真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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教育勅語 皇国史観 平泉澄 市川真一

2017年06月23日 | 国際・政治

 平泉澄は「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)の中の「十五 松下村塾記講義」で、先哲として、山鹿素行、山崎闇齋、藤田東湖、橋本景岳、吉田松陰、佐久良東雄、大橋訥菴、眞木和泉守などの名前を上げています。

 そして、「今あげました数多くの諸先生の中に於て、吉田松陰はひときわ秀れたお方であります」として、吉田松陰の「松下村塾の記」を取り上げ、「文章はわりに短いものでありますが、亦一段と光り輝くものでありまして、明治維新がいかなる精神によって指導されたかといふことは、之を拝見しますれば明瞭であります。一応文字を追ひまして解釈いたします」として、当時の状況をふまえ、自身の考えを加えながら、「松下村塾記」の解釈を詳述しています。下記資料1がその文章の一部です。これは、昭和三十五年八月、存道館において青年有志に講義されたものだということです。
 戦前・戦中、大学における講義のみならず、学内の組織「朱光会」や、学外の組織「青々塾」で、また、海軍大学校や陸軍士官学校などで講義・講演を繰り返し、昭和天皇や秩父宮などに「進講」もして、皇国史観の教祖といわれる活躍をした歴史家・平泉澄の「皇国史観」の考え方は、敗戦後も少しも変わらなかったことがわかります。

 そして、見逃すことができないのが、平泉澄の著書や講演速記録、講義のなかから自らが感銘を受け、若い学生に推奨したい論説を選んで編集し「先哲を仰ぐ」と題して一冊にまとめ上げたという市村真一教授(経済学)の、解説文です。下記資料2に抜粋したように、
”…日本の伝統的道徳律を、もっとも直截簡明に述べられたものとしては、「教育勅語」にまさるものはないと思ふ。…”と言っているのです。
さらに、
道徳は、時として命をさゝげることを要求する。
とも言っているのです。その文章には、平成十年七月十五日とあるのです。

 それを、「松下村塾記講義」の中の、下記、平泉澄の文章と合わせ考えると、「教育勅語の内容の中には、夫婦相和し、あるいは朋友相信じなど、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」と言って、「こうした内容に着目して適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えない」などと、その活用を認める主張が、実は再び神道に基づく「皇国」を復活さをようとする思想を背景にしているのではないかと疑われます。

「抑人の最も重しとする所は君臣の義なり。国の最も大なりとする所は華夷の弁なり」 人に於て最も大なりとする所は君臣の道義であります。いろいろその他道徳として考へられるものはございませう。友人の間の道徳がありませう。兄弟の間の道徳がありませう。夫婦の間の道徳がありませう。親子の間の道徳がありませう。然し最も重大であって、根本にあってこれあって世の中が確立するといふものは、君臣の大義であります。「国の最も重しとする所は華夷の弁なり」即ち自分の国の本質がどういふものであるか、外国とどういふ点がちがふのであるか、外国にくらべて我国が如何に尊い国であるかといふことを明白に弁別すること、これが最も重大であります

 教育勅語の核の部分は、間違いなく「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ということであり、日本国憲法の国民主権や基本的人権、平和主義などの考え方とは相容れないと思います。(下記抜粋文の旧字体の漢字は、新字体に変更しました。) 
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                     十五 松下村塾記講義
 ・・・
 そこで、私が申しますに、学問とは人たる所以を学ぶのであります。学問の本質とは何であるかと云へば、人たる所以を学ぶ、それを知らないでは人と云へないといふ、人としてぎりぎりの所を教へる、それが学問であります。片々たる知識を云ふのではない。この点をはずせば人でないぞといふぎりぎりのことを教へるのが学問でありませう。塾が松下村塾といって村の名前をとってをられるのであれば、「誠に一邑の人をして」、この松下村の人全部をして、「入りては則ち孝悌、出でては則ち忠信ならしめば」、家庭に於ては孝悌、よく親に仕へ、よく兄姉に仕へるといふにあらしめる。外に出ては忠信であらしめる。家庭に於ては孝悌、 外に於て忠信といふ、かういふことでありますならば道徳的であらしめることができますならば、村の名前をとって松下村塾といはれましても、それは辱かしくありますまい。もしさうでないといふならば、もしあるひはひょっとして、さうでないといふことでありますれば村の辱ではありませんか。そこで松下村塾は何を教へるかといふことをしっかり考へなければならん。「抑人の最も重しとする所は君臣の義なり。国の最も大なりとする所は華夷の弁なり」 人に於て最も大なりとする所は君臣の道義であります。いろいろその他道徳として考へられるものはございませう。友人の間の道徳がありませう。兄弟の間の道徳がありませう。夫婦の間の道徳がありませう。親子の間の道徳がありませう。然し最も重大であって、根本にあってこれあって世の中が確立するといふものは、君臣の大義であります。「国の最も重しとする所は華夷の弁なり」即ち自分の国の本質がどういふものであるか、外国とどういふ点がちがふのであるか、外国にくらべて我国が如何に尊い国であるかといふことを明白に弁別すること、これが最も重大であります。ところが「今天下如何なる時ぞや」今日の時勢をどう考へられますか。「君臣の義講ぜざること六百余年」、君臣の間の道義道徳が講明せられないこと、之が充分に研究せられず、明らかにされないでおりますことは、六百余年であります。これ鎌倉幕府以来をさゝれるのであります。政権鎌倉幕府に移りましてこゝに六百余年、その間君臣の義はわけが判らなくなりました。将軍あることを知って天子のおはすことを知らぬといふことが世間一般のならはしであります。「近時に至り華夷の弁を合わせて又之を失ふ」、このごろになりますと、又外国と日本との区別が判らなくなってをる。外国がいかにも偉い国で、日本といふ国はまことにつまらぬ国であるといふ風に、自らの本質を見失ってをる者が多いのであります。そこで大変な問題が出てくるのでありますが、さうであるにかゝはらず、「天下の人方且(マサ)に安然計を得たりとなす」、のんきにかまへて、これでよいとしております。「神州の地に生れて皇室の恩を蒙り」、これは「蒙り」と読みましたが、意味から云ひますと「蒙りながら」の意味なんです。神州の地に生れて皇室の恩を蒙りながら、「内には君臣の義を失ひ、外には華夷の弁を遺る」、内に於て君臣の大義を忘れ、外に対しては日本の国体が判らなくなって外国の方が偉いやうに考へてをるといふことでありましては、学問をするといひましたところが、「学の学たる所以、人の人たる所以、其れ安くにありや」、学問をしたといひ、俺は立派な人だと云ってところが、それは人ではないではありませんか。学問でもないではありませんか。学問とか人とか云ったところが、その一番大事なところが抜けてゐるではありませんか。この点を二人の先生、父方の叔父、母方の叔父お二人が深く心配せられまして、そこでこの塾を指導してこられたのでありますし、又私がその松下村塾の記を作らねばならないやうになりましたのも、又実にこの点にあるのであります。あゝ、叔父上が誠に能くこの村の子弟を教誨して、君臣の義を明らかにし、華夷の弁を立て、「下又孝悌忠信失はず」、といふことでありまして、さて然る後に非常の人物が出て、この方針に従って、「以て山川忿惋の気を一変し邦家休美の盛を馴致せば」、之が非常の大事業をなして、この土地にみなぎってをる昔からの忿り惋みといふものを一変して、国家に大貢献をするといふのでありますならば、萩の城下町が本当に天下に名を顕すのはこゝに於て行はれるでありませう。萩といふ所は長門の国で注意すべき一つの都会だといふやうな程度ではごいますまい。日本の重大なる一つの元気発祥の地となるでありませう。

・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    「先哲を仰ぐ」解説
                                                   市村真一
 ・・・
 最後に一言したいことがある。それは、道徳には単純に万国共通とはいかない二つの側面があるといふことである。第一は、こっかの構造との関係であり、第二は、宗教とのかゝはりの側面である。道徳には、五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)五常(仁、義、礼、智、信)といはれるやうに、我々が自分自身を律することと、日常において接する家族、隣人、社会、及び国家との関係において守るべき規範といふ側面である。これが第一の側面である。この点について、日本の伝統的道徳律を、もっとも直截簡明に述べられたものとしては、「教育勅語」にまさるものはないと思ふ。この側面において、日本と米国とが国家構造で根本的に異なってゐることを知らねばならない。米国は、大統領制をとる共和政治の国であり、日本は、天皇をいただく君主制の国である。今の日本国憲法にいくたの不備があるにせよ、この差は明白である。イギリス、オランダ、北欧諸国等々、立憲君主制を取る国は、世界になお多い。日本国民の道徳教育において、天皇への尊敬心を教へねばならないのは、この故である。この点については、本書の読者に、欧米の学者の説もふまえて論じた拙論「君主制の擁護」(拙著『教育の正常化を願って』)創文社刊、増補版平成二年所収)を読まれることを希望する。今日の教育現場において、特に日教組の指導力の強いところで、問題が起こってゐるのは、この点をしかと認識しないからである。
 しかし道徳を教へるには、それだけでは足りない。道徳は、時として命をさゝげることを要求する。従って、我々の生と死の問題をどう考えるか、が関係する。ここに宗教がかゝはりを持つ。これには太古以来の日本人の宗教観、生命観、「かみ」と人との関係についての考へが、ふかく関係してくる。多くの日本人は神道と仏教をゆるやかに融和させた信仰をもってゐる。しかし日本仏教の宗派の大半は、その自然観、生命観、神についての考へ方において、決してインドにおける本来の仏教と同じものではない。これ等の点で、わが国の神道は独自の風光をもってゐる日本人の宗教観を反映してをり、日本仏教もそれを反映して本来の姿を変容してゐる。またキリスト教徒の関係についても、まだまだ考へねばならない問題が多い。一神教であるキリスト教や回教と、日本人の考へ方をどう融和させて行くかは今後の日本人と内外のキリスト教徒、回教徒にとっての長い長い課題であろう。この点については、拙論「君主制と神道」(上掲書所収)を参照にしてほしい。日本人は、その独自の信仰があるが故に、独自の文明を持ち、其れによって日本人として世界に貢献できるのである。

 ・・・

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 

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教育勅語 皇国史観 平泉澄

2017年06月16日 | 国際・政治

 

  ”先祖伝来の「日本の神話」の真理への回帰こそが、幸せに生きる秘訣だ”と主張する出雲井晶は、「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)の中で、教育勅語について、

無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。”

と書いていました。自民党政権閣僚の教育勅語擁護の発言の背景には、同じような考え方があるのではないかと思います。そして、それが「皇国史観」と呼ばれた歴史観に基づくものであろうことは、同書に「平泉澄」の名前が出てくることから、明らかではないかと思います。

  平泉澄は、皇国史観を代表する歴史家で、皇国史観の教祖とか、皇国史観の総本山とさえいわれ、学者でありながら、戦前から戦中にかけて国粋主義的活動を扇動し、また、海軍大学校や陸軍士官学校で講義・講演を繰り返して昭和軍部に深く関わった人です。
 さらに、昭和天皇に進講するようになったり、激増する門下生に対応するため、学内に「朱光会」、学外に「青々塾」を組織したことも知られています。
 その活躍の一端を示す文章が、「神の国と超歴史家・平泉澄 東条・近衛を手玉にとった男」田々宮英太郎(雄山閣出版)の中にありましたので、抜粋しました(資料1)。まさに、「軍隊における精神教育が、兵器による武装」に劣らず重要であると考えていたのでしょう。
 
 また、教育勅語の解釈に関連する文章の一部を「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から、抜粋しました(資料2)。

 教育勅語の核心は、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”にあるのであって、個々の徳目はその目的のためにあるということが、平泉の下記の文章から明らかではないかと思います。特に平泉澄が、眞木和泉守を評して、

先生が楠公を慕はれます点は、その功績にあらず、ただその命を致して自分も死ぬ、子供も死ね、孫も死ね、一家一族全部、皇室の御為には命を捧げるがよい、この一点を眞木和泉守は感服し、自らこれを実行しようとされたのであります。

と書いていることは見逃すことが出来ません。さらに、末尾に(昭和39年8月20日)とあることにも注意が必要だと思います。

 国家に緊急の事態が起これば、国に命を捧げることを説き、教育勅語があげる日常の徳目は、究極目標達成のための手段として位置づけらるものであるにもかかわらず、「教育勅語の内容の中には、今日でも通用するような普遍的な内容も含まれている」などと言って教育勅語を擁護するような主張は、教育勅語の本質を歪曲し、歴史を偽るものではないかと思います。
資料1------------------------------------------------------
                    第二章 超歴史的歴史家 
ミリタリズムの花形騎手
 ・・・
 ちなみに、当時の陸軍では、大臣が荒木貞夫大将の後を襲った林銑十郎大将である。三月の人事異動で、歩兵第一旅団長の永田鉄山少将を、軍中枢の軍務局長に抜擢して注目された。同時に永田の腹心をもって任じる東条英機少将を、本省の軍事調査委員長から士官学校幹事(副校長)に転出させているが、これまたただならぬ注目人事だった。
 しかも平泉博士の講義こそ、ほかならぬ東条幹事からの依頼によるものだった。これを機縁に、平泉・東条の結び付きは始まるのである。これも一つの動きであるが、永田を頭領とする軍内統制派の動きが活発化していく。
この十月に発表された『国防の本義と其強化の提唱』と題するパンフレットは、永田軍政の「国家総力戦」路線を示すものであり、ミリタリズム宣言ともいえるものだった。
 ところで、陸士での最初の講義について、平泉博士は述べている。

 講演は一時間半に及んだと思います。私は携えた太刀を抜いて之を示し、さて言いました。
「陸軍よ。願はくは精鋭なる事、此の太刀の如くなれ。此の太刀は、明治維新の直前、文久二年十二月、栗原信秀が神に祈って作りしもの、長さ二尺五寸、一呼して揮へば、いかなる敵といへども両断せずしては止まぬ。
 陸軍よ。願は精鋭にして豪壮なる事、此の太刀の如くなれ。日露戦争以後、天下泰平なる事、今に至って三十年、懦弱偸安(ダジャクトウアン)の気風は上下に瀰漫(ビマン)し、義勇奉公の精神は地を拂って空しい。
 一朝、事あれば、国は危しとしなければならぬ。陸軍よ。願はくは勇気凛々、いかなる大敵迫り来るとも、進んで之を破摧(ハサイ)する武力、豊にして健やかなれ。(後略)」
満場は水を打った如く、静粛そのものでありました。(『悲劇縦走』)

 長さ二尺五寸の太刀というのだが、おそらく刃長二尺三寸七分の太刀のことだろう。栗原信秀といえば筑前守を受領しているほどの刀匠で、それが豪刀でなかろうはずはない。
 日本刀のもつ冷厳な美学が分からぬではない。まして軍刀は武人の魂で、その魅力が軍人の胸奥を揺するのは容易にうなずける。博士の場合、そこを狙っての演技とも見られるところに問題がある。それにしても、講義の壇上で太刀を振りかぶったとあっては、なんとも奇怪というほかない。
 そういえば、先にも引用した、帝国大学の教壇で短刀を抜き放っているが、その先縦はここにあったということだろう。剣道の達人でもあればとにかく、どうしてこんな阿諛追従(アユツイショウ)じみたことをやってのけるのだろう。
 講義と称し、その実、好戦的な言説をふり撒き、一種アジテーションに終始したと考えられる。講義内容が、中世史専攻の教授として真に学問と呼ぶに値するものなら、そんな目くらましみたいなことをする必要はないはずだ。
 建武の中興を論じ、後醍醐天皇、北畠親房、楠木正成と、さては足利尊氏を説くほどに、その国粋主義はいつか歴史学の本道をはずれ、果ては皇国史観へと邁進して行ったのではないか。
 しかし激化する社会不安、世界不安に促され、皇国史観は一気にミリタリズムへと転化したと見ることができよう。大衆性こそ希薄だが、軍部、政界上層部に及ぼす影響は、端倪(タンゲイ)すべからざるものがあった。まして東条少将ら統制派幕僚の中核と結ぶことにより、ミリタリズムの花形旗手となっていくのである。
 それが昭和九年という時代状況のもとで、歴史学教授平泉博士の存在価値だったといえよう。”

平泉史学の影響
 平泉博士と東条少将の会談は、陸軍士官学校での講演の翌日さっそく行われた。その模様は博士自身によって次のように述べられている。

 電話がかかってきました。
「東条であります。昨日は御講演、有難うございました。就いてはこれから御宅へ参上したいと思いますが、御差支えありませぬか。」 
「私の方は差支えありませぬが、閣下はお忙しいでせうから、若し御用でしたら、私の方からおうかがひしませうか。」
「いや、お願いの筋でありますから、東条が参上します。梅村大佐を帯同して参ります。」
 来訪せられた時、座敷の床の間の刀掛け、二振りの太刀が掛けられてゐました。一振は前記信秀の作、これは白鞘でありました。今一振は拵付(コシラヘツキ)、水戸の勝村正勝、元治元年の作。いずれも明治維新直前の、風雲急にして気魄充実した時に作られて、豪壮にして爽快なる太刀でありました。
 少将はそれに目を着けて、「昨日の刀はこれでありますか」と云って、先づ信秀を見、ついで正勝を一見せられた後、相談に入りました。要旨は、かうでありました。
「昨日の講演、肝に銘じました。陸軍の教育、御趣旨に沿って改めたいと思ひます。就いては二つお願ひがあります。第一に御門下の人を教官として迎へたいと思ひますから、御推挙ください。 
差当たっては一人、明年明後年と段々に増加していきたいと思ひます。第二には「国史教科書の改新、これをお願ひします。」
 以上が用談の概略でありました。(『悲劇縦走』)

「講演、肝に銘じました」と言っているが、士官学校幹事たる東条少将を感奮興起させた様がありありと窺える。
 それにしても、この会談で示された申し入れ事項は、容易ならぬ内容をもつものだ。そのことを如実に示す記述を「平泉史学と陸軍」と題する竹下正彦の回想記(『軍事史学』通巻十七号)に見ることができる。

 青々塾に通って、直接先生の教えを受けていた人の数は陸軍の者で十数人位であったかも知れないが、昭和九年頃には、当時の陸軍士官学校の幹事、東条英機少将によって、同校の国史教程が平泉博士によって編纂されることとなり、またその頃には、毎年博士を招いての講話が催されるようになっていた。
 更に陸軍大学校でも博士を課外講師として聘し、その皇国史観は、軍の中枢幹部の中にも、次第に浸透して行ったと考えられる。
 この平泉史学の骨髄をなす天皇絶対、行学一致の精神は、大東亜戦争の全経過を通じ、戦場の全域において、皇軍が壮烈なる戦闘を展開し、特に戦勢非なるに当ってもなお鬼神を泣かしめる奮闘をなし、天皇陛下の万歳を唱え、笑って散華して行った、狂信的とも思われる若い将校の行為の強い支えとなっていたのではないかと、私は常に考えているのである。

 終戦時の竹下中佐は軍務局軍務課内政班長の要職にあり、もとより平泉博士の門流であった。平泉史学が戦争にどんな影響を及ぼしたかを知る、数少ない軍人の一人だろう。軍隊における精神教育が、兵器による武装とならぶ重大性があることを示している。
 それだけに、これほどの重大事を申し入れるには、それ相応の覚悟を要し、かつ実力も伴わなければなるまい。その意味で陸軍部内で当時の東条少将どんな立場にあったのか、興味のかかるところである。
 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      三、維新の先達 眞木和泉守

 ・・・
 楠公のことはどなたも御承知、今更特に申し上げることはありませんが、眞木和泉守が楠公をお慕ひになり、度々楠公をお祭りになってをりますこと、顕著なる事実であり、今、展覧会にも楠公を祭られましたる文章が展観されてをりますが、しかし、先生が楠公を慕はれます点は、その功績にあらず、ただその命を致して自分も死ぬ、子供も死ね、孫も死ね、一家一族全部、皇室の御為には命を捧げるがよい、この一点を眞木和泉守は感服し、自らこれを実行しようとされたのであります。その点に於いて、菅公を慕はれた和泉守と、楠公を慕はれた和泉守とは、ただ一点を目指しておられるに過ぎない。同じ点を目標にされておるのであります。即ち一点の利害損得の打算なくして、ただ命を捨ててお上にお仕へ申し上げる、それだけのことであります。私はそれが、さきほどの勇気の本となったのである、あの勇気この精神を助長したのである、勇気と道義が相俟ってあの素晴しい働きができたのであると考えざるを得ないのであります。先生の精神はかくの如し、先生の勇気はかくの如し
 ・・・
 それならば眞木和泉守は、どういふ見識をもっておられたのであるか。どなたも御承知のやうに、凡そ明治維新の偉大なる改革の殆ど全部は眞木和泉守の方寸より出て来たものであります。どれを見てもさうであるとさえいってよい。第一に神武天皇創業の昔に帰れといふのが、眞木和泉守の精神でありました。…
・・・
 それから、先生の見識の一つは、旧弊を一新するといふことであります。先生の「経緯愚説」の中に旧弊を破るべしといふ条があります。皆さん聯想がございませうが、明治元年の五箇条の御誓文の中に、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」といふ、その旧来の陋習は即ち旧弊にほかならないのであります。

 第三には、五等の爵位、あの公侯伯子男の五等の爵位は、何人がこれをいひ出したのであるか、眞木和泉守であります。
 眞木和泉守は、経緯愚説に於いて、五等の爵位を定めるがよいといふことを条理を尽くして述べておられるのであります。…
 亡くなりました忠臣、功臣に位を贈り、若しくは神としてこれを祭るといふこともまた先生の発意であります。明治元年、天皇は詔して、湊川神社を建て、楠木正成公をお祭りになる。相前後して菊池神社、建勲神社、そのほか数多くできます。護王神社、靖国神社、数多くできます。…
 眞木和泉守は正四位を明治天皇より賜りました。贈正四位であります。亡くなった人に位を贈るといふことは、何を意味するものであるか。亡くなっておらぬからであります。死んだ人に位を賜ふということは、意味をなしませぬ。和泉守は生きてをられるのであります。生きておられるからこそ位を賜ったのであります。このことの不思議に驚かずして、日本の神道は理解されず、日本の歴史は理解し得ないのであります。
 次に近衛兵、これも又先生の非常なる卓見といはなければならぬ。先生は天皇直属の軍隊、すなわち特に天皇をお護り申し上げる軍隊を必要とする、近衛兵を置かねばならぬといふことを強調されます。…
 更に、第六番目になりますが、土地人民の權を収めなければならぬ。これは非常なことであります。明治維新といひますのは、長い間いろいろなことが行なはれて、これを総称すると見てよいが、就中、最も大きな改革は慶応三年の大政奉還と王政復古、明治元年の討幕、やがて、明治二年、版籍奉還、だんだんございますが、最も大きな出来事は明治四年、廃藩置県であります。…
 次には、改暦、暦を変えなければならぬ。これも眞木和泉守の意見であります。やがて明治五年、太陰暦を改めて太陽暦とせられました。今日が、何年何月、いく日であるといふことは、朝廷よりこれを発布せらるるべきものであり、その暦といふものは陛下の御裁可によって出されるべきものであるといふのが和泉守意見であります。


 次には遷都、都を遷さなければならぬ。御承知の如くに、都を東京に遷される。…事実は平野国臣といふ人は、眞木和泉守の説を受けたに過ぎないと判断してよいと思います。平野国臣を軽くする意味ではございませぬ。平野国臣といふ人は、眞木和泉守を、その水田幽囚のうちに訪ねて来、和泉守も、その人物に感心をして戀闕第一等の人物である。天皇を恋ひ慕ふ第一等の人物であると褒め讃へられてをりますので、その至誠はこれを尊重しなければならぬ。しかしながら、この人に天下経綸の才を考へることは恐らく無理でありませう。そして実際問題としては、眞木和泉守は、平野国臣以前に既に大坂に遷都をしなければならぬといふことを考へてをられるのであります。…
 第九番目に排仏毀釈のこと、或いは神仏分離のこと、これまた、明治維新に於ける重要なる特色を為すものでありますが、仏教の大いなる浸潤、大いなる勢力、深き浸潤を排除しなければ、日本の正しい姿が現はれないとして、排仏毀釈、或いは神仏分離の行はれましたことの元は、実に眞木和泉守が、文久元年の経緯愚説、或いは文久二年の大原左衛門督に贈られました書状の中に見えてをるのであります。
 ・・・
…日本の歴史を通観してみます時に於いては、幕末に於いて優れたる人物として、前に橋本景岳、吉田松陰を見、後に眞木和泉守を見、これらの人々によって明らかにせられたる道義と経綸とが、やがて、時を得て、岩倉、木戸、西郷、大久保等によって実施せられたあとを見て、実にこの歴史の妙を覚えるのでありますが、何ぞ前に倒れたる人々の不幸にして、世間これに報いることの少きや、これを嘆かざるを得ないのであります。…
 ・・・
 日本国民たる者は悉く、上御一人に帰順し奉るべしといふのが先生の精神であります。上御一人を尊び、その下にあって蹇々匪躬(ケンケンヒキュウ)、御奉公申し上げなければならぬといふのが、先生の根本の信念であります。しかるに天下滔々(トウトウ)としてデモクラシーの叫びに脅かされ、あたかも自ら国家の主権者の如き、浮薄なる言辞を弄するもの天下に充満し、そしてお上に対し奉っては、誠に恐れ多い態度、若しくは言説をとります者が多い今日において、先生は非常なる悲しみ、痛恨を覚えられるに相違ないと思ふのであります。また神武天皇創業の昔に帰れといふことを叫ばれた先生が、、今日、神武天皇をもって架空の人物とし、皇紀を無視し、皇紀どころでなく、昭和の年号すら無視して、ただ西暦をもって、全てを統一しようとする風潮の盛んであることを見られたならば、何といはれるでありませう。近衛兵の存置を叫ばれた先生が、今や近衛兵なく、それどころでなく、正式の軍隊を持たぬを見て、どう思はれるでありませう。忠臣、功臣に対して位を授けられる、天皇より位を授けられ、その霊を神として祭られるがよいといふことを建言された先生が、今日の官国幣社、別格官幣社、その今日の状態を見て何と嘆かれるでありませうか。土地人民の権、お上に帰一しなければならぬといふ、先生の主張が、今日全く革命の洗礼を受けた社会主義の政策によって動かされる実情を見て何と思はれるでありませう。先生の偉大なる経綸に感激するは易い。しかしながら、その偉大なる経綸を、現状において、いかに理解するかといふことになりますと、問題は頗る深刻ならざるを得ないのであります。しかも私の固く信じますことは、先生の精神であって初めて、日本は日本たり、日本国は日本国となり、日本人は日本人となり、日本の歴史はここに成り立つのでありまして、これを没却して今日天下に滔々たるデモクラシーの論、これに任せておきました時には、この国既に亡きに等しい。そして、それは私が先程申し上げました明治の世にしばしばいはれた旧弊といふ言葉を今日におきましては、逆コースとして、逆コースといふ言葉で代用してをりますが、われわれは逆コースとして、しばしば罵られるのでありますが、これは逆コースではなくして、正しいコースである。明治維新をそのまま受けてきたところの精神であって、そして同時に、かくの如き国家、眞木和泉守が考へられ、明治天皇が実現せられたところの明治の大御世の国家といふものが、全世界に於いて、凡そ最も正しい姿の国家といふものを具現したものであって、そこに平和があり、そこに希望があり、そこに美しさがあり、そこに道義道徳があって、これ以上の喜びといふものが、凡そ人生にはない。今の如くに横着な心構へをもって、人をみな叩きつけてよしとし、自分自ら国家の主権者を以て居る今日の状態が、何といふ悲惨な、愚かな、おどけた、笑ふべきものであるか。そしてこれが実にこの国及びこの民族の滅亡の道を歩むものにほかならぬといふこと痛感せざるを得ないのであります。(昭和39年8月20日)

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『古事記』(神話)と教育勅語

2017年06月10日 | 国際・政治

 「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)の著者(出雲井晶)は、すでに取り上げたように、教育勅語について、

 ”無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。

と絶賛しています。そして、 

 ”私は同世代の方々によびかけたい。老人大学や旅行で自分の楽しみを味わうのも結構である。だが、それだけでは生き甲斐はない。せっかく教えこまれ、知っている「教育勅語」を子や孫世代に伝えようではないか。そして共に高い魂の昇華を目ざして向上し、科学万能、唯物至上の阿修羅の世に終止符をうとうではないか。

 と呼びかけているのです。

 私は、こうした主張は『古事記』の上巻”神代”(「日本の神話」)を、「わが国の神典ともいうべき真理の書である」と受け止める歴史認識からきているのだろうと思います。

 先の大戦による様々な悲劇が、「日本の神話」に基づく「教育勅語」や「軍人勅諭」と無関係であったかように、
せっかく日本に生まれ、住んでいるのだから、「日本の神話」の心に回帰することが幸せにつながる道だと知るべきである。
などと主張することには、驚かざるを得ません。
 そして、
皇室のご先祖は天地の創り主天之御中主神が人格神としてあらわれられた天照大神で、皇統は絶えることなく続いている。また、日本人みんなの祖先もたどっていけば天照大神にいきつく。
などと、『古事記』にしたがって「神話」と「歴史的事実」を連続させて受け止める歴史認識は、戦前・戦中の軍部や政権の歴史認識と同じではないかと思います。そうした歴史認識が、思想の自由はもちろん、信教の自由や政教分離の原則を否定する体制を生みだし、治安当局による左翼思想家・自由主義者・宗教家その他関係組織や団体に対する過酷な弾圧・粛清事件をもたらしたことを忘れてはないと思います。

 また、『古事記』は、天武天皇が、”自分の皇位継承の正当性と自分に従った諸族の優位性を証明するために、自身に都合のよい史書の撰録を企てた”とする考え方なども、十分考慮されるべきだろうと思います。
 例えば、『古事記』には、伊波礼毗古命(イワレビコノミコト=神武天皇)が、登美能那賀須泥毗古(トミノナガスネビコ)と戦った話が出てきますが、それは”同母兄の五瀬命(イツセノミコト)と二人で、高千穂宮(タカチホノミヤ)にいらっしゃって、「どこへ行ったら、安らかに天下を治めることができようか。やはり、東の方へ行った方がよかろうと相談して、日向を発って…”というのですから、 登美能那賀須泥毗古の側から見れば、突然入り込んできた神武天皇の一団は「侵略軍」ともいえる一団だろうと思います。でも、『古事記』は神武天皇側の立場で書かれているので、そんなことは問題ではないのでしょう。『古事記』が、そうした自身に都合のよい史書の撰録や創作に基づくものであっても、何ら不思議はないと、私は思います。 さらに言えば、『古事記』は、天武天皇の関係者が、皇位継承の正当性や絶対性をより説得力のあるものにするために、意図的に神話と歴史的事実を連続させて創作したものではないかと私は思います。

 したがって、『古事記』は、あくまでも「神話」として理解すべきで、「わが国の神典」とか「真理の書」であるとか主張し、歴史的検証の枠外に置いて、書かれていることをそのまま何の疑問も持たずに受け入れるのはいかがなものかと思うのです。

 十数年前、神道政治連盟国会議員懇談会において、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」という発言をして問題になった森喜朗元内閣総理大臣その他も、2010年の著者(出雲井晶)の葬儀に参列したということから、今なお、日本で要職にある多くの人たちが、著者(出雲井晶)と同じように、日本国憲法に反する戦前の歴史認識を継承しているのではないかと不安になります。

 下記は、「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」出雲井晶(原書房)から、第二章の一部を抜粋したものです。
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                  第二章 「日本神話」は不滅の真理

『古事記』上巻神代上下=「日本神話」の誕生
 私たちの遠い祖先の古代人が、すばらしく冴えた感性で感じとり、想像力を縦横自在に駆使して知った大宇宙の理法! その大宇宙の理法にのっとって古代人が創作したわが国の国がらを、最後の語りべとして伝承していたのが稗田阿礼(ヒエダノアレ)であった。
 元明天皇が和銅四年九月十八日、太安万侶(オオノヤスマロ)にお命じになった。稗田阿礼が口伝えにしているものを文字で記して献上せよと。
 太安万侶は、天皇の仰せをかしこみ、稗田阿礼の伝承してきたものを書きとっていった。これが『古事記』で、上、中、下巻からなる日本最古の尊い文献である。和銅五年正月二十八日、完成させて天皇に献じたのだ。今から千二百八十四年まえ、西暦七百十二年のことである。
 
 この『古事記』上巻”神代”が「日本の神話」といわれるもので、わが国の神典ともいうべき真理の書である。素朴で簡潔な言葉でつづられているが、その一言一句に無限といえる豊かな真理が秘められている。まさに言霊(コトダマ)の宝庫である。
 「日本の神話」のすばらしさは、私たちの遠い祖先の偉大な古代人が、澄んだ感性で感じとった天地大宇宙の理法が記されていることである。それは壮大で永久不変の真理ある。時々刻々移りかわる現(ウツ)し世のことではない。
 三次元世界しか見ることの出来ない肉眼には視えない。が、これ以上確実な実在はない天地の創り主天之御中主神の高遠な理法が語られ、深く広い道理が秘められている。
天之御中主神の創造になる世界は、はるか想像を超える過去から尽きることのない未来へと壮大に続いていく。小さな人間智など、何億何兆結集しても及ばない大いなる力によって、時々刻々創造され、その作業は永遠に続くのだ。
 今現代の宇宙科学、地球物理学、心霊学、それらすべてを包みこんで深い道理が秘められている世界なのだ。
 
 私たちの祖先の古代人に対して最も驚嘆することは、この大宇宙の理法を自分の生まれ住んでいる日本国家の原点に、国家の理念にすることを忘れなかったことだ。だから、日本の国そのものが天地の理法にのっとり生まれた国として、天之御中主神の、御中を中心にして大和する国、大和の国家観がが語られている。
 ついで、皇室のご先祖は天地の創り主天之御中主神が人格神としてあらわれられた天照大神で、皇統は絶えることなく続いている。また、日本人みんなの祖先もたどっていけば天照大神にいきつく。
 このように日本の国とは、わが偉大な古代人の創作になる地球上にたった一つしかない最高の文化的創作なのである。

「日本の神話」は、今も生きている真理
 そして「日本の神話」は、過ぎ去った遠い過去だけの物語ではない。また、いつ来るともわからぬ未来だけの話ではない。
 今、現在生きている私たちすべてが、とうとうと流れ続く大宇宙の理法や摂理の中にいる。今、あなたや私がいる空間にも、あなたの中にも私の中にも天之御中主神はいます、ということが書かれているのだ。この、人間としての原点を、唯物万能、唯物一辺倒の中で暮らしている現代人は、物に晦(クラ)まされて見失ってしまっている。
 しかし私たちは、大いなる創り主の命から枝わかれした分け命であるという事実からは、逃れようにも逃れることは出来ない。しっかりこのことを踏まえて、大宇宙の理法の流れの中で生きる賢い智恵を現代人は取り戻さなければならない。
 この三次元世界だけしか見ることが出来ない目には見えないが、絶対の善意である、どこまでも明るい善いことばかりの真理の世界を教えてくれている「日本の神話」に回帰する。せっかく日本に生まれ、住んでいるのだから、「日本の神話」の心に回帰することが幸せにつながる道だと知るべきである。
 吉田松陰先生は、『古事記』の「神代の巻」つまり「日本の神話」は、「日本人すべての信仰の対象である」と教えた。この信仰とは、狭義の、どの宗教というようなものではない。
 日本の大地、大自然と共に生きる「日本の心」だと理解すればよい。日本国土の上に生をうけ、暮らしている同胞すべてに、私たちの遠い祖先が遺してくれたすばらしい教えを伝えたい。知れば皆が、底抜け明るくなる真理であるから。「あな面白、あな手伸し、あな清け」の世界であるからと、松陰先生は思われたに相違ない。
 この著書を通読され、先祖伝来の「日本の神話」の真理への回帰こそが、幸せに生きる秘訣だと会得されることを私も願わずにはおられない。

  人類は類人猿の進化とはパンドラの箱 
 そのためにはまず、唯物論で凝り固まった戦後の歴史教科書の概念を頭からすっかり捨てる。頭の中を一度からっぽにして「日本の神話」を読むことが大切だ。
 戦後の歴史教科書は、全部が全部ダーウィンの進化論から始まることは、前章の教科書の例でおわかりいただけたと思う。ここでもう一度『中学社会』(日本書籍)を読み返して、わが古来の思想と比べてみてただきたい。読んで気づかれたであろうが、ダーウィンの進化論とは、この現象界、タテ、ヨコ、厚みの三次元世界、この肉体の目で見る世界だけを基調にして物事を考えている。つまり唯物論者としてのダーウィンが、考古学の成果などから想像して創りだした「人類の始まりは類人猿から」の理論がダーウィンの進化論である。
 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、法王庁科学アカデミーによせた書簡で、「ダーウィンの進化論は、カトリックの教えと矛盾しない」として進化論を認める見解を明らかにした。しかし、「肉体の進化論は認めるが、われわれの精神は神からもらったものであり、人間の精神は進化論とは関係ない」と留保をつけた(1996年10月24日ローマ発共同) という。当然のことであろう。

 唯物論者は、物・現象の表面をいまひとつ突き抜けて、その物事の本源を直視することが出来ない。物にばかり心が捉われて、それを超える想像が働かないのが、唯物論者である。
 物の上つらしか、木はただの樹木、石はどんな原子だ分子だ素粒子だ陽子だと、コンピューターではじいて分解したり統合したりして、物体はすべてを説明するだろう。
 しかしそれ以上の想像思考の範囲を出ることは出来ない。木が芽をだし葉をしげらせ花を咲かせる、目には見えないが確かに存在する大いなるものの存在は説明できない。
 肉眼で見ることが可能な三次元世界から飛び出せない、飛躍できないのが唯物論ではないだろうか。私たちの祖先の古代人たちが持っていた豊かな感性を失ってしまっているのが、唯物論一辺倒の現代人の姿なのだ。
 ギリシャ神話の中に出てくる人類最初の女性といわれるパンドラが、神の教えを守れずに開けた箱につまってた災い!この災いとは、創り主の存在を忘れた唯物論ではなかったろうか。

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教育勅語 日本神話

2017年06月02日 | 国際・政治

 

 国有地を鑑定額よりはるかに安く取得したことで問題になった森友学園では、園児に教育勅語を朗読させていたことも話題になりました。教育勅語は、「神話的国体観」に基いており、「主権在君」(天皇主権)の考え方が、「主権在民」(国民主権)を定めた日本国憲法と相容れないため、1948年に国会で「排除」や「無効確認」の決議が行われているからです。
 しかし、森友学園をめぐる国会などの審議で、稲田朋美防衛相が、教育勅語の「核の部分」を「取り戻すべき」などと主張しました。
 また、「私は教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行とか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして…」
などとも主張しています。
 稲田防衛相が「取り戻すべき」だという「教育勅語に流れている核の部分」や「日本が目指すべき」だという「道義国家」というのは、直接的には触れていませんが、皇室が万世一系の天照大神の子孫であり、神によって永遠の統治権が与えられているのだという「神話」に基づく考え方で、「忠君愛国」や「儒教的道徳」をもとに、皇室を中心とする「家族国家」日本を甦らせようとするものではないかと思います。
 歴代の内閣総理大臣が、一年の仕事始めに伊勢神宮に参拝したり、閣僚や政権に関わる議員がこぞって靖国神社を参拝している事実、さらに、”創生「日本」東京研修会”で、第一次安倍内閣の長勢法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」などと発言している映像が存在する事実などから、私は、安倍総理はもちろん、政権を支えてきた多くの人たちが、そうした考え方を共有しているのではないかと想像します。

 そこで、そうした考え方をもう少し深く知りたいと思い、敗戦国日本の現実を嘆き、「いまだにわが国は、コミンテルン史観、唯物史観、東京裁判史観の呪縛でがんじがらめにしばられたままである」などと主張して、「日本の神話」の心にかえることを訴えている「出雲井晶」の「今なぜ、日本の神話なのか こんな素晴らしいものとは知らなかった日本の神話」(原書房)を手に取りました。そして、「教育勅語」に関わる部分の一部を抜粋しました。
 日本神話の原点といわれる『古事記』には、「偽書説」があります。また、天武天皇が、自分の皇位継承の正当性と自分に従った諸族の優位性を証明するために、自身に都合のよい史書の撰録を企てた…、などというような捉え方もあるようです。さらに「教育勅語」がいろいろなかたちで、「大東亜戦争」を支えたことを検証したり、考慮したりすることなく、
わが国には遠い遠い祖先が、大宇宙の理法から説きおこした雄大な『古事記』『日本書紀』という史書がある。この神代の巻が「日本の神話」である。この「日本の神話」こそ、いわば天からのわが国建国の真理の書である。建国の理念、精神がとかれた書である
などと「聖典」であるかのようにいい、日本を再び戦前の考え方や価値観にもどそうとするのはいかがなものかと思います。たとえ、『古事記』『日本書紀』などに記されているいわゆる「日本神話」が、史的事実を背景としている部分があるとしても…。
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                 第一章 今なぜ、日本の神話なのか
廃止させられた「教育勅語」
 「教育勅語」といっても戦後の方はまったくご存じないだろうから、まず、ここに掲げる。

  教育ニ関スル勅語 ・・・略

 わかりやすい用語で書かれてはいるが、現代人にはなじみのない言葉もあるので、現代流に訳させていただく。

   「教育勅語」謹訳
 一、私がよく考えてみるのに、われらが皇室の天照大神はじめ祖先の神々と神武天皇からの歴代の天皇が、日本の国はるか大昔に遠大な理想をもってお開きになり、長い歴史のあいだに麗わしい道徳をうちたてられると共に、その恵みをあらゆる面で深く根づかせられた。わが国民もまごころをもって君国に尽し、親を大切にし、すべての国民が心を一つにして、代々忠孝の美しい風習を成就してきたのは、これこそわが国がらの最も美しい特色で、教育で一ばん大切な根源もまた、ここにあるのである。

 二、すべての国民よ、父母は大切にうやまい、兄弟仲良く、夫婦こころをあわせ、友だちも誠の心でまじわり、自分の身はいつもつつしみ深くおごり高ぶらず放埒にならぬように。
 思いやり博愛の心、社会奉仕をこころがけ、まじめに学問をし、仕事をならい、智識才能を発揮するようにつとめ、徳の高い人格をめざして励み、進んで人の為になることをし、社会的責任を果たすよう心がけるように。

 さらに国民として憲法を尊重し、国の法律をまもり、ひとたび国家の危急がおきた時には、正義なる勇気をふるい国家に奉仕する。これらの徳義を実践して、天地創造の真理にのっとり建国された天地と共にきわまりない皇室を、中心とする道義国家の実現をたすけるように。このように国民みなが道をおこなうことは、ただ現在私のよい民であるばかりでなく、それぞれの祖先が遺した美風をあきらかにあらわすことにもなるであろう。

 三、これまでのべた道をふみ行うことは、実に天照大神、神武天皇にはじまる歴代天皇の遺されたみ教えであって、皇室の子孫と国民とがともにしたがい守るべきものである。これは悠久の昔から今現在も未来永劫にまちがいのない真理であると共に、日本国だけではなく、どこの国の人も守ってまちがいのない人間の道なのである。私もあなた方国民と共につつしんでふみ行い、君民いったいとなってその徳をみがき人格をたかめるようにと、切に望むのである。
 明治二十三年十月三十日
ご署名、御印

 無心になって「教育勅語」に対すれば”人倫の教え”これにまさるものはない。どんなに時代がうつりかわろうとも変わることのない、人間の道を指し示されたものであると共に、それがそのまま自国の国体とつながっているからすばらしい。
 だからこそ思想戦によって徹底的に日本をやっつけておかねばならないGHQにとっては、攻撃目標になったのである。
 まだGHQの手が教育面にのびていなかった昭和20年9月4日には、文部省は「新日本建設の教育方針」として、
 「今後の教育は、国体の護持に努むると共に、軍国的思想及び施策を払拭し、平和の建設を目途として、謙虚反省、只管(ヒタスラ)国民の教養を深め、科学的思考力を養ひ、平和愛好の念を篤くし、智徳の一般水準を昂(タカ)メテ、世界の進運に貢献するものたらしめん。」
 
 と決定した。その趣旨を徹底させる為に、十月半ば全国教員養成学校長、視学官を東京に集めて、前田多門文部大臣が左のような訓示をおこなっている。

 「今日、道義の昂揚(カウヤウ)と言ふことが強調されてをりますが、若しそれ敗戦の結果、武装が解除せられたので、余儀なくたてられた方策かの如くに、道義昂揚が説かれますならば、まことに情けない話であって、それは肇国の精神にも反する事となるのであります。茲に於いて吾人は茲に改めて教育勅語を謹読し、その御垂示あらせられし所に心の整理を行なはねばならぬと存じます。
 教育勅語は、吾々に御諭し遊ばされて、吾々が忠良なる国民となる事と相並んで、よき人間となるべきこと、よき父母であり、よき子供であり、よき夫婦であるべき事を御示しになっております。」即ち国民たると共に、人間として完きものたる事を御命じになっております。・・・・・(所謂民主主義政治とは)民衆が責任を以てする政治であり、畏くも皇室を上に戴き、民衆が政治に関与し、その政府は権力といふよりは、むしろ奉仕に重きを置く、これ日本的なる民主主義政治の特長であります。・・・・・
 畏くも上御一人おかせられては、常に爾臣民と共にあり(「終戦の詔書」の中での言葉)と仰せられて居ります。この有難い大御心を拝し、吾等はほんとうに一つ心になって、此の難局を切抜けて、理想の彼岸に達したいと思ひます。」

と、のべ、戦後教育でも教育勅語を根幹に、肇国の精神をかみしめるべきことを強調していた。
 ところが、十二月に入ると、”神道指令”修身、日本歴史、及び地理停止”と、GHQは日本の教育を根本からゆさぶり解体をはじめた。翌二十一年三月来日した教育使節団のいわゆるストッダード教育使節報告書によってGHQは攻めてきた。
 文部省はこの年元年の詔書をも、天皇の人間宣言と皮相にうけとった。秘密扱いで、「勅語及び詔書などの取扱いについて」という通達を出した。新憲法草案が衆、貴議員で可決した翌十月八日のことである。その中で、

  (一) 教育勅語を以て、我が国教育の唯一の淵源となす、従来の考え方を去って、これと共に教育の淵源を、広く古今東西の倫理、哲学、宗教などにも求むる態度をとるべきこと
  (二) 式日等に於て、従来、教育勅語を奉読することを慣例としたが、今後は之を読まないことにすること

とあった。
 「教育の淵源」は、わが国肇まっていらいの「国体の精華」であると示されたことを否定した。そして新憲法の枠の中での教育ということで「教育基本法」が議会へ出された。
 これは、教育使節団の報告書によって、日本国民の育成という点は無視されたもので、議員から痛烈な批判が続出したが、わずか五日で可決させられた。わが国教育の基本理念はこうして消された。
昭和二十三年六月十九日、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」

 「民主平和国家として、世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において、未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは、教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。
 しかるに、既に過去の文書となってゐる、教育勅語、並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭、その他の教育に関する諸詔勅が、今もなお国民道徳の指導原理としての、性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
 思ふに、…これらの詔勅の根本理念が、主権在君、並びに神話的国体観に基づいてゐる事実は、明らかに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。
 よって、憲法第九十八条の本旨に従ひ、ここに衆議院は院議を以てこれらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。右決議する。」

 同日、参議院でも同じ趣旨の決議をして、「教育勅語」をほうむり去った。
 すべて占領軍の、日本の原点、建国の理念を晦(クラ)まして日本を愚民弱体化する手順によってなされたもので、「教育勅語」廃止は、その止めを刺したものといえる。

 ・・・中略

 私は同世代の方々によびかけたい。老人大学や旅行で自分の楽しみを味わうのも結構である。だが、それだけでは生き甲斐はない。せっかく教えこまれ、知っている「教育勅語」を子や孫世代に伝えようではないか。そして共に高い魂の昇華を目ざして向上し、科学万能、唯物至上の阿修羅の世に終止符をうとうではないか。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


 

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