真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO1

2019年04月30日 | 国際・政治

 明治維新は、まるで「日本の夜明け」の始まりであるかのようの語られ、また、多くの日本人が、そのように受け止めているのではないかと思います。確かに明治時代、多くの分野に西洋の文明が入ってきて、身の回りの物や生活習慣、諸制度が大きく変化したので、そういう側面があることは否定できません。

 しかしながら、見逃してはならないのは、「尊王攘夷」を掲げ、嘘と脅しとテロによって幕府を倒した薩長および討幕派公家を中心とする政治勢力が、権力を手にして作り上げた日本は、自由や人権が制限され、戦争に突き進むことを止めることが出来ない「天皇主権」の日本であったという政治的側面です。そして、その天皇主権の日本は、先の大戦における敗戦まで変わることはありませんでした。だから、「日本の夜明け」などといえるようなものではなかったのだと、私は思います。
 明治政権は、批判を許さない体制を整えつつ、膨張政策をとり、琉球を強制併合した後、台湾出兵、江華島事件、朝鮮王宮占領、日清戦争、日露戦争、日韓国併合、山東出兵…、など武力衝突をくり返しました。そして、そうした姿勢が、日本の敗戦に至るまで変わることがなかったことを考えれば、明治維新は日本の敗戦への歩みの始まりではなかったのか、と私は思うのです。

 下記に抜粋した文書が示すように、薩長および討幕派公家を中心とする政治勢力による天皇の「政治利用」の意図は明白です。そして、それが批判や反対を許さない体制をつくるための手段であった側面を、私たちはしっかりおさえておくことが大事ではないかと思います。

 資料1の1「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」は、岩倉具視が王政復古の必要性を公家中山忠能を通じて満14歳で践祚の儀を行った明治天皇に伝えた文書で、王政復古の計画がすべて薩長および討幕派公家を中心とする政治勢力によって進められていたことがわかります。王政復古は”宸断”(天皇の判断)などではないということです。また、ここで示されている幕府の評価は、当時の状況を考慮しない一方的なものだと思います。でも、天皇が裁可を拒否することはあり得ない状況だったのではないかと思います。

 資料1の2「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」は、やはり岩倉具視が「討幕の密勅」を玉松操に書かせ、公家中山忠能を通じて明治天皇に伝えたことを記した文書です。天皇に報告はされていたようですが、すべて一部の人達によって秘密裏に話しが進められており、「勅命」などといえるものではないことがわかります。天皇は政治的に利用されていたに過ぎないということです。

 資料1の3「小御所会議ノ事」は、岩倉具視が山内容堂を叱責した有名な場面が記された文書です。山内容堂の発言は、当時の情勢をしっかり把握した正しいものだったのだと思います。だから、容堂の発言に対する岩倉や大久保の反論は支持を得られず、討幕派内容堂を脅すことによって、その主張を通したのだと思います。また、丁卯日記では、容堂の発言に最初に反論したのは、大久保一蔵で、それに続いたのが岩倉でしたが、「岩倉公実記」では、それが逆転しています。理由はよくわかりませんが、何か怪しげな意図を感じます。

 資料2「巻七 慶応三年  四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」は、長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡ですが、討幕派の本音をうかがい知ることが出来る、きわめて重大な文書です。そして、その本音は、

至其期其期に先じ而甘く 玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…” 

ということなのです。
 天皇は「」と表現されていますが、玉を我方へ抱き込むことが何より大事で、敵とする幕府側に万が一にも天皇を奪われてはならないという意味だと思います。自らの倒幕計画を「芝居」と表現しており、天皇を奪われたら、その芝居が大崩れとなって、滅亡の危険があるというわけです。天皇を政治的に利用しようという意図が明白です。

 資料1の1,2,3は「岩倉公実記」中巻(明治百年史叢書)から、資料2は「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)から抜粋しました(但し、返り点などは表示できず、省略しています)。


資料1の1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事

具視王政復古大挙ノ議ヲ書シ中山忠能ニ託シテ之ヲ密奏セシム其文ニ曰ク
 方今海外万国大小ト無ク国力ヲ挙ケテ富強ノ術ニ致シ人智日々相開ケテ万里ニ雄飛シ宇内之形勢大ニ一変ス是時ニ当リ皇国ノ政体制度御革新万世ニ亙リ万国ニ臨ミ天地ニ愧ツ可カラサルノ大条理ヲ以テ不抜ノ御国是ヲ確立シ衆心一致皇威ヲ内外ニ宣揚シ中興ノ御鴻業ヲ施行セラルゝハ至大至要ノ急務ト奉存候抑皇家ハ連綿トシテ万世一系禮樂征伐朝廷ヨリ出テ候而純正淳朴ノ御美政万国ニ冠絶タリ然ルニ中葉以降覇府大柄ヲ掌握シ文武分岐シ天下ノ大勢古代トハ一変シ朝廷ハ全ク虚器ヲ擁セラルゝノ姿ニテ万民ハ上ニ天子アルヲ知ラサルノ陋習ト相成リ愧ツ可ク歎ス可キノ甚キモノニ候夫レ国家綱紀ノ弛張人心ノ離同ハ名ヲ正スニ始マリ候ハ古今ノ通論ニ候処近年幕府ニ於テ失政尠カラス外ハ各国ノ条約締結内ハ長防ノ処置等総テ朝廷ヲ脅制シ奉りテ列藩ノ公議ヲ排斥シ放肆(ホウシ)縦横ノ政令ヲ施行シ人心離叛禍乱相踵キ遂ニ今日ノ体ニ陷溺(カンデキ)シ尚此上私心ヲ以テ偏執邪曲ノ政令陸続ト出テ暴威鴟張相成候テハ全ク朝廷ヲ擁スルノ姿ニテ一令相発スルトキハ一激ヲ増スノ人心ニ候ヘハ約リ寶祚(ホウソ)ノ御安危ニ相カイギ係リ候ハ必然ノ御儀ト不堪苦心之至候仮令(ケリョウ)一時無事ナリトモ目今万国ノ交誼天地公道ノ在ル所ヲ以テ和戦ヲ決シ進退ヲ定ムルノ際ニ当リ斯ル名分紊乱ノ制度ヲ以テ万国ト御対峙ハ相成リ難キノミナラス皇国内ノ人心ニ於テモ亦片時モ居合相付キ難ク内外実ニ容易ナラサル危急ノ御大事切迫ノ御時節ナルヲ以テ断然ト征夷将軍職ヲ廃止セラレ大政ヲ朝廷ニ収復シ賞罰ノ権与奪ノ柄皆朝廷ヨリ出テゝ大ニ政体制度ヲ御革新在ラセラレ皇国ノ大基礎ヲ確立シ皇威恢張ノ大根軸ヲ確定セラレ度非常ノ御英断ヲ以テ速ニ朝命降下相成候様奉願候事
   十月                                                 臣 友山
 忠能之ヲ御前ニ上ツリテ具サニ薩摩長門安芸三藩決議連盟ノ顛末ヲ奏ス上之ヲ嘉納シ給
資料1の2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事
初メ具視カ中山忠能正親町三条實愛中御門経之之ト共ニ討幕ノ順序ヲ商議スルヤ詔書ヲ薩摩長門安芸三藩ニ降下センコトニ決定ス而シテ安芸藩ハ仍ホ顧慮セサルヘカラサルノ形情アルヲ以テ其議ヲ換ヘ先ツ薩摩長門二藩ニ降下センコトニ更ム具視乃チ玉松操ヲシテ詔勅ヲ草セシム是ニ於テ忠能之ヲ密奏シ宸裁ヲ経タリ十月十三日忠能将サニ毛利敬親父子官位復旧ノ宣旨ヲ廣澤兵助ニ授ケントス會マ新選組浪士中山邸ノ門前ニ徘徊シ諸藩人ノ其門ニ出入スルモノヲ偵察ストノ密報アリ忠能俄カニ手翰ヲ具視ニ寄セテ宣旨ヲ兵助ニ授ケンコトヲ託ス具視乃チ兒八千丸(後ニ具経ト名ツク)ヲ中山邸ニ遣リ其宣旨ヲ受ケシム忠能之ヲ八千丸ニ授ク八千丸即チ之ヲ襯衣(シンイ)ノ背面ニミ密蔵シテ以テ帰ル八千丸ハ総角ノ童子ニシテ他ノ嫌疑ヲ避クルニ便ナルヲ以テノ故ナリ此夜具視ハ大久保一蔵兵助ヲ寺町ノ本邸(寺町出川下ル里町実相院跡ノ坊)ニ召シ語ルニ証書ヲ安芸藩ニ降下セサルノ事情ヲ以テス乃チ男具綱孫具貞ニ命シ敬親父子官位復旧ノ宣旨ヲ兵助ニ授ケシム其文ニ曰ク
                                                 毛利宰相
                                                 同  少将
 戌午以来邦国多事天歩艱難之砌(ミギリ)東西周旋其労不尠候處幕府讒構(ザンコウ)百出遂ニ乙丑丙寅之始末ニ及候得共従来為皇国竭忠誠候父子至情徹底於先帝顧命之際□深被留叡慮候依之今般御遺志御継術本官本位ニ被復候間速ニ可有入朝愈以干城之勤不可怠旨御沙汰候事
                                                  忠能
         慶応三年十月十三日                            實愛
                                                   経之
兵助感泣シテ去ル翌十四日實愛ハ一蔵兵助ヲ其邸ニ召シ徳川慶喜ヲ討ツノ詔書並ニ松平容保松平定敬ヲ誅スルノ宣旨ヲ授ケ且錦旗(此時錦旗ノ製作未タ成ラサルヲ以テ目録ノミヲ授ク)ヲ賜フ長門藩ニ授ケル詔書ニ曰ク       
                                        参      議 大江敬親
                                        左近衛権少将 大江廣封 
 詔源慶喜借累世之威恃闔族之強妄賊害忠良。数棄絶王命遂矯先帝詔而不懼。擠万民於溝叡而不顧。罪悪所至。神州将傾覆焉。朕今為民之父母。是賊而不討。何以上謝先帝之霊。下報万民之深儺哉。是朕之憂憤所在。諒闇而不顧者。萬不得已也。汝宜体朕之心。殄戮賊臣慶喜。以速奏囘天之偉勲而措背イ霊干山獄之安。此朕之願。無敢或懈。
                                         正二位   藤原忠能
   慶応三年十月十四日                        正二位   藤原實愛
                                        権中伊佐氏納言  藤原経之
薩摩藩ニ授クル詔書ニ曰ク                         
                                        左近衛権中将 源久光
                                        左近衛権少将 源茂久
 詔源慶喜藉累世之威(以下前同文之ヲ略ス)
長門藩ニ授クル宣旨ニ曰ク
                                        会津藩宰相
                                        桑名藩中将
 右二人久滞在輦下助幕賊之暴其罪不軽候依之速可加誅戮旨被仰下候事
              忠能
     十月十四日                                            實愛
                                                         経之
長  門   宰 相 殿
       同       少 将 殿
薩摩藩ニ授クル宣旨ニ曰くク
                                         会津藩宰相
                                         桑名藩中将
 右二人久滞在輦下(以下前同文之ヲ略ス)
實愛ハ薩長ニ藩ヨリ奉命書ヲ上ランコトヲ命ス此夜一蔵来り具視ニ謁シテ奉命書ヲ上ツル其文ニ曰ク
 当節不容易御危急之砌為皇国不被為顧忌諱御内々御尽力確定不抜之叡慮被為伺取勅書降下両藩深御依頼被為思食候御旨趣奉謹承卑賤之小臣等不奉堪感激流涕奉存候早々寡君江報知決定之宿志益以貫徹仕抛国家堂々大挙仕可奉安宸襟候此段盟天地御受仕候誠惶頓首
                                         廣澤 兵助
                                         福田 俠平
     品川弥二郎
   慶応三年丁卯十月十四日                      小松 帯刀
                                         西郷吉之助
                                         大久保一蔵
      中  山  前大納言様
      正親町三条前大納言様
      中 御 門 中納言 様
      岩  倉  入  道 様
具視乃チ忠能實愛経之ニ囘示ス忠能之ヲ奏覧ス中外絶テ知ルモノナシ
資料1の3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                         小御所会議ノ事
 九日夜小御所ニ出御総裁熾仁親王、議定晃親王、嘉彰親王(是時純仁親王勅命ヲ承ケ復飾シ今ノ名ニ更ム)中山忠能、正親町三条實愛、中御門経之、徳川慶勝、松平茂勲(浅野長勲)、松平豊信(山内容堂)、松平茂久(島津忠義)、参与大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、具視、橋本実梁ヲ御前ニ召サセラレ会議ヲ開カシメ給フ尾張藩丹羽淳太郎、田中邦之助、越前藩中根雪江、酒井十之丞、土佐藩後藤象次郎、神山左多衛、安芸藩辻将曹、桜井與四郎、薩摩藩岩下佐次右衛門、西郷吉之助、大久保一蔵亦命ヲ承ケ藩列ニ陪ス忠能勅旨ヲ宣ヘテ曰ク徳川内府政権ヲ奉還シ将軍職ヲ辞スルヲ以テ其請ヲ允シ給フ因テ王政ノ基礎ヲ肇設シ万世不抜ノ国是ヲ建定シ給ハントス各階聖旨ヲ奉戴シ以テ公議ヲ盡クスヘシ豊信先ツ議ヲ発シテ曰ク速ニ徳川内府ヲ召シテ朝議ニ参与セシムヘシ重徳之ヲ駁シテ曰ク内府ハ政権ヲ奉還スト雖其意果シテ忠誠ニ出ツルヤ否ヲ知ラス姑ク朝議ニ参与セシメサルヲ以テ善トス豊信之ヲ抗弁シエ曰ク今日ノ舉頗ル陰険ニ渉ル諸藩人戎装シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不詳尤甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ帰服セシムル能ハサラン元和偃武以来幾ント三百年ニ近シ海内ヲシテ太平ノ隆治ヲ仰カシムルモノハ徳川氏ナリ一朝故ナク其大功アル徳川氏ヲ疏斥スルハ何ソ其レ少恩ナルヤ今ヤ内付カ祖先ヨリ継承ノ覇業ヲ抛チ政権ヲ奉還セシハ政令一途ニ出テ以テ甌無缺ノ国体ヲ永久ニ維持センコトヲ謀ルモノニシテ其忠誠ハ洵ニ感歎スルニ堪ヘタリ且内府カ英明ノ名ハ既ニ天下ニ聞ユ宜ク速ニ之ヲシテ朝議参頂シ以テ意見ヲ開陳セシムヘシ而ルニ二三ノ公卿ハ何等ノ意見ヲ懐キ此ノ如キ陰険ニ渉ルノ挙ヲナスヤ頗ル暁解スヘカラス恐ラクハ幼冲ノ天子ヲ擁シテ権柄ヲ窃取セント欲スルノ意アルニ非ラサルカ誠ニ天下ノ乱階ヲ作ルモノナリ豊信気騰リ色驕ル傍若無人ノ状アリ具視之ヲ叱ツテ曰此レ御前ニ於ケル会議ナリ卿当サニ肅槇スヘシ聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ツ妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス何ソ其レ亡礼ノ甚シキヤ豊信恐悚シ失言ノ罪ヲ謝ス慶永之ヲ論シテ曰ク王政施行ノ首ニ於テ刑名ヲ取リ道徳ヲ棄ツルハ甚タ不可ナリ徳川氏二百余年ノ太平ヲ開ク其功ハ今日ノ罪ヲ償フニ足ル宜ク容堂ノ言ヲ容ルゝヘシ具視之ヲ駁シテ曰ク家康公カ天下ニ覇タルヤ世ヲ太平ニ致シテ蒼世ヲ利済ス其功徳固ヨリ小ニ非ス而ルニ子孫ハ祖先ノ遺烈ニ藉リ権勢ヲ怙ミ上ハ皇室ヲ凌罔シ下ハ公卿侯ヲ劫制ス君臣ノ義ニ乖キ上下ノ分ヲ乱タス年既ニ久シ且嘉永癸丑以来勅命ヲ蔑如綱紀ヲ敗壊シ外ハ専断ヲ以テ欧米諸邦ト通信貿易ノ約ヲ立テ内ハ暴威ヲ振テ憂国ノ親王公卿諸侯ヲ廃錮シ勤王ノ志士ヲ?害ス継テ無名ノ師ヲ興シテ長防ヲ再征シ怨ヲ百姓ニ結ヒ禍ヲ社稷ニ帰ス其罪亦大ナリ内府果シテ反省自責ノ心ヲ懐カハ当サニ速ニ官位ヲ辞退シ土地人民ヲ還納シ以テ大政維新ノ鴻図ヲ翼賛スヘシ今政権ノ空名ノミヲ奉還シ手土地人民ノ実力ヲ保有ス其心術ノ邪正ハ掌紋ヲ指スカ如ク明瞭ナリ何ソ遽ニ之ヲ召シ朝議ニ参頂セシム可ケンヤ朝廷当サニ先ツ内府ニ暁諭スルニ官位辞退ト土地人民還納トノ二事ヲ以テシ其反省自責ノ実効ヲ徴スヘシ之ヲ召シ以テ朝議ニ参頂セシムルカ如キハ其実効ヲ立ツルト否トニ由リ始メテ決定ス可キナリ一蔵席ヲ前メ具視ニ左袒シテ曰ク土越二公ノ議ハ未タ以テ徳川公心術ノ邪正ヲ剖析スルニ足ラス徒ニ空論ヲ以テ之ヲ争ハンヨリハ寧ロ之ヲ実行ニ徴スルニ如カス岩倉公カ論ノ如ク官位辞退ト土地人民還納トノ二事ヲ徳川公ニ暁諭シ給ヒ徳川公果シテ之ヲ奉承セラルゝコト有ラハ則チ其心忠誠ヲ存スルモノナリ宜ク之ヲ召シテ朝議ニ参頂セシメラルヘシ又之ヲ奉承セラルゝコト無キトキハ則チ其心譎詐(キッサ)ヲ懐カルゝモノナリ宜ク速ニ其罪ヲ聲ラシテ之ヲ討伐セラルヘシ象次郎亦席ヲ前メ慶永豊信ノ議ニ賛同シ頗ル之ヲ論弁ス忠能ハ慶勝ニ問テ曰ク卿カ意見ハ如何慶勝答テ曰ク春嶽容堂ト同論ナリ忠能之ヲ茂久ニ問フ茂久答テ曰ク岩倉前中将ノ論ノ如ク之ヲ行フニ非サレハ王政ノ基礎ヲ固ムルコト能ハス忠能乃チ座ヲ起チ将サニ實愛博房信篤ト私語セントス具視之ヲ搤止ッシテ曰ク聖上親臨シ群議ヲ聴キ給フ諸臣宜ク肺肝ヲ吐露シ以テ当否ヲ論弁スヘシ何ソ漫ニ席ヲ離レテ私語スルヲ用ヰンヤ上弁論ノ未タ盡キサルヲ見給ヒ少時休憩ヲ命シ給フ具視退キ休憩室ニ入リ独リ心語ス豊信猶ホ固ク前議ヲ執リ動カサレハ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ乃ち非蔵人に命し茂勲ヲ喚ハシム茂勲ニ至リ座ニ著ク具視ニ謂テ曰ク予ハ卿カ論ヲ以テ事理当然トス今マ辻ニ命シ後藤ヲ諷喩シテ卿カ論ニ従ハシメンコトヲ図ル後藤若シ之ヲ肯ンセサルトキハ予ハ飽クマテ容堂ト抗弁シテ已マサラントス将曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次郎ニ諷喩スルニ具視ノ論ニ対シ抗議スルノ不利ナルコトヲ以テス象次郎大ニ悟ル是ニ於テ象次郎ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ説キ曰ク前刻主張セラルゝ所ノ尊議ハ恰モ内府公カ詐謀ヲ懐カルゝヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ既ニシテ上再ヒ出御アラセラレ親王諸臣ヲ召シ会議ヲ継カサシメ給フ豊信心折レ敢テ復タ之ヲ争ハス朝議遂ニ決ス蓋シ具視ノ論旨ニ従フナリ熾仁親王進ンテ御前ニ候シ以テ宸断ヲ仰ク上之ヲ可シ給フ時已ニ三更ヲ過ク
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          巻七 慶応三年    四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日

   乱筆御免御熟読後御投火可然と奉存候 
頓に御着京引継ぎ不一形御尽力と想察仕候爰元も其後無相変且々芝居之手筈而已に乍不及骨折申候干時過る十八日夜御堀ども芸より帰り直に様子承り候處誠に大緩み之体に而諸事不都合不少切迫に相論じ漸先き之手筈相詰め早々罷帰候處其後津和ノ藩之人芸要路に面会之處此度幕より達有之長上坂先見合居候と申事に付決而上坂は有之間敷く只今上坂而も名義が不立と歟甚迂論申立候由右達面も御堀罷越居候ときは更に噂も不致御堀帰り候哉否直様使節を以右之達面申来り候次第甚以驚入候事に御座候依而弟と兵と早速使節に面会いたし何故至今日右之達面芸におゐて御受け込に相成候哉我策を彼に与ゆべき之處却而彼之策を我に与え候御手伝いかにも落着に不及儀と厳敷申論し候得共今更いたし方も無之候に付右之達面と食ひ違ひ最早上坂之面々出帆いたし候と申都合に而廿八九日頃に幕へ為相答候次第にして帰し申候右之外かゝる容体に付諸事甚以無覚束被相考申候間廣兵昨日より罷越候様に相決し候手筈相立相発し候までは見合居候 都合に御座候芸国之大に搖き候も辻植田とも帰国後之事と被相察上国表面之有様に而只々めて度し々々と申様子にて相察いかにも浩歎至極に存申候右之次第に付於御地も詰度其御手筈に而御鞭策無之而は肝要之大機を誤り候は必然と懸念至極に御座候此度之御上京も兼て申承り候辺とは余程旁不平之次第に候呉々
も御抜目なく御迫り立申も疎に御座候今日之体たらくにては大機を失し候事は眼前之被思いかにも不安心の至に御座候實以
皇国之御大事に相係り申候間誓而御油断無之様奉祈念候此段大略任幸便得御意置候〇至其期其期に先じ而甘く
玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に
皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了に御座候間此處は詰度乍此上岩西大先生達ちへも御論し一歩一厘は御拔り無之様御盡誠尤肝要第一之御事に御座候諸子よりも西翁などへも得と相論し置
世子君よりも西翁へ御直々に被仰聞何分にも此儀真之大眼目に付返す々々も御丹誠御盡力千禱萬祈之至に御座候ちら々々と風説書上など一見候處に而も彼も余程こゝへは惣に心を用ひ気を着け居候處趣相顕れ懸念に堪へ不申候誓而御抜り無之様蒼生挙而奉祈候〇
一且奉抱候上に而其御地近辺に而御守護御六つヶ敷ときは是非々々三藩之力を以備と足も手も束ね合せ備地へ一応御とゞめ仕備をして大義滅親之大節を為立四方之方向を相立候儀尤可然と奉存候備より此大節を相立四方へ相示し候ときは速に御大示趣御貫徹にも立至り可申此大事に付一応勝を占め候とも余り長引終に世間大に疑惑を生し紛乱を醸し候而は其決局必然外夷之術中に陥り候儀は眼前之事に御座候迅速に成丈片付不申而は不和済此間至当之所致
皇国御興廃之尤大関係と奉存候何分にも細密に諸先生へ被相談御盡誠此時に御座候先は為其態と得御意申上度一書差出し候其中別而御自愛肝要に御座候世良其外諸氏へも可然御致意可被下奉願匇々頓首
   十一月二十二日夜半
尚々芸之處は十分御拔り無之様御手を被盡度毛ほども油断は相成不申候能々御注意肝要に御座候第一第二之事件返す々々も御盡誠千禱萬祈千載之大成敗は只々此處に有之申候不一
春狂盟兄(密呈至急)                                            竿鈴

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丁卯日記 小御所会議 嘘と脅しとテロの討幕 NO3

2019年04月22日 | 国際・政治

 現在、日本では戦時中の歴史を中心に、いろいろなところで修正や歪曲、捏造の問題が議論されていますが、「幕末維新の政治と天皇」(吉川弘文館)の著者、高橋秀直教授は、明治維新期の小御所会議における名場面、山内容堂に対する岩倉具視の”一喝”も、創作であることを指摘されています。

 私は、この徳川慶喜を排除した小御所会議と、その後の小御所会議の議事の修正・創作・捏造が、日本の歴史に決定的な影響を与えたように思います。極論すれば、先の大戦における日本の敗戦は、この時、その歩みをスタートさせたのではないかと思うのです。

 高橋教授が指摘した場面は、小説やドラマにもよく登場するという小御所会議の名場面で、とても大きな意味があり、『近代天皇像の形成』(岩波書店 1992年)の著者、安丸良夫教授は、この会議における岩倉の”一喝”により、「歴史は新しい門出をしたのである」というようなことを書いておられます。

 だからそれが捏造であれば、大問題なのです。高橋教授は、その名場面が”超越的権威としての天皇を前面に押し出す”ために、後になって『岩倉公実記』に挿入されたもので、小御所会議では、そうした岩倉の発言はなかったというのです。
 「丁卯日記」における小御所会議の記述について考える前に、高橋教授の指摘をもとに、その部分を簡単にふり返りたいと思います。

 小御所会議おける山内容堂(幕末の外様大名で土佐藩藩主)の発言は、

ニ三の公卿は何等の意見を懐き此の如き陰険に渉るの挙をなすや頗る暁解すへからす、恐らくは幼冲(ヨウチュウ)の天子を擁して権柄(ケンペイ)を竊取(セッシュ)せんと欲するの意あるに非さるか

というもので、岩倉具視や中御門経之、正親町三条実愛などの公卿が、小御所会議から徳川慶喜を排除し、幼い天皇を抱き込んで、権力を窃取しようと企図しているのではないかと非難したのに対し、岩倉具視が、

此れ御前に於ける会議なり、卿当さに粛慎すへし、聖上は不世出の英材を以て大政維新の鴻業を建て給ふ、今日の挙は悉く宸断に出つ、幼冲の天子を擁し権柄を竊取せんとの言を作す、何そ其れ亡札の甚だしきや

 と叱責し、”一喝”したといわれるものです。
 
 山内容堂の発言を含む小御所会議の様子については、様々な関係者の日記などに残されているわけですが、岩倉具視の”一喝”が、『岩倉公実記』にしか記録されていないことから、高橋教授は、”超越的権威としての天皇を前面に押し出し”、天皇を政治的に利用するため、後になって『岩倉公実記』に挿入されたものだと、指摘されたわけです。

 私は、高橋教授の指摘に加えて、”大政維新の鴻業を建て” たという”不世出の英材”である天皇の”宸断”(天子の裁き・天皇の判断)によって事が進んでいるのだと岩倉具視が主張した当事者の天皇が、このとき一言も発せず、また、このとき議論の対象になった天皇の様子を誰も記していないことは、極めて不自然であり、考えられないことなので、高橋教授の指摘は、そういう点から見ても正しいと思います。

 さらに、およそ二ヶ月前に、天皇が”賊臣慶喜を殄戮(テンリク)し…”と徳川慶喜の殺害を命じる「討幕の密勅」を下していたということであれば、この名場面は、間違いなく後で捏造されたものであると確信するのですが、小御所会議の様子を記した「丁卯日記」に目を通し、さらにその思いを深くしました。

 下記に抜粋した丁卯日記の中には、外国との交際が”隆して””国家安危危急”に直面しており、”人心一和”が”先務”であるとして、長州父子その他の””の”幽閉”を解いたことが記されています。ところが、”人心一和”のために”幽閉 ”を解かれた岩倉具視を中心とする”三四の公卿”は、徳川慶喜を敵視し、排除して事を進めようとしたのです。それは、対外政策をはじめとする諸課題に一致して対処するための、”人心一和”のねらいに反します。
 また、当時、江戸や京都は、討幕派による幕府関係者の暗殺が続き、”テロの嵐”が吹き荒れていたと表現されるような状況でした。


 だから、土老侯(山内容堂)が、大声を発して、そうしたことを非難し、”此度の変革”(王政復古の大号令など)の”所為”(なすところ)は”陰険”なところが多く、王政復古の初めにあたって、武器をもてあそび、騒乱をもたらそうとしている。”二百余年天下太平”維持してきた”盛業ある徳川氏”を敵視し、多くの人々の不平を煽り、一方的に事を進め、”大英断”をもって大政を奉還した”内府公”(徳川慶喜)を、小御所会議の席に加えない会議は”公議”とは言えない、速やかにこの席に加えるべきである。こうした”暴挙”を企てた三人か四人の公卿は、何を考えているのか、”幼主”(幼い天皇)を抱き込んで”権柄”(政治上の実権)を”窃取”しようとするものではないか、と、徳川氏の”弊政”を言い募った”中山殿”や”諸卿”を非難しつつ、徳川幕府に多少の”罪責”があっても、” 徳川氏数百年隆治輔賛之功業”を考えれば、それは大したことではなく、許容されるべきである、と主張したのです。

 そして、その”所為”を非難された”諸卿”が、容堂の事実に基づく正当な主張に屈しつつあったときに、大久保一蔵(大久保利通)が、”幕府の悖逆”(ハイギャク=正しい道にそむくこと)の重罪はそれだけではないので、徳川慶喜の処置について、尾張、越前、土佐の議定の主張は”信受”すべきでない、と主張し、その”官位”を下げ、その”所領”の返上を命じて、どう対応するかをもとに判断するべきであると反論したということです。
 その時の岩倉具視の発言は、「丁卯日記」には、大久保の主張を支持し、付け加えて、あれこれ議論するより、徳川慶喜の対応を確認することが重要であると主張したことが記されているだけで、山内容堂を叱責したという”一喝”の内容は書かれていません。

 そればかりではなく、三人の宮(有栖川宮、山階宮、仁和寺宮)や尾張の議定が黙っているので、中山殿が尾張の議定に声をかけると、山内容堂に賛成であると答え、尾張の田宮如雲、丹羽淳太郎、田中邦之助、越前の中根雪江、酒井十之丞、土佐の後藤象次郎、神山左太衛、芸州の辻将曹、久保田平司など、薩摩を除く出席者が、皆、越前や土佐の二侯と”同論なり”と山内容堂の主張を支持し、それが多数であったことを明らかにしています。にもかかわらず、岩倉や大久保は頑としてそれを受け入れなかったのです。
 だから、岩倉や大久保を含む討幕派のねらいは、一致して山積する諸問題に対処しようとするものではなく、権力を私することであったと言わざるを得ないのです。

 この小御所会議にあける話し合いの大勢をひっくり返し、討幕派の主張にもとづいて事が進んでいくことになったことは、討幕派である浅野長勲「維新前後──天皇御親政と小御所会議の実況──」の記述の中に、

此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり、余は休憩所へ引取る途中岩倉卿が余を一室に麾(サシマネキ)き余に申さるには、此の薩土の軋轢より維新の盛業も水泡に帰せん事を恐れ、後藤象次郎に説諭せよと依頼さる。

 という記述があることで明らかなように、西郷隆盛の”唯之れあるのみ”という「脅し」の対応による結果であったのです。
 下記は、「再夢紀事・丁卯日記」日本史籍協会編(東京大学出版会)から抜粋しました。(但し、返り点は表示できないため、省略しています。)
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                           丁卯日記
                         慶應三年十二月九日
一 今夜於宮中被仰出如左
 頃年天下紊乱、人心不和を生し、況外国之交際日に隆して、国家安危危急之秋に候、然に今後朝政一新追々舊典復古、且明春御大禮被為行候御時節候間人心一和を先務と被為遊近來幽閉之輩を被解、往々無怨志人和一齋、沿革大成、整内制外之次第可相立と被思召候間、奉戴御趣意、上下和親し、皇国之情態可存事

 九日、公昨夕御参内より、御城御往復等に而不被及御帰邸 其儘御在朝之處、今朝に至り長防御所置之儀漸く御決議に相成、被仰出趣如左

 今度大樹奉帰政権朝政一新之折柄、彌以天下之人心居合不相附に於ては、追々復古之典も難被行、深被悩宸襟候、且來春御元服并立太后、追追御大禮被行、且又先帝御一周に相成候に付、所謂既往不咎之御時節故、人心一和専要に被思召候間、先年長防之事件彼是混雑有之候得共、寛大之御所置被為有、大膳父子末家等被免入洛、官位如元被復候旨被仰出候事

右相済後、追々御變革御發表之御模様に而、御用無之候間、諸官散朝可致旨被仰出、各退朝後、攝政殿巳下宮方公卿之出仕を被止之事如左
       攝政前左大臣   左大臣
       右大臣      弾正尹宮     
       前関白左大臣   前関白右大臣
       前左大臣     前右大臣
       一條前右大臣   内大臣
       日野大納言    飛鳥井大納言
       柳原大納言    葉室大納言
       廣橋大納言    六條中納言
       久世前宰相中将  豊岡大蔵卿
       伏原三位     裏辻中将

夫より諸藩之兵隊を以宮垣之内外を警固し、中山殿、中御門殿、正親町正三条殿御居残り、岩倉殿、大原殿、急参内に而萬機御取計有之、諸侯は在京之分即刻参内を被命、其中尾越藝之三侯は昨夕より在朝、土州老侯は今日御上着、御旅装之儘御参内、薩侯は午後に至り御参有之、夫れより暮時前に至り、於小御所会議相始る、帥宮、山階宮、仁和寺宮、、公卿方左方に御列席、尾越土藝薩之諸侯はあ宮方に御列席、諸藩臣は御三の間御敷居際迄相詰たり、于時中山殿より、今般徳川氏より政権奉還に付、大政御一新之御基本被為建度叡慮之趣 御發言有之、公卿諸侯取り取り御評議有之、又夫より徳川内府公御辞官、并御御領地御献納可有之儀之御御僉議有之、結局尾越両老侯御引受に而、明日條城御出、御辞職被聞召旨は公より御伝達、御官禄之御両條は二侯御含に而、徳川内府公より御内願之筋に相成候様、御周旋可有之との御決議なり、会桑二藩も、朝廷より免職之御沙汰に可相成御評議有之處、幕府に而罷免之取計有之に付、不被及御沙汰相済たり、彼是に而子刻後散朝有之、此夜三職之降命有之、公議定職被仰蒙如左
   越 前 宰 相
  議定職被仰付候事、
  口宣追而下賜候事、
 其藩中可然仁両三輩、為参興即時可差出旨御沙汰候事
  総裁       有栖川宮
  議定       山階宮
           仁和寺宮
           中山前大納言            
           正親町三条前大納言      
           尾張大納言
           中御門中納言 
           越前宰相
           土佐少将
           薩摩少将
           安芸少将
  参与       大原宰相
           長谷三位
           岩倉前中将
           橋本少将
        尾張 荒川甚作
           丹羽淳太郎          
           田中邦之助   
        越藩 中根雪江
           酒井十之丞
           毛受鹿之助 
        土佐 後藤象次郎     
           神山左太衛
           福岡藤次
        薩藩 岩下佐次右衛門
           西郷吉之助
           大久保一蔵
        芸藩 辻将曹
           桜井又四郎  
           久保田平司
一、爰に再ひ小御所会議之次第を詳説せんとす、如前説上下已に班列に着くの後、中山殿より先一点無私之公平を以、王政之御基本被為建度叡旨之趣御発言に而、夫れより徳川氏弊政、殆違勅ともいふへき條々不少、今府内政権を還し奉るといへとも、其出る處之正邪を弁し難けれは、実績を以之を責譲すへしなと、縉紳諸卿論議あるに、土老侯大聲を発して、此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならす、王政復古の初に当つて兇器を弄する、甚不詳にして乱階を倡ふに似たり、二百余年天下太平を致せし盛業ある徳川氏を、一朝に厭棄して疎外に附し、幕府衆心之不平を誘ひ、又人材を挙る時に当つて、其の政令一途に出、王業復古之大策を建、政権を還し奉りたる如き大英断之内府公をして、此大議之席に加へ給はさるは、甚公議之意を失せり、速に参内を命せらるへし、畢竟如此暴挙企られしう三四卿、何等之定見あつて、幼主を擁して権柄を窃取せられたるや抔と、したゝかに中山殿を排斥し、諸卿を弁駁せられ、公も亦諄々として、王政之初に刑律を先にし、徳誼を後にせられ候事不可然、徳川氏数百年隆治輔賛之功業、今日之罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、諸卿之説漸く屈せんとする時、大久保一蔵席を進んで申陳しは、幕府近年悖逆之重罪而已ならす、此度内府之所置
におゐて其正姦を弁するに、是を事実上に見るに加かす、先其官位を貶し其所領を収めん事を命して、一毫不平の声色なくんは、其真実を見るに足れは、速に参内を命し朝堂に立しめらあるへし、もし之に反し一点扞拒の気色あらは、是譎詐なり、実に其官を貶し其地を削り、其罪責を天下に示すへしとの議論を発す、岩倉卿是に附尾して其説を慫慂し、正邪の分、空論を以弁析せんより、形迹の実を見て知るへしと論弁を極められ、二侯亦正論を持して相決せす、三宮尾侯は黙然たれは、中山殿尾、尾侯は如何と詰たるゝに容堂の説のことしと答へらる、薩侯は如何と問はるゝに、一蔵言ふ處のことしと答へられ、芸侯は土老に同す、岩大二氏猶正邪を実行に證せん事を強弁して屈せす、諸藩士に議せらるゝに、尾に而は田宮如雲、丹羽淳太郎、田中邦之助、越は中根雪江、酒井十之丞、土は後藤象次郎、神山左太衛、薩は岩下佐次右衛門、大久保一蔵、芸は辻将曹、久保田平司にして、薩を除くの外は、悉越土二侯と同論なりといへとも、共に是を主張せは、君臣合議雷同之嫌疑を生し、却而事を害せん事を恐るゝの意衷、期せすして同一なれは、各顔を見合わせて抗せす、唯々諾々たり、象次郎は吾公之説を推して、陰険を排して公正に出ん事を論して止ます、二侯も餘りに極論し給はゝ、実事を見ん事を厭ふて、内府公に姦あるを掩はんとし給ふに似たれは、止事を得られすして尾越擔当あつて、明日御登城之上、将軍職御辞退を被聞召之條は如左、
 辞将軍職之事聞召候事
右は吾公より御達有之、官禄之二條は二侯は二侯御含を以、内府公より御内願之筋に御周旋あるへきに決せり、又会桑二藩の職を解かれすして不相適故、其事を幕府へ降命あらは、二藩忿怒して如何成暴挙妄動あらんも難計、此條如何すへきと、朝議殊之外困難窘窮(キンキュウ)に及ひたり、折柄両藩は幕府におゐて職務罷免せられし由、戸田大和守を以奏上あり、於是難議一頻〈頓?)に解釈して、会は帰国して御沙汰を待ち、桑は速に帰国すへき由を命せらるへきに決して、議果たるは巳に三更を過ぎ、四更前散朝となれり、
一、今日より御所御檐下御警衛任撰十人つゝ、并其他之警固兵、昨日内達之通尾越薩土芸之五藩より指出之
 但 十四日に至つて解厳なり、
一、 此被堺町御門御警衛場へ、御所より之御使持参相達書付左の通、
 大政御一新に付、守衛之輩自今朝命を奉し可致進退諸事心得違無之様御沙汰候事
 但今日召之列藩兵士、戎服之儘参朝候得共、非常御手当而已、必動揺無之様為心得申渡候、尤御守衛之義は一際厳重に取締可致候事             
一、此日公家門警衛桑名被免、長州と入替り、蛤御門会津被免、土州と代れり、
 私云、桜木御殿へ参上せし節、此日公卿方見聞之形勢を伺ひ奉りしに、堂上何も八日より徹夜、当    朝長防之御所置御決議相成、無程散朝之運ひ之處、宮中之模様何となく物騒か敷、不審之状情も有之に付、議奏は居残りたる方可然歟抔御談之處、間もなく御用相済たる間、何も及退朝候様降命に而御退散之處、引続参内御指止之儀被仰出申刻過勅使を以、摂関之号を被廃、門流を被止候段被仰出たりとの仰なりき、
一、此日夕申刻前、岩倉殿、大原殿、尾越之重役に御逢被成度との事に付、尾之田宮如雲、越之 毛受鹿之介両人罷出處、両卿被申出候は、何か伝聞之趣に而は、旗下及会桑并譜代之諸侯二條城へ馳集たる由、畢竟今般御所へ兵を被集候は、全く他之盗之為にする警備に而、承知之通決而討幕等之義には無之事んるに、萬一旗下を始め諸藩心得違出来、不慮之動乱を生而不容易次第候へは、何卒條城鎮静相成候様、尾越に而厚心之義御頼被成旨に付、其段両公へ申上、尾之茜部小五郎、田中邦之輔同道、鹿之介登城、板倉殿へ謂謁、右御口上之趣申上、且宮中之形勢及詳達候處、板老にも此件に付殊更御按労之由、何分内府公へも委細及言上指向候處は、精々可致鎮撫候へは、其段御所へ御答可申上、併此上朝廷より御無体成被仰出等有之候ては、其上之事情は如何可相運哉、何共難計候間、此辺は尾越に而御配慮被成下候様、両公へも宜申上旨御申聞有之、夜六時過退城、直に参朝して、板老被申聞候趣両卿迄申上たり、此節條城の形勢、旗下并諸藩之兵士竹葦之如く、各戎装に而兵器を携へ、営中草鞋はきにて往来し、唯今にも討て可出気色に而、控所にも御譜代藩藩重役、井伊、藤堂を初多数相詰、隊長等同伴せるも有之、御一麾之御指揮次第、二百余年之洪恩を可奉報との義勢決然たる有様なりき
参考ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大樹=将軍 
大膳父子=毛利 敬親・慶親父子
帥宮(ソチノミヤ)=敦道親王(アツミチシンノウ)
口宣=天皇の勅旨を口頭で受けた蔵人所職事がその内容を文書化したもの
=土佐少将=山内容堂
縉紳=官位・身分の高い人

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嘘と脅しとテロ絡みの武力討幕 NO3

2019年04月13日 | 国際・政治

 ペリー来航以降の倒幕運動が、最終的には薩長が主導する「武力討幕」となったことはよく知られているのに、その武力討幕が、嘘と脅しとテロ絡みで成し遂げられたことはあまり知られていないと思います。
 でも、日本の歴史にとって大事なのは、その武力討幕が嘘と脅しとテロ絡みで成し遂げられたという事実であり、また、その目的が日本の近代化ではなく、権力奪取であったと考えられることだと思います。薩長を中心とする尊王攘夷急進派にとって、日本の近代化が二の次の問題であったことは、明治時代に入って、いろいろなかたちで現れ、それが現在の日本の諸問題にも、いろいろなところでつながっているように思います。

 王政復古後に発した「五箇条の御誓文」には、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」とあるにもかかわらず、それは生かされませんでした。生かされなかったばかりでなく、「讒謗律」や「新聞紙条例」、「保安条例」、「治安警察法」などによって薩長を中心とする明治政権に不都合な「公論」を抑え込み、取締りの対象にしました。日本の近代化のために、「公論」を取り締まるなどということは、常識的にはあり得ないことだと思います。

 特に見逃せないのが、1889年(明治22年)2月11日に公布された「大日本帝国憲法」です。第一条を、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として、「天皇主権」とし、「国民主権」にしなかったことです。大日本帝国憲法は、当時近代化の進んでいたヨーロッパの「君臨すれども統治せず」といういわゆる「立憲君主制」のそれとは異なり、君臨し、統治もする君主制、すなわち「絶対主義的天皇制」といえるものでした。天皇は、軍の統帥権や大臣の任免権、条約締結の権利、さらに、「勅令」によって法律も公布できる「絶対的」な存在でした。討幕によって権力を手にした尊王攘夷急進派の人達は、天皇を抱き込み、資本家や地主などの一部特権階級と一体となって、自分たちの思い通りにできる日本をつくろうと意図したのだと思います。その結果、国民はを無権利に近い状態に置かれたように思います。

 大日本帝国憲法の天皇主権は、幕末から明治維新にかけて、武力討幕派のなかで密かに語られた「玉を我方へ奉抱候儀…」というような言葉に象徴される考え方から生まれたものだと思います。下記は、維新の三傑の一人とされている木戸孝允が、品川弥二郎に宛てた書簡の文章です。

”其期に先じて、甘く 玉を我方へ奉抱候儀、千載之一大事にて、自然万々一も彼手に被奪候ては、たとへいか様之覚悟仕候とも、現場之処、四方志士壮士之心も乱れ、芝居大崩れと相成、三藩之亡滅は不及申、終に皇国は徳賊之有と相成、再不可復之形勢に立至り候”

「玉」とは「天皇」のことであり、天皇を「奉戴」し天皇を担ぐことが権力奪取や、その後の支配の正統性を得るために重要であると考えていたことがわかります。

 それだけに、帝国憲法発布直後に、その憲法のあり方を批判した島田邦二郎という人物の存在は重要であり、忘れられてはならないと思います。薩長出身者が政権の要職を独占するようなかたちでスタートした明治時代に、大日本帝国憲法の問題点を、現在の考え方とほとんど変わらない視点で、鋭く批判したのです。自由や人権を重んじ、国民主権とそれを保障する近代立憲政体の実現を主張したばかりでなく、普通選挙や女性参政権、地方分権まで唱えていたのです。

 明治新政府発足直後、およそ2年間にわたって、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を視察して回った岩倉具視や木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などを中心とする総勢107名におよぶ大使節団の面々が、島田邦二郎の主張した、「国民主権とそれを保障する近代立憲政体」を知らなかったはずはないのです。にもかかわらず、なぜヨーロッパの「立憲君主制」を取り入れず、「天皇主権」の帝国憲法にしたのか、選挙制を取り入れながら、なぜ国民の1パーセント程度の高額納税者にしか選挙権を与えなかったのか、また、なぜ皇族議員・華族議員・勅任議員など終身任期の議員によって構成される貴族院を設けたのか、その他、島田邦二郎が取り上げ批判した帝国憲法の諸問題を考えると、背景に武力討幕によって権力を手にした人たちの意図が透けて見えるような気がします。近代化は二の次の問題で、自分たちが思い通りにできる日本をつくるという意図です。

 下記は、「近代日本社会と思想」後藤靖編(吉川弘文館)のなかの「ある埋もれた帝国憲法・帝国議会批判論」から一部を抜粋しました。
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                   ある埋もれた帝国憲法・帝国議会批判論

 はじめに
 ここでとりあげようとするのは、淡路島在住の自由民権家島田邦二郎の帝国憲法および帝国議会批判論についてである。島田は、帝国憲法が発布され帝国議会が開設される1,889年(明治22)から90年ごろにかけて、『立憲政体改革の急務』という全十章からなる上・下二巻の原稿を書いている。その構成を示すと、次の通りである。

緒言・第一章・立憲政体ノ性質及ビ職務権限ヲ論ズ。第二章・立憲政体ノ骨子。第六章・二局議院ノ制ヲ改メテ一局議院ト為スベキコトヲ論ズ。第三章・選挙権ヲ拡張シテ普通選挙ト為スベキコトヲ論ズ。第四章・地方自治ノ本性ヲ論ジテ我ガ地方新制度中ニ知事郡長ヲ公選スルノ条ヲ加ヘ、併セテ議員選挙法ノ間接ヲ改メテ直選ト為スベキコトヲ論ズ。第五章・言論集会結社ノ自由ヲ論ジテ、新聞出版集会ノ三条例ヲ廃ス可キヲ論ズ。第七章・立憲国人民ノ其国家ニ尽クス可キ徳義ノ責ヲ論ズ。第八章・政党ノ組織並ニ其職務ヲ論ジテ我国政党ノ改革ニ及ブ。第九章・国会議員ノ責任ヲ論ズ。第十章・結論。

 第六章と第三章が入れ替えられているが、当初は第一章から順次書きおろしたものをこのように編成し直したと思われる。論理の展開という関係からみると、この編成がえの方が適切であるといってよかろう。
 この原稿は「島田原稿用紙」に墨書され、四百字の原稿用紙に直すと130枚余りに及んでいる。…

 ここで島田が主張しているのは、国民主権・一局議院制・男女普通選挙制・議院内閣制および地方自治権の確立であり、議会=立法権の政府・官僚=執行権に対する絶対的優越権を保障することこそ国民主権の実現形態であり、近代的立憲国家であるということである。
 帝国憲法が発布されるや、立憲改進党系ばかりでなく旧自由党系の理論家やそれぞれの機関紙・誌がそれをほとんど全面的に支持し賞賛する論説を発表した。もっとも、そこではこの憲法を足がかりとしながら、運用如何によってやがて議院内閣制と立法権の執行権への優越は実現されるという見通しを保留していた。だが、帝国憲法の根幹にかかわる天皇主権と絶大な天皇大権の諸規定に関しては一言の反論も行わず、また帝国憲法の発布と同時に制定された皇室典範には全く疑議をさしはさんでいないばかりか、貴族院令・衆議院議員選挙法に関してもほとんど異議を唱えていない。この点については、私はすでに幾つかの論稿で明らかにしておいたし、また本稿でも島田と比較するために随所で触れるつもりである。
 旧自由民権派の主流たちが帝国憲法を基本的に受容するなかで、島田がなぜそれらとは異質ともいうべきものを書き、それを発表しようとしていたのかは十分に検討に値するものといわなければならない。そこで、ここでは彼の主権概念、立憲政体の性格論、一院制・普通選挙論および地方自治権を取り上げ、彼がその自説をどのように具体化するための運動を行っていたかを検討することにしたい。

                     一 島田邦二郎の履歴   
 略
                     二 島田の主権国民論  
 さて、『立憲政体改革之急務』の基調にすえられているのは、国民主権とそれを保障する近代立憲政体の実現ということである。
 島田は第一章の冒頭で次のように書いている。すなわち、「人の世に生まるゝや自由なり、故に其の好みに従て能力を使用する権利があり、而して此権利を行ひ由て以て得る所の権利あり。一を天賦の権と云ひ、一を得有の権と云う」と。
 この冒頭の一節のなかに彼の立場の基本的な立場が示されている。つまり、彼は、人間は誰しも同等の生得的な天賦人権をもっているばかりでなく、それを行使して利益を獲得する自由と権利を保有しているのだというのである。このような理論に立って、彼は人民と国家の関係を次のように捉えている。すなわち、この二つの権利は「人の独立を維持するにおいて必要」のものであるが、人間は不完全なものであるから往々にして「私情に制せられ、彼此の間に於て牴牾(テイゴ)することを免かれ」ない。その私情による権利侵害の弊害を除去し、「其固有の権利を全ふし、其堵に安んぜん」がために人民は国家という「政治機関」を組織するのである。したがって「国の元素は人民」であり、「国を組織するものは人民であると。このような主張は、いうまでもなく自由民権運動の基調をなすものであった。しかしながら、この主張は帝国憲法が発布されるとともに多くの自由民権論者の間では次第に色あせはじめていた。にもかかわらず、彼はまさに自由民権運動の基本思想を継承し、その実現を主張しつづけようとしているのである。

 ところで、島田は、国家がその本来の目的である人民の権利を保全し実現するためには「政治機関」を必要とするのであるが、それに最も適合的なものは「立憲政体」以外にはないという。なぜなら、立憲政体によってはじめて「人民は常に国家の事に関する精神心意を使用するに攸(トコロ)を得、国家に関する知識能力を発達するの道を得」るからである。そして同時にまた、この政治体制のもとで「人民にして参政の権を有し、国権(民権?)ありて政府も悠に其権を越ゆること能はざるを以て、数の勢に於て人民の自由権利を侵害することも亦少なかる可き」制度的保障が構成されるからである。こうすることによって、「人民は其元気実力を養成し、其独立の精神を振起し、民権も亦伸長す」るばかりでなく、同時に「国家の独立」と「国家の富強」が実現されるであろう、と主張している。この主張の根底にあるのは、「人民は本にして政府は末」であり「政府は人民の意欲に従う」べきだという考え方である。この視点から、彼はさらに進んで帝国憲法にたいする徹底した批判を行っている。

 その第一点は、立憲政体と君権との関係についてである。このことについて彼は次のように書いている。「立憲政体は君権を殺ぐ」ものという意見が存在するが、そうではなくして「君民の権限を証表し、以て其政を為すもの」であり、「決して君権を殺ぐものにあらず、否君権を確くし王家の安泰を保ち国祚を長久ならしむる基本」ある。なぜなら、「君主は人民を俟て成るもの」であり、「人民によらざる者は決して君主にあらざる」からであるという。ただその場合に、島田は重要な限定をつけていることを見落としてはならない。それは、「君主の身分は人民の承認により成る」ものであり、したがって「君権も亦必ず人民の承認」の上に成立するものだということである。つまり、君主たる身分と君権の正統性は人民の承認によるものだというのである。

 この君主の身分と君権の正統性に関する島田の見解は、植木枝盛の「東洋大日本国々憲案」(明治14年8月起草)の第九十三条「皇帝ハ法ノ外ニ於テ立法院ノ議ヲ拒ムヲ得ズ」、また第百条「皇帝ノ即位ハ必ズ立法議員列席ノ前ニ於テス」の系譜につながるものと見てよかろう。植木草案を特徴づけるこの二ヶ条は、彼の所属する立志社のいわば公式の私擬憲法である「日本憲法見込案」にもひきつがれ、第五十条で「即位ノ式ハ国会開院ノ席ニ於テ国会議長之ヲ公行ス」と書かれ、また第五十一条で、「帝王即位ノ時左ノ宣誓ヲ開言ス。朕即位ノ后ハ日本憲法ヲ保護シ之ニ由テ日本ノ安寧ヲ維持センコトヲ衆庶ニ誓フ」と明記された。他の民権派の私擬憲法のほとんどが、「皇統一系万世無窮天地と悠久なるは我日本建国の大本にして敢て臣下の議すべき所にあらず」という見解を取っていたことを考えると、植木や立志社草案がどんなに特異なものであったかが知られるであろう。

 帝国憲法が発布されるや、立憲改進党の機関紙的存在である郵便報知新聞は、「帝王より斯く公然と君民共治の主意を勅語あるは実に此度を以て初めとす」というように賛美した。そればかりか自由党系の絵入自由新聞も、帝国憲法発布直前の二月八日には「曩に憲法の事を論ずるや、其制定の後宜しく一旦人民の衆議に附し、然る後陛下に奏上して其批准を仰ぎ、以て之を発布せんことを望むこと二回に及べり。然るに今日の情勢より之を観れば僅かに各府県会議長をして発布式場に列せしむるのみにて、更に人民の議に附することなく、之を発布せらるゝものゝ如し。是れ実に余輩遺憾とする所」と書きながら、発布後の二月二十一日の論説では「聖天子御躬ら此憲法を守り給ふと有るからは、人民たる者誰か此憲法を貴まざる可き。誰か此憲法に負かんと欲する者有る可きぞ。吾輩は解き来たりて思はず知らず感涙に咽ぶなり」と述べている。そして、同紙は二月二十三日の「通俗大日本国憲法註釈」で第一条から第四条を評して、「一頃主権は君主に在りや人民に在りやなどと八ヶ間しき議論も有りたるが、第一条の『大日本帝国は萬世一系の天皇之を統治す』という一文に由り其疑がひは全く無きものと為りたり。他国は兎に角、我国では主権全く天子に在るなり。[しかし]主権は有れども憲法には背く事能はず……主権には相違は無けれど而かも憲法の範囲内に於ての主権なり。政治学者の謂ふ所ろの純然たる主権と同一視して彼れ是れ云ふは穏かならざる可し」と書いている。植木枝盛もまた、帝国憲法が公布されるや、「明治二十二年二月十日以前には何にせよ憲法と称すべきもの無かりし日本が明治二十二年二月十一日に之れあるを致したるは、先ず以て第一着に本国の大慶と謂はざるを得ざるならん……之を養育し成長させること全く憲法の親たる天皇陛下と日本人民とに在ることなるべし」と書いているだけである。
 このような議論が支配的な時期に、島田があえて国民主権論を展開したのは彼の年来の思想的営為もさることながら、在地の地方支配の状況に対する強烈な批判が根底に流れていた。このことについては、後に述べることにする。

第二に、島田は帝国憲法が「人民の選挙権を限り、或は議員の発言権を限り、或は既定の歳出には議員の啄(タク)を容れしめざるものあり。其甚だしきに至りては言論、集会、出版の自由を制限し、国家の元気を喪失せしむるものあるに至る。惑るも亦甚だしと謂ふべし」と書き、これらの諸条項は「人民は本にして政府は末」であるという近代的立憲政体の基本理念に反するものだと痛烈に批判している。彼は、「立憲政府」は「衆意の相集まる公議輿論によって挙措」すべきであり、「専ら暴を禁じ邪を
制し、人民の性命なり財産なり一切其保護に任ずるを以て職と為す」ことを任務にしなければならないというのである。これらの諸点については節を改めて検討しよう。

                   三 普通選挙と一院制議会

  帝国憲法は天皇主権を宣言するとともに、皇室典範で皇位継承の順位を決めて天皇の主権者としての地位を不動のものとした。そして、帝国憲法の交付と同時に制定公布された貴族院令は華族および巨大地主という少数の特権階級によって貴族院を構成し、衆議院議員選挙法もまた財産制限選挙制を定めた。島田は、国民主権をふみにじるこれらの制度に対して根底的な批判論を展開している。第六章と第三章がそれである。
 彼は、第六章で二局議院制を改めて一局議院制にへんこうすべきことを主張している。それは次のような理論にもとづいている。すなわち、「天下は天下の天下にして、政権は一般人民の所有」する所のものでなければならず、「二三種族の之を私し擅(ホシイ)まゝにすべき」ものではないということである。選挙権とは「政権の分配」であるばかりでなく「智徳の分配」でもあり、「人の諸権利中にあって最も貴重すべきものゝ一つ」であるという。ここには、人権はあくまで平等でなければならず、したがってまた市民的権利は公民権と同時に存在することによって完成されるものであるという、近代的人権思想が完全に生かされていると見ることが出来るであろう。このことから、彼は、選挙権を一部の特権階級と有産者に限定するということになれば、選挙権を与えられない人民は「国家の義務も其範囲に於て之をみたさゞる可らざるは当然の道理」となり、納税の義務にも兵役の義務にも応じなくてもよいことになるというのである。彼が人民一般というとき、そこには女子も含まれていることを見落としてはならない。
 島田は女子の地位と権利について次のように書いている。「既に社会に階級を置かず、焉ぞ男女の間において区別を立んや。……凡そ人間は其政府の下に於て同じく利害を有するものなり。されば政治上に於て同等の権利を有するものなり」と男女同権を強調しているばかりか、女子は男子に比べてその体験がどうしても劣るのであるから、「体躯の薄弱なる者は社会の保護に於て法律の防禦に於て職(モッパ)ら之に属するものなれば、その政権の如きは寧ろ男子よりも貴重なりと言わざる可からず」といい、「女子たる者も亦此権の分配を受くるを以て至当なりとす」と主張している。もっとも、女性にも参政権を与えるべきだと主張したのは島田だけではない。

 植木枝盛は、1888年(明治21)七月十七日から八月二十六日にかけて十八回にわたって「男女の同権」を「土陽新聞」に連載し、その一節で「婦女の参政権」について次のように書いている。「参政の権利は固より人間が国家を組織し政府を建設するに随つて発生する」ものであり、「国家の人民たる者に在つては唯其万機を政府の行政官に専任せしめず、自らその政治に参与するの権利を持し、或は歳計を予算し、或は法律を議定するの道を尽し、茲に始めて安寧の地に就く」ことができるのであるから、「参政の権利も亦甚だ緊急須要」なものというべきである。それ故に、参政権は男子のみに必要であり、女子には必要でないという考えがあるが、これは間違っているといい、「婦女にして権利を有せざれば社会は常に半分の不自主人を存せざるを得ず」ことになり、「婦女にして参政の権利を有せざるときは愛国の心情を擢起するに由なく、政治の思想を養成すること能はず」といった状況になるであろう、と述べている。島田の主張は、まさにこの植木の考えと一致している。しかし、植木は、すでに述べたように帝国憲法が発布されるや実質的にはこの考えを放棄してしまっていた。島田は、植木が放棄した考え方をいまなお生かそうとしているのである。

 では、この時点で島田と同じ考えを持っていたのは誰であろうか。私の知るかぎりでは、中江兆民がいた。兆民は、第一回の総選挙を五ヶ月後に控えた1890年(明治23)三月に『選挙人目ざまし』を出版した。そのねらいは有権者に向かって代議制度の本質と選挙人に代議士選出の意味を解いたものであるが、その冒頭で、彼は「選挙権は政治的人民たるの権なり、故に政治上より言へば衆議院議員を占拠するの権有る者即ち直接国税十五円以上を納むる者のみ日本国民にて、其他は日本国民に非ざるなり、府県会議員を選挙するの権を有する者即ち五円以上を納る者のみ府県人民にて、其他は府県人民に非ざるなり、彼れ選挙権無き者は請願書を上つる外絶て政権に預るの権無きなり。彼れ日本国裡に生活するも某府県裡に生活するも、政府に対し府県庁に対し唯消極的に生活するのみにて積極的に生活するに非ず、唯法律の保護をう受くるの権有るのみにて法律を廃興するの権あるに非ず、云々」と書いている。この一節は大変に重要なものだるが、これまで余り注目されていなかったといってよい。兆民は、真の政治的自由とは国民が平等に選挙権を持ち、それを自由に行使することだというのである。東雲新聞の一株の株主であつた島田は、兆民のこの一節を継承したのではなかろうか。そして彼は、大胆にも男女平等と男女普通選挙を主張したものとみてよいであろう。

 しかし島田のこのような主張は、すでに引用した「卑屈に失せんよりは寧ろ粗暴に失せよ」という演説草稿の中での「卑屈従順の社会改良上に弊害多くして寧ろ粗暴過激の社会改良に利すべきは明々瞭々たり」という文脈から読み取ることができる。また1889年初頭に書いたものと思われる「政社の必要を論ず」のなかでの、「国会なる物体は国民てふ母親の産出に係るは疑ひある可らず、国会にして愚物の集会所となれば或は行政の機関となり、或は自ら腐敗して害毒を天下に流布するの不孝を免る可らず。国民の智不智は国会の完不完に関し、国会の完不完は国家安危に関す」という主張の延長線上のものである。国会と国家の「完不完」というとき、彼の念頭にあったものは「進取の気力」(演説草稿)のなかで「何れの農民、何れの商人に聞くも近時租税の重さを曰はざる者なし、而して如何にすれば加重の税を免る乎、又軽減し得る乎の問題に至りては堪えて考えざるものの如し、誠に遺憾」といはねばならぬ、と慨嘆していることを念頭においておくべきだろう。

 彼がここで強調しているのは農民や地方商人の生活権の保障問題であり、明治国家がそれを奪っているという痛烈な批判である。彼が「国家の完不完は国家安危に関す」というとき、それは人民の人権と自由とを護るべきものとしての国家のことにほかならなかったと見ることができる。なぜなら、彼は「政権は一般人民の所有」することろのものであり、したがって、「人民は本にして政府は末」のものでなければならないと考えていたからである。

 彼はその慨嘆を、すでに1887年11月30日に、「一、地租ヲ軽減スベキ事 ニ、言論集会ノ束縛ヲ釈ク可キ事、三、外国交際ノ非計ヲ改ム可キ事」という建白書にしたため、佐野助作とともに淡路洲本の27名の署名者の代表として元老院に提起した。彼はそこで次のように書いている。すなわち、「我が皇上の此土に君臨し給ふや乃ち宇内の大勢に鑑み天地の公道に基かん事を期し、天下を以て一人の所有と為さず、天下は天下の天下たる事明にし、人民に与ふるに地券を以てし而て土地の権ある証し、徴兵令を発行して而して衆庶の皆国民たるの責を負わしめ、天地一新昔日の我が邦に非ざる」ことを宣言されたにもかかわらず、「今日我が国の大に疲弊し、我が民の大に困頓する」という状況をもたらしている。「農民たる者日夜営々として辛苦するも猶償ふに足らず、屋を売り衣を典ずる者」が多いばかりか、「逃亡の徒は月を以て計を増し、公売の数は歳を以て其多を加へ父子保たず兄弟離散」するものが跡を断たない有様である。これはまさに「地租の苛重」に基づくものというべきであり、「政府たる者猶之を以て其職を尽すと謂はんとするか」と糾弾している。さりとて、彼は決して租税の納入に反対しているのではない 彼はこうも書いている。「抑も租税なる者は何ぞや。民人たる者、政府己の保護するに酬ゆる所以の義務」として納税するのである。ところが「今日の事は之に異なり、日夜租税の為めに労し、且つ苦しむのみ。其民の景況たる租税の犠牲たるものの如し。之をしも悖戻と謂はずして将た是を何とか謂はん」と。そしてまた言論集会の自由を要求し、とくに国会の開設問題に論及しながら、「国会は輿論に基づく者なり、輿論は人民に出るなり、立憲政体の成否と美徳は未だ一として人民の実体に由らずんば有らざる」が故に、「政治上の思想」と「政治上の知識」を養成させることが必要であり、そのためには言論集会の自由を保障すべきであると書いている。 

 島田らのこの三大建白書は全国的運動の一環をなすものであり、論旨のほとんどは87年10月に提起された高知県のそれと変わらなかった。しかし、高知県の自由民権運動の指導層は帝国憲法の発布とともに、その建白書での主張を事実上放棄してしまった。にもかかわらず、島田はその主張を憲法発布後もなお堅持していたのである。そればかりか、彼は建白での要求が実現されるためには一院制議会でなければならず、男女ともに選挙権が保障されなければならないというのである。
 島田のこの考え方は決して帝国議会の在り方だけを指していたのではない。彼は、1888年から89年にかけて、地方自治の問題についてもそれと同じような主旨の建白や県政批判・村制批判の意見書を提起している。これについては、後で検討することにする。
                     四 責任内閣論 

 島田は、すでに述べたように国家は人民のじゆうと権利を保障する機構でなければならないと主張した。一院制議会と普通選挙論は、人民の政治的権利と人民の意志を実現するための必要条件だというのである。そればかりでなく、彼は議会が行政府に優越しなければ真の立憲政体とはいえないといい、責任内閣制論を展開している。第二章の「立憲政体の骨子、一名責任内閣論」がそれである。
・・・

                     五 地方自治権の確立

 島田が追及してやまなかったのは、すでに明らかにしたように、人民の権利と自由の保障であった。その人民は、具体的には地域で生産し生活する地域住民である。彼が第四章で、「中央集権の害を避けて国家全体の安寧を計り、一般人民の権利を増進するものは、地方分権の実を挙ぐるに在るなり、地方人民に与ふるに先ず充分の自治権を以てし、然して其力を伸べて独立の地位を作らしむるに在り」と主張したのは、地域に居住する人民の生活権と同時に政治的自由を保障せよという要求に外ならなかった。このことを彼の叙述に即して検討してみることにしよう。
 ・・・

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嘘と脅しとテロ絡みの武力討幕 NO2

2019年04月07日 | 国際・政治

 「討幕の密勅」が「偽勅」であることは、「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」(中公新書)のなかで、井上勲教授が論証しています。
 また、小御所会議における山内容堂の発言に対する岩倉具視の叱責の「一喝」が作り話であることを、高橋秀直教授が「幕末維新の政治と天皇」(吉川弘文館)のなかで、論証しています。

 私は、両教授の論証が正しいことを確信していますが、下記に一部抜粋した「新前後──天皇御親政と小御所会議の実況──」浅野長勲(人物往来社)を読んで、両教授の論証とは別の理由でも、「討幕の密勅」が「偽勅」であり、岩倉具視の山内容堂叱責の「一喝」が作り話であることを確信しました。

 幕末の関連事実を振り返れば 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が不審な死を迎えます。その後、慶応3年1月9日(1867年2月13日)、満14歳で践祚の儀を行い皇位に即いたのが明治天皇です。
 その明治天皇が、父親である孝明天皇が信頼を寄せていたという江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜を、”賊臣”とよび、”賊臣慶喜を殄戮(テンリク)し…”と、殺害を命じる「討幕の密勅」を下したのが、慶応3年10月14日(1867年11月9日)です。即位しておよそ九ヶ月後のことになります。
 同じ慶応3年10月14日(1867年11月9日)、徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、明治天皇は、翌15日にその奏上を勅許しています。

 そのおよそ二ヶ月後の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都・小御所において、小御所会議が開かれます。その小御所会議は、”正面の高御座に天皇陛下出御あらせられ、会議を聞し召さる”と、同書にありますので、御前会議であったことがわかります。そこで、よく知られているやりとりがあるわけですが、そのやりとりの一節を「新前後──天皇御親政と小御所会議の実況──」浅野長勲(人物往来社)から、下記に抜粋しました(資料1)。
 特によく知られているのが、土佐藩15代藩主山内容堂(豊信)が、”進み出で此の会議には徳川内府も之れに列せしむべし”と徳川慶喜の参加を主張したのに対し、岩倉卿(岩倉具視)が”大喝一声山内豊信の不敬の言を叱責したれば、山内豊信其不敬を謝せり”というようなやりとりです。

 岩倉の「叱責の一喝」に、容堂が不敬を謝罪したにもかかわらず、議論が”深更に及ぶとも雖も何時止むとも見えざりき”というほどに続いたこと、さらに、”賊臣慶喜”殺害を命じる「討幕の密勅」を、およそ二ヶ月前に下していた明治天皇が同席していたにもかかわらず、徳川慶喜を”列席せしむべし”という強硬な主張に対し、明治天皇が一言も発しないということは、とても不自然だと私は思います。公衆の面前とはいえ、”列せしむる必要なし”と天皇が一言いえば、長々と議論をすることはなかったのではないかと思うのです。

 また、容堂が”ニ三の公卿は何等の意見を懐き此の如き陰険に渉るの挙をなすや頗る暁解すへからす、恐らくは幼冲(ヨウチュウ)の天子を擁して権柄(ケンペイ)を竊取(セッシュ)せんと欲するの意あるに非さるか”と明治天皇を”幼冲の天子”と表現し、また、「討幕の密勅」よって自ら意図したことを覆される心配があるにもかかわらず、山内容堂の発言に対する反応なく、加えて、同席した人が誰も、その時の天皇の様子や表情を、何も記録に残していないということも、きわめて不自然だと思います。
 岩倉具視が、天皇は”不世出の英材を以て大政維新の鴻業を建て給ふ”人であり、容堂の発言が不敬であると一喝したのであれば、同席した人の誰かが、その時の”不世出の英材”である天皇の様子や表情を何らのかたちで記録に残しているのが普通だろうと思うのです。
 小御所会議における山内容堂の発言は、いろいろな意味できわめて重大であり、その様子は、中根雪江の「丁卯日記」はじめ、いくつか残されていることを高橋教授が明らかにしています。でも、それらには、岩倉具視の叱責の「大喝一声」、および、天皇の様子や表情は記録されていないのです。不自然だと思います。
 だから、岩倉具視の山内容堂に対する叱責の「大喝一声」は、薩長政権を正当化し、天皇を絶対的な存在と位置づけて政治利用するため、後になって考え出された作り話であり、また、「討幕の密勅」が「偽勅」であることを物語っているように、私は思います。

 もう一つ、見逃すことのできないのは、「小御所会議の事」の中に、”此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり”とあることです。西郷隆盛(吉之助)を含め、尊王攘夷急進派が嘘と脅しとテロによって権力を握ろうとしていたことを示していると思うのです。

 資料2は、松平慶永(春嶽)の「逸事史補」から抜粋しましたが、「討幕」が、日本の近代化のためではなく、権力奪取が目的であったことをうかがい知ることのできる内容が散見されます。
 当時、徳川慶喜は、”従今は右等の幣習を破り、天下の諸侯を京師に会同し、諸藩の有名豪傑なる人を撰みて、公平無私に政治を議し執行するの外他なし”と春嶽に語っています。大改革が必要であることを認めているわけで、「討幕」の必要はなかったのではないか、と思われる内容です。

 尊王攘夷急進派は、幕府が”外国の事情も追〻相分り、外国交際の事は、今更断る事ならざる道理、攘夷は出来ざる事”を説いているにもかかわらず、多くの人々の”府而已外国交際を尊びしと衆人心得候て、皇国一般有志の忿怒を生じ、幕府の苛政を厭(イト)ひ、外国交易免許の事を悪(ニク)み、幕府に心を離し、天朝を敬戴せる心”を利用し、煽りつつ「討幕」の運動を進めたのです。したがって、日本の近代化のために「討幕」が必要だったというのは、事実に反すると思います。

 「討幕」の運動の一つが ”岩倉公・大久保・西郷等の内議により、江戸の薩人申遣して都下を暴動し、酒井左衛門尉等の兵を動かさしめ、江戸に在りし徳川家の旗本を忿怒せしむるが為に設けたる一策なり”と春嶽が書いているもので、「江戸攪乱工作」などといわれていますが、卑劣なやりかたではないかと思います。
 また、「伏見戦争」の文章のなかに、”薩長土の藩兵は伏見に出張する也。何等の為か不分候へども、恐らくは岩倉公・大久保・広沢等の密策にして三藩の兵より(薩長斗りか)は決て兵端を開く事はせざれども、徳川家より兵端を開かしむる事を促す意味なるべし”とありますが、戊辰戦争が尊王攘夷急進派による挑発によって始まったことがわかると思います。

 私は、こうした歴史の真実がきちんと受け継がれる日本になってほしいと思います。

  
 下記は、「幕末維新史料叢書4 逸事史補 松平慶永 守護職小史 北原雅永」(人物往来社)から抜粋しました。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 維新前後──天皇御親政と小御所会議の実況──
                                                   浅野長勲
                      王政復古と小御所会議

 王政復古建議の事
 王政復古建議の事に及びます。茲に余願ふに、我帝国中古以来王綱紐を解き、武将たる者、文武の権を握り、天下に号令するに至り、天子は徒らに虚器を擁して育つて無きが如し。此世態を一変して、天下の大権を天子に帰し奉り、政令一途に出でしめずんば、天下を泰平の安きに置く能はずと考へ、茲に王政復古の建議を成すことに決しました。就ては此草按を辻将曹に持せて上京せしめ、先づ薩摩の家老小松帯刀に示したる処、非常に賛成にて、一先づ島津久光に見すべしとの事でありましたが、島津久光に於ても至極賛成の由、然し薩摩に於ては別段建議はせぬとの事でありました。其れより土佐の家老後藤象次郎に示したる処、是又大層賛成でありまして、是も主人山内豊信に一応見せたしとの事でありましたが、別段返答もなく、芸州と土佐と別々に建議を致しました。
 然る処之れを採用せられ、已に成立の見込みも相立ちたるに依り、在京の辻将曹より其義を申越したるに付き、京都への進軍は見合わせ、京都警衛として順路差し上しました。大坂西の宮辺に屯在の長州兵へは、西郷吉之助より打合せを為す事となりました。追々王政復古の事も進捗しまして、

 岩倉邸会合の事
 慶應三年十二月八日岩倉邸に於て右大改革発表の手順を議す事と相成りましたが、同志の諸侯が集合する時は、秘密の洩れん事を慮り、各重臣を遣す事としました。我藩よりは辻将曹、桜井与四郎を参会せしめ、密議全く纏まり、明九日此大改革を発表するに一決し、同志の面々へ直ちに檄を飛ばし、明九日早朝より宮中へ参集せよと約せり、此飛檄に応じ宮中へ参集したる人々には、太宰師有栖川熾仁親王殿下、常陸太守山階晃親王殿下、仁和寺宮純仁法親王殿下、前大納言中山忠能、前大納言正親町三条実愛、中納言中御門経之、右大弁万里小路博房、三位中将岩倉具視、宰相大原重徳、三位長谷信篤、少将橋本実麗、武家には尾張前大納言徳川慶勝、越前宰相松平慶永、薩摩少将松平茂久後島津忠義、土佐前少将松平豊信後ち山内豊信、安芸新少将松平茂勲後ち浅野長勲即ち私の事であります。其他尾越薩芸土五藩の重臣早朝より宮中に馳せ集る。之れと同時に、右五藩の兵隊をして御所の要所要所を固めしめ、同じく五藩の兵をして宮中の椽下(エンノシタ)に潜伏せしめ非常を警めしむ。

 王政復古の大号令発布せらるゝ事
 而して王政復古の大号令は煥発せられたり。直ちに摂家、関白、議奏、伝奏、及び幕府将軍、禁裡守護職、京都所司代、等悉く廃止し、更に総裁、議定参与、の三職を置かれました。総裁には有栖川宮之れに任ぜられ、議定には、山階宮、仁和寺宮、中山前大納言、正親町三条前大納言、中御門中納言、尾張前大納言、越前宰相、島津少将、土佐前少将、安芸新少将之れに任ぜられ、参与には岩倉三位、大原宰相、万里小路右大弁、長谷三位、橋本少将之れに任ぜらる。此に於て新職員の組織全く成れり。其夜維新の国是を確定せらるゝ為め

 小御所会議の事
 小御所に於て御前会議開かる。其御前会議の有様を御咄し致します。先づ正面の高御座に天皇陛下出御あらせられ、会議を聞し召さる。親王及び公卿の役員は、二の間右側西向に衣冠にて正列し、武家の役員は左側東向に之れ又衣冠にて列を正す。三の間には五藩の重臣肩衣にて之れに列す。爰に於て中山大納言より開会宣せらる。暫く粛然として水を打ちたる如く、一言も発する者なし。稍やあつて、山内豊信進み出で此の会議には徳川内府も之れに列せしむべしと述ぶ。大原三位異議を唱へ、徳川内府の真意解し難きに依て出席は宜しからずと述ぶ。山内豊信は前説を固く取つて激論に及び、天皇陛下に対し不敬の言もありたれば、岩倉卿大喝一声山内豊信の不敬の言を叱責したれば、山内豊信其不敬を謝せり。且つ岩倉卿は自説を開述せらる。余は島津少将と共に岩倉卿の説に賛して論争せり、各重臣は其主人の説を助けて大に争ひ、甲論じ乙駁し深更に及ぶとも雖も何時止むとも見えざりき。中山大納言は一先づ休憩を命ぜられ、夫々休憩所へ引取りました。此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり、余は休憩所へ引取る途中岩倉卿が余を一室に麾(サシマネキ)き余に申さるには、此の薩土の軋轢より維新の盛業も水泡に帰せん事を恐れ、後藤象次郎に説諭せよと依頼さる。余之れを承諾し、一先づ辻将曹を以て説かしめんと存じ、この旨を辻将曹に申聞けたれば、直ちに後藤象次郎の休憩所に参り、説諭したれども容易に聞入れず、漸く会議の席上に於ては自説を述べずと答えしかば、豊信へも此事を通ぜられん事を約したる旨を復命したれば、是れを岩倉卿へ申伝へ、再び御前会議を開かれ、夫々議題を議
了し首尾能く閉会せられました。

 岩倉卿と懇談の事
 然るに又岩倉卿が再び余を別室に招かれて申さるゝには、会議も滞りなく済みたれども、薩土の軋轢に於て将来甚だ心配に堪へず、他の役員は皆な退散したれども、余は差向ひて終夜呑み交わして、互いに前途の事を協議致しました。其時の食器に付き御咄し致しますが、其食器たるや田夫野人の用ゆる所の粗末なる陶器にして、其食物は田作り、焼豆腐位ゐの事に過ぎず、酒も宮中に於ては用ゆる事は出来ぬ事と相成つて居ります。故に吸物椀に酒を入れ、幾度も之れを代へて、呑みました。宮中に於て公卿方が常に使用せらるゝ食器は、皆な斯の如き粗悪な物であります。之れを以ても当時朝廷の衰微なることを知るに足ります。後ち岩倉卿は右大臣となられ同卿より密議の節用ひたる同様の食器を態々贈られ、当時の事を忘るゝ勿れと懇諭せらる。余は右の食器を記念として鄭重に保存して居ります。 

 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           逸事史補

 幕府の開国論と京都の攘夷論 
 ペルリ渡来以後、幕府にては追々才識ある有志の輩出あり、前述せる堀(堀織部正)・永井(永井主水正)・岩瀬(岩瀬肥後守)・水野(水野筑後守)等、幕府の政庁にたつて政権をとれり。故に外国の事情も追〻相分り、外国交際の事は、今更断る事ならざる道理、攘夷は出来ざる事を初て詳明せり。京都にては、此事情は知り給はずして、頻に攘夷の説行はれて、幕府へ命ずるに攘夷の事を以す。幕府はならざる事をしれり。故に或は遁辞を以てし、或は欺罔(キモウ)を以す、実に幕府の遂に倒るゝの兆なり。

 幕府倒壊の原因
 幕府の倒るゝや、余の考にては、攘夷と天朝を翼戴(ヨクタイ)させる事と、長州征伐と、慶喜公との数件なり。予皆、此間に処して、詳明にしれり。忌憚なくこれを陳説せんと思へり。

 天朝と幕府との間に隙間を生ず
 幕府の天朝を敬礼する事は、文恭公(徳川家斉)一代にまで止まれり。慎徳公(徳川家慶)に至つては、頗衰へたり。乍併(シカシナガラ)十分の消滅にはいたらず。温恭公(徳川家定)は頗る発才の性質にあらず、凡庸中の尤下等なり。 慎徳公はペルリ渡来の事につき、病中尤大なる憂苦のために薨ぜられたり。ペルリ渡来後、追々外国交際始まりてより以来、天朝を軽蔑する事甚し。従天朝は頻に攘夷の詔を下降し、幕府には外国交際の道追々詳明なるに従ひ、京師の詔無理なりと云政府の説より、天幕の間隙を大に生ぜり。幕府而已外国交際を尊びしと衆人心得候て、皇国一般有志の忿怒を生じ、幕府の苛政を厭(イト)ひ、外国交易免許の事を悪(ニク)み、幕府に心を離し、天朝を敬戴せる心を引起すは此ゆへんなり。

 大政奉還の経過
 余上京直に参内、二条城へ登城し、慶喜公に対面し、今度大政奉還の次第を予め慶喜公被話候。今後は如何者歟、春嶽は考はなきかと被申候故、中々如私愚鈍なるものゝ考へ付がたしと答候。慶喜公云く、是迄は御承知の通り 於幕府天下を統御し政権あり、役人は皆旗本を用ひ、老中若年寄は譜代大名を相用ひ候、従今は右等の幣習を破り、天下の諸侯を京師に会同し、諸藩の有名豪傑なる人を撰みて、公平無私に政治を議し執行するの外他なしと被申。偖(サテ)考ふるに、政権は全く徳川氏に如以前将軍にはなくとも、諸侯頭にても被命候哉の心算の趣に被相考申候。尤今般の王政御一新は、不容易事にて、大久保利通此時市蔵・西郷等窃に目的を立、岩倉公へも内談いたし居候儀と被考候得共、此儀は誰も知る人なし。況ヤ関白殿下・尹宮(インノミヤ=久邇宮朝彦親王)等は尤御承知無之。如会津も毫もこれを知ることなし。

 江戸の於ける薩人暴動のこと
 此十二月末と覚へ候。薩人暴動し、酒井左衛門尉手にて征伐す云々の飛報、薩摩より御所へ急報来る。何も驚愕す。窃に聞く、此時分天璋院公三の丸に住し給ふが、三の丸自火にて焼失す。恐らくは薩人天璋院公を奪ひ去る計策なりやといふ者もあり。乍去、此時分の事は分明なりがたし。又一説には王政維新発令前、岩倉公・大久保・西郷等の内議により、江戸の薩人申遣して都下を暴動し、酒井左衛門尉等の兵を動かさしめ、江戸に在りし徳川家の旗本を忿怒せしむるが為に設けたる一策なりともいへど、分明なりがたし。余が考ふる所は、多分此策は、真偽は保証しがたしといへども、実説なるべきを信用す。いかんとなれば、慶永日々参内するに、大久保市蔵は面会候はねども、岩下佐次右衛門に逢ひ、江戸の騒動を聞きし所、左のみ驚く様子も無之、余は大に於京都、此報をきく否や苦労せり。

 伏見戦争
 扨(サテ)三日戦争は、余九条殿中にて戦争の開く事を知る。大に驚愕せり。想像論なれども、気運の然からしむるは実に無致方もの也。薩長土の藩兵は伏見に出張する也。何等の為か不分候へども、恐らくは岩倉公・大久保・広沢等の密策にして三藩の兵より(薩長斗りか)は決て兵端を開く事はせざれども、徳川家より兵端を開かしむる事を促す意味なるべし。跡にてきけば、前記にもある通りにして、於東京(江戸)薩人暴挙、酒井左衛門尉に討手(ウチテ)を被命。是は慶喜公は在京故承知はなけれども、幕吏の大に忿怒を生ぜり。瀧川播磨守等薩人を悪む事虎狼よりも甚し。此播磨守舟にて大坂に到り、慶喜公へ面会し、頻に天皇君側の姦を除き、薩長を討伐することを勧進し、慶喜も困却極りし内に、段々兵隊を繰出し、終に伏見に於て兵端を開く事となれり。是は今にて考ふれば、気運のしからしむる所にして、人力の不及所なり。 

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