真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウクライナ戦争、アメリカが話し合いをしない理由は?

2022年05月18日 | 国際・政治

    知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。

 ウクライナ国防省のブダノフ情報局長が、ウクライナ戦争について、”ターニングポイントは8月後半になります。年内にはロシア軍との戦闘の大部分が終結する。その結果、ロシアの政治情勢がすべて変わります”などと述べたことが伝えられています。また、”プーチン大統領は精神的、肉体的に非常に悪い状態にあると分かります。彼は重い病気です。同様に様々な病気を患っていて、そのひとつが、がんです”などと語ったと言われています。
 さらに、ウクライナ国防省の諜報部門トップ、ブダノフ准将が、プーチン大統領に対する”クーデター計画”が進行しているとの見方を示し、それが、ウクライナに侵攻したロシア軍の劣勢が引き金になっていると分析するとともに、”計画は止められない”状況にあるとも述べたといいます。

 根拠不明のこうした報道から、私はウクライナ政権には、停戦交渉を進める気がないのだろうと思います。そしてそれは、ロシアを屈服させ、その影響力拡大を阻止するとともに、あわよくばプーチン政権を転覆しようとするアメリカの意向を受けたものだろうと想像します。
 バイデン政権は ゼレンスキー政権を支援して、ロシアを潰しにかかっているのではないかと考えます。 
 なぜなら、第二次世界大戦後のアメリカの外交政策をふり返れば、アメリカは、反米的な国家の存在を認めず、経済制裁を課したり、反政府勢力を支援して政権転覆に手を貸したりしてきたからです。
 だから、上記の”プーチン大統領に対する「クーデター計画」が進行している”との見方は、実は、「見方」ではなく、親米的な人たちにクーデターを計画させ、それを支援しているということではないかと疑わざるを得ないのです。

 また、最近フィンランドとスウェーデンの両国が、NATO加盟の意向を表明したことが報道されました。そして、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長が、”全ての国に自らの道を選ぶ権利があり、決断を尊重する”と述べ、両国の加盟の方針を歓迎したと言われています。でも、これも両国が自ら望んだことではなく、西側諸国の頂点に立つアメリカのロシア敵視、ロシア排除の方針によって、選択を迫られる情勢がつくり出されたからだろうと想像します。

 現在、欧米日などの西側諸国には、ウクライナ戦争が、ロシアからの突然の攻撃開始で始まったかのようなプロパガンダが支配的です。でも、バイデン大統領が副大統領時代に6回もウクライナに行っている事実や息子のハンターバイデンが、ウクライナの天然ガス会社であるブリスマ・ホールディングスの取締役を務め、月額5万ドル(約536万円)という高額の報酬を受けていたという事実、またトランプ氏が、ゼレンスキー大統領との電話会談の中で、バイデン親子のウクライナにおける活動について捜査するよう促していた事実などを、NATOの東方拡大や軍事演習、ウクライナへの武器の配備などと考え合わせると、ウクライナ戦争は、長い時間をかけて周到に準備されてきたのではないかと疑わざるを得ません。
 そして、いよいよ決戦だとばかりに、2月半ばからロシア系住民がいるドンバス地方をウクライナ軍の精鋭部隊といわれる「アゾフ大隊」に激しく攻撃させたのではないかと思います。
 バイデン米大統領が、ロシアのウクライナ侵攻前に、記者団に対し、”ロシアによるウクライナ侵攻の可能性が非常に高い。数日以内にも起こり得る”などとの見方を示すことができたのは、そうした流れがあったからではないかと思います。
 見逃せないのは、その時、”現時点でロシアのプーチン大統領と電話で話す予定はない”と述べたことです。戦争を仕掛けたのはアメリカだということを示していると思います。
 
 だから、アメリカやウクライナからもたらされる情報を、何の検証もなく報道する日本のメディアは、大本営発表を国民に信じ込ませた過ちを思い出してほしいと思います。
 ほんとうに8月後半が、”ターニングポイント”でしょうか。”ロシアの政治情勢がすべて変わ”り、戦争が終結するのでしょうか。私には信じられません。
 私は、とにかく停戦協議を進めるべきだと思います。武力で決着させてはならないと思います。

 「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)の、「第四章 ソビエトブ・ロック」を読むと、私はロシアに対する理解が歪んでいたことを認めざるを得ません。そして今、ロシアを悪と決めつける受けとめ方が、より深刻なものになりつつあるように感じます。下記は、「第四章 ソビエトブ・ロック」の一部抜粋です。
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        知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。  

                第四章 ソビエトブ・ロック

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東ヨーロッパの現状についてはどう考えるか、聞かせてもらえるかな。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 悲観的ですね。歴史のある時点ではチェコスロヴァキアやハンガリー、東ドイツといった国々の人たちが人類のために本当に良いことをさせられてきたけれども、望んでそうしたわけではなくて、私の意見では、そのあいだもつねに人々は自分たちを抑圧する支配者の側に加わることを夢見てきたのだと思います。過去二十年間、彼らはそうした夢を生きてきた。全部ではないけれど少なくともエリートたちはそうでした。いまでも東ヨーロッパについて信じられていることがありますね。いかに状態がひどかったか、といったように。東ヨーロッパや中央ヨーロッパの反体制派は、神聖で侵すことができないヒンドゥーの聖なる牛のようなものです。ヴァーツラフ・ハヴェルとかミラン・クンデラ〔チェコの小説家。1929年生ま。代表作に『冗談』『存在の耐えられない軽さ』『不滅』などがある〕のような知識人や作家についての議論は許されない。批判もできないし、触れてもいけない存在。彼らは一方的に西欧に奉仕していたのです。
 私がこの問題に立ち返りたいのは、これが何年も前に私たちが初めて会って意見を交換し始めたときに最初に議論したことだからです。私たちはそのとき西側諸国の植民地政権のほうが、ソヴィエト連邦の衛星国よりずっと残酷だったと主張していましたね。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東ヨーロッパで私が行ったことがあるのはハンガリーだけで、それも短期間だったけれど、そこで多くの反体制派の人たちと会いました。彼らはみな心底ネオリベラルで自分が西洋で見たすべてに心酔しており、そこから来た思想はすべてロシアのものでないから良いに違いないと考えていた。これはほんの二年ほど前のことです。たしかにいい人たちばかりで、多くのことについて意見も合いましたが、西洋思想に対する無批判の愛情にはショックを受けましたね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ブエノス・アイレスの「エスクエラ・メカニカ」とチリのサンティアゴにある巨大な記憶と人権博物館「ムセオ・デ・ラ・メモリア・イ・ロス・デレチョス・フマノス」に行ってきたばかりなのですが、とても素晴らしかった。これらの博物館にはチリやほかのラテンアメリカ諸国にもたらされた恐怖の実態を見せてくれます。フェルナンド・ポテロは現代コロンビアのもっとも重要な彫刻家ですが、彼の衝撃的な作品をいくつか見ました。彼は絵画でもバグダッドのアブグレイブ収容所におけるアメリカ合衆国州兵によるムスリムの人々への拷問を描いていて、なんともすごい!強烈な印象を受けました。偉大なコロンビアの彫刻家と偉大なチリの美術館とが連帯して、アラブの人々に手を差し伸べている。東ヨーロッパではこういうことは想像できません。
 私は子どものときチェコスロヴァキアで惨めな数年を過ごしました。それが惨めだったのはチェコスロヴァキアが共産主義国だったからではなく、私の母が中国人とロシア人の血を引いていてアジア人に見えたことで、私もひどい人種差別を受けたからです。
 皮肉なことですが、1968年の「プラハの春」を鎮圧したソ連軍の侵攻は必ずしも起きるべきことではなかったし、それは「人間の顔をした社会主義」〔チェコスロヴァキアの政治家で、共産党第一書紀として「プラハの春」を主導したアレクサンデル・ドブチェク19211~92による民主化・自由化政策〕の屋台骨を壊したのだけれども、ソ連が大虐殺を犯したわけではない。戦車に轢かれて殺されたのは少数に過ぎない。多くは事故死で、なかには酔っぱらって死んだ人もいた。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 もしそれがラテンアメリカで起きていたら誰も気がつきさえしなかっただろうね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 グレナダ侵攻〔1983年の米軍による侵略と支配〕で殺された人の数のほうが多いですから。プラハ侵攻の目的は限定されていて、レイプも拷問もなく、数ヶ月国境が開かれていたので逃げたい人はその選択ができた。私の父は原子力科学者で、カナダから亡命の誘いを受けましたが国に留まりました。1968年まで父はチェコスロヴァキア共産党員でしたが、役人の鼻先に党員証を投げつけ脱党したのです。それでも何もされなかった。だからそれまでどおり仕事を続けた。たぶん外国には行けなかったし昇進もできなかったのでしょうけれど。でも考えてみてください。もしこれがアメリカ合衆国支援の軍事政権下のエルサルバドルやギリシャ、あるいは1965年以後のインドネシアや73年以降のチリだったとしたら? 家族全員が消されていたことでしょうね、たぶんワシントンからの直接命令によって。
 クンデラ、ハヴェル、コホウト〔ハヴェル・コホウト。1928年プラハ生まれ。小説家、劇作家、代表作に戯曲『貧しき殺人者』など〕といった人たちはそのことを知っていながら、出来事の半分だけを宣伝して知識人のスターになることを選んだ。クンデラが書いたもので、アメリカ合衆国やヨーロッパが世界のほかの国々にもたらした暴力や恐怖についてコメントしたものがありますか? 感傷的なプロパガンダ小説を次から次へと書くことで、彼は真摯な文学者として批評家から持ち上げられたのです。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 そういったことは学者たちには知られた事実ですね。ラテンアメリカと比較すれば、スターリン以降の東ヨーロッパにおける圧政は緩やかだったと繰り返し指摘されてきた。実際驚くことに、ソヴィエト連邦が東ヨーロッパを支援したので結局ロシアより豊かになった。ソ連帝国は帝国の中心が植民地より貧しかった歴史上唯一の例だろうね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 たしかに貧しかった。子どものころから知っています。私がチェコスロヴァキアにいたとき祖母はレニングラード、つまりサンクトペテルブルクに住んでいました。わたしもレニングラード生まれなのですが、両親がチェコスロヴァキアに連れてきたのです。母親はほぼ毎年夏になると私をロシアの祖母のところに三か月ほどやりました。私はロシアが大好きで、毎年ロシアに行ける日を心待ちにしていたものです。でも子どもながらに、チェコスロヴァキアとソヴィエト連邦の違いを経験もした。レニングラードはソ連でもっとも豊かな都市の一つでしたが、それでもロシア支配下のチェコスロヴァキアのほうがソヴィエト連邦よりもずっと豊かなのははっきりしていた。ソ連はこうした差を是正しようとはしなかった。アメリカのようにすべてを吸い上げようとはしなかったんですね。しようと思えばできたと思うけれど、しなかった。もちろんそうしなかったことでソ連が褒めらたことはない。西側諸国からも東ヨーロッパの知識人からもね。

 
N・C(ノーム・チョムスキー)
 ソ連帝国の一部であることで嫌なこともあったかもしれませんが、事実は明白で、そのことを研究者も明らかにしてきたのだけれども、そこから何らかの結論を引き出そうとする人はいない。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 私が思うに、東ヨーロッパが世界のためにおこなった多くの善行はまったく忘れられているのではないか。すでに述べたように東ヨーロッパの人たちは世界中で解放闘争を支援したし、アメリカ侵略戦争中のヴェトナムも支援していた。アフリカでも中東でも無数の人たちを応援してきた。ロシアには地球上でもっとも貧しい国のために、その国の本を印刷する大きな出版社もありました。
 私のインド人の友人たちは、メロディア国営レコード会社が作った補助金付きのクラシック音楽のCDを聞いて育ったといっていましたよ。東側の国々が世界のためにしてきたことは枚挙に暇がない。父方の叔父は、中東でもアフリカ、東南アジアでも砂糖工場から鉄鋼精錬所まで建てたんですから。強制労働ではなく一生懸命働いて金銭を得ていた。それでも国境を越えた支援活動ではないですか。彼らがおこなったことは偉大だけれども、結局のところそういった営みも「悪の帝国」の一部だという事実だけが人々の記憶に残っている。西側諸国のプロパガンダがあらゆる善行を無にしてしまったのです。
 東ヨーロッパの反体制派の多くはエリート出身です。たとえばヴァーツラフ・ハヴェルの家は、1948年に共産党が選挙で勝つまでチェコスロヴァキアでもっとも裕福な家庭だった。不動産から、いつまでも東ヨーロッパ最大の映画製作場であるバランドフ撮影所までを所有していたのです。ヨゼフ・ショクボレッキーという、いまはトロントで教えている反体制派の作家がこのことについて率直に述べています。その『臆病者たち』という小説のなかで、彼は赤軍によるチェコスロヴァキアの解放について書いていて、ロシア人は馬に乗っていたので臭いがひどく、自分たちとしては当然のことながらアメリカ人やイギリス人に解放された方が良かった。自分は中産階級の上のほうの出身でジャズが大好きだから、と。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 2012年のサッカー・ヨーロッパ選手権のとき、ポーランドとウクライナで黒人選手に対して人種差別騒動が起きたけど、どう思った?

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 驚きませんでしたね。東ヨーロッパにはつねに人種主義が巣食っていると思うから。同時に反体制派や西側諸国が望んでいたシステムをいったん手に入れてしまうと、多くの醜いことが表面化してきたとも考えます。これはソ連で起きたこととも少し似ている。共産主義者がしたのは、それまでまったく孤立して遅れていた国をとつぜん国際主義的なものにしようとしたこと。これがうまくいった面もある。とくに知識人階級には好都合だった。でも人々のほとんどは閉鎖的で、ときに人種主義のなかに留まっていたままだったんですね。
 それにソヴィエト連邦はアフリカからも東南アジアや中東からも多くの人を受け入れて、大学や高等教育機関を作ったわけで、それは素晴らしいことだと思う。でもソ連の普通の人はそんなことには関心がない。普通のロシア人は何がおこっているのか理解しておらず、結局のところとても閉鎖的だった。ちょうど現在のインドがそうですね。もしインドが共産主義国家になってアフリカや中東のようなところから来た人たちのために学校を開いたなら、普通のインド人はそんなことを認めないでしょう。以前は議会主義を信奉して自称マルクス主義者だったケニアの友人がいてインドで勉強していたのですが、彼は肌の色が黒かった。彼の話では大学のなかでは居心地が良くても、いったんニューデリーの町に出ると子どもたちが寄ってきて「おじさん、あんたの尻尾はどこ? 木の上に住んでるの?」とよく聞いてきたそうです。ことほど左様に教育も十分でなければ、多文化に対する許容度も低い。ソヴィエト連邦は帝国主義と人種主義と差別に対する闘いの前線にいたのですが、人々の多くはその準備ができておらず、それに抗って人種主義者のままだった。こういうことはソ連だけではなく東ヨーロッパ全般に言えたことでしたから、いったん平等を標榜していたシステムが崩れてしまうと、すべての醜い側面がふたたび表に出てきてしまった。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東欧における極右政党の台頭についてはどう考える?

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 私が思うに、東ヨーロッパの極右はデンマークやオランダ、ギリシャといった国々と同じような状況になるのでは? ヨーロッパを全般として見れば歴史的にはファシズム国家だったと思いますね。何世紀も地球全体を搾取し続けてきたことが何よりの証拠でしょう。それに加えて、すでにヨーロッパ大陸は経済的にも破産していて、衰退しつつあるのではないでしょうか。
 過去においてヨーロッパはすでに見てきたように、比類のない残虐さで人を大量に殺してきたわけ
ですし、世界中を植民地にしていたときには大虐殺をおこない、いまでもアメリカ合衆国という、いつでも引き金を引く用意のある親分とともに世界を支配しようとしている。ですから極右の台頭も当然だと思う。ファシスト政党はヨーロッパには生来のものだし、表面に出てきてもらったほうが、闘いやすい。第二次世界大戦後にヨーロッパが世界の何千万という人を犠牲にして作り上げた、自己中心的な社会福祉システムの化けの皮がはがれてきたのです。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 東ヨーロッパに社会主義が生き残る展望はあるでしょうか?

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ロシア、ウクライナ、それにある程度はブルガリアでも共産主義や社会主義に対するノスタルジアがかなりあると思います。これはたんに政治や経済体制のことではなくて、かつてのソヴィエト連邦にいた多くの人がいま空虚感に襲われ、人生が意味を失ってしまったと感じているのではないでしょうか? ソヴィエト連邦が目指したものは高貴な理想でしたし、そこには世界の貧しい地域の解放とか、反植民地主義、反帝国主義、社会正義といったきわめて重要なものが含まれていた。
 興味深いことに、いまや老いも若きも昔のソ連時代の音楽を繰り返し聞いているし、ロシアの現代文学は国が崩壊して表に出てきた空虚を反映しています。しかしながらロシア共産党は硬化して原点を見失っている。ロシアが社会主義やロシア式の共産主義への道を見いだすにはまだまだ時間がかかると思います。社会はとても混乱していて中国のような自信にあふれておらず敗北と分断と不安に満ちている。それでも私は、ロシアの魂には深いところで社会主義があると考えています。今後十年か二十年後にはロシアが自らを社会主義国家として再定義しても私は驚きません。

 しかし東ヨーロッパや中央ヨーロッパの国々のほとんどはけっして社会主義には戻らないでしょう。いまやこれらの国々は確固とした体制の一部で西側の構造に組み込まれているから。そして西側諸国の人たち同様、彼らがシステムを変えることは二度と許されないでしょう。一方通行のようなものです。世界革命が起きないかぎりは。
 
 私がピルゼンに住んでいたころ、ハヴェルやクンデラやコホウト、あるいは根っからの反体制派の人たちを除けば、チェコスロヴァキアの人々が夢見ていたのは1968年か、またはその直前の時期に手にしていたものでした。つまり彼らは「人間の顔をした社会主義」を夢見ていた。これは少なくともチェコスロヴァキアではとても優れた概念だったとも言えるでしょう。チェコではそれが機能していたから。でもですよ、誰もが認めようとはしないけれど、ソ連侵攻前の1968年のチェコスロヴァキアよりも今日の中国のほうがずっと解放されています。パスポートを手に入れるのも簡単だし国境を越えるのも易しい。1968年のプラハよりも、いまの北京の本屋でのほうがさまざまな政治的主張にお目にかかれる。
 それでも今日チェコの人たちと話してみると、多くは不満ばかりですね。でもいつだって不満ばかり言っていたのだから、あまり深刻に受け取る必要はないと思います。チェコ人の大半の考えでは、チェコスロヴァキアの共産主義システムも共産主義後のシステムも良くないのだけれども、でもそれを変えるために何かをするわけではない。「人間の顔をした社会主義」というドプチェクの考えを再導入しようと言われているわけでもない。それでもチェコ共産党はこの国で三番目に力のある政党なのですよ。
 ・・・


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