真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍の経済謀略 偽札工作

2011年06月27日 | 国際・政治
 15年戦争の最中、漸減政策を装いつつ、裏では、軍とつながりのある人間に、大量の阿片や麻薬の売買をやらせ、そこから得られる収益の多くを機密費として不正に利用していたことは、明らかに日本の国家犯罪であった。また、今回取り上げる偽札の利用も、関係者が「とにかくこの仕事は問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」といっていることからも分かるように、自国民にさえ知られてはならない犯罪行為であった。偽札の流通工作を担当したのは、岡田芳正中佐を機関長とする「松機関」であったが、実行役は、軍の嘱託の阪田誠盛であったという。彼は、当時上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幣(チンパン)」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幣の首領、杜月笙の家に「松機関」の本部を置いていたというのである。ところが、「日中戦争裏方記」(東洋経済新報社)の著者岡田酉次は、そうした偽札工作の犯罪性には言及することなく、淡々と諸事実を書き連ねている。下記はその一部抜粋であるが、元陸軍登戸研究所所員、伴繁雄の著「陸軍登戸研究所の真実」(芙蓉書房出版)の「対支経済謀略としての偽札工作」と矛盾しない。
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               Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃

 40 旧法幣の偽造による経済謀略


 ・・・
 この頃華中の金融市場ではなお旧法幣が流通しており、別に派遣軍は軍票を発行して支払手段としていた。軍はこの軍票で現地軍の需要ををまかなうのはもとより、内地産業が華中方面に期待している中国物資も調達したが、物資によっては軍票の流通地域外から入手する必要があって、これの支払に要する外貨や旧法幣の入手に困った。そこで、山本大尉(山本憲三主計大尉)は従来の研究を基礎に、偽法幣を発行して華中で試用する件を起案して、上司の決裁を求めたのである。

 この案では、中国の旧法幣(中央、中国、交通および農民の四発券銀行券)を対象として、まず使用紙質や印刷法の技術的検討を試み、しかるのちにこの偽紙幣をもって敵側奥地物資を引き出すとともに、このルートを利用して敵側の諸情報をも取得しようとする企画である。山本大尉はまずこの案を参謀本部の
渡支那課長および影佐第8課長を経て陸軍省軍事課岩畔豪雄大佐(死亡)へ提出した。当時陸軍では、陸軍技術研究所を新設して作戦上極秘の技術研究を広くとり上げていたので、同研究所内の一部でも同一の構想がすでに取り上げられていた。岩畔大佐はこの双方の案を比較してみたところ、山本案が一歩進んでいると認め、彼を招致して二人でとくと話し合った。その結果、特に山本の熱意にもほだされて、彼はこれの実施を決意したのであった。すなわち岩畔は「君の計画は非常に面白いと思うが、君はこの専門外の仕事に情熱を打ち込んで行く決意ありや。君がいかにこの仕事に熱を入れ上げ、これを成功させたとしても、君の軍人としての出世の途にはならないと思うが、どうか」などと問いかけたところ、山本は「是非打ち込んでやってみたい」と答えたのである。

 やがて山本は昭和14年7月、登戸の第9陸軍科学研究所の課長に転任して専心この課題の研究に取り組んだ。先般、この山本を訪れてみると、「立案の責任もあって引き受けたものの、経理部将校としてこの方面の技術がわかるわけでもなかったが、ものの順序としてまず民間の製紙会社に働きかけて紙幣用紙の基本的研究に取り組んだ。中でも紙幣に使われる紙にスカシを入れる技術については随分閉口もした。内地でこの面の研究を進める一方、現地部隊にも要請して法幣四銀行発行の現物を取り寄せ、いろいろと分析に取りかかった」という。

 既述のごとく中国では、昭和10年秋英国の援助で幣制改革を断行し、前記4つの銀行に法幣の発行権を認めていたのであったが、所要紙幣の印刷は英国のウォーターロおよびトーマスの2印刷会社、または米国のバンクノート印刷会社等に請負印刷させていることも判明した。山本はいう。「研究の進捗に伴い、大蔵省印刷局からも印刷技術者の応援を得ることとなり、民間印刷会社からも機械を借り上げ、また製紙会社からは技術者の援助を受け、とりあえず5元と10元の法幣を試作するところまで漕ぎつけてやたらに喜んだものの、試作品を英米印刷品に比べてみると、英国型のスカシがむつかしく、米国製のものは印刷面に特質があって、偽造の容易ならざることを痛感した」と。

 この頃私は現地にあって、この成り行きに関心を寄せていたが、たまたま統税局の新田高博顧問から最近流通している法幣の中に、紙幣の番号や記号に時々不審を抱かせらるるもののあることを報告され、その場ではトボケてすませたことがある。このことを山本に話してみると、「御説のとおり紙幣の番号や記号にも随分苦労した。偽造である以上、流通界には同一記号同一番号の紙幣が2枚生ずることは当然であり、そのうえ記号番号の標示文字は偽造防止のため特殊の技巧が必要なのである。また大量流通が始まると、梱包法から包装用紙、カガリ糸に至るまで発行銀行別に研究しなければならない。また銭荘等を利用するためには中古紙幣も混ぜ合わせなければならないが、流通過程で自然発生する中古紙幣を工場で生産することは容易のわざではない。とにかくこの仕事は、問題が問題だけに、研究所内においてさえ極秘中の極秘たらしめる必要があり、工場を別棟にするなど苦労はつきなかった」と語った。

 やっとこの仕事に目鼻がつくまでに早くも2カ年が経過し、とてもそろばんにはなかなか乗らなかったようであるが、山本は「でも世の中には鬼もいれば神もあるのたとえ通り、かれこれと苦心する間に、太平洋上でドイツ潜水艦が拿捕した米艦の積荷の中に未完成の中国法幣が大量に発見された。どうした関係からか、これの売り込みを日本に持ち込んできた。もちろん日本がこれを買い取るわけもなく、まわりまわって上海の陸軍貨物廠に保管されているというニュースが入った。奇蹟と言えば奇蹟であった。早速これを引き取って利用したのであえるが、このことは単に紙幣の量的効果のみにとどまらず、その後の製作技術上にも多大の貢献をもたらした」という。

 上海陸軍貨物廠に多量の新しい法幣が保管されているとの情報は、当時総軍司令部参謀部に勤務していた石光栄主計中佐(広島証券会長)が山本の耳に入れたものであった。私はこのことを知り早速石光を訪ねてみた。同氏は大学卒業後経理部将校となった人で、私の親友でもある。石光いわく「自分は総軍経理部員で参謀部第3課員も兼務していたが、上海貨物廠(廠長浅野忠道)を視察した際、厳重に衛兵を配置した倉庫の中に多量の法幣が保管されていることがわかった。額面で10数億元だっと記憶する。現品は中国銀行名で揚子江法幣と略称される小形のもので、ただ発行銀行の総裁印だけが押捺されていない。浅野貨物廠長は、外国貨幣の押収品として所定の法規に従い大蔵省と協議処理すべきものだと主張して現地処分に応じてくれない。自分は、この荷物は総裁印の押捺なき一種の印刷物に過ぎないという見解にたって総軍参謀部川本芳太郎大佐に電話連絡したうえ、松機関(現地偽法幣工作機関)の所管に移させたことを記憶している。これは恐らく重慶仕向けのものが、南方の軍隊に押収され、これが上海貨物廠に移送されたものと思う」と。

 この話によると、前述ドイツ潜水艦による押収品云々とは別の物件であったかも知れない。私はついでに「松機関」の当時の活動状況等を石光に聞いてみた。石光は「当時松機関を主管していたのは上海陸軍部(部長川本芳太郎大佐)で、岡田芳政中佐もこれに関係し、民間人では坂田誠盛がその実務を掌握していた。坂田は、中国人関係の特殊工作で活躍した里見甫や海軍側では対重慶工作をやったといわれる児玉誉士夫等とともに、大いにその功績をうたわれた人士のようだ。坂田は杜月笙の子分徐釆丞と組んで、重慶との間の物資交流のための公司を設立した。この公司にはその後、楠本実隆からの連絡により、寧波方面の製塩業者代表や長崎医大出身の黄医師等もこれに参加した。彼らは各地に銭荘を新設して偽法幣を巧みに流通させるなど、この方面の仕事で大いに活動した。陸軍貨物廠にあった未完成の法幣印刷物も、額面価格の70%と評価して坂田氏配下の公司に交付したが、この印刷物に総裁印をうまく押捺して流通面に出すまでには、危険や苦労も相当多かったものの、動き出すとかなりの成果を挙げたのではあるまいか」と述べた。

 ・・・

 いうまでもなく偽造紙幣の発行目的は、これを敵地区に放出して敵物資を取得するを第一義とし、さらには敵側法幣のインフレ傾向にも拍車をかけ、時には偽造紙幣が適地で発見されて法幣への不信感を引き起こさせる等、敵側戦時経済を幾分でも混乱させようというものであった。そこでこれらの成果につき、所見を山本に求めると、「対敵取引の仕事は自分の仕事というよりも上海陸軍部所属の松機関が担当していた。陸軍部は職業柄、敵側との物資交流の路線に乗っけて重慶情報を入手することを一任務としていたから、上海政財界の有力者で暗黒街にも顔のきく杜月笙の子分徐釆丞と組んで、民生、祐生の2商社を設立してこの仕事に当たらせたのである」と。

 ・・・(以下略)

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岡田酉次主計将校と阿片・麻薬問題

2011年06月20日 | 国際・政治
「日中戦争裏方記」岡田酉次著(東洋経済新報社)は、日中戦争当時、蒋介石と対立した中国国民党親日派の汪兆銘を支援し、汪政権を樹立させた立役者、影佐貞昭の「梅機関」(影佐機関)に配属され、様々な重要任務を遂行した主計将校の回想録である。彼は、汪兆銘南京国民政府の財政顧問兼軍事顧問でもあった。

 汪兆銘南京国民政府を支えた著者は、自序で「この敗戦により、まったく気の毒な立場に立たされたのが、戦争中わが国と行をともにした親日中国側同志達の身の上である。かれらの多くは、いずれも立派な愛国者であって、自国を愛し東亜の平和を望むゆえにこそ、勇敢に立ち上がって日本と手を握った人びとである。」と書いている。そして、「たまたま私は、日中戦争前より中国にあって、その風土や歴史、習慣等を身につけていたためか、その所為自ら郷に入りては郷に従うの掟にはまり、勢い中国要人らの信頼をうけ、その後長期の中国勤務となって行ったのであったが、この間私のかいまみた彼らの信念や言動を、一方的ではあろうがこれをここに書きとどめ、その後継者にもこれを伝えることができれば、すでに世を去った中国人同志達へのはなむけとなるかもしれない。─── これがまた、あえてここに禿筆を執ったゆえんでもある。」と書いていることから、戦後も、日中戦争当時の親日派中国人に対しては、深い思いを抱き続けていたことが分かる。また、淡々と書いている裏方としての任務遂行の記述からも、「自分は、日本と汪南京政府のために精一杯努力した」という思いが伝わってくる。それだけに、日本軍の戦争犯罪に関わるような部分については、あまり踏む込んで書いてはいないが戦史資料として貴重である思う。

 軍の判断で阿片をペルシャから輸入した事実や、国際法違反に問われることを避けるために、無国籍の船を仕立てたという関係者の証言、「里見機関」設立の経緯、また、汪南京政府を支えるために、当時、阿片配給やそれによって得られる収入を一手に握っていた盛文頤(セイブンイ)と接触していた事実などが確認できる。同書から阿片・麻薬問題と関わる部分を抜粋する。
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               Ⅴ 汪兆銘中央政府の頃

 30 税収源を握る2人の阿片淫者

 阿片の効用などについては、私の理解し得るところではないが、その吸烟による中毒患者ともなると、人生まことに悲惨の極みといった様相を示す。彼らはしばしばモヒ常習者に転落して行路病者の仲間入りをしたり、または支離滅裂の症状を呈して常人の生活から離れて行く者が多いようだ。私は戦前中国に勤務中、古い型の中国人富豪の家庭を訪れ、かかる淫者に際会した経験がある。彼ら吸烟常習者の話を聞くと、吸烟によって彼らは陶然となり、雲の中を浮遊する体の快感に浸るという。
 維新・中央両政府を通して最も大切な財政の収入源を握った2人までが、たまたまこの阿片常習者だった。統税局の
?式群局長と、祐華塩公司社長で宏済善堂を創設して阿片の配給と阿片収入とを一手に握っていた盛文頤とがこれである。統税局の?局長については、その誘い出しから局の育成まですでに述べたので、ここでは後者盛文頤の出馬の経緯から述べてみよう。

 盛文頤は盛宣懐の甥に当たり、その叔父盛宣懐は清朝末期大臣をも勤め、日本財界と提携して大冶鉄山を興し、八幡製鉄等に鉄鉱を供給したことで日本人にも親しまれている。この盛宣懐の直系の人物が終戦後、以前関係のあった会社の後援で東京芝公園に「留園」という中国料理の殿堂を経営していることは、戦後の日中間に生まれた一つのエピソードであろう。こんな系列で育ち知日派でもあった盛文頤は、里見甫の呼びかけに応じて出馬し、日本人にとってまことに厄介な阿片関係の仕事を引き受けたのである。現地で特務部が阿片に手を出しかけたとの情報が流れると、当時参謀本部で謀略関係を担当していた
影佐大佐は、特務部にこの仕事から手を引かせるため、東亜同文書院出身で中国人に友人の多い里見に命じて中国側の適格者を物色させ、その候補にあがったのが彼である。

 当時戦争の影響で占領地区内は阿片の欠乏がはなはだしく、その供給対策を求める要請が官民双方から特務部に殺到していた。時たまたま華北方面でも同様の事情が発生し、華北政務委員会を代表して王克敏からも公文書をもって一括購入の上これを配給するようにとの要請が特務部へきていた。そこで同部では、中央に連絡して合法的配給制度に必要な専門的要員の派遣を依頼するとともに、藤田某(さきに柳条溝爆破事件に所要の資金を供給した民間人。今井少将著『昭和の謀略』による)と在上海有力某商社にその輸入方策の検討を依頼することとなり、私はその折衝に当たった。そして間もなく日本郵船上海支店の倉庫に荷物が入ってきた。担当者の説明によると、国際条約上の問題もあって、無国籍の船を仕立ててペルシャに阿片を手配していたとの話であった。

 開戦の頃から陸軍武官府にあって諸工作に当たっていた
楠本大佐を訪れて、当時の思い出をともに話し合ってみたが、同氏は「阿片もまた自分の責任で手がけた工作の一つである。先輩からは幾度も前例を挙げてこれには手を付けぬよう注意されていたが、大同市政府蘇錫文市長からの、たび重なる懇望をことわり切れず、公明正大に処理すれば、疑惑の目で見られることもあるまいと考え、貴官(著者)の協力を願ったわけだ。市長の要請によると、開戦後間もなく上海の阿片ははなはだしく不足して価格も高騰し、黄浦江の沿岸には香港から来る阿片密売のジャンクが密集して治安面からも問題が多発し、混乱を招いた。市政府だけではこれに施す術もないというのである。そこで上海派遣軍高級参謀の長勇大佐と協議したところ、華北政務委員会からも同様の申し出がきていたので、その揚陸許可証を使うことにして輸入に踏み切った。その頃ちょうど里見甫が来訪して、阿片の仕事に軍が手を出すことは適当でないから里見に任せてくれと申し出た。話し合っ てみると、里見は陸軍本省とも関係のあることがわかったので、一銭一厘までを詳細に規定した書類を作って、里見とその関係する中国人に引き継がせて、その後私は一切関係しなかった」と述べた。里見はこの仕事を盛文頤に託したわけであるが、この両人とも今は世になく、両人合作の経過などを知るすべもないが、その後汪南京政府も成立し、私は経済顧問の立場でしばしば盛文頤との間に折衝をもった。

 阿片吸烟者の常として、盛の生活は昼夜の関係が転倒して面会時間が午前3、4時となり、ホトホト閉口させられた。そのうえ話しがときどき誇大妄想的となり、思惟にも混乱を伴うばいいが少なくなかった。この施行混乱の一例とみるべきか、汪政府成立後辻政信大佐(戦後参議院議員)に周仏海財政部長暗殺の計画ありとの情報が彼から出て、中国側要人達を騒がせるような場面が展開した。当時周部長からこの相談を受けた金雄白は、著作の中でこれを次のように紹介している。…

 ・・・(以下略)


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田中隆吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2

2011年06月17日 | 国際・政治
 阿片・麻薬問題に関する田中隆吉の陳述は、第3回の尋問で集中的になされている。田中隆吉は、ホーナディ尋問官を驚かせるほど、阿片・麻薬問題に関する知識を有していた。それは、彼が関東軍参謀という立場にあったことや、内蒙工作の推進者であり、「綏遠省のアヘン収入を押さえること」を主たる目的とした綏遠事件の主謀者だったことなどによる。しかしながら、彼は自分自身の阿片・麻薬問題とのかかわりについてはまったく語っていない。事前にアメリカ側関係者と取り引きがあったのか、自分自身の阿片・麻薬問題との関わりについてはまったく触れることなく、他人のそれとの関わりについては、知り得た事実をすべて語ろうとするかのごとき姿勢で、問われていないことまで、いろいろな局面で進んで語っている。その一部を「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)から抜粋する。
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第1回尋問 1946年2月19日 
        尋問官 ウィリアム・T・ホーナディ中佐
 (p16~p17)

 ・・・
 
  問 満州事変のことで土肥原将軍は、満州事変直前の2年間、自分は日本で歩兵〔第30〕連隊を指揮していて、中国にはいなかった、と私に言っていますが。

  答 そうです。と言うのは。土肥原将軍は宇垣大将の側近にいて、宇垣は彼を国内から出さなかったからです。宇垣大将は、常備軍兵力の削減による軍備制限を唱えましたが、土肥原将軍は、宇垣との結びつきゆえに、当時の現役軍人からは快く思われていませんでした。土肥原将軍が陸軍部内で信望を得ることができなかった別の理由は、彼が、いささか利己的かつ自己中心的だと思われ、その結果、大目に見てもらえなかったことにあります。さらに別の理由は、たぶん、彼が長年にわたり支那で暮らし、同地で豪奢な生活を送っていたということ、さらにまた特務機関には常に多額の資金があったので、当然ながら、ある程度の妬みを招いたということもあります。

  問 それは機密費だったのですね。

  答 そうです。

  問 それで、特務機関は、この資金の使途を、通常の経路、つまり大蔵省をつうじて明らかにしなくてもよかったのですね。

  答 彼は彼が適当と考えればどのような方法であろうと、その資金からどれほどの額でも使用することができました。彼に求められていたのは、明細の記載されていない簡単な領収書をもらっておくことだけで、しかも、そのような領収書も、しばしば偽造することが可能でした。過去にそのような事実があったゆえに、特務機関のほとんどすべての指導者は、厳しい批判を免れませんでした。


  問 特務機関がもっていたそのような機密費の主たる出所の一つは、阿片や麻薬の販売だったのですね。

  答 満州事変以前は、機密費は、主として政府から供給されていました。満州事変以後、とりわけ支那事変以後は、そして、それにもましてとくに大東亜戦争以後は、たった今あなたが言及されたような活動が実際に行われました。私は、兵務局長を務めていたころ、彼らのなかの何人かを、そのような活動をしたがゆえに処罰しなければなりませんでした。調書に書かれているいることは事実であると確信しております。私は、主として、あなたのお考えを裏付けるために以上の供述を行っていることになります。


  ・・・
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第7回尋問  1946年3月16日  
         尋問官 ジョン・F・ハメル少佐 
 (p85~p86)

  ・・・

  問 東条は、関東軍憲兵隊司令官在任中に、麻薬取引にかかわりましたか。

  答 彼は、何らのかかわりももっていませんでした。

  問 彼は、取引にかかわった人たちに保護を与えましたか。

  答 与えました。

  問 どのようにしてですか。

  答 最近、満州で自殺した甘粕正彦を支援することによってです。

  問 東条は、どのように彼を支援したのですか。


  答 甘粕は、苦力(クーリ)を満州に送り込む組織を動かしていました。また同時に、甘粕は、阿片を扱う満州専売局に密接な関係をもっていました。この満州専売局は、甘粕の団体ともきわめて密接でした。そのような理由で、甘粕は、終戦時まで東条の政治参謀長の役を務めました。また、彼〔東条〕を支援するために多額の金を提供することもしました。

  問 東条は、甘粕がこれらの活動にかかわっていることを、知っていたのですか。

  答 彼がそれを知るのを妨げるような事実は何も思いつきません。直接にであれ間接にであれ、彼が阿片売買にかかわるようになったのは、東条が陸軍大臣になったあとであります。東条夫人は、もって生まれた資質によりまるで政治家みたいでした。東条夫人は、甘粕に対して非常に好意的でした。甘粕が彼にどのような援助を与えているかについては、おそらく、東条夫人のほうがよく知っていました。


  ・・・ 
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第15回尋問  1946年3月23日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
  (p165~p166)

  ・・・  

  問 彼(畑俊六)は、1938年2月に松井に代わって中支那派遣軍司令官になりましたか。

  答 はい、なりました。彼は、上海に行きました。

  問 彼は、その時以後、翌年〔1938年12月〕後任者に交代してもらうまで支那事変と戦争を続けてきたのですか。

  答 そうです。彼は、上海駐在中、原田熊吉中将の進言により上海で阿片専売制度を発足させました。

  問 どのような経緯でそれを発足させたのですか。

  答 当時、原田将軍は、畑大将の指揮下にあった特務部の政務〔特務〕部長でした。この阿片専売計画は、もともと里見甫によって発案されたものであります。


  問 里見は、その計画を実行したのですか。それとも、その発案者だったのですか。

  答 里見こそが原田に勧告を提示した人物であり、原田がこれに修正を加えたのち畑大将に提示し、次に畑大将を介して日本の内閣にそれを承認してもらい、最終的に内閣に計画を採択してもらったのであります。里見は、その専売計画を実行するよう、畑大将によって任命されたのです。


  問 阿片専売による収益はだれが受け取ったのですか。

  答 阿片専売の利益は、傀儡南京政府、日本陸軍および里見の間で三等分されました。

  問 日本陸軍とは、それは、畑の指揮下にある軍隊のことですか。それとも、日本陸軍全体のことですか。

  答 その金は、特務部が受け取ったのですから、畑の指揮下にある軍隊がそれを使ったものと考えるのが妥当であります。

  問 その金の一部は、東京の軍部に渡ったのですか。

  答 そうです。

  問 それは、日本政府が関東軍に対する資金調達のためにつかったのですか。

  答 事実として、阿片売買による利益は、満州国政府の国庫に入り、そのうえで今度は関東軍のために使われました。

  問 それは、満州での阿片取引のことですか。

  答 私としては、その点についてのはっきりした情報はもっていません。と言うのも、阿片取引に関する指揮監督はすべて、上海から行われていたからです。したがって、里見と難波を調べれば、必要な情報を得ることができます。


  ・・・

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第16回尋問  1946年3月25日  
          尋問官 ジョン・F・ハメル少佐 
 (p174~p175)

  ・・・

  問 彼(有末精三)は、中国駐在中に阿片取引に従事しましたか。

  答 従事したと思います。

  問 彼は、それとどのような関係があったか知っていますか。

  答 彼は、北京で浪人たちを指揮監督しました。

  問 彼は、華北政府の日本人顧問だったのですか。

  答 彼は、あるいは日本政府代表であったかもしれません。しかし、彼は、北京地域を管理し、間違いなく、阿片の売人と多分関係がありました。

  問 彼について、ほかに何か知っていますか。


  答 東京に戻って来たあと、彼は、特別なことは何もしませんでした。彼は、ドイツが勝つものと、停戦の日までずっとそう信じていたと思います。彼の評判は大変悪くなり、有末の言うことの逆に考えておけば間違いなかろう、と言われるほどでした。

  問 彼の評判は、なぜそんなに悪かったのですか。

  答 彼は、余計なことをやたらに言いすぎるために、評判をすっかり落としたのです。

  問 ほかに何かありますか。

  答 例えば、彼は、イタリアとドイツが勝ものと信じていました。有末とムッソリーニは、とても親しい友人同士でした。


  ・・・

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第20回尋問  1946年4月1日  
       尋問官 ジョン・F・ハメル少佐
             ジェイムズ・J・ロビンソン(米海軍大尉) 
 (p199~p200)

  ・・・

  問 将軍、あなたは、設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院の職員がだれであったか知っていますか。

  答 設置の話が出ていた大東亜省の前身である大興亜院は、次の人物に率いられていました。

    初代総裁〔総務長官〕は柳川平助、第2代総裁は鈴木貞一、第3代総裁は及川源七でした。
    大東亜大臣は、就任順に青木一男、重光葵、東郷茂徳、でした。

  問 興亜院の職員のなかには、阿片取引にかかわった者がいましたか。

  答 興亜院の鈴木貞一のもとで働いていた毛利英於莵です。現在、そういった連中は結束を強めつつあり、彼らは、それはたんなる投機的事業であり、今次戦争の原因とは何の関係もなかった、と公言しています。それに答えて私は、満州および支那における阿片取引は、人道に対する犯罪であったと非難する記事を新聞に投稿しました。毛利英於莵は、東京にいるはずで、彼から、支那における阿片取引に関する内部の実行計画についてさらに詳しく話してもらえます。この人物は、阿片売買についてだれよりも多くの情報を提供できるはずです。彼は里見と難波のごく親しい友人です。


 ・・・

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田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費

2011年06月14日 | 国際・政治
 田中隆吉という人物は、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人である。そのため、極秘情報も含めて、重要な日本軍の情報の多くをつかんでいた。その田中隆吉が、東京裁判の法廷では、検察側証人として、大勢の戦争責任者を告発し、検察活動に協力したのである。「日本のユダ」といわれる所以である。
 しかしながら、彼の陳述は、戦争の事実を解明するためにきわめて貴重であり、歴史的資料として価値あるものであると思う。

 彼は自身の著書「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)の中で、「元来機密費なるものは、その使途には、何らの制限がないのみならず、会計検査の適用も受けない。従ってもし責任者がその用途を誤るときはいかなる罪悪をも犯し得るのである。満州事変以来陸軍の機密費が、軍閥政治を謳歌しこれに迎合する政治家、思想団体などにバラ撒かれたのは、私の知れる範囲だけでも相当の額に上る。近衛、平沼、阿部内閣等でも、内閣機密費の相当額を陸軍が負担していたことも事実である。これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。これらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。また陸軍の支持を受くる間は陸軍と一体であったから、この機密費の力は間接的に陸軍を支持する結果を生んでいた。軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた。東条氏が総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼ねたとき、土産として内務省に持参した機密費は百万円であった。…」などと、軍の機密費が日本の針路を左右した事実を明らかにしている。そして、その多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを、下記の陳述は物語っているのである。「東京裁判資料 田中隆吉尋問調書」粟屋憲太郎・安達宏昭・小林元裕編 岡田良之助訳(大月書店)の阿片・麻薬問題にかかわる尋問部分の一部抜粋である。
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            田中隆吉に対する尋問(第3回)

 日 時 1946年2月25日10時30分~12時  13時45分~17時20分
 場 所 日本 東京 明治ビル
 出席者 田中隆吉
     ウイリアム・T・ホーナディ中佐 尋問官  J・K・サノ 通訳   インジバー
     グ・ナイデン 速記者


 ・・・
  問 戦闘が終わったのちに、占領地域で麻薬の使用を拡大しようとしたのは、どのような目的からでしょうか。私の質問の意味は、それが、攻撃前に進出のための武器として使用されたということではなく、中国側代表が国際聯盟に告発したこと、つまり、日本軍が占領地域において中国人民の心身を弱らせ、彼らをより柔順にし、抵抗をやめさせたうえで、占領地域の人民を撲滅するために麻薬の使用を奨励していたという意味です。そのことをどう思いますか。

  答 支那側によるその見解は、正しいものであります。と言うのは、日本軍がそのような結果を得ることを意図したかどうかはともかく、彼らは、占領地域ではかなり自由に麻薬売買にかかわってきたのであり、その結果だったからです。われわれは、占領地域における日本人の麻薬売買の結果から判断して、支那側がそういう見方をするのを非難するわけにはいきません。あなたが言及された支那人の撲滅は、人びとがその売買に携わるかぎりでは、実際のところ、二次的に考えられたことでした。彼らが真っ先に考えたことは、金を儲けることでした。それだけのことであります。大東亜戦争の終結近くになって、日本政府は麻薬売買による収益のありがたさを評価しだしたように思われます。そのようなことは、私が兵務局の職を退いたのちに起こったのであり、私は、それについて、それこそ徹底的に調査すべきであると真剣に主張します。

  問 それでは、1942年以後、中国における阿片売買ならびに、それによる収益については、東京の政府から以前にもまして直接の指揮監督があったという意味でしょうか。

  答 そうであります。私が職を辞したあと、東条内閣は、南京政府に対して3億円の借款、つまり、汪精衛政府に対して借款を与えましたが、その金は実際には、彼らのもとには届けられませんでした。その代わりに、私の推察によれば、里見体制の時期に麻薬売買によってその組織の手中に蓄積された利益が、前述の借款を与えるために使用されたのであります。児玉誉士夫は、まだ権力を握っていなかったと思います。借款に充当されたといわれる3億円は、確か、いずれも戦犯容疑者である青木一男と阿部信行との間で分配されました。たぶん、阿部は、病気のため、巣鴨プリズンに入っていません。(ホーナディ大佐のメモーこれら両人はプリズンに収監されている。)それから、石渡荘太郎。これらが、前述の金を分け合った人物として私のもとに報告された名前であります。実を言えば、青木は、われわれが無条件降伏した当時、横浜正金銀行から多額の預金を引き出しました。そのような次第で、今次戦争の終結間近に、阿片がらみの金がどのような役割を果たしたかがご想像いただけます。

  問 その3億円は中国における阿片売買によるものであったという意味ですか。

  答 それが結論です。


  問 将軍、その情報源はどこか、教えていただけますか。

  答 私個人の情報提供者から聞きました。そのうちいつかまた私が来たとき、その人物をあたなに紹介しましょう。彼は、その話をしてくれるでしょう。


  問 それはありがたい。将軍、中国における阿片・麻薬売買による利益が、定期的に横浜正金銀行に預け入れられていたかどうか知っていますか。

  答 そのような資金は、いくつかの銀行、例えば台湾銀行や横浜正金銀行に分散されたものと思いますが、しかし、それは、私の憶測であります。かつて東条が陸軍大臣であった当時、天皇裕仁は、多数の日本軍人がなぜ上海の銀行にこれほど預金をもっているのか、という質問をされました。東条は、事情調査のため、直接に日本から憲兵を派遣しました。調査の結果、それらは、個々の官吏がもっている預金ではなく、支那政府に引き渡されたと推測される資金ではあるが、特務機関の名義で保有されていることが判明しました。そのようなわけで、それらの資金も、麻薬売買の結果として蓄えられた金であるというのが、私の推論です。東条はこれについてすべてのことを知っているはずです。この事件は、私が兵務局を退職する直前に起こりました。


  問 あなたが兵務局の職から退かれたのは、昭和何年でしたか。

  答 昭和15年、つまり、1940年の終わりに近いころ〔1942年9月〕でした。私は、この問題を追及しませんでした。前述の行為は、官吏個人の利己的動機のために行なわれたものではなかったからであります。

  問 それは、特務機関の機密費を得るためだったのですか。

  答 私は、必要に応じて彼らが支那政府に金を引き渡すことができるようにするため、前述の方法で金が蓄えられたのだと、むしろそう考えています。
  

  問 先日、あなたは、里見の名は甫(ハジメ)であると言いました。それで間違いありませんか。

  答 はい。


  問 ところで、私は、ウールワース大佐が、彼の名前に関連して京都のほか、内務省についてもメモを作成したことを知っています。それが何についてであったか、覚えていますか。

  答 彼は軍人ではないので、〔彼のことを〕知るのに最も手っ取り早い方法は、内務省を利用することだ、とたぶん申したのであります。

  問 そこに行けば、彼の所在と、彼の活動がどのようなものであったかを突き止めれらるということですか。

  答 住所に関するかぎりは、内務省で教えてもらえます。

  問 さらにまた、阿片売買に関連して、あなたは、北京に駐在した塩沢〔清宣〕将軍に言及しました。先日、あなたが供述したその所見は、どのようなものだったのですか。


  答 北支での麻薬売買に関する政策は大東亜省連絡事務所〔大使館事務所〕の前身である北京の興亜院〔華北〕連絡部によって統制されていました。その部局の長官〔心得〕が、この塩沢でした。彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は里見の大の親友でもありました。塩沢は、北京から東条へしばしば資金を送っていました。戦争中であったため、上海地域で使用された阿片は、その量のすべてが北支から供給され、そのようにして、当然、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました。塩沢のもとで、専田盛寿少将という私の友人が働いていました。彼は私に、塩沢は、しばしば飛行機を使って東条のもとに金を送った、と語り、そのことでひどく腹を立てていました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞することを余儀なくされました。昨年9月に大阪で私が専田に会ったとき、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました。そのようなわけで、私は、里見と塩沢は、阿片売買において互いに協力していたとの結論に達したのであります。東条内閣が倒壊したさいに塩沢もまた、興亜院から追い出され、どこかの師団長〔第119師団長〕に任ぜられました。復員省を通じて探せば、彼の現在の所在を突き止めることができるはずであります

 問 それから、専田の所在もですか。

 答 専田盛寿も、復員省を通じて追跡できるでしょう。

 問 それで、彼の陸軍での階級は少将でしたか。

 答 現在は少将で、当時は大佐でした。

 問 塩沢の名のほうは何といいましたか


 答 塩沢清宣、現在は中将です。当時は少将でした。大東亜戦争が勃発すると、ペルシャおよびトルコからの阿片の海上輸送が止まってしまったため、北支からの阿片がきわめて重要な要因となり、その結果、北支からの阿片の価格が上昇しました。トルコ産およびペルシャ産の阿片が入って来なくなると、上海地域への阿片供給のほとんどすべてが、北支からのものになりました。終戦に近いころは、里見が売買〔部門〕の最高の地位にあったのではなく、児玉誉士夫という人物が担当していました。したがって、里見と並行してこの児玉誉士夫を調べなければ、阿片売買の全容を明らかにすることはできません。私は、私が聞いたことをあなたにお話しているにすぎません。

 問 どのような情報筋からですか。

 答 その情報は、どちらかと言えば風聞として私の耳に入ったものであります。児玉の数百万円は、そのような筋からのものです。

 問 さてそれでは、退出する前に、時刻が遅くなりましたが、今夜お尋ねしておくべき質問が一つあります。先日、あなたは、興亜院が阿片組織についての情報をたくさんもっているであろう、と供述されました。ここに楠本〔実隆〕少将に関するカードがありますが、それには、アメリカ総領事バトリックからの1940年の報告に基づき、興亜院の楠本と津田〔静枝〕提督が、実際に宏済善堂ならびに上海の専売組織全体を指揮監督していたと書かれています。それは長い話になりますか。そうであれば、後日、それを取り上げることにしましょう。

 答 わたしはその事情を詳しく知っております。

 答 話が長くなりますか。そうであれば、後日に回しましょう。


 答 それに関しては、すでに退役(ママ)していた楠本中将と津田提督が麻薬売買について、里見に全面的な援助を与えたということ以外は、あまりお話しすることはありません。そのお陰で彼は大成功したのです。彼らがどのような方法で彼を援助したかは知りません。津田提督の所在については、海軍復員省〔第2復員省〕をつうじて知ることができます。楠本の所在は、陸軍復員省〔第1復員省〕をつうじて知ることができるでしょう。楠本は、おそらく、今も外地にいるでしょう。津田静枝提督は、東京にいると思います。


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日中戦争の秘密兵器=麻薬  NO2

2011年06月08日 | 国際・政治
 前回に続き「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」(山内三郎)「第2章 ヘロイン戦争」から「ヘロイン 戦闘機に化ける」「アメリカのいやがらせ」と題された部分を抜粋する。「ヘロイン 戦闘機に化ける」では、日中戦争が、麻薬で得られた利益によって支えられていた事実が分かる。
 また、「アメリカのいやがらせ」は、アメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの論文の要約であり、この論文で、万国阿片会議や国際聯盟阿片会議の概略と、当時日本がそれらの会議の意向に沿わず、非難の的になっていたことが分かる。
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第2章 ヘロイン戦争

  ヘロイン 戦闘機に化ける

 日本人のヘロイン製造業者に対しての日本軍、とくに憲兵隊から渡された”安導権”は、彼等にとって全く何にも変えがたい宝であったといえるだろう。その保護がなければいかに支那・満州の官憲が弱腰であったからといって、あれほど安全な商売をやっていけるはずはなかった。
 ヘロイン商売で上がる利益を何らかの形で軍に還元することを考えた彼等は、直接現金を寄附するかわりに、さかんに飛行機を買ってこれを献納した。陸軍の戦闘機の献納者名簿にはヘロイン屋の名が数多く記されてあった。戦闘機1機が5万円という時代であったが、5万円の金は人間一生寝て暮らせるだけの金額でもあった。そんな大金を、ぽんと軍のために投げ出すのはヘロイン屋をおいてなかったし、彼等にはそうするだけの理由が充分あったのである。もとはといえば、陸軍が稼がせてくれた金であった。


 献納者は正装で献納式に参加した。彼等に整列する部隊の前で讃辞が送られ、表彰状を受けるのであった。そして、”われらこそ国策に沿って、軍のために、日本のために働くものである”という大義名分を得て、さらにヘロイン商売に熱を入れるのだった。

 軍人の中には、部隊将兵の慰安という名目で、直接ヘロイン屋のところへやって来て、寄附を申し付けるチャッカリ屋もいた。こうして狐と狸は手と手をとり合って支那大陸に魔手を伸ばしていったのである。


 [以下140字略す]
 日本人がヘロイン商売をする場合は、原料であるモルヒネ・バーゼを手に入れる製造人と、その製造人から規程の工賃をもらって、モヒ・バーゼにアセチルを加えて、薄桃色のジ・アセチル・モルヒネを作る”チル屋”と、さらに塩酸ヘロインを作る”結晶屋”、製造販売部である”大卸し”、そして”仲卸し”までを受け持つことになる。製品はそれから先、”小卸し”を経て”零売人”から消費者へと受けつがれるが、”小卸し”から先の販路はすべて朝鮮人の仕事となっていた。
 したがって”製造人”から”仲卸し”にいたるまでの日本人が担当するすべての部門に伴う「危険」は、日本の軍部によって面倒がみられたわけである。
 先ほど述べたように、私は大連の小崗子で、結晶づくりをやっていたが、私の場合、製品は主に奉天の”大卸し”に運搬した。
 ヘロインの白粉を運搬するには、支那官憲の目を逃れるために、まず大連市内の名のあるデパートから缶入りの「焼のり」を買って来て、これを運搬人たちの馴れた技術(実際それは特殊技術といってもよいほど巧妙であった)で中味をヘロインと入れ替え、奉天に搬入するのである

 だから、運搬人の家庭には「焼のり」が氾濫した。女や子供は「焼のり」ばかりを食わされるハメとなり、一流デパート製の高価な「焼のり」は最低のおかずになり下がってしまった。泣く子供に「焼のり」を食べさせるぞ!と脅かしたぐらいである。

 最後に”零売人”に納められたヘロインは、表面はタバコ屋の店構えをもった吸烟所や、一般家庭の吸烟者に売り捌かれた。それらはいうまでもなく、すべて中国人であった。”零売人”は消費者が粉といえば粉、注射といえば注射でその求めるものを与えてやるのであった。そして、”製造人”から”零売人”にいたるまでいずれの部分に手入れがあったとしても、手入れを食ったものは、誰からそれを手に入れたか、また、何処にそれをもっていくのかを絶対に口にすることはなかった。秘密を守ることが、ヘロイン関係業者に与えられた最大の掟であったからである。

 日本軍への、彼等(主に製造人)からの献納飛行機にしたところで、決して献納者がヘロインで儲けた金で飛行機を購入したなどということは、誰の口の端にものぼらなかったのであった。

夕日と拳銃と麻薬 ─ 略

匪賊の出没するところ…… ─ 略

「天下の国土を求む」 ─ 略

アメリカのいやがらせ
 <以下999字略す>
 さて、日本の軍部、とくに満州に本部をおく関東軍の支那大陸に対する軍政の側面に、麻薬売買人庇護政策があるということで、国民政
府は再三に渡って万国阿片会議だとか国際聯盟に提訴を続けていたが、ここでアメリカ国際聯盟阿片会議委員であったF・T・メリールの
論文要約を紹介しよう。
 メリール委員は、支那政府から渡された日本の阿片謀略に関する資料をもとに、以下の論文を作成したものである。

 『アヘン問題は最初米国の提唱によって1909年(明治42年)日米支独その他列国委員を上海に招集し、アヘン煙吸烟禍に関する事項討議の目的をもって開かれた。
 ついで1911年、各委員をヘーグに招集して会議を開き1912年の国際アヘン条約の締結を見た。だが、各国の批准を得るに至らず、条約は空文に等しかった。その後1913年─1914年と再度ヘーグで会議をもち、条約の実施時期を1914年12月31日と定めた。だがこれも、米国、支那、両国以外の国の批准が得られないまま欧州第1次大戦の勃発となり中断となった。

 
 1919年(大正8年)大戦の平和条約の締結せらるるや、右条約中にアヘン煙禁禍に関する条約の挿入が(共同提唱)され、第290条第1項前段においてアヘン条約に関する事項を規定し、締結国は本条約実施後12ヶ月以内に右の条約実施に、必要なる国内法を制定すべきことを規約した。(中略)

 支那人の大多数はアヘン喫煙に強い執着力を有しているが、その責任は英国にある。
 英国は19世紀の中葉を通じて通商帝国主義の野望から支那のアヘン奨励を保護した。それによって過去50年というもの、支那は、自国用に多量のアヘンを栽培し、保護して来た上に、トルコ、インド、およびイラン諸国からこれを輸入した。
 支那の下層民は、生活程度がすこぶる低く、かつ非常な圧制に苦しめられている。そこでアヘンに慰めを求めることになり、やがては習癖となって悲しむべき状態に至っている。かれらは無教育で、出世の望みも明日の生活の保証もなく、西欧人が当然と考える娯楽でも、支那民衆の99パーセントまではこれを享有することができない。

 支那人は祖先崇拝の民で、子孫を残すということを非常に大事に思っている。そうしてアヘンは媚薬であると考えて、これを多量に用いると子孫を増加し得ると考える迷信も手伝って、これに親しみ、支那人のアヘン喫煙者はいまや1500万から5000万人の間にあるといわれている
 この数から推論すると1人が1カ年に約400匁のアヘンを必要とすることになる。1906年ごろには、全支那のアヘン愛好者は、全国民の3割から4割といわれ、アヘン供給の少ない場所では、もっぱらモルヒネ、ヘロインによってまかなわれていた。(中略)
 1936年5月25日から6月5日までの間に開かれた第21回国際聯盟阿片委員会では、支那委員の提出した諸報告の検討が行なわれた。それによると、支那における1935年中のアヘン禁止法の違反者で、死刑に処せられたものは964人、没収されたアヘン36977ポンド、モルヒネ439オンス、ヘロイン1760オンスであった。(中略)


 日本は国内に強力な警察を有し、内地にはアヘンの脅威なるものは全然存在しない。日本が支那と満州における、アヘン密売抑圧に進展を示さないのは信じられない。支那人は、日本人が支那民族を堕落せしむる目的でアヘン麻薬の密売を助成すると非難するが、国際聯盟のアヘン委員会は、日本の努力のいかんでは、満州国および北支のアヘン麻薬抑圧も不可能ではあるまいと信じている。
 1936年6月アヘン委員会の第21回会議で、同会は日本にアヘンとアヘン剤のの製造売買禁止と、これに対する刑罰の重課を勧告した。支那の利益保護と東亜における文化の指導者たる立場から、日本が真剣になって北支と満州におけるアヘンの根絶に努力せんことを切望してやまない」


第3章 麻薬亡国時代 ─ 略
第4章 戦後の麻薬 ─ 略

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日中戦争の秘密兵器=麻薬

2011年06月06日 | 国際・政治
 「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)の中に、「人物往来」(昭和40年9月号)で取り上げられた山内三郎の「麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器」という論文が、一部カットしたかたちで掲載されている。そして、筆者の山内三郎についてヘロインを製造した製薬会社の社長で、一時期ヘロイン患者であった人物であると紹介されている。国策としての日本の麻薬政策や戦争とのかかわりの実態を赤裸々に暴いている元製造業者の貴重な論文である。第一章から印象深い項目を抜粋する。
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            麻薬と戦争ー日中戦争の秘密兵器ー

                            山内三郎(元南満州製薬KK社長)
第1章 日・支麻薬外交

  麻薬の金城湯池・シナ 
─ 略 

  優秀な日本製ヘロイン
 ─ 略

  爆撃機で運びこむ
 支那大陸における日本人のヘロイン製造人たちは、甘い蜜に群がる蟻のようにその数を増やしていった。満鉄総裁が彼等の商いを奨励し、関東軍がそれを保護助成した。あたかもそのやり方は、かつてイギリスが阿片を片手にトルコ、ペルシャ、インドを無血で東進したごとく、日本はヘロインをもって、支那大陸侵略の野望を充たさんとしたのである。 

 満州を拠点として、やがて日本のヘロイン勢力は、北支から中支、南支へと伸びていった。蒋介石政権は、ヘロインを含む麻薬の一切を禁止したのだったが、麻薬業者から吸いあげる利益が、大きな政府の財源となったことで、却って公許の吸烟所を設置したりして、とても根絶やしにするだけの熱をもたなかった。

 それまで支那の秘密結社である青幇、紅幇、洪幇などの主たる財源は阿片であり、なかでも青幇
(チンパン)は、大幹部の蘇嘉才、張粛林、杜月笙などが大阿片商人であったから、彼等のもつ勢力に対して、蒋の国民政府がいかに麻薬の粛正を計っても無駄といわなければならなかったのである。杜月笙など、大阿片商人でありながら国民政府の最高顧問格で、軍事委員長をも兼ねていたのだから、その複雑さが想像できようというものだ。

 日本人の現地でのヘロイン生産に併行して内地の大日本製薬、星製薬などの製品は、支那各地の政商を通じて盛んに売りこまれた。一般には陸軍のやり方は、日本人のヘロイン商人を保護して、彼等からのリベートによって○○機関、××機関の機密費を賄う方法をとっていたが、海軍などは有名な児玉機関などのように、直接ヘロインによる利益によって莫大な軍事費を蓄積していくのだった。

 中支から南支といった遠距離のヘロイン輸送は、内地から爆撃機などによって大量が運ばれている。大手の製薬会社は、夜を日についでヘロイン製造に熱を入れ、原料の阿片などは、印度洋を不自由な船で送ってくるのではとても間に合わず、国内でケシの栽培が奨励された。
 ケシは、水田の裏作として植えられ、北海道や樺太では、ケシを栽培するための開墾が進められた。


 支那大陸での日本のヘロイン商売は、先述した2つの大きな目的をもった国策として、大正の中期から、ついに太平洋戦争で日本が、敗れるまで続けられた。とくに日本軍が仏印に進駐し、やがてタイ、ビルマなどを掌中に入れた昭和17、8年頃には、阿片の入手経路は東南アジアの各地に及び、内地で生産される阿片に加えて、支那に売られるヘロインの量は非常な増加をみたのだった。

 冀東防共地区 ─ 略

 悲鳴をあげた蒋介石
 <145字略す>
 世界から総スカンを食った満州<国>であったから、国際聯盟には無論加入しておらず、そのため、万国阿片会議に出席する義務ももっていなかった。だから、公然と阿片吸烟所が満州各地に設けられていたのである。
 満州建国の3年前、昭和4年に、私は青島に渡り、ヘロイン製造の技師として働いたが、建国後、昭和8年10月には大連に移り、ここでヘロイン製造にのり出し、翌9年には大連市小崗子に資本金5万円の”南満州製薬会社”を創設した。
 表てむきは医薬品エーテルの製造で、原料のアルコールは三菱系の満州酒醸から手に入れていた。実際には、ヘロイン製造は工場内で行なわれず、3人一組の作業員が十数組に分かれて、現地に転在するリンゴ園の中でこっそりと進められたのである。
 3人一組になるのは、ヘロインの結晶を濾過するのに用いるハンド・ポンプを動かす係、エーテル運びなどの雑役、それに結晶づくりの3つの仕事の分担があったからだ。


 一組の生産高は一昼夜でおよそ10キロ。年間約500~1000万円の利益が上がり、人件費から、役人との接渉費、その他種々のリベートなどがまかなわれたのである。
 リベートの主なものは原料(粗製のモルヒネ)を運んでくれる者、それを保護してくれる将校、憲兵などに支払われた。たまには取締り当局の網にかかることがあって、私たちが出頭したときなどに、憲兵が官憲に手をまわしておいてくれるのである。そのため、日頃から彼等と親しくしておく必要があったし、それに使うための渉外費を出すだけの儲けは充分にあったのであった。


 ヘロインは驚くほどよく売れた。阿片吸烟所はもちろん、一般の家庭内でも公然と吸烟は行われた。
 当局の取締りもあくまで一応のもので、それほど徹底したものはなかった。街の売春婦の館とか、料理屋の一室とか、風呂屋の奥の部屋などで、合図をすればたちまち吸烟の準備がなされたのである。

 街に氾濫しているヘロインは、いつどこででも手にいれることができたし、もし満州人と腹を割って話し合いたいという段になれば、まずヘロインか阿片の一服が交換されるのであった。
 街角にごろごろしている苦力
(クーリー)なども、煙草の先端に白粉を附着させて一服するのである。その魔性はともかく、なぜあれほど支那・満州の民衆にヘロインや阿片が流行したのであろう。安定を欠いた。他民族に侵され、国威を恢復した例しがなかった。満州なども、王道楽土、五族協和が叫ばれながらも、実際は日本軍閥の沃野となったに過ぎなかった。夢がなく、希望がないところに麻薬ははびこっていくのである。
 蒋介石政府は、日本と満州国からのヘロインの密輸が年々増加していくのに悲鳴をあげて、国際聯盟や万国阿片会議に提訴を続けるのであったが、実際に開かれた阿片会議などでは、日本はいつも、のらりくらりと受け流すばかりであった。



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日本の阿片政策と日本非難の国際世論

2011年06月03日 | 国際・政治
阿片問題の前に
 またしても、あなたは「なぜ日本ばかり批判するのですか?」との批判をいただいた。でも、私は日本を批判しているのではなく、過去の歴史的事実を素直に認め、そこから出発したいだけである。
 敗戦が濃厚になると、日本が組織をあげて軍関係の文書の焼却や様々な証拠物件の湮滅に力を注いだことはよく知られている。にもかかわらず、そうした事実を伏せ、隠蔽された歴史的事実については、何も調べたり研究したりすることなく、歴史を語ろうとする動きを、私は座視できない。
 「子供たちが日本人としての自信と責任を持つことのできるような教科書をつくる」という主張に異論はないが、そのために歴史の一面だけをみたり、真実を隠したりしてはならないと思うのである。

 また、先頃、「日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」と公言したり「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」などと主張する田母神俊雄なる人物が、航空自衛官の最高位の(第29代)航空幕僚長であった現実に衝撃を受けた。地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視し、目先の利益のために歴史を詐るような人間が、航空自衛官の責任ある地位にあったことに驚くとともに、正しい歴史認識の重要性を思い知らされたのである。そこで日本の過去の”あやまち”に目をつぶり、先の戦争を正当化するような動きに抗して、あまり知られていない歴史的事実などをも詳しく学びながら、様々な書籍からその重要部分を抜粋し、アップロードすることにしたのである。

阿片問題について
 いちはやく、国家の財源確保のために阿片を利用したのはイギリスであり、イギリスが持ち込む大量の阿片の流入を阻止しようとした清国との間に、「アヘン戦争」(1840年)が勃発したことは、世界史を学んだ日本人には常識となっている。そして、アヘン戦争に勝利したイギリスが、南京条約によって香港の割譲や軍費の賠償、その他様々な利権を得たことが、理不尽極まりない帝国主義的行為であったことを否定する者は、もはやいないだろうと思う。
 その後、中国におけるアヘンの使用が拡大していった結果、いろいろな社会問題が発生し、1900年代に入ると阿片問題に対する国際的な取り組みを求める声が高まっていく。そして、万国阿片委員会( International Opium Commission ) が開催され、1912年にオランダのハーグにおいて「ハーグ阿片条約」が調印されるに至るのである。
 ところが、日本が財源確保のために阿片を利用するようになるのは、この国際条約調印後のことである。したがって、イギリスとはちがい、日本の場合は、国際条約違反のかたちで阿片を利用せざるを得なかったために、表向きには「漸禁政策」をかかげつつ、裏で大量の阿片取り引きをしたのである。それは、特務機関などを利用して巧妙に行われた。したがって、阿片に関する公文書などは、表向きのもの以外はほとんど残されていない。だから、日本人の多くは「アヘン戦争」は知っていても、日本の「阿片政策」については、ほとんど知らないというのが実態ではないかと思う。

 下記は、阿片問題に関して、日本が世界各国の非難の的になっていたと論じている部分を「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)から抜粋したものである。下段は、同書の「外務省関係電報および文書」の28に入っているもので、日本の阿片取り引きがアフリカにまで手をのばしつつあったことが「”アフリカ”ヨ用心セヨ」で分かる。
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解説より(xxxi~xxxii)

 
・・・
 日本は1930(昭和5)年以後、先進国の中で唯一の”阿片の悪者”の国とされていた。ジュネーブにある国際聯盟の阿片委員会では、中国を筆頭とする、英、仏などから常時非難されている国であった。また東京裁判の里見甫を裁いた法廷に提出された多くの検察側の証拠文書には、満州事変前の1936年5月9日付「在上海アメリカ財務官の報告」をはじめ、アメリカ大使館、在済南アメリカ領事の報告など詳細をきわめた日本の中国での阿片政策の実情がのべられている。坂田組の活動や、「大北京の『ヘロイン』業の『親分』としての二人の支那人」の報告(1941年3月19日附上海駐在アメリカ財務官報告)には、劉と常という二人の親分の所行を説明し、さらに「日本領事警察ハ『ヘロイン』商売ヲナス日本人又ハ朝鮮人ヲ保護スルト云ハレテイマス……」と、2人の親分と日本領事館の関連までのべている。


 日本はジュネーブの国際聯盟により、また中国ではアメリカなどの外交官から調査、監視を受けていた。在中国のアメリカ大使館などの阿片に関する報告は、アメリカの新聞で報道された。このような状況で日本の外交官は、任地が中国なら、まさに国策に従って中国での阿片確保の任務を遂行し、任地がアメリカになると、アメリカを始めとする国際世論の日本非難の防遏(ボウアツ)に懸命にならざるを得ない。しかしなんといっても、国策遂行に従事する在外各地の公使、総領事、領事の活動は、はじめて知ることのできる事実である。

 また58電は楠本実隆大佐、根本博大佐(のち中将、この時は北支那方面軍特務部総務課長)の行動が、外務大臣に報告されている。このように外務電は所管外交事項のみならず、陸軍がいかに阿片に関与していたかを示し、一方イランの阿片輸入をめぐり、あくまで利益追求に徹する三井物産、三菱商事の”商人ぶり”と(52,55電)あいまって、阿片の入手、確保に日本が官も民も、うって一丸となって狂奔していたかがうかがえる。
 第2部25の打合会議で、「本年1000箱手ニ入レタルモアト見込ナシ、イラン、アト500箱ノミシカ輸出シエナイ」云々とあるが、(309頁)この間の消息は外交電の166,167,170が示している。
 興亜院や中国の各連絡部という阿片政策の第一線に従事する官庁と外務省が連動して、日本史上未曾有の量の阿片を取り扱った時代を物語る資料である。

 ・・・(以下略)
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             外務省関係電報および文書

28(p506)

 国際的疑惑ノ焦点ニ立ツ日本ノ「麻薬」取引ニ就テ
   聯盟総会ニ於テ頒布サレタ怪文書
                              内務省衛生局  保見吉亮
 寿府ニ於テ、排日的色彩濃厚ナリト定評ノアルブランコ氏経営ノアンチ、オピウム、インフホーメーション、ビューローニ於テ作成ノ上昨秋ノ国際聯盟総会ニ出席ノ各国代表部ニ配ラレタト云フ「支那ニ於ケル麻薬ノ実状ヲ語ル」トデモ云フ小冊子ガ最近外務省ヨリ送付サレタ、小冊子ノ内容ハ4ツノ項目即チ
1、支那ニ於ケル麻薬ノ害毒
2、日本人ノ薬品貿易ガ北支那ヲ蠧毒ス
3、上海ニ於ケル英国阿片結社ノ反響
4、”アフリカ”ヨ用心セヨ
ヨリ成テ居リ


 ・・・
 (4) 結論
  △「新シイ教示ニ就テ」
支那人ハ平和ヲ好ム国民デアル、彼等ノ国民性ハ外来者ヲ容易ク受入レ、ソシテ智識ヲ求ムル性質カラ外国人ノ教ヲ速ニ採用スル、之ガ何故斯カル行商人ガ彼等ヲ害毒吸煙ニ転向セシムル事ガ成功シタルカノ理由デアル

北支ノ殆ンド全部ノヘロインハ天津、青島ヲ経、大連ヨリ密輸セラレタ、最モ信ゼラレル報告ニ依レバ日本人ハ数所ノ工場ヲ大連ニ置キ毎月支那ヘ数百万ダラーニ相当スルヘロインヲ販売シツツアリト云フ、ヘロインハ阿片ヨリ作用ハ劇烈デ一度習癖ヅケラレタ人間ハ之ヲ停止セシムルコトハ甚ダ困難デアル、小生ハ幾多ノ本薬品ノ癮者カラ聞イタ所デハヘロインヲ使用シテ5年以上生キタ人ノアルヲ聞キシコトガナイ、私ノ遭ツタ之等ノ不幸ナ人々ハ総ベテ其習慣ヲ日本人及鮮人ニ教示サレ、供給ハ全部日本人又ハ鮮人ヨリ得タルトノコトデアル、彼等ハ何レモ若シ逃レ得レバ是レヲ止メタイトノ切実ナル願ヲ持ツテヰル、或ル吸煙所デハ親子2人デ此ノニッポンノ毒ヲ吸ツテヰルノヲ見タ、天津ニ於テ小生ハ或ル男ガ13歳ノ児童ニヘロイン煙草ヲ吸ハセテ居ルノヲ見タ、各階級各職業ノ婦人及ビ子供ガ此吸烟所ノ観客トナル、小生ハ幾多ノ美シイ、イイナリヲシタ15歳前後ノ支那娘ガヘロインヲ吸ツテ居ルノヲ見タ、彼等ハ一月前習癖ニ陥ツタコトヲ小生ニ述ベタ
彼等ハ何レモ青ク神経質デアツタ、内2人ノ女子ハ近々2時間以内ニヘロイン3瓦(グラム)以上ヲ使用セリ


  △「”アフリカ”ヨ用心セヨ」
1924-1925ゼネバ阿片会議ニ於テ日本代表杉村(陽太郎)氏ハ若シ日本ガ古来外国ニ征服サレナカツタ亜細亜ニ於ケル唯一国ナリトセバ之ハ日本ガ阿片吸煙及麻薬摂取ヲ絶対シナタツタ為デアルト声明シタ、本声明ハ日本ハ麻薬ガ政治上危険デアルコトヲ知ツテヰタコトヲ示スモノデアル、東洋ニ於ケル日本ノ政策ハ日本ガ致命的武器ノ利用法ヲ知ツテ居ル証左デアル、台湾、朝鮮、満州国ノ専売法ハ日本ノ力ニヨツテ出来タモノデアル、支那人ハ組織的ニ日本人ニ害ハレツツアリ

今ヤ日本ハアフリカニ目ヲ注ギツツアル事ガ報ゼラレル、次ノ一文ハ1933年9月21日ノロンドンデリー、ヘラルドカラ抜載サレタモノデアル
「日本ハアフリカニ足場ヲ獲得、移民之ヲ以テ来潮セン」(東京金曜日発)日本ハ移民地トシ新市場トシテアフリカニ於ケル独立国タル最後ノ大帝国タルアビシニア(エチオピア)ニ土地ヲ獲タ、1年前日本ノ使節ガ日本人ノハケ口ヲ求メ彼等ノ貨物ノ為メ、新市場ヲオクベクアビシニアニ行ツタ、今日ニ於イテハ日本ノ新聞該使節ノ成功ニ就キ詳細ヲ報告シテヰル

此ニュースハ英国、仏国及ビ伊太利ヲ心配サセルデアラウ、アビシニアハ前記三国ガ有スル広大ナル権益間ノ緩衝地帯デアリ且同国内ニ於テモ之等三国ハ各広大ナル勢力範囲ヲ有シテ居ルカラデアル、

日本ハ今ヤ之等ノ三ケ国ニ向ツテ挑戦シタ、日本使節ハエチオピア帝国大皇帝ラス・タハリ(ハレイ・セラシュ1世)陛下ヨリ綿ノ栽培ニ適セル豊穣ナ土地160万エーカー払下ノ許可ヲ得タト伝ヘラル、ノミナラズ日本ハエチオピアニ於テ罌粟栽培ノ独占権ヲ獲タトノ事デアル、右ノ土地ニ日本人ヲ送ルタメ移民機関ヲ作ラントシツツアリテ間モナク日本人ノ群ガ西ニ移動スルデアラウ、日本人ノ商人ハ其生産物ノ為メニ新市場ヲ開クニ困難ヲ感ゼズ、即チ日本人商人ハ官憲護送ノ下ニ国内ニ其ノ商品ヲ売リ廻リ重ネテ次ノ注文ヲ取リツツアル         ー(完)


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。  

コメント (2)
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