真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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関東大震災 中国人集団虐殺 中華新報と読売の社説

2011年11月23日 | 国際・政治
 関東大震災後、多数の朝鮮人が虐殺されたことはよく知られている。そして、そのとき朝鮮人と間違えられて殺された日本人も1人や2人ではなかった。政府による事件調査の「震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」)では、第5章「鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯」に死亡58人とある。

 しかし、朝鮮人虐殺とはちょっと様子を異にした中国人の集団虐殺があったことは余り知られていない。同調査書でも、軍や警察を主体とする中国人の集団虐殺には全く触れられておらず、第6章に「支那人を殺傷したる事犯」として死亡3人とあり、民間人による棍棒や槍による殺害行為が記載されているだけである。

 「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」(青木書店)の著者「仁木ふみ子」は、日本側資料や中国側資料を徹底的に調べ上げ、重複を省き、たびたび中国の山奥のトイレのない村々にまで聞き取りに赴き、80数人の生存者や遺族から情報を得て確認し、その被害者総数が758名であるとしている(氏名不詳42名を含む)。死者は656名、行方不明(王希天を含む)11名。負傷 者91名。その負傷者も軽傷の2名を除いて、長くは生きられなかったというのである。

 著者は同書に「姓名、年齢、原籍、災前住所、被害時間、被害場所、加害情形、被害情形」等が記入された「王兆澄調査 日本人惨殺華工の鉄証」や「駐日中国公使館 中華民国僑日被害者調査票」、「中国外交部調査 中華民国留日人民被害調査票」、「温州旅同郷会日人惨殺温州僑胞調査票」等を添付するとともに、1990年、著者自身の温州での現地調査によって判明した氏名を追加して、「中国人被害者名一覧」を載せている。多数の関係者の証言もあり、中国人集団虐殺の事実は否定しようがない。しかしながら、日本の政府は中国人虐殺の場合も、軍や警察による虐殺を完全に無視しているようである。

 集団虐殺の惨劇現場は、中国人労働者の宿舎が集中していた(60数軒あったという)大島町(8丁目や6丁目)で、その加害者は、軍や警察を主体とし、一部青年団や消防団などの民間人を含む日本人なのである。著者仁木ふみ子は、2年半その大島町に住んで、現場を歩いたという。そして「この事件を追うことは、日本人および日本社会のもつ致命的欠陥を凝視することになるのだが、現代も全く変わっていたいのではないか」と投げかけているが、こうした事実が、隠蔽されたまま現在に至っているということに驚くとともに、こうした事実をなかったことにしてしまう歴史教育は許されないのではないかと思う。

 下記は、同書の中で取り上げられている「中華新報の社説」と、「まぼろしの読売新聞社説」である。事件の概要と日本政府や軍及び警察の対応のあらましをつかむことができる。ただし、記事中の死亡者数はかなり少なく、その時点で把握できたおよその数であると思われる。(文中の読み仮名は、半角カタカナ括弧書きにした)
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                  V 事件の発覚と追及

 3 中国のマスコミと世論

『中華新報』の社説

 『中華新報』の社説の一節をかかげる。

 ……日本の震災の初めは大変な混乱で、警察力も不足し、青年団の暴行も烈しかった。中国の学生も非常な辱しめを受けた者がいる。しかし、中国人一般は、空前の変災中の事として深く理解し、これを責めるつもりはない。だが、200余人の華工が殺され、共済会長王希天が警察に捕らえられたまま行方不明であるとするならば、事は重大で不問に付するわけにはいかない。……日本の官庁が知らないわけはないし、知れば検挙しないわけにはいかないだろう。日本で未だにこのことが伝わらないのは、それが事実無根だからではなく、故意の隠蔽によるものである。……隠蔽は如何なる意図によるのか。……不可解である。共済会長王が捕らえられたのは、まぎれもない事実である。其人尚ありとするならば、どこに居るのか。すでに殺されたとするならば何の咎によるのか。……日本政府は即刻発表すべきである。

 ……たとえ、ことごとく自警団の暴行であったとしても、日本当局は責任を負わなくてはならない。しかも王氏の報告の表(王兆澄の調査表「日本人惨殺華工の鉄証」のことであろう)によれば、軍隊、警察の手によったものがかなりある。震災の戒厳は暴民を取り締まるにある。もし被害華工たちが、殺人、放火をしたという事がなければ、軍禁を犯したことにはならないはずである。何故これを殺したのか。


……日本の新聞の最近の記事では、震災中の無数の暴行がだんだん暴露されてきた。その中、日本官吏の最も不名誉なものは往々にして殺人の後、これを隠蔽している。憲兵甘粕がほしいままに大杉栄夫妻及その7歳の甥を殺してその死体をかくしたように。……又、亀戸地方で、労働党14人を殺して軍警また死体をかくし、その家人に告げなかったのも同様である。青年団の種々の残虐、軍警の合法非合法の種々の拷問をみると、華僑の被害もあり得ることだと思われる。しかも日本軍警の度重なる隠蔽をみれば、華僑事件の隠蔽もうなずけるのである。吾人は誠意を以て日本国民に訴える。日本文明の名誉のために、中国国民の感情のために、人道と法規のために、世論の力を以て、東京当局を鞭撻し、速やかにこの事件を発表し、法によって責任者を追及し、以て寃魂を慰め、公道を明らかにされんことを。日本国民の令名が少数暴力者のために汚されることのないことをこいねがうのである。(『中華新報』10・17)

 上海にはじまるこの一連の報道は、中国各地へ飛火して世論をまきおこし、外交部への対日交渉要求となった。


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                4 日本のマスコミと探索

 まぼろしの読売新聞社説

 11月7日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、2面の社説と5面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。政府に強烈なインパクトを与えたといわれる「まぼろしの読売社説」は復原すると次のようである。

    支那人惨害事件
       1
 朝鮮人虐殺及びこれに伴うて我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉其他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰返して此に言うまでもない。然るに朝鮮人以外に多数の支那人が同様の惨害を被っている事実があることは、それよりも大なる遺憾事である。しかもその事件の発生以後二ヶ月を経る今日まで我が政府は何らこれに関する事実をも将(ハ)たこれに対する態度をも明かにしていない。吾人はなるべく我が政府が自発的に行動をとらん事を希望して今日に至ったが、国民の立場として何時(イツ)までもこれを黙止するわけにはゆかぬ。


       2
 大地震の当時及びその以後、京浜地方に於て日本人のために惨害を被った支那人は、総数300人くらいにのぼるであろうとの事である。就中(ナカンヅク)最も著大に最も残虐な事実は、9月5日府下南葛飾郡大島町の支那人労働者合宿所において多数の支那人が何者かに鏖殺(オウサツ)され、また同月9日右支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天氏も亀戸署に留置された以後生死不明となったという事実である。これらの事実は主として支那人側、就中我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄(ロウセツ)されたものである。したがってその内、どの点までが事実であるかはなお明確ではないが、とにかく多数の支那人が惨害を被って生死不明である事は事実である。

       3
 しかして右大島町の惨事は9月5日から9日前後までの間に起り、今日に至るまで既に2ヶ月を経過している。右の事実はこれを人道上、国際上より観(ミ)、就中我れと善隣の誼(ヨシ)みある支那との関係であるだけ、重大なる外交問題であることは言を俟(マ)たぬ所であるが退いてこれを我が国内における司法警察の眼より観ても、同様に否むしろそれ以上に重大なる内政問題である。しかるに右重大な事件が先ず相手国の支那において問題とせられるまで、我が内務及び司法の官憲は果してその知識を有していたか否かをも疑われ、乃至既に支那において問題とされた今日までなおその真相をも態度を明かにしていないという事実のあるのは実に一大失態である。


       4
 本事件は内政関係は鮮人事件、甘粕事件と同一の原則に依り、あくまで厳正なる司法権の発動を待ち、もって我が国内の法律秩序を維持回復する意義に於て最も重大である。同時にその外交関係はその事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来得るだけ、自ら進んで真相を明らかにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、もって内自らその罪責を糾正し、それによって、対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いにも支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起った不幸の出来事であるに対し、多少の寛仮(カンカ)と諒恕(リョウジョ)とをば有し、就中心ある者はこれによって震災以後折角(セッカク)湧起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えてくれるものすらあるようである。

       5 
 吾人は本事件のため内外に向って困難の間に立たしめられた内務司法並びに外務の当局に対し十分にその苦心を諒とする。蓋(ケダ)しおよそ国民の中に起った事柄は先ずその国民自身が根本の責任を負うべきものであるからである。さりながら政府当局者としては、もちろんその当面の責任をば免れぬ。しかして本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。何となれば、これらの事件は、すべて戒厳令下に起った事柄であるからである。もし陸軍にして司法内務並びに外務の当局者と十分なる協調を保ち、共同の事件調査と共同の責任分担をなさざる限り、司法内務は行きづまりとなり、外務は立往生となる外あるまい。しからばその結果、最後の全責任は我が国民自身が直接にこれを負担せねばならぬことになる。故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する。
 ※ 文中9月5日とあるのは3日の誤植である。


 戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。前述した『中華新報』の情誼ををつくした社説に呼応するものであり、一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ。これは「要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜」と墨書されて、外務省外交史料館にひっそりとしまわれていたのであった。
 この文章を書いた小村俊三郎(1872-1933)は寿太郎のいとこ。外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日々など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者である。丸山伝太郎(松翠学寮主、中国人留学生をおく。北京滞在の経験をもつ牧師)らと共に王希天・大島町事件の探索をつづける。松井慶四郎外相に提出された現地報告書の記録「支那人被害の実状踏査記事」はかれの筆になるものである。

 

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関東大震災 朝鮮人虐殺数 その実態

2011年11月13日 | 国際・政治
 前回、田辺禎之助の「江東昔ばなし」(菁柿堂)から抜粋した文章に「…その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。…」とあった(「関東大震災 仏文学者 朝鮮人虐殺死体目撃の記述」)。ところが 「政府による事件調査」(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」(下記資料1)では、「鮮人」と誤認して殺傷された「内地人」や「支那人」の死者を合わせても、東京全体で「65人」である。この数の違いはどういうことなのか。

 それは、「政府による事件調査 第4章 第4 犯罪事実個別的調査表」をみると見当がつく。資料1に2、3例を抜粋しておいたが、起訴された者の「犯人名」はすべて個人名であり、その「犯罪事実」は、自警団など民間人による殺害であることを物語っている。朝鮮人虐殺の主体は軍であったにもかかわらず「政府による事件調査」は、軍や警察によって虐殺された人数を含んでいない。「政府による事件調査」は、下記概説のように「昂奮したる民心は其良否を弁別せず順良にして何等非行なき者に対して害を加えたもの尠しとせざるは寔に遺憾とする所なり」と民間人による朝鮮人殺害のみを問題としている。下記資料2の「習志野騎兵連隊見習士官越中谷利一の朝鮮人虐殺回想談」は、そうした「政府による事件調査」の問題点を浮き彫りにしているものである。

 下記に抜粋した回想談の中には「…どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかつていたが、その中にまじつている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして、直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていつた。日本人避難民の中からは嵐のように湧きおこる万歳歓呼の声──国賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。」とあるのである。軍によって多数の朝鮮人が虐殺されたこと、また「犯罪行為に因り殺傷せられたるもの」でないことも明らかであるといえる。
 「日本平和論体系8 戦争に対する戦争」日本左翼文芸家総連合編・越中谷利一(日本図書センター)の中の「一兵卒の震災手記」には伏せ字が多いが、戒厳令下、ありもしない流言蜚語による鮮人襲来に対して、自警団や村民とも連絡を取り合い、主力部隊が水も洩らさぬ警戒配備について、逃げ惑う朝鮮人を銃撃した事実が記述されている。(下記資料2は、その内容の概略を江口渙氏がまとめたものである)。朝鮮人虐殺の主体は軍であった。したがって、「政府による事件調査」は、調査になっていないことになる。

 また、資料3の「朝鮮問題に関する協定 極秘」は、真実を隠蔽するための打合せが行われていたことを示しているといえる。伏せ字部分に何が書かれていたのかも、正確に知りたいところである。

 「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」には、「政府による事件調査」の他に「人民による事件調査」としていくつか取り上げられている。その中の李鉄氏談「語り尽くせぬ当時の惨状」には、「我が同胞の被殺者数をも調べてみたが、それによると6千余名も殺されてゐることがわかった、しかし、これは我々が調べた東京、横浜、埼玉、千葉などの一部だけの数字が斯うなんだから、若しこれに他の地方でやられた虐殺者やそれに負傷者数などを加へるとすればその数何万何千になるか見当もつかない」とある。

 また、朝鮮総督府警務局によって「不穏冊子」と指摘された「虐殺」と題する冊子の中には、調査員一同(代表金健)の調査結果として、10月20日付で、被殺者数3680余人としている。さらに、独立新聞社特派員調査報告には、身体未発見者数と死体発見同胞数を合わせ11月28日の日付で、累計6661人とある。吉野作造は朝鮮罹災同胞慰問班から得た情報として10月末現在2613人と「朝鮮人虐殺事件」に書いている。いずれにしても、日本の政府が朝鮮人の自由な調査を許さず、遺骨の引き取りさえ拒絶した状況では、虐殺数を正確に確定することは不可能に近いが、日本政府の調査報告、「死亡233」という数字をはるかに超えていることは間違いないといえる。

資料1「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」より------------
            19 政府による事件調査

        「罹災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書」
 第4章 鮮人を殺傷したる事犯

 第1 概  説

1、未曾有の変災に際会して人心安んぜざるの時に当り鮮人の不逞行為喧伝せられたるが為鮮人に対する一般民衆の反感を激発し或は自衛の意を以て或は報復の目的に出で或は国患を除くの所以と為し鮮人を殺傷するの事犯を頻出するに至れり被害者中固より不逞の徒あり非行を為したるが為殺害せらるるに至りたるものなしとせずと雖昂奮したる民心は其良否を弁別せず順良にして何等非行なき者に対して害を加えたもの尠しとせざるは寔に遺憾とする所なり。
2、被害鮮人の数は巷間伝ふる所甚だ大なるものありと雖犯罪行為に因り殺傷せられたるものにして明確に認め得べきものは別表に示すが如くその数300を超えず加害者は捜査の結果概ね之を明にすることを得たるを以て其の情軽くして処罰の必要なきものの外は之を起訴し其の数実に400に垂んとす。


 第2 罪名及被告人員表(11月15日現在) 略

 第3 被害人員表
(創傷数略)
   庁名    死亡
   東京    39
   横浜     2
   千葉    74
   浦和    94
   前橋    18
   宇都宮    6
   計     233
 
        
 第4 犯罪事実個別的調査表(表形式を変更)
  ○庁名(東京) 日時(9月2日午後10時) 場所(府下吾嬬町亀戸275)
           犯人氏名(田中金義外1名) 被害者氏名(鮮人-氏名不詳)
           罪名(殺人) (犯罪事実 棍棒又は 割木にて乱打し殺害す)
  ○庁名(東京) 日時(9月2日午後3時) 場所(府下同町大畑509道路)
           犯人氏名(森田吉右衛門) 被害者氏名(鮮人-氏名不詳)
           罪名(殺人) (犯罪事実 路傍に呻吟し居るを木棒を以て殴打し
           殺害す)
   1行略
  ○庁名(東京) 日時(9月3日午後11時) 場所(府下巣鴨町宮下1522)  
           犯人氏名(小松原鋼二) 被害者氏名(閔麟植) 罪名(殺人) 
           (犯罪事実 独逸製12番猟銃を以て射殺す)

 第5章鮮人と誤認して内地人を殺傷したる事犯(創傷数略)
   庁名    死亡
   東京    25
   横浜     4
   千葉    20
   浦和     1
   前橋     4
   宇都宮    2
   福島     1
   水戸     1
   計      58

 第6章 支那人を殺傷したる事犯(創傷数略)
   庁名    死亡
   東京     1
   横浜     2
   宇都宮
   計       3

  
資料2「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」より------------
  資料解説
            7近衛・第1師団の行動
            8近衛・第1両師団勲功具状

 震災時に於て近衛・第1両師団の行動をしることは極めて重要である。なぜなら虐殺の主体は軍隊であり、しかもおもに虐殺の行われた9月2日、3日に戒厳配置についたのはこの両師団だからである。
 ・・・
 次に当時見習士官であった越中谷利一氏の回想談を掲げてみよう。

「関東大震災のときに、東京を中心に出動した軍隊の総数がどのくらいだったかははっきりしていない。しかしいま記憶にある連隊の名だけでも、麻布一連隊、同三連隊、騎兵一連隊、世田谷輜重兵連隊、中野通信隊、習志野騎兵二ケ旅団、騎兵学校、四ツ街道砲兵連隊、佐倉歩兵五十七連隊、津田沼鉄道連隊、その他地方から一、二の連隊、工兵、憲兵等をかぞえることができる。とにかく、市内の連隊はもちろんのこと、東京周辺は、たいてい戒厳令勤務に服したのであつた。そして、「敵は帝都にあり」というわけで実弾と銃剣をふるって侵入したのであるから仲々すさまじかつたわけである。ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは9月2日の時刻にして正午少し前頃であつたろうか。とにかく恐ろしく急であつた。人馬の戦時武装を整えて営門に整列するまでに、所要時間僅かに30分しか与えられなかつた。


 2日分の糧食および馬糧、予備蹄鉄まで携行、実弾は60発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令したのであるからさながら戦争気分!そして何が何やら分からぬままに疾風のように兵営を後にして、千葉街道を一路砂塵をあげてぶつ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのが午後の2時頃だつたが、罹災民でハンランする洪水のようであつた。連隊は行動の手始めとして先ず、列車改め、というのをやつた。将校は、抜剣して列車の内外を調べ回つた。どの列車も超満員で、機関車に積まれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかつていたが、その中にまじつている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして、直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていつた。日本人避難民の中からは嵐のように湧きおこる万歳歓呼の声──国賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊は、これを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやり出した。」
〔日本と朝鮮 1963年9月1日号〕


 同氏には(「ある一兵卒の震災手記」解放1927年9月号)という創作もあるが氏に言わせると、「僕の処女作となつた小説はこれらのことを忠実に描いたものである。その意味で関東大震災時に於ける朝鮮人虐殺についての『日本文学の証言』の一つとして取り上げられているようである」といつている。
 内容の概略は江口渙氏が次のようにまとめている。


 「ある晩大きな川(多摩川─編者のむこうで朝鮮人が暴動をおこしたというので出動命令が出る。一隊の騎兵が月夜の街のなかを馬をとばせて川のそばに行つてみるといつこうに敵はあらわれない。しばらくして霧のふかい川のなかを人がわたつてくる水音がきこえてまもなく人影があらわれる。そこで騎兵が一せいに発砲する。だが敵は何の抵抗もしない。ただ悲鳴とともに倒れるだけだ。そして生きのこつた『敵』もこつちの河原までようやくたどりつくと地に伏して無条件降伏する」

 というのである。これが越中谷氏の体験記である。戦時編成の軍隊が主力を結集して文字通りの戦陣を張つたとすれば集団的大虐殺が行われるのはあたりまえである。


資料3「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」--------------
                5 朝鮮人対策の推移
     3
   臨時震災救護事務局警備部打合せ
  大正12年9月5日午前10時決定事項
1、派出所及駐在所を復活し第2次検問所に当て自衛団に代わらしむること。
2、検問所は可成多数設置し警察官に依るの検問を実行し、必要あるときは軍隊
  の援助を仰ぐこと。
3、警察官及軍隊の警邏及巡察を充分なし、殊に軍隊に於ては喇叭を吹奏して軍
  力の充実を示すこと。
4、人民自衛団の取締を励行すること。
 イ、自衛団は警察及軍隊に於て適当に部署を定め総て之を其の指揮監督の下
   に確実に掌握すること。
 ロ、自衛団の行動は之を自家附近の盗難火災の警防等に限り通行人の推問、
   抑止其の他権力的行動は一切之を禁止し、勢に乗して徒らに軽挙盲動する
   が如きは厳に之を禁遏すること。
 ハ、自衛団の武器携帯は之を禁止し、危険無き場所に領置し置くこと。尚漸次棍
   棒その他兇器の携帯を禁止すること。
 ニ、自衛団を廃止せしむる様懇論し、可成急速に之を廃止せしめ便宜町内の火
   災盗難警戒の巡邏を許すに止むること。
5、鮮人の不穏行動に付きて殊更らに風説を為す者を厳重取締ること。
6、自衛団及一般民衆の武器、兇器の携帯を禁止し之を押収すること。


<参考>朝鮮問題に関する協定 極秘
                                       警 備 部
 鮮人問題に関する協定
1、鮮人問題に関し外部に対する官憲の採るべき態度に付、9月5日関係各方面
  主任者事務局警備部に集合取敢へず左の打合を為したり。
 第1、内外に対し各方面官憲は鮮人問題に対しては、左記事項を事実の真相と
  して宣伝に努め将来之を事実の真相とすること。
  従て、(イ)一般関係官憲にも事実の真相として此の趣旨を通達し、外部へ対し
  ても此の態度を採らしめ、(ロ)新聞紙等に対して、調査の結果事実の真相とし
  て斯の如しと伝ふること。
左  記
   朝鮮人の暴行又は暴行せんとしたる事例は多少ありたるも、今日は全然危
  険なし、而して一般鮮人は皆極めて平穏順良なり。
   朝鮮人にして混雑の際危害を受けたるもの少数あるべきも、内地人も同様の
  危害を蒙りたるもの多数あり。
   皆混乱の際に生じたるものにして、鮮人に対し故らに大なる迫害を加へたる
  事実なし。

 第2、朝鮮人の暴行又は暴行せんとしたる事実を極力捜査、肯定に努むること。
   尚、左記事項に努むること。
  イ、風説を徹底的に取調べ、之を事実として出来る限り肯定することに努むるこ
    と。
  ロ、風説宣伝の根拠を充分に取調ぶること。

 第3、ゝゝゝゝゝ 
 第4、ゝゝゝゝゝ
 第5、ゝゝゝゝゝ
 第6、朝鮮人等にして、朝鮮、満州方面に悪宣伝を為すものは之を内地又は上
    陸地に於て適宜、確実阻止の方法を講ずること。
 第7、海外宣伝は特に赤化日本人及赤化朝鮮人が背後に暴行を扇動したる事
    実ありたることを宣伝するに努むること。

註、爾後鮮人問題に付各方面絶へず連絡を取り、協議を行ひ、応急の措置を進め居りたるが、尚今後の措置に付、9月16日別紙諸項に就き協議を遂げたり。 



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関東大震災 朝鮮人虐殺死体目撃の記述 田辺貞之助

2011年11月03日 | 国際・政治
 仏文学者田辺禎之助「江東昔ばなし」(菁柿堂)の中に、関東大震災関する記述がある。当時、彼は旧制第1高等学校の2年生であった。震災3日目に、「朝鮮人が横浜のほうから押しかけてくるから、みんな警戒しろ。ことに、井戸に毒を投げこむそうだから、井戸を守れ」という指令が出たという。どこから出された指令か、ということには触れていないが、ここでも「流言蜚語が伝播した」事実が分かる。流言蜚語によって、みんながそれぞれ鉄棒や竹槍を用意し、武装して夜警を始めたのである。彼も連日番小屋につめたという。そして、隣の大島町に集められた多数の虐殺死体を、誘われて見に行っている。
 「…その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。…」とある。特に、その中のあまりにも残酷な女性の虐殺死体を見て、彼は、「日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない」と書いているのである。
 田辺禎之助の虐殺死体についての生々しい記述は、政府による事件調査の方法や内容に問題を感じさせる。「震災後に於ける刑事事犯及之に関聨する事項調査書」の第4章「鮮人を殺傷したる事犯」第3「被害人員表」では、順良にして何等非行なき者の被害者は東京、横浜、千葉、浦和、前橋、宇都宮を合わせて233人であるというのである。吉野作造は、「朝鮮人虐殺事件」の中で、挑戦罹災同胞慰問班から得た情報として、大きく横浜方面、埼玉県方面、群馬県、千葉県、長野県、茨城県、栃木県、東京付近に分け、それを、さらに細かい地域に分けて記述し、合計2613人としている。そして、「此の調査は大正12年10月末日までのものあつて、其れ以後の分は含まれていないことを注意しなければならぬ」、と書いている。「独立新聞社金希山先生」宛ての特派調査員の詳細な報告には、6661人とある。(「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」)
---------------------------------
                   江東と異変

 2 関東大震災

 新巻の匂い

 物情騒然とは、あの時分のことをいうのだろう。どこそこでは何人殺された。誰それは朝鮮人と間違えられて半殺しの目にあった。山といわれたら、そくざに川といわないとやられる。そんな話ばかりだった。小名木川には、血だらけの死骸が、断末魔のもがきそのままの形で、腕を水のうえへ突きだしてながれていた。この死骸は引き潮で海まで行くと、また上げ潮でのぼってくると見えて、私は三度も見た。
 番小屋につめていたとき、隣の大島町の6丁目に、死体をたくさん並べてあるから見に行こうとさそわれた。そこで、夜があけ、役目がおわると、すぐに出掛けた。

 石炭殻で埋立てた4、5百坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に、東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と2つの頸動脈がしらじらと見えるのがあった。うしろから首筋を切られて、真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。首の落ちているのは一体だけだったが、無理にねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、円っこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、「こいつらは朝鮮じゃなくて、支那だよ」と、誰かが云っていた。
 ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が──女の死体はそれだけだったが──腹をさかれ、6、7ヶ月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中にころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、わたしは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、私はいいようのない怒りにかられた。日本人であることを、あのときほど恥辱に感じたことはない。

 石炭殻の空地のわきに、大島牧場とかいて、丸太のかこいのなかに雌牛が7、8頭いた。そこで、生牛乳を売っていた。東京が全滅して牛乳が出せないので、臨時に店売りをしていたらしい。こいつはありがたいというので、みんなではいっていった。1合2銭だった。上着のポケットをさぐると10銭玉がひとつあったので、私は5合たのんで、ぐいぐい飲んだ。徹夜の夜番のあとの冷たい牛乳は、まさに甘露の味だった。1週間にわたる栄養の不足も、これで取りかえせるかと思った。
 だが、いい気分になって外へ出た途端に、血の匂いがむっと鼻をついた。と同時に、5合の牛乳をガッと吐いてしまった。さっきは、飲まず食わずの夜警で、鼻の粘膜がからからにかわいていたので、血の匂いがわからなかったのだろう。それ牛乳でうるおしたので、敏感に感じとったにちがいない。惜しいことをした。
 

 その翌朝だった。私はやはり風呂屋につめていた。毎日、玄米の小さなおむすびと梅干だけだったので、腹がすききっていた。そこへ、明け方の4時頃だったろうか、脂っこい、新鮭をやくような匂いがながれこんできた。いままで、あんなにうまそうな匂いをかいだことがない。豊潤といおうか、濃厚といおうか。女の肌でいえば、きめのこまかい、小麦色の、ねっとりとした年増女の餅肌にたとえたいような匂いだった。それでいて、相当塩気がきいた感じで、その匂いだけで茶漬けがさらさらくえそうだった。私は思わず生唾をのんだ。腹がぐうぐう鳴った。だが、その音は私の腹だけから出たものではなかったらしい。
「うまそうな匂いだね」と、私は思わずいった。
「まったくだ。新巻の鮭だ!」
「誰がいまごろ焼いてやがるんだろう。いまいましい奴だ。押しかけていこうか」と、誰かが真剣な口調でいった。
 私たちはたまりかねて、みんな外へ出た。まるで九十九里浜へよせる高波のように、例の匂いがひたひたと町じゅうをつつんでいた。しかも、風呂屋のなかでかいだより数倍もつよく、むっと胸にこたえるような匂いだった。
「こりゃ、鮭じゃないぞ」と誰かがいった。「鮭にしちゃ匂いがつよすぎるし、一匹まるごと焼いたって、こんなに匂いがひろがるはずはない」
 私たちはしばらく棒立ちになって、いまは不気味な気持ちで、その匂いをかいでいた。
 1人が急に叫んだ。
「分かった! あの匂いだ!」
「何の匂いだ?」
「ほら、きのう見にいった、あの死骸をやいているんだ!」
 その途端に、私はむっとなにかが胸にこみあげてきて、腰の手拭で口をおさえながら、風呂屋のうしろへ駆けこんだ。 


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