明治維新は、まるで「日本の夜明け」の始まりであるかのようの語られ、また、多くの日本人が、そのように受け止めているのではないかと思います。確かに明治時代、多くの分野に西洋の文明が入ってきて、身の回りの物や生活習慣、諸制度が大きく変化したので、そういう側面があることは否定できません。
しかしながら、見逃してはならないのは、「尊王攘夷」を掲げ、嘘と脅しとテロによって幕府を倒した薩長および討幕派公家を中心とする政治勢力が、権力を手にして作り上げた日本は、自由や人権が制限され、戦争に突き進むことを止めることが出来ない「天皇主権」の日本であったという政治的側面です。そして、その天皇主権の日本は、先の大戦における敗戦まで変わることはありませんでした。だから、「日本の夜明け」などといえるようなものではなかったのだと、私は思います。
明治政権は、批判を許さない体制を整えつつ、膨張政策をとり、琉球を強制併合した後、台湾出兵、江華島事件、朝鮮王宮占領、日清戦争、日露戦争、日韓国併合、山東出兵…、など武力衝突をくり返しました。そして、そうした姿勢が、日本の敗戦に至るまで変わることがなかったことを考えれば、明治維新は日本の敗戦への歩みの始まりではなかったのか、と私は思うのです。
下記に抜粋した文書が示すように、薩長および討幕派公家を中心とする政治勢力による天皇の「政治利用」の意図は明白です。そして、それが批判や反対を許さない体制をつくるための手段であった側面を、私たちはしっかりおさえておくことが大事ではないかと思います。
資料1の1「具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事」は、岩倉具視が王政復古の必要性を公家中山忠能を通じて満14歳で践祚の儀を行った明治天皇に伝えた文書で、王政復古の計画がすべて薩長および討幕派公家を中心とする政治勢力によって進められていたことがわかります。王政復古は”宸断”(天皇の判断)などではないということです。また、ここで示されている幕府の評価は、当時の状況を考慮しない一方的なものだと思います。でも、天皇が裁可を拒否することはあり得ない状況だったのではないかと思います。
資料1の2「討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事」は、やはり岩倉具視が「討幕の密勅」を玉松操に書かせ、公家中山忠能を通じて明治天皇に伝えたことを記した文書です。天皇に報告はされていたようですが、すべて一部の人達によって秘密裏に話しが進められており、「勅命」などといえるものではないことがわかります。天皇は政治的に利用されていたに過ぎないということです。
資料1の3「小御所会議ノ事」は、岩倉具視が山内容堂を叱責した有名な場面が記された文書です。山内容堂の発言は、当時の情勢をしっかり把握した正しいものだったのだと思います。だから、容堂の発言に対する岩倉や大久保の反論は支持を得られず、討幕派内容堂を脅すことによって、その主張を通したのだと思います。また、丁卯日記では、容堂の発言に最初に反論したのは、大久保一蔵で、それに続いたのが岩倉でしたが、「岩倉公実記」では、それが逆転しています。理由はよくわかりませんが、何か怪しげな意図を感じます。
資料2「巻七 慶応三年 四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」は、長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡ですが、討幕派の本音をうかがい知ることが出来る、きわめて重大な文書です。そして、その本音は、
”至其期其期に先じ而甘く 玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…”
ということなのです。
天皇は「玉」と表現されていますが、玉を我方へ抱き込むことが何より大事で、敵とする幕府側に万が一にも天皇を奪われてはならないという意味だと思います。自らの倒幕計画を「芝居」と表現しており、天皇を奪われたら、その芝居が大崩れとなって、滅亡の危険があるというわけです。天皇を政治的に利用しようという意図が明白です。
資料1の1,2,3は「岩倉公実記」中巻(明治百年史叢書)から、資料2は「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)から抜粋しました(但し、返り点などは表示できず、省略しています)。
資料1の1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
具視王政復古大挙の議ヲ中山忠能ニ託シテ密奏スル事
具視王政復古大挙ノ議ヲ書シ中山忠能ニ託シテ之ヲ密奏セシム其文ニ曰ク
方今海外万国大小ト無ク国力ヲ挙ケテ富強ノ術ニ致シ人智日々相開ケテ万里ニ雄飛シ宇内之形勢大ニ一変ス是時ニ当リ皇国ノ政体制度御革新万世ニ亙リ万国ニ臨ミ天地ニ愧ツ可カラサルノ大条理ヲ以テ不抜ノ御国是ヲ確立シ衆心一致皇威ヲ内外ニ宣揚シ中興ノ御鴻業ヲ施行セラルゝハ至大至要ノ急務ト奉存候抑皇家ハ連綿トシテ万世一系禮樂征伐朝廷ヨリ出テ候而純正淳朴ノ御美政万国ニ冠絶タリ然ルニ中葉以降覇府大柄ヲ掌握シ文武分岐シ天下ノ大勢古代トハ一変シ朝廷ハ全ク虚器ヲ擁セラルゝノ姿ニテ万民ハ上ニ天子アルヲ知ラサルノ陋習ト相成リ愧ツ可ク歎ス可キノ甚キモノニ候夫レ国家綱紀ノ弛張人心ノ離同ハ名ヲ正スニ始マリ候ハ古今ノ通論ニ候処近年幕府ニ於テ失政尠カラス外ハ各国ノ条約締結内ハ長防ノ処置等総テ朝廷ヲ脅制シ奉りテ列藩ノ公議ヲ排斥シ放肆(ホウシ)縦横ノ政令ヲ施行シ人心離叛禍乱相踵キ遂ニ今日ノ体ニ陷溺(カンデキ)シ尚此上私心ヲ以テ偏執邪曲ノ政令陸続ト出テ暴威鴟張相成候テハ全ク朝廷ヲ擁スルノ姿ニテ一令相発スルトキハ一激ヲ増スノ人心ニ候ヘハ約リ寶祚(ホウソ)ノ御安危ニ相カイギ係リ候ハ必然ノ御儀ト不堪苦心之至候仮令(ケリョウ)一時無事ナリトモ目今万国ノ交誼天地公道ノ在ル所ヲ以テ和戦ヲ決シ進退ヲ定ムルノ際ニ当リ斯ル名分紊乱ノ制度ヲ以テ万国ト御対峙ハ相成リ難キノミナラス皇国内ノ人心ニ於テモ亦片時モ居合相付キ難ク内外実ニ容易ナラサル危急ノ御大事切迫ノ御時節ナルヲ以テ断然ト征夷将軍職ヲ廃止セラレ大政ヲ朝廷ニ収復シ賞罰ノ権与奪ノ柄皆朝廷ヨリ出テゝ大ニ政体制度ヲ御革新在ラセラレ皇国ノ大基礎ヲ確立シ皇威恢張ノ大根軸ヲ確定セラレ度非常ノ御英断ヲ以テ速ニ朝命降下相成候様奉願候事
十月 臣 友山
忠能之ヲ御前ニ上ツリテ具サニ薩摩長門安芸三藩決議連盟ノ顛末ヲ奏ス上之ヲ嘉納シ給
資料1の2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
討幕ノ密詔薩長二藩ニ降下スル事
初メ具視カ中山忠能正親町三条實愛中御門経之之ト共ニ討幕ノ順序ヲ商議スルヤ詔書ヲ薩摩長門安芸三藩ニ降下センコトニ決定ス而シテ安芸藩ハ仍ホ顧慮セサルヘカラサルノ形情アルヲ以テ其議ヲ換ヘ先ツ薩摩長門二藩ニ降下センコトニ更ム具視乃チ玉松操ヲシテ詔勅ヲ草セシム是ニ於テ忠能之ヲ密奏シ宸裁ヲ経タリ十月十三日忠能将サニ毛利敬親父子官位復旧ノ宣旨ヲ廣澤兵助ニ授ケントス會マ新選組浪士中山邸ノ門前ニ徘徊シ諸藩人ノ其門ニ出入スルモノヲ偵察ストノ密報アリ忠能俄カニ手翰ヲ具視ニ寄セテ宣旨ヲ兵助ニ授ケンコトヲ託ス具視乃チ兒八千丸(後ニ具経ト名ツク)ヲ中山邸ニ遣リ其宣旨ヲ受ケシム忠能之ヲ八千丸ニ授ク八千丸即チ之ヲ襯衣(シンイ)ノ背面ニミ密蔵シテ以テ帰ル八千丸ハ総角ノ童子ニシテ他ノ嫌疑ヲ避クルニ便ナルヲ以テノ故ナリ此夜具視ハ大久保一蔵兵助ヲ寺町ノ本邸(寺町出川下ル里町実相院跡ノ坊)ニ召シ語ルニ証書ヲ安芸藩ニ降下セサルノ事情ヲ以テス乃チ男具綱孫具貞ニ命シ敬親父子官位復旧ノ宣旨ヲ兵助ニ授ケシム其文ニ曰ク
毛利宰相
同 少将
戌午以来邦国多事天歩艱難之砌(ミギリ)東西周旋其労不尠候處幕府讒構(ザンコウ)百出遂ニ乙丑丙寅之始末ニ及候得共従来為皇国竭忠誠候父子至情徹底於先帝顧命之際□深被留叡慮候依之今般御遺志御継術本官本位ニ被復候間速ニ可有入朝愈以干城之勤不可怠旨御沙汰候事
忠能
慶応三年十月十三日 實愛
経之
兵助感泣シテ去ル翌十四日實愛ハ一蔵兵助ヲ其邸ニ召シ徳川慶喜ヲ討ツノ詔書並ニ松平容保松平定敬ヲ誅スルノ宣旨ヲ授ケ且錦旗(此時錦旗ノ製作未タ成ラサルヲ以テ目録ノミヲ授ク)ヲ賜フ長門藩ニ授ケル詔書ニ曰ク
参 議 大江敬親
左近衛権少将 大江廣封
詔源慶喜借累世之威恃闔族之強妄賊害忠良。数棄絶王命遂矯先帝詔而不懼。擠万民於溝叡而不顧。罪悪所至。神州将傾覆焉。朕今為民之父母。是賊而不討。何以上謝先帝之霊。下報万民之深儺哉。是朕之憂憤所在。諒闇而不顧者。萬不得已也。汝宜体朕之心。殄戮賊臣慶喜。以速奏囘天之偉勲而措背イ霊干山獄之安。此朕之願。無敢或懈。
正二位 藤原忠能
慶応三年十月十四日 正二位 藤原實愛
権中伊佐氏納言 藤原経之
薩摩藩ニ授クル詔書ニ曰ク
左近衛権中将 源久光
左近衛権少将 源茂久
詔源慶喜藉累世之威(以下前同文之ヲ略ス)
長門藩ニ授クル宣旨ニ曰ク
会津藩宰相
桑名藩中将
右二人久滞在輦下助幕賊之暴其罪不軽候依之速可加誅戮旨被仰下候事
忠能
十月十四日 實愛
経之
長 門 宰 相 殿
同 少 将 殿
薩摩藩ニ授クル宣旨ニ曰くク
会津藩宰相
桑名藩中将
右二人久滞在輦下(以下前同文之ヲ略ス)
實愛ハ薩長ニ藩ヨリ奉命書ヲ上ランコトヲ命ス此夜一蔵来り具視ニ謁シテ奉命書ヲ上ツル其文ニ曰ク
当節不容易御危急之砌為皇国不被為顧忌諱御内々御尽力確定不抜之叡慮被為伺取勅書降下両藩深御依頼被為思食候御旨趣奉謹承卑賤之小臣等不奉堪感激流涕奉存候早々寡君江報知決定之宿志益以貫徹仕抛国家堂々大挙仕可奉安宸襟候此段盟天地御受仕候誠惶頓首
廣澤 兵助
福田 俠平
品川弥二郎
慶応三年丁卯十月十四日 小松 帯刀
西郷吉之助
大久保一蔵
中 山 前大納言様
正親町三条前大納言様
中 御 門 中納言 様
岩 倉 入 道 様
具視乃チ忠能實愛経之ニ囘示ス忠能之ヲ奏覧ス中外絶テ知ルモノナシ
資料1の3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小御所会議ノ事
九日夜小御所ニ出御総裁熾仁親王、議定晃親王、嘉彰親王(是時純仁親王勅命ヲ承ケ復飾シ今ノ名ニ更ム)中山忠能、正親町三条實愛、中御門経之、徳川慶勝、松平茂勲(浅野長勲)、松平豊信(山内容堂)、松平茂久(島津忠義)、参与大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、具視、橋本実梁ヲ御前ニ召サセラレ会議ヲ開カシメ給フ尾張藩丹羽淳太郎、田中邦之助、越前藩中根雪江、酒井十之丞、土佐藩後藤象次郎、神山左多衛、安芸藩辻将曹、桜井與四郎、薩摩藩岩下佐次右衛門、西郷吉之助、大久保一蔵亦命ヲ承ケ藩列ニ陪ス忠能勅旨ヲ宣ヘテ曰ク徳川内府政権ヲ奉還シ将軍職ヲ辞スルヲ以テ其請ヲ允シ給フ因テ王政ノ基礎ヲ肇設シ万世不抜ノ国是ヲ建定シ給ハントス各階聖旨ヲ奉戴シ以テ公議ヲ盡クスヘシ豊信先ツ議ヲ発シテ曰ク速ニ徳川内府ヲ召シテ朝議ニ参与セシムヘシ重徳之ヲ駁シテ曰ク内府ハ政権ヲ奉還スト雖其意果シテ忠誠ニ出ツルヤ否ヲ知ラス姑ク朝議ニ参与セシメサルヲ以テ善トス豊信之ヲ抗弁シエ曰ク今日ノ舉頗ル陰険ニ渉ル諸藩人戎装シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不詳尤甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ帰服セシムル能ハサラン元和偃武以来幾ント三百年ニ近シ海内ヲシテ太平ノ隆治ヲ仰カシムルモノハ徳川氏ナリ一朝故ナク其大功アル徳川氏ヲ疏斥スルハ何ソ其レ少恩ナルヤ今ヤ内付カ祖先ヨリ継承ノ覇業ヲ抛チ政権ヲ奉還セシハ政令一途ニ出テ以テ甌無缺ノ国体ヲ永久ニ維持センコトヲ謀ルモノニシテ其忠誠ハ洵ニ感歎スルニ堪ヘタリ且内府カ英明ノ名ハ既ニ天下ニ聞ユ宜ク速ニ之ヲシテ朝議参頂シ以テ意見ヲ開陳セシムヘシ而ルニ二三ノ公卿ハ何等ノ意見ヲ懐キ此ノ如キ陰険ニ渉ルノ挙ヲナスヤ頗ル暁解スヘカラス恐ラクハ幼冲ノ天子ヲ擁シテ権柄ヲ窃取セント欲スルノ意アルニ非ラサルカ誠ニ天下ノ乱階ヲ作ルモノナリ豊信気騰リ色驕ル傍若無人ノ状アリ具視之ヲ叱ツテ曰此レ御前ニ於ケル会議ナリ卿当サニ肅槇スヘシ聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ツ妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス何ソ其レ亡礼ノ甚シキヤ豊信恐悚シ失言ノ罪ヲ謝ス慶永之ヲ論シテ曰ク王政施行ノ首ニ於テ刑名ヲ取リ道徳ヲ棄ツルハ甚タ不可ナリ徳川氏二百余年ノ太平ヲ開ク其功ハ今日ノ罪ヲ償フニ足ル宜ク容堂ノ言ヲ容ルゝヘシ具視之ヲ駁シテ曰ク家康公カ天下ニ覇タルヤ世ヲ太平ニ致シテ蒼世ヲ利済ス其功徳固ヨリ小ニ非ス而ルニ子孫ハ祖先ノ遺烈ニ藉リ権勢ヲ怙ミ上ハ皇室ヲ凌罔シ下ハ公卿侯ヲ劫制ス君臣ノ義ニ乖キ上下ノ分ヲ乱タス年既ニ久シ且嘉永癸丑以来勅命ヲ蔑如綱紀ヲ敗壊シ外ハ専断ヲ以テ欧米諸邦ト通信貿易ノ約ヲ立テ内ハ暴威ヲ振テ憂国ノ親王公卿諸侯ヲ廃錮シ勤王ノ志士ヲ?害ス継テ無名ノ師ヲ興シテ長防ヲ再征シ怨ヲ百姓ニ結ヒ禍ヲ社稷ニ帰ス其罪亦大ナリ内府果シテ反省自責ノ心ヲ懐カハ当サニ速ニ官位ヲ辞退シ土地人民ヲ還納シ以テ大政維新ノ鴻図ヲ翼賛スヘシ今政権ノ空名ノミヲ奉還シ手土地人民ノ実力ヲ保有ス其心術ノ邪正ハ掌紋ヲ指スカ如ク明瞭ナリ何ソ遽ニ之ヲ召シ朝議ニ参頂セシム可ケンヤ朝廷当サニ先ツ内府ニ暁諭スルニ官位辞退ト土地人民還納トノ二事ヲ以テシ其反省自責ノ実効ヲ徴スヘシ之ヲ召シ以テ朝議ニ参頂セシムルカ如キハ其実効ヲ立ツルト否トニ由リ始メテ決定ス可キナリ一蔵席ヲ前メ具視ニ左袒シテ曰ク土越二公ノ議ハ未タ以テ徳川公心術ノ邪正ヲ剖析スルニ足ラス徒ニ空論ヲ以テ之ヲ争ハンヨリハ寧ロ之ヲ実行ニ徴スルニ如カス岩倉公カ論ノ如ク官位辞退ト土地人民還納トノ二事ヲ徳川公ニ暁諭シ給ヒ徳川公果シテ之ヲ奉承セラルゝコト有ラハ則チ其心忠誠ヲ存スルモノナリ宜ク之ヲ召シテ朝議ニ参頂セシメラルヘシ又之ヲ奉承セラルゝコト無キトキハ則チ其心譎詐(キッサ)ヲ懐カルゝモノナリ宜ク速ニ其罪ヲ聲ラシテ之ヲ討伐セラルヘシ象次郎亦席ヲ前メ慶永豊信ノ議ニ賛同シ頗ル之ヲ論弁ス忠能ハ慶勝ニ問テ曰ク卿カ意見ハ如何慶勝答テ曰ク春嶽容堂ト同論ナリ忠能之ヲ茂久ニ問フ茂久答テ曰ク岩倉前中将ノ論ノ如ク之ヲ行フニ非サレハ王政ノ基礎ヲ固ムルコト能ハス忠能乃チ座ヲ起チ将サニ實愛博房信篤ト私語セントス具視之ヲ搤止ッシテ曰ク聖上親臨シ群議ヲ聴キ給フ諸臣宜ク肺肝ヲ吐露シ以テ当否ヲ論弁スヘシ何ソ漫ニ席ヲ離レテ私語スルヲ用ヰンヤ上弁論ノ未タ盡キサルヲ見給ヒ少時休憩ヲ命シ給フ具視退キ休憩室ニ入リ独リ心語ス豊信猶ホ固ク前議ヲ執リ動カサレハ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ乃ち非蔵人に命し茂勲ヲ喚ハシム茂勲ニ至リ座ニ著ク具視ニ謂テ曰ク予ハ卿カ論ヲ以テ事理当然トス今マ辻ニ命シ後藤ヲ諷喩シテ卿カ論ニ従ハシメンコトヲ図ル後藤若シ之ヲ肯ンセサルトキハ予ハ飽クマテ容堂ト抗弁シテ已マサラントス将曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次郎ニ諷喩スルニ具視ノ論ニ対シ抗議スルノ不利ナルコトヲ以テス象次郎大ニ悟ル是ニ於テ象次郎ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ説キ曰ク前刻主張セラルゝ所ノ尊議ハ恰モ内府公カ詐謀ヲ懐カルゝヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ既ニシテ上再ヒ出御アラセラレ親王諸臣ヲ召シ会議ヲ継カサシメ給フ豊信心折レ敢テ復タ之ヲ争ハス朝議遂ニ決ス蓋シ具視ノ論旨ニ従フナリ熾仁親王進ンテ御前ニ候シ以テ宸断ヲ仰ク上之ヲ可シ給フ時已ニ三更ヲ過ク
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
巻七 慶応三年 四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日
乱筆御免御熟読後御投火可然と奉存候
頓に御着京引継ぎ不一形御尽力と想察仕候爰元も其後無相変且々芝居之手筈而已に乍不及骨折申候干時過る十八日夜御堀ども芸より帰り直に様子承り候處誠に大緩み之体に而諸事不都合不少切迫に相論じ漸先き之手筈相詰め早々罷帰候處其後津和ノ藩之人芸要路に面会之處此度幕より達有之長上坂先見合居候と申事に付決而上坂は有之間敷く只今上坂而も名義が不立と歟甚迂論申立候由右達面も御堀罷越居候ときは更に噂も不致御堀帰り候哉否直様使節を以右之達面申来り候次第甚以驚入候事に御座候依而弟と兵と早速使節に面会いたし何故至今日右之達面芸におゐて御受け込に相成候哉我策を彼に与ゆべき之處却而彼之策を我に与え候御手伝いかにも落着に不及儀と厳敷申論し候得共今更いたし方も無之候に付右之達面と食ひ違ひ最早上坂之面々出帆いたし候と申都合に而廿八九日頃に幕へ為相答候次第にして帰し申候右之外かゝる容体に付諸事甚以無覚束被相考申候間廣兵昨日より罷越候様に相決し候手筈相立相発し候までは見合居候 都合に御座候芸国之大に搖き候も辻植田とも帰国後之事と被相察上国表面之有様に而只々めて度し々々と申様子にて相察いかにも浩歎至極に存申候右之次第に付於御地も詰度其御手筈に而御鞭策無之而は肝要之大機を誤り候は必然と懸念至極に御座候此度之御上京も兼て申承り候辺とは余程旁不平之次第に候呉々
も御抜目なく御迫り立申も疎に御座候今日之体たらくにては大機を失し候事は眼前之被思いかにも不安心の至に御座候實以
皇国之御大事に相係り申候間誓而御油断無之様奉祈念候此段大略任幸便得御意置候〇至其期其期に先じ而甘く
玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に
皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了に御座候間此處は詰度乍此上岩西大先生達ちへも御論し一歩一厘は御拔り無之様御盡誠尤肝要第一之御事に御座候諸子よりも西翁などへも得と相論し置
世子君よりも西翁へ御直々に被仰聞何分にも此儀真之大眼目に付返す々々も御丹誠御盡力千禱萬祈之至に御座候ちら々々と風説書上など一見候處に而も彼も余程こゝへは惣に心を用ひ気を着け居候處趣相顕れ懸念に堪へ不申候誓而御抜り無之様蒼生挙而奉祈候〇
一且奉抱候上に而其御地近辺に而御守護御六つヶ敷ときは是非々々三藩之力を以備と足も手も束ね合せ備地へ一応御とゞめ仕備をして大義滅親之大節を為立四方之方向を相立候儀尤可然と奉存候備より此大節を相立四方へ相示し候ときは速に御大示趣御貫徹にも立至り可申此大事に付一応勝を占め候とも余り長引終に世間大に疑惑を生し紛乱を醸し候而は其決局必然外夷之術中に陥り候儀は眼前之事に御座候迅速に成丈片付不申而は不和済此間至当之所致
皇国御興廃之尤大関係と奉存候何分にも細密に諸先生へ被相談御盡誠此時に御座候先は為其態と得御意申上度一書差出し候其中別而御自愛肝要に御座候世良其外諸氏へも可然御致意可被下奉願匇々頓首
十一月二十二日夜半
尚々芸之處は十分御拔り無之様御手を被盡度毛ほども油断は相成不申候能々御注意肝要に御座候第一第二之事件返す々々も御盡誠千禱萬祈千載之大成敗は只々此處に有之申候不一
春狂盟兄(密呈至急) 竿鈴
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI