真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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平和的、自主的外交

2022年05月25日 | 国際・政治

    知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。

 朝日新聞の「考/論」欄に、バイデン大統領の日韓訪問に関して、梨花女子大の朴元坤(パクウォンゴン)教授の下記の指摘が出ていました。見逃すことのできない重要な指摘であると思います。

韓国と日本を訪れる米バイデン大統領の目的は、中国への牽制にほかならない。米国にも投資している韓国のサムスン電子の半導体工場への視察は象徴的だ。新たに発足する米国主導の「インド太平洋経済枠組(IPEF)」において第一の問題は(部品などの)供給網の再編だ。韓国の半導体が組み込まれれば、中国も困ることになる。一方、韓国の尹錫悦政権は米国と行動を共にしていく考えだが、米中の対立が他国に「選択」を強いている現状がある。IPEFも参加すれば中国の反発を受けるが、参加しなければ米国との関係が悪くなる。韓国には参加する以外の選択肢はない。…”

 このようなかたちで、バイデン大統領が「選択」を強いたのは、何も韓国だけではないし、今回だけではないと思います。ロシアのウクライナ侵攻前後のバイデン大統領のヨーロッパ訪問も、ヨーロッパ諸国に、「選択」を強いるものであったのだろうと思います。そして、それはドイツ統一以来のヨーロッパ諸国NATO加盟問題にも共通したアメリカの方針で、チョムスキーいうところの”米国権力の衰え”を切り抜け、乗り越えるために、相手国をアメリアの指導下に置くねらいがあるのだと思います。極論すれば、アメリカは、自国の利益や権力を維持するために、各国に自主的な外交を許さないということです。アメリカは、自国の利益や権力を維持するために、世界を分断し、敵対するロシアや中国を孤立化させ、逆らえないほどに弱体化させなければ、現状を維持することが難しくなってきているということだろうと想像します。

 先日、毎日新聞が、中国新疆ウイグル自治区の「再教育施設」に関する内部資料が流出したことを報じました。バイデン政権は、中国の少数民族人権問題や台湾統一の動きをとらえて、対立を鮮明にし、中国を孤立化させようとしていることのあらわれのように思います。

 そういう時期であるからこそ、下記のノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェクの対話は重要な意味を持つと思います。

 アメリカに他国の人権問題を非難する資格があるのか、ということを考えさせらる内容です。アメリカは過去に何度となく、他国の内政に干渉し、軍によるクーデターを支援したり、独裁政権を支援したりしてきたのです。その結果、数え切れない人々が亡くなっているのです。

 例えば、インドネシアにおける9月30日事件では、インドネシア共産党書記長のアイディットをはじめ、共産主義者約50万が集団虐殺されたといいます。だから、「20世紀最大の虐殺の一つ」と言われるようですが、正確な数はわからず、なかには、300万人との説もあるといいます。スハルトが関与した残虐な大虐殺は、事件直後の1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたということです。このとき、いわゆる「共産主義者狩り」に動員されたのは、青年団やイスラーム団体に加えてならず者のような集団もあったといいます。ウィキペディアには、下記のようにあります。
スハルト元大統領が、スカルノ政権から政権奪取するきっかけとなった1965年の9月30日事件のあと、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、アメリカ政府と中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に巨額の活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシアの諜報機関に渡していたことを記録した外交文書が、米国の民間シンクタンク・国家安全保障公文書館によって公表された。” 

 あまり知られていないように思いますが、アンドレ・ヴルチェクによると、同様の残虐事件がチリの軍事クーデターでも起きていたのだといいます。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出されたチリのアジェンデ社会主義政権が、軍のクーデターで倒されたのです。その際、チリ軍部はインドネシア同様、「左翼狩り」を行い、労働組合員や人民連合の関係者、一般市民の活動家などを逮捕・拘束・殺害したのです。そしてその軍を裏で操ったのは、アメリカだというのです。

 また、ウクライナ戦争が始まる十年近く前に、チョムスキーが、NATOの存在について重大な指摘をしていたことが下記の文章でわかります。ベルリンの壁が崩れ、ロシアの脅威がなくなっても、NATOを解体せず、逆に拡大したのは、”米国の政策立案者たちはヨーロッパが当時の言い方で第三勢力になることを恐れていた。”というのです。NATOは、ヨーロッパ諸国をアメリカの影響下に置くことが目的であったということだと思います。
 そしてそれは、アメリカ主導のQuad(クアッド)や「インド太平洋経済枠組(IPEF)」などの組織にも通じることだと思います。各国が、それぞれの外交方針に基づいて経済関係を深めたり、ソロモンのように中国と安全保障協定を締結することを許せば、アメリアの利益や権力は維持できなくなるということだと思います。 

 下記は、「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、抜萃しました。
   
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                     第九章 米国権力の衰え

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A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ある意味、インドネシアにおけるクーデターの余波は、あとになって南アフリカとかエリツィン支配下のロシアといった遠い場所でも感じられたと思いますね。この実験は成功して、西側諸国はモスクワやプレトリア、さらにはルワンダのキガリでも繰り返してきた。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 チリでも。それもあからさまに。右翼はジャカルタ式の解決を公言していたからね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 チリのアジェンデ政権にいた人たちの多くと話をしてきましたが、その大半はすでに相当な年寄りですけれど、クーデターの前にこう言われたと聞きました──「同志よ、気をつけることだ、ジャカルタがやってくるぞ!」。彼らは言っていました。「ジャカルタ」というのが正確に何を意味するのか知らなかった。もちろんインドネシアの首都だというのはしっていたけれど、それが大殺戮の予告だということは理解できなかった」と。
 数年前『テルレナ──国家の崩壊』という、インドネシアのクーデターとその影響を扱ったドキュメンタリー映画を作りましたが、それをウルグァイのモンテビデオと、そのあとチリのサンティアゴで上映したら、1973年のクーデターの生残りがステージに上がってきて私を抱きしめ、涙を流しながら言いました。「知らなかった……ここチリでもインドネシアと同じだった……まったく同じ」と。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 当時のアメリカ合衆国、イギリス、オーストラリアの反応が興味深い。インドネシアでの虐殺の様子はきわめて正確に伝えられていて、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』は「驚くべき大量殺人」と書いている。そのリベラルな特派員だったジェイムズ・レストンは、記事でこの出来事を「アジアの燭光」と言って賛美していた。これが西側諸国の主要新聞の論調だった。特派員や編集者たちはアメリカ合衆国政府が自らの役割を隠すことで、彼らの言うところの「穏健」なインドネシアの将軍たちが自分たちでおこなったことの功績を認められと褒めている。「俺たちが助けてやったんだぞ」と言って信用を落とさせたくなかったんですね。オーストラリアやイギリスでも同じような反応で、どこでも賛美の嵐だった。
 意味合いが異なりますが比較として頭に浮かぶのは、キューバがアフリカの解放に果たした決定的な役割です。キューバ人も語りたがらない。アフリカの指導者たちに功績と信用を付与したいから。最近になってこうしたことが明らかになったのはジョンズ・ポプキンス大学の外交史家ピエロ・グレイジェセスの仕事のおかげです。ほかにもこうした比較ができるといいですね。
 ケネディとジョンソンの国家安全保障補佐官だったメクジョージ・バンディが何年も経ってから、1965年にヴェトナム戦争を終わらせておけば良かったと回顧しています。インドネシアのクーデターでアメリカ合衆国はほぼ東南アジアにおける戦争に勝利していたのだから。65年にはヴェトナムはすでに破壊されていてどんなモデルにもなりようがなかったし、アメリカは自らの主な関心事だったインドネシアを支配下に置くことに成功していた。そして独裁政権が「腐敗」の進行を防ぐために周辺地域全体に設立されて、こうした各国家の状況がそれぞれほかのモデルとなって冷戦の主要テーマとなるという腐った構図が出来上がっていた。ヘンリー・キッシンジャーのイメージによれば、民族主義政府は病原菌のようなもので汚染を広げる。アジェンデについてもそう言っていましたね。アジェンデ政権は病原菌で南欧にまで病気を広める、国民が国会を通じて社会改革ができると知ったらこれはとても危険だ、と。ブレジネフ〔1906~82。ソ連の政治家。1964年フルシチョフに代わって共産党第一書記となり、77年からからは国家元首をも兼任した〕もどうやらこれに同意していたようで、彼は「ユーロコミュニズム」という社会民主主義の形態が広がると、「共産主義」という名の下にあるソヴィエト専制政治が脅かされると恐れていた。
 病気を広める菌があったら、それを根絶して菌をうつされるかもしれない人に予防接種をする必要があるわけで、それが当時のラテンアメリカや東南アジアでおこなわれた。ラテンアメリカで抑圧の波が本格的に始まったのは1960年代で、ブラジルの独裁政権は80年代まで続きました。そのドミノ効果が続いて中央アメリカにおけるレーガンの虐殺戦争にまで至る。東南アジアではフィリピンのフェルディナンド・マルコス、タイの独裁政権、インドネシアのスハルト、ミャンマーの民主主義はほぼ破壊されてその影響が今日まで続いています。汚染を止めることができて病原菌を根絶すれば、すべてOKというわけ。
 それにもかかわらず米国の権力は衰退し続け、1970年には世界の富の約二十五パーセントを占めるにとどまる。巨大とはいえ45年の50パーセントではない。そして世界は三極構造と見なされるようになった。主要な経済中心地はヨーロッパ(ドイツが中心)、北アメリカ(アメリカ合衆国が主)、そして東アジア(日本の周辺)で、三つめの東アジアが世界でもっとも活発な経済地域とされていた。そこからさらに米国の衰退が続く。ここ十年ほどの南アメリカ喪失は痛手で、そこは間違いなく安全と思われていたから。安全で議論の必要もなかったくらい。いまや米国は、南アメリカではコロンビアを除けばほとんど何の影響力もありません。ペルーの周りで少しあるくらい。米国は復活しようと試みているが、かつての面影はまったくない。この本でもカルタヘナ会議(米州首脳会議)についての話がでましたが、それがこの半球での米国の権威喪失を物語っている。あらゆる課題で米国の孤立は明らかで、次の半球会議には招かれさえしないだろう。
 アラブの春も憂慮事項です。もしアラブの春が実際に地域の民主主義を機能させる方向に向うとしたら、アメリカ合衆国とその同盟諸国はきわめて深刻な問題に直面する。アラブ世界の世論が米国とその同盟諸国に反対していることは明らかで、だからこそこの地域の民主主義を制限しようと大きな力が注がれてきた。
 アメリカ合衆国の権力はいまだに圧倒的で、挑戦されることは滅多にないけれども衰えつつある。以前のようなことはもうできない。ラテンアメリカの政府を顛覆させたりはできない。中東などの他地域に介入する軍事力もない。

 A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 でもしましたよ。オバマ政権は最近ラテンアメリカで左翼政権を二つ顛覆させました。ホンジュラスとパラグァイで。以前と比べれば、アメリカ合衆国が第二次世界大戦後に支配していた世界経済の一部しかいまはコントロールしていないという点には同意しますが、現在の帝国は米国とEU、それにおそらく日本も結託している。この三つが連合すれば第二次世界大戦後からそれほど状況は代わっていないのでは? 

N・C(ノーム・チョムスキー)
 あなたのいうこともわかるけれど、ヨーロッパと日本の独自性を過小評価しているのではないかな。さらに言うと、1950年初期、米国の政策立案者たちはヨーロッパが当時の言い方で第三勢力になることを恐れていた。米ソという二つの超大国から独立する道を選ぶかもしれないと思われていたから、それを防ぐ一つの方策として北大西洋条約機構(NATO)が作られた。
 NATOはヨーロッパをロシアの侵攻から守る軍事勢力として設立されたわけですが、それを完全に正当化することはなかなか困難なわけで、その観点からは1989年にベルリンの壁が崩れたことはきわめて劇的な出来事だったと言える。もうロシアの脅威がないとすると、NATOの意義は? 教義に従えばNATOは解体してもよさそうなものなのに逆に拡大しましたね。
 ジョージ・ブッシュの父親のうほうとジェイムズ・ベイカーがミハイル・ゴルバチョフと協定を結んで、統一ドイツが西側の軍事同盟に参加してもいいことになったけれど、それはロシアの観点からするときわめて大胆な取り決めです。でもその代わりにNATOは「東に一インチたりとも」移動してはならないとされた。それですぐに東に拡大したものだから、ゴルバチョフは大いに腹を立てた。しかしこれは口頭の約束だから、それを信用するほどお人好しなあなたが悪い、と言われてしまう。紙には何も残されていないのです。というわけでNATOの東への拡張は続き、いまやアメリカ合衆国が主導する世界介入軍となっている。それは公式に国際エネルギー体制をコントロールし、海岸線やパイプラインの支配権もある。
 1989年のアメリカ合衆国の軍事予算を見るとよくわかります。ブッシュ政権も「国家安全保障戦略」なる新たな防衛政策を設定して、米国が巨大な軍事体制を維持しなくてはならないのは、もう存在しないソ連のためではなく第三世界勢力が「精巧な技術」を持ち始めたからだ、と。さらにそこにはアメリカ合衆国が「防衛産業基盤」を維持しなくてはならないとも書かれていた。これは婉曲語法であって意味しているのはハイテク産業のことであり、通常はペンタゴンを通じて政府の主導と資金で育成されるものとされていた。
 でもいちばん興味深い部分は中東について述べているところです。アメリカは中東に直接介入できる軍隊を維持すべきで、そこで直面すべき問題は「クレムリンの戸口に横たわっている」わけではない。言い換えれば、50年間言い続けてきたロシアの脅威というのは嘘で、アメリカが本当に恐れているのはこの地の「過激なナショナリズム」、独立を求めるナショナリズムだとうこと。いまや霧が晴れて雲も消えたのだけれど何も変わらない。誰も記事を書かないし、学者も研究しないから。自分がそういうことを書く一人になればよかったと思うことさえありますよ。ソ連という敵が崩壊したあの決定的な時期に、冷戦を理解したければ見るべきことがあったのです。終わったときに何が起きたかを見るべきだった。
 そこでヨーロッパはアメリカ合衆国のリードに従って、独立した姿勢を取ることはまずなかった。とくにそれはイギリスについて言えます。1940年代からの英国外務省記録を読むと、自分たちの栄光の日々は終わったことを認識して、アメリカに「つき従う伴侶」とならなくてはならず、ときに屈辱も覚悟しなくてはならないと言っている。際立った例が62年のキューバ・ミサイル危機です。ケネディの政策立案者たちはきわめて危険な選択をおこない、核戦争になるのではないかと知りながら政策を推し進めたし、そうなるとイギリスが消滅することも知っていた。ロシアのミサイルはアメリカ合衆国までは安全、でもイギリスは滅亡する、と。
 彼らはイギリスに自分たちが何をしたかを伝えなかった。イギリス首相のハロルド・マクミランはワシントンで何がおこなわれているかを必死に探ろうとしたけれども、わかったのはイギリスの諜報機関が見つけ出したことだけ。その当時アメリカ政府の高官が内輪の論議で、イギリスには何も教えない方がいい、イギリスは信用できないからと言っている、かの有名な「特別な関係」の実情がここにある。──「イギリスはわが副官、よく言えばパートナー」というわけだ。これがイギリスの現状で、大陸ヨーロッパとなるともっとひどい。後についてくるけどもやや邪魔くさい、完全には頼れないから。実際、大陸ヨーロッパの国々は一つとして完全には信用できない。独立した道を歩む能力があるし、ときにそうしてきたからです。

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コメント
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