真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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乙巳条約(第2次日韓協約)無効論の論拠

2009年11月27日 | 国際・政治
 韓国併合へと至る道筋をつけたという意味で極めて重要な乙巳条約(第2次日韓協約)が、法的に無効であったという学説がある。そして、それは単なる過去の問題ではなく、日韓はもちろん、日朝にとっても、極めて現代的な問題としてあるという。それは、1965年の日韓条約締結の際に、最大の係争点の一つであったが、日韓条約では有効・無効の判断を下すことなく、対立点を残したまま調印されたからである。1991年に始まった日朝国交正常化交渉では、それが、今なお交渉進展を阻む対立点の一つになっているというのである。
 伊藤博文は、日本の「立憲体制の生みの親」であり、「明治の元勲」であると教えられたわれわれには、乙巳条約無効論の論拠は衝撃的である。「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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Ⅰ 研究の現状と問題点

 2 脅迫による協約締結

 ・・・
 交渉の経過については本書収録論文以外にも多くの論文があるので省略し、ここでは、協約の無効を証拠づける武力的威迫、脅迫的言辞、不法行為を列挙するにとどめよう。

<武力的威迫>
① ソウル南山倭城台一帯に軍隊を配置し、17,18両日は王城前、鐘路付近で歩兵一大隊、砲兵中隊、騎兵連隊の演習を行い威圧した。

② 17日夜、伊藤は参内に際し、長谷川韓国駐?軍司令官、佐藤憲兵隊長を帯同し、万一の場合ただちに陸軍官憲に命令を発しうる態勢をとった。『大韓季年史』によれば、「長谷川好道及其部下各武官多数、歩兵、騎兵、憲兵与巡査及顧問官、輔佐員、連続如風雨而馳入闕中、把守各門・漱玉軒咫尺重重囲立、銃刀森列如鉄桶、内政府宮中、日兵亦排立、其恐喝気勢、難以形言」という。要するに王宮
(慶雲宮、のち徳寿宮と改称)内は日本兵に制圧され、その中で最後の交渉が行われたのである。

③ 17日午前11時、林公使は韓国各大臣を公使館に招集して予備会商を開いた後、「君臣間最後ノ議ヲ一決スル」ため御前会議の開催を要求し、午後3時ごろ閣僚に同道して参内した。その際、護衛と称して逃亡を防止するため、憲兵に「途中逃げ出さぬやうに監視」させた。事実上の拉致、連行である。


<脅迫的言辞>
④ 15日午後3時、皇帝に内謁見した伊藤は、恩着せがましく「韓国ハ如何ニシテ今日ニ生存スルコトヲ得タルヤ、将又韓国ノ独立ハ何人ノ賜ナルヤ」と述べ、皇帝の対日批判を封じた後、本題の「貴国ニ於ケル対外関係所謂外交ヲ貴国政府ノ委任ヲ受ケ、我政府自ラ代ツテ之ヲ行フ」ことを申し入れた。これに対し回答を保留する皇帝に向かい、伊藤は「本案ハ……断シテ動カス能ハサル帝国政府ノ確定議ナレハ、今日ノ要ハ唯タ陛下ノ御決心如何ニ存ス。之ヲ御了承アルトモ、又或ハ御拒ミアルトモ御勝手ナリト雖モ、若シ御拒ミ相成ランカ、帝国政府ハ已ニ決心スル所アリ。其結果ハ果シテ那辺ニ達スヘキカ、蓋シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニ坐シ、一層不利ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」と暴言を吐き、威嚇した。

⑤ 同席上、逡巡する皇帝が「一般人ノ意向ヲモ察スルノ要アリ」と述べたのをとらえ、伊藤は、その言は「奇怪千万」とし、専制君主国である韓国皇帝が「人民意向云々トアルモ 定メテ是レ人民ヲ扇動シ、日本ノ提案ニ反抗ヲ試ミントノ御思召ト推セラル。是容易ナラサル責任ヲ陛下自ラ執ラセラルルニ至ラン」と威嚇した。

⑥ 17日夜、韓国閣僚との折衝の席上、「断然不同意」、「本大臣其折衝ニ当リ妥協ヲ遂クルコトハ敢テセサル」と拒否姿勢が明確な朴斉純外相の言葉尻をとらた伊藤は、巧妙に誘導し「反対ト見做スヲ得ス」と一方的に判定した。他の4人の大臣のあいまいな発言もすべて伊藤により賛成とみなされた。歪曲である。とくに協約書署名者である朴斉純外相が反対者であることを認めなかった。

⑦ 同席を終始主導した伊藤は、韓主?参政、閔泳綺度相の2人の反対のほかは6人の大臣が賛成と判断し、「採決ノ常規トシテ多数決」による閣議決定として、ただちに韓参政に皇帝の裁可を受けるよう促し、拒否するならば「予ハ我天皇陛下ノ使命ヲ奉シテ此任ニ膺ル。諸君ニ愚弄セラレテ黙スルモノニアラス」と恫喝した。しかし、あくまで反対の韓参政は、「進退ヲ決シ、謹テ大罪ヲ待ツノ外ナカルヘシ」と涕泣しながら辞職を漏らし、やがて退室した。韓参政の辞任を恐れた伊藤は「余リ駄々ヲ捏ネル様ダッタラ殺ッテシマヘ、ト大キナ声デ囁イタ」という。肉体的・精神的拘束を加えて上での威嚇である。

<不法行為>
⑧ 17日午後8時、あらかじめ林公使と打ち合わせた計画に従って参内した伊藤は、皇帝に謁見を申し入れ、病気と称して謁見を拒否した皇帝から「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメン」との勅諚を引き出し、閣僚との交渉を開始した。これは、韓国閣議の形式をとったので、閣議に外国使臣である伊藤、林らが出席、介入したことは不法である。もともと日本政府の正式代表ではない伊藤の外交交渉への直接参加も違法である。

⑨ 協約書への韓国側署名者は「外部大臣朴斉純」、調印は「外部大臣之章」と刻まれていいる邸璽(職印)であるが、その邸璽は、公使館員らによりもたらされた。23日付け『チャイナ・ガゼット』によれば、「遂ニ憲兵隊ヲ外部大臣官邸ニ派シ、翌18日午前一時、外交官補沼野ハ其官印ヲ奪ヒ宮中ニ帰リ、紛擾ノ末、同1時半日本全権等ハ擅ニ之ヲ取極書ニ押捺シ」た、とのソウル発電報を掲載している。 
 『大韓季年史』もまた「使公使館通訳員前間恭作、外部補佐員詔(ママ)野、往外部、称有勅命而求其印、須知分斯即与之、無数日兵環囲外部、防其漏失、日本公使館書記官国分象太郎、預待於漱玉軒門前、仍受其印、入会議席遂捺之、時18日(旧暦10月21日)上午一点鐘也」と述べ、日本公使館員による邸璽入手の経緯が詳しく述べられている。前間恭作は二等通訳官、沼野安太郎は外交官補、国分象太郎は二等書記官である。
 伊藤の復命書である「日韓新協約調印始末」では「朴外相ハ其官印ヲ外部主任者ニ持来ルヘキ旨電話ヲ以テ命シ」たとしか記していないが、前述の2資料の記述は具体的であり、日本人が強奪するようにして邸璽を持ってきた事実は否定できない。

 以上の事実は、いずれも韓国代表者個人に対して加えられた脅迫的行為または強制である。それが条約無効の根拠となることを前述したが、当時もっとも権威ある概論書として流布した東京帝国大学法科大学教授高橋作衛『平時国際法論』(1903年、日本大学)も述べている。
「主権者又ハ締結ノ全権ヲ有スル人ガ、強暴又ハ脅迫ヲ受ケ、為メニ条約ニ記名スルニ至リタルトキハ、該条約ハ有効ニアラス。斯ル場合ニ於テハ、国家ノ名ニ於テ条約ヲ為ス個人ハ、強迫ヲ受ケ、為メニ自由決定ノ能力ヲ失ヒタルモノナルヲ以テ、其条約ハ拘束力ヲ生スルモノニアラス」



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高宗皇帝の信任状と親書(乙巳条約無効宣言)

2009年11月25日 | 国際・政治
 乙巳条約(第2次日韓協約)締結前後、高宗皇帝は朝米修好通商条約の条項を根拠に、アメリカの協力を得ようと様々な働きかけをした 。しかしながら、そのときすでに日本に傾いていた大統領の方針のために黙殺されたり、公式ルートではないとの理由で受けつけてもらえなかったりして、協力を得ることができなかったのであるが、条約締結直後のハルバート宛緊急電文も乙巳条約(勒約)に対する高宗皇帝の不同意の意志が明確に表現されている。
 乙巳条約(第2次日韓協約)が国際法的に無効であるという論拠はいくつかあるが、下記の信任状や親書はその最も重要な一つである。条約締結の最高責任者ともいうべき高宗皇帝が、自ら威嚇・強要・脅迫を理由に条約の無効を宣言しているからである。「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
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Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年

 2 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書

 
・・・
 期待していた米国の協力がない状態で11月18日に勒約が締結されると、皇帝はこれが無効であることをただちに明らかにするために、芝罘経由で26日に次のような電文をハルバートに緊急に送った。

 朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
                                  大韓帝国皇帝

 ・・・(以下略)
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 4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書

 
・・・
 朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国とフランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるように望むものである。
 将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるよう各国政府は援助してくれることを願う。
  大韓開国515年6月22日
  1906年6月22日
                                      漢城にて

   御璽

 
・・・(以下略)
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 ・・・

         親書
 大韓国大皇帝は謹んで拝し
大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
 貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼をを受けて参りました。現在わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。
 日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
 第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、
   脅迫を受けて強制的に行われたものであり、
 第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
 第3に、政府議会について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたもの
   であり、日本人が大臣を強制監禁して会議を開いたものであります。
 状況がこうであるため、いわゆる条約が成立したというのは公法に反するため、当然、無効であります。
 朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれましては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。
 朕は、堂々とした独立国がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みま。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別な関心を寄せられるよう期待します。
 この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
 陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
   大韓開国515年6月22日
   1906年6月22日
                             漢城において、李煕・謹白

   御璽

 
・・・(以下略)

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 太皇帝(前高宗皇帝)は毒殺されたのか?

2009年11月22日 | 国際・政治
 民族挙げての独立運動が始まった3月1日早朝、東大門と南大門などの主要な地域に「ああ、わが同胞よ!君主の仇をうち、国権を回復する機会が到来した。こぞって呼応して、大事をともにすることを要請する。 隆煕13年正月  国民大会」という壁新聞が張り出されたという。日本の支配に不満を募らせていた朝鮮民族が太皇帝(前高宗皇帝)の急逝を日本人による毒殺と見なして不満を爆発させ、起ち上がったということを示しているようである。
 前段は「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)、後段は「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)-------------
                第10章 抵抗
 1 3・1蜂起

  前皇帝の毒殺

 日韓併合後、絶対的専制君主の大権を背景にした10年間にわたって寺内正毅の残酷で野蛮な朝鮮総督府の圧政に苦しんだ朝鮮民族は、ロシア革命と、アメリカ大統領ウイルソンが提唱した民族自決主義に刺激され、独立を目ざして決起した。
 王妃を日本の公使一味に殺害された後も、日本の野蛮な家臣絶えず威嚇され、ついに「ハーグ密使一件」を口実に、皇位を追われた悲劇の高宗皇帝(李太上皇。退位後の高宗皇帝の称号)が、1919年1月22日急逝した。数千の群衆が徳寿宮の門前にひれ伏して慟哭した。毒殺されたという噂が流れた。総督府の回し者によって毒殺されたことは、李方子氏の『流れのままに』(啓佑社)によっても事実のようである。
 
 ロシア革命の勝利によってロシア帝国の植民地だった国々が次々と解放されていた。日本は当然、この歴史の波が自主独立を志向する朝鮮人民を鼓舞激励することをおそれ、厳重な警戒態勢を布き、武装した日本人をさらに大量に移民させた。この大量の移民が肥沃な土地を略奪し、朝鮮民族を亡国の民にして流浪に追いやった。


 日本の虐政に皇位を追われてからも怒りをもちつづけていた高宗太上皇は、パリで開かれたヴェルサイユ講和会議(1919年1月)に、皇国日本の武断専制政治を告発し、国際世論の力により国権の回復を図ろうとして、使節を派遣する準備を秘密裏にしていた時の急逝であった。毒殺の条件は揃っていた。

・・・(以下略)

「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」---------
      Ⅴ 光武帝(高宗皇帝)の主権守護外交・1905~1907
 5 主権守護外交の終焉と復活:ハーグ密使派遣・急逝・独立運動


 ・・・
 前述のようにハルバートは、1906年の親書伝達の密旨の結果によっては、皇帝の声明が奪われるおそれがあること危険な勅命だと知っていた点を明らかにした。とすれば光武帝自身は、1907年の特使派遣で所期の目的を獲得できなかったばあい、自身に危害が及ぶことを予想しないで、ハーグ特使を派遣したであろうか。この問いには、当時の光武帝自身の意事後の対策について知り得ない現在の状況では、だれも確実な答えを出せない。けれども1905年、日本外交権譲渡の要求について、皇帝自身の考えを明確に披瀝したことがある。伊藤が日本の帝(みかど)の親書を奉呈しながら、条約の締結を強制したとき、次のように答えている。

 この条約を許認することは、すなわち亡国同然であるから、朕はこの宗社で殉ずることがあっても、決して許認することはできない。


 このように「宗社で殉ずる」覚悟は決してたやすく変えられるものではない。この覚悟が変わっていたら、勒約強制10日後に、どうして米国の介入を要請する緊急電文を発送することができるだろうか。また、勒約文書の「朱肉も乾かぬうち」の2ヶ月後に、どうして条約の無効を宣言し、駐在官の派遣に反対する国書を、外信記者をとおして満天下に知らせようとしたのか。国書密送の7ヶ月後に、条約が無効であることを宣言し、事態の収拾のために国際裁判所に提訴する親書を、どうして発送することができたであろうか。その後、万国平和会議にどうして特使を派遣することができたであろうか。
 伊藤の脅迫に対する皇帝の回答は、自身の運命をすでに予見した言葉である。1919年1月、彼の急逝は、あくまで文書に皇帝の御璽 を押させることで、条約が批准されたかのように外見をとりつくろうとした、奸臣らの陰謀と無関係ではない。尹徳栄などの奸臣らは1918年の末まで、いわゆる1910年の合併文書に欠けた皇帝の御璽を押すことを執拗に迫った。これは1907年に李完用が、乙巳勒約文書にない皇帝の御璽を遅ればせながらでも押させようとしたことと同じである。数日後、太皇帝(高宗皇帝)は突然崩御した。毒殺であるといういろいろな証拠が出たが、太皇帝の死は「完全犯罪」として、永遠の未解決事件として今日まで残されている、太皇帝の崩御についての疑問点は一つや二つではなかった。大韓帝国の法統を継承した上海臨時政府は、そのような疑問点を次の4つに要約して整理した。


 (1)崩御後、即時に玉体に紅斑が瞞顕し糜爛した。
 (2)侍女二人が同時に致死した。
 (3)尹徳栄、尹沢栄は当日、晨4時に諸貴族を宮廷内に請激し、日本人が弑殺
   したのではないという証書に捺印しようとする運動に尽力したが、朴泳孝、李
   戴完の両人の反駁によって証書がならなかったのはなぜか。
 (4)閔泳綺、洪肯燮が玉体を歛襲するとき糜爛が早すぎるのを不審に思い、こ
   れを外に伝えたところ日本人警官がただちに右の2人を拿致、詰問して激論
   した。


 臨時政府の文書でとくに注目すべき点は、尹徳栄の行動である。彼は事後に、合邦文書を批准された外交文書に仕立てる工作の先頭にたった。そればかりでなく、日本側が太皇帝を弑殺しなかったということを、進んで証明しようとした。したがって、弑殺説をたんなる巷のうわさとして片付けるには、あまりに疑問点が多い。太皇帝の側近は、彼の急逝の裏には日本の陰謀か指嗾があった、と固く信じていた。たとえば、義親王がそのように確信していた代表的な人物である。彼は厳妃の干渉がなければ帝位を継承する位置にあった。彼は1919年11月、大同団の手引きで臨時政府に参加しようと出国を試みた。彼の臨時政府への合流意図は、日本警察の迅速な妨害工作によって安東県駅で捕らえられて中止された。しかし彼が出国するのに先立って7月9日、次のような諭告を送り、自身が光武帝の密旨をうけて、機会をうかがっていたさなかに太皇帝が弑殺されたことを明らかにした。

 (前略)先年、先帝の陛下の密旨を奉承してただちに発とうとしたが、?延刺壁の掣刺を考えてこれを隠し、未だ遂行できていないが、稀世の大凶漢は先帝をその毒手で弑害した。(後略)

 義親王の諭告の発表や第2の独立宣言文作成への参加の試みなどは、すべてが光武帝生存時にある種の密旨をうけ、それをなんらかの形で成就させる機会をうかがっていたことを物語るものである。とくに、光武帝の上海徳華銀行の独立運動資金口座通帳を義親王が所持していたことは、なんらかの具体的な構想があったことを示している。なぜなら、光武帝が上海銀行に預託した資金は、密使の海外派遣の際に使われる資金であるからだ。ここで注目すべき点は、太皇帝の死因にかかわる疑惑、とくに巷に急速に広まった毒殺説が事実とは関係なく、朝鮮人民の意識のなかに潜在していた反日感情を表出させるうえで直接的なきっかけになったことである。
 ・・・(以下略)

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ハーグ密使事件と日本の対韓処理方針極秘文書

2009年11月16日 | 国際・政治
 「ハーグ密使事件」とは、韓国の高宗皇帝がオランダの首都ハーグでひらかれる第2回万国平和会議の場で、韓国における日本の統監統治を告発し、国際世論に訴えて国権の回復を図ろうと親書と信任状を託して密使を派遣した事件である。日本政府は、日本の保護権を拒否するとはけしからんと、この事件をきっかけにして韓国併合へさらに大きな一歩を進める。「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)からの抜粋である。
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8 保護条約反対の運動

ハーグ密使事件と皇帝の譲位
 1907年(明治40年)6月オランダの首府ハーグでロシアのニコラス2世の招集する第2回万国平和会議がひらかれたのであるが、この会議に、朝鮮の使節として元議政府参賛李相?(リソウカ)、前平理院検事李儁(リシュン)前駐露公使館参事官李琦鐘(リキショウ)の3名があらわれ、議長であるロシアの委員ネフリュードフに韓国皇帝の信任状を示し、平和会議に出席を要求した。これがハーグ密使事件である。

この事件は、宮廷の御雇教師であったハルバートと李太王の甥趙南昇が画策して、李相?、李懏の両名が李太王の信任状をもらって、まずロシアの首府セントペテルスブルグにいたり、ここに滞在していた前駐露公使の李範晋に託して、ロシアの皇帝ニコラス2世につぎのような要旨の親書を伝達してもらった。


 朕今日ノ境遇愈々艱難ニシテ四顧之ヲ訴フル所ナシ。唯々陛下ニ向ツテ之ヲ煩陳センノミ。弊邦振興ノ期全ク陛下ノ顧念ニ係ル。今ヤ幸ニ万国平和会議ノ開カルルアリ。該会議ニ於テ弊邦所遇ノ実ニ理由ナキヲ声明スルヲ得ム。韓国ハ曾テ露日開戦ノ前ニ於テ中立ヲ各国ニ宣言シタリ。是レ世界ノ共ニ知ル所也。現時ノ状勢ハ深ク憤慨ニ堪ヘス。陛下弊邦ノ故ナクシテ禍ヲ被ルノ情ヲ特念セラレ、務メテ朕カ使節ヲシテ弊邦ノ形勢ヲ将ツテ該会議開催ニ際シ説明スルヲ得セシメ、以テ万国公然ノ物議ヲ致サバ、則チ之ニ因リテ弊邦原権庶クハ収回スルヲ得ム。果シテ然ラハ朕及ヒ我カ韓全国ハ感激シテ陛下ノ恵沢ヲ忘レサルヘシ。前駐韓貴国公使回去ニ際シ、願望ノ深衷ヲ付陳シ、該公使ニ託スル所アリ、唯垂諒アランコトヲ望ム。

 それから李範晋の息子で前駐露公使館参事官の李琦鐘を一行に加え、直ちにオランダのハーグへ向かった。ハーグについた一行は平和会議の委員に面会を求めた。
 しかしポーツマス条約で日本の朝鮮支配をみとめていたロシア、アメリカ、イギリスは、この韓国皇帝の派遣した代表との面会を断った。オランダ駐在の都築公使から外務省にきた報告によると、小国の代表は概して朝鮮のいうことには同情していたが、大国はこれを取り上げなかった、といっている。 
 このハーグ密使事件のことは、都築公使から外務省にすぐに電報がきた。政府はただちに閣議をひらき、つぎのような方針をきめて、朝鮮にいた統監伊藤博文に通知した。この方針のなかにもう併合の計画がでてきていることは注目していい。


    韓国皇帝ノ密使派遣ニ関連シ廟議決定ノ対韓処理方針通報ノ件

 明治40年7月12日  第141号(極秘)
 西園寺総理大臣ヨリ
外務大臣宛57号貴電ノ件ニ関シテハ元老諸公及閣僚トモ慎重熟議ノ末左ノ方針ヲ決定シ本日御裁可ヲ受ケタリ即チ帝国政府ハ現下ノ機会ヲ逸セス韓国内政ニ関スル全権ヲ掌握セムコトヲ希望ス其ノ実行ニ付テハ実施ノ情況ヲ参酌スルノ必要アルニ依リ之ヲ統監ニ一任スルコト

若シ前記ノ希望ヲ安全ニ達スルコト能ハサル事情アルニ於テハ少クトモ内閣大臣以下重要官憲ノ任命ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行ヒ且統監ノ推薦ニ係ル本邦人ヲ内閣大臣以下重要官憲ニ任命スヘキコト前記ノ主旨ニ基キ我地位ヲ確立スルノ方法ハ韓国皇帝ノ勅諚ニ依ラス両国政府間ノ協約ヲ以テスルコト
本件ハ極メテ重要ナル問題ナルカ故ニ外務大臣韓国ニ赴キ親シク統監ニ説明スルコト
   以上


本件ニ付キテハ陛下ヨリ閣下ニ対シ特ニ優渥ナル御言葉アリ委細外務大臣ヨリ御伝達致スヘク同大臣ハ来ル15日出発貴地ヘ直行ノ筈
    処理要綱案
 第1案 韓国皇帝ヲシテ其大権ニ属スル内容政務ノ実行ヲ統監ニ委任セシムル
      コト
 第2案 韓国政府ヲシテ内政ニ関スル重要事項ハ総テ統監ノ同意ヲ得テ之ヲ施
      行シ且施政改善ニ付キ統監ノ指導ヲ受クヘキコトヲ約セシムルコト
 第3案 軍部大臣度支部大臣ハ日本人ヲ以テ之ニ任スルコト
    第2要綱案
韓皇帝ヲシテ皇太子ニ譲位セシムルコト
将来ノ禍根ヲ杜絶セシムルニハ斯ノ手段ニ出ルモ止ムヲ得サルヘシ  
但シ本件ノ実行ハ韓国政府ヲシテ実行セシムルヲ得策ト為スヘシ国王扜政府ハ統監ノ副署ナクシテ政務ヲ実行シ得ス(統監ハ副王若クハ摂政ノ権ヲ有スルコト)
各省ノ中主要ノ部ハ日本政府ノ派遣シタル官僚ヲシテ大臣若クハ次官ノ職務ヲ実行セシムルコト
    賛否情況
                              山県    寺内    多数
 1 韓皇日本皇帝ニ譲位            今日ハ否  今日ハ否  否
 2 韓国皇太子ニ譲位              今日ハ否  今日実行  否
 3 関白設置(統監)               可       可      可
 4 各省ニ大臣又ハ次官ヲ入レル       可       可      可
 5 顧問ヲ廃ス                   可       可      可
 6 統監府ハ幕僚ニ限リ他ハ韓政府ニ合併 可       可      可
 7 実行ハ統監ニ一任ス             可       可      可
 8 外務省ヨリ高官派出統監ト打合(外相)  可       可      可
 9 勅諚説                      否       否      否
10 協約説                      可       可      可
11 協約ニ国王同意セサルトキハ合併ノ決心 可       可      可
   (即チ(1)ヲ実行ス)

 これはかなりの強硬方針であったが、伊藤博文もこれとはべつに独自の強硬方針をとっていた。彼は密使事件の報告をうけると、7月3日に練習艦隊乗組将校とともに参内した際、ハーグ事件に関する電報の写しを皇帝に見せ、将校の謁見が終わって退出する際皇帝に対して、「かくの如き陰険なる手段を以て日本の保護権を拒否せんとするは、寧ろ日本に対して堂々宣戦を布告せらるるの捷径なるに若かず」といい、「其ノ責任全ク陛下一人ニ帰スルモノナルコトヲ宣言シ、併セテ其ノ行為ハ日本ニ対シ公然設意ヲ発表シ、協約違反タルコトヲ免レス。故ニ日本ハ韓国ニ対シ宣戦ノ権利アルモノナルコトヲ総理大臣ヲ以テ告ケシメ」た(同書、伊藤博文の西園寺首相宛電報)。


 ・・・(以下略)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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「日韓議定書」締結目的の買収、脅迫、拉致、抑留

2009年11月12日 | 国際・政治
 1970年代から1980年代にかけ、連続して発生した北朝鮮による日本人拉致の問題は現在も未解決であり、日本の政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針をとっている。当然であると思う。
 100年以上前のこととはいえ、日本も「日韓議定書」締結のために、同じような野蛮な手段を使った。そして日韓併合に至り、日本は敗戦まで朝鮮半島を支配した。そうした歴史もきちんと踏まえて、拉致問題その他に対応しなければならないと思う。下記は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)から日韓議定書締結に関わる部分を抜粋したものである。
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7 日露戦争と朝鮮

 日露戦争と日韓議定書


 ・・・(議定書は抜粋済みにより省略-「日韓議定書と第1次~第3次日韓協約条文」または http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/の180)

 この議定書は、もともと秘密条約にするはずであったのが、朝鮮側からその内容がもれて、林公使から「議定書ノ内容ハ前電ノ如已ニ公然ノ秘密トナリ且ツ22日発兌ノ帝国新聞(韓字新聞)ニモ其内容ノ大略ヲ記載シタル為一般ニ承知セラレ居ル次第ニ付御都合次第ニ発表ノ期日ヲ定メ御訓令ヲ乞フ」という請訓を小村外相あてにだしている。その結果、いそいで2月27日の官報に発表することにした。
 またこの条約締結にいたるまえに、林公使と小村外相とのあいだの往復電報でも、「日韓密約」といっていることからも、この条約は、もともと日本政府としては、秘密にしたかったことがわかるだろう。


 しかし私が問題にしたいのは、秘密とか公開とかの点だけではなく、条約締結の経過である。
 この「密約」締結の日韓交渉は、おそらく1903年の末ごろからおこなわれたものらしい。というのは、韓国駐在林公使から小村外相あての報告、「日韓密約締結ノ予想並韓廷ノ懐柔大体成功ノ状況報告ノ件」は1904年の1月11日午後7時に東京の外務省についているからである。この報告で注意すべきは、「目下ノ処ニテハ仮令密約等成文ノモノ出来上ラサルモ韓廷懐柔等ニ関スル帝国政府御訓令ノ趣意ハ大体ニ於テ目的ヲ達セシモノト見テ差支ナカルベク云々」といっていることだ。これでわかるように、ソウル駐在の林公使は韓国政府の高官を買収するために随分暗躍している。

 
 さらに、この報告によると、林が12月ソウルに帰任してから「宮中並ニ政府ノ情況ヲ見ルニ、孰レモ危惧恐怖ノ念ニ駆ラレ不安ノ思ヲ為セルモノノ如ク」だったといい、この議定書に調印した李址鎔については、つぎのようにいっている。「過般送金ヲ乞ヒシ1万円」を彼にわたし、「時々同人ヲシテ本史ニ協議ヲ遂ケシムル筈ナリシモ当人ノ立場トシテ兎角ニ遠慮勝ナルユエ本日塩川ヲシテ全部ヲ同人ニ手交セシメ一ニ同人ノ使用ニ任カセリ。」
 1月16日の「日韓密約ニ関シ韓国要人操縦ノ件」という機密通信では、「本使ガ最近彼レニ加エタル威迫」などによって、李根沢らの意見もかわったと報告している。

 以上は親日派に加えた威迫であるが、親露派の要人にたいしては、これを体よく日本公使館に軟禁したうえで、日本につれてきて、「議定書」に反対する勢力を韓国宮廷から一掃しようとした。このためまず日本からねらわれたのは李容翊(リヨウヨク)である。
 李容翊の議定書反対には、韓国皇帝もよほど動かされたらしく、締結は一時あぶなかった。このため林公使は1月25日小村外相に「日韓密約ノ成立頓挫ト其善後措置」について報告している。


 議定書の成立についてこんな妨害があったが、日露戦争は日本に有利にすすんだので、結局は成立したのである。しかしながら、今後も日本の対韓政策遂行にとって、李容翊らはじゃまになるので、日本に送ることにしたのだが、そのてんまつはつぎのとおりである。
 李容翊らは今後とも日本に反対するだろうから、「李ノ存在ハ甚シキ妨害ノ基トナルヲ以テ此際日本ニ漫遊セシムル様勧告シ御用船ニ便乗セシメテ最近内地ニ出発セシムヘシ又吉永洙ハ第2ノ李容翊トシテ又李学均、玄尚健、畢竟露国ノ間諜ニ斉シキヲ以テ此3人モ李容翊同様漸次内地ニ漫遊セシムヘシ」ということであった。


 この電文写しの欄外には、「上、総、陸、海、四老」と書込みがある。天皇、参謀総長、陸軍大臣、海軍大臣、それに伊藤博文、井上馨、松方正義の3人、あとの一人は山県有朋か樺山資紀であろうが多分山県であろう。
 こうして李容翊は日本にむけて出発したのであるが、これについては林公使2月24日小村外相あて、つぎのように連絡した。

 
 李容翊ノ日本ニ出遊スル件ハ別電ノ如ク陛下モ御同意ニ付キ昨日直チニ仁川ニ下リ御用船旅順丸ニテ明朝仁川ヲ発シ宇品ニ到着スル筈ニ取計置ケリ依テ同人日本著ノ上ハ可然御取計ヲ乞フ時局一変シテ韓国ノ整理付ク迄ハ彼ヲ放任スル時ハ陛下トノ間聯絡気脈ヲ通シ陰謀ヲ企テズトモ限ラズ又閔永喆ハ清国北京ニ公使トシテ赴任シタルト称シ後ノ船便ニテ日本ニ向ケ出発セシムベシ李根沢ニ対シテモ同様ノ手続キヲ取ル筈又吉永洙、李学均、玄尚健ノ3人ニ対シテハ井上師団長ト協議ノ上適宜ノ措置を執ルベシ右等数人ヲ体善ク退去セシメタル上ハ韓人一般ハ勿論内外人ヲシテ一段我ニ信頼セシメ得可ク且ツ韓国ノ整理ニ関シテモ都合能カルベク思考ス

 このようにして、じゃま者を追放し、議定書を締結したのである。さらにこの日本政府の野望をもっともよくあらわしたのが、この年の5月30日元老会議で決定し、これをさらに翌31日の閣議で決定して、6月11日に天皇の決裁をへたつぎの「帝国ノ対韓方針」である。
 

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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閔妃暗殺の首謀者は駐在日本公使(三浦梧楼)?

2009年11月06日 | 国際・政治
 伊藤博文暗殺100年の2009年10月26日、ハルビンや韓国で「抗日の英雄」をたたえる記念式典があったという。日本では、近代国家の基礎をつくったと評価され、千円札にも登場した伊藤博文だが、朝鮮民族にとっては、「侵略の元凶」であり、伊藤博文を暗殺して処刑された安重根は、今も「民族の英雄」であるという。したがって、記念式典は安重根の「義挙100年」の行事なのである。「伊藤博文」という個人を暗殺した安重根が、今なお韓国のみならず中国でも英雄視されている事実に抵抗を感じないわけではないが、江華島事件以来の日韓(朝)・日中の歴史をふり返ると、これからの日本は、さらに深く広く日本の過去の「あやまち」に向き合い、日韓(朝)・日中との関係改善に努めなければならないと思う。
 閔妃暗殺事件もそのひとつであり、極めて野蛮な国家的犯罪であると認めざるを得ない。前段は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)から閔妃殺害事件の概略を抜粋した。後段は「外交文書で語る-日韓併合」金膺龍(合同出版)から内務省法制局参事官(朝鮮内部顧問)石塚英蔵の末松法制局長宛報告書の一部を抜粋した。
 
「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)-----------------

6 ロシアの進出と日本

 三国干渉と朝鮮における日本の地位

 日本は清国と、朝鮮における支配権をあらそって日清戦争をおこし、清国の勢力を朝鮮から一掃した。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国が、日清講和条約にある日本の遼東半島領有に反対して、これを清国に返還するよう要求した。戦争でそうとう弱っていた日本はとうていこの三国には対抗できないので、この要求に屈服したのである。
 これが有名な三国干渉で、日本はこのため朝鮮で大いにその威信をおとした。かわりにロシアが朝鮮へ進出して、朝鮮の宮廷でも、閔氏の一族はロシアと接近し、日本を排撃しようとしたのである。
 1895年(明治28年)の7月6日、閔氏の一派はソウル駐在のロシア公使ウェーバーと結んで、朝鮮政府から親日分子の朴泳孝、金嘉鎮、徐光範などを追放し、かわりに親露派の李允用、李完用、李範晋らがあらたに入閣し、日本人が訓練した軍隊も解散された。これは宮廷勢力を中心にしたクーデターであったが、これはかねてから日本にたいしてひじょうな反感をもっていた朝鮮の民衆からは支持されていたのである。


 閔妃事件

 そのころソウル駐在の日本公使は三浦梧楼であったが、三浦は、ソウルの日本守備隊長の楠瀬幸彦と共謀のうえ、かねて閔妃と敵対していた大院君をかつぎだし、そのころソウルにいた日本人の大陸浪人たちを手先にして閔妃の暗殺をはかったわけである。

 1895年の10月7日の夜から翌日早朝にかけて、大院君は訓練隊に護衛され、これに日本の守備隊と抜刀した日本人の一隊が随行して景福宮におしいって閔妃を惨殺し、その死体を陵辱したのち石油をかけて焼いてしまった。これまでこの兇行は日本の大陸浪人がやったようにいわれていたが、彼らは直接閔妃に手を下しただけである。主体は守備隊で、たとえば景福宮の城壁をのり越えるための梯子は、兇行の前日に守備隊でつくっており、また広い宮殿のなかで閔氏の行方をさがすために、わざわざ宮殿内の地理にあかるい日本領事館の萩原警部まで連れて行った。

 
 この兇行は8日の未明におこなわれたのであるが、これは当時宮中にいたロシア人のサバチンと王宮警備の親衛隊を訓練していたアメリカ人のゼネラル・ダイも見ていた。それに夜があけてから異様な風体の日本人が王宮から引きあげてくるのを、一般の朝鮮人も見ていたので、ソウル市内は騒然たる有様であったという。

 一方この間に宮廷では、大院君の執政のもとに内閣の改造が行われ、総理大臣金宏集、内部大臣兪吉濬、度支部大臣魚允中、法部大臣張博、学部大臣徐光範、外部大臣金允植という親日派の内閣ができた。


 ・・・(以下略)

「外交文書で語る 日韓併合」金膺龍(合同出版)-------------

第3章 閔王妃殺害事件

3 遺体の陵辱と処置 


 ・・・
 石塚英蔵は内務省法制局参事官のまま、朝鮮の内部顧問(日本の内務省相当)に送り込まれた人物である。石塚は次の法制局長宛の報告書の中で、王妃殺害を日本の誰もが考えていたと、報告書の冒頭に書いている。王妃殺害の必要は三浦も早くから感じていたといい、日本の守備隊が主力であったこと、王妃の殺害と遺体の陵辱の状況を仔細に書いている。
 乱暴狼藉の現場を外国人に見られた上、この外国人と口論までしたことと、王城での狼藉を終えて、見苦しき風体をして王城から引き上げるところを、王城前広場に詰めかけた朝鮮人群衆と急ぎ入城するロシア人公使にも見られたと報告している。


 謹啓其後ハ益々御清福ニナサレ、恭賀奉リ候。サテ当地ニ於ケル昨朝ノ出来事ハ既ニ大要御承知済ノ御事ト、察シ奉リ上ゲ候。王妃排除(王妃殺害)ノ儀ハ、モシ時機ガ許セバコレヲ決行シタシトハ、不言不語ノウチニ誰人モ含ミ居リタルコトコレ有候得共、モシ一歩ヲ過ラバ忽チ外国ノ関係ヲ惹キ起シ永ク彼ノ国ニ占ムル、日本ノ地歩ヲ亡失スルハ必然ノ儀ナレバ、深ク軽挙ヲ戒シムベキハ今更申ス迄モ之レ無キ儀ニ御座候。
 今回ノ事ハ小生共最初ヨリ少シモ相談ニアズカラズ、却ツテ薄々其計画ヲ朝鮮人ヨリ伝聞致シ候程ニコレ有リ、段々聞知スル所ニ依ニ、局外者ニシテ其謀議ニ参与シ、甚ダシキハ弥次馬連ガ兵隊ノ先鋒タリシ事実ニ之レ有候。而シテ其方法ハ軽率千万殆ド児戯ニ類スルナキヤト思ワルルモノ之レ無キニアラズ。幸二其最モ忌ワシキ事項ハ外国人ハ勿論朝鮮人ニモ 知ラレテイナイ様子ニ御座候
 現公使ニ対シテハ聊サカ不徳義ノ嫌イ之有リ候エ共、一応事実ノ大要御報告イタスハ職務上ノ責任ト相考候間、左ニ簡単ニ申述候。


 王妃排除ノ必要ハ三浦公使モ早クヨリ、感ゼラレタルモノノ如シ、而シテ其ノ今日之ヲ決行シタル所以ハ「危急ノ場合、露ニ援兵ヲ請フノ約束」並ニ宮内省ニ於イテ「訓練隊解散ノ決定」ヲナシタルニ由ルモノノ如シ。即チ訓練隊ヲ利用シタルナリ。
 推察スルニ岡本ハ首謀者(首謀者は三浦公使である)タルガ如シ。大院君ノ入闕ヲ斡旋シタルハ正シク同人ナリ。外ニ柴、楠瀬、杉村ハ密議ニ参与シタリト言ウ。其他ハ少シモ聞知セズ。守備隊長馬屋原ノ如キハ命令的ニ実行ノ任ニ充タラレタルガ如シ。コノ荒仕事ノ実行者ハ訓練隊ノ外守備隊ノ後援アリ。(中略)後援ハ或ハ当ラザルガ如シ。(中略)尚守備隊ノ外ニ日本人20名弱アリ(裁判記録によるだけでも40名いる)。熊本県人多数ヲ占ム。守備隊ノ将校兵卒ハ門警護ニ止マラズ門内ニ侵入セリ。殊ニ弥次馬連ハ深ク内部ニ入リ込ミ王妃ヲ引キ出シ2,3ヵ所刃傷ニ及ビ、且ツ裸体ニシテ局部検査(可笑可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注ギ焼失セル等誠ニ之レ筆ニスルニ忍ビザルナリ。ソノ他宮内大臣ハ頗ル残酷ナル方法ヲ以ツテ殺害シタリト言ウ。

 右ハ士官モ手伝イタリシモ王トシテ兵士外日本人ノ所以ニ係ルモノノ如シ。大凡3時間ヲ費ヤシテ右荒仕事ヲ了ラシタル後、右日本人ハ短銃又ハ刀剣ヲ手ニシ、徐徐トシテ光化門(王城正門)ヲ出テ群衆ノ中ヲ通リ抜ケタリ。時巳ニ8時過ニシテ王城前ノ広小路ハ人ヲ以ツテ充塞セリ。(『末松法制局長宛石塚英蔵書簡』井上馨文書、国会図書館憲政資料室所蔵)


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