真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

孝明天皇毒殺説

2018年07月15日 | 国際・政治

 幕末から明治のはじめ、尊皇攘夷をかかげる過激な人達によって、多くの幕府関係者や公武合体を主張する公卿などが暗殺されました。また、「神州を汚す」として、当時日本にいた外国人を斬り捨てるいわゆる「異人切り」も後を絶ちませんでした。したがって、それらを取り締まる幕府側も、報復的に尊王攘夷派の人達を斬り捨てるということが、そのころ繰り返されたのではないかと思います。

 だから、妹の「和宮」を降嫁させていたこともあって、討幕を受け入れず、公武合体を望んだ孝明天皇も、荒れ狂うテロの渦中に巻き込まれ、毒殺されたのではないか、と私は考えます。

 狂信的な尊皇攘夷の思想が、数々の暗殺事件のみならず、二度にわたる幕長戦争や薩英戦争、下関戦争、また、戊辰戦争などの原因にもなったのではないかと思います。したがって、尊皇攘夷をかかげた討幕派の人たちが、策謀によって幕府を倒し、天皇を神聖視する国家をつくりあげたことが、必然的に朝鮮王宮襲撃事件や日清戦争、日露戦争、日中戦争、第二次世界大戦へと突き進んでいく結果をもたらすことになった、と思うのです。
 そしてそれは、「五か条の御誓文」発表時に公表された「朕…みづから四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富獄の安きに置かんことを欲す。…」という天皇の「宸翰」に暗示されているように思います。

 私が、討幕派の志士を美化し、明治の時代を明るく描いたり、「文化の日」を「明治の日」にかえて、「日本国が近代化するにあたり、わが民族が示した力強い歩みを後世に伝え、明治天皇と一体となり国つくりを進めた、明治の時代を追憶するための祝日」にしようという考え方を受け入れ難い理由は、そこにあります。
 また、「テロリスト」ともいえるような人たちを「明治の元勲」と呼び、いろいろな歴史的事実を伏せて、明治の時代を近代化の側面を中心にとらえるような歴史は、見直される必要があると思います。「勝てば官軍 負ければ賊軍」という考え方に基づくような歴史は、乗り越える必要があると思うのです。

 2015年05月、世界の日本研究者ら187名が、日本における歴史修正主義の跋扈や歴史的事実を主張する者の社会的排除、そして、それらを支えるような政府の歴史修正主義的な姿勢を懸念して、「日本の歴史家を支持する声明」を発表しましたが、不都合な事実はなかったことにする政権の歴史修正主義的な姿勢は、明治の時代から受け継がれてきており、今後も受け継いでいこうとしているのだと思います。

 下記は「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)から抜粋しました。そこには、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
と書かれています。
 そして、当時日本にいた外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新(上)」に、孝明天皇の毒殺について触れられた文章があり、伊藤博文を殺害して処刑された安重根も、「伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方(孝明天皇)を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」といって、伊藤博文殺害理由の一つにあげていたにもかかわらず、そうした世評があったことさえ伏せられている現状には問題を感じます。

 しばらく前、官邸の関わる公文書改ざん問題が毎日のように報道されていました。そして、ウソにウソを重ねた関係者の証言の矛盾点が既に暴かれているにもかかわらず、野党の要求する人物は、求めに応じて事情を説明することをせず、ひたすら忘れ去られる時を待つかのような姿勢を貫いています。そうした姿勢が、明治以来一貫しているのではないかと思うのです。  
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第二十八章 孝明天皇の毒殺

     一 典医の報告でも毒殺を暗示する

朝廷では慶應二年十二月二十九日に、天皇(三十六歳)が二十五日に痘瘡のために崩御した、と公表し、今日にいたるまで、宮内省と文部省はこれを確信し、国民に信じこませてきた。宮内省編さんの『孝明天皇記』は病死説の根拠として『非蔵人日記』、『二条家記』、『御痘瘡之記』、『中山忠能日記』、『土山武宗日記』などを引用し、全く疑惑のおこらないように説明している。これをもとにして、文部省維新史料編さん会の『概観維新史』や『維新史』(第四巻)もまた病死説を記している。こうして病死説は、明治以来の天皇国家の公式の意見であって、もし毒殺説を主張するものがあれば、不敬として処分されたにちがいない。

 それにもかかわらず、国民の間においては、ひそひそと天皇の毒殺説が語られ、ほとんど全国にわたってささやかれてきた。これを公然と発表した文書は、英人外交官サトウの『日本における外交官』であったが、うわさの程度を出なかった。それにしても、サトウは「その間の内幕によく通じている一日本人によって、私は帝が毒殺されたのだ、ということを信ずるようになった」とのべ、このうわさの出所が信頼できるものであることを、ほのめかしている。しかし塩尻氏の訳書では、この項をけずっている。国民はうわささえ、しらされなかったのである。

 ところが昭和十五年七月といえば、太平洋戦争のおこる前年で、言論にたいする圧迫のきびしい最中である。大坂の学士会クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会に陳列された孝明の典医の一人伊良子光尊の日記を、医史学の大家佐伯理一郎博士が検討し、「孝明天皇の症状が二十二、二十三日(十二月)頃順調な経過をとっているというところで、記事が中絶している」のをみて、ただちに「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らしたのである。…伊良子氏の資料に於て、肝腎のところで、筆が絶たれているのは、わざと誌すのを憚ったのか、嵌(カン)口令によって筆を折ったのか、この一大事にしめ出しを食って、他の一、二の典医だけしか関与しなかったので、詳細を知らなかったために、日記が欠けたのか、理由はわからないが、岩倉の天皇毒殺を裏書きする一つの貴重な傍証であると思う」と遠慮するところなく、論断した。列席者は時が時だけに驚いたが、同時に博士の学問を追及する熱意と勇気に感激したという。これは特殊の学会でもあり、列席者のなかに憲兵隊なり、警察に密告する人もいなかったため、博士は弾圧をうけることもなかった。日本人が、とにかく公開の席上で毒殺説を発表した最初の機会として、注目に値する。

 しかしこの講演のことが、文字として記録されたのは、中野操博士が敗戦後になって発表した時にすぎないから、結局毒殺説が文字として記述されることは未だかつてなかったといって差支えない。このように毒殺説は、民間や外人にさえも、口伝えにひろがっていたにもかかわらず、禁断の木の実であった。

 そこで、私は『孝明天皇記』が引用している典医の病症日記(典医の武家伝奏にたいする報告。これが天皇の死後加筆されたか、削除された部分があるかどうかは不明である。宮内省の刊本であるかぎり、この点には問題があろう)そのものを検討してみることにする。勿論この『孝明天皇記』は敗戦までは、帝国大学などでも貴重図書の扱いをうけ、みだりに引用することはむずかしかったし、批判を加えることは許されなかった。
天皇は十二月二十一日に内侍所でおこなわれた臨時御神楽に出席した。しかし、風邪ぎみなので、医師がとめたにもかかわらず、出席した。しかし行水はおこなわなかった。この時典医の高階典薬少允が診察し、発汗剤をのませた。しかしその後も熱は下がらず、汗も出ず、睡眠もできず、食事もとれず、高熱のために、ウワ言をいって苦しんだ。そして十四日なって山本典薬大允が診察して、痘瘡であることが判明し、十五日に手に吹出物(水泡)があらわれた。そして下剤がきいて通じがあり、熱も下がりはじめ、まず順当な経過と診断された。かくて十六日に朝廷では、公式に痘瘡であることを発表、七社七寺に全快の祈りをおこなわせた。この日に吹出物が顔にあらわれ、十七日には皮膚がはれ、食欲もおこり、通じも順調となり「ますます御機嫌よくなってきた」と報告された。症状報告には高階、藤木、山本、河原、伊良子、西尾、福井、大町、久野、三角ら十五人の医師が署名しているので、一応十五人の意見の一致した公式のものと認められるから、『中山日記』に伝えられるように、高階一人が痘瘡をあまり手がけなかった医師だったとしても、全医師団の誤診とか、調薬ちがいを引起す程の影響はなかったと思われる。その上種痘のない当時では、痘瘡の経過とか、処置については医師は相当に習練していたわけであるから、一人の医師が未熟だとしても、全医師団を誤診にみちびくことはないと考えられる。十八日以来ますます経過はよく、真言宗の誓願寺大雲院の上乗坊と天台宗の護浄院(一名清師荒神、上京区荒神口通 寺町)の権僧正湛(タン)海が招かれて加持祈とうを
おこない、加持のききめが早くもあらわれたと喜ばれた。

 その夜痘(モガキ)は紫色になり、安眠もでき、便通も食事も順調となった。当局は極秘にしており、ひそかに目病(ヤミ)地蔵へ鳥飼という者を祈とうにつかわしたが、早くも町人が知ったということで、廷臣たちは大いに驚いた。十九日の症状も順調と記録され、食事は大いに進み、中山慶子も「さてさて有がたき御事」と喜んでいる。二十一日には慶喜らが見舞に参内し、膿が水疱から出はじめ、ますます順調に全快に向かっていると報告された。二十三日には膿もおわりとなり、二十四日には収靨(メン)になり(つまり痂(カ)皮ーーかさぶたーーができた)、総体において、相応の回復状況と診断された。
 この病気の症状を医書などで調べてみると、潜伏期が十二日程あってから、高熱を発する。十一日に風邪と思われたのは、実は潜伏期がすぎて発熱期に入った時であった。十三日の不眠、高熱、食欲不振、ウワ言などは、前駆期(ゼンクキ)にあたる症状であって、翌日に山本典医が痘瘡と診断し、全医師団はそれにしたがって、診察や投薬をした。当時宮中には痘瘡患者がでており、側近のもので、全快して勤仕した者もあって、天皇はこれらの患者から伝染したようだ。現神といわれる天皇も病菌には勝てないのであって、まさにここにこそ、彼が神でなく、人間であるという証拠がある。

 前駆期から熱は四十度にも達し、頭痛や吐気が加わり、便秘し、食欲はなく、ウワ言をいい、顔がはれ、結膜は充血する。そしてその第一日か、第二日に麻疹様の鮮紅色の発疹がでる。第四日に吹出物、つまり丘疹期(キュウシンキ)がはじまり、顔、頭、四肢などに小紅疹があらわれる。これが出はじめると、熱が下がりはじめる。天皇は十七日から便通があり、食欲もおこり熱も下がり、悪化へ向かう症状はなくなった。悪化へ向う場合は(融合性痘瘡など前駆期の高熱が少しも減退しないままで、水疱や膿疱があらわれ、口腔や咽頭にも発疹し、呼吸が困難となり、吐気があり、昏睡し、ウワ言がつづき、ついに心臓麻痺をおこして、死にいたる。しかし天皇の症状は十五日から前駆期が終わり、快方へ向っている。十七日から安眠もでき、十八日に水疱がはれてきて、膿をもち、膿疱期に入った。そして二十一日から灌膿、すなわち膿をふきだし、医師は「御機嫌よく」とか、「御静謐(セイヒツ)(安静)」とか、「何の申し分もあらせられず」と報告している。
 熱も下がり、これから膿疱は褐色の痂皮を結んで、乾燥することになる。二十三日に膿のふきだしがおさまって、乾燥して収靨しはじめた。
 医師の報告のほか、十八日から毎日加持に参内していた湛海権僧正の日記も、病状が順調に快方に向かっていることを報告している。

 ここで湛海権僧正の日記発見のいきさつについて、少しわき道にそれるが、かいておきたい。戦前の昭和十七年四月七日頃、京都府史蹟名勝天然記念物調査委員の赤松俊秀氏(現在京都大学名誉教授)は、寺宝調査のため、もとの立命館大学奈良本辰也、京都府嘱託田井啓吾(戦後死亡)、奈良学芸大学教授岩城隆利諸氏とともに、真言宗の誓願寺をたずね、その塔中(タッチュウ)の大雲院において、当時天皇の加持祈とうに招かれた上乗坊の日記を発見した。十二月二十五日の条に「天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息で、血をはき、また脱血」云々という記事がかかれており、赤松氏ら一同は非常に驚き、天皇の死が尋常のものでない、という強い印象をうけた。しかしこの寺はまもなく経営難におちいり解散してしまい、古文書は紙くず屋に売られて、今日では入手できない有様となった。ところでこの時赤松氏らは護浄院調査にまでは着手できなかった。この間の事情について御教示をたまわった赤松教授には深く御礼を申したい。
そして残るところは護浄院である。戦時戦後の食糧難や寺院に加えられた種々の束縛のため、大抵の寺が古文書を売却している京都において、著者は不安を胸にいだきながら昭和二十八年十一月京都を訪れ、奈良本教授とともに、七日に護浄院をたずね、古文書の調査を申しでた。ところが、わずかにすぎないが、示された文書のなかに湛海から江戸の輪王寺宮へだした「孝明天皇崩御」にかんする、うすい報告書がでてきた。この報告書は正本の写しであるが、そのなかに当時の日記が引用されている。くわしい報告は「歴史学研究」に発表したので、参照されたい。この調査について、種々の助言や協力をおしまれなかった奈良本辰也教授にたいして、あつく御礼を申しあげる次第である。

 湛海の日記は十八日からはじまる。十八日の症状は相当に悪く、「御上り物御薬など御返し(嘔吐)……御吹出物御膿ぬるぬるあらせられ……御障子一ト間御切明け、それより竜顔を奉拝、御加持申上候」とある。また『孝明天皇紀』引用の『土山武宗日記』には「僧正は御末口から常御殿の庭に廻り、御祈とうをした」と報告されている。ところが十九日から前述のように(僧正は「法験あらわれ」と誇っているが)、天皇は食欲が出はじめ、翌日は「叡感斜めならず」(気分がよくなった)というので、彼は三十両を与えられた。それ以後は典医の公報同様に「順症」となって、快方へ進み、皇后(准后)らも安心した。そこで二十四日は加持も七日目で満願となり、一応打切った。しかし准后からはなお当分加持にくるよう依頼された。
 ところが二十五日朝、急に使者がきて参内するように命令され、僧正はいそいで参内した。
 典医の二十五日の報告によれば、二十四日の夜から嘔吐がはげしくなり、下痢もはじまり、二十五日の朝には嘔吐も少しへったけれども、「微煩の模様」があり、これは「今一段と御内伏の御余毒御発洩遊ばされかね候の御事と診(ミ)奉候」とある。ところが『孝明天皇記』は、同日一昼夜および二十六日の症状はのせていない。
 この両日こそ、もっとも重大な容態であるから、医師の報告がなくてはならない。それを故意にのせないのは、前述の佐伯博士のいう通り、嵌口令が数十年後のここでも守られている証拠である。そこで『中山日記』をみると、下痢と嘔吐がはげしく、食欲はなくなり、天運つき、側近の者は落涙した。そして午後十一時頃、ついに事きれた。
「玉体は、見上げるのも恐れいる程の有様で、当局は天皇の死をまだ極秘として発表していない」という慶子の手紙をのせ、二十八日の項には、慶子から極秘の文書が父の忠能のもとに送られ、それが引用されている。
 それによると、「二十四、五日頃は何の仰せもあらせられず、両三度大典侍大典侍と召され候へども、その折りに御側におられず、ただただと当惑するばかり致しおられ、二十五日後は御九穴より御脱血……」とあって、この二十五日の重態の時に、側近にはだれもいなかったことが報告されている。ただ祈とうによばれた僧正が祈とうを繰返した。その時彼が見た天皇の様子は「胸先へ御差込み容易ならぬ」もので、盛んに苦しんだ有様が語られている。

 ここで著者は中山慶子の手紙のうち、「御九穴より御脱血……」という部分に、傍点をつけた。毒殺に砒(ヒ)素を使うことは、中国や日本でも古くからおこなわれたようである。中国の明時代の小説『金瓶梅』の第五話をみると、「淫婦が武太郎に毒を盛ること」のなかに、武太郎の妻が、砒霜を胸痛薬といって、胸痛にくるしむ夫にのませ、殺す状景がかいてある。呑んだ武大は、「おいら息がつまるよ」と叫んだ。その「肺臓心臓は油で煎られ、肝臓はらわた火に焼け焦げる。胸は刺される氷の刃、腹はぐりぐり鋼(ハガネ)の刀、からだ全体氷と冷えて、七つの穴から血は流れ出る。歯はがちがちとかみ合って、魂はおもむく横死城、喉はごろごろ干からびて、霊は落ちゆく望郷台、地獄にゃふえる服毒亡者」……「女が蒲団を持ち上げてみると、武大は歯を食いしばり、七つの穴から血が流れている」というように、むごたらしい砒霜の毒死の状況がかかれている(小野忍・千田九一訳、平凡社、昭和四十七年刊、上、五十八頁)。全く同じ死の状況である。
 医師もいろいろ手をつくしたが、どうにもならず、この上は加持以外にないというわけで、僧正は一層「丹誠をこめて」祈った。すると不思議にも痰がきれて、やや持直した。僧正は別室にさがって一休みしたが、再び招かれて、「玉体側まで相進んで」加持を加えたが、その最中に「御大事に及ぼされ、何とも申しあげようもなく」なったのである。とにかく『孝明天皇紀』にも当日の容態が発表されていない以上、この僧正の記録と『中山日記』とは、最も重要な史料といって差支えない。今後とも典医諸家の日記の調査に期待をもつ次第である。

 史料編さん所の吉田常吉氏は『孝明天皇紀』所引の史料や『中山日記』などによって、戦後「孝明天皇崩御をめぐっての疑惑」を発表され、大体において病死説をとられている。しかし「白とも黒とも断言できない」旨をも附記されている。とにかく従来の毒殺の伝説とか、蜷川新博士の『天皇』(光文社刊)と、大宅壮一氏の『実録天皇記』にかかれた噂の程度の毒殺説では、吉田氏の病死説に対抗することはできないように思われる。

     二 ただちに毒殺の世評おこる

 このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。『中山日記』の翌年一月四日にのせた老女浜浦の手紙によると、「誰かが痘毒を天皇にのませたので天皇が罹病した。その証拠には容体をかくし、内儀の者さえも少しも容体を知らず、二十五日の姉敏(トキ)宮の見舞いも廷臣がとめようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だとうわさされている。こんな話はとるにたりないが、油断がならない」ということがかかれ、また七日の彼女の手紙には「当局は黙秘しているが、世間では案外よく知っている。十六日の病名決定以後の症状を発表しないために、うわさが起るので、発表せられたいというので、いよいよ公表することとなった」というのである。これによって典医の報告が前記の形で公表されたわけであろう。以上の様子からみると、早くも毒殺のうわさがたっていたことがわかる。
 その上、次代の天皇として践祚した祐(スケノ)宮は、毎夜のように前帝の亡霊に苦しめられ、その亡霊は鍾馗(ショウキ)のような姿をし、剣をもっている(『朝彦日記』、下巻 慶応三・正・五。同十二)。そこで朝彦は怨霊退散のため、長福寺の僧に加持を依頼した。その消息は、岩倉の親友の千種有文も岩倉へつたえている。まさに『ハムレット』というところである。孝明の異常な死に方を知っていればこそ、新帝の心にこのような不安な動揺がおこったのである。古来天皇家の歴史において、非業な最期をとげた皇族は多く、迷信深い宮廷はその怨霊のたたりを非常に恐れた。新帝がこの悪夢になやまされたことは、毒殺を信頼させる一つの証拠となる。

 毒殺の世評は、このように朝廷内からおこった。二十四、五日の両日に大典侍らが側近にいなかったことも、不審といえば不審である。毒殺ということになると、病状日記をみても、犯人は二十四日に一服もったことになる。この犯人を「誰」と明示した史料は恐らくあるまい。もしあったとしても明治になってからは犯人側が政権を握ったのであるから、焼きすてられてしまったに相違ない。これについて前記の佐伯博士がこう語っている。「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が、女官に出ている姪(?)をして、天皇に一服毒を盛らしたのである」と岩倉をはっきり指名している。前にもいった通り、国家の言論圧迫のきびしいこの頃に、公然と公開の席上で、明治の元勲を犯人として指名するのであるから、博士には十分な確信があったものと思われる。すなわち博士は言葉をついで、「自分は或る事情で、洛東鹿ヶ谷の霊鑑寺(比丘尼御所)の尼僧となった当の女性から直接その真相をきいたから、間違いない」と断言している。
 この岩倉の姪という女性はだれであろうか。具視はもと堀河康親の二男であって、岩倉家に養子に入った人物である。その姪といえば、兄の堀河親賀か、弟の納親の娘でなくてはならないが、『堀河家譜』には、これにあたる婦人はいない。ところが具視とその異母妹の右衛門掌侍堀河紀子とは、和宮降嫁以来「天皇にチン毒を献じて」暗殺しようと非難され、尊攘派から暗殺されかけたため、天皇も公卿も彼にたいする態度を硬化して、彼らを処分したことは、すでに第二十五章において述べた通りである。いわば両人は天皇暗殺未遂の前科者である。したがって後世から容疑をうけるのも理由のないことではない。こういうわけで、天皇が幕府のロボットとなり、討幕派の邪魔者となった今日、岩倉が再びテロルに訴えようとしたことは、不自然ではない。したがって紀子や藤宰相は再び岩倉の指令のもとに暗躍し始めた(第二十七章 ニ、尊攘派の御所襲撃、スパイにかこまれる天皇)。また具視の孫の具定は、幼児から児(チゴ)として天皇の側近につかえ、当時は十六歳で、近臣として勤仕していることも、一考を促す材料である。天皇はあくまでも幕府と結んで、征長役を勅許して、討幕派に対抗する以上、このようなテロルが計画されるのは、宮廷の必然的なりゆきであって、天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


 

  
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孝明天皇 毒殺?

2018年07月09日 | 日記

 幕末から明治のはじめのころの歴史に関する本にはよく、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”などという言葉が出てきます。

 井伊直弼が、1860年、桜田門外で水戸の浪士に暗殺されて以降、長州を中心とするいわゆる”憂国の志士”たちが京都に集まり、公卿の一派と提携して、尊王攘夷をかかげ、天誅と称して要人暗殺を繰り返しました。
 そのなかには、「人斬り新兵衛」、「人斬り彦斎(ゲンサイ)」、「人斬り以蔵」、「人斬り半次郎」などと呼ばれ、「幕末の四大人斬り」として名を知られるようになった人もいるようです。外国との新たな関係を模索し、修好通商条約締結に踏み切った幕府関係者や公武合体派の公卿が暗殺の対象で、時には生首が晒されることもあったため、都の人々を震撼させたといいます。
 司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)という本も、そうした時代の暗殺者を主人公とした十二篇の短編からなっていましたが、ほんとうに野蛮な時代だったと思います。そして、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”の””という言葉が、その野蛮性を表現しているように思います。

 でも、明治新政府を主導した長州を中心とする急進的な尊王攘夷派の人びとは、自分たちが政権に就くと、攘夷を実行することなく、開国に転じます。”テロの嵐”や”攘夷の嵐”はいったい何だったのか、と思います。岩瀬肥後守が、堀田閣老によって招集された諸大名の前で、条約締結の必要性六点をあげて論じたとき、諸大名が何の反論もできなかったことにもあらわれているように、当時の攘夷の思想は、討幕のための”偏狭なナショナリズム”に基づくもので、時代の流れに沿うものではなかったということだと思います。

 また、「尊王攘夷」の思想の、”尊王”についても、言葉だけのような気がします。資料1は「一外交官の見た明治維新(上)」アーネスト・サトウ:坂田精一訳(岩波文庫 青425-1)から抜粋したものですが、天皇の崩御に関する見逃すことの出来ない文章です。
 アーネスト・サトウは、父親がスウェーデン人で母親がイギリス人ということで、「サトウ」とはいっても、二世でも三世でもないようですが、日本語に堪能で、日本の文書なども読むことが出来る数少ない外国人だったということで、幕末から明治維新にかけて、極東政策の指導的外交官として、日本で活躍したということです。
 彼は、自身で
”… 私は、日本語を正確に話せる外国人として日本人の間に知られはじめていた。知友の範囲も急に広くなった。自分の国に対する外国の政策を知るため、または単に好奇心のために、人々がよく江戸から話にやってきた。私の名前は、日本人のありふれた名字(訳註 佐藤)と同じいので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまでのぼった。両刀を帯した連中は、葡萄酒や、リキュールや、外国煙草をいつも大喜びで口にし、また議論をとても好んだ。彼らは、論題が自分の興味のあるものなら、よく何時間でも腰をすえた。政治問題が、われわれの議論の主要な材料であった。時として、ずいぶん激論することもあった。私は常に、日本の現在の制度の弊害を攻撃した。諸君には大いに好感をもつが、専制制度はきらいだと、よく言ったものだ。訪問客の多くは、大名の家来だった。私は彼らの話から、外国人は大君(タイクーン)を日本の元首と見るべきでなく、早晩天皇(ミカド)と直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を日ごとに強くした。これらの人々を通じて入手した公文書の写しからみても、大君(タイクーン)自身が自分を単に天皇(ミカド)の第一の臣下以上の何者でもないと考えていることがわかった。
と書いています。アーネスト・サトウから様々な情報を得ようと、彼のもとに人々が集まり、また、彼はそういう人々から様々な情報を得ていたことが分かります。それだけに、
”噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。
という内容には驚きます。
 そういえば、伊藤博文を殺害して処刑された安重根が裁判で、殺害理由として「伊藤博文の罪状15ヶ条」を列挙したなかに、「第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております」と孝明天皇が殺されたことに触れていたことを思い出します。
 
 資料2は、「戊辰戦争」佐々木克(中公新書)から抜粋したのですが、天皇毒殺について触れています。もちろん、毒殺を認める本人の証言があるわけではありませんが、天皇毒殺の根拠が、当時の主治医の日記であるということ、またそのことを明らかにしたのは、主治医の子孫である医師伊良子光孝氏であるということには考えさせられます。また、当時天皇のまわりにいた関係者の日記などにも、毒殺を疑わせるものがいくつかあるようです。

 さらに、下記の「非義の勅命」の問題や、すでに取り上げた「偽勅」の問題、そして、「偽錦旗」の問題などもあり、天皇を囲い込んで政治的に利用しようと画策する動きと考え合わせると、「毒殺」の可能性は極めて高いような気がします。
 したがって、長州を中心とする尊王攘夷急進派の思想は、「攘夷」だけではなく、「尊王」という面でも、その内容が疑われます。自分たちに都合の悪い勅命は「非義の勅命」であるから従う必要はないと主張し、また、自分たちの都合で「偽勅」を発し、天皇から受け取ったものではない「錦旗」を自ら作って利用し、さらには、天皇を毒殺したのではないか、と考えられている人たちの「尊王」というのは、いったい何だったのか、ということです。
 大久保利通は「非義の勅命」について
謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか
と主張していたようですが、その主張にもとづけば、慶喜が大政を奉還し、恭順の姿勢を示していた上に、外圧に備える必要のあった時期の戊辰戦争を正当化できるでしょうか。妹「和宮」を降嫁させていたために、孝明天皇は討幕を認めず、公武一和を強く望んでおられた、といいます。
 尊王攘夷をかかげ、様々な策謀・謀略によって権力を手中にした人たちがスタートさせた明治の時代は、決して明るいものではなく、その野蛮性は、その後朝鮮や清国を舞台として発展していったのではないかと、私には思えるのです。

 資料3は「幕末の天皇・明治の天皇」佐々木克(講談社学術文庫)から「非義の勅命」その他関係部分を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         第十六章 最初の大坂訪問

私は、プリンセス・ロイヤル号の甲板で日本の貿易商人数名に会ったが、彼らは近迫した兵庫の開港に大いに関心をもち、外国人の居留地として適当な場所について大いに意見を吐いていた。また、彼らは、天皇(ミカド(訳註 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇(ミカド)は、外国人に対していかなる譲歩をすることにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。この保守的な天皇(ミカド)をもってしては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(訳註 家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた。しかし、当時は、天皇(ミカド)についてそんな噂があることを何も聞かなかった。天皇(ミカド)が、ようやく十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立ったことは否定し得ないであろう。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                            Ⅰ 幕府の倒壊
 勝利か敗北か
 突然の砲弾と吶喊の声に驚いた馬が、鳥羽街道を狂奔した。馬は街道上に縦隊となっていた幕府の
兵を蹴散らしながら、もときた淀に向かって馳け去った。
 幕府軍の隊列は乱れ大混乱となった。後方では敵の姿も見ずに逃げる将兵さえいた。馬は、薩摩藩の軍監椎原小弥太と山口仲吾に入京のため通行を求めて交渉談判をしていた、幕府大目付滝川具挙の乗馬であった。薩摩藩兵の銃砲弾が、逃げる幕府軍兵士に雨のごとく降りかかった。
 慶応四年(明治元年1868年)正月三日、こうして鳥羽・伏見戦争が始まった。
 ・・・
 薩軍の総大将に万一のことがあっては、今後の指揮に支障をきたすから、危険な前線に出てはいけないと、西郷は大久保にいい含められていたのであろう。だが思いがけない初戦の大勝の報告にたまりかねて、彼は伏見口の戦場まで戦況を見に行ったのである。
 初戦で勝ったといっても、それで徳川幕府が壊滅したわけではない。翌日も依然として鳥羽と伏見にとどまって薩長軍に応戦している。軍事的には確かに幕府軍は大分旗色が悪いが、薩長軍の圧倒的勝利というほどのこともない。しかし政治的にみれば、薩長軍の完全な勝利であった。初戦の三日夜の段階で、早くも「錦旗」を押立てた「追討将軍」の派遣が実行に移されつつあり、これは<天皇>を完全に薩長が手の内に入れたことを意味していた。そして薩長軍は天皇の正義の軍隊=「官軍」となり、徳川慶喜をはじめ幕府軍は「朝敵」の運命がここで決したのであった。
 この日大久保は、なかなか腰の定まらない有栖川熾仁(総裁)、三条実美(議定)、岩倉具視(議定)らの公卿に、断乎として徳川勢と決戦し打ち破らねばならないと、必死の形相で説きまわり、参殿して戦局の対策を協議していた。同日の大久保利通の日記には「追々官軍勝利 賊退散之注進有之候事、今夜徹夜」と結んでいる。
 官と賊との明暗が、はっきりと意識されている。しかし戦争が始まるまでは、どっちにころぶか大きな賭であり、大久保らにとっても内心大いに不安であった。前日、岩倉、大久保、西郷、そして長州の広沢真臣らが集まったとき、そこでは戦争に負けた場合の対策が協議された。
 それは、
一、天皇に三条実美、中山忠能を従え、薩長二藩兵が護衛して、芸州・備前のあいだに移し、討賊の詔を四方に下すこと 
二、岩倉と有栖川宮は京都にとどまって奮戦し、支えきれなくなったら、天皇は叡山に遷幸したと偽ること
三、その間に仁和寺宮、知恩院宮を東北諸国に派遣し、令旨を領ち、勤王の兵を招集して江戸城を衝かせること。
というのである。しかも三日当日、幕府勢が大挙して鳥羽・伏見に結集しだすと、戦端がひらかれたら「一発直様(スグサマ)玉(ぎょく=天皇)を移」すことまで考えていた。背水の陣である。
 この計画は大久保あたりから出たらしい。天皇を危険な戦場近くから安全な所まで避難させようという心配りからのものではない。天皇が幕府側の手に渡ったら困るという、それがもっとも重要な理由なのである。それにしても彼らは天皇を物体かなにかのごとく、意のままにどこへでも移そうと計画している。いや移せると確信しているのである。天皇はそれほど軽いものなのだろうか。

 前の天皇である孝明天皇は慶応二年(1866)十二月に死亡した。天皇の死因については、表面上疱瘡(ホウソウ)で病死ということになっているが、毒殺の疑いもあり、長いあいだ維新史上の謎とされてきた。しかし近年、当時天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見るかぎり明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
 犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治状況を考えれば、自然と犯人の姿は浮び上ってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策謀をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える、眼の前にふさがっている厚い壁は、京都守護会津藩主松平容保を深く信認し、佐幕的朝廷体制をあくまで維持しようとする、親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。岩倉自身は洛北の岩倉村に住んでおり、行動が不自由で朝廷には近づけなかった。しかし岩倉と固くラインを組み、民間にあって自由に行動し策動しえた大久保利通がいる。大久保は大原重徳や中御門経之ら公卿のあいだにもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。孝明天皇の周辺には、第二第三の岩倉や大久保の影がうごめいていたのである。直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕がだれであったか、もはや明らかであろう。
 岩倉や大久保にとって、天皇の存在は自らの意志で自由にできる「玉」であり、場合によっては「石」にも変わりうる、それほど軽いものだったのだ。
 それにしても、この頃の大久保には悲壮感さえ漂っていた。正月三日朝、大久保は岩倉に呈した意見書で、朝廷はすでに二大失策をおかし、いままた三つめの大事を失おうとしており、このままでは「皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水疱画餅」となるであろうと述べ、勤王無二の藩が、戦争を期して一致協力、非常の尽力をしなくてはならないと焦慮していた。
 三大事のひとつは、徳川氏の処置=辞官・納地問題と会津・桑名藩帰国命令が、越前、土佐の論に左右され、尾張、越前の周旋にまかされたため、当初の予定のごとく確断と出されなかったことである。第二は徳川慶喜や会津・桑名藩が大坂に滞留し朝廷も圧倒されるほどの幕府勢割拠の情勢を作り出したのを黙認してしまったこと。そして目前の三つめの大事は、慶喜の上京参内を許し、しかも要職の議定に任命しようとしていることである。慶喜-幕府の復権であり、これでは、なんのための王政復古クーデターだったのかわからなくなる。そればかりではない。大久保ら薩長討幕派が逆に窮地に追い込まれそうになってきた。なんとしてもここで慶喜をたたいておかねばならなかった。十二月九日の王政復古クーデターは討幕派の大勝利であったが、いまや最大の危機を迎えていたのであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           第六章 朝廷政治の終焉
非議の勅命
 ・・・
 たとえば長州征討勅許と条約勅許を見てみよう。前者は「(将軍)言上の趣、聞こし食され…(征討が済んだら)…上京の事、兼ねて被仰出候」という文言であり、後者は「条約の義、御許容あらせられ候間、至当の処置可致事」となっているように、同じ形式ではない。
 勅許とは勅命によって許可することであるが、天皇が直接口頭で伝えるのではなく、文書で伝えるためこのように間接形になる。とはいえ御前会議を経ているから天皇の真意をつたえるものであって、偽勅ではないことは周知のこととなっている。
 にもかかわらず、この勅(長州征討勅許)は勅命として認めないと言い放った者がいた。大久保利通である。「非義勅命は勅命に有らず」と、西郷隆盛にあてた手紙(慶応元年九月二十三日付)の中で、正義でない(非義)勅命は、真の勅命ではないから、したがわなくてもよいと述べていたのである。なぜ非義の勅命なのか。
 謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか。万人が正しく尤もだといって承服するのが正義の真の勅命ではないか。この勅命は正義に反している。大久保はこのように述べて、長州征討の勅命は無視してよい。勅命にはしたがわないことを薩摩藩の方針としたい、と西郷に提言していたのであった。この時西郷は大坂にいる。京都の大久保が大坂の西郷に、なぜ朝議の模様などを細々と記した四千字にもおよぶ長文の手紙を書いたのか。それは西郷がこの手紙を鹿児島に運んで、久光をはじめ藩の首脳部に披露して評議する、そのための報告書として書かれたものだったからである」(『大久保利通文書』)

 また、この手紙(主張)で注目すべき点は、非義の勅命と断言することによって、天皇・朝廷をはっきりと批判していたことであった。また朝彦親王と二条関白の発言と行動に対しては、その無策無能ぶりを「くどくどと言い訳する」などと、嫌悪感さえくわえて指摘していた。そして同時に、この勅命を、なかば脅迫してださせた幕府・慶喜にたいする、強烈な反感反発であった。

 ・・・

 先に久光が朝彦親王に呈した天皇・公家の意識改革を含んだ朝政改革の意見書や、元治国是会議の際における公家・朝議の模様などを検討した際に、久光・薩摩藩首脳が朝廷に失望感を抱いたことを指摘した。しかしここにいたり、失望ぐらいではとどまらない。大久保は勅許が正式に発表された二十二日に朝彦親王邸に行き「朝廷これかぎり」との言葉を投げつけていた。朝廷の前途はあやういが、もはや薩摩藩は手をかさずに朝廷とは縁を切る、そのような覚悟だと告げていたのである。

薩長盟約と新国家
この大久保の手紙は、幕末政治の流れを変える契機になったので、もう少しその点についてふれておきたい。この「非義の勅命」の手紙は、坂本龍馬が使いとなって、その写しが長州藩に届けられていた。西郷と龍馬は、九月二十六日に一緒の船で兵庫を発ち、西郷は鹿児島に向かい、龍馬は途中で下船して十月四日に、三田尻で長州藩重役広沢藤右衛門に会って、この手紙(写し)を手渡した。大久保と西郷は何を考えていたのだろう。
 これより先、この年七月に薩摩藩は、長州藩のために薩摩藩名義で長崎のイギリス商人グラバーを通じて銃七千三百挺を買い、龍馬が薩摩藩の船に積んで、下関に運んだ。これにたいして長州藩主毛利敬親(タカチカ)・広封(ヒロアツ)父子は、九月初めに薩摩藩主島津茂久(モチヒサ)と久光に親書を送って礼を述べるとともに、これまで薩摩藩にいだいていた不信は「万端氷解」したと記し、薩長両藩は大きく歩み寄っていた。
 ・・・
 翌年一月二十二日に薩長盟約が結ばれた。龍馬は薩長盟約のスタートとゴールの、両方における証人だったのである。
 薩長盟約は、倒幕のための軍事同盟であったとする説があるが、そのようなものではない。幕府は自滅することが見えている。倒そうとしなくても自ら倒れてゆくのである。盟約が目標としたものは、幕府が倒れた後のこと、すなわち新国家の建設をめざしたのであった。そして、現実に、二年にも満たない内に、慶喜は大政を奉還し将軍職を辞退して、自ら倒れていったのである。
 薩長盟約で目標としたものは、薩長両藩に越前、土佐、名古屋、芸州等の有力諸藩が協力して、幕府の廃絶と、朝廷の政治組織を廃止した上で樹立した王政復古政府となって実現したのである。幕末の歴史を、倒幕運動や権力闘争の歴史として描くのは、あまりにも視野がせまいというべきであろう。

 二十二卿の列参と天皇の怒り
 征長戦争を続行しようとしたのは慶喜の失政であったことはいうまでもないが、それを認めた天皇・朝議にも責任があったというべきであろう。公家の有志から批判の声があがったのは八月三十日であった。
 この日、大原重徳、中御門経之はじめ二十二人の公家が連なって参内し、天皇、朝彦・晃両親王、二条関白らが列座した席で、大原が代表してつぎのように言上した。①諸大名の招集を朝廷の主導で行う②文久二年、三年、元治元年の三カ度で処分を受けた公家を赦免されたい③朝廷政治を改革されたい。
 いわゆる二十二卿の列参といわれるものであるが、これは慶喜の緩急自在な政治的手腕に操られているような二条関白と朝彦親王にたいする、抗議運動でもあることがわかっていたから、関白と親王は九月四日、辞職を申し出た。天皇は却下したが、両人は責任を負って参内を辞した。
 天皇の怒りが強かったことは、大原重徳を「暴人」と呼び、大原と中御門経之そして彼らに加担したとして正親町三条実愛、この三名に閉門を命じたことで明らかである。孝明天皇はけっして暴君ではなかったが、朝廷の秩序を乱す異端分子を許さない、強い意志を持った帝であったといえよう。
 この公家の列参は、洛北岩倉村に隠棲中の岩倉具視が、中御門経之を動かして実行したものである。岩倉は朝廷が国政施行の根本の府となり、幕府と諸藩が朝廷を支える体制、すなわち「王政復古」を実現する、まさに「天下一新」の機会が到来したと主張していた(岩倉具視意見書「天下一新策」。注意しておくべきことは、幕府をひておいするものではないことである)。そして岩倉は、これまで処分を受けた公家の赦免を行って、朝政に復帰させ、朝政改革を断行して、彼の考える「王政復古」を実現しようと構想していたのである。もちろん自分も赦免され、政治の場に復帰するのである。
 ・・・
 …天皇の意思がはっきりしていたのは、処分した公家を赦免することは「毛頭無之」と、この時断言していたことである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする