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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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 サンダカン捕虜の死の行進-NO5

2008年01月30日 | 国際・政治

           第三団の「死の行進」
  
           サンダカン捕虜の死の行進-NO5
 
 
 第二団にも取り残された捕虜について、その概要を引き続き「知られざる戦争
犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著-大月書店
によっ
て確認したい。

意図的な捕虜の抹殺-------------------------
 ラナウへの行進の第二団がサンダカンを離れたあと、収容所には288名の
捕虜が残されたが、そのほとんどは衰弱しきって動けない状態にあった。しか
し、その中には比較的体力が残っていたにもかかわらず、仲間の捕虜の世話を
するために行進に参加せずに収容所に残った者が少数名いたようである。建物
をすべて焼き払われたため、彼らは近くに生えていた木や葉っぱを集めてきて
雨よけを作り、その下に仲間の捕虜たちを横たえた。・・・

 捕虜たちは相変わらず医薬品も食糧も与えられず放置された状態におかれた
ため、沼地に生えている野生植物の根や茎を主食とし、たまに収容所要員が腐
って食べられなくなり捨てた魚や肉を口にしてなんとか生きながらえた。

 第二団行進がサンダカンを離れた三日後の6月1日、ケマシン行って10日
間ほど留守にしていた森竹中尉がサンダカン収容所に戻ってきた。・・・

 ケマシンで彼は、「捕虜をなんとしてもラナウに移転させよ」という司令部
の命令を受けてサンダカンに戻ってきたのであろう。6月9日、森竹はこの時
点で生き残っていた260名の捕虜のうち75名を選びだし、岡山部隊から出
向いてきた37名の日本兵を指揮する岩下少尉に引き渡し、ラナウに向けて出
発させた。しかしほとんど立って歩けない捕虜たちを260キロも離れたラナ
ウまで行進させようなどという考えは、捕虜抹殺の意図をもって命令している
としか言いようがない。この第三団の行進では、捕虜だけではなく岩下少尉以
下37名の日本兵のうち一人の兵をのぞいて全員がジャングルの中で全滅して
いる。

銃殺--------------------------------
 75名がたどりつく見込もないままラナウへ向かった6月9日、サンダカン
には185名の捕虜が生きながらえていた。しかし彼らは次々と死亡していき
・・・1ヶ月あまりのちの7月12日には50名にまで減っている。この間お
そらく森竹は、残りの捕虜が「自然死」するのを待っていたのであろう。「自
然死」すればラナウまで移転させる必要はないし、自分たちの行進も楽になり
途中で死亡する危険性がそれだけ少なくなる。しかし森竹はこの数日前、サン
ダカンをなるべく早く撤退し、撤退する途中で捕虜を処分せよという命令内容
の手紙をラナウに駐留している高桑から受け取った。もうこの時点ではサンダ
カン地域に残っている部隊はほとんどなかったため、いつまでも要員を収容所
においておくのは危険であった。そこで森竹は、放っておいてもごく近いうち
に死亡するであろうと思われた27名はそのままにしておき、「自然死」する
にはまだかなり時間がかかると思われる23名を選んで銃殺することにしたの
である。

台湾人監視員に銃殺命令-----------------------
 ところが彼(森竹中尉)はこのときマラリアに冒されていたため、23名の
捕虜銃殺場所を 飛行場建設現場にある防空壕と指定し、室住曹長にその命令
実行の任務にあたらせた。・・・

 7月13日の夕方6時ごろ、室住は12名の台湾人監視員に23名の捕虜を
そこまで連れ出させ、防空壕の前に一列に並べさせた。そして12名の監視員
を捕虜の反対側に一列に並べさせ、全員に一斉射撃で捕虜を銃殺するように命
じた。捕虜を飛行場建設現場に連れ出すように命じられた監視員の中にこの命
令に躊躇した者がいたため、室住は「上官の命令に背く者は処刑する」と、彼
らをなかば叱咤しなかば脅迫した。室住は自分のピストルを抜きとり、監視員
から三歩ばかりうしろに下がってから銃殺命令を出しており、命令に従わない
監視員をその場で銃殺する構えを見せたという。
監視員たちは、命令に従い捕
虜に向けて発砲せざるをえなかった。銃殺された捕虜の死体は、この後防空壕
に投げ捨てられ埋められた。

生き残りはたった6名------------------------
 結局、サンダカン収容所の捕虜の中で生き残ったのはラナウから逃亡したこ
の4人(ボッテリル、モクサン、ショート、ステップウィッチ)と第二回行進
中に別々に逃亡し、ジャングル内をさまよい歩くうちに現地住民に拾われて米
軍に引き渡されたキャンベルとブレイスウェイトの二人、合計6人だけであっ
た。あまりに信じがたい数字であるので、先にも述べたがあえて繰り返そう。
サンダカン収容所にいた豪・英合わせて2500人の捕虜のうち、戦後にまで
生き延びたのは6名であった。

----------------------------------

          http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
        http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm

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サンダカン捕虜の死の行進-NO4

2008年01月29日 | 国際・政治

           第二団の「死の行進」           
 
 470人捕虜が9班に分けられ、サンダカンからラナウへ向かった第一団の
死の行進に続いて、第二団536人の捕虜が11班に分けられ、5月29日夜
7時にラナウに向け出発した。その死の行進の概要を引き続き「知られざる戦
争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著-大月書店
によ
って確認したい。

 1945年5月17日、新たにサンダカン捕虜収容所の所長に任命された高
桑大尉は、5月20日に第37軍司令部よりサンダカン捕虜収容所を閉鎖して
捕虜ならびに監視員全員をラナウに移転すべしとの命令を受け第二団を出発さ
せたのである。ただし、第一団が出発した直後はサンダカンに1300名近い
捕虜が残っていたはずであるが、5月末には830名に減少しており、歩ける
者はオーストラリア人439名、英国人97名の536名であったため、第二
団は536名だったのである。第二団にも取り残された捕虜については、後程
確認したい。

闇夜の行進開始---------------------------
 夜の暗闇にもかかわらず行進を開始したのは、おそらく高桑が連合軍の上陸
が間近に迫っているとかんがえ、できるかぎりサンダカンから遠く離れた所ま
でなるべく早く行きたいと考えたからであろう。・・・
 捕虜たちが行進を開始するや、ごく一部の建物を残して収容所の日本軍要員
の宿舎やその他の建物にも火がつけられた。

食糧補給------------------------------
 夜11時ごろ、収容所から 約7キロ離れた地点に到着したとき、各班につ
き45キログラム入りの米袋が二つずつ配られた。つまり捕虜一人あたり約
1,8キログラムが、最初の食糧補給地点であるムアナッドまでの10日分の
食糧として配給されたわけである。実はこの地点には日本軍の米50トンほど
が集積されていたが、この米は連合軍が上陸してきて戦闘状態になったときの
ことを考えて、警備隊のためにサンダカンの近辺のあちこち密かに備蓄されて
いたものの一部である。行進は夜通し続けられ、翌朝2時間ほどの休憩をとっ
ただけで行進が再会され、午後3時になってやっとその日の行進が終わった。

 しかし、ほとんどの捕虜が行進を開始する前から病気で相当衰弱していたた
め、収容所から米を配給された地点までの約7キロの間ですでに落伍者が出て
おり、たとえば戦後まで生き残った捕虜の一人スティップ・ウィッチが捕虜班
長を務めた第2班などは早くも6人を失っている。

落伍した捕虜は処分せよ-----------------------
 病弱のためどうしても足が遅くなる捕虜を、監視員がこん棒や銃床でなぐり
つけながら追いたてるようにして行進しなければならなかったため、最初から
行進の先頭と最後尾の間隔が大幅に空いてしまい、5月30日午後3時に休息
についた第一、第二グループに第三グループが追いついたのはその日の夜であ
った。(第一グループは第1班から4班、第二グループは第5班から8班、第
三グループは第9班から11班)
 その間、監視員になぐりつけられますます体力を失った捕虜たちは、道路か
らジャングルの中に追いたてられ銃殺されるかなぐり殺された。逃亡する者は
もちろんのこと、落伍した捕虜も処分せよという高桑の命令が今回は初めから
日本軍兵員や監視員に出されていたのである。たとえば、5月30日の夕方、
第三グループの監視にあたっていた日本兵の一人、片山伍長は、二人の監視員
とともに、ほとんど動けなくなった捕虜7人を足で蹴ったりなぐりつけながら
ジャングルの中に追いたてて、全員を銃殺している。
 
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サンダカン捕虜の死の行進

2008年01月28日 | 国際政治

           サンダカン捕虜収容所-NO3

  簡単に比較することはできないが、サンダカンの捕虜や日本兵がバターン死の
行進に優るとも劣らない悲惨な「死の行進」によって亡くなっている。ボルネオ島のサンダカンからラナウの約260キロの行進であったが、鬱蒼としたジャングルや湿地帯でおおわれており、また雨期でであったため、時には20cmのぬかるみの中を2日間も行進しなければならなかったという。したがって、ほとんどの捕虜が素足での行進を余儀なくされ、熱帯性潰瘍に冒されていた捕虜は潰瘍をさらに悪化させたわけである。また、ジャングルの中にはコブラやトカゲがおり、沼地にはワニもいたというのであるが、特に茶色の大きなヒルが生息しており悩まされたということである。
 「知られざる戦争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何をしたか」田中利幸著
-大月書店
によると死の行進の概要は下記のようなことである。

戦況悪化------ -----------------------
 連合軍によるサンダカンへの引き続く空襲のために、飛行場が使いものにならなくなり、1945年1月10日、日本軍は修復工事をあきらめ、捕虜の強制労働も停止させた。そして、連合軍の上陸が予想される西海岸の防備を強化することを決定し、兵力の移動とともに、体力の残っている捕虜500名を軍の物資輸送に利用しながら移動させることにしたのである。
 捕虜500名を山本部隊に引き渡すよう命令された捕虜収容所の星島所長はなぜか470名しか引き渡していないという。
 山本は470名の捕虜を9班に分け、各班を50名前後の捕虜で構成し、各班の護送責任者として士官を一人、下士官を一人ないし二人ずつ割り当て、さらに各班に40人前後の兵卒を護衛としてつけた。

「捕虜処分」の許可-------------------------
 「落伍者を出すな」という命令とともに、サンダカンからラナウまで捕虜を移動させる命令を受けた山本大尉は、任務遂行はきわめて困難と考え、行程期間の延長や医薬品の増加、休憩地点を増やすことなどいくつかの要望を司令部に出した。しかし、受け入れてもらえず、「落伍者を出すな」という司令部からの命令を「落伍者は処分してよい」というかたちで、最後尾の班の責任者に命令せざるを得なかったようである。

ラナウへの移動 第一団-----------------------
 1945年1月29日早朝6時、総責任者である山本大尉、それに第1班のオーストラリア軍捕虜55人が40人の日本兵に付き添われてサンダカンを出発した。その後毎日各班が前の班を追うかたちで出発し、最後の9班がサンダカンをでたのは2月6日であった。前述したように、出発時に米や乾し魚、少量の塩ビスケットなど4日分の食料を与えられ、途中のムアナッド、ボト、パパン、ムリル、パギナタンの5カ所の各食糧補給地点で、次の数日分の米や野菜の供給を受けることになっていた。ところが・・・、
 結局第1班は2月12日午後4時にラナウに到着したが、55人の捕虜のうち15人が死亡。
 第2、は17日の行進でラナウに到着した捕虜は30人であった。(出発当初50人)さらに10名の日本兵が病死している。
 最後尾の9班の捕虜50人(全員英国兵)は2月6日にサンダカンを出発、最後の食糧補給地点であるパギタナンに21日に到着している。この間18人の捕虜と7人の日本兵が死亡している。
 
第6班から第9班、パギタナンで行進中止----------------
 かくして、食糧準備不足のために、すでに述べたように後列の班になるほど状況が悪化し、捕虜たちはカタツムリやカエル、しだの葉っぱなどとにかく食べられるものは何でも口に入れて飢えをしのぎながら行進しなければならあなかった。しかしあまりにも衰弱が激しかったため、捕虜と日本兵両方の体力回復をはかるために、第6班から第9班までの4つの班の行進を最後の食糧供給地点であるパギタナンでいったん中止させている。この4つの班はパギタナンに2月17日から21日の間に到着したが、合計200人近くいた捕虜のうち40名ほどが途中で「落伍」していた。さらに、ここまでたどりついた160名も極端に衰弱しほとんどの捕虜が熱帯病に冒されていたため、毎日何人も死んでいった。結局彼らは ラナウから運ばれてくる米の補給にたよりながら1ヶ月ほど留まったが、この間に100名ほどが死亡した。

捕虜による物資運搬中止-----------------------
 一方、第1班から第5班はラナウに2月12日から19日にかけて到着したが、もともと270名ほどいた捕虜のうちラナウに到着したのは200名弱であった。しかし彼らの多くもまた苛酷な行進のため体力を消耗しきっており、そのほとんどが脚気やマラリアに冒されていた。これ以上の行進はまったく不可能であった。第37軍司令部は、捕虜の中にあまりにも多くの死亡者が出たため捕虜を軍の物資運搬にこれ以上利用することをあきらめたのか、命令を変更して捕虜をそのまま留めることを決定した。
 
 ラナウに残された200名たらずの捕虜は2週間ほどの休息を与えられたが、食糧配給事情は相変わらず悪く、医薬品の供給もまったくなかったため、この間に数多くが死んでいった。

 第二陣の行進でサンダカンから連れてこられた捕虜たちがラナウに到着したとき、生き残っていた捕虜はたった6人だけであった。

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サンダカン捕虜収容所-NO2

2008年01月27日 | 国際・政治

                               食糧配給制限

 サンダカン捕虜収容所の捕虜全員死亡に限りなく近い高い死亡率の一因である食糧配給の制限状況を「知られざる戦争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何を
したか」田中利幸著-大月書店
からいくつか抜粋したい。

1---------------------------------
 捕虜収容所開設当時は、重労働に従事した捕虜には一人あたり750グラムの
米とこの地域でとれるカンコンと呼ばれる菜っ葉を中心に600グラムの野菜が、
重労働に従事しない捕虜には一人あたり550グラムの米と400グラムの野菜
が毎日支給された。肉や魚の支給はたまにしかなかったようであるが、しかしす
でに述べたように最初のうちは賃金が払われており、所内で売店を開くことが許
可されていたので売店があげた利益でヤク牛を数頭買いその肉を捕虜全員に分配したことがときたまあったという。また売店では亀の卵やバナナなども入手でき
たので、食料は豊富とはいえないが不十分なものではなかった。しかしすでに述
べたように1943年なかばには売店も閉鎖され、1944年6月には米の配給
が重労働者には1日400グラムに、重労働に従事できない病人には300グラ
ムに削減されている。減らされた米の代用タピオカやさつま芋などが使われたよ
うであるが、それもたいした量ではなかった。

2---------------------------------
 1945年1月には米の配給は労働従事者には1日あたり300グラム病人に
は200グラムにまで削減したということであるが、生き残った捕虜の証言では
米は100グラム少々で、あとはタピオカ、さつま芋、野菜が少々供給されただ
けだったという。

 したがって、食糧供給が大幅に削減された1944年6月以降からは栄養失調
と病気による捕虜死亡者数が急激に増加し始め、それまでは死亡者には形なりに
も棺桶をこしらえて葬っていたが、棺桶を作るのが間に合わなくなるほど毎日死
亡者が続出したため、これ以降死亡した者は裸の状態で土葬されている

3---------------------------------
 ・・・4月1日からは、サンダカン捕虜収容所の捕虜への米の配給を完全に停
止させた。
----------------------------------
 食糧配給の削減には、サンダカン事件や戦況の悪化、捕虜処分の方針などが関
係していると考えられる。 
 
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サンダカン捕虜収容所

2008年01月26日 | 国際・政治

             生存率0,24%の捕虜収容所

 サンダカン(Sandakan)は、カリマンタン島(ボルネオ島)の北部に位置する
マレーシア・サバ州の都市で、州都コタキナバルに次ぐ第二の商業都市である。
戦時中は、ボルネオ島東海岸部の油田ブニュー、タラカン、サンガサンガやバリ
ックパパンと日本を繋ぐ重要な連絡地であったという。そこに、生存率0,24%の
問題の捕虜収容所があったのである。
 サンダカン捕虜収容所には1943年9月時点では約1800名のオーストラ
リア軍捕虜と700名のイギリス軍捕虜が収容されていたが、戦後まで生き延び
たのはこのうちたった6名であったというのである。あの悪名高いアンボン捕虜
収容所でさえ、528名の捕虜のうち123名が戦後まで生き延び、生存率は23
%であり、過酷な強制労働で知られている泰緬鉄道建設工事に従事させられたオ
ーストラリア軍捕虜は総数9500名のうち死亡者は2646名で生存率は72%
であったというから驚く。
 この捕虜収容所で何があったのかは後に回すとして、生存率0,24%のこの捕虜
収容所のことがほとんど知られていない主な理由は、「知られざる戦争犯罪(日
本軍はオーストラリア人に何をしたか)田中利幸著<大月書店>
」によると、一
般的な無関心にくわえて、次の3つがあるという。
 1 一部の上級人員を除いて、監視員のほとんどが台湾人であったため、直接
   経験者としてこの問題に言及できる証言者がきわめて少ないこと。
 2 敗戦直前に日本軍が収容所に火をつけたため、証拠となるような関係書類
   を焼失してしまっていること。
 3 生存者が少ない上に、精神的傷痕があまりに深くて、他人に語ったり、文
   章にしたりすることがきわめて困難であったこと。(語り始めたのは1980
   年代に入ってからであるという) 

 
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日本軍撤退の時

2008年01月24日 | 国際・政治

          「石をもって追われた」日本軍の撤退

 「一下級将校の見た帝国陸軍」山本七平(文春文庫)の中に重要な指摘があるかつて、多くの人たちが口にした「ピリ公なんざぁアジア人じゃネェ」(ピリ公フィリピン人への蔑称)という言葉やこれに類した言葉、また逆に「アメリカはアジアの心を知らなかった」という言葉の中の「アジアの心」とは何なのか。「全アジアを経めぐった上で形成された概念なのか?」というような問いである。
----------------------------------
 30年前、何百万という人が、入れかわり立ちかわり、東アジアの各地へ行った。私もその一人だった。そして、現地で会った人びとが、自分がもっているアジア人という概念に適合しなかったとき「こりゃ、われわれの”見ずして思い込んでいるアジア人という概念”が誤っているのではないか、否、この広大なユーラシア大陸の大部分を占める地に”アジアといった共通の像”があると一方的にきめてしまうのは誤りで、単なる一人よがりの思いこみではなかったのか?」 と反省することができたなら、日本のおかした過ちはもっと軽いものであったろう、と私は思う。 
----------------------------------
 そして、私が忘れてはならないと思うのが、下記のような歴史的事実である。
----------------------------------
 米海兵隊によるベトナムからの米軍引揚げ作戦の報道は私を憂鬱にした。何万という難民がそのあとについて脱出していくが、石を投げる者はいない。その記事の一つ一つは、しまいには、読むのが苦痛になった。形は変わるが30年前われわれも比島から撤退した。だれか、われわれのあとについて来たであろうか。もちろん事情は違う。私が言うのは本当について来てほしいということではない。だれかが、「日本軍のあとについて脱出したい、しかしそれは現実にはできない」と内心で思ってくれたであろうか、ということである。
 もちろん何事にも例外はある。しかしわれわれは、アメリカ軍と違って、字義通りに「石をもって追われた」のであった。人間は失意のときに、国家・民族はその敗退のときに、虚飾なき姿を露呈してしまうのなら、自己の体験と彼らの敗退ぶりとの対比は、まるでわれわれの弱点が遠慮なく、えぐり出されるようで苦しかった。そして、その苦痛をだれも感じていないらしいのが不思議であった。というのはそれは30年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように思い出させたからである。
 私も同じ体験を記したことがあるが、ここではまずその時点の正確な記述である故小松真一氏の『虜人日記』から、引用させていただこう。
 「・・・『バカ野郎』『ドロボー』『コラー』『コノヤロウ』『人殺し』『イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)』憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。隣の人の頭に石が当たり、血がでた・・・」
 これは21年4月、戦後8ヶ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落ち着きがあるが、これが20年9月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中をひかれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、八つ裂きのリンチにあうのではないかと思われるほどであった。だが、サイゴンの市民は、「アジアの心をしらない」米軍に、1個でも、石をなげたであろうか。
 護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた。考えてみればわれわれは「護送」において常にここまではしていない。内地でも重傷を負ったB29搭乗員捕虜を、軍が住民のリンチに委ねた例がある。だが、私とてもし、「親のカタキだ、1回でよいから撲らせてくれ」などと言われたら、威嚇射撃でこれに答えることは、できそうにない。だがこの1回が恐るべき状態への導火線になりうる。そしてこれが、後述する日本的中途半端なのである。
 私は幸運だったのだろう。だがすべての日本兵がそのように幸運だったわけではない。戦争末期、特にレイテ戦の後で、小舟でレイテを脱出して付近の島に流れ着いた、戦闘能力なき日本軍小部隊への集団リンチの記録は、すさまじい。
 これらについては、もちろん日本側には一切資料はなく、戦争直後に、比島の新聞・週刊誌等に挿絵入りで連載された「日本軍殲滅記」から推定する以外にない。        
----------------------------------

日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたが、ミンダナオでは、9月3日原田師団長が師団将兵に降伏命令を出した。そして、半信半疑ながら、米軍機より撒かれた投降命令にしたがって投降した広瀬繁治氏「嗚呼・ミンダナオ戦-生死をわかつ我が青春」の中で、収容所に送られる時の様子を、次のように書いている。

---------------------------------

  我々は元陸軍の飛行場に造られた、ダリアオン収容所にむかったのである。道路の両側には、沢山のフィリピン人が立ち並んでいる。その列のなかからは、我々に向かって、手で首をちょん切るまねをしたり、片言の日本語で、バカヤロー、ドロボウ、という罵声が飛ぶ。その声に刺激されてか、石を投げる者もいる。当たれば傷をする。
 しかし、こうされるのも、当然かも知れない。自分たちの愛する土地を戦場にされ、農作物は荒らされ、家は焼かれ、肉親、知人に沢山の犠牲者を出しているのだ。
 日本軍が抵抗できない、と知れば、仕返しに石でも投げたくなるだろう。だが、我々ペイペイの兵隊も、来たくて来たわけではない。
 ただし、投石は護送する米兵にとっても危険である。投石があると空に向けて威嚇射撃をする。
 幸い我々は無事、収容所へ到着した。

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「六キロ行軍」は地獄の行進?

2008年01月23日 | 国際・政治

        虐待ではなく、日本軍なみ

 泰緬鉄道建設工事に従事させられていた元捕虜の証言の中に、「日本軍
は捕虜に対して極めて残虐・残忍であると思っていたが、敗戦で引き上げ
てくる多くの骸骨のようにやせ細り何の手当もされていない傷だらけの日
本軍兵士を見て、自国の兵士をさえこのような状況に追い込む日本軍にと
っては、特に捕虜を虐待をしたということではなかったのかも知れない」
というよう内容の証言があったことを覚えている。

 「一下級将校の見た帝国陸軍」(山本七平:文春文庫)の中に、「バター
ン死の行進」について、次のような一節があり思い出したのである。
---------------------------------
 だが、収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときの
われわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、
捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、
というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本
軍の行軍は、こんな生やさしいものではなく、「六キロ行軍」(小休止を
含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れ
るのはあたりまえであった。そして、これは単に行軍だけではなく他の面
でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った。
「卒業までに、お前らの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入
っトル」と。───こういう背景から出てくる本間中将処刑の受け取り方
は、次のような言葉になった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍
はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”
で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」。
---------------------------------

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慰安所経営者の証言

2008年01月20日 | 国際・政治

        ビルマ慰安所経営者の証言-NO2

 下記は、気さくでものおじしない陽気な人柄に目をつけられ慰安所の経営
をやってほしいと陸軍参謀に頼まれたため、ビルマに渡って慰安所経営者と
なった「幸江」の証言である。
----------------------------------
 「わたしは、この商売を本気でやってましたよ。お国のために命をかけて
いる兵隊さんのために、できるだけ心を慰めてやりたいと思うてました。あ
の人たちは、セックスだけが目的だったんじゃないですよ。人間と人間の触
れあいに飢えていたんですよ。慰安所は、心の安らぎの場だった。わたしは、
そういう気持ちであの商売をやってましたよ。その気持ちは、あの商売にた
いするわたしの使命感でした」
----------------------------------

 こういう経営者だけに、下記のような証言は重みを持っていると思う。
----------------------------------
 「軍の命令がたびたびくるんですよ。今度はメイミョウの部隊に○○人ほ
ど女を連れて行きたいから用意してくれとかいう具合にね。移動するときは、
軍のトラックですよ。軍のトラックが指定した日に迎えにくるんです。いや
だなんてとても言えませんでしたよ。問答無用。・・・」

 「・・・慰安所を経営していたからといって、なんぼも儲かりゃしません
よ。第一、石炭缶に入るほどの軍票があったけれど、そんなもん一文の価値
ものうなっとりましたからね。・・・」

 「・・・慰安所の経営者が、まるで悪者のように言われますが、軍の命令
だったんですよ。けっきょく私らも、戦争では置き去りにされたようなもん
です。使い捨てっていうか・・・」
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慰安所経営者の証言

2008年01月20日 | 国際・政治

        ビルマ慰安所経営者の証言-NO1
  
 従軍慰安婦と15年戦争<ビルマ慰安所経営者の証言>西野留美子(明石
書店)
を読んだ。今までに何度か従軍慰安婦の証言は読んだことがあったが
慰安所経営者の証言はあまり読んだことがなかったからである。慰安所の経
営にも、慰安婦の集め方にもいろいろあったことが分かった。それにしても、
この本の書き出しが衝撃的だった。
----------------------------------
 「慰安所経営者だったと証言してから、わたしは公職のすべてを離れまし
たよ」
 中国で日本人、朝鮮人女性を買いそろえ、軍の指示によりビルマで慰安所
経営をしたという香月さんを訪ねた日、彼はまっ先にそう告げた。
  「証言なさったことを後悔されているんですか?」
 おそるおそる尋ねる私に、彼は苦笑いしながら首を横にふった。
 「私が話さにゃ、本当のことは分からんでしょう」
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 「今さら過去を蒸し返すな」「国益に反することをするな」という力が今
なお働いていることに注目しないわけにはいかない。

 この本には「『従軍慰安婦』と日本軍」と題して行われた元日本兵(中国
帰還者連絡会の方々)の座談会の発言が含まれており、個人差はあっても、
当時の日本兵の慰安婦(慰安所)に対する考え方や状況がだいたいつかめる。
 
 また、慰安婦の集め方は、朝鮮人慰安婦に限らず、元五十九師団軍曹絵鳩
さんがいう下記の3通りの方法があったこともほぼ間違いないと思うように
なった。
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 1 お金をもらって連れて行かれた。
 2 工場や食堂などでいい仕事があると甘言で騙されて 連れて行かれた。
 3 日本の官憲によって、明らかに強制的に連れて行かれた。
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アンボン島の従軍慰安婦

2008年01月17日 | 国際・政治

      アンボン島における日本軍-NO3
  
 アンボン島における日本軍の問題で忘れてはならないのは、虐待・虐殺の
事実とともに慰安所設置の問題である。「慰安婦はいたけれど、従軍慰安婦
はいなかった」というようなことが、最近いろいろな場面で(著作物を含め)
主張されるようになってきているが、下記を読めば、アンボン島でも軍が深
く関わり、軍が主導していることは明らかであると思う。
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 それまでも、毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議と
いうのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とちがって、島の
民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするかとか、
民政関係からみて警備隊はこの点とくに注意してもらいたいとか、本質的に
対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとす
る会議だった。
 出席者は各警備隊の司令・副長、民生部は当時政務隊となって成良司令官
が政務隊長として出席し、民政警察の木村司令官も顔をだしていた。セラム
新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木村元記者、宗教関係からはキ
リスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令
部からは、参謀長、先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の
憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。・・・

 その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のよう
な慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのため
に、慰安婦を集めることと治安上起きるかも知れない民衆の反感について討
議されることとなった。・・・

 このアンボン島の周辺の小島から、多くの慰安婦を集めようとすれば、慰
安婦志望者だけでは少ないだろうし、多少強制でもすれば住民の反日感情を
高めて治安上おもしろくないことが起きはしないだろうかという心配の点が
中心になるだろうと思われた。
 そして、慰安婦を集める作業はどこがやるのか、各隊はそれにどのように
、どの程度まで協力するかが討議されなければならなかった。問題は現地人
を、どううまくごまかすかが会議の本当の議題でしかなかった。それは一つ
の謀議でもあった。

 副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一
面に現して、
「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めるこ
と、そのためには、宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、
海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってく
る女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活させる。
その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにして
いきたい。そして、ひとりひとりのの女性から、慰安婦として働いてもよ
いという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしていま
す。」

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として
収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいこ
とがあったことを知った。
「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、
リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いま
でも忘れられないが、娘たちが住んでいたの住民が、ぞくぞく港に集
まってきて、娘を返せ!!娘を返せ!!と叫んだ声が耳に残っていますよ。
こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピスト
ルに手をかけましたよ。思い出してもゾーッとしますよ。敗れた日本で、
占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ。」
 わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容
疑者を捕らえて、収容所に送って協力していた。それは犯罪容疑者として
捕らえていた。
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日本軍の虐待・虐殺

2008年01月15日 | 国際・政治

                      アンボン島捕虜および労務者の虐待・虐殺-NO2
  
 第2次世界大戦当時すでにハーグ条約やジュネーブ条約などを通して、戦
時捕虜の取り扱いについて様々な国際的定めがあった。
 しかしながら日本は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残
すことなかれ」というような戦陣訓のもと、「日本軍人たる者は、いかなる
状態であれ、敵に捕まることは、最大の恥とされ、捕まる前にどこであろう
と、いつであろうと、だれであっても、力の続く限り敵と戦って死ぬことが
要求されていた。動けない病人には自決が要求された。一度でも意識不明の
ためとか負傷のために捕虜になり、逃げ帰って、捕虜になっていたことがわ
かれば、軍事裁判で銃殺が決定していたほどきびしかった」という状況にあ
ったので、敵の捕虜についても人道的に扱うという姿勢はほとんどなかった
ということである。
 したがって、にわかには信じがたい数字の下記の記述も頷ける。
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 日本がアンボン島を占領していころ、オランダ軍・オーストラリア軍など
の捕虜が訳1,200人ほどいた。そのうち、占領と同時に上陸作戦で多く
の犠牲者を出した日本軍は、敵の捕虜200人あまり、激戦のあったラハ飛
行場の近くの塹壕の中に殺害して埋めてしまった。残った1,000人のう
ち、約500人が後方占領地に送られ、残り約500人がアンボン島の捕虜
収容所に収容され、1945年に入って築城作業の重労働と食糧不足・病気
などで死亡し、敗戦時はわずか約130人になっていた。・・・
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 「アメリカ機搭乗員の殺害」の項では、3人のアメリカ機搭乗員をどのよ
うな経過で、どのように殺害したのか詳しく書かれている。下記は、そのご
く一部の抜粋である。
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 ・・6月上旬セラム島空襲にきた敵爆撃機編隊の一機が、低空飛行をやり
すぎて、急上昇できず小高い山に衝突し、大破し、3人のアメリカ機搭乗員
がふしぎにも無傷で生き残り、他は全員死んでしまう事件が起こった。
 セラム島派遣警備隊に捕らえられて、司令部の指示で特警隊に連行されて
きた。
 「3人のアメリカ軍捕虜は重要な情報をとるために、取り調べる必要があ
るので、それがすむまで特警隊の留置所に留置し、逃げないように警戒する
とともに、決して無茶な扱いはしないように注意してくれ」。
 司令部の指示だった。・・・

 宮崎大尉からの命令だった。
「3人の搭乗員の調査もすんだので、あまり長くそのままにしておくことも
どうかと思う。明日にでも処置してくれ、作業員と警戒兵はガララの捕虜収
容所の警戒隊から出す。時間は収容所と打合わせてやってくれ」。 
「わかりました。では、明日処置します」。
 現地では「殺害せよ」とはいわなかった。「処置するように」ということ
ばが「殺害せよ」ということで常識化していた。
 3人のアメリカ軍人を殺害する命令を受けたわたしは、一回くらい自分で
もやってみようか、という気が起きていた。・・・
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 こうして国際法違反の捕虜の殺害が行われたのである。

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虐待・虐殺

2008年01月14日 | 国際・政治

    アンボン島捕虜および労務者の虐待・虐殺-NO1
 
 泥沼の青春時代を送った著者禾晴道氏は「時の経過とともに、汚い戦争を
美化し、正当化しようとする意識的な動きすらでてきています。」と<海軍
特別警察隊-アンボン島BC級戦犯の手記-(太平出版社)>の中で警告し
ています。そして、誰も知らないようなインドネシアのバンダ海に浮かぶ
”けしつぶ”ほどの小さな島でも、日本軍による虐待・虐殺があったこと、
また、自ら関わったことを明らかにしつつ、その戦争体験を直視し、様々な
事実とその時々の心の内を正直に報告しています。
 私は、この著書から学ぶことがたくさんあったのですが、忘れてはならな
いと思うことのいくつかを書き出しておきたいと思います。
----------------------------------
 海軍特別警察隊(特警隊)へは、軍の宿舎とか食糧庫に侵入した現地人は
現地人警察で捕らえた者も送られてきていたし、特警隊でも捕らえていた。
各部隊でも連れてくるので、取り調べがたいへんだった。・・・
 
 考えてみれば、日本軍そのものが石油がないので石油資源のある南方地域
を占領しているのだから、この食糧どろぼうとは問題にならないほどの大ど
ろぼうとして侵入していたわけだった。その侵入者であり大どろぼうがわれ
われであることにはだれも気づいていなかった。・・・

 ある日、司令部の先任参謀から電話がかかってきた。
 「ジャワ島から来ている現地人の労務者(ジャワ苦力と呼ばれていた)が
 宿舎を離れて、焼跡の町なかや、部隊の兵舎のまわりをうろついている。
 食糧がほしいあまりに、兵器庫などに侵入されたり、どこに侵入するかわ
 からないので非常に危険になってきている。トラックをだして町中のやつ
 らをかたっぱしから捕らえて、分からないように処分せよ」。
 という命令だった。わたしもこの命令にはドキッとした。

 たしかに警備上からだけ考えれば、先任参謀のいうような危険は考えられ
ないことはないが、飢えて、病気になり、ふらついているかれらを虫けらの
ように殺すことができるだろうか。 
 人口過剰と食糧不足は、日本軍の侵入でジャワ島にも起きていた。 

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キャンプ・オードネル(捕虜収容所)

2008年01月06日 | 国際・政治

          キャンプ・オードネル(捕虜収容所)
 
 バターン死の行進の様子は鷹沢のり子著「バターン『死の行進』を歩く
でおよそ確認できた。次に、サン・フェルナンドからカパスまでの列車輸
送の様子と捕虜収容所「キャンプ・オードネル」内での様子をテオドロ・
A・アゴンシリョの「運命の歳月 第一巻(フィリピンにおける日本の冒険
1941~1945
)訳:二村 健」井村文化事業社発行・勁草書房発売で確認し
たい。

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 翌日、捕虜たちは鉄道駅に連れて行かれた。高さ7フィート(2.1m)幅
8フィート(2.4m)、長さ33フィート(10.1m)の有蓋貨車数両が駅にあった。
これらは、捕虜たちをカパスへ運ぶものであった。貨車一両は通常55人
乗りであったが、それぞれに、100人から150人の捕虜が詰め込まれた。男
たちを乗せると、扉が閉じられ、外から鍵が掛けられた。貨車の中は極め
て暑く、捕虜たちは息が詰まった。赤痢を患い、未だわずかに命脈を保っ
ていた者は、便意をもよおすと所構わず排便した。そのため、車内の環境
をさらに悪化させた。多くの者が気を失った。身体的衰弱状態にあったこ
とから、立ったまま、あるいは、座ったままで死に絶える者もあった。自
由に動ける隙間もなかった。一度体の位置を取ると、もはやその位置を変
えることはできなかった。・・・

 日本軍の監視兵は、カパスまでの3時間の道のりの間、それぞれの停車
駅で、不意に思い出したかのように貨車の扉を開け、捕虜たちに車外の新
鮮な空気を吸い込む機会を与えた。そうした停車駅では、フィリピン人の
市民たちが、彼らに食糧と水を差入れた。・・・

 カパス駅では、フィリピン人市民たちが、互いに先を争って、食べ物の
入った袋を捕虜たちに投げたり、水の入ったバケツを手渡したりした。日
本軍警備兵の中には、捕虜たちに与えられた食料を投げ捨て、貴重な水を
地面にこぼす者もいた。市民らのすることにまだ我慢のできた、多少人間
味のある日本兵もいた。こうした日本兵は、この痛ましい光景を目にしな
がら、ただ動かずじっと立っていた。
---------------------------------
 キャンプ・オードネルでの最初の二週間は、非常に苦しいものであった。
食糧の配給は情けないほど不十分で、一回の食事は、少量の飯と一摘みの
塩であった。捕虜に与えられる米は、実際、「精米所の床から掃き集めら
れたもの」で、炊飯すると色が紫色に変わった。たまに、さつまいもが食
事に添えられた。しかし、ほとんどが腐ったもので、人間の消耗を補うに
は不適切なものであった。さうまいもが少しでも与えられると、皮のまま
大きな鍋に放り込まれた。包丁が一本も支給されていなかったからである。

 食事がこれだけ不十分であったため、男たちは、人間というよりも骸骨
にずっと近く見えた。肋骨がくっきりと浮き上がり、見た目に数えること
ができた。尻の肉はたるんで垂れ下がり、腕の皮はしまりがなくだらんと
していた。ほとんどの捕虜たちは、眠っているときは生きているようには
見えず、むしろ死んでいるかのように見えた。場合によっては、その人は、
本当に死んでいた。仲間の知らないうちに息を引き取っていたというのが
実際の話であった。朝が夜になり、また、次の朝がやってくると、埋葬さ
れる順番を待っている多数の死体が見られた。マラリア、赤痢、デング熱、
栄養失調が犠牲者を増やした。次から次へと兵士が死んでいくので、生き
残った者は、戦友のための墓掘り作業を止めることができなかった。

 アメリカ人の間では、死亡者数が日毎に増加し、1日20人から58人
にまで達した。フィリピン人の死亡者は、アメリカ人よりも高く、最高で
350人が死んだ。
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バターン死の行進

2008年01月04日 | 国際・政治

        バターン「死の行進」を歩く-その2

  同書の中から、いくつかを紹介したい。
----------------------------------
 5日間かかってオリオンに到着。兄が手配してくれた舟がくるのを港で待
っていた。そこに日本兵がやって来て「男性はそのまま歩いていけ。女性は
残れ」と命令された。ラオーラさんはギャザースカートをはき、ブラウスを
着ていた。日本兵が片手でラオーラさんの胸にふれた。息が止まりそうだっ
た。日本兵はさらに指をさげていった。胸につけていた十字架が大きかった
ので、ラオーラさんの胸のふくらみがほとんどないと思ったようだった。日
本兵は次にルースという18才の女性の胸にさわった。きれいな娘だった。
彼女だけが顔を汚していなかった。日本兵は彼女を連れ去ろうとした。彼女
の父は、日本兵を殴って抵抗する。しかし、数人の日本兵が彼女を連れて行
った。父親はその場に止められ、ラオーラさんたちは小舟でオリオンを去っ
た。
 その後、ルースの父親に会ったとき、彼女は殺されたと聞いた。ラオーラ
さんは「アメリカ」を代表するマッカーサー司令官が帰ってくることを切に
願った。
----------------------------------
 下士官たちは日本兵からシャベルを渡され、長い溝を掘るように指示され
た。溝掘りが済むと、日本兵は重病のフィリピン兵士たちを連れてくるよう
に言い、まだ生きている彼らを溝の中に運び入れた。日本兵は下士官にフィ
リピン人兵士たちの意識がなくなるまで頭を殴れと命じた。拒むと、今度は
下士官たちに溝に土をかぶせるように命令した。そむくこともできずに、
10人のフィリピン人兵士たちに土をかぶせた。まだ体力が残っていたフィ
リピン人兵士が、溝の中から起き上がろうとした。下士官は土をかぶせるこ
とができなくなった。それを見た日本兵が日本刀を持ち出して、起き上がろ
うとするフィリピン人兵士を切りつけた。そして、下士官に土を埋めさせた。
----------------------------------
 バランガにやっとたどり着いた捕虜たちに与えられたのは、「おにぎりが
一つ」だった。それでは約40キロを歩いてきた捕虜たちには残酷である。
隠していた金銭を取られずに持っていた捕虜たちは、収容所前にいたフィリ
ピン市民から米を買った。「ここでコメを炊いてはいけない」と、日本軍か
ら命令は出されていても、何人もがコメを炊いて食べた。前述のジェームス
・バルダサレさんは、3カップ分のコメを買って炊いて食べた。運悪く、そ
の中の2人が日本軍に見つかった。命令にそむいたという理由で彼らは生き
埋めにされた。
 バランガで生き埋めにされたのは、2人だけではなかった。
---------------------------------
 バランガで一泊することになった捕虜たちが一番欲したものは「水と飲料」
だった。バランガに着く前に水を求めて殺された兵士たちもいた。次のよう
なマニラ法廷での証言がある。
 「バランガに到着する前に橋があり、川には水が流れていました。捕虜た
ちは水が欲しかったんだと思います。長い間水を飲んでいなかったんです。
6人ほどが橋を飛び降りました。彼らが水を飲もうとしたそのときに、日本
兵は射殺しました。
---------------------------------- 
 「昨9日正午、バタアン半島総指揮官キング少将は部下部隊を挙げて降伏
を申し出たが、日本軍はまだこれに全面的な承諾を与えていない。それゆえ、
米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、、各部隊は
手元にいる米比軍投降者を一律射殺すべし、という大本営命令を伝達する。
貴部隊もこれを実行せよ」(辻政信参謀が口頭で伝達して歩いたらしい)
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バターン死の行進

2008年01月04日 | 国際・政治

         バターン「死の行進」を歩く-その1

 1941年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に、日本軍はフィリピンに航
空撃滅戦を決行し、本間雅晴中将ひきいる一四軍がルソン島に上陸した。マニ
ラに入城したのは翌年1月。このときすでにマッカーサーはコレヒドール島に
司令部を移し、米比軍の主力はバターン半島にたてこもった。第一四軍はバタ
ーン半島の米比軍に総攻撃をかけ、米比軍は1942年4月9日に降伏する。
 バターン「死の行進」とは、米比軍が日本軍に降伏した後の4月10日、バ
ターン半島の突端にあるマリベレスから、また翌日には南シナ海側のバガック
から、米比軍捕虜と市民たちが炎天下を行進させられたことを指す。最も長く
てつらい行進をしたのは、マリベレスからルソン島中部パンパンガ州のサン・
フェルナンドまでの約100キロを歩かされ、そこからタルラック州のカパス
まで列車で輸送されて、さらにオードネル収容所までの12キロを徒歩行進さ
せられた者たちである。市民の多くは数日中に解放されている。
 行進に参加させられた数は、バターン半島の戦死者やコレヒドール島への逃
避者やパンティンガン川で虐殺された例を除くと、アメリカ兵9,300名・
フィリピン兵6万名で、市民は約41,000名いた。捕虜たちの移送にはト
ラックを使用する案もあったにもかかわらず、輸送力不足のために徒歩で行進
させたのである。捕虜たちは行進中にマラリアや赤痢、あるいは栄養失調で倒
れたり、日本軍監視兵に殺傷されたりした。オードネル収容所での統計による
と行進中に死亡・逃亡した数は、合計約21,000名ほどになる。
       <バターン「死の行進」を歩く(筑摩書房)鷹沢のり子>より

 上記は、日本キリスト教水俣伝道所の菅原一夫牧師が「バターン『死の行進』
の道のりを戦争責任を感じながら歩きたい」という発案で実施されることとな
った「生の行進」に参加し、多くの住民や関係者の証言を聞き取り取材してま
とめられたものであるが、
 バターン州都バランガ市の大学生に、高校ではどのように学んだかを聞いた。
----------------------------------
 「私は生まれがマリベレスなので、ここから捕虜たちが歩かされて、多くの
  兵士たちが死んだことは知っています。高校では、アメリカがスペインと
  日本からフィリピンを解放したと教えられました」
----------------------------------
など、考えさせられることや教えられることが多い。

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