真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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北方領土問題 千島列島の範囲とSCAPIN第677号

2013年02月24日 | 国際・政治
 日本の領土問題は、北方領土問題のみらず竹島の問題でも、連合国軍最高司令官(SCAP)から日本政府宛てに出された訓令-SCAPIN (SupremeCommand for Allied Powers Instruction Note、スキャッピン)-の内容に関わって論じられることが多いようである。
 大戦直後、行政権の行使に関する範囲に言及したSCAPIN第677号(下記)において、竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島が除かれているため、戦後竹島を占拠する韓国と、北方四島(択捉島・国後島・歯舞群島・色丹島)を占拠するロシアが、この文書を自国の領有根拠の一つとしているからであろう。このSCAPIN第677号が、領土を決定する文書ではない、という日米関係者の主張は正しいであろうが、様々な問題を孕んでいるといえる。

 千島列島の範囲の問題を意識してこの文書を読むと、外務省の「日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」という主張は、ひっかかる。
 外務省のいう通りなら、下記,、SCAPIN第677号の(c)「千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島」という表現は、どのように受け止めるべきか。歯舞群島と色丹島は、千島列島に含まれていないから、「千島列島」に続けて、「歯舞群島」と「色丹島」をわざわざ並べて記しているのではないのか。したがって、国後や択捉は、千島列島に含めてとらえていたと考えるべきではないのか。

 もし、国後や択捉が千島列島に含まれないというのであれば、このSCAPIN第677号では、国後と択捉はどういうことになるのか。歯舞群島と色丹島は日本の地域から除かれるが、国後と択捉は飛び地のように日本の地域として残された、というのか。そうした記述が全くないのに、そのように解釈できるとは思えない。

 北方領土の返還を、北方四島が千島列島に含まれていないという理由づけで主張することは、問題を複雑にし混乱させるだけであると思う。返還を求める根拠は、北方領土が、カイロ宣言でいうところの「暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域」には入らないからであり、日本固有の領土だからだ。したがって、領土不拡大の精神に反するヤルタ協定が問題なのだと思う。

 「北方領土を考える」和田春樹著(岩波書店)によると、日本がポツダム宣言受諾を通告した翌日、1945年8月15日、アメリカのトルーマン大統領は、日本軍の降伏に関する指示、「一般命令第1号」の案をソ連のスターリンに送った。その案では、ソ連軍に対して日本軍が降伏すべき地域として、「満州、北緯38度以北の朝鮮、サハリン」が挙げられていて、千島列島は含められていなかった。そこで、スターリンはすぐトルーマンに返書を送り、「日本軍がソ連軍に明け渡す区域に、クリミアでの三大国の決定によってソ連邦の領有に移されるべき全千島列島」を含める事を要求するとともに、北海道の北部(北海道東岸の釧路から西岸の留萌に至る一線で2分し両市を含む北側)をソ連軍の占領地域に入れるようにとの提案も行った。そこで、トルーマンは北海道の分割占領を拒絶し、千島列島に対するソ連の要求はのむことに合意する回答をしたというのである。その後(8月22日)、スターリンはトルーマンに手紙を送り、北海道北部占領が拒否されたのは「意外だ」としながら、千島に「恒常的な空軍基地」をもちたいという米国の要求は拒否すると述べたという。したがって、外務省の主張は、当時の米ソの認識とは明らかに異なるものである。

 ヤルタ協定やSCAPIN第677号に関わる米ソのやり取りを踏まえて、下記「日ソ交渉に対する米国覚書」を読むと、冷戦が深刻化するのにともなって、アメリカの主張が変化したと言わざるを得ない。サンフランシスコ講和条約でも、アメリカは日本に、南樺太とともに千島列島を範囲を明確にすることなく放棄させた。それは、領土不拡大の宣言に反するヤルタ協定があったからであろう。

 しかしながら、この米国覚書が発せられた頃には、米ソの対立は深刻化しつつあり、アメリカは日本の「西側」確保のため、日ソ交渉に介入した。いわゆる「ダレスの脅し」として知られているが、二島返還によって日ソ平和条約を締結しようとした日本に、二島返還で日ソ平和条約を締結するならば、「沖縄返還はあり得ない」、と「脅し」、四島返還の方針に転換させたのである。以後、外務省は「北方四島
は千島列島の中に含まれません」
と主張することになったのであろう。
 
 したがって、覚書の中で、「領土問題に関しては、さきに日本政府に通報したとおり、米国はいわゆるヤルタ協定なるものは単にその当事国の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め、その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでもなく、また領土移転のいかなる法律的効果も持つものでもないと認めるものである」などと、言い逃れともいえる主張をするアメリカに追随することな
く、日本は、ヤルタ協定そのものの問題を指摘し、太平洋憲章やカイロ宣言の領土不拡大の精神に基づいた対応を米ソに求めるべきだと考える。ヤルタ協定が単なる「当事国首脳者の共通の目標」であったかどうかが問題ではなく、領土不拡大の精神に反するヤルタ協定によって、現実にロシアが対日戦に参戦し、北方領土の不法占拠が始まったことが問題なのである。

 ロシアの北方領土不法占拠は、アメリカの戦略によってもたらされたと言っても過言ではない現実を踏まえて、領土不拡大の精神に基づいた対処を米ソに促しつつ、日本だけではなく、東アジア全体の非軍事化の方向で問題解決を目指すべきだと思うのである。

 下記の「若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」「日ソ交渉に対する米国覚書」「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)から抜粋した。
資料1------------------------------
若干の外廓地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書
                                  (1946年1月29日)

1 日本国外の総ての地域に対し、又その地域にある政府役人、雇用員その他総
  ての者に対して、政治上又は行政上の権力を行使すること、及、行使しようと企
  てることは総て停止するよう日本帝国政府に指令する

3 この指令の目的から日本という場合は次の定義による。日本の範囲に含まれ
  る地域として、日本の4主要島嶼(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北
  緯30度以北の琉球(南西)諸島(ロ之島を除く)含む約1千の隣接小島嶼
  日本から除かれる地域として  
(a)うつ陵島、竹島、済州島 
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆南方、小笠原、硫黄
  群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島、を含むその他の外郭太平
  洋全諸島
(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島

4 更に、日本帝国政府の政治上行政上の管轄権から特に除外せられる地域は
  次の通りである。
(a)1914年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領
   した全太平洋諸島 
(b)満州、台湾、澎湖列島 
(c)朝鮮及び  
(d)樺太


5 この指令にある日本の定義は、特に指定する場合以外、今後当司令部から発
  せられるすべての指令、覚書又は命令に適用せられる。

6、この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決
  定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。


資料2-------------------------------

日ソ交渉に対する米国覚書

 米国覚書 最近ロンドンにおけるダレス国務長官との会談に際し、重光外相からなされた要請に応じて、国務省は今回の日ソ平和条約交渉に提起された諸問題につき、とくにサンフランシスコ平和条約の署名国としての米国の利害関係に照らして、検討を行った国務省は、この検討に基づいて、次のとおり意見を開陳するものである。

 米国政府は、日ソ間の戦争状態は正式に終了せしめられるべきものであると信ずる。元来この戦争状態は、ソ連邦がサンフランシスコ平和条約の署名を拒否した1951年当時から、つとに終了せしめられていなければならなかったものである。日本はまた日本が加盟の資格を完全に有する国際連合に、久しい以前から加盟することを認められていなければならなかった。さらにまた、ソ連邦の手中にある日本人捕虜は、条約条項に従って久しい以前に送還されていなければならなかったのである。

 領土問題に関しては、さきに日本政府に通報したとおり、米国はいわゆるヤルタ協定なるものは単にその当事国の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め、その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでもなく、また領土移転のいかなる法律的効果も持つものでもないと認めるものである。

 サンフランシスコ平和条約ーこの条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないがーは、日本によって放棄された領土の主権帰属を決定しておらず、この問題は、サンフランシスコ会議で米国代表が述べたとおり、同条約とは別個の国際的解決手段付せられるべきものとして残されている。いずれにしても日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引渡す権利は持ってはいないのである。このような性質のいかなる行為がなされたとしてもそれは、米国の見解によれば、サンフランシスコ条約の署名国を拘束しうるものではなく、また同条約署名国は、かかる行為に対しては、おそらく同条約によって与えられた一切の権利を留保するものと推測される。

 米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞諸島および色丹島とともに)常に日本の領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、このことにソ連邦が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。(1956年9月7日ワシントン国務省)


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北方領土問題 外務省見解に対する疑問と関係文書

2013年02月13日 | 国際・政治
  外務省のホームページで論じられている北方領土問題に関する記述(下記、資料1)には、いくつかの疑問がある。
 まず、大戦末期にソ連の対日参戦を求めたルーズベルトが、『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』とする「ヤルタ協定」 に合意したことが、北方領土問題のはじまりであったにもかかわらず、そのヤルタ協定に全く触れていないのはなぜか。

 また、「歴史的経緯」の項目を設けながら、サンフランシスコ講和条約締結後、日ソ平和条約に向けた日本の動きに介入して、『もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカ領土にする』として、ソ連の2島返還を受け入れさせなかったいわゆる「ダレスの脅し」などにも触れていないが、触れるべきではないか。

 さらに、日ソ中立条約を破棄して対日参戦を求めたのはアメリカであるにもかかわらず、そのことについても全く論じることなく、ソ連のみを非難し、米ソの駆け引きの中で発生した北方領土問題を、あたかもソ連の単独行為のように主張するのは、なぜか。

 ポツダム宣言の第8項には、『「カイロ」宣言ノ条項ハ施行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ』とある。また、サンフランシスコ講和条約第2章第2条(領土権の放棄)(c)には、「日本国は、千島列島並びに日本国が1095年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する権利、権原及び請求権を放棄する」とある。サンフランシスコ講和条約を主導したアメリカは、ソ連が不法占領したという北方四島を含む千島列島を、なぜ日本に放棄させるようにしたのか。

 また、下記1945年9月2日の一般命令第一号(資料2)の(ロ)で、『満州、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東最高司令官ニ降伏スベシ』したのは、なぜか。なぜ、択捉や国後は別であることを明記しなかったのか。ヤルタ協定で千島全島をソ連に引き渡したからではなかったのか。

 ソ連が対日参戦する前に、日本がドイツの対ソ戦を援助し、さらにソ連の同盟国である米英と交戦中なので、日ソ中立条約の意義が失われているとする「日ソ中立条約破棄に関する覚書(1945年4月5日)」(資料3)を日本側に手渡していた。にもかかわらず、それを無視して、「当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は…」というような言い方で、一方的に非難することができるのか。条約が有効であたとしても、日本側の対応にも問題があったのではないか。

 千島列島の範囲についての記述にも疑問がある。「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。」とあるが、サンフランシスコ講和条約締結の2ヶ月後、条約批准のための平和条約及び日米安全保障条約特別委員会で、西村熊雄条約局長は「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むものと考えております。しかし、北千島と南千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説で明らかにされたとおりでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会で総理からご答弁があったとおりであります。
 なお歯舞と色丹が、千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました。
…」と発言しているのである。
 まちがいなく、講和条約締結前後の時期には、日米ともに、国後・択捉を南千島として、千島列島に含めてとらえていた。

 アメリカ国務相の「千島に関するブレークスリーメモ(極秘文書)」(資料4)にも、「千島列島は南部、中部、北部の3群に分けることができる。南部群は北海道から北上して約235マイルにわたって展開し、択捉島を含み千島列島総人口の90%を擁し、1800年頃以来明白に日本領だった。…」とある。この文書は、米国が、対日戦終結前から戦勝後の日本の処理を検討するために、「戦後外交政策諮問委員会」を結成し、その委員会で検討するために、1942年8月の時点で、国務省内に東アジア班をつくり、研究させていたものであり、同班主任で日本通のブレークスリー教授がまとめたものであるという。このメモが、どの程度関係者に共有されていたか分からないが、当時のアメリカの認識では、千島列島は(歯舞・色丹を除き)、明らかに北海道から国後・択捉を含むカムチャッカ半島に連なる島々であった。それを、日本も受け入れていたのである。にもかかわらず、米ソ冷戦の激化による政策の転換によって言説を変えたアメリカに追随し、「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。」と、かつての政府見解(西村熊雄条約局長発言)を変えた。その事実は、どのように考えればよいのか。

 以上のような点で、私は、北方領土問題に関する外務省見解は、問題があると思う。
 アメリカの世界戦略にしたがい、ソ連を屈伏させる方向で北方領土の返還を求めるのではなく、軍事的緊張を緩和・解消する形で、すなわち、大西洋憲章やカイロ宣言の領土不拡大の精神や日本国憲法の精神に基づいて、米ソに東アジアの非軍事化を求める方向で、返還運動を進めるべきでははないか、と思う。日本のあちこちに米軍基地があり、北海道で自衛隊と米軍の共同訓練が繰り返し行われている状況では、北方領土は返ってこないのではないかと思うのである。軍事的緊張を緩和・解消しつつ、経済的交流を深めれば、本来の国境線に戻すことは、そう難しいことではないと思う。

資料1(外務省のページより)---------------------

北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)

 北方領土問題が発生するまでの歴史的経緯、概要は次のとおりです。

1.第2次世界大戦までの時期
(1)日魯通好条約(1855年)
 日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロ
シア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、
当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。

(2)樺太千島交換条約(1875年)
 日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシ
 ュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるか
 わりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。

(3)ポーツマス条約(1905年)
 日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北
 緯50度以南の部分を譲り受けました。

2.第二次世界大戦と領土問題の発生
(1)大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則
 1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。
 また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から、日本は追い出されなければならないと宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明白です。

(2)ポツダム宣言(1945年8月受諾)
 ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。

(注)日ソ中立条約(1941年4月)

 同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規
定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。

(3)サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
 日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。


資料2-------------------------------

一般命令第1号(陸・海軍)
                          1945年=昭和20年9月2日)
一  帝国大本営ハ茲ニ勅命ニ依リ且勅命ニ基ク一切ノ日本国軍隊ノ連合国最高
  司令官ニ対スル降伏ノ結果トシテ日本国国内及国外ニ在ル一切ノ指揮官ニ対
  シ其ノ指揮下ニ在ル日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル軍隊ヲシテ敵対行為
  ヲ直ニ終止シ其ノ武器ヲ措キ現位置ニ留リ且左ニ指示セラレ又ハ連合国最高
  司令官ニ依リ追テ指示セラルルコトアルベキ合衆国、中華民国、連合王国及「
  ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ名ニ於テ行動スル各指揮官ニ対シ無條件
  降伏ヲ為サシムベキコトヲ命ズ指示セラレタル指揮官又ハ其ノ指名シタル代表
  者ニ対シテハ即刻連絡スベキモノトス但シ細目ニ関シテハ連合国最高司令官
  ニ依リ変更ノ行ハルルコトアルベク右指揮官ノ命令ハ完全ニ且即時実行セラ
  ルベキモノトス
(イ)  支那(満洲ヲ除ク)、台湾及北緯16度以北ノ仏領印度支那ニ在ル日本国先
  任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ蒋介石総帥ニ降伏スベシ (ロ)  満洲、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国先任指揮官
  竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東軍最高司令官ニ
  降伏スベシ
(ハ)略
(ニ)  「ボルネオ」、英領「ニユー・ギニア」、「ビスマルク」諸島及ビ「ソロモン」諸島
  ニ在ル日本国先任指揮官竝ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ濠州陸
  軍最高司令官ニ降伏スベシ
(ホ)日本国委任統治諸島、小笠原諸島及他ノ太平洋諸島ニ在ル日本国ノ先任指
  揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ合衆国太平洋艦隊最高司令
  官ニ降伏スヘシ
(ヘ)日本国大本営並ニ日本国本土、之ニ隣接スル諸小島、北緯38度以南ノ朝鮮
  、琉球諸島及「フィリピン」諸島ニ在ル先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空
  及補助部隊ハ合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官ニ降伏スヘシ


 ・・・(以下略) 

資料3------------------------------

 日ソ中立条約破棄にかんする覚書
                          昭和20年4月5日ソ連邦外務部
                          モロトフ委員ヨリ佐藤大使ニ手交

「日」ソ中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル1941年4月13日調印セラレタルモノカ爾来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ且「ソ」連ノ同盟国タル米英ト交戦中ナリ斯ル状態ニ於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ依テ同条約第3条ノ規定ニ基キ「ソ」連政府ハ茲ニ日「ソ」中立条約ハ明年4月期限満了後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ


資料4------------------------------

 千島に関するブレークスリー極秘文書
                        1944年12月6日アメリカ国務省
                        1972年6月20日同省が公表
1944年12月28日付、領土調査課の覚書。国務省及び地域委員会第302号。秘。(極東委員会文書)
  日本=領土問題=千島列島
 1 主題 千島列島の将来の処理
 2 基本的要因
 千島列島は、日本、ソヴィエト、アメリカにとって戦略的重要性を持つ。また日本にとっては相当な経済的価値を持っている。
 A 概観
 千島列島は日本の主要島嶼の最北端北海道から北東に向かい、ソヴィエトのカムチャッカに至る約600マイルにわたって点在し住民を有する47の火山島の連鎖を形作っている。全域はおよそ3,944平方マイルである。定住人口は17,550人(1940年)で、全部日本人であり、夏季は漁業に従事する季節労働者2万乃至3万人が増加する。日本は1800年頃から南部千島列島を所有していた。カムチャッカから北部諸島に進出しつつあったロシアは1855年、これら南部諸島の日本所有を承認した。1875年ロシアは日本が南部樺太から撤退する代りに、全千島から撤退した。千島列島は日本本土の一部に考えられ、行政区としては北海道庁のもとにおかれている。

・・・

 千島列島は、南部、中部、北部の三群に分けることができる。南部群は北海道から北上して約235マイルにわたって展開し、択捉島を含み、千島列島総人口の約90%を擁し、1800年頃以来明白に日本領土だった。この群の最も近接した地点は北海道から僅か12マイル程度である。住民は日本人であり、その生活は日本本土諸島のそれと同じである。これらの島の戦略的価値は1年のうち約半分、オホーツク海から千島列島の西方にわたる海域が大部分氷に満たされ、航行はほとんど不可能な事実によって制限されている。

 中央群は得撫島から北方約375マイルにわたって展開し、大部分は人口稀薄で、経済的価値はほとんどない。しかし戦略的には重要である。これらの島はオホーツク海の入り口に横たわっており、新知島は、長さ31マイル、幅5マイルをもち、ブロトン湾を抱き、これは開発すれば重要な基地とし得、艦隊の投錨も可能となる。海軍作戦本部が1945年11月(?)発行した「千島列島便覧」は、この湾について、湾口が改善されればブロトン湾は素晴らしい湾になると述べている。陸軍省諜報部が発行した「千島列島調査報告」には、「この湾は千島列島作戦にあたり、決定的原因の一つとなろう」と述べてある。湾口は6フィートの水深しかないが、これは明らかに浚渫して深くすることができる。入口をいかなる船舶にでも通過できるようにする工事は決して不可能ではない。湾一帯の地域は要塞化されていない。中央群に属する諸島は南方群に至る踏石を形成しているので、その意味での戦略的価値を持っている。

 北方群は幌筵島、占守、阿頼度の3つの主要な島からなり、漁業としても、空海軍基地としても重要である。北方及びその周辺の漁業及びその他の水産の価値は、1938年全千島列島の生産900万ドルのうち700万ドルを占めていた。地理的にはこの群はカムチャッカの継続であり、カムチャッカからへだてる海峡は僅か7マイルの幅しかない。

 千島列島の処理を決定するに当たっての重要な要因のうちには、①列島中のあるものに、一個乃至数個の基地を設けるべきであるとするアメリカ海軍の希望、②対日戦に参加、あるいは不参加の決意をするに当たって、北部群と中央群、あるいは全千島列島の獲得を要求することもあり得るソヴィエト政府の圧力、③戦争の結果として日本帝国から分離される全島嶼に、国際管理の原則を適用することが望ましいことなどがある


 ・・・(以下略)
----------------------------------
資料の3と4は、「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。


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