真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策

2017年12月03日 | 国際・政治

  司馬遼太郎は、明治時代の戦争を肯定的に描き、逆に昭和時代の戦争を否定的に描いていることで知られていますが、そうしたことについては、下記の資料1「歴史と視点 -私の雑記帳ー」司馬遼太郎(新潮文庫),資料2「この国のかたち 四」司馬遼太郎(文藝春秋),資料3「この国のかたち 六」司馬遼太郎(文芸春秋 1996)などで、自ら語ってもいます。司馬遼太郎が、いろいろな側面で、明治時代を高く評価していることがわかります。

 でも、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである。”という考え方と同じように、下記の資料1の文章にみられるような、明治の軍人が”昭和初期に中国へ侵略戦争をやった軍部指導者たちにくらべると、まるで別な民族であったような観さえある”というのも、私には受け入れがたいとらえ方です。
 特に、資料2の文章にある、”日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう”というのも、私にはとても受け入れがたいです。

 その明治時代を肯定的にとらえる司馬遼太郎の考え方が源流となって、自由主義史観研究会が生まれたことは、資料4の「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)に抜粋した文章でわかります。
 そして、歴史教育は改革されなければならないとする同研究会の主張に基づいて、『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』がつくられたこと、さらに、その教科書で日々学んでいる子ども達がいることは、私には看過できません。

 だから、私は、司馬遼太郎とは逆に、先の大戦の惨禍は、明治維新以後に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)や確立された組織体制の継続・拡大・強化・徹底などの結果であると考え、旅順虐殺事件や朝鮮王宮占領事件のみならず、歴史学者が取り上げている当時の資料や証言を正しく理解して、時代の雰囲気に流されないようにしたいと思っています。

  それは、政府発表の

平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。この「明治150年」をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。このため、政府においては、こうした基本的な考え方を踏まえ、「明治150年」に関連する施策に積極的に取り組んでいます。

にも関わることで、「歴史に学ぶ」ということの意味を考えることでもあると思います。子ども達に誇りをもたせるために、過去の過ちや日本にとって不都合な歴史的事実をなかったことにするような歴史教育では、近隣諸国の理解が得られないでしょうし、また、日本国内の圧政の復活にもつながってしまうのではないかと思っています。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        大正生まれの『故老』
 ・・・
 私の手もとに、日清戦争のとき広島大本営の軍事内局長だった少将岡沢精(オカザワクワシ)の各師団長へ送った通達文の草稿がある。
 「我軍ハ仁義ヲ以(モツ)テ動キ、文明ニ依(ヨツ)テ戦フモノナリ。故ニ我軍ノ敵トスル処(トコロ)ハ敵国の軍隊ニシテ、其(ソノ)一個人ニアラズ。サレバ敵軍ニ当リテハ素(モト)ヨリ勇壮ナリト雖(イエド)モ、其降人、捕虜、傷者ノ如(ゴト)キ、我ニ敵抗セザルモノニ対シテハ之(コレ)ヲ賞撫(ショウブ)スベキ事、嚮(サキ)ニ陸軍大臣ヨリ訓示セラレタルガ如シ」
 戦うについても
 「文明を準拠として戦う」
 などというあたりが、明治の新興国家の軍人らしい昂揚であり、昭和初期に中国へ侵略戦争をやった軍部指導者たちにくらべると、まるで別な民族であったような観さえある。
 軍隊内部に対しても、「戦陣訓」のような督戦隊的などぎつい脅迫的布達文はなかった。
 ・・・以下略
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        日本人の二十世紀
  ロシアへの恐怖  
 日露戦争がなぜ起こったのかは教科書に任せるとして、基本的には朝鮮半島問題をめぐる国際紛争でした。
 朝鮮半島については、当時の日本の国防論では地理的な形態としてわが列島の脇腹に突きつけられた刃(ヤイバ)だと思っていた。その朝鮮に対し、既に洋務運動に目覚め近代化しつつある清国が、宗主国としていろいろ介入し始めた。日本はこれが怖かったのです。そして日清戦争を起こす。日本の勝利で、清朝は一応朝鮮から手を引きました。そこへ、真空地帯に空気が入ってくるようにしてロシアが朝鮮に入ってくる。ロシアは、まるで新天地を見出したかの如き振る舞いで、それがやはり日本にとって恐怖でした。結局ロシアを追っ払うためにいろいろなプロセスをへたあと戦争になってしまう。
 いまから思えば、その後の日本の近代は、朝鮮半島を意識し過ぎたために、基本的な過ちを犯していくことになります。この二十世紀初頭に、朝鮮半島などうち捨てておけばよかったという意見もあり得ます。海軍力さえ充実しておけば、朝鮮半島がロシアになったところで、そんなにおそろしい刃ではなかったかもしれない。しかし、当時の人間の地政学的感覚は、いまでは想像できないのですが、もう怖くて怖くてしようがなかった。ここを思いやってやらないと明治というのは分かりにくい。
 たとえば日露戦争をしないという選択肢もあり得たと思います。しかしではロシアがずるずると朝鮮半島に進出し、日本の前まで来て、ついに日本に及んでもなお我慢ーー戦争しないことーーができるものなのか。もし我慢すれば国民的元気というものがなくなるのではないか。これがなくなると、国家は消滅してしまうのではないかーーいまなら消滅してもいいという考え方があり得るでしょうがーー当時は国民国家を持って三十余年経ったばかりなのです。
 新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
 ・・・以下略
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「明治憲法が上からの欽定憲法であり、また戦後憲法が敗戦によってえた憲法であるなどといういきさつ論は、憲法というものの重さを考える上で、さほど意味をもたない。明治憲法は明治の最大の遺産だった。しかし、それが健康だったのは、統帥権の台頭までわずか四十年にすぎなかった」
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)

                        司馬史観の説得力
  ーーー「東京裁判=コミンテルン史観」を覆す『坂の上の雲』
 歴史教育と「司馬史観」
 戦後日本の歴史教育は、日本の近現代史をもっぱら暗黒・非道なものとして描き出し、歴史を学ぶ者に未来を展望する知恵と勇気を与えるものではなかった。そのようになった原因は、七年間にわたるアメリカ占領下に、アメリカの国家利益を代弁する「東京裁判史観」と、1930年代のソ連の国家利益に起源をもつ「コミンテルン史観」が「日本国家の否定」という共通項を媒介にして合体し、それが歴史教育の骨格を形成したことにある。日本国家のために弁ずる余地は存在しなかったのである。

 私自身はこうした歴史教育を受けて育った世代である。日本断罪史観は、長い間、わたしにとって空気のように当たり前のことであった。その歴史観の部分的なほころびはあちこちで感じていたが、自分自身の歴史観を根本的に組み替える必要に迫られる体験をしないできた。その認識の枠組みを変える最初の、しかもおそらく最大の要因が、司馬遼太郎の作品との出合いであったと今にして思えてくるのである。もし、その出合いがなかったら、私が戦後歴史教育の呪縛から抜け出すことは困難だったと思われる。

 現在、私は、歴史教育の改革運動を進めている。「東京裁判=コミンテルン史観」の克服が最大の課題だが、その裏返しとしての「大東亜戦争肯定史観」にも私は与(クミ)することはできない。そこで、私は、新しい近現代史教育の枠組みとして「自由主義史観」という第三の史観を構想し、自由主義史観研究会を組織して教材の開発や実践の創造に取り組んでいる。その成果については、さし当たり、季刊雑誌『近現代史の授業改革』(明治図書)、および単行本『教科書が教えない歴史』(扶桑社)と『産経新聞』のオピニオンのページに連載されている読み物教材「教科書が歪めた歴史」をご覧いただきたい。

 さて、私が「自由主義史観」を構想する上でも司馬作品は大きな位置を占めた。もちろん、私は、歴史教育の見直しなどという特別の意図をもって司馬作品を読んできたわけではない。私の世代の多くの人々がそうであるように、私も松本清張を読み、森村誠一を読む、その延長上で、流行作家の一人としての司馬遼太郎を読んだに過ぎない。それは、何かの目的のためではなく楽しみのためだった。そして、今から考えると不思議なことなのだが、司馬の幕末・維新期に取材した作品を読んでいた段階では、歴史学のほうから植え付けられた近現代史像の枠組みを根本的に変えなければならないと切迫した状態には追い込まれなかった。
 例えば、私は、坂本龍馬を描いた『龍馬がゆく』、吉田松陰と高杉晋作を描いた『世に棲む日々』、大村益次郎を描いた『花神』、西郷隆盛と大久保利通を中心人物とする『翔ぶが如く』のような一連の作品を読んできたにもかかわらず、それらの作品の描き出すイメージは、一方で私の頭を占領していたマルクス主義的傾向の強い明治維新観と付き合わせることもなく、両者は平和共存していたのである。

 決定的な分岐点は、日露戦争を扱った『坂の上の雲』との出合いであった。この作品は私の中にあった「東京裁判=コミンテルン史観」を根底から揺るがすのっぴきならない問いをつきつけるものであった。
 私は、日露戦争は日本とロシアの双方の側からみてまぎれもない帝国主義戦争であり、日本の大陸侵略の第一歩(日清戦争から数えれば第二歩)だと信じ込んでいた。そして、正直に打ち明ければ、日本陸軍の創設者山県有朋のような人物のみならず、明治憲法の草案者であり、のちにハルピン駅頭で朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された伊藤博文などをも含むこの時期の日本の国家指導者たちを、極悪非道なマフィアの一味であるかのようにイメージしていたのである。なるほどある者は他の者より少し穏健で平和的であるといった個人差はあるにしても、彼らに共通する本質は帝国主義的侵略主義者であることだと考えていたのである。こういう見方と矛盾する日露戦争評価は、右翼ないし軍国主義復活を狙う勢力の宣伝にすぎないと、私の頭の中では「情報処理」されていた。偏見として固定した先入観はおそろしいものである。
 『坂の上の雲』で、日露戦争期の国家指導者の良質な部分が、いかに渾身の力をふりしぼってこの民族的危機を防いだか、その事績に接して、私は彼らをならず者の一味のようにイメージしていたことを誠に恥ずかしく、申し訳ないことであったと感じた。
 司馬は日露戦争以後の時代に取材した歴史小説を書いていない。それ以後の時代は、日本に否定的な記述が多くなることをおそれて、司馬の美学からは書けなかったのであろう。しかし、史論の形ではいくつかの発言を行っている。そこで、司馬の小説と史論を組み合わせると、ひとつのまとまりをもった「司馬史観」を浮かびあがらせることができる。このような意味での「司馬史観」を日本近現代史のもっとも具体的なイメージとして歴史を教える教師の間で広く共有されるようにすることが、もっとも現実的な近現代史教育の改革の第一歩だと私は考えた。
「東京裁判=コミンテルン史観」の影響を受けてしまった人々を説得するにはこれ以外の方法はないとすら思えたのである。だから私は拙著『近現代史教育の改革』(明治図書)で、「自由主義史観」の提唱にあたり、まず、「司馬史観」を最初にとり上げて全体的なイメージを与えることを先行させ、次いで、戦略論、数量経済史、という分析的な議論に進んでいくストラテジーを採ったのである。
 では、その「司馬史観」とは何か。歴史教育の改革という問題意識に立って、その骨格を再構成してみたい。
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 「司馬史観」の四つの特徴
 以上、私が理解する限りでの「司馬史観」の要点をのべた。「司馬史観」の発想の特徴としてあげられるのは、次の四点である。そして、これらは、今後の歴史教育改革の観点として最も重要な点である。
 「司馬史観」の特徴は、第一に、健康なナショナリズムである。これについては、すでに日露戦争の紹介で述べたことと重なるのであまり説明を要しないだろう。
 この点は、戦後の「東京裁判=コミンテルン史観」が、ナショナルなものの全面否定に陥ったのと対照的である。それは結局「東京裁判=コミンテルン史観」が外国の国家利益に奉仕する歴史観だからである。しかし、この側面に正当な位置を与えることなしに近現代史教育の改革はあり得ない。
 ・・・以下略
第二に、リアリズムである。・・・以下略
第三に、あらゆるイデオロギー的なるものから自由になろうとする志向である。・・・以下略
第四に、官僚主義批判である。・・・以下略

 

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2 コメント

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錦の御旗 (花神)
2024-05-24 12:38:22
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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コメントありがとうございます (syasya61)
2024-05-24 19:01:57
花神様

 でも、
”関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の
最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、
様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は�
�哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の
一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。”
 というようなお話しは、面白そうですが、私には難しくてよくわかりません。申し訳りません。
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