真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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731部隊調査報告書” サンダース・レポート”抜粋

2008年05月31日 | 国際・政治
 下記は、アメリカが日本の第731部隊の調査にあたり、関係者に報告書を書かせたり、関わった人間を直接尋問したりして把握しようとした内容の項目である。 「標的・イシイ(731部隊と米軍諜報活動)」常石敬一(大月書店)の「サンダース・レポート資料76」からの一部抜粋である。レポートの全内容がおよそつかめるものであると思う。
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全般的要求                              1945年8月20日
生物戦……情報局〔MIS〕、科学部
     化学戦部隊〔CWS〕、特別計画部
 日本の生物(細菌)戦のすべての面について情報がほしいが、とくに必要な項目は以下の通りである。
  生物兵器用病原体の研究・開発、製造
  生物戦における日本の攻撃および防御の手段
  生物戦用砲弾
  生物兵器の使用方法
 日本の生物戦情報でとくに必要なのは以下の通りである。
一、生物戦研究
 a、どんな機関【(一)軍(二)民間】が生物戦の活動を進め、そして支配していた
  のか。
 b、日本が生物兵器用病原体として使用をもくろんで実験していた微生物はなに
   か。以下の対象別に記せ。
 (一)人    詳細な技術情報を求む。
 (二)動物       〃
 (三)植物       〃
 c、細菌爆弾あるいは砲弾その他に充填していた、あるいはすることになっていた
   病原体はなにか。詳細な技術情報を求む。
 d、生物戦研究の中心となった大学およびその他の研究機関はどこか。それぞ
    れが実験していた病原体はなにか。
 e、生物戦研究および開発にたずさわっていたのはどんな人物か(陸海軍人、医
   者、科学者、細菌学者、技術者その他)
二、生物戦の指令──日本の陸軍および海軍は生物戦に関してどんな指令をだ
   していたか。
三、生物兵器による攻撃のための訓練

 a、攻撃的兵器としての生物兵器の使用について各部隊(とくに挺身遊撃隊、謀
    略部隊、憲兵隊その他)でどんな訓練が行われていたか。
 b、この訓練を受けもった組織はどこか。
 c、攻撃的兵器としての生物兵器の使用法を教えられたのは陸軍および海軍(航
  空部隊も含む)のどの部隊か。
 d、日本軍が生物戦を実際に行ったのはそんな時にそして誰に対してか。
四、生物兵器使用法──生物兵器用病原体の散布方法として考えられていた、
   あるいは採用されていたのはどんな手段だったか(爆弾、砲弾、噴霧その他)
五、対生物戦防御(生物戦に対する備え)
 a、対生物戦防御に関して採用されていた、あるいは考えられていた特別な方法
  は。軍隊の場合、民間人(都市)の場合
  (一)生物学的(免疫)
  (二)化学的(殺菌、消毒その他)
  (三)物理的(特別なガス・マスクおよび衣服)
 b、対生物戦防御を受けもっていたのはどんな部隊か(たとえば防疫給水部隊)。
六、生物戦用戦術──日本の生物戦の戦術および戦略について得られる情報は
  どんなものか。
七、生物戦情報

 a、日本は他国の生物戦についてどんな情報をもっていたか。それは日本の生
   物戦にどんな影響を与えたか。
 b、日本はドイツからなにか特別な生物戦情報を得ていたか。
八、生物戦の機密保持──日本の生物戦のすべての面についての情報を制限し
  制御するためにとられていた措置はどんなものだったか。
九、生物戦政策──生物兵器の使用(謀略的使用でなく大規模使用も含む)につ
  いての日本の政策はどんなものだったか。

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 上記の項目にしたがって調査が進められ、まとめられたのが「サンダース・レポート」である。そして付録として下記のようなインタヴュー(すでに戦犯免責が決定していたため、戦犯としての証拠集めではないということで、”インタヴュー”という言葉が使われているようである)の内容を記録したものが多数付けられている。この時点では、日本側に真実を秘匿する姿勢が読み取れるのである。
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 付録29-Aーa

主題──生物戦
日付──1945年9月20日
対象──出月三郎大佐、軍医学校防疫研究室室長、井上隆朝大佐、軍医学校細
      菌学教室室長
聞き手──M・サンダース・中佐、W・ムーア中佐、H・E・スキッパー少佐
 一、これら軍医は生物戦との関係を問われて、防疫研究室は防疫面の責任を負
  っていたと答えた。
 二、防御部隊についての問いには、それは防疫給水部隊(WPU)であるという答
   が返ってきた。
 三、野戦における生物戦部隊の組織と詳細を図示するよう求めたところ、以下の
   ような図が示された。
       ┌──────┐  
       │ 師団司令官 │
       └───┬──┘
      細菌戦部隊(225人)

      (中佐あるいは少佐)
 四、各師団の防疫給水部の仕事は以下に示されるものだった───
  a、流行病の予防
  b、浄水
  c、疫学調査
 五、より大きな恒久的な施設をもった部隊ではワクチンの生産もっしていた。さら
   に各部隊とも攻撃の任務はなく、任務としては予防医学上の活動が考えられ
   ていただけだった、という事実が強調された。
 六、師団の防疫給水部隊の装備は次の通りだった──
   濾水機(トラックに積み、モーターで動く濾過装置)4台──部隊によっては濾
   水機2台だけで、そのほかに水や物資の運搬にトラック28台をもっている場 
   合もあった。
 七、軍の防疫給水部は師団のそれの二倍で、司令官は大佐だった。
 八、恒久的施設である本部の組織は軍や師団の防疫給水部隊のそれとは少し
    違っていた。恒久的施設である本部は次の場所に置かれていた──
  a、ハルビン(満州)
  b、北京(中国)
  c、南京(中国)
  d、広東(中国)
  e、シンガポール(マラヤ)

 九、以下のような質疑応答が記録されている──
問 検査を受ける濾水機はどこに置かれていたか。
答 軍医学校である。一部は爆撃を避けるために新潟に移された。
問 生物戦に対して防疫給水部以外の防御策もっていたか。
答 防毒衣とマスクだけだった。
問 防御手段としてガス・マスクについて研究したことはないか。
答 ない。
問 とくに対生物戦防御用の防御衣を作っていたか。
答 ペスト研究者用にのみ作っていた。
問 生物兵器によって攻撃されることを考えていたか。
答 考えていた。(出月大佐は、先の戦争ののち各国が生物戦の攻撃面の研究を
  行っていると聞いていた、とのべた。)
問 軍医学校では生物戦の攻撃面についてどんな研究をやっていたか。
答 なにもやっていなかった。生物戦の攻撃的側面についてはなにも研究してい
   なかった。
問 攻撃された場合、最も使われそうだと考えていたのはどんな生物兵器用病原
  体だったか。
答 腸チフス菌および腸管系細菌である。
問 通常の注意で十分であると考えていたか。
答 我われは、日本兵の最大の弱点は各自の衛生に関してきちんとした知識をも
  っていないことだと考えていた。この弱点のために、水を
  沸かし食料の調達に注意することが力説された。
問 日本で生産されたワクチンの種類は。
答 a、腸チフス
  b、パラチフスA、パラチフスB
  c、ペスト
  d、髄膜炎
  e、発疹チフス
  f、ヲイル氏病
  g、天然痘
問 生物戦の攻撃面の研究はいっさい行われていなかったと理解すべきなのか。
答 攻撃に関する研究はなにもしていなかった。敵の攻撃を避ける研究だけやっ
   ていた。これらの研究は軍医学校で行っていた。
問 どんな防御の研究をしていたのか。
答 各地域の風土病の研究であった。たとえば満州では発疹チフス、中国南部で
  はマラリアの研究である。
問 生物戦用爆弾についてなにか知っているか。
答 なにも知らない。
問 我われは、日本が生物戦用爆弾を保有しているというレポートを、それぞれ独
  立の情報源から得ている。この爆弾の特徴については、全レポートが一致して
  いる。
答 これは戦略的(?)事実である。これは我われの責任範囲外のことであり、当
  然のことながらそれについてはなにも知らない。
問 これについて知っているのはだれだ。
答 参謀本部の人間である。
問 参謀本部のだれだ。
答 我われは知らない。
問 攻撃面の知識なしに、どうやって実効の上がる防御の研究ができるのか。
答 一般的な措置はとれると信じていた。
問 防御についての研究の記録類をみせてもらいたい。
答 建物のほとんどが焼失し、それとともに生物兵器について書かれていた医学
   研究の資料も失われた。
 十、インタヴューはこれで終わり、日本の軍医たちは戦略、そして攻撃の研究に
   ついて権限と責任のある参謀本部の人物をつきとめるよう積極的に努力する
   と約束した。
 評価──これは生物戦についての最初の会談だったが、まったく不満足なもの
   だった。日本の軍医の言っていることが本当なら、この側面の防御はまったく
   稚拙で粗っぽいものである。出月および井上両大佐が召喚されたのは、特定
   の活動にたずさわっていた将校としてインタビューすることを率直に求める現
   在のGHQの方針によるものだった。こうして彼らは生物戦に関係していた将
   校として求められ、それに応じたものだった。
    生物戦の研究についての話の内容が腸管系の病原体に限られ、風土病が
   強調されていたことに注意する必要があろう。情報不足は否定しえないが、こ
   れらの言明が我われの情報活動によるレポートと一致することが興味深い。
   また、防疫給水部と生物戦とは結びついているというレポートとも一致してい
   る。
    本インタヴューは不満足なものであり、陸軍省の医務局長を召喚することに
   決定した。


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ハバロフスク裁判 第731部隊 孫呉支部長 西俊英の証言

2008年05月27日 | 国際・政治
 石井四郎の15年間にわたる研究の最大の成果は”ペストノミ”を利用した生物兵器の開発ではないかと言われるが、1940年夏の寧波(ニンポー)に対するペストノミを利用した攻撃について、西俊英はハバロフスク裁判で下記のように証言しているという。「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動常石敬一(大月書店)よりの一部抜粋である。
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 (答)。私は1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する映画を見ました。先ず映画には、ペストで感染された蚤の特種容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。ついで飛行機の翼に撒布器が取附けられている場面が映され、更に特別容器にはペスト蚤が入れてあるという説明があって、それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るか判りません。それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に向かって飛翔しているという説明があり、次いで飛行機は敵の上空に現れます。次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、飛行機の翼から出る煙が見えます。次に出てくる説明から此の煙が敵に対して撒布されるペスト蚤であることが判ってきます。飛行機は飛行場に帰ってきます。スクリーンに「作戦終了」という字が現れます。ついで、飛行機は着陸し、人々が飛行機に駆け寄りますが、これは消毒者で、飛行機を消毒する様子が上映され、その後人間が現れます。先ず飛行機から石井中将が姿を現し、ついで碇少佐、その他の者は私の知らない人です。この後「結果」という文字が現われ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。説明の中で、寧波附近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。最後に、終りの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。正に此の映画から、私は寧波附近で細菌兵器が使用されたことをはっきりと知るようになりました。
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 この映画は石井四郎が、陸軍上層部への宣伝用に作ったものであるという。(この攻撃で、99人のペストによる犠牲者が出たことを、中国保健省が発表している) 西俊英は第731部隊牡丹工支部の尾上正男支部長とともに、ソ連の捕虜となった孫呉支部の支部長で、ハバロフスク裁判の12名の被告の一人である。 


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背陰河(ペイインホー)の東郷部隊

2008年05月26日 | 国際・政治
 1932年8月、2年間にわたるヨーロッパ視察旅行から帰国した石井四郎を主幹として陸軍軍医学校に防疫研究室が設立された。しかし石井は、この時すでに満州に部隊を創設し細菌戦(生物戦)の実地研究を行っていたという。秘密保持の必要のない防御のための生物兵器研究は陸軍軍医学校の防疫研究室で行い、日本国内ではできないような人体実験を伴う攻撃用生物兵器の研究は満州で行うというのが彼の基本的な考え方であったようである。
 「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動」常石敬一編訳(大月書店)によると、1932年8月に石原莞爾中佐(当時)の後任の関東軍作戦主任参謀となった遠藤三郎中将は『日中十五年戦争と私』の中で次のように書いているという。
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 1932(昭和七)年私が関東軍作戦主任参謀として満州(現東北)に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から”極秘裏に石井軍医正に細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい”との依頼を受けました。寸暇を得てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾賓(ハルビン)、吉林の中間、哈爾賓よりの背陰河(ペイインホー)という寒村にありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気の毒なものでした。部隊名は「東郷部隊」と云っておりました。被実験者を一人一人厳重な檻にに監禁し各種病原体を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾賓監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さない様に焼くとのことでありました。
 本研究は絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。石原参謀から面倒を見てほしいと申送られましたが具体的に私のすることは何もありませんので、研究費として軍の機密費20万円を手交し目的を逸脱せぬ様厳重に注意しておきました。ところ或る時細菌の試験以外に、健康体に食物を与えて水を与えず、あるいは水を与えて食物を与えず、または水と食物を共に与えずして幾日の生命を保ち得るか等の実験もしていると聞き、本来の目的を逸脱した医学的興味本位の研究と直感し、石井軍医正を招致して厳重に叱責し、今後もし目的を逸脱した実験をするが如きことがあれば一切の世話を打ち切ると宣言したこともありました。
 その後在職期間さらに一回現場を視察しましたが試験場が整備されているほか格別変わったことはありませんでした。

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 背陰河の東郷部隊は、後の平房の「満州第731部隊」の前身であり、当初から人体実験をやっていたことが明らかにされているのである。 

  http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ 各項目へリンクした一覧表があります。
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陸軍軍医学校跡地の人骨問題

2008年05月22日 | 国際・政治
 1989年7月22日、新宿区に建設中の厚生省予防衛生研究所の建設現場から多数の人骨(警察発表では35体)が発見された。同現場は、旧陸軍軍医学校の跡地であり、満州の第731部隊(細菌戦部隊)と関係の深い防疫研究室が存在していた場所でる。この防疫研究室は1932年8月、後に第731部隊の部隊長に就任する石井四郎を主幹として新設された研究室である。当然のことながら、”特移扱”で”丸太”とされ、人体実験によって殺された人たちの骨ではないかと考えられた。問題は、そうした指摘を受けた政府や、発見時の警察の対応である。「消えた細菌戦部隊(関東第731部隊)」常石敬一(ちくま文庫)から、とびとびにその問題部分を抜粋する。
-------------------------------
 ・・・
 こうした状況証拠から、人骨はそこに軍医学校があった1929年から1945年までに投棄されたのだろうと判断された。 
 そのため新宿区は厚生省に対して、人骨発見の約2週間後の8月5日付で「人骨の身元確認調査について」という文書を出している。厚生省は3日後の8日に、
「当方としてはこれを行う考えはない」という返事をしている。この後9月5日までにさらに2回新宿区は厚生省に人骨の身元調査・鑑定を求めるが、厚生省は2度とも拒否の回答をした。
 新宿区は厚生省に身元調査・鑑定を要求しても埒が明かないので、9月21日に当時の区長山本克忠が、区として独自に人骨の鑑定・身元調査を行うことを区議会本会議で表明した。
 鑑定はすぐには開始されなかった。新宿区が各研究者に打診すると、すぐに承諾が得られた。しかし彼らが所属する科学博物館や医科大学などに正式に依頼すると、館長や学長が断ってくるのだった。科学博物館は文部省の一部門であり、厚生省に配慮して鑑定を断ったのではないかと考える人もいた。また医科大学は付属病院を持っており、厚生省の意向に逆らうことは利益にならないのだろう、と指摘する人もいた。この間、新宿区の鑑定が進まないのは厚生省の無言の圧力があるためではないかと推測された。
 こうした状況のため、翌90年4月3日に人骨が鑑定抜きで埋葬されてしまうことを恐れる人々が集まり、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」
(以下では「骨の会」と略記する)が結成された。会である以上代表を置く必要があるということで、筆者が代表を務めることとなった。

人骨の鑑定
 人骨の鑑定は紆余曲折を経て発見から2年後、新宿区の依頼で札幌学院大学教授の佐倉朔が1991年秋から行った。鑑定結果は「戸山人骨の鑑定報告書」
(以下では「鑑定書」と略記する)として翌年4月に公表された。「鑑定書」はB五判で、本文18ページ、B4の表2枚、それに写真102枚からなっている。「報告書」の要約をさらに短くまとめると次のようになる。

 一,人骨が土の中にあった年数は数十年以上であるが、また百年以下である。
 二、人骨の数は頭蓋骨でみると62体分はあり、その他の部分を考えると100体
   以上にのぼる。
 三、性別は3対1で男性が多い。
 四、人種的にはほとんどがモンゴロイドであるが、単一ではなく、かなり多様な人
   種にわたっている。
 五、十数個の頭骨には脳外科手術の練習をしたような跡がある。それ以外の頭
   骨の中には銃で射ぬかれた跡のあるもの、切られた跡のある者、刺された跡
   のあるものがあった。

 ・・・

 これはどのように考えても、発見された人骨は医学の教育・研究機関と、そしてこの場合は軍医学校と、関わりのある骨である。人骨と軍医学校とが関係あることは鑑定前から推測されていた(仮説)ことであり、今紹介した鑑定もそうした判断をしている(確認)。科学的には仮説が実験その他で確認され、それでひとつの事実となる。

・・・

 鑑定結果の公表で当初の警察の発表に少し疑問が生まれた。人骨は掘り出された直後に警察が鑑定し、土の中での経過年数を測定した。そのときに「鑑定書」が明らかにした、人骨に実験あるいは手術の痕跡があったこと、銃や刃物で傷つけられた痕跡があったことを見落としていたのだろうか、という疑問だ。もしそうだとすればずさんな鑑定だったということになる。もうひとつの可能性は、7月22日の朝発見され、公表が24日になされたが、その2日間でなんらかの隠ぺい工作を行おうとすればできたということである。土地の管理者としての厚生省は、佐倉鑑定がスタートするまで、骨の管理者である新宿区に対して一貫して身元調査はする考えがなく、「すみやかな埋葬」を主張していた。初めから警察は厚生省の意向をくんで不十分にしか鑑定結果を発表していなかったとも考えられる。
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 日本軍は、撤退を余儀なくされたとき、また玉砕が避けられないと判断したとき、あらゆる証拠の隠滅を図った。第731部隊の撤退は象徴的である。日本軍の証拠隠滅は徹底していた。そして、その隠蔽の体質が日本政府にしっかりと受け継がれているように思えてならない。
 進んで調査し、事実を公表するとともに、適切な措置をとるべきであったと思う。  


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特移扱→丸太(マルタ)ハバロフスク裁判の証言

2008年05月20日 | 国際・政治
 アメリカから派遣され、731部隊関係者の尋問を基にはじめて日本軍の人体実験に関する調査報告書を作成したノバート・H・フェルはその調査報告書「フェル・レポート」の中で、

3 研究室および野外実験に使われた人間の実験材料は、各種の犯罪のため死刑判決を受けた満州の苦力とのことであった。アメリカ人あるいはロシア人の戦争捕虜が使われたことは、(何人かのアメリカ人戦争捕虜の血液が抗体検査に使われたのを除けば)一度もなかった、と明確に述べられていた。この主張が真実でないことを示す証拠はない。

と報告している。そしてフェルに続いて来日し、調査に当たったエドウィン・V・ヒルは、その第4次の調査報告書の最後に

 さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に提供した個々人がそのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐために、あらゆる努力がなされるように希望する。
                                    
と書いている。この二人の調査報告書を、ハバロフスク裁判の証言などと考え合わせると、戦犯免責に通じる”取り引き”の結果による”事実の歪曲”の疑惑を感じざるを得ない。第1次や第2次の尋問では、人体実験に関しては秘匿していたのである。また、ハバロフスク裁判では、下記のような裁判なしの”特移扱”に関するいくつかの証言があるのである。「消えた細菌戦部隊」常石敬一(ちくま文庫)よりの抜粋である。

田乙三大将(関東軍司令官)の証言---------------
生きた人間を使用する実験は、私の前任者梅津大将又は植田大将に依って認可されたものであります。之に関して認める私の罪は……其の続行を黙認したこと……。実験のために囚人を送致すること、即ち所謂「特移扱」も、矢張り私の前任者植田大将又は梅津大将が認可したのでありますが、私も此の認可を廃止しなかった……」。
--------------------------------
 また、佳木斯(チャムス)で憲兵隊長を務めていた橘元憲兵大佐はハバロフスク裁判に証人として出廷し、次のように証言している。

橘元憲兵大佐の証言-----------------------
 1940年、私は佳木斯市の憲兵隊長の地位にありました。其の時、私は初めて、第731部隊の存在と其の業務を知るようになりました。……当時、何らかの嫌疑で憲兵隊が拘引し検挙した者の一定の部類を、吾々は実験材料として第731部隊に送致していました。吾々は、此等の者を、予備的な、部分的取調べの後、裁判に附さず、事件送致せずに、憲兵隊司令部より吾々が受領した指令によって第731部隊に送っていました。是れは、特殊の措置でありましたので、、斯かる取扱は「特移扱」と呼ばれていました。……私の佳木斯憲兵隊長在職中、私の隷下憲兵隊本部によって少なくとも6人が第731部隊に送られ 、此等の者は、其処から戻らず、実験に使用された結果、其処で死亡しました。
---------------------------------

 憲兵隊の判断だけで、裁判なしで実験材料とされ殺される、それが「特移扱」なのである。そして「特移扱に関する件通牒」にはその対象が列挙されている。さらにフェル・レポートに反し、ロシア人を第731部隊に送ったという下記のような証言がある。これは、ハルビン特務機関の管轄下にある保護院の院長補佐で、情報調査課長であった山岸健二元陸軍中尉のハバロフスク裁判における証言である。

山岸健二元陸軍中尉の証言--------------------
 特務機関長秋草少将の署名入りのハルビン日本特務機関の指令書に依って情報調査課の勤務員は、私の同意を得て現存の罪証資料に依って名簿を作成し、収容所所長飯島少佐の承認を経て、飯島少佐は之に捺印しました。飯島は上述の名簿を報告の為秋草特務機関長の許に持っていきましたが、特務機関長は常に吾々の意見に同意し、殺戮の為吾々が予定したソヴエト市民を第731部隊に移送することを許可しました。
---------------------------------
 上記の証言によると、石井部隊に送られ、人体実験の材料とされて殺されたのは中国人や朝鮮人、モンゴル人だけでなく、ソ連人(ロシア人)も含まれている。ただ、ソ連人は特務機関から送られ、それ以外の人々は憲兵隊から送られたということである。そして、保護院から石井部隊に送られたソ連人は約40人であったという。
 これら”特移扱”の人たちは、石井部隊では「丸太」と呼ばれ、「石井部隊-”マルタ”生体実験」で紹介したように


「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」


などと、物として扱われていたのである。
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ハバロフスク裁判:川島清(第四部細菌製造部長)の証言

2008年05月18日 | 国際・政治

 戦時中、満州で活動していた731部隊および第100部隊(軍馬防疫廠)の主力は、敗戦とともにいちはやく細菌戦の証拠隠滅を図り、日本に逃げ帰ったが、両部隊を離れていた者や支部で勤務していた関係者が逃げ遅れソ連の捕虜となった。そして、細菌戦に関わった12名の関係者が、ソ連のハバロフスクで裁判にかけられたのである。被告は山田乙三(関東軍司令官)、梶塚隆二(関東軍軍医部長)、高橋隆篤(関東軍獣医部長)、佐藤俊二(関東軍第五軍軍医部長)、三友一男(100部隊員)、菊池則光(海林支部員)、久留島裕司(林口支部員)、川島清(731部隊第四部細菌製造部長)、柄沢十三夫(第四部細菌製造第一班班長)、西俊英(教育部長兼孫呉支部長)、尾上正男(海林支部長)などであるという。(死去した2名の被告を除いて、上記裁判の被告全員が1956年12月までに日本に帰国し
ているという)
 この裁判で、日本軍による細菌戦に関する多くの事実が明らかになった。公判記録は1950年に日本語版、中国語版、英語版等でも出版されたというが、当初、人体実験などの研究成果を独占入手していたアメリカが、この裁判を、日本人のソ連抑留問題から目を逸らすための「でっち上げ」であるとの声明を出したりしたため、日本では正当に評価されなかったようである。しかしながら、研究が進むとともに、他の関連文書(アメリカの調査報告書を含む)や関係者の証言との整合性が確認され、徐々にその重要性が認められてきたようである。
 この記録は「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」という表題で、738ページにのぼる大冊であるという。
 その中から川島清(731部隊第四部細菌製造部長)の証言の一部を抜粋する。「戦争と疫病ー731部隊のもたらしたもの」松村高夫、解学詩、郭洪茂、李力、
江田いづみ、江田憲治(本の友社
)からの抜粋である。
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                   川島清の公判証言

 1949年12月25日の公判ので川島清(第四部細菌製造部長)は、1941年の夏に731部隊の安達(アンダー)の実験場で実験の責任指導者大田澄のもとで、15人の「被実験者」を柱に縛りつけ、飛行機からペストノミを充填した爆弾を投下し実験したことを述べたのちに、
 「731部隊ノ派遣隊ガ中国中部ニ於ケル中国軍ニ対シテ兵器トシテ殺人細菌ヲ使用シタコトガ1941年ニ1度、1942年ニモ1度
アリマシタ」
と述べ、次のような証言をした。

  第1回目ハ、私ガ述ベマシタ様ニ1941年ノ夏デシタ。第二部長太田大佐ガ何カノ拍子ニ中国中部ニ行クト語リ、其ノ時私ニ別レヲ告ゲマシタ。帰ッテ来テ間モ無ク、彼ハ、私ニ中国中部洞庭湖近辺ニアル常徳市附近一帯ニ飛行機カラ中国人ニ対シテペスト蚤ヲ投下シタ事ニツイテ語りマシタ。其様ニシテ、彼ガ述ベタ様ニ、細菌攻撃ガ行ワレタノデアリマス。其ノ後太田大佐ハ、私ノ臨席ノ下ニ第731部隊長石井ニ、常徳市附近一帯ニ第731部隊派遣隊ガ飛行機カラペスト蚤ヲ投下シタ事及ビ此ノ結果ペスト伝染病ガ発生シ、若干ノペスト患者ガ出タトイウ事ニ関シテ報告シマシタガ、サテ其ノ数ガドノ位カハ私ハシリマセン。
(問)此ノ派遣隊ニ第731部隊ノ勤務員ハ何人位参加シタカ?
(答)40人─50人位デス。
(問)1941年ニ於ケル此ノ派遣当時ノペスト菌ニヨル地域ノ汚染方法如何?
(答)ペスト蚤ヲ非常ナ高度カラ飛行機デ投下スル方法デアリマス。
(問)コレハ細菌爆弾ノ投下ニヨッテ行ナワレタノカ、ソレトモ飛行機カラ蚤ヲ撒布ス
  ル方法ニヨッテカ?
(答)撒布ニヨッテデアリマス。
 

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フェル・レポート(「総論」):731部隊調査報告書

2008年05月16日 | 国際・政治
 下記は、アメリカから派遣されたノバート・H・フェルが731部隊関係者の尋問を基にして作成した調査報告書であり、アメリカが日本軍の人体実験について調査した最初の報告書である。アメリカが、日本軍の人体実験の調査に乗り出したのは、ソ連が石井四郎(731部隊長)、菊池斉(第一部細菌研究部長)、太田澄(第二部実践研究部長)の3人の尋問を要求したことがきっかけであるという。ソ連は抑留した川島清(731部隊第四部細菌製造部長)と柄沢十三夫(同部第一班細菌製造班班長)から731部隊の情報を得て、3人の尋問を要求したのである。ところが、アメリカは独自に調査をし、731部隊関係者の戦犯免責と引きかえに、その研究成果を独占入手したのである。下記はその第3次の調査報告書であり「フェル・レポート」といわれるものである。この調査報告書は、参謀本部作戦課員井本熊男「業務日誌」(防衛研究所に23冊あり、現在は閲覧禁止になっているという)や中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書、またハバロフスク軍事裁判公判書類等とともに、731部隊細菌戦にかかわる重要文書の一つである。「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)よりその一部を抜粋する。
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                フェル・レポート(「総論」)

主題:日本の細菌戦活動に関する新情報の要約
宛先:化学戦部隊部隊長
経由:技術部長、キャンプ・デトリック
   司令官、キャンプ・デトリック
発信:PP─E部門主任、キャンプ・デトリック

1 1947年2月中に、極東軍のG─Ⅱから、日本の細菌戦活動に関する新しいデータが入手可能だろうとの情報を得た。その情報は、主として、日本の細菌戦組織(防疫給水部)のさまざまな旧隊員たちから極東軍最高司令官宛に送られた多数の匿名の手紙にもとづいている。それは満州の平房にあった細菌戦部隊本部における人間に対して行われた各種の実験について記述していた。G─Ⅱはこの情報が十分信頼できるので、集められた情報に評価を下すため、キャンプ・デトリックの使節を現場に派遣するという要請を正当化できると考えた


2 筆者は1947年4月6日付の命令にもとづき極東軍総司令部のG─Ⅱとの一時的任務のため、日本の東京に到着した。筆者は4月16日に到着するや、集められたファイルを吟味した結果、その情報は日本の旧細菌戦組織の指導的隊員たちを再尋問することを正当化するのに十分なほど信頼できそうだとするG─Ⅱの代表たちの意見に同意した。次々に幸運に恵まれた状況にあったことや、一人の有力な日本人政治家(彼は合衆国に対して全面的に協力することを真摯に望んでいるようである)の助力が得られたこともあって、最終的には細菌戦に従事してきた日本人の重要な医学者に、全ての事実を明らかにすることに同意させることができた。得られた結果は次のようなものである。

 A 細菌戦計画における重要人物のなかの19人(重要な地位に就いていた数人は死亡している)が集まり、人間に対してなされた細菌戦活動について60ページの英文レポートをほぼ1ヶ月かけて作成した。このレポートは主として記憶にもとづいて作成されたが、若干の記録はなお入手可能であり、これがそのグループには役立った。このレポートの多岐にわたる詳細な記述は後述する。

 B 穀物絶滅も大規模な実験が行われていたことが判明した。この研究に携わっていたグループは小規模で、植物学者と植物生理学者が各1名と少数の助手たちから成っていた。しかし研究は9年間にわたり活発に行われた。その植物学者は非常に協力的であり、結局、植物の病気に関する研究について10ページの英文レポートを提出した。成長ホルモンの研究は行われていなかったが、植物の病原体は広範囲に研究されていた。キャンプ・デトリックでなされるこの双方の研究とも日本人が行っていたものであり、加えてその他多くのことも注目されていた。菌類、細菌そして線虫類に関しては、とくに満州およびシベリアで成育する穀類と野菜については実際に全種類についてそれらの影響を調べている。

  例えば…以下8行省略


 C 爆弾あるいは飛行機からの噴霧による細菌戦病原体散布のさいの粒子のサイズの決定および水滴の飛散について、理論的に・数学的に考察した興味あるレポートを得た。

 D 中国の市民と兵士に対して12回の野外試験を行った。その結果の要約、および関連した村と町の地図が提出された。この要約および採用された戦術の簡単な記述は、後に述べる。

 E 風船爆弾計画に関わっていた一人から短いレポートを得た。このレポートでは、細菌戦の病原体の撒布のために風船を使用することが大いに注視されたと記されているが、この目的遂行のためには不満足だったと指摘されている。しかしながら、、もし望むならば、風船爆弾に関する完全な詳細な記述は、当初からその計画に携わっていた他の人々から得られるかも知れない。

 F 細菌戦の指導的将校の一人がスパイおよび破壊活動に与えられた一連の漏洩を記した原本の文書を得ている。この文書の翻訳された要約は、キャンプ・デトリックの手中にある。

 G 家畜に対する細菌戦研究は平房とは全く別の組織が大きな規模で行っていたことが判明した。そのグループの20人の隊員がレポートを書いており、それは8月中には入手可能となろう。

 H 細菌計画の中心人物である石井将軍は、その全計画について論稿を執筆中である。このレポートは細菌兵器の戦略的および戦術的使用についての石井の考え、さまざまな地理的領域での(とくに寒冷地における)これらの兵器の使用法、さらに細菌戦についての石井の「DO」理論のすべての記述が含まれるだろう。この論稿は、細菌戦研究における石井将軍の20年にわたる経験の概要を示すことになろう。それは7月10日頃に入手可能となろう。

 I 細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が約8000枚あることが明らかにされた。これら標本は寺に隠されたり、日本南部の山中に埋められていた。この作業すべてを遂行あるいは指揮した病理学者が、現在その標本の復元、標本の顕微鏡撮影、そして、各標本の内容、実験上の説明、個別の病歴を示す、英文の完全なレポートを準備している。このレポートは8月末頃入手可能となろう。

 J 自然的および人工的ペストのすべての研究についての合計600ページにのぼる印刷された紀要も手中にある。これらの資料はともに日本語であり、まだ訳されていない。


3 研究室および野外実験に使われた人間の実験材料は、各種の犯罪のため死刑判決を受けた満州の苦力とのことであった。アメリカ人あるいはロシア人の戦争捕虜が使われたことは、(何人かのアメリカ人戦争捕虜の血液が抗体検査に使われたのを除けば)一度もなかった、と明確に述べられていた。この主張が真実でないことを示す証拠はない。人間の実験材料は他の実験動物と同じ方法で使用された。すなわち、彼らを使って各種病原体の、感染最小量及び致死量が決定された。また、彼らは予防接種を受けてから、生きた病原体の感染実験を受けた。さらに彼らは爆弾や噴霧で細菌を散布する野外実験の実験材料にさせられた。これらの実験材料はまた、ペストという広範な研究で使われたことはほぼ確実である。人間について得られた結果は、多少断片的である。それはどの実験でも統計的に有効な持論が得られるほど十分に実験材料をつかうことができなかったからである。しかしながら、炭疽菌のような最も重視されていた病気のばあいには、数年間に数百人が使われたようである。

4 人間を使った細菌戦活動についての60ページのレポートの多岐にわたる詳細な記述の要約は、次の通りである。特記なきときは、ここで示されたデータは、全て人体実験によるものである。
【以下(1)の(d)以外は項目のみとする】
(1) 炭疽
  (a)感染量あるいは致死量
  (b)直接感染
  (c)免疫実験
  (d)爆弾実験
 野外試験の完全な細部の記述と図表がある。ほとんどのばあい人間は杭に縛りつけられ、ヘルメットとよろいで保護されていた。地上で固定で爆発するものあるいは飛行機からとうかされた時限起爆装置のついたものなど、各種の爆弾が実験された。雲状の濃度や粒子のサイズについては測定がなされず、気象のデータについてもかなり雑である。日本は炭疽の野外試験に不満足だった。しかし、ある試験では15人の実験材料のうち、6人が爆発の傷が原因で死亡し、4人が爆弾の破片で感染した。(4人のうち3人が死亡した)。より動力の大きい爆弾(「宇治」)を使った別の実験では、10人のうち6人の血液中に菌の存在が確認され、このうちの4人は呼吸器からの感染と考えられた。この4人全員が死亡した。だが、これら4人は、いっせいに爆発した9個の爆弾との至近距離はわずか25メートルであった。
  (e)牧草の汚染
  (f)噴霧実験
  (g)安定性
  (h)事故および実験による感染
(2)ペスト
  (a)感染あるいは致死量
  (b)直接感染
  (c)免疫実験
  (d)爆弾実験 
  (e)結果…
  (f)安定性
  (g)ペストノミ
(3)腸チフス、パラチフスAおよびB型、そして赤痢(細菌性)
  (a)腸チフス
  (b)パラチフスAおよびB型
  (c)赤痢
(4)コレラ
  (a)感染量
  (b)免疫実験
  (c)噴霧実験
  (d)安定性
(5)馬鼻疽
  (a)感染量
  (b)免疫実験
  (c)爆弾実験
  (d)噴霧実験
(6)流行性出血熱(孫呉熱)
(7)結論(60ページのレポートの最終部分)
 前記以外にも各種の病気が細菌戦研究の初期の段階で研究された。その中には、結核、破傷風、ガス壊疽、ツラレミア(野兎病)、インフルエンザ、それに波状熱(ブルセラ症)があった。結核菌の静脈注射で全身的な粟状結核の急激な感染は起こせるが、呼吸器によって人間に感染させることは、容易ではないことが判明した。一般的に、日本が研究した細菌戦用病原体のうち二種類だけが有効で、炭疽菌(主に家畜に対して有効と考えられた)とペストノミだけだったと結論できる。日本はこれらの病原体で満足していたわけではない。それは彼らはそれらに対する免疫を作るのはかなり容易であろう、と考えていたからである。
 細菌戦の野外実験では通常の戦術は、鉄道線路沿いの互いに1マイルほど離れた2地点にいる中国軍に対して、1大隊あるいはそれ以上をさし向けるというものだった。中国軍が後退すると、日本軍は鉄道線路1マイルを遮断し、予定の細菌戦用病原体を噴霧か他のなんらかの方法で散布し、ついで「戦略的後退」を行った。中国軍はその地域に24時間以内に急拠戻ってきて、数日後には中国兵のあいだでペストあるいはコレラが流行するというものだった。いずれの場合も、日本はその結果の報告を受けるため汚染地域の背後にスパイを残そうとした。しかし彼らも認めているのだが、これはしばしば不成功に終わり、結果は不明であった。しかし12回分については報告が得られており、このうち成果があがったのは3回だけだったといわれている。高度約200メートルの飛行機からペストノミを散布した2回の試験において特定の地域に流行が起きた。このうちひとつでは、患者96人がでて、そのうち90パーセントが死亡した。鉄道沿いに手でペストノミを散布した他の3回の試験では、どの場合も小さな流行は起こったが、患者数は不明である。コレラを2回そして腸チフスを2回、鉄道の近くの地面および水源に手動噴霧器でまいたところ、いずれのばあいも効果があるという結果を得た。


 筆者は、日本人が思い出せるだけ詳細に、真実の話を我々に語ったと信じている。しかしながら、おそらくさまざまな報告を分析したのちに我々は回答可能な質問をすることができるだろう。我々が大規模生産という点でも、気象学の研究という点でも、実用的軍需生産という点でも、日本より、十分優れていることは明白である。(石井将軍は大規模生産のために固形培養基の使用を主張した。というのは、石井は毒性は液状培養基では保存されないと信じていたからである。)良好な気象学のデータの欠如と軍需生産の分野の貧弱な進言によって、陸軍のなかや、陸軍と科学者の間や、科学者自身のなかのさまざまな職種の間に意見の相違が絶えず存在した。平房の部隊は実際空軍や………(判読不能)からなんの援助も受けていない。しかしながら人体実験のデータは、我々がそれを我々や連合国の動物実験のデータと関連させるならば、非常に価値があることがわかるだろう。病理学的研究と人間の病気についての他の情報は、炭疽、ペスト、馬鼻疽の真に効果的なワクチンを開発させるという試みにたいへん役立つかもしれない。今や我々は日本の細菌研究について完全に知ることができるので、化学戦、殺人光線、海軍の研究分野におけるかれらの実際の成果についても有益な情報が得られる可能性は大きいようである。
               ノバート・H・フェル
               PP─E(パイロット・プラント・エンジニアリング)部門主任 



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 731部隊調査報告書:ヒル・レポート(総論)抜粋

2008年05月15日 | 国際・政治

 下記は、アメリカによる731部隊関係者の尋問を基にした調査報告書であり、中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書やハバロフスク裁判公判書類などとともに、731部隊および日本軍の細菌戦に関する重要文書の一つである。「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)よりその一部を抜粋する。
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               ヒル・レポート(「総論」)
                                     APO 500
                                     1947年12月12日
件名:細菌戦調査に関する概要報告
宛先:オルデン・C・ウェイト
   化学戦部隊主任
   国防総省、25、 ワシントンD.C.

1 前文
 文書命令AGAOーC200.4(47年10月15日)(A表)に依り、エドウィン・V・ヒル博士(DrEdwinV.Hill)とジョーゼフ・ヴィクター博士(Dr.JosephVictor)が、日本の東京に1947年10月28日に到着した。調査は下記の要領で実施された。極東軍総司令部GⅡ副参謀長チャールズ・A・ウィロビー(CharlesA Willourghby)准将の全面的協力により、我々はGⅡの全ての施設を利用でき、任務は大いに促進された。尋問した人たちから得られた情報は任意によるものであることは特筆すべきである。尋問のあいだ戦争犯罪の訴追免責を保証することについては、全く質問がだされなかった。

2 目的
 A 細菌戦に関し日本側要員から提出された諸報告書を明確にするのに必要な追加情報を得るため
 B 細菌戦諸研究施設から日本に移送された人間の病理標本を調査するため
 C その病理標本の意義を理解するのに必要な説明文書を得るため

3 方法
 A 細菌戦に関してハルビンまたは日本で研究した以下の人たちを尋問した。
  主題      尋問した医師           (表名が示されているが省略)
  エアゾール  高橋正彦 金子順一
  炭疽      太田 澄
  ボツリヌス   石井四郎
  ブルセラ    石井四郎 山之内裕次郎 岡本耕造 早川清 
  コレラ      石川太刀雄 岡本耕造
  毒ガス除毒  津山義文
  赤痢      上田正明 増田知貞 小島三郎 細谷省吾 田部井和
  フグ毒     増田知貞
  ガス壊疽    石井四郎
  馬鼻疽      石井四郎 石川太刀雄
  インフルエンザ 石井四郎
  髄膜炎      石井四郎 石川太刀雄
  粘素       上田正明 内野仙治
  ペスト      石井四郎 石川太刀雄 高橋正彦 岡本耕造
  直物の病気   矢木沢行正
  サルモネラ   早川清 田部井和
  孫呉熱      笠原四郎 北野政次 石川太刀雄
  天然痘      笠原四郎 石川太刀雄
  破傷風     石井四郎 細谷省吾 石光薫
  森林ダニ脳炎  笠原四郎 北野政次
  つつが虫     笠原四郎
  結核       二木秀雄 石井四郎

  野兎病      石井四郎  
  腸チフス     田部井和 岡本耕造
  発疹チフス   笠原四郎 有田マサヨシ 浜田トヨヒロ 
            北野政次 石川太刀雄
 
 載物ガラス目録

 B 金沢で我々に提出された病理標本は全く無秩序な状態にあった。この標本を事例番号順に整理し、標本の一覧表をつくり、標本を目録に記入することが必要だった。

 C 尋問した人から得た情報は、笠原四郎博士の場合を除いて記憶によるものである。笠原博士は、孫呉熱の実験をした三つの主題の温度表とそれに関連する臨床データの記録を所有していた。(表T、U)

4 諸結果
 A 省略

 B  金沢の病理標本は、ハルビンから石川太刀雄によって1943年に持ってこられた。それは約500の人間の標本から成っている。そのうちの400だけが研究に適した標本であ。ハルビンで解剖された人間の事例の総数は、岡本耕造博士によれば、1945年に1000以下であった(表R)。この数は石川博士が日本に帰ったときのハルビンに現存していた数より200多い。最初に提出された標本目録の結果からして、多くの標本が提出されていないことが明らかであった。しかしながら、最初に提出されたよりも著しく多い標本の追加的コレクションを入手するには、多少催促するだけでよかった。
 左の表は、様々な疾病毎の事例数と研究に適した標本の事例数である。
   (以下省略)

 C  個々の調査者から特別の説明文書を入手した。実験に関する彼らの記述は別の報告書に収めてある。これらの説明文は、一覧表で示された病理標本をわかりやすく説明するものであり、人間および植物に対する伝染病の実験の程度を示すものである。

5 この調査で収集された証拠は、この分野のこれまでにわかっていた諸側面を大いに補充し豊富にした。それは、日本の科学者が数百万 ドルと長い歳月をかけて得たデータである。情報は特定の細菌の感染量で示されているこれらの疾 病に対する人間の罹病性に関するものである。かような情報は我々の研究所では得ることができなかった。なぜなら、人間に対する実験には疑念があるからで ある。これらのデータは今日まで総額25万円で確保されたのであり、研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。
 さらに、収集された病理標本はこれらの実験の内容を示す唯一の物的証拠である。この情報を自発的に提供した個々人が、そのことで当惑することのないよう、また、この情報が他人の手に入ることを防ぐために、あらゆる努力がなされるように希望する。
                                  エドウィン・V・ヒル M.D.
                                  主任、基礎科学

                                  キャンプ・デトリック、
                                  メリーランド

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731部隊 ハバロフスク裁判 柄沢十三夫証言

2008年05月13日 | 国際・政治
 日本の敗戦後、アメリカは四回にわたって、「731部隊」の調査団を日本に派遣し、関係者の尋問を基にして調査報告書を作成しているという。その調査報告書は「論争731部隊」松村高夫編(晩聲社)によると下記の通りである。
  第一次 サンサース・レポート(1945年11月1日付)
  第二次 トンプソン・レポート(1946年5月31日付)
  第三次 フェル・レポート  (1947年6月20日付) 総論のみ
  第四次 ヒルー・レポート  (1947年12月12日付)

 そして、人体実験に関する内容が明らかにされたのは、1947年の第3次(フェル・レポート)と第4次(ヒル・レポート)であるという。
 第1次や第2次の尋問で秘匿されていた事実が明かされることになったのは、後にハバロフスク裁判で人体実験の生々しい実態を証言する川島清(731部隊第4部細菌製造部長)と柄沢十三夫(731部隊第4部細菌製造部第1班班長)の供述により、その事実をつかんだソ連が「日本は2000名の満州人と中国人を殺すという恐ろしい犯罪を犯し、石井将軍、菊池大佐、太田大佐が関わっている」としてアメリカ側に3人の尋問要求をしたことがきっかけになったようである。ソ連から尋問要求があったので、アメリカが独自に尋問し、調査し、関係者に報告書を書かせるなどしてまとめたものが、上記フェル・レポートおよびヒル・レポートであるというのである。こうしてアメリカは731部隊の研究成果を独占入手する代わりに、石井四郎以下731部隊関係者を戦犯免責するという取り引きを行い、決着を謀ったのである。ソ連とアメリカの間では、どのような「駆引き」があったのか知りたいと思う。
 下記は、その柄沢十三夫証言の「戦争と疫病(731部隊のもたらしたもの)」松村高夫他(本の友社)からの一部抜粋である。
------------------------------

 私ハ、安達駅ノ特設実験場デ野外ノ条件下ニ於ケル人間ノ感染実験ニ2度参加シマシタ。第一ノ実験ハ、1943年末、炭疽菌デ行ワレマシタ。コノ実験ノタメニ、特設実験場ニ連レテコラレタ10名ノ被実験者ガ使用サレマシタ。コレラノ人々ハ、五米間隔デ特殊ノ柱ニ縛リツケラレテイマシタ。コレラノ人々ノ感染ノタメニハ、被実験者カラ50米ノ所ニアッタ榴散爆弾ガ使用サレマシタ。此ノ爆弾ハ電流ニヨッテ爆発セシメラレマシタ。此ノ実験ノ結果、一部ノ被実験者ハ感染サレマシタ。彼等ニ対シテ或ル措置ガ施サレタ後、彼等ハ、部隊ニ連レテ行カレマシタガ、其ノ後、私ハ、罹炭疽シタ被実験者ガ死亡シタコトヲ報告カラシリマシタ。

               http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/        
        投稿記事全文と各項目へリンクした一覧表があります。
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”特移扱”ー731部隊へ移送

2008年05月10日 | 国際・政治

 前に、憲兵として牡丹江、チチハル、大連の各憲兵隊に所属していた三尾豊氏の「”特移扱”で中国人を731へ送った」と題された文の一部を「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より抜粋したが、今度は、その被害者の文の一部を、「日本軍の細菌戦・毒ガス戦(日本の中国侵略と戦争犯罪)」731部隊国際シンポジウム実行委員会・編(明石書店)より抜粋する。
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          三 1941年の「牡丹江事件」の顛末
                                         張 可偉
                                         張 可達
 1937年日本は長期にわたって計画を練っていた中国侵略戦争を発動した。全民族を指導し団結して抗日戦を呼び掛けた中国共産党は、世界の反ファッショ闘争に呼応して、一団の優秀な党員をソ連が指導する極東軍事情報組織と協力合作して、無形戦線の闘争を展開した。中国東北部で日本軍が居座った主要な重鎮である。牡丹江、ハルピン、チチハル、長春、瀋陽、大連に秘密の電信基地を設立し、敵の動向を監督し、政治的、軍事的情報を集めて随時上級に報告した。

 …張維福は送信・発信を受け持ち、妻の龍柱潔は暗号の解読を分担した。 …

 1941年6月22日、ドイツファシズムは信義に反して、突然ソ連に対して大規模な侵攻を開始した。既に中国の武漢、広州及び主要都市を略奪していた日本侵略者は喜んだ。彼らは張鼓峰やノモンハンの教訓を受け入れず、ナチスドイツと呼応してソ連の極東地域の領土を奪おうと画策したのだ。日本の外相松岡は、天皇に上奏して「今こそ、千載一遇の機会だ」と進言した。7月上旬、日本の大本営は『関東軍特別大演習』を命じて、演習の名目で大挙して増兵し、7月の下旬になると関東軍の総兵力は70万人に達した。もし、大本営の命令があれば日本はソ連の背後から一撃を加える用意を整えていた。中国の軍事当局は日本陸軍の絶大部分の兵力を牽制する必要があり、ドイツ軍に対して力をそがれていたソ連軍は、前後に敵を受けるかたちになり牡丹江からの重要情報に注目した。日本軍はいよいよ活発になった地下の電信機におそれと怒りを抱き、一分でも一秒でも早くこれを除去しようと躍起になった。関東軍は1939年に優秀な憲兵を選んで、特別に批准して彼らのいう『ソ連諜報活動』の調査に、特別憲兵隊「86部隊」を組織し、研究を重ねて、二種類の電波探知機を作り出した。日本軍は先ず「ソ連の情報活動が最も活発な牡丹江地区」でこれを使うことに決定した。…


 日本の特設憲兵隊「雨宮班」は特に長春から牡丹江に派遣されて来て、作られたばかりの電波探知機を使って、夜を日に継いで頻繁に発信される「怪電波」の発信基地を探した。
 7月16日の朝、ようやく夜が明けはじめた頃、一晩中電信機で交信した張維福夫婦は、電信機や暗号表などを片付けると、仕事を始めるまでの間少し休息をとろうとしていたが、この時すでに、牡丹江憲兵隊と長春から来た応援の「捜査班」は、張維福の家を取り囲み、飛び込んだ彼らはその場で張維福を逮捕し、庭を接している近隣の家々も捜査し、外の馬の飼料桶の中から電信機を見つけ出した。日本憲兵は張維福、龍柱潔を激しく殴りつけ、さらに彼らの幼子たち(わずか二歳の兄と生後何ヶ月かの弟)をも床に投げつけて……写真を撮り、査問した。そして全員を牡丹江憲兵隊に連行した。張維福一家といささかでも繋がりがある者たちを一斉に憲兵隊に連行して拷問し、尋問を繰り返した。次の日に朱之盈夫婦と孫朝山、呉殿興などが相次いで捕らえられ、二年後には林口県の五河林鎮に隠れていた敬恩瑞も捕らえられた。彼らは非人間的な厳しい拷問を受けた後に、五名の地下工作者全員がハルピン憲兵隊の「特移扱い」によって平房の「731部隊」に送られ殺害された。…


 1945年以後に、牡丹江地下組織の破壊に参加した日本憲兵隊の内山軍曹、川口中尉、山村中佐は日本に逃げ帰って、アメリカの「GHQ」に行き、「牡丹江事件」の材料を米側に渡した。これはアメリカの第二次世界大戦以後の冷戦のために資料提供したことになり、アメリカ軍から代償として戦犯を免れた。
 1943年には、日本憲兵隊は牡丹江電信基地の破壊と同じような手口で瀋陽、大連などの地下電信基地を破壊した。この二つの電信基地の破壊によって逮捕された、趙福元、史順臣、王耀軒、沈徳龍、李忠善、王学年などの愛国志士たちは「731部隊」に連行されて殺害された。

 注 筆者は、文中の張維福、龍柱潔夫婦の遺児。兄、張可偉。弟、張可達。

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石井部隊-”マルタ”生体実験

2008年05月09日 | 国際・政治
 下記は、人間を単なる「物」として扱っていたとしか言いようのない残酷な生体実験とその人集めの証言であり、「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より抜粋したものである。
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                   終生の重荷
                             731部隊・教育部 千田 英男
地獄に通じる道
 中央廊下を過ぎる階段を下りる。ここは地獄に通じる道。靴音がコツ…コツ…コツ…と不気味に響く。私の足どりは重かった。鉄の扉を押し開けると警備詰所があって、屈強な若者たちがモーゼル拳銃を肩にして屯している。
「ご苦労さん」
「ご苦労様です」
 挨拶の後、当然のことながら顔写真の貼ってある出入許可証を提示しなければならないのだが、顔馴染みの私にはそれは必要なかった。
「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」
 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付されていた。数人の警備員が棍棒を手にして先に立っていって施錠をはずすと、頑丈そのものの鉄扉が開いて中庭にでる。その中央に二階建ての”丸太”の収容棟がある。四周は三層の鉄筋コンクリート造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。つまり逃亡を防ぐ構造である。屋上を仰ぐと、四つの角には万一備えて大きな投光器が下をにらむように居座っていて、これと同じ構造のものが反対側にもあって、通称七、八棟と称していた。

・・・

「何番…何番…何番…」
 この人たちにとっては、地獄からの招きにも似た呼び声とともに、分厚い鉄製の扉が開けられたくくり戸から、一人また一人と腰をかがめて出てくる。チョコチョコと小幅にしか歩けないほどの短い鉄鎖の音が、廊下にもの悲しく響く。両足にガッシリとはめられた足かせが痛々しい。……


生体実験
 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。
 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、その病因を究明するためのものだった。
 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていくあの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……

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           ”特移扱”で中国人を731へ送った
                                     憲兵 三尾 豊
”特移扱”について
 ”特移扱”〔特殊移送扱い〕と申しますのは、憲兵が逮捕した人々を関東軍司令官の命令で731部隊に人体実験の材料として送る、その扱いを秘匿するための呼称です。”特移扱”の文書には、ソ連の諜報員と”反満抗日軍”、それから軍・国家に不利な者と書いてありました。その人たちのなかには、旧”満州国”政府に勤務する中国人もいました。中国人のことですから当然、日本政府に対して不満を持っている。そのような事実がわかれば軍・国家にとって不利であるということで、731部隊に送る対象になったわけです。 
 ご承知のように、”満州国”は傀儡政権で、”満州国”皇帝は関東軍司令官の指導のもとに動いていたわけでありますから、そこにいる、勤務している中国人は日本軍の支配に満足するはずはありません。
 さらにそこに浮浪者と書いてありますが、浮浪者はいったいなぜこのような対象になったのか。

 当時毒ガスをさかんに研究していたんです。731部隊で毒ガスを研究して、そして広島の大久野島で毒ガスの生産をしていました。毒ガスを空輸して、そして安達あるいはその先の孫呉、またハイラル、チチハルなどで毒ガス実験をさかんにやっておりました。一回の毒ガス実験で、少なくとも30~40名の実験要員が必要です。ところがこのチチハルとか孫呉で実験する時にはもっと多い数が必要で、そうしますと、実験する材料が足りなくなる、そうすると憲兵が捕らえて送り込む”特移扱”だけでは足りないんです。そこで浮浪者(開拓団の入植によって土地を収奪された農民は都市に流出し、浮浪者になる)が731部隊の材料にさせられるわけです。
 1943年(昭和18年)10月、新京警察長官三田正夫は新京憲兵隊長の依頼によって浮浪者80名を100部隊に送ったと言っています。三田さんは横浜の方で最近亡くなられましたが、警察長というのは日本流にいいますと警視総監ですね。
 100部隊というのは731部隊の姉妹部隊で、もと新京の寛城子(かんじょうし)という所にありまして関東軍病馬廠のことです。そこでは731とまったく同じことをやっていました。そこに送って実験に使いました。1943年3月に牡丹江警察局警正原口一八が、25名を731部隊牡丹江支部に送ったと供述しています。このようにして”特移扱”とは、本来正規の司法手続きとって裁判にかけるべき人を何の手続きもなく、いつでもどこでも勝手に憲兵が捕らえ、そして憲兵の判断によって731部隊に送る、そしてあの非人道きわまる実験に供出したわけです。


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旧日本軍 細菌戦部隊-生体解剖 軍医の証言

2008年05月02日 | 国際・政治
 「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO.389)によると、731部隊とは日本陸軍が細菌兵器の研究・開発のためにつくった中心部隊であり、731部隊だけにとどまらず、下記のように組織を拡大し、細菌戦を展開していったという。石井四郎軍医中将が中心であったことから、これらを総称して石井機関とか石井部隊というようである。こぢんまりと密かにやっていたのではないことがわかる。
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 ① 1932年 東京の軍医学校に防疫研究室設置。
 ② 1933年 背陰河に「統合部隊」設置。
 ③ 1936年 ハルピン市平房に関東軍防疫部(石井部隊〔のち731部隊〕)編成
 ④ 1936年 長春に関東軍軍馬防疫廠(若松部隊〔のち100部隊〕)編成。
 ⑤ 1939年 ノモンハン事件で細菌戦実施。
 ⑥ 1939年 北京に甲第1855部隊編成。
 ⑦ 1939年 南京に栄第1644部隊編成。
 ⑧ 1939年 広州に波第8604部隊編成。
 ⑨ 1940年 浙江省で細菌戦実施。
 ⑩ 1940年 牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに石井部隊の支部設置。
 ⑪ 1941年 湖南省常徳で細菌戦実施。
 ⑫ 1942年 浙贛(セッカン)作戦で細菌戦実施
 ⑬ 1942年 シンガポールに南方防疫給水部(9420部隊)編成。
 ⑭ 1943年 安達に実験場設置。

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 旧日本軍は、細菌戦の他に生体解剖や人体実験をやったことでも知られているが、下記は元陸軍軍医の証言の一部である。「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より 
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                 陸軍病院の軍医として
                                   元陸軍軍医 湯浅 謙
手術演習
 二回目の手術演習は、その年の秋です。憲兵隊からもらい下げてきた二人の中国人を、生体解剖しました。演習の課題としては、腸管の切開と縫合、咽頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。日本の病院では経験できない手術なのに「これらはすべて戦地で軍人が負傷したときに役立つ」と、生きている中国人を殺したのです。
 そのほかでは、病院長の特命を受けて、中国人の生体解剖の終わった人の脳の皮質をはぎとり、500ccのアルコール瓶10本に詰めたことがあります。これは日本の臓器製薬会社の研究・開発用として内地へ送られた、と聞きました。またある時は、衛生兵の初年次教育のおり、解剖学を一日も早く覚えさせるために、一人の中国人を生体解剖して皆に見せたことがあります。
 1943年(昭和18年)の12月には軍医の集団教育が行われました。弾丸摘出手術の練習のため太原監獄内で4人の中国人を看守が拳銃で射ち、その体に入った弾丸を摘出する手術にかかわりました。切開や縫合手術などの実地訓練を、より多く積むためです。その後1945年(昭和20年)、私が潞安(ロアン)陸軍病院の庶務主任であった時北支那方面軍から機密命令が降りてきました。内容は「手術演習の実施計画を立てて提出するように」というものでした。そのため、私は1ヶ月おきに演習を行う計画を立てて提出しました。幸いに、当時は部隊の移動のため実施できませんでしたが。手術演習に人体が必要になると憲兵隊に電話し、トラックで衛生兵が犠牲となる中国人を取りに行きました。憲兵隊で受け取ると、病院側は領収書を憲兵隊に提出するといったかたちで手術演習は準備されました。こうして私は3年6ヶ月の間、7回にわたって14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。 

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 下記は、731部隊看護婦の「石井四郎」に関する証言であるが、731部隊が何であるかをよく示していると思う。こういう人間が何の裁きも受けなかったことをどう考えたらよいのだろうと思う。上記と同じ「細菌戦部隊」より、一部抜粋である。
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                731部隊の看護婦だった
                            元731部隊・看護婦 赤間まさ子
箝口令
 新京に着いた日の夜、私たちは敗戦を伝えられたのです。停車していた列車の窓から、険しい形相の部隊長石井四郎が大声で怒鳴りました。
 これからお前たちを内地に帰す。しかし部隊で見たこと、聞いたこと、体験したことは、今後いっさい誰にもしゃべるな。もしもしゃべったことがわかったら、この俺が草の根わけてもどこまでも探すぞ!」
 まるでライオンのような声でした。
 暗闇の中でしたので、副官が太いろうそくを持っていたのですが、隊長の顔がろうそくで不気味に照らし出されていました。あのときの隊長の顔のこわかったことといったらありませんでした。恐ろしかった。恐くて体が震え上がってしまいました。
 私は帰国してからもその言葉が忘れられなくて、部隊でいっしょだった友達にはいっさい連絡をとらなかったため、そのときの友達を失ってしまいました。もしも、命令に背いたことがわかったら……そう考えるだけでこわくて……。あのときの隊長の声は、今も耳にこびりついています。

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