真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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選択的夫婦別姓制度導入反対論と「国体の本義」と性別役割分業論

2021年04月27日 | 国際・政治

 平成22年、内閣総理大臣や衆議院議長、参議院議長、法務大臣に提出された選択的夫婦別姓制度の法制化に反対する宮崎県西都市議会の意見書に、 
いま、かかる「夫婦別姓制」の導入を許せば、家族の一体感を損ない、子供に与える精神的影響もはかり知れず、また、事実婚を増加させ、離婚の増加や婚姻制度の崩壊をもたらすおそれが多分にある。
 とか、
そもそも、婚姻に際し氏を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化しており、婚姻に際し氏を変更するも、関係者知人に告知することにより何の問題も生じないことである。また、氏を変えることにより自己喪失感を覚えるというような意見もあるが、それよりも結婚に際し同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦のほうが、圧倒的多数であり、極めて一般的な普通の感覚である。すなわち、夫婦同姓制度は、普通の日本人にとって極めて自然な制度である。もし、別姓が導入され、別姓世代が数代にわたって続けば家系は確実に混乱して、日本のよき伝統である戸籍制度、家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、ひいては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすものである。
 と書かれています。でも、選択的夫婦別姓制度導入に反対する人たちの本当の思いは、もっと深いところにあると、私は思います。

 上記の意見書のような理由がほとんど根拠のないものであることは、いろいろ指摘されていますし、選択的夫婦別姓制度導入の要求は、すべての夫婦に別姓を義務づけることを求めているのではないのです。
 また、かつて、日本政府が”世界中で夫婦同氏を義務付けている国は、日本以外に知らない”と答弁しているように、世界で例がないといわれています。
 さらに、女子差別撤廃条約に関わる国際機関から、日本は3回も、夫婦同氏を定めた民法第750条の規定を改定すべきとの勧告を受けているといいます。そして、そのような日本の姿勢が、国際的な活動を行っている個々の日本企業への信頼をも損なうことにもなっているといわれているのです。
 日本は国際人権規約(自由権規約)や女性差別撤廃条約を批准していますが、国際人権規約には、”すべての人民は、自決の権利を有する”とあります。別姓を選択して生きる権利があるということではないかと思います。また、夫婦別姓の選択は、日本国憲法第十三条の幸福追求権にもかかわると思います。にもかかわらず、自民党政権中枢は、地方議会に圧力をかけてまで、頑なに選択的夫婦別姓制度の導入に反対しています。何故でしょうか。

 私は、それが敗戦後の民主化政策で公職を追放されたかつての戦争指導層が、国内外の情勢の変化によって、追放を解除され、復帰したことと深く関わっていると思っています。かつての戦争指導層やその考え方を受け継いだ人の多くは、戦後の日本国憲法に基づく考え方を、「自虐史観」と称して否定します。また、戦時中の南京大虐殺や従軍慰安婦問題その他の野蛮な事実を明らかにした記録・手記・研究書や、そうしたものに基づく教育を「東京裁判史観」などといって否定し、日本はアジアを解放するために戦ったかのような主張をしたりします。自らの戦争指導を正当化したいのだろうと思います。かつて戦争を指導した人たちは、戦後の日本を受け入れることが、自らの戦争指導が過ちであったことを認めることになるからだと思うのです。自らが戦争犯罪者であることを認めるようなことはできないということで、戦前・戦中の考え方を維持しようとするのだと思います。現在は、かつて戦争を指導し人の子や孫がそれを受け継いであるのだろうと思いますが…。

 だから、夫婦同姓(同氏)を法的に義務づけた世界に例ない民法を改めようとしない姿勢は、「伝統的家族観」という戦前の考え方を維持しようとしているからだろうと思います。
 下記のような資料は、日本の戦争を支えた「国体」観念が、明治時代に始まった日本の家族制度抜きには考えられないことを示していると思います。

 先ず資料1ですが、これは1937年に文部省が国民教育用に編纂した『国体の本義』です。家を支柱とする「国体」の観念が、しっかり示されています。かつての戦争指導層や安倍前総理が取り戻したいのは、この「国体」ではないかと、私は思います。

 資料2は、「家族主義の教育」新見吉治(クレス出版)から個人主義家族主義の違いなどを論じた「家長権を論ず」や”女子は須らく家庭の人たるべきである”ということを論じた「女権」から、その一部を抜萃しました。ナチスの政策から学び、その考え方を共有しようとしたもので、戦前・戦中の日本の指導層の考え方が分かるのではないかと思います。

それは、政治的指導層にとって都合のよい前近代的な性別役割分業論です。

 資料3は、イギリスのサッチャー元首相の政策における「性別役割分業」の考え方を取り上げ、日本も同じような考え方で進むべきだとする文章を「国民の思想」八木秀次(産経新聞社)から、抜萃しました。その考え方は、資料2の、新見吉治教授と基本的には、同じだと思います。問題は、敗戦後もなお、八木教授が、”基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認”するとした国際連合憲章や、個人の尊重および法の下の平等を定めた日本国憲法に反するような生物学的性別役割分業論に固執し、女性の社会進出を抑える「伝統的な家庭」の強化を主張していることだと思います。こうした考え方の人物が、日本会議や日本教育再生機構を通じて、政権中枢と関わっていることを考えれば、世界経済フォーラム(World Economic Forum)が発表した世界各国と日本の男女格差(ジェンダーギャップ)指数ランキングで、日本が120位であることも不思議ではないと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  第一 大日本国体
一、肇国 
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
 我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる…
 そして家の生活における祖孫一体の徳義については次の如くである。
 我国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始まり、永遠に子孫によって継続せられる。現時の家の生活は、過去と未来をつなぐものであって、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であって、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在未来の家門の恥辱と考へられる。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                一 家族制度論
二 家長権を論ず
 ・・・ 
 夫婦の関係が個人主義に近づいてきたことの著しき例は特有財産の規定である。イギリス、アメリカ合衆国の如きは夫婦財産を異にし、妻は自分名義の財産を管理し、自分の所得を勝手に処分することが出来るといふことである。斯うなれば全くの個人制度であるが、ドイツに於ては特別の約束が無ければ夫は妻の特有財産を管理して利益を収むる権を有するよしである。フランスに於ては妻は全く夫の後見の下に立ち、夫を待たなければ法律行為をなすことを得ず、妻の特有財産は不動産に限られ、妻の所得は夫の有に帰するといふことである。されば西洋といっても一概に個人主義が出来て居ると思ふのは間違ひである。
 我国にに於ても妻の特有財産が認められて居る。けれども是は決して近世西洋思想輸入の結果ではない。大宝令の規定に於て既に妻の特有財産が認めれれて居たのであった。そしてその管理権は今日も尚ほ夫の手にある。
 それで吾輩が戸主権廃止を主張するは、法律上の戸主の家長権廃止の意味であって、子に対する親権、妻に対する夫権を没却するの意味ではない。吾輩は狭義の戸主即ち家庭の長の存在を認むるものである。
 我国の民法では、女が戸主となりて夫を家族とするを得るやうになってゐる。此れは我国に於ては家系の存続といふことを尊重して、一人娘に養子した場合、其養子に家督を相続せしめて、全財産を勝手に処分せしむることを防ぐ意志から起る変態である。吾輩は之を以て善良なる風俗と認めない。女は夫に従はねばならぬといふが、古来の道徳教訓である。有夫女戸主といふものは排斥せねばならぬと思ふ。
 有夫の女戸主は廃すべしと思ふが、未亡人若しくは未婚の独立したる女が、一戸を構へ独立の生計を営むことは差支えない。西洋に於て男女同権の唱へられ女子の参政権要求あるは、要するに、独立の女子が納税の義務を負ふに拘らず、参政権なきを不公平と考ふるに基いて居る。併し男女の独身生活といふは社会の変態である。女子が配偶者を得て、家庭を組織すれば、夫は出でて金儲けをなし、妻は内に在りて家政を料理するが、是が男女両性の相違に原く自然の分業で、女子が結婚せず、独立して男子と一様に生存競争をやるといふは間違った話である。ドイツの経済学者ビュッヘル氏は男女の自由競争を放任して置くと、労銀の安い女子が次第に男子の職業を奪って遂には夫が内に居て勝手働きや子供の世話をなし、妻が外で働いて夫や子を養はねばならぬやうになると警告して居る。良妻賢母主義は天下の公道ではあるまいか。夫婦共稼ぎの場合、若くは夫が不幸にして廃疾となり、妻の細腕にて生計を立つる場合に、妻が同権若しくは同等以上の権利を主張せんとすることも起らうが、此は善良なる風俗に背いて居るといふ観念を永く滅却せぬやうにしたい。個人主義と家族主義との分るゝ処は、妻の地位にあるのである。

ーーー

             十一 ドイツの国民運動と婦人問題
                一 ドイツ国民運動
二 女権問題
 女権の問題といふは米国の独立、及びフランス革命に於ける人種宣言に萌芽を有する女子の参政権要求、女子の解放問題である。男女の平等権は世界大戦後に至り、始めて英、米、独を初め新興の諸国に実現されることとなった。我が国の如きも、尚早論のために未だ女権が抑えられて居るが、女権を否定する反対論は殆んどないやうな有様である。この女権論なるものは自由平等の思想に根拠をもちて性的区別を認めぬものであるが、ヒットラーの国民運動は性的区別に立脚して、断然男女の同権を認めない。男女は各々その性に従って国家に対する特殊の義務を負はねばならぬ。男子と女子とはその国家に盡すべき任務に於て自ら異なるところがある。女子の任務は家を齊へ子女を教養するにある。女子は須らく家庭の人たるべきである。男女が力を協はせてドイツを列国の奴隷たる境遇から救ひ出さねばならぬ。労働者が資本家に対する階級意識から出発して、資本家に対する闘争団体として労働組合を組織し、外国の労働者と手を執って自国の資本家に反抗するが如きは、非国家的所行だあると同様に、ドイツの女権運動者が外国の女権運動者と手を執り口を合はせて、自国の男子に対して反抗したり、解放を叫ぶは非国家的である。かうした女権論は古くさい。新女権論は女子の個人としての自由の解放を後にして、先づ国民全体の自由解放を絶叫するところの団体主義でなければならぬ。女権もなければ男権もない。男女相扶けて自己の利益よりも協同の利益を先きにといふ党の原則に向って精進するのみだ。古い女権論者から、ナチスは女子を国家のために子を産む道具と考へて居るといはれても、ナチスはそれを当然のことと考へ、ドイツ国民の存続のため、その勃興のためには産児制限などは以ての外だといきまいて居る。従ってその政策は結婚多産を奨励するにある。主婦としての女子の任務は国家更生に大なる力を有つ。家族の衣服の手入れを怠らず、靴下の綻びの大きくならぬ中に修理するなどで節約し得た金は、たとひ小額であってもこれを全ドイツ国全家庭に亘って一年間積って見ると、その総額は驚くべき巨額に上るものである。女子は消費者として節約によって利得を計るべき経済上の任務を有する。夫の幇助者としての妻の人格を認めることは婦人問題として大切であるが、経済上の独立といふことを女子の解放と心得るは間違ひであるとする。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第一章 教育正常化なくして日本の再生はない
 伝統的な家族の強化と国民道徳の再生
 ・・・
 「伝統的な家族」を強化する必要から、サッチャー女史はまた性別役割分業を説き、専業主婦の役割を重視した。生物学的に決定された女性の役割は家事・育児であり、女性は家庭の中で主婦として母親としての役割が求められ、家庭内にとどまることが美徳である、とした。間違っても今日のわが国のように、配偶者特別控除の廃止などを打ち出すことはなかった。もちろん彼女自身を含めて働く女性、とくにキャリアを持つ女性が存在することも認めていた。しかし他の女性の大半は外で働くことを押し付けられてはならず、働く女性も出産・育児・家事という女性の役割をおろそかにしてはならない、と説いた。
 彼女自身、主婦であることに誇りを持ち、自分は国家という「家計」を担っているのだと主張した。一家の主婦は収入と支出を均衡させるものだし、倹約精神を持っている。サッチャー女史は自身の経済政策・社会政策の正当性の根拠を、このような健全な主婦像に求めた。
 主婦が家庭にとどまることによって、育児は保育所の役割ではなく、家庭の役割と認識される。それにより、実の親による濃密で健康な育児が可能となり、公共支出の削減にもつながる。主婦が余剰の時間を地域における文化活動や老人介護施設などでのボランティア活動に充ててくれれば、福祉などの公共支出も減少する。つまり家庭の主婦を介して国家から家庭、地域社会へと役割が移動する。国家が本当に担うべき役割と家庭や地域社会が担うべき役割を区別して、家庭や地域社会が担うに値する役割は元に戻す。こうすることで小さな政府も実現できる、と考えたのである。しかし目的はあくまで「伝統的な家庭」の強化であった。
 
 サッチャー女史は国民道徳を再生させるに当たって「ビクトリア朝の価値観」、彼女の言葉でいえば「ビクトリア朝の美徳」を称賛した。それは福祉依存症に陥っていた国民に、ビクトリア朝時代にはごく当たり前だった健全な自助、勤勉、努力、勤労などの精神に目覚めさせ、自立を促すためである。
 世の中には援助に値する貧困と値しない貧困とがあり、両者の区別が必要であるとして、両者に同じように援助してきた福祉政策の間違いを訴えた。「援助の目的はただ単に人々に半端な人生を送ることを許すことにあるのではなく、自らの規律を回復させ自尊心をも取り戻させることにある」(同右)と、言葉の正しい意味で国民に”人間としての尊厳”を回復させようとした。また学校と家庭を国民道徳の”再生装置”と位置付け、その正常化と強化の政策を打ち出したのだった。
 サッチャー女史はこのように教育、家庭、道徳を通じて国民の精神的な覚醒を、経済政策と並行して、いや、経済政策に先立って行った。それによってイギリスは、国民をダメにする「福祉国家」から国民の質を向上させる「品質保証国家」へと転換し、国民は活力を取り戻して、経済も再生していった。

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選択的夫婦別姓問題と伝統的家族観

2021年04月24日 | 国際・政治

 先日(4月21日)の朝日新聞に、選択的夫婦別姓問題にかかわる裁判の記事が出ていました。
 それは、1997年米で婚姻し、それぞれの姓で約二十年暮らしてきた夫婦が、2018年に東京都千代田区に別姓で婚姻届を出したら受理されなかったので、別姓のまま婚姻関係にあることを国に求めた訴訟に関するものです。
 米国で二十年間それぞれそれぞれの姓で活動して来たのに、日本に帰って来たら、どちらかが姓を変えなければ、婚姻関係が法的に認められなくなるということは、夫婦別姓での婚姻関係を戸籍に記載できる規定がない日本の戸籍法には不備があるなどと訴えていたのですが、東京地裁は夫婦の請求を退けたということです。日本国憲法を軽視する判断ではないかと思いました。
 
 明治の民法は、第746条で”戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス”と定め、第788条で”妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル”と定めて、結婚すれば女性が氏を変えることを法的に義務づけていました。戦後 日本では、その明治民法を改正して、第750条で”夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する”としました。なぜ、このとき夫婦別姓の条文にしなかったのかは、私にはよく分かりません。戦前の家族制度の温存のために、「一家一氏一籍」の原則を維持しようとしたのか、それとも、”夫又は妻の氏”と選べるようにすることによって、公平性が保たれると考え、現在のように、女性の96%以上が氏を変えるという現実を想定しなかったのか。
 いずれにしても、夫婦別姓(別氏)の選択肢が追加されなければ、上記の夫婦のような問題は解決しないと思います。
 また、民法750条は、戦後の日本国憲法第13条”すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする”や、第24条”婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない”や、さらに、戦後改正された民法第2条”この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない”と矛盾するものを含んでいると思います。
 だから、裁判所は、法の矛盾を考慮して、夫婦の訴えを受け入れ、民法第50条の改正を提案することは可能だったのではないかと思います。
 でも、日本ではいまだ自民党政権中枢が、”夫婦同姓は、日本の伝統的な家族観に基づいており、社会に広く受け入れられている。制度を変える必要はない”などと主張しているので、裁判所も無視できないのだろうと私は思います。自民党政権中枢が、日本の伝統的な家族観を守ろうとしていることは、先だって自民党の国会議員有志50人が連名で、選択的夫婦別姓制度導入に反対する文書を地方議員に送っていた問題でも明らかだと思います。選択的夫婦別姓制度導入を認めれば、日本国憲法の考え方が一層深まり、伝統的家族観が失われて、”日本をとりもどす”ことが難しくなるということではないかと思います。
 でも、日本の伝統的家族観を守ろうとする人たちは、その伝統的家族観について、詳しくは語りません。私は、それを語ると憲法違反を指摘され、政権の座が危うくなる恐れがあるからではないかと想像しています。

 だからこそ、この「伝統的家族観」なるものをしっかりとらえようと、戦前の文献にも当ったりしているのですが、この「伝統的家族観」は、実は、明治以前の政治的支配層の血縁・系譜重視の伝統が、明治政府の神話的国体観によって一般庶民に広げられ、政治的意図をもってもたらされた家族観で、皇国日本の忠孝を道徳の柱とする思想と一体のものであったと思います。
  
 明治民法の考え方を主導した穂積八束博士は、”我千古ノ国体ハ家制ニ則ル、家ヲ大ニスレハ国ヲ成シ国ヲ小ニスレハ家ヲナス”と述べています。そして、国家を統治する天皇は、皇統に属する男系の男子がこれを継承し、家族を支配し統率する戸主は、原則として長男が継承するというかたちで、皇祖皇宗や祖先崇拝を重視するのが、「伝統的家族観」であり、「家族国家観」といわれるものなのだと思います。だから、その考え方は、”個人の尊厳と両性の本質的平等”を規定した日本国憲法や夫婦別姓の考え方とは相容れないものがあると思います。
 
 「家族主義の教育」新見吉治著(東京育芳社)を読むと 「伝統的家族観」がどういうものであるかがわかるように思います。新見吉治博士(広島文理科大学教授文学博士)は、同書の「」や「緒言」、「家族制度の根本義」に、下記のように書いています。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 家族主義の教育
  序
 本書題して家族主義の教育といふ。著者が温故知新の史僻から家族制度の歴史を検討し、教育の向ふべきところを考究した小篇を輯(アツ)めたもので、家族生活の改善に関心を有つ応用史学の一端たるに過ぎない。
 個人主義に行き詰った西洋諸国の中、イタリアやドイツに於ては、家族を典型とする全体主義を唱へ滅私奉公を以て国家改造のための国民教育指導精神とするに至った。我が国家族生活の現状は、よし西洋個人主義の影響を受けたものが少なくないとはいへ、なほこの新思想の先駆をなし、実践の範を垂るゝものが多い。とくに今次の支那事変に際し、外征将兵の忠勇義烈、銃後国民の同心協力、とりどりの美談は、何れも伝統的家族主義思想の昂揚発揮によりて織り成されてゐることを見聞する時、我等は永くこの尊き伝統思想の維持培養に努めなければならぬことを痛感するのである。
                   昭和十二年十月二十四日
                        国威発揚広島県民大会に参列して
                                  新見吉治  識
ーーー
                  家族主義の教育
                              文学博士 新見吉治 著
                 (一)家族制度
   緒言
 近頃西洋個人主義の思想が我国に拡がり、家族制度が破壊せられんとする形勢になったといふので、学者教育者はしきりに家族制度維持を説く。又近くは(大正三年)帝国議会に於て相続税法改正問題に就いて家族制度維持の声が盛んであった。家族制度維持の論拠は我国体が族父的君主国であるから、
家族制度の破壊は国体の破壊を意味し、国家を危うくするものである、といふにある。而して家族制度維持のためには、祖先崇拝の習俗を尊重するべきであると説かれて居る。たとひ個人主義に利があることを認めて居る人でも、極端に個人主義を唱ふるは少なく、家族制度に個人主義を加味せよといふ折衷説に傾いて居るものが多い。
 吾輩は亦家族主義者である。併し同じく家族制度といふても、其内容は時代により変遷すべきであると信ずる。然るに如何なる形の家族制度が我国の将来に適応すべきか、といふことについては、世論が未だに定まって居ないやうに見える。吾輩は法律学にも暗く、倫理学、教育学にも疎いものであるが、国家社会の組織の上にも亦個人の生活の上にも、関係の大なる問題の事であるから、敢て、常識論を試みることを無益でないと信じ、此一篇を草した次第である。冀くは識者の是正を賜わらんことを。
ーーー      
               (九)家族制度の根本義
 家族制度は段々崩壊すべきといふ論がある。家族が戸主の下に共同生活を営むことは、今日の経済生活では出来なくなった。天人の多い官公吏や、会社員は、どうしても戸主や他の家族員と同居することが出来ず、別居しなければならぬことが起る。別居の家族には世帯主といふがあり、法律上にも独立が認められて来た。従って家族制度を称して封建制度の遺風であるいふ人があるがそれは誤った説で、家族同居といふことは、封建制度とは関係のないことである。江戸幕府は大名の妻子を江戸に置いて人質同様にし、諸侯には江戸と領地とに變る變る在住せしめて諸侯及び家中の藩士の夫婦同棲を妨げたではないか。夫婦は同棲すべきものであるが、配偶者の職業その他の関係から永年同棲の出来ぬ場合がある。この場合夫婦関係は解けてしまうものかどうか。アメリカ合衆国では一年間同棲せぬ場合には遺棄の理由で離縁の訴訟を提出することを認めて居る州もある様子であるが、玉椿の八千代までもと約束した結婚当時の心に變りなき以上、たとひ同棲しなくとも、夫婦の縁は二世も三世も切れるものではない。況んや血縁の親子兄弟の関係が別居によって切れるものと思ふは大なる間違いである。
 我が国の家族制度の特質の一は血縁のつゞきを重んずるといふ点である。決して大家族の同居といふことを意味しては居ない。大家族の同居といふよりも血縁を忘れないこと同族のよしみを忘れないといふ心理が、我が家族制度の根本義である。親子夫婦血縁の親疎によって家族団結となり国民の団結となる。家に家長あり氏に氏の上あり、国に君主がある。御歴代の聖天子は義に於ては君臣、情に於ては父子といふ思召で、人民を治め玉ふが、我が国体の精華なる点である。
 
 今日では親族の団結といふものは、法律上では親族会議といふものが認められて居る位のことであるが、実際上は未だ親類附き合ひといふことが、我が国に於ては外国に行はれるよりも親密に行はれて居る。本家分家の関係が絶たれないのである。畏れ多いが皇室を国民の総本家と考へ、国民は皆その分家であると考えへる思想、国民が一家族であるといふ思想、一家族の各員は一体分身である、何処に離れてゐようが一体であるといふ意識が失はれず、その家名を重んじ、その職を分けて、世のため人の為めに尽くしたならば、自分の為にも、家の為にもなるとの思想、それが我が国の家族制度の根本義である。
 ・・・
 長子がこの特権をもってゐる事が、日本の家族制度の特色であると説かれるが、それは江戸時代以後の事であって、大化改新では、相続財産は諸子均分制度を採りその以後文字通りの均分制は行はれぬけれども、江戸時代までは少なくとも今日のやうな長子の優越権は認められなかった。それであるから、わが国の家族制度の根本義として家督相続といふことは挙げられない。
 ・・・(以下略)

 

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選択的夫婦別姓問題と家族制度・戸籍制度の思想

2021年04月20日 | 国際・政治

 今回は、まず、選択的夫婦別姓に反対する意見の主な理由をいくつか確認し、次に夫婦同姓(同氏)を法的に定めた歴史的背景を考え、最後に夫婦同姓(同氏)や日本の家族制度(家族法)の問題点を考えたいと思います。

 すでに取り上げたように、自民党政権を支える国会議員50人が連名で、”選択的夫婦別姓制度の実現を国に求める「意見書」”を採択しないように地方議会の議長に訴えた文書には、下記のような理由があげられていました。

戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることによって、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある。

 また、参議院に提出された「選択的夫婦別姓の法制化反対に関する請願」には、下記のような記述があるいいます。

この制度を導入することは、一般大衆が持つ氏や婚姻に関する習慣、社会制度自体を危うくする。別姓を望む者は、家族や親族という共同体を尊重することよりも個人の嗜好(しこう)や都合を優先する思想を持っているので、この制度を導入することにより、このような個人主義的な思想を持つ者を社会や政府が公認したようなことになる。現在、家族や地域社会などの共同体の機能が損なわれ、けじめのないいい加減な結婚・離婚が増え、離婚率が上昇し、それを原因として、悲しい思いをする子供たちが増えている。選択的夫婦別姓制度の導入により、共同体意識よりも個人的な都合を尊重する流れを社会に生み出し、一般大衆にとって、結果としてこのような社会の風潮を助長する働きをする。”

 さらに、下記のような内容の「要望」もだされているといいます。

”…すなわち、夫婦同姓制度は、普通の日本人にとって極めて自然な制度である。もし、別姓が導入され、別姓世代が数代にわたって続けば家系は確実に混乱して、日本のよき伝統である戸籍制度、家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、ひいては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすものである。ついては、国民の中に広くコンセンサスができていると認められない今日、民法を改正して日本の将来に重大な禍根を残しかねない「夫婦別姓制」を導入しないよう要望する。

 いずれも、”日本の家族単位の社会制度”や、”日本のよき伝統である戸籍制度、家族制度、共同体意識や連帯意識”などが損なわれるというような内容です。でも夫婦同姓(氏)が、法的に定められたのは、1898年(明治31年)に施行された「明治民法」によります。

 

 明治維新による王政復古によって、日本を天皇の統治する国とした明治政府は、近代国家のかたちを整えるために、大日本帝国憲法をはじめ、さまざまな法整備を進めました。民法もその一つですが、当初フランス人法学者ボアソナード教授が起草した民法(旧民法といわれています)は、公布されたにもかかわらず、施行直前に強力な反対論が起ったと言います。その反対論の主張は、ボアソナードの起草した民法は、”個人主義思想に基づいており、皇国日本の国体の精神と相容れない”というものでした。反対論を主導したといわれる穂積八束博士が、「民法出でて忠孝亡ぶ」と言ったことはよく知られています。また、穂積博士は、「我千古ノ国体ハ家制ニ則ル、家ヲ大ニスレハ国ヲ成シ国ヲ小ニスレハ家ヲナス」とも述べたといいます。家は「万世一系」の皇統を基軸にした「国体」の私的領域における縮図であると考えていたのです。国に天皇があり、家に家長があることによって、「国体」の安寧が維持されるというわけです。だから、明治維新以降、日本の敗戦に至るまで、天皇に忠、親に孝の「忠孝」の道徳規範が、教育勅語などを通してすべての国民に徹底されるとともに、日本独特の「家」制度が継承されることになったのだと思います。

 穂積博士の反対論は、その後、政治的な色彩を帯び、自由民権運動を抑える働きをしたようですが、結局、ボアソナード教授が起草した民法は斥けられ、「皇室ノ臣民ニ於ケル、家父ノ家族ニ於ケル権力ハ皆祖先ヲ尊崇スルノ国教ニ基ケリ。……是ニ於テカ家長権ハ尊厳ニシテ動カスベカラズ。天皇ノ大権ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という「家族国家観」に基づく「明治民法」が施行されることになったのです。

 したがって、「明治民法」は、国家主義的であるばかりでなく、封建的で、いろいろな男尊女卑の規定を含んでいると思います。選択的夫婦別姓制度の導入に反対する人たちは、そうした「明治民法」由来の制度や考え方を、維持すべき”家族単位の社会制度”と位置づけたり、”日本のよき伝統である戸籍制度、家族制度”と評価したり、”共同体意識や連帯意識”のもとになっているなどと美化して守ろうとしているのだと思います。

 選択的夫婦別姓を求める人たちが、個人主義的であるとか、選択的夫婦別姓制度が導入されると”祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、ひいては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼす”とかという批判は、穂積博士のボアソナード民法批判と、とても似通っているように思います。

 そしてそれは、極論すれば、明治維新以来の日本の政治的指導層の思想が、現在の自民党政権と関わる人たちに受け継がれている証ではないかと思います。

 

 神話的国体観によって、天照大神につながる血統を誇示したり、天皇家につながる血筋を誇示したり、また、名の知られた武将につながる家柄を誇示したりする、日本の古くからの政治的指導層の思想が、日本国民全体に広げられたのは、日本が天皇の統治する国となり、その皇国日本に適合した法の一つとして「明治民法」が施行されて以降だということは、見逃してはならない重要なことだと思います。

 家族法で知られる水野紀子教授によれば明治のはじめの日本で、氏の公称を許された人は”6%ほど”であったといいます。したがって、政治的指導層以外の一般庶民が、氏(姓)を公称することが許されていなかったことから、当時の日本には、家長(戸主)を中心とする統一的な戸籍制度や家族制度はなかったといっていいと思います。明治政府が政治的必要性から、国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた「平民苗字必称義務令」は、1875年(明治8年)213日公布です。

 日本の「家」制度は、天皇に対する忠義と親に対する孝行を結合し、強力な皇国日本を築き上げるという国家主義的意図をもって、明治時代に始まったといえると思います。だから、それを「よき伝統」と美化したり、「わが国古来の美風」など美化することは、私には受け入れ難いのです。

 

 明治民法は、第732条で「戸主ノ親族ニシテソノ家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス」と定め

746条で「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」とし、さらに、第788条で「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」として、現在の夫婦同姓を制度化したのです。それは、明治政権の国家主義的的意図に基づくのだと思います。だから女性は結婚すれば、通常、姓を変えて夫の家の戸籍に入ったのです。これが入籍ですが、いまだに結婚の報告で、「入籍しました」という女性が存在することは、現在も明治民法を引きずっていることのあらわれだと思います。

 

 戦後,日本国憲法の制定に基づく民法の大改正によって、家制度が廃止され,家督相続も廃止されましたが、祖先崇拝や男性優先(男尊女卑)の思想は、政治的支配層に根強く残っているばかりでなく、それを維持し復活させようとする人たちさえ存在するのが、現在の日本だと思います。

 

 だから、「明治民法」の差別規定が、現在もなお、克服しきれていないのだと思います。戦後、GHQによって、「家」制度の廃止、家族法の民主化・近代化が要求されましたが、当時の日本は、「家」制度の廃止の意味をきちんと理解できなかったり、また、正面から反対する保守的な勢力も強く、形式的・表面的に「家」制度が姿を消したに過ぎない面があったのだと思います。

 さらに言えば、制度的にはもちろんですが、日本人は忠孝の思想で、徹底的に「家」のありかたを叩き込まれたので、簡単に「家」の制度の廃止や家族法の民主化・近代化に適応できない面があったのだと思います。例えば、いまだに既婚女性が、自らの夫を「主人」と呼ぶのも、そうしたことの一つと言えるように思います。

 そういう意味で、現在もなお、日本国憲法第二十四条や民法第二条における”個人の尊厳と両性の本質的平等”が十分実現されていないのだと思います。また、「家」制度が廃止されてもなお、「家」は現行家族法に様々な影響を残しているのだと思います。また、選択的夫婦別姓制度導入に反対する人たちは、意図的に「家」の影響を残そうとしているように思います。

 

 最後に、「明治民法」や日本の「家」制度(家族法)の問題点を考えたいと思います。 

 

 まず、明治民法の下記第970条の条項は、明らかに男尊女卑の差別規定だと思います。でも、この”男ヲ先ニス”という条項は、大日本帝国憲法第二条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」とともに、日本の「国体」をかたちづくった考え方であり、皇国日本のとっては、大切なことであったのだろうと思います。そして、その差別はいまだに払拭されていないのではないかと思います。

 また、女性差別のみならず、「庶子」や「私生児」という言葉から、生まれながらにして差別された子どもの存在も、うかがい知ることができます。個人の尊厳や両性の本質的平等の考え方に反するものだと思います。

970条 被相続人ノ家族タル直系卑属ハ左ノ規定ニ従ヒ家督相続人ト為ル

 一 親等ノ異ナリタル者ノ間ニ在リテハ其近キ者ヲ先ニス

 二 親等ノ同シキ者ノ問ニ在リテハ男ヲ先ニス

 三 親等ノ同シキ男又ハ女ノ間ニ在リテハ嫡出子ヲ先ニス

 四 親等ノ同シキ者ノ間ニ在リテハ女ト雖モ嫡出子及ヒ庶子ヲ先ニス〔昭和177本号改正〕

  <昭和一七法七による改正前の条文>

   四 親等ノ同シキ嫡出子,庶子及ヒ私生子ノ間ニ在リテハ嫡出子及ヒ庶子ハ女ト雖モ之ヲ私生子ヨリ先ニス

 五 前四号ニ掲ケタル事項ニ付キ相同シキ者ノ間ニ在リテハ年長者ヲ先ニス

2 第836条〔準正〕ノ規定ニ依リ又ハ養子縁組ニ因リテ嫡出子タル身分ヲ取得シタル者ハ家督相続ニ付テハ其嫡出子タル身分ヲ取得シタル時ニ生マレタルモノト看倣ス

 

 また、明治民法の下記のような条項で、当時男性であることが原則の「戸主」に大きな権限が与えられていたことや男尊女卑の実態が分かります。代々、長男の継承を原則とする戸主が、国における天皇匹敵する権限で、家族を支配することができたのだと思います。

14条 妻カ左ニ掲ケタル行為ヲ為スニハ夫ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス

一 第十二条第一項第一号乃至第六号ニ掲ケタル行為ヲ為スコト

二 贈与若クハ遺贈ヲ受諾シ又ハ之ヲ拒絶スルコト

三 身体ニ覊絆(キハン)ヲ受クヘキ契約ヲ為スコト

749条 家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス

750条 家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス

788条 妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル

789条 妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ

第813条 夫婦ノ一方ハ左ノ場合ニ限リ離婚ノ訴ヲ提起スルコトヲ得
 一 配偶者カ重婚ヲ為シタルトキ
 二 妻カ姦通ヲ為シタルトキ
 三 夫カ姦淫罪ニ因リテ刑ニ処セラレタルトキ

以下略

第886条 親権ヲ行フ母カ未成年ノ子ニ代ハリテ左ニ掲ケタル行為ヲ為シ又ハ子ノ之ヲ為スコトニ同意スルニハ親族会ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス

一 営業ヲ為スコト

 二借財又ハ保証ヲ為スコト

 三 不動産又ハ重要ナル動産ニ関スル権利ノ喪失ヲ目的トスル行為ヲ為スコト

 四 不動産又ハ重要ナル動産ニ関スル和解又ハ仲裁契約ヲ為スコト

 五 相続ヲ抛棄スルコト

 六 贈与又ハ遺贈ヲ拒絶スルコト

 上記のような明治民法の「家」をもとにした家族制度や戸籍制度が、現在もいろいろなところに残存し、いろいろな問題の原因になっていることは、女性が原告として国や地方公共団体、企業等を訴えている裁判、例えば、男女賃金差別裁判、男女別定年差別裁判、家族手当裁判、昇格昇進差別裁判、パートタイム不当解雇裁判、扶養控除裁判、婚外子相続差別裁判、住民票続柄裁判、などで明らかだと思います。

 こうした裁判は、明治民法の「家」の考え方を継承した現在の民法が、相変わらず「性別役割分業家族」を前提にしているため、現在の社会情勢と大きくズレているばかりでなく、”個人の尊厳や両性の本質的平等”の考え方を欠いている部分があることのあらわれだと思います。 

 

 また、現行民法第725条は、明治民法を受け継いだものですが、次のように定めています。

次に掲げる者は、親族とする。

一  六親等内の血族

二  配偶者

三  三親等内の姻族

 これは、下記の憲法第24条と矛盾するのではないかと思います。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 なぜなら、民法第725条は、親族に”六親等内の血族””三親等内の姻族”を含んでおり、これは婚姻を単なる両性の合意をこえる、「家」と「家」の結び付きととらえていると考えられるからです。この民法第725条の考え方が、税法上の扶養親族や扶養義務と関わってくるわけで、現在も「家」をもとにした明治民法が生きているように思います。

 だから、戦後の民法、第750条で

婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。”と定めたにもかかわらず、いまだに96%を超える女性が、結婚によって姓を変えているのだと思います。

 

 また、民法第733条は、

女は、前婚の解消又は取り消しの日から六箇月を経過した後でなければ、再婚することができない。

 と、女性だけに「再婚禁止期間」を定めていますが、これも明治民法の名残のように思います。

 

 したがって、夫婦別姓制度導入の要求は、個人の尊厳や両性の本質的平等の考え方からして、当然の要求であり、女性の自己実現を困難にしないために、必要不可欠だと思います。

 それは、日本国憲法第13条の定める”生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利”でもあると思います。 

 

参考図書:「家族と法律」中川淳(有信堂)『戸籍と無戸籍 「日本人」の輪郭』遠藤正敬(人文書院)

  

 

 

 

 

 

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選択的夫婦別姓に反対する文書に名を連ねた人たちの思想の背景を考える

2021年04月10日 | 国際・政治

  先だって、東京新聞は、丸川珠代・男女共同参画担当相や高市早苗・元男女共同参画担当相ら自民党の国会議員有志が、埼玉県議会議長の田村琢実県議に送った、選択的夫婦別姓の反対を求める文書を取り上げました。その内容を区切って考えていきたいと思います。

 なぜなら、自民党国会議員有志が、どうして地方自治や民主主義のルールを無視するようなことまでして、選択的夫婦別姓を求める要求に反対し、自分たちの主張を貫こうとするのかを考えるとき、私は、名前を連ねた自民党国会議員有志が、安倍・菅政権とかかわりをもつ長谷川三千子教授や八木秀次教授と、人権や国民主権を否定するとんでもない考え方を共有している、と考えざるを得なかったからです。

 安倍・菅政権を支える自民党国会議員有志は、現在、様々なところで、勇気を出して今まで認められてこなかった権利を主張し声を挙げた人たちや、その声を受け止めて、マイノリティの権利を尊重し、多様性を認め、受け入れる社会にしようとしている人たちの取り組みに逆らい、自らに都合のよい戦前回帰の国づくりをしようとしているように思います。

 先ず、前文の問題ですが、その内容は慎重審議を求めるものではありません。野党の出した意見書が”採択されることのないよう、格別のご高配を賜りたく、お願い申し上げます”というかたちでの夫婦別姓に反対する考え方の押し付けです。名を連ねた人たちが、何と弁解しようとも、地方議会の議長にとっては、大変なプレッシャーであることは間違いないことだと思います。文書をまとめた高市早苗氏は、県議らへの圧力ではなく、「お願い」だったと弁解したようですが、文書を受けとった側は、五十人もの国会議員の意向に逆らえば、”党員としての活動の場が危うくなる”と考えるのが普通ではないかと思います。

厳寒のみぎり、先生におかれましては、ご多用の日々をお過ごしのことと存じます。貴議会を代表されてのご活躍に敬意を表し、深く感謝申し上げます。
 本日はお願いの段があり、取り急ぎ、自由民主党所属国会議員有志の連名にて、書状を差し上げることと致しました。
 昨年来、一部の地方議会で、立憲民主党や共産党の議員の働き掛けにより「選択的夫婦別氏制度の実現を求める意見書」の採択が検討されている旨、仄聞しております。
 先生におかれましては、議会において同様の意見書が採択されることのないよう、格別のご高配を賜りたく、お願い申し上げます。”
 私達は、下記の理由から、「選択的夫婦別氏制度」の創設には反対しております。

 次に反対の理由は、1~5に箇条書きされていますが、いずれも受け入れることができません。

”1 戸籍上の「夫婦親子別氏」(ファミリー・ネームの喪失)を認めることによって、家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある。

 とありますが、”社会制度の崩壊”とは、どういうことをいうのでしょうか。さらに言えば、一部の希望者が夫婦別姓を選択しただけで、どのような社会制度が、どのように”崩壊”するというのでしょうか。具体的なことは何も示されていません。
 私は、それは、現存する社会制度の崩壊ではなく、安倍・菅政権や政権を支える自民党国会議員有志のもつ「家族国家観」の崩壊ではないかと疑います。

 随分前から「選択的夫婦別姓」を要求する声はありました。その声がだんだん大きくなってきたので、野党が意見書を出す動きを始めたのだと思います。それは、働く女性が増え、女性の社会進出が進んで、夫婦同姓だと困る女性が声を上げ始めたということだと思います。また、自分の「姓」に対する思いは人によって様々なのだと思います。だから、意見書の要求は、”夫婦別姓を法的に義務づけよ”というものではなく、別姓にしたい人たちの要求を受け入れて、選択的夫婦別姓を法的に認めてほしいということなのです。  
 日本のように夫婦同姓を法的に義務づけている国はほとんどないという事実、また、2018年12月に国連女性差別撤廃委員会が、夫婦別姓の導入など、結婚後も旧姓を使い続けられるような法改正を勧告していたという事実を無視してはならないと思います。つけ加えれば、この国連文書は、外務省が二年以上放置していたということで、先日、茂木外相が謝罪しています。選択的夫婦別姓に対する政権の姿勢をあらわしているように思います。

 勧告を無視し、選択的夫婦別姓を認めると”家族単位の社会制度の崩壊を招く可能性がある”というようなことを言っていては、日本の常識は、ますます世界の非常識になっていくように思います。   
 私は、選択的夫婦別姓を認めることによる”社会制度の崩壊”など、現実にはあり得ないと思います。海外の実態を調べるまでもなく、日本で、事実婚により別々の姓を名乗って、素晴らしい家庭を築いている例はたくさんあるのではないかと思います。
 大事な事は、結婚後の改姓がキャリアの断絶をもたらしたり、自己喪失感につながったり、仕事や暮らしに支障があるという様々な訴えをしっかり受け止め、放置しないことではないかと思います。

2 これまで民法が守ってきた「子の氏の安定性」が損なわれる可能性がある。
※同氏夫婦の子は出生と同時に氏が決まるが、別氏夫婦の子は「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない場合」「出生時に夫婦が別居状態で、協議ができない場合」など、戸籍法第49条に規定する14日以内の出生届提出ができないケースが想定される。

 とありますが、「両親が子の氏を取り合って、協議が調わない」というようなことは、心配するようなことではないと思います。結婚を届け出たときに、原則的なことを話し合っておくように進めたり、妊娠が判明したときに話し合うように決めておけば、出生届提出ができないというようなことにもならないと思いますし、出生届提出ができないというような事態を回避する方法は、いろいろ考えられると思います。

3 法改正により、「同氏夫婦」「別氏夫婦」「通称使用夫婦」の3種類の夫婦が出現することから、第三者は神経質にならざるを得ない。
※前年まで同氏だった夫婦が「経過措置」を利用して別氏になっている可能性があり、子が両親どちらの氏を名乗っているかも不明であり、企業や個人からの送付物宛名や冠婚葬祭時などに個別の確認が必要。

 別姓が認められれば、「通称使用夫婦」はなくなっていくのではないでしょうか。また、”「経過措置」を利用して別氏になっている可能性”が、どれほど予想されるでしょうか。
 さらに、もし改姓した場合、必要と思われるところに、きちんと連絡する体制を整えれば解決することではないでしょうか。現実に、通称を使用している女性があり、また、多くの女性が、結婚時に改姓しているのですから…。

4 夫婦別氏推進論者が「戸籍廃止論」を主張しているが、戸籍制度に立脚する多数の法律や年金・福祉・保険制度等について、見直しが必要となる。
※例えば、「遺産相続」「配偶者控除」「児童扶養手当(母子家庭)」「特別児童扶養手当(障害児童)」「母子寡婦福祉資金貸付(母子・寡婦)」の手続にも、公証力が明確である戸籍抄本・謄本が活用されている。

 夫婦別姓を認めると同時に、戸籍制度も廃止するということまで一気に進めるのは、確かに他の制度や法律とのかかわりで、難しさはあるかも知れません。でも、それを夫婦別姓を認めない理由にしてはならないと思います。明治以来の家族制度を受け継いで、男尊女卑の考え方を温存させることになった戸籍制度については、時間をかけて検討すればよいのだと思います。

5 既に殆どの専門資格(士業・師業)で婚姻前の氏の通称使用や資格証明書への併記が認められており、マイナンバーカード、パスポート、免許証、住民票、印鑑証明についても戸籍名と婚姻前の氏の併記が認められている。
 選択的夫婦別氏制度の導入は、家族の在り方に深く関わり、『戸籍法』『民法』の改正を要し、子への影響を心配する国民が多い。
 国民の意見が分かれる現状では、「夫婦親子同氏の戸籍制度を堅持」しつつ、「婚姻前の氏の通称使用を周知・拡大」していくことが現実的だと考える。
※参考:2017年内閣府世論調査(最新)
夫婦の名字が違うと、「子供にとって好ましくない影響があると思う」=62.6%
 以上、貴議会の自由民主党所属議員の先生方にも私達の問題意識をお伝えいただき、慎重なご検討を賜れましたら、幸甚に存じます。
 先生のご健康と益々のご活躍を祈念申し上げつつ、お願いまで、失礼致します。
令和3年1月30日

衆議院議員(50音順)
青山周平  安藤裕  石川昭政  上野宏史  鬼木誠  金子恭之  神山佐市  亀岡偉民  城内実  黄川田仁志  斎藤洋明  櫻田義孝  杉田水脈  鈴木淳司 高市早苗  高木啓  高鳥修一  土井亨  中村裕之  長尾敬  深澤陽一  藤原崇  古屋圭司  穂坂泰  星野剛士  細田健一 堀井学 三谷英弘  三ツ林裕巳  宮澤博行  簗和生  山本拓  
参議院議員(50音順)  赤池誠章 有村治子  磯崎仁彦  岩井茂樹  上野通子  衛藤晟一  加田裕之  片山さつき 北村経夫  島村大  高橋克法  堂故茂  中西哲  西田昌司  丸川珠代  森屋宏  山田宏  山谷えり子  ”

 選択的夫婦別姓の意見書は、婚姻前の姓の通称使用では解決できない問題があるから、提出されることになったのであって、通称使用の併記が認められているからということで、無視されてはならないと思います。
 また、上記の文章の”選択的夫婦別氏制度の導入は、家族の在り方に深く関わり、『戸籍法』『民法』の改正を要し、子への影響を心配する国民が多い。”という文章に、本音が覗いているように思います。

 その本音は、明治維新によってつくりあげられた皇国日本の家制度の温存であり、「一家一氏一籍」の原則の維持だろうと思います。
 遠藤正敬氏が『戸籍と無戸籍 「日本人」の輪郭』(人文書院)で取り上げていますが、明治期における家族国家思想のイデオローグ、法学者、穂積八束は「我千古ノ国体ハ家制ニ則ル、家ヲ大ニスレハ国ヲ成シ国ヲ小ニスレハ家ヲナス」と述べています。それは、明治民法制定以来、日本の敗戦に至るまで維持された、家は「万世一系」の皇統を基軸にした「国体」の私的領域における縮図であり、家の維持こそは「国体」の安寧をもたらすものであるという思想です。


 戦後,日本国憲法の制定に基づく民法の大改正によって、家制度が廃止され,家督相続も廃止されましたが、祖先崇拝や男性優先(男尊女卑)の考え方は完全には払拭できず、いまだに根強く、様々なところに残っているようです。それを維持し復活させようとする人たちには、”家の系譜”として索引的機能をもつ戸籍制度が欠かせないのだと思います。
 万世一系の天皇が統治する「国」である日本、そして、戸主の系譜として受け継がれ、「祖孫一体」を本義とする「家」の連続性を記録する戸籍、「国体」と「家」を直結した家族国家観は、「国体の本義」に、はっきり示されています。

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我万古不易の国体である。而(シコウ)してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克(ヨ)く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。

 そして家の生活における祖孫一体の徳義については次の如くである。

 我国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始まり、永遠に子孫によって継続せられる。現時の家の生活は、過去と未来をつなぐものであって、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であって、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在未来の家門の恥辱と考へられる。”(『戸籍と無戸籍 「日本人」の輪郭』(人文書院)「第五章 家の思想と戸籍、 1 「家の系譜」としての戸籍──「国体」と家族国家思、系譜尊重の思想」より)

 選択的夫婦別姓に反対する自民党国会議員有志の文書の背景に、私はフェミニズムを批判し、男女共同参画社会を受け入れようとせず、”選択的夫婦別姓制度は日本の文化を破壊する”というようなことを主張している長谷川教授や、同じように、夫婦別姓や非嫡出子「差別」の撤廃に反対し、「今こそ伝統的家族の強化を」などと主張している八木教授の考え方が透けて見えるような気がするのです。

 

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選択的夫婦別姓と婚外子差別の撤廃と人権

2021年04月02日 | 国際・政治

 スイス・ジュネーブに本拠を置く非営利財団、世界経済フォーラム(WEF)が、国別に男女格差を数値化した「ジェンダーギャップ指数2021」を発表し、日本は調査対象となった世界156カ国の120位という順位だったことが、先日報道されました。特に、政治参画における男女差が順位に影響したといわれています。
 私は、それは当然の結果だろうと思います。安倍・菅政権の中枢には、選択的夫婦別姓に反対し、婚外子(非嫡出子)の差別撤廃に反対し、ジェンダー・フリー教育に反対し、同性婚容認に反対する人たちが結集しているからです。
 また、そうした政治家を支える学者や研究者の存在も見逃せません。すでに取り上げた「民主主義とは何なのか」(文藝春秋)の著者、長谷川三千子教授がその一人です。長谷川教授は女性でありながら「正義の喪失 反時代的考察」(PHP)に「愚かなり、男女機会均等法」などと題した文章を書いています。
 また、「国民の思想」新しい歴史教科書をつくる会編(産経新聞社)の著者、八木秀次教授もその一人だと思います。今回は、その記述から、私が受け入れ難い部分を、いくつか挙げたいと思います。
ーーー
 「第二章 今こそ伝統的家族の強化を」”5 家族解体を狙う夫婦別姓と非嫡出子「差別」の撤廃”の「日本は伝統的に夫婦同姓」と題された文章のなかに、ちょっとひっかかる下記のような文章があります。

同じ儒教国の韓国や中国は夫婦別姓であるが、それは男女平等、個人主義でそうなったのではなく、儒教の男尊女卑の思想から来たものである。つまり夫婦別姓だから男女平等が進むわけでも、それが世界的な潮流でもない。むしろ、世界的には家族の価値の再認識が主流である。
 
 この”むしろ、世界的には家族の価値の再認識が主流である”は、いったいどういう意味で、何を根拠としているのでしょうか。日本の「ジェンダーギャップ指数2021」が120位であることを考えれば、それは、「日本の伝統的家族の強化」とは、逆の流れなのではないでしょうか。

 次に「イデオロギーからの夫婦別姓論」には
 ”姓を変えることで生活上の不都合が生じる問題は、通称使用を広く認めることで片付くのだが、それで納得しない一部の人たちがいる。彼らはイデオロギー的な理由から夫婦別姓を主張しており、戦前の家制度どころか、戦後の核家族でさえも解体してしまおうという考えである。個人主義を極めると家族共同体は壊れていく。
 ところで、昔から家族の解体を主張しているのが共産主義者である。共産主義イデオロギーの柱の一つは国家の死滅だが、もう一つは家族の死滅である。マルクスやエンゲルスは家族の死滅を主張したが、それは彼らの頭の中だけで終った。しかし、レーニンはそれをロシア革命直後に実践した。個人主義は家族の解体という点では共産主義と親和性を持つ。夫婦別姓は表向きは個人主義の顔をしているが、実態は家族の死滅を志向する共産主義のイデオロギーに基づいている。
 夫婦別姓が共産主義の文脈で主張されれば、保守派は敏感に反応するだろう。しかし、個人の人権や自由の文脈で巧みな主張がなされると、それに乗ってしまう人が多い。従来の保守は、家族を解体させるような問題には敏感だったはずだが、現在ではそれが見えなくなっている。
 従来から確信犯的に夫婦別姓を主張している者たちは、保守派をうまく取り込もうとして戦略をたてている。例えば、自民党のある大物代議士は娘しかいないため、結婚によて自分の家の名前が途絶えてしまうのを心配して別姓に賛成している。家族を大事にし、家を継承していこうという発想と、家族の死滅をし好する共産主義に基づいた発想とが、呉越同舟になっているのである。それが今の夫婦別姓論議をわかにくくしている。”
 家名存続派といわれている人たちが、娘しかいないので別姓に賛成するというのはあまりにも短絡的だ。たとえ夫婦別姓になって娘の段階で家名は存続できても、その次の代はどうなるかわからない。本気で家名の存続を考えるならば、従来からある養子制度を活用すればいい。最近は養子が減っているが、戦前はもっと一般的で、柳田国男のように兄弟全員姓が違うという例も珍しくなかった。首相になった岸信介と佐藤栄作氏も実の兄弟である。 

 まず、” 姓を変えることで生活上の不都合が生じる問題は、通称使用を広く認めることで片付くのだが…”とありますが、現実には、通称使用では片付かない不都合がいろいろ報告されています。それほど問題は簡単ではないのです。
 また、”彼らはイデオロギー的な理由から夫婦別姓を主張しており、戦前の家制度どころか、戦後の核家族でさえも解体してしまおうという考えである。”というのも、事実に反するのではないかと思います。多くの人たちの夫婦別姓の主張には、その人なりの現実的な理由があり、また、家族の解体など考えてもいないと思います。

 さらに、こういう文章を読むと、私は、確認しないわけにはいきません。
 マルクスやエンゲルスは、資本の運動諸法則(資本の論理)が、どのようにして労働者を窮乏化させ(格差を拡大させ)、人間を疎外していくのかを、論理的に明らかにしたのです。そして、それを乗り越えるために、”万国のプロレタリアートよ、団結せよ! ”と呼びかけたのです。国家や家族の死滅などを目的として、そんな呼びかけをしたのではないのです。何を根拠に、”共産主義イデオロギーの柱の一つは国家の死滅だが、もう一つは家の死滅である”と、人を脅かすようなことをいうのでしょうか。
 もし、八木教授が、マルクスやエンゲルスが、国家や家族の死滅を主張したというのであれば、どこに、どのように書かれているのか、その文章を示してほしいと思います。
 もちろん、プロレタリアートの団結によって、資本主義生産体制が克服された後、人民が政治的意思決定や共同体の運営に直接参画できるようになれば、家族における夫婦の主従関係や、従来的な階級国家が廃止されることについて、マルクスやエンゲルスの著作のどこかに、何らかの記述があるかもしれません。でも、それは革命後の将来的希望であって、マルクス、エンゲルスは、何よりも資本主義生産体制に基づく労働者階級の窮乏化(格差の拡大)や人間疎外からの解放の必要性を説いたのだと思います。
 まして、夫婦別姓の問題などは、マルクスやエンゲルスとは無関係だと思います。何でもかんでも、マルクスやエンゲルスと結びつけたり、夫婦別姓論者を共産主義者呼ばわりするのは、いかがなものかと思うのです。八木教授は多くの若者に影響を与える大学教授です。私は、批判するのであれば、きちんとマルクス、エンゲルスの理論を踏まえ、批判対象の文章の引用元や根拠を示した文章を書いてほしいと思います。アジテーターのような文章ではなく、若者がそれらを確認して、自らの考えを持てるように、丁寧で学術的な文章を書いてほしいと思うのです。

 「夫婦別姓の最大の被害者は子ども」には、下記のような記述があります。 
もっといえば、別姓論者は夫婦をつなぎとめている名前の機能に気付いていると思う。それゆえ、これを別々にすることによって、家族を解体の方向にもっていこうという戦略であろう。そして、彼らの主張が究極的に行き着くところは個体主義、アトミズムの世界である。属する共同体を持たない個体になってしまえば、それを上から統制すればいい。つまり、究極の全体主義が可能になる。
 夫婦別姓は過去、女性の社会進出と結び付けて論じられてきた。この女性の社会進出という主張もイデオロギー的にいえば、女性は経済力を持つことによって真に解放されるというマルクス主義の発想に基づいている。女性の目を、家族よりも外に向けさせ、家庭内の男女の力関係を逆転させるという考えである。

 こうした記述も見過ごすことができません。夫婦別姓論者は、家族を解体させようとしているのでしょうか。全体主義の社会をつろうとする人たちの協力者なのでしょうか。私は、八木教授は、労働者の団結を恐れる資本家階級や資本家階級と一体となった政治的指導者の妄想にも似た思いを代弁されているように思います。極論すれば、共産主義者を、恐ろしい危険思想の持ち主とした戦前の治安維持法の背景にある感覚と同じようなところがあるように思います。
 また、”女性は経済力を持つことによって真に解放される”などというのは、マルクス主義の考え方ではあり得ません。人間は、資本の運動諸法則(資本の論理)から解放されないかぎり、解放されることはないのです。
 
家族こそ保守主義の柱」には、下記のようにあります。
今の日本に必要なのは、家族を国の基本単位としていこうという発想である。日本の保守主義は、家族の価値をその中心に据えるべきである。しかし、日本には保守の人はいても、イデオロギーとしての保守主義を理解している人は少ない。家族こそは世代を超えて文化を伝承していく場所であり、次世代の国民を育てる場所である。家族の機能がおかしくなると、犯罪が増え、社会秩序も乱れる。
 福祉の場面でも、家族が健全に機能すればこそ幼児時から老人に至るまで保護され、社会的な負担は小さくてすむ。福祉は第一義的に家族が担うもので、社会福祉はその代替措置としてとらえるべきである。高齢化社会の問題でも、在宅介護を基本に据えるには、家族の役割が重要である。そのように、家族の機能をしっかりと認識しているのが欧米の保守主義である。
 しかし、日本にはそういう考えの保守派が少ない。家族のことはあえて口にするまでもないという文化があったからだろうが、現実はそうもいっていられない状況にある。家族と地域は保守派の守るべき最高の価値である。この視点に立って日本の保守主義を再構築する必要に迫られている。”

 この主張には、東京五輪・パラリンピック組織委員会前森会長と同じような、女性蔑視の感覚が背景にあると思います。
 現在は、結婚したら新たに戸籍がつくられます。昔のように女性が名前を変えて、男性の「家」に入り、男性の家族の一員となって、男性側の戸籍に入るのではないのです(でも、現在もなお、女性の芸能人や有名人が、自らの結婚の報告として、”入籍しました” などと言っているのを聞きますが、それはほとんどの場合、正しい表現ではないと思います。「入籍」という昔の感覚が、いまも残っているということだろうと思います)。
 女性が名前を変え、男性側の戸籍に入り、家事労働の一切を女性がやっていた昔は、女性にとって結婚が生きていくために必要な生活保障の場だったと思います。でもそれは、夫に対して、女性を従属的立場に立たせることになっていたと思います。そして、外で働く夫の世話、育児、親族の介護なども、当然のように嫁である女性の仕事でした。だから、女性は男性の主張に従順でなければならなかったと思います。女性は、男(夫)に従順な良妻賢母であることが求められていたのです。
 でも、多くの女性が外で働くようになった現在、女性は、昔のような家族国家観に基づく「○○家」の意識に縛られたリ、「嫁の務め」に拘束されたリすることに抵抗を感じ、自らの主張をするようになってきているのだと思います。ジェンダー・フリーの考え方や選択的夫婦別姓の主張の背景には、そうした社会情勢の変化があるのであって、それをマルクスやエンゲルスの共産主義に結び付ける八木教授の議論は、いかがなものかと思います。

 「嫡出子と非嫡出子の区別は不要か」には、次のような文章があります。
一般に非嫡出子には①既婚男性との間に生まれ、認知を受けた②父親の認知を受けていない③夫婦別姓にするために事実婚を選んだ夫婦の間に生まれ、父親が認知した、などのケースがある。この裁判の原告は③のケースであり、自分の信念から事実婚を選択し、敢えて非嫡出子を儲けた「夫婦」の間に生まれた子どもの戸籍の続柄の記載が「プライバシー侵害」というのは事実誤認も甚だしい。非嫡出子であることは周知の事実だからである。また戸籍は「身分事項」を見れば、法律の専門家でなくとも非嫡出子であることはわかる。続柄のみを問題視するのは理解できない。
 嫡出子と非嫡出子との最大の違いは民法上、法定相続分は非嫡出子は嫡出子の二分の一であるところにある(900条四号但書)。例えば、夫が妻以外の女生との間に子どもを儲けた場合、その子ども(非嫡出子)は本妻との間に生まれた子ども(嫡出子)の半分の額しか、父親の財産を相続できない。
「婚外子差別の全廃」を叫ぶ人々はこの規定を改め、嫡出子と非嫡出子との相続分を同等にすべきだと主張する。「生まれた子どもに責任はない」からだというのであるが、この問題を「子どもの権利」の問題に矮小化してはならない。
 ・・・
 一方、「婚外子の差別撤廃」を叫ぶ人々は、次のように「女性のライフスタイルについての自己決定権」を主張する。
 どのような結婚をし、家族をつくるかということは、本来、個人のライフスタイルの問題であり、個人の自由意思にまかせるべきである。どんな家族形態を選んでも不利益をうけたり差別されたリせず、家族のありかたについての自己決定権が尊重されるためにも、嫡出子非嫡出子の差別、そして区別自体も早急に廃止したい。(榊原富士子・吉岡睦子・福島瑞穂共著『結婚が変わる、家族が変わる──家族法・戸籍法 大改正のすすめ』日本評論社刊、1993年、吉岡氏執筆の項)
 つまり法律上の婚姻関係とそれ以外の男女の結び付きを同等にするということである。
 嫡出子──非嫡出子の区別の撤廃は、法律婚とそれ以外の男女の結び付きとを区別しないという主張に行き着く。これは一夫一婦制の解体であり、婚姻制度や家族制度の解体にほかならない。非嫡出子の問題は単なる平等論ではなく、そこまで見通して考える必要がある。

 この八木教授の考え方は、日本の家族制度を守るために、婚外子(非嫡出子)は、差別されても仕方がないということではないかと思います。そしてそれは、八木教授の”人権軽視”の考え方に由来するのだと思います。八木教授には『反「人権」宣言(ちくま新書298)』”という著書があります。同書には、”1「人権」が無軌道な子供を作り出す”とか”2「人権」が家族の絆を脅かす”とか”3「人権」が女性を不幸にする”などと題された文章があることでわかります。
 「婚外子の差別撤廃」は、一夫一婦制の解体などを意図するものではなく、どんな人も差別をされてはならないという「人権」の問題だと思います。
 私は、婚外子(非嫡出子)差別は理不尽だと思いますし、「人権」が無視されてはならないと思うのです。

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