真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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阿南陸相の自決と皇国日本

2020年05月24日 | 国際・政治

 昭和20年8月9日深夜、皇居の地下防空壕・御文庫附属室で、天皇の臨席を奏請したといういわゆる「御前に於ける最高戦争指導会議」すなわち「御前会議」が開かれました。それは、ソ連軍が満州に侵出し、長崎に原爆が投下され、国内外の戦争被害が急拡大している時のことです。
 論題は、ポツダム宣言を受諾して終戦するか、受諾を拒否してより多くの条件が認められるまで抗戦するか、ということでしたが、この日本の運命を左右する話の内容で、明治維新以来の皇国日本の姿が見えるような気がします。

 出席したのは、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長と、鈴木首相の意向で加わったと言われる枢密院議長の平沼騏一郎の七人で、陪席員が、迫水閣書記官長、池田綜合計画局長、吉積陸軍省軍務局長、保科海軍省軍務局長であったといいます。

 このうち鈴木首相、東郷外相、米内海相が終戦派で、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が抗戦派だったということです。
 「終戦秘史」下村海南(講談社学術文庫)に、その話し合いの経過が、下記のように簡単にまとめられています。

東郷外相はポツダム宣言無条件受諾のほかなき旨をのべた。
 阿南陸相は本土来襲を機として大打撃を与うべし、ただし提案せる条件でまとまり、終戦可能ならば賛成なりと述べ、
 米内海相は外相説に賛成し、
 平沼枢相は四十分にわたり各員へくさぐさの質問をつづけし後、外相の説に賛成の旨をのべる。
 梅津、豊田両総長は陸相の説により死中活、玉砕の決意をくりかえす。
 首相は依然として自己の意見を述べない、決をとる代りに、
 議をつくすことすでに数時間に及べど議決せず、しかも事態はもはや一刻の遷延も許さず。まことに異例でおそれ多きことながら、聖断を拝して本会議の結論としたしたく存じます。
 と言上した。首相の自席にもどるをまち、陛下が聖断を下すこととなった。平和と腹をきめられている陛下。八ヵ年侍従長として奉待したる鈴木貫太郎、また親しくかつては組閣の大命を拝し、次いでは小磯内閣に副総理の思召しを伝えられし米内光政の心持とぴったり意見の合致せる陛下は、まず外相の意見に賛成の旨をのべられ、ここに和平の終止符が打たれたのであった。その要旨は、
 大東亜戦は予定と実際とその間に大きな相違がある。
 本土決戦といっても防備のみるべきものがない。
 このままでは日本民族も日本も亡びてしまう。国民を思い、軍隊を思い、戦死者や遺族をしのべば断腸の思いである。
 しかし忍び難きを忍び、万世のため平和の道を開きたい。
 自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてもよい。
 以上はただその要旨をあげただけであるが、大東亜戦は予定と実際との間に相違があるといわれし内容には、
 九十九里浜の防備について、参謀総長の話したところと侍従武官の視察せるところと、非常な差があり、予定の十分の一もできていない。また決戦師団の装備についても、装備は本年の六月に完成するという報告をうけていたが、侍従武官査閲の結果では、今日に至るも装備はまったくできていない。かくのごとき状況にて本土決戦とならば、日本国民の多くは死ななければならない。いかにして日本国を後世に伝えうるのか。
 という、今までにまったくためしのない隠忍沈黙の型を破った陛下自らの思いのままを直言されたのであった。満場ただ嗚咽の声のみである。首相は立った、会議は終わりました。ただ今の思召を拝し、会議の結論といたしますといった。聖断とはいわない。思召を拝して会議の決議とし、第二回の会議は閉じられたのである。首相の車は官邸へ急いだ。時計の針は、はや八月十日午前三時を指している。…”   
 
 その後、日本は
七月二十六日付三国共同宣言ニアゲラレタル条件中ニハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スル要求ヲ包含シ居ラザルコトノ諒解ノ下ニ日本政府ハ共同宣言ヲ受諾ス
 と、ポツダム宣言に条件をつけて、受諾を伝えたのです。でも、この条件は、徳富蘇峰の下記の主張のように、明らかにそれまでの皇国日本の考え方と根本的に異なるものであったと思います。

且つ皇室の存続は彼等が許可するとしても、至尊(シソン)の主権には彼等は容喙せずとしても、日本国は至尊の統治し給う所でなくして、外国兵が屯在し、その総督たるマッカーサーが統治する事であるからして、至尊の主権も、至尊の御地位も、全くマッカーサーの下に置かせ参らす事になっている。主権は認めたというも、その主権自身は、米国の一軍人マッカーサーが、米、英、ソ、支の兵を率いて、日本に屯在し、その男の下に置かるるということになれば、恐れながら、陛下の主権は、全く紙上の空文であって、実際の主権は、マッカーサーに在りといわねばならぬ。それを以て、果して国体の擁護が出来たと言うか。皇室の尊厳が保たれたと言うか。洵(モコト)に以て驚き入りたる次第といわねばならぬ。

 だから、
 ”本土を最後の決戦場として戦うに於いては、地の利あり人の和あり死中活を求め得べく、若し事志と違う(コトココロザシトタガウ)ときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると存じます
 と徹底抗戦を主張した阿南惟幾陸相が、明治維新以来の皇国日本の考え方を主張したのだと思います。でも、いわゆる「聖断」に抗することはできず、宮城事件で決起した将校の”軽挙妄動”を抑える側に回りました。そして、自らの考え方を貫いて自決したのです。
 下記の抜粋文に、自決前、阿南陸相が井田中佐に声をかけた様子が、
「おれは死ぬがよいか」
  という。言下に井田は
「まことに結構でござります。私どももあとより参ります」
 と書かれていますが、この会話が皇国日本の軍人の考え方であったのだと思います。
 
 また、遺書に関して
「一死以奉謝大罪」と書きつづけてあった遺書の終わりへ、
「神州不滅を確信しつつ」と書き足した。辞世は、
  大君の深き恵みに浴みし身は言い残すべき片言もなし
 とあります。

  そして、阿南惟幾は五体を清め、”侍従武官時代に拝領せし下着を身につけ、”皇居へむけ拝礼し”腹を切ったのです。野蛮だとは思いますが、「君はずかしめらるれば臣死す」という皇国日本の軍人の死に方なのだと思います。
 

 ふり返れば、藤田東湖や吉田松陰の思想に共鳴した幕末の尊王攘夷急進派が、倒幕によって明治維新を成し遂げつくりあげたのは、「建国神話」を基にした天皇親政の「皇国(スメラミクニ)」でした。そして1882年、明治天皇によって陸海軍の軍人に「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」(軍人勅諭)下賜され、1889年には「大日本帝国憲法」が制定され、さらには1890年に「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発表されて、
我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない
 という世界にたった一つの国ができあがったのです。それは、藤田東湖の「神州誰カ君臨ス、万古天皇ヲ仰グ」という考え方そのもので、日本は諸外国と違って「神州」であるとされたのです。 
 また、江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の著書『宇内混同秘策(ウダイコンドウヒサク)』には、「皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」とありましたが、日本は「神州」であるが故に、領土を拡大し、近隣諸国を支配すべきであるという考え方に発展したのではないかと思います。それは、吉田松陰の著書「幽囚録」の「自序」に「皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…」でも読み取れると思います。
 そして、「幽囚録」には 具体的に下記のようにも書いていたのです。

”日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、愼みて邊圉(ヘンギョ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし。然らずして群夷争聚の中に坐し、能く足を挙げ手を揺(ウゴカ)すことなく、而も国の替へざるもの、其れ幾(イクバ)くなるか。

 また、吉田松陰の「士規七則」には、

一、凡ソ皇国ニ生レテハ、宜シク吾宇内(ウダイ)ニ尊キ所以ヲ知ルベシ。蓋シ皇朝ハ万葉一統ニシテ、世々禄位(ヨヨロクイ)ヲ襲(ツ)ギ、人君ハ民ヲ養ヒテ、以テ祖業ヲ続ギタマフ。臣民ハ君ニ忠ニシテ、以テ父ノ志ヲ継グ。君臣一体、忠孝一致、唯吾国ヲ然リトナス。
一、士ノ道ハ、義ヨリ大ナルハナク、義ハ勇因リテ行ハレ、勇ハ義ニヨリテ長ズ。

というようなことも書かれています。人命よりも”君臣一体”の「」が大事であるというわけです。明治維新以来の日本は、こうした考え方で戦争を続けたのだと思います。

 だから、ポツダム宣言の受諾は、皇国日本の事実上の崩壊を意味するはずだと思います。天皇やいわゆる「終戦派」の考え方は、人権や人命を尊重する西欧の考え方を取り入れたもので、新しい日本をスタートさせるものだったと思いますが、明治維新以来の皇国日本の考え方とは、根本的に異なるものだったと思います。

 にもかかわらず、ポツダム宣言の受諾後、そうした事実を認め、謝罪したり、反省したり、懺悔したりする発言や文章はもちろん、皇国日本の考え方の修正に関しても、昭和二十一年一月一日に”官報号外”として出された天皇の詔書、いわゆるの「人間宣言」の
”…朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。…”(官報號外 昭和21年1月1日 詔書 〔人間宣言〕国会図書館)
というもの以外は、ほとんど目にしません。
 そればかりでなく、敗戦に至る野蛮で残酷な戦争の反省や謝罪をすることなく、再び戦後の日本で活躍した戦争指導者が多数あったこと、そして、今なおそうした戦争指導者たちの流れをくむ人たちが活躍し、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」などと発言する首相が存在したこと、また、吉田松陰を「先生」として尊敬する人が、現在日本の首相であることなどを見逃すことができません。
 ポツダム宣言の受諾は、狡猾な支配者たちが、日本国民を都合よく統治するため、また、日本軍を他の国の軍隊よりも強い軍隊にするため、天皇をうまく利用していることを露わにしたのではないでしょうか。

 下記は「終戦秘史」下村海南(講談社学術文庫)から抜粋しました。
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                    第三十四章 阿南陸相の自決

下 死出の杯
 霞ヶ関と三宅坂から赤坂見付上へそれぞれ一線を引き、その底線にはドイツ大使館にとなり陸軍省の敷地がある。元の陸相官邸と道路をへだて、陸軍大臣副官の役宅であったささやかな一階建ての家が、今は陸相の官邸になっていた。
 時は八月の十四日、その夜はことのほかむし暑い。サイレンの音は断続して聞える。熊谷、前橋はじめ関東の都市は空襲に見まわれていたころである。時刻ははやあくる十五日の午前一時半になっている。桜田の濠をへだてて筆者等一行は二重橋内近衛屯所にて剣つき銃の兵隊さんに囲まれ、小さい部屋にすし詰めにされ無言の行を強いられていた頃である。阿南陸相の義弟、軍務局軍務課内政班長の竹下正彦中佐は官邸戸口のベルを押す。護衛の憲兵や女中たちはよいところへ見えたとばかり主人の居間へ案内する。床はのべられ白い蚊帳がつられてある。その奥で陸相は机によりて筆をとっている。中佐の方へふり向いて、いつにないとがめるような語調で
「今頃何しに来た?」
「……」
 竹下はだまっていると、いつもの温顔にもどった陸相は語をつづけた。
「よく来た、まあはいれ、竹下……いよいよ今夜かねての覚悟にもとづき自刃する……」
「閣下の御覚悟は御もっとも千万です。このほどから竹下も予感しておりました。その時期も今夜か明夜かと思うておりました。けっしてお止めいたしませぬ」
「お前も同感か……そうか予感していたか?」
「このほどポツダム宣言受諾に伴う訓示の折りに、いつも我々はというところを、諸君はどこまでも御国のために力のかぎりつくさねばならぬといわれた。その時ハッキリ御覚悟のほどが私の胸にこたえました。
「そうか……そりゃよかった、おれはじゃまされはせぬかと気にしていたのだが、そりゃよかった、よいところへ来てくれた。……机のわきに膳がある、徳利もいっしょに持ってきて……さあ、今夜は大いに飲みかつ大いに語ろう」
 すっかり上機嫌になる。二人はサァ一杯一杯と、かたみにしげく杯をとりかわしはじめた。かれはもともと相当な左利きであったが、満州事変以来その身戦線にあると否とを問わず、もはや酒に親しむべき時にあらずと、ふっつり酒杯を手にしなかった。その阿南は今自決を前にし最後の別杯をあげる。さすがに酔いが廻ってきた陸相を見て気になった竹下は、
「ひさしぶりに飲むと酔いがまわりますよ」
「そうだ……。久しぶりの酒で血のめぐりはよくねる、出血が多くなるから、たしかに死ねるね……」
「しかし、あまり飲みすぎ仕損じてはまずいですから……」
「そうさ……ピストルとか青酸加里だと始末はよいが、ハラキリとなると仕損じなしとはいえない。もししくじったらよろしく始末してくれ。だが、おれも剣道五段だ、腕はたしかだ、安心してくれ」
 杯をおき、筆を手にした陸相は、「一死以奉謝大罪」と書きつづけてあった遺書の終わりへ、
「神州不滅を確信しつつ」と書き足した。辞世は、
  大君の深き恵みに浴みし身は言い残すべき片言もなし
とある。
「これは戦地に出る時いつもの俺の心境だよ、そこでこれはおれの身だしなみだが、今夜は風呂にはいって五体を清めてある。自決の時にはかつて侍従武官時代に拝領せし下着を身につける。これはお上のお体につけられた品だから……それから畳の上は武人の死場所でない。さりとて外へ出ては見張りに妨げられるから、縁側で皇居の方を向いてやる」
 阿南惟幾は座を立った。衣を脱いで恩賜の下着と着かえた。その上へ勲章を全部佩用(ハイヨウ)せる軍服を重ねてみて、
「竹下どうだ、堂々たるものであろう」
「お見事です」
 期せずして両人はぴったり抱き合った。今生の別れと、阿南と義弟のかたみに抱きしめた手はなかなかはなれない。やがて軍服をぬいで、
「竹下……あとでおれの亡がらへかけてくれ」
「承知しました」
 その時、軍服のポケットから、十八年武漢作戦に戦死せる亡き子惟晟(コレアキラ)の写真を見た時、竹下は思わず顔を伏せた。明治天皇に殉じて自決した時にも、乃木将軍は旅順で戦死した二人の亡き子の写真を懐中にされていたと聞いている。夜は次第にふけて、はや午前三時を過ぎたらしい。竹下中佐が陸相に顔を合わせた時から胸にたたんでいたのは、今夜は畑中少佐等一党がてんでできない相談だが、近衛の古賀参謀と手をつないで兵をあげ、聖旨をひるがえし終戦の詔勅の放送をとりやめようと猪突する気配であった。今はそんなことを企てても森近衛師団長は断乎として動かないから、頭から問題にならない。しかし止むに止まれぬ血気の勇にはやり、同士の忠告にも耳をかさなかった。今陸相に事情を報告すれば陸相としてはだまっておけない。まのあたり陸相はまさしく死すべき時と処を得つつある。この際この時、阿南惟幾の自決は戦局収拾のための大きなヒットである。陸相の決意自決を妨げてはならぬと、今まで口にせずにおったのであるが、いつまでもそのまま胸に収めかねて、そうした気配のあるという情報を話すと、阿南は従容として、「ナァニ東部軍は立はしないよ」とただ一言もらした。この時井田中佐は陸相官邸をたずねて来た。会わぬと面会を断ったが、竹下中佐の取りなしで部屋へ通される。陸相の白装束の仕度を見て、ハッと井田は面を上げ、陸相の顔を見守ると陸相は、
「おれは死ぬがよいか」
 という。言下に井田は
「まことに結構でござります。私どももあとより参ります」
「ナニッ」
 陸相の平手は、井田の横ほおをピシャリピシャリピシャリと三つつづけて打った。
「おれは今陸軍の責を負うて自決するのだ、お前たちこそあとへ残って時局を収拾し、日本の再建に力をいたさねばならぬ。すぐ行け……」
 なにを馬鹿なといわぬばかりにしかり飛ばす。ハイと一言うけ答えた井田中佐は、官邸をあとに陸軍省にかけつけた。
 その時である、森近衛師団長が射殺されたという電話がはいる。
「おおそうか……森がたおれたか……今夜の御わびもいっしょにする」
 陸相は眼をつぶって皇居へむけ拝礼した。「ただ今大城戸憲兵司令官が参りました」という取次がある。もう時刻は四時をすぎている。
「竹下、お前司令官にあってくれ」
 と竹下を応接間へやったあとで、刀は陸相の腹へさされたのであった。そこへ林陸相秘書官は近衛師団暴動の件につき陸相に至急登省ありたき旨を竹下中佐に伝え、さらに奥の間にはいる、陸相ははや割腹している。またまた折りかえしいそぎ竹下中佐へ知らせる。一同かけつける。陸相はすでにのどを切りつつあった。
「介添えいたしましょうか?」
「無用、あちらへ行け」
 のどは静脈だけ切れてあってまだ息が通っている。医師がかけつける。カンフルをといったが故人の志にあらずととりやめる。義弟竹下中正彦うやうやしく介添し、三度陸相の死をたしかめ、陸軍省より引きつづく電話にせき立てられ、官邸をあとに市ヶ谷へかけつけた。
 陸軍省では井田中佐は竹下中佐にいっしょに陸相に殉死しようとくどくせまる。竹下は君は陸相の最後のことばを忘れたのか、死んではならぬといっても承知しない。井田中佐には酒井少佐が尾行してあなたが死ぬならまず自分を殺してからとばかりに、ぴったり井田中佐に付ききりになって一日また一日そばをはなれない。都下から地方から一味の青年将校は相次いで市ヶ谷へかけつける。いつのまにか自ら死せんとする人たちが、これら馳せ参じた人たちをなだめる役にまわることとなった。
 かくのごとくして無血終戦に大きな役割を演じた阿南陸相は自決した。十五日の朝陸相のなきがらの前に私は次の一首を供えた
 抜くはやすく納むるはかたき剣太刀身に引きあてて世を去りぬ君は

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一億玉砕し、民族の名を青史に止むることこそ本懐(阿南陸相)

2020年05月19日 | 国際・政治

 ポツダム宣言の発表を受けた日本政府は、1945年7月27日、その内容を論評なしに公表しました。その受諾をめぐって、宮中「望岳台」近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で、8月9日と14日の二回、御前会議が開かれています。そして、いわゆる受諾の「聖断」が下されたわけですが、「終戦秘史」下村海南(講談社学術文庫)に、その時の天皇の発言が「御錠(ゴジョウ)」として、掲載されています。
 その内容は、日本の戦争がいかなるものであったかを示しているように思います。特に、

一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが…”

 という部分を見逃すことが出来ません。この天皇の発言通り、戦況の詳細をほとんど知らなかった国民に対する当時の新聞報道は、「聖戦完遂」を主張したり、「笑止、対日降伏条件」などという、ポツダム宣言受諾拒否を主張するものであったようです。

 また、天皇が心配した通り、ポツダム宣言受諾の動きを察知した陸海軍将兵の一部が、二・二六事件をくり返すかのように決起します。大日本帝国憲法や教育勅語の方針に基づく教育を受け、軍人勅諭や戦陣訓をたたき込まれた将兵にとっては、降伏はあり得ず、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」というような思いを持って決起したのです。

 御前会議で、ポツダム宣言の受諾に反対した阿南陸相は”
”…今日と言えども、必勝は期し難しとするも必敗ときまってはいない、本土を最後の決戦場として戦うに於いては、地の利あり人の和あり死中活を求め得べく、若し事志と違う(コトココロザシトタガウ)ときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると存じます

 と主張したとのことですが、この”日本民族は一億玉砕”しても、歴史書に書き残されれば”本懐”であるという主張が、明治維新以来の皇国日本の考え方なのだと思います。

 『國民新聞』を主宰した徳富蘇峰も、敗戦直後『頑蘇夢物語』」(講談社)に
敵が原子爆弾を濫用したとしても、その為めに大和民族が一人も残らず滅亡する心配はない。・・・日本国民が仮にその半数である四千万となっても、皇室は厳として国民の上に、君臨し給う事は確実である
 などと書いて、降伏を非難し、
此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ
と嘆いたのですが、こうした阿南陸相や徳富蘇峰の考え方が、藤田東湖や吉田松陰などが主導した尊王攘夷急進派による明治維新以来の皇国日本の考え方であり、思想なのだということです。神の国、皇国日本に、降伏はあり得ないのです。

 だから、宮城事件の決起将校も、二・二六事件の決起将校同様、自らが学んだ皇国日本の軍人教育と相反する動きを受け入れることが出来なかったのだと思います。
 前述の天皇の”陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう”という言葉は、そのことを踏まえたものではないかと思います。


 言い換えれば、いわゆる「聖断」に基づくポツダム宣言の受諾は、戦地で命がけで戦った陸海軍将兵や”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”という戦陣訓の教えに従って命を投げ出した、将兵に対する重大な裏切り行為であり、説得は困難だったということです。

  だから、天皇の判断に基づくポツダム宣言の受諾は、現実的で常識的な判断であり、さらに犠牲者を増やすことを止められたということで否定されてはならないと思いますが、戦時中、人命を軽視し、人権を無視して、侵略戦争を継続した政治家や軍人のポツダム宣言受諾の裏切りは許されることではなく、きちんとした反省や謝罪が、受諾決定の前になされなければならなかったのではないかと思います。

 そういう意味で、阿南陸相の自決は、人命軽視の流れの中にありますが、筋が通っていると思います。

 戦後の日本は、そうしたことが有耶無耶 で、徳富蘇峰が指摘したように、戦時中の指導者が、戦後も平然と活躍しているのです。 

 下記は、「終戦秘史」下村海南(講談社学術文庫)から抜粋しました。
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                   第二十五章 終戦の聖断

 吹上御苑のの大奥、六日以前に親しく咫尺(シセキ)して二時間にわたり単独拝謁したる生々しき思い出の御所、といっても見るからささやかなる建物の玄関先に近く防空壕の入口がある。降りて隧道はかなり長い。ややありて右に折れ会議室に入る。御席に面し二列の椅子がならんでいる。右端から鈴木首相、平沼枢府議長、つづいて阿南陸相等閣僚五六、左のはしが梅津参謀総長と豊田軍令部総長にてとまり、後列は我等残りの閣僚たち、そのうしろに池田綜合計画局長官、迫水翰長、吉積陸軍、保科海軍両軍務局長が着席し、出御をお待ちしている。臨御直前の静けさ、しわぶきの声が折々に静寂なる空気を破っているだけである。ほどなく蓮沼侍従武官長の先導にて出御せられる。一同長揖(チョウユウ)の後鈴木首相はうやうやしく、その後の経過を漏れなく要約して言上した。閣議には約八分が原案に賛成せるも全員一致を見るに至らず、ここに重ねて叡慮を煩わし奉るの罪軽からざることを陳謝し、この席上にあらためて反対の意見ある者より親しく御聞取りの上、重ねて何分かの御聖断を仰ぎたき旨具状したのであった。
 首相の具状終わりて両総長および陸相は相次いで立ち、声涙ならび下りつつ、このまま受諾しては国体の護持が案じられるという観点から、るる切々条件を留保すべし、然らずんば死中活あるのみという意見が具陳された。その内容はあまりにもしばしば耳にしながら、さて記憶に残るような頼りになる耳新しい取りとめた何ものも期待できなかった。抗戦を続けてどこに勝算があるのか。死中活というが、千が一、万が一にも活がなくなった。いろいろと具陳する意見のすべてが抽象的な概念論、感情の悲鳴に外ならない。それよりも何故に今日の事態となりし現実の敗局を来たせる責を引きて、陛下へまた広く国民へ心ゆくまで陳謝しないのか、万策つきながらもかくのごとき対策ありと具体的な意見を述べないのか。ことに始めて聞いた豊田軍令部総長の全然予想だも及ばなかった雄弁宏辞(ユウベンコウジ)には驚きを禁じ能わなかったが、そこに私たちの聞かんとする一語すら見出でなかったのは遺憾の極みであった。こうした具状を耳にしながら胸にわきいずる感想は、鈴木首相の平時口にせし皇道と臣道ということであった。「君はずかしめらるれば臣死す」という古語がある。将軍たちはまさしくそうした心持であると察する。将軍たちは罪万死に当たる。一身はもともと捧げてある。しかしこのままでは君ははずかしめられる。国体の護持は覚束ない。懸念に堪えない。死中活あり、必ずしも絶望したものではないという心持は、いかにも軍人の面目として諒とせられるが、かりに原子爆弾なくとも、またソ連の参戦なくとも、果たして死中に活がありうるのであろうか。今や問題は君がずかしめられるという程度のものではない。さらにさらに深刻なのである。国土も失われ、民族もあげて日本そのものの破滅を招来せんとしている。本も子もなくならんとする時に、臣道よりも日本国と八千万の民族を念とする皇道のさらに重く且つ大なることを念とせざるを得ないのであった。
  地上より大和民族をうせよとか一億玉砕言何ぞやすき
  国をこぞり亡べよといふか死中より活をといふも言何ぞやすき
 阿南、梅津、豊田の反対論をうけて受諾論があるかと思ったが、この前の聖断によりもはやその要なしというのだろう。結論はすでに決まっている、今は一刻の時も惜しい、ゆるがせにできないのである。やがて陛下のおことばを拝することとなった。時十四日午前十一時ごろである。
 御錠はいい知れぬ感激のあとであって、そこには原稿もなく速記もない。まだ亢奮のさめやらぬ中に私は生々しき心覚えのままメモをとったが、この御錠こそ終戦の中核をなすものであるから、左近司国務相、太田文相、米内海相の三君の手記とも照らし合わし、さらに鈴木首相の校閲をへた。されだけに御錠としては最も真を写したものであることを明記しておく。
  
    御錠(ゴジョウ)
 外に別段意見のなければ私の考えを述べる。
 反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方には相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるいうのも一応もっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えてもらいたい。
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるにしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
 私は明治大帝が涙をのんで思いきられるたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在って陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うとき悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に在りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣はともに努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要とあらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。
 以上は私の考えである。

 御錠を承っているうちに頭は次第に下っておもてを上げる者もいない。忍び泣く声がここにかしこに聞こえてくる。御ことばのふしぶしに胸を打たれる。たとえ我が一身はいかにあろうとも、国は焦土と化し、国民を戦火に失い、何んとして祖宗の霊にこたえんやという御心を拝して、涕泣の声は次第に高まってくる。さらに為すべきことはいとわない、マイクの前に立ってもよいと仰せらるるに至り、忍び声を止めもあえず声をあげた。ここにもそこにもせき上げしゃくりあげる声が次第に高くなる。陛下の白い手袋の指はしばしば眼鏡を拭われ、ほおをなでられたが、私たちはとても正視するに堪えない、涙に眼鏡もくもってしまった。御錠が終りて満室ただすすり泣く声ばかりで有る、しゃくり上げる声ばかりである。やおら総理は立ち上がった。至急詔勅案奉仕の旨を拝承し、くり返して聖断を煩わしたる罪を謝しうやうやしく引き下がった。陛下は席をたたれた、一同は涙の中にお見送りした。泣きじゃくり泣きじゃくり一人一人椅子を離れた。長い長い地下壕をすぐる間も、車中の人となっても、首相官邸に引き上げても、たまりの間にも閣議の席にも、思い出してはしゃくり上げ、涙は止め処もなく流れる。記者団を前にしても私はせき上ぐる涙をとどめもあえず、問う者も答える者もついに声をのんで不覚の涙にくれたのであった。
 私のメモには「その夜もあくる日もあくる夜も、そのまたあくる日も夜も、思い出してはむせび思い出しては泣き、当時をしのびて胸迫り筆は進まなくなった。今宵はここに筆をとめる」と記してある。
 建国二千六百年やぶれたるためし知らざる国敗れたり 
 民草をあはれみたまふ大御心おもひあげまつり涙せきあへず
 今さらに何といらへんすべもなし面を伏してただ涙する 
 聞くがうちにまさ見にたへず頭下りすすり泣く声そこここに聞ゆ

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皇軍は、骨の髄まで、腐っていた(徳富蘇峰NO8)

2020年05月12日 | 国際・政治

 敗戦後、日本軍の実態が明らかになると、徳富蘇峰は、 
実に我が皇軍は、骨の髄まで、腐っていたではないかと、思わるる程の事が、随所から暴露されつつある。これ迄は一切臭い物に、蓋をしていたから、判らなかったが、その蓋の全部といわず、若干を取り除けたる爲めに、初めて皇軍の真面目なるものが判かって、実に言語道断であるという事を知った。
 ということで、”予はここに一大懺悔をする”と自らの過ちを認めます。
 私は、いろいろな事実が暴露されて仰天したのは、徳富蘇峰に限ったことではないと思います。だから、正しい情報が伝えられていれば、日本は、あんなに残酷で馬鹿げた戦争を続けることはなかったと思うのです。
 でも、徳富蘇峰の「敗戦の原因」に関する記述には、納得できません。徳富蘇峰は「敗戦の原因」について『頑蘇夢物語』一巻十~二十)でいろいろ論じていますが、「建国神話」を頭から信じているためか、全体的な歴史の流れを無視しており、末梢的な指摘にとどまっていると思います。

 徳富蘇峰は、「敗戦の原因(二)」で

敗戦の原因に立ち入りて吟味せんに、数え上ぐれば山ほどある。しかるにその主なる一は、戦争に一貫したる意思の無きことである。言い換うれば、全く統帥力無きことである。”として、”我が大東亜戦争は、誰れが主宰したか。それは申す迄もなく、大元帥陛下であることは多言を俟たぬ。しかも恐れながら今上陛下の御親裁と、明治天皇の御親裁とは、名に於て一であるが、実に於ては全く別物である。

 と昭和天皇の統帥力の欠如を、敗戦の原因の”主なる一”にあげています。

 もちろん、そういう側面はあるだろうと思いますが、私は、日本の敗戦は大東亜戦争のずっと前から決定づけられていたと思います。
 それは、姑息な手段を用いた尊王攘夷急進派による倒幕の戦いや、倒幕後豹変して進めた開国政策、また、西洋の法や立憲主義の政治体制に学びながら、市民的自由権のほとんどない「皇国日本」をつくりあげた政治、また、薩長を中心とする藩閥政治や要職独占による汚職とその隠蔽の動きのなかで、徐々に決定づけられていったように思います。「皇国日本」の思想は、偏狭で欲深く、普遍性を欠いていたため、”万古不易”などあり得なかったと思います。

 江戸時代後期の思想家、佐藤信淵の著書『宇内混同秘策』や、明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰の「幽囚録」が、あるべき「皇国日本」を指し示しているとして、戦前・戦中に高く評価されていたということですが、『宇内混同秘策』や「幽囚録」で示されたような考えで突っ走れば、日本の敗戦はさけられなかったと思います。  

 2018年、大相撲の巡業の際、土俵上で倒れた市長の救命処置のため土俵にあがった看護師の女性に対し、相撲協会の関係者が、土俵から下りるように場内放送で促したことが問題視されました。古来より相撲は神事と深い関係を有していたとのことですが、特に、江戸中期以降の大相撲は、神道の影響を強く受けるようになったといいます。そして、「土俵は神聖なる場所」であるため、「穢れ」の対象である女性は土俵に上がれないというわけです。人命よりも、神道の「穢れ」の考え方を優先する場内放送は、当然のことながら議論を呼びました。差別的で、人命尊重の近代法の考え方と相容れないからだと思います。

 同じように、幕末の尊王攘夷急進派は、「異人は神州を汚す」として、開国政策を進める幕府を非難し、攘夷を掲げて倒幕の運動を展開したのです。そして、いわゆる「異人斬り」をくり返しました。「穢れ」の観念は、「神道」特有のものではないかも知れませんが、女性や外国人など「人」を「穢れ」の対象とするのは、近代法とは相容れないものだと思います。
 見逃せないのは、倒幕に成功し、権力を手にした尊王攘夷急進派が、すぐに「攘夷」を捨てて開国に転じ、なおかつ「建国神話」に基づく「皇室神道」を土台とする「皇国日本」をつくったことです。

 すでに、”日本武人として”あるまじき戦争指導者(徳富蘇峰NO5)” で取り上げましたが、徳富蘇峰は、『頑蘇夢物語』三巻「四十二 驚くべき日本上下の急豹変」で
昨日まで熱心なる米英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹変して、忽ち米英礼讃者となり、古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多さには、流石にその機敏快速なる豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。
 と書いていました。
 「攘夷」を訴えて幕府を倒し、倒幕後「開国」に転じた尊王攘夷急進派も、負けず劣らず、”急豹変”していると思います。にもかかわらず、「建国神話」に基づく「皇室神道」を土台として「皇国日本」をつくっているのですから、”一貫したる意思の無きこと”は、「皇国日本」のスタート時点で、すでに始まっていたと言えるのではないかと思います。

 ”一貫したる意思の無きこと”で思い出すことがいくつかあります。
 幕末、尊王攘夷急進派の指導者、薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視は、倒幕のため、相楽総三を隊長とする赤報隊の結成を支援しました。そして、幕府軍を追い詰め、挑発するため、「年貢半減」を宣伝し、民衆の支持を得つつ、江戸を攪乱させる作戦を展開させて、鳥羽・伏見の戦いのきっかけをつくらせたといいます。しかしながら、その後「年貢半減」ができないために、赤報隊結成を支援し、作戦を指示した人たちは、相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士に「にせ官軍」の汚名を着せ、弁解の機会さえ与えず、処刑したといいます。ひどい話だと思います。
 したがって、そうした ”一貫したる意思”のない、犯罪的ともいえる作戦を平然と実行した尊王攘夷急進派による政治が、いずれ行き詰まることは避けられなかったのではないかと、私は思うのです。

 さらに、官軍が江戸城への入城をはたした後、有馬籐太が西郷隆盛(吉之助)に、
さて、いよいよこんどは攘夷ですね
と意気込んでいうと、
そうか、お前にはまだ言ってなかったな。攘夷というのはな、ほんとうは幕府を倒すためのただの方便だったのよ
 と、実にあっさりと言ってのけた…、

 というような話の中にも、 ”一貫したる意思”がなく、いずれ行き詰まる必然性を感じさせるものがあるのではないかと思います。

 また、そんな尊王攘夷急進派が権力を手にし、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”を持って、膨張政策を進めたわけですから、近代法に基づく国家を形成しつつあった国々と友好関係を築くことは難しく、遅かれ早かれ多くの国を敵にして、滅びざるを得ない運命であったと思うのです。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「五十九 予の一大懺悔」を抜粋しました。
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                      五十九 予の一大懺悔

 予はここに一大懺悔をする。それは我が皇軍を買被っていた事である。正直のところ、皇軍が、我等の理想とする皇軍と、事実に於て、大(オオイ)に反対する点、若しくは及ばざる点、存在する事は、当初から全く気が付かぬではなかった。予は相当に世間一体の市価よりも、割引して、皇軍を買っていた。しかし乍ら、これ程迄とは思わなかった。
”一言にしていえば、我が皇軍の中堅たる人々は、その若干の除外例を除けば、職業軍人となり、全く軍職を以て、一種の職業と心得ていた。世間で流行したる「醜(シコ)の御楯」などという言句は、ただ文句だけの事であって、彼等の心持ちは、ただ、軍職を商売として、一身の功名富貴を得れば足ると、心得ていた。それならば、日本の軍人も、米国の軍人も、その心得方は同一である。この上はただ問題は、何れが職業に熱心にして、能率をよく挙ぐるかという事である。しかるに彼等は、職業と心得ながらも、その職業に極めて不熱心にして、不勉強にして、規律もなく、節制もなく、ただ上に諂(ヘツ)い、下に奢(オゴ)り、その軍職を武器として、自己の私利私欲を、随所に恣(ホシイママ)にするに過ぎなかったのである。かくては日本の将校が、敵国の将校ほどの働きを、為し得なかった事も、これ亦已むを得ぬ次第である。少なくとも、敵国の将校は、職業的熱心と、職業的責任感あったが、日本の軍人は、その熱心と責任感さえも、殆ど失墜し去った。これではとても勝負にならぬ話である。彼等は立体的に、上に諂い、下に奢るばかりでなく、水平的に、軍人以外の者に対して、頗る増上慢(ゾウジョウマン)の態度を示し、国民をして、その疾苦に泣かしめた。彼等の一個一個は、悉く皆国民に対する、一個の暴君的存在であった。今日に於て、国民の多数を挙げて、軍閥を攻撃するに至りたるは、必ずしも米国の進駐軍に対しての、迎合ばかりでなく、多年鬱屈したる憤慨が、ここに至って爆発したるものと、見るべきであろう。自分は日本の正気は、既に政治家を去って、軍部に移った。軍部には、共に国事を談ずる同志があるだろうと、信じていたが、豈料(アニハカ)らんや、彼等は政党者流と選ぶ所なきのみならず、政党者流の持たざる、軍刀の威を借りて、より以上の悪事醜行を恣(ホシイママ)にし、その結果は、遂に勝つべき戦争をも、失敗に導き来ったのである。而してこれに向って、彼等はただ漫然と、責は国民に在り、我等はただ我等の依託せられたる、範囲内の仕事を、したるに過ぎない。その以上は、国民の責であるという如く、恰も日傭取(ヒヨウトリ)が、する丈(ダ)けの仕事をしたから、後の事は一切雇主に、責を投げかけたと同様の、態度をとっていることは、昔の言葉を以ていえば、正さに武士の風上にも置けぬ代物といわねばならぬ。
 この頃、以上の観察を証拠立つべき事例として、近刊の新聞から、左の二項を摘載する。

 司令は妾を連れ込み
 副官”横流し”に狂奔
 大東亜戦争に天王山が幾つもあった。しかし天王山はそんなに幾つもあるものではないが、軍が国民を欺瞞しその戦意を継なぐ方便に次々と天王山をでっち上げたに過ぎない。大東亜戦争の真の天王山はガダルカナル転進以来の彼我戦略態勢からみてどうしても比島にあったことは疑う余地はなかった。しかもマッカーサー元帥は比島脱出のとき「余は必ず比島に帰来するだろう」と言明して行った。比島人は総てこの言葉を真実なものとして秘かに米軍の再来を鶴首していたにも拘わらず、当の比島は米比軍の戡定(カンテイ)作戦が終了して以来約二年というものは全く桃源の夢をむさぼり防衛らしい防備一つ施さず無為にその日を暮らしていたのである。【元マニラ支局員 松原弘興】

  記者が十九年二月に比島に赴任した当時既に米軍はマキン・タラワを奪取しマーシャル群島に猛襲を加え、一直線に比島に進撃すべき態勢を益々明瞭にしていたのに、マニラ海岸通りブルバードには瀟洒な喫茶料理店が並び、戦前通り着飾った男女がアイスクリームのテーブルを囲みマニラ湾を眺め電蓄から流れ出るメロディに聞き入っていた。
 享楽街マビニイには夜毎酔っぱらいの軍人軍属が蛮声をはり上げて喚き廻っていた。繁華街エスコタルの映画館では米国映画の甘いラブシーンに日本人も比島人も恍惚としていた。どこを見ても再び忍び寄らんとする戦争の気配は見受けられなかった。敵はまだニューギニアやギルバートでまごついているではないかというのが比島にいる軍人、軍属、民間人ほとんど総ての時局観であった。
 軍人はマニラ妻をかかえて淫楽にふけっていた。マニラに居残る「メスティサー」(比島人とスペイン人の混血娘)は殆ど総て日本人に追いかけ廻され、彼等もまた生活の為に日本人に従っていた。日本人は好んで米国製の派手やかな衣服を身につけて毎夜の逢曳きや宴会を楽しんでいた。軍人さえも純白のシューツに身をやつし高級車を飛ばして兵站料亭の酒宴に乗込んだ。軍司令部では前夜の呑み過ぎにぼんやりと机に向かっている軍人が多かった。ひしひしと迫り来る砲煙の臭いに幾分気を焦らだたしていたが、長い習性でいままでの習慣を打ち破ることは出来ない様子であった。
 軍司令官は(当時黒田中将)毎日のようにゴルフに耽っていた。グルフ行には必ず幾名かの憲兵が護衛に付いて行かねばならなかった。仕事そっちのけにしても一日中暑いゴルフ場上に起たされるのは全く嫌になるというのは護衛憲兵の偽らざる告白であった。
 また司令官はサイゴンから軍用機でお妾をつれてきたという噂も伝わった。司令官副官は享楽に耽るため偕行社の物品を司令官の名前で買入れ盛んに横流していた。上の空気は当然下にも反映していた。数々の醜聞が我々の耳に入った。          (後略・昭和20年10月27日)

 わが軍と別れて
 地獄脱出の思い
 船中で聴く”比島暴状”
 さきにマックアーサー司令部から発表された「比島における日本兵の暴行」を読んで驚愕し、かつ骨肉から裏切られたような激しい憤りと悲嘆を感じなかったものはあるまい。記者は比島残留の邦人婦女子を迎える艦艇によって比島に赴き、比島人の対日感情を見、引き揚婦女子が語る同胞日本兵の暴状を聴いて、二重に悲痛なるものを覚えたのである。われわれの引揚邦人をむかえる海防艦マニラ港の岸壁に横づけにされたとき黒山のように比島人が押寄せて来た。そして口々に「コラ」「ドロボウ」「コノヤロウ」と罵声の言葉を投げるのだ。彼らはその言葉の卑しさをよく知っているのだ。マニラ埠頭に陽は明るくともわれらには暗い民族的な汚辱をさえ感ずるのであった。また記者は引揚婦女子の久米某という従軍看護婦からつぎのような話を聞いた。
 山へ逃げ込んでからというもの栄養失調やマラリア、アミーバー赤痢で物を運ぶのに苦しくなった日本兵は、まず武器、弾薬を棄てた。しまいには病人に絶対必要な衛生機材までも棄てた。一般居留民はもちろん私たち軍属にさえ、一粒の米すら与えられなかった。私たちは、将校から「お前まだ死なんのか」などといわれた。悪疫におかされて死んだ兵隊の死体はそのまま山道に置去りにされた。将校と兵との精神的なつながりは全くなくなって、各人は各人の力で生きて行かなければならなかった。リンガエンから上陸した米軍が、破竹の勢いでマニラに進撃するのを知った日本兵は、奥地への道すがら比島人の女を手当たり次第掻ッさらった。山では行を共にした日本将校に身体を要求された軍属の日本婦人もあった。食を貰い生きるためには致し方なかった。マニラ市を逃げるとき日本兵は市民の家に石油をかけ米や缶詰を奪ったが、この野蛮さは奥地へ入ってからますます露骨になるばかりだった。終戦とともに米軍収容所に送られた私達はほんとに心からホッとし、地獄から救われたような気持ちであった。
                      (湯浅記者・「朝日新聞」昭和20年10月30日)
                      (昭和20年10月31日午前、双宜荘にて)

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日本精神を消解せしむる「精神的武装解除」(徳富蘇峰NO7)

2020年05月09日 | 国際・政治

 敗戦後も自らの戦時中の考えを変えることのなかった徳富蘇峰は、下記の文章を書いた昭和20年10月11日の時点で、GHQの占領政策の本質を正しく見抜いていたように思います。それは、
皇室も神道も、彼等の眼中には、ここに日本精神の巣窟があり、本拠があり、根底があるものと認めて、一挙にそれを覆滅せんと考えているものであろう
 と書いているからです。
 裏を返せば、皇室や神道を国民に無理に押し付けなければ、「大東亜戦争」などのような侵略戦争は起きなかったということだろうと思います。

 でも、徳富蘇峰は、そういうGHQの占領政策を、日本人の「精神的武装解除」であり日本の心的去勢」を意図するものであると言って受け入れようとしませんでした。皇室や神道は「日本精神」と一体のもので、皇室や神道なくして「日本精神」はなく、また、日本はないということだと思います。私はそこに、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”を見ます。

 徳富蘇峰は、『頑蘇夢物語』二巻「二十八 看板の塗替」で
”…戦さして負けたから、償金を出せという事なら、一応理屈もあるが、戦さして負けたから、皇室中心主義をやめて民主主義になれ、国家至上主義をやめて、個人主義になれという事は、余りに辻褄の合わぬ事ではないか。元来日本とアメリカとは、処変われば品変わるで、人種も変われば言語も変わり、人情風俗も変わり、第一その歴史が全く異なった系統に於て、互いに歩いて来ている。しかるに三千年の歴史を持った日本に向って、遮二無二アメリカの国情、国体、国風、国俗の根本である民主制を押売せんとするのは、果たして何故である。それは判っている。日本が本来の国体を護持する時に於ては、必ず日本は再び旧(モ)との日本に、早いか晩(オソ)いかは姑(シバラ)く措いて、立戻る機会がある。さる場合には、日本は必ず米国に向って、復讐するであろう。その復讐が怖わい為めに、日本人を全く去勢せんが為めに、「デモクラシー」の押売りをする訳である。日本が三千年の国体を捨て、米国流のデモクラシーを模倣し、物質的ばかりでなく、精神的にも、アメリカの属国にとならぬ限りは、安心が出来ぬというのが、アメリカの底意である。

 と書いていますが、随分歪んだ受け止め方だと思います。人類が様々な対立や争いの歴史を経て、人権意識や法を発展させ、民主制に至ったことを評価せず、頑なに「日本精神」の重要性を主張するのは、”三千年の歴史を持った日本に向って”などという表現に見られるように、頭から日本中心の「建国神話」を歴史的事実として信じているからであり、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”にとらわれているからだと思います。徳富蘇峰は、「四十八 『後此頃十首』と君側の姦」に「前に『此頃十首』作る。余情未だ不尽(ツキズ)、更に『後十首』を作る」として


”此頃ノ役人共ハ哀れレナリ 毛唐奴等ニコキ使ハレテ


 という歌を載せていますが、「毛唐」という欧米人に対する差別用語を使っていることからも、そうした観念を持っていたことがわかるのではないかと思います。
 当時、民主制は、アメリカだけの政治形態ではなく、市民革命などを経て、すでに世界中で一般化しつつあった政治形態であり、”アメリカの国情、国体”云々や”「デモクラシー」の押売り”などというのは、世界の歴史を無視した的外れな指摘だろうと思うのです。
 
 また、
日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなくして、日本臣民、日本国民の資格として、これを崇敬するするものである。しかるにこれを崇敬するから、日本が好戦国民であり、これを崇敬しないから、日本国民は平和愛好国民となるなぞという事のあろう筈もない。

 という指摘も受け入れ難いです。GHQが、「神道指令」により廃止を指令したのは、天照大神を皇祖神とする天皇が統治する日本のいわゆる「国家神道」です。明治政府は、全国の神社を伊勢神宮を本宗とする「皇室神道」の下に階層的に組織編成しました。そして「建国神話」に基づく「皇室神道」を仏教や神道諸教派、キリスト教等を超越するものとして位置づました。信教の自由も「国家神道」化した「皇室神道」と抵触しない限度内でしか認めませんでした。

 だから、明治維新以後の日本の神道は、生活のあらゆる領域で、日本人を天皇の政治的権力や宗教的権威、軍事大権のもとに置き、日常生活のみならず、精神面でも、強く権力的支配を行うために利用されたといえるのではないかと思います。皇室神道をベースとした「国家神道」を、日本の戦争と切り離すことができないことは、戦時中よく歌われたという「海ゆかば」の歌ひとつをとって見ても明らかだと思います。また、当然のことながら、天照大神を皇祖神とする天皇が統治する日本で、神社と神道を切り離すこともできないと思います。

 言い換えれば、尊王攘夷急進派によって明治維新が成し遂げられたために、日本人は維新以後も、欧米人のように自由と平等を得た自立的個人である「市民」となることができず、民主主義社会を形成することもできなかったということです。
 明治維新における「王政復古」よって、日本人は天皇の宗教的権威と政治的権力、軍事大権の下に置かれることになったばかりでなく、教育勅語や軍人勅諭の考え方によって、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”を持つこととなり、外国を見下して、戦争に突き進んで行くことになったのだと思うのです。だから、明治政権が「皇室神道」に基づく国家を構成したことが、その後の日本の歴史にとって、極めて大きなことだったということです。

 そういう意味で、以前に取り上げた「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)は、貴重だと思います。同書は、「神祇官再興」や「祭政一致」、「神仏分離」や「廃仏毀釈」その他に関わる諸布告をとり上げていますが、「皇室神道」を国家神道化していったことがわかります。また、「日吉山社」襲撃の事件に象徴されるように、それまで地域住民の信仰を集めていた宗教施設に対する「破壊行為」があったことや、地域住民の信仰に強引な介入があったことも取り上げています。さらに、戦争神社といわれる「東京招魂社」(靖国神社)をはじめとする新たな神社の創建などについても取り上げていますが、それらが、GHQの「神道指令」につながっていったことをしっかり見る必要があると思います。それらは、”日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなくして…”、などと言い抜けることができないことを示していると思います。

 もちろん、日本の神道には、徳富蘇峰の指摘するように、純然たる”宗教的信仰”としてではなく、日本人の生活に密着した風習として存在する面もあったと思いますが、明治維新以降の日本人の「神道」に関わる実態は、そんな生易しいものだけでは決してなかったと思うのです。

下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「四十五 米国、神道の廃絶を期す」を抜粋しました。
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                     四十五 米国、神道の廃絶を期す
 神道の問題に関連して、最近頻りに米国方面から、日本神道の問題について彼是れ申込んで来ているようだ。十月七日ワシントンの特電によれば、アメリカ政府は、日本の国家宗教たる神道の廃絶を決定した旨公式発表した。これは日本人を、再び平和愛好国民たらしむる為めの、非常手段の一であるが、但し個人として、神道を信ずるのは妨げない。神道は今後国家の維持、学校その他で占める地位特典を失い、国民に対し、その信仰を、公然強制する事は、許されないであろうとある。これは前にも述べたる通り、先ず第一に神道の定義を確かめた上でなくては、問題にすることが出来ぬ。米国の考えでは、神道ではなく、恐らくは神社であろう。即ち伊勢大神宮、橿原神宮、明治神宮、熱田神宮などという、あらゆる神社を一括して、かくいうのであろう。しからざれば、天理教でも、金光教でも、黒住教でも、所謂る神道諸教派は、皆な下から盛り上がり、むしろある時代、ある政府では、迫害をした程であるからだ。それで予はむしろここに神道とあるのは、国家がこれを支配し、国家がその宮司を選任して、国家がこれを支持している官国弊社についてのことであろうと認める。しかし前にも言った通り、日本国民の官国幣諸神社に於けるのは、宗教的信仰ではなくして、日本臣民、日本国民の資格として、これを崇敬するするものである。しかるにこれを崇敬するから、日本が好戦国民であり、これを崇敬しないから、日本国民は平和愛好国民となるなぞという事のあろう筈もない。余りに無了解、没分暁漢(ワカラズヤ)の至りである。聞くところによれば、マッカーサー元帥は、九月二日絶対降伏調印の日、小閑(ショウカン)を偸(ヌス)んで、幕僚数輩と鶴岡八幡宮に参拝し、造矢を社務所から受けて帰ったという。日本の新聞は、これをマッカーサーの美徳の一に数えていたようだが、マッカーサー自身としても、日本人が神社を崇敬するのは、所謂る神道なるものとは、何等縁故の無い事が判るであろう。

 次にまたアメリカでは、皇室制度に頗る神経を悩ましているようだ。米国国務省極東問題部長ジョン・C・ヴィンセントは、最近ラジオ放送をして、「日本占領は、日本が武装を解除され、完全に軍閥が艾除(ガイジョ)され、民主主義革命への道が、立派に開かれるまで続くであろう」といい、また「日本国民は彼らが欲するならば、皇室制度を護持することが出来るが、それは大規模な修正を要するであろう」といっている。皇室制度の修正なるものは、如何なる意味であるか。即ち我々が天皇を、日本国民の頭首として、戴きつつあるを一変して、英国の如く、帽子として戴くものとなすを意味するであろうか。将(マ)た他に特別の方法あるか。それらの所は、今明白にこれを知ることは出来ぬが、要するに皇室も神道も、彼等の眼中には、ここに日本精神の巣窟があり、本拠があり、根底があるものと認めて、一挙にそれを覆滅せんと考えているものであろう。これは決して、予が見当違いでもなければ、邪推でもない。予は当初から、かくあるべき事と、予期していた。

 即ち先ず第一に、彼等は日本国の武装解除をなし、日本国が一国としての、自主独立の運動をなす事を得ざらしめ、宛(アタ)かも宿借虫が、他人の殻に宿を借るが如く、日本国民も未来永劫、他の恩恵によりて、生息するの外に、手段方法なからしむるようになす事が第一着である。第二着は即ち日本精神を消解せしむる事で、この精神存在する間は、武装解除したとして、精神的の武装をしているから、赤手空拳(セキシュクウケン)でも、如何なる事をやり出すか知れない。よって武装解除の目的を徹底せしむる為めには、精神的武装解除をやらねばならぬ。それには所謂る日本国民の、国体観念を打破せねばならぬ。国体観念の外廓(ガイカク)は、彼等が所謂る神道、即ち日本国民の国祖崇拝、偉人崇拝、祖先崇拝、歴史崇拝にして、即ち国体観念の外廓ともいうべき、彼等の所謂る神道、即ち神社撲滅をやらねばならぬ。これは彼等ばかりでなく、既に元亀天正の頃、日本に渡来したる西班牙(スペイン)、葡萄牙(ポルトガル)の宣教師共が、神社仏閣を放火し、若しくは破壊したる事によっても、その先例が見られている。しかしこれは外廓である。その内部は、即ち日本国民の、皇室に対する崇敬である。忠愛である。故に彼等はこの皇室制度を、眼の敵(メノカタキ)と思っている。出来れば彼等は、日本人の力によってこの皇室を廃したいと思っているであろう。さればこそ彼等は、社会党とか、共産党とか、三千人の政治犯者を、一度に釈放せよと、迫ったのであろう。しかし彼等自らが手を下して、日本の皇室制度を廃止するという事ならば、日本に必ず一大騒動が起こるであろう。彼等もこの位の事には、気が付いている。それで彼等は、その実を去り、その名を存し、皇室をして、有れども無きが如く、有名無実たらしむる如く、その制度を改正せんと目論むであろう。かくすれば、日本精神も、やがてはアメリカ精神となり、日本国体観も、やがてはアメリカ国体観、日本国体観念も、やがてはアメリカ国体観念となり、所謂る民主一点張りで、日本人も米国と同化し、所謂る第二第三の比律賓(フィリピン)、布哇(ハワイ)となるを得るであろうと、察せられる。

 若し常識ある日本人なら、今予が言うた通りの事を、必ずしも予が解説を俟たずに、直ちに了解すべきである。しかるに今日の世間を見れば、昨日まで国体一点張りであり、毎正月元旦には、伊勢の神宮に参拝して、十幾年とか、幾十年とか、未だ曾(カツ)て欠かしたことのないなどと、誇っている先生達が、相率いて民主主義民主主義と、真っ向うに民主主義を翳(カザ)して、民主以外何物もないかのように、振舞いつつあるは、果たして日本を、精神的に米国化しても、安心と思うているのであろうか。彼等の神社崇拝、彼等の国体観念、彼等の皇室中心は、今何処に逃げ去ったのであろうか。予は頗るこれを意外の事と考えている。

 その精神が心髄まで腐敗したる便乗主義者は、今更相手とする必要はないが、心にかかるは、今日の青年である。またこれからの青年である。今日の中堅所が軍部に於ても、官界に於ても、将(マ)た実業界に於ても、最も日本の国民層に於て薄弱であるのは、何故であるか。それは彼等が明治末期から大正にかけて、極めて放漫なる教育といわんよりも、むしろ「無教育」を受けたからである。固よりその中には、相当の除外例はあるが、この中堅階級は、聰明でもあり、悧発(リハツ)でもあり、物事の筋道もよく呑込み、一通りの役には立つが、所謂る以て六尺の孤を託す可し、以て百里の命を寄す可しという如き、凛然たる大節ある人は殆ど見出されない。これは決してその年齢の人に限らるる訳ではない。彼等の時代の教育が、悪しかったからである。而して却って最近の青年所に至れば、尚お真純にして、日本精神の全く発育したとはいわぬが、その萌芽がみとめられている。これは畢竟昭和中期以後、余り世の中の放漫なる教育に驚かされて、その発動の大勢の裡(ウチ)に出で来ったからといわねばならぬ。この事は特攻隊の年齢を調査して見れば、最もそれが明白にせられている。過去この通りでありとすれば、今後日本の教育が、所謂る民主化するという事は、日本とっては、何よりも大なる危険であり、禍害であり、呪咀(ジュソ)でありといわねばならぬ。
 所謂る民主化の教育とは如何なるものであるか。日本人をして、日本人たることを忘れしむるの教育である。日本国民をして、日本国民たることを忘れ、併せて日本国そのものを忘れしむるものである。せめて日本人をして、米国人が米国を愛する如く、日本を愛するように、教育せしむれば、尚お忍ぶべしと雖も、それはとても望まれない。恐らくは今後の所謂る民主主義化の教育は、自己本位の教育以外に、何物をも許さぬであろう。(中略)しかし今後民主教育を受けたる日本人は、果たして日本人たるの誇りを、世界に向って発揮しるだけの気魄あるか。また日本の旧慣例を堅持して、敢て渝(カワ)らない操守あるか。また一の宗教として、神道にもせよ、仏教にもせよ、何教にもせよ、団結する力あるか。今日でさえも、彼等は最早や日本人たるを愧(ハ)じているではないか。現に予が経過し来ったる、明治の中期頃には、多くの日本人は日本人たるを愧じていた。況んや今後丸裸の日本人たるに於てをやだ。(中略)日本人には、厳正なる訓練が必要である。厳師良友が必要である。しかるに、一切除却し去って、所謂る民主教育とするに於ては、如何なる無頼、放蕩、軽佻、浮薄の人間が出で来るべきか。これを思うだけにも、寒心せざるを得ない。
                                          (昭和20年10月11日 双宜荘にて)

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大東亜戦争は維新の大改革に、淵源している(徳富蘇峰NO6)

2020年05月05日 | 国際・政治

 尊王攘夷急進派が、明治維新によってつくった日本は、”大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という天皇親政の「皇国日本」でした。そして、江戸幕藩体制崩壊後、天皇によって”天壌無窮(テンジョウムキュウ)ノ宏謨(コウボ)ニ循(シタガ)ヒ惟神(カミナガラ)ノ宝祚(ホウソ)ヲ承継シ”てさなれる「皇国日本」の統治は、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”によって進めらることになったと言ってよいと思います。
 だから、明治維新以来の日本の戦争は、徳富蘇峰が
日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。
 と指摘した通り、皇国史観に基づけば自然な流れで、日本の戦争は全て”世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”る国家の聖戦だったのだと思います。
 徳富蘇峰の
日本人が、日本の国史、せめて孝明天皇以後の、即ち癸丑甲寅(キチュウコウイン)、ペルリ来航以来の歴史を読んだならば、今日に於て大東亜戦争を見た事は、当然の事といわねばならぬ。ある者は、日清日露の戦争は、当然の事であるが、その以来の戦争は、軍閥財閥の製造したるものという。これ程間違った考えはない。彼等は全く、歴史の何物たるをも知らざる者の言である。日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。その必然の勢である
 という指摘は、そういう意味で当然であり、間違ってはいないと思います。特に、「大東亜戦争」を”軍閥財閥の製造したるもの”ではない、と「大日本言論報国会」の会長として、「皇国日本」の思想戦の一翼を担った徳富蘇峰が言うのですから、まさに必然であり、間違いであるはずはないと思います。
 第二巻の「二十三 盗人猛々し侵略国呼ばわり」では、
日本が、大東亜戦争を、起こしたとはいわぬが、余儀なく起つに至った所以のものは、決して一人一個の考えではない。いわば国民的運動であり、国家の大勢である。殆ど自然の力であるといっても宜(ヨ)い。風の吹く如く、水の流るる如く、潮の差す如く、石の転じる如く、勢い然らざるを得ずして然るものである。…”
 と書いていましたが、皇国史観に基づけば、「大東亜戦争」も”軍閥財閥の製造したる”ようなものではなく、当然の流れだということです。
 徳富蘇峰の、日本の侵略戦争に関わる理解が、客観性を欠いていることは明らかですが、それも、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”とする皇国史観に基づくからだと思います。

 徳富蘇峰は、第三巻の「四十八 『後此頃十首』と君側の姦」に ”前に『此頃十首』作る。余情未だ不尽(ツキズ)、更に『後十首』を作る”として、
此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ
と、戦後の日本を嘆く歌を載せていますが、藤田東湖吉田松陰も、明治維新に大きな影響を与え、皇国史観の土台を築いたともいえる思想家だと思います。
 二・二六事件蹶起将校の一人、磯部浅一の陳述の中に、
兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」(大義を明にし、人心を正さば、皇道なんぞ興起せざるを憂えん)が実現するものと考えます。<「二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷」池田俊彦(編)高橋正衛(解説)(原書房)、第五回公判調書>
というような証言もありました。 
 また、吉田松陰の『幽囚録』には、自序に”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”などあり、本文には、
日升(ノボ)らざれば則ち昃(カタム)き、月盈(ミ)たざれば則ち虧(カ)け、国隆(サカ)んならざれば則ち替(オトロ)ふ。故に善く国を保つものは徒(タダ)に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今急に武備を修め、艦略ぼ具はり礮(ホウ)略ぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし<「吉田松陰全集第一巻」(岩波書店)>
 という記述がありました。明治以後の日本の戦争は、吉田松陰の考えに基づいて進められたと言っても過言ではないような内容です。


 徳富蘇峰の歌は、幕末の尊王攘夷急進派を代表する藤田東湖や吉田松陰の思想が、日本のアジア進出の侵略戦争、特に「大東亜戦争」にも大きな影響を与えたことを証明していると思います。
 だから、徳富蘇峰がいうように”日清日露の戦争は、当然の事であるが、その以来の戦争は、軍閥財閥の製造したるもの”というのは間違いだと思うのです。 

 ところが、その「皇国日本」を支える「建国神話」が、『古事記』や『日本書紀』の巻頭ある「神代の巻」を、都合よく解釈して作り出されたものであることを、津田左右吉が明らかにしてるのです。津田左右吉の「神代史の研究方法」には、

今日に伝わっている我が国の最古の史籍たる『古事記』と『日本書紀』の巻頭にはいわゆる神代の巻という部分がある。『古事記』は和銅五年(712A.D.)『日本書紀』は養老四年(720A.D.)に出来たもので、何れも八世紀に入ってからの編纂であるが、神代の巻などは、もっと古くから伝えられていた材料によったものである。

 とあります。ところが、明治時代に入って広く語られるようになった「建国神話」のような話は、”神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない”と津田左右吉が指摘しているのです。そして、

” 他でもない。神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、上記のような説が出るのである。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話がある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと億断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経路の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根底には一種の浅薄なRationalism が伏在する。すべて価値あるものは合理的なもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にはお伽噺(オトギバナシ)というものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て陋(ロウ)とするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て蔽(オオ)われている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである

 と結論づけているのです。
 また、「皇国日本」を支える「建国神話」は、『古事記』や『日本書紀』の巻頭にある「神代の巻」を都合よく解釈して、「神武肇国」の話として『日本書紀』の年代と辻褄があうように設定されているため、初期の天皇の年齢は百四十歳とか百二十歳というように引き延ばされているといいます。だから、「建国神話」は、はじめから、統治の手段として作られた側面があったのではないかと、私は思います。でも、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”と思わせる内容であるためか、徳富蘇峰のように多くの日本人が、神武肇国の「建国神話」を頭から信じて、疑わなかったのではないでしょうか。

 『古事記』や『日本書紀』を史料批判の観点から研究し、「神武肇国」の「建国神話」が、捏造されたに等しいものであることを明らかにした津田左右吉は、「皇室の尊厳を冒涜した」として、禁錮刑の判決を受け、その著書『古事記及び日本書紀の研究』や『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』を発禁処分とされたことは、忘れられてはならないことだと思います。

 また、徳富蘇峰は”大東亜征戦を、軍閥や財閥が、製造したというのは、余りに人事を手軽に、考え過ごした言である”と書いていますが、”大東亜征戦を、軍閥や財閥が、製造した”と主張をする人たちは、一部の軍閥や財閥の人たちに戦争責任を押しつけつつ、明治維新以来の日本の「建国神話」を、狡賢く守ろうとする意図を持っていたのではないかと、私は思います。
 そういう意味から、司馬遼太郎の
昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである<「この国のかたち 一」(文芸春秋)>
 という主張も、私は、受け入れることが出来ないのです。彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、明らかに明治時代から始まっていたのだと思うのです。”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年”が、”異胎の時代”などとはとても思えません。


 徳富蘇峰が嘆いたように、明治維新以来、敗戦に至るまでは、多くの日本人の中に、藤田東湖や吉田松陰は生きていたのです。
 そして、今なお日本の首相が、150年以上も前に処刑された尊王攘夷急進派の吉田松陰を、平然と「先生」と呼び、佐久間象山や勝海舟、坂本龍馬などの幕末の指導者の中に、吉田松陰を含めて、”開明的な人々”と主張していることも見逃してはならないと思います。皇国史観は未だに乗り越えられてはいないのだと思います。

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』第四巻の「六十四 日本人たるを恥じる」を抜粋しました。
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                   『頑蘇夢物語』 第四巻  

 六十四 日本人たるを恥じる
 日本では、武士道といい、また日本精神といい、およそ節義という節義は、日本人固有の持物たるかの如く、信じたり誇ったりしていた。我等自身も亦たこれを以て、我が同胞に期していた。しかるに八月十五日以来の現状を見れば、全く日本人には、愛想が尽きている。我等の自身さえも、日本人たることを、愧(ハ)ずる程である。出来得べくんば、日本人を辞職したいような気持もする。およそ人間の持っているあらゆる醜態は、悉く我等の眼前に、展開せられている。これではとても戦争に勝つ可き筈はないと思う。ただこれ程迄に日本人が、堕落していたかと思えば、情けなくる程である。最近予は左の一首を作った。
 皇都(ホウト)の鳳闕(ホウケツ) 荊榛(ケイシン)に化す
 群小 紛々として 媚態新なり
 衰朽(スイキュウ)の孤臣(コシン) 頑(カタク)ななること石に似たり 
 残生は 枉(マ)げて采微(サイビ)の人と作(ナ)らん          (漢文部分略)

 鳳闕 宮殿の門
 荊榛 いばら・はしばみ 「肯(アエ)て衰朽を将(モツ)て残年を惜まんや」
 
 采微人 伯夷・叔斉。周の武王が殷を滅ぼしたとき、周の穀物を食べるのを恥じて首陽山に隠れ、微(ワラビ)を採って食べ「采微の歌」を作って餓死した。

 先ず当局政治家を初めとし、あらゆる政界の人々、また実業界の人々、また陸海軍人、更に学者、文学者、宗教家、技術芸術家などを、引括(ヒックル)めて見ても、如何にも歯の浮くような言動を、恥ずかしげもなく、やっている。放送に新聞に、見るもの聞くもの、実に驚き入た次第である。もっとも太平記を読めば、南北朝時代には、随分二股武士も多かったようだ。元亀天正(ゲンキテンショウ)から、慶長元和(ケイチョウゲンナ)に至っても、関ヶ原の役、大阪の役などでは、恰かも三井三菱が、政友会にも、民政党にも、それぞれ運動費を提供したる如く、徳川方にも、豊臣方にも、双方に掛、何れに転んでも、差支のないだけの事をした大名、及び武士は少なくなかった。維新の当時も、亦然りであった。しかしそれが、今日程太(ハナハ)だしきものはないように覚える。昨是今非(サクゼコンヒ)昨非今是という言葉があるが、今日は全くその通りである。変わるばかりでなく、ただその変わり方の迅速且つ巧妙なるに、驚くのみである。昨日迄異口同音に、大東亜聖戦と、大声疾呼したる者共が、今日は他国侵略戦とか、軍閥財閥の製造したる、不義無名の戦争とか、あらゆる悪名を付けて、呼ばわっている。人間の思想も、所謂る心は万境に随って転ずで、転ずることに不思議はないが、余りにその転じ方の急激なるに、驚ろくのみだ。我等は戦争のやり方については、頗る不満であり、不同意であるが、戦争そのものは、決して不義無名の戦争ではなかったと信ずる。我等は今日でも、昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔を、極めてこの戦争の意義を、明日に闡明(センメイ)したるものと信じている。勝敗は時の運である。勝ったから、その戦いが義戦であり、敗けたから、その戦が不義戦であるということは、畢竟強者の権に、随寄する者の言う言にして、天理人道を信ずる者の、口にす可き言ではない。

 事の起るは、起る日に起るのではない。大東亜征戦を、軍閥や財閥が、製造したというのは、余りに人事を手軽に、考え過ごした言である。物には順序がある。時としては、積水を千仞(センジン)の谿(タニ)に決し、円石を山上より転がすが如き事もあるが、その勢いをそこ迄に持って来るには、決して一朝一夕の事ではない。若し日本人が、日本の国史、せめて孝明天皇以後の、即ち癸丑甲寅(キチュウコウイン)、ペルリ来航以来の歴史を読んだならば、今日に於て大東亜戦争を見た事は、当然の事といわねばならぬ。ある者は、日清日露の戦争は、当然の事であるが、その以来の戦争は、軍閥財閥の製造したるものという。これ程間違った考えはない。彼等は全く、歴史の何物たるをも知らざる者の言である。日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である。その必然の勢である。但(タ)だ日清日露では我れが勝って、今回は我れが敗けた。勝ったから前者は正しく、敗けたから後者は不正というは、全く訳のわからぬ話である。不幸にして、今回の戦争は言葉正しく、名順ではあったが、戦争の方法が間違っていたのである。一歩を進んでいえば、その局に当たった者が、その器に非ざる者であった為めである。これは人の罪であって、道理の罪ではない。その人としては、前に近衛あり、後ろに東條ありといわねばならぬ。                         (昭和二十年十一月十三日午後、晩晴草堂にて)

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”日本武人として”あるまじき戦争指導者(徳富蘇峰NO5)

2020年05月03日 | 国際・政治

 戦後も、戦時中の考えを変えなかった徳富蘇峰は、”昨日まで熱心なる米英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹変して、忽ち米英礼讃者となり、古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多さには、流石にその機敏快速なる豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。”と嘆くばかりで、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想の中身そのものは問うていません。私は、そこに問題があるのだと思います。
 徳富蘇峰は、単なるお話に過ぎない「建国神話」を、頭から歴史的事実として信じていたので、戦後、考えを変えた人たちのことを、客観的にとらえることができなかったのではないかと想像します。

 ただ、彼の主張が重要なのは、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想を持って、”最も年齢の若き者、最も地位の低き者を 十二分に、若くは十五分に煽り立て、死地に就かしめ”た戦争の指導者たちが、自らの問題になると簡単に考えを変え、”豹変”したという事実を語っていることです。
 戦争指導者たちは、戦時中の自らの言動を何ら詫びることをせず、戦後、GHQの統治下で民主化される日本を”平気で見送り”ました。見送ったばかりでなく、大日本帝国憲法下で作られた恩給法、特にGHQによって廃止された軍人恩給を、日本国憲法公布後の日本に復活させ”恩給生活を継続”しました。徳富蘇峰が、そうした戦争指導者は、”実に日本武人として、この上なき不面目の至り”であるというのは、当然のことだと思います。全く一貫性のない”裏切り者”ともいえる人たちだと思います。

 GHQは恩給法廃止に当たって、”惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない”と指摘しましたが、軍人恩給は、まさに大日本帝国憲法下の「天皇の軍隊」の約束で、その支給金額も、原則として当時の階級に応じたものになっています。戦後も戦時中の考え方で、軍人恩給が支給されているのです。
 だから、私は、大きな戦争責任を負うべき人ほど多額の恩給を受領している日本の戦後政治の問題は、徳富蘇峰の指摘が間違っていないことを示していると思います。そうした”日本武人”としてあるまじき戦争指導者が、戦後、公職追放を解除されて復帰し、再び日本の指導者として狡賢く動き、現在に至っていることは、私にも受け入れ難いことです。

 だから、徳富蘇峰は、なぜ多くの人たちが豹変したのか、ということに向き合い、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想の中身を疑い考え直すべきだったと思います。私は、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような”架空の観念”、言い換えれば自らにつごうのよい幻想に由来するものだと思います。そしてそれは、単なる”お話”である「建国神話」を、無理矢理歴史的事実としたところに問題の本質があるのだと思います。そこをきちんと見つめ直すことが、戦後の日本では、何にもまして大事だと思います。
 戦争指導者の”豹変”は、彼等が根本的に狡賢い人間であっただけでなく、その思想が、事実ではなく、建国神話に基づく”架空の観念”=幻想であったため、簡単に修正したり、戦後の社会に適応させたり、捨て去ったりすることができた結果ではないかと思います。

 そして、見逃せないのが、”米英撃滅”や”古事記一点張り”や”戦争一本建て”の思想が、いろいろなかたちで、戦後も生きていることです。「皇国史観の教祖」といわれる平泉澄は、徳富蘇峰が会長を務めた「大日本言論報国会」に属していたようですが、戦後も皇国史観を説き続けました。また、徳富蘇峰が長い年月を費やし完成させた『近世日本国民史』全100巻の膨大な史書の校訂は平泉澄によるといいます(全巻の刊行は没後の1963年)。

 ”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”というような”架空の観念”に基づく皇国史観が、決して過去のものになっていないことは、憲法改正の動きや、文化の日を明治の日のに変えようとする動き、また、歴史教科書の記述や靖国神社の議論などでも明らかではないかと思います。

 また、国有地を鑑定額よりはるかに安く取得したことで問題になった森友学園では、園児に「教育勅語」を朗読させていました。教育勅語は、天皇が万世一系の天照大神の子孫であるという皇国史観に基づいており、明治天皇の勅語として、1890年に発布されていた以来、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として、「軍人勅諭」とともに軍国日本を支える重要な役割を担っていたものです。したがって、主権在民を定めた日本国憲法と相容れず、1948年の国会で無効確認の決議が行われています。
 その教育勅語を園児に暗誦させるばかりでなく、森友学園の籠池理事長は、伊勢神宮への参拝をさせたり、自衛隊の記念式典で園児らに日の丸や旭日旗を振らせたりする"愛国教育"を行っていたといいます。
 なんと、その森友学園の籠池理事長が、大阪府豊中市に新たに開校しようとした「瑞穂の國記念小學院」は、当初、小学校の認可申請先だった大阪府に対し、校名を「安倍晋三記念小学校」と説明していたことも明らかにされました。驚くべきことです。おまけに、その学校の名誉校長安倍昭恵氏であったことも明らかにされています。日本国憲法下では、あったはならないことだと思います。

 さらに、安倍首相が属する超党派の議員連盟”創生「日本」””東京研修会”で、第一次安倍内閣の時の長勢法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」などと発言している映像を、今もユーチューブで見ることが出来ますが、こうしたとんでもない発言も、全体の流れをみると不思議ではないような気がします。
 私は、安倍総理はもちろん、政権を支えてきた多くの人たちが、そうした考え方を共有しているのではないかと思います。

 徳富蘇峰は、戦争指導者の”豹変”やそれを許した国民、さらには天皇の責任にも言及し、”元来日本人は、果たしてその性、即ち国民性として、かかる軽薄浮動の性格の持主であるや、将(マ)た明治以来悪教育の結果、ここに到ったものであるか、その点については、ここに何とも断言出来ない”と書いていますが、私は、明らかに”明治以来悪教育の結果”であると思います。嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げた長州を中心とする尊王攘夷急進派がつくり上げた皇国日本の教育は、狡賢い指導者が、国民を都合よく利用するためのものであったと思っています。

 また、”近き例を挙ぐるが、若し日本から皇室を取り除けたとしたら、陸海軍の所謂る特攻兵の如きは、今後決して出で来るべき見込みはあるまい”とも書いていますが、これは、明治以来の日本の支配層にとって、天皇が、この上ない利用価値のある存在であったことを示していると思います。天皇を抱き込めば、何でもできるということです。”下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ(軍人勅諭)”ということで、「特攻」のような理不尽な命令も押し通すことが出来るからです。
 それは、長州藩の木戸孝允が、大久保に宛てた文書の中に”禁闕奉護の処、実に大事の事にて、玉(天皇を指す隠語)を奪われ候ては、実に致し方なき事と、はなはだ懸念、かえすがえすも、手抜かりはこれ無き筈ながら、別して、入念に候様…”などと、「」を手中にすることに深い関心を示す一節があるということからもわかるのではないかと思います。天皇の政治利用は、尊王攘夷急進派による武力討幕から始まったと言えるのです。
 

 下記は、「徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』」(講談社)から『頑蘇夢物語』三巻の「四十二 驚くべき日本上下の急豹変」を抜粋しました
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                      『頑蘇夢物語』三巻

四十二 驚くべき日本上下の急豹変
 予(カネ)て戦争反対とか、当初より看板かかげた敗戦論者とか、また所謂る自由主義者とか、社会主義者とか、共産主義者とかが、この際時を得顔に顔を出すは当然の事で、幣原や吉田などが、我が世の如く振舞いたりとて、我等は別に意外とは思わぬ。ただ昨日まで熱心なる米英撃滅の仲間であり、甚だしきは、その急先鋒であったとも思わるる人々が、一夜の内に豹変して、忽ち米英礼讃者となり、
古事記一点張りの人々が、民主主義の説法者となり、戦争一本建ての人が、直ちに平和文明の主張者となったる者の多さには、流石にその機敏快速なる豹変ぶりに、驚かざるを得ざるものがある。何れの世、何れの時でも、雷同詭随(ライドウキズイ)は存在するものと思うていたが、しかも今日程それが著しく目についた例(タメ)しは、未だ曾(カツ)て認めない。これを見ても、如何に日本人が、少なくとも現在の日本人が、堅実性を欠いていた事が判かる。即ち何事も、その時その時の調子で、始終、足は地に着かず、、ただ当座々々の調子や気分やで、動くものである事が、証拠たてらるる。これは必ずしも国民の各層ばかりでなく、戦争専門の軍人も、行政専門の役人も、皆なその通りであったと見て差支あるまい。つまりこの戦争も、前後の見通しもつかず、大なる決心もなければ、覚悟もなく、風の吹き廻しで、舟を乗り出したものであって、予めその到着すべき港さえ定まらず、否なその向う方向さえも定めていなかった事が、思いやられる。
 自ら戦争の元締めとなる人々が、かかる浮足であるから、国民も同時にその通りであったと見ても致方あるまい。恐れ乍ら大元帥陛下も、今日では万事東條がやったように仰せらるるが、宣戦詔勅の御発表になった前後に於ては、まさか一切御承知ないということでもなく、また必ずしも御反対でああらせられたとは、拝察できない。若し御反対であれせられたとしたならば、かかる詔書に御名御璽の据わるべき筈はない。宣戦媾和の大権は、至尊の大権中の重なる一である。まさかそれを御忘却あらせられたとは、拝察出来ない。

 元来日本人は、果たしてその性、即ち国民性として、かかる軽薄浮動の性格の持主であるや、将(マ)た明治以来悪教育の結果、ここに到ったものであるか、その点については、ここに何とも断言出来ない。ただ現在の日本の国民性として、この浮足である事だけは、隠すことも出来ねば、また拭い消すことも出来ない、我が国民の自ら暴露したる、大なる欠陥といわねばならぬ。

 今日頻りに彼等は、日本の民主化を唱えているが、果たして心からかく信じているのであるか。また一切の武力を持たぬ無腰無刀の国家として、世界の文化に貢献するなどという事を、盛んに唱えているが、果たして真面目にかく信じているか。武力を除外して、文化のみにて、世界に立つ事が出来得るものであるか。少しく歴史の事実に徴して見ても、それは明白である。ギリシャの文化は、泰西文化の根源といわれているが、ギリシャは果たして無腰無刀、赤手空拳の国民であったか。スパルタが徹頭徹尾武国であった事は、いうまでもない。ギリシャの文化の眼目といわれたるアテネ如きも、決して武を除外したる国ではなかった。テミストクレスよりペリクレスに至るまで、何れもその武勲は赫々たるものがあった。支那に於ても、その文化の最も発達したる時代は、漢と唐であるが、漢と唐は支那に於て、その武力の最も発展したる時代であった。武力を除外したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後に於ける、新たなる試験というの外はあるまい。ここ迄には世界の歴史に、左様な例は、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかる事を、平気で、朝飯前の仕事の如く、言い做(ナ)している日本の有識階級は、実に驚き入たる肝玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼等の軽佻浮薄の浮動性が、彼等を駆りて、ここに到らしめたるものというの外はあるまい。

 昨日までは現津神(アキツカミ)として、君主に対して、上奏するさえも、不敬などといい、忠諫などは、全く臣道実践の敵であるかの如くいい做したる彼等が、今日では、平気で皇室制度の改正などという事をいっているは、我等が全く了解出来ない点であるが、しかしこの了解出来ない点が、平気で世の中に行われ、何人もこれに向って、疑問さえ挟む者これ無きは、これ亦実に驚き入たる現象といわねばならぬ。

 日本の帝室は、いわばサムソンの髪毛である。その毛髪がある間は、天下無敵の大力者であったが、髪を剪られた後は、その神通自在力を失うた。若し日本に皇室が存在を絶ち、存在しても、絶った同様の地位に立たしめ給うような事が、あったとしたならば、日本は支那と択(エラ)ぶ所なく、朝鮮と択ぶ所なく、ソ連と択ぶ所なく、米英と択ぶ所なきは当然である。彼等は本来皇室を持たぬものであるから、持たぬからとて、彼等は毛髪一本損をしたのではない。しかるに我れは世界無比の皇室を持って居り、それが為めにここ迄の日本であったが、それを失うた日に於ては、彼等は何も失うた事は無く、我はその自己存在の一大理由、即ち日本精神の一大淵源を失うた事になるから、その損失の多大である事は、判りきった事である。即今米国が、若しくは、その他の聯合国が、ややもすれば我が皇室制度に手を着けんとするは、日本の急所が爰に在ることを知っている為めである。それ程迄に皇室は、日本にとっては重大なものである。しかるに現在の日本人が、それを打忘れ、鸚鵡返(オウムガエ)しに、日本民主化のみを高調するが如きは、余りにも浅薄なる考えであるといわねばならぬ。
 
 仮りに日本から皇室を取り除き、アメリカ流の個人主義一点張りで、国を建てたとする時には、日本の前途は果たして如何になるべきと思うや。彼等は兎にも角にも、立国以来というよりも、その以前から、自由主義の訓練に慣れている。個人主義の使用方法にも熟している。それで彼等としては、その能率を相当に挙げている。しかるに我国に於ては、昨日剃ったも今道心(イマドウシン)で、急にアメリカ流に転向したとて、その日から直ちにアメリカ人同様になり得る気遣いはない。揚句は所謂る虻蜂取らずで、ただ他人の真似を為して、後から跟(ツ)いて廻るというに過ぎぬであろう。その積りならば、自ら日本を布哇(ハワイ)や比律賓(フィリピン)と同様の地位に置く覚悟をするの外はあるまい。それについても面白い話がある。明治二十年、予が「国民之友」を発刊当時、予の先輩である某学者は、「国民之友」の特別寄書家の一人として、日本はむしろこの際、思い切ってアメリカ合衆国に合併し、合衆国の一州として立つ方が、総ての点に於て便利であろうという論を寄せ来った。当時は言論自由といわんより、無制限の時代であって、現に田口卯吉氏が「国を建るの価は幾何ぞ」という論文さえも掲載して、誰一人苦情をいう者なき時代であったから、恐らく差支はあるまいと思うたが、予自身としては、如何に方言高論でも、日本をアメリカの一州となすなどとは、余りに甚だしいからと考え、それを掲載せずして済ませたことがある。しかるに今日この頃は、巡り巡って、また殆どこの論が、文句では同一ではないが、その精神では、相異なる所なきものを、聞くに至った事は、長生きすれば、随分世の中には、珍らしき事に逢着するものと、自分ながら聊か以外の感をなしている。

 近き例を挙ぐるが、若し日本から皇室を取り除けたとしたら、陸海軍の所謂る特攻兵の如きは、今後決して出で来るべき見込みはあるまい。我が将官連中には、如何がわしい者もあり、また軍の中堅所には、甚だ不感服の徒輩も少なくなかったが、その中で陸海軍の光となったのは、この特攻隊である。しかも彼等は、何が為めに、青春妙齢の花盛かりを、欣然として死に赴いたかというに、それはただ大元帥陛下の御爲めという一点であった。「天皇陛下万歳」が、彼等にとっては、生命の糧といわんよりも、生命そのものであった。しかるに彼等から、天皇陛下を取り去る時に於ては、彼等も亦た人間である。命の惜しいことは当たり前だ。今後は彼等の前に、何人が頓首百拝しても、若くは如何なる鞭撻を、彼等に加えても、美酒や美人を御馳走しても、断じて彼等の心を動かすことは出来まい。日本から皇室を取り去れば、全く仏から魂を抜いたと同様なものである。その事を知らずして、今更事珍しく、民主的国家の新造などを、目論むという事は、浮薄性もここに至って極まれりといわねばならぬ。

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