真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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安重根の最終陳述

2013年12月05日 | 国際・政治
 安重根は、ハルビンで伊藤博文を殺害する前、黒龍江の山岳地帯でゲリラ的な義兵闘争を続けていたが、厳しい取り締まりによって、しだいに押さえ込まれていく状況を打開しようと、仲間と離れウラジオストクに向かったという。その途上、ロシア領の「ポセット」の同志の家で、11人の同志と共に、左手の薬指を切断し、「断指同盟」を誓っている。そして、安重根が太極旗に「大韓国独立萬萬歳」と血書したという。伊藤殺害の前年、1908年12月30日のことである。
 しかしながら、各地の韓国人による義兵闘争は、その後も、次々に日本軍によって潰され、追い詰められた安重根は、最後の手段として、伊藤博文暗殺を計画することなったという。

 裁判における彼の「…韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきている…」という主張や、「…、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです。…」という主張は、そこからくるといえる。「万国公法」で裁けというわけである。 

 安重根ほか3名の裁判は、旅順の関東都督府地方法院で、明治43年(1910)2月7日に開始され、2月14日には判決が言い渡されている。判官・真鍋十蔵、検察官・溝淵孝雄、国選弁護人・水野吉太郎および鎌田正治、通訳・園木末吉であった。ウラジオストーク居住の韓国人たちが、安重根を気づかい依頼した、ロシア人弁護士ミハイロフやイギリ人弁護士ダグラスの弁護届けが、判官・真鍋十蔵に提出されていたが、最終的にそれは却下され、通訳も含めてすべて日本人であった。
 そして、日韓併合の対韓政策上、「無期徒刑」になってはうまくないと考えた韓国統監府倉知鉄吉政務局長の

検察官ハソノ後訊問ヲ継続シタレドノ別ニ新事実ヲ発見セズ、境警視ノ調ベモサシタル結果ヲ得ルニ至ラズ、サレバ今後、浦塩方面ニナンラカ有力ナル事実ヲ発見セザルカギリ、当地ニオケル取調ベハ実際著シキ効果ヲミルコトナカルベシト思考サエラル。
 シタガッテ、今両3日ヲ経タル後ハ、アルイハ今後ノ方針ニツキ、当地ニオケル関係者協議ヲ遂グルヲ要スル時期ニ達スルコトアルベク、ヨッテ左ノ点ニ関して何分ノ電訓ヲ請ウ」(「安重根と伊藤博文」中野泰雄〔恒文社〕)


に対して、小村寿太郎外相が、

「政府ニオイテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルヲ相当ナリト思考ス」(同書)

との返電を送ったため、それまであった「無期徒刑」の考え方は、関東都督府地方法院からは消えたという。この事件を政治事件とはせず、あくまでも安重根個人の犯罪として、当時の状況や安の思想、暗殺の動機などは不問に付すことになったのである。安重根も、それまで同情的な側面をみせていた検察官溝淵孝雄の態度の変化に気づき、何らかの力が働いたと感じて次のように書いている。

「ある日、検察官がまた審問にやってきたが、その言葉や態度が前日とはまったく違い、自分の考えを圧制しようとし、また発言を抑えようとし、侮蔑する様子があらわれた。私がひそかに思うに、検察官の思想がこのようにたちまち変わったのは、本心ではあるまい。外から風が大きく吹いて、道心がおとろえれば、人心が危うい。という言葉があるが、まことに誤りなく、このことを伝える文字である」(同書)

 関東都督府地方法院には、安重根の求める国際裁判を指示する意見もあったというのに、当時の日本政府の力が作用したようで残念である。義兵とはいっても、個人的に要人を暗殺するという行為には、問題があるであろうが、伊藤博文が中心となって進めたともいえる韓国の保護国化や日韓併合に至る諸政策、初代韓国統監として実行したこと、また、当時の韓国人がおかれた状況などを不問に付したまま、彼を凶漢と呼び、犯罪者と断じるのでは、日韓の溝は埋まらないと思う。 
 
 下記は「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から安の最終陳述の部分を抜粋したものである。
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                  雨の日の処刑

 ・・・

 判官真鍋は両弁護人の弁論のあと、各被告に最終の陳述を求めた。
 劉東夏と曹道先はともに、本事件とは関係のないことを述べた。また禹徳淳は「伊藤は日本と韓国の間に障壁をつくる人なので殺そうと思い、自分の意志でこの事件に加担することになったのだから、別に異論はない。ただ、今後は日本の天皇陛下が日本人と韓国人とを均等に取り扱い、韓国の保護を確実にしてほしいと思います」と述べた。
 最後に安が立った。長文にわたる安の陳述記録をそのまましるしてみると──。

「私が、検察官の論告を聞いて思うには、検察官は私を誤解しているということです。例えば、検察官は、ハルピンで今年5歳になる私の子どもに私の写真を見せて”父である”との確認をしてもらったと申しますが、私が国を出たとき子供はまだ2歳で、その後は会っていませんから私の顔を知っているはずはないのです。


 そもそも、今回の伊藤公殺害は私人としてやったものではなく、韓日関係から致したものなのです。しかし、事件の審理については、判官はじめ弁護人および通訳までも日本人のみによって取り扱われております。韓国から弁護人もきているので、弁護の機会を与えてくださるのが至当と思うのです。また弁論なども大要のみを通訳してきかせられるので、私は不満でありますし、他から見ても片寄っているとの非難を受けるにちがいありません。

 検察官や弁護人の言い分を聞いていると、みな伊藤公の統監としての施政方針は完全無欠であり、私が誤解しているとのことですが、それは不当であります。私は誤解しているのではなく、かえってよく知りぬいていると思いますから、公爵の統監としての施政方針についてその大要を申し述べてみます。


 明治38年(1905)における五ヵ条の保護条約のことでありますが、あの条約は韓国皇帝はじめ国民一般は保護を希望したのではありません。しかし、伊藤公は韓国皇帝および上下臣民の希望で締結すると言って、一進会(日本への合邦運動を推進した韓国の親日団体)をそそのかして運動させ、皇帝の玉璽や総理大臣の副署がないのに、各大臣を金で瞞着して締結させてしまったのです。だから、伊藤公のこの政策については当時、志ある者はみな大いに憤慨し、紳士たちも皇帝に上奏し伊藤公にも献策しました。

日露戦争についての日本天皇陛下の宣戦詔勅には、東洋の平和を維持し韓国の独立を強固にするということがありましたから、韓国人民は信頼して日本と共に東洋に立つことを希望していました。が、伊藤公の政策はそれと反対でしたので、各所に義兵が起こりました。第1は、崔益鉉(チェイクヒョン)が献策して宋秉畯(ソンビョンヂェン)のために捕えられ、対馬に拘禁中に死にました。それで起きたのが最初の義兵であります。

 その後、献策しても方針が変えられませんので、当時(明治40年=1907)ヘーグの平和会議に、皇帝が密使として李相・を派遣し訴えたのは、五ヶ条の条約は伊藤公が武力をもって強制したものであるから万国公法にしたがって処分してほしいということだったのです。しかし、当時、同会議では物議が起きていたのでものになりませんでした。それから伊藤公は、夜中に刀を抜いて皇帝に迫り7ヶ条の条約(第3次日韓協約)を締結し、皇帝を退位させて日本に謝罪使を派遣することにまでなりました。


 そんな状態で、京城(ソウル)付近の韓国民は上も下も憤慨し、なかには切腹する者もありました。人民も兵も素手や兵器をもって日本兵と戦い、京城の変が起こりました。
 その後、十数万の義兵が各地に起こったので、太上皇帝が詔勅を下して、国の危急存亡に際して袖手傍観するのは国民たるもののとる道ではないということがありましたので、韓国民はいよいよ憤慨して今日まで日本兵と戦い、今になっても治まりません。これで十万以上の韓国民が殺されました。これらの者がみな、国事に尽くして倒れたのなら本懐でありましょうが、いずれも伊藤公のために虐殺され、ひどいのは頭から縄を通して社会の見せしめにするからといって、残虐無道のことをされました。そのため、義兵の将校も少なからず戦死しました。伊藤公のこのような政策で。1人殺せば10人、10人殺せば百人義兵が起こるという有様ですから、施政方針を改めなければ韓国の保護はできぬと同時に、日韓両国の戦争はとこしえに絶えぬと思います。


 伊藤公その人は、英雄ではなく、奸雄で奸智にたけているから、その奸智でもって、韓国の開明は日に月に進歩をしていると新聞に掲載させ、また日本天皇陛下や政府に対しても、韓国は円満に治まっており、日に月に進歩していると欺いています。そのため韓国同胞はみな、その罪を憎み伊藤公を殺害しようという心を起こしていました。人間はだれでも生の楽しみを願い、死を好むものではありません。まして韓国民は十数年来、塗炭の苦しみに泣いてきましたから、平和を希望することは日本国民よりも一層深いものがあるのです。

 さらに私はこれまで、日本の軍人や商人や道徳家ら、いろいろな階級の人々とも会って話をしたことがありますので、次にその話を申し上げます。
 軍人との話というのは、韓国に守備隊としてきていた人と会ったときのことです。その軍人に、このように海外にきておられるが国には父母妻子もおられ、夢の間にも家族のことは忘れられず苦労の多いことでしょう、と私が慰めましたところ、その人は、国には妻子もいるが国家の命令で派遣されているので、私情としては堪えられぬけれども致し方ないと泣いて話しました。それで私は、もし東洋が平和で日韓のことが無事でさえあれば守備にこられる必要もあるまい、と申しました。するとその人は、そのとおり個人としては戦いを好まぬけれど、軍人であるゆえに必要があれば戦わねばならないのだ、と申しました。それで私は、守備隊としてきておられる以上、帰国することは容易にできますまいと話したら、その人は、日本には奸臣がおって平和を乱すので自分らは心にもなく遠いこんなところにまできている、伊藤公のような人は自分一人ではきないが何とかして殺してやりたい思いだ、と泣きながら申していました。


 それから農夫との話もありました。その人は、韓国は農業に適し収穫も多いということでやってきたが、いたるところ暴徒が起こって安心して仕事もできない。かといって、国へ帰ろうにも、昔の日本はよかったが今では戦争のため財源を得ることに汲々として、農民に課税を多くするので農業もできない。このようなわけで、自分らはまったく身の置きどころがない、といって嘆いていました。

 商人との話でも、韓国は日本の製品の需要が多いと聞いてきたが、前の農民の話と同じように、いたるところ暴徒があって交通は途絶され生活さえできない。伊藤公をなきものにしなければ商業もできない。自分一人の力でできることなら、殺してやりたいくらいだ。とにかく、平和になるのを待つよりほかない、と言っておりました。

 道徳家の話というのは、キリスト教の伝道師のことですが、私はその人に対し、これだけ何の罪もない人を虐殺するような日本人が伝道なんてできますか、と質問してみたのです。すると彼は、道徳には彼我の区別はない、虐殺するような人はまことに憐れむべきもので、天帝の力によって改善させるよりほかないから、このような者どもはむしろ憐れんでくれと申しておりました。


 私が伊藤公を殺したのは、公爵がおれば東洋の平和を乱し、日本と韓国との間を疎隔するのみであるから、韓国の義兵中将の資格をもってやむを得ず殺したのです。もともと私は、日韓両国がますます親密になって平和に治まり、やがて五大州にもその範が示されるよう念願してきました。私は決して誤解によって伊藤公を殺したのではありません。いま言ったような私の目的を達成させるために、あえてやったのであります。それゆえ今、伊藤公の施政方針が誤っていたことを天皇陛下に奏上していただけるなら、天皇も必ず私のことをよく理解し喜んでくださるだろうと思っております。今後は陛下の聖旨にしたがい、韓国に対する施政方針を改善されたならば、日韓間の平和はまちがいなく万世にわたって維持されるであろう、と期待しておるのです。

 弁護人によれば、光武3年(明治32年=1899)に締結された韓清通商条約によって、韓国民は清国内において治外法権を有し、本件は韓国刑法大全に基づいて治罪すべきものであるけれども、その韓国刑法には(外国における韓国人の犯罪について)罰すべき規定がないというのですが、それは不当な愚論というべきものだと思います。今日の人間はすべて法によって生活しているのに、現に人を殺した人間が罰せられずに生存するという道理はありません。それならば、私はどのような法によって処罰されねばならないかという問題ですが、それは韓国の義兵であって今敵軍の捕虜となってきているのですから、すべては万国公法によって処断されるべきものである、と思うのであります


 安の陳述は1時間を超えた。
 その論旨は一貫して、この十数年、つまりあの日清開戦から日露戦後の今日まで、わが日本がひたすら歩みつづけてきた”韓国侵入への道”を心底から剔抉するようなものだった。検察官がどんなに言いつくろうとも、公判そのものがすべて日本人のみによって取り仕切られている状況では、伊藤公らがタテマエとして掲げてきた、”仁政”どころか”韓国の保護”にもならなかったのである。それを検証するように述べつづける安の言葉は、まるで暗黒の彼方からひた押しに迫ってくる海の満ち潮がやがて海辺に棄てられたあらゆる残骸を呑み込んでしまうような不気味な光景にも見えた。



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安重根 「伊藤博文の罪状15ヶ条」

2013年12月02日 | 国際・政治
 2013年6月、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領が中国の習近平(シーチンピン)国家主席との首脳会談で、安重根が中国・ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した現場に碑を設置することを提案した。そして、11月18日、それが「両国の協力でうまく進んでいる」と述べたことに関して、菅義偉官房長官が、19日の記者会見で、「我が国は”安重根は犯罪者”と韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と述べ、不快感を示したとの報道があった。また、安倍晋三首相もテレビ出演で、碑設置の動きについて「伊藤博文は初代の日本の総理大臣だ。(首相の地元の)長州にとっても尊敬されている偉大な人物だ。お互いにしっかりと尊重しあうべ きだ」と述べた、という。

 このことからも分かるように、安重根に対する日韓政府の評価は、現在も正反対である。この日韓政府の評価の溝を埋める努力なくして、共通の歴史認識は生まれないし、関係改善も難しい。そこで、再び安重根の裁判における公判記録から、彼の主張を抜粋するが、下記のような、日本人の存在にも考えさせられるものがある。

 伊藤博文殺害後に、獄中の安重根の看守を命ぜられた関東都督府陸軍憲兵上等兵「千葉十七」(ちばとうしち)は、当初、伊藤公を殺害した安重根に激しい怒りを感じていたという。しかしながら、取り調べや公判が進むにつれて、彼の主張には正しい部分もあると、自分でも思い当たることがあり、千葉は考えさせらていく。また、彼の行為が彼の主張通り、個人的な恨みによるものではないことが明らかなうえに、獄中の安の態度には、日本の元勲を殺した男とは思えない、素直で礼儀正しい不思議な雰囲気があったという。そして、いつしか「この男はただ者ではない」と思うようになり、しだいに心を通わせていく。

 彼の処刑が近づくと、千葉は「この人は、生き永らえたら、必ずや韓国を背負ってたつ人物なのであろうに──」と畏敬の念さえ抱き、「日本人はこの人にもっともっと学ばなければならない」と思いつめて、「安さん、日本があなたの国の独立をふみにじるようになったことは、何とも申しわけありません。日本人の一人として、心からお詫びしたい気持ちです」と頭を下げたというのである。

 また、下記抜粋文にあるように、検察官溝淵孝雄も、安重根の主張を聞いた当初は、日韓併合を進めようとする日本政府の対韓外交政策を知らず、安重根を「東洋の義士」と認め、「死刑はあるまい」と言っている。

 にもかかわらず、当時の外相小村寿太郎から、「日本政府においては、安重根の犯行はきわめて重大なるをもって、懲悪の精神により極刑に処せらるることを相当なりと思考す」との指示があり、安重根の裁判は、その指示に基づいて、日韓併合の外交政策上「極刑」しかない、ということで進められていくことになったのである。

 日本政府は、韓国民では英雄とされている安重根を凶漢と呼び、犯罪者であるという。しかし、当時、彼の裁判を担当した判官真鍋十蔵に、伊藤公および随行員殺傷について問われて安重根は

「それは、私が3年前から国事のために考えていたことを実行したのですが、私は義兵の参謀中将として独立戦争の最中に伊藤さんを殺したのです。個人の犯罪ではなく、あくまで参謀中将という資格で計画したのですから、そもそもこの法院で、殺人罪の被告人として取調を受けるのは間違っているのです」

と答えている。判官真鍋十蔵はこの主張に耳を貸さず、伊藤殺害の事実だけを問いつめていったという。伊藤殺害の背景には踏み込まなかったのである。したがって、日韓の主張は、彼の裁判のスタート時点からかみ合っていないということであろう。安重根を裁くに当たって、殺害の背景が無視されてよいのかどうか、義兵の参謀中将としての彼の立場を考慮しなくてよいのかどうか、考えさせられる。 

 下記は、「わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯」斎藤泰彦著(五月書房)から、安重根の指摘した「伊藤博文の罪状15ヶ条」の部分を抜粋した。
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                   二人の出会い

 ・・・

 10月30日、安重根に対する初の取り調べ(第1回尋問)が、検察官溝淵孝雄によってハルピン総領事館で行われた。書記は岸田愛文、通訳は嘱託の園木末喜であった。残されている公判記録は、すべて漢字とカタ仮名による翻訳日本語なので、安重根の答えた韓国語の内容をそのまま伝えるものではない。この安重根の正確な経歴と真意とは、のちに獄中で書かれた自伝の「安応七歴史」をも参照しなければならないのだが、ここではまず公判記録に沿って尋問のようすをのぞいてみる。初めに、冒頭部分をしるしてみると、

問 氏名年齢身分職業住所本籍出生地ハ如何
答 氏名ハ安応七
  年齢ハ31歳
  身分ハー
  住所ハ韓国平安道平壌城外
  本籍地ハ同所
  出生地ハ同所
問 其方ハ韓国臣民カ
答 左様デアリマス
問 韓国ノ兵籍ニ就イテ居ルカ
答 兵籍ニハ就イテ居リマセヌ
問 其方ノ宗教信仰ハ如何
答 私ハ天主教信仰者デス
問 其方ハ父母妻子アリヤ
答 アリマセヌ


 このように尋問の最初から、同族や同胞へ罪が波及するのを避け、一人でその責任を背負っていこうという安重根の決意が示されている。しかし、伊藤公をなぜ敵視したのか、という問に対しては毅然と答えた。記録や安の述懐によれば、その原因つまり殺害理由はとても多いので、それらを「伊藤博文の罪状15ヶ条」として列挙させてもらいたい、として次のように述べたという

第1、10年ほど前、伊藤さんの指揮で、韓国王妃を殺害しました。
  (注)これは明治28年(1895)10月の閔妃殺害事件をさす

  ※この件に関しては、「閔妃暗殺の首謀者はソウル駐在日本公使(三浦梧楼)
  ?」(195)の項目参照
第2、5年前に伊藤さんは兵力をもって、韓国にとっては非常に不利益な、5ヶ条の
  条約を締結させました。
  (注)これは明治38年(1905)11月17日、伊藤全権大使のもとに調印された
  第2次日韓協約をさす。日本は韓国の外交権を全面委譲させ、ソウルに韓国
  統監府を置いて保護政治を強化していった。韓国併合への実質的な第一歩と
  なった条約

  ※条約関係は「日韓議定書と日韓協約(第1次~第3次)全条文」(180)の項
  目参照
第3、3年前、伊藤さんが締結した12ヶ条の条約は、韓国の軍隊にとって、非常に
   不利益なものとなりました。 
  (注)これは明治40年(1907)7月24日、伊藤初代韓国統監のもとに調印され
  た第3次日韓協約をさす。全文7ヶ条であるが、安重根は第2次協約の5ヶ条と
  合わせ12ヶ条としている。この第3次協約で、韓国の内政は統監指導下に完
  全掌握され、翌8月には韓国軍も解散させられたことをさす。

  ※この韓国軍解散の件も含め、安重根があげた15ヵ条の問題点の大部分は
  (177)~(204)の項目で、すでに取り上げている。
第4、伊藤さんは、強要して韓国皇帝を退位させました。
  (注)これは明治39年(1906)6月、ハーグ密使事件が発覚し、韓国皇帝高宗
  が伊藤統監によって退位させられたことをさす。このあと第3次日韓協約が結
  ばれた。
第5、韓国の軍隊は、伊藤さんによって解散させられました。
  (注)前述の「第3」と同じ。
第6、条約締結に韓国民が憤り、義兵が起こると、伊藤さんはこれに絡んで韓国
  の良民を多数殺させました。
第7、韓国の政治、その他の権利を奪いました。
第8、韓国の学校で用いた良好な教科書を、伊藤さんの指揮で焼却させました。
第9、韓国人民に、新聞の購読を禁止しました。
第10、充当させる財政もないのに、性質のよくない韓国の官吏に金を与え、韓国
  民には何も知らせず、しまいには第一銀行券を発行させています。
第11、韓国民に負担させる国債2300万円を募り、官吏が勝手に分配し、また韓
  国民の土地を奪いました。これは韓国民にとって、非常に不利益な事です。
第12、伊藤さんは、東洋の平和を攪乱しました。すなわち日露戦争当時から「東
  洋平和を維持するため」と言いながら、韓国皇帝を退位させるなど、当初の宣
  言とはことごとく反対の結果を見るに至り、韓国人2千万はみな憤慨しておりま
  す。 
第13、韓国が望まないのに、伊藤さんは韓国保護に名を借り、韓国政府の一部
  の者と意志を通じ、韓国に不利益な施政をいたしております。
  (注)第6からこの第13までは、韓国統監としての伊藤の「内政改革」を非難し
  たものである。
第14、伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しまし
  た。そのことはみな、韓国民が知っております。
  (注)これは慶応2年(1866)12月の孝明天皇死没に、弑殺のうわさが流れた
  ことにふれたもの。が、当時の伊藤はまだ宮中に出入りできる身分ではなく、ま
  た郷里で病臥中だったので、この項目だけは安重根の間違いであるとされてい
  る。
第15、伊藤さんは、韓国民が憤慨しているにもかかわらず、日本皇帝や世界各国
  に対して「韓国は無事なり」と言って、欺いております。


 検察官溝淵孝雄は、この「伊藤の罪状15ヶ条」を聞き終わって驚いた。これは、取り調べの冒頭で答えた「人物」が語る内容ではないと内心舌をまいたのである。一つ一つが、溝淵にとっても手厳しい指摘であった。今日の現状を、的確にとらえているとも思った。

 溝淵は、安の顔をじっと見つめ、「いま、陳述を聞けば、そなたは東洋の義士というべきであろう。義士が死刑の法を受けることはあるまい。心配しないでよい」と思わず言ってしまった。が、これに対し安は「私の死生について論じないでください。ただ、私の思っていることを、ただちに日本の天皇に上奏してください。すぐにでも伊藤さんのよからぬ政略を改め、東洋危急の大勢を救ってくださることを切望いたします」と答えた。


 ・・・

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