真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 中国日刊紙『大公報』の報道

2015年01月26日 | 国際・政治

 下記は、南京事件当時の中国における代表的日刊紙、『大公報』の記事の一部を『南京事件資料集 2中国関係資料編』南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から抜粋したものである。

 『大公報』は1902年天津で創刊された新聞で、とくに対日問題に特色ある議論を展開したことで知られるという。日本軍の圧迫を避けるために1935年末に上海に支社を開設し、日中全面戦争勃発後は、漢口、ついで重慶で発行を続けたという。南京陥落前後の記事の内容は、大部分が南京から逃れてきた中国人から得たものや南京に留まった英米の記者が送った記事から得たものであったことが分かる。『大公報』は、南京に記者を留め置くことができず、また、英米のような通信手段を持っていなかったからであろうと思う。しかしながら、懸命に情報収集をしつつ連日報道しているのである。記事のなかには、疑わしいものがなくはないが、それらを読むと、

・南京大虐殺は東京裁判用に捏造されたものだった。
・南京入城した日本軍は多くの人道的活動を行った、非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった。
・南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません”

 というようなネット上にある情報は、いかがなものかと思う。総勢100人の新聞記者やカメラマンの内、外国人はいったい何人いたというのであろうか。また、下記の記事に見られるような、外国人記者やカメラマンの南京視察拒否や、ニュース電報の差し押さえ、郵便物の開封などをどのように受け止めればよいのか、と思う。外国人記者やカメラマンは、中国兵の非道行為をどのように報道したというのであろうか。

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          11 社説  敵機、英米軍艦を爆撃
                                   民国26年12月14日

 一昨日、凶暴な敵の飛行機は南京付近に停泊していたイギリス軍艦レディバード号とビー号を二度爆撃し、多数の爆弾を投下したが、さいわい命中しなかった。この事件はすでに国の内外を大きく震撼させている。さらに昨日朝、漢口のアメリカ大使館は、一昨日午後、敵機が南京上流29マイ(約46.4km)の場所でアメリカ軍艦パナイ号を爆弾で撃沈したとのニュースを受けとった。艦長らが重傷を受け、死者は約20人である。生存者54人は和県に逃げたが、そのうち負傷者が十余人いる。アメリカ大使館員4人はさいわい死傷しなかった。他にイギリス人・イタリア人がおり、商人とロンドン・タイムズとユナイテッド社を含む新聞記者がいた。昨夜までのところ、死傷の情況の詳細は不明である。

 船舶は南京を離れるように敵が各国に警告していたことを私たちは知っている。このアメリカ船が上流29マイルの場所で停泊していたことは、事が日本軍の警告通り処理されていたことを証明するものである。そうであれば、この爆撃の意味は当然さらに重大である。敵は中国の軍艦の情況についての消息に通じており、したがって当然、中国艦でないことを知っていた。まして旗印が鮮明で見分けやすく、また同時に爆撃にあったスタンダードの船4隻が事前に日本側に通知し、保護を求めていたのだからなおさらである。つまり当然、故意の爆撃であり、偶然ではなかったことを事実が証明しているのである。

 中国政府と人民は、二大友邦の軍艦の災難、とくにアメリカ軍艦の轟沈を聞いてふかく痛惜する。わが政府のスポークスマンは、この点についてすでに声明を出した。私たちがとくに遺憾に思うのは、同情と痛惜を表明する以外にいささかも尽力できないことである。なぜなら私たちの国家は、不幸にも凶暴な隣国の侵略に遭遇し、血戦抵抗しているけれども制止しえず、私たちの首都はきわめて危険な状態におかれているので、私たちは友邦の船舶と人命を保護する力がないからである。

  同日のうちにイギリスとアメリカの軍艦がひとしく爆撃を受け、商船はさらに絶え間なく襲撃を受けている。このような状況を英語を話す二大国の人民は、どのように解釈するだろうか。私たちは、イギリス人が極東問題に対して近ごろはなはだ苦慮していることを知っている。イギリスが忍耐すればするほど、日本は侵攻し、今や公然とくりかえしイギリス軍艦を爆撃したのである。また私たちは、少なからぬアメリカ人が孤立政策に賛成しているので、ルーズベルト大統領がその政策を円滑におこなえないでいることを知っている。しかし、現在、日本はなんと公然とアメリカ軍艦を撃沈した。軍艦が避難したにもかかわらず、日本はかまわず進撃したのである。孤立政策を支持するアメリカ人は、どんな感想をもつのだろうか?

 昨日のロイター通信は、日本がまさに海軍を大拡張しようとしているとのニュースを折りよく伝えた。4万6千トンの大戦艦3隻とその他に大量の軍艦を建設中といわれる。4万6千トンの戦艦は世界空前の試みである。日本はこのように懸命に軍艦を建造して誰に対処し、誰を恫喝しようとしているのだろうか?英米両国人にとっては、きっと私たちよりもさらにあきらかであろう。

 私たちは、日本が中国征服にもし成功したら、イギリス・アメリカなどはアジアからの退出を迫られるだろうと以前にのべたことがある。現在の世界の大局は、軍事戦略上からみるべきであり、単に経済と商業上からみることはできない。軍事戦略上からいえば、日本が中国に進攻することは世界をおびやかすことであり、海上ではイギリス・アメリカを、陸上ではソ連をおびやかすことである。日本の計画は現在着々と進行している。日本は中国での軍事が順調であればあるほどますます欧米を蔑視する。一昨日、英米軍艦を爆撃したことは、今後の大きな趨勢の縮図であり、海関の独占と門戸の閉鎖に至ることは論ずるまでもない。だからイギリスとアメリカの人民が今、みずから解答しなければならない問題は、結局、東南アジアから退出し、すべて日本の行動に従うか否かである。とくにアメリカの孤立派はこの点について徹底的に検討すべきである。なぜなら孤立を欲すれば、徹底して孤立しなければならないからである。そうでなければ、国家権力を代表する軍艦さえも安全を保たれないのだから、どうして商業の利益の安全を保てよう?

 イギリス人・アメリカ人、とくにアメリカ人が、このような空前の暴行に対してどのような感想をもつかについて、私たちはみだりに推測する必要はない。現在はただ中国人の深甚な同情を表明するだけであり、とくに私たちは同業者として、パナイ号上で災難にあったイギリスとアメリカの記者に対しつつしんで慰問の意を表すものである。
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              19 南京の敵の暴行にまた一証拠
                                        民国26年12月26日
◇上海ノースチャイナ・デイリーニューズ所載の情況
                          
 【上海25日午後一時発専電】〔前略〕ノースチャイナ・デイリーニューズの報道にれば、敵は南京に入って、淫乱・略奪・惨殺をほしいままにし、害毒のかぎりをつくしている。その兵士は将校の前で公然と街路で略奪し、居住民は貧富を問わず、みな御来臨をたまわっている。かつ男子を捜索し捕らえてすべて銃殺しており、難民区の某号の屋内では40人が捕殺された。強姦はいたるところでおこなわれており、ある西洋人の隣家では、少女4人が敵兵によって連れ去られ、ある西洋人は、新しく到着した日本将校の室内に若い婦人8人がいるのを目撃した。

 【中央社新郷25日電】中国紅十字会第八救護医院の救護隊長陳威伯等4人は、先日、南京を脱出し、津浦路を北上して、24日、鄭州をへて武漢に到着した。かれの話では、敵はわが首都を占領して以後、漢奸をそそのかして、市民に一枚二元で通行証を買わせ、かつ市民の腕
に日本の二文字を刺青させ、従わないものは、惨殺されたとのことである。

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               21 南京の敵あらたな暴行
                                        民国26年12月28日
◇ついにわが負傷兵と医師を殺害
◇米教会の病院、強奪にあう

【中央通信社】この間、入手した信頼できる消息によれば、敵軍は南京占領後、あろうことか人類の正義と公法に違反し、多数のわが国の負傷兵と医者と看護人を惨殺した。鼓楼病院はアメリカの教会が運営する南京でもっとも歴史のある病院だが、ついに敵軍によって強奪された。国際赤十字委員会は在京の日本軍司令官に中国の各負傷兵の病院を保護するように要求したが、拒絶されたといわれる。

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               22 ノースチャイナ・デイリーニューズ掲載
                  南京の敵、なお殺戮をほしいままにす
                                        民国27年〔1938〕1月22日
◇最近、難にあうもの万をこゆ
◇幼女、老婦人多く汚さる
◇英記者の電報も差し押さえられる

【香港21日午後9時発専電】上海通信。ノースチャイナ・デイリーニューズは21日の社説で、南京の日本軍の軍紀が弛緩し、ほしいままに市民を虐殺していることを非難した。最近までに難にあったものはすでに1万人をこえ、11歳の幼女より53歳の老婦人まですべて汚され、強姦されたものはおよそ8千から2万人であり、強奪事件は枚挙にたえない。一週間以内になおこれらの事件が発生しているので、一時の現象と責任逃れすることはできないのである。同紙は日本軍の名誉維持に注意するよう日本側に勧告している。
〔中略〕
【香港21日午後9時発専電】上海の消息筋によれば、マンチェスター・ガーディアン上海駐在記者ティンパレーの21日発のニュース電報がまた日本側によって差し押さえられた。ティンパレーのこの電報の内容は、ノースチャイナ・デイリーニューズの本日の社説を引用して、敵軍の淫行・略奪を責めたものである。かれがえた南京の消息は同紙の記述が誤りでないことを証明しており、さらに敵軍17人が一中国女性を輪姦したこと、南京の住宅が略奪されたこと、各国大使館・領事館も同様の運命にあったことを報告している。日本の検査員はまずティンパレーに電報を撤回するよう要求し、ティンパレーが拒絶すると、その電報を差し押さえた。ティンパレーは電報のコピーをイギリス総領事館に提出し、以後、ふたたび同様のことがおこらないように厳重に交渉するよう求めた。
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                23 恐怖の南京
                                        民国27年〔1938〕1月23日
◇狂暴な敵の放火略奪いまだ止まず
◇外国人記者の視察を拒絶

【香港22日午後9時発専電】上海通信。日本政府当局のスポークスマンは、昨日、外国人記者を招待した席で、南京での日本軍の暴行についてのノースチャイナ・デイリーニューズの論評は、悪意のある誇大な内容であり、実証する術がなく、かつ日本軍の名誉を損なったと非難した。イギリスのマンチェスター・ガーディアンの記者は、日本のスポークスマンと論争し、南京の暴行の情報はみな証明できると述べたが、スポークスマンは答えなかった。外国人記者は南京の状況について引きつづき報告するよう求めたが、スポークスマンは応じなかった。また外国人記者は、外国人記者を南京に招待し視察させるよう求めたが、またも拒絶された。上海駐在のニューヨーク・タイムズの記者は、郵便物が開封された形跡があるので、日本のスポークスマンに郵便物に対する検査を施行しているか否か質問したところ、日本側もそれを認めた。

【中央社香港22日電】南京通信。本年1月1日以後の南京の日本軍によるアメリカ国旗侮蔑事件は、全部で15回の多きに及んだ。毎回、アメリカの教会に侵入し、武力をもって中国の少女を連れ去っている。アメリカとドイツの居留民の財産の損失が最大である。日本軍は略奪したうえ、家屋を焼きはらっている。イギリス人の財産の損失はなお小さいが、イギリス商輯安仁公司は略奪され、公司が貯蔵していたすべての酒は飲みつくされてしまった。南京が日本軍によって占領されてからすでに39日がたったが、なお多くの場所で大火が燃え続けており、恐怖の時期はなお過ぎ去っていない。すべての商業地区は廃墟となり、野犬が食物を探しに出歩いているほか、人跡は絶えてない。難民区をのぞくと、全城はすでにもぬけの殻になっているといわれる。
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南京事件 報道

2015年01月19日 | 国際・政治

 「目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記」滝谷二郎(三交社)

 「南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうけるわずかな機会を失ってしまった……」ではじまる『ニューヨーク・タイムズ』(1937年12月17日、アメリカ軍艦オアフ号”上海”発)の記者F・ティルマン・ダーディンの記事によって、南京における日本軍の虐殺事”ナンキン・アトローシティ”はたちまち世界中に知れ渡ることになる。

とある。訳文が若干異なるが、下記がそのF・ティルマン・ダーディン記者の記事全文である。「南京事件資料集 (1)アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から抜粋した。
 同書にはこの他、シカゴ・デイリー・ニューズやニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、ワシントン・ポスト、マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー、サウスチャイナ・モーニング・ポストなど、様々な報道機関の南京事件に関する記事が訳出されている。その多くは南京や上海、また避難中の艦船から発信された記事である。
 
 日本軍が南京攻略に向かった当時、南京は中国の首都であった。当然のことながら、首都南京には外国の公館や報道機関、企業、教会、学校その他があり、大勢の外国人が駐留していた。ところが、その多くが日本軍による南京空襲や南京侵攻に危険を感じて、南京陥落前に次々に南京を離れた。南京駐留のアメリカ人たちの多くは、本国の砲艦パネー号に乗船し漢口に向かったという。

 パネー号は誤爆を避けるために、日本側にその所在位置を繰り返し知らせるなど様々な工夫や努力をしたが、12月12日の午後日本軍の攻撃で撃沈され、死傷者が出る。そのため、パネー号沈没のニュースはすぐさまアメリカ本土に伝えられた。アメリカ主要紙は、パネー号沈没のニュースを、南京虐殺事件以上に連日大きく報道したという。そして、そのパネー号に乗船していた3人のカメラマンが撮影したフィルムがアメリカ本土に運ばれ、ニュース映画として公開されたため、アメリカの反日感情が一気に高まり、日本商品ボイコット運動がアメリカ全土に広がったというのである。「日本軍は民間人を一人も殺していない」とか「南京虐殺事件は、アメリカと中国が東京裁判で”でっち上げた”」というような主張が、国際社会で受け入れられないことは明らかだと思う。

 パナイ号撃沈について、ワシントン・ポストは、

「…アメリカ政府所属の船舶の撃沈は、非道な狂暴さを際立たせているとしか考えようがない。この狂暴さは、今では日本の対中国政策の著しい特徴になっている。日本の飛行士は識らずしてアメリカ軍艦を攻撃していたということになっている。しかし、そうならば、飛行士が何を、どのように破壊しようがお構いなしということとまったく同じことになる。…」

と論評し、ワシントン・スターは

「…中国で殺人と放火をしている略奪者の行為に寛容であることは、山賊行為と国際法無視という日本の戦争行為を是認したことになる。

などと論評しているのである。  

 日本政府はあわててパネー号攻撃は日本海軍の誤爆と陳謝したが、疑惑を払拭することはできなかったようである(橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令【丁集団命令】されていることを認めた、とビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電していることは、432「南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件」)。以後、パネー号の記事や南京の情報がアメリカに送り続けられる。

 大部分の外国人ジャーナリストが避難した後の南京に残留し、日本軍による南京陥落を目撃したのは、下記記事の執筆者ダーディン記者をはじめとする5人のジャーナリストだったという。その5人とは、ダーディン記者の他、『シカゴ・デイリー・ニュース』のスチール記者、ロイター通信のスミス特派員、AP通信のマグダニエル記者そしてパラマウント映画ニュースのメシケンの5人である。
 ダーディン記者は、下記の記事以後も、上海支局のハレット・アベンド等とともに、情報を収集しつつ続報を送っている。資料を読むと、「日本人だけが知らなかった”ナンキン・アトローシティ”」の意味を考えさせられる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う
                                           1937年12月18日
◇アメリカ大使館を襲撃
◇蒋介石総統のおそまつな戦術、指揮官の逃亡
 首都陥落を招く
                     ※
                               F・ティルマン・ダーディン
12月17日、上海アメリカ船オアフ号発                 
ニューヨーク・タイムズ宛特電
 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。
 中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本人の登場とともにうちたてられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内の支配を掌握した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。

 少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから2日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。


民間人多数を殺害
 民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた。
 特に警察官や消防士が攻撃の対象であった。犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていた。なかには、野蛮このうえないむごい傷を受けた者もいた。
 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや墓地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった。外国人はたくさんの殺害を目撃した。

 日本軍の略奪は、町ぐるみを略奪するのかと思うほどであった。日本兵はほとんど軒並みに侵入し、ときには上官の監視のもとで侵入することもあり、欲しい物はなんでも持ち出した。日本兵は中国人にしばしば略奪品を運ばせていた。
 なにより欲しがった物は食料品であった。その次は、有用なもの、高価なものを片っ端から奪った。とくに不名誉なことは、兵隊が難民から強奪を働くことであり、集団で難民センターを物色し、金や貴重品を奪い、ときには不運な難民から身ぐるみ剥いでいくこともあった

 アメリカ伝道団の大学病院の職員は、現金と時計を奪われた。ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた。日本兵はアメリカ系の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、食料と貴重品を奪った。
 大学病院と金陵女子文理学院の建物には、アメリカ国旗が翻り、扉には、アメリカ所有物であることを中国語で明記した、アメリカ大使館発行の公式布告が貼られていた。


 アメリカ外交官の私邸を襲う
 アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。興奮した大使館の使用人からこの侵入の知らせをうけて、パラマウント・ニュースのカメラマンと記者は、大使の台所にいた日本兵5人の前に立ちはだかり、退却を要求した。5人はむっつりしながらおとなしく出ていった。彼らの略奪品は懐中電灯1本だけであった。
 大勢の中国人が、妻や娘が誘拐され強姦された、と外国人に報告にきた。これら中国人は助けを求めるのだが、外国人はたいてい無力であった。

 捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。
 安全区の中のある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛り上げられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。
 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背に並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひく動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。

 最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声ををあげた。現在南京には、日本軍への歓声はまったく聞こえない。

 町を破壊し、人から略奪をし、日本軍が中国人に憎しみの感情を根深く植え付けたことは、今後、何年にもわたって中国人に反日本の感情をくすぶり続けさせることになるのだが、東京はこれを取り除くために闘っているのだと公言してはばからない。


 南京陥落の惨事
 南京の占領は、中国人が被った最も大きな敗北であり、近代戦史における最も悲惨な軍隊の崩壊であった。中国軍は南京の防衛を企図し、自ら包囲下に陥り、その後に続く虐殺を許すことになった。

 この敗北により、中国軍は、何万人というよく訓練された兵隊を失い、何百万ドルに匹敵する装備を失い、戦争の初期において示された長江方面軍の勇猛な精神は、ほぼ2ヶ月にわたる上海付近での日本の進撃を阻止できず、士気の失墜を招くことになった。ドイツ人軍事顧問および参謀長である白崇禧将軍の一致した勧告に逆らってまで、無益な首都防衛を許した蒋介石総統の責任はかなり大きい。

 もっと直接に責任を負わなければならないのは、唐生智将軍と配下の関係師団の指揮官たちである。彼らは軍隊を置き去りにして逃亡し、日本軍の先頭部隊が城内に入ってから生ずる絶望的な状況に対し、ほとんど何の対策もたてていなかった。

 大勢の中国兵の逃走には、ほんのわずかな逃げ道しか用意されていなかった。侵入者を阻止するため、戦略上のわずかな地点に部隊を配置して、その間に他の兵隊は撤退するという措置もとらずに、大勢の指揮官が逃亡したことは、兵隊の間にパニックを引き起こした。

 長江の渡河が可能な下関に通ずる門を突破できなかった者は、捕らえられて処刑された。
 南京の陥落は、日本軍の入城がなるより2週間も前に、詳しく予告されていた。日本軍は装備の貧弱な中国軍を広徳周辺およびその北方で敗退させ、一網打尽にすると、首都に入る数日前には、長江沿いの南京上流の蕪湖など2、3の地点を攻め落とした。日本軍はこのようにして、中国軍が上流に退却するのを拒んだのである。


 序盤は果敢に防戦
 南京の周辺数マイルの見かけだけの中国軍の防衛線は、たいした困難もなく突破された。12月9日には、日本軍は光華門のすぐ外にまで達した。城内に押し戻された5万の中国兵は、当初、激しく抵抗した。城壁の上に陣取る中国軍部隊があり、また城壁の外側数マイルでも中国軍はじわじわ押し寄せる敵と争っており、日本軍にはたくさんの死傷者がでた。
 しかし、城壁周辺の中国軍は、大砲や飛行機の内外両方からの攻撃で、たちまち一掃された。とりわけ榴散弾による多数の死者をだした。

 日曜日(12日─訳者)正午、激しい援護射撃をうけながら、侵入軍が西門近くの城壁を登り始めや、中国軍の瓦解が始まった。第八八師団の新兵が、まず先に逃亡すると、他の兵隊もそれに続いた。夕方までには大方の部隊が下関門に向かい奔流のように押し寄せた。この門はまだ中国の支配下にあった。
 将校たちはもはや状況に対処しようとはしなかった。部下たちは鉄砲を投げ捨て、軍服を脱ぎ、平服に着替えた。
 日曜日夕方、市内を車で走っているとき、記者は、全員が一斉に軍服を脱ごうとしている部隊に出くわしたが、それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。

 頑強な連帯がいくつか、月曜日になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者に脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。
 安全区の本部を取り囲んだ一団は、銃を手にしていたが、焦って兵器を手放したいばかりに、塀ごしに中に投げ入れる者まででてきた。


 中国軍の三分の一は袋のねずみ
 日本軍が下関を占領すると、南京からの出口はすべて遮断された。そして、少なくとも三分の一の中国軍が城内に取り残されることになった。
 中国人の統制の悪さから、火曜日の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃討していった。
 火曜日の朝、記者は下関に車で出掛ける途中、25人ほどの絶望的な中国兵の一団に出会った。彼らは依然として中山路の寧波会館を占拠していたが、のちに全員が降伏した。

 何千人という捕虜が日本軍に処刑された。安全区に収容されていた中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。市は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、肩に背嚢の痕のある者や、その他兵士の印のある者が探し出された。彼らは集められて処刑された。
 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の2、3時間の間に、3つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲が為された虐殺であった。
 日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に10人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。
 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら、治療を求めていた。


 民間人の死傷者多数
 民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。
 南京の通りには死骸が散乱していた。ときには、死骸を退かしてからでないと、車が進めなかった。
 
 日本軍の下関の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ6フィートの小山を築いていた。水曜日遅くになっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の2日間、軍の輸送車が、人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。

 日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと中国人に印象づけるため、日本軍はできるだけ長く恐怖の状態にしておきたい意向のようだ。
 中山路はいまやごみの大通りと化し、汚物、軍服、小銃、拳銃、機関銃、野砲、ナイフ、背嚢などが全域に散乱していた。日本軍は戦車をくりだすなどして、瓦礫を片付けなければならないところもあった。 

 中国軍は、中山陵公園の立派な建物や住宅を含む郊外のほぼ全域に放火した。下関はほとんどが焼け落ちた。日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。占領にあたって空襲が少なかったのは、建物の破壊を避ける意図があったことを示している。
 日本軍は、建物のたてこんだ地域に集まった中国軍部隊でさえも、爆撃するのは避けているが、建物の保存を狙っていたのは明らかだ。立派な交通部の建物だけが、市内で破壊された唯一の政府関係の建物である。これは中国軍に放火されたものである。

 現在の南京は、外国人の支配のもとで、死、拷問、強奪の不安のなかで生活している恐怖におののく人々を抱えている。数万人にのぼる中国兵の墓所は、日本という征服者への抵抗を願う、すべての中国人の希望の墓所であるのかもしれない。


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南京事件 蒋介石からルーズベルトへの手紙と返書

2015年01月12日 | 国際・政治

 下記は、1937年12月24日付けの「蒋介石からルーズベルトへの手紙」と、それに対する1938年1月12日付けの「ルーズベルトから蒋介石への返書」である。蒋介石がルーズベルトに手紙を送ったのは、日本軍が中華民国の首都南京を陥落させて(1937年12月13日)間もない時期であった。

 1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向 の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍第二十九軍とが衝突した。盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)である。また、その1ヶ月あまり後の1937年8月10日に、日本軍は上海の居留民保護を名目にして「上海派遣軍ヲ上海ニ派遣ス」と決定した。松井石根大将が司令官であった。

 その後、天谷支隊や重藤支隊(台湾より)を上海派遣軍司令官の隷下に入れ、第三艦隊司令官麾下の陸戦隊も上海派遣軍司令官の指揮のもとに置いた。さらに、同年10月20日には「上海方面ニ第十軍竝所要ノ兵力ヲ増派ス」を決定し、國崎支隊を第十軍の隷下に入れている。

 そうやって日本は、次々に上海附近に軍を集結させたばかりでなく、同年11月7日には、「左ノ部隊ヲ中支那方面軍ニ編合シ中支那方面軍司令官松井石根大将ヲシテ指揮セシム(臨参命第138号)とした。当初の上海派遣軍は格段に増強され「中支那方面軍」となったのである。

 増強された中支那方面軍は、11月19日「中支那方面軍ノ作戦地域ハ概ネ蘇州嘉興ヲ連ヌル線以東トス」という「進出制令線」を突破して次々に南京に向い進撃を開始ししてしまう。だから、松井司令官に「丁集団ヨリ湖州ヲ経テ南京ニ向ヒ全力ヲ以テスル追撃ヲ部署セル旨報告シ来レル処右ハ臨命600号(作戦地区ノ件)指示ノ範囲ヲ逸脱スルモノト認メラルルニ付為念」という電報が届く。当然のことだと思う。

 しかしながら、中支那方面軍司令官松井石根大将は、南京攻略の必要性を主張して、11月22日に「参謀総長ニ具申」したのである。それらを受けて、11月24日に、軍中央は簡単に中支那方面軍の制令線突破を追認し、「臨命第600号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ之ヲ廃ス」と打電する。
 そして、12月1日には、さらに「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」(大陸命第8号)という命令が下されるのである。

 上海派遣軍の当初の任務は、「上海居留民の保護」であった。その後、「敵国首都南京」を爆撃し、南京攻略に向かう日本軍の進軍はあまりに一方的であり、その間、どのような外交交渉があったのか、と疑問に思う。また、盧溝橋で日本軍と衝突した「支那第29軍ノ膺懲」が、なぜ「支那膺懲」に変更されたのか、その根拠はなんであったのか、と疑問に思うのである。

 それらを考え合わせると、蒋介石の「われわれは通常の意味でいう戦争を戦っているのではなく、わが領土に対する非道な侵略に抵抗し、苛烈な攻撃に反撃しているのです。われわれは、中国国家の自由のために、そして人類の共通の脅威に対して戦っているのです。」という、ルーズベルトに対する必死の訴えが、わかるような気がするのである。

 下記は「南京事件資料集 1 アメリカ関係資料集」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)からの抜粋である。
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    134D 蒋介石からルーズベルトへの手紙
                              在ワシントン中国大使館
  ワシントンD・C
  アメリカ合衆国大統領ルーズベルト閣下

 中国は有史いらい、現在進行しているような容易ならぬ危機に直面したことはかつてありませんでしたし、極東の平和が今日のように破滅的危機にさらされたこともありませんでした。この五ヶ月の間、中国は日本を相手に生死をかけて戦ってまいりました。
 最新鋭の武器で武装しながら、中世の野蛮さの特徴であるような残酷さを発揮した日本軍は、中国に上陸して以後、陸・海・空軍でもってつぎつぎに都市を攻略し、この間、少なからぬ外国人も含めて、無数の非戦闘員を虐殺し、莫大な施設・財産、および宗教寺院、慈善施設さえも容赦することなく破壊してきました。

 日本軍は、中華民国の首都を含めて、南京──上海鉄道沿線の都市や町を不法に占領したうえ、いまや華北の大部分を不当に占領しています。日本軍国主義者によって「中華民国臨時政府」と称する傀儡政権が北平つくられました。日本軍はさらに侵略の矛先を四方八方にいっそう拡大しています。現在の見通しでは、日本軍は江蘇省北部、山東、長江流域および華南への侵攻を企てていると思われます。

 われわれはもてる軍隊すべてを動員し、最善をつくして日本軍の襲撃と戦ってきました。わが国家の尊厳を守ろうという固い意志のもと、われわれは多大な犠牲、すなわち人的資源および物的資源、商業、産業を犠牲にしてきました。わが国家が平和と尊厳のうちに生存することを願ってわれわれは血を流しているのです。われわれは通常の意味でいう戦争を戦っているのではなく、わが領土に対する非道な侵略に抵抗し、苛烈な攻撃に反撃しているのです。われわれは、中国国家の自由のために、そして人類の共通の脅威に対して戦っているのです。

 われわれはわれわれ自身を守るとともに、条約の精神の尊厳を守るために、とりわけ九ヶ国条約にうたわれた中国の主権と独立および領土的・行政的一体性が、日本および他の調印国によって尊重されるために戦っているのです。
 われわれは野蛮な日本軍に降伏などいたしません。日本政府がその侵略政策をやめるまで、中国の国政がわれわれの手にもどるまで、そして国際条約における領土不可侵の理念が守られるまで、われわれは抵抗しつづける覚悟です。

 中国国民は、戦争を通してアメリカが中国を道義的に支援してくれていることを知り、感謝しています。大統領閣下のすぐれた指導のもとにアメリカ政府が、固有の正義心、極東の領土保全をとなえる伝統的な政策に基づいて、すべての法と条約に定められた権利を尊重し、国際関係における平和を持続するのに必要な法と秩序を維持するために最善をつくされることをわれわれ知っています。

 世界平和の大義と連帯とがなるべく早い時期に成功をおさめるための戦いを可能とするような効果的な対中国援助をアメリカ国民が与えてくれるように、閣下に対し、ならびに閣下を通じて、この危機に際して中国国民に代わり私が緊急に訴えるという非礼をお許しください。大統領閣下がそのためにはらわれる努力のすべてに対して、中国国民は永遠に感謝することを忘れないものと私は確信するものです。

                                                                                   蒋介石
        1937年12月24日
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    136D ルーズベルトから蒋介石への返書
                               ホワイトハウス
                          ワシントン、1938年1月12日
 親愛なる蒋総統へ
 1937年12月24日付の閣下の手紙を、12月31日に当地の貴中国大使より直接拝受いたしました。
 この手紙のなかで、あなたは立派にも、極東でおこなっているたいへん不幸な状況がもつ、様々な特徴についてのあなたの評価ならびに世界平和の問題に関するあなたの見解を私に示してくれました。
 いうまでもなく、私はあなたが指摘した状況と問題について、強い関心をはらってまいりました。中国における悲劇的な戦争は、最も直接的に関係している二つの当事国だけでなく、全世界の関心事になっています。

 合衆国の政府および国民は、中国でおこなわれている破壊に対して、強い憂慮と深い悲しみを抱いて見守っています。われわれは平和の実現と国際協調の促進にむけて、最も現実的に貢献できる方法と手段について、日頃から研究し思索をめぐらしています。われわれはこの目的を実現するための努力をいつも怠らないつもりです。

 現在の極東の紛争から、それに代わって、和解が出現することをわれわれはこころから望みます。その和解は、すべての関係国の権利、合法的権益および国家としての一体性を適切に考慮した合理的な条項によって、友好的な関係と永続的な平和のための基礎をすえるものとなるでしょう。

                                                                                 敬具
  
 中国、漢口
 国民政府軍事委員会委員長 蒋介石総統閣下       

                                フランクリン・D・ルーズベルト 

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南京安全区 NO2

2015年01月07日 | 国際・政治

 下記は、日本軍が南京にせまり、危険を感じた多くの外国人が南京を離れた後も南京に残留、南京安全区国際委員会の中心的メンバーとして中国一般市民保護活動に従事したM・S・ベイツ博士(金陵大学歴史学教授・哲学博士)が、アメリカ大使館に宛てた書簡の一部である。どれも日本軍の不法行為の実態を訴え、法に基づいた対応を求めている内容で、日本軍の軍紀・風紀の乱れの一端が読みとれる。

 「南京事件資料集 1 アメリカ関係資料集」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)からの抜粋である。
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         100B 南京アメリカ大使館宛書簡
                      ──1月25日
                            1938年1月25日
  南京アメリカ大使館

 拝啓 アリソン殿
 昨日、昨晩の事件について大学からもっと全面的な報告が出されるまではまだ時間がかかりますので、私は午後11時に白っぽい腕章をした日本兵が胡家菜園11号の本学農機具店を訪れた件の情報を貴下にお伝えしなければなりません。

 彼らは店員を銃で脅し、その体を捜索し、それから彼らは婦人一人を連行して強姦し、2時間後に釈放しました。彼女は連れて行かれた場所を特定できると考えており、われわれはその他の細かな事項と同様に、場所の情報についても確認に努める予定です。

 この件は強制的かつ不当な侵入で、また武器による脅迫、誘拐、強姦に係わるものです。おそらく憲兵の仕業と思われます(腕章から判断して、唯一の他の可能性は特務兵ですが、その可能性は少ないでしょう)。

 ここには秩序も安全も、布告と国旗で示された米国財産への敬意も、また日本の布告および日本の秩序への敬意さえないのです。

                                            敬具
 追伸 この手紙を書き終わったあと、兵士はドアに貼られた日本の布告も破り捨てた、と信頼できる筋から知らされました。
                                          (ベイツ) 
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         101B 南京アメリカ大使館宛書簡
                      ──1月25日
                           1938年1月25日
  南京アメリカ大使館

 拝啓 アリソン殿
 今朝の手紙に付け加えます。私とリッグス氏は、昨晩の胡家菜園11号から誘拐された被害者婦人を注意深く伴い、連行された道取りを先入観なくたどってもらいました。彼女は自分が3回強姦された建物を十分明確に特定でき、またその正しい道ならすぐに見つかるはずの標識がないことから、間違った道から引き返すことができました。計5回もチェックを行ったのですから、間違いのあるはずはありません。問題の建物は小粉橋32号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした。

 こう繰り返し繰り返し、彼ら善良な民衆の敵の所業が報告されるのですから、もう救いようがありません。今こそ連中を将兵ともに一掃する時だと思われます。これで確かに、彼らがいるかぎりこの地区には安全がないのだということ、そして日本大使館側がこれまで用いてきたはずの諸手段をもってしても決してなにもできないということが、同様にはっきりしたと思われます。

 本日正午、私は、本学所有地ではないが蚕桑系と同じ敷地内にある金銀街8号のある家から、兵士たちに対処するのに友誼的な援助をしてほしいとの連絡を受けました。昨日兵士たちは本学敷地を通過してその家に行き、強姦を行ったため、その晩、そこの女性たちは大学に避難してきました。兵士は今日もまた来たところが、女がいないので怒り、男たちから強奪し、窓を割りまくったのです。この事件は私たちアメリカ人の安全が、日本当局がときたま米国財産に対し、それが米国のものであるがゆえに注意を払うことよりも、市内における良好な規律の確立全体にかかっていることを指し示すものです。この家は過去一週間に5回も侵入を受け、わが蚕桑系の敷地も何度も日本兵に通過されました。今日になってようやく、彼らの経験が日ましにひどくなってきたので、住民はあえて、市内のこの地区で唯一助けになると思われたところに連絡をとってきたのです。
                                           敬具
                                         (ベイツ)
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           103B 南京アメリカ大使館宛書簡
                         ──1月25日
                             1938年1月25日
  南京アメリカ大使館

 拝啓 アリソン殿
 さすがに公認はされないらしい強姦や強奪はまったく別にしても、兵士や警察が自ら正当と考える目的のためアメリカ財産に頻繁に侵入することから、様々な問題が起こされています。私はとくに捜索、脅迫、構内からの多かれ少なかれ強制的な人員の連行、労働力確保、そして女性獲得のいかがわしいやり方について申し述べたいと思います。  

 われわれは、これらの問題について公正で理にかなった態度をとろうと努めてきており、構内に住み、また本学施設や住居で働く人々への義務を果たしながらも、日本当局および貴下と正常な関係で行動したいと願ってきました。

(1)われわれは、手続きが貴下の満足いくものであるなら、秩序あり、正当な委任を得た捜索には反対しない。


(2)われわれは、特定個人を犯罪の結果から保護したり、正常の政治的・軍事的な住民統制に干渉しようとは思わない。


(3)われわれは、わが所有地への不当な、委任を得ぬ、あるいは強制的な侵入に反対し、軍人・警察の侵入は現下の条件では本質的に強制侵入であると指摘する。


(4)われわれは、本学教職員および米国所有地でわれわれが運営している正当な団体への恣意的な干渉に対し、中国人助手の脅迫や誘拐も含め、反対する。


(5)われわれは、男女を問わず本学所有地内の難民からの労働者の善意ある確保には好意をもち奨励するものである。しかし、過去6週間の経験はきわめてひどく、手続きは、隠然、公然たる脅迫のないように慎重に守らなければならない。わがスタッフはこの件で喜んで援助するものであるが、彼らは、特定条件の男女を特定数供給するよう要求する軍の酷使から保護されなければならない。彼らはただ要求を伝え、行く意思のある難民を出すことができるだけである。現下の条件では日本軍の存在は圧力となるので、彼らは門外に留まるべきだ。もし彼らが自らの中国人代理人を派遣したいのなら、彼が責任あるスタッフ人員と同行するのを条件に、それも構わない。


(6)もし酷使が続くのなら、われわれは本学所有地で獲得された全人員の出発、帰還の氏名、時間の一覧表作成を求める必要がでてこよう。だが、われわれはその必要がないことを願っている。


(7)われわれは、日本当局との必要な協議の後、全米国財産について、以上諸点に関する明確で統一的な合意を以下のように取り決めるべきだと考える。すなわち、日本当局は責任をもって全軍事・警察機関にこの件についての厳格な指示を示し、また同当局または貴下がすべての米財産と考えられるところに、かかる規則の必要な連中に適切に想起、指示する日本語の布告を用意すること。


(8)われわれは、警察による審問は貴下への通知または領事館警察の訪問によって執り行うべきであると考える。後者の場合、われわれのよく知っている警察官以外は周知の制服を着ており、わが財産内での行為またはわがスタッフとの関係で責任がとれるようにすること。われわれは、きわめて重大な案件で、事前に貴下と協議したのでないかぎり、審問のために個人をわが構内から連行する必要を全く認めない。
                                         再度提出する
                                           (ベイツ)

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 OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)


 

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南京安全区 NO1

2015年01月04日 | 国際・政治

 今回は、「南京安全区国際委員会より日本当局へのメッセージ」と「南京市民に告げる書」および「南京日本大使館宛書簡」のいくつかを「南京事件資料集 (1)アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)から抜粋した。

 先だって、中国政府が南京事件と慰安婦問題に関する資料を、ユネスコの記憶遺産に登録するよう申請したという。それに対し、菅義偉官房長官は記者会見で、「事実関係を確認中だ。仮に中国が政治的意図を持ってこの案件についての申請をしたと判断されれば、抗議の上、取り下げるように政府として申し上げたい」と述べたことが報道された。その後日本では、「歴史認識をめぐる日本の名誉を回復するために、中国による記憶遺産への申請に強く抗議するとともに、日本政府に対して、登録阻止に向けて全力を尽くすよう要望する」署名活動の呼びかけがなされている。そして、日中の溝は深まる一方なのである。

 まもなく、戦後70年にもなるというのに、なぜ、このようなことで日中の溝が深まるのか。私はやはり、安倍首相の「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」などという政治姿勢が問題なのだと思う。安倍首相は、中国が容認出来ないとしている靖国神社に参拝するのみならず、閣議で集団的自衛権の行使容認を決定したり、特定秘密保護法を成立させたり、日米同盟の強化を進めながら、新たな防衛大綱と中期防衛力整備計画に基づいて、最近まで減額が続いていた防衛予算を増額した。そして、口では河野談話や村山談話を継承するといいながら、現実には中国を突き放し、その精神と逆行するような道を進んでいると思う。

 たとえば、自虐史観の呪縛解くとして、近現代史の教科書記述で近隣アジア諸国への配慮を求めた「近隣諸国条項」を撤廃するという取り組みなども、そのひとつであると思う。また、南京事件や従軍慰安婦の教科書記述に対する姿勢も、河野談話や村山談話の精神に反するもののように思う。
 さらに首相は衆院予算委員会で「初等中等の段階で自分のアイデンティティーに誇りや自信を持つのは基本だ」と答弁し、使用する教科書を地区ごとに選ぶ教科書採択制度についても「採択結果が一部の教科書に偏っている。教育的な視点で採択されているかも見ていく必要がある」といって、制度改革の必要性を強調したりしている。「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる内容の教科書で学べるよう」にすることに異論はいが、だからといって、歴史を修正したり、歪曲したり、捏造したりしてよいということにはならない。また、安倍政権のそうした姿勢は教科書の国家統制強化につながるものではないかと思う。

 安倍政権のもと、日本国内では「南京大虐殺は捏造だった」とか「南京大虐殺は中国やアメリカのでっち上げ」というような声が日増しに大きくなっているように感じるが、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした敗戦国日本のそうした声を、国際社会が受け入れるとは思えない。

 下記の資料1と2は、南京事件当時の南京安全区(難民区)設定に関わるものである。1937年も12月にはいると、南京の一般住民に危険が及び、安全区を設定しなければ、一般住民を守ることができない状況になりつつあったことがわかる。
 資料3~6は、いずれも南京に入った日本軍兵士の蛮行に関する、南京日本大使館宛書簡である。安全区内の外国人にも被害が及んでいることがわかる。これに類する資料がアメリカにも多数存在し、その一部が「南京事件資料集 (1)アメリカ関係資料編」南京事件調査研究会編・訳(青木書店)に訳出されている。

 その一部を読んだだけで、当時の南京において、”非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった”などという日本の主張が、国際的に受け入れられるものではないことがわかる。
 安全区を管理運営していた外国人による「日本軍兵士の虐殺・強姦・略奪・暴行などの事件」に関する記録が、”中国人の一方的な訴えを書き記しただけものである”とか”伝聞であり証拠がない”などといった批判は、とても国際的理解を得られるとは思えない。中国人同様、南京に留まった外国人も危険の渦中にあって、自らも被害を受けつつ、南京日本大使館にくり返し訴えていたことが読みとれるからである。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        72D <南京安全区国際委員会より日本当局へのメッセージ>
                            海軍無線  平文電報 EA
                            発信:南京
                            受信:1937年12月7日午前9時

  南京安全区
  上海総領事、ワシントン、国務長官
  漢口・北平米大使館宛
 12月6日午後2時。12月4日午後6時の貴電、南京安全区に関して。
 国際委員会からの以下のメッセージを、大使館に代わって早急に日本大使に伝えてください。
 1、国際委員会は日本当局からの返答を受け取り、指摘されているのと全く同じことを注意している。中国当局はすでに、区内の軍事施設や用具を撤去しつつある。そこで委員会は安全区の境界に、白地に丸赤十字(赤十字を丸で囲んだもので、円は安全区を意味する)の旗をつけて、境界表示とする作業を進めている。 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                73B <南京市民に告げる書>

 先の上海戦争(第二次上海事件)の時に、国際委員会は中日双方の当局に建議して、南市の一区域に民間人の安全区を設立いたしました。
 同区域については双方の賛同が得られました。中国当局は、中国の軍隊が指定された区域に進入しないことを受け入れました。同区域への駐兵がないために、日本側もその地区を再び攻めることはしないと同意いたしました。
 この協定は双方とも遵守いたしました。同区域外の南市の地域では、恐怖と破壊に見舞われましたが、同難民区はそれをのがれただけでなく、また何千何万という生命を救ったのです。

 現在、南京の国際委員会も本市に同様な区域を設定すべく建議いたしました。この区域の境界は以下のとおりです。
 「東側の境界は中山北路を新街口から山西路広場まで。北側の境界は山西路広場から同路に沿って西へ西康路まで、(すなわち新住宅区の西南境界の路)。西側の境界は西康路に沿って南へ漢口路との交差点まで(すなわち新住宅区の西南の隅)、そこから南東方向へ上海路と漢口路(漢中路の誤り─訳者)の交差点まで直線で結んだところ。南側の境界は漢中路と上海路の交差点から出発地点の新街口まで。」

 この区域の境界まではすべて旗を使って目印がしてあります。旗には赤十字のマークが描いてありますが、それ以外にも赤丸のマークのもあります。さらにまた、旗には「難民区」の三文字が書いてあります。

 上述の区域を民間人のための安全の場所とするために、防衛軍司令長官は、本区域内の兵士および軍事施設を一律に速やかに撤去し、以後いっさい軍人を本区に入れないことを承諾いたしました。

 日本は一方では「指定された区域に対して爆撃しないと請け負うことはすこぶる困難であると」と言いながら、また一方では「日本軍は軍事施設がなく、軍事用工事・建設がなく、駐屯兵がおらず、さらに軍事的利用地でないような場所に対してはすべて、爆撃する意図をけっして持っていない、それは当然のことである」と述べています。
 以上のような中日双方の承諾に鑑みて、われわれは指定された区域内にいれば、民間人は真に安全であるという希望を持っています。

 しかしながら、戦時下にあっては、何人といえども、その安全を保証することができないのは、当然です。それどもわれわれは、もし中日双方が共に彼らが承諾したことを遵守すれば、この区域内の人民は他のところの人民にくらべて、ずっと安全であることは間違いないと、信じています。したがって市民の皆さん、本難民区へおいでになってはいかがでしょうか!
                                    南京難民区国際委員会
                                    民国26年1937年12月8日
    ・原文は中国語のビラ。
資3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          76B 南京日本大使館宛書簡
                   ──1937年12月16日
                                 金陵大学、南京
                                 1937年12月16日 
  南京日本大使館諸賢

 拝啓
 貴大使館に隣接する本大学財産に関する秩序および一般的厚生の諸問題について、非公式に伝えさせてください。私たちはみな、帝国陸軍は一般市民に傷害を与えることを望まないとの日本当局の公式声明を聞いて、貴当局の満足するどのような政府の下であろうとも、平和的生活への復帰に何も困難はないと願っています。しかし今現在、民衆の苦難と恐怖は非常に大きいのです。以下の諸事件は、貴館に近いわが大学所有地からの報告で、その他の多くは付近の大学病院、中学および農村教師養成学校で発生したものです。

(1)12月14日。兵士らは、わが農業経済系敷地(小桃園)の門上の米国旗と米大使館の正式掲示を引き裂き、そこに居住する教師、助手数人から強奪し、鍵のかかっているドア数個を破った。
(2)12月15日。上述の場所に兵士らが数回来て、安全を求めてきていた避難民の金や物品を盗み、婦女子複数を連れ去った。
(3)12月15日。本学新図書館では1500人の一般人を世話しているが、婦女4名がその場で強姦され、2名が連行されて強姦後に釈放された。3名は連行されたまま戻らず、1名は連れていかれたが大使館近くの貴軍憲兵によって釈放された。彼ら兵士の行いは、被害者の家族、隣
人および市内のこの地区すべての中国人に苦痛と恐怖とをもたらした。今朝、私は安全区内の他の地区で百以上も同様の事件が起きている旨の報告を受けた。学外の件については今私の関係するものではありませんが、ただ貴館に隣接する本学での上記の問題が、兵士による強奪と強姦という民衆の大きな苦難のごとく一例にすぎないのを示すために言及したのです。

 私たちは軍隊の規律が回復することを切望します。いまや食料を得ることも恐れるくらい人々の恐怖は大きく、通常の生活と仕事は不可能となっています。私たちは貴当局が、同じ場所に1日10回も進入してありとあらゆる食料・金銭を盗むゴロツキ兵隊によってではなく、将校の直接の指揮下に適切な検察が体系的に実行されるべく手配されるよう、謹んで勧告申し上げます。そして第二に、日本軍および日本帝国の名声のために、日本当局と中国一般人の良好な関係のために、そして貴下自身の妻と子女のことを考慮して、南京の人々を兵士の暴行から保護されることを勧告申し上げます。

 中国軍の無秩序と敗北は日本軍が人々の信頼を獲得できる好機であったのですが、その機会が普通の人間的幸福と道義への無関心またはその遅れによって失われるとしたら、関わる人々すべてにとって不幸なことになると思われます。
                                              敬具
                                    金陵大学緊急委員会委員長
資4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        77B 南京日本大使館宛書簡
                   ──1937年12月16日
                                 金陵大学、南京
                                 1937年12月16日
 南京日本大使館諸賢

 拝啓
 今朝貴館に手交した手紙の第2項に関して簡単な注を付けさせてください。
 昨晩、本学の農業経済系の建物(小桃園)に何度も多人数で侵入した兵士によって30人の婦人が強姦された。私たちは貴軍が軍事的優越性を示したからには道徳的にも優越性を示すだろうと信ずるものです。これら何万という平和的市民の生命および身体の安全が早急に必要となっているのです。

 本大学は安全区にあるので、地区の諸条件、諸問題の影響を受けています。安全区の目的と活動を理解する友好的な将校もいますが、粗暴で疑い深い者もいるように思われます。そこで国際委員会の活動は当初から全くオープンであることを、明確にしておきましょう。事務局および建物はいずれも毎日の検査に対してオープンです。委員会は、将来、正常の状態が回復されれば喜んでその人道上の責任を返上するでしょう。その間、委員会は、戦争のため家から追われ、かつ非常な恐怖のなかに暮らしている人々に対し、食料と住居を供給しようと非常な困難の下で努力してきただけです。
資5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          78B 南京日本大使館宛書簡
                     ──1937年12月17日
                                   南京、莫愁路65号
                                   1937年12月17日
 南京日本大使館諸賢

 拝啓
 本日H・L・ソーン氏と一緒に米国大使館に来たところ、ちょうど日本軍兵士が大使館の車庫から車両複数を取ろうとしているのに遭遇しました。貴軍当局はかかる行為を直ちに静止しようと欲すると確信しますので、取り急ぎこの件を貴下に通知します。
                                                    敬具
                                               W・P・ミルズ
資6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          79B 南京日本大使館宛書簡
                     ──1937年12月17日
                                         1937年12月17日
南京日本大使館諸賢

 拝啓
 恐怖と暴虐の支配は、貴館からはっきりと見えるところで、貴館の近隣で、今なお引き続いています。
(1)昨晩、兵士は多数の避難民でいっぱいの本学図書館に繰り返し侵入し、銃剣を突きつけて金銭、時計そして婦女子を要求した。もし時計や金銭を持たないと──それは通常、その前2日間、数回にわたって略奪されたことによるものだが──、兵士は近くの窓を割り、その中に彼らを乱暴に押しやるのだった。われわれの教職員一人がこのようにして銃剣で傷つけられた。
(2)昨晩、市内のこの地区の他の多くの場所と同様に、兵士は図書館で婦女数名を強姦した。
(3)昨晩、国旗と大使館の掲示を付した本学のいくつかの米国人所有の住居が、徘徊する兵士のグループによって不法に侵入され、うち数軒は数度に及んだ。これらの住居には、3人の本学教員の住んでいるものも含まれる。
 
 これらは多くの南京住民に起きていることのほんの少しの例にすぎませんが、私たちは、それを、中国人民の福祉に関心を抱き、外国人の財産を保護する旨の貴国政府の公式声明と比較されることを請求するものです。

 私たちは個人的なことを強調しようというものではありませんが、ただ無統制の兵士の野蛮な放埒の程度を示すため、他に2つの事件に言及しておきます。昨日、本学の一アメリカ人教員が一将校および兵士らにより、事実無根の理由で──将校は調べもせずに──殴打されました。さらに同夜、別の一アメリカ人と私自身が銃を持った酔った兵士によってベッドから引きずり出されました。

 この手紙は本大学の特別保護を求めたわけではなく、大学が貴館から近いことから、平和的住民全体にいかに危険が切迫しているかを強調するために記したものです。
 私たちは、日本軍は立派な行動を維持し、そして被占領住民に良好な秩序のもとで生き、働く機会を与える力と能率とを持っていると信じるものです。私たちは貴軍がなぜそうされないのか、これ以上地元住民に、そして日本の評判を損なう前になぜそうされないのか、理解に苦しむものです。
                                           敬具
                            金陵大学緊急委員会委員長     
                                  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。

(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)


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