真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通州事件 信夫清三郎の記述 NO2

2016年11月28日 | 国際・政治

 冀東防共自治政府は、当時の土肥原奉天特務機関長が、親日政治家・殷汝耕に通州で自治宣言を発表させ発足した冀東防共自治委員会が、後に改組されたものであるといわれます。その冀東防共自治政府の保安隊が一斉に蜂起し、多くの日本人を虐殺したのが「通州事件」ですが、発端は7月27日、関東軍の爆撃機が冀東保安隊幹部訓練所を爆撃し、保安隊員に死傷者を出したことであるといいます。でも、保安隊の蜂起はまた、当時全国に波及しつつあった抗日の気運を受けて、国民政府配下の冀察政務委員会委員長・宋哲元が発した7月29日午前2時の「一斉蜂起」の指示によるものであったともいえるようです。

 日本の配下にあった冀東防共自治政府保安隊も、国民政府とともに抗日戦を展開している第二十九軍に連帯して戦うべく、立ち上がりつつあったところに、保安隊幹部訓練所を日本軍に爆撃されて死傷者を出したため、一気に蜂起に至ったということではないかと思います。
 宋哲元率いる第二十九軍とともに、日本軍と戦おうとする姿勢は、当時の通州の中国人や冀東防共自治政府保安隊員の、日本人密輸業者や麻薬業者対する反発も背景にあって、抗日戦の広がりや激化とともに強まっていったと考えられますが、その根拠となるやり取りが「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)に掲載されています。
 「通州事件」に対する山川均の『支那軍の鬼畜性』題されたエッセイと、それを真っ向から批判した中国の作家、巴金(パキン)の公開状山川先生に』です。このやり取りは、「通州事件」を客観的に理解する上で、とても重要なやり取りであると思います。

 哲学者久野収は、山川の論文について、きびしい言論統制のもとにあった当時の状況をふまえ、「まくらとしては統制を消極的に認めたようなことをいいながら、後半において自分の前論をくつがえして、国策を批判するという、一面既成事実承認、他面既成事実批判という両面的態度」から出たものであろうと弁護しつつも、「日本の読書界をこえて、相手方の中国という側から見れば、山川さんの論文はなんとしても全然弁解の余地はないですね」と言っています。
 「聖断の歴史学」の著者も、
”…通州事件における中国人の行動を「鬼畜以上」と形容したり、中国人を事件に駆り立てた「支那国民政府のそういう危険な政策」を強調したりした言葉は、すべて山川自身のものであり、そのような言葉をつかった文章を中国人がどういう感情をもって読むか、山川は考えていなかった。山川に対する巴金の批判は、山川を含めた日本の社会主義者が日本帝国主義の侵略にたいして「抗日意識」「抗日感情」にめざめつつ自由をもとめてたたかっている中国の民衆に連帯の感情をもつことができないでいることへの警告であった
と指摘しています。社会主義者、山川均でさえ、当時そうした「連帯」の意志を表明することはもちろん、そうした感情をもつこと自体が、極めて難しい状況にあったのだろうと思いますが、久野収が言うように、山川均の『支那軍の鬼畜性』の文章は、まさに「弁解の余地のない」とらえ方をし、表現をしている文章だと思います。

 特に、巴金が「公開状」の中で、通州事件でねらい打ちにされた人々に関して「まして、このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり特務工作をしたりしていた人たちなのです。」という指摘をしていることをふまえれば、もう少し、情勢を見極め、中国人に寄り添ったとらえ方ができなかったものか、と考えさせられます。
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                     第一章 日中戦争   

9 通州事件(六)
 雑誌『中央公論』とならぶ評論雑誌『改造』は、1937年9月号で『北支事変の感想』を特集し、知識人に感想をもとめて13名の寄稿を掲載し、検閲で鈴木茂三郎、水野広徳、鈴木安蔵、杉森孝次郎の四編が削除処分をうけた。山川均は、『支那軍の鬼畜性』と題して通州事件を問題とした。全文つぎのようであった。
 
「通州事件の惨状は、往年の尼港事件〔1918年から1922年にかけて日本がロシア革命を圧殺するために行ったシベリア出兵のなかでニコラエフスクを占領していた日本軍がソビエト・パルチザンの攻撃をうけて捕虜となり、パルチザンが日本の援軍が来襲したと知って日本軍捕虜を日本人居留民とともに殺害した事件〕以上だといわれている。つぎつぎと発表される遭難者の報告は、読む者をして思わず目を蔽わしめるものがある。新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどの残忍性は現さないだろうから。
 こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍の×××(三字伏字)して報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである。
 北支事変の勃発そのものがそうであるように、通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植えつけ、抗日感情を煽った結果であるといわれている。
 文化人を一皮剥けば鬼畜が出る。文化人は文化した鬼畜にすぎない。支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で扇動すると、鼻の穴に針金を通わさせることになる。
 通州事件の残虐性と鬼畜生に戦慄する人々には、むやみに国民感情を排外主義の方向に扇動し刺戟することの危険の前に戦慄せざるをえないだろう。支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているだろうから。」

 山川のエッセイは他のエッセイと同様、8月の上旬に書いたものであろうが、それから一ヶ月半後の9月19日、中国の作家巴金(パキン)は、山川に反論する長文の公開状『山川先生に』を上海で起草した。巴金は、つぎのように書き出した。

 「夜は静まりかえって、すべてのものが暗闇のなかに落ちこんでしまったかのようです。重砲の音がだしぬけに殷々とひびき始めたかと思うと、そのあとから、機関銃を立てつづけに射つ音がひとしきり続いています。わたしの部屋もかすかに振動していますが、このような時に、わたしはあなたの『北支事変の感想』を読んでいるのです。わたしがあなたの文章を読むのは、あなたが中国の友人であると考えるからではなく、あなたがかつて科学的社会主義者であったことを知っているがために、あなたの書かれるものならば、いくらかでもわたしたちに理のあることをみとめていただけるだろうと期待していたからなのです。ところが、いささかの取りつくろうところもなく、あなたのもう一つの顔をさらけ出しました。あなたがいわれるように、<一皮剥ぐ>時がくると、<文化人>もまたたちまち浪人やごろつきと変わりはてるということが本当であることを、私ははじめて知りました。そのことに対して、わたしはただ嫌悪を感じるだけです。」

 巴金は、1904年に四川省成都に生まれ、本名を李芾甘(リフツカン)といったが、五四運動から思想上の影響をうけ、フランスに留学し、バクーニン(巴枯寧)とクロポトキン(克魯泡特金)から一字ずつをとって、「巴金」を筆名とし、作家として青年子女のなかに多くの読者を獲得し、1934年11月から1935年7月まで東京に滞在し、1930年代の日本をみつづけていた。山川均と会ったことはなかったようであるが、山川の著作は何冊か中国語訳となっており、巴金も読んで山川の論策を<科学的社会主義者>が書くものとして注目していたのであろう。そしていま日本の新たな侵略を山川がどう批判しているかという期待をもって読み、逆に山川の<もうひとつの顔>をみた怒りから、山川に対する公開状という形をとって日本に抗議すると同時に世界にうったえる文章を書きはじめた。
 巴金は「わたしたちのがわにいる4億5千万人は、誰もがおなじように、ただひとつのつつましやかな目標を持っているにすぎません。それは、わたしたちは、わたしたちの自由をかち取り、わたしたちの生存を維持していかなければならないということです」と強調し、それが中国人の「最低限度の要求」であると指摘し、通州事件の本質をつぎのようにとらえた。

 「通州事件の起こりも、そのようなところから、一つの解釈をくだすことができます。<皇軍>の威圧とあなたの国の官民の辱めのもとで2年近い屈辱の日々をすごした保安隊が、反乱の籏じるしをかかげ、もはやこれ以上はとても我慢ができないというところまで、ついに悲憤の炎を燃えあがらせたのです。人数も少なく、ろくな武器もない軍人たちが、置かれた状況の劣悪さを顧みるいとまもなく、血と肉とをもってみずからの自由と生存とをかち取るために立ち上がったのです。混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことにまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。血がかれらの眼をふさいでしまうこともありうることです。抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うということも、また避けがたいことです。まして、このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり特務工作をしたりしていた人たちなのです。」

 巴金は、フランス革命における「九月の虐殺」を想起した。1792年9月、内外からの反革命の切迫で危機を感じたコミューヌの闘士たちは、1100名以上の反革命容疑者を殺害した。革命史家アルベール・ソブールは、「庶民の一女生」が「恐怖で慄えながらも、人びとはそれらを正しい行為だとみなしていた。」と語ったことを記録した。

 巴金は、危機に際しての「虐殺」については「どう考えても<残虐性>を持ち出す必要はないわけです」と強調し、山川にたいして「あなたは社会主義者でありながら、あなたの国の新聞記者の尻馬に乗って、悪罵と中傷の言葉をもって、人々の偏狭な愛国心にうったえているのです」と指摘し、さらに論難をつづけた。

 「通州事件を生み出した直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。あなたがたの<皇軍>こそが、みずから抗日教育を普及し、抗日意識を植えつけ、抗日感情を扇動したのです。あなたがたこそが、飛行機を使い、大砲を使い、刀を使って、中国の民衆を教育し、かれらに<抗日>が生存するための第一の手順であることをはっきりさせたのであって、決して中国人が生まれながらにして抗日の感情を持っているわけではありません。」

 巴金は、機銃掃射で上海の非武装の住民を殺傷した「冷静な計画的殺人」が「もっともひどい鬼畜生と残虐性」を発揮したことを指摘し、「通州事件の残虐性はどう見てもこの十分の一にも及ばないのではないでしょうか」と問いつめながら、最後の結論を述べ、勝利は抗日をつらぬく中国のものであり、「日本帝国の崩壊こそ指呼のあいだにある」ことを強調して筆を擱いた。

 巴金の文章は、格調の高いものであり、中国民衆の抗日の意識と感情を正確に表現し、通州事件の意味も情報に制約あるなかで正確にとらえていた。山川の論策は、日本人にとって大きな問題を残した。

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通州事件 信夫清三郎の記述 NO1

2016年11月21日 | 国際・政治

 「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)には、通州事件に至る当時の通州の状況や民衆の意識が(一)から(六)に分けて書かれています。そのなかで、私が見逃すことができないと思うのは、通州事件に関する論考のある研究者の文章で、あまり見にすることのないアヘンやヘロインなど、「麻薬」の製造販売および密輸入の問題が、事件に影響しているという指摘です。

中国民衆の「ぎりぎりの危機感、もはや自分の生存がうばわれるという危機感、そしてそのために最小抵抗線において祖国戦争のための統一戦線を結ばせる契機になったものは、この密輸と麻薬の事件であった」
というような記述があるのです。著者は、ヘロイン製造技師として働いた山内三郎や中国のエッセイスト林語堂などの文章を引いて麻薬の問題を考察した江口圭一氏や竹内好氏の記述をもとに、
 ”通州は、日本帝国主義頽廃現象が集中してあらわれた一点であった。中国民衆の抗日意識が通州という一点において燃えあがったのは、自然の結果であり、宋哲元の指示が抗日運動を通州において激化させたのは、必然の現象であった
と結論づけているのです。また
 ”通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた
とも表現しています。だとすれば、日本人居留民の家や日本人の旅館近水楼の掠奪に、保安隊員のみならず、市民も加わっていたということも頷けるのです。
 通州事件における、中国人の日本人虐殺の残虐性のみに注目するのではなく、そうした背景もふまえなければ、事件を客観的に認識することができないのではないかと思います。
 下記の文章は、すべて「聖断の歴史学」信夫清三郎(勁草書房)からの抜粋ですが、通州事件の真相を知るために、とても重要な文章だと思います。
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                        第一章 日中戦争
    6 通州事件(二)
 風見章は、新聞記者から代議士となり、やがて1937年に近衛内閣の官房長官となるが、1936年の夏、中国の視察旅行にでかけて上海や南京をおとずれた。上海で旧知の波多野乾一に会った彼は、視察の計画について相談した。波多野は外務省で中国共産党の調査を行っている中国研究の権威であり、たまたま出張して上海にきていたのであった。中国をよく知る波多野の助言は的確であった。波多野は「いまここで大評判になっている迷途的羔羊[迷える小羊]という映画劇がある、それを一つ見さえすれば、それでたくさんだ。中国の情勢というが、われわれが知らねばならぬとするところのものは、その劇にあますところなく、収められてある」といって風見を案内した。
 風見は、みての印象をつぎのようにしるした。
 「つれられていってみると、劇場は超満員であり、すでに10日以上もぶっとうしで上映されているのに、毎日このとおり、おすなおすなの盛況だとのことであった。映画は、侵略の爪を華北にのばそうとする日本が、いわゆる漢奸とむすんで、種々の陰謀をめぐらし、とりわけ、華北と満州との境界を利用する武力背景の密輸入によって、中国の民族工業を破壊し、それがため中国の労働者は職場をうしない、生活のみちをうばわれて、ひどい苦涯においこまれてしまうという筋がきであったように覚えている。とにかく中国人にして、ひとたびこの映画をみれば、だれでも、抗日のいきどおりに、むねをもやさずにいられまいと思われる筋のものであった。上映中、日本の手さきたる漢奸が出てくる場面になると、観衆ふんげきの気勢は、ものすごいうなりをたてて、場内を圧し、そのいきおいには、いきづまるおもいであった。もしも、ここに日本人ありたるとわかったなら、ただではすまされまいと、ひそかにおじけをふるわずには、いられなかったほどである。同行した日森虎雄氏のはなしによると、上海で上映のばあいには、日本に気がねして、日本の暴虐をうったえる場面が、ずいぶんカットしてあるのだとのことであった。」
 映画にでてくる「密輸人」は、民族工業を圧迫したものだけでなく、中国人の生活を精神と肉体の両面から破壊するものとしても猛威をふるっていた。その最たるものは、アヘンであった。

 近代史家江口圭一は、日本が戦争中に朝鮮、満州、内蒙古で広範にアヘンを生産し販売した事実を論証しながら、「占領地と植民地でこのように大量のアヘンを生産・販売・使用した戦争は史上ほかに例をみない。」と指摘し「日中戦争はまさに真の意味でアヘン戦争であった」と痛論し、それが中国を「毒化」した意味を次のように論断した。
 「日本のアヘン政策は国際条約と中国の国内法を犯し、中国の禁煙の努力を蹂躙したのである。日本側の唯一の名分は、中国に癮者〔中毒患者〕が存在しており、禁断の苦痛を取り除くためにはアヘンを提供してやらねばならないということであった。しかし癮者を治療しようという努力や施設は中国占領区はほとんど皆無に近く、満州国でもきわめて不十分であった。実際には、癮者のために必要であるということを口実にして、アヘンの吸煙を事実上公認し、野放しにして、アヘン禍を拡大し、中国を毒化したのである。

 重視されなければんらないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外、蔵、陸、海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。」

 山内三郎は、1929年から中国の青島でヘロイン製造の技師として働き、1933年から大連に南満州製薬株式会社を設立して医薬用エーテルの製造に名を借りてヘロインの製造を行ったが、自分の体験をもとにしるした著書『麻薬と戦争、日中戦争の秘密兵器』に冀東防共自治政府が所在する通州と麻薬について書いた。江口圭一が紹介する一節はつぎのようにしるしていた。

 「この 冀東地区こそ、満州、関東州から送り込まれるヘロインなどの密輸基地の観を呈し始めたのである。首都は通州に所在したが、この首都郊外ですら、日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに、麻薬製造が公然と行われたのである。冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった。全満州、関東州は、冀東景気で沸き返った」

 シナ学者竹内好は、1949年に書いた論文『中国のレジスタンス、中国人の抗戦意識と日本人の道徳意識』において江口圭一もとりあげた中国のエッセイスト林語堂の『北京好日』の一節に注目した。
林語堂もまた通州と麻薬を

 「いわゆる<冀東反共>政権-日本の息がかかり、その尻押しで<非武装地帯>に成立したこの政権は、北京の東数マイルにある通州にまでその管轄をひろめた。不安と、迫りくる破局の意識が、人々の心に食い入った。華北は、中国でもなく、日本でもなかった。国民政府から独立してもいず、その完全な支配を受けてもいなかった。そしてその冀東偽政権は、日本と朝鮮の密輸入業者、麻薬販売人、浪人たちにとっては楽園だった。長城をすでに乗り越えた怒濤は、毒物と密輸品の無数の支流となって、北京はもとより、南は山東、西は山西の東南部まで、日本が<東亜新秩序>と呼んでいるものの前景気をもたらしながら殺到していた」

 竹内は「これは小説の筋の見取り図であるとともに、1935年から36年にかけての、中国民衆の危機感を現在的にあらわしている」と指摘し、「その焦点は、密輸と麻薬である」と強調し、中国民衆の「ぎりぎりの危機感、もはや自分の生存がうばわれるという危機感、そしてそのために最小抵抗線において祖国戦争のための統一戦線を結ばせる契機になったものは、この密輸と麻薬の事件であった」と総括し、そのような危機感を中国民衆にあたえた日本の戦争責任についてつぎのように論じた。

 「林語堂の小説の四十一章と四十二章は、ほとんど密輸と麻薬のことに費やされているが、それを読むと、日本人は本来的に道徳感覚に欠けていて、世界市民たる資格がない、という作者の判断を、日本人である私も否定できないような印象を受ける。……もしそれが事実なら、資本の後退性だけでは説明のつかぬことで、倫理感覚の欠如という民族の深い根本の罪悪意識に触れてくる。……一歩進めていえば、今度の戦争が帝国主義の侵略戦争であったというのも、ほんとうは思いあがった判断なので、じつは近代以前の掠奪戦争であったのではないか、少なくとも、帝国主義的に偽装された原始的掠奪という、二重性格的な、特殊な日本型ではないだろうか。」

 通州は、日本帝国主義の頽廃現象が集中してあらわれた一点であった。中国民衆の抗日意識が通州という一点において燃え上がったのは、自然の結果であり、宋哲元の指示が抗日運動を通州において激化させたのは、必然の現象であった。
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    7 通州事件(三) 
 通州に駐屯していた日本の特務機関(陸軍の諜報工作機関)は、1937年7月26日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、通州門外の兵営に駐屯していた中国第二十九軍の部隊にたいし、「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」という理由で27日午前三時までに武装解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。
 しかし、第二十九軍はうごこうともしなかった。日本軍は、27日午前4時から攻撃を開始し、午前11時ごろまでに第二十九軍を掃蕩した。通州門外に中国軍隊はいなくなった。ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二十九軍の兵士と誤認して爆撃し、数名の保安隊員を死傷させた。特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し賠償に誠意をつくした。北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させることはしなかったのである」としるしたが、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激のあまりいよいよ抗日線の態度を明らかにした」と述べた。

 7月29日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向かっていて通州の守備は手薄であった。まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。日本軍は完全に虚をつかれた。留守をまもる守備隊の数は、寄せ集めて110名ばかりだった。保安隊の攻撃は、通州守備隊
と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と特務機関長細木繁中佐は戦死した。

 守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。死体には鳥が群がった。性別のわからない死体もあり、新聞は「鬼畜の行為」とつたえた。陸軍省が調べた犠牲者の数は、8月5日現在で発見できたもの184名、男93名、女57名、性別不明34名であり、生き残って保護をうけたものの数は、134名、その内訳は、「内地人」77名と「半島人」(朝鮮人)57名であった。当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人104名と朝鮮人108名であり、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。戦史家児島襄は、「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。7月30日、守備隊に増援部隊がくわわり、事件はおさまった
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    8 通州事件(四)
 通州事件は、飼い犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。松村透逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、蘆溝橋事件が起こるとともに天津に出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした-
 その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は、幕僚の首脳者が集まっている席上に呼ばれて、<この事件は、新聞にでないようにしてくれ>との相談をうけた。
 「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇が、わからぬ筈はない。もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますョ」
 「君はわざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。それ位の事が出来ないのか」
 「新聞班から来たから出来ないのだ。この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」
 あとは、売言葉に買言葉で激論となった。私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし議論はわかった。事ここに至っては、かくすなどと姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御託しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。<では発表します>と言って、私が部屋をでようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
 - かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に「地獄絵巻」を書き立てて日本の読者を煽りたてた。

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通州事件 安藤利男・同盟通信記者の記述

2016年11月03日 | 国際・政治

 通州事件当時、通州には旅館とも割烹ともつかぬ日本人経営の宿屋(近水楼)があったといいます。その宿屋「近水楼」では、十数名の日本人の女中が働いており、通州に来る日本人実業家や軍人が利用する唯一の場所だったとのことです。安藤利男・同盟通信記者は、その宿屋に宿泊中、中国人部隊の襲撃を受け、他の日本人とともに銃殺場へ連行されました。でも、たまたま銃殺の際、城壁の頂上に一番近い場所に位置したために、四、五十名の兵隊の銃が一斉に火を吹く直前に城壁のふちに手をかけ、壁面にそって滑り落ちるようにして、銃弾に追われながらも逃げ延びることができたといいます。

 その安藤記者が、下記に抜粋した文章のなかで、通州事件の原因の第一が、日本軍による「冀東保安隊」の爆撃であるとはっきり書いています。「冀東保安隊」は、日本の傀儡政権といわれる冀東防共自治政府中国人部隊です。その冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた」という事実や日本軍の爆撃にびっくりした冀東兵営は「さらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落とされたのだ」ということも明らかにしています。だから、この爆撃事件が「冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与え」、日本人襲撃に至ったというわけです。
 
 通州事件で九死に一生を得た安藤記者が、下記に抜粋した文章の最後に、

通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである

と書いていることを、噛みしめる必要があると思います。通州事件における中国人の残虐性ばかりを強調して、自らを省みない主張では、日中の相互理解や関係改善はできないと思うのです。

 最近、「なでしこアクション」(山本優美子代表)など民間団体が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産への2017年登録を目指し、「通州事件」の資料その他を申請したとのことですが、中国の申請した「南京大虐殺の記録」が、世界記憶遺産に登録されたことに対する反発のようで、抵抗を感じます。

 最近、中国だけではなく、国際通信社のロイターやカタールの衛星放送「アル・ジャジーラ」なども、日本政府が今年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の分担金約38億5千万円の支払いを「保留」しているという事実を伝える中で、中国の主張を取り上げ、「日本と中国の見方に食い違いがあるにも関わらず登録が強行されたことに対し、日本政府は国連機関に資金提供をやめると脅迫した」と報道しているのです。
 英紙ガーディアンも”Japan threatens to halt Unesco funding over Nanjing massacre listing”の見出しで、“We are considering all measures, including suspension of our funding contributions”to Unesco, he said.と、菅官房長官の分担金「保留」の発表を取り上げています。threaten=脅迫する、という言葉を使っています。
 国際世論の、こうした厳しい見方や批判的な反応があるなかで、「通州事件」の資料などを申請するのは、いかがなものかと思います。冷静な対応が必要ではないでしょうか。

 安藤記者の下記の文章は、「『文藝春秋』にみる昭和史 第一巻」文藝春秋編(文藝春秋)から抜粋しました。

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                    通州の日本人大虐殺
                                                 安藤利男
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 さて、それではこの惨劇を起こした通州事件の原因、真相は何であろう。
 友軍の間柄であった冀東保安隊は一夜にして寝返り、ところもあろうに一番安全地帯だと信じられていた通州に、日本人虐殺事件を起こしたのだ。そこで当時おきていた数多の前後の事情のうち、第一にあげなければならないものは、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件である。これが日本軍の手でやられたということだから、驚いたものである。これが少なくとも直接の原因だったといってよい。事件前々日の27日日本軍が通州の宋哲元軍兵舎を攻撃した。その時一機の日本軍飛行機は、どうしたものか、宋哲元兵営でなく、冀東兵営を爆撃した。冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた。
 びっくりした冀東兵営はさらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落とされたのだ。死傷者も出た。憤激しきった保安隊幹部がすぐに当時の陸軍特務機関長だった細木中佐に抗議したのはいうまでもない。あわてたのは同中佐と殷汝耕冀東政務長官である。保安隊の幹部連はそのころにはもう、いや気がさしてちりぢりに飛び出していたので殷長官がこれを一カ所に呼び集めるのに一苦労だったという。二人は百方言葉を尽くして釈明につとめたが、結局日本軍の誤爆によるものというその一本槍のほか、説明のしようもないできごとだった。あとで聞いたところでは、この日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなく、朝鮮から飛んで来たものだともいわれた。地上戦闘と飛行機の連絡がまずかったものか、できなかったものか、それとも冀東兵営と知りながら狙ったものなのか、その辺のところまで来ると当時の状況については、ついにその後も分からずじまいにされている。

 ともかくこの爆撃事件が冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与えたことは事実のようだ。この爆撃事件がなかったならば、通州事件の惨劇は生まれなかったということと、この爆撃事件を起こしたものが通州事件の張本人だという人もいる。
 冀東政府の主人公殷汝耕長官は保安隊反乱の渦中にいてどうしていたか。彼は前夜深更けまで細木特務機関長と政府建物長官室であったのち、間もなく29日午前2時頃反乱部隊の侵入を受けて、そのまま行動の自由を失った。細木中佐は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死している。特務機関副官、甲斐少佐は自分の事務所前で多数の反乱兵ときりむすび白鉢巻き姿で仆れた。
 反乱の主力部隊は保安隊第一、第二総隊であった。城内を荒らしまくった反乱軍は殷長官を引き立てて通州城外へ出た。行き先は北平であった。反乱軍は北平にはまだ宋哲元軍がいるものと判断したらしく、殷長官を捕り物にして、宋哲元軍に引きわたし、同軍に合流をはかろうとしたのらしい。だが宋哲元は日本軍の28日正午期限の撤退要求のため29日未明には北平を出て保定に向かっているので、反乱軍が安定門ついた頃にはもう北平にはいなかった。反乱軍は一たん城壁の外側にそって門頭溝へ向かったが、このへんで日本軍にぶつかり攻撃をうけ部隊はこの戦闘でいくつかに分散した。
 そこで 殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官に電話をかけ、救出された。長官を手放した保安隊は附近をうろうろしているうちに間もなく同じ城門外にあった日本人の手で、おとなしく武装解除された。それを見ると全部が全部悪党ばかりではなさそうなところもある。
 通州事件の責任者はいったい誰なのか、日本軍は当然その問題にぶつかった。そのころ天津軍は今井少佐に対し、殷氏を天津軍に引き渡すように要求していた。少佐の気持ちは反対だったようだ。しかし結局はそうなっていった。
  殷氏の体は六国飯店から日本大使館のとなりの日本軍兵営の中にある憲兵隊の一室に移され、ここでしばらく不自由な日を送ると、やがて天津へ護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。北平の憲兵隊にいたとき、殷氏は、関東軍の板垣陸軍参謀長、東京の近衛公へ通州事件がどうしておきたか、「その経緯をしたためた手紙を書いて、これを殷氏夫人、(日本人)たみえ夫人の実弟にあたる井上氏に託し新京と東京とへ、飛ぶように依頼している。だが井上氏もまたある日、憲兵隊に足をいれたまま行動の自由を奪われてしまった。そこで殷氏の手紙も井上氏のポケットから、憲兵隊にとりあげられてしまった。
 
 天津憲兵隊の訊問はその年の暮れまで続いた。半年近い獄生活ののち12月27日、当時、訊問に当たった太田憲兵中佐は本部二階の一室に殷氏と井上氏、そのほか三名の冀東政府中国人職員の五名を前に、
 「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。この被告生活のうち、それでもただ一つ、温かい場面があった。たみえ夫人は、通州虐殺事件の時には、天津にいて難をまぬがれたが、その後、重病になり、もう絶望という時期があった。同じ天津にあっても、病院にねて、動きもとれぬ間、太田中佐は殷氏をソッと連れ出して瀕死のたみえ夫人の病床におくりこんだ。たみえ夫人は奇蹟のように、その後恢復にむかい、18年後の今日、殷氏は南京の中山陵附近の墓地に眠り、たみえ夫人は、日本に余生をおくっている。
 通州事件後政界から姿を消していった殷氏は、北平で終戦の年の12月5日の夜、国民政府の要人載笠氏の招きで宴会に出たままその場で捕らわれ、多くの当時の親日政客と同じように、北平の北新橋監獄に送られる身となった。そして、民国36年(昭和23年)12月1日中国の戦犯として南京で銃殺され、59年の生涯を閉じた。たみえ夫人はちょうどその一年前、北平から南京へとび、獄舎に10日ほど物を運び、つきぬ話をしてきた。それが殷氏との最後であった。
 
 殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陳述のうち、冀東関係の部分に「自分が作った冀東政府は当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者宋哲元の諒解を得ていた」と記録されている。獄中ではもっぱら写経をこととし「十年回顧録」も書いた。長杉皮靴のこの文人の、仏弟子となり最期は悠々としてりっぱなものだったことは、その忠僕、張春根さんが、墓石を据えたあと、北京のたみえ夫人に、伝えた話をきけば明らかでである。
 夫人には南京での会見の折、日華の提携の必要をあくまで説き、最後の死刑場では、
 「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と刑吏に語り、ご苦労だった!といって悠然と世を去って行ったということである。
 張春根さんが北平のたみえ夫人にとどけた、罫紙3枚の遺書と最後の写真とは、たみえ夫人の胸にしっかりとだかれているが、夫人は「主人は刑場で遺書を書きおわってから、春根はまだ来ぬか、まだか……と待ちつづけて、ついに銃殺の時刻に、間にあわず、飛びこんだ時はこときれていた。この春根の主人につくしてくれた話を、日本の人に書いて知らせてください」とせきこむようにいっていた。
 春根さんというのは殷氏の運転手で、通州事件で、彼の主人が苦境におちいった折も、とうてい人にはできぬ働きをしている。
 殷氏の遺骸を、自分の手で葬るまで、30年のながい間、忠勤をはげんだこのひたむきな人も、中共が入ってきてからは、戦犯につくしたというかどで、激しい追及の眼にたえきれず、とうとう狂い、同じ南京で自殺をとげた。悲惨な話である。これも通州事件の余話の一つ。いつの時代でも、恐ろしいのは狂った政策である。
 通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持ちや立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。
(30・8)三十五大事件

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