真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

教育勅語には普遍性がある?

2020年11月24日 | 国際・政治

 明治維新によって政権を手にした薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、明治政府を樹立するとまもなく攘夷を放棄し開国和親政策に転換して、欧米列強に国力・軍事両面で追い付くことに注力しました。そして、不平等条約の改正や国家の保全を目指したのだと思います。だからその政策は、 西洋文明を積極的に導入すること(文明開化)であり、地租改正や殖産興業によって経済力をつけること(富国)であり、徴兵制や軍制改革によって軍備を増強すること(強兵)であったのだと思います。そして、さらに列強のような植民地帝国建設を目指して、朝鮮・中国への経済的・軍事的進出を意図するようになったのだと思います。

 その祭必要とされたのが、自由民権運動を抑え、”皇威”を”宣揚”して、精神的に国民を統制するための「教育勅語」であったと思います。したがって、「教育勅語」は、開化政策による道徳的混乱を乗り越えるため、仁義忠孝を中心とした儒教的な徳育の指針を示しつつ、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”というところに国民を導くものだったと思います。この部分は「文部省著作の教科書における教育勅語等の解説 第二十七課 教育に関する勅語」のなかで”若し国家に事変の起るが如きことあらば、勇気を奮(フル)ひ一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くすべし。かくして天地と共に窮なき皇位の御盛運を助け奉るべきなり”と解説されています。”一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くすべし”という教育が展開されていたということです。「続・現代史資料(9) 教育 御真影と教育勅語2」(みすず書房)の奉体の構造化 (三)

 こうした考え方は、1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭、いわゆる「軍人勅諭」(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)の
朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし
 という考え方と一つのものであり、「神話的国体史観」に基づく「教育勅語」によって、軍人のみならず広く一般国民にも富国強兵の精神的支柱を確立し、”億兆心ヲ一ニシテ””勇気を(フル)奮ひ一身を捧げて、皇室・国家の為に尽くす”国民を育成することが、目的であったのだと思います。

 だから、”天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く”という日本国憲法の下では、どんなに見直しても「教育勅語」が、かつての効力をもつことはあり得ないと思います。再び天皇主権の国家に戻さない限り、「教育勅語」で日本を救うことはできないということです。
 また、濤川氏は、”教育勅語は儒教にも神道にも仏教にもどこにも片寄っていない、ひじょうにバランスがとれたものなのだ。”と言いますが、それは、教育勅語に取り上げられている儒教的な徳目しか見ないからだと思います。”我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス”とあることを見逃してはならないと思います。明治政府は神道を国教化しましたが、「教育勅語」は、神道の神話的国体観に基づいており、神道と切り離すことはできないし、神道と切り離して「教育勅語」から神話的国体観を抜き取れば、残るのはほとんど儒教的な五倫五常の徳目で、国民の多様な考え方を一つにして統制することができるようなものではないと思います。

 また、「教育勅語」が効力を発揮した裏には、「不敬罪」があったことも見逃してはならないと思います。「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)には、内村鑑三不敬事件の資料がいろいろ掲載されていますが、その中の「第一高等中学校『校友会雑誌』第三号(明治二十四年一月二十七日発行)」に下記のような記述があります。
”〇勅語拝戴式
 九日、勅語拝戴式を行ふ、式場は倫理室なり、此室に於て此式を行ふ、日本の臣民たるもの誰か感泣(カンキュウ)せざらんや、独怪むべし、本校教員内村鑑三氏は敬礼を尽さず、此神聖なる式場を汚せり、
 ”神聖なる式場を汚せり”という内村鑑三の「不敬事件」は、「教育勅語」の儒教的な徳目とは関係なく、”天皇”と”国民”の関わりの問題としてあったのではないかと思います。
 同書には、内村鑑三不敬事件の他に、熊本英学校事件久米邦武不敬事件島根県立第一尋常中学校(松江中学校)生徒不敬事件井上哲次郎不敬事件なども取り上げられていますが、「教育勅語」が単なる徳育の教えではなかったことがよくわかります。「教育勅語」が神話的国体観に基づいて、「」(現人神・天皇)が「臣民」(国民)に「下賜」したものであったが故に、神聖視され、強制力が働いたということです。だから「教育勅語」の「下賜」によって、日本は、学問の自由や思想の自由や信教の自由などがほとんどない国になってしまったといっても過言ではないように思います。そういう意味で「教育勅語」に普遍性はないと思います。

 また、「戦争犯罪を世界で唯一認めてしまった国、日本」と題された文章にも、とても問題があると思います。
 まず、日本は、”戦争犯罪を世界で唯一認めてしまった国”ということ自体が適切ではないと思います。”南京大虐殺や従軍慰安婦問題が教科書に載っている”ことが、国家が、戦争責任や戦争犯罪を正式に認めたことにはならないと思いますし、現に、日本の戦争責任や戦争犯罪に関して、多くの訴えがあったことも踏まえるべきだと思います。 
 また、”ある調査によれば、第二次世界大戦時の世界の軍隊の中で、もっとも性犯罪が少なかったのは日本軍だったという報告も出ている。軍規で性犯罪がきびしく罰せられていたためである。”と書いていますが、なぜ、こうした重大な歴史の事実に関して、”ある調査によれば…”などという論述の仕方をするのか疑問です。誰の、どのような調査であるのか、なぜ明らかにしないのか疑問に思うのです。 濤川氏の文章には、歴史の事実に関する重要な情報が多々含まれていますが、その出典引用元参考文献などが示されておらず、確かめようがありません。歴史学的に議論のある問題についての文章としては、適切ではないように思います。

南京大虐殺も同じだ。毛沢東は演説の中で、日本軍がジェノサイド、全員虐殺をしない軍隊だったから中華人民共和国は成立したと言っている。中国や欧米の歴史では、徹底虐殺は当たり前だったからだ。
 しかし、日本軍にはそうした発想がなかった。だから、南京で包囲された中国軍の軍人が市民の洋服を着て、市民に化けて逃げ込んだときに、それでもジェノサイドをやっていない。その市民に化けた軍人、便衣隊のゲリラ戦法によって、日本は結局、追い詰められていった。
 という文章もとても気になります。ほんとうに毛沢東がそういうことを言ったのか、私には、ちょっと信じ難いのですが、確かめようがないのです。

 日本国憲法には、
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 とあります。”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”という天皇主権当時の「教育勅語」、さらに言えば、国民の教育を受ける権利が、基本的人権の一つではなく、”皇祖皇宗ノ遺訓”であるという「教育勅語」には普遍性はないと思います。

 下記は、「今こそ日本人が見直すべき 教育勅語 戦後日本人はなぜ〝道義”を忘れたのか」濤川栄太(ごま書房)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        第三章 日本を救うには、もはや「教育勅語」の見直ししかない

               教育勅語には普遍性がある

 日本の伝統や文化などの掘り起こしの重要なものの一つが、教育勅語なのである。とくに、日本の教育の危機を救うエースになるのが、教育勅語の見直しではないかと思っている。これまで「教育勅語というと軍事教育と直結して考えられ、見直そうという試みはすべて失敗しているが、今こそ、もう一度、教育勅語を考え直すときが来ているだろう。
 戦後、教育勅語は絶対悪のように考えられるようになって、教育勅語を論ずること、教育勅語に近づくことそのものが悪いことのような雰囲気ができている。しかし、教育勅語の内容そのものを肯定する声は今でも少なくはない。GHQでさえ、教育勅語には普遍的な道徳が語られていると認めているのである。
 教育勅語は、戦後GHQの方針によって排除されたが、神道を学校教育から取り除く神道指令と重なったことから、神道と結びついていると誤解されている向きもある。しかし、教育勅語は儒教にも神道にも仏教にもどこにも片寄っていない、ひじょうにバランスがとれたものなのだ。けっして偏狭な民族主義のあらわれなどではなく、普遍性のある良識的なものであることは多くの人が認めている。
 ところが、教育勅語が軍事教育の中で絶対視され、悪用されたために、戦後、悪いイメージが生まれる原因にもなった。さらに、GHQが天皇制の問題と教育の問題の中で、教育勅語をあつかったために、教育勅語は天皇制ファシズムの魂のようなものだと思われるようになってしまった。教育勅語の排除は、国会での失効決議という形で行われたが、これには裏がある。戦前天皇の詔勅には大臣の副署がつけられ、それで法律となっていた。だが、教育勅語には副署がつけられなかった。法律ではなく、教育に対する天皇からのメッセージというかたちをとっていたわけである。
 その点を戦後になって問題にされて、副署がついていないのだから法律としての形になっていない。これは憲法違反であるということになって、国会での失効決議がおこなわれて、排除された。
 しかし、これから考えるべきことは、失効決議がどうというよりも、教育勅語を先入観を持たずにもう一度、冷静な目で、現代的な視点で見直して、その優れた点ははっきりと認め、教育の中で生かしていくことができないかということだ。
 戦後教育は成功だったと言われているが、今になって、小学校や中学校で事件が相次いで起こり、教育のあり方自体が問題になっている。そんなときに、無意味なアレルギーで教育勅語を否定していることのほうがおかしい。多くの人が認めている普遍性を認めなければいけない時期になっているはずである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        戦争犯罪を世界で唯一認めてしまった国、日本

 日本の戦争責任が話題になるとき、日本とドイツの違いがよく口にされる。ドイツはナチスの犯罪を認め、その反省にたって、戦後のドイツをつくってきたが、日本は明確な謝罪がないというのである。
 しかし、ドイツが本当は何と言ったかをもう一度、思い出してみる必要があるだろう。ドイツが言ったのは、ナチスが犯した犯罪は認め、それはドイツ国民としても忘れてはならないということであって、ドイツという国が、ドイツ国民が犯罪を犯したとはけっして言っていないのである。つまり、ドイツは戦争に負け、ナチスは犯罪を犯したが、それはナチスのファシストたちがやったことで、ドイツがやったことではない。それに文化や歴史、教育ではドイツはアメリカなどに負けてはいないのだと突き返したのだ。
 その気迫、気概が日本にはない。日本は戦争責任を認めていないというが、南京大虐殺や従軍慰安婦問題が教科書に載っているということは、日本のみの戦争犯罪を認めているということだ。こんな国は世界中を探しても日本だけである。
 戦争で侵略した軍隊が婦女子を暴行するという性犯罪は、世界中どこでも起っている。ナチスは東ヨーロッパに数百カ所の慰安所をつくり、占領した国の女性たちを集めてきたと言われているし、ソ連はベルリンに侵攻したあと、その報復としてベルリンの女性の七割を集めて暴行したとも言われる。
 ある調査によれば、第二次世界大戦時の世界の軍隊の中で、もっとも性犯罪が少なかったのは日本軍だったという報告も出ている。軍規で性犯罪がきびしく罰せられていたためである。もちろん、どこの軍隊にも跳ねっ返りはいるから、性的犯罪がまったくなかったなどということはありえない。しかし、自国のことは表に出さないようにしておいて、日本のことだけを責めてくる外国に対して、歴史の教科書に慰安婦をとりあげ、性犯罪をやった国家だと認めてしまうことは、世界的に見れば、ほんとうは異常なことだ。世界の国々は、そんな日本の病理を心の底で笑っている。
 南京大虐殺も同じだ。毛沢東は演説の中で、日本軍がジェノサイド、全員虐殺をしない軍隊だったから中華人民共和国は成立したと言っている。中国や欧米の歴史では、徹底虐殺は当たり前だったからだ。
 しかし、日本軍にはそうした発想がなかった。だから、南京で包囲された中国軍の軍人が市民の洋服を着て、市民に化けて逃げ込んだときに、それでもジェノサイドをやっていない。その市民に化けた軍人、便衣隊のゲリラ戦法によって、日本は結局、追い詰められていった。
 アメリカも最初は真実がわからなかった。それを思い知ったのがベトナム戦争である。アメリカ軍にも徹底虐殺という発想がなかったから、女子ども、年寄りだからと見逃すと、すぐ後ろから銃弾や手榴弾が飛んでくるという目にあって、はじめて、日本が中国で何を経験したかを知ったのである。
 ナチスがユダヤ人やスラブ人をいったいどれだけ虐殺したか、スターリンがどれほどの人間を粛清という名のもとに殺したか、そういうことを考えもせずに、「お前が悪い」と言われると、「ごめんなさい、悪うございました」と、考えもなく謝ってしまったのが日本だったのだ。
 一方のドイツはナチスの犯罪は認めながら、それはドイツの歴史とは関係ないとつっぱあねるところはつっぱねた。そうしないと、国際社会の中で生きていけないとドイツは知っていたからである。だが、国際社会のほんとうの修羅場を知らない日本は、ただ言われるままに認め、謝った。歴史意識の怠慢である。歴史に学んでいない。もう一度、日本は何をやり、何をやらなかったのか、歴史をきちんと振り返り、そこから多くのことを学び直さなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今こそ日本人が見直すべき教育勅語?

2020年11月20日 | 国際・政治

 「今こそ日本人が見直すべき 教育勅語 戦後日本人はなぜ〝道義”を忘れたのか」(ごま書房)の表紙カバーの内側に、著者である濤川栄太氏の、”今、なぜ「教育勅語」の見直しが必要なのか”という、下記の短文があります。

今の日本の教育は、目を覆いたくなるほどの惨状に見舞われている。その結果「思いやり」「友情」「慈しみ」といった日本人が本来もっていたはずのたいせつなものが失われつつある。かつての教育には、今の教育にはない「教育勅語」というバックボーンがあった。それこそ、今の日本人に求められている「孝養」「忠義」「勤勉」などといった、精神文化の中心的存在だったのだ。
 私は声を大にしていいたい。いつまでも「教育勅語」をタブー視しつづけることは、この国を崩壊させることになる。今こそ「教育勅語」をまず、鉄扉の中からとりだすことから始めなければなるまい。─── 著者

 こうした考え方をする人は少なくないように思いますが、私には、とても受け入れることができません。
 確かに、日本の教育には様々な問題があると思います。戦後日本の教育に、”目を覆いたくなるほどの惨状”という側面があることもわからなくはありません。でも、「教育勅語」の”縛り”から解き放たれた日本人は、そこから自らの力で、”惨状”を乗り越えていく必要があるのであって、再び「教育勅語」の”縛り”に頼ることは許されないと思いますし、不可能だと思います。

 「教育勅語」がなぜ、”鉄扉の中”に入れられることになったのかは、”「教育勅語」関連資料”で取り上げた衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」と参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」で明らかにされています。

 日本は敗戦後、”日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭して”スタートしたのです。日本でしか通用しない神話的国体観に基づく「教育勅語」を復活させようとすることは、「皇国日本」を復活させることであり、基本的人権の一つである、国民の教育を受ける権利を”皇祖皇宗ノ遺訓”のなかに消し去ることを意味します。それは、人類が到達した普遍の原理に反するのです。

 また、「教育勅語」が大きな力を持ったのは、天皇を中心とした家族国家観(神話的国体観)によって、忠君愛国主義儒教的道徳が、(現人神・天皇)と臣民(国民)の関係の中で語られたこと、また、「教育勅語」が「御真影」とともに、神的なものとして「奉体」・「奉安」のシステムに組み込まれ、逆らうことの出来ない強い強制力を持ったからだと思います。

 それは、例えば、児童文学作家でノンフィクション作家、山中 恒氏の「教育勅語が残してくれたもの」と題した文章の中にみることができます。
けれども教育というよりも、練成と言う名の暴力をともなうマインド・コントロールによる過激な天皇絶対の国体護持思想の注入であったと思う。それが、どれほどものすごかったかは、あれから五十年を過ぎようとしているのに、私自身いまだに教育勅語の全文を暗記しているし、旧漢字歴史的仮名遣いでその全文を書くこともできるということでも証明できるような気がする。
                                                        「続・現代史資料月報」(1995.12

 山中 恒氏と同じようなことを書いている人は少なくありません。
 行事のたびに、ものものしい雰囲気の中で「教育勅語」の奉読を聞く子どもたちは、その意味を理解する以前に、畏敬すべきものとして受け止めさせられ、指示されるままに暗記したのだろうと思います。そして、その教えは、皇国日本のための忠君愛国主義や儒教的道徳であり、外国人を考慮の対象にしてはいなので、軍国少年軍国少女が育っていったのではないかと思います。 
 戦後、現人神・天皇が「人間宣言」(「新日本建設に関する詔書」昭和二十一年一月一日)をして、単なる象徴となったことにより、「教育勅語」に掲げられている徳目が、戦前のような絶対的価値をもつことはありえず、「教育勅語」をどのように見直しても、かつてのような意味や力を持たせることはできないと思います。

 また、著者はその「はじめに」で、ドイツと比較しつつ、戦後の日本を卑下して、下記のように書いています。 
歴史の授業なども、あまりに異様。暗記、暗記のオンパレード。子どもの心が戦(オノノ)く歴史話もなく、日本の先人たちに夢を馳せる提起もない。そこにあるのは、「この国はダメな国で、歴史的に悪いことばかりやってきました。外国へ行って性犯罪を犯した民族です」。子どもたちは、何を心の支えにし、生きる指標を求め、自らを豊かに高からしめる意欲と希望心を、いかなるな要素をもって掘りおこし、培えばいいのだろうか。
 子どもの姿をみれば、「一国の本質」が、よく焙り出される。この国の子どもたちの地獄絵図とは、じつに、この国のほんとうの姿なのだと認識していいのだろう。中国の胡錦涛氏が来日したとき、総理の橋本龍太郎氏も、野党頭首の菅直人氏にしても、いかなるよわみをもつのか私にはわかりかねるが、とにかく阿諛諂侫(アユテンネイ)のみにて、媚びてばかりいる。
 いつの日から、この国は正々堂々と胸を張って生きることを放棄する国になってしまったのか。あのナチスという歴史上最悪の蛮行を行った歴史を持つドイツが、胸を張って生きている。「あれは、ナチスというならず者が、十数年間ドイツを占拠したのであり、ドイツ史の連続性の上にはない!」。ドイツ大使の指導者たちはこう明言する。自国の悪を完全に認めきってしまった国家というものが、ことごとく歴史から抹殺されていく恐怖の教訓を、骨身にしみて知り尽くすドイツが、打っている「勧進帳」にちがいない。
 それにしても、この国の住人たちは、あまりにも歴史を知らなさすぎている。あまりにも歴史に学ぶことがすくなく、歴史の教訓と方程式を軽視しすぎている。歴史からも世界からも学べぬ国家というものが、いかに深刻な病理構造に陥り、腐敗し、弱体化するかということを、歴史は多くの事例と現象をもって示し、この国に「自己改革」を迫りつづけている。
 五十数年前に、たしかにこの国は戦争で負けた。だが、一度だけ戦争に負けただけで、かくも卑屈になり、奴隷のごとくただ近隣諸国に謝罪しつづけ、自虐しつづけているさまは、けっして健全なそれではなく、未来を豊かにするものではない。
 「東京裁判」という、国際法にも反する野蛮な裁判を強行し、アメリカは自国の圧倒的な帝国主義的悪と蛮行を隠蔽し、すべての責めを日本に被せようとした企図を、歴史は淡々と、自然体であぶり出そうとしている。
 しかし帝国主義的悪を究極的に実行したアメリカやソ連を、いくらなじって見ても致仕方ない。その米・ソの暴力的強権に屈したこの国が情けないのだ。ドイツを見よ!
「ドイツはたしかにアメリカに戦争で負けた。しかし、教育や文化で、建国二百年のアメリカになどけっして負けてはいない!」と、戦争直後のドイツの指導者たちは一歩も引かず、アメリカの「教育の押しつけ」を、毅然とはね返した。
 では、わが国の教育は、昔からそんなに腐敗していたのか。私は、断じて「否!」と答えたい。もちろん、戦前の教育が完全無欠のものと言うつもりはない。しかし、明治から苦労して近代国家を築いてきたかつての日本の教育には、今の教育にはないバックボーンがあった。その象徴的な存在が、この本で取り上げようとしている「教育勅語」(正式には「教育に関する勅語」)である。

 日本とともに戦争に負けたドイツが ”胸を張って生きている”というのは、ドイツ国民が第二次世界大戦における戦争責任を認め、謝罪し、反省を共有して、新たな歩みを始めたからできることだと思います。
 でも日本は、かつてアジア太平洋戦争を主導した人やその流れを汲む人たちが、戦争の過ちを受け入れず、正当化しつつ活躍しています。そうした人たちは、戦後も新たな歩みを始めることができなかったのではないかと思います。だから、「教育勅語」によって統制された日本が、未だにすばらしい国であったと思えるのではないでしょうか。”今の日本の教育は、目を覆いたくなるほどの惨状に見舞われている。”という受け止め方をするのも、戦前・戦中の意識を引きずっているからではないかと思います。

 「教育勅語」に関する衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」や参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」を踏まえ、戦争責任を認め自らの過ちを受け入れて、日本国憲法の精神で世界に向き合えば、少しも卑屈になることなく、子どもたちも日本に誇りをもって、活躍することができると思います。そして、過去の日本ではなく、現在の日本に誇りを持てるようにすることこそ、大事なのではないかと思います。
 ”一度だけ戦争に負けただけで、かくも卑屈になり、奴隷のごとくただ近隣諸国に謝罪しつづけ、自虐しつづけているさまは、けっして健全なそれではなく、未来を豊かにするものではない。
 というのは、戦争責任を認めず、きちんと謝罪しない結果の現象であると思います。ドイツのような新たな歩みが始まっていないということです。

 また、著者は、下記のように書いてもいますが、私は、思い込みが強すぎると思います。

「教育勅語」は、明治23年に発布されて以来、きわめて優秀で「徳」をたいせつにする日本人をあまりに多く輩出した。日本をまったく柔弱にしたいアメリカは、戦後、この「教育勅語」を最大敵視した。いかなる手段を使っても「教育勅語を葬れ!」は、アメリカの占領政策の絶対命題だった。
 その「教育勅語」の真の中身も精査せず、百年の時代を経て、時代不適応な部分を取り除いて発想することも放棄し、ただ超自虐的に、「無思想・無理念・無道徳」の根無し草教育をしつづけた戦後文明のツケが、今、洪水となってこの国を襲ってもいる。
 いつまでも「教育勅語」をタブー視しつづけることは、この国をさらに崩壊させることにならないか。とにかく、「教育勅語」をまず、鉄扉の中から取り出さねばなるまい。
 とりあえず、次ページに掲げた「教育勅語」の全文を、虚心坦懐に読んでみてほしい。現代人には馴染みのない文語調と難しい用語、そして何よりも神格化された天皇の存在など、割り引かねばならない歴史的要素はある。それらを捨象し、エッセンスのみを汲み取ってもらえるよう、私なりの現代訳を付けてみた。
 内容については本文の後半で詳しく触れるが、まずこの全文のイメージを頭に入れていただいたう えで、なぜ今、「教育勅語」なのか、一章からの問題提起を読んでいただければ幸いである。
  平成10年5月 端午の節句の日に                     濤川栄太

 どういう根拠をもって、
日本をまったく柔弱にしたいアメリカは、戦後、この「教育勅語」を最大敵視した。いかなる手段を使っても「教育勅語を葬れ!」は、アメリカの占領政策の絶対命題だった
 などと断定するのでしょうか。途中で政策転換があったとはいえ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の対日政策の課題は、日本の民主化であり、「教育勅語」がそれに反する内容であった
ということは明らかではないかと思います。
 また、戦後の日本の教育は、決して”「無思想・無理念・無道徳の根無し草教育”などではありません。世界に誇ることの出来る日本国憲法に基づいて進められているのです。

 さらに、「教育勅語」に関わる下記のような事実も見逃すことができません。
 「教育勅語」が発布される前、すでに明治天皇の公教育への意向を表した「教学聖旨」(資料1)が発せられていますが、それは、明治政府の欧化政策によって、学問や教育の自由の思想が広まり、科学的認識能力の育成も進んで、自由民権運動結びついていくことに、明治政府が脅威を感じ、開化主義を修正して、仁義忠孝の道徳を明らかにしようとする教育政策の転換を意図したものであったと言われています。
 現に「教学聖旨」には、”維新ノ始首トシテ陋習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ広ムルノ卓見ヲ以テ、一時西洋ノ所長ヲ取リ、日新ノ効ヲ奏スト雖トモ、其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ、徒ニ洋風是競フニ於テハ、将来ノ恐ルヽ所、終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス、是我邦教学ノ本意ニ非サル也”というような記述があることからも、そうしたことがわかります。したがって、「教育勅語」は、「教学聖旨」をさらに発展させるかたちで、自由民権運動を押さえ込むために発布されたといっても過言ではないと思います。私は、そうしたことも看過できません。
 だから、「教育勅語」の復活など、ごめんです。
資料1------------------------------------------
聖旨
                   教学大旨

教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、智識才芸ヲ究メ、以テ人道ヲ尽スハ、我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ、然ルニ輓近専ラ智識才芸ノミヲ尚トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破リ、風俗ヲ傷フ者少ナカラス、然ル所以ノ者ハ、維新ノ始首トシテ陋習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ広ムルノ卓見ヲ以テ、一時西洋ノ所長ヲ取リ、日新ノ効ヲ奏スト雖トモ、其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ、徒ニ洋風是競フニ於テハ、将来ノ恐ルヽ所、終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラサルニ至ランモ測ル可カラス、是我邦教学ノ本意ニ非サル也、故ニ自今以往、祖宗ノ訓典ニ基ツキ、専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ、人々誠実品行ヲ尚トヒ、然ル上各科ノ学ハ、其才器ニ隨テ益々長進シ、道徳才芸、本末全備シテ、大中至正ノ教学天下ニ布満セシメハ、我邦独立ノ精紳ニ於テ、宇内ニ恥ルヿ無カル可シ、

小学条目二件

一 仁義忠孝ノ心ハ人皆之有リ、然トモ其幼少ノ始ニ、其脳髄ニ感覚セシメテ培養スルニ非レハ、他ノ物事已ニ耳ニ入リ、先入主トナル時ハ、後奈何トモ為ス可カラス、故ニ当世小学校ニテ絵図ノ設ケアルニ準シ、古今ノ忠臣義士孝子節婦ノ画像写真ヲ掲ケ、幼年生入校ノ始ニ先ツ此画像ヲ示シ、其行事ノ概略ヲ説諭シ、忠孝ノ大義ヲ第一ニ脳髄ニ感覚セシメンヿヲ要ス、然ル後ニ諸物ノ名状ヲ知ラシムレハ、後来忠孝ノ性ヲ養成シ、博物ノ学ニ於テ本末ヲ誤ルヿ無カルヘシ、

一 去秋各県ノ学校ヲ巡覧シ、親シク生徒ノ芸業ヲ験スルニ、或ハ農商ノ子弟ニシテ其説ク所多クハ高尚ノ空論ノミ、甚キニ至テハ善ク洋語ヲ言フト雖トモ、之ヲ邦語ニ訳スルヿ能ハス、此輩他日業卒リ家ニ帰ルトモ、再タヒ本業ニ就キ難ク、又高尚ノ空論ニテハ、官ト為ルモ無用ナル可シ、加之其博聞ニ誇リ長上ヲ侮リ、県官ノ妨害トナルモノ少ナカラサルヘシ、是皆教学ノ其道ヲ得サルノ弊害ナリ、故ニ農商ニハ農商ノ学科ヲ設ケ、高尚ニ馳セス、実地ニ基ツキ、他日学成ル時ハ、其本業ニ帰リテ、益々其業ヲ盛大ニスルノ教則アランヿヲ欲ス、
                                                                                  1879年(明治12年)内示    https://ja.wikisource.org/wiki/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「教育勅語」を補強・補完した詔勅・省令・訓令等

2020年11月12日 | 国際・政治

 下記資料1は、戦後の衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」で、資料2は、参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」です。多少その言葉に違いがありますが、いずれも「教育勅語」のみならず、「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」((軍人勅諭)や「戊申詔書」、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」その他の諸詔勅の排除や失効を決議しています。
 それは、「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)で、佐藤秀教授が述べているように、
理念面における天皇制の公教育支配を保障してきたものは、1890年公布の教育勅語のみでなく、それを「補強」もしくは「補完」する役割を果たした上述の諸詔勅類を含む一つの「体系」であったとみなければならない。
 というとらえ方をしているからだと思います。
 したがって、ここでは、衆参両院の決議とともに、「奉体」のシステムに関わる文部省令や地方の訓令、そして、関連の諸詔勅を抜粋しました。戦前の日本の教育は、こうした現人神・天皇から下りてくる「・・・セヨ」というような勅語や詔勅、また、それらに基づいた省令(儀式規程)や訓令(祝賀式要領)などで、がんじがらめに縛られていたのではないかと思います。だから、当時の日本人は定められた枠の中で考え、行動することしかできなかったのではないでしょうか。それは、言い換えれば、思想の自由や信教の自由、学問の自由その他の精神的な自由権が、ほとんどなかったということだと思います。

(一部漢数字を算用数字に変えたり、空行を挿入したり、段落を変更したりしています。漢字の後のカタカナは私の解釈でつけた読み仮名です。したがって、適切でないものがあるかも知れません。)

1 衆議院「教育勅語等排除に関する決議」
2 参議院「教育勅語等の失効確認に関する決議」
3 小学校祝日大祭日儀式規程(文部省令第4号
4 小学校における新年・紀元節・天長節祝賀式要領〔愛知県〕
5 戊申詔書
6 国民精神作興ニ関スル詔書
7 青少年学徒ニ賜フ勅語 

 資料4以下は「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から抜粋しました。
資料1--------------------------------------

教育勅語等排除に関する決議
 民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する 
 衆議院会議録 https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100205254X06719480619
各派共同提案「教育勅語等排除に関する決議案」提出・松本淳造)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第2回国会
                                  昭和23年6月19日 
                                    参議院本会議 
教育勅語等の失効確認に関する決議
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
 右決議する。

 参議院ライブラリー「教育勅語等の失効確認に関する決議」
 https://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/002-51.html 

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                小学校祝日大祭日儀式規程
文部省令第四号

 明治二十三年十月勅令第二百十五号小学校令第十五条ニ基キ小学校ニ於ケル祝日大祭日ノ儀式ニ関スル規程ヲ設クルコト左ノ如シ 
                      明治二十四年六月十七日文部大臣 伯爵大木喬任

               小学校祝日大祭日儀式規程

第一条 紀元節、天長節、元始祭、神嘗祭及新嘗祭ノ日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ

一 学校長教員及生徒
 天皇陛下及皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行ヒ且両陛下ノ万歳ヲ奉祝ス
但未タ御影ヲ拝戴セサル学校ニ於テハ本文前段ノ式ヲ省ク

二 学校長若クハ教員、教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス

三 学校長若クハ教員、恭シク教育ニ関スル勅語ニ基キ聖意ノ在ル所ヲ誨告シ又ハ歴代天皇ノ盛徳 鴻業ヲ叙シ若クハ祝日大祭日ノ由来ヲ叙スル等其祝日大祭日ニ相応スル演説ヲ為シ忠君愛国ノ志気ヲ涵養センコトヲ務ム

四 学校長、教員及生徒、其祝日大祭日ニ相応スル唱歌ヲ合唱ス

第二条 孝明天皇祭、春季皇霊祭、神武天皇祭及秋季皇霊祭ノ日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ第一条第三款及第四款ノ儀式ヲ行フヘシ

第三条 一月一日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ第一条第一款及第四款ノ儀式ヲ行フヘシ

第四条 第一条ニ掲クル祝日大祭日ニ於テハ便宜ニ従ヒ学校長及教員、生徒ヲ率ヰテ体操場ニ臨ミ若クハ野外ニ出テ遊戯体操ヲ行フ等生徒ノ心情ヲシテ快活ナラシメンコトヲ務ムヘシ

第五条 市町村長其他学事ニ関係アル市町村吏員ハ成ルヘク祝日大祭日ノ儀式ニ列スヘシ

第六条 式場ノ都合ヲ計リ生徒ノ父母親戚及其他市町村住民ヲシテ祝日大祭日ノ儀式ヲ参観スルコトヲ得セシムヘシ

第七条 祝日大祭日ニ於テ生徒ニ茶菓又ハ教育上ニ裨益アル絵画等ヲ与フルハ妨ナシ

第八条 祝日大祭日ノ儀式ニ関スル次第等ハ府県知事之ヲ規定スヘシ

「官報」(2388号) 1891年06月17日(https://ja.wikisource.org/wiki/)

資料4------------------------------------------
     小学校における新年・紀元節・天長節祝賀式要領〔愛知県〕
        明治21年10月31日 愛知県訓令乙第49号

 小学校ニ於テ新年紀元節天長節ノ祝日ニハ左ノ要領ニ依リ祝賀式ヲ挙行セシムヘシ
       祝賀式要領
一 新年ニハ君が代の曲ヲ奏シテ
   聖上皇后両陛下ノ聖寿万歳ヲ奉祝シ次テ新正ヲ賀スヘシ
一 紀元節ニハ紀元節ノ歌ヲ唱へ
   神武天皇ノ我日本帝国万世一系ノ皇基ヲ定メ給ヒシ偉徳ヲ頌
   シ奉リ次ニ君か代ノ曲ヲ奏シ 今上天皇皇后両陛下ノ聖寿万歳ヲ奉祝スヘシ
一 天長節ニハ天長節ノ歌ヲ唱ヘ
   今上天皇中興ノ盛徳ヲ頌シテ聖寿万歳ヲ奉祝シ併セテ皇后陛下ノ聖寿万歳を奉祝スヘシ
一 式場ハ浄潔ニシテ祝賀式ヲ行フヘキ装置アルヲ要ス
一 職員生徒ノ服装ハ厳正ニシテ式場ノ出入進止静粛ナルヘシ 

資料5-----------------------------------------
                  戊申詔書
 戊申詔書〔上下一心忠実勤倹自彊(ジキョウ)タルヘキノ件詔書〕明治41年10月13日『官報』第7592号(明治41年10月14日発行)

〇 詔書
朕惟フニ方今人文日ニ就(ナ)リ月ニ将(スス)ミ東西相倚(ヨ)リ彼此(ヒシ)相済(ナ)シ以テ其ノ福利ヲ共ニス朕ハ爰ニ益々國交ヲ修メ友義ヲ惇(アツク)シ列國ト與(トモ)ニ永ク其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ惠澤ヲ共ニセムトスル固ヨリ内國運ノ發展ニ須(マ)ツ戦後日尚浅ク庶政益々更張(コウチョウ)ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚(ジュンコウ)俗ヲ成シ華ヲ去り實ニ就キ荒怠(コウタイ)相誡メ自彊(ジキョウ)息マサルヘシ
抑々(ソモソモ)我力神紳(シンシン)聖ナル祖宗ノ遣訓ト我力光輝アル國史ノ成跡トハ炳(ヘイ)トシテ日星ノ如シ寔(マコト)ニ克ク恪守(カクシュ)シ淬礦(サイコウ)ノ誠ヲ諭サハ國運發展ノ本近ク斯ニ在リ朕ハ方今ノ世局ニ處シ我力忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉(イシャ)シテ維新ノ皇猷(コウユウ)ヲ恢弘(カイコウ)シ祖宗ノ威徳ヲ對揚(タイヨウ)セムコトヲ庶幾(コウネガ)フ爾臣民其レ克ク朕力旨ヲ體セヨ
      御名御璽
      明治41年10月13日
                            内閣総理大臣 侯爵桂太郎  

資料6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              国民精神作興ニ関スル詔書 
       大正12年11月10日『官報』号外(大正12年11月10日発行)

朕惟フニ國家興隆ノ本ハ國民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ以テ國本ヲ固クセサルヘカラス是ヲ以テ先帝意ヲ敎育ニ留メサセラレ國體ニ基キ淵源(エンゲン)ニ遡リ皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示(ショウジ)シタマヒ後又臣民ニ詔(ミコトノリ)シテ忠實勤儉ヲ勸(スス)メ信義ノ訓(オシエ)ヲ申(カサ)ネテ荒怠(コウタイ)ノ誡(イマシメ)ヲ垂(タ)レタマヘリ是レ皆道德ヲ尊重シテ國民精神ヲ涵養振作スル所以ノ洪謨(コウボ)ニ非サルナシ爾來趨向(スウコウ)一定シテ效果大ニ著(アラワ)レ以テ國家ノ興隆ヲ致セリ朕卽位以來夙夜(シュクヤ)兢兢(キョウキョウ)トシテ常ニ紹述ヲ思ヒシニ俄(ニワカ)ニ災變(サイヘン)ニ遭ヒテ憂悚(ユウショウ)交々(コモゴモ)至レリ 輓近(バンキン)學術益々開ケ人智日ニ進ム然レトモ浮華放縱(フカホウショウ)ノ習(ナライ)漸ク萠(キザ)シ輕佻詭激(ケイチョウキゲキ)ノ風モ亦生ス今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスムハ或ハ前緖ヲ失墜セムコトヲ恐ル況ヤ今次ノ災禍甚夕大ニシテ文化ノ紹復(ショウフク)國カノ振興ハ皆國民ノ精神ニ待ツヲヤ是レ實ニ上下協戮(キョウリク)振作更張ノ時ナリ振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵(カクジュン)シテ其ノ實效ヲ擧クルニ在ルノミ宜ク敎育ノ淵源ヲ崇(タット)ヒテ智德ノ竝進ヲ努メ綱紀ヲ粛正シ風俗ヲ匡勵(キョウレイ)シ浮華放縱ヲ斥ケテ質實剛健ニ趨キ輕佻詭激キョウキョウキゲキ)ヲ矯(タ)メテ醇厚中正ニ歸シ人倫ヲ明ニシテ親和ヲ致シ公德ヲ守リテ秩序ヲ保チ責任ヲ重シ節制ヲ尚ヒ忠孝義勇ノ美ヲ揚ケ博愛共存ノ誼(ギ)ヲ篤(アツ)クシ入リテハ恭儉勤敏(キョウケンキンビン)業ニ服シ產ヲ治メ出テテハ一已(イッコ)ノ利害ニ偏セスシテカヲ公益世務ニ竭(ツク)シ以テ國家ノ興隆ト民族ノ安榮社會ノ福祉トヲ圖ルヘシ朕ハ臣民ノ協翼ニ賴リテ彌々(イヨイヨ)國本ヲ固クシ以テ大業ヲ恢弘セムコトヲ冀(コヒネガ)フ爾臣民其レ之ヲ勉メヨ

資料7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                青少年学徒ニ賜ハリタル勅語
        昭和14年5月22日『官報』号外(昭和14年5月22日発行)

國本ニ培ヒ國力ヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ而シテ其ノ任實ニ繋(カカ)リテ汝等靑少年學徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ氣節ヲ尚(タット)ビ廉恥(レンチ)ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽(カンガ)ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮(ムカ)フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ氣風ヲ振勵(シンレイ)シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育勅語と「奉体」「奉安」のシステム

2020年11月09日 | 国際・政治

 明治維新以後、日本は法律や政治制度,文化や生活様式の各領域で,西欧化が進み、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」などと表現される状況があったことはよく知られています。それは、富国強兵や殖産功業を推進しようとする明治政府の政策の結果といってもよいのではないかと思います。
 しかしながら、そうした欧化政策によって広がった西欧の考え方には、明治維新の王政復古の思想とは、相容れないものがありました。だから王政復古によって権力を奪取した薩長を中心とする人たちの明治政府が、自由民権運動などの欧化政策によって広がった思想を抑えようと伝統主義的・儒教主義的な徳育強化に動いたことは、当然の流れであり、それが「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)をもたらしたのだと思います。

 現在は、日本国憲法第26条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という規定があるように、教育を受ける権利は、国民が国に対して要求できる「基本的人権」の一つですが、「教育勅語」は、王政復古の「神話的国体観」に基づいており、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓であるということなので、教育は”国民の権利”になっていないのだと思います。
 「教育勅語」には

我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
 とあることでも、それがわかります。

 日本国憲法の第11条には”国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる”とあり、教育を受ける権利もその一つだと思いますが、天皇主権を定めた大日本帝国憲法における”国民の権利”は、”臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ”とか、”日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ”という制限が設けられているばかりでなく、現在のような”国民の権利”や”人権”に対する考え方とは根本的に異なる考え方に基づくものであったと思います。
 だから、皇国日本における国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するものとして発布された「教育勅語」は、西欧の思想を学んだ人たちや教育の本質を追究した人たちの主張を斥けつつ、日本の敗戦の日まで国民を縛り続けたのだと思います。

 「教育勅語」(朝日選書154)の著者、山住正巳教授によれば、無教会主義で知られるキリスト教の思想家、内村鑑三は、その著書「聖書之研究」(1903年)に「…ここにおいてか日本にはフレーベル、ヘルバルトの教育はもちろん、教育という教育は一つもない事が証明されました。明治政府の施した教育はみなことごとく虚偽の教育であります。これは西洋人が熟禱熱思の結果として得たところの教育を盗み来って、これに勝手の添削を加えて施した偽りの教育であります」と書いて、教育勅語に基づく教育を痛烈に批判したといいます。
 また、いくつかの新聞社を渡り歩いたジャーナリスト桐生悠々は、「他山の石」(1935年)に「国際的に朋友相信ぜず、恭倹己れを持せずして、常に彼を疑い彼を卑しみ、彼を圧迫して顧ないが如きは、決して『世々厥の美を済せる』皇道ではない。重ねていう、『之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らざると言と行とが、真の我皇道でなくてはならない」と教育勅語と当時の対外政策の不一致を批判したといいます。
 そして、”学校教育も、すべて政府の意のままに進行したのではない。国定教科書に拘束されていた小学校でも、これに対する批判的な研究と実践があり、これを抜いては、戦前の教育の事実と問題点もまた明らかにならない。この批判的な言動は、教育と深い関係のある政治や文化のあり方を問い、また子どもの実態に着目するところからおってきた。…”と、例をあげ述べています。
 しかしながら、時の政府は、”我ガ国ノ教学ハ、教育ニ関スル勅語ヲ奉体シ、国体観念、日本精神ヲ体現スルヲ以テ、其ノ本旨トス、然ルニ久シキニ亘リテ輸入セラレタル外来思想ノ浸潤スル所、此ノ本旨ノ徹底ニ於テ未ダ十分ナラザルモノアリ”というようなとらえ方で、そうした動きに政治的圧力を加え、法学や教育学などの社会科学および歴史学や人類学などの人文科学の進歩を阻害し続けたのだと思います。

 だから、「教育勅語」が、今なお、”それは決して半世紀前の過去の遺物になりきっていないといってよい”といわれる状況を踏まえれば、その内容と同時に、当時の「奉体」や「奉安」のシステムなどを通した、日常的な天皇制支配教育の実態を知ることは、大事なことだと思います。 

 下記は、「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)の 『一 「御真影」と「教育勅語」』から、「(二)「教育勅語」について」の部分を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解説 佐藤秀夫                             
                一 「御真影」と「教育勅語」
 
                 (二)「教育勅語」について

                   「教育勅語」とは 
 現在に置いて「教育勅語」は、「御真影」と同様に、多くの人々にとっては、実感の伴わない歴史事象の一つとなっているといってよいだろう。
 ところが、元首相田中角栄からソニー元会長盛田昭夫に至るまで、戦後政財界をリードしてきた実力者たちが、戦後教育への批判を展開する際しばしば、その「不在」こそが批判さるべき教育の現状況を生じさせたのだという嘆息とともに、日本の「古き良き」教育理念として提示するのが、実はこの「教育勅語」なのである。「教育勅語」は保守的支配層の教育への意識の内に澱のようにたまっているのである。少なくともつい最近までは確かに沈澱していたとみてよいだろう。それは決して半世紀前の過去の遺物になりきっていないといってよい。
 天皇制公教育を形成し維持していく上での「至高」の枠組として機能し、したがって学校教育における天皇制支配の最も顕著な表象物であった「御真影」と「教育勅語」とは、「肖像写真」と「文書」という形質上の差異をこえて、その取り扱い方にはかなり重要な差異が存在していたとみるべきであろう。国家元首でありかつ国家神道での「現人神」とされた天皇の肖像写真は、すでに述べたようにまさに「御真影」として礼拝対象とされていたから、それと学校との関係においては、「受動」や「強制」ではなく、「能動」と「自発」とが第一義的に求められた。速やかな普及よりも、自発的な「奉戴」の完全さが、基本的に求められていたのである。
 それに対して「教育勅語」の方は、日本教育の基本理念を体系的に表出した「ことば」であるので、公布と同時に尋常小学校を含む全ての学校に対して一律にその謄本が交付された。その後も新設された学校には、その設立主体の如何を問わずに、文部省から府県当局を通じて、または直接に、この教育勅語謄本が交付された。そこには「強制」と「普及・浸透」の即刻の実現方が求められていた。

               「教育勅語」をどうとらえるか
 従来日本近現代教育史において教育勅語は、大日本帝国憲法が日本国憲法にとってかえられるまで「不磨の大典」とみなされていたのと同様に、教育基本法の公布をみるまで、日本公教育の「真髄」を示す教典として「君臨」し続けたとみなされている。だが、ことばの正確な意味において、果たしてそう規定してさしつかえないものなのか、私は、そこにある種の限定づけが必要なのではないかと考えている。
 ・・・
 上述のように、日本近現代の急激な社会変動に対応した公教育の基本方針を時々の天皇からの詔勅により提示するという方式は、憲法上のいわゆる立法事項に関わるものを除いて、教育法規を勅令・省令等の命令によって制定してきた「教育法規の命令主義」慣行と相まって、敗戦前日本の教育行政管理の他に比類ない国家による中央集権性を根源において支えることになった。同時にこの方式の「定着」により、教育勅語そのものの時代的限界性の露呈と基本原理的虚構の崩壊とが回避されたばかりか、逆に「初発性」の故をもって、その「絶対制」が一層強調される結果をもたらさえしたのである。「綱領」から「聖典」への昇華がみられた。
 こうしてみると、理念面における天皇制の公教育支配を保障してきたものは、1890年公布の教育勅語のみでなく、それを「補強」もしくは「補完」する役割を果たした上述の諸詔勅類を含む一つの「体系」であったとみなければならない。天皇制の教育理念支配の否定を宣言した1948年六月の衆参両院の決議が、教育勅語とともに軍人勅諭・戊申詔書・「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」など「その他の教育に関する諸詔勅」を一括して排除もしくは失効確認したことは、この意味からいってまことに当然な措置であった。近現代天皇制と教育との関係史の考察に当たっては、今後は狭義の教育勅語だけを視野に収めるのではなく、広義の教育勅語といってよい「教育に関する諸詔勅類」を含んだ「体系」を対象としてとらえる必要があるのではないだろうか。
 ・・・

           (三) 「奉体」のシステムと実態とについて

                祝祭日学校儀式をめぐって
すでに(一)において関説したように、「御真影」と教育勅語と学校との関係史における最大の特徴は、その取扱い方 ── 当時の表現では「奉体」──にあったといってよい。肖像写真である「御真影」はもとよりだったが、文書である教育勅語を初めとする詔勅類にあっては、修身科教科書における教材の構成に影響を及ぼす一方、その「奉読」(全学校)や暗唱暗写(主として中等学校)が求められはしたものの、学校教育に与えた影響としては、それらの文章の多義的な意味内容よりも、それらの「存在」そのものが最も深刻で且つ核心的に作動したとみるべきだろう。
 その「存在」が子どもたちにとって最も大きくのしかかってくる機会は、何といっても国家祝祭日の学校儀式であった。「御真影」の「下賜」を契機として国家祝日(とくに紀元節と天長節)における拝礼儀式が導入され、教育勅語の下付を機に国家祝祭日における学校儀式が定例化された。それまで単なる休日であった国家祝祭日は、教員・児童生徒の参加が強制される学校儀式日(式日)に転換されたのである。「御真影」への拝礼、教育勅語の「奉読」、校長訓話、及び祝祭日唱歌斉唱を主な内容する学校儀式の形態は、1891年六月の文部省令「小学校祝日大祭日儀式規定」により最初の定型が与えられた。三大節(紀元節・天長節・一月一日)七祭日(元始祭・神嘗祭(カンナメサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)・孝明天皇祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・秋季皇霊祭 ── もう一つの「新年宴会」には学校儀式は施行しない)全てに挙行された当初の儀式は、あまりにも「頻繁ニ渉リ疎慢ノ嫌アラシムル」結果かえって「厭倦(エンケン)ノ機」を子どもに与える虞れがあるとして、93年五月原則として三大節のみ施行と修正され、この原則は1900年八月「小学校令施行規則」に採用され定着した。慣行化された儀式施行上の細部は、41年四月文部省制定の「礼法要項」によりあらためて定式化され、宮城遙拝や国旗掲揚などとともに「国民礼法」の重要な一部として、小学校のみならず、全ての学校に適用されることになった。
 ・・・
         
              「奉安」のシステム
 「御真影」と教育勅語とが学校に持ち込まれることによって、それらを安全に保管しておくことが学校管理者および教職員にとっての最重要事項として登場することになった。
 教育勅語謄本の下付がほぼ行きわたった91年四月、文部省は第二次小学校令施行上の規則の一つとして定めた最初の「小学校設備準則」において「校舎ニハ 天皇陛下及 皇后陛下ノ 御真並教育ニ関スル 勅語ノ謄本ヲ奉置すへき場所ヲ一定シ置クヲ要ス」と定めた(資料三の六)。これが「奉置」規定の最初であったが、同年十一月に「設備準則」を改正した際に、同準則から「奉置」規定を除いて、独立の文部省訓令第四号により「管内学校ヘ下賜セラレタル天皇陛下 皇后陛下ノ 御影並教育ニ関シ下シタマヒタル 勅語ノ謄本ハ校内一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」と規定し直した(資料三の一七)。同訓令の「説明」によれば、「御真影」教育勅語の「奉置方」については設備準則に「規定スヘキ性質ノモノニアラス」とあり、これは、それらを小学校設備の一種であるかのように取り扱ったことを自己批判」し、「最も尊重ニ」奉置するようあらためて指示したことを意味している。
 天皇制教育の浸透にともない「奉置」は次第に徹底していく。学校では一般に、男性教職員による宿直、女性教職員を含む日直の服務体制を採用して、不時の「災難」に備えることとした。しかしその際に問題になったのは、上記91年文部省訓令第四号にいう「校内一定ノ場所」という制限であった。早くも93年兵庫県から、教職員数が少なく宿直が困難であったり(当時は単級学校、つまり一学級一教員の学校が全国小学校編制の最多数を占めていた)、山里で学校が人家から離れているなどの場合には町村役場など保管体制がしっかり取られ得る施設に「奉遷」してもよいかとの問い合わせがあり、これに対し文部省はやむを得ない場合、学校以外での「奉蔵」を認めた(資料三の三八)。1907年一月仙台しないの宮城県立第一中学校火災の際、宿直中の書記が二階に「奉置」してある「御真影」を運び出そうとして殉職した事件を契機に、仙台市では文部省の認可を得て市内全学校の「御真影」を市役所構内に設置した「堅牢ナル奉安所」に一括保管することとした。
 当初上記訓令中の「校内」が多く「校舎内」と解されていて、しかも小学校は木造校舎が圧倒的であり(鉄筋コンクリート造の小学校は1913年に神戸と横浜に各一校建設されたのが最初である)、児童数の増加に応じて二階建て校舎が増えてきた場合、階上を児童が往来している一階に「御真影」等を「奉置」することがはばかられたので、多くは二階建て校舎の二階に「奉置室」が設けられた。このために学校火災の際、「奉遷」が困難で、教職員の犠牲を生ずる可能性が高かった。1921年一月の長野県南条尋常高等小学校長中島仲重殉職事件はその悲惨な一例だったが、この殉職をめぐる論議においては、危険な「御真影」の「宮内省への奉還」論さえ提唱さてれたほどである。(資料四の(八)四─九)。
 文部省をはじめ府県行政当局は、宿直体制の徹底化(例えば資料三の八九)、管理責任の明確化(例えば資料三の九一)、教職員の奉体実践意識の育成強化(例えば資料三の八八、九〇)などの措置をとったが、他方学校側では「校内」を「校地内」と解釈して、木造校舎から一定の距離を置いた場所に漆喰造、石造など防火性を備えた独立の収蔵施設を設ける方法を取るようになった。鉄筋コンクリート工法が普及しはじめた1920年代後半以降はさらに多くの学校に設けられるようになり、30年代には文部省大臣官房建築課で神社形式の神明造で、防火への配慮のみならず換気装置をも付した模範設計を示すようになる(東京工業大学学校施設研究センター所蔵「菅野誠文庫文書」、宮城県庁文書)。「御真影」教育勅語謄本の「奉置」については、多くの府県で定期的に視学による視察が施行され、その際には湿気による損傷の有無も重要な点検課題とされていたからである。単なる「奉置」ではなく、完全に安全な保管を最重視するという意味での「奉安」という用語が一般化するようになり、それらを考慮した独立の施設は「奉安庫」または「奉安殿」(神明造など神社形式の場合)と呼ばれるようになった。校舎全体が鉄筋コンクリート造となった大都市の学校では、校長室の壁面に特別製の鉄製「奉安庫」を設備することもあった。
 ・・・
 こうして校地内に設置された「奉安殿」に対して、子どもたちは登下校の際に最敬礼することが求められるようになった。これは、折しも頻繁に登場するようになった「宮城遙拝」と符節を合わせて、従来「ハレ」の行事の際に限られていた天皇拝礼の、学校における日常化を意味していた。
 アジア太平洋戦争の末期、日本内地への空爆が必至になると、「奉安殿」の防備と「御真影」等の緊急避難は、学校防護団の重要任務の第一に位置づけられた。大都市をはじめ戦火の予想される地域からの人員疎開が開始されるのと同時に、「御真影」教育勅語謄本の疎開も実施された。都市近郊の安全な地域に臨時の「奉安所」が設立され、関係学校の教職員が交替で保全監視に当たったのである。 敗戦により、軍国主義教育の否定と国家神道の学校からの排除等の連合国軍指令に基づき、学校の軍事教練用武器、戦勝記念戦利品、忠霊碑などとともに「奉安殿」の撤去が占領軍地方軍政当局から指示された。当初文部省は神明造など神社形式の「奉安殿」のみの撤去に応じただけだったが、軍政当局は全ての撤去を強く求めた。四十五年末から四十六年にかけての「御真影」回収と並行して、ほぼ全ての学校での「奉安庫」「奉安殿」の解体・撤去が開始されるが、地域によっては四十八・九年頃までずれ込む場合があった。日本政府が固執していた教育勅語について、四十八年六月国会決議によりその学校からの排除・失効が確認されるや、直ちに謄本の回収・「奉焼」が実施されたので、「奉安庫」「奉安殿」の存在理由は完全に消滅していた。にもかかわらずその撤去の遅延した場合があったのは、設立後数年を経たばかりで破壊するのに忍びない「心情」や、設立費の完済を終えていない時点での解体に対する「ためらい」なども作用していたと考えられる。学校からの撤去の際に、解体ではなく「廃物利用」として、戦災で焼失したり老朽化してしまった神社や稲荷社の神殿に移設・転用された例もみられた。
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「御真影」焼却映像と表現の自由

2020年11月03日 | 国際・政治

 昨年、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」が展示中止となり、様々な議論がありました。
 世界85ヶ国の近現代美術館に関わる560人以上の専門家によって組織された、CIMAM(国際美術館会議)も懸念を表明し、展示中止の一因に芸術祭実行委員会で会長代行を務める河村たかし名古屋市長政治的要望があったことをあげたといいます。
 現実に、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代理を務める河村たかし名古屋市長は、『平和の少女像』だけではなく皇室関連の展示についても問題視し、実行委員長の大村知事に対して『表現の不自由展』の中止を含めた適切な対応を求める抗議文を発したといいます。また、文化庁も補助金約7800万円の全額不交付を決定するに至りました。

 企画展の関係者は、最近公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、どうしして「排除」されたり、展示不許可になったのかという理由をからめて、作品を展示する意図であったと語っています。現状に批判的ではあっても、日本人を侮蔑する意図はないということだと思います。
 私は、あいちトリエンナーレ2019の企画展を中止に追い込んだ人たちに、問答無用の姿勢を感じました。だから、そうした姿勢が、抗議を超えた脅迫等の犯罪行為を生んだのではないかと思います。
 歴史の事実を踏まえ、「表現の不自由展・その後」の展示をしっかり受け止める姿勢がないと、日本は国際社会の信頼を得ることが、ますます難しくなるのではないかと思います。

 敗戦後、日本人戦争被害者のみならず、日本が進出した中国やアジア諸国の被害者、さらには、日本の戦争で犠牲になった欧米諸国の軍人やその関係者および捕虜として苦難を強いられた人々も、大日本帝国憲法で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定められ、日本軍の最高責任者であり続けた昭和天皇を東京裁判で裁くべきだと主張したといいます。当然だろうと思います。でも、アメリカの対日政策によって天皇が免責され、いつの間にか日本では、昭和天皇の戦争責任を追及することはタブー視されようになりました。そして、戦前・戦中、天皇がどういう存在であったのかということは、ほとんど考慮されることがなくなってしまったように思います。

 そうしたことを踏まえ、今回は「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から「御真影」に関する文章の一部を抜粋しました。
 戦前の学校は、「御真影」の「下賜」願い出が求められ、「御真影」の「奉護」を直接の目的として、学校に日直および宿直の制度が導入された事実、「奉安殿」の設置が義務づけられて「御真影」拝礼の学校儀式が行われるようになった事実、さらに天皇自身ではなく「御真影」の「奉護」のために、命を投げ出さざるを得なかった教師がいた事実なども忘れられてはならないことだと思います。
 同書には、

  兵庫県養父郡小佐尋常高等小学校訓導
昭和二年ニ月一日                         井村   毅
                              明治三十九年三月二十八日生   
  学校火災ニ際シ御真影ヲ奉持セシママ火中ニ殉職ス

  大阪府豊能郡熊野田尋常小学校長
昭和九年九月二十一日                       稲久保 正夫
                              明治二十七年十二月一日生
  颱風襲来ニ際シ危険ヲ冒シテ御真影ヲ奉遷シ児童ヲ避難セシムルニ奮闘中講堂倒壊、数名ノ児童ヲ抱キタルママ殉職ス
  
 
 というような事実が、いくつか掲載されています。
 したがって、そういう事実をふり返れば、昭和天皇の「御真影」焼却映像が、日本人を侮蔑するものだというとらえ方は、歴史を無視した一方的なものだと思います。昭和天皇に対する思いは、様々なのです。それを無理矢理、”日本人を侮蔑する”と一つにして、表現の自由を圧殺してはならないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
解説 佐藤秀夫                             
               一 「御真影」と「教育勅語」
     

                (一)「御真影」について

                   「御真影」とは
 ・・・
 「御真影」とは、明治天皇以後の天皇及び皇后以下皇族の公式肖像写真に対する尊称的な通称である。天皇はじめ皇族の個々の独立写真のほか、ヨーロッパの王族の例に模して、天皇と皇后のセット写真もあった(ただし戦前では各「独立写真」の併置に過ぎなかったのだが)。学校に「下賜」された「御真影」には、このセットのものが多くを占めていた。
 ・・・
 ところで、「御真影」は、公式名称ではない。宮内庁(省)は戦前・戦後を通じて、公式には「御写真」(おしゃしん)と呼称している。明治初年からの「御真影」の「下賜」記録文書綴は、「御写真録」の名称をもって、現在宮内庁書稜部に保存されている。それらの例によって、「御写真」が宮内庁(省)の用いる公式名称であると確認される。しかし、本書にみるように、文部省の法規では1900年頃まで「聖影」「御影(ギョエイ・ミカゲ)」などが用いられ、比較的のちになって「御真影」が一般化されるようになるのだが、そうなってのち戦前を通じて教育界では「御写真」という公式名称はほとんど使われずに、「御真影」が専ら用いられた。つまり、「御真影」とは、教育界をはじめ社会的に慣用された天皇・皇后の公式肖像写真であるということになる。
 ところで、通称に過ぎない「御真影」という表現が、あたかも正式名称であるかのように、教育界をはじめ広く「世間」で慣用されるに至ったのには、近現代天皇制のすぐれて特殊な性格が色濃く影を落としていると考えられる。「聖影」「御影」などと同じく「御真影」とは、元来仏教界において、仏舎利・仏像と並ぶ仏陀の画像または宗派・本山などの開祖・始祖等の公的肖像画を意味しており、それらは、宗派全体若しくは本山にとって「本尊」風の偶像として拝礼対象とされ、きわめて大切に護持されている。しばしばそれは、特定の日限に一定の資格ある信者に対してのみ限定的に「御開帳」が許されるような「秘宝」でもあった。天皇の公式肖像写真が、国家祝祭日学校儀式において拝礼対象として「偶像化」されるのに照応して右のような仏教での伝統的な慣用例に準拠して「御影」「御真影」などと通称されるようになったのではないかと推測される。そうだとすれば、「御真影」という通称は、まさに「体」を表した「名」ということになり、またそのような通称を生じさせた近現代天皇制の独特な性格を表示しているといえる。近現代天皇の肖像は、それが模倣したヨーロッパ近代王政下の君主たちの肖像と異なって、通貨や切手への印刷は禁じられていたし、新聞・雑誌・図書などへの印刷・掲示も厳重に制限されていた。国定教科書の挿し絵に天皇の容姿や肖像が歴然と掲載されることすら、ほとんど稀であった。まさに民衆に対しては「御真影」に他ならなかったのである。
 ・・・
             学校と「御真影」との出会い
 この「御真影」は、幕藩権力にかわる天皇制権力による統治体制成立の表象として、1870年代以後、府県庁など地方官庁、及び師団本部・軍艦など軍施設を皮切りに、政府関係諸機関に交付されていった。これは、新政府が天皇を頂点にいただく政府であることの証左を示すとともに、その新統治体制の発足を下僚及び国民に視覚を通して確認させる、「文明」的手段であったと考えられる。また外国からの使臣に対しヨーロッパ王制国家の例に倣って頒賜(ハンシ・ワカチタマウ)されることもあった。学校への下付の最初は、1874(明治七)年六月、ようやく専門教育機関としての体裁を整えつつあった東京開成学校に対してであったが、それは、上述の政府諸機関への交付と同質な意味をもつ措置であって、特定の「教育」目的を帯びての学校交付ではなかったとみるべきであろう。
 すでに70年代地方官に交付された「御真影」が、日時を限り府県庁楼上に掲げられ、地方民の拝礼を受ける事例が見られたが、立憲制樹立直前の80年代後半、「君臣接近」実現の手段として、従前とは異なった「教育」目的を帯びた、「御真影」の学校への導入が実施されるようになった。天皇の「地方行幸」が一段落をみた時期に、今度は学校を通じてその存在を若い世代に周知させようと企図されたのである。
 琉球処分により新領土に編入されてほどない沖縄県の、しかも「普通教育の本山」とされた師範学校に対して、1886(明治19)年九月天皇・皇后の「御真影」が「下賜」された。これを最初にして、「御真影」は、全国の同府県立師範学校・尋常中学校に対して文部省の仲介により宮内省から同府県を経由して、翌年末までにひとしなみに「下賜」されるに至った。官立学校への下付はすでに終わっていたから、同府県立校をさきがけとして今回は公立学校へも「御真影」が「下賜」されるようになったのである。これは、国の機関以外の公立機関への「御真影」一律「下賜」の、ほとんど最初の事例として特徴的であった(当時の府県庁は国の機関であった)。その立案者及び推進者は、内閣制度発足に伴い、初代文部大臣に任用された森有礼である。
 文相森は、大日本帝国憲法発布が日程に上り始めた1888(明治21)年一・二月ごろ、今後国家祝日(紀元節と天長節)には、学校に教員・生徒たちが集合し、祝日唱歌の斉唱および校長訓話などからなる学校祝賀儀式を施行し、「忠君愛国の志気」を生徒たちの内面に育成させるよう示唆した。そのための条件設定として、文部省は同年二月に「紀元節歌」(高崎正風作詞・伊沢修二作曲)、十月に「天長節歌」(黒川真頼作詞・奥好義作曲)の楽譜を「学校唱歌用」に府県へ送付する一方(ただし一府県当り十五部程度の少数部数に過ぎなかった)、府県立学校関係者に対し天皇・皇后の「御真影」の「下賜」方を願い出るように求めた。森は、幕藩的忠誠関係意識や封建共同体的帰属意識に替わる近代的集団意識の育成を通じて子どもたちへの国家帰属意識形成ををめざして、かねてより学校のもつ集団性訓練機能に着目していたが(尋常小学校を除く中等レベルの学校の男子生徒に兵式訓練を導入し、とりわけ普通教育のあり方を左右するものとして重視した師範学校には軍隊風の生活管理や寄宿舎生活を組織させた)、ナショナリズムまたはパトリオティズムの直接的な育成には、とくに唱歌を伴う儀式が効果をもつものと判断していた。
 ・・・
 また、本来は「アンシャンレジームから解放された」「市民」の自発性に立脚しているが故に強固とされる、欧米ナショナリズムやパトリオティズムへの「類似」を求める見地から、儀式施行の前掲条件となる「御真影」の交付に当たって、学校関係者からの自発的な願い出に対する天皇制の「特別」な「思し召し」に基づく「下賜」という手続きを必須とした。この手続きは、後述する教育勅語謄本の強制的交付とは対照的に、以後学校への「御真影」下付が廃止される日まで一貫して維持されることになるのであった。
 
              学校への「御真影」の普及

 「差別の体系」に他ならない君主制に依拠するものであるからには当然に、「御真影」の交付は、学校制度体系上での「高き」から「卑き」へ、国家機構上での「近き」から「遠き」へと位階的に推移していく。「御真影」が「下賜」され得る学校の範囲は、近代教育制度の展開過程に応じて次第に拡散されていく結果になるのだが、その実現は決して一挙にではなく序列的な「漸進」の過程をとった。
 ・・・
 とはいうものの、市町村立小学校の圧倒的多数を占める尋常科・簡易科等への「下賜」は、容易に進まなかった。教育勅語(当時は「徳育ニ関スル勅諭」案)起案が極秘裏に進行中だった1890(明治23)年八月当時、文部省は宮内省に対し「自今高等小学校ノミニ限ラス市町村立各小学校幼稚園等ニ至ルマテ御真影拝戴願出候向ヘハ下賜セラレ職員商都ヲシテ崇拝セシメ忠君愛国ノ志気ヲ涵養セシメ候様致度」と照会したが、同年十月宮内省は次のように回答した。

”即今公立各小学校一般ヘ下賜之儀ハ難相整候ヘ共御来意之趣教育上必要之儀ニ付特別ヲ以テ市町村立尋常小学校幼稚園ニ限リ其校園等ノ費用ヲ以テ近傍ノ学校ヘ下賜セラレタル御真影ヲ複写シ奉掲候儀ハ被差許候条此段及回答候也(「宮内庁書陵部所蔵」)”

 すなわち、すべての公立小学校・幼稚園への正規の「御真影」の「下賜」は「難相整候」としたが、「御真影拝戴」方自体は「教育上必要之儀」なので、近くの学校に「下賜」された「御真影」を各校園の経費負担により複写して、式日等に「奉掲」することは「差許」としたのである。 
 ・・・

            「御真影」「下賜」のシステム

 先述のように、官立学校や天皇との「特別ノ由緒」ある場合を除いて「御真影」の学校「下賜」には、「基礎鞏固」「設備整頓」「成績優良」な学校からの、自主的で「熱意」あふれる願い出を必須の前提とし、その「熱意」に対し当該校の「優等」さを「御嘉納」遊ばされた天皇の「優渥ナル思召」を以て、同校とくに「下賜」されるという仕組みが、ほぼ例外なく採用されていた。強制性の外貌をとらないという点において、「御真影」は、後述の教育勅語とははっきりと異なっていた。「御真影」には、「下賜」のみがあって、「下付」はそもそもありえなかったのである。
 「成績優良」校への「表旌(ヒョウセイ)」および「恩賞」であるからには、その「表旌」は一律平等であっては効果に乏しいばかりでなく逆効果を生じかねない。申請資格に「一視同仁」の平等化を招来したといっても、「下賜」自体には「表旌」と「恩賞」という限定的な「慈恵」性が不可欠とされた。かくして、1930年代以降には各種学校や夜間中学校・小学校併設青年学校などを除く、他のほとんど全ての学校に「御真影」が行き亘って、いずれの学校もひとしなみに「成績優良」の「表旌」を蒙るという、「おめでたい」境地を享受することになった。
 でもこの自発的願い出を必須としたことは、学校側に深刻な対応を迫る場合があった。「下賜」申請の資格を認められながら申請しないこと、それは天皇からの「表旌」や「恩賞」の機会を自ら「放棄」することを意味し、その「放棄」は「拒否」を含意するものと教育行政当局から判断される危険を伴いかねなくなったからである。
 「御真影」「下賜」が官公立校に限定されている間は、右の問題は顕在化しなかったのだが、私立学校一般に「下賜」対象が拡大されるに伴って、偶像崇拝を教義上否定するキリスト教学校、とりわけ国家主義的教育体制のもとでとかく胡散臭く見られがちな外国ミッション系統のキリスト教主義学校にとって、「御真影」への対応如何は、当該学校の存亡に関わる重大事と意識されざるをえなくなった。

 学校への「御真影」下付は、学校の設備や運営・管理体制に少なくない影響を与えた。
 第一は、その安全な保管、当時のことばでいえば「奉安」のための施設の設備である。その概略については後述することとしたいが、「校内ノ一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」とされた「奉安」体制の主眼点は、コピー(謄本)にすぎない教育勅語謄本もさることながら、天皇・皇后の「分身」とみなされていた「御真影」(しかも「複写」ではない正規の「御真影」)におかれていたとみるべきであろう。本書四の(八)に掲げた資料が語るように、「奉護」の犠牲となった教職員の多くは、どちらかといえば教育勅語謄本よりも、「御真影」を念頭に置いて行動していたと考えられるのである。
 
 第二は第一と関連するが、「御真影」の「奉護」を直接の目的として学校に日直および宿直の制度が導入されたことである。「御真影」を不時の災厄から安全に守るために、昼間は女性を含む教職員、夜間は男性教職員が、それぞれ交替して学校に当番することが求められた。教職員の宿日直制については、「御御真影」が学校から姿を消した第二次大戦後もしばらくの間は、校舎や記録の警備、不時の連絡、時間外文書の授受などの理由を付して慣習的に施行されていたのだが、その創設の第一次的な理由は、「御真影」および教育勅語謄本の「奉護」にあったのである。それらが消えたのち、教職員組合の教職員勤務条件改善の要求に沿って、1960年代以降教職員による宿日直制は全国的に廃止の方向をたどった。
 以上の普遍的で直接的な影響と並んで、公立の初等教育学校における「御真影」の存在が果たした「陰」の役割も無視できない。…何らかの紛争が発生しかけたとき、「畏れ多くも御真影を奉安する学校に対して、云々」の発言がことを収めてしまう場合があり、その点をさして戦前のしたたかな学校運営当事者の中には、「御真影」や勅語謄本をして(畏れ多くも!)「濡れ雑巾」(燃え上がらないうちに危険な火の手を消してしまう、「初期消火」に役立つ)と隠語するものさえいたといわれる。 一方、それが、そのような「したたかさ」を身につけていない「真面目な」教育者たちをして「天皇制教育」に挺身させる結果を生みだしたことも無視できないだろう。貧しい物的条件のもとで教育の実践に努力する教員たちに、「御真影」「下賜」のもつ「表旌」が「心の支え」となる場合があったからである。最も「権威」あるが故に最も「安上り」のキャナライジング装置として、それは機能していった。 
 このように学校の「本尊」であったということは、同時に学校内外での紛争の発生に伴い、それがしばしば抗争の手段として「利用」されることをも意味していた。校長または学校当局を窮地に追い込むために、また金銭略取などの脅迫手段としての、「御真影」教育勅語謄本などの紛失、盗難事件は、戦前を通じてしばしば発生した。尤も、紛失や窃盗、その結果としての焼却や破棄などの「荒っぽい」手段は、単に管理責任者を窮地に追い込むだけでなく、実行行為者にも刑事罰の追及が及ぶ危険性を含んでいる。
 ・・・
 文部省や道府県当局は、当然に「御真影」教育勅語謄本の「奉安」方を厳重に督励した。その結果として、「奉安」失態への「恐怖」=「不敬」への強迫観念から、災害時での過剰「奉安」=教職員の殉職が、ニ十件以上にもわたって生起することになった。〔本書四の(八)〕。それらの悲劇性は、その行動が「教育者精神」の発露として「表旌」されることにより、一層増幅される結果をもたらした。なかには、「御真影」教育勅語謄本に直接関わらない単なる殉職であったにもかかわらず、学校・行政当局・肉親などによって、「御真影」勅語謄本警衛と結び付けて「美談」化する事例もあった。そこには、本人の人柄の「顕彰」という単純な意図の他に、遺族への援助もしくは補償をより「容易」に調達し得るとの「計算」「教育者精神」「忠君」「自己犠牲」などの教材化政策などが複雑に作用していた。(例えば、岩本努『「御真影」に殉じた教師たち、』)。

              学校からの「御真影」の撤去

 第二次大戦の敗戦は、近代天皇制にとっての最大の危機を意味した。「国体護持」を目的としたポツダム宣言の受諾を決断した日本政府にとって、天皇制の戦争責任を連合国側がどのように追及するかは最大の関心事であった。
 学校の「御真影」に関していえば、陸軍大元帥大礼服を着用した天皇の写真が、無条件降伏下で軍が全面武装解除し解体してしまった状況にふさわしくないばかりか、まさに大元帥としての責任問題を想起させる危険性を帯びていた。加えて、国家神道解体についてのGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)指令(1945年12月)により、宗教儀式性をもっていた「御真影」拝礼の学校儀式の施行が、多く神社形式(神明造)をとっていた上にそれ自体が厳重な拝礼対象とされていた「奉安殿」の存在と同様に問題視されるのは必至となった。宮内庁省は45年11月、天皇服制の改正に伴い、新服制による写真に取り替えるためを理由として、従前の大元帥大礼服「御写真」を回収するとの次官通牒を発し、これを受けて十二月文部省は学校に「御真影」「奉遷」と、来る一月一日学校儀式での旧「御真影」の「奉掲」を禁じる旨とを、地方長官に通知した。
 こうして、1874(明治7)年以来約七十年に及ぶ学校における「御真影」存在の歴史に終止符が打たれることになった。学校「御真影」の回収(「奉遷」)は、45年12月後半から翌6年2月頃までにかけて、ほぼ全国一斉に施行された。回収された「御真影」は、公立校分は道府県の責任により、官立校分は文部省の責任をもって、それぞれ「奉焼」された。「奉焼」に際しては、「現下ノ国内ノ情勢ニ鑑ミ努メテ内密ニ執行ハシムルベキハ勿論ナルモ之ガ実施ニ当タリテハ尊厳鄭重苟モ軽ニ失スルガ如キコト無キ様」にと指示された(46年1月宮内次官通牒)。そこで例えば、府県庁裏手の空き地に深い穴を掘りその穴の中で密かに焼却するなど、なるべく人目に付かないよう配慮して実施された。
 ・・・以下略

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする