真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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北方領土問題 米ソ取引 ヤルタ協定

2012年12月23日 | 国際・政治
 日露間の国境線は、さかのぼると1855年(安政元年)「日本国魯西亜国通好条約」(註:魯西亜国はロシアコク)によって、はじめて設定された。その第2条に、「今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島「ウルップ」島の間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし」とある。日本が北方領土の4島返還を求める根拠になるものである。樺太は「界を分かたす」、両国民混在の地としたのである。

 その後、明治時代に入って1875年両国は、「樺太千島交換条約」を締結する。その前書きに『全日本国皇帝陛下ト全魯西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシマンカ為メ大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理 全魯西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニスル領地ノ権理ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ハント欲シ…』とある。この樺太千島交換条約によって、混在の地で紛議の絶えない樺太はロシア領土に、全千島列島は日本の領土にしたのである。これによって、混在の地がなくなり日露間の境界線は明確になった。

 ところが、1905年ポーツマス条約(日露講和条約)によって、日露戦争に勝利した日本が、南樺太を獲得する。全千島列島と南樺太が日本の領土となったのである。

 さらに1945年、第2次世界大戦終戦前後に、再びその国境線が変化する。きっかけは、下記に抜粋した「ヤルタ協定」である。この「ヤルタ協定」が、現在に続く日本の「北方領土問題」の発端なのである。したがって、北方領土問題の解決について考えるとき、この「ヤルタ協定」の理解が不可欠であると思う。
 大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。この会談は、第2次世界大戦後の世界情勢を決定づける極めて重要な会談であったが、ヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求める下記ヤルタ協定に合意したのである(イギリスは対日問題に口出しする立場にないとして、米ソの決定事項をただ承認してサインしたに過ぎかったという)。このルーズベルトの千島引き渡しの約束は、第2次世界大戦の犠牲を最小限におさえ、迅速に勝利を勝ち取るため、ソ連に日ソ中立条約を破棄させ、対日戦に参戦させることを目的とした見返りである。

 この時、歴史的経緯を重視する立場から、ヤルタ協定の合意に再考を促したハリマン大使に対し、ルーズベルト大統領は「ロシアが対日戦の助っ人になってくれるという大きな利益に比べれば、千島は小さな問題である」と言って、その進言を退けたという。対日戦で大きな犠牲を強いられてきたアメリカ大統領の大局的見地からの決断だったといえる。ところが、その後米ソ冷戦の激化とともに、アメリカの姿勢が変化していくのである。「ソ連は最初北方四島は諦めていた 知られざる北方領土秘史 四島返還の鍵はアメリカにあり」戸丸廣安(第一企画出版)よりの抜粋である。
(註:露西亜・魯西亜・ロシアなどの表記はそのままにした)

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             歴史を浮き彫りにする資料集

 ヤルタ協定
                  1945年2月の「ヤルタ」会議に於いて作成
                  1946年2月11日 米国 国務省より発表
三大国即ち「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国の指導者は「ドイツ」国が降伏し且「ヨーロッパ」に於ける戦争が終結したる後二月又は三月を経て「ソヴィエト」連邦が左の条件に依り連合国に与して日本に対する戦争に参加するべきことを協定せり
1、外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持せらるべし
2、1904年の日本国の背信的攻撃に依り侵害せられたる「ロシア」国の旧権利は
  左の如く回復せられるべし
 イ、樺太の南部及之に隣接する一切の島嶼は「ソヴィエト」連邦に返還せらるべ
   し
 ロ、大連商港に於ける「ソヴィエト」連邦の優先的利益は之を擁護し該港は国際
   化せらるべく又「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口
   の租借権は回復せらるべし
 ハ、中東鉄道及大連に出口を供与する南満州鉄道は中ソ合併会社の設立によ
   り共同運営せらるべし但し「ソヴィエト」連邦の優先的利益は擁護せられ又中
   華民国は満州に於ける完全なる主権を保有するものとす
3、千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし
  前記の外蒙古並に港湾及鉄道に関する協定は蒋介石元帥の同意を要するも
  のとす 大統領は「スターリン」元帥よりの通知に依り 右同意を得る為措置を
  執るものとす三大国の首班は「ソヴィエト」連邦の右要求が日本国の敗北した
  る後に於て確実に満足せしめらるべきことに意見一致せり
   「ソヴィエト」連邦は中華民国の覇絆より解放する目的を以て自己の軍隊に
  依り之に援助を与ふる為「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中華民国間友好同
  盟を中華民国国民政府と締結する用意あることを表明す
                1945年2月11日
                             イヴェ・スターリン
                             フランクリン・ディ・ローズヴェルト                              ウインストン・エス・チャーチル


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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沖縄返還 密約 密使 若泉敬の証言

2012年12月10日 | 国際・政治
 沖縄返還交渉のなかで密約があったことは、様々な文書で明らかとなり、もはや否定できるものではなくなった。特に衝撃的といえるのが、佐藤栄作首相の密使として交渉にあたった若泉敬自信が、その著書「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」(文藝春秋)で、詳細な交渉過程を公表したことであろう。その後、彼は時の大田昌秀沖縄県知事に謝罪の文書(遺書)を送り、およそ2年後服毒自殺したという(公式発表は病死)。
 同書は、下記①の「鎮魂献詞」と「宣誓」から始まり、19章からなる。617ページに及ぶ文章は、『「鎮魂献詞」「宣誓」「謝辞」で始まるこの拙著の公刊を、”永い逡巡の末”ここに決断するに至ったのは、まさに私のその塞き止め難い想念のなさしめる業に他ならない。』で終わっている。

 ②に抜粋したのは、彼が密使として、最初に交渉相手であるキッシンジャー補佐官と交わした会話を中心としている。まさに、「知っているのは4人だけだね」の言葉通り、秘密交渉だったことを明かすものである。

 ③に抜粋したのは、米側の情報や要求について、彼が佐藤首相に報告し、進言する部分である。表向きの発表と異なり、アメリカは沖縄返還と直接関わりのない「繊維問題」などを交換条件にして、露骨に国益を追求していることが分かる。

①--------------------------------
  鎮魂献詞

1945年の春より初夏、
凄惨苛烈を窮めた日米沖縄攻防戦において
それぞれの大義を信じて散華した
沖縄県民多数を含む
彼我二十数万柱の総ての御霊に対し、
謹んで御冥福を祈念し、
この拙著を捧げる。



  宣誓

永い遅疑逡巡の末
心重い筆を執り遅遅として綴った一篇の物語を、
いまここに公にせんとする。
歴史の一齣への私の証言をなさんがためである。
この決意を固めるにあたって、
供述に先立ち、
畏怖と自責の念に苛まれつつ私は、
自ら進んで天下の法廷の証人台に立ち、
勇を鼓し心を定めて宣誓しておきたい。

私自身の行った言動について
私は、良心に従って
真実を述べる。
私は、
私自身の言動と
そこで知り得た事実について
何事も隠さず
付け加えず
偽りを述べない。

 右、宣誓し、茲に署名捺印する。         若 泉 敬 印
 1993年(平成5年)5月15日


②-------------------------------
第9章 ”政治的ホットライン”の開設

「知っているのは4人だけだね」

 7月21日午後5時からのニクソン大統領の記者会見後、キッシンジャー補佐官と会ったのは夜も8時半になってからだった。今度は、ハルぺリン氏とは一切連絡なしである。
 キッシンジャー補佐官は、改めてニクソン大統領がこの”政治的ホットライン”を開くことに賛成であることを私に告げた。さらに、大統領と相談の結果、ロジャーズ国務長官には知らせないことにした。日本側も同様にしてもらえるか、と訊いてきた。
 「もちろん、そうすべきだし、佐藤首相に話して必ずそのようにしてもらう」
 と、私は断言した。つまり、愛知外相や保科官房長官、木村官房副長官らを完全に外さなければならないのだ。
「(知っているのは)4人だけだね(Just four of us!)」
と、抑揚も鋭くキッシンジャー氏は念を押した。
大統領と首相、そしてわれわれ2人だけに、このチャンネルのことを限定しておくというわけである。
 そのうえで、彼は次のように語った。
「大統領は、沖縄について政治的判断を優先させることの必要性を理解している。長期的にみて、米日関係を極めて重視している。したがって、佐藤首相が訪米された際に困るような立場には置かない。
 われわれは、必ずや双方に受け入れ可能な合意に達しうると確信している。そういう精神で今後交渉を進めようではないか」
 と厳かな口調で述べたあと、強く頷く私に対し、
「問題は」
 と、幾分声の調子を変えた。
「緊急時の基地の自由使用のことだが、はたして、事前協議条項について日本側からどんな自由使用の保証を与えてもらえるだろうか。
 この点について原則的な合意ができれば、核を沖縄に貯蔵ないし配備することをやめることを考慮してもいい」
 と厳しい態度に出てきた。さらに、
「ただし、かりに一旦撤去したとしても、そのあと緊急事態が発生した場合、これは沖縄だけだが、核をふたたび持ち込む必要が生じるかもしれない。その権利をわれわれは保持しなければならないと考えているが、日本政府としてどのようにしてその点を保証してくれるのか。
 それは、日本側にも事情がおありだろうから、たとえばのことだが、両首脳間の秘密の了解事項として扱ってよいものかどうか、佐藤首相のお考えを聞きたい。
 この点で、両首脳間で一致がみられれば、共同声明の案文の文言を作り上げることは、事務レベルで技術的にいくらでも可能だ」
 私は、これらの点は、帰って佐藤総理によく説明し、総理の返事をもらってくることにしよう、と返答した。付け加えて、
「神経性毒ガスを沖縄に置いているのはまことに困ったものだ。早くなんとかしてもらえないか」
 と頼んだ。すると彼は、あたかも自分が決定権者であるかのように、 
「すぐに撤去することを発表し、なるべくすみやかに実行に移す」
 と答えたではないか。
 この発言は、彼が実質的に非常に大きな裁量権を握っているという強い心証を私に与えた。

 このあと、2人で決めたことは、主として今後の電話連絡を配慮し、お互いのいわば”暗号表”を作ることであった。私は彼を、「ドクター・ジョーンズ」というありふれた名で呼ぶことにし、私の符諜は「ミスター・ヨシダ」という、これまた日本ではごく普通なものにした。
 ただこのヨシダというのは、単なる思いつきの対キッシンジャー補佐官用というよりも、佐藤首相と私との間の連絡用コード・ネームとして、すでに東京でかなりの期間使われていたものだった。

 
・・・

 これによって、普通の電話で話すときも、直接お互いの固有名詞も役職も用いなくても済む。よほどのことがないかぎり、国際電話の交換手もこれなら怪しまないだろうと、”期待”することにした。この経緯の一部は、キッシンジャー氏もその回顧録に次のように書いている。

 「彼は自分の身分を隠し、もしかすると盗聴しているかもしれない情報機関の耳をたとえ2分間でもごまかそうとして、『ミスター・ヨシダ』という偽名を名乗った。また彼は、普通の電話で問題を説明する場合、『私の友人』(佐藤)『あなたの友人』(ニクソン)という暗号を使った(この『私の友人』『あなたの友人』という暗号を使う話し合いは、その後かなり長い間、私の人生の一部をしめることになり、最後には気がおかしくなりそうになった」


 ・・・

③--------------------------------
第12章 ニクソン大統領の”最後通牒”

 ためらう総理

 ・・・
 佐藤総理に私が会ったのは、翌3日である。公邸のいつもの小さな応接間で、午後3時から1時間。
 まず、キッシンジャー補佐官から渡された「2枚の紙(ペーパー)」の原文とその翻訳を提出した。キッシンジャー氏が私に示したのと同じ順序で、最初が「繊維」の紙である。
 総理は、眼鏡を取り出して、この簡潔な文書に交互にじっくり眼を通しながら、何か深く考え込んでいる様子で、いつもより重々しい感じだった。
 まず繊維について、私は、
「30日に会って、ことの重大さが分かりました。ニクソン大統領自身の強い要請として、キッシンジャーがあれほど言うのですから、こちらとしても大統領に対してなんとかしてやらねばいけないでしょう。私は専門家ではないからよく分かりませんが、できるだけのことをして大統領に応えてやってください」
 と言って、「むしろ大事なのは繊維だ」と強調した26日の会見、そして30日に向うが言ってきたことを正確に伝えた。
 当時、私は、繊維についての知識は総理の方がはるかにあると考えていた。それは、かつて通産大臣もやり、また大蔵大臣のときに綿製品の輸出規制問題を扱っていたというような話を、佐藤氏自身から聞いたことがあり、また当然のこととして、すでに愛知外相、大平通産相あたりから十分な情報と知識を仕入れているだろうと、考えたからだ。
 総理は、渋い表情になって、
「難しい問題なんだが、君の話は分かったよ」
 と、その一言だけだった。
「この次にお会いするまでに、よく考えておいて下さい。大統領の威信がかかっている問題だと力説して、向こうは承諾の返事を迫ってきていますので」
 私は、相手の眼を見つめて念を押した。総理は、無言だった。

 総理も、そして私も、真の関心は核抜きの方にあった。
「核兵器は、返還時までに撤去すると言っています」
 私は、30日のキッシンジャー補佐官の話を詳しく報告した。
佐藤総理の表情が変わり、大きな眼がときに光るような感じだった。
「ただし、いまお渡しした紙にも書いてありますが、緊急の非常事態に際しては、事前通告だけで核の再導入を認めることを保証してくれ、さもなければ沖縄は返せない、というのがいまや軍部だけではなく、ニクソン大統領自身の意思でもありかつ決定なのです。
 私は、事前通告だけでは困るんで、たとえ形式だけでも事前協議にしてもらう必要があるのではないかと思いますが……」
 総理は、突然の重大な米側の条件提示に、いささか驚きと動揺を隠せないようであった。

「ううん」と低く唸るような声を出したあと、
「エマージェンシィ(緊急事態)を、誰が、どう定義するのかが問題だなあ」
「そのとおりです。これは難しい問題ですが、そんな緊急時には、実際はアメリカが一方的に決めてやることになるんでしょう。それでも私は、”事前協議”という建前は貫きたいですね」 
「定義が決まれば、通告でも協議でも同じだろうが」
「そういう緊急事態の起る可能性はほとんどないと思います。しかし、書いたものを残す以上は、一方的な通告では困ります。形式的にでもやはり協議にして、日本の意思も入れて合意するということの方が望ましいでしょう」
 総理は少しなげやりな感じで、
「それもそうだが、向こうが通告で一方的に持ち込むというなら、仕方ないではないか」
 総理としては、突然このような条件を、大統領の明確な意向として、いわば、”最後通牒”のような形で提示されたことに、内心相当不満であったようだ。この点、感情を滅多に言葉には出さない佐藤氏だが、その態度と表情から私は十分読みとれた。
 私は、それを無視するかのように話を進めた。

「事態ははっきりしてきて、核の問題は通常の外交ルートでは話せない、と言っています。
 日本の要求どおり核を抜かせるためには、向うが言ってきた条件は”ギブ・アンド・テイク”で呑まざるをえないでしょう。それを了承してくれなければ、沖縄自体を返せないと言っている以上、已むを得ないのではないですか。
 ここで取引する余地は、残念ながらごく僅かしかないでしょう。日本側の3条件、すなわち核抜き、本土並み、72年返還を貫徹するためには、基本的には、向うが出してきたその2つ(総理の前のテーブルの上にある”2枚の紙”を指差しながら)を拒絶することはできないと思います。
 総理は、ためらっていた。やや間をおいて、
「もう少し考えてみよう。少し時間をくれないか」
「どうぞ、お願いいたします。
 日本国の総理大臣として、よくお考えになって下さい。いまが一番大事なところだと思います。
 ただ、核のことは、いくら押しても通常の外交ルートでは返事は来ないんですから、その点は総理だけの念頭にきちんとおかれて対処して下さい」
 と、このチャンネル、すなわちこの政治的ホットラインでしか核の決着をつけることはできないので、選択の余地はほとんどないことを再度強調した。


 佐藤総理としては、どうも、事態の予想外の展開が腑に落ちないようであった。できることなら、このような条件を呑まされることなく、核抜き返還を達成したいというのが本心だったであろう。
 9月2日に会った時点で、私は自分の使命についてだいぶ分かってもらえたと思ったのだが、そして16日にはその印象をさらに強めたのだが、それでもなお総理の頭のなかでは、この極秘チャンネルは、交渉というよりもホワイトハウスの大事な情報をとり、大統領の感触を探るという一種の”諜報機能”として位置づけられているようだった。
 つまり、この政治的ホットラインは、通常の外交ルートでどうしても壁が破れぬ場合に、両首脳間の最高レベルでの機密の交渉が行われる可能性をもったものである、という明確の認識はなかったものと思われる。
 したがって、予期せぬことに、私がニクソン大統領のいわば”最後通牒”を引き出してきたことに、その内容のもつ重要性と併せ、なにか釈然としたい気持が胸中根強くあったことは間違いないものと思われる。
 私は、そのような総理の揺れる心理をあえて無視することにした。私とて不本意なことはもちろんだが、ことここにいたっては核抜き返還を達成するには、少々の譲歩や妥協は致し方ない、それがそもそも外交交渉というものではないか、すんなりこちらの要求が通るのなら、もうとっくに通常の外交ルートで決着がついているはずではないか、という開き直った気持ちであった。


 ・・・

 佐藤総理は、私の帰国報告について、『日記』に、次のように書いた。

 「米国に派遣した若泉敬君が帰ってきたので早速会ふ。思った通り、2,3の点で重大決意を要する様だ。又センヰ関係は当方で決心する様に、と決心をせまられる。丁度木川田君が帰国して報告のあったばかりで当方も決心すべき時と相談したばかりの処だった。
 夕刊は米国からセンヰ関係で2国間協定を正式に申しこんで来たと云ふ。外務省に確かめると新聞報道通り。断るすじは勿論ない。前向きで研討(ママ)する様注意する」


 なお、この『佐藤日記』でふれられている3日付け夕刊のワシントン発の記事というのは、私もその夜帰宅してから読み、”いよいよ来たか”と強い印象をもって各紙を精読した記憶がある。内容は、おおむね次のようなものであった。

 「米国のトレザイス国務省経済担当次官補は2日午後3時(日本時間3日午前4時)国務省に吉野駐米大使を招き、米政府の繊維輸入規制についての正式な提案を申し入れた。同案は毛・化合繊は包括的に輸入規制するために2カ国間協定を結ぼうというもので、米国としてはニクソン大統領就任以来、日本に要請してきた繊維の自主規制をついに2カ国間協定にきりかえ、正式な外交ルートを通じてこの締結を迫ってきたもの」


 この繊維問題については、総理への報告後、留守中の新聞報道を読みながら次のようなことに注目した。
 つまり9月29日に、佐藤総理も出席して挨拶した東京ヒルトンホテルでの内外情勢調査会の年次大会において、2週間のワシントン滞在を終え帰任したマイヤー駐日米大使が、「アメリカからの報告」と題する特別講演行った。大使は、そのなかで大要次のように述べていた。

 「沖縄返還のための継続討議で米国が求めていたは、日本の利益と願望を念頭におくことであるが、現在進展が見られているし相互に満足のいく解決が見いだされるものとわれわれは期待している」


 また繊維問題については、次のように述べた。

 「より均衡した対日貿易の収支を実現しようとする米国の希望はしばしばどん欲な圧力と解されるが、このような非難は不当だ。制限的な貿易慣行を避けることによって日本ほど利益を受ける国はない。繊維問題については米国の労働者や工場にも同情ある態度をみせてほしい。破局的な制限措置の連鎖反応を避けるとすれば暫定的な方便としても、日本が一部諸国とすでに実施しているような自主規制を羊毛と人造繊維の輸出で行うことが不可欠だ」

 したがって私が3日に会った時点では、総理の頭のなかでは繊維問題のもつ重要性がかなり認識されていたのではないか、とも思われ
るのである。

 さらに、私の希望的観測を高めたのは、10月2日付の次の報道であった。ただ、私はこの1面トップ記事の信憑性を確かめる術をなんらもたなかった。

 「政府首脳が1日明らかにしたところによると、政府は大詰めを迎えた沖縄交渉を有利に展開するため、最大の決め手として繊維製品の対米輸出自主規制問題を交渉材料に使うハラ固めた。このため、政府は近く米国から自主規制をねらいとした正式提案があれば話し合いに応ずる見通しである。政府首脳が繊維問題を沖縄問題とからめないとの従来の方針を変えたのは農産物を中心とする残存輸入制限の自由化の見通しが立たず、一方、沖縄の核兵器の扱いやB52戦略爆撃機のベトナム向け発進など我が国として譲歩できない核心に近づいた沖縄交渉を打開する考えからとみられている」



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日米地位協定 沖縄返還交渉 財政・経済取決 N02

2012年12月02日 | 国際・政治
 衆院解散にともない、各政党組織が選挙モードに突入している。ところが、日本にとって極めて重要な、沖縄米軍基地問題に関する政策ほとんど議論されていない。政権を争う野田民主党も安倍自民党も日米同盟重視の姿勢を示しているにもかかわらず、である。米軍人の犯罪問題、オスプレー配備・訓練の問題、基地移転の問題は、打つ手がないということなのであろうか。日本の国益に反すると思われるこうした問題を取り上げない理由が分からない。
 アメリカのニューメキシコ州キャノン空軍基地周辺では、オスプレイの低空飛行訓練に反対の声が上がり、オスプレイの低空飛行訓練中止や訓練の見直しが決定された、という報道がなされた。アメリカのニューメキシコ州キャノン空軍基地周辺よりはるかに人口密集地域であり、危険性の高い普天間飛行場へのオスプレー配備や訓練強行を、問題にしない理由があるのだろうか。

 また、1995年以来、沖縄が繰り返し要求し、誰が考えても一方的内容の「地位協定」の見直しは、なぜ一向に進まないのだろうか。下記は、沖縄返還時の日米取り引きの一つである。日米同盟とは何なのかと考えさせられる。

 琉球大学の我部政明教授が入手した、沖縄返還に関わる米国防総省の文書には、驚くべきことが書かれている。下記に抜粋した、「日本政府が国民に語った内訳」の中にある。

 沖縄返還にあたって、日本が米国に支払う「3億2,000万ドルに関する取決は、返還協定第7条に述べられている。民政用資産の売却費1億7,500万ドルを除き3億2,000万ドルの内訳について日米間で何らの合意も存在しない。3億2,000万ドルは一括解決(パッケージ)としての金額となっている。たとえば、核兵器に関する日本政府の政策に沿って返還を実施するのだが、その詳細について日本政府との議論はしない。もちろん、日本政府が3億2,000万ドルの内訳にについてどのように説明しようと自由であるが、そのことが第7条の変更にはあたらない。契約当事者が契約の利点について異なった説明を行うのは、珍しいことではない」というのである。「民政用資産の売却費1億7,500万ドル」以外は、日本から奪い取った、と言っているに等しいのではないかと思う。日本政府は、その3億2,000万ドルの内訳を、民政用資産買い取りに1億7,500万ドル、核兵器撤去費用に7,000万ドル、労務関係費に7,500万ドルと説明しているのである。因みに、日本政府が米軍の核兵器撤去費として計上した7、000万ドルについては、米側文書では、核撤去に太平洋陸軍情報学校移転費を含め500万ドルであり、10分の1以下である。西山記者が暴露した400万ドルの「密約」をはるかに超える裏取り引きがなされていたという事実を、どのように考えればいいのだろう。

 アジア諸国に対しては一歩も譲らない日本が、なぜこうした取り引きを密かに交わすのであろう。日米は、ほんとうに同盟関係にあるのだろうか。「沖縄返還とは何だったのかー日米戦後交渉史の中で」我部政明(日本放送協会)からの抜粋である。
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                第6章 もうひとつの密約

返還協定と覚書との3億500万ドルの差額
 1971年6月17日に調印され、最終的な日米合意となる沖縄返還協定(1972年5月15日発効)は、その第7条で日本政府が米政府に支払うべき金額についてつぎのように定めている。
 返還にともなって、①日本政府へ移管する米政府の財産の買い取り、②日本の非核三原則に背馳しないよう沖縄から核兵器を撤去する費用、そして③沖縄の軍雇用員への退職金を本土並みに引き上げるための資金を日本政府が肩代わりするために、日本政府は「この協定の効力発生の日から5年の期間にわたり、合衆国ドルでアメリカ合衆国政府に対し、総額3億2,000万ドルを支払うとなっている。その内訳は、米資産の買い取りとして、1億7,500万ドル、核撤去費として7,000万ドル、軍雇用員関連費として7,500万ドルだと、日本政府は説明した。
 それに対し、1969年11月12日に、福田とジューリックとの間で確認され、12月2日にイニシャルで柏木・ジューリック間で署名された秘密覚書では、総額4億6,500万ドルの米側の受け取りとなっている。
 

 同年11月10日、東京の米大使館が秘密覚書についての最終承認を国務省へ求めた電報によれば、民政用・共同使用の資産買い取り用に1億7,500万ドル、基地移転費及びその他費用に2億ドル、通貨交換に少なくても6,000万米ドル(交換される額がそれ以上の場合は、その実際の額)の連邦準備銀行へ25年間無利子の預金(利息分を含むと1億1,200万ドル)、軍雇用員の社会保障費に3,000万ドル、合計で5億1,700万ドル、これらに加えて返還後5年にわたる米政府予算の節約分、琉球銀行の株式や石油・油脂施設などの売却益を加えて、米側の得る、財政・経済的利益は、6億8,500万ドルと見積もられていた。返還にともなって米政府の受け取る利益は、返還協定で明示された、日本政府が支払う金額に比べ、3億500万ドル多い金額だったのである。

 なぜ、返還協定と柏木・ジューリック覚書との間に金額の隔たりがあるのか。それは、日本国内で、説明のつきにくい支払いを含むものだったからである。そのため、日本政府はこの覚書の存在を秘密としなければならなかった。後述する民政用資産のように国民に説明可能な支払い項目については、公表している。むしろ、明らかにすることで、日本政府は米政府への支払い金額の正当性を国民から得ようとしたのであろう。また、返還合意に達する佐藤・ニクソン会談前に返還にともなう財政・経済取決に合意したことは、政治・外交的努力というよりも、お金で「沖縄を買い取った」との印象を日本の国民に与えるため、佐藤政権にとって覚書そのものを隠さざるを得なかった。
 

日本からアメリカへの3つの補償費の内訳
 その後の返還協定までの日米交渉にとって何が問題となったのであろうか。結論を先に述べると、この秘密覚書をどのように実施に移すのかが財政・経済の側面での返還協定交渉であったといえる。
 そもそも、秘密の支出を含めて日米間の財政・経済取決には、個々の積算根拠は存在しない。米政府の財政・経済取決の目標は、返還にともなう費用とその後の米軍の経費を軽減するために、一括して日本政府に支払わせることであった。その支払い額を最大化するために、米政府がこれまで基地建設のために投入した費用に加え、米援助によって整備されてきた水道、電力など沖縄の人々に帰属する資産なども日本政府への売却対象とされたのである。たとえば、米政府が琉球住民へ贈ったことを記した銅板プレートで玄関を飾った行政ビル(現在の県庁ビルがたっている場所にあった)さえも売却対象としたのである。さらに、返還にともない当時沖縄で流通していた米ドルを日本円に交換するため、日本政府のドル保有を高め、米国の国際収支を悪化させることが予想された。そのため、米政府のもう一つの関心事は、通貨交換後の米ドルの処理にあった。
 日本政府から米政府へのお金のフローには、3つの金額が存在することになる。まず日本政府が説明した内訳。そして、米政府が日本政府に要求した際の内訳。最後に、支払われた金額の実際の使途。たとえば核撤去費用のように使途が判明するのは一部で、「基地の移転費及びその他」2億ドルと、通貨交換後に預金されたドルの行方の2つについては、これまで秘密のベールに包まれてきた。

 
2つの金額の比較 (略)

本土にも使われた基地移転費 (略)

移転費用の本当の意図 (略)

地位協定と別個に位置づけられた移転費 (略)

「思いやり予算」のスタート (略)

返還協定に記されていない3億2000万ドルの内訳
 東京にて日本政府との間で「防衛引継ぎ作業」を任務とする米軍沖縄故障チーム(USMILRONT)が作成した1972年6月15日付けの報告書がある。これまでの研究でほとんど言及されたことのない文書だ。返還後にまとめらている文書なので、返還交渉の結果を垣間見ることができる。

 それによれば当初、日本政府は返還にともない、3億7,500万ドルを支払うことを合意していた。そのうち、1億7,500万ドルを現金、残りの2億ドルを沖縄に於ける基地建設のための物品及び役務による支払いとしていた。米軍が日本本土や沖縄に2億ドル分の新たな基地を必要としなかったことから、現金で3億ドルと物品及び役務で7,500万ドルへと変更された。その後、日本政府の負担するVOA(ヴィナス・オブ・アメリカ)の移転費と請求補償費を合わせて2,000万ドルの現金支払いが加わり、現金で合計3億2,000万ドルとなった。


 この現金が、返還協定第7条において明記された3億2,000万ドルである。その内訳として、まず、民政用資産費の1億7,500万ドル、増大する労務費6,200万ドル、核兵器撤去費500万ドル、VOAの移転費1,600万ドル、請求補償費(感謝費)400万ドル、使途を明らかにしない支出5,800万ドル、合計3億2,000万ドル。だが、その内訳は同協定には記されていない。
 同報告書によれば、VOAの撤去が行われない場合には、以下に述べる秘密の施設改善費6,500万ドルから撤去費の1,600万ドを差し引くこととなっている。
 ここでいう請求補償費とは、返還以前に米政府が沖縄の人々に認めた請求権(土地の賃借権、琉球土地裁判所の管轄する請求権、労働災害の補償請求などのほかに、講和前に米軍によって於けた損害のうち原状回復費用)を有効とし、返還後も政府に自発的な支払いを定めたことをさしている。同報告書によれば、沖縄から強い要求を受けた日本政府は、これらの請求権を放棄できないため、最終的に補償費用を日本政府が肩代わりすることを条件にして、返還協定に米政府の支払う条項を入れることになったという。その費用が、400万ドルである。西山記者がスクープした費用である。


 増大する労務費の6,200万ドルは、つぎのような内訳であった。本土と同様に日本政府との基本労務契約(MLC)の適用を沖縄の基地従業員が受けることにともなう給与の上昇分として2,000万ドル。残る4,200万ドルは、返還後5年(1977─78会計年度まで)の間に上昇すると見積もられた基地従業員の給与及び手当であった。

 返還協定で記された3億2,000万ドル以外に、秘密扱いとされる財政・経済取決が存在する。日本政府が物品及び役務で支払うとされた7,500万ドルである。内訳は、物品及び役務による基地の改善費としての6,500万ドルと、労務管理費としての1,000万ドル(毎年200万ドルで5年間)である。
 そして、返還以前の沖縄で流通していた米ドルを日本円に交換した後のドルの取り扱いである。通貨交換後の米ドル11,200万ドルを25年間無利子で米ニューヨーク連邦準備銀行へ預金することになった。


日本政府が国民に語った内訳
 日本政府は3億2,000万ドルの内訳をつぎのように説明した。民政用資産買い取りに1億7,500万ドル、核兵器撤去費用に7,000面ドル、労務関係費に7,500万ドルと。日本政府は全く異なる数字でもって国民に語ったことになる。冒頭に述べた「機密漏洩」裁判で疑惑とされた「密約」は、3億2,000万ドルに含まれて存在している。またVOA移転費も計上している。それ以外にも、地位協定第24条2項をねじまげて6,500万ドルの施設改善費を支払ったのである。さらに、沖縄で流通していた米ドルを、通貨交換後に米ニューヨーク連邦準備銀行に無利子で預金した。沖縄返還にともなう財政取決のすべてが、国民の目の届かぬ秘密とされてきたのである。

 
 沖縄返還協定を審議するために開かれる米上院での公聴会に向けて、国防総省の作成した想定問答集が手元にある。3億2,000万ドルについての日本政府の説明について公聴会で質問が出た場合には、つぎのように回答することにしていた。「3億2,000万ドルに関する取決は、返還協定第7条に述べられている。民政用資産の売却費1億7,500万ドルを除き、3億2,000万ドルの内訳について日米間で何らの合意も存在しない。3億2,000万ドルは一括解決(パッケージ)としての金額となっている。たとえば、核兵器に関する日本政府の政策に沿って返還を実施するのだが、その詳細について日本政府との議論はしない。もちろん、日本政府が3億2,000万ドルの内訳にについてどのように説明しようと自由であるが、そのことが第7条の変更にはあたらない。契約当事者が契約の利点について異なった説明を行うのは、珍しいことではない」


米政府の得た利益──6億ドル余り
 返還にともなう財政・経済取決において、米政府は充分に満足ゆく成果を獲得した。返還協定第7条と秘密合意により、現金あるいは物品及び役務により3億9,500万ドルを得たばかりでなく、通貨交換後において1億ドル以上の米ドルで無利子で預金させ、国際収支の悪化を防いだ。さらに、日本へ施政権を返還することで年間2,000万ドルの対沖縄援助の負担から米政府は開放された。軍用地賃貸料の日本政府負担を定めた地位協定の沖縄適用にともなって、それまで米政府の支払ってきた年間1,000万ドルが節約となった。地位協定において基地返還の際に原状回復が義務づけられていないため、約2,000万ドルの負担がなくなる。沖縄の施政権を返還することにともなって、1972年から1977年までの間に、総額で6億4,500万ドルの利益を米政府は獲得したのである。この6億ドル余りという金額は、1945年以来、27年間の間に米政府が沖縄に投入した総費用に匹敵する。


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