真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 無差別的虐殺の命令 長勇参謀

2015年10月28日 | 国際・政治

 「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社)で、洞富雄氏は、下記資料1のような長勇参謀の驚くべき命令を紹介している。
 そして、この時の長勇参謀命令の無差別的虐殺は、角良晴(上海派遣軍松井石根司令官の専属副官)氏が「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」(南京戦史資料集:偕行社)で目撃を明らかにした草鞋峡(揚子江岸、下関下流)における12、3万の中国兵を含む中国人の死体とは関係ないものであろうという。
 その上、角良晴が目撃した死体は、東京裁判に提出された『南京慈善団体及ビ人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺』におさめられている魯甦という中国人(事件当時警察官)の虐殺証言と符合するものであるという。数は異なるが、魯甦の証言は、幕府山付近の四、五カ村に収容されていた軍民5万7418人が下関・草鞋峡の間で虐殺されたというものである。

 また、下記資料2のような非戦闘員を含む中国人の無差別的虐殺が記録された「従軍日記」が発見されたことも明らかにしている。第十軍・第六師団に関わるものであるが、とても戦闘行為として合法化できるものではないと思う。いずれも、「南京大虐殺の証明」洞富雄(朝日新聞社)からの抜粋である。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     終章 大虐殺否定論を圧倒する日本軍将兵の証言
3 非戦闘員の組織的・無差別的虐殺の新証言
 ・・・
 長勇は、独断で一般市民大虐殺の命令を発しただけでなく、実際に現場で、実行をひるむ兵士を非常手段でもってけしかけたことを、やはり自ら語っている。長はその事実を藤田勇に秘話し、藤田がまた、これを徳川義親に語っているのでる。徳川義親は1973年に著した自伝『最後の殿様』(1973年、講談社)で、その伝聞をこう述べている。

 《ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮をおこなった。殺戮の内容は、10人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時僕が聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であることを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
 藤田君は、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青帮との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、10月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ2人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して
 「人をころすのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
 「長、その話だけはだれにもするなよ」
 と厳重に口どめしたという》(172~173ページ)

 ここに語られているのは、前記の18日の夜におこなわれたと推測される草鞋峡辺における一般住民の大虐殺とは別個の事件であろう。おそらくこの事件は、12月13日・14日におこなわれた掃蕩戦の際に起こった事件と推測される。

 [注記]角氏の証言は、「一般住民」の大量虐殺をあえてさせた長勇参謀の暴虐を実証するものであるが、長はまた、やはり独断で命令を下し、捕虜の大虐殺を実行させた、と豪語してもいる。この件については、前項で述べておいた。長勇のこの大言壮語は戦中すでに各方面で語られていたようであるが、田中隆吉は、当時これを長勇から直接聞いて、戦後、その著『裁かれる歴史』に詳しく書き伝えている(310~311ページ)
 田中隆吉は、「長氏の残忍性は、通州の報復を名とする、この大量の虐殺を生んだ」とも言っているが、中国人を人と思わぬ残忍性の点では、田中隆吉も長勇と負けず劣らずだったようである。1936年5月、同盟通信の上海支社長だった松本重治氏が、新京において、関東軍で謀略を担当していた参謀の田中隆吉と会談したとき、田中は松本に「君は中国人を人間として扱っているようだが、僕は中国人を豚だと思っている。なんでもやっちまえばいいんだ」(『上海時代』中、209ページ)と言ったという。

 第十六師団中島今朝吾中将も同類である。敗戦時、東部憲兵司令官だった大谷敬二郎氏は、その著『陸軍80年』で、「昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局阿南少将が中島中将に会ったとき、”支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ”とたいへんな気焔をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう」(226ページ)と言っている。
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       第十軍・第六師団・歩兵第二十三連隊(都城)による南京城西壁水西門付近(?)での投降兵約2000人を処刑 (12月15日) 
 1984年都城連隊の一上等兵の従軍日記が宮崎で発見されて、『朝日新聞』の8月15日号で紹介された。その12月15日の条に、
《今日、逃げ場を失ったチャンコロ約2千名ゾロゾロ白旗を揚げて降伏せる一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨てゝ仕舞つて、太道に蜿々ヒザマズイた有様は、まさに天下の奇観とも云へ様。処置なきまゝにそれぞれ色々の方法で殺して仕舞つたらしい》
とある。この書きようだと、はたして捕虜を処刑したのが都城連隊であったか否か疑わしくもある。また 「老若取り混ぜ」とあるところを見ると、中には非戦闘員もまじっていたようであるから、あるいは他部隊が 便衣兵狩りでどこかから連行して来て、筆者の大隊が駐屯していた水西門外500メートル近くで処刑したもののように考えられなくもない。
 第六師団の捕虜虐殺といえば、神戸に在住する元上等兵の証言によって、同氏の所属する一部隊(都城連隊ではないが)が、南京から蕪湖へ移駐する途中で、捕虜の大群を機銃掃射で抹殺した事実が、最近明るみに出た。『毎日新聞』の1984年8月15日号は、この事件について、次のように報道している。
《集団虐殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南西約60キロの蕪湖へ向けて出発した同月(12月ー洞注記)16日ごろ行われた。児玉さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に銃機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
 「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約50メートル間隔で「30丁はあった」いう。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか、他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉さんはうめいた。》

 ところが、先に紹介した、新発見の第六師団都城第二十三連隊の一上等兵の従軍日記には、日本軍兵士たちの中国人無差別虐殺の非行の有り様が、やや具体的に書き残されていた。これはいうまでもなく一級資料である。
 その12月15日 の条に、次のように言う。   
 《近頃徒然なるまゝに罪もない支那人をつかまへて来ては、生きたまゝ土葬したり、火の中に突き込んだり、木切れでたゝき殺したり、全く支那兵も顔負けする様な惨殺を敢へてし喜んでゐるのが流行しだした様子》
また同月21日の条には、こう記されている。
 《今日も又、罪もないニーヤを突き倒したり、打つたりして半殺しにしたのを、壕の中に入れて頭から火をつけなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆面白がってやるので有るが、これが内地だったら大した事件を引き起こす事だらう。まるで犬や猫を殺す位のものだ。これでたゝられなかったら、因果関係とか何とか云ふものはトントンで無有というふ事になる》
 都城連隊といえば、翌1938年おこなわれた漢口攻略戦の時、南京の轍をふむことをおそれた第十一軍司令官岡村寧次中将(のち大将)が、第六師団のなかでは、「最も軍、風紀の正しい」部隊として選抜し、漢口進入部隊にあてたほどであるから(『岡村寧次大将資料集』(上)「職場回想扁」1970年 原書房)これはよほど優秀な部隊のはずであるが、この都城連隊すら、実際はこうした一面が見られたのである。

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『昭和史への一証言』 記者・松本重治 南京占領を語る

2015年10月21日 | 国際・政治

 『昭和史への一証言』は、南京攻略戦当時、新聞聯合社(後の同盟通信社)の上海支局長であった松本重治氏の証言に基づくものである。聞き手・國弘正雄氏の質問に丁寧に答えている。
 聞き手・國弘正雄氏は「鼎談 松本重治氏を偲んで」という文章の中で、「公事における巨人としての松本先生が果たされた役割」の大きさについて書いているが、松本重治は、時の首相・近衛文麿に、ブレーンとして知られる後藤隆之助を通して、南京占領を止め、和平工作を進めるように働きかけたという人である。中国に知人・友人も多く、中国側の情報もいろいろ得ていたようである。近衛首相は「君や松本君の話はよくわかる。僕も同感だ。しかし、今となっては、どうにもならない」と残念そうに答えたということを明かしている。

 その松本重治が、南京の虐殺数について、「30万とか40万といった虐殺があったとは考えられない」と言っている一方で、「”南京虐殺はなかった”ということはない。あったことは事実です。犠牲者は大半は捕虜で、非戦闘員の中国市民男女も相当数あったと思われます」とも言っている。
 そして、当時の現地日本軍が聞く耳を持たず、また、国際情勢や中国人の抗日意識の実態を考慮することなく軍を進めた事実について語っている。 南京を占領しても、蒋介石が降伏することはない、ということは予想できたというわけである。

 (聞き手・國弘正雄氏の質問を罫線から○印変えた。また、松本という名前の前にも○印をつけた)
 下記は、『昭和史への一証言』松本重治:聞き手・國弘正雄(たちばな出版)から「日中全面戦争と南京占領」の一部を抜粋したものである。
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                          第3章 日中全面戦争と南京占領
 無意味だった南京占領
○戦いつつ和平交渉をつづけるという奇妙きてれつな日中戦争は、日本軍の南京占領という一つのヤマ場を迎えます。ドイツの駐中国大使トラウトマンによる和平工作がもう少しでゴールインというところで南京攻略が迫ってきました・・・。
○松本 上海戦では日中両軍の激戦がつづき、呉淞(ウースン)に上陸した日本の上海派遣軍主力に対して中国軍はトーチカやクリーク(水濠)を利用して三ヶ月の間、頑強に抵抗しました。蒋介石は中央軍の最精鋭部隊を上海戦に投入していました。しかし、1937年11月に入ると、上海の戦局は、日本軍の有利に大きく傾きます。

 10月末に、大場鎮が陥落して大場鎮・蘇州河の防衛線が突破されると、中国軍は急に浮き足立ちました。上海派遣軍は最初、二個師団の兵力だったのが、9月10日東京で出兵が決まった三個師団が加えられていましたが、11月5日、柳川平助兵団(第十軍)が杭州湾に上陸、13日には第十六師団が揚子江の白茆江に上陸し、日本軍は三方から中国軍を攻撃する形になると、中国軍は総崩れになったのです。総退却を始めてからの中国軍は紀律を失って逃げる一方となり、日本軍はその追撃にかかります。上海派遣軍主力部隊は13日に嘉興を占領、14日に太倉、15日に崑山、19日には常熟と蘇州を、それぞれ占領し、無人の野を進むごとく急進撃します。柳川兵団も19日嘉興を占領しました。

 上海派遣軍に示されていた作戦区域の最前線は、蘇州・嘉興の線だったのですが、東京の参謀本部はその蘇州・嘉興の線を撤廃するという指令を出しました。これは、従来の戦局不拡大の方針を放棄したことになります。また、華中方面で戦っていた日本軍の最高司令部は上海派遣軍司令部だったのですが、上海派遣軍の上に新しく中支那派遣軍司令部が設置され、その司令官に松井石根大将が任命されました。松井司令官は上海派遣軍と柳川兵団の両方を指揮することになったわけです。これで、現地の中支那派遣軍は南京というゴールに向かって勇躍、進撃することになったのです。やんぬるかな ─  私はくちびるを噛む思いでした。

○戦局不拡大を主張していた石原将軍が作戦部長のポストから満州に追われたあとの参謀本部では、積極拡大派に押し切られてしまう・・・。軍事作戦が予期しない急スピードで進むので、和平工作が後手後手に回るわけですね。この国際文化会館にもよく来る中国系米人のD・ルー教授のセリフではありませんが、日本はいよいよ「総国家的ハラキリ」への道を着実に進んでいった、という気がします。
○松本 華中の戦局が日本に好転した11月の半ば、後藤隆之助さんが上海にやってきました。後藤さんは近衛さんのブレーンで、私とも親しい間柄でした。日本軍が南京まで行かないうちに兵を止めなければ、日本はとりかえしのつかぬことになる、そのことを近衛さんにわかってもらい、停戦を実現してほしかった。私はじっとしていられず、後藤さんに懇談の機会をつくってもらい、何回か会いました。そのうち、後藤さんは、しかるべき中国人に会わせてほしい、自分なりに直接、中国側がどういうことを考えているかをたしかめたうえで、それを参考にして、近衛さんに話してみたい、といい出した。
 そこで、頭に浮かんだのが徐新六です。戦争が始まってからは親しかった中国人の友人とは連絡がとれなくなりましたが、彼とは定期的に会っていた。浙江財閥の首脳のひとりで、貴重な情報を持ち、日中関係の将来について真剣に考えているはずだ。さっそく、後藤さんと徐新六を引き合わせました。
 後藤さんに、徐のことをよく話し、徐にも電話で十分説明をして、11月19日だったと思いますが、私があいだに入って二人が会見しました。後藤さんは弁慶のようないかつい顔つき、態度も武骨そのもの、一方の徐は女性的なやさしい顔をして、物腰もやわらか、そういうところは全く対照的だったが、二人に共通しているのは誠実であるということでした。徐はあまり多くは語らなかったが、中国の官民が日本の侵攻でいよいよ抗日の決意を固めていることを静かに述べ、私が後藤さんにいいつづけてきたことを全面的に裏づける形になりました。

○南京という点の占領がどれだけ無意味であったか、というわけですね。果たせるかな、その時点で、蒋介石は首都の重慶移転を決めています。
○松本 実は、戦後、私が『上海時代』を書いているときに、後藤さんから、このときの思い出を綴った長文の手紙をいただきました。後藤さんはこのときの私の意見を近衛政府が採用すれば、こうした不孝な結果にならなかっただろう、いま思っても残念だ、と書いておられました。
 そう、私はこんな意見を後藤さんに述べたのです。前線の日本将兵は、南京を攻撃すれば、蒋介石は白旗をあげ、自分たちは故国に帰れると思っているから、南京に猛進撃している。しかし、「城下の盟(チカイ)」はありえない。蒋介石は、長期戦に持ちこみ、日本軍を中国のふところに誘いこむ戦略をたてているのだから、南京が占領されても、面子は多少つぶれようが蒋介石が責任をとって下野するようなことは考えられない。逆に、中国人士の抗日意識を高め、抗日に結集させる効果を生むだけだ、そういうことから、南京占領は全く無意味である。しかも、南京を占領すれば、日本に欲が出て、ドイツやイギリスなど第三国による和平の調停も難しくなる。

○南京を占領すれば欲が出て、というところが重大なポイントのように思えますが、そういう先生の懸念は近衛首相に伝わったのでしょうか。
○松本 後藤さんは事態の容易でないことをさとり、一大決心をして、すぐ日本にかえり近衛さんに直言します。後藤さんは11月26日に京都の都ホテルで近衛さんをつかまえ、南京占領をせず、和平工作をするように熱心に進言してくれたのです。これに対して近衛さんは”君や松本君の話はよくわかる。僕も同感だ。しかし、今となっては、どうにもならない”と残念そうに答えた、というのです。
 後藤さんは、先に話した私への手紙に、そういうことがあったことを明らかにされ、”私がもっと近衛さんを説得すべきだった。ぼくの至らなさを君(松本氏)に申しわけなく思っている”と述べておられます。
 とき、すでに遅かったのです。後藤さんはせっかく近衛さんに直談判してくれたのですが、それから数日もたたない12月1日付で、大本営は南京攻略の命令を出しています。

 南京虐殺はあった
○そこで、南京攻略ということになるのですが、先生は、たしか、陥落直後の南京に入っておられますね。
○松本 「南京が完全に陥落したのは、1937年12月13日夕刻ですが、その5日あとの18日朝、南京に入りました。私が入ったときは、城内はもう平静でした。

○陥落直後の南京の第一印象はいかがでしたか。町の様子はどうでしたか。
○松本 静かなものだった。敗残兵や南京市民などはうろついていなかった。ネコが町を歩いているくらいのものでした。

○通りに人影はまったくなし、日本の兵士だけが巡回している、ということだったわけですか。
○松本 そう。敗残兵はまだ隠れていたかもしれないが…。


○逃げ遅れた市民がかなり南京城内に残っていたのですか。
○松本 南京攻略の直前まで、南京では戦闘がない、などといわれていたので、逃げ遅れた市民は相当いました。財産のある者は早くから、船で揚子江上流に脱出していた。残っていたのは、そういうことができない貧しい人たちでした。

○そういう貧しい人たち、底辺層のおばあさんや少女が日本軍によって殺されたり、犯されたりしたのですね。日本軍による集団残虐行為は、数日前からすでに城外の近郊で始められていましたが、占領した12月13日から入城式が行われた17日の前夜までの日本軍の集団虐殺は最も大規模なものであったといわれます。日本軍が南京を占領して5日後に先生が南京に入られたとき、すでに南京は平静に戻っていたわけですね。占領直後の南京の様子をお話しください。
○松本 占領直後の南京には、同盟通信の深沢幹蔵、前田雄二、新井正義の三君が取材のために別々のルートで、私より早く14日と15日に入っているのです。私は、戦後あらためて、3人に会って、直接、そのときの模様を聞きました。深沢君は従軍日記をつけていましたから、それを読ませてもらいました。3人の話では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
 前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです。前田君は12~13人ほど、そうやって銃剣で突き殺されているのを見ているうちに、気分が悪くなり、吐き気がしてきた。それ以上、見つづけることができず、そこから立ち去った、といっていました。軍官学校の構内でも、捕虜が拳銃で殺されていたということでした。前田君は社会ダネを追って走り回っていたのですが、12月20日ごろから、城内は平常に戻ったようだ、といっていました。

○日本軍による南京虐殺について、最近、新しい資料が出ておりますね。
○松本 最近、雑誌『歴史と人物』に南京攻略に参加した第十六師団の指揮官、中島今朝吾中将の『中島第十六師団長日記』」がのっていました。中島師団長が書き綴っていた陣中日誌のうち、南京陥落直前の12月11日から陥落直後の31日までの分が省略なしに全文のせられていて、当時のなまなましい様子がよくわかります。
 日記には、日本軍が攻めこみそうなところに中国軍はたくさん地雷を埋めていたから、天文台付近で捕虜にした工兵少佐に、地雷を敷設した場所を尋問しようとしたが、兵隊は、この将校をすでに斬り殺していた。兵隊にはかなわん、かなわんと書いてある。中島師団長自身の軍刀の切れ見るため、捕虜の試し斬りを日本からきた剣士にさせたことも書かれています。
 
○第十六師団師団が南京の下流の揚子江岸に敵前上陸したあとは、敗走する中国軍を追撃するだけですから、それから南京までは戦闘らしい戦闘もせず、無傷で、手持ちぶさた、といいますか、勇む心のやり場がないということになりますね。
○松本 なにしろ、上海戦線で防衛戦を突破されてからの中国軍は逃げる一方だった。第十六師団などは戦う相手がなかったのです。中国兵の逃げ足は速いのですが、それよりも日本軍の進撃のスピードが速く、中国軍の退路を先回りすることになる。中国兵捕虜はどんどんふえていきます。第十六師団に属する佐々木到一少将の旅団部隊は、1000人ほどの兵力なのに、捕虜を6000人もかかえてしまった、という話を聞きました。ところが、中島師団長の日記には、”捕虜はつくらない方針だ”と書かれています。それは、一時は捕虜として食物を与えておくが、一部を釈放し、他は遅かれ早かれ処分する、という意味しか考えられない。またそういう意味のことが文字通り日記に書いてあります。
・・・

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『破滅への道』 外交官・上村伸一 南京における記述

2015年10月18日 | 国際・政治

 上村伸一氏は満州事変勃発当時、南京領事であった。その後も、外務省の東亜局第一課長として、日中の問題に取り組んだ人である。その外交官が、下記に抜粋したように、「政戦の不一致 南京での暴行」と題した文章のなかで、

「…しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみならず、暴行の限りをつくし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も少しは眼を通したが、写真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたなどを思い出し、変わり果てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである

と書いている。
 この文章で、南京事件が東京裁判ででっち上げられたようなものでないことがわかる。
 また、南京攻略戦前後の日本軍の蛮行および、当時の現地日本軍が、政府や軍中央の統制のもとになかった事実もわかる。
 さらに、下記に抜粋した日本側の和平の条件を「この条件は全く城下の誓いである」と書いていることも見逃せない。

 現地の日本軍が、関係外交官はもちろん、政府および軍中央との意志一致や確認をせずに作戦を進め、暴走していたともいえるその現地軍に引っぱられるような形で、作戦を追認した日本という国は、やはり、国策をあやまったのだと思う。
 上海居留民の保護が目的で派遣されたはずの軍が、なぜ南京攻略にまで至ったのか。南京城に突入などせず、その前に進撃を止め、政府や軍中央が常識的な判断をもって直接蒋介石を相手に和平の話し合いを始めれば、和平が実現していた可能性は高かったのではないか、と考えさせられる。

 安全保障関連法案が通過した現在の日本では、著者が「はしがき」に書いていることも、忘れられてはならないことだと思う。
日華事変から太平洋戦争にまで突入するに至ったのは、軍人が全権を握るに至った結果であって、今日我々が深く反省すべきは、戦争に突入したということよりも、むしろ、もっと根本の問題である国民の心構えという点にあるのではなかろうか」
  下記は『破滅への道』上村伸一(鹿島研究所出版会)からの抜粋である。
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                         Ⅳ 日華事変に突入
 和平方針決定 事変対処要綱
 統帥部は日本戦力の限界を知り、極力戦線の拡大阻止に努め、華北の戦闘も大体一段落したので、上海方面は、第一次上海事変当時の停戦区域を確保すれば、戦闘を打ちきり、政治的収拾に移るというのが、東京における軍政首脳一致した考えになった。その結果「支那事変処理要綱」(昭和12年10月1日四相会議決定)が生まれた。その要点は、(1)華北を特別区とする。(2)京津、上海地域に非武装地帯を設ける。(3)日華経済提携のために、合弁事業を起こすという趣旨のものである。

 軍がこの決心をした裏には、杭州湾上陸作戦が予定されていて、上海方面の戦争収拾の見通しがついたからである。もっとも政府は上陸作戦のことは一切知らず、杭州湾上陸の報を聞いて驚いた始末であった。しかし上陸軍が南京を目指して進撃するのは戦線の拡大で、前記四相会議決定の趣旨に反する。戦局の収拾を目指しながら、戦線拡大に走るとはおかしな話で、軍の無統制を暴露したものである。南京進撃は統帥部の予定には入っていなかったはずである。

 イギリスの和平斡旋拒否、ドイツに依頼す
 四相会議は前記決定をした後、こんどは第三国の和平斡旋を受けることを決定した(10月22日)。 広田外相は10月27日日英米仏独伊五カ国大使を別々に引見し、第三国の斡旋を受ける用意のあることを示唆した。これに応じ真先に斡旋を申し出たのはイギリスであった。イギリスは中国との利害関係が深く、南京政府に対しても押しが利くので、斡旋には自信があった。それに老練な外交的伝統を持つ国だから、仲介者としては嵌まり役というべきである。しかし陸軍はこれに反対した。表面の理由はともかく、この頃、軍はすでにドイツの大島浩武官(後のドイツ大使)を通じて、ドイツに同盟締結の交渉を進めていた。したがってイギリスが深入りすることを嫌い、ドイツに花を持たせたい腹であった。
 ここにおいて軍は自ら東京のドイツ大使館に働きかけた。参謀本部のドイツ大使館との連絡係りの馬奈木中佐が、オットー武官(後の大使)に話を持ちかけ、ドイツ政府の承諾を得たので、政府はドイツに仲介を依頼することにした。仲介を実施するのはトラウトマン駐華ドイツ大使ということになったので、馬奈木中佐はオットー武官とともに上海に赴き、トラウトマン大使に、日本の条件を詳細に説明したほどの熱心さであった。これによっても、いかに参謀本部が和平に熱心であったかを知ることができる。日本側の説明を聞いたトラウトマン大使は日本の和平案を携え、先ず漢口に趣き孔祥熈行政院長(首相)、汪精衛国防会議主席などに会って日本の意向を伝達した。彼らは日本の申し出にかなり興味を示したということであった。しかし肝腎の蒋介石は上海方面の戦争指揮のため、南京に滞在していたので、トラウトマンは漢口から南京に引き返した。

 漢口からは外交部次長徐謨が同行した。彼は法律家だが、私の南京領事時代にも一時外交部次長をしていたことがあり、穏和で常識に富み、蒋介石の信任も厚かったようである。トラウトマンが南京で蒋介石に最初に会ったのは12月2日であった。漢口での会談内容はすでに、漢口から電報されていたし、詳細のことは、徐謨から蒋介石に報告ずみであった。当時の情勢は、杭州湾に上陸した日本軍が二路に分かれ、先陣を争って南京目がけて急進していた。他方蒋介石は日本の内情に精通し、穏健派と強硬派とのバランス如何で、日本政府の方針がぐらつくことも知っていたので、日本の和平提案には、二の足を踏んでいた。したがってトラウトマンとの最初の会見は、その説明を聞くに止めたに過ぎなかった。しかし蒋としては、日本軍の南京占領阻止のことも頭にあったであろう。南京を占領されては蒋の面目が失われ、和平はいよいよ至難になるからである。

 蒋は熟慮の結果、南京に集まっていた将領の意見を求めた。大勢は和平賛成であった。ここにおいて蒋はトラウトマンに対し、和平交渉に入る前に、先ず日本軍の南京進撃を止めるよう斡旋を求めた。

 政戦の不一致 南京での暴行
 東京の方針はすでに和平に決定し、杭州湾上陸は上海救援のためであった。上海が包囲され、日本軍が守勢のままで和平交渉に入るのは不利だから、上海包囲軍を撃退することは必要であった。しかし敗軍をどこまでも追うのは和平という政治目的からの逸脱である。やむなくそこまで行ったとしても、軍は南京の前で止まり、南京を睨む形で交渉を進めるのが当然である。しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみならず、暴行の限りをつくし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も少しは眼を通したが、写真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたなどを思い出し、変わり果てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである。

 日本軍の南京突入にあたり、日本の砲兵隊は、英艦レディー・バード号を砲撃した(12月12日)。イギリス側は橋本欣五郎大佐が砲撃を指揮しているのを目撃したと言って強く抗議して来た。イギリス側は橋本大佐が革新派の旗頭であり、一たん現役を退いたが、予備役として出陣したことを知っていて、故意の砲撃だと主張した。また同日米艦パネー号も日本の爆撃に会って撃沈され、アメリカの人心を甚だしく刺激した。英米と日本との関係の悪化は中国の民心を鼓舞することになり、和平を困難にするものである。

 それにもまして和平を困難にしたのは、軍内部の情勢が刻々に変わることであった。南京の占領により気をよくした軍の強硬派は和平条件の加重を強く主張し、ついにそれが通った。政府は戦力の限界を知り、事変の政治的収拾に進んだのだが、強硬派の巻き返しにあってまたも屈服した。政府の首脳部は和平派と強硬派の抗争の波のまにまに翻弄され、所信を貫く気力を失ってしまい、事変の政治的収拾などのできる状態にはなかった。かくて12月14日の政府大本営連絡会議および21日の閣議は、次の和平条件をドイツ側に伝達することを決定した。

(甲)(1)中国は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること            (2)所要地帯に非武装地帯と特殊機構とを設けること
   (3)日満華三国の経済協力協定を締結すること                        (4)賠償を払うこと

(乙)口頭の説明
   (1)防共の態度を実行により示すこと
   (2)講和使節を一定期日内に指定する地点に派遣すること               
   (3)回答は大体年内と考えていること
   (4)南京が以上の原則を承諾したら、ドイツから日華直接交渉を慫慂すること

(丙)ドイツ大使の極秘の含みとして内話する講和の条件
   (1)満州国の正式承認
   (2)排日・排満政策の放棄
   (3)華北、内蒙に非武装地帯設置
   (4)華北は中国の主権下におくが、日満華三国共存共栄に適する機構を作り、広汎な権限を与    え、とくに経済合作の実をあげること
   (5)内蒙防共自治政府を設け、国際的地位は、外蒙と同じとする。
   (6)中国は防共政策を確立し、日満両国に協力する。
   (7)華中占拠地域に非武装地帯を設定し、また大上海市区域は、日華協力して治安の維持およ
    び経済の発展にあたること 
   (8)日満華三国は資源の開発、関税、交易、航空、通信等に関し協定を締結する
   (9)中国は日本に対し、所要の賠償を支払うこと
付記 (1)華北、内蒙、華中の一定地域に、保障の目的で必要期間、日本軍を駐屯する
   (2)前記諸項に関する協定成立の後休戦協定の交渉を開始する。中国政府が前記各項の約定を    誠意をもって実行し、両国提携共助のわが方の理想に真に協力すれば、前記保障条項を解消    し、中国の復興、発展および国民的要望に衷心協力する用意がある。         

 この条件は全く城下の誓いである。12月23日広田外相は、ドイツ大使ディルクセンに示したところ、大使はこれでは到底話のまとまる見込みはないと嘆息した。しかし乗りかかった船だから、一応中国側には伝えようと答えたということであった。

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「戦争の流れの中に」 記者・前田雄二 南京における記述

2015年10月13日 | 国際・政治

 前田雄二氏は、同盟通信社の記者として長く従軍した経験を持つ。戦後、前田氏は支那事変から大東亜戦争にいたる従軍記録を、『内外ニュース社』発行の『世界と日本』という週刊新聞に連載したという。その後、それを本にまとめ、『戦争の流れの中に』と題して善本社から出した。

 「はじめに」の「真実が欠落」と題された文章に、下記のようにある。
この記録は私の日記を中心に書かれていく。しかし、それを裏づけるために多くの戦記や戦史を参考にした。私は従軍中、大陸や南方から数多い記事を打電したが、それらは決して物事のすべてを伝えてはいなかった。戦争中のきびしい検閲で、日本軍に不利な事実は差し止められていたからである。
 記事そのものは事実であっても、マイナス面が欠落していたのでは、真実が報道されたとはいえない。
 そういう意味からも、私は戦後早い時期から、当時の記録をまとめておきたかったのである。それに相手方の首都を5つも奪う場面に遭遇した新聞記者はほかにいないようだ。これは記者冥利に尽きることで、これも記録をまとめたいという使命感を私に与えていた。

 作家・石川達三は、同書に「直接体験の新鮮さ」と題する文を寄せている。下記のような内容である。
前田雄二君とは一種の戦友である。太平洋戦争のはじめごろ、サイゴン(旧名)で会い、シンガポールで会い、私は夜になると彼の宿舎を訪ねて(払印進駐)当時の彼の体験を聞かせてもらった。前田君は文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回って来た人である。よく生きてきたものだと思う。
 あれから40年も経って、いまになって彼は従軍体験の手記を書いた。なぜ、もっと早く書かなかったのか、それは同君の性格によったものであっただろう。従軍記は無数に出版されていて、私もかなり多くを読んでいるが、しかし前田君のこの手記は、いささかも古くなっていない。一読してその新鮮さに驚く。のみならず私には、いくつかの新しい発見もあった。たとえば南京占領軍の総司令官松井石根大将は、戦犯のゆえをもって戦後処刑されているが、部下の残虐行為を大変厳しく叱責した人であったらしい。同大将を処刑したことは、戦犯裁判の誤りではなかったか。

 また同盟通信映画部の浅井達三カメラマン
「… 同盟のことは前田雄二さんが書いた『戦争の流れの中に』(善本社)にあるとおりであす。彼は毎日、夜に日記をつけてました。それを基にあの本を書いたので、正確だし、僕等が忘れている人の名前まできちんと出てきます。当時軍に対して言えなかったことも書いているし、同盟通信の中の争いも隠さずにそのまま書いています。全くあの通りです
と『「南京事件 日本人48人の証言』の著者、阿羅健一氏に語っている。
 
 下記は、その「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)から抜粋したものであるが、「南京大虐殺」の一端であろうと思う。
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                             第二部 南京攻略戦
3 「南京大虐殺」とは
”処刑”
 翌日(12月16日)新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。
 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。

 私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。しかし今は人間ではなく物質として扱われている。
 交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。
 私は辛うじて10人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。

 死体の門
 支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口の挹江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。
 「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいかぶりの声をあげた。城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。
 いったいどうしてこんな状態になったのか、いつからなのか、聞こうにも誰も知った者はいない。下関の部隊で聞いてもムダだった。私たちは帰途ふたたび、気味の悪いこの城門を抜けなければならなかった。
「今日はいやなものばかり見る日だ」
 と、私は昼食時にこれらの見聞を同僚に語った。しかし、ことはまだ終わっていなかったのだ。

 銃殺
 午後、支局を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも”処刑”が行われていたのだ。
 死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。午前の処刑より残虐性は少なく、その死もまことにはかなかった。
 「記者さん、やってみないか」
 兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っこめた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と銃をすすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり、捕虜の背中に銃口を接近させると引き金を引いた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。
 死とはなんとたやすいことか。私は銃を中村の手から引ったくると下士官に渡し、急いでその場を立ち去った。
 私はまるで自分が射ったかのような錯覚を覚えた。中村のニヤリと笑った顔と、背中を丸めて落ちていった男の姿が、その後、時折眼底に蘇った。あの男にも平和な家庭があったに違いない。
 翌17日には、軍司令部の南京入城が予定されていた。占領軍は、その時までに、すべての掃除を完了しておこうとしていたのだった。

 入城式
 17日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将校の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。
 下関からは、長谷川清艦隊司令官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げられ、「君が代」が鳴り渡った。松井司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約100名の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本実彦改造社長などの姿もあった。
 この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという。

 死んだ部隊
 私は、翌朝、2、3の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。
「機関銃でやったらしいな」
 と祓川が言った。
「それにしても多いなあ」
 千はこえていた。2千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。
 城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

 軍司令官の怒り
 翌18日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後2時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。 
 祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。
 「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
 松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。
 「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
 私は驚いた。これは叱責の言葉だった。
「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
 会場の5百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、
「松井はよく言ったねえ」
 と感にたえたように言った。
「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」
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 ハーグ条約の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第二章 俘虜の第1条に
戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵 にも適用される。
とある。
第4条には
 ・俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。
 ・俘虜は人道をもって取り扱うこと。
とある。さらに、第7条には
政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有する。
・交戦者間に特別な協定がない限り、俘虜は糧食、寝具及び被服に関し、これを捕らえた政府の軍隊 と対等の取り扱いを受けること。
などとある。

 また、第二款 戦闘、第一章 害敵手段、攻囲、砲撃の第23条に
特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り。
        毒、または毒を施した兵器の使用。
        敵の国民、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。
        兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。

とある。したがって、前田雄二氏が上記に書いている「処刑」は、明らかに国際法違反であると思う。もし、上記の「処刑」が、交戦法規違反や敵対行為、有害行為、犯罪行為などに基づくものであるとしたら、軍事裁判がなされる必要があった。しかしながら、日本軍が中国人の上記のような「処刑」の前に、軍事裁判を行ったという形跡はない。したがって、上記の「処刑」は、正しくは「処刑」ではなく、「虐殺」なのだと思う。

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)

2015年10月06日 | 国際・政治

 NO7    
 「南京事件 日本人48人の証言」は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者阿羅健一氏が、当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集であるが、「第四章 外交官の見た南京」は、意外だった。
 一般的に、占領地における日本の外交官は、ハルビン総領事を務めた森島 守人に代表されるように、強硬な軍と現地政府・関係団体・住民などの抗議や要望の狭間で苦しい立場に立たされているものと考えていたが、「南京事件 日本人48人の証言」に掲載されている外交官の証言は、そういうものではなかったからである。

 領事館補・岩井英一氏は当時、陸軍参謀本部支那課の影佐大佐に、師団の派遣について異論を唱え、「派遣できる師団はすべて上海に派遣すべきだ。そして、南京を攻略せよ。そうすれば講話が来る」と言ったことを自ら証言している。外交官でありながら、軍人以上に侵略的な考え方をしていたのではないかと思う。
 また、虐殺については、「見たことはない。聞いたこともなかった」と証言しているが、疑わしい。見たことはなくても、聞いてはいただろうと思う。国際安全委員会のメンバーが、繰り返し日本の大使館に文書を提出し、あるいは直接出向いて、日本軍の蛮行に抗議し、その対策について要望していたからである。

 また、同様に領事館補・粕谷孝夫氏の証言も信じがたい。南京が占領された時上海におり、「上海には大使館と総領事館がありましたが、建物は一緒で、仕事も特別分かれているというものではありませんでした」といいながら、上海に集められた南京の情報を知らないという。
  また、当時海外で報道されている日本兵蛮行の記事に、日本政府や軍中央は苦慮していたにもかかわらず、「ニューヨーク・タイムズ」や中国の新聞の南京に関する記事を読んでいなかったと証言している。当時の領事館補の仕事がどんなものであったかは知らないが、外交官は日本政府や軍の方針に沿って関係国と交渉し、当時の日本の外向的立場を有利な方向に導くことが仕事ではなかったのか、と思う。したがって、大使館や領事館に集められる情報や海外の報道には、誰よりも敏感なはずではないのか、と思うのである。
 虐殺について「直接聞いたことはありませんでした。虐殺事件とよく言われますが、私にはよくわからないのです。上海にいて上海自体のことで手いっぱいでしたから」という証言の具体的内容はよく分からないが、信じがたいのである。
 また、南京にいたアメリカ人やドイツ人が国際難民委員会をつくって、日本の領事館に要望、抗議を繰り返したことについても「そういうことも聞いたことがありませんでした」と言っている。いったい、外交官としてどんな仕事をしていたのか、と不思議な感じがするのである。
 すでに取り上げたが、都新聞の小池秋羊記者が、当時南京にいた外国人記者について、
彼らは一人が一台ずつ車を持ってて、城内の掃蕩作戦や火事の現場を撮ったり、難民区にも入って写真を撮ってました。あまり頻繁に撮っているのでびっくりしたほどです。
  私は一度、十六師団の城内掃蕩作戦で兵隊が略奪しているのを見ていますし、食べ物の掠奪は上が黙認していたようなので、これらが記事になっては大変だと思い、このことをたぶん、馬淵(逸雄)中佐)さんだったと思いますが、報告に行きました。すると、すぐに調べると言って、各城門で外人記者をおさえようとしたらしいのです。しかし、実際やろうとした時には記者がもう上海に帰ったあとでした。それが『シャンハイ・イブニング・ポスト』とか『ノースチャイナ・デ イリー・ニューズ』に記事になって出ました。先ほど言ったように『ニューヨーク・タイムズ』などの海外の新聞にも出た訳です
と証言しており、筆者に
 『シャンハイ・イブニング・ポスト』や『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』などを小池さん自身ごらんになったのですか、と聞かれて
 「ええ、上海に戻ってから見ました。そういった中立国系の新聞だけでなく、中国新聞にも出ていました
とこたえている。従軍記者でさえ、このように日本兵の蛮行に関する海外報道に気を使っていた時に、外交官がそうしたことを知らなかった、外字新聞も読んでいなかった、ということが不思議なのである。
 下記は「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)から抜粋したものである。
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                               第四章 外交官の見た南京
領事館補・岩井英一氏の証言
 影佐氏が上海に二個師団、青島に一個師団を派遣すると言った時、岩井氏は「派遣できる師団はすべて上海に派遣すべきだ。そして、南京を攻略せよ。そうすれば講話が来る」と反論したという。
○当時は南京を落とせば中国は参ると考えていましたか。
 「私はその前の年、成都総領事館に赴任するため、南京から重慶まで船で行った。重慶に行くまで、何度か船を小さいのに乗りかえる。江は蛇行しており、昨日と全く同じ場所を進んでいるような気になってしまうこともある。あれこれ一週間の旅だ。成都はさらにその奥であり、気が遠くなるほど遠い。その頃すでに、中国は奥地に逃げても戦うといっていたから、中国と戦争になれば大変だと思っていた。だから影佐さんと会ったとき、すぐには戦争は終わらないと思っていた。しかし、相手の首都を落とすのは戦争のひとつのやり方だからね。
 13日、私の言った話が影佐支那課長より上海派遣軍司令官の松井大将まで伝わったのではないかと思っている。松井大将が行く時、東京駅で、近衛総理に、南京まで行く、と言ったという。これは影佐さんが松井大将に言ったからで、それはもともと私が影佐さんに言ったことだ。戦後、近衛総理の手記を読んだ時そう思った。まあ、自分中心にみえるので、私の本には書かなかったが、充分ありうることだ」
 ・・・
○南京の様子はどうでした?
  「戦場になった都市だからこんなものだと思いました」
○虐殺の現場を見たとか、あるいは虐殺の話を聞いたとか…。
 「見たことはない。聞いたこともなかった。東京にいた時もそう言う話は聞いたことはなかった。河相さんは皇軍のそういう噂には神経をとがらせていた正義派だから、南京視察は自分で確かめる目的もあったのかもしれない」

領事館補・粕谷孝夫氏の証言
○南京が占領された時は上海にいらしたのですね。
 「そうです。上海には大使館と総領事館がありましたが、建物は一緒で、仕事も特別分かれているというものではありませんでした。
 岡本(季正)さん、田尻(愛義)さん、曽称益さん、奥村(勝蔵)さん、倭島(英二)さんなどがいましてな。私は上海地区の問題で忙殺されていました」
○日本軍が南京に入ると虐殺事件が起きたと言われています。その時、上海の総領事館にいらした訳ですが、事件のことをお聞きになってますか。
 「直接聞いたことはありませんでした。虐殺事件とよく言われますが、私にはよくわからないのです。上海にいて上海自体のことで手いっぱいでしたから」
○当時、「ニューヨーク・タイムズ」や中国の新聞が南京のことを書いていますが…。
 「そうですか。『ニューヨーク・タイムズ』や中国の新聞は読んでいませんでした」
○南京にいたアメリカ人やドイツ人が国際難民委員会をつくって、日本の領事館に要望、抗議を出しております。それは上海経由で外務省に送られました。上海総領事館でこのことを聞いたことがありましたか。
 「そういうことも聞いたことがありませんでした」
○当時、本省の東亜局第一課長であった上村伸一氏が、南京からの抗議、報告、写真などが部屋に山積みされた、と回想録に書いています。
 「ほほう、」そうかいてますか。それは初めてです」
 ・・・
○南京の様子はどうでした?
 「普通でした。特別なことはありませんでした。店は開いていますし、日本の商人もいました。虐殺とかそういうことはありませんでした」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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