真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の攻撃的な防衛政策への転換とアメリカの対外政策

2022年11月27日 | 国際・政治

 北朝鮮がなぜ、「弾道ミサイル」の発射をくり返すのか、中国がなぜ、軍事力強化に力を入れているのか、その理由を聞こうとせず、考慮もせず、防衛費を増額し、敵基地攻撃能力の保有を進めようとする考え方が広がっているように思います。そうした考え方の背景には、安倍政権の日米同盟強化に基づく、攻撃的な防衛政策への転換があるのだろうと思います。
 私には、北朝鮮や中国の動きが、アメリカの対外政策や外交政策抜きに語られ、自民党政権が、攻撃的な防衛政策に転換しようとしていることに、主要メディアが正しく反応しているとは思えません。

 オーストラリアの北東に浮かぶ
ソロモン諸島が中国と、安全保障協定を結ぶと、即座にアメリカがソロモン諸島に政府や軍の要人を送り込み、援助の強化や関係の強化を働きかけたようです。
 だから私は、ソロモン諸島で最大の人口を抱えるマラタイ島で、中国と安全保障協定を結んだ
マナセ・ソガバレ首相への抗議のデモが起き、参加者の一部が中国人街を襲ったというニュースがとても気になります。アメリカの関与があるのではないかと思うからです。

 そうした疑いは、オバマ政権下で国務次官補(政治担当)であった
ビクトリア・ヌーランドが、「米国は、ソ連崩壊時からウクライナの民主主義支援のため50億ドルを投資してきた。」と発言し、2014年のウクライナ政権転覆にアメリカが深くかかわっていたことが、アメリカ国内でも問題視されたこと、そして、オリバー・ストーンが、プーチン大統領に対するインタビューの中で、ウクライナのマイダン革命に関わるデモの指導者に、お金が支給されていたという証言について語っていることなどから生まれます。

 さらに、第二次世界大戦後のアメリカの対外政策や外交政策をふり返ると、その疑いはいっそう深いものにならざるを得ないのです。
 アメリカは民主化が進みつつあった戦後の日本でも、突然、「
逆コース」といわれる政策に転換し、かつての戦争指導層の公職追放を解除して、戦争指導層と手を結び、影響力を発揮し続けました。
 朝鮮でも、
建国準備委員会による南北朝鮮一体の「朝鮮人民共和国」の建国を潰し、38度線を設定して、李承晩を中心する南朝鮮単独政府の樹立を支援しました。

 そして、アメリカはフィリピンでも、
マルコスを支援し、年間、約8500万ドルの対フィリピン軍事援助を支出していたといいます。その援助の多くが正しく使われなかったというのです。下記抜萃文ににあるように、
それまで軍人給与でかつかつの生活をしていた将校に、材木伐採権や建設事業の契約が降って湧いたように、与えられた。同様に、さまざまな密輸に対する”黙認”と闇ドル市場の支配権も、軍人のものになった。” 
 というのですから、アメリカの支援は、いったい何であったのか、と疑わざるを得ません。
 特に、
農民たちは、軍部を、自分たちの安全を守る集団ではなく、自分たちに害を加える集団とみなしていた。暗殺事件のあと、こうした軍部観は都市部、とりわけ首都マニラに拡がった。というのも、マニラでは、警察部隊とともに武装した国軍部隊が、反マルコス・デモ隊鎮圧のため大通りに出動しはじめたからである。デモ隊が軍隊に徴発行動をとることはたびたびあるわけではなかったが、大衆は当然のように反軍感情を強めた。最初に投石したのが学生だったか少年だったかは、問題ではなかった。そういうとき反マルコス派の新聞は必ず、丸腰の市民に向って警棒を振り降ろす警官や、銃を構える兵士の写真を載せていた。
 街頭での衝突や農村での略奪行為以上に大きな衝撃を市民に与えていたのは、軍隊がマルコスの私兵としか考えられない行動をとることだった。マルコスが戒厳令を布いた上に、兵力を5倍に増強して、将官たちの懐を豊かにし、そのうえ無辜の民を殴り、殺害するよう命じた──というのが市民の見方だった。

 などとあることは、見逃すことができません。

 マルコスが、米軍ヘリコプターで
マカラニアン宮殿を脱出し、フィリピンを去って、ホノルルで亡命生活を送らなければならなかったことが、アメリカの支援がどういうものであったのかを示しているように思います。忘れてはいけない歴史ではないかと思います。

 下記は、「
アキノ大統領誕生 フィリピン革命は成功した」ルイス・サイモンズ・鈴木康雄訳(筑摩書房)から、「アメリカの盟友マルコス」の一部を抜萃しました。

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                    アメリカの盟友マルコス

 ・・・
 いずれにせよ、ラモスがヴェトナムで従軍していたころ、ヴェールはマルコスの側近として仕えていた。ヴェールは、当時上院議員だったマルコスの運転手として出発し、ついには軍事問題補佐官にまでのしあがった。とはいえ、彼の昇進は華々しいものではなかった。彼は長年、大尉の階級に留め置かれていた。それに対し、ラモスの方は、ヴェトナム従軍のあと、輝かしい伝統を持つ国家警察軍の司令官という権威ある地位に任命された。このポストに就いたことで、彼はフィリピン全土にわたる国内治安の責任者になった。ところが、1972年マルコスが戒厳令を発布すると、ラモスの栄光に翳りが生じた。
 このとき、最初に大統領の打ち出した措置の一つが、軍の兵力増強だった。彼は兵力を5万8000から一挙に20万強に増員し、軍の機構を全面的に再編した。マルコスは、ラモスと彼の率いるフィリピン国家警察軍をフィリピン国軍の指揮下に置いた。この時以降、マルコスと軍部は切っても切れない密接な関係を持つことになった。軍部がマルコスに忠誠であるかぎり、彼は政権に留まることになるのだ。この忠誠を確保するため、マルコスは、忠誠を示した人々に報酬を与えた。国防予算は8200万ドルから10億ドル近くにはね上がった。アメリカは年間、約8500万ドルの対フィリピン軍事援助を支出していた。その援助の多くが正しく使われず、戦場ではなく、特定の軍首脳のポケットに消えてしまうのだ。それまで軍人給与でかつかつの生活をしていた将校に、材木伐採権や建設事業の契約が降って湧いたように、与えられた。同様に、さまざまな密輸に対する”黙認”と闇ドル市場の支配権も、軍人のものになった。
 忠臣の鑑ともいうべきヴェール大将は十分に元をとった。彼はみるみる間に軍位と要職の階段を駆け上り、フィリピン情報組織の元締めである国家情報公安庁(NISA)と、6000人から成る情報部隊の大統領警護司令部(PSC)の二つの組織をがっちり握った。PSCは、大統領とその家族の身辺警護の責任を負っていた。
 時の経過とともに、マルコスとヴェールの関係は二人の子供たちに引き継がれていった。大統領の子供のアイミー(イメルダ二世)がイロコスノルテ州選出国会議員、ボンボン(フェルディナンド)が同州知事というふうに、政治的な実権のある地位に就くと、ヴェールの子供も枢要な軍のポストを手に入れた。ヴェール大将には3人の息子がいたが、長男アーウィンは大佐、二男レクソは中佐、三男ウィルロは少佐として、いずれもPSCに所属していた。
 なんといってもヴェールの大きな権力の源は、彼がフィリピン全土にわたって握っていた情報網である。大統領の政敵や友人について彼が収集した情報は、マルコスにとって測り知れないほど貴重なものだった。同時に、ヴェールは一家の微妙きわまりない秘密にも関与するようになった。

 1981年、マルコスは軍の序列を無視し、後に致命的な過ちとなる決定を下した。彼は、ヴェールを大将に昇進させた上で参謀総長とし、参謀次長にラモスを任命したのである。そもそも、ヴェールは一介の兵卒出身だった。フィリピン国軍の最高首脳に、フィリピン士官学校を卒業していない人物が任命されたのは、後にも先にもヴェールだけだった。ヴェールとマルコスはがっちり手を握り、政治とは一線を画すアメリカ式の軍部の体質を変えて、軍部を大統領制の一部門に仕立てあげた。このときからというもの将官たちは、国家に対する忠誠ではなく、マルコスに対する忠誠によって、どの職責に任命されるか、また、退役年齢後も軍務に留まれるかどうかが決まったのである。
 軍の将校達もアメリカもおなじだったが、ラモスは戒厳令の施行にがっかりしたわけではなかった。彼は、法の支配を再確立することが必要であると考えた。しかし、大統領がラモスを飛び越してヴェールを高位に任命したことで、彼の自尊心は傷ついた。それ以上に、ラモスはもっと大きな問題について懸念を抱きはじめた。つまり、一人の大統領と一人の将軍が一身同体となったため、フィリピンは古典的な”バナナ共和国”(独裁国)に転落するのではないか、ということだった。事態は、彼が国家は将来こうあるべきだと考えていた構想と、すべて逆の方向に進んでいった。
 ラモスは最高司令官に盾つくような態度はとらなかった。そうした行動は彼の気質にあわなかったからだ。その代わり、彼は自分の殻に閉じこもった。まるで鋳型から抜けてきた兵士のように、礼儀正しく敬礼し、命令が下れば自動的に従い、質問には前もって用意した答えで応じた。胸の内を覗かせることは決してなかった。親友たちは彼がいらだっていることを知っていた。町の噂は、ラモスが退役を申し出たが、マルコスは彼の退役願を却下したと伝えた。ラモスや友人たちからミンスという愛称で呼ばれている妻のアメリタは、夫はだれかが大統領の悪口を言うのを絶対許さなかったと強調した。彼女はある記者に「自宅では、だれ一人マルコスのことを非難がましく言うことはできなかった」と語った。
 他の軍人たちもまた、じっと我慢していた。不満は個人的な不平がほとんどであり、主として給料の少なさと昇進の遅れだった。時間がたつにつれ、将兵たちは、フィリピン国民の間で軍隊のイメージがとみに悪くなることに不安を感じるようになった。問題が生じていることは、アキノ暗殺が起る前からすでに農村部で実証ずみだった。農民たちは、軍部を、自分たちの安全を守る集団ではなく、自分たちに害を加える集団とみなしていた。暗殺事件のあと、こうした軍部観は都市部、とりわけ首都マニラに拡がった。というのも、マニラでは、警察部隊とともに武装した国軍部隊が、反マルコス・デモ隊鎮圧のため大通りに出動しはじめたからである。デモ隊が軍隊に徴発行動をとることはたびたびあるわけではなかったが、大衆は当然のように反軍感情を強めた。最初に投石したのが学生だったか少年だったかは、問題ではなかった。そういうとき反マルコス派の新聞は必ず、丸腰の市民に向って警棒を振り降ろす警官や、銃を構える兵士の写真を載せていた。
 街頭での衝突や農村での略奪行為以上に大きな衝撃を市民に与えていたのは、軍隊がマルコスの私兵としか考えられない行動をとることだった。マルコスが戒厳令を布いた上に、兵力を5倍に増強して、将官たちの懐を豊かにし、そのうえ無辜の民を殴り、殺害するよう命じた──というのが市民の見方だった。
 マルコスは、アキノのことも殺害せよと、軍隊に命じたのだろうか。
 突きつめると、どんな問題にもまして、軍部が暗殺に関与したのかどうか、という問題が一部の若手将校の心を悩まし、自分たちの不満を外部に公表しなければならないというきっかけを与えた。
 アキノが暗殺される数か月前の1983年初めのことだった。名門フィリピン士官学校を卒業したばかりの若手将校5人が、エンリレ国防相の参謀の一人グレゴリオ・ホナサン大佐の発案で、ときどきマニラ市内で会合を開き、自分たちが感じている軍人生活(および私生活)についての不平不満を話し合うようになった。軍部の改革が必要だという点で、全員の意見は一致した。暗殺事件後、現状に不満を抱くこの小さな将校グループは、メンバー数が急増し、40人にも膨れ上がった。この将校たちは、その後の軍改革運動の指導者となる面々だった。アグラヴァ委員会が解散した1984年末になると、この組織には約1500人の将校が加わった。大尉と佐官がその中心だった。
 この将校グループの規模は、軍機構全体と軍の政治指導者の双方に多大の打撃を与えるのに最適だった。クーデターを実行するためにも適した規模だった。東南アジアの他の国、例えばタイの場合、このような将校グループはたちまちクーデターを実行していただろう。不満を感じるフィリピンの将校たちは、もっと話し合う必要があると考えた。それも仲間だけでなく、上官とも国民とも話し合わなければいけない、と考えた。
 将校グループが、正式名称と暗号名を必要としたのはもちろんである。当初、「我々は仲間だ」(We Belong)と名乗った。しばらくして、ありふれた感じをあたえるが、あらゆる問題を含めることのできる名称「フィリピン国軍改革運動」と変更された。この「改革」(REFORM)は、軍人精神回復(Restore Ethics)、公平な物の見方(Fair-mindedneese)、秩序(Order)、廉正(Right eousness)、士気(Molale)の頭文字をとってつくられた。その後、この名称は「国軍改革運動」
(RAM)と縮められた。
 RAMの若手将校たちは、自分たちの周辺に家父長的存在を探すのにそれほど苦労しなかった。RAMは、一人ではなく、二人の指導者を見つけ出した。ラモスが第一の人物であり、それに次ぐのがエンリレだと、彼らは考えた。だが、RAMの発足直後に、この組織を支配したのはエンリレの方だった。抜け目のなさの点ではラモスをはるかに凌ぐエンリレは、自己の野望を実現していく上で、RAMが役に立つと見抜いた。ラモスの方は、そういう考え方のできない人間だった。彼は依然として、最高司令官であるマルコスに反旗を翻す気は毛頭なかったのである。彼は模範的な軍人であり、ヴェールに次ぐ軍首脳だった。彼の将来とその他多くの事態の展開は、アグラヴァ真相究明委員会の籍でヴェールがどういう戦いぶりを見せるか、にかかっていた。 

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アメリカのマルコス支援とウクライナ戦争

2022年11月21日 | 国際・政治

 これまでアメリカを中心とするNATO諸国とウクライナが一体となって進めてきたウクライナ戦争が新しい局面に差し掛かっているように思います。
 ロシアによる「侵略行為」を強く非難し、2月の経済制裁以来、次々に一致して制裁を発動してきたNATO諸国の中には、このままウクライナ支援を続けると、政権が持たないという危機に直面している国があり、アメリカが、NATO諸国の結束が維持できない恐れが出てきたと判断したのではないかと思います。

 それは、ウクライナの隣国ポーランドの領内にミサイルが着弾し、2人が死亡した問題に対するアメリカの対応やNATO関係者の発言から察せられます。
 ゼレンスキー大統領は、ポーランドのミサイル着弾発表直後に、”NATO加盟国に対するロシアの意図的な攻撃だ”と強く非難し、”NATOの行動が必要とされている”と訴えました。
 でも、バイデン大統領は、”軌道からみてもロシアから発射された可能性は低い”と述べ、ゼレンスキー大統領の主張を否定しました。驚きました。専門家は、バイデン大統領の発言を受けて、”アメリカ諜報機関によるミサイルの軌道解析などから、そう結論したと思われる”などと語っていましたが、ロシアを一層孤立化させ、弱体化させる絶好の事件であるにもかかわらず、今までと異なる対応をするのは、そうせざるを得ない状況に陥っているからではないかと私は思います。
 原子力発電施設に対する爆撃などは、ほとんど調査されることもなく、ロシア側の爆撃であるかのように語られてきたと思います。「軌道解析」がどのようになされているのか、詳しいことはよく知りませんが、今回だけ、アメリカの諜報機関による軌道解析などで判断されるのはどうしてか、と疑問に思います。
 また、あちこちから一斉にゼレンスキー大統領を批判したり、非難したりする声があがっていることも、アメリカが戦略や戦術を変更せざるを得ない状況にあることを物語っているように思います。
 EU諸国やNATO関係者はもちろん、ウクライナ戦争を主導するアメリカ国内でも、”世界を新たな戦争に導こうとした”とゼレンスキー大統領を非難する声があがり、中には、”ウクライナのミサイルがNATO加盟国に着弾し、罪のない一般市民が殺された。これについてウクライナの指導者たちは嘘をつき、ロシアのミサイルだと非難した”と、これまでには考えられないような声が上がっているようです。
 
 日本でも、森喜朗元首相が、都内で開かれた日本維新の会の鈴木宗男参院議員のパーティーで、”ゼレンスキー大統領は、大統領として多くのウクライナの人たちを苦しめている。のみならず、ポーランドをはじめとして、ヨーロッパにいるかつての仲間の国々もみな苦しんでいる”などと、発言したといいます。私は、アメリカのウクライナ戦争の戦略や戦術の変更を踏まえての発言だろうと思います。

 人間とは、社会的なありかた、関係性、人格を中心にとらえた「人」のことであると言われます。
だから、人間の社会に属さない人は、人間の範疇の外にあるといいます。それを踏まえてアメリカという国をみれば、その本質は、アメリカが他国とどのように関わってきたかということで示されると思います。
 だから、アメリカのフィリピンに対する関わり方も、ウクライナ戦争のとらえ方に、様々な示唆を与えてくれると思います。
 下記は、「アキノ大統領誕生 フィリピン革命は成功した」ルイス・サイモンズ・鈴木康雄訳(筑摩書房)から抜萃しましたが、フィリピンに対するアメリカの関わり方は、レーガン大統領の
フィリピンを狼の群に投げ与え、太平洋に共産国が出現する状況に直面するよりは、現政権との米比友好関係を維持し、フィリピンが抱える現在の欠陥を是正するよう手助けする方が賢明な方策だと思う”という主張に象徴されると思います。この考え方は、その他の国に対する時も、ほとんど変わりはないのだと思います。朝鮮、インドネシア、ベトナム、などと同じように、共産主義勢力を潰すためなら、非民主的で、残虐な独裁政権とも手を結び、内政干渉もするということだと思います。
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                   7 アメリカの盟友マルコス

 ニノイ・アキノを故国に引き寄せることになった国会議員選挙は、1984年5月14日実施と決められていた。この選挙で争われるのは、国会200議席のうち183議席だった。残り17議席はマルコスが直接指名することになっていた。大統領の率いるKBLは、改選前の議会では90%以上の議席を支配していた。選挙日が近づいてきたが、改選によって各政党の議席数に大きな変化が出ると予測する人はほとんどいなかった。野党の方は例によって、結束を欠いていた。さらに、これまた例によって、反マルコス派には不利になるような仕組みになっていた。例えば、野党勢力としては最大で最も組織化されていた民主国民連合(UNIDO)から180人が立候補した。しかし、インチキの多いことで悪名が轟いている投票・集計体制を監視するために、同党から各投票所に派遣が認められた立会人の数は僅かに84人にすぎなかった。
 マルコス派が牛耳っている選挙管理委員会(COMELEC)がUNIDO立会人の数を制限するためにあげた公式理由は、規則・法律策定の関係者に大いに参考になるものだった。自党の立会人を派遣することが許されるのは、各地方で「有力(ドミナント)」野党と認定された場合に限られ、UNIDOはフィリピン全土13地方のうち7地方でしか「有力」の”肩書”をもらえなかった。これ以外の地方では、政府派遣の立会人に任させることになるわけだった。これこそ、マルコス政府が進める行政の典型的な手法だった。マルコス以外の政権だったら、支配者は不正投票を工作し、それで事足れりとするだろう。だが、マルコスの場合は、偏執狂的なまでに行政規則を整え、自分は礼節を尽くしたやり方をしているという雰囲気をつくるのである。
 エネルスト・マセダは、アキノが帰国のために新しいパスポートを手に入れようと努めていたころ、ニューヨークでアキノの顧問弁護士をつとめていたが、その後、UNIDOのマニラ首都圏・中部ルソン地区の選挙運動責任者として活動していた。自党の立会人を派遣できずにマルコスとの対決に臨むことについて、マセダは「風車に挑むドン・キホーテ」みたいなもの、と語った。
 しかし同時に、UNIDOや結束を欠いた他の野党グループは、内輪揉めをくり広げていた。かつてマルコスのもとで情報相をつとめ、その後大統領と袂を分かったフランシスコ・タタドはUNIDO候補者としてケソン市選挙区から立候補しようとしたが、公認されなかった。そこで彼は、候補者が4人しかいない社会民主党を結成した。
 ケソン市とマカティでは、UNIDOの候補者3人が、それぞれ異なる理由から、選挙戦の途中で立候補を断念した。その一人ドミンゴ・イホクソンは、「私の親友である市長」が個人的に候補者として選んだ人物に挑戦するのは潔しとしないと語った。ヤブト市長は、イホクソンの長年の友人であり、会社経営のパートナーでもあった。
 反マルコス陣営は、選挙に候補者を立て積極的に闘うか、それとも妨害するかという基本問題についてさえ意見がまとめられずにいた。ニノイ・アキノの弟ブツは選挙ボイコットを呼びかけ、選挙反対の大衆デモの先頭に立った。選挙は「多少クリーン」とさえも言えないだろうと、彼は主張した。ブツ・アキノは、フィリピンの全有権者2千5百万人のうち少なくとも、半数が、独裁政治下での選挙を信頼するわけにはいかないという理由から、選挙をボイコットするだろうという見通しを語った。彼はまた、「マルコスとアメリカは、選挙を実施することでマルコス政権への信頼を高めたいと考えている。したがって、野党候補の四分の一ないし三分の一を当選させるだろう」という予言もした。ブツ・アキノのこの託宜は、最初の項目は外れ、二番目は当り、という結果になった。
 選挙ボイコット運動を展開したブツは、準左翼、左翼過激派の双方から支持を受けた。彼の政治手腕の限界を知っている人々は、主導権を握っているのは、ブツか、それとも左翼グループかわからないと疑問を感じていた。ブツは、その懸念はよくわかっているが、自分としては協力相手をコントロールできると考えていると語った。彼はあるインタビューの中で、「我々はもちろん、お互いに利用し合うつもりだ。そのことは私も承知している。しかし、私が主導権を握り、左翼勢力の上に立つと確信しなければ、こうした行動にはでなかったろう」と語った。ブツは、カンボジアのかつての国家元首ノロドム・シアヌークから教訓を学んでおけばよかったのかもしれない。シアヌークはかつて次のように予言した。クメール・ルージュは、シアヌークが彼らにとって価値があるかぎりは利用するだろうが、やがて「サクランボの種のように」彼を吐き捨てるだろうという内容だった。
 ブツ・アキノがボイコットの熱狂を煽り建てようと懸命になっていたころ、ラウレルとその一家は、フィリピン国民がアキノ暗殺に心底怒りを感じ、自分たちの生活苦に我慢しきれなくなっていると判断した。このことからラウレルは、国民がUNIDOに票を投じないことはあるにせよ、反マルコス感情からマルコスには投票したくないにちがいないと予想した。それどころか、絶好のチャンスが到来するかもしれない、とラウレル派が目をつけていたことがあった。つまり、野党、とくにUNIDO新議会で注目されるだけの地歩を築ければ、次期大統領選で、ラウレルはマルコスに対する挑戦者ナンバーワンとして浮上する強力な立場に立てるということだった。この理由から、彼は議会選挙には立候補せず、その代わり、UNIDOの候補者のために全国をくまなく遊説して全国的な選挙地盤を築くという長期課題に取り組み始めた。彼は、コラソン・アキノはじめアキノ派の積極的な支持を集めることができた。この人たちは、選挙をボイコットするのは正しくないと判断した。
 投票日の5月14日よりはるか以前に、野党候補者たちは、投票日当日にどんなことが起るか思い知らされる事件を体験した。3月末から4月初めにかけ4日間、有権者登録が行われたが、この期間中に有権者名簿には、推定200万人にのぼる不正記載が行われた。不正記載を行うのは、主としていわゆる”韋駄天投票者(イダテントウヒョウシャ)”と呼ばれる人間だった。つまり、KBL(新社会運動)から数ペソをもらい、いくつかの投票所で有権者登録を行い、当日、投票を数回繰り返す貧しい人々である。
その一方で、投票を棄権しようとして登録を行わなかった有権者が300万人いた。選挙ボイコットの呼びかけに共鳴したためだろう。
 有権者が大量棄権の意志を表明したことは、関係者に大きな失望を与えた。その一人が、ホセ・コンセプシオンだった。彼は有力な財界人であり、6か月前に「自由選挙のための全国市民運動」(NAMFREL)というボランティア組織を設立して、その議長に就任した。選挙戦が終盤に近づいたころ、NAMFREL、COMELECという二つの略称はフィリピン全土の”茶の間用語”となった。
 コンセプシオンと彼の新組織NAMFRELは、フィリピンの選挙制度がいかに腐敗しているかをフィリピン国民と全世界に知らせる中心勢力になるはずだった。コンセプシオンは現行選挙制度に不満を覚えていたが、手をこまねいて黙っているような男ではなかった。彼は、旧市街イントラムロスにあるむさくるしいCOMELEC本部の建物に乗り込み、マルコスから任命されたヴィセンテ・サンチアゴ委員長と渡り合った。
 コンセプシオンは財界仲間との会合でジェスチャーをまじえて説明し、国会議員選挙の集計作業にとって決定的に重要となる支持をとりまとめた。この協力とりつけは、この選挙から10か月後に行われることになる大統領選挙では、さらに重要なものとなった。彼がNAMFRELのために考え出したキャッチフレーズは気がきいており、何百万人ものフィリピン国民の心をとらえた。「暗黒を呪うよりは、蝋燭に火をともそう」。
 コンセプシオンはサンチアゴと辛抱強く話し合い、投票にあたっての新規則を彼から引き出した。つまり、投票をすませた有権者は全員、洗ってもこすっても落ちない紫色インクで指にしるしをつけることになった。こうすれば、一人一票以上投票することはむずかしくなるからである。なかなかの名案と思われた。コンセプシオンは喜んだ。ラウレルは、この規則のおかげで野党候補が有利になると語った。UNIDOの関係者がインクのテストをしてみたところ、洗ってもこすっても消えないことが証明できた。ところが、蓋を開けてみたら大違いだった。というよりは、”韋駄天有権者”のほうが上を行っていたというべきかもしれない。投票日当日、指に少量のアルコールか、テレピン油をつけて(あるいは自分の唾をつけてもよかったのだが)こすると、指のインクは消えてしまったのだ。
 脅迫や力づくの騒ぎが相次いで起きたが、それでもフィリピンの全有権者2500万人のうち約90%が、投票を行った。
 コリー・アキノは、UNIDOと亡き夫の組織フィリピン民主党・人民の力連合(PDP・ラバン)との協力を図り、野党勢力結集のため大いに頑張った。その努力は成果をあげた。彼女の演説の基本パターンは、ニノイの暗殺を招くにいたるまでの数々の出来事を列挙することだった。この演説を行うと、聴衆は必ずといってよいほど涙を浮かべて話に聞き入った。コリー自身も、聴衆の方も、この当時はまだ気づかなかったのだが、彼女が選挙遊説のために国民の前に姿を現わしたことで、彼女のイメージは、悲嘆に暮れるアキノ未亡人から政治家コリーに変わっていった。コリーが精力的に遊説したことも加わって、与野党両陣営の予想を上回るほど、有権者は野党候補に大量の票を投じた。正確には、与党候補に票を投じなかった有権者が多かったというべきかもしれない。投票集計の確定票数は、投票日から満一か月がたった6月半ばになるまでまとまらなかった。その理由はおそらく、COMELECがマルコスの指示に従い、得票数の微調整を行ったいたからであり、同時に、NAFRELが集計作業を入念に監視していたからである。
 最終的に、野党側は59議席を獲得した。実に改選前の3倍という伸長ぶりだった。大統領派のKBLは、それまで議席総数の90%を占めていたのが、70%に落ちた。とくにマニラ首都圏で敗北を蒙ったのは、与党にとって手痛い打撃だった。
 800万の人口を持ち、それ以上に重要なことだが、国民生活、政治活動の中心地として内外から注目を集めているマニラ首都圏での勝敗のなりゆきは、政府、野党のいずれもきわめて重視していた。首都圏の頂点に立つのが首都圏知事であり、そのポストを占めているのが他ならぬイメルダ・マルコスだった。こうしたことから、他の地域に比べるとずっともののわかっている首都圏の有権者は、改選21議席のうち僅か6議席しかKBLに与えなかった。フィリピン国民は、明らかに大統領一家に対する不信任であると判断した。
 だが、この選挙結果に対して大統領は、二通りの異なる対応をみせた。フィリピン情勢に神経質になっている外国の投資家たちを安心させるために、まず大統領は「このように与野党がそれぞれ選挙運動を実施できるのは、強力かつ安定した政府が存在する国だけである。同時に、こうした与野党伯仲の結果になったことは、フィリピン政府に得票数をごまかしたり、変更しようというつもりが全くないことを示している」と表明した。その一方で彼は、フィリピン国民が与党に反対票を投じたのは政府の特定の政策に反対だからなのか、それとも国民が「政治指導者の中の特定の人物、たとえば大統領や大統領夫人を非難しているためなのか」見きわめる”徹底的な分析”を行うよう命じた、と言明した。「国民がそうした行動に出たのなら、我々はそのことを知らなければならない。同時に、その理由を突きとめたい」。
 再びマルコスはその真骨頂を発揮した。彼は国民に対し、私やイメルダは国民のことを考えて行動したつもりだが、おそらく裏目に出たのだろう、と釈明したのである。いずれにせよ、事態を究明してみるつもりだ、と彼は言った。多少とも空気を和らげようとして、イメルダ・マルコスは再度、政治の表舞台から姿を消した。彼女は約1か月、公の席に現れなかった。
 現実にはマルコスは、レーガン政権との関係をかなり改善した。米国務省の判断を反映して、マニラの米大使館は選挙結果を肯定的に解釈した。大使館当局は投票が公正かつ清潔に行われたこと、従来に比べれば、格段に思い切った内容の記事をのせる新聞が登場したことは、マルコスがレーガンの改革要請に応じ始めた証拠だと考えた。アメリカの分析担当者の中にはその後1年、こうしたかすかな望みに希望を託し続ける者もいたが、きびしい見方をする専門家には、マルコスが真の改革を行うことなど全く考えていないことが明らかだった。
 現代の国家指導者の中で、フェルディナンド・マルコスほどマキャベリ的な策謀に長けている人物は見当たらない。ブツ・アキノが予想した通り、マルコスの騙しのテクニックは実に巧妙だった。国会への大幅な野党進出を許し、それによってワシントンからは、マルコス政権に対するクリーンなイメージを獲得するという”一石二鳥”を十分に計算していたのは間違いない。それでいて、結局のところ、マルコスは国会をがっちり押さえた。彼が首を振りさえすれば、野党に投票した有権者に対する嫌がらせはいくらでもできただろうし、不正集計もはばかるところなく実行されただろう。反面、マルコスは自分のイメージがどれほど下落したかわかっていなかったのか、それとも選挙の見通しを単純に間違えたのかは別として、野党勢力同様、選挙結果にびっくりしたことは想像に難くない。
 いずれにせよ、功労者はコンセプシオンとNAMFRELに違いなかった。NAMFREL集計作業監視のため、実に45万人という驚くべき数のボランティアを動員した。教会の支持があったため、NAFRELには大量の一般市民が参加した。もしこの教会の支持がなかったとしたら、市民たちは、KBLが金で雇った荒くれ男たちや、”韋駄天有権者”たちと対決する危険を冒さなかっただろう。コンセプシオンは、8600万ドルの資産を持つリパブリック製粉会社の社長だった。彼の地位と名声のおかげで、進んでボランティアとしてかけつけた上流階級の女性たちをはじめ、コンピューターを貸し出してくれた会社にいたるまで、社会的地位の高い人々や企業の支持を集めることができた。コンピューターという高度技術のおかげで、NAFMRELは、COMELECが上部の決裁を得た数字を発表するはるか以前に、自前の集計速報を行い、開票状況を発表することができた。
 マルコスが予知できなかったことの一つは、国会議員選挙を戦ったことで野党が大いに元気をつけたことだった。国会を支配したのが依然としてマルコスであることには変わりなかった。しかし、反マルコス派は微々たるものとはいえ、勝利の美味を味わった。

反マルコス派は、新たに獲得した力を仲間内のいがみあいにではなく、KBLとの闘いに使いはじめた。結束を欠く野党勢力の中で個人的にはなおいがみ合いが続いたが、数え切れないほどの野党支持者が投票所へ押し寄せたことで、選挙ボイコットを主張していたグループの活動は終った。ブツ・アキノと彼を支持する穏健派勢力は選挙前、公正な選挙の実施はとても期待できないと考えたが、有権者が投票したいのなら妨害はしないという態度をとった。ところが、選挙後、ブツ・アキノ派は完全に反マルコス派に合流した。
 ワシントンの見方は、穏健な反マルコス勢力が成長することはないだろうというものだった。総選挙からちょうど5か月がたったとき、レーガンは世界に向って、マルコスが退陣すれば、その後に進出してくるのは共産党しかありえないと表明した。10月21日、レーガンはカンザスシチーでの大統領選候補討論会で、ウォルター・モンデール民主党候補から「フィリピンが第二のニカラグアとなるのを防ぐため、あなたは何をしなければならないか。また、何ができるか」と質問を受けた。レーガンはフィリピンをパーレヴィ国王退位前のイランになぞらえた。両国の情勢、とりわけフィリピン共産党とイスラム原理主義を同一視することは誤りだが、この類推は、パーレヴィ国王とマルコスをアメリカの友人であるとみなすレーガンや保守派の人々には受けた。この人たちは、イランとフィリピンの国内情勢の違いには目を向けなかった。
「パーレヴィ国王は長年にわたって、我々の求めに応じて行動し、中東情勢におけるアメリカの利益のために働いてくれた。我々がパーレヴィ国王の退陣に手をこまねいていたのは、アメリカの歴史の汚点だと思う。国王退陣のあと情勢は好転しただろうか。パーレヴィ国王自身に問題があったにせよ、とにかく国王は低廉な住宅を建設し、ムラー(イスラム教シーア派僧侶)たちから土地をとりあげて農民に与え、自作農化した。ところが、我々はイランを狂信的な過激派指導者に引き渡してしまった。その結果、何十万という国民が、”処刑”の名のもとに虐殺された」
 レーガンはイランとフィリピンの情勢を比べながらさらに続けた。「民主的権利という観点からすると、我々にとって現在望ましいとは思えない事態がフィリピンに存在していることを私は知っている。しかし、それに代わる選択はなんだろうか。それは、フィリピンを支配しようとする大がかりな共産主義運動である。フィリピンは国家誕生以来、アメリカの友人である。過去の歴史を振り返ると、政権交替の選択として我々より右寄りと思われる人物に、革命の名のもとに権力を握らせ、最後はまさに独裁主義そのものに帰着した例はいくらでもある。したがって、例えばフィリピンについていえば、フィリピンを狼の群に投げ与え、太平洋に共産国が出現する状況に直面するよりは、現政権との米比友好関係を維持し、フィリピンが抱える現在の欠陥を是正するよう手助けする方が賢明な方策だと思う」。
 マルコスが政権の座を降りた場合、在フィリピン米軍基地の存続は危くなるか、という質問が出た。レーガンは、マルコスに取って代わるものがあるとすれば、共産勢力以外には考えられないから、マルコス退陣がアメリカの戦略的利益にとってマイナスに作用するのは間違いないと答えた。
 マルコスは、大統領のこの発言を”御用新聞”を通じて利用した。穏健派反マルコス勢力はレーガン発言に仰天し、裏切られた思いにかられた。フィリピンの野党勢力が総選挙で意義のある勝利を収めたにもかかわらず、その僅か2、3か月後に、アメリカの大統領は依然として現政権を強く支持することを明確にしたからだ。レーガン政権は、大統領が失言したことに気づき、直ちに釈明して、「フィリピンには、民主的変革のために努力している勢力がマルコス大統領の他にもあることは、だれの目にも明らかである」と述べた。
 ジョン・ヒューズ米国務省報道官は、大統領の発言の真意について補足し「フィリピンはアメリカの頼もしい同盟国であり、アメリカのフィリピン政策は、我々が希望する変化と改革をフィリピンに実現するため、マルコス政権と協力することである」と語った。ヒューズは、大統領の弁護を続けながら、「フィリピンでは共産ゲリラ活動がきわめて活発である。万が一、非民主的な方法による政権の交代を求める勢力があるとすれば、それは共産勢力である可能性が強い。したがって、当然ながら、そうした事態はアメリカにとって満足できるものではない」と語った。
 しかし、すでに波紋は拡がっていた。レーガンのコメントは結局のところ、マルコスか共産主義者かという選択であり、フィリピンの穏健派野党勢力の人々は、アメリカに支援を求めてもむだだ、と感じた。だがホワイトハウスの方は、そうしたフィリピン側の反応にあまりこだわらなかった。国会議員選挙が比較的公正だったことに望みをつなぎ、マルコスに対して、もう一つ別な改革の実行を迫った。国軍のファビアン・ヴェール参謀総長をはじめ、退官年齢を超えている将官27人を現役から引退させるよう、マルコスに求めたのである。しかし、この要求はマルコスにとって、わかりましたと応じるにはあまりにも難題だった。というのも、こうした将官が身も心も抛って忠誠を尽くしてくれるからこそ、退官年齢を過ぎても現役に引き留めているのであり、彼にとって是非とも必要な人間だったからだ。アキノ暗殺とアグラヴァ委員会の公聴会実施の結果、軍部は痛手を受けたが、中でもいちばん評価を落としたのはヴェール大将だった。ホワイトハウスの考え方は、ヴェールさえ交替させれば、残りの軍首脳は簡単に一掃できるだろうというものだった。ヴェールをどこかの大使に任命し、現役を引退させれば、フィリピン、アメリカ双方とも納得できるという筋書だった。
 さらに一般的な言い方をすれば、レーガン政権が求めていたことは、フィリピン軍部の「プロ軍人化」だった。つまり、マルコスへの忠誠度だけを基準にして昇進した軍首脳を引退させ、戦場で実力を示したプロの軍人を登用しようということだった。当然ながら、待ちぼうけを食わされていた中年過ぎのかなりの数の大佐は、この改革を支持した。将軍の中にも賛成派がいた。いくら軍歴を積んでも、昇進の見込みはないに等しい状態だったからだ。こうした軍人たちの筆頭にいたのがフィデル・ラモス中将だった。中将は軍部ナンバー2のポストにいたが、実は、ヴェール大将がラモス中将を追い越して最高ポストについた経緯があった。「プロ軍人化」の実施をだれよりも望んでいたのが、実はラモスだった。

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解禁秘密文書が示すアメリカの主権侵害と内政干渉、立川基地拡張問題

2022年11月17日 | 国際・政治

「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)を読むと、日米の間にはさまざまな密約があり、また、さまざまな秘密交渉が重ねられてきたことがわかります。アメリカの解禁秘密文書の数々は、日本という国が独立国ではなく、アメリカの従属国であることを、はっきり示しているように思います。
 立川基地滑走路延長問題に関わるアメリカの日本政府に対する働きかけは、どう考えても日本の主権を侵害するものだと思います。
 立川では、下記の抜萃文にあるように、アメリカが基地拡張のための土地の
強制収用を日本政府に求め、抵抗する農民や農民を支援する労働者、学生を警官隊によって実力をもって排除することを働きかけたということが明らかにされています。
 だから、ロシアとの北方領土問題の交渉が頓挫したのも、拉致問題における北朝鮮との交渉が進まないのも、アメリカの主権侵害で、
日本が独立国としての外交ができないからだろうと私は思います。

 3月の国連総会緊急特別会合で、ロシアに対して
「軍事行動の即時停止を求める決議案」が、141カ国の圧倒的賛成多数で採択されたことが、くり返し報道されました。193の国連加盟国のうち、反対票を投じたのはベラルーシ、北朝鮮、エリトリア、ロシア、シリアの5カ国のみで、棄権は35カ国であったということでした。
 でも、先日(14日)の国連総会におけるロシアに対する
「侵攻の賠償要求決議」では、賛成が94カ国に減り、反対が14カ国、棄権が73カ国、投票をしなかった国が12カ国という結果であったと報道されました。だから、内容は異なりますが、ウクライナ戦争におけるアメリカやウクライナの強引な武力主義的対応が、支持を失いつつあるのではないかと思います。
 
 アメリカは海外に多数の基地や活動拠点をもっており、その数は170カ国にのぼると言われています。米軍基地が存在する国々は、大なり小なり日本と同じように主権を侵害され、首根っこをつかまれて、国連総会における投票でも、日本と同じように、法や道義・道徳に基づいて、自らの考えで投票することができない国があるのではないかと思います。だから、上記のような国連総会の投票結果の変化は、その内容が異なるとはいえ、見逃すことができない変化だ、と私は思います。

 また15日、ポーランド外務省は、
”ウクライナとの国境に近い東部プシェボドゥフに同日午後3時40分、ロシア製ミサイル1発が着弾し、2人が死亡したことを確認した”と発表しました。
 その日の夜、ゼレンスキー大統領は、
”NATOの領土をミサイル攻撃する。これは集団安全保障に対するロシアのミサイル攻撃だ。重大なエスカレーションだ。行動が必要だ”と関係国の行動を呼びかけ、”私たちがずっと警告してきたことが今日起きた。テロはウクライナ国境の内側にとどまるものではない”とも主張したといいます。
 アメリカの戦争目的や戦略基づいて 今まで以上に、ロシアを孤立化させ、追い詰めようとする主張だと思いました。

 でも、意外なことに、このミサイル着弾問題で、アメリカのバイデン大統領が、”
米国と北大西洋条約機構(NATO)同盟国が調査しているが、ロシアから発射されたミサイルが原因でない可能性を示す予備的情報がある、軌道を踏まえるとロシアから発射されたとは考えにくい。だが、いずれ分かるだろう”と述べたといいます。
 今までのアメリカは、常にウクライナと一体となって、ロシアを孤立化させ、弱体化させるための作戦を展開してきたのに、突然、ゼレンスキー大統領の「
我々のミサイルではない」という主張を否定するような発表をしたことに、私は少々驚きました。
 今までのアメリカなら、たとえミサイルがウクライナのものであったとしても、それを発表することはせず、ロシアを攻撃するために、ゼレンスキー大統領と一緒に、ロシアを非難したと思います。でも、バイデン大統領は、はっきりと、ゼレンスキー大統領の主張を否定しました。だから私は、アメリカが、ロシアの孤立化や弱体化にある程度成功したので、世界情勢を踏まえ、ゼレンスキー大統領を突き放し、停戦の方向へ転換する歩みを始めようとしているのではないかと思います。
 それは、アメリカのウクライナ支援が、実はウクライナのためではなく、アメリカ自身の利益と覇権維持のためであったということを示すものではないかと思います。

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                     Part2 秘密文書の発見

 明らかになった日米両政府の策略
 滑走路延長を強行するため、日米両政府がまず実現しようとしたのが、「工事のための立ち入り権」と「測量」でした(日米合同委員会秘密記録による)。
 砂川の農民にとっては、宮崎町長が東京調達局立川事務所長から非公式に通知された1955年5月4日が最初だったのですが、その2年も前から砂川町の人びとをはじめ国民には隠して米軍基地拡張の土地強制収容について秘かに協議していたことも判明しました。
 日本政府の態度は、このアメリカ側の要求をほとんどまるごと受け入れるというものでした。アメリカ解禁文書に出ていますが、1955年2月14日付で当時の鳩山一郎首相は極東軍司令官に宛てて返書を送り、「飛行場拡張に必要とする土地を提供することに原則的に同意する」と公式に回答しています。
 この土地取り上げの目的を果たそうとして日本政府がとった措置の中には、実に悪辣なものがありました。たとえば、そのころ立川市内で米軍基地から流出した油による井戸水汚染が起き、市民の不満がひろがっていました。政府はこれに対する損害賠償を逆手にとって、米軍基地滑走路延長を住民に認めさせようという策略をめぐらしました。日米合同委員会の経過報告によると1955年1月31日の日米合同委員会で米軍基地からの油流出による井戸水汚染問題が取り上げられ、福島慎太郎調達庁長官が「汚染問題の損害賠償請求の適切な時機における解決は、立川基地滑走路延長を認めさせるのを促すかもしれないとほのめかした」と記録されています。損害補償が所定の四分の一程度しか払われず、残額の支払いが滞っていたので、全額払うのとひきかえに基地拡張を認めさせるという駆け引きの画策だったのです。
 内々に基地拡張の意向を宮崎砂川町長に伝えるよりもずっと前の話ですが、砂川町の農民の誰も基地拡張の計画を知らず、国民もまったく知らない時点で、土地接収を押しつける策略だけが先行していたのです。
 一方、鳩山首相は、砂川で土地を取り上げられた人々を、アメリカに難民として移住させることを密かにアメリカ側に打診していました。この事実も、アメリカ政府の解禁秘密文書に記録されています。1955年9月30日の松本滝蔵官房副長官と東京の米大使館のバーンズ米公使との懇談記録に出てくるものです。米軍の土地取り上げで農地をなくした人々を、アメリカ政府の「難民救済計画」に基づいて海外に移住させるという構想です。
 話を持ちかけられたバーンズ公使は、「もし日本政府が〔同計画の〕提案を決めたら、土地所有者に賄賂を贈っていると見られるよりは、良い効果をもたらすだろう」などと前向きに応じています。さらに、アメリカ公使の個人的な考えとして、「この問題は砂川だけを狙い撃ちするのでない方が良い」とも入れ知恵しています。あくまで極秘の首相自身の構想として「取り扱い注意」にしながら、アメリカ大使館と鳩山内閣の間で検討されたことが示されています。
 米軍によって農地を強奪された人びとを遠く離れたところに集団移住させた例は、これとほぼ同じ頃、米軍部隊が直接、銃剣を突きつけて文字通り乱暴きわまる土地強奪を強行した米軍支配下の沖縄で、実際におこなわれています。いまの宜野湾市(当時は宜野湾村)の伊佐浜で米軍が出動して直接おこなった土地強奪による被害者などを、琉球列島の先島諸島の石垣島や、さらには南米のブラジルやボリビアにまで行かせたのがそれです。米軍基地づくりのために土地を奪われた農民を遠隔地へ事実上の「棄民」にも比すべきひどいやり方を、アメリカは強行したのです。
 鳩山首相もそれと似たことをやろうと構想していたのでしょう。

 アメリカ側がけしかけた警官隊の実力行使
 アメリカ政府解禁秘密文書の中で注目されるのは、砂川の農民の抵抗やそれを支援する労組員、学生らの滑走路延長反対の運動に対し、アメリカ政府が警官隊による弾圧を日本政府に平然とけしかけていたことです。
 立川基地の拡張予定地では、土地接収の前段となる拡張予定地の現地測量が、基地拡張に反対する人びとの抵抗のため進みませんでした。そのため、日本政府は警官隊の投入によって農民、労働者、学生、市民の抵抗の排除を画策し、アメリカ側にそのことを密かに説明しています。この経過を記した解禁秘密文書からは、警官隊による弾圧計画に対してアメリカ政府が強力な支持以上のものを与えていたことが裏付けられます。
 砂川の土地接収計画が明らかになって3ヶ月余り後の1955年8月末、
重光葵外相・副総理が訪米し、アメリカ政府首脳と重要会談をおこないました。日本政府が日米安保条約の改定を初めてアメリカ政府に提案したことで知られている日米会談でした。
 その時の重光外相らとダレス国務長官らとの協議のさい、アメリカ側は特に農民、労働者、学生の抵抗ですんなり進まない立川空軍基地の滑走路延長計画をとりあげ、基地拡張反対の運動を強権の発動によってつぶすよう正面切って促しています。

 1955年8月30日付け、ダレス国務長官と重光外相の第2回会議録です。出席者は、アメリカ側がダレス国務長官、ロバートソン国務次官補、ラドフォード統合参謀本部議長、グレイ国防次官補など、日本側が重光外相、河野一郎農相、岸信介日本民主党幹事長などでした。

「滑走路延長問題。
 ダレス国務長官は、ゴードン・グレイ国際安全保障担当国防次官補がある特別の問題について発言するようだと言った。グレイ次官補は、日本における滑走路延長問題を国防総省は懸念していると切り出した。日本政府との間でこの問題の取り決めはできあがったし、国防総省は日本政府が計画遂行の特別措置を具体化しつつあることを聞いて励まされているが、この計画に反対するデモのひろがりや組織ぶりにはがっかりさせられている。この計画は日本国民自身の利益になるし、特に日本の航空機がやがて運航のため広大なスペースを必要とするようになるのだから重要である。現在のデモに対して対抗措置をとることが望ましいし、アメリカは喜んでそれを助けたい。
 重光外相は、共産主義者らを抑えるための措置をとることには賛成だが、現状況下での実力行使は険悪にあるかもしれないと述べた。外相は〔米軍の〕占領で共産主義者に手際よく対処する法律がすべて廃棄されたので、いまではかれらを何とかするのはほとんど不可能だと強調した。現在日本政府が活用している唯一の力は説得力であり、政府は説得力を発揮できるよう共産主義反対の強固な能力を開発しなければならないと述べた。(略)
 ロバートソン副長官はグレイ次官補が出した滑走路問題は、日本国民が自分たち自身の国防上の利益になると確信すべきだと指摘した。重光外相はこれに応え、滑走路の延長を既に約束し必要な土地の接収もやむなくされるかもしれない政府に日本国民が耳を傾けないのだと述べた。だが、それをやれば左翼の思うつぼにはまるだろう。外相はそうのべて、滑走路延長反対は純粋なものではなく、共産主義者の扇動によるものだとつけ加えた」(新原訳)

 このようにダレス長官の催促に従って発言したグレイ次官補は、「日本における滑走路延長問題をめぐる反対運動の拡大に強い懸念を示し、「現在のデモに対して対抗措置をとることが望ましいし、アメリカは喜んで助けたい」とのべ、警官隊の弾圧をあおるだけでなく、その援助まで申し出ていたのです。
 これに対して重光外相は異議なく同調し、「滑走路延長反対は純粋なものではなく、共産主義者の扇動によるものだ」と、民衆のやむにやまれぬ抵抗の抹殺を意図する発言をしたのです。

 土地接収強行のための弾圧
 1955年5月の滑走路延長計画の通告以来、土地接収に反対する砂川の人びとは、最初は労組に支援を要請し、のちに学生の応援も呼びかけて、各地から来た人たちとともに、土地取り上げの前段としての強制測量阻止のため、非暴力的手段で土地を守ろうとしてきました。砂川町基地反対同盟行動隊長の青木市五郎さんが口にされ、またたく間にあのきびしい抗議行動に加わった多くの人々のきずなとなった「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の合言葉が物語っている通り、それは祖父伝来の農地を守って、戦争のための基地拡張に反対するという大義に基づくたたかいだったのです。
 そのなかで、測量強行動きがあった1955年秋と翌56年秋に、接収に反対する人びとの強制測量阻止のデモに対し、警官隊が襲撃して殴る蹴るの暴行を加えケガを負わせるという、重大な「衝突」、正確な言葉を使えば大がかりな弾圧事件が起きました。
 特に1956年 10月半ばの数日間にわたる測量阻止のデモ隊に対する警官隊の襲撃は、実に乱暴きわまる暴力沙汰でした。測量を阻止しようとした地元農民や労組員、学生らの方は、まったくの非暴力で、ただスクラムを組み測量を阻止しようとする、やむにやまれぬ抵抗だったのですが、警官隊がこれに棍棒で殴りかかるなどして襲いかかり、最後の2日間には千数百人におよぶ負傷者が出ました。
 この時の目撃証言として、砂川地元の基地拡張反対同盟の中心人物である故宮岡正雄さんの証言があります。宮岡さんの著書『砂川闘争の記録』(お茶の水書房 2005年)に出てくるもので、10月13日の経過を次のように記しています。
「午前11時、鉄兜・棍棒・ピストルで武装した2000名の警官隊は、5日市街道から町役場の横へ入り、目的地の栗原むらさん宅を目標に、広い畑一面に散開して乱入してきた。日本陸軍歩兵部隊の散兵戦の戦術であった。スクラムでは防げない広い範囲であった。警官隊は労働者や学生の頭を棍棒でめった打ちにし、腹を突き上げ、足蹴にした。手のつけられない兇暴さであった」
 富岡さんは、つづけてこう述べています。
「そこへ日本山妙法寺のお坊様たちが現われ、坐り込まれる。さすがに猛り狂った警官隊も一時とまどったように止まる。お坊様たちは動かない。たちまちそのまわりに労働者、学生が集結して坐り込む」
「この日の測量の目標は、栗原さん宅からはじまる拡張予定地の西側の部分である。支援諸団体も地元も全員がその地点に結集し、目標地区は人で埋めつくされた。これを排除しなければ測量できない。
警官隊がまた行動を再開した。無抵抗で坐り込んでいる妙法寺のお坊様たちに警棒をふり挙げて襲いかかり、労働者、学生のなかへ突っ込んでくる。負傷者の悲鳴があがる。泥のなかへ倒れている女子学生を力いっぱい蹴り上げる。警官隊は報道陣や救護の人達まで、まるで見さかいのない暴力をふるった。倒れても倒れても新手の支援部隊は限りなく栗原さん宅の付近に結集しつづけ、測量させない」
「この衝突が、この日もついに夕方までつづいたが、現地に一本の杭も打たせなかった。しかし負傷者は救急車で運ばれ、手当てを受けた者だけで800名を上回る。実際の負傷者はもっと多かったことは間違いない」
「誰のためにこうまでして米軍の基地をつくらなければならないのか──という人もいた。現地の砂川の反対同盟の素朴な人びとは、この苦しみに耐えぬいて、測量を阻止してくれた人達に対して、何をもって報いるか──ただ基地をつくらせないこと、この一事につきた。傷つきながら、必死に測量阻止のために闘ったこの人達の姿に、反対同盟の人びとの心に反権力の抵抗の拠点は築かれた」
 富岡さんのこの生々しい描写は、砂川闘争の意味とこれを弾圧した警官隊の暴挙の本質を明らかにしています。
 10月13日の弾圧をめぐる記述の最後の部分には、次のような文章も続いています。
「警官の兇暴さに限りない憤りが沸き上がってくる。激しい衝突に頭から血を流し、スクラムで押し、押し返される苦しさに、思わず口をついて出た『お母さん』と呼ぶ女子学生の気持ちは、猛り狂った横暴な警官隊への恐怖と威圧感にこらえて闘った人達にはよく分かった」
 一方、当日出動した警視庁の若い一人の機動隊員は、「精神的に悩み、苦しみ」ぬいたと、弾圧を疑問視する遺書を書き残して、自殺しました。
 戦争のための米軍基地拡張は許せない、自分たちの土地を基地に取り上げられるのは絶対にご免だ、というやむにやまれぬ闘いと、アメリカ政府の密かなそそのかしを受けて警官隊によって暴圧した日本政府の問答無用の態度が、だれの目にも鮮明に焼き付けられたのです。
 こうした不当弾圧は、日米安保条約のもとでわが国がアメリカの戦争の基地として強化されていくことへの危惧を、国民のあいだに一挙に生み出し、砂川闘争への全国的な同情と共感が広がりました。
 このため、10月13日の夜、政府は緊急に「測量中止」という想定外の発表をせざるをえませんでした。
 これがその後の国民的批判と抵抗の広がりもあって、10年あまり後の1968年の立川基地拡張中止の発表、そしてその後の(一部は自衛隊基地にされたものの)立川アメリカ空軍基地そのものの全面返還(1977年)へとつながったのです。

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米兵の犯罪、「ゴードン事件」と「ジラード事件」の裁判権問題

2022年11月13日 | 国際・政治

 私は、ウクライナ戦争にアメリカがどのように関わっているのか、また、その関わる目的は何であるのか、ということを取り上げた記事や報道を知りません。また、2月24日の「ロシアのウクライナ侵攻」、あるいは、「ロシアのウクライナ侵略」といわれている事態がどのようなものであり、なぜそのような事態が発生するに到ったのかということを考察するようなメディアの報道を知りませんし、専門家と言われる人たちの解説も、私は聞いたことがありません。
 2月24日に、プーチン大統領が国民向けに演説した内容に触れることなく、なぜ、ウクライナ戦争が語れるのか、とずっと思っています。
 プーチン大統領は、演説の中で、ベオグラードやイラク、リビア、シリアに対するアメリカの軍事力行使を取り上げ、アメリカが国際法を無視し、戦闘機やミサイルを使って、執拗に民間の都市や生活インフラを爆撃したことを指弾しています。
 そして、NATOが東に拡大するにつれ、ロシアにとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、ベオグラードやイラク、リビア、シリアと同じような状況に追い込まれる危険が迫ってきたと語っています。”私たちの国益に対してだけでなく、我が国家の存在、主権そのものに対する現実の脅威”が、レッドラインを越えるに到ったと語っているのです。
 でも、その演説の内容について考えるような記事や報道に接したことは、ほとんどありません。
 そうしたことを取り上げることは、アメリカにとって不都合であり、日本が完全にアメリカの影響下にあるからではないかと思います。

 私は、アメリカの日本に対する影響力の行使にも、きわめて理不尽なものがあると思っています。
 先日取り上げた北方領土の問題もその一つです。
 2019年初頭、安倍元首相は「北方領土の問題」で、ロシアとの本格的な交渉に乗り出しました。その際、ロシア側は日本に「前提文書」の作成を要求したといいます。それは、「北方領土を返還した場合でも、在日米軍が基地を設けるなど、ロシアの安全保障にとって脅威とならないこと」を確約することであったと言われています。
 でも、前回取り上げたように、安倍元首相は、その確約ができなかったのだと思います。
 それは、ダレスの要求した「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」を 現実にアメリカが持っているからだと思います。
 辺野古の新基地建設も、日本が、日本の都合で変えることはできないのだろうと思います。

 また、北方領土の問題で、ロシアのプーチン大統領は、”ロシアが北方領土を日本に返した場合に米軍基地が置かれる可能性について、「日本の決定権に疑問がある」”と述べたといいます。
 プーチン大統領は、米軍基地問題について、”日本が決められるのか、日本がこの問題でどの程度主権を持っているのか分からない”とも指摘したということですが、日米の「密約」の真相を掴んでいるのだろうと思います。
 その日米の「密約」の存在は、アメリカの公文書によって証明されています。だから、アメリカは、日本の主権を侵害しているのです。また、「伊達判決」を覆すためになされた外務省や最高裁長官にたいする工作は、あってはならない内政干渉であり、民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないと思います。

 それだけではなく、日々、米軍基地が日本に存在することによる被害も伝えられています。
 さらに、「ゴードン事件」や「ジラード事件」のような悪質な米兵の犯罪があっても、日本に裁判権がなく、日本の司法に基づく解決ができません。信じ難いことです。
 でも、戦後、公職追放を解除された戦争指導層や、その流れを受け継ぐ自民党政権が、アメリカと結託したために、そうした状況が、一向に改善されないのだと私は思っています。 

 さらに、アメリカが、他国の主権を侵害したり、内政干渉したりしてきた事実は、数え切れないと思います。

 アメリカのジョージア州コロンバスには、陸軍の駐屯地があるそうですが、ここには、フォート・ベニング訓練センターがあり、冷戦時代以降、中南米諸国をはじめ、いろいろな国の軍人に訓練をほどこしてきたといいます。そして、訓練を受けた軍人が、自国で左翼政権などを倒すクーデターを起こしたり、軍事政権を樹立したり、自国内の左翼やリベラル派を殺害したりしてきたと言われています。
 それと似たようなことが、ウクライナでもあったのではないかと、私は疑っています。

 下記は、「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)から、「Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官」の「相次ぐ米軍機墜落事故」と「米兵犯罪と米軍側に有利な決着」を抜萃しました。
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             Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官

 相次ぐ米軍機墜落事故
 1952年4月に対日講和条約が発効し、占領が終わって独立が回復したとはいっても、米軍は占領軍から駐留軍に衣替えしただけで、従来どおり基地を自由に使用していました。米軍機墜落事故や部品などの落下事故、米軍車両による人身事故、訓練や演習での銃砲の誤射・流れ弾事件、米兵犯罪など、米軍基地があるために引き起こされる事故・事件の被害もあとを絶ちませんでした。
 『米軍機墜落事故』(河口栄二著 朝日新聞社 1981年)によると、1952年から59年までの間だけでも、住民の死傷者が出た米軍機墜落事故が16件起きています。死者計39人、負傷者は252人です。主な事故をあげてみましょう。

 1952年2月 7日 埼玉県入間郡の民家に爆撃機が墜落。死者4人、全焼家屋7戸。パイロット13人全員死亡。
     7月23日 福岡遠賀郡の繁華街に輸送機が墜落。死者3人。パイロット5人死亡。
     9月20日 福岡市の住宅に戦闘機が墜落。死者1人、全焼家屋1戸。
 1955年 1月 6日 茨城県東茨城郡の農家に戦闘機が墜落。死者1人。全焼家屋1棟
     3月24日 埼玉県入間郡の農家に戦闘機が墜落。死者2人、重傷者1人、全焼家屋5棟。
     6月15日 福岡市の農地に戦闘機が墜落。死者1人。
     6月17日 愛知県春日井市の民家に戦闘機が墜落。死者1人、重軽傷者7人、全半壊家屋5戸7棟。パイロット死亡。
     9月19日 東京都八王子市の農家に戦闘機が墜落。死者5人、重軽症3人 焼失家屋4戸 5棟 パイロット死亡。
 1956年 5月22日 埼玉県入間郡の農家に戦闘機が墜落。死者1人、全焼家屋2棟。
 1958年 7月25日 埼玉県狭山市の民家に爆撃機が墜落。死者2人、重軽傷者10人、全焼家屋5   戸
 1959年 6月30日 沖縄・石川市の住宅地と宮森小学校に戦闘機が墜落。児童11人と住民6人が死亡、

          児童156人と住民54人が重軽傷、教室3家屋175、公民館1棟が全焼、教室2、家屋8戸、幼稚園1棟が損壊。

 その他、1957年11月13日、福岡市の民家に戦闘機の補助タンクが落下し、死者がひとり出ました。
 同年8月2日には、茨城県那珂湊市で、米軍の水戸射撃場・補助飛行場付近の県道を親子ふたりが自転車で走っていたところ、離陸直後の連絡機が超低空飛行をし、後方車輪がそのふたりに接触。母親(当時63歳)が首と胴体を切断されて即死、息子(当時24歳)も重傷を負う事故が起きました。
 当時の「茨城新聞」などの記事によると、米軍側は「異常気象の熱気流による不可抗力的な事故」と公表。しかし地元では「米軍のパイロットがわざと低空飛行をして、通行人を驚かしていたことがよくあった」との声が上がり、8月7日、地元の市議会は操縦者のジョン・L・ゴードン中尉(当時27歳)のいたずらによるものと断定しました。その名前をとって「ゴードン事件」と呼ばれるようになります。
 ところが、8月21になると、この事件は公務中に起きたものとされるようになりました。行政協定の米軍人・軍属らの刑事裁判権に関する取り決めに従い、公務中のため裁判権は米軍側にあるとされ、日本側の裁判権は放棄され、捜査は終了しました。日本政府が遺族側に43万2044円を保障すると通知し、遺族側の同意を得ました。(『本当は憲法よりも大切な日米地位協定入門』前泊博盛編著 創元社 2013年)。同協定では、公務中かどうかの判断は米軍側にゆだねられており、公務証明書を発行すればそれで通ってしまうのです。

 米兵犯罪と米軍側に有利な決着
 このように米軍がらみの事故・事件は、米軍側に有利な決着をすることが多いのが実態です。同じ1957年の1月30日には、群馬県相馬ヶ原の米軍演習場に立ち入って、使用済みの空の薬莢を拾っていた、当時46歳の主婦を米陸軍特技兵ウィリアム・S・ジラード(当時21歳)が小銃で射殺するという事件が起きました。ジラードは空の薬莢をばらまいて、「ママサン、ダイジョウブ」と主婦をおびき寄せ、発砲したのでした。米兵の名前をとって「ジラード事件」と呼ばれます。
 相馬ヶ原演習場は、旧日本陸軍の演習場を米軍が引き継ぎ、1946年にさらに周辺1287平方メートルを接収し、地域住民に72時間以内に無条件で立ち去ることを要求して設置されました。周辺の農家は農地を取り上げられ、炭俵の原料である茅の副収入も失いました。その結果、空の薬莢をを拾って商人に売ることで生計を立てざるをえなくなっていたのでした。
 米軍側は公務証明書を発行し、公務中の事件なので裁判権は米軍側にあると主張しました。しかし、面白半分に日本人を動物のようにおびき寄せて殺した行為の、いったいどこが公務なのかと、日本の世論は強く反発し、怒りが広がります。そのため日本の検察当局も、当時ジラードが公務時間中であったとしても、その行為は公務とは関係がないとして、身柄引き渡しと日本側の裁判権行使を求めました。
 日米両政府間の折衝の結果、これ以上の反米感情の高まりを避けたいアメリカ側が、裁判権の不行使を決め、57年5月18日、検察はジラードを傷害致死罪で起訴しました。しかし、その裏では、「殺人罪など、傷害致死罪より重い罪では起訴しないこと」、「日本側は、日本の裁判所がなしうる限り刑を軽くすることを、行政当局経由で勧告すること」を条件に、アメリカ側は裁判権を行使しないという密約が、日米合同委員会で合意されていたのでした。それはのちに、アメリカ政府解禁秘密文書であきらかになります。
 共著者の末浪靖司が2011年にアメリカ国立公文書館で発見したその文書(1957年5月16日、マッカーサー大使からダレス国務長官宛て「秘」(公電)には、こう書かれていました。

 「裁判権問題解決のための秘密の協定も、本日、ラドゥム・フバードと千葉の間で調印された。この行動は秘密にされる」(末浪訳、『9条「解釈改憲」から密約まで 対米従属の正体』末浪靖司著 高文研 2012年)→資料⑦

 電文中のラドゥム・フバードはアメリカ側の担当責任者、千葉は当時の千葉皓外務省アメリカ局長のことです。
 そして、8月26日からの前橋地裁での裁判では、検察による懲役5年執行猶予4年という、密約通りの判決が言い渡されました。普通ではおよそあり得ない軽い判決に対し、検察は控訴せず、刑は確定。12月6日、ジラードは帰国します。その後、除隊となり、何のおとがめもなく自由の身になったのです。

 
 
 
     


 

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われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間・・・

2022年11月10日 | 国際・政治

 朝日新聞11月9日の夕刊の「にじいろの議」に、合六強(ゴウロクツヨシ)という国際政治学者が「ウクライナ 祖国を守る抵抗 原点をふり返り支援を」と題する文章を書いていました。その中に、
キーウ国際社会学研究所が10月下旬に行った世論調査によると、86%の人が「都市攻撃が続いても抵抗を続けるべきだ」と回答し、「攻撃を一刻も早く止めるため協議に移るべきだ」と答えた人の割合(10%)を大きく上回った。
 寒さが厳しくなるなか、世論に変化が見られるかはわからない。それでも別の調査では、87%の国民が「戦争が長引いても、いかなる領土も妥協すべきではない」と考え、その割合は少しづつ増えてきた。彼らにとってこの戦争は、国の生存をかけた祖国防衛戦争となっている

 とありました。
 大学の准教授を努める国際政治学者が、こんな理解でいいのか、と私は疑問に思いました。
 戦争は、一般国民ではなく、一部の軍人や政治家が始めるものだと思います。日本の戦争は極端かも知れませんが、徹底した皇国史観に基づく教育や鬼畜米英の教育、反対するものの弾圧や非国民扱いによって支持され進められたと思います。当時、日本で世論調査をやれば、98~99%は日本の戦争を支持していたのではないかと思います。
 だから、ウクライナの世論調査で、86%が抵抗を続けるべきだと答えたとしても、それを理由に、ウクライナ軍を支援すべきだという考え方をしてはならないと私は思います。
 ウクライナ軍やゼレンスキー政権が偏った情報で煽り、戦争を強制している面もあるのではないかと思います。それに、ウクライナ戦争を主導し、莫大な金額にのぼる軍事支援をしているアメリカのかかわりについて、ほとんど考慮しない姿勢にも問題があると思います。
 以前に取り上げましたが、アメリカの
オースチン国防長官は、”ロシアが二度とこのような戦争ができないように、弱体化する必要がある”、というようなことを言いました。また、バイデン大統領も同じようなことを語ったことがありました。アメリカのウクライナ支援は、成り行きに任せていると、ヨーロッパ諸国に対するアメリカの利益や覇権が失われるので、ロシアを孤立化させ、弱体化させることが目的であることを見逃してはならないと思います。
 マイダン革命にもアメリカは深くかかわっていました。
 だから、戦後も、至るところで法や道義・道徳に反するような内政干渉や主権侵害をくり返してきたアメリカのかかわりを抜きに、ウクライナ戦争を客観的にとらえることはできないと思います。

 合六准教授は
一刻も早い停戦を──開戦当初から日本でもこうした声があがった。現地からの悲惨な状況が伝えられるたびに私も同じ思いを抱く。しかし、それが「現状の凍結」を意味するなら、占領下でさらなる犠牲を生み出すかもしれない。停戦の間にロシアは態勢を立て直し、明日にでも攻撃を再開するかもしれない。・・・”
 とも書いています。停戦・和解を最優先にするつもりがない考え方だと思います。
 この考え方は、ロシアを孤立化させ、弱体化したいアメリカの影響を受けたものだろう、と私は思います。
 
 さらに言えば、戦時中、軍のプロパガンダに協力したことを深く反省して、戦後の報道に取り組んでいるはずの朝日新聞が、なぜ、アメリカの戦争目的に協力し、同じ過ちをくり返すような報道をしているのか、と私は疑問に思うのです。 

 下記は、「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)から「駐日アメリカ大使と最高裁長官の密談(4月X日)」と「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に」と題された文章を抜萃したものです。
 アメリカが、いかに狡賢く、日本の主権を侵害し、内政に干渉しているかが、よくわかると思います。こうした過去の歴史を踏まえて、ウクライナ戦争を客観的に理解する必要がある、と私は思うのです。

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               Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官

 駐日アメリカ大使と最高裁長官の密談(4月X日)
 上告が決定してから一週間後の4月10日、東京の街は皇太子成婚パレードでわき返りました。その日は快晴で、午前10時から皇居で「結婚の儀」があり、午後2時よりニ重橋から渋谷区の東宮仮御所まで、きらびやかに飾った六頭立ての馬車をつらね、パレードがおこなわれました。沿道の人出は53万2000人にのぼったといわれます。まさに「ミッチー・ブーム」のクライマックスでした。
 パレードは各放送局の計108台のテレビカメラによって全国に中継され、国民の目を釘づけにしました。パレードを見るためにテレビを購入した家庭も多く、当時、電気店の在庫が一掃されたそうです。NHKのテレビ受信契約数は、婚儀一週間前に200万を越え、成婚パレードの視聴者数は1500万人に達したと推定されています。
 途中、馬車に投石し、飛び乗ろうとした少年が警官に取り押さえられるハプニングはあったものの、パレードは日本の戦後復興と新しい皇室を象徴する華麗な祭典として人びとの記憶に残りました。
 しかし、こうした華やかなブームと式典の背後で、アメリカ政府による砂川裁判への干渉や核持ち込み密約などを含む安保改定秘密交渉が進んでいたとは、人びとは夢にも思わなかったでしょう。
 最高裁への跳躍上告が決まったからといって、マッカーサー大使はあとのことを日本政府に任せきりにしていたわけではありません。皇太子成婚から二週間後の1959年4月24日、アメリカ大使館から、国務長官に宛てた「秘」公電を見てください。これまた驚くべき内容が記されています。なんとマッカーサー大使は、最高裁長官にまでひそかな接触の手を伸ばしていたのです。

「最高裁は4月22日、最高検察庁〔訳者注:実際上告趣意書の提出者は、東京地検検事正野村佐太男〕による砂川事件の東京地裁判決上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに対し、被告側は答弁書を提出することになる。
 外務省当局者がわれわれに知らせてきたところによると、上訴についての大法廷での審理は、おそらく7月半ばに開始されるだろう。とはいえ、現段階で判決の時機を推測するのは無理である。内密の話しあいで田中最高裁長官は大使に、本件には優先権があたえられているが、日本の手続きでは審理が始まったあと判決に到達するまでに、少なくとも数ヶ月かかると語った」(同前)→ 資料⑤

「田中最高裁長官」とは、最高裁のトップ田中耕太郎その人です。跳躍上告された案件が、早くスムーズに審理されて判決にいたるかどうか、日米両政府が望んでいるような逆転判決がえられるかどうか、その鍵を握っているのは田中長官にほかなりません。その長官がマッカーサー大使と内密に話しあい、「本件には優先権があたえられている」と、最高裁の内部情報を告げていました。
 しかし、これは異常きわまりないことです。最高裁には年に何千件もの案件が上告されますが、大多数が書類審議だけで棄却され、その結果が突然、訴訟の当事者に郵便で知らされます。小法廷や大法廷で公判が開かれて審理されるケースはごく限られています。特定の案件に関して、「優先権があたえられている」と、最高裁長官がこっそり教えてくれるなど、決してありえないことなのです。
 しかも、日米安保条約にもとづく米軍の駐留は合憲か違憲かが大きな争点になっている裁判です。アメリカ政府を代表する駐日アメリカ大使は、裁判の一方の関係者、いわば当事者ともいえます。このような立場の人物に、最高裁長官ともあろう人が内部情報をもらす──。いったいこんなことで裁判の公正さが保たれるでしょうか。憲法第76条で「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権をおこない、この憲法および法律にのみ拘束される」と規定された司法権の独立性を疑われてしまう行為です。
 
 われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に
 マッカーサー大使が田中長官との密談を本国に報告したとき、アメリカの国務長官は交代していました。1959年4月15日にダレス国務長官が病気のために辞任し、後任にはクリスチャン・ハーター国務次官が昇格したのです。ダレスは間もなく5月24日にワシントンで死去します。71歳でした。
 ダレスは、戦後日本の進路を方向づけた、マッカーサー連合国最高司令官を筆頭とする、アメリカ側の立役者のひとりでした。日本が敗戦後、連合国軍による占領という名の米軍占領下から、連合国との講和条約を通じて独立を回復する際、当時の吉田茂政権と交渉し、対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)と日米安保条約をセットで結ぶという路線を主導したのです。

 それは第二次世界大戦後、アメリカ(資本主義陣営)とソ連(共産主義陣営)がはげしく対立していた冷戦下において、日本が安保条約という軍事同盟を通じてアメリカ側の陣営に組み込まれることを意味していました。
 ダレスは弁護士から政界に転じ、国連創立にも関わり、1946年にアメリカの国連代表に就任しました。50年に国務省顧問になると、当時のトルーマン大統領の特使として、対日講和条約と日米安保条約の交渉を任されます。そして、51年1月25日に使節団を率いて来日しました。翌26日、日本政府との交渉を前に、使節団の最初のスタッフ会議でダレスはこう発言しています。「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得するであろうか? これが根本な問題である」(『安保条約の成立』豊下樽彦著)
 また、1月29日の吉田首相との会談直前のスタッフ会議でも、議論の焦点は、「(米軍駐留に関する)われわれの全面的な提案を日本側に受け入れさせる」という問題でした。
「この経緯にあきらかなように、ダレスにとって日米交渉の正否を左右する最大の課題は、日本への再軍備要求の大前提として、なによりもまず、講和・独立後も占領期と同様の米軍による『全土基地化』『自由使用』の権利を獲得できるか否かにあった」(同前) 
 ダレスがかかげたアメリカの目的、「全土基地化」と「基地の自由使用」の獲得は、後日、日米安保条約を通じて達成されることになりました。
 この日米安保条約と、同時に発効した日米行政協定によって、1952年の日本の独立回復後も、米軍は占領時代と同じような特権を維持したのです。占領期時代の米軍の特権を引きつぎ、事実上の治外法権を認める、ひどい実態を表すアメリカ政府の公文書があります。
 1957年2月14日付け、駐日アメリカ大使館からアメリカ国務省宛ての極秘報告書「在日米軍基地に関する報告」です。共著者の新原昭治がアメリカ国立公文書館で発見した解禁秘密文書のひとつで、次のような記述があります。

「日本での米国の軍事活動の規模の大きさに加えて、きわだつもうひとつの特徴は、米国にあたえられた基地権の寛大さにある。安保条約第3条にもとづいて取りきめられた行政協定は、米国が占領中もっていた軍事活動遂行のための大幅な自立的行動の権限と独立した活動の権利を米国のために保護している。安保条約のもとでは、日本政府とのいかなる相談もなしに『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するため、我が軍を使うことができる。
 行政協定のもとでは、新しい基地についての要件を決める権利も、現存する基地を保持しつづける権利も、米軍の判断にゆだねられている。それぞれの米軍施設に適用される基本合意が存在する。これに加えて、地域の主権と利益を侵害する多数の補足取り決めが存在する。多数の米国の諜報活動機関と対敵諜報活動機関の数知れぬ要員がなんの妨げも受けず日本中で活動している。

 米軍の部隊、装備、家族なども、地元とのいかなる取り決めもなしに、また地元当局への事前情報連絡さえなしに日本への出入りを自由におこなう権限があたえられている。日本国内では演習がおこなわれ、射撃訓練が実施され、軍用機が飛び、その他の日常的な死活的に重要な軍事活動がなされている──すべてが行政協定で確立した基地権にもとづく米側の決定によって」(新原訳、『日米「密約」外交と人民のたたかい』新原昭治著、新日本出版 2011年) → 資料⑥

 マッカーサー大使が、1958年から60年にかけての安保改定交渉を通じて、確保しようとしていたのも、こうした特権でした。米軍も在日米軍基地の自由使用、自由な軍事活動など特権の継続を、安保改定で確保すべき最優先課題としていました。
 

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大使の「極秘」公電や「秘」公電が示すアメリカの対日政策

2022年11月07日 | 国際・政治

 先日朝日新聞は、ウクライナのゼレンスキー大統領が、”ウクライナは、ロシア占領下にある北方領土を含む、日本の主権と領土の一体性を尊重することを確認した”と述べ、国内の関連文書に署名したこと、そして、各国にも同様の対応を求めたこを報じました。ウクライナ戦争に関わって、ロシアを悪者とし、日本の支持やさらなる支援を期待してのことだろうと思います。

 その後、ゼレンスキー大統領の発言に対し、鈴木宗男参院議員が、ブログに
ウクライナのゼレンスキー氏が7日、「ウクライナはロシアの占領下にある北方領土を含む日本の主権と領土の一体性を尊重することを確認する」と大統領令に署名したと報道されている。単純に考えれば日本を支持する立場のように見えるが、有難迷惑な話である
と投稿したことをめぐり、ネット上で反発の声が広がったといいます。
 でも私は、ゼレンスキー大統領の発言は、「有難迷惑な話」をこえる問題発言であると思います。なぜなら、北方領土の問題の背景には、沖縄返還の問題や日米安保条約、日米行政協定、日米の「密約」の問題などが深く関わっており、米ソ冷戦時代の問題を引き継ぐ重大問題だと思うからです。北方領土問題を、アメリカの関わり抜きに語ってはならないと思うのです。

ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)の3章に、「クルクル変わる米国の北方領土政策」と題して、アメリカの北方領土問題に対する本音の部分を記述しています。
アメリカは、ニ島返還を条件に、日本がソ連と平和条約を締結しようとした時、沖縄返還の問題を持ち出し、それを認めなかった。「ダレス の脅し」である。米国の極東政策上、日本は「反ソ」でなければならず、対ソ政策で「一人歩き」することを許されなかったのである
 とあるのです。

 また、「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)にも同じような記述がありますが、さらに踏み込んで
米国政府が日本の「四島返還」を支持したのは、それがソ連には受け入れ不可能と解っていたからであり、四島が千島列島ではないと考えたからではなかった

 とあります。
日本は西側陣営に確保し、共産主義陣営との和解は阻止しなければならない
との考えに基づいていたというわけです。

 「北方領土 軌跡と返還への助走」木村汎(時事通信社)には、反対にソ連の北方領土に対する「本音」といえる部分が取り上げられています。
 それは、クタコーフスターリンミコヤンフルシチョフなどの言葉に共通してみられる、北方領土の軍事戦略的価値重視の論調です。
クリール列島は、カムチャッカの南端から、北海道に至る連続的な鎖として伸びることによって、オホーツク海に鍵をかける。それは、ロシアの極東沿岸への接近を遮断する。クリール列島の地理的位置は、極東沿岸の前哨地点として最も重要な意義を与える”(クタコーフ)
南サハリンとクリール列島は…ソ連と大洋との直接の結びつきの手段、そして日本からのわが国への攻撃に対する防衛の基地として…”(スターリン)、
”エトロフやクナシリは、小さな島々ではあるが、カムチャッカへの門戸であり、放棄しえない、日米が軍事同盟を結んでいる現状では返還を考える余裕がない”(ミコヤン)
これらの島々(=歯舞・色丹)は、われわれにとって経済的には大した意義はないが、戦略・国防的には重大な意味がある。われわれは、自己の安全保障を配慮するのだ”(フルシチョフ)
などです。

 1960年の日米安保条約改定を機に出されたソ連の池田内閣宛「対日覚書」には、”歯舞・色丹の引き渡しに日本からの全外国軍隊の撤退”という新条件が加えられたということですが、それが国際法上問題であるとしても、北方領土に対するソ連の軍事戦略的価値を考えれば、簡単に否定できるものではないだろうと思います。

 1990年秋の米ソ冷戦終結宣言以降、北方領土問題にかかわる情勢は変わってきてはいるでしょうが、米ロの本音には、それほど変化はないような気がします。

 だから、ゼレンスキー大統領の北方領土問題に関する発言は、ロシアを悪とし、ウクライナ戦争におけるやや中途半端な日本の支持や支援を強化したいというアメリカの思惑が背景にあるような気がします。
 でも、日米同盟を強化し、アメリカの主張に沿って北方領土の返還をもとめているようでは、北方領土の返還はおぼつかないと思います。

 1956年(昭和31)年に、当時のソ連と日本は北方領土の問題の解決に向けて歩み寄っていき、「56年宣言」(日ソ共同宣言)に調印し、批准していたわけですが、産経ニュースによると、プーチン大統領が、”共同経済活動をどのように平和条約締結に結びつけていくのか”などと聞かれた際に、以下のように歴史的経緯を話したことを伝えています。

 ”この歴史的事実は皆さん知っていることですが、このとき、この地域に関心を持つ米国の当時のダレス国務長官が日本を脅迫したわけです。もし日本が米国の利益を損なうようなことをすれば、沖縄は完全に米国の一部となるという趣旨のことを言ったわけです

 そして、その上でプーチン大統領は
私たちは地域内のすべての国家に対して敬意をもって接するべきであり、それは米国の利益に対しても同様です
 として、北方領土問題に対してアメリカの利益が絡んでいると主張。”一番大事なのは平和条約の締結”として、最終的に日本との平和条約の締結を目指す考えを示したというのです。でも、平和条約締結への動きは、その後も、北方領土問題がネックとなって、実現には至らなかったということです。

 ロシアにとっては、今もなお、「在日米軍が基地を設けるなど、ロシアの安全保障にとって脅威とならないこと」は同じなのだと思いますが、日米安保条約や日米行政協定とともに存在する「密約」がある限り、日本は独自に交渉を進めることができないのだと思います。
 そして、ウクライナ戦争に関わって、日本がロシアに制裁を課すに至り、事実上北方領土問題は消滅してしまったといえるような状況になっていると思います。

 下記は「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)から「伊達判決の衝撃(3月30日)」と「藤山・マッカーサーの二度目の密談(4月1日)」を抜萃したものですが、アメリカと結託する自民党政権が続く限り、積極的な平和外交によって、軍縮や緊張緩和が進み、米軍基地のなくなる未来はないと思わざるを得ません。
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                Part1 マッカーサー大使と田中最高裁長官

 伊達判決の衝撃(3月30日)
 「伊達判決」は日米両政府に大きな衝撃をあたえました。両政府とも予想していなかった内容だったからです。そして「米軍駐留は憲法違反」という判決が、当時全国各地でくりひろげられていた米軍基地反対闘争や、安保条約改定反対運動を勢いづけ、ちょうどそのころ日米間で進められていた安保条約改定交渉(協議)の障害になると考えられたからです。この違憲判決がくつがえされないままだと、新安保条約の国会提出も調印もできなくなってしまいます。
 砂川事件の起きた砂川町では、1955年(昭和30年)5月に、日本政府が米軍立川基地の飛行場の滑走路拡張計画と、拡張予定地の接収を町当局に通告。先祖伝来の生活基盤である土地をとりあげられたくない地元農民を中心に、激しい反対運動が巻き起こり、町議会も満場一致で反対を決議しました。拡張計画の背後には、当時、日本の米軍基地強化と軍用機のジェット機化を進めていた米軍からの強い要求がありました。
 政府は日米安保条約にもとづく駐留軍用地特措法による強制収容にのりだし、1955年の秋と翌56年の秋には、警官隊を大量に動員して予定地に踏み込み、測量を強行しました。それを阻止しようとスクラムを組む農民たちと、支援にかけつけた労働組合員らや学生らを、警官隊が棍棒でなぐって排除する流血の事件も起き、千数百人にのぼる負傷者が出ました。
 この反対運動は「砂川闘争」と呼ばれ、大きな注目を浴びました。農民たちを中心とする闘いの合言葉、「土地に杭を打たれても、心に杭は打たれない」も広く知られてゆきました。
 当時、砂川のほかにも、山形県の大高根射撃場の拡張、山梨県の北富士演習場の拡張、群馬県の妙義山での演習場設置、千葉県の木更津飛行場拡張、愛知県の小牧飛行場拡張、米軍占領下の沖縄での基地建設にともなう土地のとりあげなど、米軍基地の拡大に対する反対運動が全国各地で広がっていたのです。
 そんななか、もしも「米軍駐留は合憲」という従来の日本政府の解釈が裁判所の判決によって否定されてしまえば、日米安保の根幹が揺らぎます。それは、日米安保体制を強めてきた両政府にとって、、絶対に容認できないことでした。
 もちん在日米軍基地を使用している米軍にとっても容認できません。「だから、このあと何通もご紹介するアメリカ大使館から国務長官にあてた、砂川裁判をめぐる一連の秘密公電は、「同文情報提供」扱い(同じ内容の公電をそのまま他の関係部署に送ること)の指示がされて、在日米軍司令部とその上部組織である太平洋軍司令部にも転送されていました。米軍上層部もこの問題に、なみなみならぬ関心をよせていたと考えられます。

「伊達判決」が出された3月30日、ただちにアメリカ大使館から国務長官へ、次のような「部外秘」公電が送られていました。

「伊達秋雄裁判官を裁判長とする東京地方裁判所法廷は本日、日本が日本防衛の目的で米軍の日本駐留を許している行為は『憲法第9条第二項で禁じられている陸海空軍その他の戦力保持の範疇に入るもので、日米安保条約と日米行政協定の国際的妥当性がどうであれ、国内法のもとにおいては米軍の駐留は……憲法に違反している』と宣言した。(中略)
 当地の夕刊各紙はこれを大きくとりあげており、当大使館はマスメディアからさまざまな性格の異なる報道に関して数多くの問い合わせを受けている。外務省当局者と協議のあと、これらの問合わせには『日本の法廷の判決や決定に関して当大使館がコメントするのは、きわめて不適切であろう。この問題にコメントする最適の立場にあるのは日本政府だと考える』旨答えている。在日米軍司令部もマスメディアの問い合わせに同様の回答をしている。
 外務省当局者がわれわれに語ったところによれば、日本政府は地裁判決を上訴するつもりであり、今夜の参院予算委員会質疑で法務大臣がそれについて言明する予定である」(同前)

 なお、日米行政協定とは日米安保条約の付属協定で、1952年に調印され、日本における米軍・米軍人・軍属・それらの家族の法的地位と特権などを定めたものです。60年の安保改定にともない日米地位協定と改称されました。

 すでにのべたとおり、マッカーサー大使はこのあとすぐに行動を起こしました。3月31日、閣議を1時間後にひかえた早朝、藤山外務大臣と会い、「東京地裁判決を正すことの重要性」を強調して、すみやかに最高裁に直接上告するよう、うながしたのです。表むきは、「日本の法廷の判決や決定に関して当大使館がコメントするのは、きわめて不適切であろう」とマスメディアに答えておきながら、裏ではこのように非常にすばやく介入していたわけです。
 地裁などの一審判決に対して、高裁への控訴という通常の手続きを踏まず、最高裁に直接上告することを「跳躍上告」といいます。一審判決で憲法違反と判断されたリ、地方自治体の条例や規則が法律違反と判断されたりしたケースにかぎって、できることになっていますが、これはきわめて珍しいもので、「伊達判決」に対する跳躍上告がなされる以前には、尊属傷害致死事件をめぐる福岡地裁飯塚支部判決(1950年)に対する一例があるだけでした。
 跳躍上告すると、通常の手続きよりも早く、最高裁での判決が得られます。マッカーサー大使が異例の跳躍上告を求めた背後には、「米軍駐留は違憲」という内容の「伊達判決」を、一日でも早く、くつがえしたいアメリカ政府と米軍の意向があったのでしょう。
 こうしたマッカーサー大使の申し入れに、藤山外務大臣は「全面的に同意する」と答え、直後の閣議で跳躍上告を「承認するよううながしたい」と応じました。外国の一大使が他国の政府中枢にまで、政治的工作の手を伸ばしているのです。重大「事件」と言ってもいいでしょう。
 ところが、藤山外務大臣はさして気にする風もなく、打てば響くように「全面的に同意」しています。すぐに閣議で首相や閣僚と相談して、マッカーサー大使の望む方向で対処する意向を示しているのです。
 その背景については、おいおい解き明かしてゆくことにして、もう一通、アメリカ大使館から国務長官へ3月31日に送られた「秘」公電を見てみましょう。マッカーサー大使が日本の外務省当局者と、どれだけ緊密な連絡をとりあっていたかがわかります。(国務省受信同日午前9時29分、日本時間同日午後10時29分)
「今夕、外務省当局者は、日本政府が東京地裁判決を最高裁に上告するか、それともまず東京高裁に控訴するかをめぐって、いまだ結論に到達していないと知らせてきた。どちらの選択肢をとることがより望ましいかで議論の余地があるらしく、目下、法務省で緊急に検討中である。外務省当局者は、いまの状況をなるべく早くすっきりと解決することが望ましいことは十分認識している」(同前)

 藤山・マッカーサーの二度目の密談(4月1日)
 翌4月1日、マッカーサー大使はふたたび藤山外務大臣と密談し、その後の経過を聞き、国務長官に「秘」公電で報告しています。 → 資料②

「藤山が本日、内密に会いたいと言ってきた。藤山は、これまでの数多くの判決によって支持されてきた〔政府の〕憲法解釈が、砂川事件の上訴審でも維持されるであろうということに、日本政府は完全な確信をもっていることを、アメリカ政府に知ってもらいたいとのべた。
 法務省は目下、高裁を飛びこして最高裁に跳躍上告する方法を検討中である。最高裁には300件をこえる係争中の案件がかかっているが、最高裁は本事件に最優先権をあたえるであろうことを政府は信じている。
 とはいえ、藤山がのべたところによると、現在の推測では、最高裁が優先的考慮を払ったとしても、最終判決を下すまでにはやはり3ヶ月ないし4ヶ月を要するであろうということである」(新原・布川訳)

 マッカーサー大使の申し入れを受けて、政府内で跳躍上告に向けた動きが進みつつあるのがわかります。早く最高裁での審理にこぎつけ、「米軍駐留は合憲」との逆転判決を得たいという日米両政府の思惑が伝わってきます。「最高裁は本事件に優先権をあたえるであろう」と、最高裁での審理が他の案件よりも優先しておこなわれることを、日本政府は計算に入れている様子です。

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アメリカによる日本の主権侵害、伊達判決と最高裁判決

2022年11月04日 | 国際・政治

 ウクライナ戦争以降、私はアメリカという国の対外政策や外交政策の問題を取り上げ続けています。
なぜならアメリカは、国内では民主主義にもとづいた体制を維持しながら、他国に対しては(ファイブアイズといわれるような国を除いて)露骨に内政に干渉したり、主権を侵害したりしてきたからです。
 すでに取り上げたように、アメリカは第二次世界大戦末期に、対日参戦したソ連極東軍の満洲・朝鮮半島への急速南下と、それによる占領地域管理の既成事実化を危惧し、ソ連軍占領地域の拡大を抑止することによって、共産主義的勢力圏が極東に浸透することを防ごうと、朝鮮半島を
38度線で横に割って、米ソ両軍が分割占領・管理する計画を立て、実行しました。
 そして、朝鮮の人たちが進めていた南北合一の「
朝鮮人民共和国」の独立を支援することなく、逆にそれを潰すために、李承晩を立てて南朝鮮単独政府を樹立させました。その過程で、「朝鮮人民共和国」の独立に取り組んでいた大勢の人たちを捕え、拘束し、虐殺さえしました。国連の信託統治の精神に基づけば、アメリカは「朝鮮人民共和国」の独立を支え、援助する立場にあったと思います。

 その朝鮮に対するアメリカの
内政干渉主権侵害と同じようなことが、日本でもありました。それが、砂川事件における東京地裁判決(伊達判決)を覆すアメリカの工作です。アメリカの主導で、東京地裁判決(伊達判決)を覆し、アメリカに都合のよい最高裁判決を出させたのです。
 下記を読めば、アメリカが他国の裁判所の判決さえ覆し、内政に干渉したり、主権を侵害したりしていることが分かると思います。

 日本がアメリカによって主権を侵害されている事実は、伊達判決を覆した最高裁判決の他にもいろいろあるように思いますが、重大なのは、
北方領土の問題です。
 4年ほど前、北方領土の問題で、ロシアのプーチン大統領は、
”ロシアが北方領土を日本に返した場合に米軍基地が置かれる可能性について、「日本の決定権に疑問がある」”と述べたといいます。それに対し、安倍元首相は、北方領土には米軍基地を置かない方針を伝えたというのですが、その方針は、プーチン大統領が、その実効性に疑問を呈したように、確実に実行可能な方針ではなかったと思います。
 プーチン大統領は、米軍基地問題について、”
日本が決められるのか、日本がこの問題でどの程度主権を持っているのか分からない”と指摘したということですが、日米関係の真相を掴んでいたのではないかと思います。
 また、”
平和条約の締結後に何が起こるのか。この質問への答えがないと、最終的な解決を受け入れることは難しいとし、北方領土に米軍基地が置かれる可能性を含め、日米安保体制がもたらすロシアの懸念が拭えていないとの認識を示した”(朝日新聞デジタル、プーチン氏「日本の決定権に疑問」喜田尚2018年12月21日)といいますが、安倍元首相は、日本人の悲願ともいえる北方領土の問題で、ロシアの懸念を払拭するような約束ができなかったのだと、私は思っています。

 さらに、プーチン大統領は、”
日本の決定権を疑う例として沖縄の米軍基地問題を挙げ、「知事が基地拡大に反対しているが、何もできない。人々が撤去を求めているのに、基地は強化される。みなが反対しているのに計画が進んでいる」と話した、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設をめぐる問題を指した発言だ。”とありますが、私は、図星だろうと思います。日本政府は自らの国のことを、自ら決めることができないのだと思います。
 
 それは、戦後対
日講和条約日米安保条約の交渉を主導したダレスの言葉にはっきり示されていたと思います。ダレスは、”われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得することができるかどうかが根本問題だ”という問題意識で交渉し、日米安保条約日米行政協定(後の日米地位協定)によって、そうした日本の「全土基地化」と「基地の自由使用」という「特権」を得たのです。したがって、偏狭的とも言える愛国主義者の安倍元首相も、プーチン大統領の要求にきちんと応えられなかったので、北方領土の交渉が進められなかったのだと思います。
 プーチン大統領すれば、日本が事実上米国の「
従属国」になっているので、北方領土の返還には応じられないということだと私は思います。

 今日は、朝からJ―アラート発表の報道が続き辟易しました。政府は、新潟、宮城、山形3県にJ―アラートを発表し、建物内や地下へ避難を呼び掛けました。
 
朝鮮中央通信(KCNA)によれば、北朝鮮は31日、米国と韓国に対し、域内での大規模な軍事演習を止めるよう要求したといいます。また、このような演習は挑発行為であり、北朝鮮からの「より強力な」対応につながる可能性があることを発表していたといいます。
 でも、アメリカはそれを無視して、訓練を強行したことを見逃してはならないと思います。
 そして、日本の主要メディアは、訓練のことにはほとんど踏み込まず、政府の決定に従って、北朝鮮のミサイルによる危機を煽りたて、防衛費を増額し、アメリカから高額な武器を次々に買い込んで、日本国民の富をアメリカに差し出すことに貢献しているように思います。

 アメリカが、
李承晩ゴ・ジン・ジェムスハルトマルコスといった独裁者を支援したのは、反政府勢力人民の虐殺さえ厭わない独裁者と結託すれば、搾取や収奪が可能だからではないかと私は想像しています。
 アメリカが日本で、戦犯の公職追放を解除し、戦争指導層を復活させた理由も、そこにあるのだろうと私は考えます。アメリカにとっては、民主党政権のように、沖縄の人たちの思いを汲み取り、沖縄の基地を県外に移そうと意図したり、過去の
「日米密約」の問題をほじくり返したりするような政権では都合が悪く、戦争指導層の思いを受け継ぎ、日本国民の思いに背を向け、日本国民の富をアメリカに差し出すことを厭わない自民党右派政権のほうがよいのだろうと思います。
 安倍元首相以来、自民党右派政権は、国会を開かずに日本の将来を決定づけるような重要事項の閣議決定をくり返しています。そして、国会で予算審議もせず、10数兆円を超えるような税金を政府の権限で自由に使います。アメリカが支援してきた独裁国家のやりかただと思います。だから日本国民の富は、いろいろなかたちでアメリカに流れるのだろうと思います。
 
 アメリカと韓国は31日、軍用機約240機を投入する合同訓練「ビジラント・ストーム」を韓国周辺で開始したといいますが、その訓練の問題はほとんど議論の対象になっていません。そして、北朝鮮のミサイル発射の危機ばかりが、く返し報道されています。そのこと自体が、私は危機的だと思います。話し合おうとする姿勢がないのです。

 下記は「
検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)から、「一通の「極秘」電報」と、「東京地裁判決について話し合い」を抜萃しました。
 日本の主権が侵されている事実が分かると思います。
 
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                Part1 マッカーサー大使と田中最高裁超過

 一通の「極秘」電報(1959年3月31日)
 ・・・
 皇太子成婚パレードを10日後にひかえた3月31日(火)の午後、東京のアメリカ大使館からワシントンの国務省へ、一通の秘密電報が発信されました。当時の駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー二世(マッカーサー元帥の甥)からジョン・フォスター・ダレス国務長官にあてた、緊急の「極秘」公電(電報のかたちでやりとりされる公文書)です。(国務省での受信時間は3月31日午前Ⅰ時17分。日本時間では同日午後2時17分)
 国務省はアメリカの外交関係をつかさどる政府機関。そのトップが国務長官です。日本の外務大臣にあたります。
 なお、この公電は、共著者の新原昭治が2008年4月に、アメリカ国立公文書館で発見しました。アメリカの情報自由法にもとづき、秘密指定解除(30年をへた政府文書は原則として開示のうえ公開されたものです。このあと引用する一連の公電も同じ法律にもとづき公開されました。この「極秘」公電には、日本でその前日に出されたある判決に対し、アメリカ政府が重大な関心をよせていること、そしてなんとかその判決をひっくり返そうと、ひそかに日本政府の中枢に手をのばし始めたという、驚くべき事実が記されていました。
 その冒頭の文章は、まるで映画のオープニングシーンのように始まります。

「〔私は〕今朝8時に藤山と会い、米軍の駐留と基地を日本国憲法に違反したとして東京地裁判決について話し合った。私は、日本政府が迅速な行動をとり、東京地裁判決を正すことの重要性を強調した」( 新原昭治・布川玲子訳、『砂川事件と田中最高裁長官』布川玲子・新原昭治編著 日本評論社
 2013年)

 このなかで「私」とあるのはマッカーサー大使、「藤山」とあるのは、当時の岸信介内閣の外務大臣だった藤山愛一郎のことです。
「米軍の駐留と基地を日本国憲法違反とした東京地裁判決」とは、前日の3月30日に、東京地方裁判所で言い渡された「砂川事件」無罪判決をさします。
 電文はさらにつづきます。

 「私はこの判決が、藤山が重視している安保条約についての協議に複雑さを生みだすだけでなく、4月23日の東京、大阪、北海道その他でのきわめて重要な知事選挙を前にしたこの重大な時期、国民の気持ちに混乱を引き起こしかねないとの見解を表明した」(同前)
 この公電は「極秘」に指定されています。アメリカ政府解禁秘密文書の秘密区分には、第二次世界大戦後、機密度の高い順から「トップ・シークレット(機密)」「シークレット(極秘)」「コンフィデンシャル(秘)」「オフィシャル・ユース・オンリー(部外秘)」という区分がもちいられています。しかし、驚きです。ここで外国の大使であるはずのマッカーサーは、赴任国の外務大臣である藤山に対して、
「あなたはこの判決が、現在協議中の安保条約の改訂作業に悪い影響をあたえることばかり心配しているが、よく考えてほしい。三週間後には、いくつもの大都市で知事選挙がおこなわれることになっている。この判決の問題を適切に処理しないと、そうした大切な選挙で自民党が負けてしまう可能性がある」
 と、まるで上司のように、より広い視野から情報分析を語っているのです。そして最後に藤山に対して、間接的な表現ながら、次のような「指示」をあたえているのです。

「私は、日本の法制度のことをよく知らないものの、日本政府がとりうる方策は二つあると理解していると述べた。
1 東京地裁判決を上級裁判所(東京高裁)に控訴すること。
2、同判決を最高裁に直接、上告〔跳躍上告〕すること。

 私は、もじ自分の理解がただしいなら、日本政府が直接に上告することが、非常に重要だと個人的には感じている。というのは、社会党や左翼勢力が上級裁判所(東京高裁)の判決を最終のものと受け入れることは決してなく、高裁への訴えは最高裁が最終判断を示すまで議論の時間を長引かせるだけのこととなろう。これは、左翼勢力や中立主義者らを益するだけであろうとのべた。
 藤山は全面的に同意するとのべた。完全に確実とは言えないが、藤山は、今朝9時に開かれる閣議でこの上告を承認するようにうながしたいと語った」(同前)

 いかがでしょうか。外国の大使が、赴任先の国の裁判所でだされた判決が不満だから、これを急いでくつがえすため、通常の上級裁判所(東京高裁)は飛ばして、いきなり最高裁へ上告しろと言っているのです。
 普通では考えられません。このマッカーサー大使の行為は、露骨な内政干渉、主権侵害そのものといえます。
 しかし、さらに驚くべきことは、そうした主権侵害を受けた藤山外務大臣の反応です。きわめてあっさりと、
「全面的に同意する」とのべ、
「このあと9時からの閣議でその方針を承認するようにうながしたい」
 と外国の大使に約束しているのです。
 この「極秘」公電であきらかなように、マッカーサー大使はこの日、
「朝8時から藤山と会い」
「東京地裁判決について話し合い」
「日本政府が迅速に東京地裁判決を正すことの重要性を強調した」のです。
 つまりふたりが会ってから、「指示」が出され、それが閣議にかけられるまで、全部で1時間しか、かかっていないのです。
 いったいなぜ、このような出来事が起こってしまったのでしょうか。


  「米軍駐留は憲法違反」と明言した伊達判決
 その背景を知るためには、この「極秘」公電が問題にしている「東京地裁判決」について、よく知っておく必要があります。
 19ページにあるように、1957年、東京都砂川町(現立川市)にある米軍基地内に、数メートル入ったデモの参加者23人が逮捕され、そのうち7人が起訴されるという「砂川事件」が起こりました。
 その裁判を担当した東京地裁刑事第13部(裁判長伊達雄、裁判官清水春三、裁判官松本一郎)は、判決のなかで「米軍駐留は憲法第9条違反」という前例のない判断を示しました。その判決の要点は、以下のとおりです。少し長くなりますが、きわめて重要な内容なので、最後まで読んでみてください。

「①憲法第9条は、日本が戦争をする権利も、戦力をもつことも禁じている。
 一方、日米安保条約では、日本に駐留する米軍は、日本防衛のためだけでなく、極東における平和と安定の維持のため、戦略上必要と判断したら日本国内外にも出動できるとしている。その場合、日本が提供した基地は米軍の軍事行動のために使用される。その結果、日本が直接関係のない武力紛争にまきこまれ、戦争の被害が日本におよぶおそれもる。
 したがって、安保条約によりこのような危険をもたらす可能性をもつ米軍駐留を許した日本政府の行為は、『政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないようにすることを決意』した日本国憲法の精神に反するのではないか。

 ②そうした危険性ををもつ米軍の駐留は、日本政府が要請し、アメリカ政府が承諾した結果であり、つまり日本政府の行為によるものだといえる。米軍の駐留は、日本政府の要請と、基地の提供と費用の分担などの協力があるからこそ可能なのである。
 この点を考えると、米軍の駐留を許していることは、指揮権の有無、米軍の出動義務の有無にかかわらず、憲法第9条第2項で禁止されている戦力の保持に該当するものといわざるをえない。結局、日本に駐留する米軍は憲法上その存在を許すべきでないといえる。

③刑事特別法は、正当な理由のない基地内への立ち入りに対し、1年以下の懲役または2000円の罰金もしくは科料を課している。それは軽犯罪法の規定よりもとくに重い。しかし、米軍の日本駐留が憲法第9条第2項に違反している以上、国民に対し軽犯罪法の規定よりもとくに重い刑罰をあたえる刑事特別法の規定は、どんな人でも適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条〔適正手続きの保障〕に違反しており、無効だ。したがって、全員無罪である」

 判決当日の新聞各紙夕刊の一面には、「米軍駐留は憲法違反、砂川基地立ち入り、全員に無罪判決」などの大きな見出しが、かかげられました。この画期的な判決はのちに、伊達昭秋雄裁判長の名前をとって「伊達判決」と呼ばれるようになります。

 

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