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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通州事件 陸軍武官・今井武夫 の記述

2016年10月30日 | 国際・政治

 「支那事変の回想」(みすず書房)の著者(今井武夫)は、1937年(昭和12年)の「蘆溝橋事件」当時、中国大使館付き武官として、中国側と現地交渉をくり返し、一時停戦に貢献したといわれる人物です。

 彼は通州事件後、当時親日地方政権であった冀東防共自治政府の政務長官・殷汝耕の救出に心を砕いたことでも分かるように、日本軍関係者のみならず、中国要人にも知り合いが多く、中国側に対して一方的に日本の主張を通そうとする人ではなかったようです。だから、通州事件を、日中の全体的な関わりの中で、比較的冷静に、そして客観的にとらえているように思います。同書には、日本側に受け入れられていた通州駐屯の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)に関して、下記のような記述があります。

通州駐屯の保安隊は張慶餘の指揮する第一総隊と張硯田の第二総隊であったが、早くから秘密裡に人民戦線運動参加に勧誘され、蘆溝橋事件後日華両軍の開戦決定的となるや、冀察政府の首脳部からも強力に働きかけを受けて、内々その指導を受入れる空気になっていた。たまたま7月28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明らかにした。

 この記述から、不満を抱きつつ最後まで日本側に妥協して我慢していた通州保安隊も、関東軍飛行隊による爆撃を受けて、一気に怒りを爆発させ、日本人襲撃に至ったのではないかと考えさせられました。
 
 また、著者(今井武夫)は、通州保安隊の反乱から逃れ、奇跡的に生還した安藤同盟通信記者が、中国農民の好意に助けられ、九死に一生を求めることができたことを取り上げています。また、それに続けて、下記のような文章を加えているのです。

”その他29日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、反乱保安隊員の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面も窺い得る感じであった。

 でも、残念ながら、日本には通州事件について、
商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
とか
婦女子は子供といえども一日中次々と支那人が強姦し…”
とか
臨月の妊婦の腹から赤ちゃんを針金で強引に引き出してから輪姦…”
とか
まるで、今見てきたかのように、中国人の残虐性ばかりを並べ立てる人たちがいます。そして、あたかも全ての中国人が残虐であるかのように言うばかりでなく、それを中国人の「気質」の問題として論じている人もいるのです。私は、それは平和的な国際関係の発展や日中関係の改善にとって「百害あって一利なし」の主張ではないかと思います。

 下記は、「支那事変の回想」今井武夫(みすず書房)から抜粋しました。

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                    第一 蘆溝橋事件
通州事件と殷長官救出
 7月29日夜明けを待って、私は真先きに北平市内を一巡して見たが、冀察軍撤退後の北平は、バリケードや土嚢の防御施設が散乱していただけで、市内は至って平静であった。城内には冀察第百三十二師の二個師団を保安隊に改編して残置したが、治安と人心安定のため至急中国側の委員会を結成する必要を認め、私は29日朝松井特務機関長と協議の上、元国務総理の経歴を持ち、北平市民の間で元老的存在であった、70数歳になる高齢の江朝宗を主席とし、委員としては商務総会より代表として冷家驥(レイカキ)、銀行工会鄒泉孫(スウセンソン)、自治会呂均、市政府周履安、公安局長潘毓桂(ハンイクケイ)を推薦して、地方維持会を結成し、翌30日午後急速に成立式を挙行した。

 この維持会には、日本側からも赤藤憲兵隊長、笹井冀察軍事顧問、西田冀察政務委員会顧問等数人を顧問として派遣し、日華双方の円滑な連繋をはかった。
 又冀察政権は北平撤退に際し、初め張自忠を宋哲元委員長の代理として残置した。しかし、その後戦局の拡大するに伴い、自然に行政機能を失い、8月19日自ら解散し、張は便衣で変装の上南下逃亡し、国民政府軍の師長に就任したので、冀察政務委員会は自然消滅の運命を辿った。
 又7月30日には冀北保安総局司令石友三の指揮下にあって、北苑の兵営に駐留していた、独立第三十九旅旅長阮玄武から、参謀長張禄卿を代表として陸軍武官室に派遣し、同部隊は日本軍に対し戦意のないことを誓ったので、交渉の末、私は彼等が自ら武装解除をするよう申し渡して、天津軍に対してこれが攻撃中止を要請した。
 このため小銃五千、軽機関銃二百、山砲迫撃砲等八門を有する同旅六千の兵員は、刃に衂らず、武装解除を完了することが出来た。8月1日か関東軍の奈良部隊が同兵営に近づき、之れを砲撃する様子に驚いた阮玄武から、奈良部隊の攻撃を中止するよう要請があったので、私は同部隊の上級司令部鈴木旅団と交渉した。既に阮部隊が自発的に武装解除した後のこととて、勿論談笑裡に解決して、攻撃は中止された。
 しかし最も遺憾であったのは、北平東方数哩の通州における保安隊の惨劇であって、所謂通州事件と称せられるものである。

 尤も之れは単に通州だけに突発した事件ではなく、予て冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊が殆ど全部、29日午前二時を期して、一斉に蜂起し日本側を攻撃したものである。
 従て天津を始め、通州、太沽、塘沽(タンクウ)、軍糧城等時を同じくした各地保安隊の襲撃事件であるが、特に通州は冀東政府の所在地で、長官の殷汝耕は親日を標榜し、日本人にとっては最も安全地帯と考えられていたので、わざわざ北平から避難者さえあった程、気を許していただけに惨害が激しかった。
 通州駐屯の保安隊は張慶餘の指揮する第一総隊と張硯田の第二総隊であったが、早くから秘密裡に人民戦線運動参加に勧誘され、蘆溝橋事件後日華両軍の開戦決定的となるや、冀察政府の首脳部からも強力に働きかけを受けて、内々その指導を受入れる空気になっていた。たまたま7月28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明らかにした。教導総隊第二区隊が中心となり、夜陰に乗じて遽かに長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、特務機関長細木繁中佐以下日本人を襲撃して、在留民380名中惨殺された者約260名に達し、鬼哭偢偢の恨みを残した。
 同地の日本軍守備隊は主力を南苑の攻撃に向かい、残留兵は通信兵や憲兵を主とした僅少な人員で前日の戦闘の負傷兵を収容していたが文字通り死力を尽くして戦った。兵舎は敵の集中砲火を浴び、集積したガソリンに引火し、死傷者の続出する中で、突入してくる敵を悉く撃退したが、衆寡敵せず市街に居留民の安全まで期し得なかったことは、誠に残念であった。
 30日午後となって、天津から急派した増援隊の到着と共に、漸く市内を掃蕩して治安を回復することができた。
 一方反乱を起こした保安隊は、通州から門頭溝に向い、 冀察第二十九軍に合一せんとしたが、途中北苑、次で西直門附近で関東軍鈴木旅団と遭遇して後退した。
 この間保安隊に連行されて各地を彷徨していた殷汝耕は、30日午後2時頃北平安定門外の鉄道駅長宅から、直接私に救出依頼の電話をかけてきたので、漸くその所在を知ることが出来た。
 丁度その直後、北平地方維持会成立式に同席した公安局長潘毓桂を説得し、城門開扉の内諾を得たので、武官室から渡辺雄記を派遣し、ひそかに安定門から城内を連行し、六国飯店に迎えて之を保護した。
 その夜北平は停電のため、武官室内は真の闇であった。
 私は些事とはいえ、この日三事件とも一応全部順調に解決したことに、心から満足した。一は北平地方維持会の成立であり、その二は阮玄武部隊の武装解除で、その三は殷汝耕の救出である。

 折から煌々と輝く月を賞しながら祝盃を挙げようと、国民新聞の特派員松井記者と一緒に、武官室の前庭に椅子を持ち出し、ボーイに命じて、暗黒の室内からビール瓶を持ち出させてこれを注いだ。最初にコップを傾けた松井が、突然奇声を発して、全部吐き出した。
 ビールと思ったのは、実は醋であったあからである。暗黒中のこととてボーイが瓶を間違えて持ち出し、之をコップに注いだのである。
 醋を飲むというのは、辛酸を嘗め、苦労することと同義語であるが、中国では嫉妬を意味する言葉である。醋字の作りの昔を廿一日と読んで三週間の鳥なぞというふざけた言葉もある。後に殷汝耕の救出は、日本浪人荒木某の手によるものとして、日本新聞に4段抜きで報道され、雑誌には当人署名の寄稿記事まで掲載された。
 又阮玄武部隊の武装解除は軍の武勲を誇張するため、日本軍隊の実力の行使によるものとして報告され、地方維持会の成立も、実情とは異なった報道となった。
 歴史を正しく把握するの至難さは、この一事をもってしても、私は自らこれを体験して思い当たるものがあった。
 序でながら一言附加することがある。この年の秋、聖旨を奉じて華北の軍隊慰問に派遣された侍従武官の四手井綱正中佐に、私は広安門事件の説明を行った。内容は当時同門を守備していた冀察軍が、城門を開扉して北平城外から城内に入城する日本軍の城門通過を容認しておきながら、城門の通過を始めた日本軍に対し、城壁と城門の上から、機関銃と小銃で瞰制射撃を加え、射撃によって日本軍隊を城門で分断した事実で、まだ戦塵の渦巻く中で有りのままを報告した。
 ところが二年を隔てて、四手井侍従武官は再び、聖旨奉戴し軍隊慰問のため大陸に派遣され、私は南京の支那派遣軍総司令部で中佐を迎えた。
 彼は私の顔を見るなり、開口一番
「今度北京に行ったら、広安門事件の戦史を北支軍司令部の幕僚から講話されたが、前年北平武官当時の君から聞いた事実譚と異なり、中国軍は日本軍の先頭部隊を入門させた上、中途で城門を封鎖して部隊を二分してから、瞰制射撃したと話したから、門は閉じられなかったのではないかと反問し、事件直後君の講話の内容を述べた。然るに講話者は、当時の事実は兎も角、現在公式には、本日報告した通りとあるから、之れに従って取り扱ってくれ」
と言ったとか。 
 同中佐も余程印象が深かったと見え、
 「歴史は一、二年で書き換えられる」
と言って苦笑していた。
 蘆溝橋事件のメモワールも世上に発表されたものが少なくないが、中には単に局部的視察談であったり、或いは他に目的をもち、偏見に基づくものもなしとしない。
 天皇に報告する事件に就てさえ斯かる実情であったから、何事も各種資料を取捨選択して正確を期すことは、歴史家に課せられた任務であろう。

事件余話
 ここには蘆溝橋事件に関連した各種のこぼれ話を摘記することとする。
○殷冀東政府長官の処置。
 7月30日午後6時半、反乱した保安隊の手を逃れて密かに六国飯店に落着いた冀東政府の長官殷汝耕は、取敢えず危機を脱し生還した喜びで一杯だったが、翌31日午前私の勧告に対し
 「通州事件は何等自分の予期せざる事であるが、自分は冀東自治政府長官たるのみならず、事件の中心部隊となった教導総隊の隊長を兼ね、直接責任者でもあるので、その責任の重大なるを痛感し、この際自己の出所進退を明らかにし度い。」
として冀東政府長官辞任の意志を明かにした。
 然るに一日隔てた8月1日天津軍からは、殷汝耕の保護を名目に、之れを憲兵隊に抑留するよう電話で命令してきた。驚いた私は軍司令部に対し、電話で
殷汝耕も亦通州事件では、日本人と等しく共同の被害者の一人とも云うべく、しかも彼は道義的に責任を感じ、既に辞任を決意して居る。
と事情を述べて、その処遇を誤らざるように説いたが、軍からは追打ちに、引続き第二次指示として電報で監禁を命じてきた。
 私は已むを得ず、その夜兎も角赤藤憲兵隊長に要請し、殷を憲兵隊楼上にある隊長私室にうつし、その取扱を丁重にするよう依頼して、爾後軍の監理に任せた。
 折よくその晩殷夫人民慧の弟、井上喬之が満州旅行から通州に帰任して、私を来訪したので彼を殷に会わせたが、井上は翌日天津軍に拘束されて仕舞った。
 8月4日になって殷より左記の如き声明を発表せんと申し出たが、拘禁中のため一応天津司令部に協議の必要あるべしと勧告し、一時之れを見合わさせた。

                   声明文
 7月29日冀東保安第一総隊長張慶餘等反乱を起こし、無辜の在留外人を惨殺し、其の惨虐言語に絶す。
 幸いに日本軍に依り、之れを撃滅したれ共、痛心何ぞ忍びんや。今この大事変に当り何を以てか冀東700万民衆の信頼に応えん。一に不徳の致す所にして良心の呵責に堪えず。
 只善後処置に就ては、徒に不明を喞つべき時に非ず、暫く隠忍責を負い、諸般の善後策緒に就かば、自ら潔く引責し、以て罪を天下に謝すべし。

 その後殷は憲兵隊の拘禁所に移されたので、私は、時々殷を獄中に訪れ、何れ彼に対する嫌疑の晴れる日のあるべきことを告げて激励したが、彼は日光に当らないから顔色こそ蒼白であったが、別段憔悴の様子もなく 
 日常仏書を繙いて、通州殉職者を追悼している
と、話していた。
 後に殷の井上に対する談話によれば、殷に対する天津軍司令部の誤解は、冀東政府の秘書長を勤め、通州事件後唐山でその代理長官に就任した池宗墨が、殷を追い落として自ら長官たらんとする野心に燃え、種々策謀の結果によるものらしかった。
 年末に至り漸く殷に対する天津軍の嫌疑も晴れ、殷は天津軍憲兵隊長から無罪宣告の上釈放された。
爾後彼は北京に隠棲して政界と関係を絶ったが、戦後漢奸として国民政府から銃殺される悲運に陥った。

安藤同盟通信記者、通州から生還
 8月2日午後同盟通信社記者で北平駐在員の安藤利男が、通州保安隊の反乱から逃れ、奇跡的に生還した。朝陽門外に辿り着いて、城内に電話で助けを求めた時は、誰もその真実を疑った程だが、本人の声に間違いないので救助に向い城門は閉まったままだから城壁上から縄を下げて、之れを伝って救い上げることが出来た。
 安藤は㋆28日天津からの帰途通州に立ち寄り、旅館近水楼に一泊し、翌日未明宿泊客及び旅館従業員全員と共に、反乱保安隊に捕縛された。一本縄に十数人宛て数珠繋ぎに縛られて、銃殺場所に連行され、同じ在留民約100人程集まるを待って同時に機関銃で射殺される運命となった。
 丁度安藤は数珠繋ぎの一番先頭に居ったので、二番目の人との間にあった結び目を密かに解いておいて、城壁の崩れた斜面の一番高所に位置した。愈々射撃開始の瞬間に身を翻して城壁上から城外に跳躍して、高粱畑を利用して逃亡を図った。途中数回追跡され、特に一度は再びゲリラ部隊に捕らえられて番所にひかれ、銃殺されんとしたが、この時も再び高粱畑に飛び込んで逃走を続け、三晩四日絶食のまま気力も尽きて倒れ農家に救いを求めた。幸い農民の好意に助けられて食事も給せられた上、変装用の野良着とむぎわら帽子、ぬの靴に扇子まで添えて与えられ、朝陽門外まで案内人をつけて呉れたため、真に九死に一生を求めることができた。
 その他29日通州事件で一命を全うした日本人中には、日常中国人と親交を結び、或いは隣人の好感を得ていたため、反乱保安隊員の家探しに対し、逸ち早く中国人宅の床下や天井裏等に隠匿されて、危機を脱した実例も少なからず、中国の庶民生活に於ける相互扶助の一断面も窺い得る感じであった。 

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通州事件 外交官・森島守人の記述

2016年10月29日 | 日記

 「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」(岩波新書)の著者(森島守人)は、通州事件当時北京において、日本側関係者や中国側関係者と、様々な交渉を重ねた外交官です。したがって、日本の主張だけではなく、中国側の立場や考え方も理解し、通州事件に至る事の成り行きを冷静に、そして客観的に見ていたように思います。

 「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」を読むと、「通州事件を忘れるな!」などと言って、通州事件における中国人の残虐性ばかりを問題にする日本人の主張が、歴史の一面しか見ていないことに気づかされます。
 大事なことは、なぜ「通州事件」のような残虐な事件が起きたのかということではないでしょうか。そのことを論ずることなく、「通州事件」における中国人の残虐性ばかりを並べ立てることは、「歴史から学ぶ」という姿勢を放棄することに等しく、非生産的であり、誤りであると思います。

 通州事件を正しくとらえるためには、1928年(昭和3年)6月、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された「張作霖爆殺事件」や、1931年(昭和6年)9月、奉天近郊の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路が爆破された「柳条湖事件」などがあったこと、そしてそれが、関東軍の謀略に基づくものであったことを踏まえておく必要があると思います。そうした事実を含め、当時の日中の関係全体、特に日本軍と中国側の軍の関係やトラブルの状況を踏まえて、通州事件を見ない限り、通州事件という歴史の事実を客観的にとらえることはできないように思います。

 たしかに、通州事件では、親日的であったはずの冀東保安隊によって、武器を持たない日本人居留民が大勢虐殺されました。でも、だからといって、

日本が支那に和平を訴えても、このような支那人による恐ろしい極悪非道のホロコースト(大量殺戮)が日本人に対して行われていたということだ

とか

この悪夢のような事件から既に70年以上経過しているが、根本的な支那人(漢民族)の気質は全く変わっていない

などとくり返すのでは、国際社会の理解が得られないばかりでなく、日中関係の改善は不可能になるだろうと思います。

 下記は、「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」森島守人(岩波新書)から、通州事件に関わる部分を一部抜粋しました(漢字の旧字体の一部を新字体に変更しています)。通州事件を、中国人の「気質」の問題として論じてよいのかどうか、分かるのではないかと思います。
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                十二 運命の七月七日 蘆溝橋事件
事件の突発と居留民の籠城
 少しく私事にわたり過ぎる嫌いはあるが、私が議会中の多忙なうちに、両協定案をまとめるため全力をつくした。また議会では林内閣に対する風当たりが強く、祭政一致を旗印とした超然内閣打倒のため、各政党とも最大弱点と見られた佐藤新外相に質問、攻撃の鉾先を集中した。新外相は欧州在勤が長く国内事情や中国事情に疎かったため、補佐の任務も非常に骨が折れた。私は両協定案取りまとめの経緯と対軍関係から、対華、対英の交渉にも関与するものと期待していたが、議会終了後、突如転任の内命に接したので、出先との打合せを終えた上、北京へ赴任することにしていた。赴任にさきだつ七月七日、突然北京の郊外蘆溝橋で中日兵の衝突事件が起こった。あまり焦っているような印象を、中国側に与えてはとの外務省の懸念から、2、3日状勢を眺めていたが、事態重大化が懸念されたので11日東京を出発して北京へ向かった。

 汽車と飛行機とを乗りついで、天津に着いたのが14日の正午少しまえ、さいわい北京行列車を捕らえることができたので、20名余りの武装警官を帯同して出発した。豊台駅に着くと、中国側から、武装のまま戒厳地帯に入ることは認め得ないといって、北京入りを拒絶せられた。中国憲兵を通じて北京の戒厳司令部と折衝すること数時間余り、ようやく了解を得て警戒のものものしい北京に入ったのは同日の夕方近くであった。

 交民巷附近の城壁にも大砲が据えられてあり、緊張の場面は一目でわかった。大使館に入ると、すでに在留邦人の公使館区域への引揚げ準備を進めており、宿舎の割当、食糧の買入れ、貴重品の持込みなど、すでにその手はずをととのえていた。居留民の安全をはかるため、なるべく早い機会に、引揚を命じたいとの雰囲気をも窺い得た。もちろん突発事件に際して、居留民の生命、財産の安全を確保することは、外務出先官憲の重要任務の一つであり、引揚げの時期を失すれば、生命、財産を不測の危険に曝すことになる。さりとて過早に引揚を命ずるとかえって、居留民の生業を奪い、政府に対しても不必要に財政的負担を与える結果となるので、不安な情勢に直面した居留民からの執拗な引揚要望も受けつつも、適当な時期の選定を誤らないことがもっとも肝心だ。しかし何にもまして私の脳裡を支配したのは、北京の市街戦を何としても回避したいということであった。というのは、過早に北京城内の居留民に引揚を命ずることは、いたずらに軍の手に乗るのみだ、居留民の生命に対する心配がなくなると、かえって軍を驅って市街戦に乗り出す可能性が増加する。市街戦の結果、世界における唯一、無二の歴史的都市を廃墟に帰することは、未来永劫、世界歴史に汚点を残す、ニューヨークの摩天楼は金と技術とをもってすれば、再建は不可能ではないが、経済的に利用価値のない北京の宮殿や西太后が軍艦の建造費を抛って築造した北京郊外の万寿山などは、巨万の財宝を積むも再建不可能なことを思い、北京市街戦の回避こそ、世界歴史のため、また東洋文化のため、私に課せられた使命であると痛感された。

 私は進行中の現地協定の成立を期待し、軽々しく引揚命令を出すことに、同意を与えることを拒否して来たが、7月25日には北京と天津との間の廊坊で、翌日には北京の広安門で中日軍の衝突が起こった。そして26日には出先の日本軍は、24時間の期限をきって、北京からの中国軍の撤退を要求していたので、やむなく27日の午前5時に至り、北京居留民に対して公使館区域内への引揚命令を出し、午前中に全居留民を公使館区域に収容した。明治33年の義和団事件以来はじめての引揚命令で、北京居留民はここに二度目の籠城生活に入った。その最後の瞬間においても、何とかして日本軍の大規模な出動を阻止したく、北京駐在の軍側諸機関とも打合せ、偶々天津に滞在中だった川越大使を介して華北駐屯軍司令官の自重を促したく、連絡に百方手をつくしたが、電信、電話など北京、天津間の連絡方法は全然杜絶していたので如何ともすべき述はなかった。
 せめて日本側の立場をよくするため最後通牒の期限が切れるまで軍の出動を差し止めれば、そのあいだに窮状打開の途もあるかも知れないとの一縷の淡い希望のもとに、東京を経由して川越大使へ至急電を出したが、時すでに遅く、日本軍は期限終了前に軍事行動に移っていた。
 27日早暁、秦徳純市長を訪問、居留民引揚中の残留財産の保護方について申し入れをした。2週間の籠城生活中、在留民の家屋財産について、一件の掠奪事件さえなかったことは、ここに特記しておきたい。
 籠城に際しては防諜の見地から、内鮮人を別居させたが、季節柄連日の豪雨に際し、英国大使館が軍用テントを貸与してくれた好意もここに述べておきたい。

通州事件
 北京に関するかぎり、何等の不祥事件もなく、無事に過ごし得たが、一大痛恨事は北京を去る里余の地点、通州における居留民の惨殺事件であった。
 通州は日本の勢力下にあった冀東防共自治政府の所在地で、親日派の殷汝耕のお膝下であり、何人もこの地に事端の起こることを予想したものはなかった。むしろ北京からわざわざ避難した者さえあったくらいだった。
  冀東二十三県は塘沽協定によって、非武装地帯となっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにもかかわらず、わが現地軍が宋哲元麾下の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因だった。中国部隊を掃討するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落とすと、保安隊では自分達を攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、巷間の噂と異なり殷汝耕には全然責任なく、一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった。

 28日、北京の東方に黒煙が濛々と立ち上がり、時に爆声もを交えていた。通州方面に何らか事件の起きたことは容易に推測し得たが、公使館区域の守備隊は全部出動ずみで、義勇隊の手によって警戒に当たっていた位だから、如何ともし得ない、さりとて少数の警察官の派遣は全然問題とならない、何とかして実情を確かめる必要があったが、事件以来一般中国人は大使館によりつかないので、思案に暮れているところへ、ハルピン時代に面倒を見たことのある一青年が、勇敢にも変装して通州に入りを敢行するするむね申し出て来た。右青年は途中で敗残兵のため川に突き落とされ、水中に数時間も潜伏するするなど幾多の冒険を冒し、二日がかりで通州まで往復して来たが、その報告で通州の惨状を知り得た。その後通州保安隊のため数珠つなぎなっていた列の中から命からがら逃れて来た安藤同盟特派員の北京帰還によって、さらに詳細な事情を知り得た。

 私としては現地の責任者でもあり、また遺族に対する立場からも、この事件の急速な解決を必要と考えた。また通州事件の真因が明らかとなれば、かつてシベリア出兵中、尼港事件に関し田中陸相の責任が大きな政治問題となったと同様に、政治問題化することが必然なので、議会開会前に現地で解決するを有利と考えた。現地の軍側諸機関の意向を打診したうえ、中央へ請訓するなどの手つづきを一切やめて、私かぎりの責任で、 殷汝耕不在中の責任者、池宗墨政務庁長と話し合いを進めた結果、正式謝罪、慰藉金の支払い、 冀東防共自治政府が邦人遭難の原地域を無償で提供して、同政府の手で慰霊塔を建設することの三条件で、年内に解決した。
 事件が日本軍の怠慢に起因した関係上、損害賠償のかわりに、慰藉金を取ったが、その金額も損害賠償金要求の場合の外務省従来の算定方式にしたがうと、一醜業婦でさえ、何十万円の巨額を受け取ることになるのに対し、前線の戦病兵士はわずかに二、三千円の一時金を支給されるのに過ぎない事情も考慮して、社会通念の許す範囲に限定した。その分配についても従来の形式的な方法を廃して、内縁の妻も正妻同様に取りあつかい、また資産ある者や扶養家族の少ない者に薄くして、実際に救済を必要とする者に多くをふりむけるなどの措置を講じた。そして将来の紛糾を避けるため、慰藉金の分配は、北京大使館に一任するとの一札を自治政府側から徴しておいた。

 ただ私にとって心残りになったのは、どうして殷汝耕の無実の罪をそそぎ、公人として再起せしめるかということであったが、関東軍の一部には銃殺論さえあったので、この問題の取扱には機微な配慮を要した。折しも西本願寺の法王が官民慰問のため華北を巡錫中だったので、その北京来訪の機会に、殉難者の慰霊祭を催し、主催者中に北京大使館、北京日本人会とならんで、殷汝耕を加え、無言のうちに殷を世間に出すのを妙案と考えた。この案については華北駐屯軍の全幅的賛同を得たが、後に至り関東軍内の強硬論につき、華北駐屯軍側からの注意もあって放棄するの外なかった。

 関東軍内における反殷の空気は想像外で、私の右計画と殷の無罪をそれとなく報道した東京朝日の河野特派員の如きは、憲兵隊の厳重な取調を受けたような始末で、私の北京在勤中には、殷のために身のあかしを立つべき好機を捕らえ得なかった。翌年四月私が北京を去った際 殷は私の好意に対し衷心から感謝の意を表して来、再会を約して別れたのだが、昭和22年の12月1日対敵通牒の廉で、南京で銃殺に処せられた。大正14年郭松齢挙兵の際、外交部長として活躍し、事志と違うや、遼河の畔、わが新民屯総領事分館内に逃避すること数ヶ月、暗夜を利して吉田奉天総領事の人情味ある取あつかいにより東北兵の重囲のうちを脱出、わが国に亡命した数奇な運命を憶う時、無限の感慨を禁じ得ない。通州政府の金庫内から出た出納簿によると、殷は日本側の志士や吳佩孚やむしろ華北において対立の関係にあった 冀察政務委員会の連中にまで、毎月機密金を支給していたが、その深慮遠謀の程を察知するに足る。ついでだが、花谷少佐の話によると、柳條溝事件の折、張学良の金庫の中から赤塚正助名義の受取りが出た。当時陸軍では赤塚との同郷関係および昭和3年暮れの満州旅行に赤塚が床次に随行した事情などから、その折床次に献金されたものと解釈していたが、真偽の程はもちろん私として保證の限りでない。

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通化事件 NO3 - 吉林省文史資料第十二輯には

2016年10月22日 | 国際・政治

 先だって(10月14日)、日本政府が、今年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の分担金約38億円5千万円の支払いを「保留」していると朝日新聞が報じました。昨年、中国が申請した「南京大虐殺の記録」が記憶遺産に登録されたことに対する反発が背景にあるとのことです。戦後70年以上が経過しているにもかかわらず、いまだに先の大戦における歴史認識が共有できていないこと、加えて、分担金支払い「保留」で、この問題に対応しようとする日本政府の姿勢を悲しく思いました。歴史認識の共有のための場を、政府が責任を持って設定し、相互に理解を深めるための努力を惜しまないでほしいと思います。

 そう言う意味で、通化事件に関する理解を深めるために、事件関係者を取り調べた八路軍幹部の報告をもとにした下記の中国側記述は貴重だと思いました。日本人関係者の証言だけでは知り得ない数々の事実が明らかにされているからです。下記の文中にも「藤田実彦を逮捕した後、わが方は真剣に審理をすすめた。東北局は指導者を、特に通化に派遣して審理にあたらせ、藤田を何度も取り調べた。藤田は事実を前にそれを認めるほかなく、調書に署名捺印した」とありますが、中国側は、多数の国民党関係者も訊問しており、様々なの文書も押収しているため、藤田大佐も認めざるを得なかったのだろうと思います。

 「通化事件 共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言であきらかにする」佐藤和明(新評論)によると、通化事件に関する中国側の資料は、たまたま京大が第三者を介して中国で入手したものだということなので、信頼できる貴重な資料ではないかと思います。

 下記の「通化『二・三暴動』」の文章は、「吉林省文史資料第十二輯(吉林省委員会文史資料研究委員会・通化市委員会文史資料研究委員会・編)の中にあるとのことですが、ここでは、佐藤和明氏の著書から「二、首謀者」の「(三)組織を結成、暴動を計画」と「三、 野合」の「(一)武装暴乱総指揮部と組成」、「四、反撃」「(三)、藤田を生け捕り」および「五、結末」の「(1)戒厳令解除、勝利を祝う」の一部を抜粋しました。

 国民党側からの働きかけがあって進められたといえる反乱・暴動の結果、「暴動での日本人の死傷者数が国民党のそれを大幅に上回っている」ことに対するインタビューでの呉政治委員の下記の話には考えさせられました。反乱・暴動の計画で盛り上がったのは、元関東軍百二十五師団参謀長・藤田実彦大佐を中心とする軍人およびその関係者と国民党側関係者のごく一部の人間に過ぎず、多くの国民党側関係者は、本気にはなれなかったのではないかと…。
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                  通化「二・三暴動」李大根著:中川孝訳
一、前兆
(一)「九・三」祖国復帰後の状況・・・略
(二)通化に居住する日本人の状況・・・略

二、首謀者
(一)蒋日特務の活発な活動、秘密結社、暗殺団の組織・・・略
(二)国民党の三党本部と”三青団”の一工作による反共活動・・・略 
(三)組織を結成、暴動を計画
 近藤晴雄、劉正修(蒋日の特務分子)、孫耕暁、藤田実彦らが密議をこらし、扇動した結果、手ごたえ、各方面から声援を受けるなど敵にとっては、恐いものなしの状況であった。1月15日、 劉正修は孫耕暁の家で秘密会議を持ち、「暫編東辺地区軍政委員会」を設立した。投票による選挙の結果は次の通りである。

  主任委員    孫耕暁
  副主任委員   劉玉青
  委員      劉亦天、楊振国、鄧覚非、遅文玉、藤田実彦、近藤晴雄

続いて、暫編東辺地区軍政委員会の成立を正式に宣言した。直ちに会議を開き、次の機構(政治と軍事の二部門に大別され、各部の下に若干の科が設けられる)を設けた。
政治部長    劉亦天、劉玉青
  副部長     鄧覚非 
  総務科長    劉亦天
  民政科長    楊振国
  保安科長    姜基隆
  財政部長    劉靖儒
  軍事部長    藤田実彦
  副部長     遅文玉
  参謀科長    鄭乃樵、干正福
  副官科長    関崇芳
  軍需科長    劉慶栄、威相雲
  軍法科長    周洪漢、劉滌新、趙憲福
  軍機(兵器)科長 王桂声、楊景春
  軍医科長    柴田大尉

 この軍政委員会が成立すると、1月17日に暴動を決行することを決定した。しかし、この日は援軍を得られず、計画は失敗に終わった。劉正修は1月18日、奉天に戻った。
 国民党遼寧省党部主任委員李光沈は、直ちに蒋日特務分子の宮川、宮本の二人を通化に送り込み、藤田実彦の行動を監視させた。二人は協和街の住宅に身を潜め、ひそかに情報ステーションを設けた。暗号は401、藤田実彦に関するあらゆる情報を集め、随時無線で李光沈に報告した。
 同時期、国民党東北行営(注・前進司令部のある軍営)もまたひそかに蒋日特務分子、西川太郎、花岡一夫、林幸男の三人を通化に潜入させ、藤田実彦をひそかに動かし、早く事前謀議を実施し暴動を起こすよう迫った。
 劉正修が奉天に戻ると藤田実彦は不安にかられ、1月19日、石人溝方面に潜伏していた日本侵略者の桜井と池田辰三の二人に親書を持たせ、奉天の岩切医院の岩切院長(藤田実彦の同郷の蒋日特務分子)を訪ねさせ、国民党遼寧省党本部の李光沈へ暴動事件を連絡したのである。国民党遼寧省党本部政治部員の片山は直ちに命令を受け、藤田実彦宛の李光沈の電文を無線で送信した。その概要は以下の通りであった。
 「世界大戦が終結し同慶の至りである。通化方面の日本軍はその立場を堅持し、八路軍に武装解除されることなく、今に至るも其の勢力を保持するは、中国東北者に対し協力作用をなすものにして、まことに貴官の英明なる指揮の賜である。今後もまた相互に連繋し、東北建設のためともに邁進し…」
 李光沈に称賛された藤田実彦は内心大いに感激し、武装暴動の実施を早めることを決意した。彼は1月21日、国民党通化県党本部に対し、日本再興への展望と日本軍国主義の利益を考え、武装暴動実施に先立ち三条件の要求を提示した。第一は通化の日本人が帰国しないことを保証すること、第二は通化の日本人が失業しないとを保証すること、第三に通化の日本人が台湾籍になることを保証することだった。このため、大政豊を日本代表として派遣し、国民党通化県本部代表の姜基隆、周志傑と交渉させた。交渉の結果、会議を主催することに決まった。場所は南関信農洋行であった。国民党側からは孫耕暁、鄭乃樵、劉亦天、姜基隆、劉玉青、周洪漢が出席し、日本側は阿部、近藤、大政、小向が出席した。

 孫耕暁は日本侵略者を利用して共産党を壊滅するという目的のために、何等意に介さず日本側が提示した三条件に応じた。だが、日本側はそれでも満足せず、第四の条件を加えた。それは、暴動が成功したら、通化に「中日連合政府」を設立する、というものだった。孫耕暁を中心とする通化国民党の輩は、暴動により共産党を消滅させることを急ぐあまり、国家利益を売るのも省みず中華民族の尊厳を失い、通化に主権喪失の「中日連合政府」を設立するという国辱的な売国的協定を成立させたのである。同時に、国民党旗と日本国旗を掲揚すること、孫耕暁が政務を掌握し、藤田が軍事を握ることも決定した。第四の条件が受け入れられると、日本代表の大政豊と国民党代表姜基隆は双方を代表として署名した。藤田実彦は調印された協定を見て大喜び、暴動を発動するために更に精力的に奔走することとなった。

三、 野合
(一)武装暴乱総指揮部と組成
 あれこれ駆引きの末に、藤田実彦と孫耕暁の取り決めがまとまり、1月22日に孫の自宅で「武装暴動総指揮部」が発足した。南十字西街公益涌油坊の劉靖儒の家を指揮部に当て、総指揮に孫耕暁、田友(藤田実彦)、姜基隆、副指揮に劉亦天である。その下に三つの指揮所、三つの連絡組を設けた。
第一指揮所は通化カトリック教会近くにある栗林宅(暴動の際に千葉幸雄宅に変更されたが、状況が緊迫して使われなかった)で、指揮者は田友(藤田実彦)、阿部元、連絡組の責任者は近藤晴雄だった。第二指揮所は裕民街の姜基隆宅で、指揮者は孫耕暁、 姜基隆、連絡組の責任者は劉子周、劉慶栄だった。第三指揮所は通化南関区の遅文玉宅で、指揮者は劉滌新、遅文玉、連絡組の責任者は邵裕国だった。臨江方面の劉玉清を頭とする悪党一味も通化の斐家の店に寝泊まりし、いざという時、第二、第三指揮所に呼応する手はずになっていた。また、暴動に必要な兵力を調達するため「軍事収編委員会」を発足させ、帰順者を取り込んで「暫編東辺地区部隊」を編成し、援軍と内通者の連絡をとることになった。このため、 孫耕暁、近藤晴雄、藤田実彦ら首謀者は、連絡員(注・伝令)や蒋日特務をあちこちに派遣し、買収、威嚇などの手段に訴えて兵力をかき集めさせた。

 近藤晴雄は軍事収編委員会の名義で山中部隊伝令である吉田、松尾に国民党特務五人を同行させ、長白山へ旧日本軍と連絡するためひそかに向かわせた。後の孫の自供によれば、潜伏している日本軍と連絡をとるために哈尼河、八区へ連絡員を派遣している。こうして、前後九つの連絡組を送った。
藤田実彦は市内において3000余名の元日本兵を集めたほか、石人溝にいる元日本軍宮内との連絡に中山、斉藤、布田、吉田、松尾や蒋一の味の特務を送り、兵力と兵器の調達に当たらせた。
 また、五道江方面の日本軍、増井少尉と連絡をとって鉱山地区の旧日本軍を組織しようとした。孫耕暁は市内において漢奸(注・民族裏切り者)、旧満州国の協和会部員、軍人、警察官、官吏、ごろつき、やくざ、土匪など200余人を集め、国民党員と三民主義青年団の幹部を組織し、一味を武装させた。そして、奉天国民党党本部から三青団の活動を進めるため、通化に派遣されてきた邵裕国に指揮を命じ、党部の徐斌、鄧永林に監督と管理を委ねた。さらに、趙殿礼の党本部の残党である周洪漢、胡世良らに、撫松、小南岔、輯安(現在の集安)、臨江一帯にいる文徳喜、何学福、馮殿剛らの地方武装力を組織させた。同時に、多数の蒋一味の特務に日本人特務の連絡員と協力させて、東昌区、竜泉区、啓通区、中昌区、二道江区で旧満州国の軍人、警察官などを引き込み、わが党、政府、軍の各機関に内通者をふやした。首謀者たちがこのようにあらん限りの手を尽くした結果、ついに一万人に達する武装暴力集団ができあがった。彼らの反革命武装行動の行動計画は次の通りである。

 ①暴動の綱領、目的、任務

 武装暴動総指揮部の首謀者は、黒幕の李光沈の意に従い、こう唱えた。

 「人類史上未曾有の大戦が終わった。この間、共産軍は各地に満ちあふれ、その兵力等は次第に拡大し、通化を根拠地として中央軍の進駐を阻んでいる。これに反撃する準備を進めなければならない。通化の民主政府をくつがえし、中日連合政府を樹立し、通化にいる日本軍を中央暫編東辺地区部隊に改編し、各地で接収改編した国民党の地方武装力は中央軍とするものである。共産党の長白山根拠地を破壊し、南満および全東北を占領しなければならない」

 これがとりもなおさず、暴動の綱領であり、目的でもあった。目的を達するために次の任務を決めた。接収改編した東辺地区軍政委員会軍事部で編成される部隊で「共産軍を消滅し通化を奪取する」政治部長の劉亦天を頭に、通化行政督察専員公署の接収に責任を負う。孫建武が市・県政府の行政の接収に責任を負う。徐斌が市・県政府の財政金融の接収に責任を負う。王桂馨が通化市内の治安の維持に責任を負う。総指揮部の三つの連絡組と「婦女宣伝会」が連絡とビラ配りに責任を負う。

②重点目標 
   暴動部隊のおもな攻撃目標はつぎのようになっていた。
(1)安東省通化区行政督察専員公署
(2)通化支隊司令部
(3)市・県政府、県大隊
(4)市公安局
(5)市電報局・電業局
(6)東北軍政大学所属東北砲校(戦車部隊を含む)、東北航空学校および飛行場
(7)放送局、通化日報社、第一医院、東北造幣厰
  中国共産党遼東省通化省分委員会は目標とされなかった。当時、省分委は公表されておらず、事務をとる場所も「通化地区各界建国連合会」

  にあった。ありふれた和風の小さな建物で、門前に歩哨もたてておらず、特務の注目を引かなかったので攻撃目標には入らなかったのだろう。
③兵力の組織と兵器の配備・・・略
④合言葉、合図、標識・・・略

(二)黒幕の登場・・・略
(三)旧正月の夜・・・略
(四)首謀者を事前逮捕・・・略

四、反撃
(一)、孫耕暁を処刑・・・略
(二)、自滅の道へ・・・略
(三)、藤田を生け捕り
 敵の反革命武装暴動は、わが党、政府、軍、人民の英雄的反撃により失敗に終わった。しかし、藤田実彦、近藤晴雄、柴田大尉ら首謀者達は捕らえられていない。このため、2月3日午後、全市に戒厳令が布かれた。各部隊各機関の幹部や兵士、労働者自衛隊が戦場の後かたづけ、死体の始末、武器の接収、捕虜の収容に当たる一方、精鋭部隊の一部が敵の捜索にあたった。

 2月3日夜、藤田実彦ら第一指揮所の日本人は阿布元(注・阿部元と思われる)の家に集まり、夜九時頃、藤田は吉田に一部を率いて戦闘に向かわせ、その後、小向を偵察に出した。その結果、わが軍の捜査が第一指揮所の千葉幸雄宅に及んでいないことを知った。夜半3時頃、藤田の伝令が竜泉街で捕まった。危険を察知した藤田は一切の秘密文書を焼却させ、ただちに栗林宅に移動し、天井裏に潜んでいた。

 2月4日午前、朝鮮義勇軍支隊の李成万大隊長は、高応錫中隊に藤田捜索の任務を与えた。それを聞いた幹部と兵士はみな喜び、首謀者藤田を捕まえる決意を固めた。友好的な日本住民から得た情報を手がかりに、藤田が身を隠しそうな日本人住宅街を包囲し、戸別に家宅捜査した。九軒つづきの長屋に行くと、屋内におびえた5人の女が固まっていた。中隊の通訳をしている金基善同志が
「きみたちの夫はどこへ行ったか」と日本語で訊ねると、中年の一人が
「お許し下さい。さっぱり判らないのです。夕べ出て行ったきりまだ戻りません」と気ぜわしげに答えた。
「怖がらなくてもいい。藤田さえ差し出してもらえればいい」と高中隊長。
「いません、ここには藤田さんはいません」と、一人がごまかそうとする。
「もし、いたらどうする」と高が語気を強めて言うと、女は身震いしながら顔を伏せて答えた。
「ここの天井の裏は仕切がないので、ほかの家でかくまったかどうかまでは知りません」
 高中隊長は兵士に捜索を命じたが、家捜ししても一人も見つからない。隣の部屋に移ろうとした時、金基善が押入れで音がしたのを聞きつけた。とっさに押入れに二発撃ったが反応がない。いぶかって押入れの襖を開けると、上の天井に通気口があってオーバーらしき裾がはみ出している。高はそれに向かって、日本語で「おとなしくしろ、さもないと撃つぞ」と叫んだ。するとオーバーにくるまって男がどすんと落ちてきた。「誰だ」と詰問すると、体を震わせ、「藤田です」と答えた。
 高は不審に思って眺めた。男は中くらいの背丈で、年も三十七、八だ。李万成大隊長が言った藤田の特徴とあわないのである。藤田は五十がらみで、背が低く、目が小さく、唇が厚く、禿頭で、黒髪の典型的な日本ファシストだと、李大隊長は言ったはずだ。「いや、おまえは藤田じゃない。上にまだ誰かいるはずだ」「いません、自分だけです」高はもちろん騙されはしない。通信班長に目配せし、「機関銃を天井に向けろ!」と大声でどなってみせた。すると、すぐ天井裏から「撃たないでくれ、皆、すぐ降りる」とうわずった声がした。それから次々に降りてきた。名前をただすと、近藤晴雄、小向利一、井上、長谷川、藤田武雄、阿布元、柴田朝子、佐々木絹江(阿部元の愛人)、小林、鈴木、松本、河野ら29人である。しかし、藤田実彦と名乗り出た者は一人もいなかった。高中隊長はこれらを縛って、朝鮮義勇軍南満支隊司令部に連行させた。取調べの結果、27番目に降りてきた藤田一雄と名乗る男が首謀者の藤田実彦だと判明した。こうして数々の罪悪を犯した日本戦犯、暴動のナンバー・ツーの藤田実彦大佐はついに人民の法網にかかった。国民党遼寧省党部と奉天の日本特務工作組織が通化に送りこんだ連絡員の近藤晴雄も逃れられなかった。

 逃げのびた柴田ら30余人は、2月3日、山上に身を隠したが、飢えと寒さに耐えられず、7人一組となり、その夜のうちに奉天、安東(今の丹東)、朝鮮方面へ逃亡しようとした。佐山ら5人を連れて柴田大尉は山中の百姓家で身なりを換え、夕食をとった。その後、佐山だけを連れて、夜通し撫順方面をめざして逃げた。そして、通化県境の快大茂子にさしかかったところで捜索隊に見つかり、追撃され、野菜を入れる穴蔵に潜んでいるところを捕まった。
 また、松倉十一(薬剤主任、大尉)藍田正箭箭(外科主任、中尉)、平井敏雄(内科主任、中尉)、紺田節美(医務主任、少尉、女)、松淵正(医務、准尉)、平賀茂松(会計曹長)、藤本浅夫(看護長)、の7人は安東へ逃亡しようとしたが、輯安境内に迷い込み、すぐ捉えられて通化に護送された。

 国民党側では通化県党部の暴動の副総指揮、政治部長の劉亦天、総指揮部のナンバー・スリーで政治部保安処長の姜基隆と軍法処長の劉滌新、周洪漢、軍事部副部長の遅文玉および張璽魁、遅金鐸らは瀋陽に逃れた。国民党三青団地下工作団団長邵裕国、陳丕亜ら13人は逮捕された。

 捜索に際して、わが軍は兵士と幹部は東北局の指示を厳しく守り、現場で抵抗した者を除いてすべて生け捕る方針を貫いた。2月3日から5日にかけて逃亡者1000余人を逮捕した。うち国民党匪賊は100人余にのぼった。わが方に死傷者はまったくなかった。
 藤田実彦を逮捕した後、わが方は真剣に審理をすすめた。東北局は指導者を、特に通化に派遣して審理にあたらせ、藤田を何度も取り調べた。藤田は事実を前にそれを認めるほかなく、調書に署名捺印した。
 暴動とそれへの反撃。敵は惨めな敗北をこうむり、わが党、政府、軍、人民は輝かしい戦果をあげた。事後の統計によると、暴動への参加者は計12300余人で、うち現場での死者千百余人である。最初の処刑者は、国民党の暴動首謀者孫耕暁以下20余人、ついで悪らつな内通者と内海勲暗殺事件の前後に逮捕した戦争犯罪人など100余人を処刑した。捕虜は3000余人で、うち国民党暴徒は130余人である。暴動平定後に藤田実彦、近藤晴雄、阿布元、小向、柴田、赤川、新倉、小林ら首謀各を20余人逮捕した。これらの人間はあいついで審判に付された。残党は瓦解潰滅し、またある者は逃走した。

 敵方特務情報ステーション(暗号401)は、秘密無線で2月28日に国民党遼寧省党本部に対し、「二、三事件において、戦死したり捕虜になった者は、孫耕暁、藤田以下1800余名、うち日本軍1000余名が射殺された」と報告している。参考までに記しておく。押収した武器は軽機関銃五丁、歩兵銃500余丁、拳銃100丁のほか、手榴弾、日本刀、あいくち、斧、棍棒など多数である。軍需物資や金銭については統計がない。

 わが方の戦闘参加者は、党、政府、軍の幹部と兵士が計500人余、労働者自衛隊や民衆で自発的に反撃戦に参加した者約1000余人である。敵味方の比率が1対10と大きくかけ離れているなかで、わが党、政府、軍政の幹部と兵士は勇敢に戦った。わが方の犠牲者は幹部、兵士含め、わずかに26人であった。彼らは、通化人民のために貴い生命を捧げた。

五、結末 
 (1)戒厳令解除、勝利を祝う
 ・・・
 『通化日報』は「国民党特務が日本人戦犯と結託して起こした反乱の真相」と題して、上述の談話全文を掲載した」。
 [インタビュー抄録]
問 呉政治委員の話では、今回の暴動での日本人の死傷者数が国民党のそれを大幅に上回っているが、これはどうしてですか?
答 抗日戦8年来、国民党は一貫して日本人のワナにはまり、ひどい目にあわされてきた。敵は国民党を叩いたり抱き込んだりする政策をとった。だが、今度は日本人が国民党にしてやられた。捕虜になった日本人の供述によると、国民党は日本人の間でおおげさに吹聴していたようだ。中央軍がもう山海関を出て、瀋陽へ向かっている破竹の勢いで進んでいる。二日夜には四万の大軍が通化暴動に呼応し、夜明けには瀋陽から百機飛来して通化を爆撃する。二道江には機関銃二万丁があって装備できる。通化政府と駐屯軍には内通者がいて、銃声があがればすぐに行動に移って通化駐屯軍がすぐに消滅できる。そうすれば中日連合政府が樹立でき、通化にいる日本人は解放され安全に帰国できる、とかいった具合いにである。しかし、戦闘が始まると、いたるところで、出鼻をくじかれ内通者の応援が得られないばかりか、各所で真っ向から痛撃をこうむった。国民党特務分子は、みなこそこそ逃げ出してしまった。だから、これらの日本人は「良心のくさった国民党がたくさんいる」と憤慨している。今度の暴動では国民党特務に騙された、と彼らは感じている。

(2) 烈士を追悼、功労者を表彰 ・・・略

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通化事件 NO2

2016年10月16日 | 国際・政治

 通化事件(つうかじけん)は、敗戦後の1946年2月3日、中国が祖国を取りもどし、初めて迎える正月に、一部日本人が武装決起し、中共軍の司令部やその他の拠点を襲撃たため発生した事件である、といって間違いはないと思います。

 中国共産党占領下にあったかつての満州国通化省通化市で、元通化第百二十五師団の参謀長、藤田大佐が決起指令書を発し、中国共産党軍の拠点を襲撃したため、中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(新八路軍)が、襲撃に関わったと考えられる3000人ともいわれる日本人(一部中国人を含む)を虐殺した事件です。でも、日本では下記のように

「中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった」

と、中国人の残虐性を並べたてて、それが日本人の武装決起につながったのだというようなことを言う人たちがいます。でも、こうした受け止め方は、少々事実に反するように思います。

 藤田元大佐が、武装決起の指令書を発した時、何を考えていたのかは知りません。でも、日本が降伏し、関東軍が武装解除された後に、藤田元大佐の指令を受けて、一部の日本人が再び武装決起し、中共軍の司令部やその他の拠点を襲撃したことが、残虐な通化事件のきっかとなったことは否定できないと思います。
 中国人が日本人に大変な恨みを抱いていたことは、農民などを中心にした抗日組織があちこちにあったことや、通化の街で、15日を境に、中国人の略奪が始まったことなどでわかります。そうした中で、無条件降伏した敗戦国の日本人が再び武装決起し、拠点を襲撃したことが、火に油を注ぐ結果になったのではないかと思います。

 関東軍総司令部に正式に降伏と停戦の命令が伝えられたのは8月16日の夕方。関東軍はそれを受けて幕僚会議を開き「即時停戦」を決定しています。そして傘下の部隊にそれを伝達したのです。にもかかわらず、藤田大佐は、「関東軍命令をきかない」と、草地作戦参謀に電話をし、師団の公金や食糧を車に積み家族を連れて逃亡したといいます。なぜ、関東軍山田乙三総司令官の決定を受け入れなかったのでしょうか。国民党と手を結べば、日本の無条件降伏を取り消せるとでも考えたのでしょうか。藤田元大佐の武装決起の指令は、当時の国際情勢や日本の実態、日本人居留民の逃避行の状況などを考慮した判断とは思えません。

 私は、藤田元大佐の決起指令を、「中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかね…」と受け止めることには無理があると思います。8月16日の時点で、藤田大佐が日本の無条件降伏による関東軍の「即時停戦」命令を受け入れなかったことやその他の事実が、「暴圧に堪えかね…」ということが決起の直接的な理由ではなかったことを示しているように思うのです。
 そして、多の人が巻き添えでなくなったことを考えると、見通しのない勝手な判断だったと言わざるを得ないと思います。
 当時、通化の日本人の多くは、中国人の略奪などに対し、自警団を組織し、警備小屋を作り、鉄条網を張り巡らし、夜を徹して見張りをたてたりして、不安に怯えながら帰国の日を待ちつづけていたといいます。
 だから、「共産軍に攻撃をしかけなければ日本人は殺されることはなかったのに…」という言葉に表現されているように、藤田元大佐を中心とする一部日本人の「反乱」が、多くの日本人には、くやしいことだったのだと思います。 

 下記の文章は、「通化事件 共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言であきらかにする」佐藤和明(新評論)からの抜粋ですが、著者は、「秘録大東亜戦史」(富士書苑)の満州編下巻の中の、「通化幾山河」と題された山田一郎の文章をもとに書いたといいます。それを一部抜粋しました。
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                    序 通化事件の全貌
 通化、敗戦前夜
 昭和20(1945)年5月。白い柳の綿毛が空を飛びかい駅頭に鈴蘭の花売りが現れる頃、通化の街に緊迫した空気が漂いはじめていた。どこからともなく関東軍の大部隊が通化に移動してくるという噂が広がり、今までに例を見ないほど多くの人たちが招集されていった。
 その頃、関東軍は最後の事態に備えるため、ひそかに「光建設」と名づけた徹底抗戦計画を進めていた。この計画は、本渓湖煤鉄公司(ホンケイコウバイテツコンス)、昭和製鋼所、それに通化市郊外の二道江にある東辺道開発を合併させ、二道江の山岳地帯に溶鉱炉四基をもつ製綱施設を建設し、武器弾薬を自給する一方、対ソ開戦に備え、関東軍の兵員を牡丹江からハルビン、新京を経て奉天に至る線上に配備し、主力を通化を中心とする東辺道に集結させるというものだった。

 6月に入ると、また通化に新しい部隊が到着した。招集によってあたらしく編成された伊万里(佐藤註:今利)中将率いる第百二十五師団である。この師団の参謀長が藤田実彦大佐だった。藤田はかつて華北戦線で鬼戦車部隊長として名声を馳せたといわれ、市民たちは親しみをこめて「髭の参謀」と呼んだという。
 やがて7月がくると、三度目の招集が通化の街を駆け抜けた。しかも軍命令で、、出発は全て極秘のうちに行われた。
 8月9日午前2時。通化の街はすさまじい爆撃音で夢を破られた。午前6時のラジオはソ連空軍の爆撃だったことを伝えた。8日、ソビエトはわが国に宣戦布告し、9日未明にかけてソ満国境全域にわたり侵攻を開始した。
 不安のうちに9日の夜があけ、関東軍の特別列車が通化に到着した。総司令山田乙三大将、総参謀長秦彦三郎中将が幕僚を従え、満州国軍兵舎跡に総司令部を置いた。同じ日、司令部より少し遅れて、政府諸機関が皇帝溥儀とともに通化に近い大栗子(ターリーズ)に居を定めた。司令部に続いて各部隊が通化に集まり、通化市を中心に5万の兵の集結が終わった。
 兵隊で膨れあがった街へ、さらに1万人の避難民がなだれこんできた。第一陣は10日の夜から11日にかけて、新京・寛城子地区の関東軍司令部将校と軍属の家族500人。
 14日、前線に近い通遼方面から約300人。15日、同方面の第二陣120人。つづいて白城子(ハクジョウシ)方面から老人と女子供3000人。9日未明、西部国境の白城子は爆撃と同時にソ連軍戦車の猛攻撃を受けた。男たちはソ連軍に立ち向かうため全員残留した。老人や女子供たちは途中、何回となく中国人の略奪にあい、着のみ着のままで逃れてきたのだった。その後も、貨車やトラック、あるいは徒歩で避難民が通化に押し寄せた。桓仁方面から800、柳川(方面400)、臨江方面から3000とつづき、その数1万3720名、通化在住の日本人を上回っていた。

 関東軍、終焉の日 
 混乱と焦燥のうちに運命の8月15日がやってきた。よく晴れた暑い日だった。
 関東軍司令部では夜を徹して作戦会議が開かれていた。終戦派と抗戦派の妥協なき論争も、山田総司令官の「天皇のご聖断に従う」との一言でようやく終止符が打たれた。
 翌16日、東京へ向かう予定の皇帝溥儀は、奉天飛行場でソ連軍に逮捕された。
 15日を境に無政府状態に陥った通化の街のあちこちで、中国人の略奪が始まった。その最も大きな暴動は20日、満鉄社宅街を中心に起こった。
 翌21日、「日本人居留民会」が結成され、自ら生命の安全を守るため自警団を組織した。
 ところで、8日のソビエトの対日宣戦布告から関東軍が通化に司令部を移動させ敗戦を迎える15日前後は、同一の事件が本によって「発生日」が異なっており、その未曾有の混乱ぶりがよく分かる。「通化幾山河」も、特にこの時期に混乱が見られるが、巻末に添付した「通化事件関連表」の試案では、事実関係を次の通りとした。
・10日前後から、関東軍総司令部、満州国政府、通化に移転を始め、兵5万の集結をはかる。
・12日、山田乙三総司令官、松村知勝総参謀副長ら、飛行機で通化へ
・13日、皇帝溥儀、特別列車で新京を逃れ翌日、大栗子に到着。
・14日、山田総司令官、秦総参謀長ら、飛行機で新京へ向かう。
・16日、関東軍、全幕僚会議を開き「即時停戦」を決議、各部隊に通達。
・17日、第百二十五師団、最後の部隊長会議。藤田参謀長、停戦命令に激昂、同日、藤田逃亡。
・18日、皇帝溥儀、退位式。
・19日、溥儀、通化を飛び立ち、奉天飛行場でソ連に拘留される。
そして、山田総司令官は9月5日、部下30名とソ連軍機で新京を出発、ハバロフスクに到着したのは同日7日とした。

不安におののく日々
 さて、混乱が極点に達した8月23日正午過ぎ、ソ連軍500名が特別列車で到着、関東軍の武装解除を開始し、翌9月1日までに全てを完了した。
 一方、満州各地では国府軍と中共軍の武力衝突が頻発し、やがてそれは規模を拡大しながら通化にも波及してきた。
 敗戦と同時に通化市は国民政府の統治下に入り、旧満州国軍と旧満州国警察官を主体とした国民党軍が通化市の治安に当たっていた。指導者の孫耕暁(ソンコウギョウ)書記長は、元満州国通化省地方職員訓練所長などを務めていたという。

 ところが、ソ連軍に影のように従って通化に入ってきた中共軍は、協力して「日本兵狩り」を行い、ソ連軍が撤収する9月1日、2日以降、通化省憲兵隊跡に八路軍編成司令部を置き、公然と活動を始めた。
 中共軍の最初の仕事は、旧満州国通化省の高級官僚を粛正することだった。通化省長楊万次(佐藤註:楊乃時)、同次長菅原達郎を筆頭に、河瀬警務庁長(佐藤註:川瀬)超通化市長、林副市長、河内通化県副県長らが逮捕され厳しい訊問を受けた。粛正の火の手は官界から民間に移り、日本人の事業主や商店主に対する金品の要求が行われた。この頃から、日本人が日本人を密告するという悲しい事態が起きたり、中共軍の命を受けて日本人をスパイする日系工作員などが生まれた。
 10月中旬、共産軍(中共軍)は国府軍(国民党軍)の本部を急襲し、武装解除を行うとともにその一部を共産軍に編入した。それから間もない23日、華北戦線で日本軍と戦った毛沢東直系の正規軍一個師団が入城した。竜泉ホテルに司令部を置き、劉東元が司令に就任。また元省公署跡に専員公署を置き、陳専員が行政を担当した。通化は完全に中共軍の手中がに握られた。

 しかし、一方では米軍の援助を受けた国府軍が東北奪回を狙って軍を進めているという噂も伝わり、失地回復をはかる国府特務団の工作が活発化してきた。国府軍側の狙いは、中共軍を内部から崩壊させることと、旧関東軍を中心に日本人の武装決起を促し、共産軍を攻撃させることだった。
 11月、中共軍の指導で「遼東日本人民解放連盟通化支部」(略称日解連)が組織され、竜泉ホテルのコックだったという笹野基が支部長に就任する。日解連は中共軍の命令で、日本人の財貨を集めて再配分する「平均運動」を進めようとした。とうぜん財閥といわれる層は猛然と反対した。中共軍はその報復として、日本人に南大営への移動命令を出した。ここは、以前、満州国の兵舎があったところで、敗戦直後は関東軍司令部として使われていた。携行品は毛布一枚と500円しか許さないという。厳しい寒さを控え、日本人に「死ね」というに等しい命令だった。結局、必死の嘆願が実を結び、命令は延期されたが、この頃から日本人の地下運動が活発になり、反乱の動きが次第に現実みを帯びてきた。
 市街では国共両軍の小競り合いが頻発した。10月末の戦闘は3日間も続くなど、日本人の不安は頂点に達し、様々なデマが飛びかった。日本人の不満分子と抗戦派の利害は、国府軍と完全に一致したようだった。とうぜん、これらの不穏な動きは、日系工作員を通じて中共軍に報告されていた。日本人不満分子、国府軍、中共軍ーーーこれら三者は、思惑こそ違え、皆一様に元第百二十五師団参謀長・藤田大佐の行方を探していた。旧関東軍の抗戦派や反乱を企てていた民間人にとって、指導者は彼をおいていなかった。すでに国民党遼寧政府から通化支部に対し、藤田を「軍事委員会顧問」に就任させるとの指令が出ていた。
 一方、中共軍側にとっても、日本人不満分子の精神的支えとなっている藤田の存在は不気味だった。間もなく、八路軍(中共軍)は通化にほど近い石人の炭鉱に家族とともに潜入していた藤田を逮捕した。

「天皇陛下万歳」事件
 11月4日。通化劇場で開かれた「日本人大会」には、朝からの雨をついて2000名以上の日本人がつめかけた。それは、藤田大佐が現れて演説するということが併せて伝えられていたからだった。藤田の人気を利用して日本人大会を開き、その場で藤田に共産軍への強力を呼びかけさせる。これが、劉東元司令が描いた筋書だった。
「いまや人民軍によって治安は回復され、着々と解放の実は上がりつつあります。われわれ日本人としても、その治安下に保護されている限り、軍に協力する義務があると考えます」(前掲「通化幾山河」)
 藤田の演説は抗戦派の期待を裏切った。
 しかし、その時、信じられない事態が起こった。来賓として出席していた共産軍・劉司令の面前で、「宮城遙拝」と「天皇陛下万歳」の動議が採択され、興奮した一部の日本人が壇上に駆け上がり「天皇制打倒」のビラをむしり取った。
 中共側から見ると、この失態を招いた責任者は日解連の指導者であり、とうぜん日本人に対し徹底した思想改造を断行するようにとの厳命が下った。藤田はその日から竜泉ホテルの一室に監禁された。
 そんな矢先の11月14日、通化市郊外の二道江に駐留する八路軍第二団を、国府系の混成軍が襲撃する事件が起きた。八路軍は接収した満州製鉄の製鉄工場に軍工部を設置し、兵器を製造していた。ここには、藤田大佐の息がかかった旧今利師団の将兵100人ほどが潜入していた。襲撃したのは旧満州国軍、警察官、日本兵の混成軍約600名。奇襲は一時的には成功したが、救援軍の逆襲を受けて敗走した。
 通化劇場の「天皇陛下万歳」事件に続く二道江の「八路軍襲撃」事件は、日本人の立場をいよいよ不利なものにした。

国民党と日中連合政府を
 その頃地下組織を作っていた元居留民会代表・寺田山助、赤十字病院としての存続を許されていた元関東軍野戦病院の軍医・柴田大尉らは、藤田大佐救出を画策していた。
 そんなある日、八路軍の司令部から、看護婦を派遣するようにとの要請があった。柴田は、それが藤田つきの看護婦であることを、通化のマタ・ハリといわれた佐々木邦子から聞き、柴田婦長を派遣した。柴田婦長と佐々木邦子にリレーされて、牢獄の藤田と抗戦派の連絡が順調に進み、藤田は国民党の「軍事委員会顧問」に就任し、獄中で反乱軍の指揮をとることになった。11月下旬、中共軍に投降した旧関東軍の航空隊400名が通化飛行場に飛来し(佐藤註:12月下旬隊員は300名)、つづいて戦車隊が到着した。間もなく航空隊の林少佐や戦車隊長は、抗戦派の寺田らに説得され、彼等の計画に加担することを約束した。

 12月6日、国民党の孫耕暁書記長、書記で軍事委員の劉清字、寺田山助、佐藤弥太郎の4名は、国民党の密使・近藤特務工作隊長を迎えた。近藤は工作費10万元と密書を持参した。それは国民党と日本人による臨時日中連合政府を通化に組織するため、かねてからの計画通り武装決起せよという内容だった。近藤はさらに蒋総統は将来、東北四省の独立を考えており、通化の臨時政府は東北政府に発展していくとつけ加えた。
 暮れもおし迫った12月30日午後7時、藤田大佐は中共軍司令部のある竜泉ホテルからの脱出に成功した。満州製鉄東辺道支社に勤めていた栗林という男の家が作戦本部に充てられ、藤田の手であらゆる情報が整理・分析された。
 当初の決起計画と決まった1月1日は15日に延期され、さらに2月3日未明に断行と変わった。これは、予定していた15日に先立つ10日、中共軍による日本人の大量検挙が行われたためだった。高級官吏や居留民会、それに中共軍の手足となって働いていた日解連の幹部らをも含む140名もの人たちが逮捕された。そして、1月21日、河内通化県副県長ら4名が銃殺された。

電灯が三回点滅した──
 決行を明日に控えた2月2日─通行禁止を知らせるサイレンの音が、定刻の8時を過ぎても鳴らなかった。街に大きなぼたん雪が舞い落ち、15、6センチもの深さに積もった。その雪のなかで、藤田から航空隊・林少佐への作戦指令書が途中、中共軍の便衣工作隊に奪われた。
 反乱計画の全貌を知った劉司令は直ちに全市に緊急警戒をしき、栗林家にいた藤田や国民党の指導者たちを次々に逮捕した。しかし、反乱軍は総帥藤田の逮捕を知らなかったのである。サイは投げられた─。
 2月3日午前4時。玉皇山に狼火が上がり、変電所に柴田大尉他3名が突入し、電燈をパチパチパチと3回点滅させた。
 第一中隊長佐藤少尉以下150名をはじめ、第二、第三中隊、遊撃隊は、中共軍の司令部や専員公署、県大隊などに向けて一斉に攻撃を開始した。凄まじい喚声が轟き、激しい銃声が全市を包んだ。
 特に被害がひどかったのは専員公署を襲撃した佐藤中隊だった。中隊150名のほとんどは抜刀隊だったという。ここには、先の1月10日に逮捕された140名が収容されていた。
 「佐藤少尉を先頭に喚声を上げて150名が雪崩を打って斬り込むと、待ち構えたように正面玄関に据えた軽機が火を吹いた。ばたばたと倒れる屍を乗り越えて殺到するなかへ、つぎからつぎに手榴弾が投げ込まれて炸裂する」(前掲「通化幾山河」)
 こうして、第一中隊はほとんどが戦死という壊滅的な打撃をうけて敗走した。さらに悲劇的なのは、自らの意志に反し専員公署の獄舎につながれている人たちだった。中共軍の軽機や手榴弾は、武器のないこれらの非戦闘員にも向けられ、全員が非業の死を遂げた。この日の戦闘で、反乱軍の戦死者の総数は200名を越え、重軽傷者の数はさらにそれを上回っていた。
 恐怖の一夜が明けて、中共軍の日本人に対する取り調べは苛酷を極めた。16歳から60歳までの男子全員が逮捕され、その数は3000名以上に達した。監禁は防空壕や穴蔵、倉庫などあらゆる場所にわたり、「大小便はもちろん垂れ流し」という身動きもできない状況であった。声を出すと銃弾が打ち込まれるなど、それは「生きながらの地獄絵図」であったという。留置中に虐殺されたり凍死や病死した者200名、反乱の事実を自供して死刑にされた者200名など、戦死者を除いて死者は躍600名にものぼった。

 ……通化の街に暖かい風が吹きはじめた3月半ば頃、市内の目抜き通りにある玉豊厚百貨店で、通化事件戦利品展覧会が開かれた。襲撃に使われた日本刀や竹槍などの展示品のなかに、藤田大佐と孫耕暁が並んで立たされていた。藤田は3日間、人々に向かって頭を下げ、「済みませんでした」、「申し訳ありませんでした」とつぶやいたという。
 間もなく藤田は獄中で死んだ。病名は急性肺炎だった。
 4月、長白山の雪解けの水が奔流となって渾江を流れる頃、川面に固く凍りついていた何百もの犠牲者の遺体が、下流へ押し流されていった。
 そして、またあの8月15日が巡ってきた。そんなある日、中共軍の命で日本人大会が通化劇場で開かれ、引揚げ開始が報じられた。食糧10日分、現金一人当たり千円、衣類二組、寝具一組が許された。
 9月2日。新通化駅から第一大隊1200名が第一陣として出発した。それから8日までの7日間、14本の列車が通化を後にした。
 ぼくたち一家8人も通化第一陣のなかにいた。所属は、通化第一大隊第二中隊第一小隊四班だった。
・・・(以下「宇佐見晶『贖罪』のこと」略)

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通化事件

2016年10月05日 | 国際・政治

通化事件の真実

 通化事件に関しては、中国共産党八路軍の違法行為や残虐行為ばかりを指摘する人が多いように思います。しかしながら、当時通化にいた一般の日本人の多くは、「共産軍に攻撃をしかけなければ日本人は殺されることはなかったのに」と、日本人の「無謀な反乱」にくやしさを噛みしめていたといいます。その一言が、この事件の真相を物語っているように思います。

 敗戦後、満州各地では、日本軍が支配していた地域をめぐって国民党軍と共産党軍が戦争をくり返しました。ソ連参戦後に、関東軍が司令部を通化に移転したこともあって、通化には大勢の日本人が集まっていましたが、その通化で、国民党軍と共産党軍の勢力が激しくぶつかり合い、進駐してきていたソ連軍が通化を去るころには、国民党にかわって共産党の八路軍が通化をほぼ支配下においていたといいます。でも、共産党の方針に不満をいだく日本人も少なくないため、国民党軍はそうした日本人と手を結び通化を奪い返そうと密かに動いていました。そんな状況下、通化事件が起きたのです。
 それは、中国が祖国を取りもどし、はじめて迎える正月のことです。戦争に負けた日本人が、それも正月に、再び共産党八路軍の司令部を攻撃するなどということは、一般の中国人や日本人には、考えられないことだったのではないかと思います。

 「通化事件」が日本で報道されたのは、昭和27年12月4日で、厚生省復員局の調査がきっかけだったようです。下記は、当時の朝日新聞の記事ですが、「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明(新評論)の著者は、この記事が事実を正しく伝えていないことを指摘しています。

 【福岡発】昭和21年2月満州で日本人多数が虐殺されたと一部に報道された「通化事件」について、引揚援護庁と外務省で4年間にわたり調べた結果詳しい内容が判り、2日同事件の合同調査のため来福した引揚援護庁復員局吉田留守業務部長は福岡県庁で次のように発表した。
 ・昭和20年8月ソ連の参戦とともに満州各地から避難したものなどで通化市内の日本人は3万名以上に上った。同年9月進駐した中共軍の日本人に対する虐殺暴行はひどく、元百二十五師団参謀長藤田実彦大佐らが中心になって元軍人、邦人などを集め中共軍諸機関を攻撃する計画を立て21年2月3日を期して攻撃を決行、400名のうち大部分が戦死した。
 中共軍は日本人男子は15歳から60歳まで、女は攻撃に関係あると思われるものなど合計約3000名が投獄され、その大部分が処刑されたとみられる。
 ・いままでに判った死亡者は約1190名で、死亡公報の済んだものは72名、帰還者は863名である。

 司令部を通化に移転していた関東軍は、本国からの命令に従い、8月16日、自ら武装解除を進めました。ところが、第百二十五師団の参謀長であった藤田大佐が、命令に反抗して行方を眩まし、元軍人や仲間を集めて、共産党八路軍司令部その他を攻撃をしたというのです。藤田大佐は国民党が組織した軍政委員会の軍事部長になっていたということも見逃すことができせません。敗戦後6ヶ月近くが経過していたのに、藤田大佐は「決起指令書」発し、攻撃を実行したのです。それが、事件と関わりがなく、帰国を心待ちにしていた大勢の日本人を巻き込む結果となり、冒頭の「共産軍に攻撃をしかけなければ…」ということにつながるのです。

 通化事件に関する下記の文章は、「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明(新評論)から抜粋しました。

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                      三 虐殺
日本人の無謀な反乱
 ・・・
 敗戦当時、 通化にいた関東軍の主力は第百二十五師団で、藤田大佐は参謀長という作戦を指揮する責任者だった。しかし、大佐は無条件降伏の命令にはんこうしてゆくえをくらました。
 そのころ、たしかに通化は共産党軍の支配下にあった。しかし、国民党のスパイたちは、八路軍にたいする日本人の不満を利用してまき返しを図ろうとやっきになっていた。当然藤田大佐やもと軍人たちとのつながりもあった。柴田大尉の衛生隊や航空隊のなかにも、こうした勢力とつながりを持とうとする動きがあった。絶望的ななかでわらをもつかもうとする血気にはやる人たちもいた。
 一方八路軍側はこうした国民党のスパイや、彼らに協力する日本人を残らず取り除きたいとその機会をねらっていた。……… こうした異なる立場のそれぞれの人たちの期待が、むぼうな藤田大佐を中心に、通化の日本人たちをひさんな事件にまきこんでいった。

 大人たちの話をまとめてみると、こうだった。

-----2月3日午前4時、決起隊が変電所をしゅうげきした。電気を3回つけたり消したりして攻撃の合図を送り、そのあと全市を停電させた。一方、市内を見下ろす玉皇山(ギョッコウサン)に向かった一隊は、頂上で合図のノロシを上げた。

 攻撃の目標は、八路軍司令部や満州国宮内庁の重要人物が収容されている公安局、もと通化憲兵隊あとの監獄などだった。うわさどおり、柴田大尉の衛生隊と航空隊の何人かが反乱軍に加わったという。さらに、市内にひそんでいたもと日本兵や血気にはやる若い人たちのほか、おどかされたり、だまされたりして参加した人たちもいた。しかし、銃などはほとんどなく、武器は日本刀やオノ、棍棒だったという。決起隊は、すでに情報をつかんでいた八路軍の銃弾の前になすすべもなく倒れた。

 通化事件の第一幕は、こうして終わった。
 だが第二幕の主役は、息をひそめてただひたすら帰国の日を待ちつづけていた無力な日本人たちだった。八路軍はあやしいと思われる日本人をかたっぱしからつかまえた。逮捕された日本人は3000人をこえた。死亡者の数は発表する機関によってまちまちだったが、その後の八路軍の発表によると、銃殺された人を入れて1200人をこえるといわれる。
 二道江の社宅からも大勢のひとたちが逮捕され、ひさんなさいごをとげた人もいる。逮捕された人たちは、初め二道江国民学校に連れていかれた。逃げないようにふたり一組にして、背中合わせにしばられたという。3日間、食べ物を与えられず、なぐられたりけとばされるなどきびしい取り調べを受けた。
 父が仲人をした林業課のイイズカさんのおじさんが、そのときのことを話してくれた。
 「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間にせいざさせられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。知らないと答えると、木刀でようしゃなく打ちすえられる。ごうもんにたえかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。ところが、いっしょに便所に行っていた人まで、おまえが逃がしたのだろうといわれて、ぼくらの見ている前でうち殺された」
 イイヅカさんは、さいわい疑いがはれて帰宅を許されたが、さらにそこから通化へ連行された人たちも大勢いた。
 「うぐいす台」で長女のユキコと同級のタシロさんのお父さんも、その途中で殺された。きびしい寒さのなかで、お父さんはしだいに体力をすり減らし、くずれるように雪のなかに倒れたという。
 「そのとき、うしろのほうで銃声が…」
 父の大学のこうはいのマヤザキさんのおじさんも、そのなかにいた。おじさんはきせきてきに許されて、連行されたときの雪道をたどり二道江にもどってきた。
 「何人かの人といっしょに、タシロさんがうたれた場所をさがしました。ようやく、雪のなかにうずもれているタシロさんを見つけると……、ひどすぎる……」
 ヤマザキさんは声をつまらせてメガネをふいた。
 「何者かに洋服やくつをはぎとられ、ハダカ同然の姿になって……」
 なにしろ3000人もの日本人が逮捕されたのだから、留置場もひさんをきわめた。
 「まったく、あれはジゴク……ジゴクそのものです。何百人という日本人がせまい留置場に押しこめられ、身動きひとつできない。そのうち、飢えと寒さで気がくるい、大声でわめいたり泣きさけぶ人たちがでた。そうすると、パーロ(八路軍)が窓から銃の先を向けて、だれかれかまわず無差別に発砲を始める。まったく生きたここちがしなかった。……ほら、これがそのとき、弾にうたれて死んだとなりの人の返り血ですよ」
 ヤマザキさんのおじさんはそういって、そでについている黒っぽいしみを指さした。

 当時、公安局に監禁されていた満州国皇帝の弟、溥傑(フケツ)の妻浩(ヒロ)は、『「流転の王妃」の昭和史』(「主婦と生活社)のなかで、そのときのもようをこう記している。

 私たちは、穴だらけ、破片だらけの、この公安局の部屋で、零下30度の寒気に慄えつつ一週間も暮らさねばならなかった。窓から見ると、川岸に一人ずつ並べられた日本人が、後から射殺される姿がみえ、その銃声をきく度に私の顔は苦渋に歪んだ。服をはぎとられた後、その死体は川に落とされるのである。凍った川の上には、そんな死体がごろごろ転がっていた。銃殺は、二日間続き、凍った死体は数日後に荷馬車に積まれて、どこかに運び去られていった。

 2月9日、だまされたりおどされたりして事件に参加した日本人およそ1000人が許されて留置場から出されることになり、政治委員の杉本一夫があいさつに立った。
 「これまで、君たちはどれだけ中国人に申しわけないことをしてきたか。日本がこうさんしてから、中国の民主政府は君たちをどうあつかったか。君たちに仕事をあたえ、こまることがあれば援助の手をさしのべてきたはずだ。なぜ、君たちはぜんぴをくいず、国民党特務の孫耕暁や藤田にそそのかされて反乱を起こしたのか。こうした恩知らずのこういは、一日本人としてはずかしく思う」(『彼らはなぜ中国で死んだか』)

 最高責任者の孫耕暁(ソンコウギョウ)は国民党側のパイプ役、ナンバー2の藤田大佐は軍事面の責任者だった。孫は事件の前日逮捕され、暴動のさなかに処刑された。取り調べには杉本も立ち会った。杉本は命令書のほんやくにあたり、共産軍のなかで国民党とつながっている者の洗い出しをした。そのなかに、航空隊の小林、鈴木両中尉の名前があり、兵隊に命じて逮捕に向かわせた。
 藤田大佐は事件のよくじつ、民家の天井にかくれているところを朝鮮義勇軍によって逮捕された。藤田とともに関係者30人あまりが天井にひそんでいたという。
 事件のあと、『通化日報』が共産党の呉政治委員に「反乱の真相」をインタビューした。政治委員は事件の真相を見ぬいていた。
 「日本との8年間におよぶ戦いで、国民党は日本人のワナにはまり、ひどい目にあわされてきた。敵は国民党をたたいたり、だきこんだりする政策をとった。だが、今度は日本人が国民党にしてやられた」
 その後、通化市内のデパートで事件に関する武器や命令書、ビラなどが展示された。そのなかに、航空隊の林少佐が事件の関係者におくったとされる軍刀があった。
 藤田大佐は、首から札を下げてすわらされ、見物人に頭を下げ謝罪していたという。札には犯した罪が記されていた。
 こんな無謀な暴動さえ起こさなければ、無実の人たちが殺されることはなかった。関東軍の参謀長という、いわば作戦を立てる責任者までした人が、いったい何を考えていたのだろう。こりかたまった考え方をかえることはむずかしいとしても、なぜ冷静に兵力のぶんせきができなかったのだろう。
 二道江の日本人たちは、にえくり返る思いでそのうわさを聞いた。その気持ちは通化の中国人も同じだと思う。うばわれた国土が日本の降伏によってようやく取りもどすことができた。2月3日は、その記念すべき最初の正月だった。その日、またしょうこりもなく日本人が攻撃をしかけてきたのである。
 あの朝日新聞の記事では、藤田大佐は「中共軍の日本人に対する虐殺暴行」に立ちあがったえいゆうのように見える。
 記者は、中国がふたつの勢力がはげしくぶつかりあう内戦のただなかにあったことを見落としている。共産党軍と国民党軍は、まさに「殺すか殺されるか」の戦いの真っただなかにあった。どちらかのグループと手を結び反乱を起こせば、きびしい仕返しにあうのは当然といっていい。つまり、「中共軍の日本人に対する虐殺」は、内戦相手の国民党と手を結んだ日本人にたいする報復だったのだ。

 あとから話を聞くと、事件当時、共産党軍の主力部隊は通化市をはなれて作戦を展開しており、きょくたんに手うすだった。残っていたのは、自分から入隊を希望して兵士になった朝鮮義勇軍の兵士が大半で、それも400名ほどだったという。ほとんどがまだ十分に訓練されていない戦争の経験のない兵士が多く、当然、日本人にたいする恐怖心もあったと思う。だから、反乱が起こった当初は、日本人を針金でしばったり、ひどいごうもんを加えたり、上司の許しもえずその場で銃殺するなど、らんぼうな行動が目立った。のちに司令部がその事実を知り、きゅうきょ「銃殺中止命令」を出したという。しかし、それまでに銃殺された人のなかには、事件に関わりのない人たちも大勢いた。その間、事件のえいゆうは、天井裏に息をひそめてかくれていたのだ。

 

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土竜山事件

2016年10月03日 | 国際・政治

土竜山事件 NO2

 「日中戦争見聞記 1939年のアジア」コリン・ロス著:金森誠也/安藤勉訳(講談社学術文庫)の著者(オーストリアの新聞記者として活躍)は、かつて滞在したことのある満州の佳木斯(チャムス)と千振を再び訪れる満鉄展望車の中で、開拓移民として最初に哈爾濱(ハルピン)から松花江を汽船で下り、佳木斯に上陸した農民の一人であるという日本人隣客に声をかけられ、話を聞いています。
 その話の中に、「わたしたちは塹壕掘りと土塁づくりから始めました。なぜならこの地方にはそのころ盗賊がうようよしていたからです」というのがあります。だから、満州人村の隊長王(ワン)の相互援助の取り決め提案を受け入れたと語っています。問題を感じるのは、その後の次のような話です。
しかし3月になると、もっと状況は悪化しました。盗賊の隊長射文東(正しくは謝文東)は、日本人移住者を根絶するため4000人の武装集団を結成しました。彼ははじめ王を自分の仲間に引き入れようとしました。しかしこれに失敗すると、王一味を夜襲し殺害しました。その後彼はわたしたち日本人に鉾先を向けました。幸いにもわたしたちは事前に警告を受けていました。タイミングよくわたしたちは13万発の弾丸とともに6丁の重機関銃を入手できたので、これを中心に堅固な陣地を築きました。敵の包囲は70日つづき、食料も不足しはじめたころやっと日本軍一大隊が救援にかけつけてきました
 この日本人開拓移民の農民は、自分たちがあたかも「無主地」に入ったかのような話をしているのですが、彼が言う「盗賊」は、ほとんど農地を奪われ、家を追われた地元の農民であったことを見逃してはならないと思います。
 開拓移民の人たちは、満州の土地がどのようなかたちで自分たちのものになったのか、という経過を知らなかったのかも知れませんが、1932年の満州国の建国以来敗戦時に至るまで、一貫して満州への日本人農業移民事業の主導権を握っていたのは関東軍であり、開拓移民団の入植地の確保にあたっては、地元農民を新たに設定した「集団」へ強制移住させて、その土地を安い価格で強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させる政策をとったことを押さえておく必要があると思います。
 下記の文章でも明らかなように、軍が強引に土地の接収を進めたために、地元農民が蜂起したのであって、農民蜂起部隊を率いた「謝文東」は、正義感が強く、立派な人物で、住民の信望も厚く、この地方の中心的存在だったといいます。、「謝文東」を中心とする農民蜂起部隊は、その後「民衆救国軍」として、各地の抗日部隊と協同して戦っているのです。
 下記は、『近代日本と「偽満州国」』日本社会文学会編(不二出版)からの抜粋ですが、こうした歴史の事実は、日本人の視点からだけでは、客観的にとらえることが難しと、改めて感じます。
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              第一部 『幽因録』から「残留孤児」まで
                  大虐殺と抗日戦争

土竜山農民の抗日蜂起                                       孫継英

一、起因
 1934年3月の<偽>三江省(以下<偽>とするのは、「満州国」に関わるものを示すー訳注)依蘭県土竜山の農民による抗日蜂起は、東北地方が占領下におとしめられていた14年間の歴史、ひいては中国の近代史においての一大事件でした。それは孤立して発生したものではありません。日本帝国主義がわが国東北地方に対して行った、軍事占領と移民による侵略に対抗して起こった、抗日民族解放闘争を構成する一部分であり、東北地方人民による日本帝国主義の侵略への反抗の歴史において、重要な位置を占めるものです。
 1931年、日本帝国主義は陰謀によって起こした「九・一八」(以下「」は省略)事変を口実として、わが国東北地方に武装侵入して占領し、日本の独占する植民地と化しました。その次の年さらに、溥儀を首班とする<偽>「満州国」傀儡政権をでっちあげ、東北地方人民に対する軍事ファッショ統治をいっそう厳しいものとしました。しかし英雄的東北地方人民は不屈であり、各階層の民衆は次々と旗を掲げて立ちあがり、異民族の侵入・支配を攻撃する抗日武装闘争や、いろいろな形の反日闘争を展開しました。日本帝国主義は植民地支配を強固にするために、抗日義勇軍にたいする気違いじみた包囲討伐や、民衆の反抗闘争の鎮圧を行いましたが、それのみではありませんでした。わが国東北地方へ移民という形の侵略をすることを「国策」としてきめ、日本の在郷軍人を中核とした特殊な農業移民、すなわち武装移民を入れることによって、東北地方人民を押さえつけ、経済面での略奪を強め、ソ連への侵攻を準備し、ならびに日本国内の階級矛盾を緩和させることを妄想しました。
 第一次武装移民(492人)と第二次武装移民(493人)は、1933年の2月と7月に、それぞれ、抗日武装闘争が活発であった<偽>三江省樺川県孟家崗と依蘭県七虎力河右岸(後に湖南営に移る)にはいりました。後者は、土竜山も所属する依蘭県第三区(太平鎮)の管轄にありました。

 土竜山(トウロンシャン)は太平鎮から10華里(1華里=500メートル:訳註)以上離れています。その一帯は依蘭・樺川・勃利の三県が境を接する所に位置し、土地は肥沃、農耕に適し、大豆を大量に産し、欧米に多く売り、依蘭県境で最も富んだ地方でした。そこの土地が開墾され始めたのは民国初期のことです。九・一八事変のころには土地はすでに比較的集中されており、多くは中小の地主で、各戸180垧(シャン)(東北地方では1垧=1ヘクタール:訳注)を所有、2、300垧を保有する大事主は少数でした。地主の小作に対する搾取も苛酷なものではなく、小作料は一般的には土地の善し悪しによってきめ、あるものは2-8、あるものは3-7でした。土竜山の人民は祖国を熱愛していました。 九・一八事変があってからは自警団を結成して故郷を守り、さらには騎兵軍団を組織し、李社らが率いる吉林自衛軍と協同して抗日戦を戦いました。自衛軍が壊滅させられた後も武器を捨てることなく、駝腰子金鉱の工員、□宝堂(□致中)を首班とする明山隊や、自衛軍の生き残った人たちによって組織された亮山隊は、ずっとその一帯で活動を続けました。(□は示偏:「祠」「禊」などの「示」の部分と、邑:漢字の旁、「郡」「部」などの右側の「阝」よりなる漢字です)
 1934年1月、日本の関東軍はこの一帯への武装移民を続けて導入するために、依蘭・樺川・勃利など六県において大規模に耕作地の徴用を始めました。買い上げの価格は、熟地(よく耕作された土地:訳注)か荒地を問わず、一律に1垧当たり1元の計算でした。当時の依蘭県の土地価格は次のとおりです。上等の熟地1 垧当たり121.4元、中等の熟地-82.8元、下等の熟地58.4元、上等の荒地-60.7元、中等の荒地-41.4元、これを見て分かるように、まさしく無償で奪い取ることとなんら違いがありませんでした。さらには強制的に土地所有証明書を提出させ、それを拒む農民にたいしては高圧的な手段をとり、はなはだしきは実弾を込めた銃を持った兵士に農民の家を調べさせ、壁を突き破って中に隠してあった土地所有証明書を奪わせました。それと同時に民間にあった銃の強制提出をさらに厳しくしました。農民にとって土地は命の根源であり、生存のための基盤であり、また銃は生命・財産を守る自衛の武器です。土地と銃を失うことはいっさいを失うことと同じであり、農民が屯匪と呼ぶ日本の武装移民団からの、襲撃や陵辱を受ける可能性が常にあることになります。普段から日本侵略者は苛酷な課税や暴虐な行為を行っており、貧乏な農民が八方ふさがりの状態にされただけではなく、地主や富農も致命的な脅威にさらされました。地主・富農も農村における政治・経済の支配力を失おうとしていたのです。このようにして、空前の規模の農民による抗日武装蜂起は、避けられない状況となっていました。

二、経過
 ここにおいて、「山雨来たらんと欲し、風、楼に満つ」時を迎え、土竜山地区の各種民衆の政治勢力は積極的な活動をするようになっていました。それらは主として三つあります。一つは、もと抗日東北軍にあって生き残った人たち、すなわち李社の率いる吉林自衛軍の生き残り、また一つは、当地の一部の保甲(自警・相互監視の組織:訳注)の長および地主・富農、もう一つは、中国共産党の一部分の党員が組織する反帝大同盟です。先の二者は互いに密接な連絡をとりあっており、主導的な役割を果たしておりました。三番目のものは数も少なく力も弱かったのですが、宣伝・扇動の点では大きな影響を及ぼしていました。武装蜂起の機を醸成する過程において、五保甲長の井振卿と二保役員の曹子恒は最も活動的でした。かつて李社の自衛軍で土竜山騎兵軍団第二団団長をしたことがあり、五保役員兼自衛団長である謝文東は、蜂起の始まりの時点では相当にためらっていましたが、比類のないほどに憤激した群衆に推されるに至り、共に抗日蜂起に加わりました。
 土竜山農民の抗日蜂起は1934年3月9日に始まりました。事前にきめた計画のとおり、蜂起した農民の隊伍は太平鎮の東門の外に部隊を集結し、太平鎮に攻め入り<偽>警察署の20余名の警官の武装を解除しました。10日、太平鎮の西、白家溝において、伏兵を置いて、日本の関東軍第十師団六十三連隊長飯塚朝吾大佐の率いる日本軍、および<偽>警察隊を迎え撃ち、日本軍飯塚大佐・鈴木少尉など17名を殺害しました。
 12日、多数の部隊からなる日本軍の増援により、太平鎮をふたたび占領された後、土竜山農民の蜂起部隊は半裁河子に撤退し、そこで軍編成会議を開き、謝文東を総司令官に、井振卿を敵前総指揮官に推挙しました。蜂起部隊に名前をつけ、民衆救国軍としました。保をもって単位とし、6つの大隊に編成し、総勢2000余人でした。
 そうした後、民衆救国軍は各地に人を派遣して、抗日部隊と連絡をとりました。□宝堂率いる明山隊など、依蘭や近隣の県境にある抗日山林隊が相次いで加わり、協同して戦いました。民衆救国軍の名は高まりました。
 3月19日、民衆救国軍の第五大隊第二中隊は九里六屯において、進攻してくる日本軍平崗部隊を待ち伏せ攻撃して勝利を収め、日本軍の80名近くを殺傷しました。民衆救国軍は20余名が死傷しただけでした。
 その後、日本軍は撤退しました。民衆救国軍の主力部隊は、4月初め土竜山地区をとり戻しました。11日払暁、孟家崗の日本武装移民団が侵攻しました。敵情がよく分からず、また組織戦にふなれなため、利あらず、民衆救国軍に3、40人の犠牲が出ました。日本軍と移民団にも死傷がありました。
 駝腰子金鉱を攻めとった後、民衆救国軍は5月1日夜、湖南営の移民団に攻撃を仕掛けました。 その戦闘で敵前総指揮官井振卿は壮烈な戦死をしました。それは民衆救国軍にとって大きな痛手でした。周雅山が総指揮官に任命されました。
 こうした時期、敵<偽>当局は、日本の関東軍が3月末に土竜山地区を撤退して以後、単に武力のみで農民蜂起部隊を鎮圧しようとする方法を改め、政治的には脅かしあるいは誘惑し、軍事的には重包囲して攻撃するという、両面を同時に行う方法をとり始め民衆救国軍を孤立・分化・瓦解させました。謝文東たちは二度にわたり人を派遣して、関内(中国本土:訳注)に行って連絡をとらせましたが、どちらもうまくいきませんでした。さらに謝文東たちは抗日闘争をあくまでも行なおうという意志に乏しく、敵の進攻を前にしてますます無為無策となり、民衆救国軍をしばしば頓挫させ、部隊の人員を大量に減少させました。5月下旬、謝文東は部隊の一部を率いて東方の虎林に行こうとして、越境を阻止されました。7月下旬となって土竜山をふたたび奪い返された時には、民衆救国軍は300余人が残っているだけでした。9月、謝文東は部隊を率いて依蘭・来才河・四道河子、そして第二区一帯で活動しました。10月初め、民衆救国軍は西に向かって進んでいた時、樺木崗で突然日本軍に襲撃され甚大な被害を受けました。謝文東はたった10余名の部下と共に囲みを破って脱出し、依蘭県吉興河の山奥の密林に逃げこみました。

三、意義
 内外を震撼させた土竜山農民の蜂起は、七ヶ月の間続きました。その主たる指導者である謝文東は、政治面で明確な反日綱領を欠いており、軍事面では消極的な守りの姿勢であったために、短い時間で敵に鎮圧されてしまいましたが、しかし蜂起は非常に大きな意義があるものです。第一に、土竜山農民の抗日蜂起は、日本帝国主義の東北地方にたいする植民地支配に重大な打撃を与えました。それは日本の移民侵略を頭から一喝するものでした。農民の大蜂起が起こる前は、わが東北地方にたいして移民侵略という「国策」を強力に推し進めていた日本の関東軍は、ずっと東亜勧業株式会社を実行主体として使って、日本の武装移民団の必要とする土地を略奪してきました。土竜山農民の抗日蜂起は、日本の侵略者を震撼させました。そして敵の陣営内部でも熾烈な論争があり、それを経てついに方針を改め<偽>「満州国」傀儡政権が表面に出て移民侵略の用地を略奪し、また<偽>軍を出動させて農民の抗日蜂起を鎮圧するようにしました。以上のことから土竜山農民の抗日蜂起は、中国の大いなる農民の陵辱を忍ばざる反抗精神を表現するものであり、またその巨大な闘争力量をはっきりと示したものであり、東北地方の各界人民の抗日闘争史に光輝ある1頁を書き記すものであると、明らかに言うことができます。
 次に、土竜山農民の抗日蜂起は、時期として、東北地方の抗日義勇軍の主力がほとんど壊滅させられ、また中国共産党の指導する抗日遊撃隊、および抗日連軍がいまだ創建の段階にあった時、すなわち東北地方の抗日闘争全体が低調であった時に起こりました。それは日本の侵略者が唱える「満州全体の治安はすでに確保されている」という妄言を、事実をもって打ち破ったのみでなく、中国共産党が1933年の「一・二六指示文書」で提起した、広範な抗日民族統一戦線を結成するべきだとする方針の正確さを、実践をもって証明したものであり、そうすることによって、全面的な日本帝国主義に反対する民族解放闘争を強力に推し進めました。地主・富農階層の利益を代表するものであった謝文東、土竜山農民の蜂起が短時間にして失敗してから後、完全に行動を止めたわけではありません。抗日連軍指導者の具体的な援助のもと、その抗日部隊はふたたび力を回復して拡大し、ついには東北抗日連軍第八軍を作るまでになり、東北地方の抗日遊撃戦争に相当な貢献をしました。謝文東は後に、東北地方の抗日闘争が最も困難となった段階でふたたび動揺し、敵に投降しましたが、そのことに関しては、謝文東個人や歴史状況の各方面からみて、原因を探るしかないでしょう。(上條厚訳)

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