真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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”陸軍長州、海軍薩摩”という「軍閥」と侵略戦争

2018年11月27日 | 国際・政治

 吉田松陰は「幽囚録」に

蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし
と、四囲の国や地域を日本の支配下に入れていくべきことを書いていました。
また、吉田松陰は、幕府が安政5年(1858年)日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ殺害することを決めています。そして、計画を実行するため大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出ています。またその後、藩に倒幕を持ちかけたりもしたため、自らの属する長州藩にさえ危険視され、野山獄に幽囚されているのです。吉田松陰は優秀な若者ではあっても、あまりに過激であり、野蛮だったのだと思います。
 その吉田松陰の松下村塾には、大勢の若者が結集し、尊王攘夷の思想を共有しました。そして、尊王攘夷を掲げて、幕末に多くの幕府要人を暗殺するとともに、「異人(外国人)は神州を汚す」として、いわゆる「異人斬り」をくり返しました。
 倒幕を主導した長州藩士を中心とする尊王攘夷急進派は、慶喜が大政奉還をしたにもかかわらず、諸侯会議が自分たちの思うような方向に進められないことがわかると、諸侯会議を無視して、突然王政復古の大号令を発し、その後、狡猾な手段を使って武力で幕府を倒して権力を手にしました。
 そうした野蛮で狡猾な側面を持つ尊王攘夷急進派が明治新政府の要職を占めたこと、特に、”陸軍長州、海軍薩摩”と言われるような軍閥を形成したことが、私は、その後の日本に大きな不孝をもたらすことになったのではないかと思います。
 そのことは、戦争に関する著書がたくさんある「半藤一利」と「保阪正康」の二人の対談、「賊軍の昭和史」(東洋経済新報社)でも、明らかにされていると思います。対談の中で、
太平洋戦争を批判するとき、実は薩長政権の歪みが継続していた点は見逃せないのではないでしょうか。
ということが語られていますが、私も、それを見逃してはならないと思うのです。
 尊王攘夷を掲げ、様々な策謀によって幕府を武力で倒し、明治維新を成し遂げた長州藩士を中心とする尊王攘夷急進派が、維新の成功体験に力を得て、朝鮮半島や大陸に進出していった歴史は、吉田松陰の説いた教え通りではないかと思います。
 下記の対談で明らかなように、明治の政府や軍隊は、日本の政府、日本の軍隊というより、薩長の政府、薩長の軍隊といっても過言ではないほど片寄っています。それが、その後の日本の針路に影響しないはずはないと思います。
 また、戦前・戦中、佐藤信淵の『宇内混同秘策』や吉田松陰の「幽囚録」其の他が、軍人を中心に、多くの人たちに読まれていたということも、見逃してはならないことだと思います。
 だから
 ”昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった
などというのは、日本の侵略戦争を認めようとしない人の主張であり、歴史の修正だと思います。
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                      陸軍長州、海軍薩摩という軍閥

保阪 明治六年(1873)から明治十年(1877)くらいまでの間、日本の軍隊には海軍が陸軍よりも重視された時代がわずかにありました。いわば海主陸従です。本来なら日本の軍事学が確立されるべきでした。これは明治六年(1873)の使節団の頃ですから、西郷が進めたんでしょうかね。

半藤 いや、勝海舟でしょう。国防の要は外で守る、そのためには海軍だと海舟がいって、力をいれたんじゃないですか。面白いことに、薩摩そのものも海軍に熱心だったんですよね。だから西郷さんが実権を握っていた時代には、海舟の意見に賛同する人が薩摩にたくさんいたんじゃないですか。

保阪 ところが、岩倉使節団が日本に帰ってきたら、ころっと変わってしまう。

半藤 西南の役の前の前原一誠の乱など、士族の反乱がいろいろありました。これは国内戦争ですから、治安維持のためには陸軍の兵隊を増やさなければいけなくなったんです。

保阪 西南の役で、陸軍重視の姿勢がより固まってしまったんですね。

半藤 そのとき、出てきたのが山縣です。陸軍の天下を取り、陸軍の長州閥を作っていったわけです。海軍のほうは、勝海舟に賛同した人たちの流れを汲んで、薩摩が実権を握りました。
陸軍長州、海軍薩摩という体制が日露戦争まで続くんですよ。
 実例として、日清・日露戦争の頃の陸軍大将を出身地別に挙げてみます。
 長州出身が山縣有朋、佐久間左馬太、桂太郎、山口素臣、岡沢精、長谷川好道、児玉源太郎の七人。
 薩摩出身が、西郷従道、大山巌、野津道貫、川上操六、黒木為楨、西寛二郎の六人。
 そのほかは、福岡県出身の奥保鞏が一人いるだけです。
 全部で十四人いた陸軍大将のうち、薩長が十三人も占めていたんですね。
 さらに、明治期の総計でいうと、陸軍大将は三十一人いました。そのうち、皇族が四人、山口県が十一人、鹿児島県が九人、福岡県が二人、秋田、三重、静岡、愛知、徳島がそれぞれ一人となります。
旧薩長が圧倒的に多く、長州がトップでした。
 中将で見ると、明治の後期、三十一年(1898)から四十五年(1912)までに、長州が二十四人、薩摩が十一人、高知が七人、福岡、佐賀、熊本が一人ずつ。このほか、東京が五人いますが、これはみな技術者で、幕府出身が多いんですね。技術の将官というのは中将が限度で、大体は少将で辞めてしまいます。
 少将をみると、長州が三十六人と圧倒的に多く、薩摩が二十二人で続きます。
 こう見ると、やはり陸軍長州というのは、はっきりしていますね。
 続いて海軍を見てみますと、陸軍よりも世帯が小さくて人間が少ないですから、明治期の大将は、総計で十四人しかいません。そのうち、皇族が一人で、あとは全員が鹿児島県の出身なんですよ。

保阪 やはり陸軍長州、海軍薩摩なんですね。こういうデータを実際に確認していくと、ここまで露骨なのかという気がしますね。明治のある時期、陸軍大学校の試験に「長州出身」と書いたら加点されたという話まで流れているんです。加えて長州では、在郷軍人会のような組織が村々のなかにまで目を向けて、優秀な生徒がいれば陸軍幼年学校などを受験させて閥を維持するのに必死だったといわれている。

半藤 そうなんです。明治期の将官クラスの出身地を見れば明らかなように、陸軍は長州閥でなければ出世はしないし、海軍の場合は薩摩出身でないと出世しないというのはたしかだったんですよ。そうしたほうが組織をまとめやすかったんです。


                       薩長閥打倒を叫ぶ中堅幕僚

保阪 陸軍省や海軍省の人事ですが、佐官クラスは人事局の差配になるわけですね。部長や局長くらいになると、参謀総長や軍大臣、教育総監、そういう人たちが動いて決めたようですね。

半藤 そうです。大佐までは、陸軍も海軍も人事局が軍の大臣と相談して決めるんですね。局長以上になると、参謀総長などが決めます。

保阪 人事を決めるとき、上の人間の感情の入り方で処遇が違ったんでしょうかね。

半藤 全然違ったんじゃないですか。よく軍人がいうんですが、「人事と予算を握れば、こっちのもの」ということです。
 後で詳しく話が出るでしょうが、陸軍では昭和が始まる頃、長州閥を倒すために若手の幕僚たちが立ち上ります。永田鉄山、東條英機といった人々です。その時、彼らは人事を握る補任課長の席を取るために、大変な努力をするんですよ。
 課長クラスまでの人事は陸軍大臣と補任課長の相談ですから、補任課長の一存で大体決まっていた。そこで、彼らは大臣を誰にするか、補任課長の席をどうやって確保するかで凄い努力をするわけです。

保阪 大正の第一次世界大戦が終わった頃、陸軍の若手だった永田鉄山や岡村寧次、小畑敏四郎が、いわゆるバーデン・バーデンの密約をする。そのとき、人事の公正さを目指して、長州閥打倒を叫びますね。打倒したのはいいけれど、結局、彼らは成績至上主義を採ってしまい、別の意味で弊害が出ますけれどね。
 長州閥打倒を叫んでいた頃、永田や岡村、小畑、それに東條らがバカにしていたのは、「長州の三奸」といわれた将官でした。山縣有朋の引きで、能力もないのが将官になっていると怒っていた。無能で何の功績もないのに、長州出身というだけで出世している、けしからんとね。

半藤 私が秦郁彦さんたちと陸軍大将総覧を作ったときに調べたんですが、大正のときに長州出身の大将が五人いるんです。大井成元、大庭二郎、田中義一、菅野尚一、森岡守成の五人です。
 このうち、田中義一と大庭二郎は、少しはまともなことを喋れるんですが、ほかの三人は陸軍大将なのに、ろくに喋れもしなかったんですよ。これを実感したとき、私も正直にいって、長州閥というのは本当にあったんだなと思いました。

保阪 中堅幕僚はバカにしていたんでしょうね。

半藤 いくら何でもあんまりだと、思ったのではないでしょうか。極端にいえば、バカでも長州出身ならば大将になれるのかなと (笑)


                薩長閥の日清・日露の功績を、昭和の日本は乗り越えられなかった

半藤 薩長閥にも、日清戦争、日露戦争で勝った功績はあるんですよね。
 明治四十年(1907)に公侯伯子男(コウコウハクシダン)と叙爵され新しく華族となった人は、陸軍から六十五人、海軍から三十五人、文官三十一人となっていて、日清・日露戦争で功績が認められて、軍人が大半を占めています。
 そして結局、明治年間を通してみてみると、叙爵された人の出身地別の内訳は表(略)のようになります。(旧大名家まどは除く)。
公爵と侯爵を見ると、全部が薩摩と長州なんですよ。さらに全体を見ると、長州派は圧倒的に多いんですね。侯爵が三人、侯爵が二人、伯爵が七人、子爵が十五人、男爵四十八人という凄い数です。
 鹿児島も多い。公爵二人、侯爵四人、伯爵十二人、子爵十八人、男爵三十五人。
 賊軍出身では、会津が男爵五人で、私の家の出身である越後では前島密の男爵が一人だけです。
 つまり、官軍である薩長出身と賊軍藩の出身では、歴然とした差があったんです。

保阪 この時代に生きていたら、賊軍とされた人たちはみんな心底から立腹していただろうなと思います。

半藤 頭に来たでしょうね。
 例えば、司馬遼太郎さんが小説で悪口を書いた日露戦争の第三軍参謀長の伊地知幸介なんか薩摩の出身ですが、明治四十年(1907)に男爵になっているんですよ。
 このくらい、少なくとも大正時代までは薩長の天下だったんです。
 ただ、薩長の天下がおかしいと今になっていうだけであって、当時としては、日清戦争、日露戦争はたしかに薩長の将官たちの指揮の下に、戦略戦術を巧みに駆使して勝ったという正当性はあるわけです。現実に薩長に指揮された軍隊の勇戦力闘で日清・日露の国家的危機を乗り越えたんだから、薩長の連中が「俺たちがこの国を作ったんだ」と思ったとしても、文句がいえないところはあったんですね。

保阪 けれど、太平洋戦争を批判するとき、実は薩長政権の歪みが継続していた点は見逃せないのではないでしょうか。日中戦争、太平洋戦争と無軌道な戦争を始めてしまった昭和の日本軍と政界官界について、薩長閥の延長にある軍部を(賊軍の官軍的体質といったものまで含めて)批判するという視点がそのまま持ち込めるように思います。

半藤 同感ですね。それが今回の対談の主眼というわけです。
 どうも終始薩長の悪口になるのでやりづらいですがね。ま、いまの山口県や鹿児島県出身の人には関係ないといえば関係ないかもしれません。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


 

 


 

 

 

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吉田松陰 の「幽囚録」と侵略戦争

2018年11月21日 | 国際・政治

 日本がなぜ、あんな馬鹿げた戦争に突き進んで行くことになったのかを考え続けているのですが、二人の人物の思想が、大きな影響を与えたであろうことを見逃すことができません。

 先ず、江戸時代後期の思想家、佐藤信淵です。戦時中、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、彼の著書『宇内混同秘策』(ダイコンドウヒサク)を読んだといいます。それは昭和17年の「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」小林一郎講述(平凡社)で、読むことができますが、そこには、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありました。
 また、
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
とか、
支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。
とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
という記述もありました。大政奉還の40年以上も前に、来たるべき統一国家としての日本の姿を想定し、日本の領土的拡張を志向する考え方をしていたのです。そして、戦時中に、彼の著書『宇内混同秘策』が多くの人に読まれていたということは、注目すべきことだと思います。

 そして、佐藤信淵以上に日本の戦争に大きな影響を与えたと思われるのが、明治維新の精神的指導者とされている、思想家 吉田 松陰(長州藩士)です。
 彼の松下村塾には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵、入江九一、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、河北義次郎、飯田俊徳、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)その他多くの優秀な若者が集ったといいます。塾生ではなかったようですが、桂小五郎(後の木戸孝允)や井上馨も行動を共にしており、皆その思想を共有していたのだろうと思います 

 戦前・戦中、東大における講義はもちろん、学内の組織「朱光会」や、学外の組織「青々塾」および、海軍大学校や陸軍士官学校などで講義・講演を繰り返し、昭和天皇や秩父宮などに「進講」もして、「皇国史観の教祖」といわれるような活躍をした歴史家・平泉澄は、「先哲を仰ぐ」(錦正社)という本の中で、先哲として、山鹿素行、山崎闇齋、藤田東湖、橋本景岳、佐久良東雄、大橋訥菴、眞木和泉守などとともに、吉田松陰の名前を上げ、”今あげました数多くの諸先生の中に於て、吉田松陰はひときわ秀れたお方であります”と書いていました。

 その吉田松陰に「幽囚録」があります。昭和十五年一月に発行された「吉田松陰全集第一巻(岩波書店)に入っているのですが、彼の領土的拡張を志向する思想が、戦前・戦中に高く評価されていたことは、山口県教育会の「刊行の辞」(下記、資料1)で明らかだと思います。
 領土的拡張を志向する吉田松陰は、「幽囚録」の「自序」に”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”などと書いており、佐藤信淵同様、神道に立脚した考え方をしていることを見逃すことができません。外国と対等の関係を追求しようとはしていないのです。特に、領土的拡張について
”蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし
などと記述している部分を中心に、その一部抜粋したのが下記、資料2です。
 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          吉田松陰全集第一巻

   刊行の辞

 吉田松陰先生は時代を超えていつまでも皇国臣民の行くべき道を指示する英霊的存在である。其の精神気魄は継ぎて起る後輩の血脈に鼓動して永劫に死せず、其の思想信条は繹(タズ)ぬる者の胸奥に息吹して万世に滅びない。当時維新回天の偉業を翼賛し奉つた防長の才俊が、其の膝下に学んで躍々たる生命力を育まれた如く、今日新しき世界史の展開を完遂すべき一億臣民は、その精神に参入して逞しき雄魂を涵養しなければならぬ。此の意味に於て、先生の遺著はまさに国民の書、特に青年の書たるべきものである。曩(サキ)に本会が吉田松陰全集を公刊するや、十巻六千余頁の厖大且つ相当難解の書籍たるにも拘らず、絶大なる讃辞と歓迎を蒙り、忽ちにして肆上(シジョウ)に其の影を没するに至つたことは、以て先生の偉大さと江湖(コウコ)鑽仰(サンギョウ)の熾烈さとを証するものと謂うべく、刊行の事に当つた本会としても誠に欣快に堪へざる所である。

 然るに前の全集は其の大部分が漢文であり、文中又漢土の典拠故事を引用せる語句多きが爲めに、一般人士としては訓読の困難を歎ずることが少なくない。かくしては折角の金玉の大文字も、一部の学者有識者に独占せられて、其の内に含蓄包擁する燦然たる光鋩を遍く後世に発揚するに由なく、旧全集の荷える真価と意義とは自ら別として、亦聊(イササ)か憾(ウラ)みなきを得ざる次第である。

 本会は茲に鑑みる所あり、定本としての旧全集と並行して、別に普及版全集の発刊を企図し、前の全集編集委員廣瀨・玖村両先生に重ねて之が編集を委嘱し、更に西川先生の協力を請うて、共に其の快諾を得たのである。乃ち本全集に於ては、漢文は凡て国文に書流し、和文も読み易きに従つて送り仮名、句読点等を加へ、必要の箇所には簡明なる註解を施す等、訓読の平易化を図り、以て内容形式共に国民の書としての普及版吉田松陰全集全十二巻の完成をみるに至つた。其の出版発売に関する一切の事務は前回と同じく岩波書店の奉仕的尽力によるものである。

 斯して松陰先生は其の死せず滅びざる永遠の思想精神を我が国民の前に遍く露呈したのである。時恰も皇紀二千六百年、肇国(チョウコク)の大理想を高く掲げて、我が国は今曠古(コウコ)の時艱(ジカン)と戦ひつつある。本全集の完成が図らずも此の意義深き時期に際会したことは、果して単なる偶然であろうか、抑々(ソモソモ)先生在天の威霊の然らしむる所か、我等ひとしほの感激を禁じ得ざる所以である。

          昭和十五年一月
                                                       山口県教育会 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           幽囚録
   自序

国朝の変、蓋し三あり。古昔は臣たらざる所あれば、海の内外を問はず、東征西伐し、必ず強梗(キョウコウ)を鋤きて止む、其の勢い極めて盛んなり。其の後蕃夷悍然来り侵す、而して我れ兵を発して殲鏖(センオウ)す、古に非ずと雖も亦盛んなり。今は則ち膝を屈し首を低(タ)れ、夷の為す所に任す。国の衰へたる、古より未だ曾て有らざるなり。之れを太陽に譬へんに、始めは赫々耀々(カクカクヨウヨウ)として物能く之れに抗することなし。已にして月之れに抗して克(カ)たず、適々(タマタマ)自ら蝕缺(ショクゲツ)を取るのみ。終りや遂に月の蝕する所となり、自ら照らすこと能はず。是れ至変なり。嗚呼、世愈々降り、国愈々衰ふ。衰にして已まずんば、滅びずして何をか待たん。蓋し一治一乱は政の免かれざる所、一盛一衰は国の必ずある所にして、衰極まりて復盛んに、乱極まりて又治まるは則ち物の常なり。況や皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの、安(イヅク)んぞ一たび衰えて復た盛んならざることあらんや。近年来、露西亜(ロシア)・米利堅(メリケン)、駸々として来り逼る、而(シカ)も官吏苟且(コウショ)にして権宜(ケンギ)もて処分す。是れ豈に永世変ずることなからんや。皇天、吾が邦を眷祐(ケンイウ)す、必ず将に英主哲辟(テツペキ)を生じ、一変して古の盛に復するものあらん。是の時に方(アタ)りて、万国の情態形勢を察観し、之れが規畫経緯を為すに、圖を按じ筆を弄して空論高議する者、固より此(ココ)に與(トモ)することを得ざるなり。吾れ微賤なりと雖も、亦皇国の民なり。深く理勢の然る所以を知る、義として身家を顧惜(コセキ)し、黙然坐視して皇恩に報ぜんことを思はざるに忍びざるなり。然らば則ち吾れの海に航せしこと、豈に已むを得んや。今、事蹶(ツマヅ)き計敗れ、退きて圖を按じ筆を弄して空論高議する者と流れを同じうす、何の羞恥かこれに尚へん。昔吾れ史を読みて、敏達帝日羅を召還したまふに至る、欣躍して謂(オモ)へらく、国復た盛んならんと。其の賊に害せらるるに及んで、覚えず慟哭す。後の此の文を読む者、安んぞ其の欣躍慟哭、吾れの日羅に於けるが如きことなきを知らんや。
       甲寅冬                                           二十一回猛士藤寅撰

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                             幽囚録

外冦の患は古より之れあり。而れども代々能将あり、機に応じて掃蕩し、大害を為すに至らざりき。近時に至り、西洋の諸夷更々(コモゴモ)来り、通信通市を求む、亦未だ大害を為す能わざりき。嘉永癸丑六月、合衆国の船四隻浦賀に来り、国書を幕府に呈し切に要求する所あり、大要亦通信通市の二事に在り。故事、長崎を除くの外、夷船来泊を許さず。浦賀奉行諭すに国法を以てせしに、夷の曰く、「我れ吾が国の命を奉ずるを知るのみ、何ぞ日本の国法を知らんや」と、倨傲(キョゴウ)益々甚し。執政、過激変を生ぜんことを慮り、奉行に命じて仮に其の書を受けしむ。夷、報を求むること甚だ迫る。遂に明年更に来らんことを約し、慰喩して去らしむ。

是れより先き三十五年、合衆国の夷人脚船に乗りて蝦夷に来り、陸地を徘徊す。松前侯之れを長崎に檻送(カンソウ)す。是くの如きもの凡そ二たびなり。浦賀に来り、長崎に来り、漂民を送還し、薪水を丐求(カツキウ)すること又數々(シバシバ)なり。其の我れを間諜すること、蓋し一日に非ず。去年に及び、蘭夷、合衆国来航の事を報ず。官深く之れを秘し、敢へて中外に宣視せず。是(ココ)に至りて事倉卒(ソウソツ)に出で、衆情甚だ騒がし。

 是の時、先将軍薨じ、新将軍初めて立ち、水戸老公を起して防寇の議に参与せしむ。而るに小人比周し公議行はれず、公蓮(シキ)りに罷めんことを謂ふ。幕府大いに武備を修め、先づ大船を禁を除き、蘭夷に命じて軍艦・火輪舶を致さしめ、浦賀与力中島三郎助に命じて洋書に依りて軍艦を打造らしめ、砲台を品海に築き、巨砲を桜埓に鑄、韮山代官江川太郎左衛門を擢用(テキヨウ)し、高島四郎太夫の禁錮を免じ、土佐の漂民万次郎を召し、皆之れを江川に属さしめ、特に夷書を列侯群吏に下して以て復答する所を議す。時に天下久しく治安に慣れ、朝野にソ苟且論多く、群議或は戦を言ひ、或は和を言ふも、而も身を抜きんでて責に任ずる者なし。某侯奮然復書を持ちて夷国に到らんことを謂ふ、報いられず、論者、諸葛亮の後出師表を引きて時事を痛惜すと云ふ。

 是の歳、魯西亜も亦長崎に来りて国書を呈し、北地の境界を議せんことを謂ふ。官吏西下して夷将と商議す、而れども委任専らならず、能く其の議を決することなし。夷、再来を約して去る。明年正月、合衆国の船九隻浦賀の海関に蘭入(ランニフ)し、直ちに横浜に来りて前報を求む。而るに軍艦・砲台一として成れるものなし。幕府専ら変を生ぜんことを懼れ、寛縦もて夷を待す、夷 肆(ホシイママ)に不法の事を為せども、官兵少しも禁訶(キンカ)せず。人皆切歯す。応接廠を横浜に起こす、構造甚だ粗なり。官吏便服して饗待す。論者或は謂へらく、夷人を待つには当(マサ)に示すに荘重を以てし、或は之れを上野に引き、或は之れを大城に引き、兵を厳にして之れに備へ、宗室・大臣法服して出でて接すれば、則ち夷も亦畏憚して怠慢玩弄の態あること能はざらん、是れ夷人を重んずるに非ず、乃ち国体を重んずるなりと。三月の半ばに及んで、夷船横浜を去り下田に至る、市街山野、徘徊遍からざるなし。六月に至りて去る。事甚だ隠密にして、世其の故を識(シ)るものなし。或は謂へらく、通信通市一に夷の求むる所の如くし定むるに下田を以て互市場と為し、夷人に縦(ユル)して館を置くの所を相度(ハカ)らしめしなりと。

・・・

 日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、愼みて邊圉(ヘンギョ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。然らずして群夷争聚の中に坐し、能く足を挙げ手を揺(ウゴカ)すことなく、而も国の替へざるもの、其れ幾(イクバ)くなるか。

 孫武兵を論ずる、専ら彼を知り己を知るを以て要と為す。之れを始むるに計を以てして曰く、「主孰れか道ある。将孰れか能ある。天地孰れか得たる。法令孰れか行はるる。兵衆孰れか強き。士卒孰れか練れたる。賞罰孰れか明らかなる」。之れを終ふるに間を以てして曰く、「明君賢将動いて人に勝ち、功を成して衆に出づる所以のものは、先づ知ればなり。先づ知るとは、鬼神に取るべからず、事に象るべからず、度に験すべからず。必ず人に取りて敵の情を知るものなり」と。近年来諸夷の船競ひて我が邦に至る。而して其の主果して道あるか、将果して能あるか、天理果して得たるか、法令果たして行はるるか、兵衆果たして強きか、士卒果して練れたるか。賞罰果たして行はるるか、抑々皆非なるか。先づ知るものあることなし。是れ徒に彼れを知らざるのみならず、亦己れを知らざるの甚しきものなり。癸丑の歳、合衆国は彼理(ペリ^-)を遣はし、露西亜は博婼丁(プチャーチン)を遣はして我が邦に至らしむ。時に江都の人或は曰く、「近世海外に三傑あり、而して彼理・博婼丁其の二に居り」と。嗚呼、海外の事、茫然として弁えることなく、適々来り間する者あれば錯愕畏縮し、皆傑物なりと謂ふ。慨くべきかな。悲しむべきかな。

 軍の間を用ふるは、猶ほ人の耳目あるがごとし。耳なくば何を以て聴かん、目なくば何を以て視ん。
軍に間を用ひずんば、何ぞ独り視聴のみならんや。我れ固より之れを用ひ、彼れ亦之れを用ふること、軍の常なり。故に善く戦ふ者は、我れの之れを用ふること至らざるを憂へて、彼れの之れを用ふるを恐れず。今は則ち然らず。宜しく間を彼れに用ふべきに、而も其の国事を洩らさんことを慮りて敢えへてせず。彼れ間を我れに用ふ、我れ宜しく留めて以て反間と為すべきに、而も其の国情を窺はんことを懼れて為さず。噫 何ぞ其れ惑へるや。我れ實ならんか、彼れに百の間ありと雖も亦吾れを如何せん、却つて其の心を攻め其の謀を沮むに足るなり。我れ虚ならんか、彼れに一の間なしと雖も我れ安んぞ能く永く存せんや。我れに在りて然らず。強者、間を用ひざれば、宜しく趨くべき所を知らず、弱者、間を用ひざれば、宜しく避くべき所を知らず。今、人あり、己れの聾瞽(ロウコ)なるを憂へずして人の視聴を恐れなば、人将(マ)た之れを何とか謂はん。

 通信通市は古より之れあり、固より国の秕政に非ず。但だ当今の勢、力めて其の説を破らざるを得ざるものあり。古の国を建つる者は徒(タダ)に退いて守ることを為すのみならず、又進んで攻むるあり。而れども、国を越えて之れを攻むれば、財力疲弊し国用支へ難し。故に必ず糧を敵に因り、償を人に取る。是に於て通市の説あり。敵国の人悉くは殺すべからず、降る者は之れを納れ、服する者は之れを用ひ、小なる者は侯とし、大なる者は王とし、其れらをして我れに貢を奉り賦を致さしむ。是に於て通信の説あり。神功の征韓以還(コノカタ)、列聖の為したまふ所、史を按じて知るべきなり。今は則ち是れに異れり。外夷悍然として来り逼り、赫然として威を作す、吾れ則ち首を俛(タ)れ氣(イキ)を屏め、通信通市唯だ其の求むる所のままにして、敢へて之れに違ふことなく、倭人の利口、乃ち或は之れを列聖の義に附す。是くの如きもの、吾れ豈に其の邪説を縦(ユル)すを得んや。夫れ水の流るるや自ら流るるなり、樹の立つや自ら立つなり、国の存するや自ら存するなり。豈に外に待つことあらんや。外に待つことなし。豈に外に制せらるることあらんや。外に制せたるることなし。故に能く外を制す

 謹んで案ずるに、上世 聖皇、威は殊方(シュハウ)を懼れしめ、恩は異類を撫したまひ、英圖雄略万世に炳耀(ヘイエウ)す。而して其の己れを虚(ムナ)しうして物を納れ、人の長を採りて己れの短を補ひ、彼れの有を遷して我れの無を贍(ミタ)したまふ、曠懐偉度蓋し亦後世の宜しく師法とすべき所なり。余向(サキ)に時事に感激し、身家を顧みず、奮つて非常の功を為さんと欲す。而して天道の容れざる所、公法の恕(ユル)さざる所、繫縲(ケイルイ)に辱められ、岸獄(ガンゴク)に困(クル)しめられ、特(タダ)に生きて国に益なきのみならず、又将に死して身に垢(ケガレ)あらんとす、亦悲しむべきのみ。但だ平生の志麿せず折(クジ)けず、古史を読むことに愈々益々慷慨す。是に於て其の所謂炳耀(ヘイエウ)し師法とすべきものを摘録し、人をして上世 聖皇の為したまふ所是くの如く、固より衰季苟且(カリソメ)の論の如きに非ざるを知らしめんと欲す。然れども是れ特(タ)だ十一を千百より挙げしのみ。若し其の詳且つ備はれるものを求めんとせば、史に就きて之れを考へて可なり。

孝安天皇の時、秦、長生不死の薬を我れに求む。我れ因つて五帝三皇の書を彼れに求む。彼れ皆送致す。
 按ずるに、此の事神皇正統記に載す、確據なしと雖も、蓋し亦古来の伝説然るなり。而して上世の
聖皇人より取りて善を為したまふの意は則ち見るべし。
崇神天皇六十五年、任那国、蘇那曷叱知(ソナカチシ)を遣はして朝貢す。
垂仁天皇二年、(ソナカチシ)還るに因り、絹を其の王に賜ふ。
三年、新羅王の子天日槍(アマノヒホコ)来り帰す、之れを但馬国に置く。
九十年、田道間守(タヂマモリ)を遣はして香菓(カグノミ)を(トコヨノクニ)に求めしむ、景行天皇の元年に至りて還る。
 蘇那曷叱知、天日槍、田道間守の事を以て之れを推すに、吾が邦の諸々(モロモロ)の韓国あるを知れること久し、固より 神功の時に始まるに非ざるなり。
景行天皇四十年、日本武尊をして東夷を伐たしめ、俘(トリコ)にせし所の蝦夷を以て神宮に献じ、後これを畿外に分ち置きたまふ。是れ播磨・讃岐・伊勢・安芸・阿波の佐伯部(サヘキベ)の祖なり。
 俘虜の夷を諸国に分ち置くこと、古に多く是の事あり。一は以て夷人の情態を得、一は以て戸口の繁殖に資し、一挙して両利存す。
仲哀天皇九年、天皇崩じたまふ。皇后親ら新羅を征したまふ。新羅降る。因つて重寶府庫を封し、図書文書を収め、微叱己知(ビシコチ)を以て質と為す。高麗・百済も亦臣と称し貢を奉る。因つて以て内官家(ウチツミヤケ)を定む。 
 ・・・(以下略)

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薩長の策略 王政復古の大号令

2018年11月06日 | 国際・政治


 私は、昭和のあの悲惨な戦争は、長州を中心とする尊王攘夷急進派が、政権を奪取した結果、もたらされたのではないかと思っているのですが、『もう一つの幕末史 裏側にこそ「本当の歴史」がある!』半藤一利(三笠書房)に、見逃すことの出来ない文章を見つけました。それが、資料1です。

 取りあげられているエピソードが、誰の口から出て知られるようになったのか、また、登場する人物や会話の内容が正確なものであるのかどうか、私は知りませんが、尊王攘夷急進派の”尊王攘夷”が、倒幕のための「口実」であったことは、歴史が証明していると思います。

 尊王攘夷急進派は、「口実」として尊王攘夷を掲げ、倒幕を煽ったばかりではありません。支持を得るため、出来もしない「年貢半減」を触れ回り、「江戸攪乱工作」なども行って幕府を追いこんでいったのです。また、「偽勅」として知られる「討幕の密勅」や「偽錦旗」利用の事実も忘れることができません。尊王攘夷急進派は、幕府を倒すために人を欺き、あらゆる謀略・策略をめぐらして幕府を倒したのだと思います。特に注目すべきは、幕末に攘夷を掲げて、野蛮極まりない「暗殺」や「異人斬り」をくり返した事実です。「孝明天皇毒殺」も尊王攘夷急進派の手によるものであろうと思います。政権奪取後は、手のひらを返したように開国政策を進めましたが、幕末の人命軽視や、人を欺く謀略・策略は、その後の日本に受け継がれていくことになってしまったのだと思います。

  徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上した「大政奉還上表文」が、坂本龍馬の「船中八策」や「新政府綱領八策」及び「五箇条の御誓文」とも極めて似通っていることは、すでに確認しました。加えて、「大政奉還上表文」に至るまでに、幕府関係者が深めていた新たな日本の構想は、西南雄藩のそれをはるかに超えるものであったということも、わかりました。
 それは、「日本の近世 18近代国家への志向」田中彰編(中央公論社)で、松平乗謨津田真道西周などの国家構想を取りあげ、明らかにされています(資料2)。
 幕府は、内戦を避けて幕府独裁制を改革し、諸侯らによる公議政体体制を樹立しようと準備を進めていたのです。その一端が、慶喜の「大政奉還上表文」で示されたということだと思います。
 しかしながら、薩長倒幕派は、諸侯会議で話し合うことを拒否し、クーデターによって権力を奪ったということだと思います。ほんとうは、「倒幕」はもちろん、「戊辰戦争」も必要なかったのだと思います。
 諸侯会議によって、幕政の改革がなされていれば、向学心に燃える多くの優秀な若者たちによって、列国に並ぶ日本がつくられ、野蛮な侵略戦争の結果としての「敗戦」はなかったのではないか、などと想像します。

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                         「尊王攘夷は幕府を倒す口実よ」

 

 ある意外なエピソードから始めるとしましょう。
 倒幕運動もいよいよ大詰め、話し合いによる解決策を蹴飛ばして、戦争を覚悟した薩摩と長州が、幕府に武力攻撃を仕掛けんとする鳥羽・伏見の戦いの直前のことです。
 岩倉具視が、薩摩藩士で西郷隆盛の側近中の側近だった桐野利秋(当時は中村半次郎)に、
「この戦が終わったら、つぎは攘夷をせねばならないが、その手配はできているのか」
 と問うた。中村は「えっ」という顔をしました。まだ攘夷などということを本気で信じているのか、というわけです。
「攘夷など倒幕のための口実で、その実、決して攘夷をするのではなく、むしろ世界各国と交通して、西洋の長をとり、わが国の短所を補い、ますますわが長所を発揮して帝国の威光を宣揚せねばなりません」
 と中村は得々と述べ、あっけにとあっれている岩倉を残して外に出ると、今度は同行していた薩摩藩士の有馬藤太が「攘夷はせぬと言うたがあれは本心か」と血相を変えて詰め寄ってきました。
「お前、まだ先生(西郷)から聞いていないのか」
 という中村の答えに、有馬はびっくり仰天し、さっそく西郷さんのところへ飛んでいくと
「あー、お前にはまだ言うてなかったかね。もう言っておいたつもりじゃったが。ありゃ手段というもんじゃ。尊王攘夷というのはね、ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷と言うて、ほかの者の志気を鼓舞するんじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれておるわけじゃ」
 と真意を話したーーというのです。
 幕末史を考えるとき、このエピソードは示唆に富んでいます。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          競合する統一国家構想

欧米政治体制の知識の流入

 新幕藩体制下といえども、オランダ・中国を通して、欧米の政治体制の知識は流入していた。
特に、蘭学から洋学へと発展してからはその情報量は急速に増大していた。

 要因の一つは幕藩体制の行き詰まり、また、幕・朝・藩の力関係の変化がある。
さらに、隣国中国におけるアヘン戦争にみられるような、東アジアに迫る欧米の外圧に対する危機感である。
 そして、「黒船」来航以降は、一部知識人のみならず、広汎な層にその危機感が広がり、新政治体制が模索されていく。

新政治体制の模索

 蕃書調所教授手伝 加藤弘之の『鄰草(トナリグサ)』をみれば、彼が外圧の危機感のもとに新しい政治体制を模索していたことは明らかである。加藤は「上下分権の政体を立て公会を設けん」という。そのためには「能く西洋各国の政体を穿鑿(穿鑿)し、取捨損益して其至良至善なる所を求むべきなり」と主張したのである。西も津田もその結論には異論をさしはさんでいた。

 右の加藤・西・津田とも接触のあった幕府の開明派の一人大久保忠寛(タダヒロ)<一翁>は、、文久期から「公議所」の設置を主張していた(文久三年十月、松平慶永あて書翰)。大久保の「公議会論」によれば、大公議会と小公議会とに分かれ、前者は京都あるいは大阪に設けて、諸大名を議院とし、国事を議せしめ、後者は江戸その他の各都市に設置して地方議会とするものだった。

松平乗謨(ノリカタ)の政体論

 老中松平乗謨(大給恒(オギュウユズル)1839~1910、兼陸軍総裁)の起草になる1867年(慶応三年)十月十八日の意見書(「松平縫殿頭見込書」。「病夫譫語(センゴ)」ともある)は、大久保の「公議所」論をさらに具体化したものといってよい。(『淀稲葉家文書』334~342ページ)。

 その特徴の要点は、第一に、なぜ彼がこのような意見書を提案するかという状況について述べていることを指摘できる。

 彼は当時しだいに高まりつつあった「王政復古」論に疑問を呈し、「至当公平の義」を尽くさなければ実現するものではないことを強調する。なぜなら、国政の一本化がめざされているにしても、それを主張する根拠は必ずしも一つではなく、「地球之形勢駸々(シンシン)開化に向」かう時の「道理」とみるもの、陰謀策と考えるもの、一挙に「西洋開化之風」を行おうとするもの、あるいは情勢をまったく知らないで「売国」的行為をしているものなど、さまざまだからである。しかも、そのいずれもが「尊王」の名をふりかざしているのである。

 彼はいう。
「乍去(サリナガラ)王制と申候而(テ)も是迄御国内丈(ダケ)すら平治相成難、先轍の様ニ而は迚(トテ)も外国御交際ヲ全(マットウ)し御国光輝セ候義ハ萬々(バンバン)覚束(オボツカ)無候」と。

 第二に、次のような「王制」をつくることの必要を提示する。
(1) 全国および「州郡」に上下の議事院をつくる。全国の上院10名は諸大名から人選し、下院30名は大小名より「無差別」に人選する。「州郡」の上院(10名)は大小名より、下院(30名)は藩士をふくめて広く人選する。人選はすべて入札(選挙)による。
(2)国政に関してはすべて、上下院の議を経る。7その決定事項には「主上も御議論在為被不(アラセラレズ)候様之義」とする。
(3)「全国守護之兵」(海陸軍士官)を設置する。そのために、新しく海陸軍を設け、各地の要所に配置する。その士官(全国守護兵)は大小名・藩士等のなかから広く人選し、「強勇にして志あるもの」を選ぶ。費用は諸大名および諸寺院の高三分の二を納入させ、また商税等をふくめて広く一般からも取り立てて当てる。この兵の取り立てを拒否するものは「奉朝廷之命其罪ヲ糾問」し、処罰する。
 
 要するに、この案は、「蒼生之言路ヲ塞ガズ、御政事寛(ユルヤカ)ニシテ公明正大に成サレ、全国ノ力ヲ以(モッテ)全国ヲ守リ、全国之財ヲ以全国之費用ニ当テ」て、「天下は一人の天下ニあらず、天下萬民之天下」にしようというものだった。それは「私権を捨て皇国一致の法を設くべく」ともいわれているが、要は各藩の「私権」を中央政府に収斂し、軍事力もそこに集中しようというものなのである。
 朝廷と中央政府との関係は明らかではないが、石井孝は、この体制は「徳川元首制のもとで、諸大名は、その一家を扶養する以外のすべての禄を軍事費をはじめ教育費、殖産興業費等に提供させられ、武士集団が解体されて、全国守護兵にこれは、あてられる。まさに領主制の否定である」(『増訂明治維新の国際的環境』747~748ページ 1966年)という。

津田真道の「日本国総制度」
 この松平乗謨 の意見書の出された前月、つまり1867年(慶応三年)九月に津田真道(1829~1903 津山藩。1857(安政4)年蕃所調所教授手伝並となり、1862年西周とともにオランダに留学)の「日本国総制度」(『憲法構想』所収)が、「開成所教授」の名において「根本立法」(憲法)として幕府に提出されている。

 この津田の「日本国総制度」は、第一に、江戸に「総政府」をおき、この「総政府」は、国内事務(学校、道路、宿駅、水利)・外国事務・海軍・司法・寺社・・財用(貨幣鋳造)の政務を司る(以上の用語はすべて原文)。この「総政府」の「大頭領」は、同時に「日本全国軍務の長官」なのである。そして、諸政務は各局の「総裁」が執行するが、この全国政令の監視は「制法上下両院」がする。
 第二は、この「制法上下両院」は「制法の大権」を「総政府」とこの両院で分掌し、「極重大之事件は禁裡の勅許を要すべき事」としていることである。この「制法上院」は一万石以上の大名、「制法下院」は「日本国民の総代として、国民十万人に付き壱人づつ推挙する」と規定している。「総政府」と両院との「制法」の分掌は具体的には不明である。
 第三に、各国を「禁裡領山城国」と「関東領」および「加州以下列国」の三つに分け、「関東領」は世襲の徳川氏の所管で、「大君」つまり徳川氏が特権として「政令」を定めることができる、とする。この「関東府」の政務は、関東事務・陸軍・財用(会計)・奥向と規定され、陸軍は徳川氏が専管しつつ、前述の「全国軍務の長官」を兼ねている。一国内(各藩内)の政令は、各国持大名が全権を握っているのである。
 要するに、この津田案は、徳川氏に全国を管轄する「総政府」(行政府)の長として軍事権を掌握させ、立法はこの「総政府」と「法制上下両院」とが分掌し、この両院の諸大名や全国民の総代(十万人に一人)が参加するという仕組みなのである。
 徳川慶喜を中心とした全国政権としては、松平乗謨構想と共通している。これらの構想の集大成が、次の西周(1829~1897、津和野藩。1857<安政四>年蕃書調所教授手伝並となり、1862年津田とともにオランダに留学、帰国後開成所教授)の「議題草案」といえる。

 西周の「議題草案」
 この「議題草案」は、第十五代将軍徳川慶喜による「大政奉還」後、幕府側が政局の巻き返しを図ろうとして画策していた1867年(慶応三年)十一月に、慶喜側近の平山敬忠(ヨシタダ)(図書頭(ズショノカミ))まで差し出されたものと推定されている。
 西は「大政奉還」の前日、慶喜に呼び出され、国家体制における三権分立やイギリスの議院制度などについて聞かれ、詳細なヨーロッパの管制にに関する手記を提出したという。西の立案になるこの「議題草案」は、そうした慶喜の意向を受けてのことと思われるがが、それは当時の幕府首脳の発想を反映していたものであろうことは、これまでの幕府側で構想された諸案の流れのなかにこれをおいてみれば十分納得できる。
 「議題草案」を図示すれば、頭のようになるが、若干の補足をしておこう。
「大君」は、(1)元首として行政権を掌握し、(2)「公府」の人事や政令・法度の権限をもち、賞罰権を握る。そして、(3)上院の議長であり、(4)下院の解散権ももつ。この両院での議決がくいちがった場合には、「大君」が決定に絶大な権限を行使できると解釈しうる条文もある。(5)江戸には幾百万石という幕府直轄地の政府があり、「大君」はこの政府の長でもある。(6)実質的には全国の軍事の指揮権を「大君」は有する。
 上院と下院に分かれている「議政院」の立法範囲は、(1)綱紀・制度、(2)課税・税収、(3)臨時の会議、(4)外国との条約、(5)全国的な市井令・刑罰令・商売令・違反告訴令、(6)「公府」関係法・貨幣令・その他の雑令等にまで及ぶ。つまり、この議政院あらゆる立法の権限を握っているのである。
 天皇には法度の欽定権はあるが、拒否権はない。その権限といえば元号・度量衡・宗教の長・叙爵などのほか高割(タカワリ)による山城国内の兵備をおく権限(支配の実権は政府)や大名よりの献上を受ける権などである。だから、天皇には実権はなく、山城一国におし込められた形である。
 以上のような国家体制の頂点にある「大君」はトルコのスルタンやロシアのツァーになぞらえられる存在とされており、この「大君」には徳川氏(慶喜)が比定される。それは徳川氏が絶対的な権限をもつ徳川統一政権といってよい。幕府側には明らかにこうした具体的な構想があったのである。

 構想の乏しい西南雄藩
 では西南雄藩側ではどういう構想をもっていたのであろうか。佐賀藩勤王派の一人中野方蔵(ホウゾウ)(1835~62、晴虎)は、大木喬任や江藤新平らとも交友があり、1862(文久二)年、大橋訥庵(トツアン)の疑獄に連座して獄死した。それ以前に書かれた「方今形勢論」は「王政」の「恢復(カイフク)」をめざし、「天子」が「征夷将軍の号を諸大藩に賜ひ、或は肥前将軍と称し、或いは薩摩将軍、或いは肥後将軍、或いは常陸将軍、或いは尾張将軍、或いは長門将軍と称し、凡そ六十余州の大藩を挙げて悉く将軍となし、小藩をして悉く副将たらしめんか、是に於てか人心大いに定るなり」(原漢文)と述べていたのである。(中野邦一『中野方蔵先生』私家版 1936年)。
 この「天子」のもとでの「総将軍」化は、明らかに幕藩体制の幕・朝間の力関係の変容および雄藩の台頭を念頭においた新しい国家対策への方向を示していたものだった。
すでにみてきたように、現実に権力を握っていた幕府側やその周辺では徐々に具体的な国家構想がうち出されはじめていたが、尊攘運動や倒幕運動を進めた西南雄藩側からの新しい国家体制構想は、せいぜいこの中野の国家構想程度で、具体案は乏しい。
 それは薩摩藩出身の寺島陶蔵(トウゾウ)(1832~1893、宗則(ムネノリ)。渡英帰国後、幕府の開成所教授)が、1867(慶応三)年十一月二日、「抑(ソモソモ)勤王を唱へ候に、此上もなき忠節を尽さんには、其封地と其国人とを朝廷に奉還候而(テ)、自ら庶人と相成、後之撰挙之有無を期し候に越したる事者(コトハ)之無く、是如くにして、始めて公明正大なる勤王の分と謂(イ)ふべしと、私(ヒソカニ)に愚説立置き申候」(『寺島宗則関係資料集』上巻18ページ 1987年)と述べていることと関連するだろう。ここにみるように勤王論は、幕府にかわる朝廷(天皇)への土地・人民の「奉還」という形で、すべてを天皇に収斂する発想と価値観の観念性は、朝・幕関係の変容にともなう公武合体論台頭によって徐々に現実論として克服されていくが、結局、慶応末期の倒幕の土壇場まで、それはまたなければならない。

 

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