真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

戦争賠償・被害者補償-インドネシア

2014年04月26日 | 国際・政治
 太平洋戦争勃発当初、東南アジアへ進撃した日本軍の到来を歓迎したインドネシア民族も、しばらくすると、それまでインドネシアを植民地化していたオランダ以上に、インドネシア民族を圧迫し、搾取する日本の軍政に抵抗するようになり、各地で反乱を起こすようになっていった。そして、多くの犠牲者を出したのである。
 西カリマンタン(ボルネオ)のポンチャナックでは、抗日の陰謀があったということで、1943年10月下旬から8ヶ月の間に、1500人が斬首刑にあった。そこには、現在犠牲者を悼んで、大きなレリーフのある記念碑が建っているという。

 インドネシアでも、戦争に必要な物資の供出が義務づけられ、餓死者を出すほどの食料不足に陥ったようである。また、社会のあらゆる階層の労働力が搾取されたという。そして、もっともひどい目にあったのは、日本の軍事作戦のために橋や道路、飛行場、防空壕、防衛拠点などの建設工事に動員された強制労働者(ロームシャ)やその家族であるという。
 多くの人たちが国外でも労働させられた。よく知られているのが、泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロ)建設工 事である。大本営の強い早期開通要求で、常識では考えられない突貫工事が強行された。ところが、この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出した。そこにインドネシアからも4万人を超える「ロームシャ」が送られたのである。

 西スマトラのプキティンギでは、日本軍の地下司令部建設に、3000人の「ロームシャ」が動員され、機密保持のために、完成時に全員が殺されたといわれている。

 にもかかわらず、日本の戦争賠償・被害者補償は、インドネシアの場合も、他の東南アジア諸国と同じように経済協力型であり、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ものではなかった。その内容は、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉が象徴している。その実体は、日本に利益をもたらす開発を目的とした政府援助なのである。こんな内容で、「戦争で被った人的・物的被害を回復する」ための請求権を完全に放棄させることが許されるのか、と疑問に思う。

 下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、インドネシアの部分を抜粋したものである。
---------------------------------
           第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(5)インドネシア

 1949年に独立したインドネシアは、日本に対して戦争損害の賠償を強く求めて、51年のサンフランシスコ対日講和会議に参加し、サンフランシスコ条約(対日平和条約)に9月8日調印した。そして、その12月には、使節団を日本に送って賠償交渉を開始した。ところが、52年2月にインドネシアで政変が発生し、賠償交渉は一時棚上げとなり、対日平和条約の批准も無期延期となった。その後、両国でインドネシア海からの沈没船引き上げによる賠償協定、アサハン河電源開発工事を中心とする賠償協定などが出されたが、批准あるいは合意に達せず、日本側の妥結を急ぐ必要がないとの態度もあって、インドネシアが両国の輸出入収支帳尻の決裁を拒否するという事態にまで至った。その後、56年2月にインドネシアはオランダとの経済協力関係を一切破棄したことを契機として、日本との賠償交渉の再開に対して積極的姿勢に変わった。57年2月に日本に岸内閣が成立し、他方インドネシアではスカルノ大統領が同年7月に国民評議会を設置して大統領権限を強化したことに伴って、賠償交渉の妥結への気運が高まり、58年1月20日にジャカルタで平和条約と賠償協定を調印するに至った。これと同時に、日本は、インドネシアに対して経済協力を約束し、また、交渉経過で問題となった、戦後の輸出入の差し引き帳尻のインドネシア側未払い金についても、日本がこれの請求権を放棄して解決した。


日本国とインドネシア共和国との間の平和条約

第1条 日本国とインドネシア共和国との戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する。

第4条 
 1 日本国は、戦争中に日本国が与えた損害及び苦痛を償うためインドネシア共和国に賠償を支払う用意がある。しかし、日本国が存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、戦争中に日本国がインドネシア共和国その他の国に与えたすべての損害及び苦痛に対し完全な賠償を行い、同時に日本国の他の債務を履行するために十分でないことが承認される

(a)日本国は、別に合意される細目に従って、総額803億880万円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を12年間内に賠償としてインドネシア共和国に供与する。

(b)インドネシア共和国は、この条約の効力発生の時にその管内にある日本国及び日本国民のすべての財産、権利及び利益を差し押さえ、留置し、清算し、その他なんらかの方法で処分する権利を有する。(除外される権利あり)


 2 インドネシア共和国は、前項に別段の定ある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する。


☆経済開発借款交換公文

 1,440億円の額までの商業上の投資、長期貸付又は類似のクレジットが、日本国の国民により、締結されることがある適当な契約に基づいてインドネシア共和国の政府又は国民に対して行われるものとする(要旨)

☆旧清算勘定そのほかの諸勘定の残高に関する請求権の処理に関する日本国政府とインドネシア共和国との間の議定書

 1952年8月7日にジャカルタで署名された日本とインドネシア共和国との間の支払取決等に基づき日本がインドネシア共和国に対して有する請求権額1億7,691万3,958ドル41セント(アメリカ合衆国ドル)の請求権を、日本は放棄する。(要旨)

 この約803億円に相当する賠償については、「賠償として供与される生産物及び役務は、インドネシア共和国政府が要請し、かつ両国政府が合意するものでなければならない」と定められ、このなかには4つの高級ホテル、1つのショッピングセンター(デパート)、が含まれていた。賠償とは、戦争で被った人的物的被害を回復するべきものであるのに、その実体は開発を目的とした政府援助と同じものになっている。また、賠償のなかの船舶については、日本の中古船を市価の3倍以上の価格で賠償として支払ったものであったが、日本の有力政治家がこれに関わったとして国会で問題にされるなど、賠償のあり方については「一体何だったのだろうか」と大きく疑問が投げかけられている。(村井吉敬「賠償と援助──賠償・ODAから戦後処理を考える」『自由と正義』1993年9月号)。
 このような「賠償」の実態を理解する上で、吉田首相が語ったとされる「向こうが投資という名を嫌ったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」という言葉は、重要な意味を持っているのではなかろうか。



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争賠償・被害者補償-韓国

2014年04月23日 | 国際・政治

 日本のアジア諸国に対する戦争賠償や戦後補償は、基本的に経済協力方式であった。それは、経済的利益を追及する日本の関係者の要求に沿うものであっただけでなく、冷戦下に於けるアメリカのアジア戦略の関係上、求められたことでもあった。

 戦後の日本は、アメリカが主導したサンフランシスコ講和条約によって、「…日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される」と規定され、莫大な損害や被害の実態に見合う賠償や補償は免れた。その上、再軍備と安保条約によるアメリカ軍に対する軍事基地提供と引き換えに、戦争賠償・戦後補償のさらなる軽減を得て、経済協力方式のかたちをとったのである。
 
 米ソ冷戦の激化や朝鮮戦争に対応するため、日本に再軍備を求めたJ.F.ダレスは、「日本は戦争賠償をしなければならないから再軍備する金がない」と答えた吉田首相に対し「戦争賠償はしなくてもいいから再軍備せよ」と言ったという(古関彰一獨協大学教授の研究による)ことに象徴されるように、日本の戦争賠償や戦後補償は、戦争被害国や戦争被害者への賠償や補償を脇に置いて、アメリカのアジア戦略に沿うかたちになったといえる。

 したがって、韓国に対する戦争賠償・戦後補償は、いわゆる「従軍慰安婦」の問題はもちろん、強制連行された朝鮮人労働者の実態調査などもきちんとなされず、植民地支配の問題も究明されることのない、経済協力方式の戦争賠償・戦後補償となった。戦争被害者個人に対する補償は、経済協力に置き換えられたのである。戦争責任を免れ、経済的利益を追求したい日本の関係者と、米ソ冷戦の対応にせまられたアメリカの思惑が一致した結果の戦後処理が、現在に問題を引き摺る原因となったのだと思う。再び交渉が持たれているようであるが、日韓関係改善のために、「解決済み」など冷たく突き放すのではなく、被害者に寄り添い誠実に対応する必要があると思う。

 下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、韓国に対する部分を抜粋したものである。
---------------------------------
           第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(2)韓国

①日韓会談とその中断
 サンフランシスコ講和条約(1952年4月28日発効)第4条で朝鮮の独立に伴う日韓間の請求権問題は両国間の特別取り決め主題とした。
 日韓では1951年の予備会談以降、1952年2月15日からはじまった第1次日韓会談から1965年1月18日から6月22日まで行われた第7次会談まで14年間、7回にわたる会談を経て、1965年6月、1条約、4協定(日韓基本条約、漁業協定、請求権および経済協力協定、在日韓国人の法的地位協定、文化財および文化協力協定)が締結された。
 韓国政府は第1回会談以降、以下の「対日請求8項目」を要求して交渉を続けた。
1、朝鮮銀行を通して搬出された地金、地銀
2、1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債権の返済請求
 ア 通信局関係
 1)、郵便貯金、振替貯金、為替貯金
 2)、国債および貯蓄債券等
 3)、簡易生命保険および郵便年金関係
 4)、海外為替貯金および債権
 5)、太平洋米軍陸軍司令部布告第3号により凍結された韓国受取金
 イ、1945年8月9日以降、日本人が韓国の各銀行から引き出した預金額
 ウ、韓国から歳入された国庫金中の裏付け資金がない歳出による韓国受取金関係
 エ、朝鮮総督府東京事務所の財産
 オ、その他
3、1945年8月9日以降、韓国から振替または送金された金品の返還要求

 ア、8月8日以降、朝鮮銀行本店から在日東京支店に振替もしくは送金された金品
 イ、8月9日以降、在韓金融機関を通じて日本に送金された金品
 ウ、その他
4、1945年8月9日現在、韓国に本社、本店または主たる事務所がある法人の在日財産の返還要求
 ア、連合国最高司令部指令第965により閉鎖清算された韓国内金融機関の在日支店財産
 イ、連合国最高司令部指令第965により閉鎖された韓国内本店保有法人の在外財産
 ウ、その他

5、韓国法人または韓国自然人の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金および他の
請求権の返済要求
 ア、日本有価証券
 イ、日本通貨
 ウ、被徴用韓国人の未収金
 エ、戦争による被徴用者の被害に対する補償
 オ、韓国人の対日本政府請求恩給関係
 カ 韓国人の対日本人または法人請求

6 韓国人(自然人、法人)の日本政府または日本に対する個別的権利行使に関する項目

7 前記諸財産または請求権から発生した諸果実の返還請求権
8、前記の返還および決済の開始および終了時期に関する項目
  韓国側は、1910年の日韓併合条約は無効であり、無効な条約に基づく植民地支配は違法であるとの主張がなされたが、日本側は1949年12月3日、第1に植民地化は朝鮮の経済的、社会的文化的向上に貢献した、第2に解放後の「日本人の放逐」と日本人の努力により平和裡に蓄積された私有財産の剥奪は過酷な措置であって、国際慣習上異例である、第3に朝鮮は正当な手続きをへて日本の領土となったことなどを内容とする基本見解をまとめて会談に臨んだ。

 このため植民地化をめぐって両国の認識は真っ向から対立し、第2の点についても、日本は在韓米軍政府の財産処分(サンフランシスコ講和条約第14条(b)により日本はその効力を承認するとされていた)は日本の私有財産の所有権移転を意味しないとして日本人の財産につき韓国政府に返還請求していた。
 第3次会談において、久保田貴一郎日本側主席代表が「日本が講和条約を締結する前に韓国が独立したのは国際法違反であり、日本の統治は韓国に有利な面もあった」と発言し、1953年10月21日会談は決裂した。



②日韓条約の締結へ
 アメリカのアジア戦略の中では日韓関係の改善が急務とされ、アメリカは会談の再開を促し、1957年12月31日、第4次会談のための予備会談において、日本政府の対韓民間人財産請求については、日本側がサ条約第4条の解釈に関する米国政府の見解(在日米大使の口上書、1957・12・31、第1010号)に従って請求権の主張を撤回、第5次日韓会談予備会談から項目別討議が始められた。

 しかし、日本は、韓国の8項目請求に対しては、法的根拠と証拠関係が確実なものについては弁済するが、大部分はこれが不明であるとした。
 韓国は日本に資料の提供を求めたが、日本は資料はないと言って交渉は進展せず、かつ、この間、日本側が受取先は国であるのか、個人であるのかとした点については、韓国は国として請求しているのであって、個人に対するものは国内問題として処理すると回答していた。
 1961年の第6次日韓会談において、日本は無償経済協力による解決を提案、併せてこれによって韓国に請求権の放棄を求め、韓国は国内世論に押されて請求権放棄はできないと主張、アメリカは韓国に対し、日本との国交を早く回復するよう求めていたが、1962年6月、経済援助について考え直さざるを得ないとして会談の早期妥結を迫った。

 1962年の大平、金会談において、無償経済援助3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款1億ドル以上の経済協力と引き換えに一切の対日請求権を放棄するとの大平、金メモが作成された。


③条約、協定の締結
 1965年6月22日、日韓基本条約および4協定が締結された。
 請求権および経済協力協定では、日本が韓国に無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することで、日韓両国および国民の財産、権利および利益並びに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたことが確認された。(請求権および経済協力協定第2条1項)
 
 なお、請求権及び経済協力協定第2条2項では、「この条約の規定は、次のものに影響を及ぼすものではない」と定め、2項aでは、「一方の締約国の国民で1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間、他方の締約国に移住したことがある者の財産、権利、及び利益」と定めている。
 したがって、在日韓国人の「財産、権利、及び利益」は適用除外となっている。

 請求権の問題が経済協力に置き換えられた経過については、例えば、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は会談の最重要課題の一つとされたが、「事実関係を実証するような材料というものはもうみんななくなっておる」として、「合意のうえ完全かつ終局的に終了したことにして、経済協力という方法によってその問題を置き換えることになった。」(1965年12月3日参議院日韓条約特別委員会における椎名外務大臣答弁)とされている。


 しかしながら、各法務局に供託され、強制連行された朝鮮人労働者への未払賃金の供託報告書が存在して法務局に保管されていて、事実関係が明白である場合についても一括して経済協力に置き換えられている。


④法律の制定(日本)
 日韓条約、請求権協定の締結に伴って、1965年12月17日法律第144号、「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に関する措置に関する法律」が制定された。
 この法律では大韓民国又はその国民財産権であって協定第2条3の財産、権利、利益に該当するものは1965年6月22日において消滅したものとし、日本国または日本国民が保管する物は保管者に帰属する、証券に化体される権利についてはその権利に基づく主張をすることができないと定める。



⑤法律の制定(韓国)
 請求権資金の運用および管理に関する法律(1966年2月19日法律第1741号)が制定され、大韓民国国民が有している1945年8月15日までの日本国に対する民間請求権はこの法律に定める請求権資金の中から補償しなければならないとされ、この民間請求権の補償に関する基準・種類・限度等の決定必要な事項は別に法律で定めるとされた。

 この別の法律として1971年1月19日、対日民間請求権申告に関する法律および1974年12月21日対日民間請求権補償に関する法律が制定された。
 この申告に関する法律により、1971年5月21日から1972年3月20日までの10ヶ月間に対日民間請求権申告管理事務所および全国30ヶ所の税務署で、日本政府発行の国債・地方債・郵便年金・郵便貯金・日本国内所在の金融機関への預金、生命保険等の債権等、および日本国により軍人・軍属または労務者として召集または徴用され1945年8月15日以前に死亡したものに対する補償申告が受け付けられ、対日民間請求権申告管理委員会で適否の審査がされた。そして、補償法により1975年7月1日より1977年6月30日まで、8万3,519件に対し、総額91億8,769万3,000ウォンが支払われた。
 しかし、死亡のみで傷害に対しては支払われておらず、8,552件25億6,560万ウォン、死亡1人当たり30万ウォンが支払われた。


⑥ 問題点
 請求権の問題が経済協力に置き換えられた経過については、例えば、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は会談の最重要課題の一つとされたが「事実関係を実証するような材料というものはもうみんななくなっておる」として、「経済協力という方法によってその問題を置き換えることになった」。経過は前記のとおりである。

 しかし、東南アジア開発促進の見地から賠償と民間経済協力を併用する方針は、1951年12月17日から1952年1月18日までに行われた、日本とインドネシアとの予備交渉の過程で具体化されたものであり、日韓会談にあたっても、日本では当初から、経済発展にとってプラスになり、日本の損にならない経済協力方式で解決する方針が固められており、これによって全てを放棄させるのでなければ意味がないとの一文も追加されている外務省の文書が見つかっている。

 植民地支配の問題を棚上げにした上、具体的な項目に入ってからも、事実の究明もせず、日本が持っている資料の開示もせず、証拠がないとして引き延ばしたうえ、当初の目的通り経済協力に置き換えて解決したのであって、植民地支配に対する解決も、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題も未解決のままなのである。
 「従軍慰安婦」問題は当時は会談の対象にもなっていなかった。
 さらに、各法務局に供託され、強制連行された朝鮮人労働者への未払い賃金の供託報告書が存在し、法務局に保管されていて、日本にとっては事実関係が明白である場合についても一括して経済協力に置き換えられたのである。
 また、アメリカはアジア戦略の上で、日韓関係の正常化をはかる必要から、当時アメリカの経済援助によって、経済が成り立っていた韓国に対し、早期に会談を成立させねば援助を打ち切ることも考えなおさなければならないとして脅かして解決を迫り、この結果、日本の当初の方針どおり、経済協力による一括解決となった点も見逃せない。



http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換 えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

コメント (39)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争賠償・被害者補償-フィリピン

2014年04月23日 | 国際・政治
 2014年4月現在、韓国人元「従軍慰安婦」の平均年齢は88.3歳で、補償や謝罪、法的責任などに関して早期の根本的解決を求める韓国と日本の関係者の接点を探る協議が続けられているという。それは、フィリピンに対する日本の戦争賠償・被害者補償も、もう一度考え直す必要性を示すものだ、と思う。

 戦争の被害者補償を受けられなかったフィリピンの元「従軍慰安婦」の人たちは第2次世界大戦当時、進駐してきた日本国の軍隊の兵士らから暴行、監禁、強姦等の被害を受け、著しい精神的苦痛を被ったとして、日本国に対し、1人につき2000万円の損害賠償請求の訴えを起こした(当初は18名その後、28名が加わって46名)。しかしながら、日本の裁判所は、国際法が「被害を受けた個人が直接加害国に損害賠償を請求する権利は認めていない」として棄却している。こうした問題は、基本的に賠償条約や経済協力協定の締結の時に解決されるべき問題だったのだと思う。
 戦争被害者の被害の実態を全く議論の対象とせず、賠償条約や経済協力協定の交渉を進めたこと、また、戦争被害者が何の補償もされていない状況などを無視し、日本の裁判所が国際法を持ち出して訴えを棄却するのでは、被害者は納得できないであろう。
  
 賠償条約・経済協力協定の締結に関する主張がかみ合わず、中断した日本とフィリピンの交渉再開のために、フィリピンは日本へヘルナンデス調査団を派遣したが、その調査団の報告の中には、「アメリカが賠償額を最小限に止め日本が可能な限り防衛費にまわすよう望んでいるのであり、賠償が解決しないのは、アメリカがフィリピンを犠牲にしてでも民主的で強い日本を選んでいるからである」との指摘があるという。フィリピンとの交渉でも、冷戦下におけるアメリカのアジア戦略が、本来の賠償・補償の交渉を歪めることになったといえる。

 さらにいえば、問題なのは、賠償額の少なさだけではない。その内容こそが問題なのである。下記は「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、フィリピンの部分を抜粋したものである。
---------------------------------
             第2章 日本の戦後処理の実態と問題点

第3 日本政府による賠償と被害者への補償

2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結

(4)フィリピン

①初期の交渉
 フィリピン政府は1947年に極東委員会に80ペソ(約41億ドル)の請求額を出したが、1950年12月、賠償経済小委員会は、80億ドルを公式の損害総額とし、1951年2月11日、フィリピン政府はこれを公式請求額であるとし、日本に提出した。しかし、同年4月頃には賠償小委員会や国家最高会議は、「獲得額10億ドル以上」の最低線を出していた。
 80億ペソが80億ドルに倍加した理由は、物損につき1941年の価格を50年の価格に算定し直したこと、及び人命損害及び供出財とサービス(主に軍票発効額)が追加されたことによるとされており、人命損害については、1人当たり4,000ペソ(2,000ドル)とし、厚生省報告の民間人死亡者数111万1,983人にかけたものである。

 フィリピンの代表は、対日平和条約について、「全く気の進まない調印をしたが、これもひとえにアメリカとの信頼友好関係のためである」と大統領宛に書き送ったように、非常に不満足なものであったが、対日平和条約第14条は自由に解釈し、交渉の余地のあるものとして以後の交渉に臨んだ。
 1952年1月、政府は使節団をフィリピンに送り賠償について交渉を始め、フィリピンは役務だけでなく現金、現物支給を含めて、別紙の明細をつけて80億ドルを要求したが、日本側は対日平和条約の役務提供という条項は厳格に解釈されなければならないし、80億ドルは日本の経済力の及ぶところではないとして交渉は進まなかった。

 
 1952年1月、80億ドルを日本政府に要求したものの、同年同月にフィリピン政府専門委員会が大統領に提出した最低請求額の勧告では「『戦争損害の公式』による損害額、つまり、戦争損害委員会によって認められた公共および民間の財産損害から既に受け取った金額を差し引いた額、すなわち16億ドル2,152万1,064ドル」を最低額としていたもので、財産的損害に限られ、約16億ドルとしていた。

 これは我々の調査においても、財産損害についてはラジオや新聞を通じて、損害の申告をするようにとの政府の通知が出され、申告をしたが現在までも何らの補償がされていないという被害者もおり、具体的に調査して提起した金額は財産損害であったといえる。

 実際の交渉においても、フィリピンは、請求総額を物損の16億ドルと人命および軍票の2つに分け、前者について批准直後に前払いし、後者は他の請求国の要求が出揃うまで延期するとの一括払いの提案を行い、また、対日平和条約の批准前の一部中間払いを要求したが、日本はこれを拒否し、フィリピンが希望する役務の種類、順位の提示を求めるに止まった。

 日本は中間賠償が沈船引き揚げ程度であればとして、1953年3月12日、沈船引揚げの中間賠償協定が調印されたが本来の交渉は進展しなかった。
 この間のフィリピンの最大の要求は平和条約批准前または直後の財産的損害を中心とする10億ドルまたは8億ドルの一部賠償要求であり、80億ドルが議論されたことはなかった。


 フィリピン内においては、シンコ教授は第2次大戦後にindeminityにかわって採択されたreparationの国際法上の概念は物損に範囲限定的であると報告しており、上院においても、80ペソ(40億ドル)を要求しているかどうかの説明が求められ、80億ドルは非現実的であり、交渉記録を見て初めて、この金額の要求が日本に対して出されたことを知ったとの上院議員の発言もあるくらいであった。

 他方、日本の賠償にあたる基本姿勢は、より厳格な条件でより小額であれば日本のために最善であるとするものであり、1951年末には賠償と民間経済協力を併用する方針が出され、かつ東南アジア諸国開発協力が日本の基本政策の一つとして出された。

 『吉田茂回顧10年』によれば、賠償支払いによって日本と相手国の経済関係の密接化を保障するのでなければ、賠償は無意味であり、たとえ経済侵略と呼ばれても邪悪を気にする必要はなく、未開発地域の開発、工業原料の確保、市場開発は彼我相互の利益にかなうものとして交渉を進めたとしている。



②覚書の締結とその破棄
 日本では「賠償は日本経済発展の特権である」(『自民党政策月報』1956・5)と言われるほど、賠償は経済的利益のためになるとして、政財界には早期解決の要望が強く、財界は東南アジアが経済開発に向け、次々視察団を送っていた。特に、鉄鋼業界は保守政党に多額の政治献金をする一方、賠償問題の早期解決とアジア諸国との国交回復を要請、とりわけフィリピン賠償は東南アジア開発計画との関係で重視され、1952年以降、フィリピン鉱業界との間で鉱山開発協力が始まっていた。

 日比の経済界は貿易振興への強い要求で一致していたのである。
 1953年5月には政府は賠償解決の併用案として民間経済開発協力の推進をめざし、諮問機関「アジア経済懇談会」が設けられた。
 同会議ではそれぞれの国を担当者を決め、政府が提示した、日本が機械、技術その他を輸出して、銅、鉄、ニッケル、鉱山、原塩、石炭などを相手国と共同開発し、アジアの地域的集団安全保障に必要な金属素材、重機械、戦略機材を供給する構想が承認され、それぞれの担当国を訪問、フィリピンについては、永野護が比要人と交渉を持った。

 1954年になると、日本政府は「賠償問題解決のための方針」を閣議にかけ、全賠償総額を5億ドルとし、フィリピン2億5,000万ドル、インドネシア1億2,500万ドル、ビルマ6,000万ドル、インドシナ3国3,000万ドルを暫定的な数字とし、3,000万ないし5,000万ドル程度の増額幅をもたせることに内定、方法は役務および生産物とし、原材料費の一時立て替えを認め、日本にも利益をもたらす場合には原材料費を負担することとした。

 アメリカも日本の自衛力増強、賠償問題解決、東南アジアの経済協力の3つを連携させ、日本と東南アジアの緊密化をはかり、東南アジア地域の対共産圏に対する安全保障体制を確立することを強く求めていた。
 当時、フィリピンではアメリカの支援を受けてフクバラハップを弾圧、壊滅させたマグサイサが1953年3代目の大統領となり、フィリピンはアメリカの軍事ブロックの中に入っていったが、この総額の決定にあたっては、日本はアメリカと緊密な情報の交換を行い、日比間の交渉の仲介の労をとることを要請、1953年11月、ニクソン米副大統領は両国を訪問し、両国首脳に柔軟な態度をとるよう要請、フィリピンのマグサイサ大統領は、現実的な態度で臨むことを表明した。


 1954年1月から始まった大野公使とガルシア副大統領の会談では、日本の2億5,000万ドル(3億ドルなら可能)との案に対して、ガルシアから最低限度4億ドルを申し入れ、同年4月10日、生産加工、沈船引き揚げ、その他の役務による日本の支払額は4億ドルとする、期間は10年で、いずれか一方の要請で10年延長できる、日本による役務のもたらす経済的価値は10億ドルを下回らないものとする、賠償協定調印後、対日平和条約を速やかに批准することを内容とする大野・ガルシア覚書が結ばれた。

 ところが、上院議員などを中心に、この案は、日本の経済侵略を許すもの、すなわちフィリピンを原料供給国とし日本製品の消費国化し従属化させるもので、フィリピンの満州化であり、もっと多額で短期支払いの賠償をすべきとの反対が強く出されたため正式調印には至らなかった。



③賠償協定の締結
 フィリピンは交渉再開のために日本へヘルナンデス調査団を派遣したが、この日本の経済の状況についての報告については、日本の健全な経済的自立を求め、無理な賠償には反対であった米国が日本の外貨事情に関する楽観的見通しについて厳しく批判し、マニラの米大使館を通じてコメントした。
 この報告では、アメリカが賠償額を最小限に止め日本が可能な限り防衛費にまわすよう望んでいるのであり、賠償が解決しないのは、アメリカがフィリピンを犠牲にしてでも民主的で強い日本を選んでいるからであるとしている。

 また、この報告では、フィリピン政府の55年から59年までの経済開発に5ヶ年計画に要する費用との関連づけが明確にされ、外貨費用の分担の一部に日本の賠償支払いをあてるという勧告をした。
 財界のフィリピン担当であった永野護は、賠償支払いと民間経済協力を併用するのでなければ交渉の妥結は難しいことを首相に承認を得たうえ、吉田首相とラウエル上院議員の秘密会談をセットし覚書の破棄を受け入れたが、1954年12月吉田内閣が総辞職し鳩山内閣となったため交渉ははかどらず、賠償額が少しは高くなっても、1日も早く妥結して正常な日比貿易が行われる方が利益になるとする財界の意向を反映して、1955年5月の非公式折衝では、賠償5億5,000万ドル、経済借款2億5,000万ドル合計8億ドル案でほぼ合意が成立した。


 しかし、今度は日本の大蔵省、自由党の反対により、財界の強い要請、ダレス国務長官の解決の遅れへの強い不満の表明などにもかかわらず対応が遅れ、ようやく1956年5月9日、5億5,000万ドルの役務および資本財による支払い期間20年の賠償協定と、2億5,000万ドルの民間商業ベースによる長期開発借款協定が締結された。

 日本が原案に入れており、フィリピンが反対していた「本協定の賠償は両国の通常貿易に不利な影響を及ぼさない、また、日本はいかなる外貨負担も課さないような方法で実施されるものとする」との条項については、貿易の拡大は共同声明で行い、外貨負担については、実施計画に関する交換公文で記載されることになった。

 フィリピンの対日平和条約の批准は7月16日に行われた。
 国会答弁で高崎達之助長官(賠償協定調印の全権委員)は、賠償は「負けて払う罰金」や「手切金」ではなく「将来手を握るための結納金である」と答弁、賠償は「国民所得のうちの海外投資分の一部」との考えを明らかにしている。

 実際にも、これは、日本の商社が東南アジアに進出する呼び水になり、建設業も進出の足場を役務賠償を通じて築いた。
 結局、賠償は日本の経済進出の地盤造りの役割を果たしたともいえる。また日本に溜まった物資をさばく、あるいは過剰設備の移転にも役立つなど不況産業救済の効果もあった。
 更に、協定第5条で定められた賠償契約における入札制と直接契約制導入はフィリピン政治家、企業と日本商社、企業を構造的に結びつける要因ともなったのである。

 しかし、フィリピンにおける、被害者たる住民には何らの補償もされていない。


④問題点
ア、日本がフィリピンにおいて行った加害行為についての事実の究明が行われたことも、これに対する日本政府による謝罪が行われたこともなかった。

イ、フィリピンより日本に当初提出された請求金額には戦争による死亡者への補償の項目があげられていたが、交渉の中で、これらが具体的に検討されたこともなく、フィリピン側は交渉の当初から財産的損害のうちどれだけを日本から引き出せるか、役務に限らず、生産財や資本財を賠償の中に含めることを目標として交渉に臨んでいた。

ウ、交渉経過からも明らかなように、日本の側は、日本の行った罪に対する償いではなく、当初はどのように額を抑えるかが課題であり、財界の圧力もあり、その後は「賠償は日本経済発展の特権である」に端的に示される、経済進出のための手段としてこの賠償協定の締結を行った。
 
 フィリピン側もこの賠償協定は、フィリピンが日本の資源供給国化し、市場化する経済侵略の容認にほかならず、フィリピンの産業を潰すことにもなるとの反対にもかかわらず、経済開発5ヶ年計画など経済政策実行のための資金が不足していたことから締結に到った

エ、対日平和条約が米国の冷戦構造下における、日本を経済的に自立させ、再軍備させるアジア戦略の一貫として締結されたことは前述したとおりであるが、米国は、フィリピンとの賠償条約の交渉過程においても、日本の経済的負担を減らし、早期に協定を締結するよう圧力をかけてきた。


オ、死亡した戦争被害者への補償について話し合われたことはなかったし、九死に一生を得て、その後も傷害の後遺症に苦しんでいる虐殺被害者や、家族のほぼ全員が虐殺され、生活に困窮し、あるいは葬式費用もないといった被害者への補償や、「従軍慰安婦」などは、そもそもフィリピンの請求にすらあがっていなかったのであり、賠償交渉は被害者の視点を完全に欠落させたものであった。

 そして、被害者個人に対する補償はなされていない。
 なお、賠償協定自身には請求権放棄条項は規定されていない。



 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題ある日本の戦後補償 

2014年04月03日 | 国際・政治
 最近安倍政権によって提起され、議論されたり、今なお議論されている問題は大部分が日本国憲法の精神に反するものであるように思う。「国家安全保障会議(日本版NSC)」の創設問題や「特定秘密保護法」の問題、「集団的自衛権」の問題、「武器輸出三原則見直し」の問題などである。その他にも、靖国神社参拝問題や教育委員会制度見直しの問題、教科書の記述内容や採択をめぐる問題などもあり、日本の右傾化を懸念する声が、海外でもひろがっているようである。戦後69年を経た現在、中国や韓国から戦後補償の要求の声があがるのは、そうした日本の右傾化の動きと無関係ではないであろう。また、戦争被害者の補償がきちんとなされていないことも忘れてはならないと思う。

 ドイツと違って、日本では、戦時中の指導者層が戦後も引き続き政界や経済界、自衛隊などで活躍した。一時公職を追放された人たちも、米ソ冷戦の影響で、多くが復帰したのである。だから、政治家の「日本国憲法」に反するような言動や、海外では受け入れられないような、いわゆる「失言」が繰り返されてきたのであろう。安倍政権は、そうした戦時中の指導者層の考え方を基本的な部分で受け継いでいるのだと思う。

 日本の「戦後補償」の問題をふり返れば、戦後まもないころから、戦時中の考え方がそのまま受け継がれている部分があることがわかる。例えば、日本の戦争被害者に対する補償は、ごく一部の例外を除けば、軍人・軍属が対象である。「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は民間人戦争被害者は対象としていない。また、連合国総司令部(GHQ)が廃止を指令した「軍人恩給」が、サンフランシスコ講和条約締結によって、日本が主権を回復すると間もなく復活したのみならず、その支給額が旧帝国軍隊の階級に基づいている。戦争責任のより大きな元軍人ほど、より多くの軍人恩給を給付されているのである。ドイツの戦後補償は、民間人戦争被害者も等しくその対象であり、軍人に対する補償に階級差などはないという。

 さらに、日本軍の軍人・軍属として戦場に駆り立てられた旧植民地出身の朝鮮や台湾の人たちが、国籍条項によって、援護法の対象から除外されていることも大きな問題ではないか、と思う。

 下記は、『「戦後補償」を考える』内田雅敏(講談社現代新書)から、記憶しておきたいと思った項目を、いくつか抜粋したものである。特に、─「殉国七士廟」が語るもの─には驚いた。
----------------------------------
            3 戦後処理と賠償・補償問題

2 諸外国との比較

 賠償を「値切った」日本
 これに対して日本は、前述した韓国に対する有償・無償の5億ドル、あるいはヴェトナム、インドネシア、マレーシア、ラオス、シンガポール、フィリピン、インドなどに対する賠償を合わせても、総額で6565億円、接収された「在外資産」約3500億円の放棄、およびサンフランシスコ講和条約締結前の中間賠償約1億6000万円を含めても1兆円超である。(中間賠償とは、賠償がなされることを前提として、そのうちの約30%分を、占領地あるいは日本国内にあった機械類などの物納として中国、フィリピン、イギリス、オランダなどに供与された)。しかも、この賠償は直接被害者に対して支払われるものではなく、時には彼の地の独裁政権を支えるために使われたり、あるいはその一部が日本の保守政権に環流されたりした。ドイツと比べると実に7兆円対1兆円ということになる。前述したようにドイツの場合は、今なおこの支払いを続けている。(佐藤健生拓殖大学教授、田中宏一橋大学教授らの研究による)


 日本の賠償が不十分なものであったことは、日本政府関係者も認めているところである。例えば大蔵省財政史室編『昭和財政史──終戦から講和まで』第1巻は、
「日本が賠償交渉でねばり強く相当の年数をかけて自分の立場を主張しつづけたことも結果的には賠償の実質的負担を大きく軽減させた。賠償の締結時期が遅くなった結果、高度成長期に入った日本は、大局的にみてさほど苦労せず賠償を支払うことができたのである。加えて時期の遅れは復興した日本が東南アジアに経済的に再進出する際の絶好の足がかりとして賠償支払や無償経済協力を利用するという効果をもたらした」
と記している。

 また、前述したように外務省の元高官・須之部量三氏も、「(これらの賠償は)日本経済が本当に復興する以前のことで、どうしても日本の負担を『値切る』ことに重点がかかっていた」のであって、「条約的、法的には確かに済んだけれども何か釈然としない不満が残ってしまう」ものであったと語っている。(「外交フォーラム」1992年2月号)
 そして、この不十分な賠償についてさえ日本は戦後アジアに対する再進出の足がかりとして利用したのである。当時、吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。


 外務省賠償部監修『日本の賠償』は、
「輸出困難なプラント類や、従来輸出されていなかった資材を、賠償で供与して“なじみ”を作り、将来の輸出の基礎を築くことが、我が国 にとって望ましいものである。」
 と素直に語っている。さらに、自民党政策月報1956年6月5日号も、「賠償は日本経済発展の特権である」と述べている。
 実はこの点については、ドイツの賠償・補償の場合にも同じような問題が起こりうるのでないかと思い、ボンの大蔵省の担当官にその旨質問してみたが、ドイツの補償はプラント類や資材の支給ではないのでそのようなことはない、という回答であった。


 日本人戦争被害者に対する補償
 このように日本の戦争賠償・補償は具体的な補償額を比較してみても、かつての「同盟国」ドイツと比べてきわめて不十分である。しかし、日本政府は日本人の戦争被害者に対する補償、いわゆる援護法による補償については、後述するような問題点があるとしてもそれなりに行ってきている。

 1945年11月、連合国総司令部(GHQ)が日本政府に対して軍人恩給の廃止を指令して以来、軍人恩給は廃止されていた。1951年9月のサンフランシスコ講和条約の締結を経て、翌1952年4月28日、日本は占領から解放され、主権を回復した。日本政府は国会の審議を経た上で、同年4月30日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布し、同年4月1日にさかのぼり再び軍人恩給を支給することにした。同援護法第1条は「国家補償の精神に基づき、軍人、軍属であったもの、またはこれらの者の遺族を援護することを目的とする」としている。


 以後次々と援護法が制定され、その支給合計額は1993年3月末現在で約35兆円となっている。支払いのピークは1987年度であり、以降少しずつ減ってはいるが、年間2兆円近い金額が日本人の戦争被害者に対して支払われている。この35兆円(年間約2兆円)という数字と、前述した対外的な戦争賠償約6565億円(在外資産の放棄を含めても約1兆円)という数字を比べてみると、そのあまりに大きな差に言葉を失う。しかもこの援護法による補償はこれからも増え続けるのである。

---
日系米国人への謝罪と補償
 戦後補償は敗戦国だけの問題ではない。戦勝国アメリカにおいても1983年、レーガン大統領の時代に議会は、戦時中、日系米国人を適性国民として強制収容したことを誤りであると認め、その公式謝罪と補償についての勧告を採択した。勧告文は「それがここで起きたのだということが将来への警告として後世に伝えていかねばならないメッセージである」と述べている


 そしてその勧告を受けて1988年に「市民自由法」が制定され、日本政府を介さずに、直接被害者あるいはその遺族に対して金2万ドルがブッシュ大統領(当時)の謝罪文とともに手渡された。謝罪文には次のように述べている。
「金額や言葉だけで失われた年月を取り戻し、痛みを伴う記憶をいやすことはできません。また、不正を修正し、個人の権利を支持しようというわが国の決心を十分につたえることもできません。しかし、私たちははっきりと正義の立場に立った上で、第2次大戦中に重大な不正義が日系米国人に対して行われたことを認めることはできます」
「損害賠償と心からの謝罪を申し出る法律の制定で、米国人は言葉の真の意味で、自由と平等、正義という理想に対する伝統的な責任を新たにしました。みなさんとご家族の将来に幸いあれ」(1990年10月11日 朝日新聞)

 
・・・(以下略)

---
3 ドイツ企業の補償のあり方

日本企業の対応は?
 日本の企業の戦後補償ははどうであろうか。
 すでに述べたように日本政府は戦争中、約80万人から100万人の朝鮮人を、そして4万人の中国人を国内に強制連行し、強制労働させた。現在、この強制連行・強制労働について、その被害者あるいは遺族から、日本鋼管、三菱造船、不二越の3社に対して、未払い賃金の請求あるいは損害賠償請求等の訴訟が提起されている。
 これらの原告はいずれも韓国・朝鮮人である。中国人については訴訟になっていないが、花岡事件で知られる鹿島組での強制労働について、鹿島建設に対して補償請求等がなされていることは前述した。
 これらの補償請求されている企業のうち鹿島建設は、中国人被害者に対し、その非を認め一応謝罪をしたものの(ただし、補償請求そのものについてはまだ応じていない)、日本鋼管らの3社は、企業として国家の政策に従ったまでであり、なんら責任がないとしており、また、これらの問題は1965年の日韓請求権協定ですべて解決済みであるとしている。そして、さらに「時効」の主張すらしている。

 日本の国家としての戦後補償がドイツと比べて著しく不十分なものであることは繰り返し述べてきたが、企業の戦後補償についてはドイツの場合に比べ著しく不十分であるどころか、まったくなされていないのが実情である。日本政府の姿勢がそのまま反映しているのであろう。企業のイメージアップということを考えれば、この戦後補償の問題を積極的に解決したほうが得策だと思われるが、やはりドイツ企業の場合と同様、企業幹部の世代交代がないとこの問題はの解決はむずかしいのかもしれない。
 

----------------------------------
               4 戦後補償の核心と歴史認

2 記念館・記念碑に見る日・独の違い 

 「殉国七士廟」が語るもの
 ひるがえって、日本における戦争記念館はどうであろうか。それは広島の原爆ドームに代表されるように、そこには被害の歴史は刻まれているが、加害の歴史について刻まれているものはほとんどない。そればかりではない。あの戦争を肯定する記念碑等も多々あることに驚く。
 中部地方の小さな町、愛知県蒲郡市、その西のはずれに三ヶ根山という、山というよりはむしろ丘と呼ぶにふさわしい小さな山がある。三ヶ根という名前は、この山が、宝飯郡、額田郡、幡豆郡の3郡にまたがっているところからきている。この三ヶ根山頂の近く(公有地)に「殉国7士廟」なるものがある


 「殉国7士」とは、日本の敗戦後、東京裁判でA級戦犯として裁かれ処刑された東條英機元陸軍大将ら7名のことである。1960年、この地に「殉国7士の墓」が東京裁判の弁護人であった三文字正平らによって建てられた。盛土をし、その周囲を石で固めた広い台座が作られ、その上に「「殉国7士の墓」と刻まれた御影石の大きな墓が建てられている。墓の前には、建立の由来を彫った石碑が建てられ、そこには概要つぎのように書かれていた。
「東條英機元陸軍大将ら7士は、太平洋戦争の敗戦後、東京裁判において『平和に対する罪』という戦争当時は国際法上も認められていなかった事後法により裁かれ処刑された。この裁判は勝者の論理により裁かれたもので公正なものではない。彼は7士は処刑されることによってこの国の礎となった。今日の平和は彼ら7士の犠牲の上に成り立っているものであることを忘れてはならない」
 
実に堂々としたものである。"事後法による裁き"“勝者の論理による裁き”としっかりと理論武装もなされている。それは日本の中央ではなく中部地方の田舎町のはずれにしかこの墓を建立できなかった、という意味においては密かに、しかしその規模という面においては公然と、日本の東アジアに対する侵略の歴史の肯定と、勝者の裁判としての東京裁判批判が展開されている。
 近くには日・独・伊三国同盟締結当時の駐独大使で、東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けた大島浩が、処刑された7名を悼んで詠んだ漢詩を刻んだ石碑も建てられている。

 確かに東京裁判には指摘されるような不十分さはあった。アジアに対する植民地支配を行った欧米列強に、果たして日本の侵略を裁く資格があるのであろうかという根本的な問いもある。また個々のケースについても、例えば元首相・広田弘毅に対する死刑判決については疑問視する人も少ないくない。しかし、だからと言って日本の侵略責任が免責されるものではまったくない。戦争責任を考えるにあたっては、何よりもまず一番被害を受けたアジアからの視点を忘れてはならない。この「殉国七士の墓」には、アジアで2,000万人以上、日本で300万人という死者を出した、あの15年戦争に対する反省は微塵もない。あるのはただ東条英機元陸軍大将ら7名が、日本のために、天皇のために、その身代わりとなって処刑されたという”国土論”とでも呼ぶべき論理しかない。だからこそ、「殉国七士の墓」なのである。

 石碑の前にはさらにそれを守るかのように、俳優の鶴田浩二、横綱北の海、歌手のアイ・ジョージら「有名人」が連名で大きな石碑を建てている。あたり一面には「陸軍○○部隊」「海軍××部隊」といった石碑がずらり。あたかも従者として中央の「殉国七士の墓」を護るかのように配置されている。これらの碑は年々増えつつある。1984年にはこの地の入り口に「殉国七士廟」と書かれた高さ4.7メートル幅、奥行き1,7メートルもある巨大な御影石の門柱が2つ置かれるにいたり、文字通り大「霊園」を構成することになった(この「殉国七士廟」の揮毫者は元首相・岸信介である) 

 沖縄の摩文仁の丘にも似たこの大霊園に佇んで各々の碑文を眺めていて、あることに気付いた。それは姿こそ現していないが、この霊園の中心「殉国七士の墓」の上に君臨するものの存在についてである。「殉国七士の墓」、それに従う数々の石碑、これらが「御楯」となって守っているのは天皇および天皇制にほかならない。東条英機元陸軍大将ら7名のA級戦犯を「国士」とする理論は、当然のこととして彼ら七士の靖国神社への合祀につながり、さらに首相の靖国神社公式参拝へとつながるものである。

 

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「…」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする