真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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イスラエル建国とテロ

2023年10月29日 | 国際・政治

 先日、テレビ朝日がイスラエルとハマスの戦闘を伝える際、ハマスの指導者・イスマイル・ハニヤ氏が、怒りに満ちた顔で何かを訴えている映像を映し出していました。その時、私はウクライナ戦争当初のプーチン大統領の扱いと同じだと思いました。彼が何を訴えているのかは、誰にもわからないだろうと思われる映像でした。字幕が出ないのみならず、音声も消されているのです。もちろん、その内容についての解説もありませんでした。アメリカが軍事支援を表明したイスラエルのネタニヤフ首相の扱いとかけ離れていて、情報操作がなされていると思ったのです。
 イスマイル・ハニヤ氏の怒りに満ちた怖い顔を印象づけつつ、その時語られたのは、 彼がカタールで5つ星ホテルで豪華な生活をしており、彼の総資産は6000億円にのぼるというようなことでした。いかにもハマスが堕落した武装組織であるかのようなイメージを、視聴者に刷り込む内容だと思いました。私は、イスラエルやガザの歴史をふり返れば、こうした報道は、明らかに間違っていると思いました。

 肥沃な土地をイスラエルの入植地として没収され、人口密度の極端に高い貧しい地域のガザで、そんな資産が築けるとは思えませんし、そんな生活実態がわかれば、ハマスの創設者・アフマド・ヤスィン氏同様、イスラエルの組織によって殺害される恐れがあるだろうと思いました。
 ネタニヤフ首相は、先日、ハマスを根絶すると言いましが、果たしてハマスは根絶されなければならないような恐ろしい武装組織なのでしょうか。
 私は、決してそんなことはないだろうと思いますし、ハマスの根絶は、パレスチナ人を皆殺しにしない限り不可能だと思います。パレスチナの人達は、かならず組織の後を継いで立ち向かうだろうと思うのです。 

 イスラエルは、220万人といわれるパレスチナ人を、分離壁で三重県と同程度(福岡市よりやや広い)のガザに閉じ込め、周囲は軍が包囲しているということです。そして、いくつか検問所を設けて、人や物の出入りを制限しているため、ガザでは食料、日用品、医療品などが慢性的に欠乏し、燃料や電気、水さえも自由にならないということです。 経済や生産活動が停滞するのは当然だと思います。 ガザの人々は、半数近くが働きたくても働くところがなく、国連や支援団体からの援助物資で命をつないでいるのが現状だということです。
 そして、そうした状況を打破するために抵抗した多くのパレスチナ人を、イスラエルが殺してきたことが、今回のハマスの攻撃をもたらした側面があると思います。にもかかわらず、イスラエルは、北部のパレスチナ人に、避難所だけでなく、何もかも不足している南部に避難するよう命じ、その上で南部を爆撃し、多くの子どもを中心とする民間人を殺害しているのです。
 だから私は、そうした爆撃を正当化するイスラエルの政治家や軍人は、あまりに野蛮であり、差別的であり、残虐なテロリストと変わらないように思います。
 
 下記は、「パレスチナ合意  背景、そしてこれから」」芝生瑞和(岩波ブックレットNO.322)から抜萃しましたが、イスラエルの建国が、イギリスの二枚舌外交がきっかけであったことや、戦時中のホロコースト(ユダヤ人虐殺)に対する同情を背景にして、パレスチナに移住したシオニストたちが独立を宣言するに至ったという事実を、私は見逃すことができません。
  同書のなかには、下記の抜粋文にあるように、”パレスチナ人に恐怖状態のパニックをおこさせ、逃亡させる方針がとられ”たので、”ユダヤ人武装組織イルグンは村民254人を虐殺した。イルグン軍の指導者はのちの首相ベギンである”というような記述もあります。
 本来であれば、移住したユダヤ人が、移住先で独立を宣言することなどあってはならないことだと思います。その上、残虐行為をくり返してきたのがイスラエルです。
 だから、イギリスをはじめとする欧米諸国には、イスラエルによるガザの爆撃地上侵攻を止め、グレーテス国連事務総長の主張を支持して、パレスチナ問題を平和的解決に対する責任がある、と私は思います。イスラエルやアメリカの主張するような報復攻撃が、自衛権の行使などとして支持されてはならないと思います。 

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                   Ⅰ パレスチナ問題の起源

                 イギリスの二枚舌外交とアラブの反乱

 第一次世界大戦でオスマントルコは連合国に敗れた。それでパレスチナ地方は西欧の支配下に入った。イギリスの委任統治領となったのである。第一次大戦の頃からユダヤ人のパレスチナ移住に拍車がかかった。それはあの有名な「バルフォア宣言」によってだった。イギリス外相のバルフォアは、ユダヤ財閥のロスチャイルドにあてた書簡のなかで、「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成し、この目的の達成を容易ならしめるため最善の努力を払うであろう」と述べた。大戦でユダヤ人からの経済的な協力を得るためだったが、背後ではシオニスト組織のハイム・ワイツマン(初代イスラエル大統領になる)が暗躍していた。しかしイギリスは一方で、アラブに独立を約束していた。オスマン・トルコ支配下のアラブに反乱を起こさせて、戦争を側面援助させるためである。有名な「アラビアのロレンス」は映画にもなったし、優れた文学作品を残したので英雄視されるが、じつはこのとき反乱するアラブのなかに送り込まれた英国の情報将校、すなわちスパイだったのである。
 
 こういう西欧の「二枚舌外交」が、パレスチナ問題をつくりだした。最近、アラブやイスラム諸国で「西欧の二重基準(double standard)」という言葉が使われるが、それはここに起源がある。西欧こそがアラブやイスラム教徒の苦しみをつくりだした、と多くの人びとは考えており、そういう怒りが、イスラム原理主義などのかたちで、おりにふれ吹きだすのである。
 衝突がおこることは目に見えていた。1929年、エルサレムの嘆きの壁(ユダヤ人の信仰の場で、イスラムの信仰の中心となるアクサ寺院隣接)の前での衝突ではユダヤ人側の死者133人、アラブ側の死者116人がでた。鎮圧にあたったイギリス軍は銃口を民衆に向けた。
 イギリスはユダヤ人の移住にブレーキをかけようとした。しかし、ヒットラーによる欧州でのユダヤ人迫害が、移住者の流入をさらに増大させた。

 そして1936年には大規模なアラブの反シオニスト・反英の反乱に至る。それはパレスチナ全土に広がっていった。1939年にイギリスは、ユダヤ人移住の制限を公式表明する。しかしこの年、欧州では第二次世界大戦が勃発した。ユダヤ人の”非合法”流入はとどめを知らない。ユダヤ人の多くは危険をおかしてもパレスチナをめざした。
 ユダヤ人の移住制限をしようとする英統治政府とアラブ民族主義者に対して、シオニスト組織はテロリズムを敢行した。イルグンツヴァイ・レウミやシュテルン・ギャングという秘密地下組織は、武器をパレスチナに搬入し、暗殺計画を繰り返した。のちにイスラエルの指導者となるユダヤ人たちは、首相となったベギン(イルグンの指導者)をはじめとして、このときイギリス政府によって”テロリスト”の烙印を押されたお”尋ね者”だった。
 こうして第二次世界大戦直後、パレスチナにおけるユダヤ人口は30%にまで達していた。

  イスラエルの建国
 戦後、アウシュヴィッツなどでナチスがおこなった残虐行為が明らかになった。
 私はかつてのナチスの軍需大臣だったアルベルト・シュペアにインタビューしたことがある。もうナチスの指導者の生き残りは、終身刑で監獄にいるルドルフ・ヘス以外はいなかった。シュペアもスパンドゥの監獄から出たばかり、数年後には病死しているから、これは今考えると、私にとってはナチスを直接取材する最初で最後の、そして唯一のチャンスだった。
 インタビューの下調べで、アウシュヴィッツの様子を詳しく知るにつれ、身の毛のよだつような思いがした。だが私の前に座っている温厚な紳士は、まぎれもなくかつてナチスの指導者だったのだ。私は彼が語ることをどこまで信じていいのかわからなかった。シュペアはアウシュヴィッツの虐殺などは薄々しか知らなかったといい、また出世欲や義務感から体制にまき込まれていた過程を語った。ときまさにベトナム戦争のさなか、かれの自伝は世界的なベストセラーになった。それは体制に加担していることの是非への著者の苦悩が共感を呼んだからである。
 いずれにせよ戦後、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)の犠牲になったユダヤ人には世界的な同情がよせられた。そういう同情を背景にして、パレスチナに移住したシオニストたちは、独立宣言をおこなった。1948年のことだ。たちまちパレスチナ戦争(パレスチナ内戦とも呼ばれ、イスラエルでは独立戦争とされる。第一次中東戦争)がはじまる。エジプト、ヨルダン、シリア、イラクなどがパレスチナに進軍する。しかしそれに備えて武装怠らなかったシオニストの軍隊はそれを追い返す。そうしてイスラエルという国家は成立するのだ。

 武力によってイスラエルがこのとき時獲得した”国境”は、パレスチナ人にとってもアラブ諸国にとっても、とうてい承認しがたいものだった。国際連盟の委任統治国イギリスは1937年にピール調査団の報告にもとづきパレスチナ分割案を出していた。1947年、国連はアメリカの強力なリードのもと国連分割決議を採択した。これすらもアラブ諸国やパレスチナ人は認めていなかったが、それ以上の領土を武力によるゴリ押しでイスラエルは獲得したのである。かろうじてヨルダン西岸がアブドッラー国王との秘密協定によりトランスヨルダン(現在のヨルダン)に帰属することになり、ガザ地帯がエジプト統治下におかれた。
 パレスチナ人は独立すべき国を失った。100万人ともいわれる(1949年の国連報告では、約73万人)難民が生まれた。かれらは着のみ着のままで、いままで住んでいた家を放棄し、隣国へ避難したのである。それから半世紀にわたるパレスチナ人の苦悩と闘いがはじまる。

 虐殺と追放
 かつてはホロコーストという悲惨な目にあったユダヤ人は、パレスチナ人に苦しみを強いた。
 パレスチナ人に恐怖状態のパニックをおこさせ、逃亡させる方針がとられた。そのためには虐殺も行われた。独立宣言の一ヶ月前、エルサレム近郊のデイル・ヤシン村で、ユダヤ人武装組織イルグンは村民254人を虐殺した。イルグン軍の指導者はのちの首相ベギンである。
 パレスチナ人は武力で追いたてられた。いや、そんなことはなかった、アラブの指導者が隣国に去るように呼び掛けたから、パレスチナ人は去ったのだ、というのがイスラエル政府の公式の見解である。しかし、これが歴史の捏造であることは、今ではあまねく知られることになっている。
 ラビン・イスラエル首相とアラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長が握手したパレスチナ和平合意の直後に、かつてニューヨーク・タイムズ誌のエルサレム支局長だったデヴィッド・シプラーが同紙に書いているところによると、当時ハレル部隊の司令官だったラビンは、テルアビブ付近の(リッダ)とラムレの町から5万人のパレスチナ人をヨルダン西岸に”追放”する指揮をとった。ラムレからのパレスチナ人は、バスで連行されたが、ロッドからは酷暑の中を20キロも徒歩で強制連行された。そのなかにはのちにPLOのなかの急進派PF LP(パレスチナ解放人民戦線)の指導者となるジョルジー・ハバシュの家族も含まれていた。1979年にラビンは回顧録のなかで、それは「荒っぽい残酷行為だったが、必要だったと感じた。ロッドの敵対的で武装した(パレスチナ人の)民衆を背後に背負うわけにはいかなかったのだ」と書いた。しかし、その詳細にたちいる五文節が、当時の法務長官がひきいる検閲委員会で削除を命じられ、日の目をみなかったとそのいきさつをシプラー記者は暴露している。一方、ハバシュはあるインタビューのなかで、この時の避難民としての経験がいかにかれの人生観を変え、闘争に参加するようになったかを語っている。

 その頃、子どもだった、裕福なパレスチナの旧家の出身のレイモンダ・タウィールの話も忘れることはできない。彼女はカトリック系の学校の寄宿舎にいたのだが、家族は離ればなれになった。彼女は修道院の孤児になった。必死の思いで、父親が娘に会おうと国境をこえて戻ろうとしたところをイスラエル兵に銃撃されて負傷した。それ以後一家はイスラエル内で「二級市民」として生活しなければならなかった。ヨルダン川西岸のラマラの自宅で、この話を聞いたとき、20歳をまだこえたばかりの娘ソウハも同席していたが、彼女がその十年後にアラファトPLO議長と結婚することになろうなどとは、この時には想像もしなかった。きわめて個人的な怨みと不信が、イスラエルとパレスチナ双方の指導者のあいだにはある。
 虐殺は”建国”以後も続いた。のちの国防相となるシャロンひきいる101軍団は、ナッハリーンとアッジュール(死亡者14名、1954年)、クンティーラ(死亡者数不明、1955年)、ガザ市(38名殺害31名負傷、1955年)、ハーン・ユーニス(46名殺害、50名負傷、1955年)などの虐殺をくり返した。

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侵略か自衛か、ドンバスやハマスの戦い

2023年10月26日 | 国際・政治

 ウクライナ研究者・藤森信吉氏によると、ドンバス地域は、1721年に探鉱者カーブスチンが石炭を発見して以来、石炭産業鉄鉱関連産業の開発が進められ、帝政ロシアやソ連の工業を牽引する地域として発展してきたといいます。だから、この地域の労働者が、ロシアの革命運動をリードすることになったのだと思います。
 首都キエフを中心に展開された「オレンジ革命」や「ユーロマイダン革命」に対するドンバス住民の反感が強いのは、そうした歴史をふり返れば、当然の流れであることがわかると思います。ドンバス住民は、一貫してロシア語の公用語化関税同盟(ロシア・ベラルーシ・カザフスタン)への参加NATO加盟反対といった政策を求めてきたということです。
 それは現在も変わらず、親米的なゼレンスキー大統領が主張していることは受け入れないということであり、ドンバス地域やクリミアが、ウクライナに戻る気はないということだと思います。だから、たとえロシアを排除し、力ずくでドンバス地域やクリミアをウクライナに戻しても、ウクライナに真の平和は訪れないと思います。

 下記は、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也(明石書店)から「50 ドンバス紛争 ──★「ドンバス人民の自衛」か「ロシアの侵略」か★──」を抜萃したものです。すでに、ロシアがドンバス地域の住民に対する年金、公務員給与を負担しており、さらに、ウクライナ側がドンバス地域への天然ガス供給を停止したため、ロシアが「人道的観点」からガスプロム社に命じて供給を肩代わりしているという事実も明らかにしています。
 だから、ドンバスやクリミアが、ロシアに侵略され奪われたと断定することには問題があるのです。
ドンバス地域の人たちやクリミアの人たちには、戦争前から、ロシア帰属を求める声があり、ロシアも、ロシアに隣接するこの地域の人たちが、強引に親米政権の側に組み入れられることを受け入れられなかったのだと思います。
 そういう意味で、ドンバス紛争には、アゾフ大隊を中心とするウクライナ側の軍隊の攻撃を受けて、ドンバス地域の人たちが、反撃するようになったという側面があることを見逃してはならないと思います。ヤヌコビッチ政権が民主的に親米政権に変ったのではなかったことが、影響しているのです。

 また同じように、ハマスのイスラエル攻撃にも自衛権行使の側面があると思います。
  国連安全保障理事会は、先日、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエルの軍事衝突を受けて緊急会合を開きましたが、議長国ブラジルが提出した「戦闘の中断を求める決議案」は採択されませんでした。アメリカが拒否権を行使したからです。
 拒否権行使にあたって、アメリカのトーマスグリーンフィールド国連大使は、武力攻撃を受けた場合に自衛権を発動できるとする国連憲章第51条を根拠としました。でも、イスラエルのパレスチナ攻撃が自衛権の行使とはとても思えません。
 むしろ、分離壁で「天井のない監獄」と言われる狭い地域に閉じ込められ、日々基本的人権を否定され、生存権さえ脅かされているガザのパレスチナ人を解放しようとするハマスのイスラエル爆撃の方が、逸脱しているとはいえ、自衛権行使の側面があるように思います。
 
 報道によると、国連のグレーテス事務総長は、国連安全保障理事会の演説で、
ハマスによるテロを「正当化することはできない」と指摘しつつ、「ハマスの攻撃は、何もないところから起きたわけではないと認識することも重要だ」と言及。パレスチナの人々は「56年間、息苦しい占領下に置かれてきた」とした上で、「自分たちの苦境を政治的に解決したいという希望は消えつつある」
と述べたと言います。
 でも、イスラエルのエルダン国連大使は、グレーテス事務総長の演説に、イスラム組織ハマスによるテロ攻撃を「容認」するような発言があったと主張し、辞任を求めたと言います。さらに、イスラエルのコーヘン外相も抗議の意思を示しつつ、記者団に「(グレーテス氏は)恥を知れ」と強調したということです。
 私は、この問題に関する限り、グレーテス事務総長の演説に何の問題もないと思います。きちんと現実を踏まえた正しい主張をしているグレーテス事務総長に辞任を求め、「恥を知れ」とまでいうイスラエルの大使や外相こそ、あまりに身勝手であり、非民主的だと思います。
 私は、グレーテス事務総長の批判は、「恥を知れ」というような言葉ではなく、グレーテス事務総長の演説のどこに、どのような間違いがあるのか、を明らかにすることだと思います。それができないから、「恥を知れ」などという乱暴な言葉が出てくるのではないかと思います。
 イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相も、「ハマスを根絶やしにする」と言って、地上侵攻の準備を整えているということです。それが自衛権の行使として許されるとは思えません。
 自衛権は、国内法の正当防衛と同じように、自分の身を守るための必要最小限度の実力行使でなければならないのです。グレーテス事務総長のいうように、イスラエルが法を遵守し、国連決議を受け入れて、ガザのパレスチナ人の正当な権利を認めれば、ハマスの武力攻撃はなかったということを踏まえるべきだと思います。

 ウクライナ戦争も、イスラエル・パレスチナ戦争も、アメリカが停戦に反対し、戦争を支持する立場で関わっていますが、共通しているのは、戦争に至る経緯の無視であり不都合な事実をなかったことにして、ロシアの軍事侵攻を非難し、ハマスによるイスラエル爆撃を非難する姿勢です。
 だから、アメリカが主導すると、停戦ができず、軍事力によって決着させることになるので、問題の解決にはならないのだと思います。
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                     50 ドンバス紛争

             ──★「ドンバス人民の自衛」か「ロシアの侵略」か★──

 2017年2月の首都キエフにおけるヤヌコビッチ政権崩壊と前後し、ウクライナ各地は無政府状態に陥った。特にウクライナ東南部の州では、キエフの新政権に反対する勢力が武装化し州庁舎等の公共施設を占拠した。ヤヌコビッチの地元ドンバスでも、地域党が支配していた州議会・行政府の権威が失墜し、権力の真空を衝く形でロシアの諜報員・扇動家が直ちに浸透、これと協働した現地の自治体関係者、治安機関、準軍事組織が中心となって州を単位とした「ドネツク人民共和国」「ルハンスク(ロシア語読みでルガンスク)人民共和国」創設が宣言された。その後、ウクライナ新政権との間で武力紛争が生じ、2015年2月にミンスクで停戦が合意された。以降、両人民共和国がドンバス2州の三分の一、約1万5千平方キロメートルを実効支配し続ける状態にある。人民共和国領内住民は、公式にはウクライナ国民であるため、ウクライナ・人民共和国間境界線(停戦ライン)に設定された数ヶ所の出入りポイントを通じて合法的に往来することが可能であり、往来数は数万人/日に達している。紛争激化時には多くの住民が域外に逃れ、停戦後、国内・国外避難民数は200万人に達したが、一部は故郷に戻り始めてる。両人民共和国の統計を合計すると、住民数は計370万人(2018年初現在)となっている。

 両人民共和国はウクライナ政府及び国際社会から「侵略国ロシアの支援を受けたテロリストによる非占領地域」とみなされており、国際的な国家承認を受けていない。そのため、公式には一時的被占領地域、ATO(反テロ作戦)地域、ORDLO(ドネツクおよびルハンスク特別地区)と呼称される。ロシア政府も、両人民共和国を国家承認していないものの、ドンバス紛争を「キエフのファシスト・クーデターに対するドンバス人民の自衛行為)と定義しており、域内にロシア系住民(ロシア語話者。ロシア民族籍保有者)が多いことと相俟って、ウクライナ政府がコントロールできないロシア・人民共和国間の境界線を通じて援助を行っている。ロシアは人民共和国が軍事的に追い詰められた2015年8月に大規模な軍事援助を実施し、人民共和国の予算払底後の2014年春以降に財政援助を本格化させ、被占領地域の住民に対する年金、公務員給与を負担している。さらにウクライナ側が被占領地域への天然ガス供給を停止すると、「人道的観点から」ガスプロム社に命じて供給を肩代わりする等、人民共和国の存続に大きく関与している。ロシア政府による非公式な軍事支援は紛争の結果を招いており、国際社会による。大量生産の根拠となっている。

 情報統制やウクライナ民族主義活動家による違法な反ロ行動が黙認されているように、ドンバス紛争はウクライナ政治に暗い影を落としている。また、人民共和国側に住む数百万人のドンバス有権者が国政に参加しないことから、いわゆる「ウクライナ東西分裂」が解消され、北大西洋条約機構(NATO)欧州連合(EU)加盟政策が確立される機会をウクライナ政府に与えている。一方、人民共和国では、ロシアの影響下でソ連を彷彿とさせる政治、経済、社会体制が作り上げられており。欧州統合に向けた改革を進めるウクライナ側との間で乖離が進んでいる。

 紛争はウクライナ経済にも大きなな損失を与えている。消費者心理は悪化し、国防予算は膨らみ、ドンバスのインフラは損壊し、ウクライナ法人の資産は人民共和国側に統制され、外資はウクライナ進出を躊躇している。ウクライナ・被占領地間の通商は、2017年初頭にウクライナ側が経済封鎖を断行したことにより完全に遮断されてしまった。これにより、両者間の分業体制が崩れ、人民共和国のみならずウクライナ側でも工業生産の低下を見た。特に人民共和国内で生産される無煙炭が途絶したことにより、ウクライナ側の火力発電所は燃料不足に陥り、高コストの輸入炭への切り替えを強いられている。ウクライナ政府は、ドンバス復興費を150億ドルと見積もっているが、その一方で、被占領地域の補助金漬け産業と年金生活者を切り離す機会ともなっており、財政負担が軽減するというメリットも発生している。

 紛争開始直後、正規軍、内務省部国家親衛隊および志願兵部隊からなるウクライナ側は人民共和国側に対し軍事的優勢に立ち、武力により被占領地「解放」を目指していた。しかし、2015年8月以降、ロシアが軍事援助を本格化させると、ウクライナは、イロヴァイスク、デバーリツェヴェにおいて軍事的大敗を喫し、欧米と協力した平和的手段による主権回復を目指す政策への転換を余儀なくされた。2015年2月にウクライナ・独・仏・露四国の首脳会談で合意された「ミンスク合意」(ミンスク2)」は、ドンバス和平策として、ウクライナの政治体制の変更、すなわちウクライナ憲法を改正した上で地方分権を行ない、大幅な自治権を与えられたORDLOを含むドンバス全域のウクライナ主権が回復されることを規定している。また、これら地域への財政支出の再開もウクライナ政権に課している。

 和平交渉を主導したプーチン・ロシア大統領の意図は、人民共和国の独立を認めずに「ウクライナ連邦」内に押し込み、ウクライナの内外政、特にNATO加盟政策に影響力を及ぼそうとするものである。そのため、ウクライナだけでなく独立を果たせない人民共和国側も履行に消極的であり、欧米とロシアとが共同して紛争当事者へ影響力を行使できるかが紛争解決の鍵となっている。その意味では欧米ロシア間の関係改善がない限り、ドンバス紛争は解決されないことになる。
 ミンスク合意2以降、大きな軍事衝突が起きていないが、散発的な小規模の戦闘は続き、死傷者数が増え続いている。2018年初時点で、紛争による犠牲者は1万人を超えている。また、被占領地域の住民の困窮化や衛生状態の悪化、政治的抑圧、さらにはこの紛争が新兵器の試験や社会実験の場と化している等、人道的に看過できない状態が続いている。 

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暴力的「ユーロマイダン革命」とイスラエル・パレスチナ戦争

2023年10月23日 | 国際・政治

 「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也(明石書店)から抜粋した下記の文章を読めば、いわゆる「ユーロマイダン革命」が、ウライナ市民の抗議で、ヤヌコビッチ独裁政権が民主的な親米政権に変ったというようなバラ色の「革命」などではなかったことがわかると思います。
 例えば、反政権デモの中心地だったマイダンの広場を、他国の要人が訪れていたことに関して、“広場には12月前半、ウェスターウェレ独外相、アシュトンEU外交安全保障上級代表、ヌーランド米国務次官補が相次ぎ訪れた。反政権デモの現場を他国の外相が訪れるのは異例だ。反露的色彩が強いデモへの欧米の露骨な肩入れは、プーチンを強く刺激した。”と書かれています。 
 アメリカのジョン•マケイン上院議委員が、当時マイダン広場で、暴動を煽る演説をしたことも広く伝えられており、「肩入れ」の事実は否定しがたいと思います。
 「ユーロマイダン革命」は、アメリカを中心とする西側諸国が、ウクライナに住む人たちの民族や歴史、経済活動や生活基盤の違いなどによる政治的な立場の違いに付け入り、ヤヌコビッチ親露政権の暴力的な転覆を主導した結果であり、「尊厳の革命」などという言葉で語られるようなものではなかったことがわかると思います。
 それは、アメリカの主張したウクライナの「民主化」が、民主的な選挙で選ばれたヤヌコビッチ政権を、非民主的な方法で倒し実現されたという事実、また、ゼレンスキー政権が、ほとんどの野党の活動禁じ、事実上一党独裁体制を作り上げているという事実、また、最高会議(議会)選挙の延期決定などの事実からもわかると思います。だから、「ユーロマイダン革命」によって、ウクライナが「民主化」されたのではなく、むしろ「独裁化」されたと言ってもいいと思うのです。 

 ウクライナ戦争が始まって以来、アメリカの影響下にあると思われる学者や専門家は、プーチン大統領の個人的な性格の問題や2022年2月24日以降のロシアの諸問題ばかり語り、それ以前にウクライナで何があったのか、いわゆる「ユーロマイダン革命」といわれるものは、一体何であり、どんな革命であったのか、革命後、親米政権とクリミア東部ドンバス地域の人々の間にはどんな問題が発生し、どんな戦いがあったのか、また、ウクライナ親米政権やNATO諸国とロシアの間には、どんな問題があり、どんなやり取りがあったのか、というようなことはほとんど語りません。そうしたことに関する認識が深まると、アメリカが意図するロシアの孤立化や弱体化が難しくなるからだと思います。

 今、イスラエルとパレスチナの問題に関しても、同じようなことがあるように思います。アメリカやイスラエル側は、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配する「ハマス」の、イスラエル爆撃の残虐性や攻撃性は語っても、攻撃前にどんなことがあったのかについてはほとんど語っていないと思います。
 ウクライナ戦争と違って、西側メディアにも、イスラエル批判はあるようですが、それはガザ地区のパレスチナ人に対する同情の域を出ず、根本的な批判になっていないように思います。
 
 先だって、ハマスとイスラエルの軍事衝突を受けた国連安全保障理事会の会議で、ロシアは、ハマスが拘束する人質の解放のほか、人道支援を可能にするよう要請し、市民の安全な退避も求めて、人道危機を回避するための即時停戦を求める決議案を提出しました。
 でも、賛成が5票、反対が4票(アメリカ、イギリス、フランス、日本)、棄権が6票で採択されませんでした。
 さらに、今度は議長国ブラジルが「戦闘の中断」を求める決議案を提出しましたが、それも否決されました。ブラジル提出の決議案は15カ国中、12カ国が賛成し、採択に必要な9票を超えていたにもかかわらず、イスラエルを支持する常任理事国、米国が拒否権を行使したからでした。
 
 しばらく前、ゼレンスキー大統領は、国連で「ロシアにはウクライナ戦争に関する議論や投票に参加する権利はない。テロ国家の代表団の権限を剥奪することを求める」と訴えました。その考え方に従えば、これまでのイスラエルの違法な諸政策を放任し、パレスチナ空爆や地上侵攻さえ容認して、軍事支援をしようとするアメリカは、国連から追放されるべきだと言えるように思います。
 バイデン大統領は19日、イスラエルが報復攻撃を続けるイスラム組織ハマスと、ロシアを同種の脅威と位置付け、それを阻む軍事支援を呼びかけました。でもそれは、人道危機の回避ではなく、野蛮なイスラエル・パレスチナ戦争の呼びかけだと思います。
 イランが容認しない姿勢を見せていますが、バイデン大統領の考え方は、他を顧みない非常に危険で身勝手極まりない考え方だと思います。

 ふり返れば、イスラエルは、パレスチナの人たちから家を奪い、土地を奪い、居住や移動の自由を奪ったのみならず、パレスチナの人たちを分離壁で狭い地域に閉じ込め、水や電気や燃料を独占管理し、反抗することを許さないという人権無視を続けてきました。
 国連安保理決議242(1967年11月22日採択、抜萃)には、下記のようにあります。
安全保障理事会は,中東における重大な状況に関して継続的な関心を表明し,戦争によって領土を獲得することは承認しがたいこと,およびこの地域のいかなる国家も安全に存続できるような公正で永続する平和のために取り組む必要性を強調し,国連憲章の原則を達成するためには,中東における公正で永続する平和を確立することが必要であり,それには以下の諸原則が適用されなければならない。・・・
(a) イスラエル軍が最近の戦闘によって占領した諸領域からの撤退
(b) この地域のあらゆる国家の主権,領土の保全と政治的独立性,安全で武力による威嚇や武力行使を受けることなく安全に,かつ承認された国境内で平和に暮らす権利の尊重と承認
(c) 難民問題の正当な解決
(d) 非武装地帯の設定を含む諸手段による,この地域のあらゆる国家の領土の不可侵性と政治的独立の保障
 国連安保理は、何度も同種の決議をくり返してきましたが、その無視の結果、ハマスがガザの実効支配を続け、今回の戦争状態に発展してきたのだと思います。
 
 イスラエルのネタニヤフ首相は、先日、「兵士たちは、怪物(ハマス)を根絶やしにする準備ができている」と述べ、ガザ地区地上侵攻の準備が整ったことを明らかにしました。でも、ハマスは地域に根差した組織であり、220万といわれるガザのパレスチナ人を皆殺しにしない限り、決してハマスを根絶やしにはできないと思います。ガザのパレスチナ人は、長く人権を無視され続けている上に、親兄弟や知人・友人を殺されてきました。だから、イスラエルが法や道義・道徳を尊重する姿勢に転じ、報復をやめない限り、パレスチナの人々は、いろいろなかたちで命をかけて抵抗するだろうと想像します。アラブ諸国も黙っていないように思います。
 先ずは、「中東のアパルトヘイト」といわれるような、イスラエルの差別政策について、国連の決議や勧告に基づいた対応を求め、同時に武力による報復を停止するよう求めるべきだと思います。
 大事ことは、停戦であり、話し合いだと思います。アメリカのように差別政策を続けるイスラエルに対し軍事支援をするなど、とんでもない話だ、と私は思います。   
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                ユーロマイダン革命(尊厳の革命)  

                ──★「脱露入欧」の夢と現実★──

 ウクライナでは2014年2月、対ロシア関係を重んじるヤヌコビッチ大統領の政権が、欧州連合(EU)との緊密化を望む野党側やウクライナ民族主義者を中心とした勢力の街頭行動が激化する中で倒れ、親欧米政権が樹立された。街頭行動の拠点はキエフ都心の独立広場。ウクライナ語で広場を「マイダン」という。兄弟言語のロシア語であまり使わない。トルコや中東と共通する単語だ。マイダンは、反政府運動の呼称にもなった。”脱露入欧”を願う人々が政権打倒のため広場に集結したため、この政変はユーロマイダン革命と通称される。政変を主導した勢力は「尊厳の革命」と呼び、神聖化している。
 ソ連崩壊後、ロシアと欧州は狭間にあるウクライナを取り込もうと綱引きを続けた。ロシアは旧ソ連第二の人口を持つ隣国を旧ソ連の経済再統合構想の鍵を握ると見て重視。EUは自由貿易協定を柱とする連合協定の締結交渉を2008年に始めた。
 しかし、協定調印予定日1週間前の2013年11月21日、ウクライナ政府は、協定締結準備の停止を発表し、同国最高会議はヤヌコビッチの政敵で獄中にあるティモシェンコ前首相(野党第一党「祖国」党首)の療養を理由とした出国に道をひらく法案をヤヌコビッチの与党、地域党の棄権で否決した。ティモシェンコ釈放はEUが求めた協定締結の条件だった。ウクライナはロシアの圧力(ウクライナ産品の通関停止など)と懐柔(天然ガス値下げや財政支援などの貿易協力をよく12月に発表)を受け、ロシアを当面のパートナーに選んだ。

  多くの国民は当時、経済不振やヤヌコビッチ周辺の腐敗に不満を強めていた。そこに対EU関係緊密化の棚上げが重なり、怒った人々は独立広場に繰り出した。11月24日には参加者数万人と、同じ広場を舞台とした2004年の「オレンジ」以来の規模に。人々は「大統領は刑務所へ」などと連呼。野党第二党「ウダール」のクリチコ党首は「連合協定締結まで戦う」と声を張り上げた。
 12月1日のデモは報道によると、参加者十万人以上に。広場にはデモ隊雄が寝泊まりするテントが並び、お祭りムードも漂っていた。演説が終わると広場にロックが流れ、深夜に男女が踊る。国旗やEU旗まとう若者はビール片手に楽しげな表情を見せていた

 一方、野党第三党で反露感情が強い西部が地盤の極右・民族派「自由」は、早くからキエフに支持者を多数送り込んだ。チャフニボク党首はロシアを「占領者」、ヤヌコーヴィチや地域党を「モスクワの手先」と呼ぶ。支持者はネオナチが目立つとされる。
 反政権側は独立広場の入り口にバリケードを築いて占拠するとともに、広場に近いキエフ市庁舎や、広場に面した労働組合会館を奪い、拠点化した。市庁舎内で党旗が最も目立ったのは「自由」で、次は「祖国」。庁舎では食事が無料で振る舞われたほか、医療チームや法律相談デスク、プレスセンターも設けられた。デモ隊は暖房の効いた部屋で体を休め、長期戦に備えた。
 デモの後方支援を担当した「祖国」の古参党員は筆者に「マイダンは金がかかるが、大統領派のオルガルヒ(新興財閥)の支援もある。彼らは与野党双方に金を出す。ビジネスのためにEUとの関係強化を望んでいるからだ」と話した。
 プーチン露大統領は12月2日、デモは「外部から入念に準備された」と指摘し、欧米の関与を示唆。広場には12月前半、ウェスターウェレ独外相、アシュトンEU外交安全保障上級代表、ヌーランド米国務次官補が相次ぎ訪れた。反政権デモの現場を他国の外相が訪れるのは異例だ。反露的色彩が強いデモへの欧米の露骨な肩入れは、プーチンを強く刺激した。
 野党は2015年3月の大統領選と17年後半の最高会議選を14年春に前倒しするよう要求したが、ヤヌコヴィチは拒否を続け、政治的交渉は停滞。治安部隊は独立広場奪還の為、中途半端な形で実力行使を繰り返し、負傷者ばかりが増えていった。独立広場にはナチスとも一時協力しソ連から独立を図った「ウクライナ蜂起軍」指導者ステパン・バンデラの肖像画が登場し、民族主義が勢いを増して行く。
 2014年に入ると、独立広場には角材や火炎瓶で治安部隊に挑む者が目立って増えた。「自由」より過激な極右団体「右翼セクター」幹部はロシア紙に「平和的手段など何もならない」と述べ、暴力を正当化した。政権は1月17日、公共の場でのステージやテントの無許可設置、スピーカー使用を禁止するという、デモ封じの法律を発効させたが、反政権側を怒らせただけで、効果はなかった。

 1月22日、デモ隊2人が銃撃を受け死亡した。初の死者に反政権側は治安部隊の仕業だとして猛反発。極右はキエフや西部各州で行政施設を相次いで襲撃した。「祖国」や「ウダール」は極右への影響力が乏しく、自制を求めても暴走は止まらなかった。
 事態収拾のため、政権側は獄中のティモシェンコに代わって「祖国」を仕切るヤツェニュークに首相、クリチコに副首相職を提案したが拒否され、内閣は混乱の責任を取って同28日に総辞職。政権が初めて示した大きな譲歩は暴力に突き動かされた結果だったという現実が、極右や武闘派を勢い付けた。
 2月に入り、暴力は一層激化した。治安部隊は18日、デモ隊排除の「反テロ作戦」に着手。高圧放水業や催涙ガスに加え、装甲車を独立広場に突入させた。終日爆発音が響き、反政府側の拠点、労組会館は炎上した。デモ隊は広場の敷石を砕き、女性たちに火焔瓶を作らせて治安部隊投げ続けた。市販の打ち上げ花火の水兵発射も。一部では銃器も使われ、政権側、デモ隊双方が互いの発泡を非難した。

 筆者の取材拠点だった独立広場を見下ろすホテルにも銃弾が飛び込んできた。20日、デモ隊が攻勢に出ると、治安部隊は退却しながら発泡。ホテルのロビーには10体以上の遺体が運び込まれ、傍らで重症者がうめいていた。デモ隊の死者は最終的百人以上に。彼らは後に「天上の百人」として英雄視されることになる。なお、保健省によれば、治安部隊側も二桁の死者を出した。
 ウクライナ独立後の最悪の惨事に周辺国も驚いた。独仏ポーランドが外相を。ロシアも特使をキエフに派遣。欧露四者の仲介でヤヌコーヴィチと野党は21日、大統領選の年内前倒しや大統領権限の最高会議への委譲、10日以内の連立政権樹立、暴力停止や占拠した庁舎の明け渡しで合意した。

 しかしこの日、ヤヌコーヴィチは突然、東部ハルキフへ。22日「私は辞めない。国内に残る」とテレビで訴えた後、姿を消した。22日には治安部隊も独立広場や最高会議、大統領府などから消え、反政権側が権力機関を確保。ラヴロフ露外相は、21日の合意は事実上破綻したとの認識を示した。
 最高会議はヤヌコーヴィチの職務不履行を理由に解任。ティモシェンコは釈放され、22日夜に車椅子で独立広場に。「私は仕事に戻ってきた」と演説すると歓喜とブーイング、白けた空気が交錯した。  
 地域党議員が大量離党した最高会議は23日、ティモシェンコに近いトゥルチノフを大統領代行に任命した。トゥルチノフは親欧州路線を採ると発表。最高会議は、ヤヌコヴィチ政権下で制定されたロシア語など少数言語話者が10%以上向上住む地域でその言語を事実上の公用語にできる法律の撤廃を決め、ウクライナ民族主義的政策を進める姿勢を示した。

 27日にヤツェニュークを首相とする暫定政府が発足し、「自由」から副首相と三閣僚が入閣した。盗聴され、暴露されたヌーランドとバイアット駐ウクライナ米大使の電話内容によると、2人はクリチコを外しヤツェニュークに革命後を任すと構想を練っており、それが実現した形だ。ただ、大使は「問題はチェフニコフと彼の部下」とも発言。「自由」からの入閣は米国の影響力の限界を示した。 極右の政権入りはバンデラ賛美や反露姿勢と合わせ、「暫定政府はファシスト」「ロシア系住民迫害」と主張する余地をロシアに与えた。27日にはヤヌコヴィチのロシア亡命が発表された。ロシアは暫定政府を認めない方針を鮮明にし、3月、ロシア系住民が約6割を占めるクリミミア半島を一方的に併合した。ドンバス地方は親ロシア派勢力の支配地に。ロシアとの関係は最悪となった。
 
 デモ激化に始まる一連の動乱は「ウクライナ危機」と呼ばれる。革命は結果的に欧州東縁部の不安定化やロシアと欧米の制裁合戦、G8(主要国)からのロシア追放など国際問題の起点になった。
 2014年5月の前倒し大統領選で勝利し、正式な政権を発足させたポロシェンコは翌月、念願のEU連合協定に調印し、17年に発効。ウクライナの対EU輸出は拡大し、ビザなしでのEU入域も可能になった。しかし、民族主義的政策は国民融合を阻害し、腐敗撲滅も進まない。その上、領土を事実上を奪われた。革命の代表はあまりにも重い。

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ウクライナ親欧米政権とクリミア、東部ドンバス住民の対立

2023年10月19日 | 国際・政治


 先日(10月16日)朝日新聞国際報道部の喜田尚氏が、ウクライナ戦争に関して、「ウクライナ抗戦か停戦か」と題する長文の「記者解説」を書いていました。
 客観的情報に基づく中立的解説を装いつつ、そこここに、ウクライナのゼレンスキー政権やアメリカからもたらせられたプロパガンダ情報を散りばめ、結論として、はっきりロシアを敵視する西側諸国の歪んだとらえ方で書かれている、と私は思いました。
 先ず、解説文の前に、

「ウクライナ国民の多くは戦争が長引いてもロシアに妥協してはならないと考えている」、

「グローバルサウスと呼ばれる新興・途上国からは「即時停戦」を求める声が出ている」、
「日本を含む先進国は、欧米主導の国際秩序に対する不満を見過ごしてはならない」

 と三つの結論的な文章が掲げてありました。
 でも私は、その最初の「ウクライナ国民の多くは戦争が長引いてもロシアに妥協してはならないと考えている」と断定する根拠は何なのか、と思いました。それは、ロシアを孤立化させ、弱体化させたいアメリカの戦略に基づく考え方であり、本当に一般のウクライナの人たちの多数意見であるとは思えないのです。それは、ゼレンスキー政権やゼレンスキー政権支える一部の政治家、軍人、アメリカを中心とする西側諸国とつながりのある企業経営者や活動家の考え方だろうと思います。また、もしそれが本当にウクライナの人たちの多数意見であるとすれば、そこには、必ず巧みな情報操作の影響や、政治権力の圧力が存在するのだろうと思います。

 また、”ゼレンスキー大統領はロシアを非難し、「侵略者の手にある拒否権が国連を行き詰まりに追い込んでいる」と訴えた。” と無批判に取り上げているのですが、その取り上げ方もさることながら、敵対するプーチン大統領やロシア側の主張は、どこにも書かれておらず、比較検討したり、戦争の原因や実態を考察し、停戦を模索したりする手掛かりが掴めない、一方的なロシア敵視の内容ばかりのように思いました。

 特に、見逃せないのは、まず、
市民の抗議で親ロシア政権が倒れ、ロシアが南部クリミア半島を併合したのが2014年3月。私はその始まりからロシアの支援を受けた武装勢力とウクライナ軍が衝突し翌年2月に停戦が合意されるまで現地で取材した。”

 と書かれています。現地で長く取材したから、間違いないと言いたいのでしょうが、私は、歪んだとらえ方だと思います。ヤヌコビッチ政権が倒れたのは、市民の抗議によるものだったと断定するのは、私は、正確ではない思うのです。アメリカやNATO諸国の介入がなければ、ヤヌコビッチ政権は倒れなかったということです。国務次官補のヌーランドは「ウクライナの民主化に50億ドルを費やした」と語ったことが知られていますが、”市民の抗議で親ロシア政権が倒れ”たというのであればそれが何に費やされたのか明らかにするべきだと思います。また、反政府勢力が、市民の抗議を煽るように多数の活動家を動員し、ブルドーザーや銃器さえ使って暴力的に政権を転覆したというさまざまな情報がありますし、暴力的な抗議行動の映像が残されています(「平和的なデモ隊によるテロ行為」 https://www.kla.tv/21962)。
 だから私は、いわゆる「ユーロマイダン革命」における、最初のデモ隊側の死者2名は、もしかしたら、ウクライナを混乱に陥れるために動員された活動家によって殺害されたのかも知れないと疑たがっています。アメリカお得意の工作だったのではないかということです。

 次に、
東部にロシアからの武器が流れ込み、衝突が本格化したのは、その直後だ。1万3千人が死亡し、約150万人が家を追われた。停戦合意後もロシアは履行のための協議を長引かせた。結局は合意そのものを破棄して昨年2月に全面侵攻に踏み切った。
 という文章です。”東部にロシアからの武器が流れ込み”というのですが、その前に、アゾフ大隊などを中心とするウクライナの親米政権側の軍隊が、ウクライナの政権転覆を受け入れなかった東部ドンバス地域の爆撃をくり返したしたことを取り上げなければ、正しい事実認識はできないと思います。
 「アゾフ大隊は、ウクライナで活動する極右ネオナチグループのボランティアたちによる歩兵部隊として創設された」といわれており、かつて日本の公安調査庁も、ウクライナのアゾフ大隊を「国際テロリズム要覧」に載せていたといいます。国連人権高等弁務官事務所アムネスティ・インターナショナルその他の人権団体も、アゾフの戦闘員の人権侵害を非難したことがあるといいます。東部ドンバス地域の人たちは、そんなアゾフ大隊を中心とするウクライナ軍の攻撃に抵抗するため、武器を手に取らざるを得なかったのだと思います。そして、”1万3千人が死亡し、約150万人が家を追われた。”と書いているのですが、それが、ほとんど東部ドンバス地域の人たちであることは隠しています。だから、歪んだ取り上げ方だと思うのです。

 さらに、
ウクライナも最後まで武力だけでロシア軍の撤退を実現できるとは考えていない。今年4月。シビハ大統領副長官は英紙フィナンシャル・タイムズに軍がクリミア半島の境界線まで到達すれば、「外交交渉を始める用意がある」と語った。
 などと無批判に書いているのですが、とんでもないと思います。クリミアの多くの人たちは、一貫してロシア帰属を望んでおり、ウクライナ帰属は望んでいないことを無視しています。戦後まもないころからクリミアの人たちはロシアと一体的であり、ウクライナ独立後は、ロシア帰属を望んで活動してきたのです。
 だから、「ウクライナ、ナショナリズム 独立のジレンマ」中井和夫(東京大学出版会)から、 「第一章 ウクライナ・ナショナリズムの歴史と特質」の「三 クリミアとオデッサ──多民族性の喪失 3 ソ連解体後のクリミア問題」の一部を抜萃しました。こうしたクリミアの歴史は、プロパガンダまみれのウクライナ戦争の客観的理解に役立つのではないかと思います。 
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              第一章 ウクライナ・ナショナリズムの歴史と特質

              三 クリミアとオデッサ──多民族性の喪失

 3 ソ連解体後のクリミア問題
 ウクライナとロシアの対立
 クリミアでは、ソ連解体以前からすでにウクライナからの分離を志向する分離主義的傾向が顕著であった。1990年11月12日、クリミア州ソヴェトは1954年のクリミア半島のウクライナ移管を非難する決議をした。そして翌91年1月20日、クリミアではクリミア州をクリミア自治共和国に格上げすることの是非を問うレファレンダムが行われた。投票率80%で、賛成は93%であった。ウクライナ最高会議もこの結果を承認し、クリミアの自治共和国化を認めた。この自治共和国の創設は1944年まで存在していたタタール人のクリミア自治共和国の再建を事前に阻止するという意味ももっていた。91年7月22日採択されたクリミア自治共和国の憲法草案では、ウクライナにおける大統領制の導入に反対し、クリミアではロシア語を国家語とすると規定されていた。

 1991年ソ連が解体し、ウクライナが独立すると、ロシアとウクライナ間の対立が顕在化した。ウクライナとロシアは、旧ソ連の債務・債権問題、核兵器管理の問題、独立国家共同体(CIS)の役割の問題、ドンバスのロシア人問題などでも対立が生じたが、クリミアをめぐる対立が、実は最も重要な問題であった。ウクライナとロシアがクリミアをめぐって対立したのは、次の三つの問題においてであった。まず、黒海艦隊の分割の問題、次にクリミア半島自体の帰属の問題、そして最後にクリミア・タタール人の帰還問題である。

 黒海艦隊とクリミア半島の帰属の問題はかつての「兄弟」民族の主権国家としての争いという性格をもっているが、ロシアにとっては、この問題がロシア史の意味と帝国のプライドにかかわるがゆえに重要なのである。ロシアはウクライナを常に自らの一部とみなして来た(レーニンは1918年に、ウクライナを失うことは、我々の頭を失うことだと述べたことがある)ので、ウクライナを失うことは耐え難い苦痛であり、ウクライナの独立は「弟」による裏切りと感じられた。特にクリミア半島は歴史的に見て、ダーダネルス海峡、コンスタンティノープルへの基地であり、ロシアで唯一の「暖かい海」に囲まれた半島である。独立ウクライナが黒海艦隊とクリミア半島をロシアから奪えば、何世紀もの時間をかけてロシアがようやく手にした南への出口と温かい海岸線を失うことになり、海軍帝国としての地位をも半ばを失うことになるのである。

 こうしてロシア人がその人口の三分の二を占めるクリミア半島は「単一不可分のロシア」に奉じるロシア保守派にとって譲ることのできない領土として象徴的な存在となったのである。1992年1月、ロシア議会でウラジミール・ルーキンは、1954年のクリミア半島のウクライナへの移管の合法性について再検討するよう提案した。また、92年の4月クリミアのセバストーポリ市を訪れたロシア副大統領ルツコイは、黒海艦隊もクリミア半島もロシアのものであると明言した。クリミア共和国議会も同年5月にクリミア独立を明記した新憲法採択して、ウクライナからの独立志向を明確にした。
 1992年7月エリツィン・ロシア大統領とクラフチューク・ウクライナ大統領が会談し。黒海艦隊の帰属・分割問題を三年間棚上げすることに合意した。ウクライナ側からすれば、クリミア問題に対するロシア側の動きは現在の国境を遵守するという両国の合意に違反するものであり、ロシアの黒海艦隊とクリミア半島に対する要求はウクライナの主権を侵害するものであるということになる。
 1993年7月9日、ロシア議会はクリミアのセヴァストーポリ領有を決議した。これに対してウクライナ側は7月14日、ウクライナ議会を召集全会一致でロシア議会の決定に抗議の意を表明し、ロシア議会の決定が両国の対立を招く危険があると警告した。7月20日、ウクライナからの提訴でこの問題を審議した国連安保理は、ロシア議会の決定を違法とし、ウクライナ領土の一体性を確認した。しかし、このロシア議会の決定は、ウクライナ内部で安全保障についての不安、ロシアに対する脅威感を著しく高める結果となった。
 黒海艦隊問題については、1993年9月、両大統領によるマサンドラ会談で合意が伝えられたが、ウクライナ議会の反対により、合意は破棄され、再び継続審議となった。  

 クリミアでは1994年1月にクリミア共和国の大統領選挙が、ウクライナ政府の抗議の中で強行され、クリミア独立・親ロシアを代表するメシコフが当選した。メシコフは同年3月にクリミア独立の是非を問うクリミア国民投票を実施しようとしたため、ウクライナとの対立が深刻化した。3月の国民投票はウクライナ側の強い反発のために正式には行われなかったが、5月クリミア議会はウクライナからの事実上の分離・独立を意味する1992年憲法の復活を決定した。これによればクリミアは独立国として、ウクライナとは条約によって関係を規定するとなっている。1994年7月にウクライナの新大統領に当選したクチマは、親ロシア派とみなされ、クリミアでも圧倒的な得票を獲得したが、当選後の彼のクリミアに対する態度はクリミアのロシア人を落胆させるものだった。彼はクリミアのウクライナからの分離・独立は認められないという厳しい対応を一貫してとったのである。クチマ政権の最初の仕事はセヴァストーポリ市議会のロシア帰属決議を無効とする声明であった。1995年に入ると、クリミアのロシア人の分離主義に対してウクライナからの攻勢が強まった。3月17日、ウクライナ議会は、ウクライナからの分離・独立につながるクリミア自治共和国憲法の廃止を決定した。これはクチマ大統領の要請を受けた強硬措置であった。クチマ大統領はこの日、ウクライナ議会で「クリミア自治共和国がウクライナからの独立をめざす分離主義をとり続けている」と非難、議会に対して対応措置を取るように要請した。これを受けて議会は、94年5月にクリミア議会が採択したクリミア自治共和国憲法の廃止決定、さらに、クリミアの大統領制廃止も決定し、メシコフ・クリミア大統領の刑事訴追を検事総長に命令した。これに対してクリミア議会はエリツィン・ロシア大統領に宛て、ウクライナとの友好条約調印を延期し、クライナ側に圧力をかけるよう要請する決議を行った。また、ロシア議会の下院も3月22日、ウクライナ議会の決定が、クリミア住民の意思を侮蔑するものである、と厳しく批判する決議を採択した。ロシア下院は旧ソ連諸国在住のロシア人保護の問題に敏感に反応したのであった。しかし、ウクライナ側はクリミアの問題は内政問題であるとの態度を崩さず、クリミア議会に対して新憲法草案を準備するよう命じ、4月1日にはクリミア自治共和国政府をウクライナ内閣の直属にするとの大統領決定をクリミアに伝えた。クリミア側はこれに強く反発し、4月6日、クリミアのメシコフ大統領は「クリミアの住民だけが、自らの運命を求める権利を有している。クリミア議会は共和国住民が自由にその意志を表明する権利を保証するべきだ」と述べて、ロシアとの段階的統合に道を開く住民投票の実施を呼びかけた。4月5日と6日にはロシアとウクライナの議会で、相手国の国旗を破る事件が起こり、対立は感情的なものとなっていることを示した。

 エリツィン大統領も4月15日、クリミア問題がクリミアのロシア人住民に不利にならないように解決されない限り、ウクライナとの友好協力条約に調印しないと圧力をかけた。クリミア側はクリミアの独立是非を問う(具体的には1992年のクリミア憲法の支持を問う)住民投票を6月25日に実施することを決定した。これに対してウクライナ側はこの住民投票の中止を求め、6月1日までに中止を決定しない場合にはクリミア議会を解散させると声明した。ウクライナ側の強い警告の前にクリミア議会は5月31日、全面譲歩し住民投票の中止を決定した。
 黒海艦隊問題は1995年6月9日ソチで行われた両国大統領の会談で、一応基本的合意がなされた。それによると、黒海艦隊はロシア81.7%、ウクライナ18.3%の割合で分割し、ロシア黒海艦隊はセヴァストーポリを基地として使用する、というものであった。ゼバストーポリ自体がロシアに属するのか、ウクライナから借用するのかは曖昧なままで、紛争の種は依然残されたが、この問題では対話を続けていくことが確認された。
 ・・・以下略

クリミアの将来
 ソ連に住んでいたロシア人は、ソ連の解体によって深刻なアイデンティティ危機に陥った。ロシア人はソ連の諸民族の中の「第一等者」、「長兄」としてのアイデンティティーをソ連時代70年間育んできた。それがソ連の消滅によってもろくも瓦解したのである。おそらく最も深刻なアイデンティティ危機を経験したのは、ロシア共和国以外に住むロシア人である。彼らはソ連を支える主柱として周辺共和国に移住し、ソ連の発展を支えてきた。彼らは今やその周辺共和国内で少数民族の地位に転落したのである。彼らに残された選択肢は、今住んでいる共和国にとどまり、その共和国国民として、あるいは外国人として生きて行くか、あるいは「祖国」ロシアに帰還するか、はたまたその共和国から分離・独立(そしてロシアの併合)を志向するかのいずれかである。クリミアのロシア人は第3の道を模索しているように見える。

 1991年12月1日にウクライナの独立の是非を問う国民投票が実施された。ウクライナ全体では投票率84.2%。そのうち賛成が90.3%という圧倒的な賛成で独立が達成された。しかし、クリミアでは投票率67.5%、賛成が辛うじて過半数の54.2%、反対が42.2%にも達した。セヴァストーポリ市だけをとっても投票率63.7%、賛成57.1%。反対39.4%という結果であった。結局、クリミアでは有権者、153万5000人のうち独立賛成に投票したのは56万人に過ぎない。およそ有権者の三分の二が反対か棄権をしたのである。クリミアの人口の三分の二を占めるロシア人の大多数はウクライナの中の少数派となるよりは、クリミアを独立させ、その中で多数派となることを選択したと考えられる。

 1994年6月末に行われたウクライナ大統領選挙の結果もまたクリミアの住民の意識を特徴的に示している。この選挙でクリミアでクラフチュークに投票したのは7.4%であるのに対し、クチマに投票したのは82.7%であった。セヴァストーポリ市も同様で、クラフチューク5.6%、クチマ82.1%という、圧倒的にクチマに票が集まった。これは当時、クラフチュークがウクライナ・ナショナリスト、クチマは親ロシア派と見なされていたからである。クリミアのロシア人はクチマに投票することによって、ウクライナとロシアの再統合を期待し、再統合された大ロシアの住民となることを希望したのであった。

 クリミア半島の将来はどうなるのだろうか。クリミアのロシア人の多くが望んでいるように、ウクライナから独立して小さな半島国家となるのだろうか。あるいはウクライナの指導部が想定しているように、ウクライナの中の自治共和国、あるいは自治州という今の状態が続くのだろうか。1954年までそうだったように、また一部のロシアの民族派が主張しているように、ロシア共和国の一つの州となるだろうか。また、あるいはクリミア・タタール人が主張しているように、クリミア・タタール人の自治共和国が復活するだろうか。考えられるのは以上の四つの可能性である。いずれの主張にも論拠があると同時に、いずれも実現には困難がある。クリミアの人口は240万人に達している。クリミア・タタール人がすべてクリミア半島に来たとしても、20%に達することはない。このような少数派の名前を冠した共和国を作ることができるだろうか、疑問である。ロシア共和国がクリミア半島を併合し、その州、となることは現在の国境変更することになり、ウクライナもとより国際的にも認めがたいものであろう。クリミアが独立国家となることは今のウクライナの指導部では認められそうもない。したがって。クリミアがあくまで独立しようとすれば、「内戦」が避けられないものとなるだろう。それにクリミアはウクライナにその電力、水資源などを全面的に依存しているので、それが断ち切られた時の代替措置を考える必要がある。ウクライナ共和国の自治地方であり続けることは、クリミアのロシア人にとって忍耐できることかどうか、疑問である。
 民族の錯綜する半島クリミアで、複数の民族が自らのアイデンティティを維持しながら共存してゆくことは容易なことではない。特にこれまで民族対立と民族抑圧の歴史を経験してきたクリミア半島のような地域ではなおさら困難であろう。
「紛争の火薬庫」ともいえるクリミア半島で、民族関係を調節し、平和を維持して行く作業は至難の業であるが、この地を再び紛争で荒廃させないために、ウクライナ、クリミア、ロシアの指導部が民族関係の平和的調整のための政策的、制度的模索をする必要があるだろう。

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「ユーロマイダン革命」とクリミア、戦争の真相を…

2023年10月14日 | 国際・政治

 朝日新聞「取材考記」に、ベルリン支局長、寺西和男氏の下記のような文章が掲載されていました。
 私は、その内容にとても問題があると思いました。
 寺西氏は、単にSNSで個人的感想を発信しているのではなく、現地に行って取材し、多数の読者を持つ朝日新聞の「取材考記」の記事を書いたのですから、客観的事実に基づいた情報を読者に届ける責任があると思います。朝日新聞の読者は、購読料を支払って記事を読んでいるのです。
 私は、「情報戦を仕掛けるロシアの黒い影だ」などと、ロシアを敵視し、悪者とするような記事を書くのでのであれば、ただ聞いたことを書くだけでなく、その根拠を示す責任があると思うのです。
 スロバキアに、ウクライナ戦争に関する相反する主張があったのであれば、それぞれの主張の根拠を問い、その根拠について検証したり、考察したりする作業が必要だと思います。その作業なしに、片方を偽情報に基づく主張であると断定するような記事を「取材考記」に書いてはいけないと思います。

 
 ウクライナのいわゆる「ユーロマイダン革命」はなぜ起きたのか、また、その実態はどういうものであったのか、さらに、ウクライナの西部地域と南東部地域の間でどんな戦いがあったのかを無視して、ロシアの情報を「偽情報」と断定し、「情報戦を仕掛けるロシアの黒い影」などというのはいかがなものかと思うのです。
 それは、アメリカを中心とした西側諸国の主張なので、あまり抵抗がないのかも知れませんが、朝日新聞を含む日本のメディアは、大本営発表を鵜呑みにし、偽情報を流し続け、先の大戦で多大の犠牲者を出すに至った過去を忘れてはならないと思います。
 私は、西側諸国の人々は、都合よく演出された世界を、あたかも客観的世界であるかのように認識して、ウクライナを支援することに同意しているように思います。でも、ウクライナ戦争に関わる「偽情報」の多くは、ロシアではなく、アメリカを中心とした西側諸国の情報だと思っています。

 だから、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也(明石書店)から、「52 ユーロマイダン革命とクリミア  ──内部から見たクリミア併合の真相─」を全文抜萃しました。ウクライナ軍によってもたらされた東部ドンバス地域の悲惨な実態には触れていませんが、なかに、下記のような文章があるからです。

”2014年の初めから、クリミアの活動家・市民は、ローテーションを組んで数百人単位でキエフに行き、ヤヌコビッチ大統領を応援するし示威行動を展開していた。2月18日には本格的な武力衝突が始まり、クリミア出身の3人の警官が犠牲となった。2月20日、身の危険を感じたクリミアの活動家たちはバス8台に分乗してクリミアに帰ろうとしたが、キエフからクリミアへ向かう途上に位置するチェルカースィ州のコルスンで、銃で武装したユーロマイダン勢力にバスを止められ、数時間にわたって拷問を受けた。犠牲者の数は不明だが、死者が出たこと自体は当時のウクライナ警察も認めた。被害者によれば、ユーロマンマイダン派はクリミア人にバスの窓ガラスの破片を食べさせた。暴行の映像は、こんにち(2018年)でもユーチューブ上でいくらでも見ることができる。元々は加害者側が撮影してアップロードしたのだから、やはりまともな神経ではない。”

 こうした文章を踏まえて、寺西氏の下記の「取材考記」を読むと、根拠薄弱であることがわかると思います。スロバキアの第1党になったスメルの人たちの軍事支援に反対する主張には、それなりの根拠があり、ウクライナ戦争の実態をとらえているのであって、偽情報に踊らされているという寺西氏の指摘は、安易に過ぎると思います。

 9月初旬、スメルの集会に足を運んだ。支持者に話を聞くと、ウクライナ支援に否定的な声が多かった。精肉店主のルボール・ユエチャクさん(49)は「米国がウクライナを使ってロシアに戦争を仕掛けているからだ」と、その理由を話した。
 スロバキアのシンクタンクの調査では、今回の戦争で第一に責任があるのはロシアだとする人は40%。一方西側諸国だとする人は34%、ウクライナは17%で、後者二つ合わせるとロシアと答えた割合より多い。スロバキアは熱心なウクライナ支援国であり、信じがたい調査結果だと思っていたが、その通りの傾向を現地で実感した。
 調査した研究員のカタリーナ・クリンゴバ氏(37)は旧共産圏時代のロシアとスロバキアの歴史的なつながりに加え、ロシア側による情報操作の影響があると分析する。数年まえからスロバキアのSNSに「ウクライナにネオナチがいる」などの偽情報が目立つようになったとし、背後にロシア当局の関与があると見る
 選挙でも、一部政党が支持拡大のために偽情報を利用した。スメルのプラハ副党首はウクライナへの軍事的支援に反対する理由を説明する際、「ウクライナ東部のロシア系住民が、ウクライナのネオナチに殺されたから戦争が始まったのだ」と、プーチン政権とまったく同じ主張した。
 ポピュリズム的な「選挙戦術」であるスメルの反ウクライナ姿勢が、ロシアの情報戦の一端を担ったことは間違いないと専門家を見る。
 スロバキア外務省は選挙後、ロシア対外情報局が選挙中に流した情報に虚偽があり、民主的な選挙を阻害しかねないとして、ロシアの介入に強く抗議した。今回改めて感じたのは、ロシアとの戦いはウクライナだけで起きているのではないということだ。ウクライナを支援する各国の選挙が、今後、狙われる可能性もある。
 欧州各地で、ウクライナ支援の長期化に不満の声が出ている。「反ウクライナ」の動きに火がつかれないか心配だ。ロシアの情勢戦への対応は、待ったなしの状況だと感じる。”

 下記は、「ウクライナを知るための65章」服部倫卓・原田義也(明石書店)から「52 ユーロマイダン革命とクリミア」の全文抜萃です。
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                  52 ユーロマイダン革命とクリミア

                 ──内部から見たクリミア併合の真相──

 第51章では、クリミアがドネツク州から派遣された指導者=「マケドニア人」によって、言わば植民地化された事情について見た。クリミア土着のリーダーたちは、マケドニア人がクリミアの人々を心中では馬鹿にしていることに苛立っていた。しかし、マケドニア人が現に有能であり、2010年の大統領選挙の結果成立したヴィクトル・ヤヌコビッチ政権から多額の予算を引き出すことに長けていた為、その指導に服従していた。ところが、キエフでユーロマイダン革命が過激化するとアナトーリー・モギリョフ首相をはじめとするマケドニア人とウラジミール・コンスタンチノフ最高会議議長をはじめとするクリミア土着のリーダーたちとの対立が前面に出て来た。マケドニア人は、たとえユーロマイダン革命政権が成立しても妥協が可能だと考えた。クリミア土着のリーダーは、キエフでの暴力沙汰が続くなら、ロシアに帰属換えすることもあり得ると考えるようになった。
 コンスタンチノフは、2013年12月ごろからロシアのクレムリン指導者と盛んに接触するようになった。モギリョフ首相はクレムリンに協力することを拒否したため、2014年2月10日ごろには、クリミア土着リーダーたちはモギリョフをやめさせるしかないと決意した。しかし、ヤヌコビッチ政権がまだ存続している間は、モギリョフ解任、ロシアへの編入を目指す運動を本格化させるわけにはいかなかった。 

 2014年の初めから、クリミアの活動家・市民は、ローテーションを組んで数百人単位でキエフに行き、ヤヌコビッチ大統領を応援する示威行動を展開していた。2月18日には本格的な武力衝突が始まり、クリミア出身の3人の警官が犠牲となった。2月20日、身の危険を感じたクリミアの活動家たちはバス8台に分乗してクリミアに帰ろうとしたが、キエフからクリミアへ向かう途上に位置するチェルカースィ州のコルスンで、銃で武装したユーロマイダン勢力にバスを止められ、数時間にわたって拷問を受けた。犠牲者の数は不明だが、死者が出たこと自体は当時のウクライナ警察も認めた。被害者によれば、ユーロマンマイダン派はクリミア人にバスの窓ガラスの破片を食べさせた。暴行の映像は、こんにち(2018年)でもユーチューブ上でいくらでも見ることができる。元々は加害者側が撮影してアップロードしたのだから、やはりまともな神経ではない。

 3人の警官の死とコルスンでの集団暴行で、クリミア住民はウクライナにとどまる気をほぼ失ってしまった。2月21日深夜にヤヌコビッチ大統領がキエフから逃亡すると、ウラジミール・プーチンロシア大統領はクリミアを併合する決心をした。そのためには、住民投票を実施する政権をクリミアにうちたてなければならない。コンスタンチノフ議長は、クリミア最高会議を2月26日に召集した。コンスタンチノフらがその場でモギリョフ首相を解任して親露的な政権を立てるつもりであることは明白だったので、クリミア・タタールの政治団体メジリスが活動家を多数動員し、議会建物前で衝突となった。ここでまたスラブ系住民に死者が出たため、クリミアはパニック状態になった。26日の最高会議が流会となったが、翌日、ロシアの特殊部隊が警護する中で最高会議は成立し、それまでロシア人政党のリーダーだったセルゲイ・アクショーノフがクリミア首相となった。モギリョフだけでなく、マケドニア人のほとんどが短期間に解任されてクリミアを去った。

 このように親露政権が成立しても、住民投票の目的は「ウクライナ内におけるクリミアのオートノミーを強める」ためと説明され続けたが、約1週間後の3月6日、最高会議は投票日を3月16日(つまり10日後)に繰り上げ、質問内容をロシア編入の是非を問うものに変えた。プーチンがクリミア併合を決意したのが、ヤヌコビッチの逃亡時なので、クリミアに親露政権が成立してから住民投票の内容を変えるのに1週間かかったことの方が奇妙であるが、ロシア指導部の気が変わらないという確証をクリミア指導部が得るのに時間がかかったのだろう。実際、住民投票をやった後にロシア指導部が怖気付いて併合を拒否したりしたら、クリミアは非承認国家になってしまう。これはクリミアの指導者たちが絶対に避けたいシナリオであった。

 クリミア・タタールが住民投票に参加していれば、それなりの反対票も入っただろうが。メジリスはタタール系住民に投票ボイコットを命じたため、セヴァストーポリで95.6%。クリミア自治共和国で96.8%という高率でロシアへの編入が支持された。その2日後、3月18日にクレムリンで華々しく調印式が行われ、コンスタンチノフ、アクショーノフらがプーチンとともに編入条約に調印した。3月27日、国際連合総会は住民投票の効力を否定し、クリアは法的にはウクライナ領であり続けるとした。2017年11月、最高会議は改選され、国家会議という名の新しい共和国会議が成立した。

 ロシア編入後のクリミアの最大の課題は、主要産業である観光の振興である。そもそもソ連の解体によって、クリミアの観光業は衰退した。ソ連時代は800万人以上の観光客が毎年訪れていたのに、ウクライナ時代の末期にはそれが約600万人に減少していた。ロシアの編入によってウクライナからの観光客も激減し、2014年の観光客は約250万人であった。主にロシア人しかクリミアで保養しなくなり、しかも陸路は事実上封鎖されていたので、飛行機で行くしかなかったという状況を考えれば、この数が2016年に560万人まで回復したのは驚くべきことである。しかし、この数のなかには本当にクリミアで遊びたいからでなく、クリミアを助けなければならないという義侠心から行く人がかなり含まれていると考えられるので、ブームがいつまで続くかはわからない。ロシア人にとっては、クリミアで保養するよりも、エジプトやトルコで保養する方が安いと言われる。鉄道や自動車を使って安価で便利にクリミアで行けるように、ロシア政府はケルチ海峡に橋を架ける巨大プロジェクトに乗り出し、道路部分は2018年5月に開通した。

 第2の大きな問題は、先住民であるクリミア・タタールの処遇である。ウクライナ時代の民族団体であったメジリスの指導者は、ロシア編入後にクリミアから出てしまい、残ったタタール指導者は親露的な新団体を作った。ロシア政府は2016年にメジリスを過激団体として禁止した。これは国際司法裁判所によっても非難されている。ただ、ウクライナ時代のメジリスは非常に政治的な団体だったので、幹部が一般のクリミア・タタールの気分や願望を代表していたとは言えない。メッカ巡礼の枠がウクライナ時代の十倍近く拡大されるなど、ロシア政府はタタールを懐柔する政策を採っている。(松里公孝)

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[クリミア半島の奪還]は本気なのか?

2023年10月11日 | 国際・政治

 2023年8月24日、日本経済新聞社は、クライナのゼレンスキー大統領が、ロシアが併合した南部クリミア半島の奪還の決意を改めて強調し、他の占領地と同様、”クリミアは占領から脱する”と演説したことを伝えました。また、ゼレンスキー大統領は”領土では交渉しない”とも語ったと伝えています。

 でも、この「クリミア半島の奪還」発言には、いろいろ問題があると思います。
 先ず、クリミア半島の奪還が、ロシアの降伏なしに可能なのかという問題があります。たとえ欧米が支援を続けても、ロシアが負けることはないと言う関係者の根拠を示した主張があります。降伏しないということです。だから、ゼレンスキー大統領が、かつての日本のように、最後の一兵まで戦うという「玉砕戦」を覚悟しているように思えます。それがウクライナの総意であるとは思えません。もしかしたら、それはアメリカの戦略で、もはや拒否できなくなっているのかも知れませんが、著しい人命軽視だと思います。
 また、たとえクリミアを奪還しても、ウクライナに平和は訪れないと思います。
 それは、朝日新聞の「ウクライナ動乱」(松里公孝著)の書評で 前田健太郎氏が、下記のように紹介していることでもわかります。
重工業地帯の東部を拠点とする勢力は中央政府が東部を搾取していると対立を煽り、逆に2004年のオレンジ革命では西部のウクライナ民族主義が台頭した。・・・
 しかし、14年のユーロマイダン革命が転換点となる。革命が急進化してウクライナ民族主義が高揚すると、反対派への暴力が広がり、南東各州では緊張が高まった。南部クリミアはロシアの併合を受け入れ、東部ドンバスではロシアが分離主義者を支援して戦争になる。当初は懐疑的であった東部住民も、政府の無差別攻撃を受けて敵愾心を抱くようになっている。 
 この分析に従えば、単にウクライナが勝つだけではこの地に平和は訪れない。重要なのは、ユーロマイダン革命以後の民族主義的な動きを抑制し、多様な市民が共存できる国を作ることだ、と著者は言う。”

 私は、この指摘は重要だと思います。ウクライナは、西部地域南東部地域にそれぞれ違った歴史があり、民族的にも、また政治的立場も異なるからです。”ロシアの併合”を受け入れたクリミア半島に住む多くの人々や、ウクライナの東部ドンバス地域の人々の多くの人々は、ウクライナに戻りたいとは考えていないと思います。

 ドンバスはもともとオスマン帝国の領土だったということですが、18世紀後半、ロシア帝国が併合した時のエカテリーナ二世がポチョムキンにこの地域の開発を進めさせたと言われています。また、スターリンもこの地域の工業の発展に力を入れたということです。
 当初はウクライナのほかの地域から農民を集めて開発を進めたようですが、産業革命が進むと、石炭の宝庫であるウクライナ東部ドンバス地域は飛躍的に発展したということです。その際、石炭産業やそれに付随して盛んになった製鉄業で働いたのはウクライナ人ではなく、ロシアからの出稼ぎ労働者が中心だったようです。彼らはそのままドンバス地域に定住し、その子孫がウクライナのロシア系住民となったというわけです。(参照「民族でわかる世界史」宇山卓栄監修:宝島社)
  そうしたロシア系住民は、もともとロシア革命を進めた労働者、すなわちプロレタリアートであったことを忘れてはならないと思います。

 一方、ウクライナ西部地域を中心とする地主土地を所有する農民には、強い反ソ感情があるといいます。ソ連の工業化を目指したスターリンは、外貨を得るため、農民が食べる分の小麦まで輸出したので、「飢餓輸出」と非難されたようですが、それだけでなく、ソビエト連邦の農業集団化政策の一環で、ウクライナに多かった地主(クラーク)を冷遇し、クラーク撲滅運動を展開して、抵抗する地主を処刑したり、強制収容所に送ったりしたからです。 
 強い反ソ感情を持つ人々のなかには、1941年ソ連に侵攻したドイツ軍に協力した人たちも少なくないということです。ナチスと手を結んだ人たちがいるのです。
 また、長くは維持できなかったようですが、ウクライナが20世紀初頭、ロシア革命の混乱に乗じて独立したことも見逃すことができません。

 そういう意味で、ウクライナは西部地域と南東部地域では、民族も歴史も政治的立場もかなり異なり、ウクライナ南東部の人の多くは、ゼレンスキー大統領がいうようなウクライナ復帰やNATO加盟など望んでいないことを無視してはいけないと思います。

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アメリカの「黒を白に変える力」

2023年10月07日 | 国際・政治

 私は、ウクライナ戦争に関するいろいろな情報に接するなかで、アメリカの圧倒的な軍事力と経済力が、戦争や紛争における諸問題の「黒を白に変える力」として働いていることを確信するにいたりました。
 結論を言えば、ウクライナ戦争は、ロシアの侵略で始まったのではなく、ヤヌコビッチ政権に敵対していたウクライナの反政府勢力を、莫大な費用を費やして支援し、ヤヌコビッチ政権を転覆して親米政権に変え、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止するためにアメリカが仕組んで始めた戦争だということです。
 また、プーチン大統領を「悪魔のような独裁者」に仕立て上げ、ロシアを「恐ろしい侵略国家」とするために、「ブチャの虐殺」がアメリカとウクライナによって仕組まれたのだと思います。すでに取り上げましたが、数々の疑惑が、それを物語っていると思います。
 アメリカは、他国に対して、そういう内政干渉や軍事侵攻をくり返してきたのです。それは、アメリカの対外政策や外交政策を調べればわかります。
  
 しばらく前に取り上げましたが、報道(https://parstoday.ir/ja/news/iran) によると、イラン政府報道官・バハードリー・ジャフロミー氏が、「アメリカ は善悪を逆さに見せることにおいて先端を走っている」と語り、「アメリカが見せるやり口のうち、最も得意とする強力なもののひとつに、虚言がある。この国は、嘘を真実に、真実を嘘に見せかけるのである」というようなことを言っています。そして、「言動・行動の両方において善悪を逆さに見せることはアメリカのお家芸である」とし、「アメリカは、様々な時代において真実を実際とは間逆に見せて、直接・間接的に戦争の中心的存在となってきた」と述べたということです。言われてみれば、思い当たることがいろいろあります。
 だから、「黒を白に変える力」は、バハードリー・ジャフロミー氏の言葉を借りれば、「善悪を逆さに見せる力」ということもできると思います。
 また、後述する山崎圭一氏の言葉を借りれば、「国際的同調圧力」と言うこともできると思います。同じようなアメリカの「力」の表現だと思うのです。

 核兵器の廃絶には、原爆を投下したアメリカの責任を問うことが不可欠だと思いますが、先日、広島市の平和記念公園米ハワイ州のパールハーバー国立記念公園が6月に結んだ姉妹協定に関わって、広島市の市民局長が、原爆投下の責任をめぐる議論を「現時点では棚上げする」と議会で答弁したことが報道されました。
 この姉妹協定は、文化・観光・教育の相互交流により平和構築を推進するということで、「未来志向」が強調されているとのことですが、見逃せないのは、米国側からの働きかけで締結に至ったということです。
 本来「未来志向」というような言葉は、責任を問われている立場の人間が使うべき言葉ではないと思います。 
 でも、松井市長は「理性をもって和解し、未来志向で平和を求める象徴」だと語り、アメリカのエマニュエル駐日大使も「かつて対立の場だった両公園は和解の場となった。よりよい未来の道筋を描く人々が日米双方でますます増えていくだろう」語ったということです。
 広島市は、アメリカの働きかけを受け入れ、原爆投下の責任を棚上げして、「未来志向」で歩むことにしたということです。
 だから、広島市にとっては、原爆投下の責任を棚上げして、アメリカと手を結んだ方が都合の良いことが、いろいろあるのだろうと想像します。
 周りとの軋轢や不和を避け、目先の利益や個人の利益を優先させれば、原爆投下の責任を棚上げするほうが得策なのだろうということです。
 そうやって、少しずつ、少しずつ世界をけん引する覇権大国アメリカに引きずり込まれていくのだと思います。
 それも、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカの「黒を白に変える力」であり、姉妹協定の働きかけの結果、広島で現出するに至ったのだと思います。

 しばらく前、プーチン大統領が、「ロシアの領土的一体性が脅かされれば、あらゆる手段を使ってロシアと国民を守る。これは、はったりではない」と強調したことが、核兵器の使用を示唆したものとして、西側諸国できびしく非難されました。
 でも、日本に原爆を投下したアメリカでは、「原爆は100万人の米兵の命を救うために投下され、戦争を早期終結に導いた」ということで正当化されており、いまだに反省や謝罪はないということを忘れてはならないと思います。「未来志向」などといって、アメリカの原爆投下の責任を曖昧にしてアメリカと手を結べば、核兵器廃絶はできないと思います。

 また先日、沖縄県の玉城知事が、沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡る斉藤国土交通相の、設計変更申請を承認するよう求めた指示に抵抗し、期限内の承認はしないと発表しましたが、そうした沖縄の正当な主張も、日本政府には拒否され続けてきました。そして、民意を無視した「代執行」の手続きが進められています。さらなる不利益が、沖縄にもたらされることが心配されます。
 見逃せないのは、民意を無視して、まったく理不尽な要求をする日本政府の背後には、やはり、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカの存在があるということです。 
 「我々の望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」を主張したジョン・フォスター・ダレス(当時国務省顧問)の言葉を思い出しますが、アメリカと手を結んでいる日本政府は、どんなことがあっても、アメリカの要求を拒否することはないのだと思います。その結果、多くの沖縄県民に支持された玉城知事の取り組みが、「違法」であるとされ、「代執行」が行われつつあるのです。
 だから、沖縄でも、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカの「黒を白に変える力」が働いているのだと思います。
 アメリカの「黒を白に変える力」は、イラン政府報道官ジャフロミー氏が言ったように、時には、「虚言」によって、また、時には「事件のでっち上げ」によって、また、時には「利益誘導」によって、また、時には軍事的その他の「脅し」によって働くのだと思います。
 日本では、松本清張が「日本の黒い霧」で明らかにしたように、労働組合の急成長や共産党、社会党など革新勢力の急拡大を阻止し、日本を共産主義の防波堤、すなわち「反共の砦」にするために、アメリカのCIAが下山事件、松川事件、三鷹事件その他の事件を画策、実行し、労働組合員や共産党員の仕業する事件がありました。それらの事件によって、日本の社会は劇的に変わったということです。

 ウクライナ戦争で、停戦を働きかけることなく、ウクライナ軍を支援する立場で、いろいろな主張をする専門家といわれる人たちも、ロシアを敵視するアメリカの軍事力や経済力を背景としたさまざまなかたちの「黒を白に変える力」としての利益誘導に引きずられている、と私は思います。
 
 関連した記述が、前回取り上げた「混迷するベネズエラ 21世紀ラテンアメリカの政治・社会状況住田育法・牛島万(明石書店)にあります。
 山崎圭一氏は、同書の「第5章。民主化を拒む国際的同調圧力」のなかで、アメリカの「左派政権潰し」を「巨大なマシーン(仕組み)が起動している」と表現していました。
 そして、「マシン」の構成要素として、
米国政府、その同盟国、それに同調する多くの先進国および途上国、国連人権高等弁務官事務所、米州人権委員会、人権擁護団体(NPO)、世界的通信社、各国マスメディア(テレビ、新聞、週刊誌)などである。
 と指摘し、さらに、
特定の人物や法人が全体に君臨して、マシンを操作しているという意味ではない。
 としていました。また、
マシンの構成者が、定期協議を開催して、「左派」政権潰しの政策調整をしているわけではない。筆者の込めた意味は、指導者としての米国政府の影響力が強いが、あくまで「結果的に」各参加者の動きが同調的で、全体がマドゥロ政権潰しの一つのマシンに「見える」という状況である。望月衣塑子らの『同調圧力』という効著があるが[望月、前川、ファクラー2019]、チャベス─マドゥロ政権は悪い政府だと認識せよという国際的な「同調圧力」が生じているのである。これは弾みがついた一つの社会現象なのであって、一度動き出す止めることは難しい。こうして、世界の多くの地域でマドゥロ政権非難の大合唱が響き渡っている。
 とも指摘していました。
 アメリカの圧倒的な軍事力と経済力は、さまざまな国や地域、組織、団体で「同調圧力」として、現出しているということではないかと思います。
 その「同調圧力」が、戦争や紛争における「黒を白に変える力」であり、「善悪を逆様に見せる力」だということです。

 大事なことは、アメリカがウクライナの内政に干渉したり、軍事介入したりしなければ、ウクライナ戦争はなかったということです。オバマ政権時代に国務次官補を務めた ビクトリア・ヌーランドが、「ウクライナの民主化に50億ドルを費やした」というようなことを講演会で語ったことが知られていますが、そういう「左派」政権潰し内政干渉軍事介入が、ウクライナ戦争をもたらしたということです。
 アメリカがウクライナでやっていることは、ラテンアメリカを中心に、世界中でくり返してきたこととまったく同じだと思います。
 でも、それが、西側諸国では「悪魔のような独裁者プーチン率いる「恐ろしいロシア」による「侵略戦争」として認識され、ウクライナ軍の支援が続けられているのです。
 だから、日本の主要メディアや西側諸国で語られるウクライナ戦争は、ほとんど「虚構」であるといってもいいように思います。
 
     
 現在、日本をはじめとする西側諸国では、台湾に危険が迫っているような報道がありますが、アメリカが台湾の内政に干渉したり、軍事介入したりしなければ、台湾有事などないと思います。人口2300万ばかりの島国が、14億を超える人口の大国中国と戦争ができるわけはないのです。また、台湾が中国と戦争をしなければならないような搾取や収奪その他深刻な人権問題などもないと思います。台湾の人たちの多くも、現状維持を望んでいるといいます。にもかかわらず、アメリカは大量の高度な武器を台湾に売りつけ、中国が台湾の武力統一を企てているなどと言って、緊張をつくり出しているのです。私は、中国が台湾の「武力統一を企てているというのは、アメリカお得意の「虚言」だと思います。統一を目指しても、武力統一など考えてはいないと思います。

 

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アメリカの内政干渉や軍事介入、ベネズエラ、ブラジル、ウクライナ

2023年10月03日 | 国際・政治

 朝日新聞は、社説その他で
 ”ウクライナ戦争を引き起こしたのは、他ならぬロシアであるとの原点から目をそらせてはならない
 というような主張をくり返してきました。また、
最終的に侵略した側が得をする結果となれば、模倣する権力者が次々と現われかねない
 などと妄想と言えるようなことも書いて、停戦・和解に背を向けてきました。
 ゼレンスキー大統領の
ウクライナはウクライナのためだけに戦っているのではないという主張を、重く受け止める必要がある” 
 とも書いて、ウクライナ戦争でウクライを支援する必要性を説いてもきました。でも、こうした日本国憲法に反するような論調は、朝日新聞に限ったことではなく、主要メディアに共通のものだと思います。 
 大事なことは、これらはロシアを孤立化させ、弱体化させようとするアメリカの戦略と同じであるということです。

 日本の主要メディアが、ウクライナ戦争を取り上げる際には、決して、戦争の経緯ロシア側の主張ヤヌコビッチ政権反対派へのアメリカの支援ドンバス戦争NATO諸国の軍事演習ノルドストリーム問題などには触れない、あるいは、触れても深入りしない配慮がされてきたと思います。それは、ウクライナ戦争を主導するアメリカの意図や関わりを隠すためだ、と私は思います。 

 なぜなら、プーチンが「悪魔のような独裁者」で、ロシアが「恐ろしい侵略国」でないと、ロシアを孤立化させ、弱体化させるというアメリカの戦争目的が達成できないからです。
 上記のようなことに触れると、アメリカを中心とするNATO諸国の側の対ロ政策の矛盾や問題点が明らかになり、プーチンが「悪魔のような独裁者」で、ロシアが「恐ろしい侵略国」であるという国際的な認識が崩れて、世論の支持を失うばかりでなく、逆にアメリカ側が孤立し、弱体化する恐れもあるからだろうと思うのです。
 オリンピックからロシアの選手を排除したのみならず、あらゆる組織や団体からロシア人を排除した理由も、プーチンが「悪魔のような独裁者」で、ロシアが「恐ろしい侵略国」であるという国際的な認識を維持するためだ、と私は思っています。

 先日、島根県大田市長久町出身で、ロシア政治が専門の中村逸郎筑波大名誉教授が、大田市内でロシアのウクライナ軍事侵攻について講演したといいます。その際、戦争の発端は、プーチン大統領の個人的な死生観が引き起こしたのではないか”と推測し、”本当は肝が小さく、自分を大きく見せようとした結果だ”というようなことを語ったとの報道がありました。ロシア政治が専門の筑波大名誉教授が、ウクライナ戦争前のプーチン大統領の演説を解説したり、ヤヌコビッチ政権転覆の実態やドンバス戦争の実態に触れないで、こんなことを語ったのか、と驚きました。 
 アメリカが他国を搾取・収奪の対象とし、逆らう国に何をしてきたのか、というようなことを全く考慮せず、プーチンが「悪魔のような独裁者」で、ロシアが「恐ろしい侵略国」であるというような主張をくり返す中村教授のような専門家が、平和の回復を遠ざけているように、私は思います。
 だから、今回も「混迷するベネズエラ 21世紀ラテンアメリカの政治・社会状況」住田育法・牛島万(明石書店)の中から、山崎圭一氏のベネズエラやブラジルに対するアメリカの内政干渉や軍事介入に関わる文章を抜萃しました。なかに、
米国がオバマ(Barack Obama)政権時代から、反チャベスの政治勢力の一部を応援し、軍事行動を含む内政干渉を繰り返し、失敗してきた
 というような文章がありますが、こうした認識は、現地を知る人たちに共通していることを見逃してはならないと思います。
 下記に明らかにされているのような事実を踏まえ、ウクライナ戦争に関わる諸外国の報道やSNSで取り上げられている諸情報を確認すれば、アメリカのゼレンスキー大統領支援も、過去の事実と同じであることがわかると思います。単なる想像や陰謀論ではないのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  第5章。民主化を拒む国際的同調圧力
                                              山崎圭一
 1 はじめに
 (1)本章の目的
 ベネズエラは長く特権階級が支配する国で、1980年代半ば以降は新自由主義の政策路線に傾斜して貧富格差を拡大させた国であったが、1999年2月にウゴ・チャベス政権が発足して、格差是正と民主化が始まった。この国での「民主化」という過程は、多くの軋轢と混乱をともなった。なぜなら民主化への抵抗勢力が内外に存在するからである。チャベス政権は、社会主義をめざす意志を「ボリーバル革命」「21世紀の社会主義」といった言葉で表現した。これは政権発足の数年後に使い始めた用語であった。「社会主義」といっても、実際には、複数政党制を維持した資本主義経済の政府で、旧来の特権層(富裕層、大企業といった独占資本)は健在であったし、ニコラス・マドゥロ(Nicolas Maduro Moros)政権に代わって以後の現在も同様である。反対派の諸勢力は、労働者や先住民など社会的弱者の運動に対抗する力を駆使し、日々この左派政権を打倒しようとしてきた。政治家については、野党(「右派」を含む諸派で、現在27党)が今も自由に政権批判を繰り返している。こうした政権に対する野党の抵抗や批判は、複数政党制の国においては通常である。
 しかし通常を逸脱した異常が認められるのである。それは、米国がオバマ(Barack Obama)政権時代から、反チャベスの政治勢力の一部を応援し、軍事行動を含む内政干渉を繰り返し、失敗してきたという事実である。このために事態がより複雑化してきた。例えば2002年4月10日には、米国CIAが関与したチャベス政権に対するクーデター事件が発生したが、2日間で失敗に終わっている。2019年1月には、野党の大衆意志党(小規模政党)に所属するファン・グアイドー(Juan Gerardo Guaido Marquez)国会議長が、野党内部の合意がないまま突然暫定大統領への就任を宣言したが、これをすぐさま米国と多くの同盟国が承認した。(ただし全世界では不支持が多い)。以後グアイドー氏を支援する形で、米国は政権転覆の試みを繰り返したが、すべて失敗した。こうした状況を、本章では「左派」政権潰しの巨大なマシーン(仕組み)が起動していると理解する。これによって、ベネズエラは未曾有の経済危機に陥ったのである。
 文章の目的は、ベネズエラ危機が日本にとってどのような意味と意義を有するかを考察することである。結論を先取りしておけば、日本社会をよくするための改革にとって肯定的な意味を有すると言える。本章では<この危機の主因がなんであるか>という論点よりも、<ベネズエラが「左派」潰しのマシンの攻撃に耐え抜き、むしろ覇権国の米国を窮地に追い込みつつあることの意味を日本人として考える>という点に、重点を置いている。この考察は、日本が対米追随の姿勢からいかに脱して自主的な成長軌道に回帰するかという論点に、直接的かつ徹底的に重要である。

 (2)「マシン」の構成要素・・・略
 
 2、米国によるベネズエラ「攻撃」の経緯
(1) 未曾有の経済危機のはじまり
 ベネズエラへの米国の介入や圧力が始まる前の時代の、ベネズエラ国内の政治状況や米国との関係については、所の的確な論考に委ねるが[所 2019]、1980年代の状況を簡潔にまとめると、ルシンチ(Jaime Lusinchi)政権(1984~89年)下で新自由主義的な改革が本格化して、貧富格差が拡大し、全国的な市民の暴動が起っていた。それをペレス(Carlos Andres Perez Rodrigez)第二次政権が武力で鎮圧した。こうした中、1999年に民主主義的な選挙で、貧者を代表するウゴ・チャベス(Hugo Chavez)が当選し大統領に就任したのであった。チャベス政権は、貧者の利害を代表して富裕者の支配に挑戦する政権であったわけで、それ自体大きな枠組でみるならば、民主化促進の政権だと言える。
 経済危機が深刻化し、2015~20年の六年間でのGDPがほぼ半減する事態に至った。これはまさに経済崩壊といってよい状況で、その現象認識については異論はない。多くの否定的な報道が国際的にも日本国内でも展開したが、一例として460万人もの国民が(2019年時点、累積)、難民または移住者として国を脱出したという国連難民高等弁務官事務所の発表する数値が、引き合いに出されている。こうして「国家崩壊」の状態のように描かれている。
 この原因として、一般的には石油価格の低下と石油資源への過度の依存という経済失政が原因だと報じられている。確かに経済封鎖よりも先に石油価格の下落が始まったが、この経緯の解釈が分かれているのである。筆者は、経済封鎖は「傷口に塩をぬる」、あるいは「火に油をそそぐ」という負の効果を発揮したとみている。封鎖がなければ、ここまでの経済崩壊には至らなかったはずである。経済失政だけでGDPが半減するとは考えにくいし、類似例が思い当たらない。この米国による経済封鎖は、多くの国際ルールに違反している。そもそも、一つの国が別の国に一方的に経済封鎖を加えることは、国際的に認められていない。むろん貿易紛争において、WTOのルールの下での、違法なダンピングに対するセーフガードといった対抗的な関税措置はあるが、それは別問題である。どのようなルールに抵触するか表1にまとめた(略)。
 杉田弘毅の好著『アメリカの制裁外交』によれば[杉田 2020]、経済制裁は昔からあるが、従来の貿易による制裁の効果が少なくなり、(ものの取引は抜け道が多い)、近年は金融制裁に重点が移動して、「冤罪」も多いという。とくにトランプ政権は金融制裁を乱用していると杉田は批判する。金融制裁の一つは、米国市場でのドルの取引を禁止したり、米国内の金融資産を凍結することなどである。これがなぜ効くかというと、グローバル経済にベネズエラも参加しているので、多くの資産を米国の金融機関に預けているからである。またドル決済の商取引が多く、それは一旦米国の銀行を経由するからである。まさにベネズエラは、金融制裁の被害を受けた国の一つである(ただし杉田のこの本では考察の中心的対象ではない)。
 こうした経済・金融封鎖だけでなく、マスメディアをつかった介入もある。新しい介入の方法は、「多方面戦略」であると所康弘が紹介しているが[所 2019]、文章でもこの見方を踏襲したい。また危機の全体については、新藤道弘、河合恒生、後藤政子、所康弘、エルナーらの詳細な研究に委ねたい。[新藤 2020:河合 2019;後藤 2019:所、2019:エルナー 2019]。 

  3,排除のメカニズム
(1) 商業ジャーナリズムの加担
 広範な内政干渉について、世界のジャーナリズムが加担している。新聞やテレビ局は、近年SNSの台頭で読者や視聴者を失いつつある。広告やCMの撤退で経営基盤が脆弱化するなか(倒産する地方紙も多い)、取材の予算が削減され、海外の事件を正しく報道する機能を低下させていると考えられる。とくにベネズエラについては、常駐の特派員が配置されていないという報道機関が多いので、記者は数日の滞在でルポ的な記事を書いて、本社のディスクに送信する。先述したように、この国は野党と与党の激しい政治闘争(階級闘争)が日々展開している状況にある。普通に取材すれば、マドゥロ政権への多くの批判に記者は暴露されることになる。そのままそれを記事にすれば「マドゥロ政権=独裁」論に陥るのは、自然な成り行きといえる。商業マスメディアの多くは独占資本の一翼であり、社会主義をめざすという「左派」政権に対する偏見があるので、中立的にチャベスーマドゥロ政権の民主化を評価できないかもしれないという可能性も、私たちは考慮に入れるべきであろう。
 ジャーナリズムの真実追究機能が低下あるいは麻痺することについては、今回の例以外に数多くの前例がある。たとえば、ブッシュ政権と有志連合による2003年3月開始のイラク戦争に関する米国のマスメディアの報道は政権に対して擁護的で、また誤報を多く含んでいたが、のちに反省と釈明の記事を掲載した。周知のように、米国はCIAの情報からイラクが大量破壊兵器を保有すると判断してイラク侵攻を始めたが、のちにそれは完全な誤認であることが判明し、実際に大量破壊兵器は見つからなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、2004年5月に、政権に同情した記事を掲載し続けたことの誤りを公式に認めた。
 日本の新聞やテレビが2019~20年にかけての日本の政治経済をどう報じているか、考えてみよう。一言でいえば、分析力、批判力が低下し、政府発表を転載するだけの官報か広報誌に近い低水準にまで低落したといえよう。「モリ・カケ」問題にせよ、桜を見る会の問題にせよ、沖縄の辺野古の海での基地建設の問題にせよ、官房長官の記者会見で新聞記者が真実を引き出すような批判的質問をすることは、東京新聞の望月衣塑子(社会部)をのぞいてほぼ皆無である(むろん独立系のジャーナリストが鋭い質問をぶつけようとしても、官邸側の司会者に拒否されるという問題が別途存在する)。経済にしても、悪化の一途であるが、「緩やかな回復基調が続く」という事実というよりも、「政治的」な日本銀行の発表を新聞は転載しているだけである。このような日本の商業新聞がベネズエラを報じる際に、マドゥロ政権を独裁政権として描くわけであるが、国内の政治や経済の報道に関して機能不全状態にある新聞とテレビが、遠いベネズエラについては例外的に正しい報道を展開しているという可能性は、高いだろうか。ベネズエラ報道についても、日本国内の報道の低水準と同じく低水準だと推察するのが、合理的ではないだろうか。

 2、米国による数々の内政干渉・軍事侵攻
 ベネズエラのチャベス─マドゥロ政権の打倒には、米国が大きく関わっているが、このように米国は内政に干渉する例は、ベネズエラに始まったことではなく、夥しい例がある。米国は19世紀以来、世界中で内政干渉や軍事侵攻を繰り返してきた。この他国への介入主義(軍事侵略を含む)は、米国内ではモンロー主義の名のもとに正当化されることが多い。それは百数十年にわたって、現在に至るまで継続しているが、米国はむろんラテンアメリカ地域だけでなく、全世界で諸外国の内政に軍事的に介入している。戦後の主な介入だけでも、全世界で十数件に及ぶ。いくつか挙げると、ベトナム戦争(1965~75年)。コンゴ動乱への国連を巻き込んだ介入(1960年)、ブラジルへの介入(1964年の左派政権転覆)、グアテマラへの介入(1966~67年)、チリのアジェンデ左派政権の転覆(1973年)、グレナダ侵攻(1983年)、ニカラグアへの介入(反政府勢力であるコントラへの支援)(1981~90年)、アフガニスタンへの戦争(2001年)、イラク戦争(2003年)などである。ごく最近では、イランのソレイマニ司令官のドローンによる爆殺(2019年)がある。このように枚挙にいとまがない。
 1964年のブラジルの例をみておこう。同年にゴラール大統領の「左派」政権がクーデターで転覆し、軍事政権が始まったのであるが、近年ついに米国の介入の物的証拠が明らかになった。クーデター発生から40年後の2004年頃から、米国の国家安全保障資料館の秘密文書が公開され始めたことがきっかけである。公開資料の中に、米国による転覆工作の証拠となる機密会話の音声(肉声も含まれており、会話の当事者にはケネディ大統領とジョンソン大統領が含まれていた。こうした情報をもとに、映画『21年間続いた一日』(O Dia que Durou 21 Anos)(が制作され、多くの一般ブラジルが知るところとなった(2013年劇場公開)。
 日本も介入を受けている国の一例であることは、後述のとおりである。(第4節第2項)。
 これだけ内政干渉や軍事侵攻を全世界で繰り返す米国にとって、ベネズエラへの介入は「いつもの行為」といえよう。また米国の介入が、成功ではなく、事態の混乱を招いているだけだという点も、「いつもの通り」である。ただし今回やや事情が異なるのは、マドゥロ政権やベネズエラの国民の踏ん張りによって、政権転覆が回避されていることで、ここから日本人が学び取るべき教訓は日本の進路を考える上できめて大きい。

 (3) 「左派」政権排除の他の最新事例、──ブラジル
 ブラジルも2000年代に労働者階級の利害を代表する大統領が1960年代初頭以来、久しぶりに誕生し、民主化が進められた。南米のこの大国の場合、2016年に労働者の政権は一旦終焉しているが、過去20年間のかなりの部分は民主化の時代であった。むろん、「労働者のブラジル」も、腐敗・汚職から自由ではなかったし、保守派を含めた連合政権であったので、新自由主義という路線からも自由でなかったいくつかの限界を抱えた「左派政権」であったが、貧困者や社会的弱者の利害を政治に反映させようと努力した点は評価されるべきである。なお、新しいボルソナロ(Jair Bolsonaro)大統領については、近田亮平の論考拙稿を参照されたい[近田2019、山崎2019、山崎2020]。
 2015年と16年に未曽有の経済危機をむかえ(二年連続マイナス成長)、16年にジルマ・ルセフ(Dilma Rousseff)大統領の弾劾裁判が成立した。「左派」大統領の「不正・腐敗」が市民に糾弾された形であったが、実態としては、ルセフ氏の汚職は証明されていないし、労働者党(PT:Partido de Trabalhadores)糾弾の先鋒にいたセルジオ・モロ(Sergio Moro)判事は、裁判官としての公平さを投げ捨てて、ルセフ政権打倒に動いていたことが、その後判明している。当時『VEJA』誌といった総合雑誌では、「モロVSルーラ」という見出しが踊っていて、筆者自身気に留めずに読み流していたが、今振り返ると、VSの片方ほうが検事でなく判事というのは、異常事態であった。なおルーラ(Luiz Inacio Lula Silva)とは2003年に始まった労働者党政権の最初の大統領で、ルセフ(Dilma Rousseff)はその後継者である。
 モロ判事は起訴ありきの訴訟指揮をしていた事実がその後明らかになった。すなわち同判事と検察の電話会話が2019年に発表されたのである。発表は、オルタナティブなマスメディアIntercept(
インターセプト)と『VEJA』誌の共同調査・取材によるものであった。判事はボルソナロ大統領によって、2019年1月の政権発足時に法務大臣に任命された。あたかも「報償」人事にもみえたが、その後大統領との見解の相違が生じて2020年4月にモロ氏は法務大臣を辞任した。2016~19年にかけての政治の激変は、「市民vs腐敗政権」というよりも、司法を巻き込んだ右派からの強力な左派政権潰しであったといえる。
 これに米国の力はどう関与したであろうか。少し前にもどると、2013年頃からブラジルでは政権批判の抗議運動がふえ、一部が暴徒化していたが、当時これはきわめて珍しい現象であった。それ以前は20年間以上ブラジルでは過激な運動がなかったので、突発的であった。ブラジルの労働組合は、ストライキが多いが、組織率は徐々に低下している。未組織の労働者も多い。大学生は静かになってきて、革命思想でなく、中には日本のアニメやコスプレに関心を寄せている人も多い。そういう中で内外のブラジル研究者で予期した人は皆無か、少なかったと思われるが、13年6月ごろから激しい抗議運動が急に始まった。きっかけは前年、2012年のリオデジャネイロ市での、バス料金の僅かな値上げであった。それは13年FIFAコンフェデレーションズカップ開催、14年サッカーワールドカップ(世界選手権)開催。16年オリンピック開催への抗議と重なりあいながら、全国展開していった。ブラジルの中には、こうした「市民運動」の展開に米国による関与があると疑う向きがある。とくに労働者政権の腐敗を追及しようとしていたモロ判事と米国のつながりが、報じられ始めている。すなわち、ラバ・ジャト事件(数千億円以上規模の巨額汚職事)の捜査について、FBIの研修に参加し、組織犯罪との戦いのための条約に署名したという事実である。報道の一例は、『VEJA』誌の2019年3月18日の記事である[VEJA 2019年3月18日]。今回の労働者政権の下野と米国の関わりについては、「時間」に期待することにしたい。 

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