真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の戦争と水戸学(会沢正志斎) NO2

2020年06月29日 | 国際・政治

 「藤田東湖」(日本の名著29)橋川文三責任編集(中央公論社)によると、水戸学を代表する思想家の一人、会沢正志斎の「新論」に通じない者は、維新の志士の間では肩身が狭い思いをしなければならなかったといいます。
 その「新論」の記述は、藤田東湖の文章以上に過激です。特に、「はじめに」に書かれていることは、現在の常識では考えられないほど、非科学的であり、排外主義的です。
 学問的業績を評価されて、将軍に謁見する機会もあったという会沢正志斎が、なぜ、 太陽のさしのぼるところの神国日本は、頭部に位置し尊い国で、西洋は世界の末端に位置する下等の存在であると断定するのか、どうして地理的位置で民族の優劣を決定するような考えを持つに至ったのかはわかりませんが、西洋人を”北方の蛮族、肉食の毛唐ども”と断定するような会沢正志斎の差別的な考え方が、幕末のいわゆる「異人斬り」に、少なからず影響を与えたのではないかと思います。
 また、維新以後の侵略戦争の背景には、国体中に書かれている、”天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がること”を目標とするような考え方があったのではないかと思います。

 ここでは省略しましたが、国体中兵制の急務」にも、”かくして政治の基を立て、教えを明らかにして、兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし、功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓すれば、天祖の御神勅と天孫の御事業に含まれた深い意味ははじめて実現されのである”と書いています。”億兆一心”という言葉は、教育勅語にも使われていますが、教育勅語は、その考え方はもちろん、その言葉も「新論」が基になっているのではないかと思えます。

 ただ、徳川御三家の一つである水戸藩の藩士、会沢正志斎は、当然のことながら、幕藩体制の再編強化がねらいで、倒幕を主張していたのではありません。天皇を祭主とし、欧米列強に対抗できるような幕藩体制の確立を主張していたのです。でも、会沢正志斎に会うために水戸を訪れ、大きな影響を受けたという吉田松陰や松下村塾に学んだ志士たちは、孝明天皇も望んでいた公武合体の政策を意図的に潰し、武力討幕に血道を上げました。
 また維新後、開国政策を進めた明治新政府は、会沢正志斎が知り得なかった西洋文明の実態や諸学問の詳細を知ることができたにもかかわらず、”天祖の御神勅と天孫の御事業”の実現を目標とする会沢正志斎の排外主義的な尊王思想を、修正することなく、そのまま新政府の方針にしたように思います。
 だから私は、薩長を中心とする尊王攘夷急進派が、会沢正志斎の「新論」を都合よく読みかえ、権力を奪取するとともに、天皇の政治利用の意図をもって、会沢正志斎の尊王思想を取り入れたように思うのです。

 下記は、「藤田東湖」(日本の名著29)橋川文三責任編集(中央公論社)から、その一部を抜粋しました。
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                   会沢正志斎 新論
                     上
 はじめに
 謹んで思うに、神国日本は太陽のさしのぼるところであり、万物を生成する元気の始まるところであり、日の神の御子孫たる天皇が世々皇位につきたもうて永久にかわることのない国柄である。本来おのずからに世界の頭首の地位にあたっており、万国を統括する存在である。当然にこの世界に君臨し、天皇の御威徳の及ぶところは遠近にかかわりなかるべきものである。しかるにいま西の果ての野蛮なるものどもが、世界の末端に位置する下等の存在でありながら、四方の海をかけめぐり、諸国を蹂躙し、身のほど知らずにも、あえて貴いわが神国を凌駕せんとしている。なんたる驕慢さであろうぞ。〔大地が天空の中に存在する状態は、渾然とした円のようで四方の隅というものはないはずである。しかしおよそすべてのものは、、自然にその形体があって存在している。そして神国日本はその頭部に位置している。したがってその広さはそれほど大きくはないが、しかも四方に君臨する理由は、いまだかつて易姓革命のことがないからである。西洋の諸蛮は大地の形でいえば股(モモ)や脛(スネ)の位置にある。だから船舶を乗り回して、どんな遠くにまで往来するのである。大海の中の土地でヨーロッパ人どもがアメリカ州と名づけているものにいたっては、人間でいえば背にあたっている。だからその人民たちは愚かで、無能たらざるを得ない。これはみな自然の形から来るのである〕したがって、道理からいえば自分からつまずいて転倒するはずである。しかしながら、天地の気の働きには盛衰があって、「人の勢いが盛んになると一時は天の正理に打ち勝つことがある」(『史記』)のはやむをえない勢いである。だから英雄豪傑が奮起して、天の事業を助けないならば、天地といえどもまたついには北方の蛮族、肉食の毛唐どものために自由に翻弄されてしまうであろう。
 いま日本全国のためにその根本対策を論じようとすると、人々は愕然として顔を見合わせ、驚きあきれないものはないが、これは古い見聞にとらわれ、旧思想を信じこんでいるからである。孫氏の兵法に「敵が来ないのをあてにせず、味方の側に十分な備えがあるのをあてにする。敵が来攻しないのをあてにせず、味方の側に来攻できないような備えがあることをあてにする」といわれている。したがって、わが国の政治教育が行き届き、風俗が純美であり、上下義を守り、人民は豊かで軍備も充足し、どんな強敵といえども、これを防ぐに手落ちがないように備えさえすればいいのである。もしその体制がなお不十分だとするならば、みずからは安逸を貪っているものたちははたして何を頼みとするのであろうか。ところが世間の論者はみな「彼らは野蛮人にすぎない。軍艦ではなく、商船であり漁船にすぎない。深刻な害をなし得るものではない」などという。これらの発言があてにしようとしているものは、彼らは来ない、彼らは攻め寄せはしないということであって、相手の出方をあてにするものであり、自分の方にはなんらあてにするものはないのである。わが方にどんな備えがあるのか、
攻めて来させないような準備は何かと問いつめれば、いっこうに取りとめもなく、何もわかっていない。こんなありさまでは、天地が彼らの自由に翻弄されないようにと希望しても、いったいいつになったらその期待がもてるというのか。
 臣はこのことに悲憤慷慨し、やむにやまれぬ気持があるので、あえて国家(幕府)が頼むべきものは何かについて論じたい。第一には「国体」の項において、建国の神々が忠孝をもって国を建てられたことを論じ、さらに武勇を尊び、民生を重んじたもうたことに論及する。第二には「形勢」の項において、世界各国の大勢を論ずる。第三には「虜情」の項において、富国強兵のための必要任務を論じる。第五には「長計」の項において、人民を強化し、風俗を正しくするための長期的計画を論じる。この五論はいずれも「天意が定まれば、ふたたび人の勢いに打ち勝つ」という真理の実現を願っての論である。自分が一身を捧げて天地の大道に殉じようと誓う心は、だいたい上に述べたごとくである。

 国体上
 帝王が四海波静かに、ながく平和にこれを治め、天下をゆるぎなく保つためには、何を頼みとするかといえば、それは万民を威力によって服従させ、その一代だけを保つということではない。真に頼りとすることができるのは、人民がことごとく心を一つにして、その統治者を親愛し、離れる気持ちになれないという実態である。そもそも天と地が分かれ、人民というものがはじめて生じて以来、天祖の御子孫が四海に君臨し、皇統連綿として誰ひとりあえて皇位をうかがうものもなく、もって今日にいたったのは、けっして理由がなきことではない。君臣の義は天地間の大義である。父子の親(シン)はこの世における恩愛の極致である。この義の最大のものと、恩愛の極致とは天地の間に併立し、しだいに普及浸透して人々の心に行き渡り、永久に変化することはない。これこそが帝王の天下を統治し、万民を整然と支配するための大いなる資産である。

 皇位の象徴=三種の神器
 むかし、天照大神が建国の基礎を建てたもうたのは、天の位にあって天の徳により、天の大業を実現せられたということであり、すべてが天の御しわざであった。その徳を玉にあらわし、その明知を鏡にあらわし、その威力を剣にあらわしたが、それは天の仁に一体化し、天の明知にのっとり、天の威力を奪って万国に君臨したまうということである。天下を皇孫に伝えたもうた際、手ずから三種の神器を授けて、それを皇位の印とし、また天徳の象徴とし、もって天の仕事を代行するという天職を行なわしめたまい、かくてのちこれを無窮に伝えしめたものである。天祖の御血統の尊いことは、厳然として犯すべからざるものである。君臣の区別はこうして定まり、大義はここに明らかとなった。天照大神が神器を伝えたもうたとき、とくに鏡を手にして祝いの詞を述べ「この鏡を見るときは、私を見るのと同じようになさい」と仰せられた。こうして後世長く、この鏡は天照大神の御神体として奉祀され、歴代の天皇は、この鏡を拝しては大神のお姿をその中にごらんになった。ごらんになるのは天祖の御分身たる天皇であるが、そこにまざまざと大神をお目にされるのである。このようなとき、礼拝の刹那に、神秘的な神人相感が生じるのは必然である。したがって、その祖先を祭って孝心をあらわし、身を謹み徳を修めたまうのもまた必然である。このようにして、父子の親はあつく守られ、恩愛の極致はひろく栄えることになる。天照大神は、この二つのものによって人間の道をたてたまい、教えを万世に伝えたもうた。さて、君臣と父子の道は、天道の最大のものであり、内においては父子の恩愛が栄え、外においては君臣の大義が明らかとなれば、忠孝の道は樹立され、天と人を貫く大道は昭然ときわだつ。忠は貴人を貴ぶことであり、孝は親を親愛することである。万民がよく心を一つにし、上下がよく相親しむのはまことに理由あることである。
 ところでこの忠孝の教えが誰いわずとも存在し、万民が日々それを用いながら気づかないというのは何故であろうか。天祖は天にあって地上を照らしたまい、天孫は地にあって真心と敬意をつくして天祖に報じたまう。祭政は一致し、治めたまう天職、代行したまう天業は、一として天祖に奉仕したまうものでないものはない。このようにして祖先を尊んで民衆を治めたまうのであるが、すでに天と御一体である以上、その御地位が天とともに悠久であるのはまさに当然というべきである。ゆえに御歴代天皇が天に対する孝心をあらわしたまうに、あるいは御陵を祭り、あるいは祭祀・礼典を重んじたまうのは、その誠と敬をつくしたまう所以であって、礼制は大いに備わっているというべきであるが、その本に報じ、祖先を尊ぶという意味において、大嘗祭はその極致をなすものである。
 
 大嘗祭の大義(略)
 天人交感の秘儀(略)
 時勢の変(略)

 邪説の害
 邪説の害というのは何か。古代神皇が神道によって教えを設け、もって民心を総合したもうたその根源はもっぱら一つであり、もともと定まった道があった。そして天に仕え、祖先を祀るという心が後世に伝えられて、人民は本に報い始めに反(カエ)るという意味を知った。神武天皇が天つ神を奉じてまつろわぬものどもを討伐されたときは、しばしば神々を祭りたもうたが、ついに霊畤(レイジ・祭の庭)を鳥見山(トミヤマ)に建てて天照大神を祭り、もって大孝を申(ノ)べたもうた。崇神天皇は神祇を崇敬し、敬(ツツシ)んで天照大神に奉仕され、祭式例を天下に頒布したもうたので、本に報い始めに反るの意義は天下に行き渡り、天下は朝廷を天つ神のように仰ぎ奉り孝の心をもって君に仕え、心を同じくし志を一にしてともに忠をつくし、風俗はきわめて淳厚となった。応神天皇の御代となって、はじめて孔子の経書が入り、これが天下に行われるにいたった。その経書は堯・舜・周公・孔子の道を述べたものであるが、その国土は日本に隣接していて風土・気候はよく類似しその教えは天命・人心をもととし、忠孝を明らかにし、もって帝に仕え祖先を祀ることを教えたもので、天照大神の不朽の教えと大同小異である。〔…〕もしよく資(ト)り用いて祖宗の政治と教えをますます明らかにととのえ、いつまでも怠ることがないならば、その成果はいいつくせぬほどのものがあろう。ところが異端邪説が次々におこり、巫術(フジュツ・シャーマニズム)の信徒があり、仏教あり、固陋なあるいは曲学の儒者あり、西の果ての耶蘇教あり、その他、教化を乱し風俗を破るものは枚挙にいとまがない。祖宗が祭式を正されたのは、天下万民ともに、天に奉仕し、祖先を祀るためであり、その意義は天下に普遍して区別のあるべきことはない。ところが古い家柄の一族でその家説を墨守してかならずしも誤りを捨てないものがあり、地方や民間でひそかに邪神を信奉して、福を祈り幸いを求めることだけ行って、天に仕え、祖先を祀るという根本義を知らないものなどが生じた。世間で陋習を守り、神秘的なことを好むものたちは、怪奇愚昧な理論をそれにこじつけ、人と神の区別を混乱させて、ついには巫術の信徒になってしまう。後世になってあるいは儒教・仏教の説を剽窃してもっともらしい理屈を語り、それを渡世の手段とするものもある。こうなると、神に仕えるといっても、祖宗のいう本に報い始めに反るの意とは異なる。忠臣・孝子でも何にもとづいてその敬と孝をつくすのかわからなくなる。こうなって人民の志は統一を失ってしまった。

 仏法の害
 仏法がわが国に入ったとき、朝廷ではわが国には祭祀の法があるから、蛮人の神を拝すべきではないという議論があった。ところが逆臣蘇我馬子は私にこれを信奉し、聖徳太子などと結託して寺院を建立した。それ以後、僧侶がしだいにふえ、さかんに仏説を宣伝したので、民心は神の道から離散してしまった。『大宝令』が神祇官を太政官の上位におき、僧尼を玄蕃寮(ゲンバリョウ・外国のことを管掌する役所)の管理に属せしめたことは、よく国体を知ったものといえる。しかしやはり祭と政とを二分しなければならなかったのは、当時の人情・風俗がすでに昔のように純一でなかったことを示している。そして聖武・孝謙の御代になると、仏事はますますさかんとなり、朝廷の政治・行政で仏教信仰を中心としないものはなくなり、ついには国分寺を各国において国府と同格にし、その法を国郡に布告して政治と仏事とを一つにしてしまった。上の好むところの仏法をもって政治を行うのだから、下のものが争ってこれに傾いたのは当然である。ここにおいて天下の人は風になびくようにただ蛮神だけを尊信した。本地垂迹説(ホンチスイジャクsツ)がおこると、おごそかな神々も仏名を冠されるようになった。天をあざむき、人をごまかし、わが人民の仰ぎ見るものをことごとく仏の分かれたもの、その末流と見なし、神の国をインドの国にかえ、日本の人々を西の蛮族の配下としてしまった。国内ことごとく自分から蛮夷に変わってしまえば、国体の存在するわけがない。ゆえに後白河上皇のように貴い御身分でありながら、山法師の制しがたいのを嘆きたもうたのである。時勢がわかるというものである。一向専念の説(一向宗の専修念仏説 真宗)がおこるようになると、神名帳にのるほどの名祠・大社であってもこれを礼拝することを許さず、本に報い始めに反るという心を禁遏(キンアツ)してもっぱら仏を信仰せしめた。ここにいたって人民はインドがあるのを知っていても日本のことを忘れ、僧尼があるのを知っていても君父のことは忘れた。一向一揆のときは、正義によってこれを討つものをさして法敵とよび、あるときなど、忠烈の武士でありながら、武器をとって君父に反抗したものさえあった。忠孝がすたれ人間の志が分離したこと、実に極端であったといえよう。〔…〕

 俗儒の書
 聖賢の教えは、己れを修め人を教化する道以外のものではない。近世の固陋な儒者や曲学阿世の学者たちは聖人の教えの根本を理解せず、気ままな議論を説いたり、こじつけの経書解釈を行って新奇を競い、博学をひけらかすものがあり、また詩文を作って文章を競いそれで名利を求めるようなものがあるが、これらの雑多な連中は、もとより問題にならない。しかしあるいは大義名分に無知で、明や清を称して華夏とか中国と呼んでわが国体を辱しめるもの、あるいは時勢に追随して名分を乱し、大義を忘れて天皇をあたかも国内亡命者のように見なし、上は歴代天皇の御徳を傷つけ、下は幕府の正義をないがしろにするもの、あるいはこまかいことを数え上げ、ただ利潤のことだけを論じて、それを経世済民の学と自称するもの、あるいは外貌も厳かに宋儒性理の学を談ずれば、その言葉は高尚らしく、その品行は謹厳らしく見えるが、その実はつまり郷愿(キョウゲン・君子らしい俗物)であって、国家の安危も知らず、現実の必要にも応じられないようなもの、すべてこれらのものは忠でもなく、孝でもなく、また堯・舜・孔子のいう道でもないのである。このようにして祖宗の教えは呪術者によって乱され、仏教によって変質せしめられ、俗物的儒者によって矮小化せられ、その言説は矛盾して民心を分裂させ、君臣の義、父子の親(シン)は、いいかげんにして顧みない結果となる。天と人を貫く大道はどこにあるといえようか。

 西洋の邪教
 しかしながら、むかしの民心を乱したところのものは、せいぜいのところ国内の邪民にすぎなかった。ところが西洋の異人にいたっては、各国とも耶蘇教を信奉してその力で諸国を併呑し、いたるところの寺社を焼き払い、人民をあざむいて、その国土を略奪している。その志は他国の君主をすべて臣下とし、その人民を奴隷とするのでなければ満足しないというものである。その勢いがますます猛烈になって、すでにルソン、ジャワを滅ぼし、ついにはわが日本をも狙いはじめた。かつて彼らは西日本を扇動したが(島原の乱)、これはルソン、ジャワに対するのと同じ手段をもって日本に対しようとしたものである。その邪教が民心をまどわすのは、けっしてたんに国内の姦民にとどまらなかった。幸いに明君・賢相がその悪謀を見抜かれ、一人の生残りもいないまでに完全に絶滅されたのである。頑強な邪宗の徒も、わが国に根をおろすにいたらず、以来二百年、人民が邪教の誘惑から免れることができたのは、大いなるその恩恵である。
 しかしながら、神々の大道はなお明らかでなく、民心もまだそのよりどころとすべきものがなく、国内における姦民の存在は、依然たるものであった。彼らがつき従うものは祈祷師や僧侶か、でなければ、俗流の儒者であった。たとえていえば、瀕死の病気は取り除いたけれども、元気はまだ回復せず、あとをどうしたらいいかわからないのと同じように、その内部に中心とするものがなく、外界の異物に刺激されやすいという状態である。ところが最近また蘭学というものが生じた。この学問はもと通訳から出たもので、オランダの文書を読んで、その言葉を解するというだけのものであった。元来、世に害があるというほどのものではない。ところが耳学問の連中は西洋人の大げさな学説を聞き取り、さかんにこれを讃美し、書物を書いて出版し、この尊い日本を毛唐の国に変えてしまおうとするものまで出てきた。そのほかにも珍しい道具や薬品が人の目を奪い、心を恍惚とさせるようなことがあって、そういう悪い風習がかえってまた西洋風俗への憧れをひきおこすことになる。もし、いつか西洋の悪人どもがそれを利用して愚民を誘惑するならば、彼らもまた西洋の下劣な風俗に変わってしまうことを禁ずるのは容易ではない。「霜を履(フ)んで堅氷至る」(『周易』「坤卦」初六)というが、大悪はその初期に食い止め、増大せしめてはならぬ。広範深刻な害悪となるはずのものは、よくよく見通しを立て、予防しなければならぬ。いま外夷は不逞な野心をいだいてたえず辺境を窺っており、内には邪説の害がはびこっている。このようにあらゆることが油断ならない事態である。もし夷狄(イテキ)をわが日本国内に引き入れれば、一般人はその邪悪な仲間となり、官にあるものは私欲のためにこれに結託しようとする悪徳を生じ、天下はざわめきたつであろう。以上を大ざっぱに見れば、はたして日本であるか、明・清であるか、それともインドであるか、または西洋であるか。国体はいったいどうなっているのかというありさまである。いったい四肢の具わらぬものは人間とはいえない。国としてその体をもたねばどうして国といえよう。ところが世の論者はただ「富国強兵をはかるのが辺防の要務である」とだけいう。いま外敵は民心に中心がないのにつけこみ、ひそかに辺境の人民を誘惑して暗々裡にその心をとらえようとしている。民心がいったんとらえられてしまえば、戦う前にすでに天下は外夷のものとなってしまうであろう。富国といってもそれはすでにわがものではなく、賊に兵器を貸し、盗人に糧食を与える結果となるだけである。苦慮苦心して富国強兵を実現しながら、あるときすべてを与えて賊のために役立てるというのは遺憾なことである。少しでも事態の本質がわかるものは、誰ひとり切歯扼腕し憤激しないものはないであろう。いま幕府はともに断然として天下に布告し、辺土の人民が外夷に親近するのを厳禁し、悪賢い夷狄が勝手気ままにわが人民を誘惑したり、扇動したりはできないようにした。この命令が布告されてからというもの、天下の知者・愚人をとわず、夷狄の悪謀・悪計の憎むべく、忌むべきことを知らないものはなくなった。天下の人心がなお健在であることはかくのとおりである。
 さて現今は古(イニシエ)を去ること遠いとはいえ、仰ぎ奉るところの天皇は厳然として天祖の正しい御血統にまします。治められる人民は依然として天祖の愛養したもうたものたちの子孫である。人心の中になお健在なるものをよりどころとし、その教えの筋を正し、神皇が天下を教化育成せられたお心を根本とし、天に仕え、祖先を祀り、本に報いはじめに反り、こうして君臣の義を正し、父子の親を厚くし、万民を教化してその心を一つとするならば、なしがたいことがあろうはずがない。これすなわち千載一遇の時機であり、けっして失うべからざる機会である。臣はそのため弊害の生じた由来を詳しく突き止めようとして、邪説の害ということを心にかけざるを得なかったのである。そもそも英雄は事態を一変せしめ、絶妙な変化をひきおこすことができるもので、いつ、いかなることでもなし得ないということはない。そして帝王が四海を保つに頼りとする所以のものは、天と人の大道であり、その形式は変化し得ても、その意義は不変である。したがって神々が天地を統御し、万民をして離れるに忍びない親しみをその支配者に対しいだかしめるという根本原理は、今日といえども実現され得ないことはないのである。今日の時勢の変、邪説の害というものは、天下がその弊にたえきれないほどであるが、しかし人心を更張作新しようと欲するなら、これに対処する正しい方策を考えるだけでよろしい。

 国体中 
 朝廷が武によって建国し、武備をととのえて四方を風靡したもうた由来は古いことである。弓矢や矛の利用はすでに神代に知られており、剣は三種の神器の一つである。そこで細戈千足(クワシホコチタル)の国とよばれたのである。天照大神が日本の土地を天孫に授けたもうたとき、天忍日命(アメノオシヒノミコト)に来目(クメ・久米)の兵を率いて随行せしめられた。神武天皇の東征に際しても、来目の部隊を敵兵を挫くために専用され、ついに大和を平定したもうた。さらに物部を置いて来目とともに宮廷の護衛とし、国土鎮定の部隊たらしめた。崇神天皇は四道に将軍を派遣して服従せぬものどもを討ち平らげ、皇子豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト)をして東国を治めしめたもうた。そうして人民には農業のあいまに狩猟をさせ、その獲物は調(ミツギ)ものとし、また兵役に従事するための訓練とした。このような制度がいったん成立すると、御歴代はそれを遵奉され、境域は日に日に広まり、東は蝦夷を追い払い、西は九州を清め、ついには三韓を平らげ、任那に日本府を設けてこれを統御した。強兵につとめた成果がここに実現したのである。仁徳天皇の御代には国内は平和で武力を用いることがなかった。履仲天皇・安康天皇のころからのち、しだいに国力は衰退し、十余代ののちに任那は亡び、三韓は朝貢しなくなった。中興の英主天智天皇は皇化の不振を憤り、おんみずから前進基地に臨んで任那を経営しようとされたが戦いは不利に終わった。しかし当時は東方経略が主眼で、大いに蝦夷を撃撰し、後方羊蹄(シリベシ)に支配所を建設し(…)、ついには粛慎(シュクシン)(ミシハセ。ツングース族)を征討した。これは斉明天皇時代のことであるが、天智天皇が皇太子としてその英略を助けたもうたものと思われる。こうしてその余威は渤海にまでふるい、渤海もまた使節を派遣して朝貢してきた。強兵の成果がまた実現したのである。以来、百余年、世道人心はしだいに衰えたとはいえ、しかも桓武・嵯峨の御代になると、ついに陸奥の賊を平定し、蝦夷を本土の外へ追い払ったところを見ると、まだまだ武威は衰えてはいなかったというべきである。そもそも賊を打ち払い、国土を開拓することは、天照大神が御子孫のために遺された大方針であり、天孫はそれを継承発展したもうたのである。ゆえに天照大神を祭る祝詞(ノリト)には「神の照らしたまうところは、天の窮(キワ)み、地の果てまでも、狭いところ広く、険しいところは平らかにし、遠いところは多くの綱をかけて引き寄せるがごとくに」といわれている。これは天皇の御稜威(ミイツ)がたえず四方に広がることを祈ったもので、朝廷が建国にあたり武を尚(トウト)ばれたという意味もまたわかろうというものである。
 
 兵制の三変 以下略

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日本の戦争と水戸学(藤田東湖) NO1

2020年06月27日 | 国際・政治

 下記の「弘道館記述義」は、水戸藩主・徳川斉昭の命を受けて藤田東湖が起草した「弘道館記」に対する藤田東湖自身による解説で、水戸学の代表的著作として、各藩藩校などで教科書として使用されたといいます。
 だから、明治維新はもちろん、先の大戦における敗戦に至るまで、日本人に大きな影響を与え続けた著作であるといえます。
 
 藤田東湖の水戸学の思想に共鳴した幕末の志士は、倒幕によって明治維新を成し遂げると、古事記や日本書紀などの建国神話を基に、日本を天皇親政の皇国(スメラミクニ)にしました。その皇国は、日本の敗戦まで続きました。だから、日本の戦争にも深くかかわる思想であったのです。

 それは敗戦後、徳富蘇峰が『頑蘇夢物語』に”此頃ハ藤田東湖も松陰モ 説ク人モナク聴ク人モナシ”と、戦後の日本を嘆く歌を載せていたことや、二・二六事件蹶起将校の一人、磯部浅一が裁判の陳述の中で、”兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」(大義を明にし、人心を正さば、皇道なんぞ興起せざるを憂えん)が実現するものと考えます”などと主張したことによっても分かります。 

 その藤田東湖の代表的著作が「弘道館記述義」ですが、明治日本は、彼の思想によってつくられたといっても過言ではないようなことが書かれています。
 外国との行き来がほとんどなく、学問的な交流もなかった当時の状況を考えれば、藤田東湖の思想や、また彼の思想が多くの人に受け入れられていった現実に、それなりの必然性があるのでしょうが、彼の記述は、『古事記』や『日本書紀』の「神代の物語」、すなわち「神話」に基づいており、日本は「神州」であり、他国より優れた国であるという考え方で貫かれています。日本の文化や伝統を、他国のそれと比較して、客観的に見るという社会科学的な視点は、ほとんどありません。
 だから、彼のような国粋主義的な思想が、長州藩を中心とする過激な倒幕派下級武士の考え方と結びついていったことは、日本にとってとても不幸なことであったと思います。
 ”長州藩は毎年正月に、徳川家打倒の計画を一族で語り合うほどに、徳川家を恨みぬいていた”などといわれていますが、藤田東湖などの水戸学の尊王思想は、長州藩を中心とする過激な下級武士の考え方と結びついて、強硬な倒幕の思想となっていったのではないかと思います。

 大政奉還を上奏した徳川慶喜は、孝明天皇による「将軍宣下」によって、日本の統治大権を行使する征夷大将軍職にありました。したがって、大政奉還後は、諸侯会議によって新しい政権が生み出されるべきであったと思います。だから、倒幕派による王政復古のクーデタは、大政奉還後の公式の政治日程を無視し、武力で御所を固めて天皇親政を宣言したもので、諸侯会議の存在や孝明天皇が望んだ公武合体の政策を暴力的に潰すものであったと思います。

 そして、いわゆる「佐幕派」の勢力を徹底的に壊滅させる「戊辰戦争」までやって、倒幕派がつくった明治の日本は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス”(官報號外 昭和21年1月1日 詔書 [人間宣言]) 国であり、薩長出身者が要職を固め、その後、戦争をくり返すことになる「皇国日本」でした。

 藤田東湖は、”父子・君臣・夫婦は人道の最大のもの”で、”斯の道(神道)以外に別な道はなく”というようなことをくり返し書いていますが、それは、軍人勅語や教育勅語に発展していった考え方だと思います。
 また、”仏といい、僧といい、いずれも未開の蛮人のものであって、わが神州にもともと存在するものではない”と書いていますが、この考え方が、明治維新後の「廃仏毀釈」の運動につながっていったと思います。


 また、”尊いわが国の神々は、もとよりかの西方漢土の牛首にして蛇身(伏羲・神農のこと)というような奇妙な存在ではない。そして皇統の始まりと、神器の伝わる由来とは、およそ日本に生まれたものとして、その起源を詳悉しなければならぬことである”とか、”天照大神が高天原を統御したまうや、その光明は天地四方に照りとおり、その御盛徳・御大業は至らぬくまもなかった”とかいう日本中心の考え方も、その後の日本にいろいろな影響を与える考え方あったと思います。
 
 下記は、「藤田東湖」(日本の名著29)橋川文三責任編集(中央公論社)から一部抜粋しました。
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               「弘道館記述義」 巻の上
                                   臣 藤田彪 謹述

 弘道トハ何ゾ。人能ク道ヲ弘ムルナリ。道トハア何ゾ。天地ノ大経ニシテ、生民ノ須臾(シュユ)モ離ルベカラザルモノナリ。(弘道とはどういう意味か。人間が道を広めることである。道とは何か。天地の大原理で、人間が一刻も離れることができないものである)

 謹んで解し奉るに、古代の日本は社会は質朴、人間は素直で、まだ文字というものがなく、いわゆる道などということもまだはっきり口にするものはなかった。それなら道はもともと、上古にその源をもたなかったのであろうか。否、どうしてそのようなことがあろう。当時はただ、そのような名がなかっただけである。その事実にいたっては、すべて神々にはじまらないということがないのである。どうしてそのようにいえるのか。そもそも父子・君臣・夫婦は人道の最大のものであり、上代においても父子・君臣・夫婦の分は厳として定まっていること、あたかも天は尊(タカ)く、地は卑(ヒク)い
のと同じである。上位者が命令して下位者がこれに従い、男が唱えて女がこれに相和したことは、あたかも天が万物生成の気を地に及ぼして地が万物を生育し、万物おのおのその性を展開するのと同じである。神代のことは茫漠としているが、古典の記されたところははっきりしており、疑問の余地はない。さきに「その事実にいたっては、神々に始まる」としたのは当然ではなかろうか。
 思うに道というのは、大路のようなものである。人々はその大路に従って歩み、終始この道以外の道を歩むことはないとするなら、この道を特別に道として意識することもない。この道はただ一つであって、分れ道が存在しないとするならば、どうしてこの道に名まえをつけたりしようか。天地はじまって以来斯の道(神道)以外に別な道はなく、君臣も上下も喜び満ち足りてこの道に従い、これを行い、異端邪説が混じり込むことはたえてなかったとすれば、斯の道に名まえがなかったのも当然ではなかろうか。
 百済から博士が渡来して、はじめて儒教というものが知られるにいたった。この儒教の教えは、もっとも五典を重んずるものである。この五典のいわゆる親・義・別・序・信の道はみなわが国に固有のものであり、ただ、儒教の文明化した理論によって、これをおしひろめ、これをわが国の父子、君臣に適用し、わが国の夫婦・長幼・朋友に応用しただけであって、斯の道の純一性はなんら変わらないのである。しかし仏教が西方から渡来してからは事情が異なる。その教えは何よりも三宝を尊ぶものである。しかし仏といい、僧といい、いずれも未開の蛮人のものであって、わが神州にもともと存在するものではない。ここにおいて斯の道にも名まえをつけて、それと区別しなければならなかった。筋からいっても成行きからいっても、必然のことである。そこであるいは神道〔『日本書紀』の「用明記」に神道という用語がはじめてあらわれる〕と称し、あるいは古道〔「皇極記」〕と称し、あるいは上古聖王の迹〔「孝徳紀」〕と称したが、いずれも異邦(インド)の教えから区別するためである。

 後世の誇大を論ずるものは、その事実に証拠をさぐろうとしないで、いたずらにその名まえから事実をさぐろうとする。名まえが存在しないと、すぐに古代にはまだ道がなかったなどという。道が純一性を保てばこそ、その名がないということを知らないだけである。『詩経』に「天蒸民(ジョウミン)を生ず、物あれば則(ノリ)あり」(天は人類を作り出したが、その作られた人間の間にはおのずから法則がある)という言葉がある。すなわち、天地があれば、そこに天地の道があり、人間があればそこに人間の道があるということである。神々は人類発生の根本であり、天地は万物の始原である。してみれば、人類の道は天地にもとづいており、また神々にもとづいていることは明らかである。わが斉昭公は早くから古典に深く親しまれ、斯の道の根本に関して直観的に御理解をもたれていた。だから一語でその本質を断じて「天地ノ大経ニシテ、生民ノ須臾(シュユ)モ離ルベカラザルモノ」と述べたもうたのである。実にゆきとどいた御洞察である。

 弘道ノ館ハ何ガ為ニ設ケタルヤ。恭(ウヤウヤ)シク惟(オモン)ミルニ、上古神聖、極ヲ立テ統ヲ垂レタ
マイ、(弘道館は何のために設けられたのであろうか。うやうやしく思うに、古代の神々が悠久の道を立てたもうて、後世の天皇にこれを伝えたまい)

 謹んで解し奉るに、天つ神・国つ神の記紀にあらわれ、祀典(シテン)に記載されたものは数えきれな
い。それを斉昭公は「神聖」の二字によって包括したもうたが、思うにこれには理由がある。いまそれを私見によって論じてみよう。天地のはじめのとき、神々の生じたもうた前後・順序を詳らかにすることはいまでもむずかしい。舎人親王が『日本書紀』を撰述したもうたときは、国常立尊(クニノトコタチノミコト)をもって最初になりいでたもうた神とし、以後あいついで神々があらわれ伊弉諾尊・伊弉諾尊にいたるまでを神代七代(カミノヨナナヨ)と称している。さらにその下に諸説が掲げてあるが、それには異同もあれば、詳細・簡略の差異もある。それ以前に太安万侶が『古事記』を撰し、その神世七世は『日本書紀』の本文と大同小異であるが、ただとくに別天神(コトアマツカミ)と名づける神々があって、これは天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)をもって最初にあらわれた神とし、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)・神皇産霊神(カミムスビノカミ)などの四柱の神々がこれにつづき、これを神世七世の前にあげている。そのため後世の古代を論ずるものは、あるいは『書記』により、あるいは『古事記』に従い、あるいは両者を折衷して天御中主神と国常立尊とは同体異名の神であるとしたりする。神外の先後・同異の論でさえなおこのように不定であるが、その功徳・事業の点になると諸説紛々、牽強付会の解釈はとどまるところを知らない。
 いったい上代のことは悠遠の過去のことであるからもともと一説に固執して論ずることはできない。『日本書紀』は神代を取り扱う際、かならずみな諸説をあげて、異同の存在を示しているが、親王の時代、すでに詳細はわかりにくかったのである。親王は厳密慎重を期され、あえて軽軽しい決定を下されなかったが、後世の人は千数百年後に生まれながらあれこれ穿鑿し、想像で断定して信ずべき事実を確定しようとしている。大それた話である。
 ・・・
 うやうやしく思うに、尊いわが国の神々は、もとよりかの西方漢土の牛首にして蛇身(伏羲・神農のこと)というような奇妙な存在ではない。そして皇統の始まりと、神器の伝わる由来とは、およそ日本に生まれたものとして、その起源を詳悉しなければならぬことである。しかし現代の考えで古代を推し測り、みだりに微妙な事柄を誇大に主張したりすれば、荒唐無稽におちいらないですむことはめったにない。ゆえに光圀公の歴史記述は神武天皇に始まり、神代の大要は巻首に掲げてもって皇統の根源を明らかにしている。思うに例の牽強付会におちいることを正そうとされたのである。〔世間に流布している『大日本史』の「紀伝」はかなり脱誤があるから、わが藩の版本をもって正本とすべきである。「紀伝」は神武天皇に始まるが、神祇・氏族・職官・兵・刑の類でおよそ太古に起源をもつものは、ことごとくこれを「志」の記述に収録しているから、神代の事柄もおのずからその中にあらわれている。よく完備したものといえる〕
 ・・・
 天地位(クライ)シ、万物育ス(天地はその所を得て定まり、万物はその生を遂げる)

 謹んで解し奉るに、神々の盛徳・大業の古典に記されたものはたいてい不可思議で測り知れず、もとより常識では論じがたい。しかし思うに、天地始まって以来伝えてきた説であるから、けっして疑ってはならず、またこじつけによって真実を混乱させるべきでもない。
 中世以降、あつく古代を信ずる心がうすれ、みだりに私知でもって神代を推し測り、古典に記載するところはすべてが現実にあったことではない、と考えるようになった。そこで比喩としてこれを解釈し、陰陽五行の術にこじつけるか、でなければ荒唐無稽な虚無(老荘思想)・寂滅(仏教思想)の説などにこじつけるようになった。そしてややもすると秘訣と称してその愚劣な考えを掩(オオ)い隠し、ついには神々の支配の御事蹟を言葉の謎ときのようなものと同じにしてしまった。まことに嘆かわしい次第である。
 近世になって国学者というものがあらわれ、よく上述したような誤りを改め、事柄を比較考証し、諸資料を総合研究してた多年の間違いをときほぐした。その古典研究の功績は大いなるものがある。しかしまた弊害もあって、太古のことを論ずるにあたり、あたかも自分がその時代におり、現実にそのことを目撃しているかのように、譬えを引いたり、類推したり、とめどもなく弁論分析を述べたて、例の古典を疑うものたちを説服しようとするものがある。やはりこれは私知をもって神代を推し測るものである。曲がったものを直そうとして、まっすぐにしすぎたといえなくもないであろう〔はじめて国学を唱え出した人は、なおいくらかは疑問は疑問としておくという態度があった。それでもすでにそこにでたらめの端緒は始まっていたのであるが、その亜流にいたっては老荘の影響をうけたりして、素朴ということだけを強調して文化ということを無視するものであり、はなはだしいのはこっそり西洋の学問を取り入れて神代のことを論じたりする。その気ままさはすでに相当なものである。慎まなければならぬ〕
 斎部広成(インベノヒロナリ)はかつて述べて「上古のことを説くのは盤古の伝説に似ている夏の虫が氷の
存在を信じないと同じように、疑う心はなかなかに信じがたいものである。しかし国家の神器や霊跡はみないまも現存しているのだから、虚偽ということはできない」といった。また北畠親房は「伊弉諾尊・伊弉冉尊が大八洲と山海・草木を生みたもうてからそれらにみな神名がついた。しかし神がまず天より降って物を生みたもうたものか、または物がまず発生してから神がそれに依りたもうたものか、神代のことはもともと測りがたいのである」と述べた。実に味わい深いものである。
 むかし、子思は『中庸』を作り、その極致を論じたところで「天地位し、万物育ス」と述べた。斉昭公はこの言葉を援用してもって神々の御功業の事跡を讃美したもうたのである。その古代を信じたまう心はもとより広成以上であり、その御見識もまた親房以下ではない。読む人がうっかり見過ごし、ただ神々の功業を形容する修辞だと思うならばそれはただしくない。あるいはまた穿鑿・想像を事として、天地はいかにしてわかれたかとか、万物はいかにして生育したかなどと考えるなら、それはさらに公の真意から遠ざかるものであろう。

 其ノ六合(リクゴウ)ニ照臨シ、愚内ヲ統御シタマウ所以ノモノ、未ダ嘗(カツ)テ斯ノ道ニ由ラズンバアラザルナリ。(天地に君臨し、世界を統治したまう所以は、すべて斯の道によらぬということはないのである)

 謹んで解し奉るに、天照大神が高天原を統御したまうや、その光明は天地四方に照りとおり、その御盛徳・御大業は至らぬくまもなかった。いまそのすべてを讃えようとしても、その測り知れないことがわかるだけである。したがってここではあえてひそかに古典にもとづきその片鱗だけを論ずることにしたい。思うに、祖先を祭る道と親に孝敬をつくす義とは天照大神に始まっている〔『書記』『古事記』いずれにも天照大神が新嘗を行ないたまうこと、神衣(カンミソ)を作りたまうことを記している。ただ古史は簡単すぎて何という神を祭り、何んという神に供えたもうたか知ることはできない。そのため後世のものはいろいろこじつけの説をとなえているが、すべて信用するに足りない〕
 その証拠はなにかといえば、天孫がこの国に降臨したまうとき、天照大神はお手に宝鏡をささげてこれに授けたまい、祝福していわれたのは「わが子よ、この鏡を見るときは私を見るようになさい。同じ御殿におき、同じ寝所においてお祭りしなさい」というお言葉であった。まことに目のさめるようなみごとなお教えであり、事実代代の天皇のまもりたもうたところであるばかりか、祖先の祭り孝敬の道はここにつくされているのである。いったい父母があってのち子孫があるのだから、子孫は父祖に対して生きている間はこれに仕え、亡くなってからはこれを祭るのはもとより自然の道であり、子々孫々と生まれついでたとえ千万年になろうとも、そのもとが始祖に始まるということは少しもかわらないのだから、遠い祖先を偲び、その始祖に報ずるということもまた、千万年へようとも怠ってはならないことである。
 海外の国々のうち、文明のもっとも進んでいるのは西土(中国)にまさるものはない。その西土の教えもまた一つに孝を根本としていること、その天子から庶民にいたるまで同じである。ただし天子はいわゆる「天を敬し」「上帝に事(ツカ)える」ということがある。日本の祭祀の道は遠く神代に始まっているが、しかし天といい、上帝というものは古代にはなかった。思うにこれには理由がある。〔中世以降、もっぱら異国の制度を模倣したので、ついに上帝を祀る儀式が生じたが、これは古代の心を失ったもののように思われる。その他、下文にいうように、「此を捨て、彼に従う」という例は枚挙にいとまがないが、深く慨(ナゲ)くべきことである〕
 恐れ多いことながら天照大神は天においては太陽と同体にましまし、地においては霊を宝鏡に留めたまうている。してみれば輝かしい太陽、壮麗な伊勢神宮は、実に天照大神の精霊のましますところである。歴代の天皇がこれを尊び、これを祭りたまうことで天を敬し、祖先に仕えるという意味はかねそなわっている。中国の天子が天と上帝を果てしもない青空の中にもとめるのとはもとより比較にならない。神の御子孫がよくその明らかな徳をうけつがれ、臣下たる公卿士庶のものがみなその広大な御恩に感じ、孝と敬の道をひたすらつくして天照大神の御威霊をおしひろめるならば、ひとり日本の人民がかぎりない徳化に浴するばかりでなく、遠く海をへだてた外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう。実にすばらしいことではないか。

 宝祚之ヲ以テ窮リナク、(皇位はこの道によって無窮であり)

 謹んで解し奉るに、天照大神がその御大業を子孫に伝えたまい、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が国の基礎をきずきやもうたのはみな神代のことである。その在位年数や御年齢はいまは明らかにし得ない。しかしその年月はおそらく長久であったと思われる。〔神武天皇は百三十七歳、その祖父火遠理尊(ホオリノミコト=彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)は五百八十歳であった。思うに、古い時代ほど寿命は長かったのであろう。しかしその詳しいことはいまは考定し得ない〕。正史の紀年にしたがえば神武天皇の辛酉(シンユウ)の年を元年としている。その年からいまにいたるまで、さらに二千五百有余年であるが、神代を通算するとおよそ幾千万年になるかわからない。その悠久な御歴代の間には栄えたことも衰えたこともあったが、天皇の御尊厳には万世かわることなく、あたかも太陽が天にかかるのと同じであった。地方の身分低き一臣下としてあえて論ずべきことではない。しかしながら幸いにも神国に生まれ、世々その恵みに浴して生きるものとして、その起源が何かを知らないでいいわけはない。
 はじめ天孫が地上に降臨したもうたとき、天照大神は三種の神器をこれに授けたもうた。玉と鏡と剣の三つがそれである。…
 ・・・
 古代には天皇を「すめらみこと」と申し上げた。「すめら」の意味は統御であり、「みこと」というのは尊称である。すなわち天下を統治したまうもっとも尊貴のお方というほどの意味である。また天業のことを「あまつひつぎ」とよぶ。「あまつひ」は太陽である。「つぎ」は継承のことである。すなわちかならず太陽神の血統が皇位を継承したまうべきことをいったものである。…
 それ以後、天照大神の御子孫が代々、三種の神器を奉じて万民の上に君臨したまい、群神の子孫たる諸氏もまたその職を世襲し、もって皇室を輔翼し奉った。これが神州の建国事情の概略である。天照大神と皇孫瓊瓊杵尊が後世に伝えたもうた御創業は、まことに崇高きわまりなく雄大なものであった。皇統連綿として栄えること天地とともに無窮というのはけっして偶然ではないのである。
 ・・・
 日本という国号は中世に始まっているが、その由来もまた久しいものがある。なぜそれがわかるかというと、むかし天孫がこの国に降臨したもうたとき、朝日、夕日の輝りかがやく土地を選ばれ、この地は非常に良いとお考えになって、そこに最初の皇居を造営したもうた。景行天皇は子湯県(コユノアガタ=日向の子湯郡)に行幸したとき、「この国は太陽の出る方向に直面している」と仰せられ、そこで日向という名がつけられた。成務天皇が国郡の区域を定められたとき、東西を「日の縦(ヒノタタシ)」となし、南北を「日横(ヒノヨコシ)」となしたもうた。天孫や天皇が明るい太陽の輝く土地を愛したもうたことは、このような例からもすでにわかる。さらに太陽の運行によって国や郡を区分したまい、日本はその根本の場所に位置し、あらゆる異民族はすべてその余光をあおぐのであるから、日本という国号は、事実においてここに始まったということができる。
 ・・・
 後世にいたっても、武士はなお廉恥を重んじ、怯懦を軽蔑し、名を汚し祖先をはずかしめることを最大の戒めとして、忠義孝烈の人々が少なくなかった。鉄石をも貫くような強烈な真心を行動にあらわしながら、その振舞が少しもこせつかず、匂うような優雅さと好もしい余韻を残すのは、みな古代の風俗の影響であって、要するにそこにはいうにいわれぬおおらかな気分があり、海外の国々にはとうてい真似のできないところである。思うに国体の尊厳はかならず天地正大の気にもとづいている。
 ・・・
 崇神天皇は神祇を崇敬して天業を発展せしめたもうた。ここにおいて任那の国は蘇那喝叱知(ソナカシモチ)を派遣して朝貢し来たった。海外の民族がわが皇化になびくにいたったことで史書に録されているのはおそらくこれがはじめてである。崇神・景行の二帝はあいついで服従しない民族を討伐し、その威武をふるいたもうた。仲哀天皇は熊襲を御親征の中途で崩じたたもうた。神功皇后は神々の教えにより、仲哀天皇の御意志を奉じ〔…〕意を決して遠征したもうた。神兵の向かうところ、異民族のものたちはみな怖れ従い、三韓は属国と称して朝貢してきた。このころ国威は日一日とその光輝を高め、新羅国王の子(天日槍-アメノヒンボク)のごとき、秦主嬴政(始皇帝のこと)の後裔(始皇帝五世の孫、弓月君(ユヅキノキミ)のごとき、はるばると海を越え、日本の威風を慕って渡来してきた。東西の異民族は争って日本のために奉仕し、金銀・綾や錦の朝貢はひきもきらず、諸国はまるで日本の海外倉庫のごとき観を呈した。まことに壮観を極めたものであった。

 思うに人民が安らかに生を送るがために皇位は無窮であり、皇位が無窮であるがために国体は尊厳、国体が尊厳であるがために四方の異民族は服従する。この四者は循環して一つとなり、それぞれ相互に関連してみごとな一体をなしている。そしてそのしかる所以はといえば、元来斯の道によってもたらされなかったものというのはないのである。
 ・・・
 輝かしい日本は、天照大神が天孫に命じたもうて以来、皇族連綿として皇位を無窮に伝えており、皇位の尊厳はあたかも日月の侵すべからざるのと同じである。したがって万世にわたって、たとえ徳が舜や禹に比適し、知が湯王武王にひとしいものがあらわれようとも、ただひたすら上に奉じてその天業を翼賛するばかりである。万一、禅譲の説を唱えるものがあれば、いやしくも大日本の臣民たるもの、堂々とこれを攻撃してよろしい。まして禅譲・放伐を口実に皇位をねらうものたちは、けっしてこの日本に生かしておいてはならない。ましていわんや下等の異民族にわが国土の周辺を狙わせるようなことがあってはならない。ゆえに「資(ト)リテ以テ皇猷(コウユウ)ヲ賛ク」と述べたもうたのである。もしあちらの長所を採用しながら、その短所までも一緒に取り入れてしまい、ついにはわが国の万国に冠絶する所以のものを失うようなことがあれば、大業を賛助するという意味はどこにもないことになるのである。
 ・・・
 中世以降、異端邪説、民ヲ誣イ世ヲ惑ワシ、(中世以降、異端の教えが人民をあざむいて世を惑わし)

 謹んで解し奉るに、異端の教えで人民をあざむき、世を惑わす流派は一つではないが、インドの仏教の教えは、そのもっともはなはだしいものである。(西北のヨーロッパの教えの害毒は仏教よりも大きい。しかし祖先の決断によっていっさい禁止せられているから、ここでは再論しない)。いったい、ものがまず腐ってからのちに蛆虫(ウジムシ)が発生する。道がまず廃れてからのちに異端の教えが入ってくる。漢土でも三代の政治が衰えてから、老・荘・楊・墨の邪説がおこった。
 ・・・
 …蘇我稲目(ソガイナメ)が大臣(オオオミ)に任ぜられはじめて仏教普及の端緒をひらいた。…そのうえ、さらに聖徳太子がひたすら仏教を信奉してこれに呼応したため、蘇我氏の悪謀がしだいに実をむすび、邪教が広まったのは怪しむに足りない。こうして最終的には用明天皇が仏教に帰依され、崇峻天皇が突如として崩御され、推古天皇は多くの寺を建てて、大いに仏教を広めたもうた。また天智天皇の英明と藤原鎌足の知略をもってしても、その禍の究極をあらかじめ見抜いてその根本を絶つことはできなかった。こうして聖武天皇がみずから三宝の奴と称され孝謙天皇が妖僧道鏡に法王の位を授けられるにいたって、邪教の氾濫は極点に達した。「道まず廃れて、しかる後異端入る」といったことは、日本でも漢土でもまったく同様であり、それが世を惑わし、民心をあざむいて永くこの道の大害となっているのは、まことに嘆くべきことである。
 そもそも仏教の害は古人が詳細にこれを論じている。その奇怪極まる空論は元来論ずるにも足りない。思うに愚民はこれを信奉し、知恵者は実用上これを利用し、純正剛毅の人は嫌悪してこれを排撃し、狡猾な悪党は私欲のためにこれを悪用している。これを排撃するものはかならずしもその骨子をとらえていないのに、悪用するものはかえってよく私欲を遂げることがある。仏教の隆盛は主としてそのような理由によるのである。 
 ・・・
 …考えてみるに、この天地の間において、同じ血統が連綿と幾千万年も続いて変わらないのは、上にあっては皇室であり、内においては春日明神の御子孫(藤原氏とその系統)であり、国外においてはただ一つ孔子の子孫があるだけである。孔子もまた偉大な存在である。
 ・・・
 …もし、わが国の神道があたかも氷と炭のように儒教とまったく相反するものである、とするならばそういってもいい。しかしもし、わが国の道と儒教が同じ気から生じた花と実のように共通したものであるとするならば、儒教を排することはすなわちわが神道を矮小化することである。そればかりでなく、忠孝仁義という実質は天地はじまって以来、人類の生まれつきに備えたところのものである。
 ・・・ 
 神州ノ道ヲ奉ジ、西土ノ教ヲ資(ト)リ (わが国の古道を遵奉し、漢土の儒教を助けとし)

 謹んで解し奉るに、わが斯の道が不明確になってからもうずいぶん長いことである。また儒教が諸派に分裂してからも久しいことである。したがって古道を守り、儒教を助けとするためには、慎重に考察し明白に理解することが必要である。わが国の神道は僧侶がこれをわがものとしてゆがめてしまい、俗流の儒者たちはこれをかき乱し、宗派神道の輩はこれを矮小化し、国学者たちはこれをほとんど明らかにしかけたがついにはまたこれを曖昧化してしまった。なぜこのようなことをいうかといえば、神を敬い祭りを重んずるのは斯の道においてもっとも重大なことであるのに、僧侶たちは本地垂跡説などを唱えだして、あらゆる神々はすべて仏の末流に属するものと見なし、いたるところの神社に仏寺を建て、神と仏をあわせて祭り、神官と僧侶が隣合せに雑居するするようになった。はなはだしい場合には、表面は神道でありながら実体は仏教で、僧侶だけが祭りを主管しているのもある。また朝廷の儀式や行事においても、しばしば仏教の礼式を用い、ついには御大葬とか祖先の祭りのような重大事までもすべてこれを僧侶にゆだねることになった。
「僧侶がこれをわがものとしてゆがめてしまった」というのはそのことである。

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不敬罪、相馬屋事件「天皇ごっこ」

2020年06月16日 | 国際・政治

 「明治秘史 不敬罪”天皇ごっこ”」石堂英人(三一書房)は、戦争に関する歴史の流れだけを追いがちな私に、生きた人間の複雑な思いや、現実に生起する人間社会の出来事には、入り組んだ矛盾が存在することを教えてくれる興味深いものでした。

 なぜなら、大のおとなが、大金を注ぎ込み、周到な準備を重ね、みんなでしっかり役割分担をして「ごっこ遊び」に興ずるということも、また、それを知って、不敬ではないかと騒ぎたてたのが、当時の自由民権派の新聞『庄内新報』の記者、本間定吉であったということも、さらに、「天皇ごっこ」に興じた関係者が、女官に扮した芸者たちも含めて全員逮捕されるという事態に至ったにも拘わらず、天皇絶対のあの時代に、何故か無罪になり、その後少しも社会的地位を失うことなく復活することができたということも、常識的な感覚では、理解できないからです。

 それは、やはり戊辰戦争で、最後まで薩長を中心とするいわゆる「官軍」に抵抗した酒田の人びとの複雑な思いや、そうした思いを共有する人たちの様々な人間関係抜きには理解できないことなのだろうと思います。

 また、著者・石堂英人氏が「終 日枝神社の大絵馬」で書いている、下記のような事実は、現在もなお、天皇の存在が、日本人にとって重大であり続けていることの証であろうと思います。

 ”私は、これまでに書いてきた原稿を、四年間にわたって『新雑誌X』という雑誌に連載した。誌名に見るようにこの小誌は決してメジャーな雑誌ではない。けれども編集長の丸山実氏は私の友人であり、また気骨の人であったから、天皇制について批判的なこの作品を快く載せてくれたのである。ついでにいえば、一見「自由」を謳歌しているように見えるわが国のマスコミは、相変わらず、”菊のタブー”に弱い。だからどの雑誌社を訪れても「不敬罪天皇ごっこ」という題名を聞いただけで迷惑そうな顔をする。そして最後には「今のところ当社では……」と口を濁して慇懃に断るのである。
 小説にも作者の主体的な理由に基づく発表のタイミングがある。私も雑誌社が”菊のタブー”を嫌がるというそんな下らない理由で、発表の時期を失したくない。だからいい加減なところでメジャーな雑誌社へのアプローチをやめることにした。そしてこの作品の連載を、友人の丸山氏の雑誌に託すことにしたのである。いずれにせよ、天皇の問題に関する限り、わが国のマスコミは自らの意志で「自由」を放棄しているのが現状なのだ。

 だから私は、酒田の人たちが茶飲み話のなかで「馬鹿なごどしたもんだの」と言いながら、それでも結構楽しそうに、しばしば話題にし続けていることに対する著者の、下記のような考察は正しいのだろうと思います。

ところで、この話が話題になる背景には二つの要素がある。ひとつは金持連中に対するやっかみと揶揄である。金があって暇を持てあましているから、そんな馬鹿げた遊びができたのであり、彼らの逮捕はいわば因果応報だというのである。もうひとつは、天皇に対する屈曲した心情である。もちろん戦前の天皇は絶対であった。酒田の人いえども、天皇が神のごときものだと教育された点では、他の土地の人びと変わりはない。にもかかわらず、天皇というのは、本当に有難いものだったのかというかすかなとまどいが、この話を好んで話題にする人びとの潜在意識にある。もし、天皇が神聖にして侵すべからざるものであるなら、そもそもこんな事件が起るわけがない。口にこそだしては言わないまでも、そうした思いがこの不敬事件にはこめられている。

 それは、「古事記」や「日本書紀」の神代の物語を歴史的事実とし、唐突に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされたこと、そして、封建時代に形づくられた儒教的な思想と天皇の存在を結びつけ、強引に君臣間の道徳遵守を強制する明治政府の天皇絶対の考え方が、当時の人たち、特に戊辰戦争で賊軍とされて戦いに敗れた人たちには、素直に受け入れ難いものがあったからではないかと思います。

 だから、秘かに実施された「天皇ごっこ」の事実は、現在の日本人の”菊のタブー”の精神構造にもつながるものではないかと思います。かつては、政治権力を恐れ、今は右翼勢力の脅しや暴力を恐れ……
 

 下記は、「明治秘史 不敬罪”天皇ごっこ”」石堂英人(三一書房)から「序 相馬屋事件取材ノート」を抜粋しました。 
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               序 相馬屋事件取材ノート

 明治二十六年(1893)一月二十八日、山形県庄内の港町酒田において、一大不敬事件が発生した。今日の酒田は人口十万の田舎町に過ぎないが、昔は、”東北の堺”とうたわれ、日本海沿岸では有数の殷賑を極めた商都であった。
 その酒田の豪商たちが集まって、宮中宴会の真似ごとをし、中の一人が恐れおおくも明治天皇に扮し、ひどくご機嫌であったというのである。ご機嫌であったのは彼だけではない。当時の”ミス酒田”というべき料理屋の娘は皇后の衣装を着せられ、大満足の体であったし、参集した他の豪商たちも、それぞれ大礼服を着用して大臣・参議に扮し、美人ぞろいの芸者による女官のお酌を受けて、実にいい気分だったのである。
 思えば何が楽しいといっても、こんなに愉快なことはあるまい。なにしろ絶対君主の天皇になって、豪勢に酒を飲むというのだから、面白くなかろう筈がない。それに他の連中にしたって玉(天皇)を担ぎだして権力を掌握した薩長の大臣になったのだから、戊辰戦争で西南の雄藩に痛めつけられた東北人としては、溜飲の下がる思いであったろう。
 こんな面白い遊びを考えだした人の才を称えるべきであろうが、好事魔が多し、彼らの楽しい大宴会は、官憲の知るところとなり、たちまち全員が不敬罪の容疑で逮捕されたのであった。警察に呼ばれた人の中には女官に扮した芸者たちもいたわけで、芸者遊びの好きだった酒田警察の署長も、なじみの女の前で謹厳な表情を取り繕うのに大いに苦労したらしい。
 それに逮捕者の大部分は、町の富豪であるばかりでなく、県議会議員、町会議員という要職にある人物だったから、酒田の町は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
 明治二十六年といえば、今から九十数年前になる。親子の代でいえば三代以上も過ぎている。あらゆる事件は世の星霜とともに忘れられてゆくが、酒田では今もこの話が、しばしば人びとの話題になる。
「昔だばこんだごどあったけぜ……」
 というわけで、要するに笑い話の種になっているのだ。私の母は酒田生まれであり、東京で結婚して私を産んだ。その私が縁故疎開で数年間酒田に暮らしていたときも、しばしば大人たちの茶飲み話の中で、このことを耳にしたことがある。
「馬鹿だごどしたもんだの」
 といいながら、それを話題にするときの大人たちは結構楽しそうであった。
 ところで、この話が話題になる背景には二つの要素がある。ひとつは金持連中に対するやっかみと揶揄である。金があって暇をもてあましているから、そんな馬鹿げた遊びができたのであり、彼らの逮捕はいわば因果応報だというのである。もうひとつは、天皇に対する屈曲した心情である。もちろん戦前の天皇は絶対であった。酒田の人といえども、天皇が神のごときものだと教育されていた点では、他の土地の人びとと変わりはない。にもかかわらず、天皇というのは、本当に有難いものだったのかというかすかなとまどいが、この話を好んで話題にする人びとの潜在意識にある。もし、天皇が神聖にして侵すべからざるものであるなら、そもそもこんな事件が起るわけがない。口にこそだしては言わないまでも、そうした思いがこの不敬事件にはこめられている。

 とするなら、天皇に対するそうした潜在的な疑問とは、一体何だろうか。その第一は明治維新の在り方にある。長い間日本という国は、少なくとも十二世紀以降は権威の象徴である天皇と、実際の政治権力を握る幕府の二本建てでやってきた。途中に後醍醐天皇の「建武の中興」があるが、長い目で見ればそれは、政治的失敗作の線香花火に過ぎない。ところが、明治以降二本建のバランスが崩れて、天皇が前面にのしかかってきて以来、一般の人びとには少しもいいことがなかった。
 実態としては、従来の幕府に代わって天皇を担ぎだした薩長の連中が、新しい権力を手中にしたに過ぎない。だが、いずれにせよ、幕府と天皇という二元構造が消滅した結果、為政者になりかかった天皇は、人びとに一層酷薄な顔をもつようになった。さすがにその失敗に気づいた黒幕たちは、国民は天皇の赤子であるという考え方を生み出す一方で、天皇の神格化を強引にすすめた。けれども、これがまた元来非宗教的な民族である日本人にとっては失敗だったのである。
 マリアの処女懐胎や、キリストの復活を信じることのできない日本人に、現人神が信じられるわけがない。従って天皇は、信仰の対象としてではなく、「制度」として定着したのであった。現人神を信じたように見える人がいたとすれば、それは信じた振りをする方が生活に便利だからである。信仰とかイデオロギーなどは便所紙みたいなものだと誰かがいったが、権力者がそれを押しつけている間はさからわない方がいい。それが庶民の知恵というものだろう。しかし、本音のところでは、ギクシャクしているのである。いわばその象徴が酒田の「天皇ごっこ」ではなかったか。そう思って、私が明治二十六年の不敬事件を調べ始めたのは、十数年前のことである。

 私は何度も酒田に足を運び、まず酒田の郷土史の本を調べてみた。この事件は宮中宴会の会場となった酒田の料亭、相馬屋の名をとって、「相馬屋事件」といわれている。事件がユニークなものだけに、大抵の郷土史の本は、何らかの形でこの事件にふれている。例えば昭和三十三年に発行された『酒田市史』(下)にも「相馬屋一件」として、この事件のあらましが書かれている。
 その他に地元の佐藤三郎が書いた、『酒田の本間家』(中央企画社刊)ほか、五、六冊の郷土史に関する本にも事件に対する記述があり、さらに昭和五十八年十月十三日の『山形新聞』紙上でも「酒田市制50周年記念特集」の一環として、九十年前のこの事件を取り上げている。それらを総合して分かったのは次のようなことである。

① この事件を起こした富商たちは、いずれも明治二十二年に結成された「飽海(アクミ)有恒会」のメンバーである。明治十年に酒田には政治結社として「酒田尽性社」が結成された。それはやがて明治十四年に「飽海協会」と「飽海農談会」に分裂し、前者は明治十六年に「庄内自由党」となってラジカルな自由民権運動を展開する。一方の「飽海農談会」は、郷土の産業開発を主目的とする団体となり、前述の「飽海有恒会」に発展したのである。したがって有恒会の会員には富裕者が多く、この団体は「庄内自由党」と対立しながら、産業の振興を計る今日の経団連のようなものだった。「天皇ごっこ」はこの保守派の有恒会の連中が引き起こしたのである。

② 実際に逮捕されたのは、県議大泉長治郎、町議森重郎ら、有恒会のメンバー十七名である。この中の森重郎は、庄内最大の反権力闘争「ワッパ騒動」(明治六年~十一年)を指導した自由民権の活動家、森藤右衛門の一族である。

③  天皇ごっこの催しは、約一ヶ月ほど前から周到に準備され、天皇、大臣、参議の大礼服、皇后、女官の衣装はすべて京都及び東京から取り寄せられた。そして事件の二日前の一月二十六日には、「宮中風の大宴会催し候に付、大礼服着用、相馬(屋)内裏へ参朝有之度……」という案内状が仲間のところに届けられた。なお、彼らは宮中の儀式や料理、酒についても事前に調査して、極力本物に近い宴会をめざしている。

④「天皇ごっこ」は一月二十八日の夕刻、酒田今町の料亭相馬屋の二階大広間において行われた。各自が参集すると「諸卿早速の参内大儀也」と挨拶を交わし、君が代が演奏され、一同敬礼の上、各自の席に着席した。この時、天皇に扮したのは県議の廻船問屋越後屋こと大泉長治郎である。皇后に扮したのは美人で評判の相馬屋の姉娘。また、白綸子(シロリンズ)の上衣に真紅の長はかまという衣装の女官たちは、いずれも相馬屋がかかえる芸娼妓であった。彼女らは緑の黒髪を切り下げ、頭にびらびらのついた冠をかぶり、長柄の柄杓で酒を酌んで歩いた。部屋の奥の欄間には、菊の御紋を染抜いた紫の幔幕が張られ、中央には一段と高い雛壇がおかれた。当日相馬屋では、朝からものものしい準備をはじめ、この大宴会については緘口令をひいた。特別の人以外には会場となった二階に上ることは禁止され、廊下をうろつくことも差し止められた。一階の客はなるべく部屋からださないようにした。

⑤ 関係者以外で、最初にこの秘密の催しを知ったのは、当時の自由民権派の新聞『庄内新報』の記者、本間定吉である。当日彼はたまたま相馬屋の一階で酒を飲んでいたが、あたりの様子がいつもと違うことから、店の女たちにさまざまのことを聞きだし、ついに二階では不遜にも「天皇ごっこ」が行われていることを知った。翌日彼は、さっそく「一大不敬事件」として、事件のあらましを新聞に発表した。一方、これとは別に酒田署には二、三の密告があった。氏名は密告者の常で分かっていない。

⑥ 事件が明らかになるにつれて、『庄内新報』はさらに厳しい不敬罪キャンペーンを開始した。一方、有恒会系の地元紙『商業新報』は、この事件を専ら弁護する立場で報道し、事件は民権派と有恒会の対立抗争という根の深いものに発展した。

⑦ 不敬罪の疑いで警察が関係者を逮捕し、家宅捜査を行ったのは、事件から一週間が過ぎたニ月四日である。関係者は町の富豪ばかりであり、警察としても逡巡はあったが、騒ぎがそこまで大きくなった以上、放置することはできなかった。

➇ 警察の調べに対して被告側は、金に糸目をつけず「東京から花井卓蔵という一流の弁護士を呼び寄せた」と前出の佐藤三郎氏は書いている。結果は事件から一ヶ月後に免訴となり、被告一同は釈放された。ただし、取調べの経過は記録がなく全く分かっていない。他に事件のもみ消しのために、被告たちが大量の金をばらまいたという噂もあるが、その真偽は不明。なお、その後の被告たちは、この事件によって少しも社会的地位を失っていない。

➈ 事件の翌年、明治二十七年になると、自由民権の壮士芝居を演ずる朝日太郎が秋田から酒田に巡業にやってきた。彼はさっそく「相馬屋不敬事件」を何幕かの芝居に仕立てたが、何故か警察に逮捕され、三ヶ月も獄につながれている。なお、同じこの年の秋には、酒田をはじめとする庄内地方に未曽有の大地震が発生した。この地震は折からの強風で大火災を発生させ、酒田は壊滅的な被害を受けた。人びとの中には「天皇ごっこなどするから罰があたった」という人もあった。当時の政府は日清戦争に夢中で、この大災害に対する援助の手は一切さしのべなかった。ただし、「天皇ごっこ」の不敬を知ってか知らずか、天皇家からは四千円の災害見舞金が下賜されている。

➉ 以後酒田にあっては、「天皇ごっこ」のことは表むきタブーとされながら、今日まで秘かに語りつがれてきた。

 私が調べることができたのは、たったこれだけである。これでは「天皇ごっこ」をするに至った詳しい動機も、彼らが不敬罪に厳しかったあの時代に、何故無罪になったのかも分からない。しかもお気づきのように、私は何ら「直接資料」にあたったわけではなく、郷土史の本という「間接資料」にあたったに過ぎない。
 だが、直接資料にあたることは事実上不可能であった。今となっては当時のことを見聞している人が生きている筈もなく、その頃の地元紙の『庄内新報』や『商業新報』は、酒田はもとより東大の明治文庫、新聞研究所、国会図書館にもないのである。さらに、当時の酒田警察の調書も残っていない。わずかに山形地方裁判所酒田支部の「予審終結署」が残っているだけである。
 ・・・
 さて、結論を急ごう。結局私の取材は、「相馬屋事件」の詳細を解明するにいたらなかった。だが、たったひとつだけ興味深いことに気がついた。それはこの事件を不敬罪として騒ぎたてたのが、他ならぬ自由民権派の連中であり、弁護にまわったのが保守派の有恒会であったということである。
 もともと事件は有恒会の金持連中が引き起こしたことであり、有恒会が弁護にまわるのは当然である。しかし、保守派の有恒会の人びとに天皇ごっこをしてみようという発想が生まれたのは、一体どういうわけか。資料がないので多くを語れないが、ひと言でいうなら、それは酒田の商人たちの心意気と自信ではなかったか。江戸期以前から酒田には、堺と同じような「三十六人衆」による町人の自治組織があった。彼らは大筋のところで庄内藩や明治政府に従ったとしても、心の底では武士や薩長政府なぞ何するものぞという気概があったのである。だからこそ、薩長政府が天皇を担ぎだすのなら
、こちらが天皇になってやったって別に構うことはないではないか。彼らはそう思ったに違いない。 
 庄内藩や各大名と結託した豪商の本間家や中央の御用商人ならいざ知らず、武士や天皇が直接商人に利益をもたらしたことは一度もないのである。そういえばこの「天皇ごっこ」に当時の日本一の豪商、本間家が参加していないのは興味深い現象である。

 それにくらべて、酒田の自由民権派はいささかヒステリックである。民権の自由を訴え、国会開設を要望し、時には貧民の救済と結びついた彼らのスローガンが、何故天皇の不敬罪とだけは合致するのか。金持連中に対する貧しいものたちのひがみ根性という動機だけなら私にもよく分かる。
 しかし、彼らがそのひがみ根性のために、「天皇ごっこ」を不敬罪として糾弾したとき、実は彼らは自らの首を自らの手で締めていることにならなかったか。そこに自由民権運動の未熟性と限界があったのである。それは「自由党」がどういう方向に転換し、結局いかにして民衆を裏切っていったかというその後の歴史が見事に証明している。
 といって、私は明治初期の自由民権運動を決して否定するものではない。酒田と庄内には十年近くねばり強く闘われた「ワッパ騒動」という、全国にさきがけた反権力闘争の実績があるのであり、もしその精神が国会開設後にしぼむことなく、相馬屋事件の明治二十六年ごろにも生きながらえていたら、この事件は別の方向をたどったことだろう。そんな思いに駆られながら、私はその後もこの事件をこつこつと調べ歩いた。そしてようやく「事件」の発端となったと思われるあるものにぶつかったのである。

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明治新政権による「仏教抹殺」NO2

2020年06月10日 | 国際・政治

 下記に抜萃した文章(「仏教抹殺」)で分かるように、歴代天皇の尊牌を祀ってきた天台宗般舟院(ハンジュウイン)が、明治新政権の神仏分離政策によって消滅しています。
 また、明治時代に入るまで天皇の葬儀・火葬・埋葬を執り行ってきた泉涌寺(センニュウジ)も、苦境に陥り、現在もなお、秋篠宮文仁親王を総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が、その存続につとめているといいます。

 したがって、建国神話に基き、天皇を「現人神」とした皇国日本における「神仏分離政策」が、深刻な矛盾を抱えたものであったことがわかります。
 それは、明治天皇が崩御される前に語ったといわれる、「朕は一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったことである」にもあらわれていると思います。

 もともと、明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派の「尊王」が、幕府を倒すための単なる方便であった思われる事実がいろいろありました。

 その一つに、幕末、薩長両藩に下された「討幕の密勅」があります。この「討幕の密勅」は、「偽勅」であるといわれていますが、討幕の方針で手を結んだのは、「関ヶ原の合戦」で敗戦した藩が中心であったといいます。また、ながく反幕府の精神を持ち続けたといわれる長州藩が、「討幕の密勅」が下るまえにも、くりかえし幕府と衝突していた事実も忘れてはならないと思います。
 でも孝明天皇は、いやがる妹和宮を説伏せ、江戸降嫁を求める幕府からの申し入れを受け入れて、和宮を徳川家茂(14代将軍)に嫁がせた関係で、一貫して公武合体を主張し、長州をはじめとする尊王攘夷急進派が主張するような過激な討幕運動には反対だったといいます。
 ところが、「討幕の密勅」の文章には、”賊臣慶喜を殄戮(テンリク)…”とあるのです。「殄戮」というのは、「殺し尽くす」というような意味ですが、孝明天皇の死後、満14歳で践祚した明治天皇が、父、孝明天皇の思いに反し、徳川慶喜を”賊臣”と呼び、”殄戮”を命じる理由があったとは思えません。

 朝廷と幕府の間に深刻な対立があり、幼い明治天皇が常々父親の孝明天皇から、それを聞かされて育ったというのなら話はわかりますが、孝明天皇は幕府の要請を受けて妹の和宮を降嫁させ、その後も和宮を気遣っていたといいます。攘夷を望みつつも、公武合体の立場をとっていたのです。だから、後に明治天皇となる息子に、徳川慶喜を賊臣と呼ぶような教育をしているはずはないと思います。
 したがって、薩長両藩に下された 「討幕の密勅」はありえず、「偽勅」であり、天皇の意に反するものであったと思います。

 さらに言えば、「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)には、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
 とあります。そして、
典医の報告でも毒殺を暗示する
 として、毒殺が疑われる事実をいくつかあげ、”天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい”と結論していることも見逃せません。

 孝明天皇が生きていては倒幕が不可能なので、薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、天皇を毒殺し、「偽勅」を発し、政権奪取を図ったと思うのです。考えられるのです。


 だから、明治維新を成し遂げた尊王攘夷急進派の「尊王」は、政権奪取の単なる方便であり、前述したような皇室に容赦のない神仏分離政策も、既存の敵対勢力を骨抜きにし、天皇を絶対不可侵の存在とすることによって、自らの政権を盤石なものにしようと意図した面があるのだと思います。
 明治維新は尊王攘夷急進派という破壊的カルト集団によって成し遂げられた、と私が思う理由はそこにあります。

 神仏分離は、1868(慶応四)年三月の太政官布告に始まりますが、「仏教抹殺」(文藝春秋)の著者、鵜飼秀徳氏が指摘するように、それをきっかけとする破壊的な廃仏毀釈によって、多くのものが失われ、きちんと調べられもせず放置されているという事実を忘れてはならないと思います。

 下記は、同書から「第六章 伊勢神宮と仏教の関係」「天皇行幸から大混乱に」の一部と、「天皇として初めて参拝」、「第八章 破壊された古都──奈良、京都」の「天皇の葬儀は仏式だった」と「消滅した天皇家の菩提寺」を抜粋しました。 
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                第六章 伊勢神宮と仏教の関係

 天皇行幸から大混乱に
 伊勢の廃仏は、他の地域の廃仏とは大きく異なっている。その特徴は、1869(明治二)年に実施された明治天皇の伊勢神宮参拝に端を発し、スピーディーに、連鎖的に実行されいった点にある。
 そもそも伊勢の神域では仏教忌避色が強かったが、その一方で、神仏習合の側面も持っていた。だが、国策としての神仏分離が始まると、日本を代表する”神域”でもあるこの地に仏教寺院が存在するのはまずいとされ、地元の行政府である渡会府(ワタライフ)が「天皇行幸の目障りになるから寺を壊せ」と命じたのだ。
 そこから、伊勢の仏教界の大混乱が始まる。京都の本山を通じてロビイ活動をして、お取り潰しを回避した寺院もあったが、多くの寺院が壊された。廃絶になった寺の中には、伊勢の神宮ゆかりの巨大寺院も含まれていた。
 ・・・
 
 天皇として初めて参拝
 明治新政府による神仏分離の通達を受け、神道の頂点に君臨する神宮のお膝元である伊勢の地でも、渡会府によって神仏分離政策が推し進められることになる。
 その廃仏毀釈が本格化するきっかけは明治天皇の神宮行幸であった。
 実は、明治天皇は歴代で初めて伊勢の神宮に参拝した天皇であった。天皇自身が神宮に足を向けてこなかった理由は、諸説ある。
 ひとつの説が八咫鏡(ヤタノカガミ)にまつわるエピソードだ。第十代崇神天皇の時代に疫病が大流行する。それを神鏡の祟りと恐れた崇神天皇は、それまで宮中で祀っていた八咫鏡を外へ出すことを決めたという。大和や伊賀、近江、美濃など諸国を転々とした後、最終的には第十一代垂仁天皇の時代に伊勢・内宮の地に落ち着いた。そこに社を建てて祀ったのが伊勢神宮の始まりである。八咫鏡は本体が神宮に、形代(カタシロ)が皇居に鎮座する。したがって、崇神天皇以降、八咫鏡は畏れ多き存在として天皇が近寄ることはしなかったというのが、天皇が神宮を参拝しなかったひとつの説である。
 明治天皇の神宮への行幸。それは明治の新時代を迎えるにあたって、極めて象徴的な出来事であった。伊勢市に通称・御幸通り(ミユキドウリ)と呼ばれる道路がある。現在、御幸通りは外宮と内宮を結ぶ神宮参拝の基幹道路となっているが、明治天皇の行幸の際に使用されたことでそう呼ばれるようになった。行幸に伴い、渡会府より次のような御触れが出された。

 今般 行幸 御参拝被遊候ニ付
 神領中ニ山道ニ有之候仏閣仏像等 尽(コトゴトク)取払可申、尚向後宇治山田町家ニおゐて、仏書仏具等商売致候儀不相成候 此段郡市末々迄不洩(モラサヌ)様相達候事
    ニ月                                     渡会府

   

 明治天皇の行幸は1869(明治二)年三月七日に京都御所を出立、十一日に伊勢に到着し、十三日に伊勢から京都に戻る予定で計画された。それに先立ち、渡会府の知事橋本實梁が、伊勢の神域(宮川から神宮までの領域で「川内」という)に存在する寺院の撤去、仏教に関する商売の中止命令を通達したのである。
 この通達により、伊勢の廃仏毀釈の幕が上がる。
 その内容は次の通りである。川内の神域において、一切の仏式の葬式を廃止し、神葬祭にすること。また、住職にたいしては檀家総代と連署して「廃寺願書」を出し、復正(フクショウ・還俗)するよう迫った。
 御幸通りから見える寺院については、特に強い圧力がかかった。にわかに始まった廃仏毀釈の動きに、地元仏教界は大いに戸惑った。が一方で、有力な神社に取り立ててもらえる好機とみる僧侶も少なからずいた、とする向きもある。
 京都にある浄土宗総本山知恩院の日記『知恩院日鑑』慶応四年閏四月二十日には、当時の伊勢の浄土宗寺院からの懇願が、つぎのように記されている。
 「このたび明治維新になったので、神領内の寺院について、特に伊勢神宮近辺の参宮道の道筋にあたる十八の寺院は取り潰すよう御勅使が知恩院に出向して、連絡するようにとのことであるので、何分とも取り潰しにならぬよう配慮してほしい」
 つまり、伊勢の末寺が本山知恩院に対し、「お取り潰しにならないように、本山の方から当局に働きかけてほしい」とのニュアンスである。  
 京都の本山から渡会府当局への懇願により、板塀や陣幕で境内を目隠しし、御幸通りから見えなくする策を講じ、廃寺を免れた一部の寺院もあったという。1868(明治元)年十一月から翌1869(明治ニ)年三月までのわずか四ヶ月間で、伊勢の196カ寺が廃寺となった。これは宇治山田に存在した寺院のうち四分の三が整理されたことになるという。
 内宮の参拝時に見つけやすい廃寺が、おはらい町にある旧慶光院であろう。普段は門が固く閉ざされているが、参道からかつての寺院建築の様式を確認することができる。慶光院は、もとは尼寺で、住職は神宮の勧進職を務めた時期があったという。しかし、1869(明治二)年に入って、廃寺処分となり、その後は神宮司庁の所有となり、元の伽藍に唐破風を建て増しし、現在は神宮の祭主職舎になっている。
 現在、旧慶光院前には往時を知るための看板などは何もない。普段は内部にはいることはできないが、毎年秋には一般公開している。
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               第八章 破壊された古都──奈良、京都

 天皇の葬儀は仏式だった
 最後に、京都の廃仏毀釈が天皇家にも及ぼした事例を紹介しよう。
 実は、神道そのもののシンボルとなった天皇家もまた、神仏分離政策に翻弄された存在だった。それもそのはず、天皇家自体が非常に熱心な仏教徒であったからだ。いまより遡れば六世紀、外来宗教の仏教に帰依し、国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇、用明天皇の皇太子である聖徳太子であったことは多くの日本人が知る史実だろう。
 その流れを受け、天皇家と寺院とは切っても切れぬ関係にある。千年の古都であった京都において総本山・大本山と呼ばれる寺院は、何かしら皇室にゆかりのある寺院であったりする。出家した皇族が住職をつとめてきた門跡寺院だけでも、青蓮院、仁和寺、大覚寺、聖護院、曼殊院など三十カ寺に及ぶ。その門跡寺院の一部は、神仏分離をきっかけに大きく衰退していくことになる。
 皇室ゆかりの寺の最たる存在が、東山に位置する真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺だ。泉涌寺では、多くの天皇の墓や位牌が祀られており、天皇家の菩提寺と位置づけられる。
 1242(仁治三)年、四条天皇が十二歳の若さで崩御する。その際、泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは「皇室の御寺(ミテラ)」と呼ばれるようになった。さらに、南北朝時代の1374(応安七)年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬されたのを皮切りに以降、九代続けて天皇の火葬所となった。江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている。
 泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経される。各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝がおこなわれるという。
 天皇陵といえば、仁徳天皇陵をはじめとする巨大墳墓というイメージが強い。しかし、泉涌寺における天皇陵は実に質素である。天皇の墓は九重の石塔の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に二十五陵と五灰塚、九墓(親王らの墓)が祀られている。江戸時代最期の孝明天皇・皇后については、尊王攘夷運動の最中に造築されたために、月輪陵に他の天皇と一緒に祀られることなく、泉涌寺境内に墳丘型陵墓として特別に祀られている。それでも、泉涌寺の天皇陵はすべて合わせてもおよそ千六百坪ほどであり、さほど広いイメージはない。
 天皇の弔いは、長年、火葬であった。厳密に言えば、中世以降の天皇は、仏式の火葬と神道の建前である土葬が混在する形で弔われていた。第百八代の後水尾天皇以降は表向きには火葬、実質は土葬という不思議な形態をとっていた。正式に土葬になるのは、明治天皇の父孝明天皇からである。しかし、孝明天皇の葬式は神仏分離令より前であったために、仏式で行われた。


 
 消滅した天皇家の菩提寺
 こうした史実から見ても、天皇家は明らかに仏教徒であった。ところが、神仏分離政策の波は天皇にも押し寄せてきたのである。
 まず、宮中から仏教色が排された。御所にあった御黒戸(仏間)が潰されて、そこに納められていた仏像や尊牌、真影が泉涌寺に集約されることになったのだ。その上で泉涌寺には、「尊牌・尊像奉護料」として年千二百円を下賜されることになった。
 さらに、泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた。それまで天皇、皇后の葬儀は泉涌寺が一切を執り行ってきたが、その習慣は明治天皇以降、消滅したのである。
 泉涌寺は天皇家の菩提寺であったため、檀家はいない。そのため、陵墓域の上知後、とりわけ戦後、憲法二十条で政教分離の原則が規定されると、国費が投入できなくなった。そのため、天皇の私費に加え、真言宗系新宗教の解脱会の奉納金などで維持されてきたのである。1966(昭和四十一)年には「御寺泉涌寺を護る会」を発足させ、現在その総裁には秋篠宮文仁親王が就いている。このようにして、皇室ゆかりの寺院を維持する努力がなされているのである。
 実は、かつて京都には泉涌寺と並ぶ皇室の菩提寺が存在した。上京区千本今出川にあった天台宗般舟院(ハンジュウイン)である。天皇の葬儀・火葬・埋葬を執り行うのが先の泉涌寺だったのにたいし、般舟院は歴代天皇の尊牌を祀ってきた。しかし、神仏分離政策によって尊牌は泉涌寺に移され、天皇家の菩提寺としての歴史に幕を閉じてしまったのである。
 現在、般舟院のあった場所は京都市立嘉楽中学校になっている。嘉楽中学校になる前は、1869(明治二)年、全国で学制が発布される前にできた上京第七番組小学校である。般舟院の上知に伴い、小学校に転じたのだ。
 1925(大正十四)年にまとめられた廃仏毀釈関連の史料が生々しくその様子を語っている。

 「(前略)皇室の御喪事は、山陵制に復古せられた故に、尊牌を奉安しても、保護料の御下附がないから、将来維持の見込みがなければ、護持もなり難く、自然不敬に渉る取扱に、ならんとも限らず、斯ては恐れ多き次第である。故に尊位を、泉涌寺に奉還し、宸殿を小学校に仕(ツカッ)たら、市の公益になり、当院の重圧も軽くなり、寺の為にも、結句よからうでないかと、相談的、説諭に及んだ府知事が一面、般舟院の為に諮(ハカ)るが如くして、一面に官権を以て、威圧的に、強誘したのである(後略)」『(維新前後仏教遭難史論』)』
 
 境内地の大部分は学校になり、そのほかの敷地に総門と講堂が大正期まで残っていた。しかし、それも1923(大正12)年の関東大震災の折、被災した鎌倉の建長寺に寄付されたという。
 筆者が2018(平成三十)年九月に訪れた際には、その跡地には皇室ゆかりの寺の面影はまったく感じられない、鉄筋コンクリートでできた一間だけの無住の堂宇が建っていた。
 実は、この般舟院、2011(平成二十三)年の六月に、残された境内地(約三百八十坪)が競売にかけられ、一億三千万円で北海道の不動産会社の手に渡っていたことが判明している。安置されていた重要文化財指定の阿弥陀如来坐像、不動明王坐像も一時、住職によって持ち出され、民家に隠蔽されていた。この住職は2012(平成二十四)年に書類送検され、宗門を破門されている。
 皇室の菩提寺が、廃仏毀釈をきっかけに衰退し、いまの時代になって消滅してしまったのである。
 いずれにせよ、当時は天皇家ですら、神仏分離政策には抗えなかったのだ。明治・大正期の浄土真本願寺派の僧侶で龍谷大学財団理事長を務めた松島善海は、このような興味深い言葉を残している。

 「明治天皇が崩御されるとき、『朕は一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったことである』と仰されたということは、天皇の御心情として察するに余りあるものがある」(「松島善海師談」)

 

 

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明治新政権による「仏教抹殺」NO1

2020年06月08日 | 国際・政治

 日本の戦争はいろいろな意味で特別だったと思います。まず、250万人といわれる日本兵の死者の6~7割が餓死であったといわれていることがあります。
 また、降伏が許されず、あちこちの戦地で日本軍部隊は全滅しました。それを、大本営は「玉砕」として発表しましたが、それは、戦死者を「玉の如くに清く砕け散った」と美化し、死ぬまで戦うことを強いる考え方の表現だったと思います。
 さらに、大戦末期には、戦死前提の特別攻撃を任務とした部隊、いわゆる「特攻隊」が編成され、体当たり攻撃がくり返されました。
 こうしたことは、他国にはほとんど例がないのではないかと思います。だから、皇国日本の戦争については、いろいろ考えるべきことがあると思います。  

 私は以前 司馬遼太郎が、「この国のかたち 四(文藝春秋)の中で「…だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう」と書いていることに、”司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策”で触れました。
 また、「昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである」と書いていることにも触れました。さらに、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の「別国」では、「昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と、昭和初期を徹底的に批判しつつ、その昭和初期十数年間の”別国”は、統帥権の解釈の変更によって生まれたというようなことを書いていることにも触れました。私には「祖国防衛戦争」も、「非連続の時代」も、「別国」も受け入れ難い考え方です。

 私は、日本の戦争や敗戦の責任を、司馬遼太郎のように、一時期の軍人になすり付けるようなこうした考え方は根本的に間違っていると思います。だから、以前にも書きましたが、彼の「明るい明治」と「暗い昭和」の言葉で言えば、「暗い昭和」は、明治維新によって皇国日本が生まれた時からすでに始まっており、明治時代に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)が継続され、強化され・徹底された結果、問題が深刻化して「暗い昭和」に至ったのだと思います。

 その根拠の一つとして、皇室中心主義的思想をもって軍部と関わり、戦時中、大日本言論報国会の会長を務めた徳富蘇峰の「日清日露の戦争は、悉く皆維新の大改革に、淵源している。而して大東亜戦争は、即ちその延長である」という主張も取り上げました。
 徳富蘇峰が指摘した通り、また、昭和天皇が戦後、いわゆる「人間宣言」で指摘した通り、日本の戦争は、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」という考え方で進められたのであり、皇国日本の考え方に基づけば、日本の敗戦は、必然的な歴史の流れだったのではないかと思います。

 ここでは、天皇を「現人神」とした考え方に基づく、明治時代の神仏分離の政策について取り上げたいと思います。
 「仏教抹殺」(文藝春秋)の著者、 鵜飼秀徳氏は、日本各地に足を運び、あまり知られていない廃仏毀釈の重要な史実を調べ上げていますが、それは、戦争に突き進んだ皇国日本の考え方を知る上で、大事なことだと思います。


 日本で神仏分離令が発令されるずっと前に、イギリスやアメリカでは憲法の中に人権保障規定が設けられ、フランスでは、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなる「人間と市民の権利の宣言」が採択されていることを見逃すことができません。
 明治維新が、日本に文明開化をもたらした側面は否定できませんが、明治維新後の皇国日本を動かした根本的な考え方は、建国神話をよりどころとして”往古ニ立帰リ”、国民に天皇への絶対的服従を求めるものであり、時代を逆行させるものであったことは、下記のような神仏分離政策や廃仏毀釈の動きによっても知ることができると思います。明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派にとっては、仏教徒の人権や信教の自由は、考慮の外にあり、皇国日本による”世界ヲ支配スベキ運命”の実現が、至上命令になっていたのではないかと思います。

 
 そういう意味では、戦後も、日本の歴史が薩長史観で語られている側面があり、皇国日本にとって不都合な廃仏毀釈の歴史的事実が伏せられていることを、「仏教抹殺」は教えてくれるものであると思います。
 下記は、「第一章 廃仏毀釈のはじまり──比叡山、水戸」から、 「神と仏を切り分けた神仏分離令」、「比叡山から上がった”火の手”」、「新政府の当惑」の一部、「”肉食妻帯”と上知令」、「寺院破却のインアパクト」を抜粋しました。(横書きのため、数字の表記の一部を変更しています。)
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              第一章 廃仏毀釈のはじまり──比叡山、水戸

 神と仏を切り分けた神仏分離令 
 仏と神の切り分けは、1868(慶応四)年三月以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されて行った。1868(明治元)年十月まで断続的に続けられた一連の十二の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる。
 神仏分離令は三月十三日、以下のような太政官布告によって火蓋が切って落とされた。

「此度(コノタビ)王政復古神武創業ノ始ニ被為基(モトヅカセラレ)、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候(アソバサレソウロウ)ニ付テハ、先(マズ)第一、神祇官(ジンギカン)御再興御造立ノ上、追々(オイオイ)諸祭奠(サイテン)モ可被為興(オコサセラルベキ)儀、被仰出(オオセイデサレ)候、依(ヨリ)テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止(トドメラレ)、普く天下之諸神社、神主、禰宜(ネギ)、祝(ハフリ)、神部(カンベ)ニ至迄、向後(コウゴ)右神祇官附属ニ被仰渡(オオセワタラレ)候間、官位ヲ初(ハジメ)、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得(アイココロウベク)候事」

 この太政官布告の内容は要するに、これからの日本は、古代(法令では、神武天皇がこの世に現れた時と定義している)に、政治上の君主と宗教上の司祭者とが同一であったような祭政一致体制を目指すという内容である。そして、神祇官を復活させ、各神社や神職らは神祇官のもとに置く、という。
 神祇官とは古代の律令制のもとでの、祭祀を司る官庁のこと。つまりは、神社は宗教の枠組みから外され、国家機関として機能させていく方針が定められたのだ。「神は国家なり」である。神祇官は1868年三月十七日には、神祇事務局から各神社にたいし、通達が出される。

 「今般王政復古、旧弊御一洗被為在(アラセラレ)候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔(ナド)ト相唱へ候輩(ヤカラ)ハ復飾被仰出(フクショクオオセイダサレ)候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分(ヨギナクサシツカエコレアルブン)ハ、可申出候、仍(ヨリ)テ此段可相心得候事
但(タダシ)別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為
在候間(アラセラルベクソウロウアイダ)、当今ノ処、衣服ハ浄衣ニテ勤仕可致(イタスベク)候事 
右ノ通(トオリ)相心得、致復飾候面々ハ、当局ヘ届出可(モウスベキ)申者也」

 ここで注目すべきキーワードは「復飾」である。復飾とは、僧侶の還俗(僧侶をやめて俗人に戻ること)をさす。江戸時代まで大規模な神社には、「社僧」と呼ばれる僧侶が従事した。そして、神前で読経などの儀式をした。さらに、「別当」とは宮寺(神宮寺)における責任者のことである。本通達では、社僧や別当にたいして還俗を促した上で、神社に勤仕するよう命じたのだ。
 昨日今日まで仏教者であった人間が、明日からいきなり宗教を変えて神職になれ、というのはあまりにも乱暴な話である。僧侶たちは、激しい抵抗を見せたのだろうか。
 意外なことに、多くの僧侶はさほど抵抗もなく、職替えをした。新政府に逆らっても立場を危うくするだけだし、なによりも神も仏も一緒だったのだから、神に仕えても問題なし、ということだったのかもしれない。
 続いて、同月二十八日の太政官布告では、より具体的な神仏分離の内容が出される。この二十八日の太政官布告は俗に、神仏判然令と呼ばれている。「判然」とは「はっきりと区別する」という意味である。

 「一、中古以来、其権現(ゴンゲン)或ハ牛頭(ゴズ)天王之類(タグイ)、其外(ソノホカ)仏語ヲ以神号ニ相称(トナエ)候神社不少(スクナカラズ)候、何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早々可申出(モウシウヅベク)候事、但勅祭之神社御宸翰勅額(ゴシンカン・チョクガク)等有之候向(コレアリソウロウムキ)ハ、是又可伺出(ウカガイイツズベク)、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事
 一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔(ナド)ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口(ワニグチ)、梵鐘、仏具等之類差置(サシオク)候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出候事

 神仏判然令では、神社における仏教的要素の排斥を命じている。たとえば「権現」「牛頭天王」など仏教由来の神号を禁止した。権現とは仏が神の姿となってこの世に現れたものであり、牛頭天王はインド仏教の聖地、祇園精舎の守護神とされている。
 神社に付属して置かれた寺院である神宮寺、あるいは宮寺では、仏像を神体にして祀ったケースが多かった。しかし、それも神鏡などの神体に取り替えるよう命じられた。仏具である鰐口(賽銭箱の上に吊り下げられている打ち鳴らす鐘)や梵鐘などもすべて取り除け、としている。このように江戸時代までは、神社の中に仏教由来のものが祀られていたり、寺院の中にも神社が祀られていたりと、神仏がごちゃまぜになっていたのだ。
 このことは、新政府サイドからすれば、徳川幕府時代の旧態依然とした宗教形態であり、許しがたい習俗であった。新国家樹立にあたっては、天皇を中心とする祭政一致体制が求められる。そのためには、神と混りあっていた仏教は「異物」に他ならず、それを明確に切り分ける(判然とする)必要があったのだ。
 だが、新政府が目指したのはあくまでも、神仏の切り分けである。この時点では、廃仏毀釈として民衆運動化していくことは、新政府側は予想もしていなかったと思われる。
ーーーーー
 比叡山から上がった”火の手”
 廃仏毀釈の最初の大きなアクションは、仏教の一大拠点であった比叡山の麓(フモト)の日吉大社(滋賀県大津市坂本)で起きた。日吉大社は全国に3800社以上の「日吉」「日枝」「山王」と名のつく神社の総本宮である。たとえば、首相官邸や国会からも近い赤坂・日吉神社なども、日吉大社の分霊社にあたる。 
 日吉大社は平安京の表鬼門(北東)に位置することから、災難除けの神様として古くから崇拝されてきた。だが、伝教大師最澄によって比叡山延暦寺が開かれてからは、その勢力下に置かれることになる。日吉大社は延暦寺の守護神として位置付けられた。
 いわば、仏を神が守るという上下関係ができあがり、日吉大社は延暦寺に支配されていく。そして僧侶によって神官らは虐げられていたのだ。
 折しもそこに神仏分離令が出される。そこで、積年の恨みとばかりに神官たちは徒党を組んで社から僧侶を追い出し、仏像仏具を毀し始めた。これが後に全国に波及していく廃仏毀釈の最初であった。
 それは三月二十八日の太政官布告から、わずか四日後の四月一日のことであった。四十数人規模の武装した神官たちが、「神威隊(シンイタイ)」を名乗って、日吉大社に乱入した。
 神威隊を率いたのは、日吉大社社司で新政府の神祇事務局事務掛の任についていた樹下(ジュゲ)茂国と、同じく社司の生源寺(ショウゲンジ)希徳であった。
 樹下らは延暦寺の三執行代(延暦寺を構成する東塔・西塔・横川の三エリアの代表者)にたいして、日吉大社神殿の鍵の引き渡しを要求した。
 執行代は、「神仏分離の布告はまだ、天台座主より下達されていない。鍵の引き渡しは座主の許可がいる」として、樹下の要求を頑として拒否。僧侶と神官の間でしばしの間、押し問答が続いたという。
 埒があかないとみた神威隊は、本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放った。その数、124点に及んだ。鰐口や具足、華籠(ケコ)などの金属類48点は持ち去られた。焼き払われた仏像は本地仏のほか阿弥陀如来、不動明王、弁財天、誕生仏など。経典の中には600巻になる大般若経や法華経、阿弥陀経などが含まれていた。
 暴徒の中には、社司から雇われた地元坂本の農民100人が含まれていたとされている。当時、坂本の地は延暦寺が支配しており、小作人たちは重い年貢を背負わされていた。江戸幕府の庇護のもと、長年にわたって既得権益を握ってきた延暦寺に対する地元民の反感は、神官同様に燻り続けていたと察することができよう。
 現在、日吉大社周辺を訪れれば、当時の爪痕をいくつか確認することができる。
 JR湖西線の比叡山坂本駅から十五分ほど歩き、石の鳥居をくぐると、広い参道が境内へと真っすぐに伸びている。その参道の脇には巨大な常夜灯が四十四基並んでいる。石には「〇〇権現」との文字が刻まれている。これらはかつて、延暦寺によって境内に立てられたものだが、廃仏毀釈の際に倒され、境内の外に放り出されたものだという。
 また、日吉大社周辺には江戸期のものと思われる地蔵を多数見付けることができたが、破壊されたものや、地面に埋まったものも少なくなかった。
ーーーーー 
 新政府の当惑
 ・・・
 新政府は日吉大社の暴動からわずか九日後の四月十日、以下のような太政官布告を出し、神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。
 「諸国大小之神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔ト唱へ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早々ニ取除相改可申(アイアラタメモウスベク)旨、過日被仰出候、然ル処、旧来、社人僧侶不相善(アイヨカラズ)、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ霽(ハラ)シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨(サマタゲ)ヲ生(ナ)シ候而巳(ノミ)ナラス、紛擾(フンジョウ)ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜(ヨロシキ)ヲ考ヘ、穏(オダヤ)ニ可取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノミチヲ不失(ウシナワズ)、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具等取除候分タリモ、一々取計向伺出、御差図可受候、若以来心得違ココロエチガイ)致シ、粗暴ノ振舞等於有之ハ、屹度(キット)曲事(クセゴト)可被仰付候(オオセツケラルベク)事」 
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 「肉食妻帯」と上知令
 それでも、新政府は仏教の力を削ぐ必要性があった。これまで日本は、ムラ社会の見えざるコミュニティの中で仏教を中心とした檀家制度を敷き、寺院は時に怪しげな儀式を通じて人々を惑わす存在になっていた。純粋な神道による強い国家づくりを推し進めるためには、悪習であった 仏教を徹底的に弱体化せねばならなかった。
 新政府による仏教弱体化政策は、神仏分離令だけにとどまらなかった。
 明治新政府は1872(明治5)年、「自今僧侶肉食妻帯畜髪等可為勝手事」との太政官布告を出す。つまり江戸幕府では禁制であった、僧侶の「肉を食べる・妻をめとる・髪を生やす」を解禁したのだ。また、住職の世襲も明治以降は認められるようになっていく。
 一見すれば僧侶に対する規制緩和措置だが、これも神仏分離の一環とみることができる。明治新政府は、宗教的求心力を削ぐ目的で僧侶の世俗化、弱体化を狙ったのだ。
 一般人の中にはいまでも「お坊さんが肉を食べてもいいのか」「結婚してもいいのか」という違和感を抱いている人は少なくないだろう。従来「肉食妻帯」を認めていた浄土真宗を除き、確かに江戸時代までそれらの行為は御法度(ゴハット)だった。しかし、明治に入って僧侶の肉食、妻帯などを「国家」が認めるという、あらたな局面に入っていく。
 伽藍(寺院の建物)などの物的破壊に加え、僧侶を世俗化させる一連の弾圧によって、みるみるうちに仏教は弱体化してゆく。葬式の際にだけ寺を必要とする「葬式仏教」化が加速してゆくのもこの頃からだ。現在の、仏教者にたいする「金儲け主義」といった批判の源流をたどれば、この明治の神仏分離政策に行き着くだろう。
 さらに明治維新時の一連の仏教弾圧のなかでも、とくに致命的だったのが上知令であった。上知とは土地の召し上げを意味する。上知令は1871(明治四)年と1875(明治八)年の二度にわたった。境内の主たる領域を除いて、広大な境内地が没収された。この上知令によって、全国の寺院(神社境内も上知の対象であった)の境内地は数分の一にまで減らされた。上知令については、京都の廃仏毀釈の章でより詳しく述べることとする。
ーーーーー
 寺院破却のインアパクト
 神仏分離政策から派生した廃仏毀釈の機運が完全に終息するのは1876(明治九)年ごろのことである。江戸時代には寺院数が九万ケ寺あり、廃仏毀釈によって半分の四万五千カ寺ほどになったとも伝えられている。だが、その正確な実数は不明である。
 とくに南九州では徹底的に寺院が破却された。鹿児島県『鹿児島県史』では江戸末期までは県内に寺院が1066カ寺あり、僧侶が2964人いたとの記録がある。ところが、1874(明治七)年までに寺院・僧侶ともにゼロになってしまった。(破却率100%)。
 廃仏毀釈が収まり、浄土真宗がとくに熱心に開教(新たに寺院をつくること)活動を実施したことで、487ヶ寺にまで戻しているが、鹿児島県は47都道府県の中では六番目に少ない寺院数になっている。
 高知県も激烈な廃仏毀釈に見舞われた地域だ。1870(明治三)年三月時点で613ヶ寺存在していたが、1877(明治十)年では206ヶ寺にまで激減した(破却率66%)。
 高知県は、四国八十八カ所霊場巡り(お遍路)の舞台でもある。県内には16ヶ寺の霊場が存在するが、うち9ヶ寺が廃仏毀釈によって廃寺になっている。現在、県内寺院は365ヶ寺まで戻してきているが、往時の約六割の水準である。
 廃仏毀釈は島嶼部にも及んだ。佐渡は江戸時代まで寺院数が多く539ヶ寺を数えたが、80ヶ寺になった(破却率85%)。隠岐では、およそ106ヶ寺がゼロになっている(破却率100%)。島という閉鎖されたコミュニティの中で、ひとたび点火された廃仏毀釈の炎は一気に燃え上がったと思われる。
 廃仏毀釈後、破却された一部の寺院は復興され、現在7万7千ヶ寺まで戻して(あるいは開教して)きている。廃仏毀釈直後は激減した状態だったから、檀信徒や寺院関係者がいかに心血を注いで復興につとめたかが伝わってくる。それでも、少なくとも一万ヶ寺以上の寺院が、現在にいたるまで消滅したままになっているのである。
 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた都市では、現在でも寺院の数が異様に少なかったり、仏教由来の文化財がほとんど残っていなかったりする。縁起や過去帳、寺宝録なども破棄されてしまったために、廃仏状況が検証されていないケースがほとんどである。
 「寺がゼロ」になった鹿児島県では、県や市の文化財担当者に問い合わせても、「実態がよく分からないし、行政サイドには詳しい人もいない」と言う。また廃仏毀釈後、復興したいくつかの寺に取材を依頼したが、「嫌な過去の歴史は話したくない」「知らない」と拒否されることが多かった。多くの仏教者が廃仏毀釈をタブー視している実情がある。
 しかし幕末まで仏教を崇拝してきた為政者や多くの市民がなぜ、明治になって「仏殺し」に転じたのか、廃仏毀釈が吹き荒れた地域と、そうでない地域とで、どのような違いがあったのだろう。以下の章では、こうした疑問にも答えていきたい。

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