真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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原爆投下の真意 広島6日・長崎9日

2013年09月13日 | 国際・政治
 アメリカが日本に原爆を投下する前、日本の降伏を引き出すために、”原爆の使用を天皇に警告すべきだ”、という声があったという。また、R・バード海軍次官は、”ポツダム会談のあと、日本の代表と会い、ソ連の参戦と原爆使用を警告するのがよい”という考えを文書で提案したという。そうすれば、日本が降伏する可能性は大いにあった。しかし、残念ながらこうした提案は生かされなかった。

 シカゴ大学の総長A・コンプトンが、同大学の関係者の意見集約を行い、それを陸軍に報告している。それによると、150名の学者のうち「原爆の直接使用賛成」は15%、「日本に対する軍事的デモンストレーションを先行させるべきだ」が46%「アメリカで日本人代表を招いて爆発実験を見せる」が26%、「使用反対」が11%であった。

 また、シカゴ大学の7名の科学者で構成された「社会的・政治的意義委員会」のメンバーであったシラードは、同僚69名の署名を添えて原爆使用反対の請願を提出している。彼は、原子力政策について政府は科学者たちと討議する必要があるとも主張していた。しかし、こうした科学者の意向も受け入れられなかった。なぜなのか。下記には、そのことに関わる重要な記述がある。

 ヤルタ会談で、8月8日ころのソ連の参戦が約束されていたし、アメリカ軍の日本本土上陸作戦は11月1日の計画であった。また、アメリカは、日本の和平派の動きを察知し、日本の降伏が近いことも知っていた。したがって、日本の降伏のために、原爆投下をそんなに急ぐ必要はなかったのである。にもかかわらず、ソ連参戦前の8月6日に原爆を投下した。

 そして、広島6日・長崎9日の原爆投下は、日本を降伏させるためというより、戦後をにらんだアメリカの戦略であったというのである。ヤルタ会談でソ連に対日参戦を求めていたアメリカが、ニューメキシコ州アラモゴルドにおける原爆実験成功をきっかけに、その戦略を一変させ、ソ連参戦の前に日本を降伏させようと動いたということである(下記1)。結果的に、それは多くの科学者の指摘した通り、ソ連には「脅し」(下記2)となり、無原則な核軍拡競争の時代に入る。 

「原子力の光と影 20世紀を演出した技術」川上幸一(電力新報社)----

第2章 日本への原爆投下  冷戦の序曲

 原爆投下をめぐる諸説


 ・・・
 原爆の使用を単純な戦争終結の手段とみること、つまり、戦後問題を抜きにして考えることは、当時の状況から見て明らかに無理があり、ためにする議論としか見られないが、アメリカ政府のそうした立場を含めて、原爆使用をめぐるおびただしい議論がなされているので、本章ではとりあえずそれらの意見を整理したうえで、若干の考察を加えることにしたい。

 原爆の使用決定の経緯に関する最も詳細な資料は、R・G・ヒューレットとO・E・アンダーソンの The New World Vol.1(1962年)である。この本は、アメリカ原子力委員会(AEC)が生まれるまでの前史(1939ー46年)を、AECの歴史諮問委員会の意を体して書いたものでその意味では官製の歴史であるが、トルーマン大統領をはじめ、原爆使用問題の最高意思決定に参加した人々の行動および意見がきわめて詳細に記録されている。官製の歴史という意味は、この問題に対するアメリカ政府の立場、とくに国際関係および機密保持に対する配慮が、著者を制約したと考えられるからである。


 ・・・

 次に、戦後に出た批判的な意見の代表的なものは、P・M・S・ブラッケットとJ・S・アレンのそれである。ブラッケットはその著書Fear Warand the Bomb(1948年、田中慎次郎訳『恐怖・戦争・爆弾』1951年)のなかで、原子爆弾の投下は、第2次世界大戦最後の軍事行動であったというよりも、むしろソ連との冷戦の最初の主要作戦の一つであった、という見解を述べている。ブラッケットはイギリスの物理学者(ノーベル物理学賞受賞)で、著書の序文によると、戦後、イギリスの原子力諮問委員会のメンバーとなり、原子力問題の検討を行ううちに、米・英のとっている政策が非現実的で、悲惨を招く方向に進んでいるという確信を持つようになった。ブラッケットは、7月16日に最初の原爆実験に成功、7月26日にポツダム宣言、29日に宣言受諾を日本が拒絶、そして8月6日広島への原爆投下という、事態の展開の異常なスピードに疑問を投げている。アメリカ軍の日本本土上陸作戦は11月1日に予定されており、それまでには十分な時間があった。その間、人的損害の少ない海上封鎖と大空襲を続けることもっできたし、8月8日ころにはソ連の参戦が約束されていたのに、どうしてその結果を見届けることができなかったのか。8月8日に2日先立つ6日という日付は、ソ連が参戦しないうちに日本を降伏させようという意図を示すものとしか考えられない。

 このブラッケットの見解を受け継いだのが、アメリカの政治経済学者アレンのAtomic Imperialism1952年。世界経済研究所訳『原爆帝国主義』1953年)における立場である。その論旨は、主としてR・E・シャーウッドのヤルタ会談に関する著述に基礎を置いている。シャーウッドはアメリカ公式見解について、『ソ連を真夏までに──アメリカ軍主力の日本本土侵入以前に──何としても対日戦に参戦させることが、数えきれぬほどのアメリカ人の生命を救うことになり、またとどめの侵入を不要にするとさえ期待されていた』と書いているが、ソ連はその約束どおり、ドイツ降伏後正確に3ヶ月目の8月8日に対日参戦した。したがって、アメリカが8月6日と、その3日後の9日に原爆を投下したことは、軍事上の便法としてはどうしても説明することができない、というのがアレンの主張である。

米ソ関係の冷却

 ドイツが降伏したのち、連合軍の戦略目標は当然、日本をいかにして降伏させるかに絞られたが、当時有力な作戦として考えられたものが4つあった。すなわち、日本本土上陸作戦、ソ連の参戦、対日降伏勧告、原爆投下である。

 アメリカの最高指導部が苦慮したのは、これら4つの作戦を互いに関連づけてどのように有効に使うか、別の言葉で言えば、どの作戦にウエイトを置くかということであり、指導部の腹が最終的に固まったのは、7月15日から8月2日にわたった米・英・ソ三国首脳のポツダム会談の途中であった。

 この4つの”切り札”のうち、一番早く作戦計画に乗ったのは本土上陸作戦であった。1944年9月のハイドバーク会談で、アメリカが「日本を降伏させるためには、工業センターへの進攻が必要である」と主張し、イギリスがこれに同意したことによって、本土上陸は連合軍の作戦として決定された。


 このハイドバーク会談を機に、ソ連の参戦という考えが米・英首脳部のなかに浮かんできた。日本の頑強な抵抗から見て上陸作戦の死者はアメリカ軍だけで100万人という見積もりもあったほどで、ソ連軍の満州(中国東北部)進攻により関東軍を大陸に引きつけておくことは、次第に絶対的な要請と考えられた。

 この米・英側の要請がかなえられたのが、1945年2月のヤルタ会談である。このとき、日ソ中立条約は約2ヶ月後に期限切れを控えていた。ソ連のスターリン首相は、ドイツが降伏したのち3ヶ月以内対日参戦することを約束し、その交換条件として、南樺太の返還、千島の領有、大連、旅順、満州鉄道に関する利権など、日露戦争で日本が獲得したものにほぼ相当する要求を持ち出した。その一部については中国の同意が必要なため、文書による協定にはいたらなかったが、ルーズヴェルトはソ連の要求を受け入れた。このことは、戦争のこの段階でアメリカがソ連参戦の価値をいかに高く評価していたかを示している


 3月に入って、原爆実験の日取りが7月4日の独立記念日と決定された。この決定のいきさつは明らかでないが、原爆完成の目標がだいぶ前からこの年の夏に置かれていたことは事実であり、したがって、日取りの決定は主として技術的な理由によったものと考えられる。しかし、この段階では開発上の技術的困難がまだ残っており、この予定日は一つの”努力目標”であった。このため、原爆完成の見通しが確実になった段階で(6月)実験日は7月13日に、そして最終的には7月16日に変更された。いずれにしても、この実験が成功をおさめるまでは、原爆はまだ一つの可能性の域を出ず、現実の作戦計画には入ってこなかった。

 この原爆実験日との密接な関連のもとに、アメリカ首脳部が考慮したのは、米・英・ソ三国首脳会談(ポツダム会談)の日程であった。それは7月1日に予定されていたが、スチムソン陸軍長官は原爆実験の結果を待たないで首脳会談を開けば、アメリカは切り札を持たないで賭をしなければならないと考え、アメリカ軍まだ数ヶ月は行動を起こさない(つまり本土作戦は始まらない)から、首脳会談を延期した方がよい(時間は十分にある!)と、トルーマン大統領に進言している。この結果、会談の日取りは7月15日からに変更された。


 スチムソンのいう賭けが、ソ連を意識したものであったのは言うまでもない。つまり、ポツダム会談の日取りの変更は、アメリカ指導部が対ソ交渉と原爆とを互いに関連づけて考慮した最初の例であった。6月の段階で、こういうソ連との対決意識が生まれるまでには、米ソ関係を急速に冷却させた諸事件があった。3月から5月にかけてが、そういう時期として特徴づけられる。

 米ソ関係が冷却に向かった発端は、ヤルタ会談でソ連が持ち出した前述の交換条件であった。ルーズヴェルトはこれを受け入れたが、その内容はやや過大な、あるいは不明確な要求として受け取られた。とくに、中国領土に関係する利権要求は、これを足掛かりにして、ソ連が中国に対する領土要求を持ち出すのではないか、という不安を抱かせた。しかも、アメリカ首脳部にとってこの不安を裏付けるような事件が起きた。


 ・・・以下略

ニューメキシコ実験の成功

 ・・・
 一方アメリカの懸案であった原爆実験は7月16日未明、ニューメキシコ州アラモゴルドで大成功をおさめた。それは、すべての楽観的な予想を上回り、TNT火薬2万トン以上の威力を持つと推定された。成功の電報はその日の夕方、すでにポツダムに来ていたアメリカ首脳部のもとに届いた。

 この日スチムソンは対日降伏勧告を早期に、ポツダムの進行中にも行う方がよいという考えになっていた。スチムソンは、対日戦が続いている限り、アメリカは政治的、経済的に海外の安定状態の再建に寄与することがむずかしいと考えた。スチムソンの念頭には、続出しているヨーロッパの諸問題があったに違いない。このころ、日本の支配層の一部が戦争終結のためにソ連との接触を試みているという情報が入り、スチムソンはこの面からも、できるだけ速やかに降伏勧告を日本に伝達しなければならないと考えた。要するに、ソ連が間に入っては厄介なことになるし、対独戦から解放されたソ連が、ヨーロッパで勝手なことをするのを放置してはおけない。そのために早期終戦が、絶対に必要であるというのである。早期終戦が、少なくてもアメリカ兵の生命を救うという目的のためだけではなかったことは明らかである。
 原爆実験成功の報告が届いたとき、アメリカは絶対の切り札を手中にしたことは間違いなかった。その結果、ポツダム会談に臨むアメリカの態度は一変した。


ソ連の対日戦を阻止せよ

 アメリカの態度の変化、もっと正確にいえば米・ソの対決ムードは、7月19日ころから急速に強まった。


・・・

 The New World によると、チャーチルは、アメリカの首脳部がソ連に対して断固たる態度に出ていることに気づいていた。トルーマンは、ポーランド軍による東ドイツ占領を拒否し、ルーマニア、ハンガリー、フィンランドにできた政府の承認を拒否した。いまやそれが、原爆実験の成功を背景にした立場の強化によるものであることをチャーチルは理解した。

 ・・・

 …ソ連参戦に対するアメリカの考えは、次のような順序で変化していった。
(1) 本土上陸作戦の犠牲を減らすためにソ連参戦は絶対の要請である。ヤルタ
  協定は受け入れなければならない。
(2) ヨーロッパにおけるソ連の行動はヤルタ協定の価値に疑問を投げた。しかし、
  ソ連参戦は必要であるから忍耐すべきである。
(3) 原爆の完成によって、アメリカの立場は強化され、ソ連の参戦は不必要にな
  った。
(4) ソ連を遠くまで進出させてはならない。できればソ連参戦の前に、戦争を終わ
  らせるべきである。
(5) そのために、対日降伏勧告と原爆投下を急ぐべきである。前者にはソ連を参
  加させない。また後者はソ連に知らせない方がよい。 
(6) 早期降伏を確実にするため、原爆投下は一発より二発の方がよい。
  すべての外交的修辞を剥ぎ取れば、原爆使用に至るまでのアメリカ首脳部の
  本心は以上のようになる。それ以外にあり得ないというのが ”The New World ”
  の記録から引き出される結論である。


「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)--

第4章 核にまみれた瀕死のロシア

 隠された世界最大の核汚染

”ヒロシマ”という脅迫状

 「私が広島、長崎への原爆投下にどのような衝撃を受けたかわかりますか。これはわれわれに対する脅しだ。われわれが原爆を作らなければ、アメリカは必ずわれわれにも原爆を使うだろう。アメリカに何としても追いつかなければならない。それはソビエトの国の意思であり、われわれ科学者の気持ちだったのです」
 ソビエト原爆の設計責任者ハリトン博士の言葉である。
 広島、長崎への原爆投下に対するソビエトの対応は素早かった。
 1945年8月20日、スターリンは「ウラン問題」(原爆開発計画はソビエトではそう名付けられていた)解決のために、特別の委員会を設立した。委員長にはソビエト治安機関の最高責任者で、スターリン時代の粛正・虐殺の直接の責任者であるベリヤが任命された。
 委員会のメンバーは、ペルブーヒン副首相、ボズネセンスキ国家計画委員会議長、マレンコフ中央委員会書記、そして原爆の父クルチャトフ博士という錚々たる面々を揃え、委員会には非常大権が与えられた。委員長がベリヤとなったことからもわかるように、原爆開発計画は非常なソビエトの治安機関の完全な監督下におかれた。


・・・(以下略)

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世界の核実験(2288回以上)と被曝被害

2013年09月07日 | 国際・政治
  広島・長崎に原爆が投下されたのは、アメリカがニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で1945年7月16日に世界最初の原爆実験を行ってから1ヶ月も経っていない8月6日と9日である。なぜ原爆投下を急いだのか。

 大戦末期の1945年2月、ソ連のクリミヤ半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳による会談があった。いわゆる「ヤルタ会談」である。このヤルタ会談後半に、ルーズベルトとスターリンが極秘の会談を行い、ソ連の対日参戦を求めるルーズベルトが、スターリンの求めるヤルタ協定に合意したため、ドイツ降伏後3ヶ月以内のソ連対日戦参戦が決定した。一日も早く日本を降伏させるためである。
 しかしながら、原爆実験に成功すると、ソ連の参戦を求めたアメリカの態度は一変し、日本の降伏にソ連参戦は不要であり、ソ連の参戦前に対日戦を決着させようと、原爆を投下を急いだというある。

ウラルの核惨事」で有名なジョレス・メドべージェフ博士は、このとき原爆に込められた「今やアメリカが最も強力な国であり、支配者である」という政治的メッセージに気づいたという。それは戦争の終わりではなく、新たな対立の始まりでしかない,、という認識である。
 
 ジョレス・メドべージェフ博士の予測通り、それ以後核軍拡競争に突入し、1994年までのおよそ50年間に、世界では2288回の核実験が行われた。これは、公表されたものとスウェーデンのストックホルム国際平和研究所が世界各地に設置した地震計で探知したものの合計である。探知されない実験も多数あると考えられている。

 世界の核汚染地域の調査にあたっているカナダ国際公衆衛生研究所長、ロザリ-・バ-テル博士は、「この半世紀の核実験と核事故による放射能で健康に何らかの障害を受けた人々、これから受けるであろう人々の数は、世界で最大2000万人にのぼる」と試算した。そして、原子力産業は好むと好まざるとに関わらず軍事と密接に関係しており、「核の平和利用はあり得ない」とも指摘している。

 また、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所長を務めたフランク・バーナビー博士は、「核エネルギーには核兵器がつきもので、双子のようなものということです。核の軍事利用と平和利用は切り離して考えることはできません。どちらか一方を持てば、必ずもう一方も持つことになるのです」と指摘している。日本の原子力平和利用も、疑って見る必要があるということになる。

 下記は、「蝕まれる星・地球 ひろがりゆく核汚染」豊崎博光著・平和博物館を創る会・編(平和のアトリエ)を中心として、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)から、核実験にかかわる部分で、記録しておきたいことを抜き書きしつつ、私なりに簡単にまとめたものである。(ただし、核実験の回数については、それぞれの著書の書かれた時期により多少の相違がある。その後インド、パキスタン、北朝鮮なども核実験を行っているが、それらは含んでいない)
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アメリカ

 アメリカは1945年から1992年までに、太平洋のマーシャル諸島、ジョンストン島、クリスマス島、(現キリバス共和国領)とアリューシャン列島、国内のカリフォルニア沖、ニューメキシコ州、アリゾナ州、コロラド州、ネバダ州などで、1278回の核実験をおこなったとされる。特にマーシャル諸島で行われた水爆「ブラボー」実験は、広島型原爆の1000倍以上の威力といわれ、第5福竜丸の乗組員のみならず周辺地域に多くの被爆被害者を出した。また、マーシャル諸島では、1946年から1958年までに、67回の実験が行われ、その爆発威力は広島型原発7000発分に相当するということである。

 また、アメリカはネバダ州の核実験場で、1951年から1958年までに、100回の大気圏内核実験を行い、1962年から1992年までに、936回の地下核実験を行った。政府の配布した小冊子「ネバダ実験場周辺地域の原爆実験の影響」の中には「核実験は危険ではない」書かれていたというが、風下地域の住民にはさまざまな異常が発生し、納得できない人々が1979年政府に対して核実験による被爆被害の損害賠償訴訟を起こしたという。そして、1990年「核被爆者補償法」が成立したのである。その結果、ネバダ州のみならず、ユタ州南部、アリゾナ州北西部の風下地域に住む住民で、白血病など、13種類のガン患者、およびそれらの死者に対して5万ドルを支払うということになったのである。しかしながら、被爆被害者支援市民グループ『市民の声』代表のジェネット・ゴードンさんによると、補償を受けられるのはほんのひとにぎりの被害者で、被爆被害者はおよそ17万人に達するという。また、風下地域のネバダ州やユタ州に住む多くの先住民の被害調査は行われておらず、補償の対象になっていないということである。

 セント・ジョージに住み土壌調査を行っているボブ・スミス氏は、
「核実験で放出された猛毒のプルトニウムなどは、土や地下水に入り込んでいます。私たち風下住民は、埃からプルトニウムを吸い込んだり、地下水、動植物を通して体内に取り込む恐れは充分にあります。核実験停止後のこのような重要な問題はまったく放置されています」
といっている。核実験は停止しても、問題は深刻なのだと思う。
 太平洋の島々でも、今なお、様々な被曝被害があるのではないかと思われる。

旧ソ連

 アメリカと核軍拡競争を展開した旧ソ連は、アメリカに4年遅れて1949年8月29日に最初の原爆実験を成功させた。以来1990年までに714回の核実験を行ったという。主な実験場は、カザフ高原にある面積約1万8000平方キロ(四国ほどの広さ)のセミパラチンスクで、ここで124回の大気圏内実験と343回の地下核実験が繰り返された。

 セミパラチンスク放射線医学研究所のポリス・グシェフ所長によると
「被爆者は実験場から半径550キロに住み、推定で50万人にのぼる。このうち2万人を調査した結果、食道ガンは通常の約7倍、肝臓ガンと肺ガンは約3倍高い。また、半径550キロ以内の新生児の死亡率は、通常の1.5倍から2倍に達している」(1990年11月14日付毎日新聞夕刊)とのことである。

 また、1990年のNSM(ネバダ・セミパラチンスク運動)の「セミパラチンスク実験場概況」によると、広島・長崎の被爆者のガン罹患率および死亡率よりも、セミパラチンスクの被爆者のガン罹患率および死亡率が高く、悪性腫瘍で2倍、肺ガンで3倍、食道ガンで15倍であるという。さらにセミパラチンスク地域の1975年から85年の10年間の白血病の死亡者は、それ以前の10年間と比べるとおよそ7倍であるという。さらに、消化器官の悪性腫瘍の死亡も急激な増加を示しており、被爆後住民の食道ガンの罹患率は7~8倍に増加しているという。調査の対象や方法、統計の取り方や比較の仕方の詳細はわからないが、ここにも核実験による被爆被害者が多数存在することは間違いない。

 旧ソ連で忘れてはならない核実験場のもう一つは、北極海に浮かぶノバヤ島とゼムリャ島の2つの島から成るノバヤゼムリャ島である。1955年に同島の近くで3回の実験を行った後、旧ソ連は、ノバヤゼムリャ島で、1957年9月から1990年10月までに、大気圏内核実験を90回、地下核実験を42回行った。

 核実験によって汚染された大陸側のツンドラ地帯には、北極トナカイを放牧して暮らすサーミ、ネネツ、コミなどの先住民がくらしているというが、アルハンゲリスク医療研究所の内科医シドロフ・イバノビッチ氏によると「トナカイの放牧で暮らす先住民ネネツの人々の体内に蓄積されたセシウム137は、他の地域の人に比べて、10倍から100倍も高く、食道ガンは他の北方地域の先住民に比べて約20倍多くみられるという。原因は、降り落ちた死の灰の中のセシウムがトナカイの餌のヤゲリと呼ばれるコケを汚染し、そのトナカイをネネツの人々は主食としているからである」という。

 そして、ノバヤゼムリャ島での核実験の死の灰は風に乗ってスカンジナビア半島にも流れ込んだという。1960年代初め、スカンジナビア半島地域の放射能レベルが急激に上がり、トナカイの食用が禁止されたことがあったとのことである。また、1987年8月2日、ノバヤゼムリャ島で地下核実験が行われた一週間後、スカンジナビア半島全域とくにスウェーデンで高いレベルのヨウ素131が検出され、スカンジナビア三国はソ連政府に核実験の停止を申し入れたこともあったという。

イギリス

 第3の核保有国といわれるイギリスは、1952年10月オーストラリア北西部のモンテ・ペロ島で最初の核実験を行って以来、91年までに43回の核実験を行った。大気圏内核実験が21回で、オーストラリアで12回、南太平洋のクリスマス島とモルデン島(現キリバス共和国領)で9回である。1963年から91年まではアメリカのネバダ実験場をかりて22回の地下核実験を行い、合わせて43回の核実験を行ったという。
 イギリスの大気圏内核実験はすべてオーストラリアのグレートビクトリア砂漠内に建設したイミュー実験場マラリンガ実験場および太平洋上の島で行われた。マラリンガ実験場では、核兵器開発のための工程を試す目的で、「マイナー・トライアル」と呼ばれる放射性物質を火薬で吹き飛ばす実験も、550回行われたという。その結果実験場跡地には、20キログラムものプルトニウムが残されているとのことである。
 イミューやマラリンガは、もともと先住民ヤラタ部族アボリジニの人々の土地である。実験場には、立ち入り禁止や放射能の危険を知らせる看板が設置されたというが、聖地をめぐる旅をするアボリジニには、あまり効果のない設置だったようである。イギリスも米ソ同様、原爆製造優先だったのであろう、どこに何人のアボリジニが住んでいるかや、その生活実態を把握することなく実験を行い、アボリジニの被爆被害の調査もなされていないということである。ただ、実験直後に「アボリジニの死体を見た」という証言や「グランド・ゼロ付近にいたアボリジニを他の場所に移動させた」との、実験に参加した兵士の証言があるだけである。また実験にともなう被爆兵士が、3万2000人を超えるということであり、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス本土のそれぞれで、損害賠償を求める訴訟が行われているという。

フランス

 フランスの核実験は、アルジェリアのサハラ砂漠で1960年2月に行われたのが最初である。そして、その年に大気圏内核実験を4回行い、翌年の1961年からは地下核実験13回、合わせて17回の核実験を行った。アルジェリアの独立後は、南太平洋のモルロア環礁ファンガタファ環礁を実験場として、1966年から74年までに大気圏内核実験を46回、74年から91年5月までに150回の地下核実験を行ったとされている。
 アルジェリアでの核実験によるフォールアウトが、フランスに達したこともあったというが詳細はわからない。

 さらに、フランスは1995年9月にも、ムルロア環礁で地下核実験を行ったと発表し、96年5月までに計8回の実験計画があることを明らかにした。

 サハラ砂漠での被爆被害の実態はほとんど分からないが、実験場近くに住む遊牧の民トアレグの人々が、実験による山崩れで大勢死んだというような話がある。またトアレグの女性たちには死産や流産が多く、ガンで亡くなる人も増えているという。

 南太平洋で実験が始まって以来、周辺のサモア、フィジー、クック島、ニュージーランドなどが放射能のモニターをはじめ、空気中や雨水の中から多量の放射のを検出しているという。特に東側に多く拡散しており、遙か遠くの南米ペルーでも検出されているという。しかし、フレンチポリネシアと呼ばれる地域の環境放射能の観測データはほとんど公表されておらず、地域住民の健康調査や疫学調査も行われていないとのことである。また、核実験場で仕事をしている現地人労働者の病気の診断や治療は、すべてフランス人が行っているため、彼らの被爆被害の実態は分からないのである。そして、「毎年250人ほどのポリネシア人労働者やフランス人作業員が放射能被爆によるとされる病気の治療のためにフランスへ送られている」というような話がある。

中国

 朝鮮戦争のときに、核兵器の使用も辞さないとアメリカに恫喝された中国は、その後核兵器開発に乗り出す。最初の原爆実験は、1964年10月新彊省ウイグル自治区のロプノール実験場で行われた。そして、フランスよりも1年以上早く水爆実験も行い、世界で4番目の水爆保有国となったのである。

 中国は1980年10月までに23回の大気圏内核爆発実験と4回の地下核実験、合わせて27回の実験をロプノール実験場で行った。中国が大気圏内核実験を行うと、数日後にはジェット気流に運ばれたフォールアウトが、日本にも降り注いだ。1981年以降には16回の地下核実験を行っている。したがって、合わせて43回の核実験を行ったことになる。しかし、周辺住民の被爆被害の実態は不明である。ただ、イギリスの経済誌フィナンシャル・タイムが、中国の核実験による被爆被害を「実験場ロプ・ノール周辺地域では肝臓ガン、肺ガン、皮膚ガンが増えており、このうち数人は北京に送られている。また、最近、実験場から北西1200キロ離れたウルムチ市を訪れた西側外交官は、人々から、少なくとも実験場の一つの地域では果物がドロドロに腐って落ちる現象が起きていると聞かされた」などと伝えているだけである。

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