真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

花岡鉱山「耿諄」大隊長の蜂起や麻生炭砿キン玉事件の証言より

2007年10月26日 | 国際・政治

 最近、戦争の史実から目を背けるだけでなく、むしろ過去の戦争を美化
しようとする動きが気になり、様々な証言を読みあさっています。証言の
中には、単なる思い違いや年月の経過による混乱、精神的な打撃がもとに
なった誇張、憎しみに基づく嘘などが含まれているかも知れません。だか
ら、できるだけ多くの証言にあたり、その時の社会状況や精神状況を踏ま
えて、総合的に理解していかなければならないと思っています。戦争の実
相を知るために必要と思われることを、体験談や証言集等をもとに私なり
に簡単にまとめ、必要に応じて掲示板などに投稿していきたいと思います。

 先ず、戦争中いろいろ問題があったという炭鉱における証言にあたりま
した。

---------------------------------
「消された朝鮮人強制連行の記録-関釜連絡船と火床の坑夫たち」
                           林えいだい著
---------------------------------

 この記録は、様々な立場の人達の証言を集めており、全体像をかなり正
確につかむことができました。例えば、麻生炭鉱(前外務大臣麻生太郎氏
の親族が経営)におけるキン玉事件や労働争議に至る経過を、炭砿労働者
はもちろん、炭砿労働者を指揮した労務係、寮長、駐在所請願巡査、特高、
死者が出たときに関わった寺の住職、関連組合の役員、その他住民の証言
で、ほぼ矛盾なくその全体像をつかむことができたのです。炭砿労働者、
特に朝鮮人労働者に対しての人権無視の状況がよく分かりました。

---------------------------------
 「花岡事件を見た二十人の証言」野添憲治著
---------------------------------

 この証言集は鉱山労働力が不足した第二次世界大戦末期に、タコ部屋労
働や中国人の徴用による強制労働が行われていた鹿島組の花岡鉱山で、過
酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日大隊長 耿諄 を中心に蜂起する
に至る過程を矛盾なく明らかにしています。ここでも、炭鉱労働者、特に
中国人労働者に対する著しい人権侵害があった事実が確認できました。ま
た、自分たちにやさしく接してくれた関係者は巻き込むまいとして蜂起の
日を変更するという極めて人間的な対応をしていることも分かりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集団自決「強制」削除検定は撤回を-2

2007年10月04日 | 国際政治

 Yahoo!掲示板の「この事件、事故に”ひとこと 言いたい!”」で「沖縄の集団自決の遺族は年金詐欺だ」と繰り返している人達がいるので、さらに追加します。
 梅澤少佐や赤松大尉の名誉を回復するため「命令しなかった」ということを強調する気持ちは分かります。でも、それを理由にあの沖縄戦で「軍命」がなかったとすることはできないでしょう。
 沖縄守備軍司令官・牛島満中将の最後の命令は「最後の一兵まで戦え」です。投降は許していないのです。投降しようとする者が射殺されるところを目撃している人達がいるのです。また、日本軍は沖縄住民のスパイ活動を極端に警戒して方言の使用禁止を命じ、疑わしい住民をスパイ容疑で射殺しています。
 当時の沖縄戦の日本軍にとっては、捕虜になることはスパイになることと同じだったと言えるのではないでしょうか。「生きのびろ」とは言っても、決して「投降してもよい」とは言えない状況だったと思われます。「いよいよ逃げ切れなくなったときは、潔く自決しろ」というのが軍の方針であり、「軍命」でしょう。だから手榴弾や青酸カリが必要だったのです。
 宮城晴美さんの「隊長は部隊の最高責任者。隊長が『投降しなさい』と言っていれば集団自決は止められた」という言葉をかみしめるべきだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集団自決「強制」削除検定は撤回を

2007年10月04日 | 国際政治

 集団自決「強制」削除検定は、日本の将来を考えると見過ごすことができないと考えます。インターネットの掲示板でのやり取りがあまりにもひどい状況なので、再度投降することにしました。
 確かに、「自決はまだ早い」という意味で思い止まらせたり、今に友軍が必ず来ると信じて、「生き延びろ」と言った日本兵がいたことは、住民の証言から事実であったと思われます。でも、「軍命」があったのかなかったのかで大事なことは、いよいよ米軍が迫ってきたときに「投降すること」を軍が認めていたのかどうかだと私は思います。
 沖縄戦では、日本軍が根こそぎ動員で多くの住民を軍の作業につかせました。そして、壕の状況や兵士の数、武器の状況まで日本軍の状態が少なからず住民に知られ、「住民が米軍に捕縛された時にこうした軍事情報が漏れる」ことを恐れたため、日本軍は投降することを許さなかったのではないかと思います。
 それは、「大宜味村渡野喜屋で、山中に潜んでいた日本兵がアメリカ軍保護下の住民をスパイと見なし虐殺した事件」や「鹿山正久米島守備隊長がアメリカ軍に拉致された住民3人を敵に寝返ったスパイとして処刑し、その家族までも内通者として処刑した鹿山事件」などの事実が証明しているのではないでしょうか。投降しようとした者はもちろん、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていただけで、スパイもしくは利敵行為であるとして処刑されたということもあったといいます。さらに、沖縄戦だけではなく、いろいろな戦場で、敵に投降しようとする日本兵が射殺された事実が記録されています。
 また、南風原陸軍壕では、米軍が迫り撤退する際「独歩患者だけを連れて行け」との軍命で、多くの患者を壕に残さざるを得なかったようですが、残された患者には青酸カリ入りのミルクが配られたといいます。捕虜になることを許さなかったからではないでしょうか。住民に手榴弾が配られた多くの証言とともに「自決」が軍命であったことを示していると思います。

 「自決はまだ早い」という指示は、「自決」について「軍命がなかった」ということにはつながらないと思うのです。
 多くの証言や事実から学ぶことが、今とても大事であると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする