真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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司馬遼太郎 明治の日、歴史の修正

2017年12月25日 | 国際・政治

 司馬遼太郎の歴史観にかかわる文章を、司馬遼太郎自身の著書から抜粋し、いろいろ考えているのですが、彼は、『「明治」という国家』(日本放送出版協会)でも、やはり”明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした”と評価する一方、”昭和にはー昭和20年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです”と酷評しています。

 そうした考え方が源流となって、自由主義史観研究会が生まれたことは、「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)、に書かれています。そして、それがさらに歴史修正主義や、「新皇国史観」と呼ばれるような考え方に、いろいろところでつながっていることを、私は見逃すことができません。

 しばらく前、「明治の日推進協議会」という団体が国会内で、11月3日の「文化の日」を「明治の日」にしようという集会を開いたといいます。11月3日は1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日で、祝日法で「文化の日」と定められたわけですが、もともとこの日は、明治天皇の誕生日であり、大日本帝国憲法下の明治時代は「天長節」、明治天皇が亡くなった後は「明治節」と呼ばれる休日だったのです。「明治の日推進協議会」の集会開催の目的は、そのことに関連します。

 「明治の日推進協議会」の集会では、”日本の近代国家立脚の原点は明治にある。しかしながら、かつての『明治節』はGHQ(連合国軍総司令部)の指導で変化を余儀なくされた。だから、再び明治の時代こそ大切だったとすべての日本人が振り返る日にしたい”というような決意が述べられたといいます。要するに、日本国憲法も「文化の日」もGHQの押しつけだから、“本来の姿”に戻したいということのようです。安倍総理の「日本を取り戻す」という主張も、そういうことではないかと思います。
 自民党の元閣僚は、「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるというのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」というような発言をしたことが報じられましたが、”神武天皇の偉業に立ち戻る”ということは、まさに”皇国日本”に戻すということではないでしょうか。
 したがって、11月3日を「明治の日」にしようという主張も、また、「明治150年」に向けた関連施策を推進しようとする政府の動きも、皇国史観の復活や戦前回帰につながるものではないかと思います。司馬遼太郎が、そんなことまで支持するとは思えませんが、司馬遼太郎の明治を肯定的に評価する歴史観が、そうした動きに大きな力を与えるものであることは否定できないと思います。

 だから私は、”明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした”などと評価できるものでなかったことを、日清戦争の実態や残されている様々な文書によって確認したいと思うのです。

 歴史を辿れば、明治は、大日本帝国憲法の
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
にはじまり、
兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を・・・”
というような「軍人勅諭」や、

朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス・・・”
というような「教育勅語」のイデオロギーで人びとを縛り、皇国日本の教育を徹底した時代であったのではないでしょうか。そして、「天皇陛下万歳」を叫び、いさぎよく命を投げ出して戦うことが日本人のあるべき姿であると教育された人達が、昭和のはじめに活躍したのだと思います。したがって、昭和のはじめを「別国」ととらえたり、”別の民族だったのではないかと思える”と言ったり、「非連続」の時代ととらえることは客観性を欠く捉え方ではないかと思います。

 また、それは、資料2に抜粋した”日清開戦直後に「太平洋戦争に連なる構想」”でも、明らかではないかと思います。旅順虐殺事件が南京大虐殺とそっくりであることはすでに触れましたが、朝鮮王宮占領から日清戦争に至る流れも、国際法無縁の差別的侵略行為で、昭和の始めの日本と少しも変わらないものだと思います。
 だから、大政奉還による王政復古から、先の大戦における降伏まで、歴史を連続したものとして捉えることが、社会科学的に正しいのではないかと私は思います。

 司馬遼太郎は『「明治」という国家』(資料1)に、
イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります”と書いています。その評価は私にはできません。でも、その考え方に基づけば、大日本帝国憲法にはじまる明治の時代の”正義の体系”は、天皇の人間宣言といわれる、昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」における

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

とのことばで、「うそ」であったことが明らかにされたということになるのではないかと思います。

 下記の資料1は、『「明治」という国家』司馬遼太郎(日本放送出版協会)から抜粋しました。
 資料2は『歴史の偽造をただす-戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』中塚明著(高文研)から抜粋しました。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第一章 ブロードウェイの行進

 ・・・
リアリズムといえば、明治は、リアリズムの時代でした。それも、透きとおった、格調の高い精神でささえられたリアリズムでした。 ここでいっておきますが、高貴さをもたないリアリズム-私どもの日常の基礎なんですけれども-それは八百屋さんのリアリズムです。そういう要素も国家には必要なのですが、国家を成立させている、つまり国家を一つの建物とすれば、その基礎にあるものは、目に見えざるものです。圧搾空気といってもよろしいが、そういうものの上にのった上でのリアリズムのことです。このことは、何度目かに申し上げます。

 そこへゆくと、昭和にはー昭和20年までですがーリアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは別国の観があり、別の民族だったのではないかと思えるほどです。

 右にせよ左にせよ、60年以上もこの世に生きてきますと、イデオロギーというものにはうんざりしました。イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに「絶対のうそ」があります。キリスト教では唯一神のことを大文字でGodと書きます。絶対であるところのGod。絶対だから大文字であるとすれば、イデオロギーにおける正義も、絶対であるがために、大文字で書かねばなりません。頭文字を大文字でFictionと書かねばなりません。 ここで、ついでながら、「絶対」というのは、「在ル」とか「無イ」とかを超越したある種の観念ということです。極楽はあるか。地理的にどこにある、アフリカにあるのか、それとも火星か水星のあたりにあるのか。これは相対的な考え方です。「在ル」とか「無イ」とかを超えたものが、絶対というものですが、そんなものがこの世にあるでしょうか。ありもしない絶対を、論理と修辞でもって、糸巻きのようにグルグル巻きにしたものがイデオロギー、つまり”正義の体系”というものです。イデオロギーは、それが過ぎ去ると、古新聞よりも無価値になります。ウソである証拠です。いま戦時中の新聞を、朝の食卓でコーヒーをのみながらやすらかに読めますか。あるいは毛沢東さんの晩年のプロレタリア文化大革命のときの人民日報をアタリマエの顔つきで読めるものではありません。ヒトラーの「わが闘争(マインカンプ)」を、研究以外に、平和な日曜日の読者として読めますか。すべては、時代がすぎると、古いわらじのように意味のなさなくなるものらしいですね。

 昭和元年から二十年までは、その二つの正義体系がせめぎあい、一方が勝ち、勝ったほうは負けた方の遺伝子までとり入れ、武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人がつくった国家をこなごなにつぶしました。

 まあそんなことは、このたびの主題ではありません。
 しかし、作家というものは、天の一角から空をつかんでくるようにしては話せない。すわっている座布団の下から話さねば落ち着かない。話していることも、自分の感覚でたしかに手ざわりのあるものしか話せないし、話す気にもならないものです。以上は座布団の下の話です。つまり私は戦車の中で敗戦をむかえ、なんと真に愛国的でない、ばかな、不正真な、およそ国というものを大切にしない高官たちがいたものだろう。江戸末期や、明治国家をつくった人達は、まさかこんな連中ではなかったろう”というのが、骨身のきしむような痛みとともにおこった思いでありました。それが、これから何を申し上げのかわりませんが、私の、座布団の下につながる話です。

 さて、このシリーズだけに通用する定義ですが、明治を語る上で、明治時代とせずに、
 ことさら、
「明治国家」
 とします。明治時代とすると、流動体みたいな感じになりますが、「明治国家」としますと、立体的ないわば個体のような感じがするから、話しやすいんです。そんな国家、いまの地球上にはありません。1868年から1912年まで四十四年間つづいた国家です。極東の海上に弧をえがいている日本列島の上に存在した国家でした。そのような感覚で、私は、この机の上の物体を見るような気分で語りたいと思います。

 ちょっと申しあげておかねばなりませんが、私がこれからお話しすることは、明治の風俗ではなく、明治の政治のこまかいことではなく、明治の文学でもなく、「つまり」そういう専門的な、あるいは各論といったようなことではないんです。「明治国家」のシンというべきものです。作家の話というのは、どうも具体的です。以下、いろんな具体的な例をあげますが、それに決していちいち即した
、それにひきずられるようなことはなさいませんように。それら断片のむれから、ひとつひとつ明治国家のシンはなにかということを想像してくだされば幸いなのです。

 象徴ということばがあります。symbol 。十九世紀の世紀末に、フランスの文壇で、象徴主義というのが流行(ハヤ)りました。サンボリズム、シンボリズム。ボードレールに代表されます。具体的なコトやモノを示して、宇宙の秘密を感知するという大げさな表現形式です。日本には、明治末年から大正にかけて入ってきて、蒲原有明(カンバラアリアケ)、北原白秋、三木露風なども象徴詩を書きました。そのために、象徴という言葉や意味、概念がむずかしくなりましたが、そんなものじゃなくて、ごく簡単なものです。割符をご存じでしょう。古代、遠くへ使者を出したりするとき、木や金属を割ってその片方を、使者のしるしとして持たせる。受けとる方は、もう片方をもっていて、合わせてみて使者が本物であることを知る。ギリシャ語で、symblon というのは、割符のことだそうですね。それが、だんだん象徴という意味につかわれるようになった。わたしは、いろんな事例を割符として話します。あわせるのは、聞き手としてのみなさんです。 それらを合わせつづけることで、だんだん”明治国家のシン”という私のこのシリーズの主題を理解してくだされば、文字どおり私のしあわせです。小説も、割符の連続なんです。作者は割符の半分、つまり50%しか書けないものなんです。あとの50%をよき読者、よき聞き手が”こうだろう”ということであわせて下さるわけで、それによって一つのものになるのです。
 第一回目ですから、右のようなゴタクをたくさんのべました。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      第五章 生きつづける歴史の偽造

日清開戦直後に「太平洋戦争に連なる構想」

 ・・・
 福島県立図書館「佐藤文庫」に残された四十二冊の『日清戦争史』草案を読んでいくと、早くも日清戦争直後に、この「太平洋戦争に連なる構想」が見られる。
 草案のなかに、『第十六編第七十二章第二草案』というのがある。「第七十二章 南方作戦に関する大本営の決心およびその兵力」と題された草案がそれである。その冒頭部分に次のような記述がある。

 日本大本営が南方作戦の必要を感じたるはけだし一朝一夕のことにあらず。この議早くすでに二十七年八月九日の陸海軍参謀会議において本冬季間の作戦大方針を議するに当たり、〔会議の要旨は「季節許さざるが故にたとい海戦勝利を得るも作戦大方針第二期の作戦は、明年氷雪融解の期まで延期し、本年においてはまず大方針乙の場合における如く、朝鮮半島へ後続師団を送り敵を同島より駆逐し、明年作戦の地歩を占め置くべし」云々〕〕これに付随して一の動議となりて発生せり。
 いわく「朝鮮半島に送るべき後続兵を一師団にとどめ他の一師団をもって台湾を占領し、本冬季を経過せん」と。しかるにこの議は同月三十日に至り「戦略上の関係によりあるいは一部の兵を派して冬季間台湾を占領することあるべし」との決議をなすに過ぎざりしといえども、南方用兵談の公然議に上りたるは実にこの動議をもって嚆矢とす。しこうしてこれよりその後、征台問題の議に上るただに一再のみにとどまらざりし。

 そもそも当局がかくのごとく南方に意を用いたるはひとり当役における作戦上の関係のみにあらずして、大いに永遠の国是に考慮する所ありてしかるなり。故に当時大本営参謀佐官などにおいて研究せし議題、すなわち「もし我が国今後大決戦勝利を得、清廷和を請うの暁において東洋の平和を維持する戦略上清国をしていずれの部分を割譲せしむるを要するや」との案に対する意見書中にも、澎湖島、台湾の両島は他の二、三の要地と共に必ず我が領有に帰せざるべからざるの理由を反復詳論せり。
 今他の地点に関する意見はしばらくこれをおき、単に該当両島に就いて論断せし所の大要を掲ぐ。
 いわく「澎湖島は水深く湾広く四時風浪の憂い少なき良港にしてその位置は台湾海峡を扼し、黄海支那海の関鑰を占め、我が対馬とともに東亜無比の要衝なり。故に旅順、威海衛と共にこれを我が領有に帰し、もって清国の首尾を扼制(ヤクセイ)するときは、ひとりその抵抗力を微弱ならしむるのみならず、将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要なり。
 露国において侵略の政策を逞しうし東亜の平和を攪乱するの恐れあるものは英国なり。しこうして香港は実にその禍心を包蔵するの地たり。故によくこれを掣肘してその跳梁を制するに足るの要地は澎湖島の外また他に求むるあたわざるなり。
 もし今回戦争の目的をして単に朝鮮を扶掖(フエキ)するに在らしめばすなわちやむ。いやしくも東洋全局の平和を将来に図るに在らしめば、必ずまずこの要地を軍港となし、ここに完全の守備を設けざるべからず。しかれども台湾海峡に孤立する澎湖島の領有を確実ならしむるには必ず台湾を併有し、これを約一師団の兵を駐屯して警戒せざるばからずこと論をまたず。
 且つ欧州列国と馳騁して雄を東亜に争わんには、必ず新物産の収穫地を求めて財源を増やさざるべからず。しかるに呂宋(ルソン)(フィリピンのこと-中塚)は東西両洋交通の衝に当たり、後来(コウライ)東洋商業の中心たるべきは必然にして、我いやしくも好機会を得ば必ずこれを占領せざるべからざるの所とす。しこうして台湾は実にその階梯たるのみならず、琉球列島と相連接し地勢上より論ずるも我に併有するを至当となす。いわんや帝国の自衛防御上においても実に領有せざるべからざるの要あるにおいておや」と。
 これによりこれを観るも初めより当局者がいかに南方に意を用いたるかを想像するに足る。

 「二十七年八月九日」と言えば、日清戦争の宣戦の詔勅が出されて、まだ十日もたっていない、日清戦争のごく初期の話である。その日の陸海軍参謀会議で、早くも南方作戦が論じられているのである。しかも南方作戦については、その後、台湾の中国からの分割が問題になるにつれ、再三おこなわれ、しかもこの議論は、ただ日清戦争をどう戦うかということにとどまらず、「永遠の国是に考慮」してのものであったという。
 フィリピン占領まで構想したこうした議論は、参謀たちの間のものであって、当時の政府の対外政策にはなっていないにしても、すでに日清戦争の開始早々の時に日本軍の中枢において、こうした議論が重ねられていたことは注目に値する。日清・日露の両戦争に勝利して、こうした構想が加速されたということはあるであろうが、「無敵皇軍の神話」が生まれて、非合理な戦略で突っ走った太平洋戦争への道が、日清・日露の両戦争に勝利して突然生まれたというものではないことに注目してほしい。  

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


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司馬遼太郎 「別国」と祖国防衛戦争の問題

2017年12月10日 | 国際・政治

 司馬遼太郎が、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の中で「…だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう」と書いていることは、”司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策”で触れました。

 また、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いていることにも触れました。さらに、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の「別国」では、下記資料1のように「昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と昭和初期について、ここでも徹底的に批判しつつ、その昭和初期十数年間の”別国”は、統帥権の解釈の変更によって生まれたというようなことを書いています。

 しかしながら、多くの歴史家がそうした捉え方を批判し、様々な事実や資料を取り上げていることを無視してはならないと思います。例えば、中央大学の檜山幸夫教授は「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」(講談社)の中で、軍医として日清戦争に従軍した森鴎外の資料2のような文章を紹介しています。
 戦争特派員・クリールマンの「日本軍大虐殺」の記事によって、アメリカのニューヨークやワシントンで大騒ぎになったという「旅順虐殺事件」は、日清戦争の際の事件ですが、鴎外の文章は、そうした記事を裏付けるものではないかと思います。統帥権の解釈の変更によって、突然日本軍や日本兵が野蛮になったというようなことではないのだろうと思います。特に、鴎外の文章に出てくる中国人蔑視の思想は、統帥権とは直接関係のないことで、むしろ明治時代の皇国史観とかかわりがあるのではないでしょうか。

また、京都大学の高橋秀直助教授は「日清戦争への道」(東京創元社)の中で、ロシアの朝鮮政策に関する資料を取り上げ、資料3のように、ロシアの南下政策(朝鮮支配)というのは、「神話にすぎない」と、書いています。日清戦争前には、ロシアは日本の支配どころか、朝鮮支配さえ考えてはいなかったというのです。

 「祖国防衛戦争」論は、国民を明るく元気にする文章を書きたいという司馬遼太郎の思いこみであり、決定的な根拠はないということだろうと思います。
 でも、国民的大作家といわれる司馬遼太郎の歴史観が、学校教育における歴史の修正や、明治150年の施策と無関係ではないとすれば、その影響は極めて大きく、見逃すことのできない問題だと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       81  別国
 国家がながいその歴史の所産であることはいうまでもない。当然ながら日本でもそうである。日本史のなかに連続してきた諸政権は、大づかみな印象としては、国民や他国のひとびとに対しておだやかで柔和だった。
 ただ、昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。

 『この国のかたち』は、主として柔和なほうに触れ、”別国”のほうには、わずかにふれただけだった。しかしながらわずか十数年の”別国”のほうが、日本そのものであるかのようにして内外で印象づけられている。

 わたしは、二十二歳のとき、凄惨な戦況のなかで敗戦を迎えた。
 おろかな国にうまれたものだと、とおもった。昭和初年から十数年、みずからを虎のように思い、愛国を咆哮し、足もとを掘りくずして亡国の結果をみた。
 そのことは、さて措(オ)く。

 この回は、昭和初期十数年間の”別国”の本質について書く。
 ”日本史的日本”を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあったということは、この連続の冒頭のあたりでのべた。
 こまかくいいえば、統帥権そのものというより、その権についての解釈を強引に変えて、魔法のたねとした。この十数年の国家は日本的ファシズムなどといわれるが、その魔法のたねの胚芽のあたりをふりかえってみたい。

 旧憲法的日本は、他の先進国と同様、三権(立法、行政、司法の三権)の分立によってなりたっていた。大正時代での憲法解釈では、統帥権は三権の仲間に入らず、「但し書き」として存在した。要するに統帥権は、一見、無用の存在というあつかいだった。さらには、他の三権のありかたとは法理的に整合しなかった。
 もし統帥権が三権を超越するという考え方が、勢力として確立すれば、議会の承諾を得ることなく、また行政府の代表である総理大臣の知らぬまに、たとえば勝手に軍を動かして他国をーーたとえば満州事変のようにーー侵略することもできるし、他国どころか、日本そのものも”占領”できる。

 自国を”占領”したなどおだやかではない表現だが、実態は支配した、などよりはるかに深刻で、占領したというほかない。
 亡国への道は、昭和六年(1931年)から始まる。このとし統帥権を付与されている関東軍参謀らが、南満州鉄道の柳条湖付近で密かに線路を爆破し、それを中国軍のしわざであるとしてその兵営を攻撃し、いわゆる満州事変をおこした。
 翌七年、”満州国”を独立させた。統帥権の魔法の巧妙さは、他国を占領することによって、やがて自国を占領するというところにある。ついでながら、事変というのは宣戦布告のない戦争行為もしくは状態をいう。

 この”事変”が日本の統帥部(参謀本部)の謀略からひきおこされたことは、いまでは細部にいたるまではっきりしている。
 ”事変”を軍部が統帥権的謀略によってつくりだすことで日本国を支配しようとしたことについては、陸軍部内に、思想的合意の文書というべき機密文書が存在した。

 『統帥綱領』『統帥参考』
 が、それである。この文書については、以前にふれた(第一巻「機密の中の”国家”)。『綱領』のほうは亜昭和三年(1928年)に編まれ『参考』のほうは昭和七年(1932年)に編まれた。
 編んだのは統帥権の機関である陸軍の参謀本部であった。この書物は軍の最高機関に属し、特定の将校だけが閲覧をゆるされた。修辞学的にいうと、統帥権の保持者である天皇といえどもみせてもらえなかったはずである。

 『綱領』が編まれた昭和三年といえば、統帥権を分与されている陸軍の参謀将校によって満州軍閥のぬしの張作霖が爆殺されたとしである。統帥権に準拠していればどんな超法行為でもできるという意味で、魔法の杖だった。
 また、『参考』が編まれた昭和七年といえば、”満州国”樹立のとしであって、この翌年に国際連盟を脱退することになる。偶然の暗号というよりも、マニュアルどおりにすすんだという印象がある。
 むろん、そんな本がこの世に存在するなど、陸軍の高級軍人の一部のほか、当時の日本人のたれも知らなかった。同書が復刻されたのは昭和三十七年(1962年)、財団法人偕行社によってである。当時の販価は1500円で、どのくらい刷られたものかわからないが、いま古本屋をまわってもよほど幸運でないと見つからない。

 その本のなかに「非常大権」という項目がある。
 簡単にいえば、国家の変事に際しては、軍が日本のすべてを支配しうる、というものである。以下直訳する。
「軍と政治は原則としてわかれているが、戦時または国家事変の場合は、兵権(注・統帥権のこと)を行使する機関(注・参謀本部のこと)は、軍事上必要な限度において、直接に国民を統治することができる。それは憲法三十一条の認めるところである。この場合、軍権(統帥権のこと)の行使する政務(政治行動のこと)であるから、議会に対して責任を負うことはない」
 という。このみじかい文中で兵権と軍権という類似語がたがいに無定義につかわれている。兵権も軍権も同じ意味で、統帥権のことである。

 右の文中、「兵権ヲ行使スル機関ハ軍事上必要ナル限度ニ於テ直接ニ国民ヲ統治するコトヲ得ルハ憲法三十一条ノ認ムル所ナリ」(原文のまま)というくだりにでてくる憲法第三十一条についてふれたい(むろん、戒厳令ではない。戒厳令についての規定は、憲法第十四条である)。
 憲法第三十一条は、第二章の「臣民権利義務」のなかにある。
 その章には、この憲法の近代的な性格を著す条文が含まれている。日本臣民は裁判をうける権利をもち、所有権を侵されることがなく、また居住・移転の自由、信教や言論、著作、印行、集会、結社の自由をもつなどである。第三十一条は、それらの条文のあとに設けられている。
 「本章(注。臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」
 という。この憲法第三十一条は、要するに国家の大変なときは、国民の権利や自由はこれを制約したり停止したりできるというものである。
 一見、おそろしげにみえるが、当時、どこの国の憲法にもこの一項は入っていて、人間のくらしでたとえると入院治療とかわらない。入院中、その人の自由は制限され、医師の指示下におかれるようなものである。むろん、あくまでも常態ではなく、一時的なものである。

 この憲法第三十一条でいう事変とは、なにか。むろんさきにふれた”満州事変”の事変ではない。”事変”がどういう意味かについては、すでに明治二十一年、憲法草案の条文逐条審議の段階において問題になった。
 もし、事変の解釈をあやまって非常大権が発動されたりすればはじめから憲法などをつくる必要もなく、いわば無法の国家になってしまう。そんなむちゃな国家をつくるつもりは、むろん明治人にはなかった。

 ・・・

 この憲法第三十一条には、事変のほか、戦時ということばもつかわれている。戦時とは字義どおりで、わざわざふれるまでもない。
 昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領・統帥参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、”統帥国家”を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        はじめに
 ・・・
 鴎外は、日清戦争に従軍した体験をもとに、明治42(1909)年8月1日に発行された雑誌『昴』第8号に、森林太郎の名前で「鶏」という作品を発表している。この作品は、主人公の陸軍少佐参謀の石田小介が小倉の聯隊に赴任するところから始まるが、そのなかに石田の下宿先へ、日清戦争の時に軍司令部にいた麻生という輜重輸卒が、鶏を持って訪ねてくる場面がある。

 「ふむ。立派な鶏だなあ。それは徴発ではあるまいな。」
麻生は五分刈りの頭を掻いた。
「恐れいります。つひ(イ)、みんなが徴発徴発と申すもんですから、あゝいふことを申しましてお叱りをうけました。」
「それでも貴様はあれ切り、支那人の物を取らんやうになつたから感心だ。」
「全くお蔭を持ちまして心得違を致しませんものですから、凱旋いたしますまで、どの位肩身が広かったか知れません。大連でみんなが背嚢を調べられましたときも、銀の箸が出たり、女の着物が出たりして恥を掻く中で、わたくし丈は大息張りでござりました。あの金州の鶏なんぞは、ちやんが、ほい、又お叱りを受け損なう処でござりました。支那人が逃げた跡に、卵を抱いてゐたので、主はないのだと申しますのに、そんならその主のいない家に持って行つて置いて来いと仰やつたのには、実に驚きましたのでござります。」

 麻生が持ってきた鶏を、石田は食べようとせずに、そのまま飼うことにした。その飼っている鶏が南隣の畠を荒らしたため、隣家の40歳くらいの女が石田に、

 豊前には諺がある。何町歩とかの畑を持たないでは、鶏を飼ってはならないといふのである。然るに借屋ずまひをしてゐて鶏を飼ふなんぞといふのは僭越も亦甚しい。サアベルをさして馬に騎つてゐるものは何をしても好いと思ふのは心得違である。…女はこんな事も言ふ。借家人の為ることは家主の責任である。サアベルが強(コワ)くて物が言へないやうなら、サアベルなんぞに始から家を貸さないが好い。

 と、声を張り上げて怒鳴られる。
 この作品は、鴎外が陸軍軍医監に任ぜられたのち、第十二師団軍医部長として小倉に赴任した明治32(1899)年6月19日から、同職を免ぜられ第一師団軍医部長に補せられた明治35(1902)年3月14日までの小倉時代を素材にしたものであることから、日清戦争の国内の状況を描いているともいえよう。このわずかな文章に、戦地での日本兵の情況と日清戦争と日本人、日清戦後の日本とがみごとに描かれている。
 麻生が石田に叱られたのは、日本の兵士が「徴発徴発」といって中国人の住民から略奪するのをとがめられたこと、「ちゃん」という中国人に対する蔑視語を使ったこと、であった。隣の女が石田に怒鳴ったのは、日清戦争に勝利し、その威勢を借りて傍若無人にに振る舞う「サアベル」つまり、軍隊が聖域化し、軍人が闊歩する姿に、民衆がかなりの怒りと反発を感じていたことを表現していよう。

 明治17(1884)年8月、陸軍二等軍医の鴎外は、23歳でドイツに留学し、27歳になった21年9月に帰国した。青年時代にヨーロッパ文化に触れた鴎外は、西洋合理主義と西洋の文明論を身につけるが、文明を意識し、戦場に臨み、日本への野蛮な行為に戸惑いを見せる。自らを文明人と認識する鴎外にとって、戦場や日本の社会における現実は、あまりに文明とかけはなれ、野蛮にさえみえる。そこでの葛藤が、明治という時代をある意味で表現していたといえよう。
 鴎外が、明治42年これを描いたのは、日清戦争後次第に進行し、日露戦争後、顕著となってきた軍紀の乱れと、目にあまる軍人の横暴、そして民衆の中国人への差別に、一つの警鐘を鳴らしたかったからというではあるまいか。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    序論 日本近代化と大陸国家化
 ・・・
 たとえば、極東分割への列強の動きとしてすぐ頭に浮かぶ国家は、ロシアである。ロシアは不凍港を求め沿海州よりの南下を一貫してめざしている、という固定観念がある。しかし、そのロシアは、日清戦争前においては、「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすだろう」(1888年4月26日の朝鮮政策についての特別会議議事録、本書295頁で後述)と考えており、極東においては南下=朝鮮支配をめざしてはいなかった。一貫した南下政策など神話にすぎないのである。しかし、もちろんロシアは南下をまったく考えていなかったわけではなく、清軍事力の弱さが白日のもとにさらされた日清戦争後においてはそうした政策をとるようになる。つまり、列強には、一貫した不変の政策(たとえばロシアの南下政策)があるわけではなく、その時々の状況のなかでもっとも有利と判断する政策をとるのである。
 ・・・
 上記(本書295頁で後述)の部分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第一篇 近代化過程における外交と財政  -1882~1894-
                   第三章 初期議会期の朝鮮政策と財政
 付論 日清戦前期の極東情勢
 ・・・
 第二に朝鮮政策、英露両国は、朝鮮をどのようにしようと考えていたのだろうか。イギリスの朝鮮政策の目的は、すでに見たように、それがロシアの支配下に陥るのを阻止することであり、その支配は考えていなかった。(本書173頁)。一方ロシアはどうだろうか。1888年、侍従武官長・沿アムール総督のコルフと外務省アジア局長ジノヴィエフが朝鮮政策について協議したが、彼らの下した判断は、「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすだろう」(『19世紀末におけるロシアと中国』29頁)、というものであった。ロシアは朝鮮へ南下しようとは考えておらず、その朝鮮政策の目的は、それが敵対国の手におちるのを防ぐことであり、1886年には朝鮮の領土保全を保障する協定を結ぶことを清に提議していたほどであった。
 ・・・

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司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策

2017年12月03日 | 国際・政治

  司馬遼太郎は、明治時代の戦争を肯定的に描き、逆に昭和時代の戦争を否定的に描いていることで知られていますが、そうしたことについては、下記の資料1「歴史と視点 -私の雑記帳ー」司馬遼太郎(新潮文庫),資料2「この国のかたち 四」司馬遼太郎(文藝春秋),資料3「この国のかたち 六」司馬遼太郎(文芸春秋 1996)などで、自ら語ってもいます。司馬遼太郎が、いろいろな側面で、明治時代を高く評価していることがわかります。

 でも、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである。”という考え方と同じように、下記の資料1の文章にみられるような、明治の軍人が”昭和初期に中国へ侵略戦争をやった軍部指導者たちにくらべると、まるで別な民族であったような観さえある”というのも、私には受け入れがたいとらえ方です。
 特に、資料2の文章にある、”日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう”というのも、私にはとても受け入れがたいです。

 その明治時代を肯定的にとらえる司馬遼太郎の考え方が源流となって、自由主義史観研究会が生まれたことは、資料4の「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)に抜粋した文章でわかります。
 そして、歴史教育は改革されなければならないとする同研究会の主張に基づいて、『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』がつくられたこと、さらに、その教科書で日々学んでいる子ども達がいることは、私には看過できません。

 だから、私は、司馬遼太郎とは逆に、先の大戦の惨禍は、明治維新以後に明文化された考え方(大日本帝国憲法・軍人勅諭・教育勅語など)や確立された組織体制の継続・拡大・強化・徹底などの結果であると考え、旅順虐殺事件や朝鮮王宮占領事件のみならず、歴史学者が取り上げている当時の資料や証言を正しく理解して、時代の雰囲気に流されないようにしたいと思っています。

  それは、政府発表の

平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。この「明治150年」をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。このため、政府においては、こうした基本的な考え方を踏まえ、「明治150年」に関連する施策に積極的に取り組んでいます。

にも関わることで、「歴史に学ぶ」ということの意味を考えることでもあると思います。子ども達に誇りをもたせるために、過去の過ちや日本にとって不都合な歴史的事実をなかったことにするような歴史教育では、近隣諸国の理解が得られないでしょうし、また、日本国内の圧政の復活にもつながってしまうのではないかと思っています。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        大正生まれの『故老』
 ・・・
 私の手もとに、日清戦争のとき広島大本営の軍事内局長だった少将岡沢精(オカザワクワシ)の各師団長へ送った通達文の草稿がある。
 「我軍ハ仁義ヲ以(モツ)テ動キ、文明ニ依(ヨツ)テ戦フモノナリ。故ニ我軍ノ敵トスル処(トコロ)ハ敵国の軍隊ニシテ、其(ソノ)一個人ニアラズ。サレバ敵軍ニ当リテハ素(モト)ヨリ勇壮ナリト雖(イエド)モ、其降人、捕虜、傷者ノ如(ゴト)キ、我ニ敵抗セザルモノニ対シテハ之(コレ)ヲ賞撫(ショウブ)スベキ事、嚮(サキ)ニ陸軍大臣ヨリ訓示セラレタルガ如シ」
 戦うについても
 「文明を準拠として戦う」
 などというあたりが、明治の新興国家の軍人らしい昂揚であり、昭和初期に中国へ侵略戦争をやった軍部指導者たちにくらべると、まるで別な民族であったような観さえある。
 軍隊内部に対しても、「戦陣訓」のような督戦隊的などぎつい脅迫的布達文はなかった。
 ・・・以下略
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        日本人の二十世紀
  ロシアへの恐怖  
 日露戦争がなぜ起こったのかは教科書に任せるとして、基本的には朝鮮半島問題をめぐる国際紛争でした。
 朝鮮半島については、当時の日本の国防論では地理的な形態としてわが列島の脇腹に突きつけられた刃(ヤイバ)だと思っていた。その朝鮮に対し、既に洋務運動に目覚め近代化しつつある清国が、宗主国としていろいろ介入し始めた。日本はこれが怖かったのです。そして日清戦争を起こす。日本の勝利で、清朝は一応朝鮮から手を引きました。そこへ、真空地帯に空気が入ってくるようにしてロシアが朝鮮に入ってくる。ロシアは、まるで新天地を見出したかの如き振る舞いで、それがやはり日本にとって恐怖でした。結局ロシアを追っ払うためにいろいろなプロセスをへたあと戦争になってしまう。
 いまから思えば、その後の日本の近代は、朝鮮半島を意識し過ぎたために、基本的な過ちを犯していくことになります。この二十世紀初頭に、朝鮮半島などうち捨てておけばよかったという意見もあり得ます。海軍力さえ充実しておけば、朝鮮半島がロシアになったところで、そんなにおそろしい刃ではなかったかもしれない。しかし、当時の人間の地政学的感覚は、いまでは想像できないのですが、もう怖くて怖くてしようがなかった。ここを思いやってやらないと明治というのは分かりにくい。
 たとえば日露戦争をしないという選択肢もあり得たと思います。しかしではロシアがずるずると朝鮮半島に進出し、日本の前まで来て、ついに日本に及んでもなお我慢ーー戦争しないことーーができるものなのか。もし我慢すれば国民的元気というものがなくなるのではないか。これがなくなると、国家は消滅してしまうのではないかーーいまなら消滅してもいいという考え方があり得るでしょうがーー当時は国民国家を持って三十余年経ったばかりなのです。
 新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう。
 ・・・以下略
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「明治憲法が上からの欽定憲法であり、また戦後憲法が敗戦によってえた憲法であるなどといういきさつ論は、憲法というものの重さを考える上で、さほど意味をもたない。明治憲法は明治の最大の遺産だった。しかし、それが健康だったのは、統帥権の台頭までわずか四十年にすぎなかった」
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「汚辱の近現代史 いま、克服のとき」藤岡信勝(徳間書店)

                        司馬史観の説得力
  ーーー「東京裁判=コミンテルン史観」を覆す『坂の上の雲』
 歴史教育と「司馬史観」
 戦後日本の歴史教育は、日本の近現代史をもっぱら暗黒・非道なものとして描き出し、歴史を学ぶ者に未来を展望する知恵と勇気を与えるものではなかった。そのようになった原因は、七年間にわたるアメリカ占領下に、アメリカの国家利益を代弁する「東京裁判史観」と、1930年代のソ連の国家利益に起源をもつ「コミンテルン史観」が「日本国家の否定」という共通項を媒介にして合体し、それが歴史教育の骨格を形成したことにある。日本国家のために弁ずる余地は存在しなかったのである。

 私自身はこうした歴史教育を受けて育った世代である。日本断罪史観は、長い間、わたしにとって空気のように当たり前のことであった。その歴史観の部分的なほころびはあちこちで感じていたが、自分自身の歴史観を根本的に組み替える必要に迫られる体験をしないできた。その認識の枠組みを変える最初の、しかもおそらく最大の要因が、司馬遼太郎の作品との出合いであったと今にして思えてくるのである。もし、その出合いがなかったら、私が戦後歴史教育の呪縛から抜け出すことは困難だったと思われる。

 現在、私は、歴史教育の改革運動を進めている。「東京裁判=コミンテルン史観」の克服が最大の課題だが、その裏返しとしての「大東亜戦争肯定史観」にも私は与(クミ)することはできない。そこで、私は、新しい近現代史教育の枠組みとして「自由主義史観」という第三の史観を構想し、自由主義史観研究会を組織して教材の開発や実践の創造に取り組んでいる。その成果については、さし当たり、季刊雑誌『近現代史の授業改革』(明治図書)、および単行本『教科書が教えない歴史』(扶桑社)と『産経新聞』のオピニオンのページに連載されている読み物教材「教科書が歪めた歴史」をご覧いただきたい。

 さて、私が「自由主義史観」を構想する上でも司馬作品は大きな位置を占めた。もちろん、私は、歴史教育の見直しなどという特別の意図をもって司馬作品を読んできたわけではない。私の世代の多くの人々がそうであるように、私も松本清張を読み、森村誠一を読む、その延長上で、流行作家の一人としての司馬遼太郎を読んだに過ぎない。それは、何かの目的のためではなく楽しみのためだった。そして、今から考えると不思議なことなのだが、司馬の幕末・維新期に取材した作品を読んでいた段階では、歴史学のほうから植え付けられた近現代史像の枠組みを根本的に変えなければならないと切迫した状態には追い込まれなかった。
 例えば、私は、坂本龍馬を描いた『龍馬がゆく』、吉田松陰と高杉晋作を描いた『世に棲む日々』、大村益次郎を描いた『花神』、西郷隆盛と大久保利通を中心人物とする『翔ぶが如く』のような一連の作品を読んできたにもかかわらず、それらの作品の描き出すイメージは、一方で私の頭を占領していたマルクス主義的傾向の強い明治維新観と付き合わせることもなく、両者は平和共存していたのである。

 決定的な分岐点は、日露戦争を扱った『坂の上の雲』との出合いであった。この作品は私の中にあった「東京裁判=コミンテルン史観」を根底から揺るがすのっぴきならない問いをつきつけるものであった。
 私は、日露戦争は日本とロシアの双方の側からみてまぎれもない帝国主義戦争であり、日本の大陸侵略の第一歩(日清戦争から数えれば第二歩)だと信じ込んでいた。そして、正直に打ち明ければ、日本陸軍の創設者山県有朋のような人物のみならず、明治憲法の草案者であり、のちにハルピン駅頭で朝鮮の独立運動家安重根に暗殺された伊藤博文などをも含むこの時期の日本の国家指導者たちを、極悪非道なマフィアの一味であるかのようにイメージしていたのである。なるほどある者は他の者より少し穏健で平和的であるといった個人差はあるにしても、彼らに共通する本質は帝国主義的侵略主義者であることだと考えていたのである。こういう見方と矛盾する日露戦争評価は、右翼ないし軍国主義復活を狙う勢力の宣伝にすぎないと、私の頭の中では「情報処理」されていた。偏見として固定した先入観はおそろしいものである。
 『坂の上の雲』で、日露戦争期の国家指導者の良質な部分が、いかに渾身の力をふりしぼってこの民族的危機を防いだか、その事績に接して、私は彼らをならず者の一味のようにイメージしていたことを誠に恥ずかしく、申し訳ないことであったと感じた。
 司馬は日露戦争以後の時代に取材した歴史小説を書いていない。それ以後の時代は、日本に否定的な記述が多くなることをおそれて、司馬の美学からは書けなかったのであろう。しかし、史論の形ではいくつかの発言を行っている。そこで、司馬の小説と史論を組み合わせると、ひとつのまとまりをもった「司馬史観」を浮かびあがらせることができる。このような意味での「司馬史観」を日本近現代史のもっとも具体的なイメージとして歴史を教える教師の間で広く共有されるようにすることが、もっとも現実的な近現代史教育の改革の第一歩だと私は考えた。
「東京裁判=コミンテルン史観」の影響を受けてしまった人々を説得するにはこれ以外の方法はないとすら思えたのである。だから私は拙著『近現代史教育の改革』(明治図書)で、「自由主義史観」の提唱にあたり、まず、「司馬史観」を最初にとり上げて全体的なイメージを与えることを先行させ、次いで、戦略論、数量経済史、という分析的な議論に進んでいくストラテジーを採ったのである。
 では、その「司馬史観」とは何か。歴史教育の改革という問題意識に立って、その骨格を再構成してみたい。
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 「司馬史観」の四つの特徴
 以上、私が理解する限りでの「司馬史観」の要点をのべた。「司馬史観」の発想の特徴としてあげられるのは、次の四点である。そして、これらは、今後の歴史教育改革の観点として最も重要な点である。
 「司馬史観」の特徴は、第一に、健康なナショナリズムである。これについては、すでに日露戦争の紹介で述べたことと重なるのであまり説明を要しないだろう。
 この点は、戦後の「東京裁判=コミンテルン史観」が、ナショナルなものの全面否定に陥ったのと対照的である。それは結局「東京裁判=コミンテルン史観」が外国の国家利益に奉仕する歴史観だからである。しかし、この側面に正当な位置を与えることなしに近現代史教育の改革はあり得ない。
 ・・・以下略
第二に、リアリズムである。・・・以下略
第三に、あらゆるイデオロギー的なるものから自由になろうとする志向である。・・・以下略
第四に、官僚主義批判である。・・・以下略

 

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