真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本人戦犯自筆供述書 元満州国総務庁次長 古海忠之

2014年08月27日 | 国際政治

 もうすでに、戦後69年が経過したのに、中国が日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開した。(http://61.135.203.68/rbzf/index.htm)
  1950年代半ばに、中国戦犯管理所において、日本の軍人や官吏たちが自らの罪を認め記したものである。今頃その供述書を公開するのは、最近の日本の動きに対応するものであろうと思う。
      
  先ごろ日本は、領有権をめぐって議論のある尖閣諸島を、日中の「棚上げ合意」を無視するかたちで国有化した。
  また、近隣諸国が問題視し、国連事務総長さえ
「過去に関する緊張が、今も(北東アジアの)地域を苦悩させていることは非常に遺憾だ」との声明を発表しているにもかかわらず、A級戦犯が合祀された靖国神社に首相や閣僚、国会議員などが公然と参拝を繰り返している。
  さらに、日米同盟強化を掲げるのみならず、集団的自衛権行使容認の閣議決定をした。
  中国は、こうした日本の動きが受け入れ難いのであろうと思う。
  それにしても、供述書のネット上への公開は、考えさせられる。なぜなら、戦時中の数々の事実が、単なる過去の歴史としてではなく、恐怖や憎しみを伴った 体験として、追体験するかたちで、再び広く認識されることになれば、日中の溝はますます深まり、埋めることが一層難しくなると思うからである。また、ネッ ト上に公開されたことで、国際社会における日本の評価にも影響するのではないか思う。
      
  日本が近隣諸国はもちろん、国際社会に平和主義の国家として受け入れられるためには、戦時中の加害の事実を含めた正しい歴史認識が欠かせないと思う。過去との向き合い方では、ドイツを見習うべきであろう。
       
  日本が、秘かに国際法に違反する阿片政策を進めていたことは、すでに、
「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)や「証言 日中アヘン戦争」江口圭一(編)及川勝三/丹羽郁也(岩波ブックレットNO.215)「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)な どの文章の一部抜粋で紹介した(それらは、次のように題している。「戦争期の日本の国家犯罪”阿片政策”」「日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況」 「朝鮮における巧妙な阿片・モルヒネ政策」「海南島でアヘン生産-日本の密かな国策」「「阿片王」里見甫(里見機関)と関東軍軍事機密費」「日本の阿片政 策と日本非難の国際世論」「日中戦争の秘密兵器=麻薬」「日中戦争の秘密兵器=麻薬 NO2」「田中隆吉尋問調書-阿片・麻薬売買と軍事機密費」「田中隆 吉尋問調書と阿片・麻薬問題 NO2」)。
      
 
「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)では、関東軍参謀や陸軍省兵務課長・同局長など、長く軍の要職にあり、自身様々な謀略工作に直接関わった軍人「田中隆吉」が、自ら多額の機密費が阿片・麻薬売買から生み出されたことを指摘し、かつ「私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを拒み得ない。東条内閣に至っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた 。…」などと、軍の機密費が、「日本の針路を左右」するものであったと記していることも紹介した。
      
  そうしたことが単なる憶測ではないことは、下記の供述書の抜粋からも分かる。ここでは、
「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、今回供述書がネット上に公開された中のひとりである元満州国総務庁次長「古海忠之」の、満州国における「阿片政策」に関する文章の一部を抜粋した。出だしの文章が衝撃的であるが、様々な情報を総合的に考えると、否定し難い事実の証言であろう。
      
  なお、「阿片」が「亜片」という表記になっているが、そのまま「亜片」で通した。また、漢字のすぐ後にある( )内の片仮名は、同書でつけられている読み仮名である。
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            満州国亜片(阿片)政策に関する陳述
                                                  古海忠之
      
       阿片専売制の概要
      
  人類乃至(ナイシ)民族の身心弱廃より、延(ヒ)いてはその衰亡を齎(モタラ)す以外の何物にも非ざる亜片吸飲を許容、維持、又は助長するは、其の本質 に於て既に犯罪である。然れども、帝国主義的侵略に於ては、亜片政策の採用は最も必要なる常套手段にして、法律、制度などに依りて粉飾合理化せられ、被侵 略者の衰亡を培ひて自己の目的を確保すると共に、有力なる財政収入を挙ぐる副目的をさえ達し得るのである。
      
  満州国に於ては、1933年2月、関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由として、早くも採用せられる ことになった。斯くて中国人民に対する犯罪が開始されることになったのである。小生も、満州国官吏として各職務に応じて之に関係し、一役を演ずる人物とな つたことは当然であつて、其の顛末の概要は次の如くである。
      
  1933年2月、関東軍が熱河に対し軍事行動を開始する以前に於て、既に関東軍に於て亜片政策に関する研究に着手し、関東軍主(首)脳者参謀長小磯国 昭、参謀副長岡村寧次、第3課長原田熊吉と総務長官代理阪谷希一、及び財務部総務司長星野直樹の間に於て、亜片政策に関する根本方針が確定され居たること は明瞭である。2月初旬、星野直樹は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛利英菸兎(ヒデオト)、及一般会計科長たりし小生に対し「亜片専売を実施するの だが、専売の日系主(ママ)脳者としては誰が良からうか?」との相談を受けた事実がある。帝国主義的意識の持ち主であつた我々は、無論亜片専売に異議があ る筈もなく、結局現地には適任者見当たらず、難波経一(当時神戸税務署長)を招致することに決し、難波経一は2月下旬、新京に赴任し、亜片専売の疇備 (チュウビ:準備)に当たることになった。当時一番問題となったのは、専売の対照(ママ)たる亜片であった。熱河亜片は未だ入手の由なく、国内他地域参 品も唐突の際、入手極めて困難であって、結局厳密裡に難波経一を天津に派遣して北支方面の亜片を買集めしめ、一方外国亜片の輸入に依るの非道なる処置を取 つたのである。国外より亜片を輸入すれば、少なくとも其限度に於て亜片吸飲者を増加し、害毒を助長することは自明の理であるが、斯ることは固より意に介し なかった。

      
   
(此問題は、絶対厳秘に附せられてゐた。私は難波経一より亜片専売開設の苦心談として内証で聞 かされたものであり、其時期は当時私が錦州出張中(3月中旬──6月中旬迄)であつたのだから、3月末熱河民食問題で新京に帰った時か、6月中旬以降であ るか不明確である。難波は月余に亘り天津に在りて、約50万両の亜片を入手し、国内集荷の約20万両と合し、70万両の手持ちを以て亜片専売を開始した。 外国輸入亜片は「ペルシャ亜片であって、三井物産の手を経、約200万両(記憶明確ならず)であつて、其の価格は運賃込1両4元見当であつた。之等の事は 星野直樹、難波経一の責任に属する。外国亜片は爾後購入したことはなく、専ら熱河省を中心とする国内亜片に依つて専売は運営された)
      
  3月中旬、全満の亜片栽培を禁止し、亜片の栽培は熱河省に限定する方針を決定し、亜片栽培の許可制、販売許可制、国家の完全収買等を内容とする専売法が 実施せられた。亜片の栽培を熱河省に限定したのは、主として治安維持、及び取締上の関係であつたと言ふ。尚一方、熱河省に於ける亜片栽培助長の措置が講ぜ られた。此時以来、熱河省の亜片中心産業経済といふ其の畸形と罪悪性、従って思想的及肉体的堕落の維持乃至は助長が約束され、運命づけられる不幸に陥っ た。
      

   
(3月下旬、小生錦州在勤中、財政部税務司長源田松三が「全満他地域の亜片栽培を禁止し、熱河 省のみに之を許すことに政府で決定したから栽培に努めよ。但し亜片は全部政府に売渡し、之に違反するものは処罰さるべし」と言ふ趣旨の財政部名の伝単を提 へて錦州に来たり飛行機にて之を熱河省に撒布した事実あり)
      
  専売法に基き財政的処置が採られ、専売特別会計設置を見、専売特別会計予算(1933年4月──6月末迄)が成立し、専売所官制が発布になつたのは4月 と思惟す。機構は署長(満)副署長(難波経一)の下に総務科、収納科、販売科、製造科、緝私(チュウシ:取締)科を本署とし、地方に専売支所(奉天、吉 林、哈爾浜(ハルピン)、斉々哈爾(チチハル)、承徳)及び煙膏製造所(奉天)等が設置された。多数の緝私員(密売取締員)を置いたことは固よりであ る。

      
 
最初3ヶ月、予算は金額等全然承知しないが、1933年7月──1934年6月に到る専売特別会計予算は、大約700万円、専売益金の一般会計の繰入は370万円見当、其の当時の総予算の3分見当である。
   (この予算は、主計処長松田令輔、特別会計科長毛里英菸兎に依つて編成せられ、私も一般会計科長として相談に与り、署内会議には列席した)
      
  斯くして専売制度の下に満州国の亜片政策は推進された。専売当時は栽培許可制を採ってゐたとは言へ、それは単に取締上の事に過ぎず、作付け面積の指定の 如きは勿論なく、多多益々弁ずる状態であつた。専売署の収買量は逐年増加し、250万両程度から始まつて600万両を越すに到つた。それに比例して専売益 金は次第に増加し、300余万円が4千万円を越すに到つた。亜片の栽培面積が増加して、産量が上がつた事は言ふ迄もない。亜片に附物の密売買を含めば、莫 大な量に上つた。之に応じ、国民身心の弱廃虚脱を通じて反日本帝国主義的勢力の弱化を、財政収入の増加と言ふ商品附きで亜片専売は遺憾なくは収得していた のである。

      
 
此の制度には、尚見下し得ない他の一面を持つて居る。満州国専売署に於ては、亜片の収買に就 て官庁が直接収買に当たる制度を採らず、収買人制度を採用した。即ち地域を分かち、各地区毎に若干名の元受収買人を置き、其責任の下に多数の収買人を使用 して、直接農民から亜片を収買すると云ふ制度である。そして元受収買人は、一定資格を有する者から専売署が指定するのである。専売署は年毎に品質に基づく 等級別価格(上中下三階級と記憶す)を元受収買人に示して収買せしめ、主として承徳の専売支所に納入せしめる。この元受収買人は、一度専売本署から指定を 受けるや否や、特権者となり、農民に当たるわけであつて、茲に農民より搾取、又は欺瞞其他その種々の不正が叢生し、又は私腹を肥やして巨富を致す余地が多 分に存在する。官吏又は緝私員との間に発生した不正も相当件数に上ることは、難波副署長が「警察へ行くのも俺の仕事の一つだよ」と私に嘆じたことが、之を 証明してゐる。
      
   (亜片の収買価格は初期の頃は平均価格(予算に掲(ママ)上した)は1円50銭であり、中期には8円であり、売下価格は初期3円程度、中期には平均15円であった。後数次に亘り共に引き上げた記憶あり。特に売下価格に於いて其比率は多かつた。)

      
 
販売制度に就て之を見れば、全満を地区に分ち、各地区毎に元売捌人(モトウリサバキニン) が居り、此の元売捌人から区内の各零売所に売下げ小売するといふ制度で、元売捌人は、専売本署が一定条件具有者中から指定し、一定金額(取扱数量に応じ た)の担保を取つて営業せしめ、零売署は、専売支所が申請に基き許可する仕組である。之こそ一度指定又は許可を得れば、忽ち不労所得にありつく確実な特権 者たるを得るのであつて、此等収買及び販売組織を巡つて帝国主義者の手先どもが暗躍し、不浄の金で肥え太つたことは想像に難からずである。
      
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です
    

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ベトナム 200万人「餓死」とキムソン村襲撃事件

2014年08月16日 | 国際・政治
 1945年3月9日、日本軍はそれまで共同支配者であったフランスを排除し、インドシナ全域を日本の単独支配下においた(仏印処理)。そして日本軍は親日団体である大越(ダイヴェト)に村長や地主など村の上層部を組織し、米の供出などの対日協力を要請した。しかしながら、農村地帯にはこうした親日組織と対立するベトミン系の組織があった。そして、米の供出などを拒否する運動をした。時には、日本軍の米倉庫を襲い、米を分配したり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたという。キムソン村襲撃事件は、日本の軍政に抵抗するそうした組織を潰すために計画されたのである。
 
 「ベトナムの日本軍 ─キムソン村襲撃事件─」吉沢 南(岩波ブックレットNO.310)によると、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕の一部は、キムソン村襲撃事件の展示室になっており、そこには、「日本軍の進撃コースを示す地図、日本兵を迎え撃ったキムソン村の活動をキャンパスに描いた絵(8点)、爆撃による村の人的・物的被害の一覧、抗日烈士名簿、反日武装・経済闘争に関する日誌、村人が使った武器(銃、刀剣など)」が展示されているという。キムソン村の人びと以外ほとんど見ることのないこの展示は、日本兵の襲撃事件がこの村にきわめて大きな事件であったことを示しているというわけである。

 また、日本軍政下の1944年11月から45年4月までの期間に、キムソン村近隣一帯で、村自警団の集会やデモが6件、米供出拒否など経済闘争が17件があったという。さらに、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲ったり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたというのである。現ドーソン県庁近くのクニャン河で、運搬船を襲撃して米を没収した出来事は、今でもこの地方の誇りとして伝えられ、絵にも残されているという(その絵の写真が、同書30ページに掲載されている)。

 それは、ベトナム200万人餓死問題に日本の軍政が深く関わっていることを示しているといえる。日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題で「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」というような主張が、どのような根拠に基づくものか、と気になって、いろいろ調べていたら、「教科書が教えない歴史 自由主義史観研究会(代表 藤岡信勝)公式サイト」「特集 ベトナム独立宣言文」と題さ れたページ
(http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_9.html)に

ベトナム独立宣言文の中に、「日本軍が北ベトナムに進駐したことにより、200万人の餓死者を出した」と日本を非難しています。そのような事実があったのですか?

という質問に答えるかたちで、

我々は200万人の死者が真実か否かは分かりません。しかし日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです。

と、日本の責任を回避しつつ、むしろ米軍に責任を転嫁するかのような記述があった。当時ベトナムで米などを作っていた農民が多数餓死しているのに、日本兵が餓死したという話は聞かない。日本軍は、決戦に備えて2年分の米を備蓄していたという話がある。また、当時の仏印は、南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地として、他の戦線への「補給用」も求められていたという。さらに、大戦末期にはほとんど輸送できなかったようであるが、日本への輸出用も確保されていたともいう。著名な研究者が、この問題で仏印駐留部隊用の米以外を考慮することなく、「米軍の交通手段の破壊によるものです」などと主張されることは、なんとも不思議である。

 上記の、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲い、打ち壊して「米を分配した」という話や、「供出米を輸送している船を襲撃して米を没収した」という話が伝えられている事実をどのように考えるのだろうか、と思うのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              キムソン村襲撃事件の真相

 1945年8月4日にキムソン村とその周辺で起こった事件の概要は、ほぼ以上のようなものである。
 襲撃された側の被害について、まとめておこう。まず人的被害であるが、キムソン村の集落内で戦って死んだ者2名、焼死させられた老人1人(70歳)、待伏せ・追撃戦で死んだ他村の自警団員12人、ミンタン村の行方不明者6人、を数える。物的被害については、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕のパネルに具体的な数字が挙げられている。焼かれた家42戸、焼かれた籾40カゴ(1カゴにはだいたい20~25キログラムの籾が入る)、殺された水牛2頭、その他の物的被害総額は2万ピアストル。2万ピアストルがインフレの激しい当時どのくらいの価値に相当するのか適切な事例を示せないが、参考のために記しておく。

 5,60人の兵力による計画的な襲撃事件であることを考えると、この被害が大きいとは言えないだろう。特に、300人以上の村人が留まっていたキムソン村の被害については、最小限に食いとめられたと言ってよい。常時の村人口の約半数に当たる子どもや年寄りを他村に避難させたのは、適切な措置であったろう。その上、村内に残った者たちが、武器弾薬の面できわめて劣悪な状態にありながら、村自警団とその援助隊に組織され、訓練されていたことが、日本軍の長時間にわたる作戦を許さなかった大きな要因であった。
 したがってキムソン村の人びとは、日本軍によって襲撃され、被害をこうむったという側面だけでなく、その襲撃に抵抗して撃退したという側面についても、展示や話の中で強調したのである。

 日本軍のキムソン村襲撃で特徴的なのは、ベトナム独立同盟(ベトミン)系の農民運動を軍事行動の直接の対象とした点である。日本はインドシナの民衆
を基地や道路の建設に狩出したり、農民から米などの食糧を取り上げるなど、戦争遂行のために搾取と収奪を強化した。インドシナは一般的に、他の東南ア
ジア地域や太平洋諸島のように、兵士の死体が累積する戦場にはならず、比較的静かな状態を維持していた。ところが、1945年3月9日の「仏印処理」の前後
になると、日本・フランス間の武力抗争は激しくなり、また連合国の航空機による都市部への空襲も頻発した。また、共同支配者であったフランスを蹴落と
して唯一の支配者となった日本は、ベトミンを中心とする反日的な民族独立運動との対立を決定的なものとした。

 日本は、一方では、保大(パオダイ)皇帝を担ぎ出して、「独立」を付与し、知識人チャン・チョン・キム(Tran Trong Kim)に親日的な「傀儡内閣」を組織させた。こうすることによって、ベトナム・ナショナリズムの高まるうねりを分裂させようとしたのである。他方で日本は、独立運動の中核として民衆の支持を獲得しつつあったベトミンに対して軍事的弾圧で臨んだのである。しかも、ベトミン系の運動を弾圧するために、日本は、「傀儡政府」の武装部隊を育成し、その組織を弾圧の実行部隊として使ったのである。キムソン村襲撃事件は、インドシナ支配の末期段階における日本が、弱体化したがゆえに編み出した手の込んだ支配のからくりをよく示してくれているのである。


 すでに述べたように、キムソン村襲劇では、その実行部隊となったのが5,60名の保安(パオアン)兵で、数名の日本軍人が彼らを指揮していた。こうした編成の部隊を何というべきであろうか。「傀儡軍」と片付けられないのはもちろんであるが、日本兵と「傀儡兵」との混成部隊とするのも、日本軍の決定的な役割をあまりにも軽視していて適切な表現ではない。この武装組織は、日本が組織した一種の「植民地軍」ないしは「準植民地軍」というべきものであろう。
天皇の軍隊として「日本人」純血主義を頑固に守っていた日本軍は、兵員不足という現実によって、戦争の末期にいたってはじめてその原則に手をつけざるをえなかった。植民地に対する徴兵令の施行による朝鮮系・台湾系の「日本軍人」の誕生がその典型であるが、東南アジアの各地で急遽組織された「兵補」や「義勇兵」「保安(パオアン)兵」などもそうした政策の一つであった。

 本稿ではこうした歴史的意味を踏まえた上で「日本軍」「日本兵」と表現した。しかしなお微妙な問題が落ちてしまう危険性があるので、補足しておきたい。キムソン村の人びとは、日本軍の襲来の情報を事前に掴んでいた。その情報源は実はキエンアンに組織されていた保安兵からであったという。保安兵の徴募方法については分からないことが多いが、キムソン村で聞いた限りでは、日本軍が地主や村長など村の有力者たち(多くの場合、親日団体である大越(ダイヴェ゛ト)組織にされていた)に保安兵の人数を割り当てると、地主や村長たちが時には強制的に、時には温情主義的な勧誘によって、村の若者たちを選んで差出すシステムになっていたという。ドンさんたちは「兵士狩り」という表現を使っていたが、これが実態であったろう。


 こうしてかき集められた保安兵が簡単に「日本兵」化されなかったのは当然で、彼らから情報がベトミン側に流れても不思議はなかった。すでに詳しく見たように、キムソン村襲撃はやや中途半端に終わったが、日本軍の、こうした編成上の特徴に、一つの原因があったかもしれない。5,60人の保安兵に対して、数人の日本人軍人(高田さんの記憶によれば、指揮官は20歳代の少尉だった)、配属された一人の憲兵(つまり高田さん)という編成からすると、正門に据えられた機関銃はキムソン村の内部に向けられていたのだが、同時に、保安兵に背後から睨みをきかしていたとも考えられるのである。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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