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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 ノースチャイナ・デイリー・ニューズ記事

2015年08月29日 | 国際・政治

 「外国通信員の南京に入る許可」は、なぜできないのか?

 南京における日本軍の略奪・強姦・虐殺などの蛮行について、
当時の南京は国際都市だったから、各国のジャーナリストたちが大勢いた。それなのに、当時日本に対して反日的な国々からも、正式な抗議は無かった。
などというような文章をよく目にする。しかしながら、南京陥落後もずっと南京に留まり続けた「各国のジャーナリストたちが大勢いた。」というのは事実ではないと思う。
 確かに、首都南京は国際都市であり、外国の公館や企業、報道機関、教会、学校その他があるため、大勢の外国人が駐留していた。しかしながら、その多くが日本軍による南京空襲や南京攻略に危険を感じて、その大部分が、各国のジャーナリストも含めて南京陥落前に南京を離れていたはずである。

 また、南京陥落後、南京難民区の国際委員会関係者が、連日、日本大使館宛に日本兵の暴行に関して抗議や要請をし、諸機関に働きかけてもいた。(467「南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道」など参照)。したがって、「正式な抗議は無かった」というのも、事実に反するのではないかと思う。

 そして、南京を離れた外国人ジャーナリストの中に、南京を離れた後も、懸命に南京の情報を集めて、様々な方法で、南京の悲惨な実情を世に伝えようと努力した人たちがあったことや、その文章を見逃してはならないと思う。(473「南京事件 ニューヨーク・タイムズ掲載記事」や468『南京事件 ティンバーリイ著「外国人の見た日本軍の暴行」』など参照)。 
           
さらに、    
 ”外国人ジャーナリスト、日本の新聞記者もそこにいっぱいいたのに誰も虐殺など見ていない
とか                     
 ”1937年の南京陥落当時、南京には200人近い記者やカメラマンたちが派遣されていました。
世田谷区よりも狭い南京市に、朝日新聞、読売新聞、東京日日、NHKなど、200人ものジャーナリストたちがいたわけで、数万人単位の虐殺などあれば、必ず誰かが話題にしているはずです。記者たちはニュースを探すために現地にいるのですから、虐殺を知らないわけがありません。

などという文章も、事実に反するものだと思う。外国人ジャーナリスト、F・ティルマン・ダーディン記者は「上海行きの船に乗船する直前、バンドで200人の男子が処刑されるのを見た」という記事をニューヨーク・タイムズに送っている。
 また、日本の新聞記者は従軍記者であり、その報道は軍の厳しい検閲を受けていた。従軍記者は、国際法違反の「捕虜虐殺」などを見聞きしても、それを自由に報道できる状況にはなかったことを忘れてはならないと思う。だから、「誰も虐殺など見ていない」と断定することはできないと思うのである。
 当時の従軍記者は、日本軍とともに行動し、日本軍に協力して、その戦況や戦果を日本に伝えるのが基本的な役目であり、見聞きしたことを自由に記事にしたり、話題にしたりすることができなかったことを踏まえる必要があるということである。そして「大本営発表」の報道が、戦後、「嘘」の代名詞のように言われるようになったことを、われわれ日本人は忘れてはならない、と思うのである。
 『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』1938年1月22日号の記事は、そうしたことを裏付けるものの一つであり、真摯に受け止める必要があると思う。

 下記は「日中戦争 南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」洞富雄(青木書店)からの抜粋である。
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                  『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』1938年1月22日号記事 

 日本の公式スポークスマンは、昨日の『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』(The North China Daily News)の社説について、同日午後、”はなはだしく誇張した”、”悪意に満ち”、”根拠がなく”、それに”日本軍の名声をけがす意図がある”と述べた。外国の通信員が、この日刊紙を引いて、問題の社説の長い引用文を海底電話で通信しようとした時、彼の通信が日本の検閲官によって拒絶されたことに言及すると、そのスポークスマンは、また、社説の中の事実の正確さに疑いがあると言ったのである。その通信員は英国総領事を通じて抗議文を提出したことを明らかにした。

 『マンチェスター・ガーディアン』(The Manchester Guardian)の中国通信員であるその質問者が、社説に書かれた数字の正確さを疑う理由があるのか、とスポークスマンに聞くと、
「この報道の完全な正確さを疑う十分な根拠があると」と彼は答えた。
「これらの数字がどの程度まで事態を表しているかに関して、なにか情報を得るとか、あるいはあなたの情報がどの程度のものであるかをわれわれに教えてもらうとかいうことはできないものだろうか。」─「われわれが集めた情報によれば、この新聞に報道された数字ははなはだしく誇張されたものであることがわかる。」
「それだけで、そうした新聞の報道を海外に電送することに異論があるのか。」─「もちろん、われわれはそれには反対する。」
「私が質問する理由は、今日、『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』の今朝の社説の大部分を引用した至急報を提出したからである。私はまた別の出所からの、個人的な南京情報を持っていたが、それは『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』が発表した数字を確認させるものだ。私は日本の検閲官と名乗る紳士から電話を受け、私の通信文を撤回する用意があるかとたずねられた。私がその理由を聞くと、彼はそれが新聞の報道にすぎないからだと言うのだ。
「私がだれにも影響されない出所からも同じ情報がきていると言うと、彼はもし私がそれを撤回しない場合には、差し止めると言うのである。実際に差し止めるつもりなのかと尋ねたが、彼はそのとおりだと答えた。それで、私は”好きなようにやりたまえ、だが、私は異議を申し立てる”と言っておいた。その後、私は英国領事館にたいして、日本当局に抗議し、私の通信をさらに妨害することを止めさせるよう要求したのである。」
 その通信員は、『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』の社説のような記事ならば承認されたであろうが、そのような報道が公表された後でさえも、海底電信で海外へ通信することは許可されないようだ、と語った。”あきらかに、検閲官の気に入らない情報は、差し止められるのだ”と、彼は断定した。
 長く気まずい沈黙がつづいた。
 1分か2分の間をおいて、スポークスマンは、”根拠もなく、日本軍の名声をけがす意図のある”ような”悪意に満ちた新聞報道は検閲官によって差し止められるだろう”と言った。
「このような報道が、”悪意に満ち”そしてまた”根拠がない”のか。」
─「そのとおりだ!」
 通信員は、情報がどこででも見つけられるほど公明正大な出所からもたらされたものなので、その報道は”根拠があり”、”悪意”については疑問の余地はない、と言った。
「それは見解の問題だ!」と、スポークスマンは言った。
「また、個人的な情報の出所については」と、通信員は答えた。「彼らは私の友人だった。これらは、彼らが述べたどの言葉も出所を示す目撃者からの報告なのだ。」
 スポークスマンは、”君が引証したような数字”を挙げる目撃者は見つけられないだろう、と言い出した。それに対して、通信員は、南京にそのような目撃者がいるのだ、とやり返したのである。
 別の通信員が、すでに述べられた人物や名前は置いて、南京状態について何か声明が出されないのか、と聞いたので、スポークスマンは答えた。「報道担当官は幾度も南京の状態について報告してきた。現在、その報告に付けくわえるものは何もない。われわれの一般的な印象では、南京の状態は急速に正常に復しつつある。」
 その後、ある通信員が、1、2名の外国通信員の南京に入る許可が保証されるかと質問したのに対して、スポークスマンは、”作戦上の必要性”によって、民間人はその陥落した首都に立ち入ることができない、と答えたのである。

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南京事件 ニューヨーク・タイムズ掲載記事

2015年08月24日 | 国際・政治

 日本では、 
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。”
 というようなことを言って、「南京大虐殺」はなかったと主張する人たちがいる。確かに、いろいろな部隊による、あちこちでの捕虜の虐殺を調べ上げ、その人数を報じるような記事は、南京陥落直後にはなかったと思う。しかしながら、南京陥落後一週間を経ずして、下記のようなF・ティルマン・ダーディン記者の、日本兵による大残虐行為と蛮行に関する記事が、ニューヨーク・タイムズに掲載されていることを見逃してはならないと思う。

 そして、こうした記事に符合する、「揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや」というような、第十六師団歩兵第三十三聯隊元日本軍兵士の何人かの証言があること【『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環(社会評論社)】や、当時の陣中日記に、「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」というような捕虜の殺害の記録が、いくつも残されていること【『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記』」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)】を無視してはならないと思う。

 下記は、「日中戦争 南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」洞富雄(青木書店)で取り上げられている1~6の6本の記事の中から、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日号に掲載された記事を抜粋したものである。
1、1937年12月18日号掲載記事(T・D 12.17 上海発 )
2、1938年 1月  9日号掲載記事(T・D 12.22 上海発  )
3、1937年12月19日号掲載記事(T・D 12.18 上海発 )
4、1938年 1月  9日号掲載記事(T・D   1. 8 漢口発 )
5、1937年12月19日号掲載記事(H・A 12.19 上海発 )
6、1937年12月24日号掲載記事(H・A 12.24 上海発 )
(括弧内のT・DはF・ティルマン・ダーディンの書いた記事を示し、H・Aはハレット・アベンドの書いた記事を示す。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー     『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 T・ダーディン記者報道
          
                                1937年12月18日号掲載記事  
  捕虜虐殺さる
   ────                                                                             
    南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
   ────                                                                             
  アメリカ大使館襲撃さる
   ────                                                                             
    蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥
   ────                                                                             
                                                    F・ティルマン・ダーディン
(12月17日、アメリカ軍艦オアフ号〔上海発〕、ニューヨーク・タイムズ宛特電)南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうける乏しい機会を失ってしまった。
 中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともにうちたてられると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害をうけることもなくなったと考えて、中国住民の間に安堵の気持ちが拡がったのである。

 少なくとも、戦争状態が終わるまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われた。日本軍が占領してから3日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。


  多数の市民虐殺さる
 一般市民の殺害が拡大された。15日、市内をひろく巡回した外国人は、あらゆる街路上で市民の死体を見た。犠牲者のうちには、老人や婦人や子供もあった。
 警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺されたが、あるものは野蛮なまでにむごたらしい傷を負っていた。
 恐怖や興奮にかられて走るものや、日没後に街路や小路で巡察隊に捕まったものは、誰でも殺されるおそれがあった。多くの虐殺が外国人の目撃するところとなった。
 日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよい程だった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれていたし、日本軍は何でも欲しいものを奪いとった。日本兵はしばしば中国人に略奪品を運ぶことを強制した。

 最初に要求されたのは食糧であったことは明らかである。それに続いてその他、有用な品物や貴重品がやられた。とくに恥ずべき行為は日本兵が難民から強奪したことで、難民収容所の集団捜索をおこなった兵士が金銭や貴重品を奪い、時には難民の所持金全部をとり上げることもあったのである。
 
 アメリカ宣教団の大学病院(鼓楼病院)の職員は現金と時計を剥奪された。その他の所持品が看護婦宿舎でも奪われた。アメリカ系の金陵女子文理学院の学部事務館に日本兵が侵入し、食糧や貴重品を略奪した。
 この病院と金陵女子文理学院の獲物は、米国国旗を掲げており、アメリカ人所有の建物であることを記したアメリカ大使館発行の中国語の布告書が戸口にはってあった。

アメリカ外交官私邸襲わる
 アメリカ大使の私邸さえも襲撃をうけた。パラマウント社のニュース・カメラマンのアーサー・メンケン(Arthur Menken)と記者は興奮した大使館勤務員から通報をうけて、大使の台所で日本兵5人と対決し、退去を要求した。兵隊たちは不満顔ですごすごとひきあげた。彼らの略奪品は懐中電灯1本だった。
 多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦されたと、外国人に報告した。これらの中国人は助けを求めたが、外国人はたいていは助けようにも無力であった。
 捕虜の集団処刑が、日本軍が南京にもたらした恐怖を、いっそう増大させた。日本軍は、武器を捨て降伏した中国兵を殺してから、元中国兵と思われる私服を着た男子を求めて市内をくまなく探しまわった。
 難民区のある建物で400人の男子が捕まった。彼らは50人ずつ一群に数珠つなぎに縛られ、小銃を持った日本兵と機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場へと護送された。
 記者は上海行きの船に乗船する直前、バンドで200人の男子が処刑されるのを見た。殺害には10分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。それからピストルで武装した日本兵多数がくしゃくしゃになった中国人の死体のまわりを無頓着にふみつけて歩き、まだ手足を動かすものがあれば弾丸をうちこんだ。
 この身の毛もよだつような仕事をやっている陸軍の部隊は、バンド沖に停泊している軍艦から海軍兵を呼んで、この光景を眺めさせていた。これを見物する軍人の大群はこの見ものに大いに興じている様子だった。

 日本軍の先頭部隊が南門(中華門)から中山路(中山北路)を市のビッグ・サークル(新街口)の方へ行軍した時には、少人数ずつ固まった中国人一般市民はどっと歓呼の声を挙げたのである。包囲攻撃が終わったことで市民たちの安堵の気持ちはきわめて大きく、日本軍が平和と秩序を回復するだろうという希望もたいへん大きかった。が、今では日本軍に歓呼を送るものは南京には一人もいない。

 日本軍は南京の町と住民から略奪をおこなって、中国人に憎悪の念を深くうえつけた。その押さえつけられた憎悪は、様々な反日のかたちをとって、何年間もくすぶり続けるであろうが、東京はそうした反日を中国から絶滅するためにこそ戦っていると公言している。


   南京陥落の惨害
 南京占領は中国軍の蒙った大敗北であり、近代戦争の歴史においても最も悲劇的な軍事的壊滅であった。中国軍は南京を防衛しようと企図して自ら包囲におちいり、ついで組織的に虐殺されるにいたった。
 この敗北は、何万という訓練された兵隊と何百万ドルの装備の損失をもたらし、揚子江流域の中国人の士気をを低下させた。戦争初期にあっては、その勇気と気力によって、中国人は2ヶ月近くも日本軍の進攻をを上海周辺にくぎづけにしていたのであったが。ドイツ軍事顧問団の一致した勧告と軍事委員会副参謀長白崇禧将軍の意見にそむいて、あの徒労に終わった南京市の防衛に許可を与えたことについては、その責任の大半は蒋介石総統にある。
 より直接に責任を負う者は、唐生智将軍とその麾下の師団指揮官らであって、彼らは部隊を見捨てて逃亡し、日本軍の先頭部隊の入城につづいて生じた絶望的な状況にたいして最善の努力をつくそうとさえしなかった。
 多くの中国軍兵士にとっては、2、3の出口しか逃げ道がなかった。若干の戦略地点に部隊を配置して、侵略軍を食いとめながら他の部隊の撤退をはかるため陣地を固守させるということもせずに、指揮官の多くが逃走してしまい、部隊を大混乱をひきおこした。
 下関へ通じる門を通って脱出し、そこから揚子江を渡ることに失敗した者は、捕らえられて処刑された。

 南京の陥落は、日本軍入城の2週間前から細部にわたって予言されていた。日本軍は広徳周辺および北方で対戦した装備の劣った中国軍を席巻し、南京入城の数日前に揚子江沿いに南京の上流にある蕪湖その他の地点を突破して占領した。こうして日本軍は中国軍の川上への退路を断ったのである。

 


   はじめは守備も強力 
 南京周辺数マイルの中国軍の見かけ上の防衛線は大した困難もなく突破された。12月9には、日本軍は光華門外で城壁に達していた。中国軍5万は城内に押し返され、最初は強硬な抵抗をおこなった。中国軍は城壁で、また城外数マイルにわたって日本軍の侵入に抵抗したので、日本軍は死傷者多数を出した。
 しかし、日本軍の重砲と飛行機がじきに城壁内外の中国軍を一掃し、榴散弾が特に多数の死者を出させた。その間、日本軍は城壁周辺に進出し、最初は西側から下関門(挹江門)を脅かした。
 
 日曜日(12月12日)の正午に、援護の厚い弾幕にかくれて侵略軍が西門(水西門)附近から城壁をよじのぼると、中国軍の崩壊がはじまった。第八十八師の新兵がまず逃走し、たちまち他のものがそれに続いた。夕方までには大軍が下関門の方へあふれ出たが、下関門はまだ中国軍の手中にあったのだ。
 将校たちは状況に対処することもしなかった。部下は銃を捨て、軍服を脱ぎ便衣を身につけた。

 記者が日曜日の夕方、市内を車で廻ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣に着がえてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた。
 
 数個部隊が月曜日(13日)にも日本軍に頑強に抵抗していたが、守備軍の大部分は逃走を続けた。何百人もの兵士が外国人に身をまかせてきた。記者はおじけづいた兵隊たちから何十梃という銃をおしつけられた。彼らの望みは何とかして接近する日本軍の手を脱れることであった。
 多数の兵が安全区委員会本部をとりまいて銃を渡しており、いそいで軍服を脱ごうとするあまり、門から構内に銃を投げ入れる者さえあった。安全区の外国人委員たちは投降する兵士を受け入れ、彼らを地区内の建物に収容した。


中国軍の三分の一、袋のネズミ
 日本軍は下関門を占領すると、市の出口を全部遮断したが、そのとき少なくとも中国軍部隊の三分の一がなお城内にあった。
 中国軍は統制がとれていなかったために、多数の部隊が火曜日(14日)正午になっても戦闘を続けており、これらの多くは日本軍に包囲されていて、戦っても見込みがないということを知らなかった。日本軍の戦車隊がこれらを組織的に掃討した。

 火曜日の朝、記者が自動車で下関へ向かおうとすると、およそ25名の惨憺たる姿の中国兵の一団に出合ったが、彼らはまだ中山路の寧波ギルドのビルに立てこもっていた。その後、彼らは降伏した。

 無数の捕虜が日本軍によって処刑された。安全区収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他、兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、市内で一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれた。こうした人々は集められて処刑された。

 多くのものが発見された現場で殺されたが、その中には、軍とは何のかかわりもない者や、負傷兵や、一般市民も入っていた。15日には、記者は数時間のうちに三度も捕虜の集団処刑を目撃した。そのうちの一度は、交通部附近の防空壕のところで100人以上もの兵士に戦車砲を向けて虐殺するというものであった。

 日本軍の好んだ処刑法は、十何人もの男を塹壕内に掘った横穴の入口に一緒に立たせて銃殺するやりかたで、こうすれば死体が壕内に転げおちる。そこで土をかけて埋めてしまうわけである。

 日本軍は南京包囲攻撃を開始して以来、市内は恐ろしい光景を呈していた。中国側の負傷兵看護施設は悲劇的なまでに不足しており、一週間前でさえも、すでに負傷者がしばしば路上に見られ、びっこを引いて歩いている者もあれば、治療を求めてのろのろさまよっている者もあった。

 
   一般市民に死傷者多数
 一般市民の死傷者数もまた多く、何千にものぼっている。開いている唯一の病院はアメリカ人経営の大学病院(鼓楼病院)で、その設備は負傷者の一部を入れるのにさえ足りなかった。     
 南京の路上には死体が累々としていた。時には、死体を前もって移動してから、自動車で通行することもあった。
 日本軍の下関門占領によって守備隊の大量虐殺が起きた。中国兵の死体は砂嚢の間に山積みされ、高さ6フィートの塚をなしていた。15日の夜がふけても日本軍は死体を片づけず、しかも、2日間にわたり軍用車の移動がはげしく、死体や、犬・軍馬の死がいの上をふみつぶしながら進んでいった。 日本軍は日本に抵抗すればこのように恐ろしい結果になると中国人に印象づけるために、恐怖ができるだけ長く続くことを望んでいるような様子である。
 
 中山路の全域にわたって汚物・軍服・銃・ピストル・機関銃・野砲・軍刀・背嚢が散乱していた。日本軍がわざわざ戦車を出動させて道の瓦礫を片づけねばならないところもあった。

 中国軍は中山陵園の立派な建物や住宅を含めて、ほとんど郊外全部を焼き払った。下関は焼けおち、大廃墟と化した。日本軍は立派な建物を破壊するのを避けたようである。占領にあたって空襲が少なかったことは、建物の破壊を避ける意図からであったことを示していた。
 日本軍は建物がたてこんだ地域に中国軍が集結していたところでさえも爆撃を避けたが、これは建物を保持するためのものらしかった。交通部の立派な建物が市内で破壊された唯一の政府関係のビルであった。これは中国軍によって放火されたものであった。

 今日、南京は恐怖政策におびやかされた住民を擁しており、彼らは外国人の支配のもとで死と責苦と強盗を恐れて暮らしている。何万という中国兵の墓場は日本の征服に抵抗する全中国人の希望の墓場でもあろう。

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「南京大虐殺」と日中の関係改善

2015年08月11日 | 国際・政治

 「南京大虐殺の虚構を砕け」吉本榮(新風書房)は、その「はじめに」
南京城に関わりを持つ1人として歴史に残る汚点を 見逃すことはできない。
と大書されている。そして、その中に

例え、戦に敗れたとはいえ、嘘で我が国の正史を塗りつぶすことや、全く汚れを知らないまま純潔な生命を祖国に捧げた戦友の死を犬死にさせるようなことだけは断じて許せない。大げさかも知れないけれど、それが生き残った老兵の果たさなければならない使命のように思えてきたのである。

とある。その気持ちはわからないではないが、こうした立場にこだわると、南京事件を社会科学的(客観的)にふり返ることはできないと思う。一旦、そうした個人の立場を離れ、日本軍がなぜ他国の首都南京に攻め込んだのかを含め、様々な資料をいろいろな角度から検証しなければ、「南京事件」の全体を明らかにすることは出来ないのであり、「南京大虐殺」を「虚構」と断じることは出来ないと思うのである。

 また、同書には「真相追求の一里塚として一兵士が世に問う一冊」と題して、犬飼總一郎氏(南京戦当時、第十六師団第九旅団の通信班長・陸軍少尉)が言葉を寄せている。その中に

南京問題は結局、現北京政権が決断しない限り解決できません。というのは、中日友好協会の幹部によると「30万大虐殺」は政治決定、つまり党首脳の決定だから変更できないということだからです。したがって、そのような非科学的な政治決定と関わりなく、わが国では自主的・客観的に真実を追求すべきだと信じています。

とある。しかし、こういう主張は相互理解を阻むもので、日中の関係改善にマイナスであると思う。
 中日友好協会の幹部とは誰であり、なぜ「30万大虐殺」は「政治決定」であるなどと言ったのか、「党首脳の決定だから変更できない」とは、どういうことなのか、全く不可解であるが、詳しいことは何も書かれていない。

 「南京事件をどうみるか 日中米研究者による検証」藤原彰編(青木書店)の中に「南京大虐殺の規模を論じる」として、孫宅巍氏の下記のような文章がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 南京大虐殺の規模に関する問題は、長年、国際学術界の大きな関心の的であった。中国大陸の学者は、数十年に及ぶ真剣で、並大抵ではない努力を重ねた調査、研究を経て、大量の確実な歴史的文献などの資料を調査閲覧し、1000人あまりにわたる生存者、証人を訪問・聞き取り調査をした結果、それらの事象がほぼ一致して示す結論を得た。つまり30万人以上の人々が大虐殺にあったという事実である。

 我々が南京大虐殺の犠牲者が30万人以上という大規模なものであったと認めるのは、充分な根拠に依拠している。調査が可能だった記録に基づくと、千人以上の虐殺が少なくとも10回あり、その犠牲者は19万人近い。この10回の代表的な集団虐殺には、以下が含まれる。12月15日、漢中門外での2000人あまりの虐殺、12月16日中山埠頭での5000人あまりの虐殺、下関一帯の単耀亭などでの4000人あまりの虐殺、12月17日、煤炭港での3000人あまりの虐殺、12月18日、草鞋峡での5万7000人あまりの虐殺、12月中三汊河での2000人あまりの虐殺、水西門外、上新河一帯での2万8000人の虐殺、城南鳳台郷、花神廟一帯での7000人あまりの虐殺、燕子磯江周辺での5万人あまりの虐殺、宝塔橋、魚雷営一帯での3万人あまりの虐殺。この他にも、規模はそれぞれ異なるが散発的な虐殺事件が870回あまりある。
1回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多いときは数十人から数百人だ。3つの比較的大きな慈善団体である紅卍字会、崇善堂、赤十字社の遺体埋葬記録のなかには、上述した10回の大規模な虐殺地点での数字以外に、紅卍字会では27回の虐殺、合計1万1192体の収容、埋葬。崇善堂には17回の虐殺、合計6万6463体の収容・埋葬:中国赤十字社南京支社には18回の虐殺、合計6611体の収容・埋葬、総計8万4266体の埋葬記録が残されている。以上より、集団虐殺は19万人、散発的虐殺は8万4000人、合計27万4000人あまりが虐殺されたとなる。また、以下のことも考慮に入れる必要がある。千人以上の虐殺は上述の10回だけではないし、散発的に虐殺された犠牲者の収容・埋葬に当たった団体や私的埋葬隊も上述の3団体だけではないので、虐殺事件や埋葬活動がすべて記録されるのは不可能なことだった。それ故、我々は集団虐殺と散発的虐殺の事実認定だけから、この大虐殺の被害者は30万人という驚異的規模であったという結論を得た。

 ・・・

 数十万人の軍人、市民が虐殺されたのは中国人民の大恥辱であることは指摘されなければならないが、このような屈辱を誇張する必要はない。誇張しても、中国人民は栄光も何も得られない。世界には無垢の人々が何人虐殺されれば、戦犯としての裁判が実施されるかというような法律規定はない。しかし、実際には、南京大虐殺のある一回の集団虐殺を根拠に、あるいは一埋葬隊の遺体埋葬を証拠にしても、松井石根、谷寿夫などの戦争犯罪者を断頭台に送ることは可能であった。故意の重複や証拠の数字の増量は、なんら実際的な意義をもたない。しかし、事実は尊重されるべきで、歴史は容易に覆せるものではない。詳細な事実を記した歴史文献と生存者の証言が、明白に、南京大虐殺の犠牲者が30万人以上であったことを証明している。これは揺るがぬ事実である。
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 こうした中国側の調査結果や証言と日本側の資料や証言を合わせて検証するのでなければ、第三者を納得させることのできる事実の解明は難しいと思う。
 ”「30万大虐殺」は非科学的な政治決定である”と、あたかも何の調査もなかったかのような態度をとるのでは、南京事件の検証は進まないと思うのである。

 日本は敗戦国であり加害国である。戦後50年の節目で、世界に向けて
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
と、時の首相が談話(村山談話)を発表したことを忘れてはならないと思う。

 また、著者は、
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 筆者が支那事変における南京攻略戦に関心をもつようになったのは、昭和19年4月から10月にかけての半年間、陸軍の兵士とそいて南京城光華門南側に駐屯していた頃からである。当時われわれの間では光華門のことを「脇坂門」と呼んでいた。それは南京攻略戦において脇坂部隊(歩兵第三十六連隊)が同門を破り、南京一番乗りを果たしたことに由来する。

 南京駐屯中の筆者は、その脇坂部隊の功績と大激戦のあとを偲ぶべく、機会ある毎に関心をもって
光華門およびその周辺を眺めたものであった。ところが、筆者の見渡す限りにおいては、光華門を中心に大激戦があったと認められる痕跡がほとんど見当たらなかったのである。砲・爆撃の痕は認められず、ただ、小銃か機関銃の弾痕と思われるものがところどころ城壁の煉瓦に刻み込まれているのを見掛けた程度であった。

 城内に入ると、南京戦以来、6、7年も過ぎていたとはいえ、戦争の痕跡など全くといってよいほど認められなかったのである。…南京駐屯柱の半年間、城内への出入りは、回数も覚えていないくらい多いが、街中で家屋、施設などの焼失、倒壊した跡は勿論、新しく修理、修復したと思われるものを見たことがなかった。
 とくに中山陵は、中山門外東方の山中にあるのに、全く無傷で、きれいに保存されていたのには驚いた。

  戦後復員して、「南京で三十万人の大虐殺事件があった」などとの噂を聞いても、全く信じられるものではなかった。復員の途中、列車の中からではあったが、広島の無惨な廃墟を見た。数十万人の大都市広島の全域が、一発の原子爆弾で瞬時にして灰燼と化しても、死者は十数万人であったと聞く。あのほとんど無傷できれいな街、南京で、30万人が虐殺されたなどと夢想だにできることではないからである。
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と書いている。しかしながら、「南京大虐殺」として問われているのは「武器を捨てた敗残兵や投降兵、無抵抗の一般中国人殺害」の問題である。原爆で破壊された「広島の廃墟」と「無傷できれいな街、南京」を比較して、「30万大虐殺」を「虚構」に結びつけるのはいかがなものかと思う。

 さらに、最も重要な問題は、著者が同書に、わざわざ下記のような「章」を設け、柏楊の著「醜い中国人」(張良澤・宗像陸幸共訳 光文社)を引いて、中国人の証言は信用できないとしていることである。
「南京大虐殺の虚構」を中国人の「嘘」や「偽証」によって完結させようとする姿勢では、関係改善は望み得ないと思う。
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第6章 中国人の偽証

第7章 中国人の嘘
 1 中国人の嘘つきの根本原因
 2 中国人の精神構造
 3 中国人の嘘の実態(具体例)
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 第5章では、「虐殺数の問題」を取り上げ、「崇善堂の嘘」という項目を設けて、その最後の部分で「ここにおいて、東京裁判における検察側が主張し、裁判所がこれを認めた”大虐殺数”の正確性の根拠とした崇善堂の提出書類は、全く架空のもので、嘘による証拠であったこと明白である」と書いている。
 しかしながら、井上久士教授(駿河大学)によれば、崇善堂は「せいぜい従業員5、6人の街の葬儀屋」などではなく、その主たる財源が不動産収入であり、南京近郊江寧県に1672.85畝の田地を持ち、長江中洲に1万3028.06畝の土地のほか家屋264室分を所有していたこと、そこからの地代、家賃で慈善事業を運営していたこと、また、当時の崇善堂の堂長「周一漁」が、放置された惨殺死体を見かねて自ら隊長となって「崇字掩埋隊」(崇善堂埋葬隊)を組織したこと。そして、1938年2月6日、周一漁崇善堂埋葬隊長名「南京市自治委員会」に宛てた書簡があること。その中で「査するに弊堂が埋葬隊を成立させてから今まで一ヶ月近くたち…」と述べて、崇善堂の自動車は民国24(1935)年製なのでバッテリーなど自動車修理部品が緊急に必要だとして、その補助を要請していること、さらに、埋葬隊は4つの分隊からなり、それぞれ主任一人、隊員一人、常雇員10人で構成されていたが、全く人手が足りず、日当を払い大量の臨時作業員を雇ったこと、現地の農民の協力も得たことなどがわかっているという。
 一部資料に基づいて「紅卍字会を除けば、埋葬活動に従事した組織は存在しなかった」と断定し、「崇善堂の嘘」というのは、いかがなものかと思う。

 日本人を、「東洋鬼」とか「日本鬼子」と呼ぶ中国人とは、関係改善の話が難しいように、南京事件を論じる書物にこうした「章」を設けて、中国人を突き放してしまっては、中国のみならず、周辺国の人たちからも、日本は信頼を得ることが難しいと思う。
 『南京大虐殺」への大疑問』(展転社)の著者、松村俊夫氏にも、同じように中国人を突き放す記述があった。日本が加害国であることを踏まえて、日本の歴史認識が、中国はもちろん、周辺国や世界中の人々から受け入れられ、信頼を得ることのできるようにしたいと思う。
 最近、安倍政権のもと、日本社会で進む歴史修正主義の動きを懸念し、世界の日本研究者ら187名が「日本の歴史家を支持する声明」を発表した。歴史の事実は、目先の利益や個人的な思いを離れて、社会科学的(客観的)に明らかにされなければならないのであり、真摯に受け止める必要があると思う。

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「百人斬り競争」 東京日日新聞 第一報~第四報の記事

2015年08月03日 | 国際・政治

 「百人斬り競争」の論争については、すでに裁判で決着がついているが、いまだに「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」などという主張が続けられている。 

 当時、南京からこの記事を送った浅海記者は、「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(「ペンの陰謀」本多勝一編(潮出版社)の中で、
連隊長とか旅団長のような高級指揮官は、われわれが普通にはかれらのそばではなく、最前線とかれらの位置との中間くらいのところに位置していたので、時に伝令を走らせてわれわれの誰かを招致して、かれらの部隊の「大きな戦果」を話してくれたこともありました。
 当時の従軍記者には、「談話」について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは「陸軍省から認可された」従軍記者だったからです。…”
と書いている。ありもしない「百人斬り競争」の創作記事を、実在の少尉の名前を使って4回にわたって送ることが、当時の従軍記者に可能だったとは思えない。

 にもかかわらず、2003年4月28日、すでに南京で処刑されている野田・向井両元少尉の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一氏らを提訴した。
 原告の一人、田所千恵子氏(向井元少尉の次女)は、東京地裁の第一回口頭弁論(2003年7月7日)で
私たち遺族は「百人斬り競争」の記事がもとで 長年にわたって苦しんできました。父たちの汚名を晴らし、私たち遺族が長年の精神的苦痛から解放されることを願っています。
と訴えたという。
 また第五回口頭弁論(2004年4月19日)で、原告の1人エミコ=クーパー氏(向井元少尉の長女)が、
父がなぜ見も知らぬ本多氏に、死語もムチ打たれ続けなければならないのでしょうか? 本当の『日本の恥』は、日本人でありながら自らの国や同国人たちの悪口を、真偽を問わず自らの想像で海外にまで撒き散らす者たちのことでしょう
と意見陳述をし、野田マサ氏(野田元少尉の妹)も
「優しく勇気があって人気者だった兄が無実の罪で処刑され、今また虐殺犯として歴史に残ろうとしていることを、私は絶対に許すことができません。兄のためにも、裁判を起こして、真実を明らかにしたい。
と訴えたという。そうした遺族の気持ちはわからないではないが、やはり事実を客観的に見つめることが何より大事だと思う。どんなに辛くても、村山談話の

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
ということは、日本国民すべてが共有しなければならない事実だと思う。そこから出発しないと、先の戦争が再び「聖戦」になってしまうのではないかと恐れる。

  「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と安倍首相は言った。そして、村山談話を継承すると言いながら、先の戦争における日本の「国策の誤り」は認めようとしない。GHQの逆コースといわれる政策でよみがえったかつての戦争指導層の考え方を、安倍首相は、基本的な部分で受け継いでいるのではないかと疑わざるを得ない。だから、同じような考え方をする稲田朋美議員(当時弁護士)が、この裁判に関わったのではないかと思う。

 『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』本多勝一・星徹・渡辺春己(金曜日)に「百人斬り競争」を報じた「東京日日新聞」の第一報から第四報が掲載されている。下記である。

 両少尉は、ともに捕虜の虐殺で話題の多い上海派遣軍、「第16師団(師団長中島今朝吾中将)」に属していた。そして、野田少尉は第19旅団(旅団長草場辰巳少将)・歩兵第9連隊(連隊長片桐護郎大佐)・第3大隊(大隊長冨山武雄少佐)の「副官」であり、向井少尉は同第3大隊「歩兵砲小隊」の「小隊長」である。連日白兵戦の先頭に立ち、日本刀を振り回すような立場ではなかった。したがって、野田少尉自身が地元の小学校の講演で「白兵戦で斬ったのは4、5人しかいない…」「並ばせておいて片っぱしから斬る…」と語ったというが、それが真実である思う。それは「武器を持たない無抵抗の敗残兵や投降兵、一般中国人の殺害」であり、国際法違反の犯罪である。そして、そうした虐殺があちこちで行われたことは、多くの証言で明らかになっているのである。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第一報>「東京日日新聞」(1937年11月30日付)
百人斬り競争! 両少尉、早くも80人 
               
〔常州にて29日浅海、光本、安田特派員発〕常熱、無錫間の40キロを6日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州をたつた3日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に断つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた2名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は56人斬り、一人は25人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県出身=、一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身=。銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
 
 「無錫進発後M少尉は鉄道線路26、7キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿って前進することになり、一旦2人は別れ、出発翌朝野田少尉は無錫を距る8キロの無名で敵トーチカに突進し4名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげ、これを聞いたM少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み55名を斬り伏せた」

 その後野田少尉は横林鎮で9名、威関鎮で6名、29日常州駅で6名、合計25名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近4名斬り、記者が駅に行った時この2人が駅頭で会見している光景にぶつかった。
 向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の敗けだ、俺の刀は56人斬つて刃こぼれがたった一つしかないぞ。
 野田N少尉 僕等は2人とも逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ。

※浅海(一男)=「東日」記者「、」光本=「大毎」京都支社記者(50年頃病没)安田=電信技師。
この取材場所(常州駅頭)で佐藤カメラマンが両少尉を撮影した写真は第四報記事と共に掲載された。

資料2 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第二報>「東京日日新聞」(同12月4日付)
急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過


[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 既報、南京までに「百人斬り競争」を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬(シノギ)を削る大接戦となつた。

  常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で、壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

  中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負うなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

  野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰うよ。   

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第三報>「東京日日新聞」(同12月6日付)
”百人斬り” 大接戦 89-78 勇壮! 向井、野田両少尉

〔句容にて浅海、光本両特派員発〕南京をめざす「百人斬り競争」の2青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの戦績は向井少尉89名、野田少尉は78名といふ接戦となった。

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<第四報>「東京日日新聞」(同12月13日付)
百人斬り”超記録”向井106─105野田 両少尉さらに延長戦


〔紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発〕南京入りまで”百人斬り競争”という珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
 野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は”アハハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬つたかこれは不問、結局「じゃドロンゲームと致そう。だが改めて百五十人はどうじゃ」と忽(タチマチ)ち意見一致して、11日からいよいよ百五十人斬が始まつた。11日昼中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬りドロンゲーム」の顛末を語つたのち、
 「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからじゃ。戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。11日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて、弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになつていたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ」
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)

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