真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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天皇の戦争責任 開戦の「聖断」

2010年08月31日 | 国際・政治
 ドイツと比較して、日本の戦後処理には様々な問題があるが、その一つに天皇の戦争責任の問題がある。事実が意図的 に隠蔽されたり、歪められたりして、天皇の戦争責任は不問に付された。しかし、いくつかの側近者の日記やメモを読めば、昭和天皇の戦争責任も否定しようがないことが分かる。「天皇は平和主義者である」として、ポツダム宣言受諾の「聖断」ばかりが論じられる傾向があるが、ポツダム宣言受諾に至る経過や”開戦の「聖断」”も客観的に認知されなければならないと思う。
 多少の譲歩をすれば、外交成立の目途があるという豊田外相や近衛首相の主張を受け入れず、「駐兵問題などは考慮の余地なし」とする東條陸相を、次期首班に任命したのは天皇なのである。閣議よりも統帥部を優先させた天皇が「立憲政治に拘泥しすぎて、戦争を防止できなかった」と言えるのかどうか…。下記は「昭和天皇の十五年戦争」藤原彰(青木書店)からの一部抜粋である。
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                Ⅴ 太平洋戦争と天皇

 開戦の「聖断」

 それでは天皇は、閣議決定についての上奏はともかくとして、統帥部はじめ関係機関の上奏を、黙ってただ裁可していただけなのだろうか。立憲政治を守るように心がけたために、戦争に反対でありながら、その意志を表明することをためらったのだろうか。

 連絡会議の重要事項や、御前会議決定の前には、必ず首相、両総長などの責任者が、決定されるべき事項の内容に関して内奏を行い、天皇との間に「御下問」「奉答」をくりかえし、正式の允裁を受ける前に、必ず天皇の納得をうることになっていた。また開戦にいたる陸海軍の作戦計画、開戦準備のための陸海軍の行動のすべては、天皇の允裁を受けた大命によっていた。そのさいも、内容について詳しく「御下問」「奉答」がくりかえされていたのであって、決して天皇の意に反する大命が出されていたわけではない。


 ・・・

 「御下問」と「奉答」が意味のある例をあげると、期限つきの戦争決意をきめた9月6日の御前会議決定の「帝国国策遂行要領」は、9月3日の連絡会議で若干の修文のうえで決定したものである。そしてその内容について近衛首相が9月5日に内奏すると、天皇は統帥上の問題について懸念を示したので、近衛はそれでは今直ちに両総長をお召しになってはと奏上すると、天皇は「それでは直ぐに両総長を呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」と命じ、杉山、永野修身が、近衛立会いのもとで、御前会議前日夕の「御下問」「奉答」をすることになった。『杉山メモ』や近衛の日記はその問答を記している。

 ここで天皇は、外交と戦争準備は、外交を先行してやるようにと指示したが、戦争の場合の見とおしについては、詳細に疑念のある点を問い質した。そして『杉山メモ』によれば、最後に「絶対ニ勝テルカ(大声ニテ)」と質問し、杉山の答えに、「アア分ッタ(大声ニテ)」と承知した。杉山の所感は、天皇は南方作戦について相当の心配があるようだとしているが、ともかくも翌日の御前会議の議題について諒承したのである。


 9月6日の御前会議決定は、期限つきの開戦決意に他ならないものであった。この会議で決定された「帝国国策遂行要領」の中、対米戦に関する部分は、次のようなものであった。

 1 帝国は自存自衛を全うする為、対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね
   10月下旬を目途とし戦争準備を完整す
 2 帝国は右に並行して米・英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努
   む
   対米(英)交渉において帝国の達成すべき最小限度の要求事項並びに之に    関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
 3 前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場
   合においては直ちに対米(英・蘭)開戦を決意す


 この決定は、10月上旬を期限とし、そのときになっても交渉で日本の要求が通る見込みがないならば、対米(英・蘭)戦争を決意したものであった。
 そして、日米交渉にさしたる進展が見られないまま、御前会議決定の期限である10月上旬はたちまちやってきた。陸軍内部の強硬論を代弁し、中国からの撤兵に反対する東条陸相は、もはや要求貫徹の「目途」がないから、「開戦を決意」すべきだと主張し、開戦には反対で、交渉継続を主張する近衛首相と対立した。10月12日近衛首相、東条陸相、及川古志郎海相、豊田禎次郎外相、鈴木貞一企画院総裁の荻外荘会談が行われたが、首相、陸相の対立は変らず、10月14日の閣議も同様で、10月16日近衛内閣は総辞職した。開戦決意か、交渉継続かをめぐる閣内不統一が原因であることは明瞭である。


 近衛の辞表には、辞職の原因が、交渉に「今尚妥協の望みあり」とする首相と、「開戦に同意すべきことを主張して已ま」ない陸相との意見の不一致であることが明記されていた。その辞表を受理した天皇が、東条を次期首班に任命したことは、どうみても天皇が東条を支持し、開戦論を支持したことにならざるをえない。……

  ・・・(以下略)


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天皇の戦争責任と15回の御前会議

2010年08月25日 | 国際・政治
 「御前会議」は、戦争にかかわる重要な国策を決定した会議であったが、大日本帝国憲法には天皇の統帥大権が国務から独立した大権であるという規定はなかった。しかしながら、憲法制定以前に発せられた「陸海軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)では、天皇の統帥権が例外的に国務大臣の輔弼責任外にあるとされていたため、最重要な国策が、大部分の国務大臣の参画なしに決定されていくこととなったのである。そして、閣議は御前会の議決定事項を追認するだけの機関になっていった。それだけに、天皇の戦争責任は重いといわざるを得ない。
 上段は「昭和天皇の十五年戦争」藤原彰(青木書店)から、下段は「御前会議ー昭和天皇15回の聖断」大江志乃夫(中央公論社)からの抜粋である。
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                 V 太平洋戦争と天皇

1 連絡会議と御前会議

 日中戦争が全面化した1937年11月20日、宮中に大本営が設置されて以来、重要な国策の決定は大本営政府連絡会議で行われてきた。この連絡会議は、第1次近衛内閣のときの1938年1月15日に、中国との交渉打ち切りという重大決定をし、翌日の「国民政府を対手とせず」という声明によって戦争長期化の大原因をつくった。また第2次近衛内閣成立直後の1940年7月27日には、「世界情勢
の推移に伴う時局処理要綱」という、武力行使を伴う南進政策を決定し、対米英戦争の遠因をつくった。


 不定期に、重要問題のあったときにだけ開かれていた連絡会議にかわって、第2次近衛内閣の時の1940年11月28日からは、定期的に(週1回、問題があれば毎日でも)連絡懇談会が開かれることになった。この連絡懇談会は、1941年7月12日まで、39回にわたって開かれているが、第3次近衛内閣が成立した後の7月21日からは場所を宮中に移して連絡会議の名に戻っている。そして小磯国昭内閣が成立した直後の1944年8月5日、名称を最高戦争指導会議と変更しているが内容にはほとんど変化はなかった。連絡会議(連絡懇談会)の構成メンバーは時によって変動があるが、基本的な構成員は内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長であった。閑院宮、伏見宮が両統帥部長だったときは、参謀次長、軍令部次長が出席した。それに必要に応じて企画院総裁や大蔵大臣などの閣僚、陸軍省、海軍省のそれぞれの軍務局長、参謀本部、軍令部の作戦部長、内閣書記官などが加わる場合もあった。

 連絡会議(連絡懇談会)は閣議ではない。連絡会議の構成員でない大部分の国務大臣には、会議の内容は知らされなかった。「連絡懇談会設置の趣意」という文章には、「本会議に於テ決定セル事項ハ閣議決定以上ノ効力ヲ有シ戦争指導上帝国ノ国策トシテ強力ニ施策セラルヘキモノトス」(『杉山メモ……大本営政府連絡会議』上)として、閣議以上の権限をもつものとされていた。

 この大本営政府連絡会議を、天皇の「御前」で開くのが御前会議であり、最高国策を決定するもっとも権威あるものとされたのである。ほかに大本営だけの会議に天皇が出席するのを大本営御前会議といって、1937年11月24日に第1回が開かれたが、これは天皇への戦況説明であった。38年2月16日の大本営御前会議では戦面不拡大の方針が決定された。
 御前会議と名づけられた会議は、大本営設置以後対米開戦まで、次のように開催された。


 第1回 1938年1月11日「支那事変処理根本方針」(国民政府が和を求めてこ
      ないときは、これを対手にせず、新政権を樹立するという方針)を決定
 第2回 1938年6月15日 武漢、広東作戦実施を決定(『戦史叢書・支那事変
      陸軍作戦(2)』で御前会議と書かれているが、内容からみると大本営御
      前会議であったかもしれない)
 第3回 1938年11月30日「日支新関係調整方針」(東亜新秩序の建設のため
      日満支の提携と、華北と揚子江下流域の特殊地帯化方針)の決定
 第4回 1940年11月13日 汪政権との間の「日華基本条約」締結の決定
 第5回 1941年7月2日「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(北方問題の武力解
      決を準備するとともに、南方進出のための対米英戦を辞せず)の決定
 第6回 1941年9月6日「帝国国策遂行要領(10月下旬を目途として対米英蘭
      戦争準備を完成)の決定
 第7回 1941年11月5日「帝国国策遂行要領」(対米交渉を甲乙両案で行うとと
      もに、12月初旬武力発動を決意)の決定
 第8回 1941年12月1日「対米英蘭開戦の件」の決定


 対米開戦決定にいたるまでの重要決定をしたのは、第5回から第8回までであるが、第2次近衛内閣のときの7月2日の御前会議は「対米英戦を辞せず」として南進の続行をきめたものの、まだ開戦を決定したのではない。告いで第3次近衛内閣になってからの9月6日の御前会議は、10月下旬を目標とする戦争準備の完成を決めると同時に、対米交渉において「10月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英・蘭)開戦ヲ決意ス」という、開戦決意に期限をつけたきわめて重要な決定を行った。この決定があったので、10月上旬になってなお交渉をつづけようとする近衛首相と、「目途」がないから直ちに開戦を決意すべきだとする東条英機陸相が対立し、10月16日の近衛内閣総辞職、10月18日の東条内閣成立となるのである。

 東条内閣は、一応は国策の再検討をするが、11月5日の御前会議では、すでに12月初旬という開戦の時期を決め、日本の要求案を甲、乙の両案にまとめ、これが容れられないときは既成方針どおり戦争に突入するという決定であり、12月1日には、11月5日の決定にもとづき、対米開戦を最終的に決めたのである。

 ただこれらの御前会議の議事の次第はあらかじめ準備されていた。そこで決定される国策は、事前の連絡会議で成文化され合意されていた。そして御前会議の前に、成文化された国策は、首相および両総長によって内奏され、天皇はそれにかんして詳細に「御下問」を行い、納得がいくまで「奉答」を求めた。その経緯は、『杉山メモ』をはじめとして、『木戸幸一日記』や近衛の手記『平和への努力』が明らかにしているところである。
 
 連絡会議も御前会議も、大日本帝国憲法には何の関係もない機関である。憲法には天皇の統帥大権が国務から独立した大権であるという規定はない。ただ慣行として統帥権が独立の大権であるとされ、統帥権の範囲が次第に拡大した。そして大本営政府連絡会議では、大元帥である天皇の』帷幄の補佐機関としての大本営側が国務の補佐機関である内閣と対等、あるいはそれ以上の権限をもち、最重要な国策を決定していったのである。正規の国務の責任機関である国務大臣の大部分は、戦争国策の決定過程になんら参画させられなかった。戦争は連絡会議を経て御前会議が決定したものであり、閣議はこの結果を追認させられただけである。閣議が開戦を決定したのであって、天皇は責任機関としての閣議決定を却下することができなかったのだというのは、戦後になって作り出された神話である。
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 上記の第8回御前会議以後も御前会議は開かれた。「御前会議ー昭和天皇15回の聖断」大江志乃夫(中央公論社)によると、「ポツダム宣言受諾」を決定した御前会議までを合わせると15回の御前会議開かれたという。しかし、その内容は上記とやや異なっている。
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              Ⅳ 昭和天皇の最高戦争指導

 15回の御前会議


 ・・・

第1回  38・ 1・11 支那事変処理根本方針    第1次近衛内閣 
第2回  38・11・30 日支新関係調整方針     第1次近衛内閣
第3回  40・ 9・19 日独伊三国同盟条約     第2次近衛内閣
第4回  40・11・13 支那事変処理要綱に関する件ほか 第2次近衛内閣
第5回  41・ 7・ 2 情勢の推移に伴う帝国国策要綱   第2次近衛内閣
第6回  41・ 9・ 6 帝国国策遂行要領           第3次近衛内閣
第7回  41・11・ 5 帝国国策遂行要領           東条内閣
第8回  41・12・ 1 対米英蘭開戦の件           東条内閣
第9回  42・12・21 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 東条内閣
第10回  43・ 5・31 大東亜政略指導大綱         東条内閣
第11回  43・ 9・30 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 東条内閣
第1回御前最高戦争指導会議 
     44・ 8・19 今後採るべき戦争指導の大綱ほか  小磯内閣
同第2回 45 ・6・ 8 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 鈴木内閣
同第3回 45・ 8・ 9 国体護持を条件にポツダム宣言受諾 鈴木内閣
同第4回 45・ 8・14 ポツダム宣言受諾           鈴木内閣

 御前会議という名称でひらかれた会議が合計11回、大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議と名をあらためたのち、「御前における最高戦争指導会議」の名称でひらかれた御前会議が4回、つごう15回の御前会議がひらかれている。


 ・・・

 憲法の明文のうえでは軍隊の統帥権もこの制度の例外ではなかったが、憲法制定以前に発せられた「陸海軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)に天皇の絶対意思の表明として、天皇みずから大元帥として軍隊を直接統率し、臣下には委任しないという原則が宣言されていたので、統帥権は例外的に国務大臣の輔弼責任外にあるとされ、大元帥の幕僚長である参謀総長(陸軍)、軍令部総長(1933年以前は海軍軍令部長)がそれぞれに統帥を輔翼する制度になっていた。
 参謀総長や軍令部総長は補弼責任のある地位ではなく、したがって決定権も決定の執行権もなく、大元帥の軍事的助言者つまりあくまでスタッフであり、この点が閣議決定権をもち、行政上の執行権をもち、憲法上の責任を負うラインに属する国務大臣とはちがっていた

 ・・・(以下略)


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天皇の戦争責任 海外の主張

2010年08月19日 | 国際・政治
 日本の降伏が近づくと、天皇の戦争責任や処罰に関して、アメリカ国内はもちろん、関係諸国からも様々な声があがったようである。ここに、当時の「太平洋問題調査会」(IPR)会議での関係国代表者の発言部分や中華民国「世界日報」紙の報道の一部、アメリカ「ギャラップ社」の世論調査、リチャード・ラッセル上院議員の上院軍事委員会提出決議案、「全米弁護士協会」の主張などの一部を「天皇と戦 争責任」児島襄(文藝春秋 文春文庫)から抜粋する。

 下記に抜粋したような考え方が主流であったにもかかわらず、グルー次官の「日本人を無条件降伏させるには、天皇が必要である。日本人、そして恐らくは日本軍が喜んで従う唯一の声は、天皇の声である。いいかえれば、天皇は数万の米国人の生命を救う源泉である」という主張や連合国軍最高司令官総司令部政治顧問G・アチソンの「…私は(そして連合国の数カ国も強調しているが)天皇は戦争犯罪人だと思う。日本人の中にも、天皇が戦争を中止させた権力(パワー)を持っているのであれば、開戦を防止する権威(オーソリティ)を持っていたと述べる者がいる。そして、私は、日本が真に民主的になるためには天皇制は消滅しなければならない、という意見を、変えていない。しかし、現時点では、多くの情況が第2番目のより消極策を最善としている。すでに、われわれの軍隊の急速な復員はわれわれにハンディキャップを与えている。このような事情の下で、われわれが日本政府を利用して日本改革をつづけねばならぬとすれば、天皇が最も役立つ存在であることは疑いもない。…」、さらには、マッカーサーの「天皇は全日本国民の統合の象徴である。天皇を破滅させれば、(日本)国家が崩壊するであろう……私は、近代的民主主義体制を(日本に)注入する望みは、すべて失われることを確信する……(混乱を鎮めるためには)最低百万人の兵力を必要とし、しかも予測できぬ長年月の駐留が必要となろう……」というような「天皇利用論」がアメリカの方針となり、その後の連合国軍最高司令官総司令部による占領政策が進められることになったのである。そして、それが日本の戦後を方向づけたといえるであろう。 
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               第一部 天皇と戦争責任

 2

 ──ところで、
 グルー次官を中核にして米政府、軍当局が、日本にたいする勝利政策と戦後政策の焦点として天皇と天皇制に視線を集中しはじめたとき、ほかにもこの問題に関心をそそぐグループがいた。
 とくに目立ったのは、1945年1月25日、ホットスプリングスで開かれた「太平洋問題調査会」(IPR)会議である。
 この会議では、日本を中心にして戦後のアジアの政治、経済問題が討議されたが、米、英、カナダ、オーストラリア、フランス、インド、タイ、フィリピン、朝鮮の代表が参加した。
 タイ、フィリピン、朝鮮は、日本占領下または支配下にあるので民間人代表だけであるが、他の各国は政府関係者をふくめていた。
 中心議題である日本については、なお日本は抗戦能力を維持していると判定するとともに、戦後処理として、敗北後のナチス・ドイツと同等の処遇、戦争犯罪人の処罰、憲法の改正などが提案された。
 ただ各国代表の間では、たとえば英国代表は、新しい平和路線を保持することを条件にして皇室、財閥の存続を認めたのにたいして、米国代表は現在の支配階級の一掃を主張し、インド代表は、米英両国が勝利に乗じて日本およびアジアを「日露戦争以前」の「未開状態」にひきもどさぬよう求め、微妙な意見の相違が記録されている。
 天皇および天皇制については、英国代表は「日本に任せる」、米国と中華民国代表は「天皇制排除」、一部の代表は、「利用したあとに捨てる」という見解を表明した。
 とりわけ明確な意見は、次のようなものであった。


▽オーウェン・ラティモア(米国、元蒋介石顧問、米戦争情報局極東部長)
「どのような事情下でも天皇を利用すべきではない。そうすれば、われわれが天皇の権力を認めることになる。天皇および皇室典範で規定された後継者を中国または別の場所に移し、皇室財産は没収して公共の利用に提供すべきである」

▽胡適(中華民国 元駐米大使)
「中国人の多くは天皇制廃止に賛成である。個人的見解だが、私は、天皇はロンドンに転居すればよいと思う。そこには別の名目的な主君(英国王)もいて、住み心地が良いはずだ。この考えは日本人にもいけいれられると思う」

▽ハーバート・ノーマン(カナダ、『日本における近代国家の成立』その他の著書で知られる。カナダ外務省極東部員)
「占領軍は天皇をひそかに葉山に移し、摂政または摂政委員会を設けたら良い。摂政には過去の侵略政策に無関係な有名人が必要だ」


▽邵毓麟(しょういくりん)(中華民国、国民党軍事委員会秘書)
「日本人自身に天皇制を放棄させるべきだ。いますぐに天皇の信頼を失わせるように宣伝を開始し、われわれが東京に入ったときに、日本国民が天皇制を廃棄しやすいようにすべきだ」

▽サー・ジョージ・サンソム
(英国、駐米大使館極東問題顧問)
「どうも天皇問題が誇大視されている。退位させて摂政を置くのが最善かどうかはわからない。われわれとしては、自然に天皇制が衰退する政策をとるべきだし、そうなると思う」

 以上の意見は、当時の連合国の識者の平均的な発想といえる。そして、これらの天皇にたいする所見は、米国務省の考え方にも影響を与えることになる。

 ・・・(以下略
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4 

 この時期に、天皇問題に関心を示していたのは、中華民国であった。
 ドイツが降伏する前日、5月6日、重慶の「世界日報」紙は、天皇を「日本人戦争犯罪人第1号」と呼び、激しい語調で主張した。
「中華民国はヒロヒトを許すことはできない。彼は裁かれ、処刑され、その死体は南京の中山路に曝(さら)されるべきだ」
 つづいて、5月11日、外交部長宋子文(そうしぶん)は、サンフランシスコで、中華民国は天皇をどうするつもりか、と記者団に質問されて、応えた。
「その問題は、われわれが彼に近づく前に、片づいていると思う」

 ・・・(以下略)
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 米国の世論調査社「ギャラップ」は、6月はじめ、ひそかに天皇にかんする世論調査をこころみた。「戦争のあと日本の天皇をどう処置すべきか」というテーマであり、設問にたいする回答は次のようなものであった。


 ▽殺せ。拷問し餓死させよ     36%
 ▽処罰または流刑にせよ      24%
 ▽裁判にかけ有罪なら処罰せよ   10%
 ▽戦争犯罪人として扱え       7%
 ▽なにもするな           4%
 ▽傀儡として利用せよ        3%
 ▽その他              4%
 ▽わからない           12%


 米国民の77%が天皇の処罰を要求していることになる。
 この「ギャラップ」調査は、公表されなかったが、政府には報告された。
 6月18日、「ホワイト・ハウス」で軍関係首脳会議がひらかれた。
 7月15日にポツダムで開催が予定されている米英ソ首脳会議にそなえて、米国の対日作戦のメドを確定するためである。
 これまでに日本を屈服させる方策については、海軍は「空襲と海上封鎖」で降伏させ得ると述べ、陸軍は「日本本土上陸」以外あり得ないと主張している。」そして、国務省はグルー次官が提言したように、「政治的手段」で降伏をうながし得る、と考えていた。
 会議では、参謀総長マーシャル元帥が、一刻も早く日本本土に上陸するのが、米国民の生命を救い日本を降伏させる早道だ、と強調した。
 「日本人は最後まで戦う。だから、戦争を早くやめさせるには、早く最後まで戦わせるほうがよい」
「味方も損害をうける。しかし、血を流さず戦争に勝つことはできない。これは憂鬱な事実だ」
 マーシャル参謀総長の発言にたいして、陸軍長官スチムソンは、日本の「潜在的平和勢力」による降伏は考えられないか、といい、大統領顧問W・リーヒ海軍大将も、指摘した。
「なにも日本を無条件降伏させなければ、こちらが敗けるわけではない。無条件降伏以外の降伏でもいいではないか。無条件降伏に固執して日本人を自棄的心境においこみ、われわれの戦死者名簿を厚くしては意味がない」
 だがほかに適切な対案もなく、陸軍の日本本土上陸作戦が承認されて、会談は終った。 
 この会議の5日後6月21日、沖縄は陥落した。
 そして、この沖縄陥落は、米国の対日政策、とくに天皇と天皇制にたいする姿勢を転換させるきっかけになった。

 ・・・(以下略)
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13  

 ・・・
 外部でも、天皇を戦争犯罪人に指定せよという動きが激化していたが、9月18日上院議員リチャード・ラッセル(ジョージア州 民主党)は、上院軍事委員会に決議案を提出した。
「米合衆国(第79)議会は、ここに米国政府の政策として、日本天皇ヒロヒトを戦争犯罪人として裁くことを宣言する……」
 ラッセル議員は、この決議案を上下両院合同決議にすることを要求して、声高らかに2回朗読した。そして、提案理由を陳述した。
「ドイツにたいして振りあげられた”鉄の手”が、日本にたいしては”皮手袋”になるのは、どうしてか。
 ヒロヒト天皇は日本軍国主義の頭であり、心臓である。彼は史上最大の侵略者の一人である。ヒロヒト天皇は、戦争終結のメッセージ(詔書)の中で、一言も降伏または敗北という言葉を使っていない。日本国民は、おかげで、天皇は連合国のために戦争をやめてやったのだとの印象をうけている。
 天皇を裁判にかけることは、天皇がまとっている神格性のベールをはぎとり、日本国民の眼を開かせるとともに、日本国民自身に敗北を認識させるのに役立つはずである」
 ラッセル議員の熱弁は、拍手と歓呼の声を招来した。が、決議案は反対多数で否決された。
 
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21

 ・・・
 「SWNCC/3」を承知しての発言であるが、カーペンター大佐がいう米国の新聞は、当時は連日のように天皇を戦争犯罪人として裁けという声を、伝えていた。
 たとえば、その代表例としては、「全米弁護士協会」の動議が注目をあつめていた。
 同協会は、トルーマン大統領に書簡を送り、米英ソ中華民国の代表を集めて速やかに日本人戦争犯罪人を裁く国際軍事法廷を開設せよ、と建議したが、天皇も裁け、と主張した。
 「天皇は戦争を計画し遂行した第一の責任者であり、降伏を申し入れた当事者である。ナチス・ドイツの降伏を申し入れた海軍大将カール・デーニッツは、戦争犯罪人として裁判を待っている。天皇も戦争犯人に指定されるべきである」
 この「全米弁護士協会」の主張は、予想以上に支持を集め、あらためて「SWNCC」メンバーをふくむ米政府内にも、天皇戦犯論が強調された。

 ・・・(以下略)


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天皇の戦争責任 側近の「内話」ほか

2010年08月06日 | 国際・政治
 アメリカが、自国の兵士の流血を防止し、戦闘継続よる莫大な費用を投ずることなく、占領業務を円滑に遂行するために、「天皇の存在を利用する」ことを決して以降、日本人の間でも、表立って天皇の戦争責任を追求する声が大きくなることはなかった。しかしながら、敗戦間もない頃はいろいろ議論があったようである。「側近日誌」木下道雄(文藝春秋)から抜粋した部分は、天皇の侍従武官を務めた中村俊久海軍中将の考えが、内輪話の中で正直に語られたものであり興味深い。まさに「内話」であるために、世論を誘導する目的で論理的に語られたものではないことが、逆に、実態に即した常識的判断を表出させている面があり、注目に値すると思うのである。彼は海軍の軍人として様々な作戦に関わった立場で、艦隊の作戦行動に関する天皇の戦争責任を中心に語っている。己の与り知らぬことにはあまり触れていないことも、彼の言葉が説得力を持つ所以であると思う。
 「天皇と戦争責任」児島襄(文藝春秋 文春文庫)からは、鈴木貫太郎内閣書記官長迫水久常や文相安部能成の述懐を含んだ部分を抜粋した。敗戦直後は「天皇も無責任ではあり得ない」という空気があったことが分かる。また、日本人自身が考える「天皇の戦争責任」と連合国側が考える「天皇の戦争責任」には、ニュアンスの違いがあるということも、ふまえておきたいことである。
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11月8日(木)
 朝食の時、中村武官より内話を聴く。
陛下の戦争責任について
1 戦争準備
2 艦隊の展開
3 艦隊の任務
4 外交交渉成立の場合、艦隊の引き上げ
5 開戦の時期
6 実戦に先だち宣戦のこと
 1~5については御命令もあり、これを御承知になり居たるも、6については実戦に遅るること40分、これは打電翻訳に時間を要したによる。要するに戦争について御責任はあり。則ち一国の統治者として、国家の戦争につきロボットにあらざる限り御責任あることは明らかなり。ただし、真珠湾攻撃については、則ち実戦をもって宣戦に先だつことについては、御承知なきこと、予期もし給わぬことなりと。

 9時12分東宮、義宮、赤坂離宮より吹上文庫に御参。北入口にて御迎えす。両陛下に一年余の御対面なり。

 ・・・以下略
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              第一部 天皇と戦争責任

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 ・・・
 天皇の戦争責任問題は、米国政府がうちきったあとも日本の内外でくすぶりつづけた。
 もっとも、天皇の戦争責任を論議する場合、日本の内と外とではニュアンスの違いがみうけられる。
「天皇も無責任ではあり得ない。せめて、退位されるくらいのことは考えねばならぬ。そういう空気が、いまは故人になった政治家、現存している政治家の口から漏れていた」
 とは、終戦時の鈴木貫太郎内閣の書記官長迫水久常(さこみずひさつね)の述懐である。
 幣原喜重郎内閣で憲法改正問題が討議されたさい、文相安部能成(よししげ)が述べたことがある。

「天皇は無答責というが、道徳的にも責任を負わないという意味なのか……承詔必謹といって国民に服従の義務を負わせながら、本体たる天皇が無責任であるというのは、矛盾であると思う」

 安部文相が指摘し、また迫水書記官長もいう天皇の戦争にたいする責任は、いわば敗戦にたいする道義的責任であろう。もし、そうであれば、その点にかんしては、天皇自身も感得しておられたといえよう。
「このさい私としてなすべきことがあれば、何でもいとわない」と、天皇は終戦のさいに述べ、既述したように、戦争犯罪人問題について、自身の退位で回避できないか、との趣旨を木戸内大臣に語っているからである。


 これにたいして、連合国側が指摘する天皇の戦争責任は、開戦責任である。
 戦争犯罪といい、戦争責任というのも、つまりは連合国とくに米国が第二次大戦末期に主唱した「侵略戦争犯罪論」にもとづく。
 第二次大戦開始前には一般化されていなかった考え方である。
 単純化していえば、戦争を仕かけるのが侵略であり、自衛または報復のための戦争は侵略戦争ではない。侵略戦争は平和にたいする犯罪だから、その国家の指導者は戦争犯罪人であり、開戦の責任者は戦争責任者だというのである。
 天皇は、大日本帝国の元首であり、帝国陸海軍の大元帥であった。開戦の詔勅にも終戦の詔勅署名している。
 ゆえに天皇は戦争責任者だ、という主張が、米国および連合国にも一般的であったことは既に既述したが、「東京裁判」においても、おりにふれてその点が問題になりそうになっては消えていった。


 ・・・(以下略)


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コメント (2)
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