声で「燼滅!」と命じたのを聞いた。それが「焼き尽くしてしまえ」という意味であることがわかって、驚いた。聯隊長じきじきの命令で、兵たちははりきって一軒一軒に火をつけて廻りはじめた。に残っていた一人の老婆が、兵の足にすがりついて放火をやめるように懇願したが、それを蹴倒して作業を続けている。それを見て、こういうことでよいのだろうかという疑問を感じた。

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中国戦線従軍記よりーNO2

2008年04月17日 | 国際・政治
 前回と同じ「中国戦線従軍記」藤原彰(大月書店)より、日本軍の作戦上の問題部分を抜粋したい。
湘桂作戦はじまる--------------------------
・・・
武昌からトラック輸送となった聯隊は、翌5月28日崇陽を経て桂口市に着いた。ここではじめて、これからの任務が道路構築であることを知らされた。大作戦参加というので勇みたって、満州からはるばる駈けつけてきたのに、その任務が道路構築だと聞かされて、がっかりしたのは事実である。
 自動車輸送が終わった後、5月31日ごろから、通城・平江間に割り当てられた自動車道路の補修作業に取りかかった。自動車道路といっても、この地域は何回も日本軍の進攻作戦にさらされており、道路は中国軍によって徹底的に破壊されていた。図上に記号はあるものの、まったく原型を留めていない個所が多く、道路そのものが水田に化してしまった部分もあった。山地が多いのにくわえて、平地の部分は水田と湿地で、いったん雨が降れば流れはたちまち氾濫して道路はぬかるみと化し、どうやって自動車を通すのか途方に暮れるありさまであった。
 軍は師団の作業力に期待していたそうだが、われわれ歩兵部隊には何の土木器材もない。各兵の個人装備の円匙(スコップ)と十字鍬(小型の鍬)は、個人用の壕を掘るためのものだが、これ以外に器材はもっていない。周辺の農家から徴発してきた農具の鍬やモッコを使うのだが、作業の進展は知れたものだった。それでも、各中隊に区間を割り当てて競争させるので、苦心の末どうにか道路らしい形を作り上げたが、兵の苦労はひと通りのものではなかった。

・・・

 五ヶ月前、ぬかるみのなかで苦闘しながら、歩兵部隊に自動車道路を構築しろという命令を出す軍の認識不足を怨んだのであった。そういえば、水田のなかで泥まみれになっているわれわれの現場を、一人の参謀も軍の当事者たちも訪れてはこなかった。実情は後方の司令部に伝わっていなかったのである。いまここの毎日餓死者を出している野戦病院の悲惨な実情を、作戦参謀は知っているのだろうか。少なくともだれかは、第一線の視察にくるべきだろうと思った。それとともに兵の大半が栄養失調に倒れるのは、兵本人の責任ではなくて、補給を十分におこなわない軍の責任であること、そのような補給の困難さを承知していながら、作戦を計画し、実行したものこそすべての責任があることを悟るべきだと思った。
 さらに、この作戦は、はたして何のために始められたのか、そのことについても疑問をもつようになった。はるばる関東軍から増援されたわが師団は、湖南省辺境のこんな山のなかで、作戦開始後半年以上たっても先の見込みもなく苦戦している。大陸縦断路の打通も、国民政府の打倒も、米空軍基地の覆滅、いずれの目的もいつ果たせるかわからない。太平洋の戦局はいよいよ不利で、作戦開始後の六月にはマリアナ諸島を失った。ヨーロッパでも六月には、連合軍によるノルマンディー上陸が成功し、ドイツの運命も定まった様子である。作戦目的についても、戦争の将来についても、暗い予想しかできなかった。自分の未来もいつどこかで死ぬ以外ないと予想せざるを得ないのである。
 入院は、いろいろなことを考えさせる機会になったのである。とくに野戦病院の実態について考えさせられた。このままではまるで戦傷病者の墓場である。栄養失調でつぎつぎと死んでいくのを、手をこまねいて見ているだけなのである。前に野戦病院の護衛にあたったときも思ったのだが、病院というのは一地に定着してこそその機能を発揮できるので、移動の手段、機動力をもっていない。そして何よりも一般の部隊のような戦闘力をもっていないから、自力で食糧を徴発する力に乏しいということになる。だから茶陵の場合のように、わが軍が敵に包囲されて補給が完全に途絶しているとき、野戦病院のような部隊には薬品や食糧の補給について特別の措置を講じなければ、機能不全に陥ることは目に見えているのである。こうした状況に置かれた軍医や衛生兵も気の毒だが、ここで無残に死んでいく入院患者たちの無念さは察するに余りがある。

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 日本軍は、あちこちの戦場で、敵兵だけではなく老幼婦女子までも見境なく殺害したという。そして、その生命を軽んじる姿勢は大本営や参謀本部、作戦課など日本軍中枢の姿勢の現れではないかと思う。日本軍兵士の「使い捨て」や「見殺し」が至る所で発生しているのである。少なくとも、日本軍兵士の損耗をいくらかでも減らそうとすれば、現地の実情を踏まえて作戦を立てることは常識であるはずだが、上記のように現地視察などは行われず、隊を率いるものの考えなども確認さえされていないのである。

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ノモンハン 一等兵の記録

2008年04月10日 | 国際・政治

 下記は、東大卒でありながら、軍隊内での昇進を拒み、ノモンハン戦の停戦間際に例外的に上等兵に進級させられた兵士の戦争の記録である。大学卒業後の徴兵検査で「乙種合格」といわれ「やれやれこれで兵隊にとられなくてすむ」と思ったという一日本人が、召集令状で招集され、ノモンハンで戦い、九死に一生を得て生還するまでの貴重な戦争の記録である。
 様々な場面での迷いや自分なりの判断、思ったことや感じたことがそのまま正直に語られており、「冨長 信」という一人の兵士の「ノモンハン」がとてもよく伝わってくる。副題の「個人にとって戦争とは何か」を考えさせられる一冊であるが、今回も特に戦争における問題として確認したいところを何か所か抜粋したい。 「ノモンハン孤立兵の遺書ー個人にとって戦争とは何か」冨長信(農産漁村文化協会:人間選書)
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 下記は、筆者がハイラルに駐屯していたときのことである。 
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・・・ 
 私の立哨場所は、弾薬庫敷地内にさらに鉄条網の柵で囲われた、かなり広い範囲の場所だったので、二人が配置され、交代で一人が入り口の近くで立哨し、一人が柵内を動哨することになっていた。私と組んだ兵は小松君という同期兵で、背の高いのんびりとした男であった。
 柵内は入り口正面が広場になっていて、その広場の右側と正面奥に建物があり正面奥の建物の裏側にもちょっとした広場があった。これらの建物に何が収納されていたかは知らなかったが、この柵内の要所要所を巡回するのに約20分はかかった。私は、最初は何も気がつかなかったが、小松君が巡回して戻って来ると、「裏の広場は気味がわるいのう」と言った。よく聞くと竿に生が吊り下げられているということであった。次のときに巡回してみてそれが事実であることを知り、それ以後の巡回のときは気味わるい気持ちがした。しかしこの光景は、田畑の害鳥おどしに鳥の死体を竿に吊しているのとあまり変わらないように思えた。これは害鳥おどしとまったく同じ目的で、弾薬庫に作業に来る満人労務者に対する見せしめのものだったのかもしれない。それは満人労務者のおどおどした態度からも察せられもした。とにかく私たちは、ハルビン駐屯以来、満人の人格を認めないように、何かにつけ自然と慣らされてしまっていたので、こんな想像もしたのかもしれない。

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 上記の文から、国境紛争が満州人の立場からのものでないことがよくわかる。下記の文は、そうしたことと関わる戦争目的についてのものである。
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 ハイラルを出発して戦場に向かう道中から敵飛行機の姿はよく見かけたが、味方飛行機にはまれにしかお目にかかれなかった。敵飛行機はときにはわれわれを銃撃したり、ときにはわれわれに対し謀略ビラを散布して行ったりした。私はそのビラを拾ったこともあったが、それには蒙古文字で書かれた満軍の蒙古人兵に対するものがあったり、日本語のものがあったりした。将校らは「そんなものを拾って読んではいかん」とわれわれをいましめたので、熟読はしなかったが、内容は「君たちは日本の軍閥や資本家たちにだまされて戦場にかり出されているのだ。君たちの家族は君たちの無事生還だけを望んでいる。すみやかに銃を捨てて故郷に帰れ」というような、当時の左翼活動家のアジビラと同じような文体のものや、「私はソ蒙軍に投降したが、とても優遇されている。君たちも無駄に命を落とすことなく、投降することをすすめる。旧○○部隊△△上等兵」というようなものであった。
 当時の国内事情からして、銃を捨てて帰郷することや敵に投降することは考えられないことで、なんでこんな馬鹿げたビラを散布するのかと敵の無知ぶりを笑いさえした。しかし、今になってよく考えてみると、私の心のどこかには「なんのために戦争をしなければならないのか」という疑念がなきにしもあらずであった。このビラに書かれていることは、私の心に戦争に対する疑問をいくらか思い起こさせる刺激にはなったかもしれない。戦う兵が、その戦いの目的にいくらかでも疑問をもてば、わずかであっても戦う意欲が減少させられるのは当然のことで、このビラもまったく馬鹿げたものとは言い切れないのかもしれない。こんなことを考えていると、戦争というものは、誰からも支持される目的をもったものでなければ、その力が発揮されないことを改めて感じるようになった。
・・・
 私たちはノロ高地の陣地確保を任としていたが、八月一日になって敵から攻撃をしかけられたので、その夜、私たちの部隊はこれを迎え撃つべく出撃して行った。私は休養を命じられていたのでこの戦闘には参加せず、軽装で出撃して行った部隊の者が陣地に残していった装具類を監視する任務を与えられた。この任務で陣地に残ったのは、私と大隊長の馬当番兵だった新山一等兵とであった。任務を与えられたとはいえ、赤痢患者の私は何もできずに、ただ壕内でじっと寝ているだけで、新山一等兵が私の世話をはじめ何もかもしてくれた。
 出撃部隊は敵の猛攻を防いでいたが、被害もかなり多かったようであった。その夜も重傷者が一人衛生兵に運ばれて来て、私の近くの壕に収容された。新山一等兵が聞いてきたところによると、腹部に銃弾を受けたのだが、戦闘中なので何の処置もできないのだということであった。その兵は一晩中苦しみの声を発し、その苦しみのもっていきどころのないままに、「なんのためにこんな戦争をしなければならないのか」と叫び、衛生兵から「何を言うか」とたしなめられたりしていたが、夜明けを待たずに苦しみの連続のうちに息を引き取った。

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 ここで、本書の「あとがき」(解説)を書いておられる一橋大学田中克彦教授のノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウムでの発言を挿入しておきたい。少し極端とも思えるが、基本的には正しい発言であると思う。
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・・・
 ノモンハン戦争で戦ったことについても、先ほど参戦者の方々から報告があったが、そのこと自体は非常に立派ですばらしいと思う。日本の軍人として戦った意志を否定するつもりはないが、精神の中は空っぽだったのではなかろうか?自分たちが何のための戦争をやっているか参戦者はご存じなかったのではないか。これに対して、ソ連兵は自分たちが何のために戦っているかをよく知っていたことが、さきほどのワルターノフ報告でも裏付けられている。ソ連兵は少なくとも日本軍国主義に侵略されているモンゴル民族の国家を守るのだという意識があった。スターリンはいざ知らず、前線のソ連兵は兄弟である同盟国のために命を捨てた。しかし日本の兵隊は満州国を守るのだという意識すらなく、死んでいった。何という違いだろうか。
 それから日本は二言目には「東洋の平和を共産主義の侵略から守る」と言いながら、共産主義の支配下にあってそれと戦っているモンゴル民族を理解しないで戦争をやったことは、研究すればするほど残念で、私がこのようなシンポジウムをやりたかった理由はそのためであった。

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 下記は、筆者が捕虜殺害の命令について自問する場面であが、この時すでに捕虜は殺害する方針であったのかどうか気になるところである。
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 私たちが残敵を求めて進んでいると、逃げ損じた敵兵が上半身を裸にされ、荒縄でしばられ、第一線の兵に連れ去られている姿を見た。敵というものに対する感情よりも、自分がもしあのような姿になったときのことが想像されて、しめつけられるような想いをした。そしてしばらく行くと、銃声とともにあの敵兵からせられたと思われる断末魔の悲鳴が聞こえた。「なぜ殺さなければならないか」という気持ちと同時に、もし自分が指揮者から「殺せ」と命じられたときに、自分は命令に従うことができるだろうかという疑問も生まれた。さらに、そんな疑問が生まれるようでは、やはり一人前の兵とは言われないのかもしれないと思ったりした。
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 筆者は詳しいことは何も書いていないが、下記は書類焼却に関する部分である。あらゆる戦場で同じようなことがあったであろうことを記憶に残しておきたい。逃れることのできない「死」の命令と証拠の隠滅でもある。
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 その夕刻、小隊長は本部に集合を命ぜられ 、その集合から帰ってくると、兵を三~四名ずつ集めては小声で、戦況は楽観が許されなくなっていること、この陣地は一人でも生きている限り守り抜かねばならないこと、持参している書類はすべて焼き捨てることなどの部隊長の命令を伝えてまわった。そして私も、「今度はもう日本軍人として、昨日のようには後退できず、この陣地と命運をともにせねばならぬ」と覚悟ともつかず、あきらめともつかず、悲壮な思いに浸って、夜の闇の中でわずかな紙類焼却し、明日をまった。

  
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ノモンハン事件 満州国軍と興安軍の損耗

2008年04月05日 | 国際・政治

 ノモンハン事件は中国では「ノモンハン戦争」と呼ばれ、モンゴルやロシア(ソ連)では「ハルハ河戦争」と呼ばれているということであるが、双方から十三万以上の兵員、千両以上の戦車や装甲車、八百機以上の戦闘機が集結された戦いであり、下記のような損耗があったということであれば、日本のノモンハン「事件」という呼び方には疑問の残る、あまりにも本格的な戦いである。

 ノモンハン事件の損耗については、日本側は公式に22000人と認めている。しかし、ソ連の歴史記録上では日本軍の全損耗を61000人と述べてきた。ワルターノフ(ソ連戦史研究所研究部長)は、それは国防人民委員部の指示やイデオロギー的宣伝であろうというが、それでも、彼は公文書の調査の結果38000人程度という。日本側の公式発表とは大きな差がある。問題はその差である。日本軍とともに戦った満州国軍と興安軍の損耗が、日本側公式発表には全く含まれておらず、ワルターノフ氏の調査には含まれれているために、大きな差があるとすれば、日本側公式発表は修正する必要があるのではないかと思う。さらなる調査研究が待たれるわけであるが、幸いノモンハン事件に関しては、日本とロシア(ソ連)およびモンゴルのノモンハン事件敵味方三者の会合が繰り返されており、様々な問題解明の努力が続けられている。下記は「ノモンハン・ハルハ河戦争」国際学術シンポジウム全記録・国際学術シンポジウム実行委員会編・代表田中克彦(原書房)からの抜粋である。

 ノモンハン戦の損耗-------------------------

 ワルターノフ大佐が事前に提出した損耗問題に関するトーキングペーパーは、ウランバートルシンポジウムで、日本側が求めた回答としての調査報告である。
 ソ蒙軍の損耗は、ノモンハン戦直後のタス発表によると、戦死300~400人、負傷900人であった。ところが、1960年代に突然戦死者9284人という政治的発表が行われた。このため現在は日本側の論説とか、百科事典に至るまで、この数字をソ蒙軍の損耗として正式にとりあげている。
 その後1980年に入って、ソ連側は戦死傷者数1万7千余人と発表、ウランバートル・シンポでも約18000人と発表した。ワルターノフ大佐は、今回その細部を発表し、ソ蒙軍の損耗を戦死3281人、戦傷15386人、行方不明154人、捕虜94人、全損耗は18815人、モンゴル軍の損耗は戦死165人、負傷401人、計566人、したがって、全損耗は19384人と発表した。この数字には、日本側で計算する戦病死は加算されていない。
 ワルターノフ大佐の実動日本軍総兵力と損耗については、過去にソ連が発表した61000人がイデオロギー的宣伝であることを認めている。しかし今回同大佐が公文書館資料などから計算した結果、正確な確定はできないとして、だいたい
38000人程度をあげている。
 これは、日本側が発表している(第6軍軍医部)の第2次ノモンハン事件の17405人(戦病死を除く)と比べると、依然として二倍以上の開きがある。
 しかし、これについては、われわれも重大な問題を認めなければならない。つまり関東軍は満州国の防衛を目的として戦ったはずであるが、その考え方の中に、満州領域を守るという考えはあっても、満州国民を守るという考えがまったくなかったことだ。その端的な現れが、満州国軍、興安軍など同盟国、どちらかといえば、日本軍のために戦わされた異民族の損耗については、無関係という態度と無計算を続けていることである。南京虐殺問題もそうであるが、異民族に関する損耗計算を無視することによって数的により大きな疑惑を招くということは反省すべきであろう。
 しかし、それにしても、ソ連軍が敵兵力を過大に評価し、敵損耗を過大に評価するという伝統的傾向については、より相互的な研究を必要とする。
 念のため、ソ連の戦車と装甲車の損耗については、ノモンハン全期間をい通じて戦車175両、装甲車数143輛計318両と別資料で発表されている。(牛島康允)

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